艸木虫魚
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著者名:薄田泣菫 

彼はその後のことは覚えなかった。

     3

 翌朝、日が高く昇ってから、呉春は酒の酔と毒魚の麻痺とから、やっと醒めかかることが出来た。
 彼は亡者のような恐怖に充ちた眼をしてそこらを見まわした。やがて顔は空洞(うつろ)のようになった。彼が取り散らした室の様子を見て、昨夜からの始末をやっと思い浮べることが出来たのは、それから大分時が経ってからのことだった。
 まだ痛みのどこかに残っている頭をかかえたまま、彼はぼんやりと考え込んでいたが、暫くすると、重そうに顔をもち上げた。そして
「死んだものが生きかえったのだ。よし、おれは働こう。何事にも屈託などしないぞ。」
と呻くように叫んだ。彼は幾年かぶりに自分が失くした声を取り返したように思った。
 その途端彼は自分を殺して、また活かしてくれた河豚を思って、その味いだけは永久に忘れまいと思った。


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   食味通

     1

 物事に感じの深い芸術家のなかには、味覚も人一倍すぐれていて、とかく料理加減に口やかましい人があるものだ。蕪村門下の寧馨児(ねいけいじ)として聞えた松村月渓もその一人で、平素よく、物の風味のわからない人達に、芸事の細かい呼吸が解せられようはずがないといいいいしていて、弟子をとる場合には、画よりも食物のことを先に訊いたものだそうだ。
 だが、物の風味を細かく味いわけなければならない食味などいうものは、得てして実際よりも口さきの通がりの方が多いもので、見え坊な芸術家のなかには、どうかするとそんなものを見受けないこともない。ロシアの文豪プウシキンなども、自分が多くの文人と同じように詩のことしかわからないと言われるのが厭さに、他人と話をするおりには、自分の専門のことなぞは噫(おくび)にも出さないで、馬だの骨牌だのと一緒に、よく料理の事をいっぱし通のような口振で話したものだ。だが、ほんとうの事を言うと、プウシキンはアラビヤ馬とはどんな馬なのか、一向に見わけがつかず、骨牌の切札とは、どんなものをいうのか、知りもしなかった。一番ひどいのは料理の事で、仏蘭西式の本場の板前よりも、馬鈴薯を油で揚げたのが好物で、いつもそればかりを旨そうにぱくついていたという事だ。

     2

 そんな通がりの多い中に、日根対山は食味通として、立派な味覚を持っている一人だった。対山は岡田半江の高弟で、南宗画家として明治の初年まで存(ながら)えていた人だった。
 対山はひどい酒好きだったが、いつも名高い剣菱ばかりを飲んでいて、この外にはどんな酒にも唇を濡そうとしなかった。何かの会合で出かける場合には、いつも自用の酒を瓢に詰めて、片時もそれを側より離さなかった。
 ある時、土佐の藩主山内容堂から席画を所望せられて、藩邸へ上った事があった。画がすむと、別室で饗応があった。
 席画の出来栄(できばえ)にすっかり上機嫌になった容堂は、
「対山は酒の吟味がいこう厳しいと聞いたが、これは乃公の飲料(のみしろ)じゃ。一つ試みてくれ。」
 といって、被布姿で前にかしこまっている画家に盃を勧めた。
 対山は口もとに微笑を浮べたばかしで、盃を取り上げようともしなかった。
「殿に御愛用がおありになりますように、手前にも用い馴れたものがござりますので、その外のものは……」
「ほう、飲まぬと申すか。さてさて量見の狭い酒客じゃて。」容堂の言葉には、客の高慢な言い草を癪にさえるというよりも、それをおもしろがるような気味が見えた。「そう聞いてみると尚更のことじゃ。一献掬まさずにはおかぬぞ。」
 対山は無理強いに大きな盃を手に取らせられた。彼は嘗めるようにちょっと唇を浸して、酒を吟味するらしかったが、そのまま一息にぐっと大盃を飲み干してしまった。
「確かに剣菱といただきました。殿のお好みが、手前と同じように剣菱であろうとは全く思いがけないことで……」
 彼は酒の見極めがつくと、初めて安心したように盃の数を重ね出した。

     3

 あるとき、朝早く対山を訪ねて来た人があった。その人は道の通りがかりにふとこの南宗画家の家を見つけたので、平素の不沙汰を詫びかたがた、ちょっと顔を出したに過ぎなかった。
 対山は自分の居間で、小型の薬味箪笥のようなものにもたれて、頬杖をついたままつくねんとしていたが、客の顔を見ると、
「久しぶりだな。よく来てくれた。」
と言って、心から喜んで迎えた。そしていつもの剣菱をギヤマンの徳利に入れて、自分で燗をしだした。その徳利はオランダからの渡り物だといって、対山が自慢の道具の一つだった。
 酒が暖まると、対山は薬味箪笥の抽斗(ひきだし)から、珍らしい肴を一つびとつ取り出して卓子に並べたてた。そのなかには江戸の浅草海苔もあった。越前の雲丹もあった。播州路の川で獲(と)れた鮎のうるかもあった。対山はまた一つの抽斗から曲物(まげもの)を取り出し、中味をちょっぴり小皿に分けて客に勧めた。
「これは八瀬の蕗の薹で、わしが自分で煮つけたものだ。」
 客はそれを嘗めてみた。苦いうちに何とも言われない好い匂があるように思った。対山はちびりちびり盃の数を重ねながら、いろんな食べ物の講釈をして聞かせた。それを聞いていると、この人は持ち前の細かい味覚で嚼みわけたいろんな肴の味を、も一度自分の想像のなかで味い返しているのではあるまいかと思われた。そして酒を飲むのも、こんな楽みを喚び起すためではあるまいかと思われた。
 客はそんな話に一向興味を持たなかったので、そろそろ暇を告げようとすると、対山は慌ててそれを引きとめた。
「まあよい。まあよい。今日は久しぶりのことだから、これから画を描いて進ぜる。おい、誰か紙を持って来い。」
 彼は声を立てて次の間に向って呼かけた。
 画と聞いては、客も帰るわけには往かなかった。暫くまた尻を落着けて話の相手をしていると、対山は酒を勧め、肴を勧めるばかりで、一向絵筆をとろうとしなかった。客は待ちかねてそれとなく催促をしてみた。
「お酒も何ですが、どうか画の方を……。」
「画の方……何か、それは。」
 酒に酔った対山は、画のことなどはもうすっかり忘れているらしかった。
「さっき先生が私に描いてやるとおっしゃいました……。」
 客が不足そうに言うと、やっと先刻の出鱈目を思い出した対山は、
「うん。そのことか。それならすぐにも描いて進ぜるから、今一つ重ねなさい。」
と、またしても盃を取らせようとするのだ。
 こんなことを繰り返しているうちに、到頭夜になった。そこらが暗くなったので、行灯が持ち出された。
 へべれけに酔っ払った対山は、黄ろい灯影(ほかげ)にじっと眼をやっていたが、
「さっき画を進ぜるといったが、画よりももっといいものを進ぜよう。」
 独語のように言って、よろよろと立ち上ったかと思うと、床の間から一振の刀を提げて来た。そしていきなり鞘をはずして、
「やっ。」
という掛声とともに、盲滅法に客の頭の上でそれを揮りまわした。
 客はびくりして、取るものも取りあえず座から転び出した。

