思い出す事など
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著者名:夏目漱石 

        十三

 その日は東京から杉本さんが診察に来る手筈(てはず)になっていた。雪鳥君が大仁(おおひと)まで迎(むかえ)に出たのは何時頃か覚えていないが、山の中を照らす日がまだ山の下に隠れない午過(ひるすぎ)であったと思う。その山の中を照らす日を、床を離れる事のできない、また室(へや)を出る事の叶(かな)わない余は、朝から晩までほとんど仰ぎ見た試しがないのだから、こう云うのも実は廂(ひさし)の先に余る空の端(はし)だけを目当(めあて)に想像した刻限(こくげん)である。――余は修善寺(しゅぜんじ)に二月(ふたつき)と五日(いつか)ほど滞在しながら、どちらが東で、どちらが西か、どれが伊東へ越す山で、どれが下田へ出る街道か、まるで知らずに帰ったのである。
 杉本さんは予定のごとく宿へ着いた。余はその少し前に、妻(さい)の手から吸飲(すいのみ)を受け取って、細長い硝子(ガラス)の口から生温(なまぬる)い牛乳を一合ほど飲んだ。血が出てから、安静状態と流動食事とは固く守らなければならない掟(おきて)のようになっていたからである。その上できるだけ病人に営養を与えて、体力の回復の方から、潰瘍(かいよう)の出血を抑えつけるという療治法を受けつつあった際だから、否応(いやおう)なしに飲んだ。実を云うとこの日は朝から食慾が萌(きざ)さなかったので、吸飲の中に、動く事のできぬほど濁った白い色の漲(みな)ぎる様を見せられた時は、すぐと重苦しく舌の先に溜(たま)るしつ濃(こ)い乳の味を予想して、手に取らない前からすでに反感を起した。強いられた時、余はやむなく細長く反(そ)り返(かえ)った硝子の管(くだ)を傾けて、湯とも水とも捌(さば)けない液(しる)を、舌の上に辷(すべ)らせようと試みた。それが流れて咽喉(のど)を下(くだ)る後(あと)には、潔(いさぎ)よからぬ粘(ねば)り強い香(か)が妄(みだ)りに残った。半分は口直しのつもりであとから氷(アイス)クリームを一杯取って貰った。ところがいつもの爽(さわや)かさに引き更えて、咽喉(のど)を越すときいったん溶(と)けたものが、胃の中で再び固まったように妙に落ちつきが悪かった。それから二時間ほどして余は杉本さんの診察を受けたのである。
 診察の結果として意外にもさほど悪くないと云う報告を得た時、平生森成さんから病気の質(たち)が面白くないと聞いていた雪鳥君は、喜びの余りすぐ社へ向けて好いという電報を打ってしまった。忘るべからざる八百グラムの吐血は、この吉報を逆襲すべく、診察後一時間後の暮方に、突如として起ったのである。
 かく多量の血を一度に吐いた余は、その暮方の光景から、日のない真夜中を通して、明る日の天明に至る有様を巨細(こさい)残らず記憶している気でいた。程経(ほどへ)て妻(さい)の心覚(こころおぼえ)につけた日記を読んで見て、その中に、ノウヒンケツ(狼狽(ろうばい)した妻は脳貧血をかくのごとく書いている)を起し人事不省に陥(おちい)るとあるのに気がついた時、余は妻は枕辺(まくらべ)に呼んで、当時の模様を委(くわ)しく聞く事ができた。徹頭徹尾明暸(めいりょう)な意識を有して注射を受けたとのみ考えていた余は、実に三十分の長い間死んでいたのであった。
 夕暮間近く、にわかに胸苦しいある物のために襲われた余は、悶(もだ)えたさの余りに、せっかく親切に床の傍(わき)に坐(すわ)っていてくれた妻に、暑苦しくていけないから、もう少しそっちへ退(ど)いてくれと邪慳(じゃけん)に命令した。それでも堪(た)えられなかったので、安静に身を横(よこた)うべき医師からの注意に背(そむ)いて、仰向(あおむけ)の位地(いち)から右を下に寝返ろうと試みた。余の記憶に上(のぼ)らない人事不省の状態は、寝ながら向(むき)を換えにかかったこの努力に伴う脳貧血の結果だと云う。
 余はその時さっと迸(ほとば)しる血潮を、驚ろいて余に寄り添おうとした妻の浴衣(ゆかた)に、べっとり吐(は)きかけたそうである。雪鳥君は声を顫(ふる)わしながら、奥さんしっかりしなくてはいけませんと云ったそうである。社へ電報をかけるのに、手が戦(わなな)いて字が書けなかったそうである。医師は追っかけ追っかけ注射を試みたそうである。後から森成さんにその数を聞いたら、十六筒(とう)までは覚えていますと答えた。
淋漓絳血腹中文。 嘔照黄昏漾綺紋。
入夜空疑身是骨。 臥牀如石夢寒雲。

        十四

 眼を開けて見ると、右向になったまま、瀬戸引(せとびき)の金盥(かなだらい)の中に、べっとり血を吐いていた。金盥が枕に近く押付けてあったので、血は鼻の先に鮮かに見えた。その色は今日(こんにち)までのように酸の作用を蒙(こうむ)った不明暸(ふめいりょう)なものではなかった。白い底に大きな動物の肝(きも)のごとくどろりと固まっていたように思う。その時枕元で含嗽(うがい)を上げましょうという森成さんの声が聞えた。
 余は黙って含嗽をした。そうして、つい今しがた傍(そば)にいる妻に、少しそっちへ退いてくれと云ったほどの煩悶(はんもん)が忽然(こつぜん)どこかへ消えてなくなった事を自覚した。余は何より先にまあよかったと思った。金盥に吐いたものが鮮血であろうと何であろうと、そんな事はいっこう気にかからなかった。日頃からの苦痛の塊(かたまり)を一度にどさりと打ちやり切ったという落ちつきをもって、枕元の人がざわざわする様子をほとんどよそごとのように見ていた。余は右の胸の上部に大きな針を刺されてそれから多量の食塩水を注射された。その時、食塩を注射されるくらいだから、多少危険な容体(ようだい)に逼(せま)っているのだろうとは思ったが、それもほとんど心配にはならなかった。ただ管(くだ)の先から水が洩(も)れて肩の方へ流れるのが厭(いや)であった。左右の腕にも注射を受けたような気がした。しかしそれは確然(はっきり)覚えていない。
 妻(さい)が杉本さんに、これでも元のようになるでしょうかと聞く声が耳に入(い)った。さよう潰瘍(かいよう)ではこれまで随分多量の血を止(と)めた事もありますが……と云う杉本さんの返事が聞えた。すると床の上に釣るした電気灯がぐらぐらと動いた。硝子(ガラス)の中に彎曲(わんきょく)した一本の光が、線香煙花(せんこうはなび)のように疾(と)く閃(きら)めいた。余は生れてからこの時ほど強くまた恐ろしく光力を感じた事がなかった。その咄嗟(とっさ)の刹那(せつな)にすら、稲妻(いなずま)を眸(ひとみ)に焼きつけるとはこれだと思った。時に突然電気灯が消えて気が遠くなった。
 カンフル、カンフルと云う杉本さんの声が聞えた。杉本さんは余の右の手頸(てくび)をしかと握っていた。カンフルは非常によく利(き)くね、注射し切らない内から、もう反響があると杉本さんがまた森成さんに云った。森成さんはええと答えたばかりで、別にはかばかしい返事はしなかった。それからすぐ電気灯に紙の蔽(おおい)をした。
 傍(はた)がひとしきり静かになった。余の左右の手頸は二人の医師に絶えず握られていた。その二人は眼を閉じている余を中に挟(はさ)んで下(しも)のような話をした(その単語はことごとく独逸語(ドイツご)であった)。
「弱い」
「ええ」
「駄目だろう」
「ええ」
「子供に会わしたらどうだろう」
「そう」
 今まで落ちついていた余はこの時急に心細くなった。どう考えても余は死にたくなかったからである。またけっして死ぬ必要のないほど、楽な気持でいたからである。医師が余を昏睡(こんすい)の状態にあるものと思い誤って、忌憚(きたん)なき話を続けているうちに、未練(みれん)な余は、瞑目(めいもく)不動の姿勢にありながら、半(なかば)無気味な夢に襲われていた。そのうち自分の生死に関する斯様(かよう)に大胆な批評を、第三者として床の上にじっと聞かせられるのが苦痛になって来た。しまいには多少腹が立った。徳義上もう少しは遠慮してもよさそうなものだと思った。ついに先がそう云う料簡(りょうけん)ならこっちにも考えがあるという気になった。――人間が今死のうとしつつある間際(まぎわ)にも、まだこれほどに機略を弄(ろう)し得るものかと、回復期に向った時、余はしばしば当夜の反抗心を思い出しては微笑(ほほえ)んでいる。――もっとも苦痛が全く取れて、安臥(あんが)の地位を平静に保っていた余には、充分それだけの余裕があったのであろう。
 余は今まで閉じていた眼を急に開けた。そうしてできるだけ大きな声と明暸(めいりょう)な調子で、私(わたし)は子供などに会いたくはありませんと云った。杉本さんは何事をも意に介せぬごとく、そうですかと軽く答えたのみであった。やがて食いかけた食事を済まして来るとか云って室(へや)を出て行った。それからは左右の手を左右に開いて、その一つずつを森成さんと雪鳥君に握られたまま、三人とも無言のうちに天明に達した。
冷やかな脈を護(まも)りぬ夜明方(よあけがた)

