思い出す事など
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著者名:夏目漱石 

 鑑識上の修養を積む機会をもたなかった余の趣味は、その後別段に新らしい変化を受けないで生長した。したがって山水によって画を愛するの弊(へい)はあったろうが、名前によって画を論ずるの譏(そし)りも犯(おか)さずにすんだ。ちょうど画を前後して余の嗜好(しこう)に上(のぼ)った詩と同じく、いかな大家の筆になったものでも、いかに時代を食ったものでも、自分の気に入らないものはいっこう顧みる義理を感じなかった。(余は漢詩の内容を三分して、いたくその一分を愛すると共に、大いに他の一分をけなしている。残る三分の一に対しては、好むべきか悪(にく)むべきかいずれとも意見を有していない。)
 ある時、青くて丸い山を向うに控えた、また的□(てきれき)と春に照る梅を庭に植えた、また柴門(さいもん)の真前(まんまえ)を流れる小河を、垣に沿うて緩(ゆる)く繞(めぐ)らした、家を見て――無論画絹(えぎぬ)の上に――どうか生涯(しょうがい)に一遍で好いからこんな所に住んで見たいと、傍(そば)にいる友人に語った。友人は余の真面目(まじめ)な顔をしけじけ眺めて、君こんな所に住むと、どのくらい不便なものだか知っているかとさも気の毒そうに云った。この友人は岩手(いわて)のものであった。余はなるほどと始めて自分の迂濶(うかつ)を愧(は)ずると共に、余の風流心に泥を塗った友人の実際的なのを悪んだ。
 それは二十四五年も前の事であった。その二十四五年の間に、余もやむをえず岩手出身の友人のようにしだいに実際的になった。崖(がけ)を降りて渓川(たにがわ)へ水を汲(く)みに行くよりも、台所へ水道を引く方が好くなった。けれども南画に似た心持は時々夢を襲った。ことに病気になって仰向(あおむけ)に寝てからは、絶えず美くしい雲と空が胸に描かれた。
 すると小宮君が歌麿(うたまろ)の錦絵(にしきえ)を葉書に刷(す)ったのを送ってくれた。余はその色合(いろあい)の長い間に自(おのず)と寂(さ)びたくすみ方に見惚(みと)れて、眼を放さずそれを眺めていたが、ふと裏を返すと、私はこの画の中にあるような人間に生れたいとか何とか、当時の自分の情調とは似ても似つかぬ事が書いてあったので、こんなやにっこい色男(いろおとこ)は大嫌(だいきらい)だ、おれは暖かな秋の色とその色の中から出る自然の香(か)が好きだと答えてくれと傍(はた)のものに頼んだ。ところが今度は小宮君が自身で枕元へ坐(すわ)って、自然も好いが人間の背景にある自然でなくっちゃとか何とか病人に向って古臭い説を吐(は)きかけるので、余は小宮君を捕(つらま)えて御前は青二才(あおにさい)だと罵(ののし)った。――それくらい病中の余は自然を懐(なつ)かしく思っていた。
 空が空の底に沈み切ったように澄んだ。高い日が蒼(あお)い所を目の届くかぎり照らした。余はその射返(いかえ)しの大地に洽(あま)ねき内にしんとして独(ひと)り温(ぬく)もった。そうして眼の前に群がる無数の赤蜻蛉(あかとんぼ)を見た。そうして日記に書いた。――「人よりも空、語(ご)よりも黙(もく)。……肩に来て人懐(なつ)かしや赤蜻蛉(あかとんぼ)」
 これは東京へ帰った以後の景色(けしき)である。東京へ帰ったあともしばらくは、絶えず美くしい自然の画が、子供の時と同じように、余を支配していたのである。
秋露下南□。 黄花粲照顔。
欲行沿澗遠。 却得与雲還。

        二十五

 子供が来たから見てやれと妻(さい)が耳の傍(そば)へ口を着けて云う。身体(からだ)を動かす力がないので余は元の姿勢のままただ視線だけをその方に移すと、子供は枕を去る六尺ほどの所に坐っていた。
 余の寝ている八畳に付いた床の間は、余の足の方にあった。余の枕元は隣の間を仕切る襖(ふすま)で半(なかば)塞(ふさ)いであった。余は左右に開かれた襖(ふすま)の間から敷居越しに余の子供を見たのである。
 頭の上の方にいるものを室(へや)を隔てて見る視力が、不自然な努力を要するためか、そこに坐っている子供の姿は存外遠方に見えた。無理な一瞥(いちべつ)の下(もと)に余の眸(ひとみ)に映った顔は、逢(お)うたと記(しる)すよりもむしろ眺めたと書く方が適当なくらい離れていた。余はこの一瞥よりほかにまた子供の影を見なかった。余の眸はすぐと自然の角度に復した。けれども余はこの一瞥の短きうちにすべてを見た。
 子供は三人いた。十二から十(とお)、十から八つと順に一列になって隣座敷の真中に並ばされていた。そうして三人ともに女であった。彼等は未来の健康のため、一夏(ひとなつ)を茅(ち)が崎(さき)に過すべく、父母(ふぼ)から命ぜられて、兄弟五人で昨日(きのう)まで海辺(うみべ)を駆(か)け廻っていたのである。父が危篤(きとく)の報知によって、親戚のものに伴(つ)れられて、わざわざ砂深い小松原を引き上げて、修善寺(しゅぜんじ)まで見舞に来たのである。
 けれども危篤の何を意味しているかを知るには彼らはあまり小(ち)さ過(す)ぎた。彼らは死と云う名前を覚えていた。けれども死の恐ろしさと怖(こわ)さとは、彼らの若い額(ひたい)の奥に、いまだかつて影さえ宿さなかった。死に捕(とら)えられた父の身体が、これからどう変化するか彼らには想像ができなかった。父が死んだあとで自分らの運命にどんな結果が来るか、彼らには無論考え得られなかった。彼らはただ人に伴われて父の病気を見舞うべく、父の旅先まで汽車に乗って来たのである。
 彼らの顔にはこの会見が最後かも知れぬと云う愁(うれい)の表情がまるでなかった。彼らは親子の哀別以上に無邪気な顔をもっていた。そうしていろいろ人のいる中に、三人特別な席に並んで坐らせられて、厳粛な空気にじっと行儀よく取りすます窮屈を、切なく感じているらしく思われた。
 余はただ一瞥(いちべつ)の努力に彼らを見ただけであった。そうして病(やまい)を解し得ぬ可憐な小さいものを、わざわざ遠くまで引張り出して、殊勝(しゅしょう)に枕元に坐らせておくのをかえって残酷に思った。妻(さい)を呼んで、せっかく来たものだから、そこいらを見物させてやれと命じた。もしその時の余に、あるいはこれが親子の見納めになるかも知れないと云う懸念(けねん)があったならば、余はもう少ししみじみ彼らの姿を見守ったかも知れなかった。しかし余は医師や傍(はた)のものが余に対して抱いていたような危険を余の病の上に自(みずか)ら感じていなかったのである。
 子供はじきに東京へ帰った。一週間ほどしてから、彼らは各々(めいめい)に見舞状を書いて、それを一つ封に入れて、余の宿に届けた。十二になる筆子(ふでこ)のは、四角な字を入れた整わない候文(そうろうぶん)で、「御祖母様(おばばさま)が雨がふっても風がふいても毎日毎日一日もかかさず御しゃか様へ御詣(おまいり)を遊ばす御百度(おひゃくど)をなされ御父様の御病気一日も早く御全快を祈り遊ばされまた高田の御伯母(おんおば)様どこかの御宮へか御詣り遊ばすとのことに御座候(ござそうろう)ふさ、きよみ、むめの三人の連中は毎日猫の墓へ水をとりかえ花を差し上げて早く御父様の全快を御祈りに居り候」とあった。十(とお)になる恒子(つねこ)のは尋常であった。八(やつ)になるえい子のは全く片仮名だけで書いてあった。字を埋(う)めて読みやすくすると、「御父様の御病気はいかがでございますか、私は無事に暮しておりますから御安心なさいませ。御父様も私の事を思わずに御病気を早く直して早く御帰りなさいませ。私は毎日休まずに学校へ行って居ります。また御母様によろしく」と云うのである。
 余は日記の一頁(ページ)を寝ながら割(さ)いて、それに、留守の中(うち)はおとなしく御祖母様(おばばさま)の云う事を聞かなくてはいけない、今についでのあった時修善寺(しゅぜんじ)の御土産(おみやげ)を届けてやるからと書いて、すぐ郵便で妻(さい)に出さした。子供は余が東京へ帰ってからも、平気で遊んでいる。修善寺の土産(みやげ)はもう壊してしまったろう。彼等が大きくなったとき父のこの文を読む機会がもしあったなら、彼等ははたしてどんな感じがするだろう。
傷心秋已到。 嘔血骨猶存。
病起期何日。 夕陽還一村。

