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著者名:夏目漱石 

この苦(にが)い経験を甞(な)めた彼らは、それ以後幼児について余り多くを語るを好まなかった。けれども二人の生活の裏側は、この記憶のために淋(さむ)しく染めつけられて、容易に剥(は)げそうには見えなかった。時としては、彼我(ひが)の笑声を通してさえ、御互の胸に、この裏側が薄暗く映る事もあった。こういう訳だから、過去の歴史を今夫に向って新たに繰り返そうとは、御米も思い寄らなかったのである。宗助も今更妻からそれを聞かせられる必要は少しも認めていなかったのである。
 御米の夫に打ち明けると云ったのは、固より二人の共有していた事実についてではなかった。彼女は三度目の胎児を失った時、夫からその折の模様を聞いて、いかにも自分が残酷な母であるかのごとく感じた。自分が手を下(くだ)した覚がないにせよ、考えようによっては、自分と生を与えたものの生を奪うために、暗闇(くらやみ)と明海(あかるみ)の途中に待ち受けて、これを絞殺(こうさつ)したと同じ事であったからである。こう解釈した時、御米は恐ろしい罪を犯した悪人と己(おのれ)を見傚(みな)さない訳に行かなかった。そうして思わざる徳義上の苛責(かしゃく)を人知れず受けた。しかもその苛責を分って、共に苦しんでくれるものは世界中に一人もなかった。御米は夫にさえこの苦しみを語らなかったのである。
 彼女はその時普通の産婦のように、三週間を床の中で暮らした。それは身体(からだ)から云うと極(きわ)めて安静の三週間に違なかった。同時に心から云うと、恐るべき忍耐の三週間であった。宗助は亡児のために、小さい柩(ひつぎ)を拵(こし)らえて、人の眼に立たない葬儀を営なんだ。しかる後、また死んだもののために小さな位牌(いはい)を作った。位牌には黒い漆(うるし)で戒名(かいみょう)が書いてあった。位牌の主(ぬし)は戒名を持っていた。けれども俗名(ぞくみょう)は両親(ふたおや)といえども知らなかった。宗助は最初それを茶の間の箪笥(たんす)の上へ載(の)せて、役所から帰ると絶えず線香を焚(た)いた。その香(におい)が六畳に寝ている御米の鼻に時々通(かよ)った。彼女の官能は当時それほどに鋭どくなっていたのである。しばらくしてから、宗助は何を考えたか、小さい位牌(いはい)を箪笥(たんす)の抽出(ひきだし)の底へしまってしまった。そこには福岡で亡くなった小供の位牌と、東京で死んだ父の位牌が別々に綿で包(くる)んで丁寧(ていねい)に入れてあった。東京の家を畳むとき宗助は先祖の位牌を一つ残らず携(たずさ)えて、諸所を漂泊(ひょうはく)するの煩(わずら)わしさに堪(た)えなかったので、新らしい父の分だけを鞄(かばん)の中に収めて、その他はことごとく寺へ預けておいたのである。
 御米は宗助のするすべてを寝ながら見たり聞いたりしていた。そうして布団(ふとん)の上に仰向(あおむけ)になったまま、この二つの小(ち)さい位牌を、眼に見えない因果(いんが)の糸を長く引いて互に結びつけた。それからその糸をなお遠く延ばして、これは位牌にもならずに流れてしまった、始めから形のない、ぼんやりした影のような死児の上に投げかけた。御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命の厳(おごそ)かな支配を認めて、その厳かな支配の下(もと)に立つ、幾月日(いくつきひ)の自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じた時、時ならぬ呪詛(のろい)の声を耳の傍(はた)に聞いた。彼女が三週間の安静を、蒲団(ふとん)の上に貪(むさ)ぼらなければならないように、生理的に強(し)いられている間、彼女の鼓膜はこの呪詛の声でほとんど絶えず鳴っていた。三週間の安臥は、御米に取って実に比類のない忍耐の三週間であった。
 御米はこの苦しい半月余りを、枕の上でじっと見つめながら過ごした。しまいには我慢して横になっているのが、いかにも苛(つら)かったので、看護婦の帰った明(あく)る日に、こっそり起きてぶらぶらして見たが、それでも心に逼(せま)る不安は、容易に紛(まぎ)らせなかった。退儀(たいぎ)な身体(からだ)を無理に動かす割に、頭の中は少しも動いてくれないので、また落胆(がっか)りして、ついには取り放しの夜具の下へ潜(もぐ)り込んで、人の世を遠ざけるように、眼を堅く閉(つぶ)ってしまう事もあった。
 そのうち定期の三週間も過ぎて、御米の身体は自(おのず)からすっきりなった。御米は奇麗(きれい)に床を払って、新らしい気のする眉(まゆ)を再び鏡に照らした。それは更衣(ころもがえ)の時節であった。御米も久しぶりに綿の入(い)った重いものを脱(ぬ)ぎ棄(す)てて、肌に垢(あか)の触れない軽い気持を爽(さわ)やかに感じた。春と夏の境をぱっと飾る陽気な日本の風物は、淋(さむ)しい御米の頭にも幾分かの反響を与えた。けれども、それはただ沈んだものを掻(か)き立てて、賑(にぎ)やかな光りのうちに浮かしたまでであった。御米の暗い過去の中にその時一種の好奇心が萌(きざ)したのである。
 天気の勝(すぐ)れて美くしいある日の午前、御米はいつもの通り宗助を送り出してから直(じき)に、表へ出た。もう女は日傘(ひがさ)を差して外を行くべき時節であった。急いで日向(ひなた)を歩くと額の辺(あたり)が少し汗ばんだ。御米は歩き歩き、着物を着換える時、箪笥を開けたら、思わず一番目の抽出の底にしまってあった、新らしい位牌に手が触れた事を思いつづけて、とうとうある易者(えきしゃ)の門を潜(くぐ)った。
 彼女は多数の文明人に共通な迷信を子供の時から持っていた。けれども平生はその迷信がまた多数の文明人と同じように、遊戯的に外に現われるだけで済んでいた。それが実生活の厳かな部分を冒(おか)すようになったのは、全く珍らしいと云わなければならなかった。御米はその時真面目(まじめ)な態度と真面目な心を有(も)って、易者の前に坐って、自分が将来子を生むべき、また子を育てるべき運命を天から与えられるだろうかを確めた。易者は大道に店を出して、往来の人の身の上を一二銭で占(うら)なう人と、少しも違った様子もなく、算木(さんぎ)をいろいろに並べて見たり、筮竹(ぜいちく)を揉(も)んだり数えたりした後で、仔細(しさい)らしく腮(あご)の下の髯(ひげ)を握って何か考えたが、終りに御米の顔をつくづく眺(なが)めた末、
「あなたには子供はできません」と落ちつき払って宣告した。御米は無言のまま、しばらく易者の言葉を頭の中で噛(か)んだり砕(くだ)いたりした。それから顔を上げて、
「なぜでしょう」と聞き返した。その時御米は易者が返事をする前に、また考えるだろうと思った。ところが彼はまともに御米の眼の間を見詰めたまま、すぐ
「あなたは人に対してすまない事をした覚(おぼえ)がある。その罪が祟(たた)っているから、子供はけっして育たない」と云い切った。御米はこの一言(いちげん)に心臓を射抜かれる思があった。くしゃりと首を折ったなり家(うち)へ帰って、その夜は夫の顔さえろくろく見上げなかった。
