明暗
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著者名:夏目漱石 

        一

 医者は探(さぐ)りを入れた後(あと)で、手術台の上から津田(つだ)を下(おろ)した。
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この前(まえ)探(さぐ)った時は、途中に瘢痕(はんこん)の隆起(りゅうき)があったので、ついそこが行(い)きどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日(きょう)疎通を好くするために、そいつをがりがり掻(か)き落して見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」
 津田の顔には苦笑の裡(うち)に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対して虚言(うそ)を吐(つ)く訳に行かないんですから」という意味に受取れた。
 津田は無言のまま帯を締(し)め直して、椅子(いす)の背に投げ掛けられた袴(はかま)を取り上げながらまた医者の方を向いた。
「腸まで続いているとすると、癒(なお)りっこないんですか」
「そんな事はありません」
 医者は活溌(かっぱつ)にまた無雑作(むぞうさ)に津田の言葉を否定した。併(あわ)せて彼の気分をも否定するごとくに。
「ただ今(いま)までのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまで経(た)っても肉の上(あが)りこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思(ひとおも)いにやるよりほかに仕方がありませんね」
「根本的の治療と云うと」
「切開(せっかい)です。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。すると天然自然(てんねんしぜん)割(さ)かれた面(めん)の両側が癒着(ゆちゃく)して来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」
 津田は黙って点頭(うなず)いた。彼の傍(そば)には南側の窓下に据(す)えられた洋卓(テーブル)の上に一台の顕微鏡(けんびきょう)が載っていた。医者と懇意な彼は先刻(さっき)診察所へ這入(はい)った時、物珍らしさに、それを覗(のぞ)かせて貰(もら)ったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影(と)ったように鮮(あざ)やかに見える着色の葡萄状(ぶどうじょう)の細菌であった。
 津田は袴を穿(は)いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入を懐(ふところ)に収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇(ちゅうちょ)した。
「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い溝(みぞ)を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
 津田は思わず眉(まゆ)を寄せた。
「私(わたし)のは結核性じゃないんですか」
「いえ、結核性じゃありません」
 津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に据(す)えた。医者は動かなかった。
「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」
「ええ。診察(み)た様子で分ります」
 その時看護婦が津田の後(あと)に廻った患者の名前を室(へや)の出口に立って呼んだ。待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。
「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」
「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」
 津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。

        二

 電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革(つりかわ)にぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年の疼痛(とうつう)がありありと記憶の舞台(ぶたい)に上(のぼ)った。白いベッドの上に横(よこた)えられた無残(みじめ)な自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分の唸(うな)り声が判然(はっきり)聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気を搾(しぼ)り出(だ)すような恐ろしい力の圧迫と、圧(お)された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われない劇(はげ)しい苦痛とが彼の記憶を襲(おそ)った。
 彼は不愉快になった。急に気を換(か)えて自分の周囲を眺めた。周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。彼はまた考えつづけた。
「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」
 荒川堤(あらかわづつみ)へ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時の疼痛(とうつう)について、彼は全くの盲目漢(めくら)であった。その原因はあらゆる想像のほかにあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。
「この肉体はいつ何時(なんどき)どんな変(へん)に会わないとも限らない。それどころか、今現(げん)にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」
 ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっと後(うしろ)から突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心の中(うち)で叫んだ。
「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」
 彼は思わず唇(くちびる)を固く結んで、あたかも自尊心を傷(きずつ)けられた人のような眼を彼の周囲に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼の眼遣(めづかい)に対して少しの注意も払わなかった。
 彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の軌道(レール)の上を走って前へ進むだけであった。彼は二三日(にさんち)前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。
「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」
 彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に当(あ)て篏(は)めて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後(うし)ろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動について他(ひと)から牽制(けんせい)を受けた覚(おぼえ)がなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。
「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰(もら)おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」
 彼は電車を降りて考えながら宅(うち)の方へ歩いて行った。

