艸木虫魚
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著者名:薄田泣菫 

     1

 雨の晴れ間を野路へ出てみた。
 ずぶ濡れになった石のかげから、蟹が一つひょっこりと顔を出していた。
「いよう。蟹か。暫くぶりだったな。」
 私はそう思って微笑した。それが春になって初めて見る蟹だったことは、私がよく知っていた。
 暫く立ちとまって見ていると、蟹は石の下からのこのこと這い出して来た。そして爪立するような脚どりで水溜を渉り、髪を洗う女のように頭を水に突っ伏している雑草の背を踏んで、少し高めになっている芝土の上へあがって来た。
 ふと何かを見つけた蟹は、慌てて芝土に力足を踏みしめ、黒みがかった緑色の甲羅がそっくりかえるばかりに、二つの真赤な大鋏(おおばさみ)を頭の上に振りかざしている。
 怒りっぽい蟹は、一歩(ひとあし)巣から外へ踏み出したかと思うと、じきにもう自分の敵を見つけているのだ。
 彼は傍に立っている私を、好意のある自分の友達とも知らないで、その姿に早くも不安と焦燥とを感じ出し、持前の喧嘩好きな性分から急に赫となって、私に脅迫を試みているのだ。
 万力(まんりき)を思わせるような真赤な大鋏。それはどんな強い敵をも威しつけるのに充分な武器であった。
 そんな恐ろしい武器を揮って、敵を脅かすことに馴れた蟹は、持ち前の怒りっぽい、気短かな性分から、絶えず自分の周囲に敵を作り、絶えずそれがために焦立っているのではなかろうか。
 その気持は私にもよく分る。すべて人間の魂の物蔭には、蟹が一匹ずつかくれていて、それが皆赤い爪を持っているのだ。

 私がこんなことを思っていると、蟹は横柄な足どりで、横這いに草のなかに姿を隠してしまった。

     2

 海に棲むものに擁剣蟹(がざみ)がいる。物もあろうに太陽を敵として、その光明を怖れているこの蟹は、昼間は海底の砂にもぐって、夜にならなければその姿を現わそうとしない。
 擁剣蟹は、脚の附け際の肉がうまいので知られているが、獲られた日によってひどく肉の肥痩が異うことがある。それに気づいた私は、いつだったか出入の魚屋にその理由を訊いたことがあった。魚屋はその荷籠から刺(とげ)のある甲羅を被(き)たこの蟹をつまみ出しながら言った。
「奴さん。こんな姿はしていますが、大の明るみ嫌いでしてね。夜分しか外を出歩かない上に、満月の夜のあとさきは、海が明るいので昼だと思って、じっと砂にもぐっていて、餌一つとろうとしないそうですから、多分その故(せい)かも知れませんよ。」
 魚屋の言葉を真実だとすると、擁剣蟹は白熱した太陽の正視を怖れているのみならず、また青白い満月の流盻(ながしめ)をすらも嫌がっているのだ。
 こんな性分の擁剣蟹にとっては、一月でもいい、月のない夜が、せめて満月の出ない夜が、どんなにか望ましいことだろう。一月でもいい、満月の出ない夜が。そんなことが果して有り得るだろうか。――いや、それはあるにはあった。天文学者の言うところによると、紀元八百六十六年の二月には、月は一度も顔を見せなかった。
 月が顔を見せないことはなかったが、満月の夜は一度もなかった。こんなことは世界の開闢以来初めてで、その後も二百五十万年の間に、まず二度とはあるまいといわれているが、そんなことになったのは、前の一月中に満月の夜が二度もあり、続いて三月になってからもまた二度あったので、二月には一度も見られないことになったのだということだ。
 してみると、擁剣蟹がどんなに嫌がったところで、青白い顔をした満月は、月に一度はきっと海の上を見舞うにきまっているので、明るみを好まないこの蟹は、そんな夜になると、静かな波の響にも、青ざめた光の不気味さに怯えつつ、海底の土にでもこっそり潜っている外はなかった。
 やがて闇の夜が来ると、擁剣蟹は急に元気づいて活躍を始める。そして波底の暗がりにまぎれて、大勢の仲間を誘い合せ、海から海へとはてしもない大袈裟な旅を続けることがよくある。夜の海に網を下す漁師たちが、思いがけないあたりでこの蟹を引き揚げて、その遠出に驚くのも、こんな時のことだ。

     3

 潮の退いた干潟を歩いていると、底土の巣から這い出したままの潮招蟹(しおまねぎ)が、甲羅に泥をこびりつけて、忙しそうに食物をあさっているのがよくある。蟹は時々立ち停って、片っ方のずば抜けて大きな大鋏(おおばさみ)を、しかつめらしく上げ下しをしている。自分の身体の全体よりもずっと重そうな大きな脚だ。
 それを見ると、蟹は自分の周囲に、何かしら自分に好意をもたないもののあるのを感じて、それに対って威嚇と侮蔑とを試みているようだ。その相手が海賊のように毛むくじゃらな泥蟹であろうと、狡猾な水禽であろうと、または無干渉な大空そのものであろうと、そんなことは蟹にとってどちらでもいいのだ。

 蟹は唯反抗し、威嚇さえすれば、それで充分なのだ。


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   海老

     1

 潮干狩の季節が来た。
 潮干狩に往って、貝を拾い、魚を獲るのは、それぞれ異った興味があるものだ。海の中も不景気だと見えて、いつもしかめっ面をしている蟹をからかったり、盗人のように夜でなければ出歩かない擁剣蟹(がざみ)を砂の中から掘出したり、富豪(かねもち)のように巣に入口を二つ持っていて、その一つを足で踏まれると、きっと裏口から飛び出す蝦蛄(しゃこ)を押えたりするのもおもしろいものだが、それよりも私の好きなのは、車海老を手捕りにすることだ。
 遠浅な海では、引潮の場合にあまり遊びが過ぎて帰り遅れた魚や、海老などが、そこらの藻草や、砂の窪みにかいつくばって、姿を隠しているのがあるものだ。そんなのを何の気もつかずに踏むと、足の下から海老があわてて跳出すことがよくある。
 海老は弾き豆のように勢いよく飛出すが、あまり遠くへは行かないで、きっとまたそこらの砂の窪みに落ちつくものだ。水影に透してじっと見つめていると、海老は尻尾から先に、浅く砂や藻草にもぐって、やがて背全体をも隠してしまうが、鼻眼鏡のような柄のついた二つの眼だけは外に出して、それとなく自分を驚かせた闖入者を見まもっている。やがて闖入者に他意がないらしいのを見極めると、海老は安心したように、しずかにお洒落の鼻眼鏡の柄を畳んでしまう。
 海老はもう何も見えない。見えないから安心している。
 私たちはそこを狙って、よくこの海の騎士を生捕にしたものだ。
 海老を海の騎士だと呼ぶのに、何の不思議があろう。彼は強い魂をもっている。死ぬまで飛躍を止めようとしない。それにまた彼は兜をかぶっている。その兜は彼にとって少し重過ぎるほどいかめしい拵えだ。

