思い出す事など
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著者名:夏目漱石 

        一

 ようやくの事でまた病院まで帰って来た。思い出すとここで暑い朝夕(あさゆう)を送ったのももう三カ月の昔になる。その頃(ころ)は二階の廂(ひさし)から六尺に余るほどの長い葭簀(よしず)を日除(ひよけ)に差し出して、熱(ほて)りの強い縁側(えんがわ)を幾分(いくぶん)か暗くしてあった。その縁側に是公(ぜこう)から貰った楓(かえで)の盆栽(ぼんさい)と、時々人の見舞に持って来てくれる草花などを置いて、退屈も凌(しの)ぎ暑さも紛(まぎ)らしていた。向(むこう)に見える高い宿屋の物干(ものほし)に真裸(まっぱだか)の男が二人出て、日盛(ひざかり)を事ともせず、欄干(らんかん)の上を危(あぶ)なく渡ったり、または細長い横木の上にわざと仰向(あおむけ)に寝たりして、ふざけまわる様子を見て自分もいつか一度はもう一遍あんな逞(たくま)しい体格になって見たいと羨(うらや)んだ事もあった。今はすべてが過去に化してしまった。再び眼の前に現れぬと云う不慥(ふたしか)な点において、夢と同じくはかない過去である。
 病院を出る時の余は医師の勧めに従って転地する覚悟はあった。けれども、転地先で再度の病(やまい)に罹(かか)って、寝たまま東京へ戻って来(こ)ようとは思わなかった。東京へ戻ってもすぐ自分の家の門は潜(くぐ)らずに釣台(つりだい)に乗ったまま、また当時の病院に落ちつく運命になろうとはなおさら思いがけなかった。
 帰る日は立つ修善寺(しゅぜんじ)も雨、着く東京も雨であった。扶(たす)けられて汽車を下りるときわざわざ出迎えてくれた人の顔は半分も眼に入(い)らなかった。目礼(もくれい)をする事のできたのはその中(うち)の二三に過ぎなかった。思うほどの会釈(えしゃく)もならないうちに余は早く釣台の上に横(よこた)えられていた。黄昏(たそがれ)の雨を防ぐために釣台には桐油(とうゆ)を掛けた。余は坑(あな)の底に寝かされたような心持で、時々暗い中で眼を開(あ)いた。鼻には桐油の臭がした。耳には桐油を撲(う)つ雨の音と、釣台に付添うて来るらしい人の声が微(かす)かながらとぎれとぎれに聞えた。けれども眼には何物も映らなかった。汽車の中で森成(もりなり)さんが枕元(まくらもと)の信玄袋(しんげんぶくろ)の口に挿(さ)し込んでくれた大きな野菊の枝は、降りる混雑の際に折れてしまったろう。
  釣台に野菊も見えぬ桐油哉(かな)
 これはその時の光景を後から十七字にちぢめたものである。余はこの釣台に乗ったまま病院の二階へ舁(か)き上(あ)げられて、三カ月前(ぜん)に親しんだ白いベッドの上に、安らかに瘠(や)せた手足を延べた。雨の音の多い静かな夜であった。余の病室のある棟(むね)には患者が三四名しかいないので、人声も自然絶え勝に、秋は修善寺よりもかえってひっそりしていた。
 この静かな宵(よい)を心地(ここち)よく白い毛布の中に二時間ほど送った時、余は看護婦から二通の電報を受取った。一通を開けて見ると「無事御帰京を祝す」と書いてあった。そうしてその差出人は満洲にいる中村是公(なかむらぜこう)であった。他の一通を開けて見ると、やはり無事御帰京を祝すと云う文句で、前のと一字の相違もなかった。余は平凡ながらこの暗合(あんごう)を面白く眺めつつ、誰が打ってくれたのだろうと考えて差出人の名前を見た。ところがステトとあるばかりでいっこうに要領を得なかった。ただかけた局が名古屋とあるのでようやく判断がついた。ステトと云うのは、鈴木禎次(すずきていじ)と鈴木時子(すずきときこ)の頭文字(かしらもじ)を組み合わしたもので、妻(さい)の妹(いもと)とその夫(おっと)の事であった。余は二ツの電報を折り重ねて、明朝(あす)また来(きた)るべき妻の顔を見たら、まずこの話をしようかと思い定めた。
 病室は畳も青かった。襖(ふすま)も張(は)り易(か)えてあった。壁も新(あらた)に塗ったばかりであった。万(よろず)居心よく整っていた。杉本副院長が再度修善寺へ診察に来た時、畳替(たたみがえ)をして待っていますと妻に云い置かれた言葉をすぐに思い出したほど奇麗(きれい)である。その約束の日から指を折って勘定(かんじょう)して見ると、すでに十六七日目になる。青い畳もだいぶ久しく人を待ったらしい。
思いけりすでに幾夜(いくよ)の蟋蟀(きりぎりす)
 その夜から余は当分またこの病院を第二の家とする事にした。

        二

 病院に帰り着いた十一日の晩、回診の後藤さんにこの頃院長の御病気はどうですかと聞いたら、ええひとしきりはだいぶ好い方でしたが、近来また少し寒くなったものですから……と云う答だったので、余はどうぞ御逢(おあ)いの節は宜(よろ)しくと挨拶(あいさつ)した。その晩はそれぎり何の気もつかずに寝てしまった。すると明日(あくるひ)の朝妻(さい)が来て枕元に坐(すわ)るや否や、実はあなたに隠しておりましたが長与(ながよ)さんは先月(せんげつ)五日(いつか)に亡(な)くなられました。葬式には東(ひがし)さんに代理を頼みました。悪くなったのは八月末ちょうどあなたの危篤(きとく)だった時分ですと云う。余はこの時始めて附添(つきそい)のものが、院長の訃(ふ)をことさらに秘して、余に告げなかった事と、またその告げなかった意味とを悟った。そうして生き残る自分やら、死んだ院長やらをとかくに比較して、しばらくは茫然(ぼうぜん)としたまま黙っていた。
 院長は今年の春から具合が悪かったので、この前(ぜん)入院した時にも六週間の間ついぞ顔を見合せた事がなかった。余の病気の由(よし)を聞いて、それは残念だ、自分が健康でさえあれば治療に尽力して上げるのにと云う言伝(ことづて)があった。その後(ご)も副院長を通じて、よろしくと云う言伝(ことづて)が時々あった。
 修善寺(しゅぜんじ)で病気がぶり返して、社から見舞のため森成(もりなり)さんを特別に頼んでくれた時、着いた森成さんが、病院の都合上とても長くはと云っているその晩に、院長はわざわざ直接森成さんに電報を打って、できるだけ余の便宜を計(はか)らってくれた。その文句は寝ている余の目には無論触れなかった。けれども枕元にいる雪鳥君(せっちょうくん)から聞いたその文句の音(おん)だけは、いまだに好意の記憶として余の耳に残っている。それは当分その地に留(とど)まり、充分看護に心を尽くすべしとか云う、森成さんに取ってはずいぶん厳(おごそ)かに聞える命令的なものであった。
 院長の容態(ようだい)が悪くなったのは余の危篤に陥(おちい)ったのとほぼ同時だそうである。余が鮮血を多量に吐(は)いて傍人(ぼうじん)からとうてい回復の見込がないように思われた二三日後(あと)、森成さんが病院の用事だからと云って、ちょっと東京へ帰ったのは、生前に一度院長に会うためで、それから十日ほど経(た)って、また病院の用事ができて二度東京へ戻ったのは院長の葬式に列するためであったそうである。
 当初から余に好意を表して、間接に治療上の心配をしてくれた院長はかくのごとくしだいに死に近づきつつある間に、余は不思議にも命の幅(はば)の縮(ちぢ)まってほとんど絹糸のごとく細くなった上を、ようやく無難に通り越した。院長の死が一基の墓標で永く確(たしか)められたとき、辛抱強く骨の上に絡(から)みついていてくれた余の命の根は、辛(かろ)うじて冷たい骨の周囲に、血の通う新しい細胞を営み初めた。院長の墓の前に供えられる花が、幾度(いくたび)か枯れ、幾度か代って、萩、桔梗(ききょう)、女郎花(おみなえし)から白菊と黄菊に秋を進んで来た一カ月余(よ)の後(のち)、余はまたその一カ月余の間に盛返し得るほどの血潮を皮下に盛得(もりえ)て、再び院長の建てたこの胃腸病院に帰って来た。そうしてその間いまだかつて院長の死んだと云う事を知らなかった。帰る明(あく)る朝妻(さい)が来て実はこれこれでと話をするまで、院長は余の病気の経過を東京にいて承知しているものと信じていた。そうして回復の上病院を出たら礼にでも行こうと思っていた。もし病院で会えたら篤(あつ)く謝意でも述べようと思っていた。
  逝(ゆ)く人に留(とど)まる人に来(きた)る雁(かり)
 考えると余が無事に東京まで帰れたのは天幸(てんこう)である。こうなるのが当り前のように思うのは、いまだに生きているからの悪度胸(わるどきょう)に過ぎない。生き延びた自分だけを頭に置かずに、命の綱を踏(ふ)み外(はず)した人の有様も思い浮べて、幸福な自分と照らし合せて見ないと、わがありがたさも分らない、人の気の毒さも分らない。
ただ一羽来(く)る夜ありけり月の雁(かり)

