草枕
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:夏目漱石 

        九

「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、三脚几(さんきゃくき)に縛(しば)りつけた、書物の一冊を抽(ぬ)いて読んでいた。
「御這入(おはい)りなさい。ちっとも構いません」
 女は遠慮する景色(けしき)もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟(はんえり)の中から、恰好(かっこう)のいい頸(くび)の色が、あざやかに、抽(ぬ)き出ている。女が余の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開(あ)けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な理窟(りくつ)だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
 余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる。
「あなたは小説が好きですか」
「私が?」と句を切った女は、あとから「そうですねえ」と判然(はっきり)しない返事をした。あまり好きでもなさそうだ。
「好きだか、嫌(きらい)だか自分にも解らないんじゃないですか」
「小説なんか読んだって、読まなくったって……」
と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。
「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」
「だって、あなたと私とは違いますもの」
「どこが?」と余は女の眼の中(うち)を見詰めた。試験をするのはここだと思ったが、女の眸(ひとみ)は少しも動かない。
「ホホホホ解りませんか」
「しかし若いうちは随分御読みなすったろう」余は一本道で押し合うのをやめにして、ちょっと裏へ廻った。
「今でも若いつもりですよ。可哀想(かわいそう)に」放した鷹(たか)はまたそれかかる。すこしも油断がならん。
「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」と、やっと引き戻した。
「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、惚(ほ)れたの、腫(は)れたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」
「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」
「おやそう。それだから画工(えかき)なんぞになれるんですね」
「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留(とうりゅう)しているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」
「すると不人情(ふにんじょう)な惚れ方をするのが画工なんですね」
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤(おみくじ)を引くように、ぱっと開(あ)けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」
「なるほど面白そうね。じゃ、今あなたが読んでいらっしゃる所を、少し話してちょうだい。どんな面白い事が出てくるか伺いたいから」
「話しちゃ駄目です。画(え)だって話にしちゃ一文の価値(ねうち)もなくなるじゃありませんか」
「ホホホそれじゃ読んで下さい」
「英語でですか」
「いいえ日本語で」
「英語を日本語で読むのはつらいな」
「いいじゃありませんか、非人情で」
 これも一興(いっきょう)だろうと思ったから、余は女の乞(こい)に応じて、例の書物をぽつりぽつりと日本語で読み出した。もし世界に非人情な読み方があるとすればまさにこれである。聴(き)く女ももとより非人情で聴いている。
「情(なさ)けの風が女から吹く。声から、眼から、肌(はだえ)から吹く。男に扶(たす)けられて舳(とも)に行く女は、夕暮のヴェニスを眺(なが)むるためか、扶くる男はわが脈(みゃく)に稲妻(いなずま)の血を走らすためか。――非人情だから、いい加減ですよ。ところどころ脱けるかも知れません」
「よござんすとも。御都合次第で、御足(おた)しなすっても構いません」
「女は男とならんで舷(ふなばた)に倚(よ)る。二人の隔(へだた)りは、風に吹かるるリボンの幅よりも狭い。女は男と共にヴェニスに去らばと云う。ヴェニスなるドウジの殿楼(でんろう)は今第二の日没のごとく、薄赤く消えて行く。……」
