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著者名:夏目漱石 

        一

 宗助(そうすけ)は先刻(さっき)から縁側(えんがわ)へ坐蒲団(ざぶとん)を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐(あぐら)をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。秋日和(あきびより)と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄(げた)の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。肱枕(ひじまくら)をして軒から上を見上げると、奇麗(きれい)な空が一面に蒼(あお)く澄んでいる。その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法に較(くら)べて見ると、非常に広大である。たまの日曜にこうして緩(ゆっ)くり空を見るだけでもだいぶ違うなと思いながら、眉(まゆ)を寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、眩(まぼ)しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子(しょうじ)の方を向いた。障子の中では細君が裁縫(しごと)をしている。
「おい、好い天気だな」と話しかけた。細君は、
「ええ」と云(い)ったなりであった。宗助も別に話がしたい訳でもなかったと見えて、それなり黙ってしまった。しばらくすると今度は細君の方から、
「ちっと散歩でもしていらっしゃい」と云った。しかしその時は宗助がただうんと云う生返事(なまへんじ)を返しただけであった。
 二三分して、細君は障子(しょうじ)の硝子(ガラス)の所へ顔を寄せて、縁側に寝ている夫の姿を覗(のぞ)いて見た。夫はどう云う了見(りょうけん)か両膝(りょうひざ)を曲げて海老(えび)のように窮屈になっている。そうして両手を組み合わして、その中へ黒い頭を突っ込んでいるから、肱(ひじ)に挟(はさ)まれて顔がちっとも見えない。
「あなたそんな所へ寝ると風邪(かぜ)引(ひ)いてよ」と細君が注意した。細君の言葉は東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の調子を持っている。
 宗助は両肱の中で大きな眼をぱちぱちさせながら、
「寝やせん、大丈夫だ」と小声で答えた。
 それからまた静かになった。外を通る護謨車(ゴムぐるま)のベルの音が二三度鳴った後(あと)から、遠くで鶏の時音(とき)をつくる声が聞えた。宗助は仕立(したて)おろしの紡績織(ぼうせきおり)の背中へ、自然(じねん)と浸み込んで来る光線の暖味(あたたかみ)を、襯衣(シャツ)の下で貪(むさ)ぼるほど味(あじわ)いながら、表の音を聴(き)くともなく聴いていたが、急に思い出したように、障子越しの細君を呼んで、
「御米(およね)、近来(きんらい)の近(きん)の字はどう書いたっけね」と尋ねた。細君は別に呆(あき)れた様子もなく、若い女に特有なけたたましい笑声も立てず、
「近江(おうみ)のおうの字じゃなくって」と答えた。
「その近江(おうみ)のおうの字が分らないんだ」
 細君は立て切った障子を半分ばかり開けて、敷居の外へ長い物指(ものさし)を出して、その先で近の字を縁側へ書いて見せて、
「こうでしょう」と云ったぎり、物指の先を、字の留った所へ置いたなり、澄み渡った空を一しきり眺(なが)め入った。宗助は細君の顔も見ずに、
「やっぱりそうか」と云ったが、冗談(じょうだん)でもなかったと見えて、別に笑もしなかった。細君も近の字はまるで気にならない様子で、
「本当に好い御天気だわね」と半(なか)ば独(ひと)り言(ごと)のように云いながら、障子を開けたまままた裁縫(しごと)を始めた。すると宗助は肱で挟んだ頭を少し擡(もた)げて、
「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。
「なぜ」
「なぜって、いくら容易(やさし)い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日(こんにち)の今(こん)の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今(こん)らしくなくなって来る。――御前(おまい)そんな事を経験した事はないかい」
「まさか」
「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。
「あなたどうかしていらっしゃるのよ」
「やっぱり神経衰弱のせいかも知れない」
「そうよ」と細君は夫の顔を見た。夫はようやく立ち上った。
 針箱と糸屑(いとくず)の上を飛び越すように跨(また)いで、茶の間の襖(ふすま)を開けると、すぐ座敷である。南が玄関で塞(ふさ)がれているので、突き当りの障子が、日向(ひなた)から急に這入(はい)って来た眸(ひとみ)には、うそ寒く映った。そこを開けると、廂(ひさし)に逼(せま)るような勾配(こうばい)の崖(がけ)が、縁鼻(えんばな)から聳(そび)えているので、朝の内は当って然(しか)るべきはずの日も容易に影を落さない。崖には草が生えている。下からして一側(ひとかわ)も石で畳んでないから、いつ壊(くず)れるか分らない虞(おそれ)があるのだけれども、不思議にまだ壊れた事がないそうで、そのためか家主(やぬし)も長い間昔のままにして放ってある。もっとも元は一面の竹藪(たけやぶ)だったとかで、それを切り開く時に根だけは掘り返さずに土堤(どて)の中に埋めて置いたから、地(じ)は存外緊(しま)っていますからねと、町内に二十年も住んでいる八百屋の爺(おやじ)が勝手口でわざわざ説明してくれた事がある。その時宗助はだって根が残っていれば、また竹が生えて藪になりそうなものじゃないかと聞き返して見た。すると爺は、それがね、ああ切り開かれて見ると、そう甘(うま)く行くもんじゃありませんよ。しかし崖だけは大丈夫です。どんな事があったって壊(く)えっこはねえんだからと、あたかも自分のものを弁護でもするように力(りき)んで帰って行った。
 崖は秋に入(い)っても別に色づく様子もない。ただ青い草の匂(におい)が褪(さ)めて、不揃(ぶそろ)にもじゃもじゃするばかりである。薄(すすき)だの蔦(つた)だのと云う洒落(しゃれ)たものに至ってはさらに見当らない。その代り昔の名残(なご)りの孟宗(もうそう)が中途に二本、上の方に三本ほどすっくりと立っている。それが多少黄に染まって、幹に日の射(さ)すときなぞは、軒から首を出すと、土手の上に秋の暖味(あたたかみ)を眺(なが)められるような心持がする。宗助は朝出て四時過に帰る男だから、日の詰(つ)まるこの頃は、滅多(めった)に崖の上を覗(のぞ)く暇(ひま)を有(も)たなかった。暗い便所から出て、手水鉢(ちょうずばち)の水を手に受けながら、ふと廂(ひさし)の外を見上げた時、始めて竹の事を思い出した。幹の頂(いただき)に濃(こま)かな葉が集まって、まるで坊主頭(ぼうずあたま)のように見える。それが秋の日に酔って重く下を向いて、寂(ひっ)そりと重なった葉が一枚も動かない。