        三

 ジェームス教授の訃(ふ)に接したのは長与院長の死を耳にした明日(あくるひ)の朝である。新着の外国雑誌を手にして、五六頁(ページ)繰って行くうちに、ふと教授の名前が眼にとまったので、また新らしい著書でも公(おおや)けにしたのか知らんと思いながら読んで見ると、意外にもそれが永眠(えいみん)の報道であった。その雑誌は九月初めのもので、項中には去る日曜日に六十九歳をもって逝(ゆ)かるとあるから、指を折って勘定(かんじょう)して見ると、ちょうど院長の容体(ようだい)がしだいに悪い方へ傾いて、傍(はた)のものが昼夜(ちゅうや)眉(まゆ)を顰(ひそ)めている頃である。また余が多量の血を一度に失って、死生(しせい)の境(さかい)に彷徨(ほうこう)していた頃である。思うに教授の呼息(いき)を引き取ったのは、おそらく余の命が、瘠(や)せこけた手頸(てくび)に、有るとも無いとも片付かない脈を打たして、看護の人をはらはらさせていた日であろう。
 教授の最後の著書「多元的宇宙」を読み出したのは今年の夏の事である。修善寺(しゅぜんじ)へ立つとき、向(むこう)へ持って行って読み残した分を片付けようと思って、それを五六巻の書物とともに鞄(かばん)の中に入れた。ところが着いた明日(あくるひ)から心持が悪くて、出歩く事もならない始末になった。けれども宿の二階に寝転(ねころ)びながら、一日(いちにち)二日(ふつか)は少しずつでも前の続きを読む事ができた。無論病勢の募(つの)るに伴(つ)れて読書は全く廃(よ)さなければならなくなったので、教授の死ぬ日まで教授の書を再び手に取る機会はなかった。
 病牀(びょうしょう)にありながら、三たび教授の多元的宇宙を取り上げたのは、教授が死んでから幾日目(いつかめ)になるだろう。今から顧みると当時の余は恐ろしく衰弱していた。仰向(あおむけ)に寝て、両方の肘(ひじ)を蒲団(ふとん)に支えて、あのくらいの本を持ち応(こた)えているのにずいぶんと骨が折れた。五分と経(た)たないうちに、貧血の結果手が麻痺(しび)れるので、持ち直して見たり、甲を撫(な)でて見たりした。けれども頭は比較的疲れていなかったと見えて、書いてある事は苦(く)もなく会得(えとく)ができた。頭だけはもう使えるなと云う自信の出たのは大吐血以後この時が始(はじめ)てであった。嬉(うれ)しいので、妻(さい)を呼んで、身体(からだ)の割に頭は丈夫なものだねと云って訳を話すと、妻がいったいあなたの頭は丈夫過ぎます。あの危篤(あぶな)かった二三日の間などは取り扱い悪(にく)くて大変弱らせられましたと答えた。
 多元的宇宙は約半分ほど残っていたのを、三日ばかりで面白く読み了(おわ)った。ことに文学者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具体的の事実を土台として、類推(アナロジー)で哲学の領分に切り込んで行く所を面白く読み了った。余はあながちに弁証法(ダイアレクチック)を嫌(きら)うものではない。また妄(みだ)りに理知主義(インテレクチュアリズム)を厭(いと)いもしない。ただ自分の平生文学上に抱いている意見と、教授の哲学について主張するところの考とが、親しい気脈を通じて彼此相倚(ひしあいよ)るような心持がしたのを愉快に思ったのである。ことに教授が仏蘭西(フランス)の学者ベルグソンの説を紹介する辺(あた)りを、坂に車を転がすような勢(いきおい)で馳(か)け抜けたのは、まだ血液の充分に通いもせぬ余の頭に取って、どのくらい嬉しかったか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのはこの時である。
 今でも覚えている。一間(ひとま)おいて隣にいる東君(ひがしくん)をわざわざ枕元へ呼んで、ジェームスは実に能文家(のうぶんか)だと教えるように云って聞かした。その時東君は別にこれという明暸(めいりょう)な答をしなかったので、余は、君、西洋人の書物を読んで、この人のは流暢(りゅうちょう)だとか、あの人のは細緻(さいち)だとか、すべて特色のあるところがその書きぶりで、読みながら解るかいと失敬な事を問い糺(ただ)した。
 教授の兄弟にあたるヘンリーは、有名な小説家で、非常に難渋(なんじゅう)な文章を書く男である。ヘンリーは哲学のような小説を書き、ウィリアムは小説のような哲学を書く、と世間で云われているくらいヘンリーは読みづらく、またそのくらい教授は読みやすくて明快なのである。――病中の日記を検(しら)べて見ると九月二十三日の部に、「午前ジェームスを読(よ)み了(おわ)る。好い本を読んだと思う」と覚束(おぼつか)ない文字(もんじ)で認(したた)めてある。名前や標題に欺(だま)されて下らない本を読んだ時ほど残念な事はない。この日記は正にこの裏を云ったものである。
 余の病気について治療上いろいろ好意を表してくれた長与病院長(ながよびょういんちょう)は、余の知らない間にいつか死んでいた。余の病中に、空漠(くうばく)なる余の頭に陸離(りくり)の光彩を抛(な)げ込(こ)んでくれたジェームス教授も余の知らない間にいつか死んでいた。二人に謝すべき余はただ一人生き残っている。
  菊の雨われに閑(かん)ある病(やまい)哉(かな)
  菊の色縁(えん)に未(いまだ)し此(この)晨(あした)
(ジェームス教授の哲学思想が、文学の方面より見て、どう面白いかここに詳説する余地がないのは余の遺憾(いかん)とするところである。また教授の深く推賞したベルグソンの著書のうち第一巻は昨今ようやく英訳になってゾンネンシャインから出版された。その標題は Time and Free Will(時と自由意思)と名づけてある。著者の立場は無論故教授と同じく反理知派である。)