「ドージとは何です」
「何だって構やしません。昔(むか)しヴェニスを支配した人間の名ですよ。何代つづいたものですかね。その御殿が今でもヴェニスに残ってるんです」
「それでその男と女と云うのは誰の事なんでしょう」
「誰だか、わたしにも分らないんだ。それだから面白いのですよ。今までの関係なんかどうでもいいでさあ。ただあなたとわたしのように、こういっしょにいるところなんで、その場限りで面白味があるでしょう」
「そんなものですかね。何だか船の中のようですね」
「船でも岡でも、かいてある通りでいいんです。なぜと聞き出すと探偵(たんてい)になってしまうです」
「ホホホホじゃ聴きますまい」
「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも趣(おもむき)がない」
「じゃ非人情の続きを伺いましょう。それから?」
「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹(いちまつ)の淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。蛋白石(とんぼだま)の空のなかに円(まる)き柱が、ここ、かしこと立つ。ついには最も高く聳(そび)えたる鐘楼(しゅろう)が沈む。沈んだと女が云う。ヴェニスを去る女の心は空行く風のごとく自由である。されど隠れたるヴェニスは、再び帰らねばならぬ女の心に覊絏(きせつ)の苦しみを与う。男と女は暗き湾の方(かた)に眼を注ぐ。星は次第に増す。柔らかに揺(ゆら)ぐ海は泡(あわ)を濺(そそ)がず。男は女の手を把(と)る。鳴りやまぬ弦(ゆづる)を握った心地(ここち)である。……」
「あんまり非人情でもないようですね」
「なにこれが非人情的に聞けるのですよ。しかし厭(いや)なら少々略しましょうか」
「なに私は大丈夫ですよ」
「わたしは、あなたよりなお大丈夫です。――それからと、ええと、少しく六(む)ずかしくなって来たな。どうも訳し――いや読みにくい」
「読みにくければ、御略(おりゃく)しなさい」
「ええ、いい加減にやりましょう。――この一夜(ひとよ)と女が云う。一夜? と男がきく。一と限るはつれなし、幾夜(いくよ)を重ねてこそと云う」
「女が云うんですか、男が云うんですか」
「男が云うんですよ。何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。それで男が慰める語(ことば)なんです。――真夜中の甲板(かんぱん)に帆綱を枕にして横(よこた)わりたる、男の記憶には、かの瞬時、熱き一滴の血に似たる瞬時、女の手を確(しか)と把(と)りたる瞬時が大濤(おおなみ)のごとくに揺れる。男は黒き夜を見上げながら、強(し)いられたる結婚の淵(ふち)より、是非に女を救い出さんと思い定めた。かく思い定めて男は眼を閉(と)ずる。――」
「女は?」
「女は路に迷いながら、いずこに迷えるかを知らぬ様(さま)である。攫(さら)われて空行く人のごとく、ただ不可思議の千万無量――あとがちょっと読みにくいですよ。どうも句にならない。――ただ不可思議の千万無量――何か動詞はないでしょうか」
「動詞なんぞいるものですか、それで沢山です」
「え?」
 轟(ごう)と音がして山の樹(き)がことごとく鳴る。思わず顔を見合わす途端(とたん)に、机の上の一輪挿(いちりんざし)に活(い)けた、椿(つばき)がふらふらと揺れる。「地震!」と小声で叫んだ女は、膝(ひざ)を崩(くず)して余の机に靠(よ)りかかる。御互(おたがい)の身躯(からだ)がすれすれに動く。キキーと鋭(する)どい羽摶(はばたき)をして一羽の雉子(きじ)が藪(やぶ)の中から飛び出す。
「雉子が」と余は窓の外を見て云う。
「どこに」と女は崩した、からだを擦寄(すりよ)せる。余の顔と女の顔が触れぬばかりに近づく。細い鼻の穴から出る女の呼吸(いき)が余の髭(ひげ)にさわった。
「非人情ですよ」と女はたちまち坐住居(いずまい)を正しながら屹(きっ)と云う。
「無論」と言下(ごんか)に余は答えた。
 岩の凹(くぼ)みに湛(たた)えた春の水が、驚ろいて、のたりのたりと鈍(ぬる)く揺(うご)いている。地盤の響きに、満泓(まんおう)の波が底から動くのだから、表面が不規則に曲線を描くのみで、砕(くだ)けた部分はどこにもない。円満に動くと云う語があるとすれば、こんな場合に用いられるのだろう。落ちついて影を□(ひた)していた山桜が、水と共に、延びたり縮んだり、曲がったり、くねったりする。しかしどう変化してもやはり明らかに桜の姿を保(たも)っているところが非常に面白い。
「こいつは愉快だ。奇麗(きれい)で、変化があって。こう云う風に動かなくっちゃ面白くない」
「人間もそう云う風にさえ動いていれば、いくら動いても大丈夫ですね」
「非人情でなくっちゃ、こうは動けませんよ」
「ホホホホ大変非人情が御好きだこと」