     2

 海老が好きで、その頭を兜として立派に飾りたてたものに、蒔絵師の善吉があった。善吉は羽前の鶴岡に住んでいた人で、明治の初年頃までまだ生きながらえていた。
「俺の家に来て見ろ。金の兜をきた海老がいるぜ。」
 善吉は人を見ると、得意そうによくこんなことをいったものだ。
 それを聞いた人たちのなかには、物ずきにも善吉の家をたずねてゆくのがあった。
 家には、縁端に大きな水盤がおいてあった。なかを覗いてみると、なみなみと盛られた水の底に、青い藻草が漂っていて、そのなかを数知れぬ川海老が、楽しそうに泳ぎまわっていた。
 驚いたことには、海老はいずれも金の兜と金の鎧とを身につけて、きらきらと光っていた。
 皆は呆気にとられて、こんな綺麗な海老をどこで捕って来たかを善吉に聞いた。
 善吉は笑ってばかりいて、それには答えなかった。
 黄金の海老は、善吉が商売道具の絵具をもって、こまめに金蒔絵したものであった。
 善吉の妻は、海老のために、毎日餌をやることと、水盤の水を取りかえることとを夫にいいつかっていたが、内職仕事の織物の方にかまけていて、どうかするとそれを忘れがちだった。
 そんな折には、夫の機嫌はとりわけよくなかった。一度などそれが原因で、夫婦のなかに大喧嘩が持ち上ったこともあった。
 その翌日だったか、妻は夫の留守を見計らって、水盤の海老を家の前を流れる小川のなかにすっかりぶちまけてしまった。
 外から帰って来た善吉は、水盤が空になっているのを見て、留守中の出来事を察したらしかった。
 見ると、薄暗い土間に、半ば織りさした木綿機があった。妻は近所あるきでもしているらしく、そこらに姿を見せなかった。
 気味悪くにやりと笑って、善吉はすばしこく土間へ飛び下りた。そしてそこにあった鋏をもって、織さしの布をむざむざとつみ切ったかと思うと、それを一くるめにくるめて、前の小川にぽいと投げ捨ててしまったそうだ。

     3

 海老をまた好いた人に、蜆子和尚という老僧が唐代にあった。和尚は身のまわりに何一つ物らしい物を蓄えないで、夏も冬もたった一枚の衣でおっ通したほど、無慾枯淡な生涯を送ったものだった。腹が空くと、衣の裾をからげて水に入り、海老や、貝といったようなものを採って、うまそうに食っていた。僧かと思えば僧でもなく、俗かと見れば俗でもなさそうで、一向そんなことに無頓着で、出入自在、その日その日の生命に無理な軛(くびき)を負わせないで、あるがままに楽み、唯もう自然と遊戯しているつもりで暮していたらしかった。
 この老和尚を描いたものに、渡辺崋山の作品がある。それは禿頭の和尚が、幾らか屈み腰に、左手に持った網を肩にかたげたまま、右手の指の間にぴちぴち跳ねまわる海老を捉えている図で、脚下(あしもと)に芦の葉が少し描き添えてあるのみなのが、枯淡な老和尚の面目にふさわしかった。
「贅沢な老人だな。こんな採りたての、活(いき)のいい海老を食べるなんて。」
 私はその絵を見ているうちに、和尚の無一物の生活の豊かさが羨ましくなって、ついこんなことを思ったことがあった。


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   魚の憂鬱

 池のほとりに来た。蒼黒い水のおもてに、油のような春の光がきらきらと浮いている。ふと見ると、水底の藻の塊を押し分けて、大きな鯉がのっそりと出て来た。そして気が進まなさそうにそこらを見まわしているらしかったが、やがてまたのっそりと藻のなかに隠れてしまった。
 私はそれを見て、以前引きつけられた支那画の不思議な魚を思い出した。

 私は少年の頃、よく魚釣に出かけて往った。ある時、鮒を獲ろうとして、小舟に乗って、村はずれの池に浮んだことがあった。
 その日はどうしたわけか、釣れが悪かった。私はやけになって、すぐそこを游いでいる三寸ばかりの魚を目がけて鉤を下した。そして無理やりに餌を魚の鼻さきにこすりつけようとして、ふと物に驚いて、じっと水の深みを見おろした。
 今まで雲にかげっていた春の陽(ひ)は、急にぱっと明るくそこらに落ちかかって来た。ささ濁りに濁った水の中に、青い藻が長く浮いていて、その蔭から大きな鯉が、真っ黒な半身(はんみ)をのっそりと覗けているではないか。鋼鉄の兜でも被(かぶ)ったようなそのしかめっ面。人を恐れないその眼の光り。私は見ているうちに、何だか不気味になった。
「池のぬしかも知れない。」
 そう思うと、水草の蔭に、幾年と棲みながらえて、岸を外へ、広い天地に躍り出すこともできないで、絶えず身悶えして池を泳ぎまわり、絶えず限られた池を呪って来た老魚の生活の倦怠と憂鬱とが、私の小さな心を脅(おびや)かすように感じられて来たので、私は魚を獲ることなどはすっかり思いとまって、そこそこに舟を岸に漕ぎ戻したことがあった。
 河魚といえば、いずれも新鮮な生命にぴちぴちしていて、その姿をしなやかな、美しいものとのみ思って、友達のような親みをもって遊び馴れて来た私に、この古池の鯉は、彼等の持つ冷たい不気味さと憂鬱との半面を見せてくれるに十分であった。

 私はその後、どうしたわけか、魚の画が好きになって、出来る限りいろんな画家のものを貪り見たことがあった。画院の待詔で、游魚の図の名手として聞え、世間から范獺子と呼ばれた范安仁をはじめ、応挙、蘆雪、崋山などの名高い作物をも見たが、その多くは軽快な魚の動作姿態と、凝滞のない水の生活の自由さとを描いたもので、あの古池の鯉が見せてくれたような、淡水に棲む老魚の持つ倦怠と、憂鬱と、暗い不気味さとは、どの作品でも味うことができなかったのを、幾らか物足らず思ったものだ。たった一度、呉霊壁のあまりすぐれた出来とも思われない作品に、あり来りのそれとはちがって、鯉を水の怪生か何かのように醜く描いてあるのを見て、おもしろいと思ったことがあった。作者はどんな人かよく知らないが、多くの画家が生命の溌溂さをのみ見ているこの魚族を取り扱うのに、彼みずからの見方に従って、グロテスクの味をたっぷりと出したのが気に入って、いまだに忘れられないでいる。


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   苺

 苺の花がこぼれたように咲いている。
 白い小さな花で、おまけに地べたにこびりついて咲くので、どうかすると脚に踏まれそうだ。
 女にも娘のうちは、内気で、きゃしゃで、一向目にも立たなかったのが、人の妻となって、子供でも産むと、急にはしゃいで、おしゃべりな肥大婦(ふとっちょ)になり、どうかすると亭主の頭に手をやりかねないようになるのがあるものだ。苺もそれで、花のうちはあんなにつつましいが、一度実を結ぶと、だんだん肥えて赤ら顔になり、よそ事ながら気恥かしくなるほど尻も大きく張って来るものだ。
 その苺もやがて紅く熟して来る。

 むかし、江蘇の汪□が清朝に二度勤めをして、翰林編修になっていた頃のことだった。あるとき客と一緒に葡萄を食べたことがあった。葡萄は北京の近くで採れたもので、大層うまかった。北の方で生れた客は、ところ自慢から□にむかって、
「うまいですな。お故郷(くに)の江蘇にも、何かこんな果物のいいのがおありでしょうか。」
と訊いたものだ。すると、汪□は、
「私の故郷にですか。故郷には、夏になると楊梅が、秋になると柑子が熟しますよ。こんなことを話してるだけでも、口に唾(つばき)が溜ろうという始末で……もしか自分でそれをちぎった日には……」
といって、夢でも見ているような眼つきをしていたそうだが、それから暫くすると、急に病気だといって、役を罷めて故郷に帰ったということだ。