        三

 角(かど)を曲って細い小路(こうじ)へ這入(はい)った時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白い繊(ほそ)い手を額の所へ翳(かざ)すようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍(そば)へ寄って来るまでその態度を改めなかった。
「おい何を見ているんだ」
 細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ吃驚(びっくり)した。――御帰り遊ばせ」
 同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注(そそ)ぎかけた。それから心持腰を曲(かが)めて軽い会釈(えしゃく)をした。
 半(なか)ば細君の嬌態(きょうたい)に応じようとした津田は半(なか)ば逡巡(しゅんじゅん)して立ち留まった。
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ雀(すずめ)よ。雀が御向うの宅(うち)の二階の庇(ひさし)に巣を食ってるんでしょう」
 津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
「洋杖(ステッキ)」
 津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸(こうしど)を開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫の後(あと)に跟(つ)いて沓脱(くつぬぎ)から上(あが)った。
 夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が火鉢(ひばち)の前に坐(すわ)るか坐らないうちに、また勝手の方から石鹸入(しゃぼんいれ)を手拭(てぬぐい)に包んで持って出た。
「ちょっと今のうち一風呂(ひとふろ)浴びていらっしゃい。またそこへ坐り込むと臆劫(おっくう)になるから」
 津田は仕方なしに手を出して手拭(てぬぐい)を受取った。しかしすぐ立とうとはしなかった。
「湯は今日はやめにしようかしら」
「なぜ。――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」
 津田は仕方なしにまた立ち上った。室(へや)を出る時、彼はちょっと細君の方をふり返った。
「今日帰りに小林さんへ寄って診(み)て貰って来たよ」
「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもう癒(なお)ってるんでしょう」
「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」
 津田はこう云ったなり、後(あと)を聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。
 同じ話題が再び夫婦の間(あいだ)に戻って来たのは晩食(ゆうめし)が済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵(よい)の口(くち)であった。
「厭(いや)ね、切るなんて、怖(こわ)くって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」
「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」
 細君は濃い恰好(かっこう)の好い眉(まゆ)を心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたように訊(き)いた。
「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」
 細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものを断(ことわ)っちゃ」
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
「でもあたし行きたいんですもの」
「御前は行きたければおいでな」
「だからあなたもいらっしゃいな、ね。御厭(おいや)?」
 津田は細君の顔を見て苦笑を洩(も)らした。

        四

 細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女の眉(まゆ)が一際(ひときわ)引立って見えた。彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。おまけに愛嬌(あいきょう)のない一重瞼(ひとえまぶち)であった。けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子(ひとみ)は漆黒(しっこく)であった。だから非常によく働らいた。或時は専横(せんおう)と云ってもいいくらいに表情を恣(ほしい)ままにした。津田は我知らずこの小(ちい)さい眼から出る光に牽(ひ)きつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳(は)ね返される事もないではなかった。
 彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は刹那(せつな)的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっと遮断(しゃだん)された。すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。同時に眼の表情があとかたもなく消えた。
「嘘(うそ)よ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のはただ甘ったれたのよ」
 黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは二三日中(にさんちじゅう)に端書(はがき)を出すか、でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」
「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」
「いえ私も止(よ)しにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」
 津田は自分の受けべき手術についてなお詳(くわ)しい話を細君にしなければならなかった。
「手術ってたって、そう腫物(できもの)の膿(うみ)を出すように簡単にゃ行かないんだよ。最初下剤(げざい)をかけてまず腸を綺麗(きれい)に掃除しておいて、それからいよいよ切開すると、出血の危険があるかも知れないというので、創口(きずぐち)へガーゼを詰(つ)めたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。だからたといこの次の日曜に行くとしたところで、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違にゃならないし、また日曜を繰(く)り上げて明日(あした)にしたところで、明後日(あさって)にしたところで、やっぱり同じ事なんだ。そこへ行くとまあ楽な病気だね」
「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」
 細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。津田はそれに全く無頓着(むとんじゃく)であると云った風に、何か考えながら、二人の間に置かれた長火鉢(ながひばち)の縁(ふち)に右の肘(ひじ)を靠(も)たせて、その中に掛けてある鉄瓶(てつびん)の葢(ふた)を眺めた。朱銅(しゅどう)の葢の下では湯の沸(たぎ)る音が高くした。
「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」
「だから吉川(よしかわ)さんに会って訳を話して見た上で、日取をきめようかと思っているところだ。黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」
「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。平生(ふだん)からあんなに御世話になっているんですもの」
「吉川さんに話したら明日(あした)からすぐ入院しろって云うかも知れない」
 入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。
「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」
「まあ入院さ」
「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」
「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階が空(あ)いてるもんだから、そこへ入(は)いる事もできるようになってるんだ」
「綺麗(きれい)?」
 津田は苦笑した。
「自宅(うち)よりは少しあ綺麗かも知れない」
 今度は細君が苦笑した。