「あなた、だって嫌(きらい)な方じゃありますまい。昨日(きのう)の振袖(ふりそで)なんか……」と言いかけると、
「何か御褒美(ごほうび)をちょうだい」と女は急に甘(あま)えるように云った。
「なぜです」
「見たいとおっしゃったから、わざわざ、見せて上げたんじゃありませんか」
「わたしがですか」
「山越(やまごえ)をなさった画(え)の先生が、茶店の婆さんにわざわざ御頼みになったそうで御座います」
 余は何と答えてよいやらちょっと挨拶(あいさつ)が出なかった。女はすかさず、
「そんな忘れっぽい人に、いくら実(じつ)をつくしても駄目ですわねえ」と嘲(あざ)けるごとく、恨(うら)むがごとく、また真向(まっこう)から切りつけるがごとく二の矢をついだ。だんだん旗色(はたいろ)がわるくなるが、どこで盛り返したものか、いったん機先を制せられると、なかなか隙(すき)を見出しにくい。
「じゃ昨夕(ゆうべ)の風呂場も、全く御親切からなんですね」と際(きわ)どいところでようやく立て直す。
 女は黙っている。
「どうも済みません。御礼に何を上げましょう」と出来るだけ先へ出て置く。いくら出ても何の利目(ききめ)もなかった。女は何喰わぬ顔で大徹和尚(だいてつおしょう)の額を眺(なが)めている。やがて、
「竹影(ちくえい)払階(かいをはらって)塵不動(ちりうごかず)」
と口のうちで静かに読み了(おわ)って、また余の方へ向き直ったが、急に思い出したように、
「何ですって」
と、わざと大きな声で聞いた。その手は喰わない。
「その坊主にさっき逢(あ)いましたよ」と地震に揺(ゆ)れた池の水のように円満な動き方をして見せる。
「観海寺(かんかいじ)の和尚ですか。肥(ふと)ってるでしょう」
「西洋画で唐紙(からかみ)をかいてくれって、云いましたよ。禅坊さんなんてものは随分訳(わけ)のわからない事を云いますね」
「それだから、あんなに肥れるんでしょう」
「それから、もう一人若い人に逢いましたよ。……」
「久一(きゅういち)でしょう」
「ええ久一君です」
「よく御存じです事」
「なに久一君だけ知ってるんです。そのほかには何にも知りゃしません。口を聞くのが嫌(きらい)な人ですね」
「なに、遠慮しているんです。まだ小供ですから……」
「小供って、あなたと同じくらいじゃありませんか」
「ホホホホそうですか。あれは私(わたく)しの従弟(いとこ)ですが、今度戦地へ行くので、暇乞(いとまごい)に来たのです」
「ここに留(とま)って、いるんですか」
「いいえ、兄の家(うち)におります」
「じゃ、わざわざ御茶を飲みに来た訳ですね」
「御茶より御白湯(おゆ)の方が好(すき)なんですよ。父がよせばいいのに、呼ぶものですから。麻痺(しびれ)が切れて困ったでしょう。私がおれば中途から帰してやったんですが……」
「あなたはどこへいらしったんです。和尚(おしょう)が聞いていましたぜ、また一人(ひとり)散歩かって」
「ええ鏡の池の方を廻って来ました」
「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」
「行って御覧なさい」
「画(え)にかくに好い所ですか」
「身を投げるに好い所です」
「身はまだなかなか投げないつもりです」
「私は近々(きんきん)投げるかも知れません」
 余りに女としては思い切った冗談(じょうだん)だから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。
「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」
 女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧(かえり)みてにこりと笑った。茫然(ぼうぜん)たる事多時(たじ)。

        十

 鏡が池へ来て見る。観海寺の裏道の、杉の間から谷へ降りて、向うの山へ登らぬうちに、路は二股(ふたまた)に岐(わか)れて、おのずから鏡が池の周囲となる。池の縁(ふち)には熊笹(くまざさ)が多い。ある所は、左右から生(お)い重なって、ほとんど音を立てずには通れない。木の間から見ると、池の水は見えるが、どこで始まって、どこで終るか一応廻った上でないと見当がつかぬ。あるいて見ると存外小さい。三丁ほどよりあるまい。ただ非常に不規則な形(かた)ちで、ところどころに岩が自然のまま水際(みずぎわ)に横(よこた)わっている。縁の高さも、池の形の名状しがたいように、波を打って、色々な起伏を不規則に連(つら)ねている。
 池をめぐりては雑木(ぞうき)が多い。何百本あるか勘定(かんじょう)がし切れぬ。中には、まだ春の芽を吹いておらんのがある。割合に枝の繁(こ)まない所は、依然として、うららかな春の日を受けて、萌(も)え出でた下草(したぐさ)さえある。壺菫(つぼすみれ)の淡き影が、ちらりちらりとその間に見える。