        四

 病(やまい)の重かった時は、固(もと)よりその日その日に生きていた。そうしてその日その日に変って行った。自分にもわが心の水のように流れ去る様がよく分った。自白すれば雲と同じくかつ去(さ)りかつ来(きた)るわが脳裡(のうり)の現象は、極(きわ)めて平凡なものであった。それも自覚していた。生涯(しょうがい)に一度か二度の大患に相応するほどの深さも厚さもない経験を、恥(はじ)とも思わず無邪気に重ねつつ移って行くうちに、それでも他日の参考に日ごとの心を日ごとに書いておく事ができたならと思い出した。その時の余は無論手が利(き)かなかった。しかも日は容易に暮れ容易に明けた。そうして余の頭を掠(かす)めて去(さ)る心の波紋(はもん)は、随(したが)って起(おこ)るかと思えば随(したが)って消えてしまった。余は薄ぼけて微(かす)かに遠きに行くわが記憶の影を眺めては、寝ながらそれを呼び返したいような心持がした。ミュンステルベルグと云う学者の家に賊が入った引合(ひきあい)で、他日彼が法庭(ほうてい)へ呼び出されたとき、彼の陳述はほとんど事実に相違する事ばかりであったと云う話がある。正確を旨(むね)とする几帳面(きちょうめん)な学者の記憶でも、記憶はこれほどに不慥(ふたしか)なものである。「思い出す事など」の中に思い出す事が、日を経(ふ)れば経るに従って色彩を失うのはもちろんである。
 わが手の利(き)かぬ先にわが失えるものはすでに多い。わが手筆を持つの力を得てより逸(いっ)するものまた少からずと云っても嘘(うそ)にはならない。わが病気の経過と、病気の経過に伴(つ)れて起る内面の生活とを、不秩序ながら断片的にも叙しておきたいと思い立ったのはこれがためである。友人のうちには、もうそれほど好くなったかと喜んでくれたものもある。あるいはまたあんな軽挙(かるはずみ)をしてやり損(そこ)なわなければいいがと心配してくれたものもある。
 その中で一番苦(にが)い顔をしたのは池辺三山君(いけべさんざんくん)であった。余が原稿を書いたと聞くや否や、たちまち余計な事だと叱りつけた。しかもその声はもっとも無愛想(ぶあいそう)な声であった。医者の許可を得たのだから、普通の人の退屈凌(たいくつしの)ぎぐらいなところと見たらよかろうと余は弁解した。医者の許可もさる事だが、友人の許可を得なければいかんと云うのが三山君の挨拶(あいさつ)であった。それから二三日して三山君が宮本博士に会ってこの話をすると、博士は、なるほど退屈をすると胃に酸(さん)が湧(わ)く恐れがあるからかえって悪いだろうと調停してくれたので、余はようやく助かった。
 その時余は三山君に、
遺却新詩無処尋。 □然隔□対遥林。
斜陽満径照僧遠。 黄葉一村蔵寺深。
懸偈壁間焚仏意。 見雲天上抱琴心。
人間至楽江湖老。 犬吠鶏鳴共好音。
と云う詩を遺(おく)った。巧拙(こうせつ)は論外として、病院にいる余が窓から寺を望む訳もなし、また室内に琴(こと)を置く必要もないから、この詩は全くの実況に反しているには違(ちがい)ないが、ただ当時の余の心持を咏(えい)じたものとしてはすこぶる恰好(かっこう)である。宮本博士が退屈をすると酸(さん)がたまると云ったごとく、忙殺(ぼうさつ)されて酸が出過ぎる事も、余は親しく経験している。詮(せん)ずるところ、人間は閑適(かんてき)の境界(きょうがい)に立たなくては不幸だと思うので、その閑適をしばらくなりとも貪(むさぼ)り得(う)る今の身の嬉しさが、この五十六字に形を変じたのである。
 もっとも趣(おもむき)から云えばまことに旧(ふる)い趣である。何の奇もなく、何の新もないと云ってもよい。実際ゴルキーでも、アンドレーフでも、イブセンでもショウでもない。その代りこの趣は彼ら作家のいまだかつて知らざる興味に属している。また彼らのけっして与(あず)からざる境地に存している。現今(げんこん)の吾(われ)らが苦しい実生活に取り巻かれるごとく、現今の吾等が苦しい文学に取りつかれるのも、やむをえざる悲しき事実ではあるが、いわゆる「現代的気風」に煽(あお)られて、三百六十五日の間、傍目(わきめ)もふらず、しかく人世を観(かん)じたら、人世は定めし窮屈でかつ殺風景なものだろう。たまにはこんな古風の趣がかえって一段の新意(しんい)を吾らの内面生活上に放射するかも知れない。余は病(やまい)に因(よ)ってこの陳腐(ちんぷ)な幸福と爛熟(らんじゅく)な寛裕(くつろぎ)を得て、初めて洋行から帰って平凡な米の飯に向った時のような心持がした。
「思い出す事など」は忘れるから思い出すのである。ようやく生き残って東京に帰った余は、病に因って纔(わず)かに享(う)けえたこの長閑(のどか)な心持を早くも失わんとしつつある。まだ床(とこ)を離れるほどに足腰が利(き)かないうちに、三山君に遺った詩が、すでにこの太平の趣をうたうべき最後の作ではなかろうかと、自分ながら掛念(けねん)しているくらいである。「思い出す事など」は平凡で低調な個人の病中における述懐(じゅっかい)と叙事に過ぎないが、その中(うち)にはこの陳腐(ちんぷ)ながら払底(ふってい)な趣(おもむき)が、珍らしくだいぶ這入(はい)って来るつもりであるから、余は早く思い出して、早く書いて、そうして今の新らしい人々と今の苦しい人々と共に、この古い香(かおり)を懐(なつ)かしみたいと思う。