 御米の宗助に打ち明けないで、今まで過したというのは、この易者の判断であった。宗助は床の間に乗せた細い洋灯(ランプ)の灯(ひ)が、夜の中に沈んで行きそうな静かな晩に、始めて御米の口からその話を聞いたとき、さすがに好い気味はしなかった。
「神経の起った時、わざわざそんな馬鹿な所へ出かけるからさ。銭(ぜに)を出して下らない事を云われてつまらないじゃないか。その後もその占(うらない)の宅(うち)へ行くのかい」
「恐ろしいから、もうけっして行かないわ」
「行かないがいい。馬鹿気ている」
 宗助はわざと鷹揚(おうよう)な答をしてまた寝てしまった。

        十四

 宗助(そうすけ)と御米(およね)とは仲の好い夫婦に違なかった。いっしょになってから今日(こんにち)まで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気不味(きまず)く暮した事はなかった。言逆(いさかい)に顔を赤らめ合った試(ためし)はなおなかった。二人は呉服屋の反物を買って着た。米屋から米を取って食った。けれどもその他には一般の社会に待つところのきわめて少ない人間であった。彼らは、日常の必要品を供給する以上の意味において、社会の存在をほとんど認めていなかった。彼らに取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼らにはまた充分であった。彼らは山の中にいる心を抱(いだ)いて、都会に住んでいた。
 自然の勢(いきおい)として、彼らの生活は単調に流れない訳に行かなかった。彼らは複雑な社会の煩(わずらい)を避け得たと共に、その社会の活動から出るさまざまの経験に直接触れる機会を、自分と塞(ふさ)いでしまって、都会に住みながら、都会に住む文明人の特権を棄(す)てたような結果に到着した。彼らも自分達の日常に変化のない事は折々自覚した。御互が御互に飽(あ)きるの、物足りなくなるのという心は微塵(みじん)も起らなかったけれども、御互の頭に受け入れる生活の内容には、刺戟(しげき)に乏しい或物が潜んでいるような鈍(にぶ)い訴(うったえ)があった。それにもかかわらず、彼らが毎日同じ判を同じ胸に押して、長の月日を倦(う)まず渡って来たのは、彼らが始から一般の社会に興味を失っていたためではなかった。社会の方で彼らを二人ぎりに切りつめて、その二人に冷かな背(そびら)を向けた結果にほかならなかった。外に向って生長する余地を見出し得なかった二人は、内に向って深く延び始めたのである。彼らの生活は広さを失なうと同時に、深さを増して来た。彼らは六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月(さいげつ)を挙(あ)げて、互の胸を掘り出した。彼らの命は、いつの間にか互の底にまで喰い入った。二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互から云えば、道義上切り離す事のできない一つの有機体になった。二人の精神を組み立てる神経系は、最後の繊維に至るまで、互に抱き合ってでき上っていた。彼らは大きな水盤の表に滴(した)たった二点の油のようなものであった。水を弾(はじ)いて二つがいっしょに集まったと云うよりも、水に弾かれた勢で、丸く寄り添った結果、離れる事ができなくなったと評する方が適当であった。
 彼らはこの抱合(ほうごう)の中(うち)に、尋常の夫婦に見出しがたい親和と飽満(ほうまん)と、それに伴なう倦怠(けんたい)とを兼ね具えていた。そうしてその倦怠の慵(ものう)い気分に支配されながら、自己を幸福と評価する事だけは忘れなかった。倦怠は彼らの意識に眠のような幕を掛けて、二人の愛をうっとり霞(かす)ます事はあった。けれども簓(ささら)で神経を洗われる不安はけっして起し得なかった。要するに彼らは世間に疎(うと)いだけそれだけ仲の好い夫婦であったのである。
 彼らは人並以上に睦(むつ)ましい月日を渝(かわ)らずに今日(きょう)から明日(あす)へと繋(つな)いで行きながら、常はそこに気がつかずに顔を見合わせているようなものの、時々自分達の睦まじがる心を、自分で確(しか)と認める事があった。その場合には必ず今まで睦まじく過ごした長の歳月(としつき)を溯(さか)のぼって、自分達がいかな犠牲を払って、結婚をあえてしたかと云う当時を憶い出さない訳には行かなかった。彼らは自然が彼らの前にもたらした恐るべき復讐(ふくしゅう)の下(もと)に戦(おのの)きながら跪(ひざま)ずいた。同時にこの復讐を受けるために得た互の幸福に対して、愛の神に一弁(いちべん)の香(こう)を焚(た)く事を忘れなかった。彼らは鞭(むちう)たれつつ死に赴くものであった。ただその鞭の先に、すべてを癒(い)やす甘い蜜の着いている事を覚(さと)ったのである。
 宗助は相当に資産のある東京ものの子弟として、彼らに共通な派出(はで)な嗜好(しこう)を、学生時代には遠慮なく充(み)たした男である。彼はその時服装(なり)にも、動作にも、思想にも、ことごとく当世らしい才人の面影(おもかげ)を漲(みなぎ)らして、昂(たか)い首を世間に擡(もた)げつつ、行こうと思う辺(あた)りを濶歩(かっぽ)した。彼の襟(えり)の白かったごとく、彼の洋袴(ズボン)の裾(すそ)が奇麗(きれい)に折り返されていたごとく、その下から見える彼の靴足袋(くつたび)が模様入のカシミヤであったごとく、彼の頭は華奢(きゃしゃ)な世間向きであった。
 彼は生れつき理解の好い男であった。したがって大した勉強をする気にはなれなかった。学問は社会へ出るための方便と心得ていたから、社会を一歩退(しり)ぞかなくっては達する事のできない、学者という地位には、余り多くの興味を有(も)っていなかった。彼はただ教場へ出て、普通の学生のする通り、多くのノートブックを黒くした。けれども宅(うち)へ帰って来て、それを読み直したり、手を入れたりした事は滅多(めった)になかった。休んで抜けた所さえ大抵はそのままにして放って置いた。彼は下宿の机の上に、このノートブックを奇麗に積み上げて、いつ見ても整然と秩序のついた書斎を空(から)にしては、外を出歩るいた。友達は多く彼の寛濶(かんかつ)を羨(うらや)んだ。宗助も得意であった。彼の未来は虹(にじ)のように美くしく彼の眸(ひとみ)を照らした。
 その頃の宗助は今と違って多くの友達を持っていた。実を云うと、軽快な彼の眼に映ずるすべての人は、ほとんど誰彼の区別なく友達であった。彼は敵という言葉の意味を正当に解し得ない楽天家として、若い世をのびのびと渡った。
「なに不景気な顔さえしなければ、どこへ行ったって驩迎(かんげい)されるもんだよ」と学友の安井によく話した事があった。実際彼の顔は、他(ひと)を不愉快にするほど深刻な表情を示し得た試(ためし)がなかった。