 戸外の冷っこい大気のなかで、客はやっと沈着を取り返すことが出来た。そして朝からのいきさつを頭のなかで繰り返して思った。
「あの先生の酒は、物の味を肴にするのじゃなくて、感興を肴にするのだ。私というものも、つまりは八瀬の蕗の薹と同じように、先生にとって一つの肴に過ぎなかったのだ――たしかにそうだ。」


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   徳富健次郎氏

     1

 徳富健次郎氏が歿くなった。重病のことだったし、どうかとも思う疑いはあったが、いつも看護の人達にむかって、
「生きたい。まだ死にたくない。」
と、力強い声で叫んでいたということを聞き、因縁の深い、好きな伊香保へ往って、湯に浸りながら療養を尽しているということを聞くにつけて、この分ならば遠からずきっと快くなるだろうと思っていたのに、とうとう歿くなってしまったのは、残念の限りである。
 徳富氏と私との交遊については、二、三年前刊行した私の『泣菫文集』に書いたことがあるから、ここにはなるべくそれに洩れた事柄を断片的に記して、この老文人がありし日の面影をしのびたいと思う。尤も話の都合上、前後聯絡のあるものは、記述が文集のそれと多少重複するかも知れないが、その辺は止むを得ないこととして、どうか大目に見てもらいたい。
 私が初めて徳富氏に会ったのは、明治三十四、五年の頃で、その頃氏が住っていた東京の郊外渋谷の家でだった。三宅克己氏の水彩画がたった一枚壁にかかった座敷で、二月の余も鋏を入れないらしい、硬い髪の毛がうるさく襟筋に垂れかかるのを気にしながら、氏はぽつりぽつりと言葉少に話しつづけた。言葉つきも、態度も、極めて謙遜だったが、談話のところどころに鋭い皮肉が刃物のように光るのもおもしろかった。しかし、それよりもなおおもしろかったのは、百姓のそれを思わせるような大きな右手の人差指で、話をしいしい、気忙しく畳の上に書きものをする癖で、それとなく気をつけて見ていると、その書きものは、いろはとなり、ロオマ字となり、漢字となり、時には大入道の頭になったりした。
 ちょうどその頃『不如帰』が出版せられて、大層評判が立っていたので、話はおのずとその方へ向いていった。
「こないだも喜多村緑郎君がやって来て、あれを芝居に仕組みたいからと相談を受けましたが、あれが芝居になるかしら、なると思うなら、あなたの方でいいように仕組んで下さいと返事すると、そんなら私の方で芝居にするから、舞台にかけたら是非一度見に来てくれというのです。自分の恥を大勢の中へわざわざ見に往くものがありますかというと、喜多村君変な顔をして帰って往きましたっけ。」
 徳富氏は両手を胸の上に組んで、とってつけたように笑った。しばらくすると、氏はだしぬけに
「島崎藤村君が、こないだ国木田独歩君などと一緒に訪ねて来てくれて、久しぶりに大層話がはずみましたよ。」
といって、こんなことをいい足した。
「ところが、その後島崎君がある雑誌記者に向って、
「徳富君もこの頃では、玄関をこしらえるようになりましたね。」
と話していたそうです。私は玄関など設けたことはありません。私にはそんな必要がありませんから。」
 言葉の調子に、どこか不平らしいところがあった。私はどういって返事をしていいかわからなかった。

     2

 徳富氏の『黒潮(こくちょう)』第一巻が公にせられたのは明治三十六年だった。この小説は作そのものよりも、兄蘇峰氏に投げつけた絶交書のような序文の方で名高かった。
 その年の夏、徳富氏は大阪へ遊びに来て、私を訪ねてくれたことがあった。ちょうど博覧会が天王寺に催されていた頃で、その賑いをあてこみに、難波で東京大阪の合併相撲があって、かなり人気を引立てていた。
 徳富氏も私も相撲は好きだった。尤もあの前後に生れ合わせていて、それで相撲を好かなかったという人があったら、そんな人は人生のどんな事柄に対しても、興味が持てなかったに相違なかった。それほどまでにあの頃の相撲は溌溂としていた。伸びゆく生命そのものを見るような感じがあった。
 二人の話はおのずと好きな方へ向いて往った。徳富氏は黒い大きな塵よけ眼鏡の奥から、眼を光らせながらいった。
「昨日一日合併相撲を見ましたが、大阪方の若島は強いですね。手もなく荒岩を投げつけましたよ。荒岩の一生にあのくらい手綺麗に投げられたことは、二度とないかも知れません。ことによると、常陸山なぞもやられないにも限らない……。」
「若島はいい力士ですが、常陸山に勝とうなどとは思われない。」
 私は客の言葉に承引が出来なかった。
「いや、勝つかも知れない。」
「分でゆくと、まず七三かな。」
「いや、そんなことはない。五分五分だ。」
「まさか……。」
 二人は暫くそんなことをいい争っていたが、ちょうどそこへ外の来客があったので、話はそれなりになってしまった。
 その場所での両力士は預りで、誰が見ても八百長の臭みが高かったということだった。
 すると、その翌月だったか、合併相撲の顔触をそのまま京都へ持ち込んで、花見小路で興行したことがあった。その楽(らく)の日に若島は常陸山につり出されて負けたが、若島としてはなかなか分のいい相撲をとったので、ひいき客のある人が祇園下の料理屋へこの力士を招いて、言葉を極めてその日の相撲ぶりを賞めたてたものだ。若島は気恥かしそうに頭へ手をやった。
「いや。そうお賞め下さるがものはありません。今度こそ初めて常陸関のずばぬけて強いのに驚きました。実は私五日も前からあの人が、今日の相撲につりに来るということを聞いて知っていましたのです。」
「ほう、誰の口から。」
「常陸関自身の口から。あの人は決して嘘を言いません。つると言ったが最後、外の手が出せる場合でもそれをしないで、つりぬくという気象ですから、私は安心してそれを防ぐ工夫ばかしをこらしました。顔が合って四つに組むと、常陸関はすぐにつりに来ました。私はかねての工夫通り外掛で防ぎました。二度目にまたつりに来ました。今度もどうやら持ちこたえました。すると、三度目のあのつりです。とうとう牛蒡(ごぼう)抜きにやられてしまいました。いやはや、強いのなんのといって、とてもお話になりません。」
 私はその話を座敷に居合せた友人から聞いたので、早速それを認めて徳富氏に手紙を出した。氏からは何の返事もなかった。