        十五

 強(し)いて寝返(ねがえ)りを右に打とうとした余と、枕元の金盥(かなだらい)に鮮血を認めた余とは、一分(いちぶ)の隙(すき)もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛(かみげ)を挟(はさ)む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほど経(へ)て妻(さい)から、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのですと聞いた折は全く驚いた。子供のとき悪戯(いたずら)をして気絶をした事は二三度あるから、それから推測して、死とはおおかたこんなものだろうぐらいにはかねて想像していたが、半時間の長き間、その経験を繰返しながら、少しも気がつかずに一カ月あまりを当然のごとくに過したかと思うと、はなはだ不思議な心持がする。実を云うとこの経験――第一経験と云い得るかが疑問である。普通の経験と経験の間に挟まって毫(ごう)もその連結を妨(さまた)げ得ないほど内容に乏しいこの――余は何と云ってそれを形容していいかついに言葉に窮してしまう。余は眠から醒(さ)めたという自覚さえなかった。陰(かげ)から陽(ひ)に出たとも思わなかった。微(かす)かな羽音(はおと)、遠きに去る物の響、逃げて行く夢の匂(にお)い、古い記憶の影、消える印象の名残(なごり)――すべて人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽してようやく髣髴(ほうふつ)すべき霊妙な境界(きょうがい)を通過したとは無論考えなかった。ただ胸苦(むなぐる)しくなって枕の上の頭を右に傾むけようとした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めただけである。その間に入(い)り込(こ)んだ三十分の死は、時間から云っても、空間から云っても経験の記憶として全く余に取って存在しなかったと一般である。妻の説明を聞いた時余は死とはそれほどはかないものかと思った。そうして余の頭の上にしかく卒然と閃(きら)めいた生死二面の対照の、いかにも急劇でかつ没交渉なのに深く感じた。どう考えてもこの懸隔(かけへだ)った二つの現象に、同じ自分が支配されたとは納得できなかった。よし同じ自分が咄嗟(とっさ)の際に二つの世界を横断したにせよ、その二つの世界がいかなる関係を有するがために、余をしてたちまち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめたかと考えると、茫然(ぼうぜん)として自失せざるを得なかった。
 生死とは緩急(かんきゅう)、大小、寒暑と同じく、対照の連想からして、日常一束(ひとたば)に使用される言葉である。よし輓近(ばんきん)の心理学者の唱うるごとく、この二つのものもまた普通の対照と同じく同類連想の部に属すべきものと判ずるにしたところで、かく掌(てのひら)を翻(ひるが)えすと一般に、唐突(とうとつ)なるかけ離れた二象面(フェーゼス)が前後して我を擒(とりこ)にするならば、我はこのかけ離れた二象面を、どうして同性質のものとして、その関係を迹付(あとづ)ける事ができよう。
 人が余に一個の柿を与えて、今日は半分喰え、明日(あす)は残りの半分の半分を喰え、その翌日(あくるひ)はまたその半分の半分を喰え、かくして毎日現に余れるものの半分ずつを喰えと云うならば、余は喰い出してから幾日目(いくかめ)かに、ついにこの命令に背(そむ)いて、残る全部をことごとく喰い尽すか、または半分に割る能力の極度に達したため、手を拱(こまぬ)いて空(むな)しく余(のこ)れる柿の一片(いっぺん)を見つめなければならない時機が来るだろう。もし想像の論理を許すならば、この条件の下(もと)に与えられたる一個の柿は、生涯(しょうがい)喰っても喰い切れる訳がない。希臘(ギリシャ)の昔ゼノが足の疾(と)きアキリスと歩みの鈍(のろ)い亀との間に成立する競争に辞(ことば)を託して、いかなるアキリスもけっして亀に追いつく事はできないと説いたのは取も直さずこの消息である。わが生活の内容を構成(かたちづく)る個々の意識もまたかくのごとくに、日ごとか月ごとに、その半(なかば)ずつを失って、知らぬ間にいつか死に近づくならば、いくら死に近づいても死ねないと云う非事実な論理に愚弄(ぐろう)されるかも知れないが、こう一足飛びに片方から片方に落ち込むような思索上の不調和を免(まぬ)かれて、生から死に行く径路(けいろ)を、何の不思議もなく最も自然に感じ得るだろう。俄然(がぜん)として死し、俄然として吾(われ)に還(かえ)るものは、否、吾に還ったのだと、人から云い聞かさるるものは、ただ寒くなるばかりである。
縹緲玄黄外。 死生交謝時。 寄託冥然去。
我心何所之。 帰来覓命根。 杳□竟難知。
孤愁空遶夢。 宛動粛瑟悲。 江山秋已老。
粥薬□将衰。 廓寥天尚在。 高樹独余枝。
晩懐如此澹。 風露入詩遅。

