艸木虫魚
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著者名:薄田泣菫 

 The Ladies' Home Journal の記者として、三十年も働いていた Edward Bok が、まだ十五、六の少年の頃だった。名士訪問を志して、ボストンに牧師として名高い Phillips Brooks を訪ねたことがあった。牧師はその当時蔵書家として聞えた一人だった。
 訪問の前日、この牧師の友人である Wendell Phillips に会った。少年の口から明日の予定を聞いたこの雄弁家は、笑い笑い言ってきかせた。
「明日は Brooks を訪ねるんだって。あの男の書斎にはぎっしり本がつまっていて、それにはみんな記号と書入れとがしてあるんだよ。訪ねて往ったら、是非その本を見せてもらいなさい。そしてあの男がよそ見をしているときに、二冊ばかりポケットに失敬するがいい。何よりもいい記念になるからな。なに、どっさり持合せがあるんだ。発見(めっけ)られる心配なんかありゃしないよ。」

 少年は Brooks に会うと、すぐにこの話をした。牧師は声を立てて笑った。
「子供に与える大人の助言としては、随分思い切ったことをいったものだな。」
 Brooks はこの幼い珍客を、自分の書斎に案内することを忘れなかった。そこには世間の評判通りに、沢山の書物がぎっしり書棚に詰っていた。
「ここにある書物には、それぞれ書入がしてあって、中にはそのために頁が真黒になっているのもある。世間にはこの書入を嫌がる人もあるようだが、しかし、書物が俺に話しかけるのに、俺の方で返事をしないわけに往かんじゃないか。」
 こういって、牧師は書棚から一冊のバイブルを引出して見せた。それは使い古して、表紙などくたくたになっている本だった。
「俺のところにはバイブルは幾冊もあるよ。説教用、儀式用とそれぞれ別になっているが、この本は俺の自家用というわけさ。見なさい、こんなに書入がしてある。これはみんな使徒パウロと俺との議論だよ。随分はげしい議論だったが……さあ、どちらが勝ったか、それは俺にもわからない。」
 少年の眼が、どうかすると細々した書入よりも、夥しい書棚に牽きつけられようとするのを見てとった Brooks は、
「お前さんも、本が好きだと見えるな。何ならボストンへやって来たときには、いつでも家へ来て、勝手にそこらの本を取出して見てもかまわないよ。」
と、お愛想を言ったが、最後に笑いながらこう言ってつけ足すのを忘れなかったそうだ。
「俺はお前の正直なのを信じているよ。まさか Wendell Phillips の言ったようなことはしまいね。」


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   女流音楽家

 プリマ・ドンナの Tetrazzini 夫人が演奏旅行をして、アメリカの Buffalo 市に来たことがあった。夫人の支配人は、土地で聞えた Statler ホテルへやって来て、夫人のために三室続きの部屋を註文した。その当時、ホテルには二室続きの部屋は幾つかあったが、註文通りの部屋といっては、一つも持合せがなかった。だが、ホテルの主人は、この名高い女流音楽家をほかの宿屋にとられることが、どれだけ自分の店の估券にかかわるかをよく承知しているので、平気でそれを引受けた。
「承知仕りました。夫人はいつ頃当地にお着になりますお見込で……」
「今晩の五時には、間違いなく乗込んで来るはずです。」
 主人は時計を見た。ちょうど午前十時だった。
「よろしうございます。それまでにはちゃんとお部屋を用意いたして、皆様のお着をお待ちうけ申すでございましょう。」
 支配人の後姿が見えなくなると、ホテルの主人は大急ぎで出入の大工を二、三人呼びよせた。そして二室続きの部屋と第三の室とを仕切っている壁板をぶち抜いて、そこに入口の扉をつけた。削り立ての板には乾きの速い塗料を塗り、緑色の帷(カアテン)を引張って眼に立たぬようにした。汚れたり傷がついたりしていた床の上には、派手な絨氈を敷いて、やっと註文通りの三室続きの部屋が出来上った。それは約束の午後五時に五分前のことだった。
 それから暫くすると、支配人を先に、美しく着飾った Tetrazzini が入って来た。そしてホテルの主人から新しく出来上った部屋のいきさつを聞くと、満足そうにほほ笑んだ。
「まあ、そんなにまでして下すったの。ほんとうにお気の毒ですわ。」

 だが、Tetrazzini よ。そんなに己惚れるものではない。女という女は、どうかすると相手の男の胸に、第二第三の新しい部屋をこしらえさせるもので、男がその鍵を滅多に女に手渡ししないから、女がそれに気づかないまでのことだ。――唯それだけのことなのだ。


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   演説つかい

 バアナアド・ショウは、その脚本の一つで、英雄シイザアの禿頭を、若いクレオパトラの口でもって思う存分に冷かしたり、からかったりしている。どんな偉い英雄でも、クレオパトラのような美しい女に、折角隠していた頭の禿を見つけられて冷かされたのでは、少々参るに相違ない。
 アメリカの法律家で、長いこと下院の雄弁家として聞えた男に Thomas Reed というのがあった。この男があるとき、まだ馴染のない理髪床へ鬚を剃りに入って往ったことがあった。
 黒ん坊の鬚剃り職人は、髪の毛の薄くなった客の頭を見遁さなかった。そしてあわよくば発毛剤(けはえぐすり)の一罎を客に押しつけようとした。
「旦那。ここんところが少し薄いようだが、こんなになったのは、随分前からのことでがすか。」
「禿げとるというのかね。」法律家は石鹸の泡だらけの頤を動かした。「わしが産れ落ちた時には、やはりこんな頭だったよ。その後(ご)人が見てうらやましがるような、美しい髪の毛がふさふさと生えよったが、それもほんの暫くの間で、すぐにまた以前のように禿げかかって来たよ。」
 黒ん坊はそれを聞くと、鼻さきに皺をよせて笑っていたが、発毛剤のことはもうあきらめたらしく、黙りこくって剃刀を動かしていた。
 客が帰って往った後で、そこに待合せていた男の一人が、今までそこで顔を剃らせていた客は、議院きっての雄弁家だということを話した。すると、黒ん坊は厚い唇を尖らせて、喚くようにいった。
「雄弁家だって。そんなこと知らねえでどうするものか。わしら誰よりもよくあの旦那が演説遣いだってえことを知ってるだよ。」


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   名前

     1

 劇場監督として聞えた Charles Frohman が、あるとき友人の劇作家 J. M. Barrie と連れ立って、自分の関係しているある劇場の楽屋口から入ろうとしたことがあった。
 そこに立っていた門番の老人は、胡散そうな眼つきをして、先きに立った Frohman の胸を突いた。
「ここはあんた方の入る所じゃござりません。」
 それを聞いた劇場監督は、すなおに頷いて後へ引き返した。
 その場の様子を見た Barrie は、腑に落ちなさそうに訊いた。
「何だって君、あの爺さんに君の名前を打ち明けないんだね。」
「とんでもない。」劇場監督はびっくりしたように言った。「そんなことでもしてみたまえ。爺さん、おっ魂消(たまげ)て死ぬかも知れないぞ。あれは御覧の通りの善人で、唯もう仕事大事に勤めているんだからね。」