        二十六

 五十グラムと云うと日本の二勺半にしか当らない。ただそれだけの飲料で、この身体(からだ)を終日持(も)ち応(こた)えていたかと思えば、自分ながら気の毒でもあるし、可愛(かわい)らしくもある。また馬鹿らしくもある。
 余は五十グラムの葛湯(くずゆ)を恭(うやう)やしく飲んだ。そうして左右の腕に朝夕(あさゆう)二回ずつの注射を受けた。腕は両方とも針の痕(あと)で埋(う)まっていた。医師は余に今日はどっちの腕にするかと聞いた。余はどっちにもしたくなかった。薬液を皿に溶いたり、それを注射器に吸い込ましたり、針を丁寧(ていねい)に拭(ぬぐ)ったり、針の先に泡のように細(こま)かい薬を吹かして眺めたりする注射の準備ははなはだ物奇麗(ものぎれい)で心持が好いけれども、その針を腕にぐさと刺して、そこへ無理に薬を注射するのは不愉快でたまらなかった。余は医師に全体その鳶色(とびいろ)の液は何だと聞いた。森成(もりなり)さんはブンベルンとかブンメルンとか答えて、遠慮なく余の腕を痛がらせた。
 やがて日に二回の注射が一回に減じた。その一回もまたしばらくすると廃(や)めになった。そうして葛湯の分量が少しずつ増して来た。同時に口の中が執拗(しゅうね)く粘(ねば)り始めた。爽(さわや)かな飲料で絶えず舌と顋(あご)と咽喉(のど)を洗っていなくてはいたたまれなかった。余は医師に氷を請求した。医師は固い片(かけ)らが滑(すべ)って胃の腑(ふ)に落ち込む危険を恐れた。余は天井(てんじょう)を眺めながら、腹膜炎を患(わず)らった廿歳(はたち)の昔を思い出した。その時は病気に障(さわ)るとかで、すべての飲物を禁ぜられていた。ただ冷水で含嗽(うがい)をするだけの自由を医師から得たので、余は一時間のうちに、何度となく含嗽をさせて貰った。そうしてそのつど人に知れないように、そっと含嗽の水を幾分かずつ胃の中に飲み下して、やっと熬(い)りつくような渇(かわき)を紛(まぎ)らしていた。
 昔の計(はかりごと)を繰り返す勇気のなかった余は、口中(こうちゅう)を潤(うるお)すための氷を歯で噛(か)み砕(くだ)いては、正直に残らず吐き出した。その代り日に数回平野水(ひらのすい)を一口ずつ飲まして貰う事にした。平野水がくんくんと音を立てるような勢で、食道から胃へ落ちて行く時の心持は痛快であった。けれども咽喉を通り越すや否やすぐとまた飲みたくなった。余は夜半(よなか)にしばしば看護婦から平野水を洋盃(コップ)に注(つ)いで貰って、それをありがたそうに飲んだ当時をよく記憶している。
 渇(かつ)はしだいに歇(や)んだ。そうして渇よりも恐ろしい餓(ひも)じさが腹の中を荒して歩くようになった。余は寝ながら美くしい食膳(しょくぜん)を何通(なんとお)りとなく想像で拵(こし)らえて、それを眼の前に並べて楽んでいた。そればかりではない、同じ献立(こんだて)を何人前も調(ととの)えておいて、多数の朋友にそれを想像で食わして喜こんだ。今考えると普通のものの嬉しがるような食物(くいもの)はちっともなかった。こう云う自分にすらあまりありがたくはない御膳(おぜん)ばかりを眼の前に浮べていたのである。
 森成さんがもう葛湯(くずゆ)も厭(あ)きたろうと云って、わざわざ東京から米を取り寄せて重湯(おもゆ)を作ってくれた時は、重湯を生れて始めて啜(すす)る余には大いな期待があった。けれども一口飲んで始めてその不味(まず)いのに驚ろいた余は、それぎり重湯というものを近づけなかった。その代りカジノビスケットを一片(ひときれ)貰った折の嬉(うれ)しさはいまだに忘れられない。わざわざ看護婦を医師の室(へや)までやって、特に礼を述べたくらいである。
 やがて粥(かゆ)を許された。その旨(うま)さはただの記憶となって冷やかに残っているだけだから実感としては今思い出せないが、こんな旨いものが世にあるかと疑いつつ舌を鳴らしたのは確かである。それからオートミールが来た。ソーダビスケットが来た。余はすべてをありがたく食った。そうして、より多く食いたいと云う事を日課のように繰り返して森成さんに訴えた。森成さんはしまいに余の病床に近づくのを恐れた。東君(ひがしくん)はわざわざ妻(さい)の所へ行って、先生はあんなもっともな顔をしている癖に、子供のように始終(しじゅう)食物(くいもの)の話ばかりしていておかしいと告げた。
腸(はらわた)に春滴(したた)るや粥の味