     3

 徳富氏が最初の聖地巡礼に出かけるときのことだった。私と懇意なK書店の主人は、見送のためわざわざ神戸から門司まで同船することにした。
 船が門司近くの海に来ると、書店の主人は今まで興じていた世間話を急に切上げにかかった。
「先生。私に一つのお願があるんですが……。」
「願い。――」徳富氏は急に更まった相手の容子に眼を光らせた。
「実は今度の御紀行の出版は、是非私どもの方に……。」
 その言葉を押えつけるように、徳富氏は大きな掌面(てのひら)を相手の鼻さきでふった。
「待って下さい、その話は。私暫く考えて返事しますから。」
 徳富氏はこういい捨てておいて、大跨に船室の方へあるいて行った。
 ものの一時間も経つと、徳富氏はのっそりとK氏の待っている室へ入って来た。
「Kさん。あなたさっき門司からの帰りには、薄田君を訪ねるといってましたね。」
「ええ、訪ねます。何か御用でもおありでしたら……。」
「じゃ、御面倒ですが、これをお渡し下さい。」徳富氏はふところから手紙を一通取出した。「それから、あなたには……。」
 K氏は何かを待設けるもののように胸を躍らせた。
「あなたにはいいものを上げます。私の原稿よりかもずっといい……。」
「何でしょう。原稿よりかもいいものというと……。」
 K氏は顔一ぱいに微笑をたたえた。それを見下すように前に立ちはだかった徳富氏は、宣教師のようにもの静かな、どこかに力のこもった声でいった。
「神をお信じなさい。ただそれだけです。」
「神を……。」書店の主人は、その神をさがすもののように空虚な眼をしてそこらを見廻した。
 船は門司の沖に来かかったらしく、汽笛がぼうと鳴った。
 海近い備中の郷里の家で、私がK氏の口からこんな話を聞きながら、受取った徳富氏の手紙には、次のような文句があった。
不図思ひ立ちてキリストの踏みし土を踏み、またヤスナヤポリヤナにトルストイ翁を訪はむと巡礼の途に上り申候。神許し玉はば、一年の後には帰り来り、或は御目にかかるの機会ある可く候。
大兄願はくば金玉に躯を大切に、渾ての点において弥々御精進あらんことを切に祈上候。
  一九〇六、仏誕の日関門海峡春雨の朝徳富健次郎
     4

 私は一度K書店の主人と道づれになって、今の粕谷の家に徳富氏を訪ねたことがあった。門を入って黄ばんだ庭木の下をくぐって往くと、そこに井戸があった。K氏はその前を通りかかるとき、小声で独語のように、
「そうだ。労働は神聖だったな。」
と、口のなかでつぶやいたらしかった。私はそれを聞きのがさなかった。
「何だね、それ。」
 K氏は何とも答えなかった。二人は原っぱのような前栽のなかに立っている一軒家に通された。日あたりのいい縁側に座蒲団を持ち出してそれに座ると、K氏はにやにや笑い出した。
「さっき井戸端を通るとき、私が何か言ったでしょう。あれはね、以前私がこちらにお伺いしたとき、先生が、自分の代りに風呂の水を汲んでくれるなら、面会してもいいとおっしゃるので、仕方がなく汲みにかかりました。こちらの井戸は湯殿とは大分遠いところにあるので、なかなか容易な仕事じゃありません。やっと汲み終えて、客間へ通ると、先生が汗みずくになった私の顔を見られて、
「Kさん。労働は神聖ですな。」
と言って笑われましたっけ。今あすこを通りかかって、それを思い出したものですから……。」
「いつぞやの「神を信ぜよ。」と同じ筆法だ。徳富君一流の教訓だよ。」
 私がそういって笑っているところへ、主人がのっそりと入って来た。そしてそこらを眺め廻しながら、
「この家いいでしょう。土地の賭博打がもてあましていたのを、七十円で買い取ったのです。時々勝負のことから、子分のものの喧嘩が初まるので、そんなときの用意に、戸棚なぞあんなに頑丈に作ってありますよ。」
といって、家の説明などしたりした。
 その日はいろんなことを話合った。夕方になって帰ろうとすると、徳富氏は、
「あなた方にさつまいもを進ぜましょう。私が作ったのです。これ、こんなに大きいのがありますよ。」
と言って、縁の下から小犬のような大きさのさつまいもを、幾つも幾つも掘り出して、それを風呂敷に包もうとした。私達は帰り途の難渋さを思って、幾度か辞退したが、頑固な主人はどうしても承知しなかった。

 やっと上高井戸の停留所についた頃には、私達の手は棒のようになっていた。


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   芥川龍之介氏の事

 今は亡き芥川龍之介氏が、大阪毎日新聞に入社したのは、たしか大正八年の二月末だったと思う。話がまとまると、氏は早速入社の辞を書いてよこした。原稿はすぐに植字場へ廻されて活字に組まれたが、ちょうど政治季節で、おもしろくもない議会の記事が、大手をふって紙面にのさばっている頃なので、その文章はなかなか容易に組み入れられようとしなかった。あまり日数が経つので、私はとうとう気を腐らして、頑固な編輯整理に対する面当(つらあて)から、芥川氏の同意を得て、その原稿を未掲載のまま撤回することにした。そのゲラ刷が一枚残って手もとにあったのを、今日はからずも見つけた。読みかえしてみると、皮肉好きな故人の面目が、ありありと文字の間にうかがわれる。それをここに掲げるのは、故人を愛する人達のために、一つでも多くの思い出を供したい微意に外ならぬ。

入社の辞
芥川龍之介 予は過去二年間、海軍機関学校で英語を教えた。この二年間は、予にとって決して不快な二年間ではない。何故と云えば予は従来、公務の余暇を以て創作に従事し得る――或は創作の余暇を以て公務に従事し得る恩典に浴していたからである。
 予の寡聞(かぶん)を以てしても、甲教師は超人哲学の紹介を試みたが為に、文部当局の忌諱(きい)に触れたとか聞いた。乙教師は恋愛問題の創作に耽ったが為に、陸軍当局の譴責を蒙ったそうである。それらの諸先生に比べれば、従来予が官立学校教師として小説家を兼業する事が出来たのは、確に比類稀(ひるいまれ)なる御上(おかみ)の御待遇(ごたいぐう)として、難有く感銘すべきものであろう。尤もこれは甲先生や乙先生が堂々たる本官教授だったのに反して、予は一介(いっかい)の嘱托(しょくたく)教授に過ぎなかったから、予の呼吸し得た自由の空気の如きも、実は海軍当局が予に厚かった結果と云うよりも、或は単に予の存在があれどもなきが如くだった為かも知れない。が、そう解釈する事は独り礼を昨日の上官に失するばかりでなく、予に教師の口を世話してくれた諸先生に対しても甚だ御気の毒の至(いたり)だと思う。だから予は外に差支えのない限り、正に海軍当局の海の如き大度量に感泣して、あの横須賀工廠の恐る可き煤煙を肺の底まで吸いこみながら、永久に「それは犬である」と講釈を繰返して行ってもよかったのである。
 が、不幸にして二年間の経験によれば、予は教育家として、殊に未来の海軍将校を陶鋳(とうちゅう)すべき教育家として、いくら己惚れて見た所が、到底然るべき人物ではない。少くとも現代日本の官許教育方針を丸薬の如く服膺(ふくよう)出来ない点だけでも、明(あきらか)に即刻放逐さるべき不良教師である。勿論これだけの自覚があったにしても、一家眷属(けんぞく)の口が乾上(ひあが)る惧がある以上、予は怪しげな語学の資本を運転させて、どこまでも教育家らしい店構(みせがま)えを張りつづける覚悟でいた。いや、たとい米塩(べいえん)の資(し)に窮さないにしても、下手は下手なりに創作で押して行こうと云う気が出なかったなら、予は何時(いつ)までも名誉ある海軍教授の看板を謹んでぶら下げていたかも知れない。しかし現在の予は、既に過去の予と違って、全精力を創作に費さない限り人生に対しても又予自身に対しても、済まないような気がしているのである。それには単に時間の上から云っても、一週五日間、午前八時から午後三時まで機械の如く学校に出頭している訳に行くものではない。そこで予は遺憾ながら、当局並びに同僚たる文武教官各位の愛顧に反(そむ)いて、とうとう大阪毎日新聞へ入社する事になった。
 新聞は予に人並の給料をくれる。のみならず毎日出社すべき義務さえも強いようとはしない。これは官等の高下をも明かにしない予にとって、白頭(はくとう)と共に勅任官を賜るよりは遥に居心(いごこち)の好い位置である。この意味に於て、予は予自身の為に心から予の入社を祝したいと思う。と同時に又我帝国海軍の為にも、予の如き不良教師が部内に跡を絶った事を同じく心から祝したいと思う。
 昔の支那人は「帰らなんいざ、田園将(まさ)に蕪(ぶ)せんとす」とか謡った。予はまだそれほど道情(どうじょう)を得た人間だとは思わない。が、昨(さく)の非を悔い今の是(ぜ)を悟っている上から云えば、予も亦同じ帰去来(ききょらい)の人である。春風は既に予が草堂の簷(のき)を吹いた。これから予も軽燕と共に、そろそろ征途(せいと)へ上ろうと思っている。