 日本の菫は眠っている感じである。「天来(てんらい)の奇想のように」、と形容した西人(せいじん)の句はとうていあてはまるまい。こう思う途端(とたん)に余の足はとまった。足がとまれば、厭(いや)になるまでそこにいる。いられるのは、幸福な人である。東京でそんな事をすれば、すぐ電車に引き殺される。電車が殺さなければ巡査が追い立てる。都会は太平の民(たみ)を乞食(こじき)と間違えて、掏摸(すり)の親分たる探偵(たんてい)に高い月俸を払う所である。
 余は草を茵(しとね)に太平の尻をそろりと卸(おろ)した。ここならば、五六日こうしたなり動かないでも、誰も苦情を持ち出す気遣(きづかい)はない。自然のありがたいところはここにある。いざとなると容赦(ようしゃ)も未練(みれん)もない代りには、人に因(よ)って取り扱をかえるような軽薄な態度はすこしも見せない。岩崎(いわさき)や三井(みつい)を眼中に置かぬものは、いくらでもいる。冷然として古今(ここん)帝王の権威を風馬牛(ふうばぎゅう)し得るものは自然のみであろう。自然の徳は高く塵界を超越して、対絶の平等観(びょうどうかん)を無辺際(むへんさい)に樹立している。天下の羣小(ぐんしょう)を麾(さしまね)いで、いたずらにタイモンの憤(いきどお)りを招くよりは、蘭(らん)を九□(えん)に滋(ま)き、□(けい)を百畦(けい)に樹(う)えて、独(ひと)りその裏(うち)に起臥(きが)する方が遥かに得策である。余は公平と云い無私(むし)と云う。さほど大事(だいじ)なものならば、日に千人の小賊(しょうぞく)を戮(りく)して、満圃(まんぽ)の草花を彼らの屍(しかばね)に培養(つちか)うがよかろう。
 何だか考(かんがえ)が理(り)に落ちていっこうつまらなくなった。こんな中学程度の観想(かんそう)を練りにわざわざ、鏡が池まで来はせぬ。袂(たもと)から煙草(たばこ)を出して、寸燐(マッチ)をシュッと擦(す)る。手応(てごたえ)はあったが火は見えない。敷島(しきしま)のさきに付けて吸ってみると、鼻から煙が出た。なるほど、吸ったんだなとようやく気がついた。寸燐(マッチ)は短かい草のなかで、しばらく雨竜(あまりょう)のような細い煙りを吐いて、すぐ寂滅(じゃくめつ)した。席をずらせてだんだん水際(みずぎわ)まで出て見る。余が茵は天然に池のなかに、ながれ込んで、足を浸(ひた)せば生温(なまぬる)い水につくかも知れぬと云う間際(まぎわ)で、とまる。水を覗(のぞ)いて見る。
 眼の届く所はさまで深そうにもない。底には細長い水草(みずぐさ)が、往生(おうじょう)して沈んでいる。余は往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。岡の薄(すすき)なら靡(なび)く事を知っている。藻(も)の草ならば誘(さそ)う波の情(なさ)けを待つ。百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は、動くべきすべての姿勢を調(ととの)えて、朝な夕なに、弄(なぶ)らるる期を、待ち暮らし、待ち明かし、幾代(いくよ)の思(おもい)を茎(くき)の先に籠(こ)めながら、今に至るまでついに動き得ずに、また死に切れずに、生きているらしい。
 余は立ち上がって、草の中から、手頃の石を二つ拾って来る。功徳(くどく)になると思ったから、眼の先へ、一つ抛(ほう)り込んでやる。ぶくぶくと泡(あわ)が二つ浮いて、すぐ消えた。すぐ消えた、すぐ消えたと、余は心のうちで繰り返す。すかして見ると、三茎(みくき)ほどの長い髪が、慵(ものうげ)に揺れかかっている。見つかってはと云わぬばかりに、濁った水が底の方から隠しに来る。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)。
 今度は思い切って、懸命に真中(まんなか)へなげる。ぽかんと幽(かす)かに音がした。静かなるものは決して取り合わない。もう抛(な)げる気も無くなった。絵の具箱と帽子を置いたまま右手へ廻る。
 二間余りを爪先上(つまさきあ)がりに登る。頭の上には大きな樹(き)がかぶさって、身体(からだ)が急に寒くなる。向う岸の暗い所に椿(つばき)が咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日向(ひなた)で見ても、軽快な感じはない。ことにこの椿は岩角(いわかど)を、奥へ二三間遠退(とおの)いて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森閑(しんかん)として、かたまっている。その花が! 一日勘定(かんじょう)しても無論勘定し切れぬほど多い。しかし眼がつけば是非勘定したくなるほど鮮(あざや)かである。ただ鮮かと云うばかりで、いっこう陽気な感じがない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気を奪(と)られた、後(あと)は何だか凄(すご)くなる。