「君は身体(からだ)が丈夫だから結構だ」とよくどこかに故障の起る安井が羨(うらや)ましがった。この安井というのは国は越前(えちぜん)だが、長く横浜にいたので、言葉や様子は毫(ごう)も東京ものと異なる点がなかった。着物道楽で、髪の毛を長くして真中から分ける癖があった。高等学校は違っていたけれども、講義のときよく隣合せに並んで、時々聞き損(そく)なった所などを後から質問するので、口を利(き)き出したのが元になって、つい懇意になった。それが学年の始(はじま)りだったので、京都へ来て日のまだ浅い宗助にはだいぶんの便宜(べんぎ)であった。彼は安井の案内で新らしい土地の印象を酒のごとく吸い込んだ。二人は毎晩のように三条とか四条とかいう賑(にぎ)やかな町を歩いた。時によると京極(きょうごく)も通り抜けた。橋の真中に立って鴨川(かもがわ)の水を眺めた。東山(ひがしやま)の上に出る静かな月を見た。そうして京都の月は東京の月よりも丸くて大きいように感じた。町や人に厭(あ)きたときは、土曜と日曜を利用して遠い郊外に出た。宗助は至る所の大竹藪(おおたけやぶ)に緑の籠(こも)る深い姿を喜んだ。松の幹の染めたように赤いのが、日を照り返して幾本となく並ぶ風情(ふぜい)を楽しんだ。ある時は大悲閣(だいひかく)へ登って、即非(そくひ)の額の下に仰向(あおむ)きながら、谷底の流を下(くだ)る櫓(ろ)の音を聞いた。その音が雁(かり)の鳴声によく似ているのを二人とも面白がった。ある時は、平八茶屋(へいはちぢゃや)まで出掛けて行って、そこに一日寝ていた。そうして不味(まず)い河魚の串(くし)に刺したのを、かみさんに焼かして酒を呑(の)んだ。そのかみさんは、手拭(てぬぐい)を被(かぶ)って、紺(こん)の立付(たっつけ)みたようなものを穿(は)いていた。
 宗助はこんな新らしい刺戟(しげき)の下(もと)に、しばらくは慾求の満足を得た。けれどもひととおり古い都の臭(におい)を嗅(か)いで歩くうちに、すべてがやがて、平板に見えだして来た。その時彼は美くしい山の色と清い水の色が、最初ほど鮮明な影を自分の頭に宿さないのを物足らず思い始めた。彼は暖かな若い血を抱(いだ)いて、その熱(ほて)りを冷(さま)す深い緑に逢えなくなった。そうかといって、この情熱を焚(や)き尽すほどの烈(はげ)しい活動には無論出会わなかった。彼の血は高い脈を打って、いたずらにむず痒(がゆ)く彼の身体の中を流れた。彼は腕組をして、坐(い)ながら四方の山を眺めた。そうして、
「もうこんな古臭い所には厭きた」と云った。
 安井は笑いながら、比較のため、自分の知っている或友達の故郷の物語をして宗助に聞かした。それは浄瑠璃(じょうるり)の間(あい)の土山(つちやま)雨が降るとある有名な宿(しゅく)の事であった。朝起きてから夜寝るまで、眼に入るものは山よりほかにない所で、まるで擂鉢(すりばち)の底に住んでいると同じ有様だと告げた上、安井はその友達の小さい時分の経験として、五月雨(さみだれ)の降りつづく折などは、小供心に、今にも自分の住んでいる宿(しゅく)が、四方の山から流れて来る雨の中に浸(つ)かってしまいそうで、心配でならなかったと云う話をした。宗助はそんな擂鉢の底で一生を過す人の運命ほど情ないものはあるまいと考えた。
「そう云う所に、人間がよく生きていられるな」と不思議そうな顔をして安井に云った。安井も笑っていた。そうして土山(つちやま)から出た人物の中(うち)では、千両函(せんりょうばこ)を摩(す)り替(か)えて磔(はりつけ)になったのが一番大きいのだと云う一口話をやはり友達から聞いた通り繰り返した。狭い京都に飽きた宗助は、単調な生活を破る色彩として、そう云う出来事も百年に一度ぐらいは必要だろうとまで思った。
 その時分の宗助の眼は、常に新らしい世界にばかり注(そそ)がれていた。だから自然がひととおり四季の色を見せてしまったあとでは、再び去年の記憶を呼び戻すために、花や紅葉(もみじ)を迎える必要がなくなった。強く烈(はげ)しい命に生きたと云う証券を飽(あ)くまで握りたかった彼には、活(い)きた現在と、これから生れようとする未来が、当面の問題であったけれども、消えかかる過去は、夢同様に価(あたい)の乏しい幻影に過ぎなかった。彼は多くの剥(は)げかかった社(やしろ)と、寂果(さびは)てた寺を見尽して、色の褪(さ)めた歴史の上に、黒い頭を振り向ける勇気を失いかけた。寝耄(ねぼ)けた昔に□徊(ていかい)するほど、彼の気分は枯れていなかったのである。
 学年の終りに宗助と安井とは再会を約して手を分った。安井はひとまず郷里の福井へ帰って、それから横浜へ行くつもりだから、もしその時には手紙を出して通知をしよう、そうしてなるべくならいっしょの汽車で京都へ下(くだ)ろう、もし時間が許すなら、興津(おきつ)あたりで泊って、清見寺(せいけんじ)や三保(みほ)の松原や、久能山(くのうざん)でも見ながら緩(ゆっ)くり遊んで行こうと云った。宗助は大いによかろうと答えて、腹のなかではすでに安井の端書(はがき)を手にする時の心持さえ予想した。
 宗助が東京へ帰ったときは、父は固(もと)よりまだ丈夫であった。小六(ころく)は子供であった。彼は一年ぶりに殷(さか)んな都の炎熱と煤煙(ばいえん)を呼吸するのをかえって嬉(うれ)しく感じた。燬(や)くような日の下に、渦(うず)を捲(ま)いて狂い出しそうな瓦(かわら)の色が、幾里となく続く景色(けしき)を、高い所から眺めて、これでこそ東京だと思う事さえあった。今の宗助なら目を眩(まわ)しかねない事々物々が、ことごとく壮快の二字を彼の額に焼き付けべく、その時は反射して来たのである。
 彼の未来は封じられた蕾(つぼみ)のように、開かない先は他(ひと)に知れないばかりでなく、自分にも確(しか)とは分らなかった。宗助はただ洋々の二字が彼の前途に棚引(たなび)いている気がしただけであった。彼はこの暑い休暇中にも卒業後の自分に対する謀(はかりごと)を忽(ゆる)がせにはしなかった。彼は大学を出てから、官途につこうか、または実業に従おうか、それすら、まだ判然(はっきり)と心にきめていなかったにかかわらず、どちらの方面でも構わず、今のうちから、進めるだけ進んでおく方が利益だと心づいた。彼は直接父の紹介を得た。父を通して間接にその知人の紹介を得た。そうして自分の将来を影響し得るような人を物色して、二三の訪問を試みた。彼らのあるものは、避暑という名義の下(もと)に、すでに東京を離れていた。あるものは不在であった。またあるものは多忙のため時を期して、勤務先で会おうと云った。宗助は日のまだ高くならない七時頃に、昇降器(エレヴェーター)で煉瓦造(れんがづくり)の三階へ案内されて、そこの応接間に、もう七八人も自分と同じように、同じ人を待っている光景を見て驚ろいた事もあった。彼はこうして新らしい所へ行って、新らしい物に接するのが、用向の成否に関わらず、今まで眼に付かずに過ぎた活(い)きた世界の断片を頭へ詰め込むような気がして何となく愉快であった。
 父の云いつけで、毎年の通り虫干の手伝をさせられるのも、こんな時には、かえって興味の多い仕事の一部分に数えられた。彼は冷たい風の吹き通す土蔵の戸前(とまえ)の湿(しめ)っぽい石の上に腰を掛けて、古くから家にあった江戸名所図会(えどめいしょずえ)と、江戸砂子(えどすなご)という本を物珍しそうに眺めた。畳まで熱くなった座敷の真中へ胡坐(あぐら)を掻(か)いて、下女の買って来た樟脳(しょうのう)を、小さな紙片(かみぎれ)に取り分けては、医者でくれる散薬のような形に畳んだ。宗助は小供の時から、この樟脳の高い香(かおり)と、汗の出る土用と、炮烙灸(ほうろくぎゅう)と、蒼空(あおぞら)を緩(ゆる)く舞う鳶(とび)とを連想していた。