        五

 寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢(ひばち)に倚(よ)りかかったまま夫を見上げた。
「また御勉強?」
 細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれに媚(こ)びようとした。ある時の彼はかえって反感的にそれから逃(のが)れたくなった。どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手を見縊(みくび)った自覚がぼんやり働らいていた。
 彼が黙って間(あい)の襖(ふすま)を開けて次の室(へや)へ出て行こうとした時、細君はまた彼の背後(うしろ)から声を掛けた。
「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」
 津田はちょっとふり向いた。
「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」
 細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎり勾配(こうばい)の急な階子段(はしごだん)をぎしぎし踏んで二階へ上(あが)った。
 彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊載(の)せてあった。彼は坐るなりそれを開いて枝折(しおり)の挿(はさ)んである頁(ページ)を目標(めあて)にそこから読みにかかった。けれども三四日(さんよっか)等閑(なおざり)にしておいた咎(とが)が祟(たた)って、前後の続き具合がよく解らなかった。それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気の差(さ)した彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらと翻(ひるがえ)して書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。すると前途遼遠(りょうえん)という気が自(おのず)から起った。
 彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれから今日(こんにち)までにもう二カ月以上も経(た)っているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らない愚物(ぐぶつ)のように細君の前で罵(ののし)っていた。それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心を擽(くすぐ)った。
 しかし今彼が自分の前に拡(ひろ)げている書物から吸収しようと力(つと)めている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。学校の講義から得た知識ですら滅多(めった)に実際の役に立った例(ためし)のない今の勤め向きとはほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。彼はただそれを一種の自信力として貯(たくわ)えておきたかった。他の注意を惹(ひ)く粧飾(しょうしょく)としても身に着けておきたかった。その困難が今の彼に朧気(おぼろげ)ながら見えて来た時、彼は彼の己惚(おのぼれ)に訊(き)いて見た。
「そう旨(うま)くは行かないものかな」
 彼は黙って煙草(たばこ)を吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。そうして足早(あしばや)に階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。

        六

「おいお延(のぶ)」
 彼は襖越(ふすまご)しに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙(からかみ)を開けて茶の間の入口に立った。すると長火鉢(ながひばち)の傍(わき)に坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電灯の点(つ)いた室(へや)を覗(のぞ)いた彼の眼にそれが常よりも際立(きわだ)って華麗(はなやか)に見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔と派出(はで)やかな模様(もよう)とを等分に見較(みくら)べた。
「今時分そんなものを出してどうするんだい」
 お延は檜扇(ひおうぎ)模様の丸帯の端(はじ)を膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締(し)めた事がないんですもの」
「それで今度(こんだ)その服装(なり)で芝居(しばや)に出かけようと云うのかね」
 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は何(なん)にも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒い眉(まゆ)をぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこの所作(しょさ)は時として変に津田の心を唆(そその)かすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙って縁側(えんがわ)へ出て厠(かわや)の戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。
「あなた、あなた」
 同時に彼女は立って来た。そうして彼の前を塞(ふさ)ぐようにして訊(き)いた。
「何か御用なの」
 彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも長襦袢(ながじゅばん)よりもむしろ大事なものであった。
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」
「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」
 津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。
「郵便函(ゆうびんばこ)の中を探させましょうか」
「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」
「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」
 御延は玄関の障子(しょうじ)を開けて沓脱(くつぬぎ)へ下りようとした。
「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」
「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」
 津田はようやく茶の間へ引き返して、先刻(さっき)飯を食う時に坐った座蒲団(ざぶとん)が、まだ火鉢(ひばち)の前に元の通り据(す)えてある上に胡坐(あぐら)をかいた。そうしてそこに燦爛(さんらん)と取り乱された濃い友染模様(ゆうぜんもよう)の色を見守った。
 すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。
「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」
 こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。
「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」
「何だ書留じゃないのか」
 津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君のよそ行着(ゆきぎ)の荒い御召(おめし)の縞柄(しまがら)を眺めながら独(ひと)りごとのように云った。
「困るな」
「どうなすったの」
「なに大した事じゃない」
 見栄(みえ)の強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。