        五

 修善寺(しゅぜんじ)にいる間は仰向(あおむけ)に寝たままよく俳句を作っては、それを日記の中に記(つ)け込(こ)んだ。時々は面倒な平仄(ひょうそく)を合わして漢詩さえ作って見た。そうしてその漢詩も一つ残らず未定稿(みていこう)として日記の中に書きつけた。
 余は年来俳句に疎(うと)くなりまさった者である。漢詩に至っては、ほとんど当初からの門外漢と云ってもいい。詩にせよ句にせよ、病中にでき上ったものが、病中の本人にはどれほど得意であっても、それが専門家の眼に整って(ことに現代的に整って)映るとは無論思わない。
 けれども余が病中に作り得た俳句と漢詩の価値は、余自身から云うと、全くその出来不出来に関係しないのである。平生(へいぜい)はいかに心持の好くない時でも、いやしくも塵事(じんじ)に堪(た)え得るだけの健康をもっていると自信する以上、またもっていると人から認められる以上、われは常住日夜(じょうじゅうにちや)共に生存競争裏(せいぞんきょうそうり)に立つ悪戦の人である。仏語(ぶつご)で形容すれば絶えず火宅(かたく)の苦(く)を受けて、夢の中でさえいらいらしている。時には人から勧められる事もあり、たまには自(みずか)ら進む事もあって、ふと十七字を並べて見たりまたは起承転結(きしょうてんけつ)の四句ぐらい組み合せないとも限らないけれどもいつもどこかに間隙(すき)があるような心持がして、隈(くま)も残さず心を引(ひ)き包(くる)んで、詩と句の中に放り込む事ができない。それは歓楽を嫉(ねた)む実生活の鬼の影が風流に纏(まつわ)るためかも知れず、または句に熱し詩に狂するのあまり、かえって句と詩に翻弄(ほんろう)されて、いらいらすまじき風流にいらいらする結果かも知れないが、それではいくら佳句(かく)と好詩(こうし)ができたにしても、贏(か)ち得(う)る当人の愉快はただ二三同好(どうこう)の評判だけで、その評判を差し引くと、後(あと)に残るものは多量の不安と苦痛に過ぎない事に帰着してしまう。
 ところが病気をするとだいぶ趣が違って来る。病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他(ひと)も自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらには一人前(いちにんまえ)働かなくてもすむという安心ができ、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めない長閑(のど)かな春がその間から湧(わ)いて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。したがって、出来栄(できばえ)の如何(いかん)はまず措(お)いて、できたものを太平の記念と見る当人にはそれがどのくらい貴(とうと)いか分らない。病中に得た句と詩は、退屈を紛(まぎ)らすため、閑(かん)に強(し)いられた仕事ではない。実生活の圧迫を逃れたわが心が、本来の自由に跳(は)ね返って、むっちりとした余裕を得た時、油然(ゆうぜん)と漲(みな)ぎり浮かんだ天来(てんらい)の彩紋(さいもん)である。吾ともなく興の起るのがすでに嬉(うれ)しい、その興を捉(とら)えて横に咬(か)み竪(たて)に砕(くだ)いて、これを句なり詩なりに仕立上げる順序過程がまた嬉しい。ようやく成った暁には、形のない趣(おもむき)を判然(はっきり)と眼の前に創造したような心持がしてさらに嬉しい。はたしてわが趣とわが形に真の価値があるかないかは顧みる遑(いとま)さえない。
 病中は知ると知らざるとを通じて四方の同情者から懇切な見舞(みまい)を受けた。衰弱の今の身ではその一々に一々の好意に背(そむ)かないほどに詳(くわ)しい礼状を出して、自分がつい死にもせず今日(こんにち)に至った経過を報ずる訳にも行かない。「思い出す事など」を牀上(しょうじょう)に書き始めたのは、これがためである。――各々(めいめい)に向けて云い送るべきはずのところを、略して文芸欄(ぶんげいらん)の一隅にのみ載せて、余のごときもののために時と心を使われたありがたい人々にわが近況を知らせるためである。
 したがって「思い出す事など」の中に詩や俳句を挟(はさ)むのは、単に詩人俳人としての余の立場を見て貰うつもりではない。実を云うとその善悪などはむしろどうでも好(い)いとまで思っている。ただ当時の余はかくのごとき情調に支配されて生きていたという消息が、一瞥(いちべつ)の迅(と)きうちに、読者の胸に伝われば満足なのである。
  秋の江(え)に打ち込む杭(くい)の響かな
 これは生き返ってから約十日ばかりしてふとできた句である。澄み渡る秋の空、広き江、遠くよりする杭の響、この三つの事相(じそう)に相応したような情調が当時絶えずわが微(かす)かなる頭の中を徂徠(そらい)した事はいまだに覚えている。
  秋の空浅黄(あさぎ)に澄めり杉に斧(おの)
 これも同じ心の耽(ふけ)りを他(ほか)の言葉で云い現したものである。
  別るるや夢一筋(ゆめひとすじ)の天の川
 何という意味かその時も知らず、今でも分らないが、あるいは仄(ほのか)に東洋城(とうようじょう)と別れる折の連想が夢のような頭の中に這回(はいまわ)って、恍惚(こうこつ)とでき上ったものではないかと思う。
 当時の余は西洋の語にほとんど見当らぬ風流と云う趣をのみ愛していた。その風流のうちでもここに挙(あ)げた句に現れるような一種の趣だけをとくに愛していた。
  秋風や唐紅(からくれない)の咽喉仏(のどぼとけ)
という句はむしろ実況であるが、何だか殺気があって含蓄(がんちく)が足りなくて、口に浮かんだ時からすでに変な心持がした。
風流人未死。 病裡領清閑。
日々山中事。 朝々見碧山。
 詩(し)に圏点(けんてん)のないのは障子(しょうじ)に紙が貼(は)ってないような淋(さび)しい感じがするので、自分で丸を付けた。余のごとき平仄(ひょうそく)もよく弁(わきま)えず、韻脚(いんきゃく)もうろ覚えにしか覚えていないものが何を苦しんで、支那人にだけしか利目(ききめ)のない工夫(くふう)をあえてしたかと云うと、実は自分にも分らない。けれども(平仄韻字(いんじ)はさておいて)、詩の趣(おもむき)は王朝以後の伝習で久しく日本化されて今日(こんにち)に至ったものだから、吾々くらいの年輩の日本人の頭からは、容易にこれを奪い去る事ができない。余は平生事に追われて簡易な俳句すら作らない。詩となると億劫(おっくう)でなお手を下(くだ)さない。ただ斯様(かよう)に現実界を遠くに見て、杳(はるか)な心にすこしの蟠(わだかま)りのないときだけ、句も自然と湧(わ)き、詩も興に乗じて種々な形のもとに浮んでくる。そうして後(あと)から顧みると、それが自分の生涯(しょうがい)の中(うち)で一番幸福な時期なのである。風流を盛るべき器(うつわ)が、無作法(ぶさほう)な十七字と、佶屈(きっくつ)な漢字以外に日本で発明されたらいざ知らず、さもなければ、余はかかる時、かかる場合に臨んで、いつでもその無作法とその佶屈とを忍んで、風流を這裏(しゃり)に楽しんで悔いざるものである。そうして日本に他の恰好(かっこう)な詩形のないのを憾(うら)みとはけっして思わないものである。