 同じ年の五月上旬、芥川氏は氏の入社と同時に、東京日々の方へ迎えられた菊池寛氏と連立って、初めて大阪に来たことがあった。新聞社へ来訪したのが、ちょうど編輯会議の例会のある十日の夕方だったので、私は二氏に会議の席へ顔出しして、何かちょっとした演説でもしてもらおうとした。演説と聞いて、菊池氏は急に京都へ行かなければならない用事を思い出したりしたので、芥川氏は不承不精に会議に出席しなければならなくなった。
 その晩、芥川氏が何を喋舌(しゃべ)ったかは、すっかり忘れてしまったが、唯いくらか前屈みに演壇に立って、蒼白い額に垂れかかる長い髪の毛をうるさそうに払いのけながら、開口一番、
「私は今晩初めてこの演壇に立つことを、義理にも光栄と心得なければならぬかも知れませんが、ほんとうは決して光栄と思うものでないことをまず申上げておきます……」
と氏一流の皮肉を放ったことだけは、いまだに覚えている。この演説にはさすがの芥川氏も閉口したと見えて、東京へ帰ってから初めての手紙に、
「しかし演説には辟易しました。演説をしなくてもいいという条件がないと、ちょいと編輯会議にも出席出来ませんな。」
といってよこしていた。


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   哲人の晩年

 三十年間、The Ladies' Home Journal の記者として名声を馳せた Edward Bok が、小新聞の速記者として働いていたのは、まだ十五、六歳の少年の頃だった。その頃彼は思い立って、ボストンへ名士の訪問に出かけて往ったことがあった。
 彼はそこで、詩人の Oliver Wendell Holmes や、Longfellow や、宗教家の Phillips Brooks などに会った。これらの名士たちは、幾分のものずきも手伝って、みんな親切にこの少年をもてなした。そしていろいろ有益な談話をしてくれたり、少年の差出した帳面に、それぞれ署名をしてくれたりした。こんなことで、少年のボストンにおける滞在は、譬えようもない楽しいものだった。
 少年は、最後に Emerson を訪問しようとした。この文豪こそは、少年が最も尊敬もし、また一番会いたくも思っている人だった。

 少年は途中で、Emerson の家近く棲んでいる女流文学者の Louise Alcott を訪ねて、あたたかい煖炉の傍で、いろんなお饒舌を取換わした。少年の口からその日の予定を聞いた女史は、気づかわしそうに言った。
「さあ、あの方を訪ねたところで、会ってもらえるかしら。この頃は滅多にお客さまにお会いにならないんですからね。どうもお弱くてお気の毒なんですわ。――でも、折角ですからお宅までぶらぶら御一緒に出かけてみましょうよ。」
 女流文学者は、外套と帽子とを身につけて、気軽に先へ立って案内した。
 長い間、コンコオドの哲人として、中外の人から崇められていたこの老文豪が、ちょうど死ぬる前の年のことであった。
 Emerson の家に着くと、入口に老文豪の娘さんが立って迎えていた。Alcott 女史が少年の希望を述べると、娘さんはつよく頭を掉った。
「父はこの頃どなたにもお目にかかりません。お目にかかりましたところで、かえって気難しさを御覧に入れるようなものですから。」
 少年は熱心に自分の渇仰を訴えた。その純真さは相手を動かさないではおかなかった。
「じゃ、暫く待ってて下さい。私訊いてみますから。」
 娘さんは奥へ入った。Alcott 女史も後について往った。暫くすると、女史はそっと帰って来た。見ると、眼は涙に濡れていた。
「お上り。」
 女史の言葉は短かかった。少年はその後について、室を二つ通りぬけた。三つ目の室の入口に、先刻の娘さんが立っていたが、眼は同じように潤んでいた。
「お父さま――」彼女は一言いった。見ると、机によりかかって Emerson がいた。娘の言葉に、彼は驚くばかり落着き払った態度で、やおら立上ってその手を伸した。そして少年の手を受取ると、俯(うつ)むき加減につくづくとこの珍らしい来客に見入った。それは悲しい柔和な眼つきだったが、好意といっては少しも感じられなかった。
 彼は少年を机に近い椅子に坐らせた。そして自分は腰を下そうともしないで、窓際近く歩いて往って、そこに衝立ったまま口笛を吹いていた。少年は腑に落ちなさそうに、老文豪のこうした素振に見とれていたが、ふと微かな啜泣(すすりな)きの声を聞きつけて、あたりを見廻すと、それは娘さんのせいだとわかった。娘さんはそっと室から滑り出た。少年は救いを求めるように Alcott 女史の方を見た。女史は脣に指を押しあてて、じっとこちらを見つめていた。黙っていよという合図なのだ。少年はすっかり弱らされた。
 暫くすると、老文豪は静かに窓際を離れた。そして前を通るとき、ちょっと少年に会釈をして自分の椅子に腰を下した。二つの悲しそうな眼は、おのずと前にいる少年の顔に注がれた。さきがたからつき穂がなくて困りきっていたこの小さな客人は、もう黙っていられなくなったように思った。
 少年はここの主人の親友 Carlyle のことを語り出した。そしてこの人の手紙があったら、一通いただけないかと言った。
 Carlyle の名を聞くと、主人は不思議そうに眼をあげた。そしてゆっくりした調子で、
「Carlyle かね。そう、あの男は今朝ここにいましたよ。あすの朝もまたやって来るでしょう。」
と、まるで子供のように他愛もなく言っていたが、急に言葉を改めて、
「何でしたかね、君の御用というのは――」
 少年は自分の願いを繰返した。
「そうか。それじゃ捜してあげよう。」主人は打って変って快活になった。「この机の抽斗(ひきだし)には、あの男の手紙がどっさりあるはずだから。」
 それを聞くと、Alcott 女史の潤んだ眼は喜びに輝いた。口もとには抑えきれぬ微笑の影さえ漂った。
 室の容子ががらりと変って来た。老文豪は手紙と書類とが一杯詰っている机の抽斗をあけて、中を捜し出した。そしてときどき眼を上げて少年の顔を見たが、その眼はやさしい情味に溢れていた。少年がわざわざそのために紐育(ニューヨーク)から出かけて来たことを話すと、「そうか。」と言って、明るく笑っていた。
 老文豪は、少年が期待したような何物をも捜し出さないで、そろそろ机の抽斗を閉めにかかった。そしてまた低声で口笛を吹きながら、不思議そうにじろじろと二人の顔を見まわした。
 少年はこの上長くはもう居られまいと思った。のちのちの記念になるものが何か一つ欲しかった。彼はポケットから帳面を取出した。
「先生。これに一つお名前を書いていただけませんでしょうか。」
「名前。」
「ええ、どうぞ。」少年は言った。「先生のお名前の Ralph Waldo Emerson ってえのを。」
 その名前を聞いても、文豪は何とも感じないらしかった。
「書いて欲しいと思う名前を書きつけて御覧。すれば、私がそれを見て写すから。」
 少年は自分の耳を信ずることが出来なかった。だが、彼はペンを取上げて書いた。―― Ralph Waldo Emerson, Concord; November 22, 1881 ――と。
 老文豪は、それを見て悲しそうに言った。
「いや、有難う。」
 それから彼はペンを取上げて、一字ずつゆっくりとお手本通りに自分の名前を書き写した。そして所書きの辺まで来ると、仕事が余り難しいので、もじもじするらしく見えたが、それでもまた一字一字ぼつぼつと写し出した。所書きには、書き誤りが一つ消してあった。やっと書き写してしまうと、老文豪は疲れたようにペンを下において、帳面を持主に返した。
 少年はそれをポケットに蔵(しま)い込んだ。老文豪の眼が、机の上に取り残された先刻(さっき)少年が書いたお手本の紙片に落ると、急に晴やかな笑がその顔に浮んで来た。
「私の名前が書いて欲しいのだね。承知した。何か帳面でもお持ちかい。」
 びっくりさせられた少年は、機械的にも一度ポケットから帳面を取出した。文豪は手ばやく器用に紙をめくって、ペンを取上げたかと思うと、紙片を側におしのけたまま、一気にさっと註文通りの文句を書き上げてしまった。
 二人が礼を言って、暇乞いをしようとすると、主人の老文豪はにこにこしながら立ち上って、
「まだ早いじゃないか。こちらにいるうちに、も一度訪ねて来ないかね。」
と、愛想を言った。そして少年の手を取って握手したが、それは心からの温い力の籠ったものだった。
「往くときと、来たときと、こんなに気持の違うのは初めてだ。」
 少年は子供心にそう思った。