     2

 アメリカの俳優として聞えたJoe Jefferson が、あるときデトロイトの銀行で、持って来た小切手の支払を受けようとしたことがあった。
 出納係の若い男は、小切手から離した眼を、窓の外に立っている男に移して、じろじろとその顔に見入った。
「失礼ですが、あなたが Jefferson さん御当人だとおっしゃるのは。」
 俳優はそれを聞くと、ちょっと眼をぱちくりさせたが、急に舞台に立っている折のように声に抑揚(めりはり)をつけて、
“If my leedle dog Schneider was only here, he'd know me.”
と流れるように言った。
「いや、間違いはございません。」
 出納係は喜ばしそうに叫んだ。そして小切手はすぐに正金に換えられた。

     3

 明の詩画家許友は、ぶくぶくに肥った背低(せひく)で、身体中に毛といっては一本も生えていなかった男だが、人が訪ねて来ても、それに答礼するでもなく、そんな交際(つきあい)には一向無頓着であった。あるとき客が来て、詩だの画だのいろんな話をして帰って往ったが、その後で許友は家の者に、
「今のは何という男だったかな。」
と訊いたので、
「あなたの御存じない人が、私に判ろうはずはありません。」
というと、許友は禿げた頭に手をやりながら、
「俺には一向覚えがないでな。」
と呟くように言ったということだ。


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   返辞

     1

 新入学生が、初めて学校の校庭を踏むときには、地べたを護謨毬(ゴムまり)か何ぞのように感じるほど、神経質になるものだが、ある年の新学期にエエル大学に入って来た若い人たちのなかに、とりわけ神経質な学生が一人あった。
 部長 Jones は、その学生の家族たちと懇意にしていたので、学生が訪ねて来ると、愛想ぶりに連れ立って学校のなかを方々案内して見せた。
 その時ちょうど教会堂の鐘が鳴り出していた。さきがたからしきりと話の題目を捜していた若い学生は、やっときっかけを見つけたように言葉をかけた。
「あの鐘は、すてきによく鳴るじゃありませんか。」
 部長はずぼんの隠しに両手を突っ込んだまま、他の事でも考えているらしく、何一つ答えてくれなかった。新入生は胸に動悸を覚えた。
「あの鐘はよく鳴りますね。僕気に入っちゃった。」
 彼は半分がた自分に話すもののように言った。部長は何とも答えなかった。
「鐘の音が、たまらなくいいじゃありませんか。」
 新入生は泣き出しそうになって、やけに声を高めた。
「何かお話しでしたか。」部長はやっと気づいたように、今まで地べたに落していた考ぶかい視線を、若い道連れの方へさし向けた。「あの地獄の鐘めが、いやにうるさく我鳴り立てるもんだから、つい……」

     2

 名高い提琴家ミイシャ・エルマン氏が、初めて大阪に来て、中之島の中央公会堂で演奏を試みたときのことだった。ずかずかと楽屋へ訪ねて往ったある若い音楽批評家は、そこにおでこで小男の提琴家が立っているのを見ると、いきなりまずい英語で話しかけた。
「すばらしい成功ですね。ところで、どうです。この会場(ホオル)のお感じは。別に悪くはないでしょう。」
 熱心な聴衆を二千あまりも収容するこの立派な会場を持っていることは、若い批評家の土地(ところ)自慢の一つだった。彼はこの名誉ある音楽家から、それに折紙がつけてもらいたかったのだ。
 エルマン氏は、禿げ上った前額に滲み出る汗を無雑作に手帛で拭きとりながら、ぶっきらぼうに答えた。
「ここは音楽会をする場所じゃないね。大砲をうつところだよ。大砲をね……」


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   慈善家

 男というものは、郵便切手を一枚買うのにも、同じ事なら美しい女から買いたがるものなのだ。――故ウィルソンの女婿 Mcadoo 氏はよくこの事実を知っていた。
 あるとき Mcadoo 氏が、自分の関係しているある慈善事業のために、慈善市(バザア)を催したことがあった。氏はその売子のなかに、幾人かの美しい女優を交えておくのを忘れなかった。
 その日になって、氏が会場の入口を入ろうとすると、そこには紀念の花束を売りつけようとして、四、五人の若い女たちが客を待っていた。そのなかに一人ずばぬけて美しい女優が交っていたが、その女はかねて顔馴染な Mcadoo 氏を見ると、顔一杯に愛嬌笑いを見せながら、いち早く歩み寄って来た。そしてきゃしゃな指さきに露の滴るような花束をとり上げて、
「あなた、お一つどうぞ……」
と、押しつけようとした。
 Mcadoo 氏はあぶなくそれを受け取ろうとして、ふと第二の売子の足音を聞いてその方にふり向いた。それは顔立も、服装も、見るから地味な婦人だった。氏は急に考をかえて、その婦人から花束を一つ買い取った。
「あなた、なぜ私のを買って下さらないの。」
 女優はわざとぷりぷりした顔をしてみせた。以前にも増してそれは美しかった。地味な姿の売子が、新しい来客の方へと急ぎ足に往ったのを見てとった Mcadoo 氏は、低声で女優に言った。
「でも、あなたはあまりお美しいから。僕は今日はいっぱし慈善家になりおおせたいつもりだから、わざと地味な方のを選んで買いました。」
 この言葉は覿面(てきめん)だった。女優はそれを聞くと、胸に抱えた花束をそっくりそのまま買い取られでもしたように、顔中を明るくして満足そうに笑った。


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   間違い

 牧師 Phillips Brooks が、あるとき宗教雑誌から訊かれた問題について、ちょっとした返事を書き送ったことがあった。そのなかに、
“We pray too loud and work too little.”
という文句があったのを、植字工はそれを拾う場合に、うまい間違いをした。刷り上った雑誌に現われた文句は次のようになっていた。
“We bray too loud and work too little.”
 Bray は「驢馬のように啼く」という言葉だ。それを見た牧師は、心から微笑(ほほえ)まぬわけに往かなかった。そして感心したように人に話した。
「植字工のしたことは、全くほんとうですね。正誤など書き送る気は更にありませんよ。」


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   救済

 滑稽作家マアク・トウェンのところへ、ふだん懇意にしているある娘から、近頃身体の加減がよくないことを訴えて来たので、作家は保健用の電気帯でも買ってみたらどうかと知らせてやったことがあった。
 すると、暫く経ってから、その娘から手紙が来た。なかに次のような文句があった。
「お言葉に従いまして、私は電気帯を一つ求めました。ですが、一向に助かりそうとは思われません。」
 作家はすぐに返事を認めた。
「私は助かりました。会社の在庫品が一つ捌(は)けましたので。」


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   良人改造

 会社官衙(かんが)の昼間の勤めをすませて、夕方早く家に帰って来べきはずの良人が、途中でぐれて、外で夜更しをするということは、うちで待っているその妻にとっては堪えがたい苦痛に相違ない。
 そういうだらしのない男に連れ添った米国婦人の一人が、良人のそんな癖を治そうとして、いいことを思いついた。良人の穿き古した靴が破けかかって、別なのを新調しなければならないのを見てとった妻は、
「これまでのあなたの靴はあまり大き過ぎて、まるでお百姓さんのように不恰好でしたわ。こん度お誂えになるのは、も少し小ぶりになさいよ。きっと意気でいいから。」
といって、わざと文(サイズ)の小さいのを靴屋に註文させたものだ。
 このもくろみは確かに成功した。一日外で文(サイズ)の小さな靴を穿かされている良人は、足の窮屈なのにたまりかねて、勤めがすむが早いか、大急ぎで家に帰って来た。そして窮屈な靴をぬいで、スリッパに穿きかえるのを何よりも楽しみにした。
 こんな日が重なるにつれて、良人の悪い癖はいつのまにか治っていたそうだ。