        二十七

 オイッケンは精神生活と云う事を真向(まむき)に主張する学者である。学者の習慣として、自己の説を唱(とな)うる前には、あらゆる他のイズムを打破する必要を感ずるものと見えて、彼は彼のいわゆる精神生活を新たならしむるため、その用意として、現代生活に影響を与うる在来からの処生上の主義に一も二もなく非難を加えた。自然主義もやられる、社会主義も叩(たた)かれる。すべての主義が彼の眼から見て存在の権利を失ったかのごとくに説き去られた時、彼は始めて精神生活の四字を拈出(ねんしゅつ)した。そうして精神生活の特色は自由である、自由であると連呼(れんこ)した。
 試みに彼に向って自由なる精神生活とはどんな生活かと問えば、端的(たんてき)にこんなものだとはけっして答えない。ただ立派な言葉を秩序よく並べ立てる。むずかしそうな理窟(りくつ)を蜿蜒(えんえん)と幾重(いくえ)にも重ねて行く。そこに学者らしい手際(てぎわ)はあるかも知れないが、とぐろの中に巻き込まれる素人(しろうと)は茫然(ぼんやり)してしまうだけである。
 しばらく哲学者の言葉を平民に解るように翻訳して見ると、オイッケンのいわゆる自由なる精神生活とは、こんなものではなかろうか。――我々は普通衣食のために働らいている。衣食のための仕事は消極的である。換言すると、自分の好悪(こうお)撰択を許さない強制的の苦しみを含んでいる。そう云う風にほかから圧(お)しつけられた仕事では精神生活とは名づけられない。いやしくも精神的に生活しようと思うなら、義務なきところに向って自(みずか)ら進む積極のものでなければならない。束縛によらずして、己(おの)れ一個の意志で自由に営む生活でなければならない。こう解釈した時、誰も彼の精神生活を評してつまらないとは云うまい。コムトは倦怠(アンニュイ)をもって社会の進歩を促(うな)がす原因と見たくらいである。倦怠の極やむをえずして仕事を見つけ出すよりも、内に抑(おさ)えがたき或るものが蟠(わだか)まって、じっと持(も)ち応(こた)えられない活力を、自然の勢から生命の波動として描出(びょうしゅつ)し来(きた)る方が実際実(み)の入(い)った生(い)き法(かた)と云わなければなるまい。舞踏でも音楽でも詩歌(しいか)でも、すべて芸術の価値はここに存していると評しても差支(さしつか)えない。
 けれども学者オイッケンの頭の中で纏(まと)め上げた精神生活が、現に事実となって世の中に存在し得るや否やに至っては自(おのず)から別問題である。彼オイッケン自身が純一無雑に自由なる精神生活を送り得るや否やを想像して見ても分明(ぶんみょう)な話ではないか。間断なきこの種の生活に身を託せんとする前に、吾人は少なくとも早くすでに職業なき閑人として存在しなければならないはずである。
 豆腐屋が気に向いた朝だけ石臼を回して、心の機(はず)まないときはけっして豆を挽(ひ)かなかったなら商買(しょうばい)にはならない。さらに進んで、己(おの)れの好いた人だけに豆腐を売って、いけ好かない客をことごとく謝絶したらなおの事商買にはならない。すべての職業が職業として成立するためには、店に公平の灯(ともし)を点(つ)けなければならない。公平と云う美しそうな徳義上の言葉を裏から言い直すと、器械的と云う醜い本体を有しているに過ぎない。一分(いっぷん)の遅速なく発着する汽車の生活と、いわゆる精神的生活とは、正に両極に位する性質のものでなければならない。そうして普通の人は十が十までこの両端を七分三分(しちぶさんぶ)とか六分四分(ろくぶしぶ)とかに交(ま)ぜ合(あ)わして自己に便宜(べんぎ)なようにまた世間に都合の好いように(すなわち職業に忠実なるように)生活すべく天(てん)から余儀なくされている。これが常態である。たまたま芸術の好きなものが、好きな芸術を職業とするような場合ですら、その芸術が職業となる瞬間において、真の精神生活はすでに汚(けが)されてしまうのは当然である。芸術家としての彼は己(おの)れに篤(あつ)き作品を自然の気乗りで作り上げようとするに反して、職業家としての彼は評判のよきもの、売高(うれだか)の多いものを公(おおや)けにしなくてはならぬからである。
 すでに個人の性格及び教育次第で融通の利(き)かなくなりそうなオイッケンのいわゆる自由なる精神生活は、現今の社会組織の上から見ても、これほど応用の範囲の狭いものになる。それを一般に行(ゆ)き亘(わた)って実行のできる大主義のごとくに説き去る彼は、学者の通弊として統一病に罹(かか)ったのだと酷評を加えてもよいが、たまたま文芸を好んで文芸を職業としながら、同時に職業としての文芸を忌(い)んでいる余のごときものの注意を呼び起して、その批評心を刺戟(しげき)する力は充分ある。大患に罹(かか)った余は、親の厄介になった子供の時以来久しぶりで始めてこの精神生活の光に浴した。けれどもそれはわずか一二カ月の中であった。病(やまい)が癒(なお)るに伴(つ)れ、自己がしだいに実世間に押し出されるに伴れ、こう云う議論を公けにして得意なオイッケンを羨(うら)やまずにはいられなくなって来た。