 宗助は障子を閉(た)てて座敷へ帰って、机の前へ坐った。座敷とは云いながら客を通すからそう名づけるまでで、実は書斎とか居間とか云う方が穏当である。北側に床(とこ)があるので、申訳のために変な軸(じく)を掛けて、その前に朱泥(しゅでい)の色をした拙(せつ)な花活(はないけ)が飾ってある。欄間(らんま)には額(がく)も何もない。ただ真鍮(しんちゅう)の折釘(おれくぎ)だけが二本光っている。その他には硝子戸(ガラスど)の張った書棚が一つある。けれども中には別にこれと云って目立つほどの立派なものも這入っていない。
 宗助は銀金具(ぎんかなぐ)の付いた机の抽出(ひきだし)を開けてしきりに中を検(しら)べ出したが、別に何も見つけ出さないうちに、はたりと締(あきら)めてしまった。それから硯箱(すずりばこ)の葢(ふた)を取って、手紙を書き始めた。一本書いて封をして、ちょっと考えたが、
「おい、佐伯(さえき)のうちは中六番町(なかろくばんちょう)何番地だったかね」と襖越(ごし)に細君に聞いた。
「二十五番地じゃなくって」と細君は答えたが、宗助が名宛を書き終る頃になって、
「手紙じゃ駄目よ、行ってよく話をして来なくっちゃ」と付け加えた。
「まあ、駄目までも手紙を一本出しておこう。それでいけなかったら出掛けるとするさ」と云い切ったが、細君が返事をしないので、
「ねえ、おい、それで好いだろう」と念を押した。
 細君は悪いとも云い兼ねたと見えて、その上争いもしなかった。宗助は郵便を持ったまま、座敷から直(す)ぐ玄関に出た。細君は夫の足音を聞いて始めて、座を立ったが、これは茶の間の縁伝(えんづた)いに玄関に出た。
「ちょっと散歩に行って来るよ」
「行っていらっしゃい」と細君は微笑しながら答えた。
 三十分ばかりして格子(こうし)ががらりと開(あ)いたので、御米はまた裁縫(しごと)の手をやめて、縁伝いに玄関へ出て見ると、帰ったと思う宗助の代りに、高等学校の制帽を被(かぶ)った、弟の小六(ころく)が這入(はい)って来た。袴(はかま)の裾(すそ)が五六寸しか出ないくらいの長い黒羅紗(くろらしゃ)のマントの釦(ボタン)を外(はず)しながら、
「暑い」と云っている。
「だって余(あん)まりだわ。この御天気にそんな厚いものを着て出るなんて」
「何、日が暮れたら寒いだろうと思って」と小六は云訳(いいわけ)を半分しながら、嫂(あによめ)の後(あと)に跟(つ)いて、茶の間へ通ったが、縫い掛けてある着物へ眼を着けて、
「相変らず精が出ますね」と云ったなり、長火鉢(ながひばち)の前へ胡坐(あぐら)をかいた。嫂は裁縫を隅(すみ)の方へ押しやっておいて、小六の向(むこう)へ来て、ちょっと鉄瓶(てつびん)をおろして炭を継(つ)ぎ始めた。
「御茶ならたくさんです」と小六が云った。
「厭(いや)?」と女学生流に念を押した御米は、
「じゃ御菓子は」と云って笑いかけた。
「あるんですか」と小六が聞いた。
「いいえ、無いの」と正直に答えたが、思い出したように、「待ってちょうだい、あるかも知れないわ」と云いながら立ち上がる拍子(ひょうし)に、横にあった炭取を取り退(の)けて、袋戸棚(ふくろとだな)を開けた。小六は御米の後姿(うしろすがた)の、羽織(はおり)が帯で高くなった辺(あたり)を眺(なが)めていた。何を探(さが)すのだかなかなか手間(てま)が取れそうなので、
「じゃ御菓子も廃(よ)しにしましょう。それよりか、今日は兄さんはどうしました」と聞いた。
「兄さんは今ちょいと」と後向のまま答えて、御米はやはり戸棚の中を探している。やがてぱたりと戸を締めて、
「駄目よ。いつの間(ま)にか兄さんがみんな食べてしまった」と云いながら、また火鉢の向(むこう)へ帰って来た。
「じゃ晩に何か御馳走(ごちそう)なさい」
「ええしてよ」と柱時計を見ると、もう四時近くである。御米は「四時、五時、六時」と時間を勘定(かんじょう)した。小六は黙って嫂の顔を見ていた。彼は実際嫂の御馳走には余り興味を持ち得なかったのである。
「姉さん、兄さんは佐伯(さえき)へ行ってくれたんですかね」と聞いた。
「この間から行く行くって云ってる事は云ってるのよ。だけど、兄さんも朝出て夕方に帰るんでしょう。帰ると草臥(くたび)れちまって、御湯に行くのも大儀そうなんですもの。だから、そう責めるのも実際御気の毒よ」
「そりゃ兄さんも忙がしいには違なかろうけれども、僕もあれがきまらないと気がかりで落ちついて勉強もできないんだから」と云いながら、小六は真鍮(しんちゅう)の火箸(ひばし)を取って火鉢(ひばち)の灰の中へ何かしきりに書き出した。御米はその動く火箸の先を見ていた。
「だから先刻(さっき)手紙を出しておいたのよ」と慰めるように云った。
「何て」
「そりゃ私(わたし)もつい見なかったの。けれども、きっとあの相談よ。今に兄さんが帰って来たら聞いて御覧なさい。きっとそうよ」
「もし手紙を出したのなら、その用には違ないでしょう」
「ええ、本当に出したのよ。今兄さんがその手紙を持って、出しに行ったところなの」
 小六はこれ以上弁解のような慰藉(いしゃ)のような嫂(あによめ)の言葉に耳を借したくなかった。散歩に出る閑(ひま)があるなら、手紙の代りに自分で足を運んでくれたらよさそうなものだと思うと余り好い心持でもなかった。座敷へ来て、書棚の中から赤い表紙の洋書を出して、方々頁(ページ)を剥(はぐ)って見ていた。

        二

 そこに気のつかなかった宗助(そうすけ)は、町の角(かど)まで来て、切手と「敷島(しきしま)」を同じ店で買って、郵便だけはすぐ出したが、その足でまた同じ道を戻るのが何だか不足だったので、啣(くわ)え煙草(たばこ)の煙(けむ)を秋の日に揺(ゆら)つかせながら、ぶらぶら歩いているうちに、どこか遠くへ行って、東京と云う所はこんな所だと云う印象をはっきり頭の中へ刻みつけて、そうしてそれを今日の日曜の土産(みやげ)に家(うち)へ帰って寝(ね)ようと云う気になった。彼は年来東京の空気を吸って生きている男であるのみならず、毎日役所の行通(ゆきかよい)には電車を利用して、賑(にぎ)やかな町を二度ずつはきっと往(い)ったり来たりする習慣になっているのではあるが、身体(からだ)と頭に楽(らく)がないので、いつでも上(うわ)の空(そら)で素通りをする事になっているから、自分がその賑やかな町の中に活(い)きていると云う自覚は近来とんと起った事がない。もっとも平生(へいぜい)は忙がしさに追われて、別段気にも掛からないが、七日(なのか)に一返(いっぺん)の休日が来て、心がゆったりと落ちつける機会に出逢(であ)うと、不断の生活が急にそわそわした上調子(うわちょうし)に見えて来る。必竟(ひっきょう)自分は東京の中に住みながら、ついまだ東京というものを見た事がないんだという結論に到着すると、彼はそこにいつも妙な物淋(さび)しさを感ずるのである。