あれほど人を欺(だま)す花はない。余は深山椿(みやまつばき)を見るたびにいつでも妖女(ようじょ)の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然(えんぜん)たる毒を血管に吹く。欺(あざむ)かれたと悟(さと)った頃はすでに遅い。向う側の椿が眼に入(い)った時、余は、ええ、見なければよかったと思った。あの花の色はただの赤ではない。眼を醒(さま)すほどの派出(はで)やかさの奥に、言うに言われぬ沈んだ調子を持っている。悄然(しょうぜん)として萎(しお)れる雨中(うちゅう)の梨花(りか)には、ただ憐れな感じがする。冷やかに艶(えん)なる月下(げっか)の海棠(かいどう)には、ただ愛らしい気持ちがする。椿の沈んでいるのは全く違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味(み)を帯びた調子である。この調子を底に持って、上部(うわべ)はどこまでも派出に装(よそお)っている。しかも人に媚(こ)ぶる態(さま)もなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星霜(せいそう)を、人目にかからぬ山陰に落ちつき払って暮らしている。ただ一眼(ひとめ)見たが最後! 見た人は彼女の魔力から金輪際(こんりんざい)、免(のが)るる事は出来ない。あの色はただの赤ではない。屠(ほふ)られたる囚人(しゅうじん)の血が、自(おの)ずから人の眼を惹(ひ)いて、自から人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。
 見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩(くず)れるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未練(みれん)のないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。ああやって落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた。花が静かに浮いている辺(あたり)は今でも少々赤いような気がする。また落ちた。地の上へ落ちたのか、水の上へ落ちたのか、区別がつかぬくらい静かに浮く。また落ちる。あれが沈む事があるだろうかと思う。年々(ねんねん)落ち尽す幾万輪の椿は、水につかって、色が溶(と)け出して、腐って泥になって、ようやく底に沈むのかしらん。幾千年の後にはこの古池が、人の知らぬ間(ま)に、落ちた椿のために、埋(うず)もれて、元の平地(ひらち)に戻るかも知れぬ。また一つ大きいのが血を塗った、人魂(ひとだま)のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。
 こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろうと思いながら、元の所へ帰って、また煙草を呑(の)んで、ぼんやり考え込む。温泉場(ゆば)の御那美(おなみ)さんが昨日(きのう)冗談(じょうだん)に云った言葉が、うねりを打って、記憶のうちに寄せてくる。心は大浪(おおなみ)にのる一枚の板子(いたご)のように揺れる。あの顔を種(たね)にして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。椿が長(とこしな)えに落ちて、女が長えに水に浮いている感じをあらわしたいが、それが画(え)でかけるだろうか。かのラオコーンには――ラオコーンなどはどうでも構わない。原理に背(そむ)いても、背かなくっても、そう云う心持ちさえ出ればいい。しかし人間を離れないで人間以上の永久と云う感じを出すのは容易な事ではない。第一顔に困る。あの顔を借りるにしても、あの表情では駄目だ。苦痛が勝ってはすべてを打(う)ち壊(こ)わしてしまう。と云ってむやみに気楽ではなお困る。一層(いっそ)ほかの顔にしては、どうだろう。あれか、これかと指を折って見るが、どうも思(おもわ)しくない。やはり御那美さんの顔が一番似合うようだ。しかし何だか物足らない。物足らないとまでは気がつくが、どこが物足らないかが、吾(われ)ながら不明である。したがって自己の想像でいい加減に作り易(か)える訳に行かない。あれに嫉□(しっと)を加えたら、どうだろう。嫉□では不安の感が多過ぎる。憎悪(ぞうお)はどうだろう。憎悪は烈(は)げし過ぎる。怒(いかり)? 怒では全然調和を破る。恨(うらみ)? 恨でも春恨(しゅんこん)とか云う、詩的のものならば格別、ただの恨では余り俗である。いろいろに考えた末、しまいにようやくこれだと気がついた。多くある情緒(じょうしょ)のうちで、憐(あわ)れと云う字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情(じょう)で、しかも神にもっとも近き人間の情である。御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟(とっさ)の衝動で、この情があの女の眉宇(びう)にひらめいた瞬時に、わが画(え)は成就(じょうじゅ)するであろう。しかし――いつそれが見られるか解らない。あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微笑(うすわらい)と、勝とう、勝とうと焦(あせ)る八の字のみである。あれだけでは、とても物にならない。