        六

 始めて読書欲の萌(きざ)した頃、東京の玄耳君(げんじくん)から小包で酔古堂剣掃(すいこどうけんそう)と列仙伝(れつせんでん)を送ってくれた。この列仙伝は帙入(ちついり)の唐本(とうほん)で、少し手荒に取扱うと紙がぴりぴり破れそうに見えるほどの古い――古いと云うよりもむしろ汚ない――本であった。余は寝ながらこの汚ない本を取り上げて、その中にある仙人の挿画(さしえ)を一々丁寧(ていねい)に見た。そうしてこれら仙人の髯(ひげ)の模様だの、頭の恰好(かっこう)だのを互に比較して楽んだ。その時は画工(えかき)の筆癖から来る特色を忘れて、こう云う頭の平らな男でなければ仙人になる資格がないのだろうと思ったり、またこう云う疎(まばら)な髯を風に吹かせなければ仙人の群(むれ)に入(い)る事は覚束(おぼつか)ないのだろうと思ったりして、ひたすら彼等の容貌(ようぼう)に表われてくる共通な骨相を飽(あ)かず眺めた。本文も無論読んで見た。平生気の短かい時にはとても見出す事のできない悠長(ゆうちょう)な心をめでたく意識しながら読んで見た。――余は今の青年のうちに列仙伝を一枚でも読む勇気と時間をもっているものは一人もあるまいと思う。年を取った余も実を云うとこの時始めて列仙伝と云う書物を開けたのである。
 けれども惜しい事に本文は挿画ほど雅(が)に行かなかった。中には欲の塊(かたまり)が羽化(うか)したような俗な仙人もあった。それでも読んで行くうちには多少気に入ったのもできてきた。一番無雑作(むぞうさ)でかつおかしいと思ったのは、何ぞと云うと、手の垢(あか)や鼻糞(はなくそ)を丸めて丸薬(がんやく)を作って、それを人にやる道楽のある仙人であったが、今ではその名を忘れてしまった。
 しかし挿画(さしえ)よりも本文よりも余の注意を惹(ひ)いたのは巻末にある附録であった。これは手軽にいうと長寿法(ちょうじゅほう)とか養生訓(ようじょうくん)とか称するものを諸方から取り集めて来て、いっしょに並べたもののように思われた。もっとも仙に化するための注意であるから、普通の深呼吸だの冷水浴だのとは違って、すこぶる抽象的で、実際解るとも解らぬとも片のつかぬ文字であるが、病中の余にはそれが面白かったと見えて、その二三節をわざわざ日記の中に書き抜いている。日記を検(しら)べて見ると「静(せい)これを性(せい)となせば心其中(そのうち)にあり、動(どう)これを心となせば性其中にあり、心生(しょう)ずれば性滅(めっ)し、心滅すれば性生ず」というようなむずかしい漢文が曲がりくねりに半頁(はんページ)ばかりを埋(うず)めている。
 その時の余は印気(インキ)の切れた万年筆(まんねんふで)の端を撮(つま)んで、ペン先へ墨の通うように一二度揮(ふ)るのがすこぶる苦痛であった。実際健康な人が片手で樫(かし)の六尺棒を振り廻すよりも辛(つら)いくらいであった。それほど衰弱の劇(はげ)しい時にですら、わざわざとこんな道経(どうきょう)めいた文句を写す余裕が心にあったのは、今から考えても真(まこと)に愉快である。子供の時聖堂(せいどう)の図書館へ通って、徂徠(そらい)の□園十筆(けんえんじっぴつ)をむやみに写し取った昔を、生涯(しょうがい)にただ一度繰り返し得たような心持が起って来る。昔の余の所作(しょさ)が単に写すという以外には全く無意味であったごとく、病後の余の所作もまたほとんど同様に無意味である。そうしてその無意味なところに、余は一種の価値を見出して喜んでいる。長生(ながいき)の工夫(くふう)のための列仙伝が、長生もしかねまじきほど悠長(ゆうちょう)な心の下(もと)に、病後の余からかく気楽に取扱われたのは、余に取って全くの偶然であり、また再び来(きた)るまじき奇縁である。
 仏蘭西(フランス)の老画家アルピニーはもう九十一二の高齢である。それでも人並(ひとなみ)の気力はあると見えて、この間のスチュージオには目醒(めざま)しい木炭画が十種ほど載っていた。国朝六家詩鈔(こくちょうりくかししょう)の初にある沈徳潜(しんとくせん)の序には、乾隆丁亥夏五(けんりゅうていがいかご)長洲(ちょうしゅう)沈徳潜(しんとくせん)書(しょ)す時に年九十有五。とわざわざ断ってある。長生(ながいき)の結構な事は云うまでもない。長生をしてこの二人のように頭がたしかに使えるのはなおさらめでたい。不惑(ふわく)の齢(よわい)を越すと間もなく死のうとして、わずかに助かった余は、これからいつまで生きられるか固(もと)より分らない。思うに一日生きれば一日の結構で、二日生きれば二日の結構であろう。その上頭が使えたらなおありがたいと云わなければなるまい。ハイズンは世間から二返(へん)も死んだと評判された。一度は弔詩(ちょうし)まで作ってもらった。それにもかかわらず彼は依然として生きていた。余も当時はある新聞から死んだと書かれたそうである。それでも実は死なずにいた。そうして列仙伝を読んで子供の時の無邪気な努力を繰り返し得るほどに生き延びた。それだけでも弱い余に取っては非常な幸福である。その頃ある知らない人から、先生死にたもう事なかれ、先生死にたもうことなかれと書いた見舞を受けた。余は列仙伝を読むべく生き延びた余を悦(よろこ)ぶと同時に、この同情ある青年のために生き延びた余を悦んだ。