 そう云う時には彼は急に思い出したように町へ出る。その上懐(ふところ)に多少余裕(よゆう)でもあると、これで一つ豪遊でもしてみようかと考える事もある。けれども彼の淋しみは、彼を思い切った極端に駆(か)り去るほどに、強烈の程度なものでないから、彼がそこまで猛進する前に、それも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまう。のみならず、こんな人の常態として、紙入の底が大抵の場合には、軽挙を戒(いまし)める程度内に膨(ふく)らんでいるので、億劫(おっくう)な工夫を凝(こ)らすよりも、懐手(ふところで)をして、ぶらりと家(うち)へ帰る方が、つい楽になる。だから宗助の淋(さび)しみは単なる散歩か勧工場(かんこうば)縦覧ぐらいなところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉(いしゃ)されるのである。
 この日も宗助はともかくもと思って電車へ乗った。ところが日曜の好天気にもかかわらず、平常よりは乗客が少ないので例になく乗心地が好かった。その上乗客がみんな平和な顔をして、どれもこれも悠(ゆっ)たりと落ちついているように見えた。宗助は腰を掛けながら、毎朝例刻に先を争って席を奪い合いながら、丸の内方面へ向う自分の運命を顧(かえり)みた。出勤刻限の電車の道伴(みちづれ)ほど殺風景なものはない。革(かわ)にぶら下がるにしても、天鵞絨(びろうど)に腰を掛けるにしても、人間的な優(やさ)しい心持の起った試(ためし)はいまだかつてない。自分もそれでたくさんだと考えて、器械か何ぞと膝(ひざ)を突き合せ肩を並べたかのごとくに、行きたい所まで同席して不意と下りてしまうだけであった。前の御婆さんが八つぐらいになる孫娘の耳の所へ口を付けて何か云っているのを、傍(そば)に見ていた三十恰好(がっこう)の商家の御神(おかみ)さんらしいのが、可愛らしがって、年を聞いたり名を尋ねたりするところを眺(なが)めていると、今更(いまさら)ながら別の世界に来たような心持がした。
 頭の上には広告が一面に枠(わく)に嵌(は)めて掛けてあった。宗助は平生これにさえ気がつかなかった。何心なしに一番目のを読んで見ると、引越は容易にできますと云う移転会社の引札(ひきふだ)であった。その次には経済を心得る人は、衛生に注意する人は、火の用心を好むものは、と三行に並べておいてその後(あと)に瓦斯竈(ガスがま)を使えと書いて、瓦斯竈から火の出ている画(え)まで添えてあった。三番目には露国文豪トルストイ伯傑作「千古の雪」と云うのと、バンカラ喜劇小辰(こたつ)大一座と云うのが、赤地に白で染め抜いてあった。
 宗助は約十分もかかって、すべての広告を丁寧(ていねい)に三返ほど読み直した。別に行って見ようと思うものも、買って見たいと思うものも無かったが、ただこれらの広告が判然(はっきり)と自分の頭に映って、そうしてそれを一々読み終(おお)せた時間のあった事と、それをことごとく理解し得たと云う心の余裕(よゆう)が、宗助には少なからぬ満足を与えた。彼の生活はこれほどの余裕にすら誇りを感ずるほどに、日曜以外の出入(ではい)りには、落ちついていられないものであった。
 宗助は駿河台下(するがだいした)で電車を降りた。降りるとすぐ右側の窓硝子(まどガラス)の中に美しく並べてある洋書に眼がついた。宗助はしばらくその前に立って、赤や青や縞(しま)や模様の上に、鮮(あざや)かに叩(たた)き込んである金文字を眺めた。表題の意味は無論解るが、手に取って、中を検(しら)べて見ようという好奇心はちっとも起らなかった。本屋の前を通ると、きっと中へ這入(はい)って見たくなったり、中へ這入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助から云うと、すでに一昔(ひとむか)し前の生活である。ただ History(ヒストリ) of(オフ) Gambling(ガムブリング)(博奕史(ばくえきし))と云うのが、ことさらに美装して、一番真中に飾られてあったので、それが幾分か彼の頭に突飛(とっぴ)な新し味を加えただけであった。
 宗助は微笑しながら、急忙(せわ)しい通りを向側(むこうがわ)へ渡って、今度は時計屋の店を覗(のぞ)き込んだ。金時計だの金鎖が幾つも並べてあるが、これもただ美しい色や恰好(かっこう)として、彼の眸(ひとみ)に映るだけで、買いたい了簡(りょうけん)を誘致するには至らなかった。その癖彼は一々絹糸で釣るした価格札(ねだんふだ)を読んで、品物と見較(みくら)べて見た。そうして実際金時計の安価なのに驚ろいた。
 蝙蝠傘屋(こうもりがさや)の前にもちょっと立ちどまった。西洋小間物(こまもの)を売る店先では、礼帽(シルクハット)の傍(わき)にかけてあった襟飾(えりかざ)りに眼がついた。自分の毎日かけているのよりも大変柄(がら)が好かったので、価(ね)を聞いてみようかと思って、半分店の中へ這入(はい)りかけたが、明日(あした)から襟飾りなどをかけ替えたところが下らない事だと思い直すと、急に蟇口(がまぐち)の口を開けるのが厭(いや)になって行き過ぎた。呉服店でもだいぶ立見をした。鶉御召(うずらおめし)だの、高貴織(こうきおり)だの、清凌織(せいりょうおり)だの、自分の今日(こんにち)まで知らずに過ぎた名をたくさん覚えた。京都の襟新(えりしん)と云う家(うち)の出店の前で、窓硝子(まどガラス)へ帽子の鍔(つば)を突きつけるように近く寄せて、精巧に刺繍(ぬい)をした女の半襟(はんえり)を、いつまでも眺(なが)めていた。その中(うち)にちょうど細君に似合いそうな上品なのがあった。買って行ってやろうかという気がちょっと起るや否(いな)や、そりゃ五六年前(ぜん)の事だと云う考が後(あと)から出て来て、せっかく心持の好い思いつきをすぐ揉(も)み消してしまった。宗助は苦笑しながら窓硝子を離れてまた歩き出したが、それから半町ほどの間は何だかつまらないような気分がして、往来にも店先にも格段の注意を払わなかった。
 ふと気がついて見ると角に大きな雑誌屋があって、その軒先には新刊の書物が大きな字で広告してある。梯子(はしご)のような細長い枠(わく)へ紙を張ったり、ペンキ塗の一枚板へ模様画みたような色彩を施こしたりしてある。宗助はそれを一々読んだ。著者の名前も作物(さくぶつ)の名前も、一度は新聞の広告で見たようでもあり、また全く新奇のようでもあった。
 この店の曲り角の影になった所で、黒い山高帽を被(かぶ)った三十ぐらいの男が地面の上へ気楽そうに胡坐(あぐら)をかいて、ええ御子供衆の御慰(おなぐさ)みと云いながら、大きな護謨風船(ゴムふうせん)を膨(ふく)らましている。それが膨れると自然と達磨(だるま)の恰好(かっこう)になって、好加減(いいかげん)な所に眼口まで墨で書いてあるのに宗助は感心した。その上一度息を入れると、いつまでも膨れている。かつ指の先へでも、手の平の上へでも自由に尻が据(すわ)る。それが尻の穴へ楊枝(ようじ)のような細いものを突っ込むとしゅうっと一度に収縮してしまう。
 忙がしい往来の人は何人でも通るが、誰も立ちどまって見るほどのものはない。山高帽の男は賑(にぎ)やかな町の隅に、冷やかに胡坐(あぐら)をかいて、身の周囲(まわり)に何事が起りつつあるかを感ぜざるもののごとくに、ええ御子供衆の御慰みと云っては、達磨を膨らましている。宗助は一銭五厘出して、その風船を一つ買って、しゅっと縮ましてもらって、それを袂(たもと)へ入れた。奇麗(きれい)な床屋へ行って、髪を刈りたくなったが、どこにそんな奇麗なのがあるか、ちょっと見つからないうちに、日が限(かぎ)って来たので、また電車へ乗って、宅(うち)の方へ向った。