 それを思うと、上方(かみがた)地方に住んで、朝夕を採り立ての苺を食べ馴れている人達は、滅多に土地を離れて、天国にも旅立ちが出来ないわけだ。なぜというのに、天国にはそのむかしエバが盗んだ林檎の樹が立っている。もしかその実を見て、汪□のように、故郷へ帰りたくなっては大変だから……


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   草の汁

 この頃野へ出てみると、いろんな草が芽を出し、葉を出している。長い間つめたい土にもぐっていたものが、久しぶりに明るい暖かな世界へ飛び出して来たので、神経の先々まで喜びに顫えているようだ。太陽が酔っ払いであろうが、無頼漢(ならずもの)であろうが、そんなことには頓着なく、草はみな両手を差し上げている。
 春の朝、生れたばかりのこの雑草が、露に濡れているのを見ていると、どの葉も、どの若芽もが、皆生(なま)のままで食べられそうに思われるものだ。物好きの人達のなかには、そんなことから思いついたものか、春の遊びの一つとして、よく草の葉を食べあるく催しをしたものがあった。
 それにはまず、味噌を盛った小皿を用意しなければならない。それが出来ると、彼等は列をつくって野道に出かける。そして先達がこれと思う草を摘み、それに味噌をつけて食べると、後について往く人達は、順々にそれに倣って同じことをする。どんなことがあっても、それを嫌がってはならない約束なのだ。春の雑草でも食べようという人達は、牛のように無頓着で、牛のように従順でなければならないことは、彼等自身よく知っているはずだった。
 一、二度違った草を噛むと、次の人が代って先達になることになっているが、こうして幾度か繰返しているうちには、それと知らないで、毒草を口にすることも少くない。そんな場合には、皆の唇は紫色に腫れあがり、胸先がちくちく痛むようなことがないでもなかったが、仮にも仲間を組んで、悪食(あくじき)の一つもしようという輩は、そんなことには一向驚かなかった。
 こんな遊びをした仲間で、私の知っている人が一人あるが、その人はいっていた。
「遊びとしてはちょっと変なものですが、そんなことをやったおかげで、大分物知りになりました。私はその後大抵の草は一目見て、それが食べられるか、どうかということが分るようになりました。」


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   木の芽

     1

 勝手口にある山椒の若芽が、この頃の暖気で、めっきり寸を伸ばした。枝に手をかけて軽くゆすぶって見ると、この木特有の強い匂が、ぷんぷんとあたりに散らばった。
 何という塩っぱい、鼻を刺すような匂だろう。春になると、そこらの草や木が、われがちに太陽の光を飽飲して、町娘のように派手で、贅沢な色で、花のおめかしをし合っているなかに、自分のみは、黄色な紙の切屑のようにじみな、細々(こまごま)した花で辛抱しなければならず、それがためには、大気の明るい植込みのなかに出ることも出来ないで、うすら寒い勝手口に立っていなければならない山椒の樹は、何をおいても葉で自らを償い、自らを現すより外には仕方がなかった。そして葉は思いきり匂を撒き散らしているのだ。
 Smithsonian Institution の McIndoo 博士は、嗅覚の鋭敏なので名高い人だが、いつだったか、五、六ケ月の実験の後、同じ巣に棲っている女王蜂と、雄蜂と、働蜂とをそれぞれ嗅ぎ分けることが出来た。博士はまた数多くの蜂蜜を集めて、その匂の差異を少しも間違わないで、嗅ぎ知ることが出来た。こうした実験の成功から博士は確信をもって、同じ巣に棲んでいる蜂という蜂は、それぞれちがった体臭をもっているので、彼等は暗い巣のなかで、やや離れていても、お互によく相手を嗅ぎ知ることが出来るのだといっている。
 何の別ちもなく見えるこんなものの匂にも、味いわけようとすれば、味いわけ得られるだけの微かな相違はあるのだ。自然がかくばかり細かな用意をもって、倹約(しまつ)して物を使っているのに、この木の芽の塩っぱい匂は、あまりに濫費(むだづかい)に過ぎ、あまりに一人よがりに過ぎはしないだろうか。――とはいうものの、自然に恵まれないものは、しょうことなしに溜息でもつくの外はなかった。こうして洩らされた葉の溜息は、その静かな情熱を包んで、麝香猫のようにぷんぷんあたりを匂わせているのだ。

     2

 春さきに勝手口の空地に顔を出しているものに、山椒と蕗の薹とがある。蕗の薹は辛辣な皮肉家だけに、絶えず苦笑をしている。巧みな皮肉も、度を過ごすと少しあくどくなるように、蕗の薹の苦い風味を好む人も、もし分量が過ぎると、口をゆがめ、顔を顰めないわけにはゆかなくなる。皮肉家は多くの場合に自我主義者(エゴイスト)で、どうかすると自分の持味で他の味をかき乱そうとするからだ。それに較べると、山椒の匂は刺激はあるが、苦味がないだけに、外のものとの折れ合も悪くはない。
 筍といういたずらものがある。春になると、土鼠のように、土のなかから産毛(うぶげ)だらけの頭を持出して来る奴だが、このいたずらもののなかには、えぐい味のがあって、そんなのはどうかすると、食べた人に世の中を味気なく思わせるものだ。また小芋という頭の円い小坊主がいる。この小坊主にもえぐいのがあって、これはまた食べた人を怒りっぽくするものだが、こんな場合に木の芽がつまに添えてあると、私たちはそれを噛んで、こうした小さな悪党達の悪戯(いたずら)から、やっと逃げ出すことが出来る。

     3

 イギリスのある詩人がいった。――
「万人の鼻に嗅ぎつけられる匂が二つある。一つは燃える炭火の匂。今一つは溶ける脂肪の匂。前のは料理を仕過ぎた匂で、後のは料理を仕足りない匂だ。」
と。私は今一つ、木の芽や、またそれと同じような働きをするものをこれに附け加えて、料理の風味を添える匂としたいと思う。


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   物の味

     1

「どんな芸事でも、食物の味のわからない人達に、その呼吸がわかろうはずがありませんよ。庖丁加減にちっとも気のつかない奴が、物の上手になったためしはないのですからな。」
 四条派の始祖松村呉春は、人を見るとよくこんなことをいったものだ。
 呉春は、『胆大小心録』の著者上田秋成から、「食いものは、さまざまと物好みが上手じゃった。」といわれたほどあって、味覚がすぐれて鋭敏な人で、料理の詮議はなかなかやかましかった。
 呉春は若い頃から、暮し向がひどく不自由なのにもかかわらず、五、六人の俳人仲間と一緒に、一菜会という会をこしらえて、毎月二度ずつ集まっていた。そしてその会では、俳諧や、絵画の研究の外に、いろいろ変った料理を味って、この方面の知識を蓄えることも忘れなかった。