        七

「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金の要(い)る間際(まぎわ)になって、こんな事を云って来て……」
「いったいどういう訳なんでしょう」
 津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出して膝(ひざ)の上で繰り拡げた。
「貸家が二軒先月末に空(あ)いちまったんだそうだ。それから塞(ふさ)がってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。そこへ持って来て、庭の手入だの垣根の繕(つくろ)いだので、だいぶ臨時費が嵩(かさ)んだから今月は送れないって云うんだ」
 彼は開いた手紙を、そのまま火鉢(ひばち)の向う側にいるお延の手に渡した。御延はまた何も云わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。
「なにそんな家賃なんぞ当(あて)にしないだって、送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。垣根を繕うたっていくらかかるものかね。煉瓦(れんが)の塀(へい)を一丁も拵(こしら)えやしまいし」
 津田の言葉に偽(いつわり)はなかった。彼の父はよし富裕でないまでも、毎月(まいげつ)息子(むすこ)夫婦のためにその生計の不足を補ってやるくらいの出費に窮する身分ではなかった。ただ彼は地味な人であった。津田から云えば地味過ぎるぐらい質素であった。津田よりもずっと派出(はで)好きな細君から見ればほとんど無意味に近い節倹家であった。
「御父さまはきっと私達(わたしたち)が要らない贅沢(ぜいたく)をして、むやみに御金をぱっぱっと遣(つか)うようにでも思っていらっしゃるのよ。きっとそうよ」
「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の生計(くらし)を覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。そりゃ御父さんの三十もおれの三十も年歯(とし)に変りはないかも知れないが、周囲(ぐるり)はまるで違っているんだからそうは行かないさ。いつかも会へ行く時会費はいくらだと訊(き)くから五円だって云ったら、驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ」
 津田は平生(ふだん)からお延が自分の父を軽蔑(けいべつ)する事を恐れていた。それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉を洩(も)らさなければならなかった。それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。
「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」
 夫の手前老人に対する批評を憚(はば)かった細君の話頭(わとう)は、すぐ実際問題の方へ入って来た。津田の答は用意されていなかった。しばらくして彼は小声で独語(ひとりごと)のように云った。
「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」
 お延は夫の顔を見つめた。
「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」
「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなか埒(らち)は開(あ)かないよ」
「でもほかに当(あて)がなければ仕方なかないの」
「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」
「そうね」
 その時津田は真(ま)ともにお延の方を見た。そうして思い切ったような口調で云った。
「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」

        八

「厭(いや)よ、あたし」
 お延はすぐ断った。彼女の言葉には何の淀(よど)みもなかった。遠慮と斟酌(しんしゃく)を通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相当の速力で走っている自動車を、突然停(と)められた時のような衝撃(ショック)を受けた。彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。
「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」
 お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
「そうかい。それじゃ強(し)いて頼まないでもいい。しかし……」
 津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、掬(すく)って追(お)い退(の)けるように遮(さえぎ)った。
「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計(くらし)に困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」
 お延が一概に津田の依頼を斥(しりぞ)けたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄(みえ)に制せられたのだという事がようやく津田の腑(ふ)に落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。
「そんなに楽な身分のように吹聴(ふいちょう)しちゃ困るよ。買い被(かぶ)られるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」
「あたし吹聴した覚(おぼえ)なんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」
 津田は追窮(ついきゅう)もしなかった。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。二人はちょっと会話を途切(とぎ)らした後でまた実際問題に立ち戻った。しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようという分別(ふんべつ)も出なかった。「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。
 お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。
「これどうかしましょうか」
 彼女は金(きん)の入った厚い帯の端(はじ)を手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光に翳(かざ)した。津田にはその意味がちょっと呑(の)み込めなかった。
「どうかするって、どうするんだい」
「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」
 津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段(さんだん)を、嫁に来たての若い細君が、疾(と)くの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。
「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」
「ないわ、そんな事」
 お延は笑いながら、軽蔑(さげす)むような口調で津田の問を打ち消した。
「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」
「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」
 津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした下卑(げび)た真似(まね)をさせたくなかった。お延は弁解した。
「時(とき)が知ってるのよ。あの婢(おんな)は宅(うち)にいる時分よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。それから近頃じゃ端書(はがき)さえ出せば、向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」
 細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとって嬉(うれ)しい事実であった。しかしそれをあえてさせるのはまた彼にとっての苦痛にほかならなかった。細君に対して気の毒というよりもむしろ夫の矜(ほこ)りを傷(きずつ)けるという意味において彼は躊躇(ちゅうちょ)した。
「まあよく考えて見よう」
 彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へ上(あが)って行った。