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   盗まれぬように

     1

 世のなかに茶人ほど器物を尚ぶものはあるまい。利休は茶の精神は佗と寂との二つにある。価の高い器物を愛するのは、その心が利慾を思うからだ。「欠けたる摺鉢にても、時の間に合ふを、茶道の本意。」だといった。本阿弥光悦は、器物の貴いものは、過って取毀したときに、誰でもが気持よく思わないものだ。それを思うと、器は粗末な方がいいようだといって、老年になって鷹ケ峰に閑居するときには、茶器の立派なものは、それぞれ知人に分けて、自分には粗末なもののみを持って往ったということだ。また徳川光圀は、数奇な道に遊ぶと、器物の慾が出るものだといって、折角好きな茶の湯をも、晩年になってふっつりと思いとまったということだ。こんな人達がいったことに寸分間違いはないとしても、器物はやはり立派な方がよかった。器がすぐれていると、それに接するものの心までが、おのずと潤いを帯びて、明るくなってくるものだ。

     2

 天明三年、松平不昧は稀代の茶入油屋肩衝(あぶらやかたつき)を自分の手に入れた。その当時の取沙汰では、この名器の価が一万両ということだったが、事実は天明の大饑饉の際だったので、一千五百両で取引が出来たのだそうだ。一国の国守ともある身分で、皆が饑饉で困っている場合に、茶入を需めるなどの風流沙汰は、実はどうかとも思われるが、不昧はもう夙くにそれを購ってしまったのだし、おまけに彼自らももう亡くなっているので、今更咎め立てしようにも仕方がない。――だが、これにつけても真実(ほんとう)だと思われるのは、骨董物は饑饉年に買いとり、娘は箪笥の安いときに嫁入させるということである。
 不昧はこの肩衝の茶入に、円悟の墨蹟をとりあわせて、家宝第一ということにした。そして参勤交代の折には、それを笈(おい)に収めて輿側(かごわき)を歩かせたものだ。その愛撫の大袈裟なのに驚いたある人が、試しに訊いたことがあった。
「そんなに御大切な品を、もしか将軍家が御所望になりました場合には……」
 不昧は即座に答えた。
「その代りには、領土一箇国を拝領いたしたいもので。」

 あるとき、某の老中がその茶入の一見を懇望したことがあった。不昧は承知して、早速その老中を江戸屋敷に招いた。座が定ると、不昧は自分の手で笈の蓋を開き、幾重にもなった革袋や箱包をほどいた。中から取出されたのは、胴に珠のような潤いをもった肩衝の茶入だった。不昧はそれを若狭盆に載せて、ずっと客の前に押し進めた。
 老中は手に取りあげて、ほれぼれと茶入に見入った。口の捻り、肩の張り、胴から裾へかけての円み、畳附のしずかさ。どこに一つの非の打ちどころもない、すばらしい出来だった。老中はそれをそっと盆の上に返しながら、いかにも感に堪えたようにいった。
「まったく天下一と拝見いたしました。」
 その言葉が終るか、終らないかするうちに、不昧は早口に、
「もはやおよろしいでしょうか。」
といいざま、ひったくるように若狭盆を手もとに引寄せた。まるで老中が力ずくで、その茶入を横取しはしないかと気づかうかのように。

     3

 The Ladies' Home Journal の記者として、三十年も働いていた Edward Bok が、まだ十五、六の少年の頃だった。名士訪問を志して、ボストンに牧師として名高い Phillips Brooks を訪ねたことがあった。牧師はその当時蔵書家として聞えた一人だった。
 訪問の前日、この牧師の友人である Wendell Phillips に会った。少年の口から明日の予定を聞いたこの雄弁家は、笑い笑い言ってきかせた。
「明日は Brooks を訪ねるんだって。あの男の書斎にはぎっしり本がつまっていて、それにはみんな記号と書入れとがしてあるんだよ。訪ねて往ったら、是非その本を見せてもらいなさい。そしてあの男がよそ見をしているときに、二冊ばかりポケットに失敬するがいい。何よりもいい記念になるからな。なに、どっさり持合せがあるんだ。発見(めっけ)られる心配なんかありゃしないよ。」