        二十八

 学校を出た当時小石川のある寺に下宿をしていた事がある。そこの和尚(おしょう)は内職に身の上判断をやるので、薄暗い玄関の次の間に、算木(さんぎ)と筮竹(ぜいちく)を見るのが常であった。固(もと)より看板をかけての公表(おもてむき)な商買(しょうばい)でなかったせいか、占(うらない)を頼(たのみ)に来るものは多くて日に四五人、少ない時はまるで筮竹を揉(も)む音さえ聞えない夜もあった。易断(えきだん)に重きを置かない余は、固よりこの道において和尚と無縁の姿であったから、ただ折々襖越(ふすまご)しに、和尚の、そりゃ当人の望み通りにした方が好うがすななどと云う縁談に関する助言(じょごん)を耳に挟(さしは)さむくらいなもので、面と向き合っては互に何も語らずに久しく過ぎた。
 ある時何かのついでに、話がつい人相とか方位とか云う和尚の縄張(なわば)り内に摺(ず)り込(こ)んだので、冗談半分私(わたし)の未来はどうでしょうと聞いて見たら、和尚は眼を据(す)えて余の顔をじっと眺めた後(あと)で、大して悪い事もありませんなと答えた。大して悪い事もないと云うのは、大して好い事もないと云ったも同然で、すなわち御前の運命は平凡だと宣告したようなものである。余は仕方がないから黙っていた。すると和尚が、あなたは親の死目には逢(あ)えませんねと云った。余はそうですかと答えた。すると今度はあなたは西へ西へと行く相があると云った。余はまたそうですかと答えた。最後に和尚は、早く顋(あご)の下へ髯(ひげ)を生やして、地面を買って居宅(うち)を御建てなさいと勧めた。余は地面を買って居宅を建て得る身分なら何も君の所に厄介になっちゃいないと答えたかった。けれども顋の下の髯と、地面居宅(やしき)とはどんな関係があるか知りたかったので、それだけちょっと聞き返して見た。すると和尚は真面目(まじめ)な顔をして、あなたの顔を半分に割ると上の方が長くって、下の方が短か過ぎる。したがって落ちつかない。だから早く顋髯を生やして上下の釣合(つりあい)を取るようにすれば、顔の居坐(いすわ)りがよくなって動かなくなりますと答えた。余は余の顔の雑作(ぞうさく)に向って加えられたこの物理的もしくは美学的の批判が、優に余の未来の運命を支配するかのごとく容易に説き去った和尚を少しおかしく感じた。そうしてなるほどと答えた。
 一年ならずして余は松山に行った。それからまた熊本に移った。熊本からまた倫敦(ロンドン)に向った。和尚の云った通り西へ西へと赴(おもむ)いたのである。余の母は余の十三四の時に死んだ。その時は同じ東京におりながら、つい臨終の席には侍(はんべ)らなかった。父の死んだ電報を東京から受け取ったのは、熊本にいる頃の事であった。これで見ると、親の死目に逢(あ)えないと云った和尚の言葉もどうかこうか的中している。ただ顋(あご)の髯(ひげ)に至ってはその時から今日(こんにち)に至るまで、寧日(ねいじつ)なく剃(そ)り続けに剃っているから、地面と居宅(やしき)がはたして髯と共にわが手に入(い)るかどうかいまだに判然(はんぜん)せずにいた。
 ところが修善寺(しゅぜんじ)で病気をして寝つくや否や、頬がざらざらし始めた。それが五六日すると一本一本に撮(つま)めるようになった。またしばらくすると、頬から顋(あご)が隙間(すきま)なく隠れるようになった。和尚(おしょう)の助言(じょごん)は十七八年ぶりで始めて役に立ちそうな気色(けしき)に髯は延びて来た。妻(さい)はいっそ御生(おは)やしなすったら好いでしょうと云った。余も半分その気になって、しきりにその辺を撫(な)で廻していた。ところが幾日(いくか)となく洗いも櫛(くしけ)ずりもしない髪が、膏(あぶら)と垢(あか)で余の頭を埋(うず)め尽(つ)くそうとする汚苦(むさくる)しさに堪(た)えられなくなって、ある日床屋を呼んで、不充分ながら寝たまま頭に手を入れて顔に髪剃(かみそり)を当てた。その時地面と居宅の持主たるべき資格をまた奇麗(きれい)に失ってしまった。傍(はた)のものは若くなった若くなったと云ってしきりに囃(はや)し立てた。独(ひと)り妻だけはおやすっかり剃(す)っておしまいになったんですかと云って、少し残り惜しそうな顔をした。妻は夫の病気が本復した上にも、なお地面と居宅が欲しかったのである。余といえども、髯を落さなければ地面と居宅がきっと手に入(い)ると保証されるならば、あの顋はそのままに保存しておいたはずである。
 その後(ご)髯は始終剃った。朝早く床の上に起き直って、向うの三階の屋根と吾室(わがへや)の障子(しょうじ)の間にわずかばかり見える山の頂(いただき)を眺めるたびに、わが頬の潔(いさぎ)よく剃り落してある滑(なめ)らかさを撫(な)で廻しては嬉(うれ)しがった。地面と居宅は当分断念したか、または老後の楽しみにあとあとまで取っておくつもりだったと見える。
客夢回時一鳥鳴。 夜来山雨暁来晴。
孤峯頂上孤松色。 早映紅暾欝々明。