 宗助が電車の終点まで来て、運転手に切符を渡した時には、もう空の色が光を失いかけて、湿った往来に、暗い影が射(さ)し募(つの)る頃であった。降りようとして、鉄の柱を握ったら、急に寒い心持がした。いっしょに降りた人は、皆(みん)な離れ離れになって、事あり気に忙がしく歩いて行く。町のはずれを見ると、左右の家の軒から家根(やね)へかけて、仄白(ほのしろ)い煙りが大気の中に動いているように見える。宗助も樹(き)の多い方角に向いて早足に歩を移した。今日の日曜も、暢(のん)びりした御天気も、もうすでにおしまいだと思うと、少しはかないようなまた淋(さみ)しいような一種の気分が起って来た。そうして明日(あした)からまた例によって例のごとく、せっせと働らかなくてはならない身体(からだ)だと考えると、今日半日の生活が急に惜しくなって、残る六日半(むいかはん)の非精神的な行動が、いかにもつまらなく感ぜられた。歩いているうちにも、日当の悪い、窓の乏しい、大きな部屋の模様や、隣りに坐(すわ)っている同僚の顔や、野中さんちょっとと云う上官の様子ばかりが眼に浮かんだ。
 魚勝と云う肴屋(さかなや)の前を通り越して、その五六軒先の露次(ろじ)とも横丁ともつかない所を曲ると、行き当りが高い崖(がけ)で、その左右に四五軒同じ構(かまえ)の貸家が並んでいる。ついこの間までは疎(まば)らな杉垣の奥に、御家人(ごけにん)でも住み古したと思われる、物寂(ものさび)た家も一つ地所のうちに混(まじ)っていたが、崖の上の坂井(さかい)という人がここを買ってから、たちまち萱葺(かやぶき)を壊して、杉垣を引き抜いて、今のような新らしい普請(ふしん)に建て易(か)えてしまった。宗助の家(うち)は横丁を突き当って、一番奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからはもっとも隔っているだけに、まあ幾分か閑静だろうと云うので、細君と相談の上、とくにそこを択(えら)んだのである。
 宗助は七日(なのか)に一返の日曜ももう暮れかかったので、早く湯にでも入(い)って、暇があったら髪でも刈って、そうして緩(ゆっ)くり晩食(ばんめし)を食おうと思って、急いで格子(こうし)を開けた。台所の方で皿小鉢(さらこばち)の音がする。上がろうとする拍子(ひょうし)に、小六(ころく)の脱(ぬ)ぎ棄(す)てた下駄(げた)の上へ、気がつかずに足を乗せた。曲(こご)んで位置を調(ととの)えているところへ小六が出て来た。台所の方で御米(およね)が、
「誰? 兄さん?」と聞いた。宗助は、
「やあ、来ていたのか」と云いながら座敷へ上った。先刻(さっき)郵便を出してから、神田を散歩して、電車を降りて家へ帰るまで、宗助の頭には小六の小の字も閃(ひら)めかなかった。宗助は小六の顔を見た時、何となく悪い事でもしたようにきまりが好くなかった。
「御米、御米」と細君を台所から呼んで、
「小六が来たから、何か御馳走(ごちそう)でもするが好い」と云いつけた。細君は、忙がしそうに、台所の障子(しょうじ)を開け放したまま出て来て、座敷の入口に立っていたが、この分り切った注意を聞くや否や、
「ええ今直(じき)」と云ったなり、引き返そうとしたが、また戻って来て、
「その代り小六さん、憚(はばか)り様(さま)。座敷の戸を閉(た)てて、洋灯(ランプ)を点(つ)けてちょうだい。今私(わたし)も清(きよ)も手が放せないところだから」と依頼(たの)んだ。小六は簡単に、
「はあ」と云って立ち上がった。
 勝手では清が物を刻む音がする。湯か水をざあと流しへ空(あ)ける音がする。「奥様これはどちらへ移します」と云う声がする。「姉さん、ランプの心(しん)を剪(き)る鋏(はさみ)はどこにあるんですか」と云う小六の声がする。しゅうと湯が沸(たぎ)って七輪(しちりん)の火へかかった様子である。
 宗助は暗い座敷の中で黙然(もくねん)と手焙(てあぶり)へ手を翳(かざ)していた。灰の上に出た火の塊(かた)まりだけが色づいて赤く見えた。その時裏の崖(がけ)の上の家主(やぬし)の家の御嬢さんがピヤノを鳴らし出した。宗助は思い出したように立ち上がって、座敷の雨戸を引きに縁側(えんがわ)へ出た。孟宗竹(もうそうちく)が薄黒く空の色を乱す上に、一つ二つの星が燦(きら)めいた。ピヤノの音(ね)は孟宗竹の後(うしろ)から響いた。

        三

 宗助(そうすけ)と小六(ころく)が手拭(てぬぐい)を下げて、風呂(ふろ)から帰って来た時は、座敷の真中に真四角な食卓を据(す)えて、御米(およね)の手料理が手際(てぎわ)よくその上に並べてあった。手焙(てあぶり)の火も出がけよりは濃い色に燃えていた。洋灯(ランプ)も明るかった。
 宗助が机の前の座蒲団(ざぶとん)を引き寄せて、その上に楽々(らくらく)と胡坐(あぐら)を掻(か)いた時、手拭と石鹸(シャボン)を受取った御米は、
「好い御湯だった事?」と聞いた。宗助はただ一言(ひとこと)、
「うん」と答えただけであったが、その様子は素気(そっけ)ないと云うよりも、むしろ湯上りで、精神が弛緩(しかん)した気味に見えた。
「なかなか好い湯でした」と小六が御米の方を見て調子を合せた。
「しかしああ込んじゃ溜(たま)らないよ」と宗助が机の端(はじ)へ肱(ひじ)を持たせながら、倦怠(けた)るそうに云った。宗助が風呂に行くのは、いつでも役所が退(ひ)けて、家(うち)へ帰ってからの事だから、ちょうど人の立て込む夕食前(ゆうめしまえ)の黄昏(たそがれ)である。彼はこの二三カ月間ついぞ、日の光に透(す)かして湯の色を眺(なが)めた事がない。それならまだしもだが、ややともすると三日も四日もまるで銭湯の敷居を跨(また)がずに過してしまう。日曜になったら、朝早く起きて何よりも第一に奇麗(きれい)な湯に首だけ浸(つか)ってみようと、常は考えているが、さてその日曜が来て見ると、たまに悠(ゆっ)くり寝られるのは、今日ばかりじゃないかと云う気になって、つい床のうちでぐずぐずしているうちに、時間が遠慮なく過ぎて、ええ面倒だ、今日はやめにして、その代り今度(こんだ)の日曜に行こうと思い直すのが、ほとんど惰性のようになっている。
「どうかして、朝湯にだけは行きたいね」と宗助が云った。
「その癖朝湯に行ける日は、きっと寝坊(ねぼう)なさるのね」と細君は調戯(からか)うような口調であった。小六は腹の中でこれが兄の性来(うまれつき)の弱点であると思い込んでいた。彼は自分で学校生活をしているにもかかわらず、兄の日曜が、いかに兄にとって貴(たっ)といかを会得(えとく)できなかった。六日間の暗い精神作用を、ただこの一日で暖かに回復すべく、兄は多くの希望を二十四時間のうちに投げ込んでいる。だからやりたい事があり過ぎて、十の二三も実行できない。否、その二三にしろ進んで実行にかかると、かえってそのために費やす時間の方が惜しくなって来て、ついまた手を引込めて、じっとしているうちに日曜はいつか暮れてしまうのである。自分の気晴しや保養や、娯楽もしくは好尚(こうしょう)についてですら、かように節倹しなければならない境遇にある宗助が、小六のために尽さないのは、尽さないのではない、頭に尽す余裕(よゆう)のないのだとは、小六から見ると、どうしても受取れなかった。兄はただ手前勝手な男で、暇があればぶらぶらして細君と遊んでばかりいて、いっこう頼りにも力にもなってくれない、真底は情合(じょうあい)に薄い人だぐらいに考えていた。