        十六

 安らかな夜はしだいに明けた。室(へや)を包む影法師が床(とこ)を離れて遠退(とおの)くに従って、余はまた常のごとく枕辺(まくらべ)に寄る人々の顔を見る事ができた。その顔は常の顔であった。そうして余の心もまた常の心であった。病(やまい)のどこにあるかを知り得ぬほどに落ちついた身を床の上に横(よこた)えて、少しだに動く必要をもたぬ余に、死のなお近く徘徊(はいかい)していようとは全く思い設けぬところであった。眼を開けた時余は昨夕(ゆうべ)の騒ぎを(たとい忘れないまでも)ただ過去の夢のごとく遠くに眺めた。そうして死は明け渡る夜と共に立(た)ち退(の)いたのだろうぐらいの度胸でも据(すわ)ったものと見えて、何らの掛念(けねん)もない気分を、障子(しょうじ)から射し込む朝日の光に、心地(ここち)よく曝(さら)していた。実は無知な余を詐(いつ)わり終(おお)せた死は、いつの間にか余の血管に潜(もぐ)り込んで、乏(とも)しい血を追い廻しつつ流れていたのだそうである。「容体(ようだい)を聞くと、危険なれどごく安静にしていれば持ち直すかも知れぬという」とは、妻(さい)のこの日の朝の部に書き込んだ日記の一句である。余が夜明まで生きようとは、誰も期待していなかったのだとは後から聞いて始めて知った。
 余は今でも白い金盥(かなだらい)の底に吐き出された血の色と恰好(かっこう)とを、ありありとわが眼の前に思い浮べる事ができる。ましてその当分は寒天(かんてん)のように固まりかけた腥(なまぐさ)いものが常に眼先に散らついていた。そうして吾(わ)が想像に映る血の分量と、それに起因した衰弱とを比較しては、どうしてあれだけの出血が、こう劇(はげ)しく身体(からだ)に応(こた)えるのだろうといつでも不審に堪(た)えなかった。人間は脈の中の血を半分失うと死に、三分の一失うと昏睡(こんすい)するものだと聞いて、それに吾(われ)とも知らず妻(さい)の肩に吐きかけた生血(なまち)の容積(かさ)を想像の天秤(てんびん)に盛って、命の向う側に重(おも)りとして付け加えた時ですら、余はこれほど無理な工面(くめん)をして生き延びたのだとは思えなかった。
 杉本さんが東京へ帰るや否や、――杉本さんはその朝すぐ東京へ帰った。もっとおりたいが忙がしいから失礼します、その代り手当は充分するつもりでありますと云って、新らしい襟(えり)と襟飾(えりかざり)を着け易(か)えて、余の枕辺に坐ったとき、余は昨夕(ゆうべ)夜半(よなか)に、裄丈(ゆきたけ)の足りない宿の浴衣(ゆかた)を着たまま、そっと障子(しょうじ)を開けながら、どうかと一言(ひとこと)森成さんに余の様子を聞いていた彼人(かのひと)の様子を思い出した。余の記憶にはただそれだけしかとまらなかった杉本さんが、出がけに妻を顧みて、もう一遍吐血があれば、どうしても回復の見込はないものと御諦(おあき)らめなさらなければいけませんと注意を与えたそうである。実は昨夕にもこの恐るべき再度の吐血が来そうなので、わざわざモルヒネまで注射してそれを防ぎ止めたのだとは、後(のち)になってその顛末(てんまつ)を審(つまび)らかにした余に取って、全く思いがけない報知であった。あれほど胸の中(うち)は落ちついていたものをと云いたいくらいに、余は平常(へいぜい)の心持で苦痛なくその夜を明したのである。――話がつい外(そ)れてしまった。
 杉本さんは東京へ帰るや否や、自分で電話を看護婦会へかけて、看護婦を二人すぐ余の出先へ送るように頼んでくれた。その時、早く行かんと間に合わないかも知れないからと電話口で急(せ)いたので、看護婦は汽車で走る途々(みちみち)も、もういけない頃ではなかろうかと、絶えず余の生命に疑いを挟(さしは)さんでいた。せっかく行っても、行き着いて見たら、遅過ぎて間に合わなかったと云うような事があってはつまらないと語り合って来た。――これも回復期に向いた頃、病牀(びょうしょう)の徒然(つれづれ)に看護婦と世間話をしたついでに、彼等の口からじかに聞いたたよりである。
 かくすべての人に十の九まで見放された真中(まなか)に、何事も知らぬ余は、曠野(こうや)に捨てられた赤子(あかご)のごとく、ぽかんとしていた。苦痛なき生は余に向って何らの煩悶(はんもん)をも与えなかった。余は寝ながらただ苦痛なく生きておるという一事実を認めるだけであった。そうしてこの事実が、はからざる病(やまい)のために、周囲の人の丁重(ていちょう)な保護を受けて、健康な時に比べると、一歩浮世の風の当(あた)り悪(にく)い安全な地に移って来たように感じた。実際余と余の妻とは、生存競争の辛(から)い空気が、直(じか)に通わない山の底に住んでいたのである。
露けさの里にて静(しずか)なる病(やまい)

        十七

 臆病者の特権として、余はかねてより妖怪(ようかい)に逢(あ)う資格があると思っていた。余の血の中には先祖の迷信が今でも多量に流れている。文明の肉が社会の鋭どき鞭(むち)の下(もと)に萎縮(いしゅく)するとき、余は常に幽霊を信じた。けれども虎烈剌(コレラ)を畏(おそ)れて虎烈剌に罹(かか)らぬ人のごとく、神に祈って神に棄(す)てられた子のごとく、余は今日(きょう)までこれと云う不思議な現象に遭遇する機会もなく過ぎた。それを残念と思うほどの好奇心もたまには起るが、平生はまず出逢(であ)わないのを当然と心得てすまして来た。
 自白すれば、八九年前アンドリュ・ラングの書いた「夢と幽霊」という書物を床の中に読んだ時は、鼻の先の灯火(ともしび)を一時に寒く眺めた。一年ほど前にも「霊妙なる心力」と云う標題に引かされてフランマリオンという人の書籍を、わざわざ外国から取り寄せた事があった。先頃はまたオリヴァー・ロッジの「死後の生」を読んだ。
 死後の生! 名からしてがすでに妙である。我々の個性が我々の死んだ後(のち)までも残る、活動する、機会があれば、地上の人と言葉を換(かわ)す。スピリチズムの研究をもって有名であったマイエルはたしかにこう信じていたらしい。そのマイエルに自己の著述を捧げたロッジも同じ考えのように思われる。ついこの間出たポドモアの遺著もおそらくは同系統のものだろう。
 独乙(ドイツ)のフェヒナーは十九世紀の中頃すでに地球その物に意識の存すべき所以(ゆえん)を説いた。石と土と鉱(あらがね)に霊があると云うならば、有るとするを妨(さまた)げる自分ではない。しかしせめてこの仮定から出立して、地球の意識とは如何(いか)なる性質のものであろうぐらいの想像はあってしかるべきだと思う。
 吾々の意識には敷居のような境界線があって、その線の下は暗く、その線の上は明らかであるとは現代の心理学者が一般に認識する議論のように見えるし、またわが経験に照らしても至極(しごく)と思われるが、肉体と共に活動する心的現象に斯様(かよう)の作用があったにしたところで、わが暗中の意識すなわちこれ死後の意識とは受取れない。
 大いなるものは小さいものを含んで、その小さいものに気がついているが、含まれたる小さいものは自分の存在を知るばかりで、己(おのれ)らの寄り集って拵(こし)らえている全部に対しては風馬牛(ふうばぎゅう)のごとく無頓着(むとんじゃく)であるとは、ゼームスが意識の内容を解き放したり、また結び合せたりして得た結論である。それと同じく、個人全体の意識もまたより大いなる意識の中(うち)に含まれながら、しかもその存在を自覚せずに、孤立するごとくに考えているのだろうとは、彼がこの類推(るいすい)より下(くだ)し来(きた)るスピリチズムに都合よき仮定である。
 仮定は人々の随意であり、また時にとって研究上必要の活力でもある。しかしただ仮定だけでは、いかに臆病の結果幽霊を見ようとする、また迷信の極(きょく)不可思議を夢みんとする余も、信力をもって彼らの説を奉ずる事ができない。
 物理学者は分子の容積を計算して蚕(かいこ)の卵にも及ばぬ(長さ高さともに一ミリメターの)立方体に一千万を三乗した数が這入(はい)ると断言した。一千万を三乗した数とは一の下に零(れい)を二十一付けた莫大(ばくだい)なものである。想像を恣(ほしいま)まにする権利を有する吾々(われわれ)もこの一の下に二十一の零を付けた数を思い浮べるのは容易でない。
 形而下(けいじか)の物質界にあってすら、――相当の学者が綿密な手続を経て発表した数字上の結果すら、吾々はただ数理的の頭脳にのみもっともと首肯(うなず)くだけである。数量のあらましさえ応用の利かぬ心の現象に関しては云うまでもない。よし物理学者の分子に対するごとき明暸(めいりょう)な知識が、吾人(ごじん)の内面生活を照らす機会が来たにしたところで、余の心はついに余の心である。自分に経験のできない限り、どんな綿密な学説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
 余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像通りに経験した。はたして時間と空間を超越した。しかしその超越した事が何の能力をも意味しなかった。余は余の個性を失った。余の意識を失った。ただ失った事だけが明白なばかりである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな意識と冥合(めいごう)できよう。臆病にしてかつ迷信強き余は、ただこの不可思議を他人(ひと)に待つばかりである。
迎火(むかいび)を焚(た)いて誰(たれ)待つ絽(ろ)の羽織(はおり)