 女の抜目のない利用法にかかったら、どんな男でも羅紗の小片(こぎれ)と同じように、ただ一つの材料に過ぎない。女はそれが手提袋を縫うのに寸が足りないと知ったら、代りに人形の着物を思いつこうというものだ。――滅多にあきらめはしない。


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   マッチの火

 これは露西亜の片田舎にある一軒屋で起きた事柄だ。――
 ある独身者の農夫が、寝しなに自分の義歯(いれば)をはずして、枕もとのコップの水に浸しておいた。すべて義眼や義歯をはめている人たちは、よくこうしたことをするものなのだ。
 その夜はひどく寒かった。朝起きてみると、戸外は大雪だった。農夫は義歯を取り上げようとして、初めてコップの水がなかに歯を抱(いだ)いたままで、堅く凍りついているのに気がついた。
 氷を溶すには、さしあたり火をおこすより仕方がなかった。彼は台所に下りてマッチを捜したが、間が悪いときには悪いもので、唯の一本もそこらに見つからなかった。
 ちょうど暁の五時で、農夫は義歯のない口では、朝飯を食べることもできなければ、また人と話をするわけにも往かなかった。
 彼は厩に入って馬を起した。そして町はずれに住んでいる友人を訪ねようとして、六哩(マイル)の間雪の道を走らせた。
 友人は入口に立ったその訪問客が、急に齢(とし)とって皺くちゃな、歯のない頤をもぐもぐさせながら、手ぶりで何か話そうとするのを見てびっくりした。やっとのことで彼はその訪問客がマッチ箱をもとめに来たことが解って、涙が出るほど大笑いをした。
 農夫は大事なマッチ箱を一つ貰い受けて、また大急ぎに馬を駆って帰って来た。そして氷を溶して、やっと義歯を口のなかに頬張ることができたそうだ。
 これを思うと、何をさしおいても、マッチの一箱は枕もとにおいておくべきものだ。マッチは義歯の凍ったのを溶すに役立つのみならず、寝起きに喫(の)みたくなる煙草にも火をつけることができる。しかし、それよりもいいのは、近くに眠っている人の寝顔を、それと知られないでこっそり見ることができることだ。人の寝顔を見ると、いろいろな意味で自分を賢くすることができるものだ。


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   左

「どちらでもいいから、片眼を閉じるか、または瞬きしてみせたまえ。」
 こう言うと、誰もが決ったように自分の弱い方の眼でそれをするが、男は一般に左の方を使う。耳も男は左が弱いので、耳が遠いとか何とかいう場合は、男なら大抵左に決っている。ところが女にはこんな傾向が見えない。女はどんな場合にでも健全だ。もしか女が片眼で笑ったら、それは彼女が自分の身近くで、何か不健全なものを見つけたからだと思って間違はない。


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   天下一の虚堂墨蹟

     1

 今日新聞紙を見ると、紀州徳川家では家什整理のため、四月上旬東京美術倶楽部で書画骨董の売立入札を催すはずで、出品数は三百点、大変の前景気だそうだ。呼物の主なものとして、虚堂墨蹟、馬麟寒山拾得、牧渓江天暮雪、大名物瓢箪茶入などが挙げてあった。
 虚堂墨蹟といえば、足利の初めから茶人仲間に大層珍重がられたもので、松平不昧なども秘蔵の唐物(からもの)茶入油屋肩衝(あぶらやかたつき)に円悟墨蹟を配したのに対して、古瀬戸茶入鎗(やり)の鞘(さや)には虚堂墨蹟を配し、参覲交代の節には二つの笈に入れ、それぞれ家来に負わせて、自分の輿側(かごわき)に随行させなければ承知しなかったものだそうだ。
 不昧の鑑識で、虚堂墨蹟に配せられた鎗の鞘の茶入は、もと京都の町人井筒屋事河井十左衛門の秘蔵で、その頃の伏見奉行小堀遠州は、京へ上るときには、いつもきまって井筒屋を訪ねて来て、
「京へ上って来る楽しみは、たった一つ鎗の鞘を見る事じゃ。」
と言って、この茶入を前に、いつまでもいつまでも見とれていたものだそうだ。そんなだったから、井筒屋の主人がこの茶入に対する愛し方はまた格別なもので、店にいるときは、いつでもこの茶入を箱に入れて側に置き、縋りつくようにしてその箱に手をかけていたということだ。後に家運が衰えて、止むなく三井八郎右衛門に譲渡さねばならなくなったが、せめて箱だけはと言って、そのまま残しておいたのを、とてももともと通りに家が栄えそうにもないので、いつまでも引き離しておくのも本意ないわけだと、その箱をも三井家に送って、久し振に茶入にめぐり合せたのは名高い話である。
 そんな名器に配するように考えられたところを見ても、虚堂墨蹟がむかしからどんなに重んじられたかが、よくわかろうというものだ。

     2

 紀州家の虚堂墨蹟は、同家の祖先大納言頼宣が、父家康から授ったもので、これについてはいろいろな逸話が伝えられているが、その中で最も興味多く考えられるものを、一つ二つここに思い出してみることにする。

 虚堂禅師の筆が、家康の手から紀伊大納言に下されたことを聞いた当時の老中方は、かねて噂にのみは聞いたことのある名品である。何とかして拝見させていただくわけには往くまいかと、口を揃えて頼宣に頼んだものだ。きさくな頼宣は気持よくそれを承諾して、日をきめて茶会を開くことにした。
 その日になって、赤坂喰違(くいちがい)の紀州家の邸では、数寄屋の床の飾りつけから道具万端ちゃんと用意が出来ているはずだった。
 出迎のものの口から、お客の老中方が揃って数寄屋に入ったことを聞いた頼宣は、挨拶に出かけようとして、居間を出て黒書院を通りかかった。ふと気がつくと、違棚の上に箱から取出したばかりの懸物が一つ置いてあった。頼宣はもしやと思って検めてみた。それは紛う方もない、虚堂の懸物だった。
 頼宣は胸に動悸を覚えた。道具奉行の鴨居善兵衛と茶道の千宗左とが呼び出された。頼宣はきっと二人の顔を見据えた。
「あれほど申しつけておいたのに、何故あって数寄屋にこれを掛けぬのじゃ。今日の茶事を何と心得おるか。」
 主人の手に虚堂の懸物を見た二人は、はっと恐縮して、亀の子のように頭をすくめるより外に仕方がなかった。
「恐れ入りました。全く手前どもの粗相から、お数寄屋には他のお軸を掛けましたような次第で……」
 愚しい粗忽者をいくら叱ったところで、さしあたっての間違をどうすることも出来ないのを知っている頼宣は、長くは二人を相手にしていなかった。彼は家来中での老巧者として知られた渡辺若狭守直綱を呼んで、何か小声で耳打をした。
 若狭守はいそいそと数寄屋に入って往った。そこには老中方が膝を押並べて、いずれも腑に落ちなさそうな顔をして、床の間の懸物に眼をやっていた。若狭守は主人に代って手短に挨拶をした。
「かねて御所望になりました虚堂禅師の墨蹟は、御案内の通り権現様お直々に賜わりました品ゆえに、床に懸けておいてお待ちするのは勿体なく存じますので、皆様のお入を待って、主人自ら懸けて御覧に入れたい所存にござります。しかし、それまでの間を素床(すどこ)のままに致しておくのもどうかと存じまして、代りのものを御覧に入れましたような次第で……」
 それを聞くと、客人達は言葉を揃えて感心した。
「御用意のほど、御尤に存じます。」
「しからば御免を蒙って……」若狭守はその機会をはずさなかった。そして声を高めて次の間に呼びかけた。「茶道。これに参って床の軸物をはずしなさい。」
 次の襖がさっと開いて、千宗左の姿が現われたかと思うと、床の懸物は手早く取りはずされて、千宗左はまた影のように消えてしまった。すると、入違いに左手に懸物を、右手に矢筈竹を持った主人頼宣が入って来た。皆はその態度の水のような静かさに、覚えず心を惹きつけられてしまった。
 懸物は流れるように床の間にかけられた。虚堂禅師の筆は、石のような重みをもって客人達の上に落ちかかって来た。皆はその重みに堪えられないように、思わず頭を下げた。