 がさりがさりと足音がする。胸裏(きょうり)の図案は三分(ぶ)二で崩(くず)れた。見ると、筒袖(つつそで)を着た男が、背(せ)へ薪(まき)を載(の)せて、熊笹(くまざさ)のなかを観海寺の方へわたってくる。隣りの山からおりて来たのだろう。
「よい御天気で」と手拭(てぬぐい)をとって挨拶(あいさつ)する。腰を屈(かが)める途端(とたん)に、三尺帯に落(おと)した鉈(なた)の刃(は)がぴかりと光った。四十恰好(がっこう)の逞(たくま)しい男である。どこかで見たようだ。男は旧知のように馴々(なれなれ)しい。
「旦那(だんな)も画を御描(おか)きなさるか」余の絵の具箱は開(あ)けてあった。
「ああ。この池でも画(か)こうと思って来て見たが、淋(さみ)しい所だね。誰も通らない」
「はあい。まことに山の中で……旦那あ、峠(とうげ)で御降(おふ)られなさって、さぞ御困りでござんしたろ」
「え? うん御前(おまえ)はあの時の馬子(まご)さんだね」
「はあい。こうやって薪(たきぎ)を切っては城下(じょうか)へ持って出ます」と源兵衛は荷を卸(おろ)して、その上へ腰をかける。煙草入(たばこいれ)を出す。古いものだ。紙だか革(かわ)だか分らない。余は寸燐(マッチ)を借(か)してやる。
「あんな所を毎日越すなあ大変だね」
「なあに、馴れていますから――それに毎日は越しません。三日(みっか)に一返(ぺん)、ことによると四日目(よっかめ)くらいになります」
「四日に一返(ぺん)でも御免だ」
「アハハハハ。馬が不憫(ふびん)ですから四日目くらいにして置きます」
「そりゃあ、どうも。自分より馬の方が大事なんだね。ハハハハ」
「それほどでもないんで……」
「時にこの池はよほど古いもんだね。全体いつ頃からあるんだい」
「昔からありますよ」
「昔から? どのくらい昔から?」
「なんでもよっぽど古い昔から」
「よっぽど古い昔しからか。なるほど」
「なんでも昔し、志保田(しほだ)の嬢様が、身を投げた時分からありますよ」
「志保田って、あの温泉場(ゆば)のかい」
「はあい」
「御嬢さんが身を投げたって、現に達者でいるじゃないか」
「いんにえ。あの嬢さまじゃない。ずっと昔の嬢様が」
「ずっと昔の嬢様。いつ頃かね、それは」
「なんでも、よほど昔しの嬢様で……」
「その昔の嬢様が、どうしてまた身を投げたんだい」
「その嬢様は、やはり今の嬢様のように美しい嬢様であったそうながな、旦那様」
「うん」
「すると、ある日、一人(ひとり)の梵論字(ぼろんじ)が来て……」
「梵論字と云うと虚無僧(こもそう)の事かい」
「はあい。あの尺八を吹く梵論字の事でござんす。その梵論字が志保田の庄屋(しょうや)へ逗留(とうりゅう)しているうちに、その美くしい嬢様が、その梵論字を見染(みそ)めて――因果(いんが)と申しますか、どうしてもいっしょになりたいと云うて、泣きました」
「泣きました。ふうん」
「ところが庄屋どのが、聞き入れません。梵論字は聟(むこ)にはならんと云うて。とうとう追い出しました」
「その虚無僧(こもそう)[#ルビの「こもそう」は底本では「こむそう」]をかい」
「はあい。そこで嬢様が、梵論字のあとを追うてここまで来て、――あの向うに見える松の所から、身を投げて、――とうとう、えらい騒ぎになりました。その時何でも一枚の鏡を持っていたとか申し伝えておりますよ。それでこの池を今でも鏡が池と申しまする」
「へええ。じゃ、もう身を投げたものがあるんだね」
「まことに怪(け)しからん事でござんす」
「何代くらい前の事かい。それは」
「なんでもよっぽど昔の事でござんすそうな。それから――これはここ限りの話だが、旦那さん」
「何だい」
「あの志保田の家には、代々(だいだい)気狂(きちがい)が出来ます」
「へええ」
「全く祟(たた)りでござんす。今の嬢様も、近頃は少し変だ云うて、皆が囃(はや)します」
「ハハハハそんな事はなかろう」
「ござんせんかな。しかしあの御袋様(おふくろさま)がやはり少し変でな」
「うちにいるのかい」
「いいえ、去年亡(な)くなりました」
「ふん」と余は煙草の吸殻(すいがら)から細い煙の立つのを見て、口を閉じた。源兵衛は薪(まき)を背(せ)にして去る。