        二十九

 修善寺(しゅぜんじ)が村の名で兼(かね)て寺の名であると云う事は、行かぬ前から疾(とく)に承知していた。しかしその寺で鐘の代りに太鼓を叩(たた)こうとはかつて想(おも)い至らなかった。それを始めて聞いたのはいつの頃であったか全く忘れてしまった。ただ今でも余が鼓膜の上に、想像の太鼓がどん――どんと時々響く事がある。すると余は必ず去年の病気を憶(おも)い出す。
 余は去年の病気と共に、新らしい天井(てんじょう)と、新らしい床(とこ)の間(ま)にかけた大島将軍の従軍の詩を憶い出す。そうしてその詩を朝から晩までに何遍となく読み返した当時を明らさまに憶い出す。新らしい天井と、新らしい床の間と、新らしい柱と、新らし過ぎて開閉(あけたて)の不自由な障子(しょうじ)は、今でも眼の前にありありと浮べる事ができるが、朝から晩までに何遍となく読み返した大島将軍の詩は、読んでは忘れ、読んでは忘れして、今では白壁(しらかべ)のように白い絹の上を、どこまでも同じ幅で走って、尾頭(おかしら)ともにぷつりと折れてしまう黒い線を認めるだけである。句に至っては、始めの剣戟(けんげき)という二字よりほか憶い出せない。
 余は余の鼓膜(こまく)の上に、想像の太鼓がどん――どんと響くたびに、すべてこれらのものを憶い出す。これらのものの中に、じっと仰向(あおむ)いて、尻の痛さを紛(まぎ)らしつつ、のつそつ夜明を待ち佗(わ)びたその当時を回顧すると、修禅寺(しゅぜんじ)の太鼓の音(ね)は、一種云うべからざる連想をもって、いつでも余の耳の底に卒然と鳴り渡る。
 その太鼓は最も無風流な最も殺風景な音を出して、前後を切り捨てた上、中間だけを、自暴(やけ)に夜陰に向って擲(たた)きつけるように、ぶっきら棒な鳴り方をした。そうして、一つどんと素気(そっけ)なく鳴ると共にぱたりと留った。余は耳を峙(そば)だてた。一度静まった夜の空気は容易に動こうとはしなかった。やや久(しば)らくして、今のは錯覚ではなかろうかと思い直す頃に、また一つどんと鳴った。そうして愛想(あいそ)のない音は、水に落ちた石のように、急に夜の中に消えたぎり、しんとした表に何の活動も伝えなかった。寝られない余は、待ち伏せをする兵士のごとく次の音(ね)の至るを思いつめて待った。その次の音はやはり容易には来なかった。ようやくのこと第一第二と同じく極(きわ)めて乾(から)び切(き)った響が――響とは云(い)い悪(にく)い。黒い空気の中に、突然無遠慮な点をどっと打って直(すぐ)筆を隠したような音が、余の耳朶(じだ)を叩(たた)いて去る後(あと)で、余はつくづくと夜を長いものに観じた。
 もっとも夜は長くなる頃であった。暑さもしだいに過ぎて、雨の降る日はセルに羽織を重ねるか、思い切って朝から袷(あわせ)を着るかしなければ、肌寒(はださむ)を防ぐ便(たより)とならなかった時節である。山の端に落ち込む日は、常の短かい日よりもなおの事短かく昼を端折(はしお)って、灯(ひ)は容易に点(つ)いた。そうして夜(よ)は中々明けなかった。余はじりじりと昼に食い入る夜長を夜ごとに恐れた。眼が開(あ)くときっと夜であった。これから何時間ぐらいこうしてしんと夜の中に生きながら埋(うず)もっている事かと思うと、我ながらわが病気に堪(た)えられなかった。新らしい天井と、新らしい柱と、新らしい障子を見つめるに堪えなかった。真白な絹に書いた大きな字の懸物(かけもの)には最も堪えなかった。ああ早く夜が明けてくれればいいのにと思った。
 修禅寺の太鼓はこの時にどんと鳴るのである。そうしてことさらに余を待ち遠しがらせるごとく疎(まば)らな間隔を取って、暗い夜をぽつりぽつりと縫い始める。それが五分と経(た)ち七分と経つうちに、しだいに調子づいて、ついに夕立の雨滴(あまだれ)よりも繁(しげ)く逼(せま)って来る変化は、余から云うともう日の出に間もないと云う報知であった。太鼓を打ち切ってしばらくの後(のち)に、看護婦がやっと起きて室(へや)の廊下の所だけ雨戸を開けてくれるのは何よりも嬉しかった。外はいつでも薄暗く見えた。
 修善寺に行って、寺の太鼓を余ほど精密に研究したものはあるまい。その結果として余は今でも時々どんと云う余音(よいん)のないぶっ切ったような響を余の鼓膜の上に錯覚のごとく受ける。そうして一種云うべからざる心持を繰り返している。
夢繞星□□露幽。 夜分形影暗灯愁。
旗亭病近修禅寺。 一□疎鐘已九秋。

        三十

 山を分けて谷一面の百合(ゆり)を飽(あ)くまで眺めようと心にきめた翌日(あくるひ)から床の上に仆(たお)れた。想像はその時限りなく咲き続く白い花を碁石(ごいし)のように点々と見た。それを小暗(おぐら)く包もうとする緑の奥には、重い香(か)が沈んで、風に揺られる折々を待つほどに、葉は息苦しく重なり合った。――この間宿の客が山から取って来て瓶(へい)に挿(さ)した一輪の白さと大きさと香(かおり)から推して、余は有るまじき広々とした画(え)を頭の中に描いた。
 聖書にある野の百合とは今云う唐菖蒲(からしょうぶ)の事だと、その唐菖蒲を床に活けておいた時、始めて芥舟君(かいしゅうくん)から教わって、それではまるで野の百合の感じが違うようだがと話し合った一月前(ひとつきまえ)も思い出された。聖書と関係の薄い余にさえ、檜扇(ひおうぎ)を熱帯的に派出(はで)に仕立てたような唐菖蒲は、深い沈んだ趣(おもむき)を表わすにはあまり強過ぎるとしか思われなかった。唐菖蒲はどうでもよい。余が想像に描いた幽(かす)かな花は、一輪も見る機会のないうちに立秋に入(い)った。百合は露(つゆ)と共に摧(くだ)けた。
 人は病むもののために裏の山に入(い)って、ここかしこから手の届く幾茎(いくくき)の草花を折って来た。裏の山は余の室(へや)から廊下伝いにすぐ上(のぼ)る便(たより)のあるくらい近かった。障子(しょうじ)さえ明けておけば、寝ながら縁側(えんがわ)と欄間(らんま)の間を埋(うず)める一部分を鼻の先に眺(なが)める事もできた。その一部分は岩と草と、岩の裾(すそ)を縫うて迂回(うかい)して上(のぼ)る小径(こみち)とから成り立っていた。余は余のために山に上(のぼ)るものの姿が、縁の高さを辞して欄間の高さに達するまでに、一遍影を隠して、また反対の位地から現われて、ついに余の視線のほかに没してしまうのを大いなる変化のごとくに眺めた。そうして同じ彼等の姿が再び欄間の上から曲折して下(くだ)って来るのを疎(うと)い眼で眺めた。彼らは必ず粗(あら)い縞(しま)の貸浴衣(かしゆかた)を着て、日の照る時は手拭(てぬぐい)で頬冠(ほおかむ)りをしていた。岨道(そばみち)を行くべきものとも思われないその姿が、花を抱(かか)えて岩の傍(そば)にぬっと現われると、一種芝居にでも有りそうな感じを病人に与えるくらい釣合(つりあい)がおかしかった。
 彼等の採(と)って来てくれるものは色彩の極(きわ)めて乏しい野生の秋草であった。
 ある日しんとした真昼に、長い薄(すすき)が畳に伏さるように活けてあったら、いつどこから来たとも知れない蟋蟀(きりぎりす)がたった一つ、おとなしく中ほどに宿(とま)っていた。その時薄は虫の重みで撓(しな)いそうに見えた。そうして袋戸(ふくろど)に張った新らしい銀の上に映る幾分かの緑が、暈(ぼか)したように淡くかつ不分明(ふぶんみょう)に、眸(ひとみ)を誘うので、なおさら運動の感覚を刺戟(しげき)した。
 薄は大概すぐ縮(ちぢ)れた。比較的長く持つ女郎花(おみなえし)さえ眺めるにはあまり色素が足りなかった。ようやく秋草の淋(さみ)しさを物憂(ものう)く思い出した時、始めて蜀紅葵(しょっこうあおい)とか云う燃えるような赤い花弁(はなびら)を見た。留守居の婆さんに銭(ぜに)をやって、もっと折らせろと云ったら、銭は要(い)りません、花は預かり物だから上げられませんと断わったそうである。余はその話を聞いて、どんな所に花が咲いていて、どんな婆さんがどんな顔をして花の番をしているか、見たくてたまらなかった。蜀紅葵の花弁(はなびら)は燃えながら、翌日(あくるひ)散ってしまった。
 桂川(かつらがわ)の岸伝いに行くといくらでも咲いていると云うコスモスも時々病室を照らした。コスモスはすべての中(うち)で最も単簡(たんかん)でかつ長く持った。余はその薄くて規則正しい花片と、空(くう)に浮んだように超然と取り合わぬ咲き具合とを見て、コスモスは干菓子(ひがし)に似ていると評した。なぜですかと聞いたものがあった。範頼(のりより)の墓守(はかもり)の作ったと云う菊を分けて貰って来たのはそれからよほど後(のち)の事である。墓守は鉢に植えた菊を貸して上げようかと云ったそうである。この墓守の顔も見たかった。しまいには畠山(はたけやま)の城址(しろあと)からあけびと云うものを取って来て瓶(へい)に挿(はさ)んだ。それは色の褪(さ)めた茄子(なす)の色をしていた。そうしてその一つを鳥が啄(つつ)いて空洞(うつろ)にしていた。――瓶に挿(さ)す草と花がしだいに変るうちに気節はようやく深い秋に入(い)った。
日似三春永。 心随野水空。
牀頭花一片。 閑落小眠中。