     2

 呉春は困った時には、島原の遊女が昵懇客(なじみきゃく)へおくる艶書の代筆までしたことがあった。そんな苦しい経験を数知れず持っている彼も、画名があがってからの貧乏は、どうにも辛抱が出来なかった。
 師の蕪村の門を出てから後も、呉春の画は一向に売れなかった。彼は自分の前に一点のかすかな光明をも見せてくれない運命を呪った。そしてとうとうわれとわれが存在を否定しようとした。生きようにも生きるすべのないものは、死ぬより仕方がなかった。
 物を味うことの好きな呉春に、たった一つ、死ぬる前に味っておかねばならぬものが残されていた。
 彼は一度でいいから、心ゆくまでそれを味ってみたいと思いながら、今日まで遂にそれを果すことが出来なかったのだ。
 それはこの世に二つとない美味いものだった。しかし、それを食べたものは、やがて死ななければならなかった。彼はその死が怖ろしさに、今日までそれを味うことを躊躇していた。
 それを味うことが、やがて死であるとすれば、いま死のうとする彼にとって、そんな都合のよい食物はなかった。
 その食物というのは、外でもない。河豚(ふぐ)であった。

 呉春は死のうと思いきめたその日の夕方、めぼしいものを売った金で、酒と河豚とを買って来た。
「河豚よ。今お前を味うのは、やがてまた死を味うわけなのだ。お前たち二つのものにここで一緒に会えるのは、おれにとっても都合が悪くはない。」
 呉春は透きとおるような魚の肉を見て、こんなことを考えていた。そしてしたたか酒を煽飲(あお)りながら、一箸ごとに噛みしめるようにしてそれを味った。
 河豚は美味かった。多くの物の味を知りつくしていた呉春にも、こんな美味いものは初めてだった。彼は自分の最期に、この上もない物を味うことが出来るのを、いやそれよりも、そういう物を楽しんで味うことによって、安々と死をもたらすことが出来るのを心より喜んだ。
 暫くすると、彼の感覚は倦怠を覚え出した。薄明りが眼の前にちらつくように思った。麻痺が来かかったのだ。
「河豚よ。お前は美味かった。すてきに美味かった。――死もきっとそうに違いなかろう……」
 呉春はだるい心の底で夢のようにそんなことを思った……。
 柔かい闇と、物の匂のような眠とが、そっと落ちかかって来た。彼はその後のことは覚えなかった。

     3

 翌朝、日が高く昇ってから、呉春は酒の酔と毒魚の麻痺とから、やっと醒めかかることが出来た。
 彼は亡者のような恐怖に充ちた眼をしてそこらを見まわした。やがて顔は空洞(うつろ)のようになった。彼が取り散らした室の様子を見て、昨夜からの始末をやっと思い浮べることが出来たのは、それから大分時が経ってからのことだった。
 まだ痛みのどこかに残っている頭をかかえたまま、彼はぼんやりと考え込んでいたが、暫くすると、重そうに顔をもち上げた。そして
「死んだものが生きかえったのだ。よし、おれは働こう。何事にも屈託などしないぞ。」
と呻くように叫んだ。彼は幾年かぶりに自分が失くした声を取り返したように思った。
 その途端彼は自分を殺して、また活かしてくれた河豚を思って、その味いだけは永久に忘れまいと思った。


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   食味通

     1

 物事に感じの深い芸術家のなかには、味覚も人一倍すぐれていて、とかく料理加減に口やかましい人があるものだ。蕪村門下の寧馨児(ねいけいじ)として聞えた松村月渓もその一人で、平素よく、物の風味のわからない人達に、芸事の細かい呼吸が解せられようはずがないといいいいしていて、弟子をとる場合には、画よりも食物のことを先に訊いたものだそうだ。
 だが、物の風味を細かく味いわけなければならない食味などいうものは、得てして実際よりも口さきの通がりの方が多いもので、見え坊な芸術家のなかには、どうかするとそんなものを見受けないこともない。ロシアの文豪プウシキンなども、自分が多くの文人と同じように詩のことしかわからないと言われるのが厭さに、他人と話をするおりには、自分の専門のことなぞは噫(おくび)にも出さないで、馬だの骨牌だのと一緒に、よく料理の事をいっぱし通のような口振で話したものだ。だが、ほんとうの事を言うと、プウシキンはアラビヤ馬とはどんな馬なのか、一向に見わけがつかず、骨牌の切札とは、どんなものをいうのか、知りもしなかった。一番ひどいのは料理の事で、仏蘭西式の本場の板前よりも、馬鈴薯を油で揚げたのが好物で、いつもそればかりを旨そうにぱくついていたという事だ。

     2

 そんな通がりの多い中に、日根対山は食味通として、立派な味覚を持っている一人だった。対山は岡田半江の高弟で、南宗画家として明治の初年まで存(ながら)えていた人だった。
 対山はひどい酒好きだったが、いつも名高い剣菱ばかりを飲んでいて、この外にはどんな酒にも唇を濡そうとしなかった。何かの会合で出かける場合には、いつも自用の酒を瓢に詰めて、片時もそれを側より離さなかった。
 ある時、土佐の藩主山内容堂から席画を所望せられて、藩邸へ上った事があった。画がすむと、別室で饗応があった。
 席画の出来栄(できばえ)にすっかり上機嫌になった容堂は、
「対山は酒の吟味がいこう厳しいと聞いたが、これは乃公の飲料(のみしろ)じゃ。一つ試みてくれ。」
 といって、被布姿で前にかしこまっている画家に盃を勧めた。
 対山は口もとに微笑を浮べたばかしで、盃を取り上げようともしなかった。
「殿に御愛用がおありになりますように、手前にも用い馴れたものがござりますので、その外のものは……」
「ほう、飲まぬと申すか。さてさて量見の狭い酒客じゃて。」容堂の言葉には、客の高慢な言い草を癪にさえるというよりも、それをおもしろがるような気味が見えた。「そう聞いてみると尚更のことじゃ。一献掬まさずにはおかぬぞ。」
 対山は無理強いに大きな盃を手に取らせられた。彼は嘗めるようにちょっと唇を浸して、酒を吟味するらしかったが、そのまま一息にぐっと大盃を飲み干してしまった。
「確かに剣菱といただきました。殿のお好みが、手前と同じように剣菱であろうとは全く思いがけないことで……」
 彼は酒の見極めがつくと、初めて安心したように盃の数を重ね出した。