        十八

 ただ驚ろかれたのは身体(からだ)の変化である。騒動のあった明(あく)る朝、何かの必要に促(うな)がされて、肋(あばら)の左右に横たえた手を、顔の所まで持って来(き)ようとすると、急に持主でも変ったように、自分の腕ながらまるで動かなかった。人を煩(わず)らわす手数(てかず)を厭(いと)って、無理に肘(ひじ)を杖(つえ)として、手頸(てくび)から起しかけたはかけたが、わずか何寸かの距離を通して、宙に短かい弧線を描く努力と時間とは容易のものでなかった。ようやく浮き上った筋(きん)の力を利用して、高い方へ引くだけの精気に乏しいので、途中から断念して、再び元の位置にわが腕を落そうとすると、それがまた安くは落ちなかった。無論そのままにして心を放せば、自然の重みでもとに倒れるだけの事ではあるが、その倒れる時の激動が、いかに全身に響き渡るかと考えると、非常に恐ろしくなって、ついに思い切る勇気が出なかった。余はおろす事も上げる事も、また半途に支える事もできない腕を意識しつつそのやりどころに窮した。ようやく傍(はた)のものの気がついて、自分の手をわが手に添えて、無理のないように顔の所まで持って来てくれて、帰りにもまた二つ腕をいっしょにしてやっと床(とこ)の上まで戻した時には、どうしてこう自己が空虚になったものか、我ながらほとんど想像がつかなかった。後から考えて見て、あれは全く護謨風船(ゴムふうせん)に穴が開(あ)いて、その穴から空気が一度に走り出したため、風船の皮がたちまちしゅっという音と共に収縮したと一般の吐血だから、それでああ身体(からだ)に応(こた)えたのだろうと判断した。それにしても風船はただ縮(ちぢ)まるだけである。不幸にして余の皮は血液のほかに大きな長い骨をたくさんに包んでいた。その骨が――
 余は生れてより以来この時ほど吾骨の硬さを自覚した事がない。その朝眼が覚(さ)めた時の第一の記憶は、実にわが全身に満ち渡る骨の痛みの声であった。そうしてその痛みが、宵(よい)に、酒を被(こうぶ)った勢(いきおい)で、多数を相手に劇(はげ)しい喧嘩(けんか)を挑(いど)んだ末、さんざんに打ち据(す)えられて、手も足も利(き)かなくなった時のごとくに吾を鈍(にぶ)く叩(たた)きこなしていた。砧(きぬた)に擣(う)たれた布は、こうもあろうかとまで考えた。それほど正体なくきめつけられ了(おわ)った状態を適当に形容するには、ぶちのめすと云う下等社会で用いる言葉が、ただ一つあるばかりである。少しでも身体を動かそうとすると、関節(ふしぶし)がみしみしと鳴った。
 昨日(きのう)まで狭い布団(ふとん)に劃(かく)された余の天地は、急にまた狭くなった。その布団のうちの一部分よりほかに出る能力を失った今の余には、昨日(きのう)まで狭く感ぜられた布団がさらに大きく見えた。余の世界と接触する点は、ここに至ってただ肩と背中と細長く伸べた足の裏側に過ぎなくなった。――頭は無論枕に着いていた。
 これほどに切りつめられた世界に住む事すら、昨夕(ゆうべ)は許されそうに見えなかったのにと、傍(はた)のものは心の中(うち)で余のために観じてくれたろう。何事も弁(わきま)えぬ余にさえそれが憐(あわ)れであった。ただ身の布団に触れる所のみがわが世界であるだけに、そうしてその触れる所が少しも変らないために、我と世界との関係は、非常に単純であった。全くスタチック(静(せい))であった。したがって安全であった。綿(わた)を敷いた棺(かん)の中に長く寝て、われ棺を出でず、人棺を襲(おそ)わざる亡者(もうじゃ)の気分は――もし亡者に気分が有り得るならば、――この時の余のそれと余りかけ隔(へだ)ってはいなかったろう。
 しばらくすると、頭が麻痺(しび)れ始めた。腰の骨が骨だけになって板の上に載(の)せられているような気がした。足が重くなった。かくして社会的の危険から安全に保証された余一人(いちにん)の狭い天地にもまた相応の苦しみができた。そうしてその苦痛を逃(のが)れるべく余は一寸(いっすん)のほかにさえ出る能力を持たなかった。枕元にどんな人がどうして坐(すわ)っているか、まるで気がつかなかった。余を看護するために、余の視線の届かぬ傍(かたわ)らを占めた人々の姿は、余に取って神のそれと一般であった。
 余はこの安らかながら痛み多き小世界にじっと仰向(あおむけ)に寝たまま、身の及ばざるところに時々眼を走らした。そうして天井(てんじょう)から釣った長い氷嚢(ひょうのう)の糸をしばしば見つめた。その糸は冷たい袋と共に、胃の上でぴくりぴくりと鋭どい脈を打っていた。
朝寒(あささむ)や生きたる骨を動かさず