 少年は Brooks に会うと、すぐにこの話をした。牧師は声を立てて笑った。
「子供に与える大人の助言としては、随分思い切ったことをいったものだな。」
 Brooks はこの幼い珍客を、自分の書斎に案内することを忘れなかった。そこには世間の評判通りに、沢山の書物がぎっしり書棚に詰っていた。
「ここにある書物には、それぞれ書入がしてあって、中にはそのために頁が真黒になっているのもある。世間にはこの書入を嫌がる人もあるようだが、しかし、書物が俺に話しかけるのに、俺の方で返事をしないわけに往かんじゃないか。」
 こういって、牧師は書棚から一冊のバイブルを引出して見せた。それは使い古して、表紙などくたくたになっている本だった。
「俺のところにはバイブルは幾冊もあるよ。説教用、儀式用とそれぞれ別になっているが、この本は俺の自家用というわけさ。見なさい、こんなに書入がしてある。これはみんな使徒パウロと俺との議論だよ。随分はげしい議論だったが……さあ、どちらが勝ったか、それは俺にもわからない。」
 少年の眼が、どうかすると細々した書入よりも、夥しい書棚に牽きつけられようとするのを見てとった Brooks は、
「お前さんも、本が好きだと見えるな。何ならボストンへやって来たときには、いつでも家へ来て、勝手にそこらの本を取出して見てもかまわないよ。」
と、お愛想を言ったが、最後に笑いながらこう言ってつけ足すのを忘れなかったそうだ。
「俺はお前の正直なのを信じているよ。まさか Wendell Phillips の言ったようなことはしまいね。」


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   女流音楽家

 プリマ・ドンナの Tetrazzini 夫人が演奏旅行をして、アメリカの Buffalo 市に来たことがあった。夫人の支配人は、土地で聞えた Statler ホテルへやって来て、夫人のために三室続きの部屋を註文した。その当時、ホテルには二室続きの部屋は幾つかあったが、註文通りの部屋といっては、一つも持合せがなかった。だが、ホテルの主人は、この名高い女流音楽家をほかの宿屋にとられることが、どれだけ自分の店の估券にかかわるかをよく承知しているので、平気でそれを引受けた。
「承知仕りました。夫人はいつ頃当地にお着になりますお見込で……」
「今晩の五時には、間違いなく乗込んで来るはずです。」
 主人は時計を見た。ちょうど午前十時だった。
「よろしうございます。それまでにはちゃんとお部屋を用意いたして、皆様のお着をお待ちうけ申すでございましょう。」
 支配人の後姿が見えなくなると、ホテルの主人は大急ぎで出入の大工を二、三人呼びよせた。そして二室続きの部屋と第三の室とを仕切っている壁板をぶち抜いて、そこに入口の扉をつけた。削り立ての板には乾きの速い塗料を塗り、緑色の帷(カアテン)を引張って眼に立たぬようにした。汚れたり傷がついたりしていた床の上には、派手な絨氈を敷いて、やっと註文通りの三室続きの部屋が出来上った。それは約束の午後五時に五分前のことだった。
 それから暫くすると、支配人を先に、美しく着飾った Tetrazzini が入って来た。そしてホテルの主人から新しく出来上った部屋のいきさつを聞くと、満足そうにほほ笑んだ。
「まあ、そんなにまでして下すったの。ほんとうにお気の毒ですわ。」

 だが、Tetrazzini よ。そんなに己惚れるものではない。女という女は、どうかすると相手の男の胸に、第二第三の新しい部屋をこしらえさせるもので、男がその鍵を滅多に女に手渡ししないから、女がそれに気づかないまでのことだ。――唯それだけのことなのだ。


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   演説つかい

 バアナアド・ショウは、その脚本の一つで、英雄シイザアの禿頭を、若いクレオパトラの口でもって思う存分に冷かしたり、からかったりしている。どんな偉い英雄でも、クレオパトラのような美しい女に、折角隠していた頭の禿を見つけられて冷かされたのでは、少々参るに相違ない。
 アメリカの法律家で、長いこと下院の雄弁家として聞えた男に Thomas Reed というのがあった。この男があるとき、まだ馴染のない理髪床へ鬚を剃りに入って往ったことがあった。
 黒ん坊の鬚剃り職人は、髪の毛の薄くなった客の頭を見遁さなかった。そしてあわよくば発毛剤(けはえぐすり)の一罎を客に押しつけようとした。
「旦那。ここんところが少し薄いようだが、こんなになったのは、随分前からのことでがすか。」
「禿げとるというのかね。」法律家は石鹸の泡だらけの頤を動かした。「わしが産れ落ちた時には、やはりこんな頭だったよ。その後(ご)人が見てうらやましがるような、美しい髪の毛がふさふさと生えよったが、それもほんの暫くの間で、すぐにまた以前のように禿げかかって来たよ。」
 黒ん坊はそれを聞くと、鼻さきに皺をよせて笑っていたが、発毛剤のことはもうあきらめたらしく、黙りこくって剃刀を動かしていた。
 客が帰って往った後で、そこに待合せていた男の一人が、今までそこで顔を剃らせていた客は、議院きっての雄弁家だということを話した。すると、黒ん坊は厚い唇を尖らせて、喚くようにいった。
「雄弁家だって。そんなこと知らねえでどうするものか。わしら誰よりもよくあの旦那が演説遣いだってえことを知ってるだよ。」


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   名前

     1

 劇場監督として聞えた Charles Frohman が、あるとき友人の劇作家 J. M. Barrie と連れ立って、自分の関係しているある劇場の楽屋口から入ろうとしたことがあった。
 そこに立っていた門番の老人は、胡散そうな眼つきをして、先きに立った Frohman の胸を突いた。
「ここはあんた方の入る所じゃござりません。」
 それを聞いた劇場監督は、すなおに頷いて後へ引き返した。
 その場の様子を見た Barrie は、腑に落ちなさそうに訊いた。
「何だって君、あの爺さんに君の名前を打ち明けないんだね。」
「とんでもない。」劇場監督はびっくりしたように言った。「そんなことでもしてみたまえ。爺さん、おっ魂消(たまげ)て死ぬかも知れないぞ。あれは御覧の通りの善人で、唯もう仕事大事に勤めているんだからね。」

     2

 アメリカの俳優として聞えたJoe Jefferson が、あるときデトロイトの銀行で、持って来た小切手の支払を受けようとしたことがあった。
 出納係の若い男は、小切手から離した眼を、窓の外に立っている男に移して、じろじろとその顔に見入った。
「失礼ですが、あなたが Jefferson さん御当人だとおっしゃるのは。」
 俳優はそれを聞くと、ちょっと眼をぱちくりさせたが、急に舞台に立っている折のように声に抑揚(めりはり)をつけて、
“If my leedle dog Schneider was only here, he'd know me.”
と流れるように言った。
「いや、間違いはございません。」
 出納係は喜ばしそうに叫んだ。そして小切手はすぐに正金に換えられた。

     3

 明の詩画家許友は、ぶくぶくに肥った背低(せひく)で、身体中に毛といっては一本も生えていなかった男だが、人が訪ねて来ても、それに答礼するでもなく、そんな交際(つきあい)には一向無頓着であった。あるとき客が来て、詩だの画だのいろんな話をして帰って往ったが、その後で許友は家の者に、
「今のは何という男だったかな。」
と訊いたので、
「あなたの御存じない人が、私に判ろうはずはありません。」
というと、許友は禿げた頭に手をやりながら、
「俺には一向覚えがないでな。」
と呟くように言ったということだ。