     3

 あるとき、朝早く対山を訪ねて来た人があった。その人は道の通りがかりにふとこの南宗画家の家を見つけたので、平素の不沙汰を詫びかたがた、ちょっと顔を出したに過ぎなかった。
 対山は自分の居間で、小型の薬味箪笥のようなものにもたれて、頬杖をついたままつくねんとしていたが、客の顔を見ると、
「久しぶりだな。よく来てくれた。」
と言って、心から喜んで迎えた。そしていつもの剣菱をギヤマンの徳利に入れて、自分で燗をしだした。その徳利はオランダからの渡り物だといって、対山が自慢の道具の一つだった。
 酒が暖まると、対山は薬味箪笥の抽斗(ひきだし)から、珍らしい肴を一つびとつ取り出して卓子に並べたてた。そのなかには江戸の浅草海苔もあった。越前の雲丹もあった。播州路の川で獲(と)れた鮎のうるかもあった。対山はまた一つの抽斗から曲物(まげもの)を取り出し、中味をちょっぴり小皿に分けて客に勧めた。
「これは八瀬の蕗の薹で、わしが自分で煮つけたものだ。」
 客はそれを嘗めてみた。苦いうちに何とも言われない好い匂があるように思った。対山はちびりちびり盃の数を重ねながら、いろんな食べ物の講釈をして聞かせた。それを聞いていると、この人は持ち前の細かい味覚で嚼みわけたいろんな肴の味を、も一度自分の想像のなかで味い返しているのではあるまいかと思われた。そして酒を飲むのも、こんな楽みを喚び起すためではあるまいかと思われた。
 客はそんな話に一向興味を持たなかったので、そろそろ暇を告げようとすると、対山は慌ててそれを引きとめた。
「まあよい。まあよい。今日は久しぶりのことだから、これから画を描いて進ぜる。おい、誰か紙を持って来い。」
 彼は声を立てて次の間に向って呼かけた。
 画と聞いては、客も帰るわけには往かなかった。暫くまた尻を落着けて話の相手をしていると、対山は酒を勧め、肴を勧めるばかりで、一向絵筆をとろうとしなかった。客は待ちかねてそれとなく催促をしてみた。
「お酒も何ですが、どうか画の方を……。」
「画の方……何か、それは。」
 酒に酔った対山は、画のことなどはもうすっかり忘れているらしかった。
「さっき先生が私に描いてやるとおっしゃいました……。」
 客が不足そうに言うと、やっと先刻の出鱈目を思い出した対山は、
「うん。そのことか。それならすぐにも描いて進ぜるから、今一つ重ねなさい。」
と、またしても盃を取らせようとするのだ。
 こんなことを繰り返しているうちに、到頭夜になった。そこらが暗くなったので、行灯が持ち出された。
 へべれけに酔っ払った対山は、黄ろい灯影(ほかげ)にじっと眼をやっていたが、
「さっき画を進ぜるといったが、画よりももっといいものを進ぜよう。」
 独語のように言って、よろよろと立ち上ったかと思うと、床の間から一振の刀を提げて来た。そしていきなり鞘をはずして、
「やっ。」
という掛声とともに、盲滅法に客の頭の上でそれを揮りまわした。
 客はびくりして、取るものも取りあえず座から転び出した。

 戸外の冷っこい大気のなかで、客はやっと沈着を取り返すことが出来た。そして朝からのいきさつを頭のなかで繰り返して思った。
「あの先生の酒は、物の味を肴にするのじゃなくて、感興を肴にするのだ。私というものも、つまりは八瀬の蕗の薹と同じように、先生にとって一つの肴に過ぎなかったのだ――たしかにそうだ。」


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   徳富健次郎氏

     1

 徳富健次郎氏が歿くなった。重病のことだったし、どうかとも思う疑いはあったが、いつも看護の人達にむかって、
「生きたい。まだ死にたくない。」
と、力強い声で叫んでいたということを聞き、因縁の深い、好きな伊香保へ往って、湯に浸りながら療養を尽しているということを聞くにつけて、この分ならば遠からずきっと快くなるだろうと思っていたのに、とうとう歿くなってしまったのは、残念の限りである。
 徳富氏と私との交遊については、二、三年前刊行した私の『泣菫文集』に書いたことがあるから、ここにはなるべくそれに洩れた事柄を断片的に記して、この老文人がありし日の面影をしのびたいと思う。尤も話の都合上、前後聯絡のあるものは、記述が文集のそれと多少重複するかも知れないが、その辺は止むを得ないこととして、どうか大目に見てもらいたい。
 私が初めて徳富氏に会ったのは、明治三十四、五年の頃で、その頃氏が住っていた東京の郊外渋谷の家でだった。三宅克己氏の水彩画がたった一枚壁にかかった座敷で、二月の余も鋏を入れないらしい、硬い髪の毛がうるさく襟筋に垂れかかるのを気にしながら、氏はぽつりぽつりと言葉少に話しつづけた。言葉つきも、態度も、極めて謙遜だったが、談話のところどころに鋭い皮肉が刃物のように光るのもおもしろかった。しかし、それよりもなおおもしろかったのは、百姓のそれを思わせるような大きな右手の人差指で、話をしいしい、気忙しく畳の上に書きものをする癖で、それとなく気をつけて見ていると、その書きものは、いろはとなり、ロオマ字となり、漢字となり、時には大入道の頭になったりした。
 ちょうどその頃『不如帰』が出版せられて、大層評判が立っていたので、話はおのずとその方へ向いていった。
「こないだも喜多村緑郎君がやって来て、あれを芝居に仕組みたいからと相談を受けましたが、あれが芝居になるかしら、なると思うなら、あなたの方でいいように仕組んで下さいと返事すると、そんなら私の方で芝居にするから、舞台にかけたら是非一度見に来てくれというのです。自分の恥を大勢の中へわざわざ見に往くものがありますかというと、喜多村君変な顔をして帰って往きましたっけ。」
 徳富氏は両手を胸の上に組んで、とってつけたように笑った。しばらくすると、氏はだしぬけに
「島崎藤村君が、こないだ国木田独歩君などと一緒に訪ねて来てくれて、久しぶりに大層話がはずみましたよ。」
といって、こんなことをいい足した。
「ところが、その後島崎君がある雑誌記者に向って、
「徳富君もこの頃では、玄関をこしらえるようになりましたね。」
と話していたそうです。私は玄関など設けたことはありません。私にはそんな必要がありませんから。」
 言葉の調子に、どこか不平らしいところがあった。私はどういって返事をしていいかわからなかった。

     2

 徳富氏の『黒潮(こくちょう)』第一巻が公にせられたのは明治三十六年だった。この小説は作そのものよりも、兄蘇峰氏に投げつけた絶交書のような序文の方で名高かった。
 その年の夏、徳富氏は大阪へ遊びに来て、私を訪ねてくれたことがあった。ちょうど博覧会が天王寺に催されていた頃で、その賑いをあてこみに、難波で東京大阪の合併相撲があって、かなり人気を引立てていた。
 徳富氏も私も相撲は好きだった。尤もあの前後に生れ合わせていて、それで相撲を好かなかったという人があったら、そんな人は人生のどんな事柄に対しても、興味が持てなかったに相違なかった。それほどまでにあの頃の相撲は溌溂としていた。伸びゆく生命そのものを見るような感じがあった。
 二人の話はおのずと好きな方へ向いて往った。徳富氏は黒い大きな塵よけ眼鏡の奥から、眼を光らせながらいった。
「昨日一日合併相撲を見ましたが、大阪方の若島は強いですね。手もなく荒岩を投げつけましたよ。荒岩の一生にあのくらい手綺麗に投げられたことは、二度とないかも知れません。ことによると、常陸山なぞもやられないにも限らない……。」
「若島はいい力士ですが、常陸山に勝とうなどとは思われない。」
 私は客の言葉に承引が出来なかった。
「いや、勝つかも知れない。」
「分でゆくと、まず七三かな。」
「いや、そんなことはない。五分五分だ。」
「まさか……。」
 二人は暫くそんなことをいい争っていたが、ちょうどそこへ外の来客があったので、話はそれなりになってしまった。
 その場所での両力士は預りで、誰が見ても八百長の臭みが高かったということだった。
 すると、その翌月だったか、合併相撲の顔触をそのまま京都へ持ち込んで、花見小路で興行したことがあった。その楽(らく)の日に若島は常陸山につり出されて負けたが、若島としてはなかなか分のいい相撲をとったので、ひいき客のある人が祇園下の料理屋へこの力士を招いて、言葉を極めてその日の相撲ぶりを賞めたてたものだ。若島は気恥かしそうに頭へ手をやった。
「いや。そうお賞め下さるがものはありません。今度こそ初めて常陸関のずばぬけて強いのに驚きました。実は私五日も前からあの人が、今日の相撲につりに来るということを聞いて知っていましたのです。」
「ほう、誰の口から。」
「常陸関自身の口から。あの人は決して嘘を言いません。つると言ったが最後、外の手が出せる場合でもそれをしないで、つりぬくという気象ですから、私は安心してそれを防ぐ工夫ばかしをこらしました。顔が合って四つに組むと、常陸関はすぐにつりに来ました。私はかねての工夫通り外掛で防ぎました。二度目にまたつりに来ました。今度もどうやら持ちこたえました。すると、三度目のあのつりです。とうとう牛蒡(ごぼう)抜きにやられてしまいました。いやはや、強いのなんのといって、とてもお話になりません。」
 私はその話を座敷に居合せた友人から聞いたので、早速それを認めて徳富氏に手紙を出した。氏からは何の返事もなかった。