     3

 紀伊大納言頼宣は、茶道の稽古は古田織部正(おりべのかみ)や織田有楽斎を師匠として励んでいたから、利休七哲として有楽斎と肩を並べていた細川三斎から見れば、ちょっと後輩だった。
 虚堂禅師の懸物が、家康の手より頼宣に伝えられてから間もなくの事だった。江戸から西国の所領に帰ろうとした三斎は、何かの席上で紀州家の重臣渡辺若狭守直綱に会った。四方山の話のついでに、三斎はこんな事を言った。その頃彼はもうかなりの老年だった。
「今度権現様より御拝領になりました虚堂の御懸物は、天下一と承りますにつけて、一度拝見いたしたいと存じながら、今日までその折がなくて過しましたことは、残念至極でなりませぬ。もしお骨折により、拝見が叶いますならば、今生の面目この上もない事かと存じます。何分御覧の通り、老年の身の上、この度帰国いたしました上は次の参府はとても望まれないことかと存ぜられますので……」
 三斎の言葉には、生のあるうちに一つでも多く傑れたものを観て、その風格を味おうとする茶人の謙遜が溢れていた。若狭守はそれに動かされないわけに往かなかった。
「さほどまでの御執心、何とかお取計いいたすでござりましょう。」
 若狭守は帰って、このことを頼宣に告げた。頼宣はこころよく承諾した。
「それはいと易いことじゃ。早速案内したがよかろう。」
 約束の日が来た。今日こそ生涯の望が達せられて、天下一の虚堂が見られるのだと思うと、三斎は自分の身のまわりが急に明るくなったように感じた。赤坂喰違にある紀州家の門を潜ったときには、胸に動悸をさえ覚えたように思った。
 三斎は案内せられて、数寄屋に入った。何よりもさきに床の間を見た彼は、自分の眼を疑わずにはいられなかった。そこに懸けられたのは、清拙派のある僧侶の書いたもので、墨の匂も爽やかには出来ていたが、自分の見たいと思っていた天下一の虚堂ではなかった。
「何か仔細があっての事だろう。」
 不思議には思いながらも、三斎はそんな気振も見せないで、静かに席についた。
 やがて主人の頼宣が出て来た。彼は自分で茶を立てて、客にすすめた。そして言葉丁寧に挨拶した。
「御所望により、虚堂の墨蹟を御覧に入るべく御招きはいたしたが、都合あって、今日はその運びに参りかねた。前以ってそれを申したら、お入りはなかろうかと存じて、わざと隠し立してお招きいたした次第、なにとぞ悪しからず……」
 三斎はそれを聞くと、はっとなって、急に眼の前が暗くなったように思った。だが容子には少しもそんなところは見えなかった。
「ぶしつけな御願を申上げましたのに、お叱りはなくて、かえって御丁寧な御挨拶痛み入ります。御秘蔵の禅師の墨蹟、今日拝見が叶いませぬのは、まことに残念至極に存じますが、また重ねての折をお待ちすることにいたしましょう。」
 四方山の雑談の後、三斎は礼を述べて立上った。そして黒書院と白書院とのなかにある廊下に来かかると、そこの杉戸の前に、若狭守が一人立っていた。若狭守は箱から取出した懸物を、蓋の上に持ち添えたまま、先刻から何ものかを待っているらしく思われた。三斎が近づくと、彼はそこに跪(ひざまず)いた。
「お口上にござります。」
 三斎もぴたりと歩みを止めて、廊下に跪いた。若狭守は言った。
「先日のお言葉に、御老年の御身、次の御参府も望まれないによって、虚堂の墨蹟御覧になりたいとのことでござりましたが、この後とも引続き御参府をお待ちいたせばこそ、わざと今日はお目にかけるのを差控えたのでござります。この次に御参府の節には、きっとお約束を果しますが、しかし、たっての御所望ならば、書院にて御覧に入れよとのことでござりますが……。」
 若狭守が箱の蓋に持ち添えた懸物は、長年の間三斎が夢にも忘れ得なかった虚堂禅師の墨蹟だった。彼が一言所望さえしたなら、その場で直に天下一の禅師の風格に接することが出来るはずだった。実を言えば、彼はもう年をとり過ぎていた。どんな事があって、次の年の参府が出来なくなるかも知れなかった。それを思えば、彼は今生の思い出としても、飽かずその懸物に見入りたかった。彼は思わず、
「しからば、お言葉にあまえまして……。」
と言おうとして、急に口を噤(つぐ)んだ。
 そんなことが言われるべき義理はなかった。かたい約束に背いてまでも、彼の息災を祈ってくれる若い大納言の心遣いを思えば、そんなことは□気にも出せるわけではなかった。実際大納言の誠心は身に沁みてありがたかった。その心遣いの細かさの前には、懸物を見る機会が、一年遅れようとも、二年遅れようとも、よしまた百年遅れようとも、そんなことを詮議立することは、とても恥かしくて出来なかった。
「有難き仰せには、お礼の申上げようもござりませぬ。お言葉に従いまして、この後も度々参府仕るべく、御懸物はその節あらためて拝見いたすでござりましょう。」
 三斎はこう言って、虚堂の墨蹟を手にとって、丁寧に頭にいただいた。そしてそれを若狭守に返すと、急ぎ足に廊下をすたすたと彼方へ去った。

     4

 聞くところによれば、紀州家では今度の売立で相続税を産み出すとのことだが、虚堂禅師の墨蹟を初め、重だった書画骨董は、それぞれこうした逸話をもっていないものはないはずだから、逸話や伝説を珍重する茶人仲間では、たいした附値を見ることだろうと想像せられる。紀州家の当主は、まず何を措いても、所蔵の書画骨董にこんな逸話を添物にして残しておいてくれた、祖先頼宣に対して感謝しなければなるまい。
 頼宣が老年になって、家を嫡子光貞に譲るとき、次男左京大夫には、茶入や懸物などの家康伝来の名品を幾つか取揃えて譲ったものだ。それを見た渡辺若狭守は不審そうに訊ねた。(この三つの話を通じて、いつでも渡辺若狭守が顔を出すのを、不思議に思う人があるかも知れないが、こういう役はいつも相手を引きたたせて、大きく見せるために存在する、言わば冬瓜の肩にとまった虫のようなもので、それが髯を生やした蟋蟀(こおろぎ)であろうと、若狭守であろうと、どちらにしても少しも差支がない。)
「御次男様へ、茶の湯のお道具、さように数々お譲りになりましたところで、さしあたりお用いになるべき御客様もござりますまいに。」
 すると、頼宣は、
「左京は小身のことゆえ、時には兄に金銀の借用方を申込むこともあろう。その折これを質ぐさに入れたなら、道具は本家にかえり、左京はまた金子を手に入れることが出来ようと思うからじゃ。」
と言ったということだ。してみると、紀州家の当代が、相続税を産みたさに、伝来の重宝を売ったところで、頼宣はただ笑って済ますぐらいのことだろう。