 画(え)をかきに来て、こんな事を考えたり、こんな話しを聴くばかりでは、何日(いくにち)かかっても一枚も出来っこない。せっかく絵の具箱まで持ち出した以上、今日は義理にも下絵(したえ)をとって行こう。幸(さいわい)、向側の景色は、あれなりで略纏(ほぼまと)まっている。あすこでも申(もう)し訳(わけ)にちょっと描(か)こう。
 一丈余りの蒼黒(あおぐろ)い岩が、真直(まっすぐ)に池の底から突き出して、濃(こ)き水の折れ曲る角(かど)に、嵯々(ささ)と構える右側には、例の熊笹(くまざさ)が断崖(だんがい)の上から水際(みずぎわ)まで、一寸(いっすん)の隙間(すきま)なく叢生(そうせい)している。上には三抱(みかかえ)ほどの大きな松が、若蔦(わかづた)にからまれた幹を、斜(なな)めに捩(ねじ)って、半分以上水の面(おもて)へ乗り出している。鏡を懐(ふところ)にした女は、あの岩の上からでも飛んだものだろう。
 三脚几(さんきゃくき)に尻(しり)を据(す)えて、面画に入るべき材料を見渡す。松と、笹と、岩と水であるが、さて水はどこでとめてよいか分らぬ。岩の高さが一丈あれば、影も一丈ある。熊笹は、水際でとまらずに、水の中まで茂り込んでいるかと怪(あやし)まるるくらい、鮮(あざ)やかに水底まで写っている。松に至っては空に聳(そび)ゆる高さが、見上げらるるだけ、影もまたすこぶる細長い。眼に写っただけの寸法ではとうてい収(おさま)りがつかない。一層(いっそ)の事、実物をやめて影だけ描くのも一興だろう。水をかいて、水の中の影をかいて、そうして、これが画だと人に見せたら驚ろくだろう。しかしただ驚ろかせるだけではつまらない。なるほど画になっていると驚かせなければつまらない。どう工夫(くふう)をしたものだろうと、一心に池の面(おも)を見詰める。
 奇体なもので、影だけ眺(なが)めていてはいっこう画にならん。実物と見比べて工夫がして見たくなる。余は水面から眸(ひとみ)を転じて、そろりそろりと上の方へ視線を移して行く。一丈の巌(いわお)を、影の先から、水際の継目(つぎめ)まで眺めて、継目から次第に水の上に出る。潤沢(じゅんたく)の気合(けあい)から、皴皺(しゅんしゅ)の模様を逐一(ちくいち)吟味(ぎんみ)してだんだんと登って行く。ようやく登り詰めて、余の双眼(そうがん)が今危巌(きがん)の頂(いただ)きに達したるとき、余は蛇(へび)に睨(にら)まれた蟇(ひき)のごとく、はたりと画筆(えふで)を取り落した。
 緑(みど)りの枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を彩(いろ)どる中に、楚然(そぜん)として織り出されたる女の顔は、――花下(かか)に余を驚かし、まぼろしに余を驚ろかし、振袖(ふりそで)に余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女の顔である。
 余が視線は、蒼白(あおじろ)き女の顔の真中(まんなか)にぐさと釘付(くぎづ)けにされたぎり動かない。女もしなやかなる体躯(たいく)を伸(の)せるだけ伸して、高い巌(いわお)の上に一指も動かさずに立っている。この一刹那(いっせつな)!
 余は覚えず飛び上った。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思ったら、すでに向うへ飛び下りた。夕日は樹梢(じゅしょう)を掠(かす)めて、幽(かす)かに松の幹を染むる。熊笹はいよいよ青い。
 また驚かされた。

        十一

 山里(やまざと)の朧(おぼろ)に乗じてそぞろ歩く。観海寺の石段を登りながら仰数(あおぎかぞう)春星(しゅんせい)一二三と云う句を得た。余は別に和尚(おしょう)に逢う用事もない。逢うて雑話をする気もない。偶然と宿を出(い)でて足の向くところに任せてぶらぶらするうち、ついこの石磴(せきとう)の下に出た。しばらく不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)と云う石を撫(な)でて立っていたが、急にうれしくなって、登り出したのである。
 トリストラム・シャンデーと云う書物のなかに、この書物ほど神の御覚召(おぼしめし)に叶(かの)うた書き方はないとある。最初の一句はともかくも自力(じりき)で綴(つづ)る。あとはひたすらに神を念じて、筆の動くに任せる。何をかくか自分には無論見当がつかぬ。かく者は自己であるが、かく事は神の事である。したがって責任は著者にはないそうだ。余が散歩もまたこの流儀を汲(く)んだ、無責任の散歩である。ただ神を頼まぬだけが一層の無責任である。スターンは自分の責任を免(のが)れると同時にこれを在天の神に嫁(か)した。引き受けてくれる神を持たぬ余はついにこれを泥溝(どぶ)の中に棄(す)てた。