        十九

 余はこの心持をどう形容すべきかに迷う。
 力を商(あきな)いにする相撲(すもう)が、四つに組んで、かっきり合った時、土俵の真中に立つ彼等の姿は、存外静かに落ちついている。けれどもその腹は一分と経(た)たないうちに、恐るべき波を上下(じょうげ)に描かなければやまない。そうして熱そうな汗の球が幾条(いくすじ)となく背中を流れ出す。
 最も安全に見える彼等の姿勢は、この波とこの汗の辛うじて齎(もた)らす努力の結果である。静かなのは相剋(あいこく)する血と骨の、わずかに平均を得た象徴である。これを互殺(ごさつ)の和(わ)という。二三十秒の現状を維持するに、彼等がどれほどの気魄(きはく)を消耗(しょうこう)せねばならぬかを思うとき、看(み)る人は始めて残酷の感を起すだろう。
 自活の計(はかりごと)に追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさにこの相撲のごとく苦しいものである。吾(われ)らは平和なる家庭の主人として、少くとも衣食の満足を、吾らと吾らの妻子(さいし)とに与えんがために、この相撲に等しいほどの緊張に甘んじて、日々(にちにち)自己と世間との間に、互殺の平和を見出(みいだ)そうと力(つと)めつつある。戸外(そと)に出て笑うわが顔を鏡に映すならば、そうしてその笑いの中(うち)に殺伐(さつばつ)の気に充(み)ちた我を見出すならば、さらにこの笑いに伴う恐ろしき腹の波と、背の汗を想像するならば、最後にわが必死の努力の、回向院(えこういん)のそれのように、一分足(いっぷんた)らずで引分を期する望みもなく、命のあらん限は一生続かなければならないという苦しい事実に想(おも)い至るならば、我等は神経衰弱に陥(おちい)るべき極度に、わが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあるとまで言いたくなる。
 かく単に自活自営の立場に立って見渡した世の中はことごとく敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である。もし彼対我の観を極端に引延ばすならば、朋友(ほうゆう)もある意味において敵であるし、妻子もある意味において敵である。そう思う自分さえ日に何度となく自分の敵になりつつある。疲れてもやめえぬ戦いを持続しながら、□然(けいぜん)として独(ひと)りその間に老ゆるものは、見惨(みじめ)と評するよりほかに評しようがない。
 古臭い愚痴(ぐち)を繰返すなという声がしきりに聞えた。今でも聞える。それを聞き捨てにして、古臭い愚痴を繰返すのは、しみじみそう感じたからばかりではない、しみじみそう感じた心持を、急に病気が来て顛覆(くつがえ)したからである。
 血を吐いた余は土俵の上に仆(たお)れた相撲と同じ事であった。自活のために戦う勇気は無論、戦わねば死ぬという意識さえ持たなかった。余はただ仰向(あおむ)けに寝て、わずかな呼吸(いき)をあえてしながら、怖(こわ)い世間を遠くに見た。病気が床の周囲(ぐるり)を屏風(びょうぶ)のように取り巻いて、寒い心を暖かにした。
 今までは手を打たなければ、わが下女さえ顔を出さなかった。人に頼まなければ用は弁じなかった。いくらしようと焦慮(あせ)っても、調(ととの)わない事が多かった。それが病気になると、がらりと変った。余は寝ていた。黙って寝ていただけである。すると医者が来た。社員が来た。妻(さい)が来た。しまいには看護婦が二人来た。そうしてことごとく余の意志を働かさないうちに、ひとりでに来た。
「安心して療養せよ」と云う電報が満洲から、血を吐いた翌日に来た。思いがけない知己(ちき)や朋友が代る代る枕元(まくらもと)に来た。あるものは鹿児島から来た。あるものは山形から来た。またあるものは眼の前に逼(せま)る結婚を延期して来た。余はこれらの人に、どうして来たと聞いた。彼等は皆新聞で余の病気を知って来たと云った。仰向(あおむけ)に寝た余は、天井を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住(す)み悪(にく)いとのみ観じた世界にたちまち暖かな風が吹いた。
 四十を越した男、自然に淘汰(とうた)せられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙(いそが)しい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待設けなかった余は、病(やまい)に生き還(かえ)ると共に、心に生き還った。余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの幸福な考えをわれに打壊(うちこわ)す者を、永久の敵とすべく心に誓った。
馬上青年老。 鏡中白髪新。
幸生天子国。 願作太平民。

        二十

 ツルゲニェフ以上の芸術家として、有力なる方面の尊敬を新たにしつつあるドストイェフスキーには、人の知るごとく、小供の時分から癲癇(てんかん)の発作(ほっさ)があった。われら日本人は癲癇と聞くと、ただ白い泡を連想するに過ぎないが、西洋では古くこれを神聖なる疾(やまい)と称(とな)えていた。この神聖なる疾に冒(お)かされる時、あるいはその少し前に、ドストイェフスキーは普通の人が大音楽を聞いて始めて到(いた)り得るような一種微妙の快感に支配されたそうである。それは自己と外界との円満に調和した境地で、ちょうど天体の端から、無限の空間に足を滑(すべ)らして落ちるような心持だとか聞いた。
「神聖なる疾」に罹(かか)った事のない余は、不幸にしてこの年になるまで、そう云う趣(おもむき)に一瞬間も捕われた記憶をもたない。ただ大吐血後五六日――経(た)つか経たないうちに、時々一種の精神状態に陥(おちい)った。それからは毎日のように同じ状態を繰り返した。ついには来ぬ先にそれを予期するようになった。そうして自分とは縁の遠いドストイェフスキーの享(う)けたと云う不可解の歓喜をひそかに想像してみた。それを想像するか思い出すほどに、余の精神状態は尋常を飛び越えていたからである。ドクインセイの細(こま)かに書き残した驚くべき阿片(あへん)の世界も余の連想に上(のぼ)った。けれども読者の心目(しんもく)を眩惑(げんわく)するに足る妖麗(ようれい)な彼の叙述が、鈍(にぶ)い色をした卑しむべき原料から人工的に生れたのだと思うと、それを自分の精神状態に比較するのが急に厭(いや)になった。
 余は当時十分と続けて人と話をする煩(わずら)わしさを感じた。声となって耳に響く空気の波が心に伝(つたわ)って、平らかな気分をことさらに騒(ざわ)つかせるように覚えた。口を閉じて黄金(こがね)なりという古い言葉を思い出して、ただ仰向(あおむ)けに寝ていた。ありがたい事に室(へや)の廂(ひさし)と、向うの三階の屋根の間に、青い空が見えた。その空が秋の露(つゆ)に洗われつつしだいに高くなる時節であった。余は黙ってこの空を見つめるのを日課のようにした。何事もない、また何物もないこの大空は、その静かな影を傾むけてことごとく余の心に映じた。そうして余の心にも何事もなかった。また何物もなかった。透明な二つのものがぴたりと合った。合って自分に残るのは、縹緲(ひょうびょう)とでも形容してよい気分であった。
 そのうち穏かな心の隅(すみ)が、いつか薄く暈(ぼか)されて、そこを照らす意識の色が微(かす)かになった。すると、ヴェイルに似た靄(もや)が軽く全面に向って万遍(まんべん)なく展(の)びて来た。そうして総体の意識がどこもかしこも稀薄(きはく)になった。それは普通の夢のように濃いものではなかった。尋常の自覚のように混雑したものでもなかった。またその中間に横(よこた)わる重い影でもなかった。魂が身体(からだ)を抜けると云ってはすでに語弊がある。霊が細(こま)かい神経の末端にまで行き亘(わた)って、泥でできた肉体の内部を、軽く清くすると共に、官能の実覚から杳(はる)かに遠からしめた状態であった。余は余の周囲に何事が起りつつあるかを自覚した。同時にその自覚が窈窕(ようちょう)として地の臭(におい)を帯びぬ一種特別のものであると云う事を知った。床(ゆか)の下に水が廻って、自然と畳が浮き出すように、余の心は己(おのれ)の宿る身体と共に、蒲団(ふとん)から浮き上がった。より適当に云えば、腰と肩と頭に触れる堅い蒲団がどこかへ行ってしまったのに、心と身体は元の位置に安く漂(ただよ)っていた。発作前(ほっさぜん)に起るドストイェフスキーの歓喜は、瞬刻のために十年もしくは終生の命を賭(と)しても然(しか)るべき性質のものとか聞いている。余のそれはさように強烈のものではなかった。むしろ恍惚(こうこつ)として幽(かす)かな趣(おもむき)を生活面の全部に軽くかつ深く印(いん)し去ったのみであった。したがって余にはドストイェフスキーの受けたような憂欝性(ゆううつせい)の反動が来なかった。余は朝からしばしばこの状態に入(い)った。午過(ひるすぎ)にもよくこの蕩漾(とうよう)を味(あじわ)った。そうして覚(さ)めたときはいつでもその楽しい記憶を抱(いだ)いて幸福の記念としたくらいであった。
 ドストイェフスキーの享(う)け得(え)た境界(きょうがい)は、生理上彼の病(やまい)のまさに至らんとする予言である。生を半(なかば)に薄めた余の興致は、単に貧血の結果であったらしい。
仰臥人如唖。 黙然見大空。
大空雲不動。 終日杳相同。