        七

 ウォードの著わした社会学の標題には力学的(ダイナミック)という形容詞をわざわざ冠(かん)してあるが、これは普通の社会学でない、力学的に論じたのだという事を特に断ったものと思われる。ところがこの本のかつて魯西亜語(ロシアご)に翻訳された時、魯国(ろこく)の当局者は直(ただ)ちにその発売を禁止してしまった。著者は不審の念に打たれて、その理由を在魯(ざいろ)の友人に聞き合せた。すると友人から、自分にもよくは分らぬが、おそらく標題に力学的という字と社会学(ソシオロジー)という字があるので、当局者は一も二もなくダイナマイト及び社会主義に関係のある恐ろしい著述と速断して、この暴挙をあえてしたのだろうという返事が来たそうである。
 魯国の当局者ではないが、余もこの力学的という言葉には少からぬ注意を払った一人である。平生から一般の学者がこの一字に着眼しないで、あたかも動きの取れぬ死物のように、研究の材料を取り扱いながらかえって平気でいるのを、常に飽(あ)き足らず眺めていたのみならず、自分と親密の関係を有する文芸上の議論が、ことにこの弊(へい)に陥(おちい)りやすく、また陥りつつあるように見えるのを遺憾(いかん)と批判していたから、参考のため、一度は魯国当局者を恐れしめたというこの力学的社会学なるものを一読したいと思っていた。実は自分の恥(はじ)を白状するようではなはだきまりが悪いが、これはけっして新しい本ではない。製本の体裁(ていさい)からしてがすでにスペンサーの綜合哲学(そうごうてつがく)に類した古風なものである。けれどもまた恐ろしく分厚(ぶあつ)に書き上げた著作で、上下二巻を通じて千五百頁ほどある大冊子だから、四五日はおろか一週間かかっても楽に読みこなす事はでき悪(にく)い。それでやむをえず時機の来るまでと思って、本箱の中へしまっておいたのを、小説類に興味を失(しっ)したこの頃の読物としては適当だろうとふと考えついたので、それを宅(うち)から取り寄せてとうとう力学的(ダイナミック)に社会学(ソシオロジー)を病院で研究する事にした。
 ところが読み出して見ると、恐ろしく玄関の広い前置の長い本であった。そうして肝心(かんじん)の社会学そのものになるとすこぶる不完全で、かつせっかくの頼みと思っているいわゆる力学的がはなはだ心細くなるほどに手荒に取扱われていた。今更ウォードの著述に批評を下(くだ)すのは余の目的でない、ただついでに云うだけではあるが、今に本当の力学的が出るだろう、今に高潮の力学的が出るだろうと、どこまでも著者を信用して、とうとう千五百頁の最後の一頁の最後の文字まで読み抜けて、そうして期待したほどのものがどこからも出て来なかった時には、ちょうどハレー彗星(すいせい)の尾で地球が包まれべき当日を、何の変化もなく無事に経過したほどあっけない心持がした。
 けれども道中は、道草を食うべく余儀なくされるだけそれだけ多趣多様で面白かった。その中(うち)で宇宙創造論(コスモジェニー)と云う厳(いか)めしい標題を掲げた所へ来た時、余は覚えず昔(むか)し学校で先生から教わった星雲説(せいうんせつ)の記憶を呼び起して微笑せざるを得なかった。そうしてふと考えた。――
 自分は今危険な病気からやっと回復しかけて、それを非常な仕合(しあわせ)のように喜んでいる。そうして自分の癒(なお)りつつある間に、容赦なく死んで行く知名の人々や惜しい人々を今少し生かしておきたいとのみ冀(こいねが)っている。自分の介抱(かいほう)を受けた妻や医者や看護婦や若い人達をありがたく思っている。世話をしてくれた朋友(ほうゆう)やら、見舞に来てくれた誰彼(たれかれ)やらには篤(あつ)い感謝の念を抱いている。そうしてここに人間らしいあるものが潜(ひそ)んでいると信じている。その証拠(しょうこ)にはここに始めて生き甲斐(がい)のあると思われるほど深い強い快よい感じが漲(みなぎ)っているからである。
 しかしこれは人間相互の関係である。よし吾々(われわれ)を宇宙の本位と見ないまでも、現在の吾々以外に頭を出して、世界のぐるりを見回さない時の内輪の沙汰(さた)である。三世(さんぜ)に亘(わた)る生物全体の進化論と、(ことに)物理の原則に因(よ)って無慈悲に運行し情義なく発展する太陽系の歴史を基礎として、その間に微(かす)かな生を営む人間を考えて見ると、吾らごときものの一喜一憂は無意味と云わんほどに勢力のないという事実に気がつかずにはいられない。
 限りなき星霜(せいそう)を経て固(かた)まりかかった地球の皮が熱を得て溶解し、なお膨脹(ぼうちょう)して瓦斯(ガス)に変形すると同時に、他の天体もまたこれに等しき革命を受けて、今日(こんにち)まで分離して運行した軌道と軌道の間が隙間(すきま)なく充(み)たされた時、今の秩序ある太陽系は日月星辰(じつげつせいしん)の区別を失って、爛(らん)たる一大火雲のごとくに盤旋(ばんせん)するだろう。さらに想像を逆(さか)さまにして、この星雲が熱を失って収縮し、収縮すると共に回転し、回転しながらに外部の一片(いっぺん)を振りちぎりつつ進行するさまを思うと、海陸空気歴然と整えるわが地球の昔は、すべてこれ□々(えんえん)たる一塊(いっかい)の瓦斯に過ぎないという結論になる。面目の髣髴(ほうふつ)たる今日から溯(さかのぼ)って、科学の法則を、想像だも及ばざる昔に引張(ひっぱ)れば、一糸(いっし)も乱れぬ普遍の理で、山は山となり、水は水となったものには違かなろうが、この山とこの水とこの空気と太陽の御蔭(おかげ)によって生息する吾(われ)ら人間の運命は、吾らが生くべき条件の備わる間の一瞬時――永劫(えいごう)に展開すべき宇宙歴史の長きより見たる一瞬時――を貪(むさ)ぼるに過ぎないのだから、はかないと云わんよりも、ほんの偶然の命と評した方が当っているかも知れない。
 平生の吾らはただ人を相手にのみ生きている。その生きるための空気については、あるのが当然だと思っていまだかつて心遣(こころづかい)さえした事がない。その心根(こころね)を糺(ただ)すと、吾らが生れる以上、空気は無ければならないはずだぐらいに観じているらしい。けれども、この空気があればこそ人間が生れるのだから、実を云えば、人間のためにできた空気ではなくて、空気のためにできた人間なのである。今にもあれこの空気の成分に多少の変化が起るならば、――地球の歴史はすでにこの変化を予想しつつある――活溌(かっぱつ)なる酸素が地上の固形物と抱合(ほうごう)してしだいに減却するならば、炭素が植物に吸収せられて黒い石炭層に運び去らるるならば、月球(げっきゅう)の表面に瓦斯(ガス)のかからぬごとくに、吾らの世界もまた冷却し尽くすならば、吾らはことごとく死んでしまわねばならない。今の余のように生き延びた自分を祝い、遠く逝(ゆ)く他人を悲しみ、友を懐(なつか)しみ敵を悪(にく)んで、内輪だけの活計(かっけい)に甘んじて得意にその日を渡る訳には行くまい。
 進んで無機有機を通じ、動植両界を貫(つらぬ)き、それらを万里一条の鉄のごとくに隙間(すきま)なく発展して来た進化の歴史と見傚(みな)すとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一頁(ページ)を埋(うず)むべき材料に過ぎぬ事を自覚するとき、百尺竿頭(ひゃくせきかんとう)に上(のぼ)りつめたと自任する人間の自惚(うぬぼれ)はまた急に脱落しなければならない。支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った時よりも、さらに溯(さかのぼ)っては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理に合点(がてん)せしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは辛(から)きジスイリュージョンを甞(な)めている。
 種類保存のためには個々の滅亡を意とせぬのが進化論の原則である。学者の例証するところによると、一疋(ぴき)の大口魚(たら)が毎年生む子の数は百万疋とか聞く。牡蠣(かき)になるとそれが二百万の倍数に上(のぼ)るという。そのうちで生長するのはわずか数匹(すひき)に過ぎないのだから、自然は経済的に非常な濫費者(らんぴしゃ)であり、徳義上には恐るべく残酷な父母(ふぼ)である。人間の生死も人間を本位とする吾らから云えば大事件に相違ないが、しばらく立場を易(か)えて、自己が自然になり済ました気分で観察したら、ただ至当(しとう)の成行で、そこに喜びそこに悲しむ理窟(りくつ)は毫(ごう)も存在していないだろう。
 こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。そこでことさらに気分を易えて、この間大磯(おおいそ)で亡(な)くなった大塚夫人の事を思い出しながら、夫人のために手向(たむけ)の句を作った。
有る程の菊抛(な)げ入れよ棺(かん)の中

        八

 忘るべからざる八月二十四日の来(きた)る二週間ほど前から余はすでに病んでいた。縁側(えんがわ)を絶えず通る湯治客に、吾姿を見せるのが苦(く)になって、蒸(む)し暑い時ですら障子(しょうじ)は常に閉(た)て切っていた。三度三度献立(こんだて)を持って誂(あつらえ)を聞きにくる婆さんに、二品(ふたしな)三品(みしな)口に合いそうなものを注文はしても、膳(ぜん)の上に揃(そろ)った皿を眺めると共に、どこからともなく反感が起って、箸(はし)を執(と)る気にはまるでなれなかった。そのうちに嘔気(はきけ)が来た。
 始めは煎薬(せんやく)に似た黄黒(きぐろ)い水をしたたかに吐いた。吐いた後(あと)は多少気分が癒(なお)るので、いささかの物は咽喉(のど)を越した。しかし越した嬉(うれ)しさがまだ消えないうちに、またそのいささかの胃の滞(とどこ)うる重き苦しみに堪(た)え切れなくなって来た。そうしてまた吐いた。吐くものは大概水である。その色がだんだん変って、しまいには緑青(ろくしょう)のような美くしい液体になった。しかも一粒(いちりゅう)の飯さえあえて胃に送り得ぬ恐怖と用心の下(もと)に、卒然として容赦なく食道を逆(さか)さまに流れ出た。
 青いものがまた色を変えた。始めて熊(くま)の胆(い)を水に溶き込んだように黒ずんだ濃い汁を、金盥(かなだらい)になみなみと反(もど)した時、医者は眉(まゆ)を寄せて、こういうものが出るようでは、今のうち安静にして東京に帰った方が好かろうと注告した。余は金盥の中を指(ゆびさ)していったい何が出るのかと質問した。医者は興(きょう)のない顔つきで、これは血だと答えた。けれども余の眼にはこの黒いものが血とは思えなかった。するとまた吐いた。その時は熊の胆の色が少し紅(くれない)を含んで、咽喉を出る時腥(なまぐさ)い臭(かおり)がぷんと鼻を衝(つ)いたので、余は胸を抑えながら自分で血だ血だと云った。玄耳君(げんじくん)が驚ろいて森成(もりなり)さんに坂元(さかもと)君を添えてわざわざ修善寺(しゅぜんじ)まで寄こしてくれたのは、この報知が長距離電話で胃腸病院へ伝(つたわ)って、そこからまた直(すぐ)に社へ通じたからである。別館から馳(か)けて来た東洋城(とうようじょう)が枕辺(まくらべ)に立って、今日東京から医者と社員が来るはずになったと知らしてくれた時は全く救われたような気がした。
 この時の余はほとんど人間らしい複雑な命を有して生きてはいなかった。苦痛のほかは何事をも容(い)れ得(え)ぬほどに烈(はげ)しく活動する胸を懐(いだ)いて朝夕(あさゆう)悩んでいたのである。四十年来の経験を刻んでなお余りあると見えた余の頭脳は、ただこの截然(せつぜん)たる一苦痛を秒ごとに深く印(いん)し来(く)るばかりを能事とするように思われた。したがって余の意識の内容はただ一色(ひといろ)の悶(もだえ)に塗抹(とまつ)されて、臍上方(さいじょうほう)三寸(さんずん)の辺(あたり)を日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった。余は明け暮れ自分の身体(からだ)の中(うち)で、この部分だけを早く切り取って犬に投げてやりたい気がした。それでなければこの恐ろしい単調な意識を、一刻も早くどこへか打ちやってしまいたい気がした。またできるならば、このまま睡魔に冒(おか)されて、前後も知らず一週間ほど寝込んで、しかる後鷹揚(おうよう)な心持をゆたかに抱いて、爽(さわや)かな秋の日の光りに、両の眼を颯(さっ)と開(あ)けたかった。少くとも汽車に揺られもせず車に乗せられもせず、すうと東京へ帰って、胃腸病院の一室に這入(はい)って、そこに仰向(あおむ)けに倒れていたかった。
 森成さんが来てもこの苦しみはちょっと除(と)れなかった。胸の中を棒で攪(か)き混(ま)ぜられるような、また胃の腑(ふ)が不規則な大波をその全面に向って層々と描き出すような、異(い)な心持に堪(た)えかねて、床(とこ)の上に起き返りながら、吐いて見ましょうかと云って、腥(なまぐさ)いものを面(ま)のあたり咽喉(のど)の奥から金盥(かなだらい)の中に傾けた事もあった。森成さんの御蔭(おかげ)でこの苦しみがだいぶ退(ひ)いた時ですら、動くたびに腥い噫(おくび)は常に鼻を貫(つら)ぬいた。血は絶えず腸に向って流れていたのである。
 この煩悶(はんもん)に比(くら)べると、忘るべからざる二十四日の出来事以後に生きた余は、いかに安住の地を得て静穏に生を営んだか分らない。その静穏の日がすなわち余の一生涯(いっしょうがい)にあって最も恐るべき危険の日であったのだと云う事を後から知った時、余は下(しも)のような詩を作った。
円覚曾参棒喝禅。 瞎児何処触機縁。
青山不拒庸人骨。 回首九原月在天。