     3

 徳富氏が最初の聖地巡礼に出かけるときのことだった。私と懇意なK書店の主人は、見送のためわざわざ神戸から門司まで同船することにした。
 船が門司近くの海に来ると、書店の主人は今まで興じていた世間話を急に切上げにかかった。
「先生。私に一つのお願があるんですが……。」
「願い。――」徳富氏は急に更まった相手の容子に眼を光らせた。
「実は今度の御紀行の出版は、是非私どもの方に……。」
 その言葉を押えつけるように、徳富氏は大きな掌面(てのひら)を相手の鼻さきでふった。
「待って下さい、その話は。私暫く考えて返事しますから。」
 徳富氏はこういい捨てておいて、大跨に船室の方へあるいて行った。
 ものの一時間も経つと、徳富氏はのっそりとK氏の待っている室へ入って来た。
「Kさん。あなたさっき門司からの帰りには、薄田君を訪ねるといってましたね。」
「ええ、訪ねます。何か御用でもおありでしたら……。」
「じゃ、御面倒ですが、これをお渡し下さい。」徳富氏はふところから手紙を一通取出した。「それから、あなたには……。」
 K氏は何かを待設けるもののように胸を躍らせた。
「あなたにはいいものを上げます。私の原稿よりかもずっといい……。」
「何でしょう。原稿よりかもいいものというと……。」
 K氏は顔一ぱいに微笑をたたえた。それを見下すように前に立ちはだかった徳富氏は、宣教師のようにもの静かな、どこかに力のこもった声でいった。
「神をお信じなさい。ただそれだけです。」
「神を……。」書店の主人は、その神をさがすもののように空虚な眼をしてそこらを見廻した。
 船は門司の沖に来かかったらしく、汽笛がぼうと鳴った。
 海近い備中の郷里の家で、私がK氏の口からこんな話を聞きながら、受取った徳富氏の手紙には、次のような文句があった。
不図思ひ立ちてキリストの踏みし土を踏み、またヤスナヤポリヤナにトルストイ翁を訪はむと巡礼の途に上り申候。神許し玉はば、一年の後には帰り来り、或は御目にかかるの機会ある可く候。
大兄願はくば金玉に躯を大切に、渾ての点において弥々御精進あらんことを切に祈上候。
  一九〇六、仏誕の日関門海峡春雨の朝徳富健次郎
     4

 私は一度K書店の主人と道づれになって、今の粕谷の家に徳富氏を訪ねたことがあった。門を入って黄ばんだ庭木の下をくぐって往くと、そこに井戸があった。K氏はその前を通りかかるとき、小声で独語のように、
「そうだ。労働は神聖だったな。」
と、口のなかでつぶやいたらしかった。私はそれを聞きのがさなかった。
「何だね、それ。」
 K氏は何とも答えなかった。二人は原っぱのような前栽のなかに立っている一軒家に通された。日あたりのいい縁側に座蒲団を持ち出してそれに座ると、K氏はにやにや笑い出した。
「さっき井戸端を通るとき、私が何か言ったでしょう。あれはね、以前私がこちらにお伺いしたとき、先生が、自分の代りに風呂の水を汲んでくれるなら、面会してもいいとおっしゃるので、仕方がなく汲みにかかりました。こちらの井戸は湯殿とは大分遠いところにあるので、なかなか容易な仕事じゃありません。やっと汲み終えて、客間へ通ると、先生が汗みずくになった私の顔を見られて、
「Kさん。労働は神聖ですな。」
と言って笑われましたっけ。今あすこを通りかかって、それを思い出したものですから……。」
「いつぞやの「神を信ぜよ。」と同じ筆法だ。徳富君一流の教訓だよ。」
 私がそういって笑っているところへ、主人がのっそりと入って来た。そしてそこらを眺め廻しながら、
「この家いいでしょう。土地の賭博打がもてあましていたのを、七十円で買い取ったのです。時々勝負のことから、子分のものの喧嘩が初まるので、そんなときの用意に、戸棚なぞあんなに頑丈に作ってありますよ。」
といって、家の説明などしたりした。
 その日はいろんなことを話合った。夕方になって帰ろうとすると、徳富氏は、
「あなた方にさつまいもを進ぜましょう。私が作ったのです。これ、こんなに大きいのがありますよ。」
と言って、縁の下から小犬のような大きさのさつまいもを、幾つも幾つも掘り出して、それを風呂敷に包もうとした。私達は帰り途の難渋さを思って、幾度か辞退したが、頑固な主人はどうしても承知しなかった。

 やっと上高井戸の停留所についた頃には、私達の手は棒のようになっていた。


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   芥川龍之介氏の事

 今は亡き芥川龍之介氏が、大阪毎日新聞に入社したのは、たしか大正八年の二月末だったと思う。話がまとまると、氏は早速入社の辞を書いてよこした。原稿はすぐに植字場へ廻されて活字に組まれたが、ちょうど政治季節で、おもしろくもない議会の記事が、大手をふって紙面にのさばっている頃なので、その文章はなかなか容易に組み入れられようとしなかった。あまり日数が経つので、私はとうとう気を腐らして、頑固な編輯整理に対する面当(つらあて)から、芥川氏の同意を得て、その原稿を未掲載のまま撤回することにした。そのゲラ刷が一枚残って手もとにあったのを、今日はからずも見つけた。読みかえしてみると、皮肉好きな故人の面目が、ありありと文字の間にうかがわれる。それをここに掲げるのは、故人を愛する人達のために、一つでも多くの思い出を供したい微意に外ならぬ。