        二十一

 同じドストイェフスキーもまた死の門口(かどぐち)まで引(ひ)き摺(ず)られながら、辛(かろ)うじて後戻りをする事のできた幸福な人である。けれども彼の命を危(あや)めにかかった災(わざわい)は、余の場合におけるがごとき悪辣(あくらつ)な病気ではなかった。彼は人の手に作り上げられた法と云う器械の敵となって、どんと心臓を打(う)ち貫(ぬ)かれようとしたのである。
 彼は彼の倶楽部(クラブ)で時事を談じた。やむなくんばただ一揆(いっき)あるのみと叫んだ。そうして囚(とら)われた。八カ月の長い間薄暗(うすくら)い獄舎の日光に浴したのち、彼は蒼空(あおぞら)の下(もと)に引き出されて、新たに刑壇の上に立った。彼は自己の宣告を受けるため、二十一度の霜(しも)に、襯衣(シャツ)一枚の裸姿(はだかすがた)となって、申渡(もうしわたし)の終るのを待った。そうして銃殺に処すの一句を突然として鼓膜(こまく)に受けた。「本当に殺されるのか」とは、自分の耳を信用しかねた彼が、傍(かたわら)に立つ同囚(どうしゅう)に問うた言葉である。……白い手帛(ハンケチ)を合図に振った。兵士は覘(ねらい)を定めた銃口(つつぐち)を下に伏せた。ドストイェフスキーはかくして法律の捏(こ)ね丸めた熱い鉛(なまり)の丸(たま)を呑(の)まずにすんだのである。その代り四年の月日をサイベリヤの野に暮した。
 彼の心は生から死に行き、死からまた生に戻って、一時間と経(た)たぬうちに三たび鋭どい曲折を描いた。そうしてその三段落が三段落ともに、妥協を許さぬ強い角度で連結された。その変化だけでも驚くべき経験である。生きつつあると固く信ずるものが、突然これから五分のうちに死ななければならないと云う時、すでに死ぬときまってから、なお余る五分の命を提(ひっさ)げて、まさに来(きた)るべき死を迎えながら、四分、三分、二分と意識しつつ進む時、さらに突き当ると思った死が、たちまちとんぼ返りを打って、新たに生と名づけられる時、――余のごとき神経質ではこの三象面(フェーゼス)の一つにすら堪(た)え得まいと思う。現にドストイェフスキーと運命を同じくした同囚の一人(いちにん)は、これがためにその場で気が狂ってしまった。
 それにもかかわらず、回復期に向った余は、病牀(びょうしょう)の上に寝ながら、しばしばドストイェフスキーの事を考えた。ことに彼が死の宣告から蘇(よみが)えった最後の一幕を眼に浮べた。――寒い空、新らしい刑壇、刑壇の上に立つ彼の姿、襯衣一枚のまま顫(ふる)えている彼の姿、――ことごとく鮮やかな想像の鏡に映った。独(ひと)り彼が死刑を免(まぬ)かれたと自覚し得た咄嗟(とっさ)の表情が、どうしても判然(はっきり)映らなかった。しかも余はただこの咄嗟の表情が見たいばかりに、すべての画面を組み立てていたのである。
 余は自然の手に罹(かか)って死のうとした。現に少しの間死んでいた。後から当時の記憶を呼び起した上、なおところどころの穴へ、妻(さい)から聞いた顛末(てんまつ)を埋(う)めて、始めて全くでき上る構図をふり返って見ると、いわゆる慄然(りつぜん)と云う感じに打たれなければやまなかった。その恐ろしさに比例して、九仞(きゅうじん)に失った命を一簣(いっき)に取り留める嬉(うれ)しさはまた特別であった。この死この生に伴う恐ろしさと嬉しさが紙の裏表のごとく重なったため、余は連想上常にドストイェフスキーを思い出したのである。
「もし最後の一節を欠いたなら、余はけっして正気ではいられなかったろう」と彼自身が物語っている。気が狂うほどの緊張を幸いに受けずとすんだ余には、彼の恐ろしさ嬉しさの程度を料(はか)り得ぬと云う方がむしろ適当かも知れぬ。それであればこそ、画竜点睛(がりゅうてんせい)とも云うべき肝心(かんじん)の刹那(せつな)の表情が、どう想像しても漠(ばく)として眼の前に描き出せないのだろう。運命の擒縦(きんしょう)を感ずる点において、ドストイェフスキーと余とは、ほとんど詩と散文ほどの相違がある。
 それにもかかわらず、余はしばしばドストイェフスキーを想像してやまなかった。そうして寒い空と、新らしい刑壇と、刑壇の上に立つ彼の姿と、襯衣(シャツ)一枚で顫(ふる)えている彼の姿とを、根気よく描き去り描き来(きた)ってやまなかった。
 今はこの想像の鏡もいつとなく曇って来た。同時に、生き返ったわが嬉しさが日に日にわれを遠ざかって行く。あの嬉しさが始終(しじゅう)わが傍(かたわら)にあるならば、――ドストイェフスキーは自己の幸福に対して、生涯(しょうがい)感謝する事を忘れぬ人であった。