        九

 忘るべからざる二十四日の出来事を書こうと思って、原稿紙に向いかけると、何だか急に気が進まなくなったのでまた記憶を逆(さかさ)まに向け直して、後戻(あともど)りをした。
 東京を立つときから余は劇(はげ)しく咽喉を痛めていた。いっしょに来るべきはずでつい乗り後(おく)れた東洋城(とうようじょう)の電報を汽車中で受け取って、その意のごとくに御殿場(ごてんば)で一時間ほど待ち合せていた間(ま)に、余は不用になった一枚の切符代を割り戻して貰うために、駅長室へ這入(はい)って行った。するとそこに腰囲何尺(よういなんじゃく)とでも形容すべきほど大きな西洋人が、椅子(いす)に腰をかけてしきりに絵端書(えはがき)の表に何か認(したた)めていた。余は駅長に向って当用を弁ずる傍(かたわら)、思いがけない所に思いがけない人がいるものだという好奇心を禁じ得なかった。するとその大男が突然立ち上がって、あなたは英語を話すかと聞くから、嗄(か)れた声でわずかにイエスと答えた。男は次にこれから京都へ行くにはどの汽車へ乗ったら好いか教えてくれと云った。はなはだ簡単な用向(ようむき)であるから平生ならばどうとも挨拶(あいさつ)ができるのだけれども、声量を全く失っていた当時の余には、それが非常の困難であった。固(もと)より云う事はあるのだから、何か云おうとするのだが、その云おうとする言葉が咽喉(のど)を通るとき千条(ちすじ)に擦(す)り切(き)れでもするごとくに、口へ出て来る時分には全く光沢(つや)を失ってほとんど用をなさなかった。余は英語に通ずる駅員の助(たすけ)を藉(か)りて、ようやくのことこの大男を無事に京都へ送り届けた事とは思うが、その時の不愉快はいまだに忘れない。
 修善寺(しゅぜんじ)に着いてからも咽喉(のど)はいっこう好くならなかった。医者から薬を貰ったり、東洋城の拵(こしら)えてくれた手製の含漱(がんそう)を用いたりなどして、辛(から)く日常の用を弁ずるだけの言葉を使ってすましていた。その頃修善寺には北白川(きたしらかわ)の宮(みや)がおいでになっていた。東洋城は始終(しじゅう)そちらの方の務(つとめ)に追われて、つい一丁ほどしか隔っていない菊屋の別館からも、容易に余の宿までは来る事ができない様子であった。すべてを片づけてから、夜の十時過になって、始めて蚊□(かや)の外まで来て、一言(ひとこと)見舞を云うのが常であった。
 そういう夜(よ)の事であったか、または昼の話であったか今は忘れたが、ある時いつものように顔を合わせると、東洋城が突然、殿下からあなたに何か講話をして貰いたいという御注文があったと云い出した。この思いがけない御所望(ごしょもう)を耳にした余は少からず驚いた。けれども自分でさえ聞かずにすめば、聞かずにいたいような不愉快な声を出して、殿下に御話などをする勇気はとても出なかった。その上羽織(はおり)も袴(はかま)も持ち合せなかった。そうして余のごとき位階のないものが、妄(みだ)りに貴(たっと)い殿下の前に出てしかるべきであるかないかそれが第一分らなかった。実際は東洋城も独断で先例のない事をあえてするのを憚(はばか)って、確(しか)とした御受はしなかったのだそうである。
 余の苦痛が咽喉から胃に移る間もなく、東洋城は故郷(ふるさと)にある母の病(やまい)を見舞うべく、去る人と入れ代ってひとまず東京に帰った。殿下もそれからほどなく御立(おたち)になった。そうして忘るべからざる二十四日の来た頃、東洋城は余に関する何の消息も知らずに、また東海道を汽車で西へ下って行った。その時彼は四五分の停車時間を偸(ぬす)んで、三島から余にわざわざ一通の手紙を書いた。その手紙は途中で紛失してしまって、つい宿へ着かなかったけれども、東洋城が御暇乞(おいとまごい)に上がった時、余の病気の事を御忘れにならなかった殿下から、もし逢(あ)う機会があったなら、どうか大事にするようにというような篤(あつ)い意味の御言葉を承ったため、それをわざわざ病中の余に知らせたのだそうである。咽喉の病も癒(い)え、胃の苦しみも去った今の余は、謹(つつし)んで殿下に御礼を申上げなければならない。また殿下の健康を祈らなければならない。