        九

 翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子段(はしごだん)の途中で吉川に出会った。しかし彼は下(くだ)りがけ、向(むこう)は上(のぼ)りがけだったので、擦(す)れ違(ちがい)に叮嚀(ていねい)な御辞儀(おじぎ)をしたぎり、彼は何にも云わなかった。もう午飯(ひるめし)に間もないという頃、彼はそっと吉川の室(へや)の戸を敲(たた)いて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川は煙草(たばこ)を吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。
「何か用かい」
 吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。
「ちょっと……」
「君自身の用事かい」
 津田は固(もと)より表向の用事で、この室へ始終(しじゅう)出入(しゅつにゅう)すべき人ではなかった。跋(ばつ)の悪そうな顔つきをした彼は答えた。
「そうです。ちょっと……」
「そんなら後(あと)にしてくれたまえ。今少し差支(さしつか)えるから」
「はあ。気がつかない事をして失礼しました」
 音のしないように戸を締(し)めた津田はまた自分の机の前に帰った。
 午後になってから彼は二返(にへん)ばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。
「どこかへ行かれたのかい」
 津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使(きゅうじ)に訊(き)いた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。
「ええ先刻(さっき)御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」
 毎日人の出入(でいり)の番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれが伴(つ)れて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務を執(と)った。
 時間になった時、彼はほかの人よりも一足後(おく)れて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋(ポッケット)から時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。帰りに吉川の私宅(うち)へ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。
 彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、宅(うち)まで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。しかし彼としては時々吉川家の門を潜(くぐ)る必要があった。それは礼儀のためでもあった。義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。
「津田は吉川と特別の知り合である」
 彼は時々こういう事実を背中に背負(しょ)って見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかも自(みずか)ら重んずるといった風の彼の平生の態度を毫(ごう)も崩(くず)さずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえって他(ひと)に見せたがるのと同じような心理作用の下(もと)に、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身は飽(あ)くまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。

        十

 厳(いか)めしい表玄関の戸はいつもの通り締(し)まっていた。津田はその上半部(じょうはんぶ)に透(すか)し彫(ぼり)のように篏(は)め込(こ)まれた厚い格子(こうし)の中を何気なく覗(のぞ)いた。中には大きな花崗石(みかげいし)の沓脱(くつぬぎ)が静かに横たわっていた。それから天井(てんじょう)の真中から蒼黒(あおぐろ)い色をした鋳物(いもの)の電灯笠(でんとうがさ)が下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだ例(ためし)のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐ傍(そば)にある内玄関(ないげんかん)から案内を頼んだ。
「まだ御帰りになりません」
 小倉(こくら)の袴(はかま)を着けて彼の前に膝(ひざ)をついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものと呑(の)み込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返して訊(き)いた。
「奥さんはおいでですか」
「奥さんはいらっしゃいます」
 事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」
 彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は厭(いや)な顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。
 彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆(たばこぼん)も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
「今御帰りがけ?」
 彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
 津田の挨拶(あいさつ)に軽い会釈(えしゃく)をしたなり席に着いた細君はすぐこう訊(き)いた。津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。
「奥さんができたせいか近頃はあんまり宅(うち)へいらっしゃらなくなったようね」
 細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年齢下(としした)の男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねて眼下(めした)の男であった。
「まだ嬉(うれ)しいんでしょう」
 津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」
「ええもう半歳(はんとし)と少しになります」
「早いものね、ついこの間(あいだ)だと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもう嬉(うれ)しいところは通り越しちまったの。嘘(うそ)をおっしゃい」
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時にあなた御いくつ?」
「もうたくさんです」
「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊(さっぱり)とおっしゃいよ」
「じゃ申し上げます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる勘定(かんじょう)です」
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」