 とかくするうちに節(せつ)は立秋に入った。二百十日の前には、風が吹いて、雨が降った。空には薄墨(うすずみ)の煮染(にじ)んだような雲がしきりに動いた。寒暖計が二三日下がり切りに下がった。宗助はまた行李(こうり)を麻縄で絡(から)げて、京都へ向う支度をしなければならなくなった。
 彼はこの間にも安井と約束のある事は忘れなかった。家(うち)へ帰った当座は、まだ二カ月も先の事だからと緩くり構えていたが、だんだん時日が逼(せま)るに従って、安井の消息が気になってきた。安井はその後一枚の端書(はがき)さえ寄こさなかったのである。宗助は安井の郷里の福井へ向けて手紙を出して見た。けれども返事はついに来なかった。宗助は横浜の方へ問い合わせて見ようと思ったが、つい番地も町名も聞いて置かなかったので、どうする事もできなかった。
 立つ前の晩に、父は宗助を呼んで、宗助の請求通り、普通の旅費以外に、途中で二三日滞在した上、京都へ着いてからの当分の小遣(こづかい)を渡して、
「なるたけ節倹(せっけん)しなくちゃいけない」と諭(さと)した。
 宗助はそれを、普通の子が普通の親の訓戒を聞く時のごとくに聞いた。父はまた、
「来年また帰って来るまでは会わないから、随分気をつけて」と云った。その帰って来る時節には、宗助はもう帰れなくなっていたのである。そうして帰って来た時は、父の亡骸(なきがら)がもう冷たくなっていたのである。宗助は今に至るまでその時の父の面影(おもかげ)を思い浮べてはすまないような気がした。
 いよいよ立つと云う間際(まぎわ)に、宗助は安井から一通の封書を受取った。開いて見ると、約束通りいっしょに帰るつもりでいたが、少し事情があって先へ立たなければならない事になったからと云う断(ことわり)を述べた末に、いずれ京都で緩(ゆっ)くり会おうと書いてあった。宗助はそれを洋服の内懐(うちぶところ)に押し込んで汽車に乗った。約束の興津(おきつ)へ来たとき彼は一人でプラットフォームへ降りて、細長い一筋町を清見寺(せいけんじ)の方へ歩いた。夏もすでに過ぎた九月の初なので、おおかたの避暑客は早く引き上げた後だから、宿屋は比較的閑静であった。宗助は海の見える一室の中に腹這(はらばい)になって、安井へ送る絵端書(えはがき)へ二三行の文句を書いた。そのなかに、君が来ないから僕一人でここへ来たという言葉を入れた。
 翌日も約束通り一人で三保(みほ)と竜華寺(りゅうげじ)を見物して、京都へ行ってから安井に話す材料をできるだけ拵(こしら)えた。しかし天気のせいか、当(あて)にした連(つれ)のないためか、海を見ても、山へ登っても、それほど面白くなかった。宿にじっとしているのは、なお退屈であった。宗助は匆々(そうそう)にまた宿の浴衣(ゆかた)を脱(ぬ)ぎ棄(す)てて、絞(しぼ)りの三尺と共に欄干(らんかん)に掛けて、興津を去った。
 京都へ着いた一日目は、夜汽車の疲れやら、荷物の整理やらで、往来の日影を知らずに暮らした。二日目になってようやく学校へ出て見ると、教師はまだ出揃(でそろ)っていなかった。学生も平日(いつも)よりは数が不足であった。不審な事には、自分より三四(さんよ)っ日(か)前に帰っているべきはずの安井の顔さえどこにも見えなかった。宗助はそれが気にかかるので、帰りにわざわざ安井の下宿へ回って見た。安井のいる所は樹と水の多い加茂(かも)の社(やしろ)の傍であった。彼は夏休み前から、少し閑静な町外れへ移って勉強するつもりだとか云って、わざわざこの不便な村同様な田舎(いなか)へ引込んだのである。彼の見つけ出した家からが寂(さび)た土塀(どべい)を二方に回(めぐ)らして、すでに古風に片づいていた。宗助は安井から、そこの主人はもと加茂神社の神官の一人であったと云う話を聞いた。非常に能弁な京都言葉を操(あやつ)る四十ばかりの細君がいて、安井の世話をしていた。
「世話って、ただ不味(まず)い菜(さい)を拵(こし)らえて、三度ずつ室(へや)へ運んでくれるだけだよ」と安井は移り立てからこの細君の悪口を利(き)いていた。宗助は安井をここに二三度訪ねた縁故で、彼のいわゆる不味い菜を拵らえる主(ぬし)を知っていた。細君の方でも宗助の顔を覚えていた。細君は宗助を見るや否や、例の柔かい舌で慇懃(いんぎん)な挨拶(あいさつ)を述べた後、こっちから聞こうと思って来た安井の消息を、かえって向うから尋ねた。細君の云うところによると、彼は郷里へ帰ってから当日に至るまで、一片の音信さえ下宿へは出さなかったのである。宗助は案外な思で自分の下宿へ帰って来た。
 それから一週間ほどは、学校へ出るたんびに、今日は安井の顔が見えるか、明日(あす)は安井の声がするかと、毎日漠然(ばくぜん)とした予期を抱(いだ)いては教室の戸を開けた。そうして毎日また漠然とした不足を感じては帰って来た。もっとも最後の三四日における宗助は早く安井に会いたいと思うよりも、少し事情があるから、失敬して先へ立つとわざわざ通知しながら、いつまで待っても影も見せない彼の安否を、関係者としてむしろ気にかけていたのである。彼は学友の誰彼に万遍(まんべん)なく安井の動静を聞いて見た。しかし誰も知るものはなかった。ただ一人が、昨夕(ゆうべ)四条の人込の中で、安井によく似た浴衣(ゆかた)がけの男を見たと答えた事があった。しかし宗助にはそれが安井だろうとは信じられなかった。ところがその話を聞いた翌日、すなわち宗助が京都へ着いてから約一週間の後、話の通りの服装(なり)をした安井が、突然宗助の所へ尋ねて来た。
 宗助は着流しのまま麦藁帽(むぎわらぼう)を手に持った友達の姿を久し振に眺めた時、夏休み前の彼の顔の上に、新らしい何物かがさらに付け加えられたような気がした。安井は黒い髪に油を塗って、目立つほど奇麗(きれい)に頭を分けていた。そうして今床屋へ行って来たところだと言訳らしい事を云った。
 その晩彼は宗助と一時間余りも雑談に耽(ふけ)った。彼の重々しい口の利き方、自分を憚(はば)かって、思い切れないような話の調子、「しかるに」と云う口癖、すべて平生の彼と異なる点はなかった。ただ彼はなぜ宗助より先へ横浜を立ったかを語らなかった。また途中どこで暇取(ひまど)ったため、宗助より後(おく)れて京都へ着いたかを判然(はっきり)告げなかった。しかし彼は三四日前ようやく京都へ着いた事だけを明かにした。そうして、夏休み前にいた下宿へはまだ帰らずにいると云った。
「それでどこに」と宗助が聞いたとき、彼は自分の今泊っている宿屋の名前を、宗助に教えた。それは三条辺(へん)の三流位の家(いえ)であった。宗助はその名前を知っていた。
「どうして、そんな所へ這入(はい)ったのだ。当分そこにいるつもりなのかい」と宗助は重ねて聞いた。安井はただ少し都合があってとばかり答えたが、
「下宿生活はもうやめて、小さい家(うち)でも借りようかと思っている」と思いがけない計画を打ち明けて、宗助を驚ろかした。