        十

 雨がしきりに降った。裏山の絶壁を真逆(まさか)に下(くだ)る筧(かけい)の竹が、青く冷たく光って見えた幾日を、物憂(ものう)く室(へや)の中に呻吟(しんぎん)しつつ暮していた。人が寝静(ねしず)まると始めて夢を襲(おそ)う(欄干(らんかん)から六尺余りの所を流れる)水の音も、風と雨に打ち消されて全く聞えなくなった。そのうち水が出るとか出たとか云う声がどこからともなく耳に響いた。
 お仙(せん)と云う下女が来て、昨夕(ゆうべ)桂川(かつらがわ)の水が増したので門の前の小家(こいえ)ではおおかたの荷を拵(こしら)えて、預けに来たという話をした。ついでにどことかでは家がまるで流されてしまって、そうしてその家の宝物がどことかから掘り出されたと云う話もした。この下女は伊東の生れで、浜辺か畑中に立って人を呼ぶような大きな声を出す癖のあるすこぶる殺風景な女であったが、雨に鎖(とざ)された山の中の宿屋で、こういう昔の物語めいた、嘘(うそ)か真(まこと)か分らないことを聞かされたときは、御伽噺(おとぎばなし)でも読んだ子供の時のような気がして、何となく古めかしい香(におい)に包まれた。その上家が流されたのがどこで、宝物を掘出したのがどこか、まるで不明なのをいっこう構わずに、それが当然であるごとくに話して行く様子が、いかにも自分の今いる温泉(ゆ)の宿を、浮世から遠くへ離隔(りかく)して、どんな便(たよ)りも噂(うわさ)のほかには這入(はい)ってこられない山里に変化してしまったところに一種の面白味があった。
 とかくするうちにこの楽(たのし)い空想が、不便な事実となって現れ始めた。東京から来る郵便も新聞もことごとく後(おく)れ出した。たまたま着くものは墨がにじむほどびしょびしょに濡(ぬ)れていた。湿った頁(ページ)を破けないように開けて見て、始めて都には今洪水(こうずい)が出盛(でさか)っているという報道を、鮮(あざ)やかな活字の上にまのあたり見たのは、何日(いつか)の事であったか、今たしかには覚えていないけれども、不安な未来を眼先に控(ひか)えて、その日その日の出来栄(できばえ)を案じながら病む身には、けっして嬉(うれ)しい便りではなかった。夜中に胃の痛みで自然と眼が覚(さ)めて、身体(からだ)の置所がないほど苦(くるし)い時には、東京と自分とを繋(つな)ぐ交通の縁が当分切れたその頃の状態を、多少心細いものに観じない訳に行かなかった。余の病気は帰るには余り劇(はげ)し過ぎた。そうして東京の方から余のいる所まで来るには、道路があまり打壊(うちこわ)れ過ぎた。のみならず東京その物がすでに水に浸(つか)っていた。余はほとんど崖(がけ)と共に崩(くず)れる吾家(わがや)の光景と、茅(ち)が崎(さき)で海に押し流されつつある吾子供らを、夢に見ようとした。雨のしたたか降る前に余は妻(さい)に宛てて手紙を出しておいた。それには好い部屋がないから四五日したら帰ると書いた。また病気が再発して苦(くるし)んでいると云う事はわざと知らせずにおいた。そうしてその手紙も着いたか着かないか分らないくらいに考えて寝ていた。
 そこへ電報が来た。それは恐るべき長い時間と労力を費(ついや)して、やっとの事無事に宛名(あてな)の人に通ずるや否や、その宛名の人をして封を切らぬ先に少しはっと思わせた電報であった。しかし中は、今度の水害でこちらは無事だが、そちらはどうかという、見舞と平信(へいしん)をかねたものに過ぎなかった。出した局の名が本郷とあるのを見てこれは草平君(そうへいくん)を煩(わずら)わしたものと知った。
 雨はますます降り続いた。余の病気はしだいに悪い方へ傾(かたぶ)いて行った。その時、余は夜の十二時頃長距離電話をかけられて、硬(かた)い胸を抑えながら受信器を耳に着けた。茅ケ崎の子供も無事、東京の家も無事という事だけが微(かす)かに分った。しかしその他は全く不得要領で、ほとんど風と話をするごとくに纏(まと)まらない雑音がぼうぼうと鼓膜に響くのみであった。第一かけた当人がわが妻(さい)であるという事さえ覚(さと)らずにこちらからあなたという敬語を何遍か繰返したくらい漠然(ぼんやり)した電話であった。東京の音信(たより)が雨と風と洪水の中に、悩んでいる余の眼に始めて暸然と映ったのは、坐る暇もないほど忙(いそが)しい思いをした妻が、当時の事情をありのままに認(したた)めた巨細(こさい)の手紙がようやく余の手に落ちた時の事であった。余はその手紙を見て自分の病(やまい)を忘れるほど驚いた。
病んで夢む天の川より出水(でみず)かな

        十一

 妻(さい)の手紙は全部の引用を許さぬほど長いものであった。冒頭に東洋城から余の病気の報知を受けた由と、それがため少からず心を悩ましている旨(むね)を記して、看病に行きたいにも汽車が不通で仕方がないから、せめて電話だけでもと思って、その日の中には通じかねるところを、無理な至急報にして貰(もら)って、夜半(やはん)に山田の奥さんの所からかけたという説明が書いてあった。茅(ち)ケ崎(さき)にいる子供の安否についても一方(ひとかた)ならぬ心配をしたものらしかった。十間坂下(じっけんざかした)という所は水害の恐れがないけれども、もし万一の事があれば、郵便局から電報で宅まで知らせて貰うはずになっていると、余に安心させるため、わざわざ断ってあった。そのほか市中たいていの平地(ひらち)は水害を受けて、現に江戸川通などは矢来(やらい)の交番の少し下まで浸(つか)ったため、舟に乗って往来(ゆきき)をしているという報知も書き込んであった。しかしその頃は後(おく)れながらも新聞が着いたから、一般の模様は妻の便りがなくてもほぼ分っていた。余の心を動かすべき現象は漠然(ばくぜん)たる大社会の雨や水やと戦う有様にあると云うよりも、むしろ己(おのれ)だけに密接の関係ある個人の消息にあった。そうしてその個人の二人までに、この雨と水が命の間際(まぎわ)まで祟(たた)った顛末(てんまつ)を、余はこの書面の中(うち)に見出したのである。
 一つは横浜に嫁(とつ)いだ妻の妹の運命に関した報知であった。手紙にはこう書いてある。
「……梅子事末(すえ)の弟を伴(つ)れて塔(とう)の沢(さわ)の福住(ふくずみ)へ参り居り候(そうろう)処、水害のため福住は浪(なみ)に押し流され、浴客(よくかく)六十名のうち十五名行方不明(ゆくえふめい)との事にて、生死の程も分らず、如何(いかん)とも致し方なく、横浜へは汽車不通にて参る事叶(かな)わず、電話は申込者多数にて一日を待たねば通じ不申(もうさず)……」
 後(あと)には、いろいろ込み入った工面(くめん)をして電話をかけた手続が書いてあって、その末に会社の小使とかが徒歩で箱根まで探しに行ったあげく、幽霊のように哀(あわ)れな姿をした彼女(かのおんな)を伴れて戻った模様が述べてあった。余はそこまで読んで来て、つい二三日前宿の下女から、ある所で水が出て家が流されて、その家の宝物がまたある所から掘り出されたという昔話のような物語を聞きながら、その裏には自分と利害の糸を絡(から)み合(あわ)せなければならない恐ろしい事実が潜(ひそ)んでいるとも気がつかずに、尾頭(おかしら)もない夢とのみ打ち興じてすましていた自分の無智に驚いた。またその無智を人間に強(し)いる運命の威力を恐れた。
 もう一つ余の心を躍(おど)らしたのは、草平君に関する報知(しらせ)であった。妻(さい)が本郷の親類で用を足した帰りとかに、水見舞のつもりで柳町(やなぎちょう)の低い町から草平君の住んでいる通りまで来て、ここらだがと思いながら、表から奥を覗(のぞ)いて見ると、かねて見覚(みおぼえ)のある家がくしゃりと潰(つぶ)れていたそうである。

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