 けれども、小六がそう感じ出したのは、つい近頃の事で、実を云うと、佐伯との交渉が始まって以来の話である。年の若いだけ、すべてに性急な小六は、兄に頼めば今日明日(きょうあす)にも方(かた)がつくものと、思い込んでいたのに、何日(いつ)までも埒(らち)が明かないのみか、まだ先方へ出かけてもくれないので、だいぶ不平になったのである。
 ところが今日帰りを待ち受けて逢(あ)って見ると、そこが兄弟で、別に御世辞も使わないうちに、どこか暖味(あたたかみ)のある仕打も見えるので、つい云いたい事も後廻しにして、いっしょに湯になんぞ這入(はい)って、穏やかに打ち解けて話せるようになって来た。
 兄弟は寛(くつ)ろいで膳(ぜん)についた。御米も遠慮なく食卓の一隅(ひとすみ)を領(りょう)した。宗助も小六も猪口(ちょく)を二三杯ずつ干した。飯にかかる前に、宗助は笑いながら、
「うん、面白いものが有ったっけ」と云いながら、袂(たもと)から買って来た護謨風船(ゴムふうせん)の達磨(だるま)を出して、大きく膨(ふく)らませて見せた。そうして、それを椀(わん)の葢(ふた)の上へ載(の)せて、その特色を説明して聞かせた。御米も小六も面白がって、ふわふわした玉を見ていた。しまいに小六が、ふうっと吹いたら達磨は膳(ぜん)の上から畳の上へ落ちた。それでも、まだ覆(かえ)らなかった。
「それ御覧」と宗助が云った。
 御米は女だけに声を出して笑ったが、御櫃(おはち)の葢(ふた)を開けて、夫の飯を盛(よそ)いながら、
「兄さんも随分呑気(のんき)ね」と小六の方を向いて、半ば夫を弁護するように云った。宗助は細君から茶碗を受取って、一言(ひとこと)の弁解もなく食事を始めた。小六も正式に箸(はし)を取り上げた。
 達磨はそれぎり話題に上(のぼ)らなかったが、これが緒(いとくち)になって、三人は飯の済むまで無邪気に長閑(のどか)な話をつづけた。しまいに小六が気を換えて、
「時に伊藤さんもとんだ事になりましたね」と云い出した。宗助は五六日前伊藤公暗殺の号外を見たとき、御米の働いている台所へ出て来て、「おい大変だ、伊藤さんが殺された」と云って、手に持った号外を御米のエプロンの上に乗せたなり書斎へ這入(はい)ったが、その語気からいうと、むしろ落ちついたものであった。
「あなた大変だって云う癖に、ちっとも大変らしい声じゃなくってよ」と御米が後(あと)から冗談(じょうだん)半分にわざわざ注意したくらいである。その後日ごとの新聞に伊藤公の事が五六段ずつ出ない事はないが、宗助はそれに目を通しているんだか、いないんだか分らないほど、暗殺事件については平気に見えた。夜帰って来て、御米が飯の御給仕をするときなどに、「今日も伊藤さんの事が何か出ていて」と聞く事があるが、その時には「うんだいぶ出ている」と答えるぐらいだから、夫の隠袋(かくし)の中に畳んである今朝の読殻(よみがら)を、後(あと)から出して読んで見ないと、その日の記事は分らなかった。御米もつまりは夫が帰宅後の会話の材料として、伊藤公を引合に出すぐらいのところだから、宗助が進まない方向へは、たって話を引張りたくはなかった。それでこの二人の間には、号外発行の当日以後、今夜小六がそれを云い出したまでは、公(おおや)けには天下を動かしつつある問題も、格別の興味をもって迎えられていなかったのである。
「どうして、まあ殺されたんでしょう」と御米は号外を見たとき、宗助に聞いたと同じ事をまた小六に向って聞いた。
「短銃(ピストル)をポンポン連発したのが命中(めいちゅう)したんです」と小六は正直に答えた。
「だけどさ。どうして、まあ殺されたんでしょう」
 小六は要領を得ないような顔をしている。宗助は落ちついた調子で、
「やっぱり運命だなあ」と云って、茶碗の茶を旨(うま)そうに飲んだ。御米はこれでも納得(なっとく)ができなかったと見えて、
「どうしてまた満洲(まんしゅう)などへ行ったんでしょう」と聞いた。
「本当にな」と宗助は腹が張って充分物足りた様子であった。
「何でも露西亜(ロシア)に秘密な用があったんだそうです」と小六が真面目(まじめ)な顔をして云った。御米は、
「そう。でも厭(いや)ねえ。殺されちゃ」と云った。
「おれみたような腰弁(こしべん)は、殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、哈爾賓(ハルピン)へ行って殺される方がいいんだよ」と宗助が始めて調子づいた口を利(き)いた。
「あら、なぜ」
「なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んで御覧、こうはいかないよ」
「なるほどそんなものかも知れないな」と小六は少し感服したようだったが、やがて、
「とにかく満洲だの、哈爾賓だのって物騒な所ですね。僕は何だか危険なような心持がしてならない」と云った。
「そりゃ、色んな人が落ち合ってるからね」
 この時御米は妙な顔をして、こう答えた夫の顔を見た。宗助もそれに気がついたらしく、
「さあ、もう御膳(おぜん)を下げたら好かろう」と細君を促(うな)がして、先刻(さっき)の達磨(だるま)をまた畳の上から取って、人指指(ひとさしゆび)の先へ載(の)せながら、
「どうも妙だよ。よくこう調子好くできるものだと思ってね」と云っていた。
 台所から清(きよ)が出て来て、食い散らした皿小鉢(さらこばち)を食卓ごと引いて行った後で、御米も茶を入れ替えるために、次の間へ立ったから、兄弟は差向いになった。
「ああ奇麗(きれい)になった。どうも食った後は汚ないものでね」と宗助は全く食卓に未練のない顔をした。勝手の方で清がしきりに笑っている。
「何がそんなにおかしいの、清」と御米が障子越(しょうじごし)に話しかける声が聞えた。清はへえと云ってなお笑い出した。兄弟は何にも云わず、半(なか)ば下女の笑い声に耳を傾けていた。
 しばらくして、御米が菓子皿と茶盆を両手に持って、また出て来た。藤蔓(ふじづる)の着いた大きな急須(きゅうす)から、胃にも頭にも応(こた)えない番茶を、湯呑(ゆのみ)ほどな大きな茶碗(ちゃわん)に注(つ)いで、両人(ふたり)の前へ置いた。
「何だって、あんなに笑うんだい」と夫が聞いた。けれども御米の顔は見ずにかえって菓子皿の中を覗(のぞ)いていた。
「あなたがあんな玩具(おもちゃ)を買って来て、面白そうに指の先へ乗せていらっしゃるからよ。子供もない癖に」
 宗助は意にも留めないように、軽く「そうか」と云ったが、後(あと)から緩(ゆっ)くり、
「これでも元は子供があったんだがね」と、さも自分で自分の言葉を味わっている風につけ足して、生温(なまぬる)い眼を挙げて細君を見た。御米はぴたりと黙ってしまった。
「あなた御菓子食べなくって」と、しばらくしてから小六の方へ向いて話し掛けたが、
「ええ食べます」と云う小六の返事を聞き流して、ついと茶の間へ立って行った。兄弟はまた差向いになった。
 電車の終点から歩くと二十分近くもかかる山の手の奥だけあって、まだ宵(よい)の口(くち)だけれども、四隣(あたり)は存外静かである。時々表を通る薄歯の下駄の響が冴(さ)えて、夜寒(よさむ)がしだいに増して来る。宗助は懐手(ふところで)をして、