 それから一週間ばかりの中に、安井はとうとう宗助に話した通り、学校近くの閑静な所に一戸を構えた。それは京都に共通な暗い陰気な作りの上に、柱や格子(こうし)を黒赤く塗って、わざと古臭(ふるくさ)く見せた狭い貸家であった。門口(かどぐち)に誰の所有ともつかない柳が一本あって、長い枝がほとんど軒に触(さわ)りそうに風に吹かれる様を宗助は見た。庭も東京と違って、少しは整っていた。石の自由になる所だけに、比較的大きなのが座敷の真正面に据(す)えてあった。その下には涼しそうな苔(こけ)がいくらでも生えた。裏には敷居の腐った物置が空(から)のままがらんと立っている後(うしろ)に、隣の竹藪(たけやぶ)が便所の出入(ではい)りに望まれた。
 宗助のここを訪問したのは、十月に少し間のある学期の始めであった。残暑がまだ強いので宗助は学校の往復に、蝙蝠傘(こうもりがさ)を用いていた事を今に記憶していた。彼は格子の前で傘を畳んで、内を覗(のぞ)き込んだ時、粗(あら)い縞(しま)の浴衣(ゆかた)を着た女の影をちらりと認めた。格子の内は三和土(たたき)で、それが真直(まっすぐ)に裏まで突き抜けているのだから、這入ってすぐ右手の玄関めいた上り口を上らない以上は、暗いながら一筋に奥の方まで見える訳であった。宗助は浴衣の後影(うしろかげ)が、裏口へ出る所で消えてなくなるまでそこに立っていた。それから格子を開けた。玄関へは安井自身が現れた。
 座敷へ通ってしばらく話していたが、さっきの女は全く顔を出さなかった。声も立てず、音もさせなかった。広い家でないから、つい隣の部屋ぐらいにいたのだろうけれども、いないのとまるで違わなかった。この影のように静かな女が御米であった。
 安井は郷里の事、東京の事、学校の講義の事、何くれとなく話した。けれども、御米の事については一言(いちごん)も口にしなかった。宗助も聞く勇気に乏しかった。その日はそれなり別れた。
 次の日二人が顔を合したとき、宗助はやはり女の事を胸の中に記憶していたが、口へ出しては一言(ひとこと)も語らなかった。安井も何気ない風をしていた。懇意な若い青年が心易立(こころやすだて)に話し合う遠慮のない題目は、これまで二人の間に何度となく交換されたにもかかわらず、安井はここへ来て、息詰ったごとくに見えた。宗助もそこを無理にこじ開けるほどの強い好奇心は有(も)たなかった。したがって女は二人の意識の間に挟(はさ)まりながら、つい話頭に上らないで、また一週間ばかり過ぎた。
 その日曜に彼はまた安井を訪(と)うた。それは二人の関係している或会について用事が起ったためで、女とは全く縁故のない動機から出た淡泊(たんぱく)な訪問であった。けれども座敷へ上がって、同じ所へ坐らせられて、垣根に沿うた小さな梅の木を見ると、この前来た時の事が明らかに思い出された。その日も座敷の外は、しんとして静(しずか)であった。宗助はその静かなうちに忍んでいる若い女の影を想像しない訳に行かなかった。同時にその若い女はこの前と同じように、けっして自分の前に出て来る気遣(きづかい)はあるまいと信じていた。
 この予期の下(もと)に、宗助は突然御米に紹介されたのである。その時御米はこの間のように粗(あら)い浴衣(ゆかた)を着てはいなかった。これからよそへ行くか、または今外から帰って来たと云う風な粧(よそおい)をして、次の間から出て来た。宗助にはそれが意外であった。しかし大した綺羅(きら)を着飾った訳でもないので、衣服の色も、帯の光も、それほど彼を驚かすまでには至らなかった。その上御米は若い女にありがちの嬌羞(きょうしゅう)というものを、初対面の宗助に向って、あまり多く表わさなかった。ただ普通の人間を静にして言葉寡(すく)なに切りつめただけに見えた。人の前へ出ても、隣の室(へや)に忍んでいる時と、あまり区別のないほど落ちついた女だという事を見出した宗助は、それから推して、御米のひっそりしていたのは、穴勝(あながち)恥かしがって、人の前へ出るのを避けるためばかりでもなかったんだと思った。
 安井は御米を紹介する時、
「これは僕の妹(いもと)だ」という言葉を用いた。宗助は四五分対坐して、少し談話を取り換わしているうちに、御米の口調(くちょう)のどこにも、国訛(くになまり)らしい音(おん)の交(まじ)っていない事に気がついた。
「今まで御国の方に」と聞いたら、御米が返事をする前に安井が、
「いや横浜に長く」と答えた。
 その日は二人して町へ買物に出ようと云うので、御米は不断着(ふだんぎ)を脱ぎ更えて、暑いところをわざわざ新らしい白足袋(しろたび)まで穿(は)いたものと知れた。宗助はせっかくの出がけを喰い留めて、邪魔でもしたように気の毒な思をした。
「なに宅(うち)を持ち立てだものだから、毎日毎日要(い)るものを新らしく発見するんで、一週に一二返は是非都まで買い出しに行かなければならない」と云いながら安井は笑った。
「途(みち)までいっしょに出掛けよう」と宗助はすぐ立ち上がった。ついでに家(うち)の様子を見てくれと安井の云うに任せた。宗助は次の間にある亜鉛(トタン)の落しのついた四角な火鉢(ひばち)や、黄な安っぽい色をした真鍮(しんちゅう)の薬鑵(やかん)や、古びた流しの傍(そば)に置かれた新らし過ぎる手桶(ておけ)を眺めて、門(かど)へ出た。安井は門口(かどぐち)へ錠(じょう)をおろして、鍵(かぎ)を裏の家(うち)へ預けるとか云って、走(か)けて行った。宗助と御米は待っている間、二言、三言、尋常な口を利(き)いた。
 宗助はこの三四分間に取り換わした互の言葉を、いまだに覚えていた。それはただの男がただの女に対して人間たる親(したし)みを表わすために、やりとりする簡略な言葉に過ぎなかった。形容すれば水のように浅く淡いものであった。彼は今日(こんにち)まで路傍道上において、何かの折に触れて、知らない人を相手に、これほどの挨拶(あいさつ)をどのくらい繰り返して来たか分らなかった。
 宗助は極(きわ)めて短かいその時の談話を、一々思い浮べるたびに、その一々が、ほとんど無着色と云っていいほどに、平淡であった事を認めた。そうして、かく透明な声が、二人の未来を、どうしてああ真赤(まっか)に、塗りつけたかを不思議に思った。今では赤い色が日を経(へ)て昔の鮮(あざや)かさを失っていた。互を焚(や)き焦(こ)がした□(ほのお)は、自然と変色して黒くなっていた。二人の生活はかようにして暗い中に沈んでいた。宗助は過去を振り向いて、事の成行(なりゆき)を逆に眺め返しては、この淡泊(たんぱく)な挨拶(あいさつ)が、いかに自分らの歴史を濃く彩(いろど)ったかを、胸の中であくまで味わいつつ、平凡な出来事を重大に変化させる運命の力を恐ろしがった。
 宗助は二人で門の前に佇(たたず)んでいる時、彼らの影が折れ曲って、半分ばかり土塀(どべい)に映ったのを記憶していた。御米の影が蝙蝠傘(こうもりがさ)で遮(さえ)ぎられて、頭の代りに不規則な傘の形が壁に落ちたのを記憶していた。少し傾むきかけた初秋(はつあき)の日が、じりじり二人を照り付けたのを記憶していた。御米は傘を差したまま、それほど涼しくもない柳の下に寄った。宗助は白い筋を縁(ふち)に取った紫(むらさき)の傘の色と、まだ褪(さ)め切らない柳の葉の色を、一歩遠退(とおの)いて眺め合わした事を記憶していた。
 今考えるとすべてが明らかであった。したがって何らの奇もなかった。二人は土塀の影から再び現われた安井を待ち合わして、町の方へ歩いた。歩く時、男同志は肩を並べた。御米は草履(ぞうり)を引いて後(あと)に落ちた。話も多くは男だけで受持った。それも長くはなかった。途中まで来て宗助は一人分れて、自分の家(うち)へ帰ったからである。