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   返辞

     1

 新入学生が、初めて学校の校庭を踏むときには、地べたを護謨毬(ゴムまり)か何ぞのように感じるほど、神経質になるものだが、ある年の新学期にエエル大学に入って来た若い人たちのなかに、とりわけ神経質な学生が一人あった。
 部長 Jones は、その学生の家族たちと懇意にしていたので、学生が訪ねて来ると、愛想ぶりに連れ立って学校のなかを方々案内して見せた。
 その時ちょうど教会堂の鐘が鳴り出していた。さきがたからしきりと話の題目を捜していた若い学生は、やっときっかけを見つけたように言葉をかけた。
「あの鐘は、すてきによく鳴るじゃありませんか。」
 部長はずぼんの隠しに両手を突っ込んだまま、他の事でも考えているらしく、何一つ答えてくれなかった。新入生は胸に動悸を覚えた。
「あの鐘はよく鳴りますね。僕気に入っちゃった。」
 彼は半分がた自分に話すもののように言った。部長は何とも答えなかった。
「鐘の音が、たまらなくいいじゃありませんか。」
 新入生は泣き出しそうになって、やけに声を高めた。
「何かお話しでしたか。」部長はやっと気づいたように、今まで地べたに落していた考ぶかい視線を、若い道連れの方へさし向けた。「あの地獄の鐘めが、いやにうるさく我鳴り立てるもんだから、つい……」

     2

 名高い提琴家ミイシャ・エルマン氏が、初めて大阪に来て、中之島の中央公会堂で演奏を試みたときのことだった。ずかずかと楽屋へ訪ねて往ったある若い音楽批評家は、そこにおでこで小男の提琴家が立っているのを見ると、いきなりまずい英語で話しかけた。
「すばらしい成功ですね。ところで、どうです。この会場(ホオル)のお感じは。別に悪くはないでしょう。」
 熱心な聴衆を二千あまりも収容するこの立派な会場を持っていることは、若い批評家の土地(ところ)自慢の一つだった。彼はこの名誉ある音楽家から、それに折紙がつけてもらいたかったのだ。
 エルマン氏は、禿げ上った前額に滲み出る汗を無雑作に手帛で拭きとりながら、ぶっきらぼうに答えた。
「ここは音楽会をする場所じゃないね。大砲をうつところだよ。大砲をね……」


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   慈善家

 男というものは、郵便切手を一枚買うのにも、同じ事なら美しい女から買いたがるものなのだ。――故ウィルソンの女婿 Mcadoo 氏はよくこの事実を知っていた。
 あるとき Mcadoo 氏が、自分の関係しているある慈善事業のために、慈善市(バザア)を催したことがあった。氏はその売子のなかに、幾人かの美しい女優を交えておくのを忘れなかった。
 その日になって、氏が会場の入口を入ろうとすると、そこには紀念の花束を売りつけようとして、四、五人の若い女たちが客を待っていた。そのなかに一人ずばぬけて美しい女優が交っていたが、その女はかねて顔馴染な Mcadoo 氏を見ると、顔一杯に愛嬌笑いを見せながら、いち早く歩み寄って来た。そしてきゃしゃな指さきに露の滴るような花束をとり上げて、
「あなた、お一つどうぞ……」
と、押しつけようとした。
 Mcadoo 氏はあぶなくそれを受け取ろうとして、ふと第二の売子の足音を聞いてその方にふり向いた。それは顔立も、服装も、見るから地味な婦人だった。氏は急に考をかえて、その婦人から花束を一つ買い取った。
「あなた、なぜ私のを買って下さらないの。」
 女優はわざとぷりぷりした顔をしてみせた。以前にも増してそれは美しかった。地味な姿の売子が、新しい来客の方へと急ぎ足に往ったのを見てとった Mcadoo 氏は、低声で女優に言った。
「でも、あなたはあまりお美しいから。僕は今日はいっぱし慈善家になりおおせたいつもりだから、わざと地味な方のを選んで買いました。」
 この言葉は覿面(てきめん)だった。女優はそれを聞くと、胸に抱えた花束をそっくりそのまま買い取られでもしたように、顔中を明るくして満足そうに笑った。


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   間違い

 牧師 Phillips Brooks が、あるとき宗教雑誌から訊かれた問題について、ちょっとした返事を書き送ったことがあった。そのなかに、
“We pray too loud and work too little.”
という文句があったのを、植字工はそれを拾う場合に、うまい間違いをした。刷り上った雑誌に現われた文句は次のようになっていた。
“We bray too loud and work too little.”
 Bray は「驢馬のように啼く」という言葉だ。それを見た牧師は、心から微笑(ほほえ)まぬわけに往かなかった。そして感心したように人に話した。
「植字工のしたことは、全くほんとうですね。正誤など書き送る気は更にありませんよ。」


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   救済

 滑稽作家マアク・トウェンのところへ、ふだん懇意にしているある娘から、近頃身体の加減がよくないことを訴えて来たので、作家は保健用の電気帯でも買ってみたらどうかと知らせてやったことがあった。
 すると、暫く経ってから、その娘から手紙が来た。なかに次のような文句があった。
「お言葉に従いまして、私は電気帯を一つ求めました。ですが、一向に助かりそうとは思われません。」
 作家はすぐに返事を認めた。
「私は助かりました。会社の在庫品が一つ捌(は)けましたので。」


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   良人改造

 会社官衙(かんが)の昼間の勤めをすませて、夕方早く家に帰って来べきはずの良人が、途中でぐれて、外で夜更しをするということは、うちで待っているその妻にとっては堪えがたい苦痛に相違ない。
 そういうだらしのない男に連れ添った米国婦人の一人が、良人のそんな癖を治そうとして、いいことを思いついた。良人の穿き古した靴が破けかかって、別なのを新調しなければならないのを見てとった妻は、
「これまでのあなたの靴はあまり大き過ぎて、まるでお百姓さんのように不恰好でしたわ。こん度お誂えになるのは、も少し小ぶりになさいよ。きっと意気でいいから。」
といって、わざと文(サイズ)の小さいのを靴屋に註文させたものだ。
 このもくろみは確かに成功した。一日外で文(サイズ)の小さな靴を穿かされている良人は、足の窮屈なのにたまりかねて、勤めがすむが早いか、大急ぎで家に帰って来た。そして窮屈な靴をぬいで、スリッパに穿きかえるのを何よりも楽しみにした。
 こんな日が重なるにつれて、良人の悪い癖はいつのまにか治っていたそうだ。

 女の抜目のない利用法にかかったら、どんな男でも羅紗の小片(こぎれ)と同じように、ただ一つの材料に過ぎない。女はそれが手提袋を縫うのに寸が足りないと知ったら、代りに人形の着物を思いつこうというものだ。――滅多にあきらめはしない。


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   マッチの火

 これは露西亜の片田舎にある一軒屋で起きた事柄だ。――
 ある独身者の農夫が、寝しなに自分の義歯(いれば)をはずして、枕もとのコップの水に浸しておいた。すべて義眼や義歯をはめている人たちは、よくこうしたことをするものなのだ。
 その夜はひどく寒かった。朝起きてみると、戸外は大雪だった。農夫は義歯を取り上げようとして、初めてコップの水がなかに歯を抱(いだ)いたままで、堅く凍りついているのに気がついた。
 氷を溶すには、さしあたり火をおこすより仕方がなかった。彼は台所に下りてマッチを捜したが、間が悪いときには悪いもので、唯の一本もそこらに見つからなかった。
 ちょうど暁の五時で、農夫は義歯のない口では、朝飯を食べることもできなければ、また人と話をするわけにも往かなかった。
 彼は厩に入って馬を起した。そして町はずれに住んでいる友人を訪ねようとして、六哩(マイル)の間雪の道を走らせた。
 友人は入口に立ったその訪問客が、急に齢(とし)とって皺くちゃな、歯のない頤をもぐもぐさせながら、手ぶりで何か話そうとするのを見てびっくりした。やっとのことで彼はその訪問客がマッチ箱をもとめに来たことが解って、涙が出るほど大笑いをした。
 農夫は大事なマッチ箱を一つ貰い受けて、また大急ぎに馬を駆って帰って来た。そして氷を溶して、やっと義歯を口のなかに頬張ることができたそうだ。
 これを思うと、何をさしおいても、マッチの一箱は枕もとにおいておくべきものだ。マッチは義歯の凍ったのを溶すに役立つのみならず、寝起きに喫(の)みたくなる煙草にも火をつけることができる。しかし、それよりもいいのは、近くに眠っている人の寝顔を、それと知られないでこっそり見ることができることだ。人の寝顔を見ると、いろいろな意味で自分を賢くすることができるものだ。