入社の辞
芥川龍之介 予は過去二年間、海軍機関学校で英語を教えた。この二年間は、予にとって決して不快な二年間ではない。何故と云えば予は従来、公務の余暇を以て創作に従事し得る――或は創作の余暇を以て公務に従事し得る恩典に浴していたからである。
 予の寡聞(かぶん)を以てしても、甲教師は超人哲学の紹介を試みたが為に、文部当局の忌諱(きい)に触れたとか聞いた。乙教師は恋愛問題の創作に耽ったが為に、陸軍当局の譴責を蒙ったそうである。それらの諸先生に比べれば、従来予が官立学校教師として小説家を兼業する事が出来たのは、確に比類稀(ひるいまれ)なる御上(おかみ)の御待遇(ごたいぐう)として、難有く感銘すべきものであろう。尤もこれは甲先生や乙先生が堂々たる本官教授だったのに反して、予は一介(いっかい)の嘱托(しょくたく)教授に過ぎなかったから、予の呼吸し得た自由の空気の如きも、実は海軍当局が予に厚かった結果と云うよりも、或は単に予の存在があれどもなきが如くだった為かも知れない。が、そう解釈する事は独り礼を昨日の上官に失するばかりでなく、予に教師の口を世話してくれた諸先生に対しても甚だ御気の毒の至(いたり)だと思う。だから予は外に差支えのない限り、正に海軍当局の海の如き大度量に感泣して、あの横須賀工廠の恐る可き煤煙を肺の底まで吸いこみながら、永久に「それは犬である」と講釈を繰返して行ってもよかったのである。
 が、不幸にして二年間の経験によれば、予は教育家として、殊に未来の海軍将校を陶鋳(とうちゅう)すべき教育家として、いくら己惚れて見た所が、到底然るべき人物ではない。少くとも現代日本の官許教育方針を丸薬の如く服膺(ふくよう)出来ない点だけでも、明(あきらか)に即刻放逐さるべき不良教師である。勿論これだけの自覚があったにしても、一家眷属(けんぞく)の口が乾上(ひあが)る惧がある以上、予は怪しげな語学の資本を運転させて、どこまでも教育家らしい店構(みせがま)えを張りつづける覚悟でいた。いや、たとい米塩(べいえん)の資(し)に窮さないにしても、下手は下手なりに創作で押して行こうと云う気が出なかったなら、予は何時(いつ)までも名誉ある海軍教授の看板を謹んでぶら下げていたかも知れない。しかし現在の予は、既に過去の予と違って、全精力を創作に費さない限り人生に対しても又予自身に対しても、済まないような気がしているのである。それには単に時間の上から云っても、一週五日間、午前八時から午後三時まで機械の如く学校に出頭している訳に行くものではない。そこで予は遺憾ながら、当局並びに同僚たる文武教官各位の愛顧に反(そむ)いて、とうとう大阪毎日新聞へ入社する事になった。
 新聞は予に人並の給料をくれる。のみならず毎日出社すべき義務さえも強いようとはしない。これは官等の高下をも明かにしない予にとって、白頭(はくとう)と共に勅任官を賜るよりは遥に居心(いごこち)の好い位置である。この意味に於て、予は予自身の為に心から予の入社を祝したいと思う。と同時に又我帝国海軍の為にも、予の如き不良教師が部内に跡を絶った事を同じく心から祝したいと思う。
 昔の支那人は「帰らなんいざ、田園将(まさ)に蕪(ぶ)せんとす」とか謡った。予はまだそれほど道情(どうじょう)を得た人間だとは思わない。が、昨(さく)の非を悔い今の是(ぜ)を悟っている上から云えば、予も亦同じ帰去来(ききょらい)の人である。春風は既に予が草堂の簷(のき)を吹いた。これから予も軽燕と共に、そろそろ征途(せいと)へ上ろうと思っている。

 同じ年の五月上旬、芥川氏は氏の入社と同時に、東京日々の方へ迎えられた菊池寛氏と連立って、初めて大阪に来たことがあった。新聞社へ来訪したのが、ちょうど編輯会議の例会のある十日の夕方だったので、私は二氏に会議の席へ顔出しして、何かちょっとした演説でもしてもらおうとした。演説と聞いて、菊池氏は急に京都へ行かなければならない用事を思い出したりしたので、芥川氏は不承不精に会議に出席しなければならなくなった。
 その晩、芥川氏が何を喋舌(しゃべ)ったかは、すっかり忘れてしまったが、唯いくらか前屈みに演壇に立って、蒼白い額に垂れかかる長い髪の毛をうるさそうに払いのけながら、開口一番、
「私は今晩初めてこの演壇に立つことを、義理にも光栄と心得なければならぬかも知れませんが、ほんとうは決して光栄と思うものでないことをまず申上げておきます……」
と氏一流の皮肉を放ったことだけは、いまだに覚えている。この演説にはさすがの芥川氏も閉口したと見えて、東京へ帰ってから初めての手紙に、
「しかし演説には辟易しました。演説をしなくてもいいという条件がないと、ちょいと編輯会議にも出席出来ませんな。」
といってよこしていた。


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   哲人の晩年

 三十年間、The Ladies' Home Journal の記者として名声を馳せた Edward Bok が、小新聞の速記者として働いていたのは、まだ十五、六歳の少年の頃だった。その頃彼は思い立って、ボストンへ名士の訪問に出かけて往ったことがあった。
 彼はそこで、詩人の Oliver Wendell Holmes や、Longfellow や、宗教家の Phillips Brooks などに会った。これらの名士たちは、幾分のものずきも手伝って、みんな親切にこの少年をもてなした。そしていろいろ有益な談話をしてくれたり、少年の差出した帳面に、それぞれ署名をしてくれたりした。こんなことで、少年のボストンにおける滞在は、譬えようもない楽しいものだった。
 少年は、最後に Emerson を訪問しようとした。この文豪こそは、少年が最も尊敬もし、また一番会いたくも思っている人だった。