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   遺愛品

 小説家M氏は、脳溢血で懇意の友人にも挨拶しないで、突然歿くなった。毎日日課として、八種ほどの田舎新聞の続き物を何の苦もなく書上げ、その上道頓堀の芝居見物や、古本あさりや、骨董いじりなどに、一日中駈けずり廻って、少しの疲労をも見なかったほど達者な人だったが、歿くなる折には、まるで朽木が倒れるように、ぽくりと往ってしまった。

 入棺式の時刻になると、故人の懇意な友人や門下生達は、思い出の深い書斎に集って、この小説家の遺骸と一緒に、白木の棺に納めるべき遺愛品の撰択について協議を始めた。M氏には子供らしい妙な癖があって、自分に門下生の多いのを誇りたさの念から、一度物を訊きに自分を訪ねて来たものは、誰によらず門人名簿に書き加えていたから、その日そこに集った人達のなかにも、本人はいっぱし懇意な友達のつもりでいても、その名前がちゃんと門人名簿のなかに見つからないとも保証出来なかった。
「井伊大老の短冊などはどんなものでしょう。たしか一、二枚あったように覚えていますが――。」門下生のHという新聞記者は、寝不足な眼をしょぼしょぼさせながら皆の顔を見た。「××新聞に載っていた、大老についての記述が、先生最後の絶筆となったようなわけですから、その縁でもって……。」
「あれは、たしか未完結のままでしたね。」
 故人と同じ古本道楽で、豆本の蒐集家として聞えた、禿頭の銀行家は、円っこい膝の上で、指の節をぽきぽき鳴らしながら、誰に訊くともなしにこんなことを言った。
「そうです。未完結のままで。」
「そりゃいかん。そんなものを棺に納めたら、かえって故人が妄執の種となるばかりですよ。」
 銀行家は、取引先の担保にいかさまな品書きを見つけた折のように、皮肉な笑を見せた。Hはそれなり口を噤んでしまった。
「義士のものはどうだっしゃろ。Mはんの出世作は、たしか義士伝だしたな。」
 故人と大の仲よしで、その作物を舞台にかけては、いつも評判をとっていた老俳優の駒十郎は、こんなことを言うのにも、台詞らしい抑揚(めりはり)を忘れなかった。
「さあ……。」
 誰かが気のない返事をした。
「いけまへんやろか。」
 駒十郎は、てれ隠しに袂から巻煙草を一本取出して、それを口に銜(くわ)えた。身体を動かす度に、香水の匂がぷんぷんあたりに漂った。
「可愛らしい玩具か何かないものかしら。来山の遊女(おやま)人形といったような……。」
 胡麻白頭の俳人Sは、縁なしの眼鏡越しに、じろじろあたりを見廻した。自分の玩具好きから、M氏をもその方の趣味に引込もうとして、二、三度手土産に面白い京人形を持って来たことがあるので、それを捜すつもりらしかったが、あいにくその人形は物吝みをしないM氏が、強請(ねだ)られるままに出入の若い女優にくれてしまっていたからそこらに影を見せなかった。
「十万堂の遊女人形は、あれは女房の代りじゃなかったんですか。」故人がかかりつけの医者で、謡曲好きのGは、痺(しびれ)が切れたらしい足を胡坐に組みかえた。「すると、Mさんには、かえって御迷惑になるかも知れませんな。」
 皆は意味あり気な眼を見交した。
 先刻から襖を開けて、押入に首を突込んだまま、そこに山のように積重ねてある書物を、あれかこれかと捜していたらしい、脚本作者のWは、そのなかから八冊ばかりの大型の和本を取出すと、
「これだ。これだ。これだったら、誰にも異存があろうはずがない。」
と、頓狂な声を立てながら、得意そうに頭の上にふりかざして、皆に見せびらかした。それは西鶴の『好色一代男』で、どの巻も、どの巻も、手持よく保存せられたと見えて、表紙にも小口にも、汚れや痛みなどの極めて少い立派な本だった。
「なるほどね。一代男とはいい思いつきだ。Mさんは夙くから西鶴の歎美者だったしそれに一代男というと……。」
 銀行家は、禿げた前額を撫上げながら、ちょっと言葉を切って、にやりとした。
「一代男というと……。」皆は頭のなかで、この草子の主人公世之助が、慾望の限を尽した遊蕩生活を繰返してみた。そして人情のうらおもて、とりわけ女心のかげひなたを知りぬいていたM氏にとって、こんなに好い道づれはまたとあるまいと思った。
「それはいい。Mさんと世之助とでは、きっと話が合うから。」
 皆は口を揃えて『好色一代男』を棺に納めることに同意した。そして生前懇意だった人のために、死後好い道づれを見つけることが出来たのを心から喜んだ。
「それじゃ、どなたも御異存はございませんな。」
 脚本作者のWが『一代男』八冊を手に取上げて、やっとこなと立上ろうとすると、急に次の間の襖が開いて、
「異存がおまっせ、わてに。」
と、呼びかけながら、いが栗頭の五十恰好の男が入って来た。大阪に名高い古本屋の主人で、M氏とは至って懇意な仲だった。
 古本屋の主人は、脚本作者の側に割込むと、ちょっと頭を下げて皆に挨拶した。そして懐中からぺちゃんこになった敷島の袋を取出すと、一本抜取ってそれに火をつけた。
「どなたのお言葉か知りまへんが、一代男をとは殺生だっせ。これを灰にして見なはれ。世間にたんとはない西鶴物が、また一部だけ影を隠すわけだすからな。それにこんな手持のよい一代男は、どこを捜したかて、滅多に見られるわけのものやおまへん。わてがこれを先生に納めたのは、つい先日(こないだ)のことだしたが、その時の値段が確か千五百円だしたぜ。」
「ほう、千五百円。そない高い本とは知らなんだ。どれ、どれ……。」
 駒十郎は、喫みさしの煙草を、火鉢の灰に突込んで、その手で脚本作者の膝から、本の一冊を取上げた。あたりの二、三人は、首をのばしてそれを覗き込んだ。
「そんなに高くなったかな。五百円の値を聞いて、びっくりしたのは、つい二、三年前のように思ったが。」古本好きの銀行家は、書物の値段が自分に相談なしに、ぐんぐんせり上っているのが、幾らか不機嫌らしかった。「ともかくも、そんなに高価なものを灰にしてしまっては、遺族の方々にも申訳がないから。」
「じゃ、一代男は思い止まりましょう。」
「外に何か見つかればいいが。」誰かがこんなことを言った。
 駒十郎は先刻から挿絵の一つに見とれて、側に坐った新聞記者のHを相手に、自分の出る芝居の番附だけは、どうかしてこんな風に描かせたいものだといったようなことを、小声でひそひそ話していた。
「いいものがおます。也有の『鶉衣』だす。」古本屋の主人は、勢よく立上ったかと思うと、かねて勝手を知った書棚に往って、四冊本の俳文集を取出して来た。
「この本だしたら、也有の名著で、先生のこの上もない愛読書だしたし、それに……。」