        三十一

 若い時兄を二人失った。二人とも長い間床(とこ)についていたから、死んだ時はいずれも苦しみ抜いた病(やまい)の影を肉の上に刻(きざ)んでいた。けれどもその長い間に延びた髪と髯(ひげ)は、死んだ後(あと)までも漆(うるし)のように黒くかつ濃かった。髪はそれほどでもないが、剃(そ)る事のできないで不本意らしく爺々汚(じじむさ)そうに生えた髯(ひげ)に至っては、見るから憐(あわ)れであった。余は一人の兄の太く逞(たくま)しい髯の色をいまだに記憶している。死ぬ頃の彼の顔がいかにも気の毒なくらい瘠(や)せ衰(おとろ)えて小(ちい)さく見えるのに引き易(か)えて、髯だけは健康な壮者を凌(しの)ぐ勢(いきおい)で延びて来た一種の対照を、気味悪くまた情(なさけ)なく感じたためでもあろう。
 大患に罹(かか)って生か死かと騒がれる余に、幾日かの怪しき時間は、生とも死とも片づかぬ空裏(くうり)に過ぎた。存亡の領域がやや明かになった頃、まず吾(わが)存在を確めたいと云う願から、とりあえず鏡を取ってわが顔を照らして見た。すると何年か前に世を去った兄の面影(おもかげ)が、卒然として冷かな鏡の裏を掠(かす)めて去った。骨ばかり意地悪く高く残った頬、人間らしい暖味(あたたかみ)を失った蒼(あお)く黄色い皮、落ち込んで動く余裕のない眼、それから無遠慮に延びた髪と髯、――どう見ても兄の記念であった。
 ただ兄の髪と髯が死ぬまで漆(うるし)のように黒かったのにかかわらず、余のそれらにはいつの間にか銀の筋が疎(まば)らに交っていた。考えて見ると兄は白髪(しらが)の生える前に死んだのである。死ぬとすればその方が屑(いさぎ)よいかも知れない。白髪に鬢(びん)や頬をぽつぽつ冒されながら、まだ生き延びる工夫(くふう)に余念のない余は、今を盛りの年頃に容赦なく世を捨てて逝(ゆ)く壮者に比(くら)べると、何だかきまりが悪いほど未練らしかった。鏡に映るわが表情のうちには、無論はかないと云う心持もあったが、死(し)に損(そく)なったと云う恥(はじ)も少しは交っていた。また「ヴァージニバス・ピュエリスク」の中に、人はいくら年を取っても、少年の時と同じような性情を失わないものだと書いてあったのを、なるほどと首肯(うなず)いて読んだ当時を憶(おも)い出して、ただその当時に立ち戻りたいような気もした。
「ヴァージニバス・ピュエリスク」の著者は、長い病苦に責められながらも、よくその快活の性情を終焉(しゅうえん)まで持ち続けたから、嘘(うそ)は云わない男である。けれども惜しい事に髪の黒いうちに死んでしまった。もし彼が生きて六十七十の高齢に達したら、あるいはこうは云い切れなかったろうと思えば、思われない事もない。自分が二十の時、三十の人を見れば大変に懸隔があるように思いながら、いつか三十が来ると、二十の昔と同じ気分な事が分ったり、わが三十の時、四十の人に接すると、非常な差違を認めながら、四十に達して三十の過去をふり返れば、依然として同じ性情に活きつつある自己を悟ったりするので、スチーヴンソンの言葉ももっともと受けて、今日(きょう)まで世を経(へ)たようなものの、外部から萌(きざ)して来る老頽(ろうたい)の徴候を、幾茎(いくけい)かの白髪に認めて、健康の常時とは心意の趣(おもむき)を異(こと)にする病裡(びょうり)の鏡に臨んだ刹那(せつな)の感情には、若い影はさらに射(さ)さなかったからである。
 白髪に強(し)いられて、思い切りよく老(おい)の敷居を跨(また)いでしまおうか、白髪を隠して、なお若い街巷(ちまた)に徘徊(はいかい)しようか、――そこまでは鏡を見た瞬間には考えなかった。また考える必要のないまでに、病める余は若い人々を遠くに見た。病気に罹(かか)る前、ある友人と会食したら、その友人が短かく刈(か)った余の揉上(もみあげ)を眺めて、そこから白髪に冒(おか)されるのを苦にしてだんだん上の方へ剃(す)り上(あ)げるのではないかと聞いた。その時の余にはこう聞かれるだけの色気は充分あった。けれども病(やまい)に罹(かか)った余は、白髪(しらが)を看板にして事をしたいくらいまでに諦(あきら)めよく落ちついていた。
 病の癒(い)えた今日(こんにち)の余は、病中の余を引き延ばした心に活きているのだろうか、または友人と食卓についた病気前(びょうきぜん)の若さに立ち戻っているだろうか。はたしてスチーヴンソンの云った通りを歩く気だろうか、または中年に死んだ彼の言葉を否定してようやく老境に進むつもりだろうか。――白髪と人生の間に迷うものは若い人たちから見たらおかしいに違ない。けれども彼等若い人達にもやがて墓と浮世の間に立って去就を決しかねる時期が来るだろう。
桃花馬上少年時。 笑拠銀鞍払柳枝。
緑水至今迢逓去。 月明来照鬢如糸。