「昼間は暖(あっ)たかいが、夜になると急に寒くなるね。寄宿じゃもう蒸汽(スチーム)を通しているかい」と聞いた。
「いえ、まだです。学校じゃよっぽど寒くならなくっちゃ、蒸汽なんか焚(た)きゃしません」
「そうかい。それじゃ寒いだろう」
「ええ。しかし寒いくらいどうでも構わないつもりですが」と云ったまま、小六はすこし云い淀(よど)んでいたが、しまいにとうとう思い切って、
「兄さん、佐伯(さえき)の方はいったいどうなるんでしょう。先刻(さっき)姉さんから聞いたら、今日手紙を出して下すったそうですが」
「ああ出した。二三日中に何とか云って来るだろう。その上でまたおれが行くともどうともしようよ」
 小六は兄の平気な態度を、心の中(うち)では飽足らず眺(なが)めた。しかし宗助の様子にどこと云って、他(ひと)を激させるような鋭(する)どいところも、自(みずか)らを庇護(かば)うような卑(いや)しい点もないので、喰(く)ってかかる勇気はさらに出なかった。ただ
「じゃ今日(きょう)まであのままにしてあったんですか」と単に事実を確めた。
「うん、実は済まないがあのままだ。手紙も今日やっとの事で書いたくらいだ。どうも仕方がないよ。近頃神経衰弱でね」と真面目(まじめ)に云う。小六は苦笑した。
「もし駄目なら、僕は学校をやめて、いっそ今のうち、満洲か朝鮮へでも行こうかと思ってるんです」
「満洲か朝鮮? ひどくまた思い切ったもんだね。だって、御前先刻(さっき)満洲は物騒で厭(いや)だって云ったじゃないか」
 用談はこんなところに往ったり来たりして、ついに要領を得なかった。しまいに宗助が、
「まあ、好いや、そう心配しないでも、どうかなるよ。何しろ返事の来しだい、おれがすぐ知らせてやる。その上でまた相談するとしよう」と云ったので、談話(はなし)に区切がついた。
 小六が帰りがけに茶の間を覗(のぞ)いたら、御米は何にもしずに、長火鉢(ながひばち)に倚(よ)りかかっていた。
「姉さん、さようなら」と声を掛けたら、「おや御帰り」と云いながらようやく立って来た。

        四

 小六(ころく)の苦(く)にしていた佐伯(さえき)からは、予期の通り二三日して返事があったが、それは極(きわ)めて簡単なもので、端書(はがき)でも用の足りるところを、鄭重(ていちょう)に封筒へ入れて三銭の切手を貼(は)った、叔母の自筆に過ぎなかった。
 役所から帰って、筒袖(つつそで)の仕事着を、窮屈そうに脱(ぬ)ぎ易(か)えて、火鉢(ひばち)の前へ坐(すわ)るや否や、抽出(ひきだし)から一寸ほどわざと余して差し込んであった状袋に眼が着いたので、御米(およね)の汲んで出す番茶を一口呑(の)んだまま、宗助(そうすけ)はすぐ封を切った。
「へえ、安(やす)さんは神戸へ行ったんだってね」と手紙を読みながら云った。
「いつ?」と御米は湯呑を夫の前に出した時の姿勢のままで聞いた。
「いつとも書いてないがね。何しろ遠からぬうちには帰京仕るべく候間と書いてあるから、もうじき帰って来るんだろう」
「遠からぬうちなんて、やっぱり叔母さんね」
 宗助は御米の批評に、同意も不同意も表しなかった。読んだ手紙を巻き納めて、投げるようにそこへ放り出して、四五日目になる、ざらざらした腮(あご)を、気味わるそうに撫(な)で廻した。
 御米はすぐその手紙を拾ったが、別に読もうともしなかった。それを膝(ひざ)の上へ乗せたまま、夫の顔を見て、
「遠からぬうちには帰京仕(つかまつ)るべく候間、どうだって云うの」と聞いた。
「いずれ帰ったら、安之助(やすのすけ)と相談して何とか御挨拶(ごあいさつ)を致しますと云うのさ」
「遠からぬうちじゃ曖昧(あいまい)ね。いつ帰るとも書いてなくって」
「いいや」
 御米は念のため、膝の上の手紙を始めて開いて見た。そうしてそれを元のように畳んで、
「ちょっとその状袋を」と手を夫(おっと)の方へ出した。宗助は自分と火鉢の間に挟まっている青い封筒を取って細君に渡した。御米はそれをふっと吹いて、中を膨(ふく)らまして手紙を収めた。そうして台所へ立った。
 宗助はそれぎり手紙の事には気を留めなかった。今日役所で同僚が、この間英吉利(イギリス)から来遊したキチナー元帥に、新橋の傍(そば)で逢(あ)ったと云う話を思い出して、ああ云う人間になると、世界中どこへ行っても、世間を騒がせるようにできているようだが、実際そういう風に生れついて来たものかも知れない。自分の過去から引き摺(ず)ってきた運命や、またその続きとして、これから自分の眼前に展開されべき将来を取って、キチナーと云う人のそれに比べて見ると、とうてい同じ人間とは思えないぐらい懸(か)け隔(へだ)たっている。
 こう考えて宗助はしきりに煙草(たばこ)を吹かした。表は夕方から風が吹き出して、わざと遠くの方から襲(おそ)って来るような音がする。それが時々やむと、やんだ間は寂(しん)として、吹き荒れる時よりはなお淋(さび)しい。宗助は腕組をしながら、もうそろそろ火事の半鐘(はんしょう)が鳴り出す時節だと思った。
 台所へ出て見ると、細君は七輪(しちりん)の火を赤くして、肴(さかな)の切身を焼いていた。清(きよ)は流し元に曲(こご)んで漬物を洗っていた。二人とも口を利(き)かずにせっせと自分のやる事をやっている。宗助は障子(しょうじ)を開けたなり、しばらく肴から垂(た)る汁(つゆ)か膏(あぶら)の音を聞いていたが、無言のまままた障子を閉(た)てて元の座へ戻った。細君は眼さえ肴から離さなかった。
 食事を済まして、夫婦が火鉢を間(あい)に向い合った時、御米はまた
「佐伯の方は困るのね」と云い出した。
「まあ仕方がない。安さんが神戸から帰るまで待つよりほかに道はあるまい」
「その前にちょっと叔母さんに逢って話をしておいた方が好かなくって」
「そうさ。まあそのうち何とか云って来るだろう。それまで打遣(うっちゃ)っておこうよ」
「小六さんが怒ってよ。よくって」と御米はわざと念を押しておいて微笑した。宗助は下眼を使って、手に持った小楊枝(こようじ)を着物の襟(えり)へ差した。
 中一日(なかいちんち)置いて、宗助はようやく佐伯からの返事を小六に知らせてやった。その時も手紙の尻(しり)に、まあそのうちどうかなるだろうと云う意味を、例のごとく付け加えた。そうして当分はこの事件について肩が抜けたように感じた。自然の経過(なりゆき)がまた窮屈に眼の前に押し寄せて来るまでは、忘れている方が面倒がなくって好いぐらいな顔をして、毎日役所へ出てはまた役所から帰って来た。帰りも遅いが、帰ってから出かけるなどという億劫(おっくう)な事は滅多(めった)になかった。客はほとんど来ない。用のない時は清を十時前に寝(ね)かす事さえあった。夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間ぐらい話をした。話の題目は彼らの生活状態に相応した程度のものであった。けれども米屋の払を、この三十日(みそか)にはどうしたものだろうという、苦しい世帯話は、いまだかつて一度も彼らの口には上らなかった。と云って、小説や文学の批評はもちろんの事、男と女の間を陽炎(かげろう)のように飛び廻る、花やかな言葉のやりとりはほとんど聞かれなかった。彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとに地味になって行く人のようにも見えた。または最初から、色彩の薄い極(きわ)めて通俗の人間が、習慣的に夫婦の関係を結ぶために寄り合ったようにも見えた。