 皆は後を聞かないでも満足した。そして一代男の代りに鶉衣四冊を棺に納めることに同意した。
「ああ、そうだったな。」医者のGが、拍子ぬけのしたように呟いた。「也有もMさんも同じ尾張人だったから、途々名古屋弁でもって仲好く話して往くことだろうて。」
 皆はそれを聞くと、故人の特徴のある名古屋訛を思い出した。そしてそれももう二度と聞かれなくなったのだと思って、覚えずほろりとした。


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   暗示

     1

 こういう話がある。
 ある時、山ぞいの二また道を、若い男と若い女とが、どちらも同じ方向をさして歩いていたことがあった。
 二また道の間隔は、段々せばめられて、やがて一筋道となった。見ず知らずの二人は、一緒に連立って歩かなければならなくなった。
 若い男は、背には空になった水桶をかつぎ、左の手には鶏をぶら提げ、右の手には杖を持ちながら、一頭の山羊をひっぱっていた。
 道が薄暗い渓合に入って来ると、女は気づかわしそうに言葉をかけた。
「わたし何だか心配でたまらなくなったわ。こんな寂しい渓合を、あなたとたった二人で連立って歩いていて、もしかあなたが力ずくで接吻でもなすったら、どうしようかしら。ほんとうに困っちまうのよ。」
「え。僕が力ずくであなたを接吻するんですって。」男は思いがけない言いがかりに、腹立ちと可笑さとのごっちゃになった表情をした。「馬鹿をいうものじゃありません。僕は御覧の通り、こんなに大きな水桶を背負って、片手には鶏をぶら提げ、片手には杖をついて、おまけに山羊をひっぱってるじゃありませんか。まるで手足を縛られたも同然の僕に、そんな真似が出来ようはずがありませんよ。」
「それあそうでしょうけれど……。」女はまだ気が容せなさそうにいった。「でも、もしかあなたが、その杖を地べたに突きさして、それに山羊を繋いで、それから背の水桶をおろして、鶏をそのなかに伏せてさえおけば、いくら私が嫌がったって、力ずくで接吻することくらい出来るじゃありませんか。」
「そんなことなんか、僕考えてみたこともありません。」
 男は険しい眼つきで、きっと女の顔を睨んだが、ふとその紅い唇が眼につくと、何だか気の利いたことの言える唇だなと思った。
 二人は連立って、薄暗い樹蔭の小路に入って往った。人通りの全く絶えたあたりに来ると、男は女が言ったように、杖を地べたに突きさし、それに山羊を繋ぎ、背の水桶をおろして、鶏をそのなかに伏せた。そして女の肩を捉えて、無理強いに接吻したということだ。

     2

 この場合、若い男は初めのうちは何も知らなかったのだが、女の敏感な警戒性が思わず洩した一言に暗示せられて、それを実行に移したのである。善行にせよ、悪業にせよ、すべて男の勇敢な実行の背後には、得てしてこうした婦人の暗示が隠れているものだ。