 少年は途中で、Emerson の家近く棲んでいる女流文学者の Louise Alcott を訪ねて、あたたかい煖炉の傍で、いろんなお饒舌を取換わした。少年の口からその日の予定を聞いた女史は、気づかわしそうに言った。
「さあ、あの方を訪ねたところで、会ってもらえるかしら。この頃は滅多にお客さまにお会いにならないんですからね。どうもお弱くてお気の毒なんですわ。――でも、折角ですからお宅までぶらぶら御一緒に出かけてみましょうよ。」
 女流文学者は、外套と帽子とを身につけて、気軽に先へ立って案内した。
 長い間、コンコオドの哲人として、中外の人から崇められていたこの老文豪が、ちょうど死ぬる前の年のことであった。
 Emerson の家に着くと、入口に老文豪の娘さんが立って迎えていた。Alcott 女史が少年の希望を述べると、娘さんはつよく頭を掉った。
「父はこの頃どなたにもお目にかかりません。お目にかかりましたところで、かえって気難しさを御覧に入れるようなものですから。」
 少年は熱心に自分の渇仰を訴えた。その純真さは相手を動かさないではおかなかった。
「じゃ、暫く待ってて下さい。私訊いてみますから。」
 娘さんは奥へ入った。Alcott 女史も後について往った。暫くすると、女史はそっと帰って来た。見ると、眼は涙に濡れていた。
「お上り。」
 女史の言葉は短かかった。少年はその後について、室を二つ通りぬけた。三つ目の室の入口に、先刻の娘さんが立っていたが、眼は同じように潤んでいた。
「お父さま――」彼女は一言いった。見ると、机によりかかって Emerson がいた。娘の言葉に、彼は驚くばかり落着き払った態度で、やおら立上ってその手を伸した。そして少年の手を受取ると、俯(うつ)むき加減につくづくとこの珍らしい来客に見入った。それは悲しい柔和な眼つきだったが、好意といっては少しも感じられなかった。
 彼は少年を机に近い椅子に坐らせた。そして自分は腰を下そうともしないで、窓際近く歩いて往って、そこに衝立ったまま口笛を吹いていた。少年は腑に落ちなさそうに、老文豪のこうした素振に見とれていたが、ふと微かな啜泣(すすりな)きの声を聞きつけて、あたりを見廻すと、それは娘さんのせいだとわかった。娘さんはそっと室から滑り出た。少年は救いを求めるように Alcott 女史の方を見た。女史は脣に指を押しあてて、じっとこちらを見つめていた。黙っていよという合図なのだ。少年はすっかり弱らされた。
 暫くすると、老文豪は静かに窓際を離れた。そして前を通るとき、ちょっと少年に会釈をして自分の椅子に腰を下した。二つの悲しそうな眼は、おのずと前にいる少年の顔に注がれた。さきがたからつき穂がなくて困りきっていたこの小さな客人は、もう黙っていられなくなったように思った。
 少年はここの主人の親友 Carlyle のことを語り出した。そしてこの人の手紙があったら、一通いただけないかと言った。
 Carlyle の名を聞くと、主人は不思議そうに眼をあげた。そしてゆっくりした調子で、
「Carlyle かね。そう、あの男は今朝ここにいましたよ。あすの朝もまたやって来るでしょう。」
と、まるで子供のように他愛もなく言っていたが、急に言葉を改めて、
「何でしたかね、君の御用というのは――」
 少年は自分の願いを繰返した。
「そうか。それじゃ捜してあげよう。」主人は打って変って快活になった。「この机の抽斗(ひきだし)には、あの男の手紙がどっさりあるはずだから。」
 それを聞くと、Alcott 女史の潤んだ眼は喜びに輝いた。口もとには抑えきれぬ微笑の影さえ漂った。
 室の容子ががらりと変って来た。老文豪は手紙と書類とが一杯詰っている机の抽斗をあけて、中を捜し出した。そしてときどき眼を上げて少年の顔を見たが、その眼はやさしい情味に溢れていた。少年がわざわざそのために紐育(ニューヨーク)から出かけて来たことを話すと、「そうか。」と言って、明るく笑っていた。
 老文豪は、少年が期待したような何物をも捜し出さないで、そろそろ机の抽斗を閉めにかかった。そしてまた低声で口笛を吹きながら、不思議そうにじろじろと二人の顔を見まわした。
 少年はこの上長くはもう居られまいと思った。のちのちの記念になるものが何か一つ欲しかった。彼はポケットから帳面を取出した。
「先生。これに一つお名前を書いていただけませんでしょうか。」
「名前。」
「ええ、どうぞ。」少年は言った。「先生のお名前の Ralph Waldo Emerson ってえのを。」
 その名前を聞いても、文豪は何とも感じないらしかった。
「書いて欲しいと思う名前を書きつけて御覧。すれば、私がそれを見て写すから。」
 少年は自分の耳を信ずることが出来なかった。だが、彼はペンを取上げて書いた。―― Ralph Waldo Emerson, Concord; November 22, 1881 ――と。
 老文豪は、それを見て悲しそうに言った。
「いや、有難う。」
 それから彼はペンを取上げて、一字ずつゆっくりとお手本通りに自分の名前を書き写した。そして所書きの辺まで来ると、仕事が余り難しいので、もじもじするらしく見えたが、それでもまた一字一字ぼつぼつと写し出した。所書きには、書き誤りが一つ消してあった。やっと書き写してしまうと、老文豪は疲れたようにペンを下において、帳面を持主に返した。
 少年はそれをポケットに蔵(しま)い込んだ。老文豪の眼が、机の上に取り残された先刻(さっき)少年が書いたお手本の紙片に落ると、急に晴やかな笑がその顔に浮んで来た。
「私の名前が書いて欲しいのだね。承知した。何か帳面でもお持ちかい。」
 びっくりさせられた少年は、機械的にも一度ポケットから帳面を取出した。文豪は手ばやく器用に紙をめくって、ペンを取上げたかと思うと、紙片を側におしのけたまま、一気にさっと註文通りの文句を書き上げてしまった。
 二人が礼を言って、暇乞いをしようとすると、主人の老文豪はにこにこしながら立ち上って、
「まだ早いじゃないか。こちらにいるうちに、も一度訪ねて来ないかね。」
と、愛想を言った。そして少年の手を取って握手したが、それは心からの温い力の籠ったものだった。
「往くときと、来たときと、こんなに気持の違うのは初めてだ。」
 少年は子供心にそう思った。


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   盗まれぬように

     1

 世のなかに茶人ほど器物を尚ぶものはあるまい。利休は茶の精神は佗と寂との二つにある。価の高い器物を愛するのは、その心が利慾を思うからだ。「欠けたる摺鉢にても、時の間に合ふを、茶道の本意。」だといった。本阿弥光悦は、器物の貴いものは、過って取毀したときに、誰でもが気持よく思わないものだ。それを思うと、器は粗末な方がいいようだといって、老年になって鷹ケ峰に閑居するときには、茶器の立派なものは、それぞれ知人に分けて、自分には粗末なもののみを持って往ったということだ。また徳川光圀は、数奇な道に遊ぶと、器物の慾が出るものだといって、折角好きな茶の湯をも、晩年になってふっつりと思いとまったということだ。こんな人達がいったことに寸分間違いはないとしても、器物はやはり立派な方がよかった。器がすぐれていると、それに接するものの心までが、おのずと潤いを帯びて、明るくなってくるものだ。

     2

 天明三年、松平不昧は稀代の茶入油屋肩衝(あぶらやかたつき)を自分の手に入れた。その当時の取沙汰では、この名器の価が一万両ということだったが、事実は天明の大饑饉の際だったので、一千五百両で取引が出来たのだそうだ。一国の国守ともある身分で、皆が饑饉で困っている場合に、茶入を需めるなどの風流沙汰は、実はどうかとも思われるが、不昧はもう夙くにそれを購ってしまったのだし、おまけに彼自らももう亡くなっているので、今更咎め立てしようにも仕方がない。――だが、これにつけても真実(ほんとう)だと思われるのは、骨董物は饑饉年に買いとり、娘は箪笥の安いときに嫁入させるということである。
 不昧はこの肩衝の茶入に、円悟の墨蹟をとりあわせて、家宝第一ということにした。そして参勤交代の折には、それを笈(おい)に収めて輿側(かごわき)を歩かせたものだ。その愛撫の大袈裟なのに驚いたある人が、試しに訊いたことがあった。
「そんなに御大切な品を、もしか将軍家が御所望になりました場合には……」
 不昧は即座に答えた。
「その代りには、領土一箇国を拝領いたしたいもので。」

 あるとき、某の老中がその茶入の一見を懇望したことがあった。不昧は承知して、早速その老中を江戸屋敷に招いた。座が定ると、不昧は自分の手で笈の蓋を開き、幾重にもなった革袋や箱包をほどいた。中から取出されたのは、胴に珠のような潤いをもった肩衝の茶入だった。不昧はそれを若狭盆に載せて、ずっと客の前に押し進めた。
 老中は手に取りあげて、ほれぼれと茶入に見入った。口の捻り、肩の張り、胴から裾へかけての円み、畳附のしずかさ。どこに一つの非の打ちどころもない、すばらしい出来だった。老中はそれをそっと盆の上に返しながら、いかにも感に堪えたようにいった。
「まったく天下一と拝見いたしました。」
 その言葉が終るか、終らないかするうちに、不昧は早口に、
「もはやおよろしいでしょうか。」
といいざま、ひったくるように若狭盆を手もとに引寄せた。まるで老中が力ずくで、その茶入を横取しはしないかと気づかうかのように。

     3


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