 けれども彼の頭にはその日の印象が長く残っていた。家へ帰って、湯に入って、灯火(ともしび)の前に坐った後(のち)にも、折々色の着いた平たい画(え)として、安井と御米の姿が眼先にちらついた。それのみか床(とこ)に入(い)ってからは、妹(いもと)だと云って紹介された御米が、果して本当の妹であろうかと考え始めた。安井に問いつめない限り、この疑(うたがい)の解決は容易でなかったけれども、臆断(おくだん)はすぐついた。宗助はこの臆断を許すべき余地が、安井と御米の間に充分存在し得るだろうぐらいに考えて、寝ながらおかしく思った。しかもその臆断に、腹の中で□徊(ていかい)する事の馬鹿馬鹿しいのに気がついて、消し忘れた洋灯(ランプ)をようやくふっと吹き消した。
 こう云う記憶の、しだいに沈んで痕迹(あとかた)もなくなるまで、御互の顔を見ずに過すほど、宗助と安井とは疎遠ではなかった。二人は毎日学校で出合うばかりでなく、依然として夏休み前の通り往来を続けていた。けれども宗助が行くたびに、御米は必ず挨拶(あいさつ)に出るとは限らなかった。三返に一返ぐらい、顔を見せないで、始ての時のように、ひっそり隣りの室(へや)に忍んでいる事もあった。宗助は別にそれを気にも留めなかった。それにもかかわらず、二人はようやく接近した。幾何(いくばく)ならずして冗談(じょうだん)を云うほどの親(したし)みができた。
 そのうちまた秋が来た。去年と同じ事情の下(もと)に、京都の秋を繰り返す興味に乏しかった宗助は、安井と御米に誘われて茸狩(たけがり)に行った時、朗らかな空気のうちにまた新らしい香(におい)を見出した。紅葉(もみじ)も三人で観た。嵯峨(さが)から山を抜けて高雄(たかお)へ歩く途中で、御米は着物の裾(すそ)を捲(ま)くって、長襦袢(ながじゅばん)だけを足袋(たび)の上まで牽(ひ)いて、細い傘(かさ)を杖(つえ)にした。山の上から一町も下に見える流れに日が射して、水の底が明らかに遠くから透(す)かされた時、御米は
「京都は好い所ね」と云って二人を顧(かえり)みた。それをいっしょに眺めた宗助にも、京都は全く好い所のように思われた。
 こう揃(そろ)って外へ出た事も珍らしくはなかった。家(うち)の中で顔を合わせる事はなおしばしばあった。或時宗助が例のごとく安井を尋ねたら、安井は留守で、御米ばかり淋(さみ)しい秋の中に取り残されたように一人坐(すわ)っていた。宗助は淋(さむ)しいでしょうと云って、つい座敷に上り込んで、一つ火鉢(ひばち)の両側に手を翳(かざ)しながら、思ったより長話をして帰った。或時宗助がぽかんとして、下宿の机に倚(よ)りかかったまま、珍らしく時間の使い方に困っていると、ふと御米がやって来た。そこまで買物に出たから、ついでに寄ったんだとか云って、宗助の薦(すす)める通り、茶を飲んだり菓子を食べたり、緩(ゆっ)くり寛(くつ)ろいだ話をして帰った。
 こんな事が重なって行くうちに、木(こ)の葉(は)がいつの間(ま)にか落ちてしまった。そうして高い山の頂(いただき)が、ある朝真白に見えた。吹(ふ)き曝(さら)しの河原(かわら)が白くなって、橋を渡る人の影が細く動いた。その年の京都の冬は、音を立てずに肌を透(とお)す陰忍(いんにん)な質(たち)のものであった。安井はこの悪性の寒気(かんき)にあてられて、苛(ひど)いインフルエンザに罹(かか)った。熱が普通の風邪(かぜ)よりもよほど高かったので、始は御米も驚ろいたが、それは一時(いちじ)の事で、すぐ退(ひ)いたには退いたから、これでもう全快と思うと、いつまで立っても判然(はっきり)しなかった。安井は黐(もち)のような熱に絡(から)みつかれて、毎日その差し引きに苦しんだ。
 医者は少し呼吸器を冒(おか)されているようだからと云って、切に転地を勧めた。安井は心ならず押入の中の柳行李(やなぎごうり)に麻縄(あさなわ)を掛けた。御米は手提鞄(てさげかばん)に錠(じょう)をおろした。宗助は二人を七条まで見送って、汽車が出るまで室(へや)の中へ這入(はい)って、わざと陽気な話をした。プラットフォームへ下りた時、窓の内から、
「遊びに来たまえ」と安井が云った。
「どうぞ是非」と御米が言った。
 汽車は血色の好い宗助の前をそろそろ過ぎて、たちまち神戸の方に向って煙を吐(は)いた。
 病人は転地先で年を越した。絵端書(えはがき)は着いた日から毎日のように寄こした。それにいつでも遊びに来いと繰り返して書いてない事はなかった。御米の文字も一二行ずつは必ず交(まじ)っていた。宗助は安井と御米から届いた絵端書を別にして机の上に重ねて置いた。外から帰るとそれが直(すぐ)眼に着いた。時々はそれを一枚ずつ順に読み直したり、見直したりした。しまいにもうすっかり癒(なお)ったから帰る。しかしせっかくここまで来ながら、ここで君の顔を見ないのは遺憾(いかん)だから、この手紙が着きしだい、ちょっとでいいから来いという端書が来た。無事と退屈を忌(い)む宗助を動かすには、この十数言(じゅうすうげん)で充分であった。宗助は汽車を利用してその夜のうちに安井の宿に着いた。
 明るい灯火(ともしび)の下に三人が待設けた顔を合わした時、宗助は何よりもまず病人の色沢(いろつや)の回復して来た事に気がついた。立つ前よりもかえって好いくらいに見えた。安井自身もそんな心持がすると云って、わざわざ襯衣(シャツ)の袖(そで)を捲(まく)り上げて、青筋の入った腕を独(ひとり)で撫(な)でていた。御米も嬉(うれ)しそうに眼を輝かした。宗助にはその活溌(かっぱつ)な目遣(めづかい)がことに珍らしく受取れた。今まで宗助の心に映じた御米は、色と音の撩乱(りょうらん)する裏(なか)に立ってさえ、極(きわ)めて落ちついていた。そうしてその落ちつきの大部分はやたらに動かさない眼の働らきから来たとしか思われなかった。
 次の日三人は表へ出て遠く濃い色を流す海を眺めた。松の幹から脂(やに)の出る空気を吸った。冬の日は短い空を赤裸々に横切っておとなしく西へ落ちた。落ちる時、低い雲を黄に赤に竈(かまど)の火の色に染めて行った。風は夜に入っても起らなかった。ただ時々松を鳴らして過ぎた。暖かい好い日が宗助の泊っている三日の間続いた。
 宗助はもっと遊んで行きたいと云った。御米はもっと遊んで行きましょうと云った。安井は宗助が遊びに来たから好い天気になったんだろうと云った。三人はまた行李(こうり)と鞄(かばん)を携(たずさ)えて京都へ帰った。冬は何事もなく北風を寒い国へ吹きやった。山の上を明らかにした斑(まだら)な雪がしだいに落ちて、後から青い色が一度に芽を吹いた。
 宗助は当時を憶(おも)い出すたびに、自然の進行がそこではたりと留まって、自分も御米もたちまち化石してしまったら、かえって苦はなかったろうと思った。事は冬の下から春が頭を擡(もた)げる時分に始まって、散り尽した桜の花が若葉に色を易(か)える頃に終った。すべてが生死(しょうし)の戦(たたかい)であった。青竹を炙(あぶ)って油を絞(しぼ)るほどの苦しみであった。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時はどこもかしこもすでに砂だらけであったのである。彼らは砂だらけになった自分達を認めた。けれどもいつ吹き倒されたかを知らなかった。