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   詩人の喧騒

 支那の西湖に臨んで社廟が一つ立っている。廟の下手は湖水に漁獲(すなどり)をする小舟の多くが船がかりするところで、うすら寒い秋の夜などになると、篷(とま)のなかから貧しい漁師達が寝そびれた紛れの低い船歌を聞くことがよくある。
 月の明るいある夜のことだった。そこらに泊り合せた多くの船では、漁師たちはもう寝しずまったらしく、あたりはひっそりして何の物音も聞えなかった。その中に皆の群から少し離れて、社廟のすぐ真下(ました)に繋いだ小舟では、若い漁師がどうしたものかうまく寝つかれないで、唯ひとりもぞくさしていた。
 若い漁師は所在なさに篷を上げて外を見た。水銀のような青白い光の雫は、細かく湖の上に降り注いで、そのまま水に吸い込まれているようだった。時々小さな魚が水の面に跳ね上るのが見られたが、水泡の爆(は)ぜ割れる微かな音一つ立てなかった。
「静かな夜だなあ。」
 若い漁師は寒そうに首を竦(すく)めて、覚えずこう呟こうとして、そのまま口を噤んでしまった。少しでも声を立てて深い寂黙(しじま)を破るのが、何だか気味悪く感じられたのだ。
 漁師はまたもとのように篷の下に潜り込もうとしたが、ふと近くに何だか得体の分らない、怪しい騒めきが始まったのを聴きつけて、覚えず半身を舷から乗出すようにして聴耳を立てた。騒めきは掠めるような人声で、すぐ頭の上の社廟のなかに起きていた。何でも五、六人の人たちが、二組に分れて言い争っているらしかった。その一組は呼吸の通っている人達とみえて、声柄に何の変りもなかったが、今一つの組が肉身を具えたこの世の人たちでなかったのは、その物言いぶりが何よりもよく語っていた。紛れもない幽魂(たましい)そのものの声で、それを耳にすると、掘りかえされた墓土の黴臭い呼吸と、闇に生れた眼なし鰻の冷さが気味悪く感じられた。恐いもの見たさの物好きが強く働いていなかったら、若い漁師はそこそこに舟を漕いで、遠くへ逃げ出したかも知れなかった。
「すると、お前たちが心静かに月に見とれていると、そこへこちらの二人が無理に入って来たというのだな。」
 だしぬけにこういう声が聞えた。その声には、口喧嘩(いさかい)をし合っている輩(てあい)のものとは似てもつかない重々しい力があった。若い漁師はすぐにそれを社廟の神様のお声だなと気づいて、軽い身顫いを覚えた。
「さようにございます。手前どもが永い間閉じ籠められた常闇(とこやみ)の国から抜け出して来て、久しぶりに見たのが今夜の満月でございましょう。手前どもはあの青白い光を見ると、むかしのいろんなことを思い出して、唯もう夢のような気持で、水際の草の上に蝗(いなご)のように脛(すね)を折り曲げて、じっとあたりの静かさを楽しんでいたものでございます。そこへいきなり理不尽に割り込んでござらしたのがこの旦那衆で……。」
 喧嘩の片われは、下様(しもざま)な雑人(ぞうにん)だと見えて、言葉つきにどことなく自ら卑下したところがあった。他の一人がすぐ後を引取った。
「いさかいは、そこから始まったのでございます。手前どもの団欒(まどい)に、そこのお二人が割り込んで見えなければ、悶着(もめ)は起らなかったはずです。どうか正しいお裁きが願いたいもので……。」
「それはいかん。」神様は苦々しそうに相手をたしなめた。「おまえ達は、相当な身なりをしているくせに、何故あってそんな不作法な真似をするのだ。一体何者なのか。おまえ達は……。」
「詩人です。二人とも。」
 相手の一人は得意そうに言い放った。その声にはみだらな女と酒とのにおいがぷんと籠っているように感じられた。若い漁師はそれを聞いて、この人たちは詩を作ることを、魚を獲ることと同じように、立派な職業(しごと)だと考えているらしい。魚は市場に持って往けば、いつだって金に替えることが出来るが、詩と来たらてんで引取手(ひきとりて)があるまいに、可笑しな勘違いだと思って、口もとに軽い微笑を浮べた。
「そうか、詩人か。」神様は二人の男が詩人だと聞いて、いくらか気持が更(かわ)ったらしく、急に調子を荒らげて相手の雑人を叱りつけた。「何だ。貴様たち。こちらは文字のある先生方じゃないか。下衆のくせに寄ってたかって、先生方に反抗(はむか)うなんて、恥知らず奴(め)が……。」
「滅相な。手前どもがこの旦那衆に反抗(はむか)うなんて、そんな……。」相手の一人がびっくりしたように言った。持病の喘息で生命を捨てたものらしく、言葉を急き込む度に、ぜいぜい息切れがするのが手に取るように聞えた。「そんな間違ったことはございません。喧嘩(いさかい)の種を蒔いたのはこの旦那衆です。静かに月を見ている手前どものなかへ割り込んで来るなり、鵞鳥のような声でもって、何だか、へい、訳も解らないことを、ぎゃあぎゃあ我鳴り立てなすったものだから……。」
「そんな高声で、何をまた議論し合ったのだ。」
 社廟の神様は、詩人たちに訊いたらしかった。
「無論詩のことでございます。」きっぱりと返事をするのが聞えた。「その他(ほか)のことは、何一つ論ずる値打がありませんから。」
「ほう、詩のことか。詩のことなら、議論の題目として何不足はないはずだ。」神様も恋をする若い人達と同じように、詩は大の好物らしかった。「お前達も、黙って聴いていればいいじゃないか。」
「聴いてはいませんでしたが、黙ってはいました。なぜと申しまして、聴いたところで手前どもにはあまり難かしくて、とても解りようがなかったのですから。すると、この旦那衆は、黙っているのが気に喰わないと見えて、また一段と声を張り上げて喚き散らしなさいます。これでもか、これでもかといった風に。それを辛抱(がまん)しかねた仲間の一人が、
「どうか少しお静かに願います。」
といったものです。すると、こちらの旦那衆が、
「何っ。」
と、いいさま、いきなり起上って拳(こぶし)を振り上げなさいましたので……。」
「何でも、へい、世間の噂には、江都の詩人汪先生は、友達が宋代とやらの詩を貶(けな)したからといって、えらく腹に据えかねて、いきり立って議論を吹っかけたので、近くの樹にとまっていた小鳥が、みんな逃げてしまったそうに聞きました。一体詩人というものは、みんな牛のように吼えるものと見えまして……。」
 雑人の一人が、横合から冷かし気味にこんなことをいったものだ。すると、神様は陽気に笑い出した。
「は、は、は、は。詩人達が牛のように吼えるものかどうかは知らぬが、確かに牛のように角突き合いはよくするものらしいね。ところで、先生方――。」神様の詩人達に対する言葉は皮肉になった。「先生方の詩論とやらは、いずれは高尚で結構ずくめなものだろうが、それも処と相手とを吟味した上でなくっては。今夜のところはこのままさらりと水に流そう。が、その代り以後はちと場所柄をわきまえるようにしてもらいたいものだて。」
 それを聞くと、雑人方は、草の枯葉が共擦れするような、微かな気配を立ててひそめき出した。若い漁師は眼をつぶらにして社廟をふり仰いで見た。青白い月明りが薄絹のようにたよたよと顫えている後壁の隙間から、魚の腹のような冷い燐火が、三つ四つ続けさまにふらふらと飛び出したかと思うと、その瞬間、
「き、き……。」
と二十日鼠の笑うような声が低く聞き取られたように思った。
 その後から、青と赤との衣を着た人がのっそりと二人出て来た。詩人だなと思って、若い漁師は伸び上るようにしてその顔を見ていたが、それが誰だったかに気がつくと、慌てて首をすくめて眼を伏せた。
「何だ。那奴(あいつ)じゃないか。こないだ鳶が空から取落した奴を、松江の鱸だといって、うまく騙して売りつけてやった、あの露次裏の老ぼれじゃないか。」
 詩人二人は、そんなことに気がつこうはずがなく、口の中で何かぶつくさぼやきながら、霧の中に見えなくなってしまった。


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   樹木の不思議

     1

 今日久しぶりに岡山にいる友人G氏が訪ねて来た。そして手土産だといって梨を一籠くれた。梨は一つずつ丁寧に二重の薄紙に包まれていたが、その紙をめくってみるとなかからは黄熟した肌の滑っこい、みずみずしい大粒の実が現われた。
 梨好きな私は、早速その一つを皮をむかせて食べてみた。きめの細かい肉は歯ざわりがさくさくとして、口の中に溶け込むように軽かった。
「うまいね、この梨。ことしの夏は京都、奈良、鳥取と方々の果樹園のものを食べてみたが、こんなうまいのは始めてだよ。」
「実際うまいだろう。皆がそう言っている……。」と客はさも満足そうにいって、口もとに軽い微笑の影を漂わせた。「うまいはずだよ。これには不思議な力が籠っているんだから……。」
「不思議な力。」私はいぶかしそうにG氏の顔を見た。
「まったく不思議なんだ。それはこう言う訳なんだがね。」
 G氏は落ついた句調で、ぽつりぽつりと次のようなことを話した。

     2

 岡山を西へ一里半ばかり離れた田舎に、かなり広い梨畑をもった農夫があった。どうしたものか、いつの年も咲き盛った花の割合に、実のとまりが極く少く、とまった果実もそれが熟れる頃になると、妙に虫がついて、収穫として畑よりあがるものは、ほんの僅かしかなかった。年毎の損つづきに気を腐らした農夫は、いっそ梨畑を掘り返して、そのあとに何か新しいものを植えつけてみたらと思った。で、いつもこんな場合に、いい分別を貸してもらうことになっている神道――教会の教師を訪ねて、その相談をもちかけた。いうまでもなく、農夫はその教会のふるい信徒の一人だった。
 農夫の口から委細を聞いた教師は、気むつかしく首をふった。
「梨畑を掘り返すにはまだ早い。もっと御祈念を積みなさい。」
「御祈念はいたしとります。」
 農夫の言葉つきには、どこかに不足らしいところがあった。
「何と言って御祈念している……。」
「神様。どうぞ私の梨畑を……。」
 気後れがするらしく、口のなかで言う農夫の言葉を、教師は皆まで聞かなかった。
「私の梨畑だと。お前さんにそんなものはないはずだ。何もかも一切神様にお返ししなさい、といって聞かせたことをもう忘れているね。」
 それを聞くと、農夫は両手を膝の上へ、頭を垂れたまま、悄気(しょげ)かえったようにじっと考え込んでいたが、暫くすると、
「いや、よくわかりました。私が間違っておりました。」
と、丁寧に教師に挨拶をして帰って往った。
 その日から農夫の心は貧しくなった。彼は一切のものを神に返した。毎朝鋏と鍬とをもって梨畑へ出かけると、いつもきまったように樹の下に立って、
「神様。これからあなたの畑で働かせていただきます。もしか梨の実がみのって、少しでも余分のものがおありでしたら、そのときには盗人や虫におやりになる前に、まず私にいただかせて下さいますように。」
と、真心を籠めて祈念した。そして自分の畑を自分の手で処理するといったようなこれまでの気儘な態度をあらためて、自分はただこの畑の世話をするために雇われた貧しい働き人の一人に過ぎないような謙遜な気もちで、一切を自然にまかせっきりにして、傍からそっと草を抜き、肥料を施しなどした。
 こうは思いあらためたものの、農夫は心の奥でその結果について幾らかの不安を抱かないわけではなかったが、次の夏が来て、梨の実がみのる季節になると、彼は不思議なものを見せつけられて、心の底から驚嘆した。
 一度は掘り返して火に焼いてしまおうと思った、やくざな梨畑の樹という樹は、枝も撓(たわ)むばかりに大きな果実を幾つとなくつけているのであった。