        二十二

 余はうとうとしながらいつの間(ま)にか夢に入(い)った。すると鯉(こい)の跳(は)ねる音でたちまち眼が覚(さ)めた。
 余が寝ている二階座敷の下はすぐ中庭の池で、中には鯉がたくさんに飼ってあった。その鯉が五分に一度ぐらいは必ず高い音を立ててぱしゃりと水を打つ。昼のうちでも折々は耳に入った。夜はことに甚(はなはだ)しい。隣りの部屋も、下の風呂場も、向うの三階も、裏の山もことごとく静まり返った真中(まなか)に、余は絶えずこの音で眼を覚ました。
 犬の眠りと云う英語を知ったのはいつの昔か忘れてしまったが、犬の眠りと云う意味を実地に経験したのはこの頃が始めてであった。余は犬の眠りのために夜(よ)ごと悩まされた。ようやく寝ついてありがたいと思う間もなく、すぐ眼が開(あ)いて、まだ空は白まないだろうかと、幾度(いくたび)も暁(あかつき)を待(ま)ち佗(わ)びた。床(とこ)に縛(しば)りつけられた人の、しんとした夜半(よなか)に、ただ独(ひと)り生きている長さは存外な長さである。――鯉が勢(いきおい)よく水を切った。自分の描いた波の上を叩(たた)く尾の音で、余は眼を覚ました。
 室(へや)の中は夕暮よりもなお暗い光で照らされていた。天井から下がっている電気灯の珠(たま)は黒布(くろぬの)で隙間(すきま)なく掩(おい)がしてあった。弱い光りはこの黒布の目を洩(も)れて、微(かす)かに八畳の室を射た。そうしてこの薄暗い灯影(ひかげ)に、真白な着物を着た人間が二人坐(すわ)っていた。二人とも口を利(き)かなかった。二人とも動かなかった。二人とも膝(ひざ)の上へ手を置いて、互いの肩を並べたままじっとしていた。
 黒い布で包んだ球を見たとき、余は紗(しゃ)で金箔(きんぱく)を巻いた弔旗(ちょうき)の頭を思い出した。この喪章(もしょう)と関係のある球の中から出る光線によって、薄く照らされた白衣(はくい)の看護婦は、静かなる点において、行儀の好い点において、幽霊の雛(ひな)のように見えた。そうしてその雛は必要のあるたびに無言のまま必ず動いた。
 余は声も出さなかった。呼びもしなかった。それでも余の寝ている位置に、少しの変化さえあれば彼等はきっと動いた。手を毛布(けっと)のうちで、もじつかせても、心持肩を右から左へ揺(ゆす)っても、頭を――頭は眼が覚(さ)めるたびに必ず麻痺(しび)れていた。あるいは麻痺れるので眼が覚めるのかも知れなかった。――その頭を枕の上で一寸(いっすん)摺(ず)らしても、あるいは足――足はよく寝覚(ねざ)めの種となった。平生(ふだん)の癖で時々、片方(かたかた)を片方の上へ重ねて、そのままとろとろとなると、下になった方の骨が沢庵石(たくわんいし)でも載せられたように、みしみしと痛んで眼が覚めた。そうして余は必ず強い痛さと重たさとを忍んで足の位置を変えなければならなかった。――これらのあらゆる場合に、わが変化に応じて、白い着物の動かない事はけっしてなかった。時にはわが動作を予期して、向うから動くと思われる場合もあった。時には手も足も頭も動かさないのに、眠りが尽きてふと眼を開けさえすれば、白い着物はすぐ顔の傍(そば)へ来た。余には白い着物を着ている女の心持が少しも分らなかった。けれども白い着物を着ている女は余の心を善(よ)く悟った。そうして影の形に随(したが)うごとくに変化した。響の物に応ずるごとくに働らいた。黒い布(ぬの)の目から洩(も)れる薄暗い光の下(もと)に、真白な着物を着た女が、わが肉体の先(せん)を越して、ひそひそと、しかも規則正しく、わが心のままに動くのは恐ろしいものであった。
 余はこの気味の悪い心持を抱いて、眼を開けると共に、ぼんやり眸(ひとみ)に映る室(へや)の天井を眺めた。そうして黒い布で包んだ電気灯の珠(たま)と、その黒い布の織目から洩れてくる光に照らされた白い着物を着た女を見た。見たか見ないうちに白い着物が動いて余に近づいて来た。
秋風鳴万木。 山雨撼高楼。
病骨稜如剣。 一灯青欲愁。

        二十三

 余は好意の干乾(ひから)びた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感じた。
 人が自分に対して相応の義務を尽くしてくれるのは無論ありがたい。けれども義務とは仕事に忠実なる意味で、人間を相手に取った言葉でも何でもない。したがって義務の結果に浴する自分は、ありがたいと思いながらも、義務を果した先方に向って、感謝の念を起(おこ)し悪(にく)い。それが好意となると、相手の所作(しょさ)が一挙一動ことごとく自分を目的にして働いてくるので、活物(いきもの)の自分にその一挙一動がことごとく応(こた)える。そこに互を繋(つな)ぐ暖い糸があって、器械的な世を頼母(たのも)しく思わせる。電車に乗って一区を瞬(またた)く間に走るよりも、人の背に負われて浅瀬を越した方が情(なさけ)が深い。
 義務さえ素直(すなお)には尽くして呉れる人のない世の中に、また自分の義務さえ碌(ろく)に尽くしもしない世の中に、こんな贅沢(ぜいたく)を並べるのは過分である。そうとは知りながら余は好意の干乾(ひから)びた社会に存在する自分を切(せつ)にぎごちなく感じた。――或る人の書いたものの中に、余りせち辛(がら)い世間だから、自用車(じようしゃ)を節倹する格で、当分良心を質に入れたとあったが、質に入れるのは固(もと)より一時の融通を計る便宜(べんぎ)に過ぎない。今の大多数は質に置くべき好意さえ天(てん)で持っているものが少なそうに見えた。いかに工面(くめん)がついても受出そうとは思えなかった。とは悟りながらやはり好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。
 今の青年は、筆を執(と)っても、口を開(あ)いても、身を動かしても、ことごとく「自我の主張」を根本義にしている。それほど世の中は切りつめられたのである。それほど世の中は今の青年を虐待しているのである。「自我の主張」を正面から承(うけたまわ)れば、小憎(こにくら)しい申し分が多い。けれども彼等をしてこの「自我の主張」をあえてして憚(はば)かるところなきまでに押しつめたものは今の世間である。ことに今の経済事情である。「自我の主張」の裏には、首を縊(くく)ったり身を投げたりすると同程度に悲惨な煩悶(はんもん)が含まれている。ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。また孤独な書生であった。そうしてザラツストラはかくのごとく叫んだのである。
 こうは解釈するようなものの、依然として余は常に好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。自分が人に向ってぎごちなくふるまいつつあるにもかかわらず、自(みずか)らぎごちなく感じた。そうして病(やまい)に罹(かか)った。そうして病の重い間、このぎごちなさをどこへか忘れた。
 看護婦は五十グラムの粥(かゆ)をコップの中に入れて、それを鯛味噌(たいみそ)と混ぜ合わして、一匙(ひとさじ)ずつ自分の口に運んでくれた。余は雀(すずめ)の子か烏(からす)の子のような心持がした。医師は病の遠ざかるに連れて、ほとんど五日目ぐらいごとに、余のために食事の献立表(こんだてひょう)を作った。ある時は三通りも四通りも作って、それを比較して一番病人に好さそうなものを撰(えら)んで、あとはそれぎり反故(ほご)にした。
 医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事はもちろんである。彼等をもって、単に金銭を得るが故(ゆえ)に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、実(み)も葢(ふた)もない話である。けれども彼等の義務の中(うち)に、半分の好意を溶(と)き込(こ)んで、それを病人の眼から透(す)かして見たら、彼等の所作(しょさ)がどれほど尊(たっ)とくなるか分らない。病人は彼等のもたらす一点の好意によって、急に生きて来るからである。余は当時そう解釈して独(ひと)りで嬉(うれ)しかった。そう解釈された医師や看護婦も嬉しかろうと思う。
 子供と違って大人(たいじん)は、なまじい一つの物を十筋(とすじ)二十筋の文(あや)からできたように見窮(みきわ)める力があるから、生活の基礎となるべき純潔な感情を恣(ほしい)ままに吸収する場合が極(きわ)めて少ない。本当に嬉しかった、本当にありがたかった、本当に尊(たっと)かったと、生涯(しょうがい)に何度思えるか、勘定(かんじょう)すれば幾何(いくばく)もない。たとい純潔でなくても、自分に活力を添えた当時のこの感情を、余はそのまま長く余の心臓の真中(まんなか)に保存したいと願っている。そうしてこの感情が遠からず単に一片(いっぺん)の記憶と変化してしまいそうなのを切(せつ)に恐れている。――好意の干乾(ひから)びた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感ずるからである。
天下自多事。 被吹天下風。 高秋悲鬢白。
衰病夢顔紅。 送鳥天無尽。 看雲道不窮。
残存吾骨貴。 慎勿妄磨※[#「※」は「石+龍」、読みは「ろう」、638-7]。