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   左

「どちらでもいいから、片眼を閉じるか、または瞬きしてみせたまえ。」
 こう言うと、誰もが決ったように自分の弱い方の眼でそれをするが、男は一般に左の方を使う。耳も男は左が弱いので、耳が遠いとか何とかいう場合は、男なら大抵左に決っている。ところが女にはこんな傾向が見えない。女はどんな場合にでも健全だ。もしか女が片眼で笑ったら、それは彼女が自分の身近くで、何か不健全なものを見つけたからだと思って間違はない。


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   天下一の虚堂墨蹟

     1

 今日新聞紙を見ると、紀州徳川家では家什整理のため、四月上旬東京美術倶楽部で書画骨董の売立入札を催すはずで、出品数は三百点、大変の前景気だそうだ。呼物の主なものとして、虚堂墨蹟、馬麟寒山拾得、牧渓江天暮雪、大名物瓢箪茶入などが挙げてあった。
 虚堂墨蹟といえば、足利の初めから茶人仲間に大層珍重がられたもので、松平不昧なども秘蔵の唐物(からもの)茶入油屋肩衝(あぶらやかたつき)に円悟墨蹟を配したのに対して、古瀬戸茶入鎗(やり)の鞘(さや)には虚堂墨蹟を配し、参覲交代の節には二つの笈に入れ、それぞれ家来に負わせて、自分の輿側(かごわき)に随行させなければ承知しなかったものだそうだ。
 不昧の鑑識で、虚堂墨蹟に配せられた鎗の鞘の茶入は、もと京都の町人井筒屋事河井十左衛門の秘蔵で、その頃の伏見奉行小堀遠州は、京へ上るときには、いつもきまって井筒屋を訪ねて来て、
「京へ上って来る楽しみは、たった一つ鎗の鞘を見る事じゃ。」
と言って、この茶入を前に、いつまでもいつまでも見とれていたものだそうだ。そんなだったから、井筒屋の主人がこの茶入に対する愛し方はまた格別なもので、店にいるときは、いつでもこの茶入を箱に入れて側に置き、縋りつくようにしてその箱に手をかけていたということだ。後に家運が衰えて、止むなく三井八郎右衛門に譲渡さねばならなくなったが、せめて箱だけはと言って、そのまま残しておいたのを、とてももともと通りに家が栄えそうにもないので、いつまでも引き離しておくのも本意ないわけだと、その箱をも三井家に送って、久し振に茶入にめぐり合せたのは名高い話である。
 そんな名器に配するように考えられたところを見ても、虚堂墨蹟がむかしからどんなに重んじられたかが、よくわかろうというものだ。

     2

 紀州家の虚堂墨蹟は、同家の祖先大納言頼宣が、父家康から授ったもので、これについてはいろいろな逸話が伝えられているが、その中で最も興味多く考えられるものを、一つ二つここに思い出してみることにする。

 虚堂禅師の筆が、家康の手から紀伊大納言に下されたことを聞いた当時の老中方は、かねて噂にのみは聞いたことのある名品である。何とかして拝見させていただくわけには往くまいかと、口を揃えて頼宣に頼んだものだ。きさくな頼宣は気持よくそれを承諾して、日をきめて茶会を開くことにした。
 その日になって、赤坂喰違(くいちがい)の紀州家の邸では、数寄屋の床の飾りつけから道具万端ちゃんと用意が出来ているはずだった。
 出迎のものの口から、お客の老中方が揃って数寄屋に入ったことを聞いた頼宣は、挨拶に出かけようとして、居間を出て黒書院を通りかかった。ふと気がつくと、違棚の上に箱から取出したばかりの懸物が一つ置いてあった。頼宣はもしやと思って検めてみた。それは紛う方もない、虚堂の懸物だった。
 頼宣は胸に動悸を覚えた。道具奉行の鴨居善兵衛と茶道の千宗左とが呼び出された。頼宣はきっと二人の顔を見据えた。
「あれほど申しつけておいたのに、何故あって数寄屋にこれを掛けぬのじゃ。今日の茶事を何と心得おるか。」
 主人の手に虚堂の懸物を見た二人は、はっと恐縮して、亀の子のように頭をすくめるより外に仕方がなかった。
「恐れ入りました。全く手前どもの粗相から、お数寄屋には他のお軸を掛けましたような次第で……」
 愚しい粗忽者をいくら叱ったところで、さしあたっての間違をどうすることも出来ないのを知っている頼宣は、長くは二人を相手にしていなかった。彼は家来中での老巧者として知られた渡辺若狭守直綱を呼んで、何か小声で耳打をした。
 若狭守はいそいそと数寄屋に入って往った。そこには老中方が膝を押並べて、いずれも腑に落ちなさそうな顔をして、床の間の懸物に眼をやっていた。若狭守は主人に代って手短に挨拶をした。
「かねて御所望になりました虚堂禅師の墨蹟は、御案内の通り権現様お直々に賜わりました品ゆえに、床に懸けておいてお待ちするのは勿体なく存じますので、皆様のお入を待って、主人自ら懸けて御覧に入れたい所存にござります。しかし、それまでの間を素床(すどこ)のままに致しておくのもどうかと存じまして、代りのものを御覧に入れましたような次第で……」
 それを聞くと、客人達は言葉を揃えて感心した。
「御用意のほど、御尤に存じます。」
「しからば御免を蒙って……」若狭守はその機会をはずさなかった。そして声を高めて次の間に呼びかけた。「茶道。これに参って床の軸物をはずしなさい。」
 次の襖がさっと開いて、千宗左の姿が現われたかと思うと、床の懸物は手早く取りはずされて、千宗左はまた影のように消えてしまった。すると、入違いに左手に懸物を、右手に矢筈竹を持った主人頼宣が入って来た。皆はその態度の水のような静かさに、覚えず心を惹きつけられてしまった。
 懸物は流れるように床の間にかけられた。虚堂禅師の筆は、石のような重みをもって客人達の上に落ちかかって来た。皆はその重みに堪えられないように、思わず頭を下げた。

     3

 紀伊大納言頼宣は、茶道の稽古は古田織部正(おりべのかみ)や織田有楽斎を師匠として励んでいたから、利休七哲として有楽斎と肩を並べていた細川三斎から見れば、ちょっと後輩だった。
 虚堂禅師の懸物が、家康の手より頼宣に伝えられてから間もなくの事だった。
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