 上部(うわべ)から見ると、夫婦ともそう物に屈托(くったく)する気色(けしき)はなかった。それは彼らが小六の事に関して取った態度について見てもほぼ想像がつく。さすが女だけに御米は一二度、
「安さんは、まだ帰らないんでしょうかね。あなた今度(こんだ)の日曜ぐらいに番町まで行って御覧なさらなくって」と注意した事があるが、宗助は、
「うん、行っても好い」ぐらいな返事をするだけで、その行っても好い日曜が来ると、まるで忘れたように済ましている。御米もそれを見て、責める様子もない。天気が好いと、
「ちと散歩でもしていらっしゃい」と云う。雨が降ったり、風が吹いたりすると、
「今日は日曜で仕合せね」と云う。
 幸にして小六はその後(ご)一度もやって来ない。この青年は、至って凝(こ)り性(しょう)の神経質で、こうと思うとどこまでも進んで来るところが、書生時代の宗助によく似ている代りに、ふと気が変ると、昨日(きのう)の事はまるで忘れたように引っ繰り返って、けろりとした顔をしている。そこも兄弟だけあって、昔の宗助にそのままである。それから、頭脳が比較的明暸(めいりょう)で、理路に感情を注(つ)ぎ込むのか、または感情に理窟(りくつ)の枠(わく)を張るのか、どっちか分らないが、とにかく物に筋道を付けないと承知しないし、また一返(いっぺん)筋道が付くと、その筋道を生かさなくってはおかないように熱中したがる。その上体質の割合に精力がつづくから、若い血気に任せて大抵の事はする。
 宗助は弟を見るたびに、昔の自分が再び蘇生(そせい)して、自分の眼の前に活動しているような気がしてならなかった。時には、はらはらする事もあった。また苦々(にがにが)しく思う折もあった。そう云う場合には、心のうちに、当時の自分が一図に振舞った苦い記憶を、できるだけしばしば呼び起させるために、とくに天が小六を自分の眼の前に据(す)え付けるのではなかろうかと思った。そうして非常に恐ろしくなった。こいつもあるいはおれと同一の運命に陥(おちい)るために生れて来たのではなかろうかと考えると、今度は大いに心がかりになった。時によると心がかりよりは不愉快であった。
 けれども、今日(こんにち)まで宗助は、小六に対して意見がましい事を云った事もなければ、将来について注意を与えた事もなかった。彼の弟に対する待遇方(ほう)はただ普通凡庸(ぼんよう)のものであった。彼の今の生活が、彼のような過去を有っている人とは思えないほどに、沈んでいるごとく、彼の弟を取り扱う様子にも、過去と名のつくほどの経験を有(も)った年長者の素振(そぶり)は容易に出なかった。
 宗助と小六の間には、まだ二人ほど男の子が挟(はさ)まっていたが、いずれも早世(そうせい)してしまったので、兄弟とは云いながら、年は十(とお)ばかり違っている。その上宗助はある事情のために、一年の時京都へ転学したから、朝夕(ちょうせき)いっしょに生活していたのは、小六の十二三の時までである。宗助は剛情(ごうじょう)な聴(き)かぬ気の腕白小僧としての小六をいまだに記憶している。その時分は父も生きていたし、家(うち)の都合も悪くはなかったので、抱車夫(かかえしゃふ)を邸内の長屋に住まわして、楽に暮していた。この車夫に小六よりは三つほど年下の子供があって、始終(しじゅう)小六の御相手をして遊んでいた。ある夏の日盛りに、二人して、長い竿(さお)のさきへ菓子袋を括(くく)り付けて、大きな柿の木の下で蝉(せみ)の捕りくらをしているのを、宗助が見て、兼坊(けんぼう)そんなに頭を日に照らしつけると霍乱(かくらん)になるよ、さあこれを被(かぶ)れと云って、小六の古い夏帽を出してやった。すると、小六は自分の所有物を兄が無断で他(ひと)にくれてやったのが、癪(しゃく)に障(さわ)ったので、突然(いきなり)兼坊の受取った帽子を引ったくって、それを地面の上へ抛(な)げつけるや否や、馳(か)け上がるようにその上へ乗って、くしゃりと麦藁帽(むぎわらぼう)を踏み潰(つぶ)してしまった。宗助は縁から跣足(はだし)で飛んで下りて、小六の頭を擲(なぐ)りつけた。その時から、宗助の眼には、小六が小悪(こにく)らしい小僧として映った。
 二年の時宗助は大学を去らなければならない事になった。東京の家(うち)へも帰(か)えれない事になった。京都からすぐ広島へ行って、そこに半年ばかり暮らしているうちに父が死んだ。母は父よりも六年ほど前に死んでいた。だから後には二十五六になる妾(めかけ)と、十六になる小六が残っただけであった。
 佐伯から電報を受け取って、久しぶりに出京した宗助は、葬式を済ました上、家(うち)の始末をつけようと思ってだんだん調べて見ると、あると思った財産は案外に少なくって、かえって無いつもりの借金がだいぶあったに驚ろかされた。叔父の佐伯に相談すると、仕方がないから邸(やしき)を売るが好かろうと云う話であった。妾(めかけ)は相当の金をやってすぐ暇を出す事にきめた。小六は当分叔父の家に引き取って世話をして貰(もら)う事にした。しかし肝心(かんじん)の家屋敷はすぐ右から左へと売れる訳(わけ)には行かなかった。仕方がないから、叔父に一時の工面(くめん)を頼んで、当座の片をつけて貰った。叔父は事業家でいろいろな事に手を出しては失敗する、云わば山気(やまぎ)の多い男であった。宗助が東京にいる時分も、よく宗助の父を説きつけては、旨(うま)い事を云って金を引き出したものである。宗助の父にも慾があったかも知れないが、この伝(でん)で叔父の事業に注(つ)ぎ込んだ金高はけっして少ないものではなかった。
 父の亡くなったこの際にも、叔父の都合は元と余り変っていない様子であったが、生前の義理もあるし、またこう云う男の常として、いざと云う場合には比較的融通のつくものと見えて、叔父は快よく整理を引き受けてくれた。その代り宗助は自分の家屋敷の売却方についていっさいの事を叔父に一任してしまった。早く云うと、急場の金策に対する報酬として土地家屋を提供したようなものである。叔父は、
「何しろ、こう云うものは買手を見て売らないと損だからね」と云った。
 道具類も積(せき)ばかり取って、金目にならないものは、ことごとく売り払ったが、五六幅の掛物と十二三点の骨董品(こっとうひん)だけは、やはり気長に欲しがる人を探(さが)さないと損だと云う叔父の意見に同意して、叔父に保管を頼む事にした。すべてを差し引いて手元に残った有金は、約二千円ほどのものであったが、宗助はそのうちの幾分を、小六の学資として、使わなければならないと気がついた。しかし月々自分の方から送るとすると、今日(こんにち)の位置が堅固でない当時、はなはだ実行しにくい結果に陥(おちい)りそうなので、苦しくはあったが、思い切って、半分だけを叔父に渡して、何分宜(よろ)しくと頼んだ。自分が中途で失敗(しくじ)ったから、せめて弟だけは物にしてやりたい気もあるので、この千円が尽きたあとは、またどうにか心配もできようしまたしてくれるだろうぐらいの不慥(ふたしか)な希望を残して、また広島へ帰って行った。