        十一

 吉川の細君はこんな調子でよく津田に調戯(からか)った。機嫌(きげん)の好い時はなおさらであった。津田も折々は向うを調戯い返した。けれども彼の見た細君の態度には、笑談(じょうだん)とも真面目(まじめ)とも片のつかない或物が閃(ひら)めく事がたびたびあった。そんな場合に出会うと、根強い性質(たち)に出来上っている彼は、談話の途中でよく拘泥(こだわ)った。そうしてもし事情が許すならば、どこまでも話の根を掘(ほ)じって、相手の本意を突き留めようとした。遠慮のためにそこまで行けない時は、黙って相手の顔色だけを注視した。その時の彼の眼には必然の結果としていつでも軽い疑いの雲がかかった。それが臆病にも見えた。注意深くも見えた。または自衛的に慢(たか)ぶる神経の光を放つかのごとくにも見えた。最後に、「思慮に充(み)ちた不安」とでも形容してしかるべき一種の匂も帯びていた。吉川の細君は津田に会うたんびに、一度か二度きっと彼をそこまで追い込んだ。津田はまたそれと自覚しながらいつの間(ま)にかそこへ引(ひ)き摺(ず)り込まれた。
「奥さんはずいぶん意地が悪いですね」
「どうして? あなた方(がた)の御年歯(おとし)を伺ったのが意地が悪いの」
「そう云う訳でもないですが、何だか意味のあるような、またないような訊(き)き方をしておいて、わざとその後(あと)をおっしゃらないんだから」
「後なんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は禁物(きんもつ)よ。あなたがその癖をやめると、もっと人好(ひとずき)のする好い男になれるんだけれども」
 津田は少し痛かった。けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭に応(こた)える痛さではなかった。彼の頭はこの露骨な打撃の前に冷然として相手を見下(みくだ)していた。細君は微笑した。
「嘘(うそ)だと思うなら、帰ってあなたの奥さんに訊(き)いて御覧遊ばせ。お延さんもきっと私と同意見だから。お延さんばかりじゃないわ、まだほかにもう一人あるはずよ、きっと」
 津田の顔が急に堅くなった。唇(くちびる)の肉が少し動いた。彼は眼を自分の膝(ひざ)の上に落したぎり何も答えなかった。
「解ったでしょう、誰だか」
 細君は彼の顔を覗(のぞ)き込むようにして訊(き)いた。彼は固(もと)よりその誰であるかをよく承知していた。けれども細君の云う事を肯定する気は毫(ごう)もなかった。再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。その眼が無言の裡(うち)に何を語っているか、細君には解らなかった。
「御気に障(さわ)ったら堪忍(かんにん)してちょうだい。そう云うつもりで云ったんじゃないんだから」
「いえ何とも思っちゃいません」
「本当に?」
「本当に何とも思っちゃいません」
「それでやっと安心した」
 細君はすぐ元の軽い調子を恢復(かいふく)した。
「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱり得(とく)なのね。あなたはそら今おっしゃった通りちょうどでしょう、それからお延さんが今年三になるんだから、年歯でいうと、よっぽど違うんだけれども、様子からいうと、かえって奥さんの方が更(ふ)けてるくらいよ。更けてると云っちゃ失礼に当るかも知れないけれども、何と云ったらいいでしょうね、まあ……」
 細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。
「まあ老成(ろうせい)よ。本当に怜悧(りこう)な方(かた)ね、あんな怜悧な方は滅多(めった)に見た事がない。大事にして御上げなさいよ」
 細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と云っても大した変りはなかった。

        十二

 その時二人の頭の上に下(さが)っている電灯がぱっと点(つ)いた。先刻(さっき)取次に出た書生がそっと室(へや)の中へ入って来て、音のしないようにブラインドを卸(お)ろして、また無言のまま出て行った。瓦斯煖炉(ガスだんろ)の色のだんだん濃くなって来るのを、最前(さいぜん)から注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送(もくそう)した。もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いている檸檬(レモン)の一切(ひときれ)を除(よ)けるようにしてその余りを残りなく啜(すす)った。そうしてそれを相図(あいず)に、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事は固(もと)より単簡(たんかん)であった。けれども細君の諾否(だくひ)だけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。
「いつだって構やしないんでしょう。繰合(くりあわ)せさえつけば」
 彼女はさも無雑作(むぞうさ)な口ぶりで津田に好意を表してくれた。
「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」
「じゃ好いじゃありませんか。明日(あした)から休んだって」
「でもちょっと伺った上でないと」
「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」
 細君は快よく引き受けた。あたかも自分が他(ひと)のために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。津田はこの機嫌(きげん)のいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉(うれ)しかった。自分の態度なり所作(しょさ)なりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。
 彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを好(す)いていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中を打(ど)やされた刹那(せつな)に受ける快感に近い或物であった。
 同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を裕(ゆたか)にもっていた。彼はその自己をわざと押(お)し蔵(かく)して細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君から嬲(なぶ)られる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁に倚(よ)りかかっていた。
 彼が用事を済まして椅子(いす)を離れようとした時、細君は突然口を開(ひら)いた。
「また子供のように泣いたり唸(うな)ったりしちゃいけませんよ。大きな体(なり)をして」
 津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。唐紙(からかみ)の開閉(あけたて)が局部に応(こた)えて、そのたんびにぴくんぴくんと身体(からだ)全体が寝床(ねどこ)の上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度(こんだ)は大丈夫です」
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅(くちはば)ったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」
「あなたに見舞(みまい)に来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」
「いっこう構わないわ」
 細君の様子は本気なのか調戯(からか)うのかちょっと要領を得なかった。医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと云おうとした津田は、少し口籠(くちごも)って躊躇(ちゅうちょ)した。細君は虚に乗じて肉薄した。
「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
「じゃそのうちまた私の方から伺います」
 細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。