 世間は容赦なく彼らに徳義上の罪を背負(しょわ)した。しかし彼ら自身は徳義上の良心に責められる前に、いったん茫然(ぼうぜん)として、彼らの頭が確(たしか)であるかを疑った。彼らは彼らの眼に、不徳義な男女(なんにょ)として恥ずべく映る前に、すでに不合理な男女として、不可思議に映ったのである。そこに言訳らしい言訳が何にもなかった。だからそこに云うに忍びない苦痛があった。彼らは残酷な運命が気紛(きまぐれ)に罪もない二人の不意を打って、面白半分穽(おとしあな)の中に突き落したのを無念に思った。
 曝露(ばくろ)の日がまともに彼らの眉間(みけん)を射たとき、彼らはすでに徳義的に痙攣(けいれん)の苦痛を乗り切っていた。彼らは蒼白(あおしろ)い額を素直に前に出して、そこに□(ほのお)に似た烙印(やきいん)を受けた。そうして無形の鎖で繋(つな)がれたまま、手を携(たずさ)えてどこまでも、いっしょに歩調を共にしなければならない事を見出した。彼らは親を棄(す)てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれらから棄てられた。学校からは無論棄てられた。ただ表向だけはこちらから退学した事になって、形式の上に人間らしい迹(あと)を留(とど)めた。
 これが宗助と御米の過去であった。

        十五

 この過去を負わされた二人は、広島へ行っても苦しんだ。福岡へ行っても苦しんだ。東京へ出て来ても、依然として重い荷に抑(おさ)えつけられていた。佐伯(さえき)の家とは親しい関係が結べなくなった。叔父は死んだ。叔母と安之助(やすのすけ)はまだ生きているが、生きている間に打ち解けた交際(つきあい)はできないほど、もう冷淡の日を重ねてしまった。今年はまだ歳暮にも行かなかった。向(むこう)からも来なかった。家(いえ)に引取った小六(ころく)さえ腹の底では兄に敬意を払っていなかった。二人が東京へ出たてには、単純な小供の頭から、正直に御米(およね)を悪(にく)んでいた。御米にも宗助(そうすけ)にもそれがよく分っていた。夫婦は日の前に笑み、月の前に考えて、静かな年を送り迎えた。今年ももう尽きる間際(まぎわ)まで来た。
 通町(とおりちょう)では暮の内から門並揃(かどなみそろい)の注連飾(しめかざり)をした。往来の左右に何十本となく並んだ、軒より高い笹(ささ)が、ことごとく寒い風に吹かれて、さらさらと鳴った。宗助も二尺余りの細い松を買って、門の柱に釘付(くぎづけ)にした。それから大きな赤い橙(だいだい)を御供(おそなえ)の上に載(の)せて、床の間に据(す)えた。床にはいかがわしい墨画(すみえ)の梅が、蛤(はまぐり)の格好(かっこう)をした月を吐(は)いてかかっていた。宗助にはこの変な軸の前に、橙と御供を置く意味が解らなかった。
「いったいこりゃ、どう云う了見(りょうけん)だね」と自分で飾りつけた物を眺(なが)めながら、御米に聞いた。御米にも毎年こうする意味はとんと解らなかった。
「知らないわ。ただそうしておけばいいのよ」と云って台所へ去った。宗助は、
「こうしておいて、つまり食うためか」と首を傾けて御供の位置を直した。
 伸餅(のしもち)は夜業(よなべ)に俎(まないた)を茶の間まで持ち出して、みんなで切った。庖丁(ほうちょう)が足りないので、宗助は始からしまいまで手を出さなかった。力のあるだけに小六が一番多く切った。その代り不同も一番多かった。中には見かけの悪い形のものも交った。変なのができるたびに清(きよ)が声を出して笑った。小六は庖丁の背に濡布巾(ぬれぶきん)をあてがって、硬い耳の所を断ち切りながら、
「格好はどうでも、食いさいすればいいんだ」と、うんと力を入れて耳まで赤くした。
 そのほかに迎年(げいねん)の支度としては、小殿原(ごまめ)を熬(い)って、煮染(にしめ)を重詰にするくらいなものであった。大晦日(おおみそか)の夜(よ)に入(い)って、宗助は挨拶(あいさつ)かたがた屋賃を持って、坂井の家に行った。わざと遠慮して勝手口へ回ると、摺硝子(すりガラス)へ明るい灯(ひ)が映って、中はざわざわしていた。上(あが)り框(がまち)に帳面を持って腰をかけた掛取らしい小僧が、立って宗助に挨拶をした。茶の間には主人も細君もいた。その片隅(かたすみ)に印袢天(しるしばんてん)を着た出入(でいり)のものらしいのが、下を向いて、小(ち)さい輪飾(わかざり)をいくつも拵(こしら)えていた。傍(そば)に譲葉(ゆずりは)と裏白(うらじろ)と半紙と鋏(はさみ)が置いてあった。若い下女が細君の前に坐って、釣銭らしい札(さつ)と銀貨を畳に並べていた。主人は宗助を見て、
「いやどうも」と云った。「押しつまってさぞ御忙(おいそが)しいでしょう。この通りごたごたです。さあどうぞこちらへ。何ですな、御互に正月にはもう飽(あ)きましたな。いくら面白いものでも四十辺(ぺん)以上繰り返すと厭(いや)になりますね」
 主人は年の送迎に煩(わず)らわしいような事を云ったが、その態度にはどこと指してくさくさしたところは認められなかった。言葉遣(ことばづかい)は活溌(かっぱつ)であった。顔はつやつやしていた。晩食(ばんしょく)に傾けた酒の勢(いきおい)が、まだ頬の上に差しているごとく思われた。宗助は貰い煙草(たばこ)をして二三十分ばかり話して帰った。
 家(うち)では御米が清を連れて湯に行くとか云って、石鹸入(シャボンいれ)を手拭(てぬぐい)に包(くる)んで、留守居を頼む夫の帰(かえり)を待ち受けていた。
「どうなすったの、随分長かったわね」と云って時計を眺めた。時計はもう十時近くであった。その上清は湯の戻りに髪結(かみゆい)の所へ回って頭を拵(こしら)えるはずだそうであった。閑静な宗助の活計(くらし)も、大晦日(おおみそか)にはそれ相応(そうおう)の事件が寄せて来た。
「払(はらい)はもう皆(みんな)済んだのかい」と宗助は立ちながら御米に聞いた。御米はまだ薪屋(まきや)が一軒残っていると答えた。
「来たら払ってちょうだい」と云って懐(ふところ)の中から汚(よご)れた男持の紙入と、銀貨入の蟇口(がまぐち)を出して、宗助に渡した。
「小六はどうした」と夫はそれを受取ながら云った。
「先刻(さっき)大晦日の夜の景色(けしき)を見て来るって出て行ったのよ。随分御苦労さまね。この寒いのに」と云う御米の後(あと)に追(つ)いて、清は大きな声を出して笑った。やがて、
「御若いから」と評しながら、勝手口へ行って、御米の下駄(げた)を揃(そろ)えた。
「どこの夜景を見る気なんだ」
「銀座から日本橋通のだって」
 御米はその時もう框(かまち)から下(お)りかけていた。すぐ腰障子(こししょうじ)を開ける音がした。宗助はその音を聞き送って、たった一人火鉢(ひばち)の前に坐って、灰になる炭の色を眺(なが)めていた。彼の頭には明日(あした)の日の丸が映った。外を乗り回す人の絹帽子(きぬぼうし)の光が見えた。洋剣(サアベル)の音だの、馬の嘶(いななき)だの、遣羽子(やりはご)の声が聞えた。彼は今から数時間の後(のち)また年中行事のうちで、もっとも人の心を新にすべく仕組まれた景物に出逢わなければならなかった。