     3

「その不思議な梨畑に出来たのが、実はこれなんだよ。」
 客のG氏はこう言って、自分が持って来た果物籠から、梨の実の一つを取出したかと思うと、皮をもむかないで、いきなりそれに噛みついた。

     4

 こんな話がむかしにも一つある。
 足利時代に又四郎という庭造りの名人があった。庭造りというと、今も昔も在り来りの型より外には、何一つ知らぬ輩のみ多いが、又四郎はそんなのとは異って、文字もあり、する仕事にも、それぞれちゃんとした典拠があったようだ。
 あるとき又四郎が、さる寺方から頼まれて、築山を造ったことがあった。その仕事振を見ようとして、住職がぶらりと庭へ出てみると、不思議なことには滝頭(たきがしら)が西へとってあった。
 住職は合点が往かなかった。
「滝頭を西にとったのはおかしい。すべてどんなものでも、頭は東にあるのが、本当じゃなかろうか。」
「ごもっともさまで。……すべて滝頭を東にとりますのは、庭造りの極った型でございます。」又四郎は答えた。「が、それは在家の庭のことで、寺方のになりますと、滝頭を西にとった方が、かえって本当かと思われます、むかしから仏法東漸と申しまして……。」
「仏法東漸か。なるほどそう聞けば、それも尤なようだて。」
 住職は笑って納得するより外には仕方がなかった。

 同じ頃に、蘭坡和尚という禅僧があった。和尚は自坊の境内に一段の風致を加えるために、枝ぶりのいい松を五、六株植えたことがあった。程経て気がついてみると、松の葉は赤く枯れかかっていた。和尚は衰えた松の薬には酒がいいことを聞いていたが、酒は自分にも二つとない好物だったので、いくら松のためとは言い条、それを譲るわけにはゆかなかった。和尚はかねて懇意な間柄だったので、又四郎に相談をもちかけた。
「見らるるとおり、あのように松が枯れかけて来た。何かいい薬はないものかしら。」
「薬はいろいろあるにはあります。が、どれもこれもあまり効力(ききめ)といってはないようです……。」
 又四郎は赤ちゃけた松の葉を見上げながら冷やかに答えた。
「あまり効力がない。それは困ったものだな。」
 和尚はさも当惑したように円い頭をふった。頭の上では松の樹が勢のない溜息をついて、同じように枝をふったらしかった。又四郎は言った。
「そんな薬よりも、ずっと効力が見えるものが一つあります。もっともこれは私の秘伝でございますが……。」
「そうか。秘伝と聞けば、なお更それを聞きたいものだて。」
「それは、和尚さま、お経にある文句なのです。」
 又四郎は口もとに軽い微笑を浮べて言った。
「お経の文句。それはどのお経にある。」
 和尚の眼はものずきに燃えていた。
「観音経のなかの、
□甘露法雨
滅除煩悩焔
という文句です。あの文句を紙に書いて、そっと樹の根に埋めておきますと、霊験はあらたかなものです。枯れかけた樹の色が、急に青々と若返って来ます。」
 又四郎は枯れかけた当の松の樹にも、立ち聞きせられるのを気遣うように、声を低めて言った。
「いかさま。これはいいことを教えてもらった。」
 和尚のよろこびは一通りではなかった、彼はいそいそと自分の居間に帰って往ったが、暫くすると、折り畳んだ紙片を掌面に載せてまた出て来た。
「又四郎どの。御面倒だが、それじゃこの紙片を土に埋めて下さい。」
 又四郎は受取った紙片をそっとおし拡げてみていたが、すぐまたそれを和尚の手に返した。
「和尚さま。□甘露法雨の□の字が樹になっていますよ。」
「ほい。わしとしたことが、これは失敗ったな。」
 和尚は頭を撫でて高く笑った。

 文字はすぐに書きあらためられて、又四郎の手で松の根もとに埋められた、そしてそのまま捨ておかれた。
 枯れかけた松の色は、やがてまた青くなり出した。

     5

 何事も自然にまかせて、あまりおせっかいをしないのが、一番いいようだ。


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   蔬菜の味

     1

 元の道士として聞えた画家張伯雨が、あるとき蔬菜の画を描き、それに漢陰園味と題名をつけたことがあった。というのは、むかし、子貢が、丈人と漢陰に出合ったことがあった。そのとき丈人が圃(はたけ)に水をやるのに、御苦労さまにも坑道をつけた井のなかに降りて往き、そこから水甕を抱いて出て来るのを見て、子貢がひどく気の毒がって、そんなまだるっこいことをするよりも、いっそこうしたがよかろうと、槹(はねつるべ)の仕方を伝授したものだ。すると、丈人はむっとした顔をして、ひどく機嫌を損じたらしかった。丈人の嫌がったのは、子貢が心安だての差出口よりも、そんな便利な機械を使う事だった。すべて土に親しんで、蔬菜でも作って楽もうというには、そんな調法な機械をいじくるよりも、どこまでも甕で水を運ぶまだるっこさに甘んじて、その素人くさい労役を味うだけの心がけがなくてはならないが、伯雨はその心持を汲みとって自分の作画に名づけたものだった。後に明の姚雲東がその蔬菜の画を手に入れて、ひどく感心したあまりに、自分でも屋敷のまわりに圃を作り、雑菜の種子を播いて、日々そのなかを耕すようになった。
 そして明暮(あけくれ)蔬菜の生長を見て楽んでいるうちに、雲東は自分でも伯雨のまねをしてみずから土に親んで得た園味を思うさま描き現わしてみたいと思うようになった。
 九箇月を費してやっと出来上ったのは、名高い雑菜の図で、自分の圃に作ったいろんな野菜の写生画と詩文とに、溢れるような田園の趣味を漂わせたものだった。
 伯雨の漢陰園味も、雲東の雑菜の図も、今はどこに伝わっているか知る由もなく、いくら玩賞したいと思ったところで、そんな機会がとても得られるわけのものではないが、私は秀れた作家の手になった蔬菜の図には、ある程度の情熱をさえ感じる。自分の身近くにころがっている、極めてありふれたものを更に見直して、そのなかに隠れている美に気づき、それに深い愛着をもつのは、誰にとっても極めていいことに相違ない。

     2

 肥り肉(じし)の女が、よく汗ばんだ襟首を押しはだける癖があるように、大根は身体中(からだじゅう)の肉がはちきれるほど肥えて来ると、息苦しそうに土のなかに爪立をして、むっちりした肩のあたりを一、二寸ばかり畦土の上へもち上げて来る。そして初冬の冷い空気がひえびえと膚にさわるのを、いかにも気持よさそうに娯しんでいるようだ。
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