        十三

 往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない宵闇(よいやみ)の町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。
 冷たそうに燦(ぎら)つく肌合(はだあい)の七宝(しっぽう)製の花瓶(かびん)、その花瓶の滑(なめ)らかな表面に流れる華麗(はなやか)な模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒(あおぐろ)い地(じ)の中に茶の唐草(からくさ)模様を浮かした重そうな窓掛、三隅(みすみ)に金箔(きんぱく)を置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強い刺戟(しげき)が、すでに明るい電灯の下(もと)を去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。
 彼は無論この渦(うず)まく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事ができなかった。彼は歩きながら先刻(さっき)彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。そうしてその或部分に来ると、あたかも炒豆(いりまめ)を口に入れた人のように、咀嚼(そしゃく)しつつ味わった。
「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」
 彼はこの矛盾した両面を自分の胸の中(うち)で自分に公言した時、たちまちわが弱点を曝露(ばくろ)した人のように、暗い路の上で赤面した。彼はその赤面を通り抜けるために、わざとすぐ先へ出た。
「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」
 今の津田はけっしてこの問題に解決を与える事ができなかった。
「おれに調戯(からか)うため?」
 それは何とも云えなかった。彼女は元来他(ひと)に調戯う事の好(すき)な女であった。そうして二人の間柄(あいだがら)はその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。彼を焦(じ)らす事から受け得られる単なる快感のために、遠慮の埒(らち)を平気で跨(また)ぐかも知れなかった。
「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを贔負(ひいき)にし過ぎるため?」
 それも何とも云えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。
 彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。堀端(ほりばた)を沿うて走るその電車の窓硝子(まどガラス)の外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上に蟠(わだか)まる黒い松の木が見えるだけであった。
 車内の片隅(かたすみ)に席を取った彼は、窓を透(すか)してこのさむざむしい秋の夜(よ)の景色(けしき)にちょっと眼を注いだ後(あと)、すぐまたほかの事を考えなければならなかった。彼は面倒になって昨夕(ゆうべ)はそのままにしておいた金の工面(くめん)をどうかしなければならない位地(いち)にあった。彼はすぐまた吉川の細君の事を思い出した。
「先刻(さっき)事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに」
 そう思うと、自分が気を利(き)かしたつもりで、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。と云って、今さらその用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。
 電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干(らんかん)の下に蹲踞(うずく)まる乞食(こじき)を見た。その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套(がいとう)を着けていた。季節からいうとむしろ早過ぎる瓦斯煖炉(ガスだんろ)の温かい□(ほのお)をもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔(けんかく)は今の彼の眼中にはほとんど入(はい)る余地がなかった。彼は窮した人のように感じた。父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。

        十四

 津田は同じ気分で自分の宅(うち)の門前まで歩いた。彼が玄関の格子(こうし)へ手を掛けようとすると、格子のまだ開(あ)かない先に、障子(しょうじ)の方がすうと開(あ)いた。そうしてお延の姿がいつの間にか彼の前に現われていた。彼は吃驚(びっくり)したように、薄化粧(うすげしょう)を施こした彼女の横顔を眺めた。
 彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。彼女の行為は時として夫の先(せん)を越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気の利(き)いた証拠(しょうこ)をも挙(あ)げた。日常瑣末(さまつ)の事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女の所作(しょさ)を、津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀(ナイフ)の光のように眺める事があった。小さいながら冴(さ)えているという感じと共に、どこか気味の悪いという心持も起った。
 咄嗟(とっさ)の場合津田はお延が何かの力で自分の帰りを予感したように思った。けれどもその訳を訊(き)く気にはならなかった。訳を訊いて笑いながらはぐらかされるのは、夫の敗北のように見えた。
 彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。茶の間の火鉢(ひばち)の前には黒塗の足のついた膳(ぜん)の上に布巾(ふきん)を掛けたのが、彼の帰りを待ち受けるごとくに据(す)えてあった。
「今日もどこかへ御廻り?」
 津田が一定の時刻に宅(うち)へ帰らないと、お延はきっとこういう質問を掛けた。勢(いきお)い津田は何とか返事をしなければならなかった。しかしそう用事ばかりで遅くなるとも限らないので、時によると彼の答は変に曖昧(あいまい)なものになった。そんな場合の彼は、自分のために薄化粧をしたお延の顔をわざと見ないようにした。
「あてて見ましょうか」
「うん」
 今日の津田はいかにも平気であった。
「吉川さんでしょう」
「よくあたるね」
「たいてい容子(ようす)で解りますわ」
「そうかね。もっとも昨夜(ゆうべ)吉川さんに話をしてから手術の日取をきめる事にしようって云ったんだから、あたる訳は訳だね」
「そんな事がなくったって、妾(あたし)あてるわ」
「そうか。偉いね」
 津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。
「じゃいつから、その治療に取りかかるの」
「そういう訳だから、まあいつからでも構わないようなもんだけれども……」
 津田の腹には、その治療にとりかかる前に、是非金の工面(くめん)をしなければならないという屈託(くったく)があった。その額は無論大したものではなかった。しかし大した額でないだけに、これという簡便な調達方(ちょうだつかた)の胸に浮ばない彼を、なお焦(いら)つかせた。
 彼は神田にいる妹(いもと)の事をちょっと思い浮べて見たが、そこへ足を向ける気にはどうしてもなれなかった。彼が結婚後家計膨脹(ぼうちょう)という名義の下(もと)に、毎月(まいげつ)の不足を、京都にいる父から填補(てんぽ)して貰(もら)う事になった一面には、盆暮(ぼんくれ)の賞与で、その何分(なんぶん)かを返済するという条件があった。彼はいろいろの事情から、この夏その条件を履行(りこう)しなかったために、彼の父はすでに感情を害していた。それを知っている妹はまた大体の上においてむしろ父の同情者であった。妹の夫の手前、金の問題などを彼女の前に持ち出すのを最初から屑(いさぎ)よしとしなかった彼は、この事情のために、なおさら堅くなった。彼はやむをえなければ、お延の忠告通り、もう一返父に手紙を出して事情を訴えるよりほかに仕方がないと思った。それには今の病気を、少し手重(ておも)に書くのが得策だろうとも考えた。父母(ふぼ)に心配をかけない程度で、実際の事実に多少の光沢(つや)を着けるくらいの事は、良心の苦痛を忍ばないで誰にでもできる手加減であった。
「お延昨夜(ゆうべ)お前の云った通りもう一遍御父さんに手紙を出そうよ」
「そう。でも……」
 お延は「でも」と云ったなり津田を見た。津田は構わず二階へ上(あが)って机の前に坐った。