        二十四

 小供のとき家に五六十幅の画(え)があった。ある時は床の間の前で、ある時は蔵の中で、またある時は虫干(むしぼし)の折に、余は交(かわ)る交るそれを見た。そうして懸物(かけもの)の前に独(ひと)り蹲踞(うずく)まって、黙然と時を過すのを楽(たのしみ)とした。今でも玩具箱(おもちゃばこ)を引繰(ひっく)り返したように色彩の乱調な芝居を見るよりも、自分の気に入った画に対している方が遥(はる)かに心持が好い。
 画のうちでは彩色(さいしき)を使った南画(なんが)が一番面白かった。惜しい事に余の家の蔵幅(ぞうふく)にはその南画が少なかった。子供の事だから画の巧拙(こうせつ)などは無論分ろうはずはなかった。好(す)き嫌(きら)いと云ったところで、構図の上に自分の気に入った天然の色と形が表われていればそれで嬉(うれ)しかったのである。
 鑑識上の修養を積む機会をもたなかった余の趣味は、その後別段に新らしい変化を受けないで生長した。したがって山水によって画を愛するの弊(へい)はあったろうが、名前によって画を論ずるの譏(そし)りも犯(おか)さずにすんだ。ちょうど画を前後して余の嗜好(しこう)に上(のぼ)った詩と同じく、いかな大家の筆になったものでも、いかに時代を食ったものでも、自分の気に入らないものはいっこう顧みる義理を感じなかった。(余は漢詩の内容を三分して、いたくその一分を愛すると共に、大いに他の一分をけなしている。残る三分の一に対しては、好むべきか悪(にく)むべきかいずれとも意見を有していない。)
 ある時、青くて丸い山を向うに控えた、また的□(てきれき)と春に照る梅を庭に植えた、また柴門(さいもん)の真前(まんまえ)を流れる小河を、垣に沿うて緩(ゆる)く繞(めぐ)らした、家を見て――無論画絹(えぎぬ)の上に――どうか生涯(しょうがい)に一遍で好いからこんな所に住んで見たいと、傍(そば)にいる友人に語った。友人は余の真面目(まじめ)な顔をしけじけ眺めて、君こんな所に住むと、どのくらい不便なものだか知っているかとさも気の毒そうに云った。この友人は岩手(いわて)のものであった。余はなるほどと始めて自分の迂濶(うかつ)を愧(は)ずると共に、余の風流心に泥を塗った友人の実際的なのを悪んだ。
 それは二十四五年も前の事であった。その二十四五年の間に、余もやむをえず岩手出身の友人のようにしだいに実際的になった。崖(がけ)を降りて渓川(たにがわ)へ水を汲(く)みに行くよりも、台所へ水道を引く方が好くなった。けれども南画に似た心持は時々夢を襲った。ことに病気になって仰向(あおむけ)に寝てからは、絶えず美くしい雲と空が胸に描かれた。
 すると小宮君が歌麿(うたまろ)の錦絵(にしきえ)を葉書に刷(す)ったのを送ってくれた。余はその色合(いろあい)の長い間に自(おのず)と寂(さ)びたくすみ方に見惚(みと)れて、眼を放さずそれを眺めていたが、ふと裏を返すと、私はこの画の中にあるような人間に生れたいとか何とか、当時の自分の情調とは似ても似つかぬ事が書いてあったので、こんなやにっこい色男(いろおとこ)は大嫌(だいきらい)だ、おれは暖かな秋の色とその色の中から出る自然の香(か)が好きだと答えてくれと傍(はた)のものに頼んだ。ところが今度は小宮君が自身で枕元へ坐(すわ)って、自然も好いが人間の背景にある自然でなくっちゃとか何とか病人に向って古臭い説を吐(は)きかけるので、余は小宮君を捕(つらま)えて御前は青二才(あおにさい)だと罵(ののし)った。――それくらい病中の余は自然を懐(なつ)かしく思っていた。
 空が空の底に沈み切ったように澄んだ。高い日が蒼(あお)い所を目の届くかぎり照らした。余はその射返(いかえ)しの大地に洽(あま)ねき内にしんとして独(ひと)り温(ぬく)もった。そうして眼の前に群がる無数の赤蜻蛉(あかとんぼ)を見た。そうして日記に書いた。――「人よりも空、語(ご)よりも黙(もく)。……肩に来て人懐(なつ)かしや赤蜻蛉(あかとんぼ)」
 これは東京へ帰った以後の景色(けしき)である。東京へ帰ったあともしばらくは、絶えず美くしい自然の画が、子供の時と同じように、余を支配していたのである。
秋露下南□。 黄花粲照顔。
欲行沿澗遠。 却得与雲還。

        二十五

 子供が来たから見てやれと妻(さい)が耳の傍(そば)へ口を着けて云う。身体(からだ)を動かす力がないので余は元の姿勢のままただ視線だけをその方に移すと、子供は枕を去る六尺ほどの所に坐っていた。
 余の寝ている八畳に付いた床の間は、余の足の方にあった。余の枕元は隣の間を仕切る襖(ふすま)で半(なかば)塞(ふさ)いであった。余は左右に開かれた襖(ふすま)の間から敷居越しに余の子供を見たのである。
 頭の上の方にいるものを室(へや)を隔てて見る視力が、不自然な努力を要するためか、そこに坐っている子供の姿は存外遠方に見えた。無理な一瞥(いちべつ)の下(もと)に余の眸(ひとみ)に映った顔は、逢(お)うたと記(しる)すよりもむしろ眺めたと書く方が適当なくらい離れていた。余はこの一瞥よりほかにまた子供の影を見なかった。余の眸はすぐと自然の角度に復した。けれども余はこの一瞥の短きうちにすべてを見た。
 子供は三人いた。十二から十(とお)、十から八つと順に一列になって隣座敷の真中に並ばされていた。そうして三人ともに女であった。彼等は未来の健康のため、一夏(ひとなつ)を茅(ち)が崎(さき)に過すべく、父母(ふぼ)から命ぜられて、兄弟五人で昨日(きのう)まで海辺(うみべ)を駆(か)け廻っていたのである。父が危篤(きとく)の報知によって、親戚のものに伴(つ)れられて、わざわざ砂深い小松原を引き上げて、修善寺(しゅぜんじ)まで見舞に来たのである。
 けれども危篤の何を意味しているかを知るには彼らはあまり小(ち)さ過(す)ぎた。彼らは死と云う名前を覚えていた。けれども死の恐ろしさと怖(こわ)さとは、彼らの若い額(ひたい)の奥に、いまだかつて影さえ宿さなかった。死に捕(とら)えられた父の身体が、これからどう変化するか彼らには想像ができなかった。父が死んだあとで自分らの運命にどんな結果が来るか、彼らには無論考え得られなかった。彼らはただ人に伴われて父の病気を見舞うべく、父の旅先まで汽車に乗って来たのである。
 彼らの顔にはこの会見が最後かも知れぬと云う愁(うれい)の表情がまるでなかった。彼らは親子の哀別以上に無邪気な顔をもっていた。そうしていろいろ人のいる中に、三人特別な席に並んで坐らせられて、厳粛な空気にじっと行儀よく取りすます窮屈を、切なく感じているらしく思われた。
 余はただ一瞥(いちべつ)の努力に彼らを見ただけであった。そうして病(やまい)を解し得ぬ可憐な小さいものを、わざわざ遠くまで引張り出して、殊勝(しゅしょう)に枕元に坐らせておくのをかえって残酷に思った。妻(さい)を呼んで、せっかく来たものだから、そこいらを見物させてやれと命じた。もしその時の余に、あるいはこれが親子の見納めになるかも知れないと云う懸念(けねん)があったならば、余はもう少ししみじみ彼らの姿を見守ったかも知れなかった。
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