 陽気そうに見えるもの、賑(にぎや)かそうに見えるものが、幾組となく彼の心の前を通り過ぎたが、その中で彼の臂(ひじ)を把(と)って、いっしょに引張って行こうとするものは一つもなかった。彼はただ饗宴(きょうえん)に招かれない局外者として、酔う事を禁じられたごとくに、また酔う事を免(まぬ)かれた人であった。彼は自分と御米の生命(ライフ)を、毎年平凡な波瀾(はらん)のうちに送る以上に、面前(まのあたり)大した希望も持っていなかった。こうして忙がしい大晦日に、一人家を守る静かさが、ちょうど彼の平生の現実を代表していた。
 御米は十時過に帰って来た。いつもより光沢(つや)の好い頬を灯(ひ)に照らして、湯の温(ぬくもり)のまだ抜けない襟(えり)を少し開けるように襦袢(じゅばん)を重ねていた。長い襟首がよく見えた。
「どうも込んで込んで、洗う事も桶(おけ)を取る事もできないくらいなの」と始めて緩(ゆっ)くり息を吐(つ)いた。
 清の帰ったのは十一時過であった。これも綺麗(きれい)な頭を障子から出して、ただ今、どうも遅くなりましたと挨拶(あいさつ)をしたついでに、あれから二人とか三人とか待ち合したと云う話をした。
 ただ小六だけは容易に帰らなかった。十二時を打ったとき、宗助はもう寝ようと云い出した。御米は今日に限って、先へ寝るのも変なものだと思って、できるだけ話を繋(つな)いでいた。小六は幸(さいわい)にして間もなく帰った。日本橋から銀座へ出てそれから、水天宮の方へ廻ったところが、電車が込んで何台も待ち合わしたために遅くなったという言訳をした。
 白牡丹(はくぼたん)へ這入(はい)って、景物の金時計でも取ろうと思ったが、何も買うものがなかったので、仕方なしに鈴の着いた御手玉(おてだま)を一箱買って、そうして幾百となく器械で吹き上げられる風船を一つ攫(つか)んだら、金時計は当らないで、こんなものがあたったと云って、袂(たもと)から倶楽部(くらぶ)洗粉(あらいこ)を一袋出した。それを御米の前に置いて、
「姉さんに上げましょう」と云った。それから鈴を着けた、梅の花の形に縫った御手玉を宗助の前に置いて、
「坂井の御嬢さんにでも御上げなさい」と云った。
 事に乏しい一小家族の大晦日(おおみそか)は、それで終りを告げた。

        十六

 正月は二日目の雪を率(ひきい)て注連飾(しめかざり)の都を白くした。降りやんだ屋根の色がもとに復(かえ)る前、夫婦は亜鉛張(トタンばり)の庇(ひさし)を滑(すべ)り落ちる雪の音に幾遍か驚ろかされた。夜半(よなか)にはどさと云う響がことにはなはだしかった。小路(こうじ)の泥濘(ぬかるみ)は雨上りと違って一日(いちんち)や二日(ふつか)では容易に乾かなかった。外から靴を汚(よご)して帰って来る宗助(そうすけ)が、御米(およね)の顔を見るたびに、
「こりゃいけない」と云いながら玄関へ上った。その様子があたかも御米を路を悪くした責任者と見傚(みな)している風に受取られるので、御米はしまいに、
「どうも済みません。本当に御気の毒さま」と云って笑い出した。宗助は別に返すべき冗談(じょうだん)も有(も)たなかった。
「御米ここから出かけるには、どこへ行くにも足駄(あしだ)を穿(は)かなくっちゃならないように見えるだろう。ところが下町へ出ると大違だ。どの通もどの通もからからで、かえって埃(ほこり)が立つくらいだから、足駄なんぞ穿(は)いちゃきまりが悪くって歩けやしない。つまりこう云う所に住んでいる我々は一世紀がた後(おく)れる事になるんだね」
 こんな事を口にする宗助は、別に不足らしい顔もしていなかった。御米も夫の鼻の穴を潜(くぐ)る煙草(たばこ)の煙(けむ)を眺めるくらいな気で、それを聞いていた。
「坂井さんへ行って、そう云っていらっしゃいな」と軽い返事をした。
「そうして屋賃でも負けて貰う事にしよう」と答えたまま、宗助はついに坂井へは行かなかった。
 その坂井には元日の朝早く名刺を投げ込んだだけで、わざと主人の顔を見ずに門を出たが、義理のある所を一日のうちにほぼ片づけて夕方帰って見ると、留守の間に坂井がちゃんと来ていたので恐縮した。二日は雪が降っただけで何事もなく過ぎた。三日目の日暮(ひくれ)に下女が使に来て、御閑(おひま)ならば、旦那様と奥さまと、それから若旦那様に是非今晩御遊びにいらっしゃるようにと云って帰った。
「何をするんだろう」と宗助は疑ぐった。
「きっと歌加留多(うたがるた)でしょう。小供が多いから」と御米が云った。「あなた行っていらっしゃい」
「せっかくだから御前行くが好い。おれは歌留多は久しく取らないから駄目だ」
「私も久しく取らないから駄目ですわ」
 二人は容易に行こうとはしなかった。しまいに、では若旦那がみんなを代表して行くが宜(よ)かろうという事になった。
「若旦那行って来い」と宗助が小六(ころく)に云った。小六は苦笑(にがわら)いして立った。夫婦は若旦那と云う名を小六に冠(かむ)らせる事を大変な滑稽(こっけい)のように感じた。若旦那と呼ばれて、苦笑いする小六の顔を見ると、等しく声を出して笑い出した。小六は春らしい空気の中(うち)から出た。そうして一町ほどの寒さを横切って、また春らしい電灯の下(もと)に坐った。
 その晩小六は大晦日(おおみそか)に買った梅の花の御手玉(おてだま)を袂(たもと)に入れて、これは兄から差上げますとわざわざ断って、坂井の御嬢さんに贈物にした。その代り帰りには、福引に当った小さな裸人形を同じ袂へ入れて来た。その人形の額が少し欠けて、そこだけ墨で塗ってあった。小六は真面目(まじめ)な顔をして、これが袖萩(そではぎ)だそうですと云って、それを兄夫婦の前に置いた。なぜ袖萩だか夫婦には分らなかった。小六には無論分らなかったのを、坂井の奥さんが叮嚀(ていねい)に説明してくれたそうであるが、それでも腑(ふ)に落ちなかったので、主人がわざわざ半切(はんきれ)に洒落(しゃれ)と本文(ほんもん)を並べて書いて、帰ったらこれを兄さんと姉さんに御見せなさいと云って渡したとかいう話であった。小六は袂を探ってその書付を取り出して見せた。それに「此(この)垣(かき)一重(ひとえ)が黒鉄(くろがね)の」と認(したた)めた後に括弧(かっこ)をして、(此(この)餓鬼(がき)額(ひたえ)が黒欠(くろがけ)の)とつけ加えてあったので、宗助と御米はまた春らしい笑を洩(も)らした。
「随分念の入った趣向(しゅこう)だね。いったい誰の考(かんがえ)だい」と兄が聞いた。
「誰ですかな」と小六はやっぱりつまらなそうな顔をして、人形をそこへ放り出したまま、自分の室(へや)に帰った。
 それから二三日して、たしか七日(なぬか)の夕方に、また例の坂井の下女が来て、もし御閑(おひま)ならどうぞ御話にと、叮嚀(ていねい)に主人の命を伝えた。宗助と御米は洋灯(ランプ)を点(つ)けてちょうど晩食(ばんめし)を始めたところであった。宗助はその時茶碗を持ちながら、
「春もようやく一段落が着いた」と語っていた。そこへ清が坂井からの口上を取り次いだので、御米は夫の顔を見て微笑した。宗助は茶碗を置いて、
「まだ何か催おしがあるのかい」と少し迷惑そうな眉(まゆ)をした。
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