        十五

 西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の抽斗(ひきだし)からラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して、その紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時、ふと気がついた。彼の父は洋筆(ペン)や万年筆でだらしなく綴(つづ)られた言文一致の手紙などを、自分の伜(せがれ)から受け取る事は平生(ひごろ)からあまり喜こんでいなかった。彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮べながら、苦笑して筆を擱(お)いた。手紙を書いてやったところでとうてい効能(ききめ)はあるまいという気が続いて起った。彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の余りへ、山羊髯(やぎひげ)を生やした細面(ほそおもて)の父の顔をいたずらにスケッチして、どうしようかと考えた。
 やがて彼は決心して立ち上った。襖(ふすま)を開けて、二階の上(あが)り口(ぐち)の所に出て、そこから下にいる細君を呼んだ。
「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」
「日本の?」
 細君の耳にはこの形容詞が変に滑稽(こっけい)に聞こえた。
「女のならあるわ」
 津田はまた自分の前に粋(いき)な模様入の半切(はんきれ)を拡(ひろ)げて見た。
「これなら気に入るかしら」
「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」
「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」
 津田は真面目(まじめ)な顔をしてなお半切を見つめていた。お延の口元には薄笑いの影が差(さ)した。
「時(とき)をちょいと買わせにやりましょうか」
「うん」
 津田は生返事(なまへんじ)をした。白い巻紙と無地の封筒さえあれば、必ず自分の希望が成功するという訳にも行かなかった。
「待っていらっしゃい。じきだから」
 お延はすぐ下へ降りた。やがて潜(くぐ)り戸(ど)が開(あ)いて下女の外へ出る足音が聞こえた。津田は必要の品物が自分の手に入るまで、何もせずに、ただ机の前に坐って煙草(たばこ)を吹かした。
 彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ上方(かみがた)の悪口(わるくち)を云いたがる癖に、いつか永住の目的をもって京都に落ちついてしまった。彼がその土地を余り好まない母に同情して多少不賛成の意を洩(も)らした時、父は自分で買った土地と自分が建てた家とを彼に示して、「これをどうする気か」と云った。今よりもまだ年の若かった彼は、父の言葉の意味さえよく解らなかった。所置はどうでもできるのにと思った。父は時々彼に向って、「誰のためでもない、みんな御前のためだ」と云った。「今はそのありがた味(み)が解らないかも知れないが、おれが死んで見ろ、きっと解る時が来るから」とも云った。彼は頭の中で父の言葉と、その言葉を口にする時の父の態度とを描き出した。子供の未来の幸福を一手(いって)に引き受けたような自信に充(み)ちたその様子が、近づくべからざる予言者のように、彼には見えた。彼は想像の眼で見る父に向って云いたくなった。
「御父さんが死んだ後(あと)で、一度に御父さんのありがた味が解るよりも、お父さんが生きているうちから、毎月(まいげつ)正確にお父さんのありがた味が少しずつ解る方が、どのくらい楽だか知れやしません」

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