 それから半年ばかりして、叔父の自筆で、家はとうとう売れたから安心しろと云う手紙が来たが、いくらに売れたとも何とも書いてないので、折り返して聞き合せると、二週間ほど経(た)っての返事に、優に例の立替を償(つぐな)うに足る金額だから心配しなくても好いとあった。宗助はこの返事に対して少なからず不満を感じたには感じたが、同じ書信の中に、委細はいずれ御面会の節云々とあったので、すぐにも東京へ行きたいような気がして、実はこうこうだがと、相談半分細君に話して見ると、御米は気の毒そうな顔をして、
「でも、行けないんだから、仕方がないわね」と云って、例のごとく微笑した。その時宗助は始めて細君から宣告を受けた人のように、しばらく腕組をして考えたが、どう工夫したって、抜ける事のできないような位地(いち)と事情の下(もと)に束縛(そくばく)されていたので、ついそれなりになってしまった。
 仕方がないから、なお三四回書面で往復を重ねて見たが、結果はいつも同じ事で、版行(はんこう)で押したようにいずれ御面会の節を繰り返して来るだけであった。
「これじゃしようがないよ」と宗助は腹が立ったような顔をして御米を見た。三カ月ばかりして、ようやく都合がついたので、久し振りに御米を連れて、出京しようと思う矢先に、つい風邪(かぜ)を引いて寝(ね)たのが元で、腸窒扶斯(ちょうチフス)に変化したため、六十日余りを床の上に暮らした上に、あとの三十日ほどは充分仕事もできないくらい衰えてしまった。
 病気が本復してから間もなく、宗助はまた広島を去って福岡の方へ移らなければならない身となった。移る前に、好い機会だからちょっと東京まで出たいものだと考えているうちに、今度もいろいろの事情に制せられて、ついそれも遂行(すいこう)せずに、やはり下り列車の走る方(かた)に自己の運命を托した。その頃は東京の家を畳むとき、懐(ふところ)にして出た金は、ほとんど使い果たしていた。彼の福岡生活は前後二年を通じて、なかなかの苦闘であった。彼は書生として京都にいる時分、種々の口実の下(もと)に、父から臨時随意に多額の学資を請求して、勝手しだいに消費した昔をよく思い出して、今の身分と比較しつつ、しきりに因果(いんが)の束縛を恐れた。ある時はひそかに過ぎた春を回顧して、あれが己(おれ)の栄華の頂点だったんだと、始めて醒(さ)めた眼に遠い霞(かすみ)を眺(なが)める事もあった。いよいよ苦しくなった時、
「御米、久しく放っておいたが、また東京へ掛合(かけあ)ってみようかな」と云い出した。御米は無論逆(さから)いはしなかった。ただ下を向いて、
「駄目よ。だって、叔父さんに全く信用がないんですもの」と心細そうに答えた。
「向うじゃこっちに信用がないかも知れないが、こっちじゃまた向うに信用がないんだ」と宗助は威張って云い出したが、御米の俯目(ふしめ)になっている様子を見ると、急に勇気が挫(くじ)ける風に見えた。こんな問答を最初は月に一二返ぐらい繰り返していたが、後(のち)には二月(ふたつき)に一返になり、三月(みつき)に一返になり、とうとう、
「好(い)いや、小六さえどうかしてくれれば。あとの事はいずれ東京へ出たら、逢(あ)った上で話をつけらあ。ねえ御米、そうすると、しようじゃないか」と云い出した。
「それで、好(よ)ござんすとも」と御米は答えた。
 宗助は佐伯の事をそれなり放ってしまった。単なる無心は、自分の過去に対しても、叔父に向って云い出せるものでないと、宗助は考えていた。したがってその方の談判は、始めからいまだかつて筆にした事がなかった。小六からは時々手紙が来たが、極(きわ)めて短かい形式的のものが多かった。宗助は父の死んだ時、東京で逢った小六を覚えているだけだから、いまだに小六を他愛(たわい)ない小供ぐらいに想像するので、自分の代理に叔父と交渉させようなどと云う気は無論起らなかった。
 夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪(た)えかねて、抱き合って暖(だん)を取るような具合に、御互同志を頼りとして暮らしていた。苦しい時には、御米がいつでも、宗助に、
「でも仕方がないわ」と云った。宗助は御米に、
「まあ我慢するさ」と云った。
 二人の間には諦(あきら)めとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影はほとんど射さないように見えた。彼らは余り多く過去を語らなかった。時としては申し合わせたように、それを回避する風さえあった。御米が時として、
「そのうちにはまたきっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」と夫(おっと)を慰さめるように云う事があった。すると、宗助にはそれが、真心(まごころ)ある妻(さい)の口を藉(か)りて、自分を翻弄(ほんろう)する運命の毒舌のごとくに感ぜられた。宗助はそう云う場合には何にも答えずにただ苦笑するだけであった。御米がそれでも気がつかずに、なにか云い続けると、
「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と思い切って投げ出してしまう。細君はようやく気がついて口を噤(つぐ)んでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分達は自分達の拵(こしら)えた、過去という暗い大きな窖(あな)の中に落ちている。
 彼らは自業自得(じごうじとく)で、彼らの未来を塗抹(とまつ)した。だから歩いている先の方には、花やかな色彩を認める事ができないものと諦(あき)らめて、ただ二人手を携(たずさ)えて行く気になった。叔父の売り払ったと云う地面家作についても、固(もと)より多くの期待は持っていなかった。時々考え出したように、
「だって、近頃の相場なら、捨売(すてうり)にしたって、あの時叔父の拵らえてくれた金の倍にはなるんだもの。あんまり馬鹿馬鹿しいからね」と宗助が云い出すと、御米は淋(さみ)しそうに笑って、
「また地面? いつまでもあの事ばかり考えていらっしゃるのね。だって、あなたが万事宜(よろ)しく願いますと、叔父さんにおっしゃったんでしょう」と云う。
「そりゃ仕方がないさ。あの場合ああでもしなければ方(ほう)がつかないんだもの」と宗助が云う。
「だからさ。叔父さんの方では、御金の代りに家(うち)と地面を貰ったつもりでいらっしゃるかも知れなくってよ」と御米が云う。
 そう云われると、宗助も叔父の処置に一理あるようにも思われて、口では、
「そのつもりが好くないじゃないか」と答弁するようなものの、この問題はその都度(つど)しだいしだいに背景の奥に遠ざかって行くのであった。
 夫婦がこんな風に淋しく睦(むつ)まじく暮らして来た二年目の末に、宗助はもとの同級生で、学生時代には大変懇意であった杉原と云う男に偶然出逢った。杉原は卒業後高等文官試験に合格して、その時すでに或省に奉職していたのだが、公務上福岡と佐賀へ出張することになって、東京からわざわざやって来たのである。宗助は所の新聞で、杉原のいつ着いて、どこに泊っているかをよく知ってはいたが、失敗者としての自分に顧(かえり)みて、成効者(せいこうしゃ)の前に頭を下げる対照を恥ずかしく思った上に、自分は在学当時の旧友に逢うのを、特に避けたい理由を持っていたので、彼の旅館を訪ねる気は毛頭なかった。

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