        三十二

 初めはただ漠然(ばくぜん)と空を見て寝ていた。それからしばらくしていつ帰れるのだろうと思い出した。ある時はすぐにも帰りたいような心持がした。けれども床の上に起き直る気力すらないものが、どうして汽車に揺られて半日の遠きを行くに堪(た)え得ようかと考えると、帰りたいと念ずる自分がかなり馬鹿気て見えた。したがって傍(はた)のものに自分はいつ帰れるかと問(と)い糺(ただ)した事もなかった。同時に秋は幾度の昼夜を巻いて、わが心の前を過ぎた。空はしだいに高くかつ蒼(あお)くわが上を掩(おお)い始めた。
 もう動かしても大事なかろうと云う頃になって、東京から別に二人の医者を迎えてその意見を確めたら、今二週間の後(のち)にと云う挨拶(あいさつ)であった。挨拶があった翌日(あくるひ)から余は自分の寝ている地と、寝ている室(へや)を見捨るのが急に惜しくなった。約束の二週間がなるべくゆっくり廻転するようにと冀(ねが)った。かつて英国にいた頃、精一杯(せいいっぱい)英国を悪(にく)んだ事がある。それはハイネが英国を悪んだごとく因業(いんごう)に英国を悪んだのである。けれども立つ間際(まぎわ)になって、知らぬ人間の渦(うず)を巻いて流れている倫敦(ロンドン)の海を見渡したら、彼らを包む鳶色(とびいろ)の空気の奥に、余の呼吸に適する一種の瓦斯(ガス)が含まれているような気がし出した。余は空を仰いで町の真中(まなか)に佇(たた)ずんだ。二週間の後この地を去るべき今の余も、病む躯(からだ)を横(よこた)えて、床(とこ)の上に独(ひと)り佇ずまざるを得なかった。余は特に余のために造って貰った高さ一尺五寸ほどの偉大な藁蒲団(わらぶとん)に佇ずんだ。静かな庭の寂寞(せきばく)を破る鯉(こい)の水を切る音に佇ずんだ。朝露(あさつゆ)に濡(ぬ)れた屋根瓦(やねがわら)の上を遠近(おちこち)と尾を揺(うご)かし歩く鶺鴒(せきれい)に佇ずんだ。枕元の花瓶(かへい)にも佇ずんだ。廊下のすぐ下をちょろちょろと流れる水の音(ね)にも佇ずんだ。かくわが身を繞(めぐ)る多くのものに□徊(ていかい)しつつ、予定の通り二週間の過ぎ去るのを待った。
 その二週間は待ち遠いはがゆさもなく、またあっけない不足もなく普通の二週間のごとくに来て、尋常の二週間のごとくに去った。そうして雨の濛々(もうもう)と降る暁を最後の記念として与えた。暗い空を透(す)かして、余は雨かと聞いたら、人は雨だと答えた。
 人は余を運搬する目的をもって、一種妙なものを拵(こし)らえて、それを座敷の中(うち)に舁(か)き入(い)れた。長さは六尺もあったろう、幅はわずか二尺に足らないくらい狭かった。その一部は畳を離れて一尺ほどの高さまで上に反(そ)り返(かえ)るように工夫してあった。そうして全部を白い布(ぬの)で捲(ま)いた。余は抱かれて、この高く反った前方に背を託して、平たい方に足を長く横たえた時、これは葬式だなと思った。生きたものに葬式と云う言葉は穏当でないが、この白い布で包んだ寝台(ねだい)とも寝棺(ねがん)とも片のつかないものの上に横になった人は、生きながら葬(とむら)われるとしか余には受け取れなかった。余は口の中で、第二の葬式と云う言葉をしきりに繰り返した。人の一度は必ずやって貰う葬式を、余だけはどうしても二返(へん)執行しなければすまないと思ったからである。
 舁(か)かれて室(へや)を出るときは平(たいら)であったが、階子段(はしごだん)を降りる際(きわ)には、台が傾いて、急に輿(こし)から落ちそうになった。玄関に来ると同宿の浴客(よくかく)が大勢並んで、左右から白い輿を目送(もくそう)していた。いずれも葬式の時のように静かに控えていた。余の寝台はその間を通り抜けて、雨の降る庇(ひさし)の外に担(かつ)ぎ出された。外にも見物人はたくさんいた。やがて輿を竪(たて)に馬車の中に渡して、前後相対する席と席とで支えた。あらかじめ寸法を取って拵(こし)らえたので、輿はきっしりと旨(うま)く馬車の中に納った。馬は降る中を動き出した。余は寝ながら幌(ほろ)を打つ雨の音を聞いた。そうして、御者台(ぎょしゃだい)と幌の間に見える窮屈な空間から、大きな岩や、松や、水の断片をありがたく拝した。竹藪(たけやぶ)の色、柿紅葉(かきもみじ)、芋(いも)の葉、槿垣(むくげがき)、熟した稲の香(か)、すべてを見るたびに、なるほど今はこんなものの有るべき季節であると、生れ返ったように憶(おも)い出しては嬉(うれ)しがった。さらに進んでわが帰るべき所には、いかなる新らしい天地が、寝ぼけた古い記憶を蘇生せしむるために展開すべく待ち構えているだろうかと想像して独(ひと)り楽しんだ。同時に昨日(きのう)まで□徊(ていかい)した藁蒲団(わらぶとん)も鶺鴒(せきれい)も秋草も鯉(こい)も小河もことごとく消えてしまった。
万事休時一息回。 余生豈忍比残灰。
風過古澗秋声起。 日落幽篁瞑色来。
漫道山中三月滞。 □知門外一天開。
帰期勿後黄花節。 恐有羇魂夢旧苔。

        三十三

 正月を病院でした経験は生涯(しょうがい)にたった一遍(いっぺん)しかない。
 松飾りの影が眼先に散らつくほど暮が押しつまった頃、余は始めてこの珍らしい経験を目前に控えた自分を異様に考え出した。同時にその考(かんがえ)が単に頭だけに働らいて、毫(ごう)も心臓の鼓動に響を伝えなかったのを不思議に思った。
 余は白い寝床(ベッド)の上に寝ては、自分と病院と来(きた)るべき春とをかくのごとくいっしょに結びつける運命の酔興(すいきょう)さ加減を懇(ねんご)ろに商量(しょうりょう)した。けれども起き直って机に向ったり、膳(ぜん)に着いたりする折は、もうここが我家(わがいえ)だと云う気分に心を任(まか)して少しも怪しまなかった。それで歳は暮れても春は逼(せま)っても別に感慨と云うほどのものは浮ばなかった。余はそれほど長く病院にいて、それほど親しく患者の生活に根をおろしたからである。
 いよいよ大晦日(おおみそか)が来た時、余は小(ち)さい松を二本買って、それを自分の病室の入口に立てようかと思った。しかし松を支えるために釘(くぎ)を打ち込んで美くしい柱に創(きず)をつけるのも悪いと思ってやめにした。看護婦が表へ出て梅でも買って参りましょうと云うから買って貰う事にした。
 この看護婦は修善寺(しゅぜんじ)以来余が病院を出るまで半年(はんねん)の間始終(しじゅう)余の傍(そば)に附き切りに附いていた女である。余はことさらに彼の本名を呼んで町井石子嬢(まちいいしこじょう)町井石子嬢と云っていた。時々は間違えて苗字(みょうじ)と名前を顛倒(てんどう)して、石井町子嬢とも呼んだ。すると看護婦は首を傾(かし)げながらそう改めた方が好いようでございますねと云った。しまいには遠慮がなくなって、とうとう鼬(いたち)と云う渾名(あだな)をつけてやった。ある時何かのついでに、時に御前の顔は何かに似ているよと云ったら、どうせ碌(ろく)なものに似ているのじゃございますまいと答えたので、およそ人間として何かに似ている以上は、まず動物にきまっている。ほかに似ようたって容易に似られる訳のものじゃないと言って聞かせると、そりゃ植物に似ちゃ大変ですと絶叫(ぜっきょう)して以来、とうとう鼬ときまってしまったのである。
 鼬の町井さんはやがて紅白の梅を二枝提(さ)げて帰って来た。白い方を蔵沢(ぞうたく)の竹の画(え)の前に挿(さ)して、紅(あか)い方は太い竹筒(たけづつ)の中に投げ込んだなり、袋戸(ふくろど)の上に置いた。この間人から貰った支那水仙もくるくると曲って延びた葉の間から、白い香(か)をしきりに放った。町井さんは、もうだいぶん病気がよくおなりだから、明日(あした)はきっと御雑煮(おぞうに)が祝えるに違ないと云って余を慰めた。
 除夜(じょや)の夢は例年の通り枕の上に落ちた。こう云う大患に罹(かか)ったあげく、病院の人となって幾つの月を重ねた末、雑煮までここで祝うのかと考えると、頭の中にはアイロニーと云う羅馬字(ローマじ)が明らかに綴(つづ)られて見える。それにもかかわらず、感に堪(た)えぬ趣(おもむき)は少しも胸を刺さずに、四十四年の春は自(おの)ずから南向の縁から明け放れた。そうして町井さんの予言の通り形(かた)ばかりとは云いながら、小(ち)さい一切(ひときれ)の餅(もち)が元日らしく病人の眸(ひとみ)に映じた。余はこの一椀の雑煮に自家頭上を照らすある意義を認めながら、しかも何等の詩味をも感ぜずに、小さな餅の片(きれ)を平凡にかつ一口に、ぐいと食ってしまった。
 二月の末になって、病室前の梅がちらほら咲き出す頃、余は医師の許(ゆるし)を得て、再び広い世界の人となった。ふり返って見ると、入院中に、余と運命の一角(いっかく)を同じくしながら、ついに広い世界を見る機会が来ないで亡(な)くなった人は少なくない。ある北国(ほっこく)の患者は入院以後病勢がしだいに募(つの)るので、附添(つきそい)の息子(むすこ)が心配して、大晦日(おおみそか)の夜(よ)になって、無理に郷里に連れて帰ったら、汽車がまだ先へ着かないうちに途中で死んでしまった。一間(ひとま)置いて隣りの人は自分で死期を自覚して、諦(あき)らめてしまえば死ぬと云う事は何でもないものだと云って、気の毒なほどおとなしい往生を遂げた。向うの外(はず)れにいた潰瘍患者(かいようかんじゃ)の高い咳嗽(せき)が日(ひ)ごとに薄らいで行くので、大方落ちついたのだろうと思って町井さんに尋ねて見ると、衰弱の結果いつの間にか死んでいた。そうかと思うと、癌(がん)で見込のない病人の癖に、から景気をつけて、回診の時に医師の顔を見るや否や、すぐ起き直って尻(しり)を捲(まく)るというのがあった。附添の女房を蹴(け)たり打(ぶ)ったりするので、女房が洗面所へ来て泣いているのを、看護婦が見兼(みかね)て慰めていましたと町井さんが話した事も覚えている。ある食道狭窄(しょくどうきょうさく)の患者は病院には這入(はい)っているようなものの迷いに迷い抜いて、灸点師(きゅうてんし)を連れて来て灸を据(す)えたり、海草(かいそう)を採(と)って来て煎(せん)じて飲んだりして、ひたすら不治の癌症(がんしょう)を癒(なお)そうとしていた。……
 余はこれらの人と、一つ屋根の下に寝て、一つ賄(まかない)の給仕を受けて、同じく一つ春を迎えたのである。退院後一カ月余(よ)の今日(こんにち)になって、過去を一攫(ひとつかみ)にして、眼の前に並べて見ると、アイロニーの一語はますます鮮やかに頭の中に拈出(ねんしゅつ)される。そうしていつの間にかこのアイロニーに一種の実感が伴って、両(ふた)つのものが互に纏綿(てんめん)して来た。鼬の町井さんも、梅の花も、支那水仙も、雑煮(ぞうに)も、――あらゆる尋常の景趣はことごとく消えたのに、ただ当時の自分と今の自分との対照だけがはっきりと残るためだろうか。




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