 石段を登るにも骨を折っては登らない。骨が折れるくらいなら、すぐ引き返す。一段登って佇(たたず)むとき何となく愉快だ。それだから二段登る。二段目に詩が作りたくなる。黙然(もくねん)として、吾影を見る。角石(かくいし)に遮(さえぎ)られて三段に切れているのは妙だ。妙だからまた登る。仰いで天を望む。寝ぼけた奥から、小さい星がしきりに瞬(まばた)きをする。句になると思って、また登る。かくして、余はとうとう、上まで登り詰めた。
 石段の上で思い出す。昔し鎌倉へ遊びに行って、いわゆる五山(ごさん)なるものを、ぐるぐる尋ねて廻った時、たしか円覚寺(えんがくじ)の塔頭(たっちゅう)であったろう、やはりこんな風に石段をのそりのそりと登って行くと、門内から、黄(き)な法衣(ころも)を着た、頭の鉢(はち)の開いた坊主が出て来た。余は上(のぼ)る、坊主は下(くだ)る。すれ違った時、坊主が鋭どい声でどこへ御出(おいで)なさると問うた。余はただ境内(けいだい)を拝見にと答えて、同時に足を停(と)めたら、坊主は直(ただ)ちに、何もありませんぞと言い捨てて、すたすた下りて行った。あまり洒落(しゃらく)だから、余は少しく先(せん)を越された気味で、段上に立って、坊主を見送ると、坊主は、かの鉢の開いた頭を、振り立て振り立て、ついに姿を杉の木の間に隠した。その間(あいだ)かつて一度も振り返った事はない。なるほど禅僧は面白い。きびきびしているなと、のっそり山門を這入(はい)って、見ると、広い庫裏(くり)も本堂も、がらんとして、人影はまるでない。余はその時に心からうれしく感じた。世の中にこんな洒落(しゃらく)な人があって、こんな洒落に、人を取り扱ってくれたかと思うと、何となく気分が晴々(せいせい)した。禅(ぜん)を心得ていたからと云う訳ではない。禅のぜの字もいまだに知らぬ。ただあの鉢の開いた坊主の所作(しょさ)が気に入ったのである。
 世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴(やつ)で埋(うずま)っている。元来何しに世の中へ面(つら)を曝(さら)しているんだか、解(げ)しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのをもって、さも名誉のごとく心得ている。五年も十年も人の臀(しり)に探偵(たんてい)をつけて、人のひる屁(へ)の勘定(かんじょう)をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後(うし)ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えばなおなお云う。よせと云えばますます云う。分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。方針は人々(にんにん)勝手である。ただひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差(さ)し控(ひか)えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのをもって、こっちの方針とするばかりだ。そうなったら日本も運の尽きだろう。
 こうやって、美しい春の夜に、何らの方針も立てずに、あるいてるのは実際高尚だ。興来(きた)れば興来るをもって方針とする。興去れば興去るをもって方針とする。句を得れば、得たところに方針が立つ。得なければ、得ないところに方針が立つ。しかも誰の迷惑にもならない。これが真正の方針である。屁を勘定するのは人身攻撃の方針で、屁をひるのは正当防禦(ぼうぎょ)の方針で、こうやって観海寺の石段を登るのは随縁放曠(ずいえんほうこう)の方針である。
 仰数(あおぎかぞう)春星(しゅんせい)一二三の句を得て、石磴(せきとう)を登りつくしたる時、朧(おぼろ)にひかる春の海が帯のごとくに見えた。山門を入る。絶句(ぜっく)は纏(まと)める気にならなくなった。即座にやめにする方針を立てる。
 石を甃(たた)んで庫裡(くり)に通ずる一筋道の右側は、岡つつじの生垣(いけがき)で、垣の向(むこう)は墓場であろう。左は本堂だ。屋根瓦(やねがわら)が高い所で、幽(かす)かに光る。数万の甍(いらか)に、数万の月が落ちたようだと見上(みあげ)る。どこやらで鳩の声がしきりにする。棟(むね)の下にでも住んでいるらしい。気のせいか、廂(ひさし)のあたりに白いものが、点々見える。糞(ふん)かも知れぬ。
 雨垂(あまだ)れ落ちの所に、妙な影が一列に並んでいる。木とも見えぬ、草では無論ない。感じから云うと岩佐又兵衛(いわさまたべえ)のかいた、鬼(おに)の念仏(ねんぶつ)が、念仏をやめて、踊りを踊っている姿である。本堂の端(はじ)から端まで、一列に行儀よく並んで躍(おど)っている。その影がまた本堂の端から端まで一列に行儀よく並んで躍っている。朧夜(おぼろよ)にそそのかされて、鉦(かね)も撞木(しゅもく)も、奉加帳(ほうがちょう)も打ちすてて、誘(さそ)い合(あわ)せるや否やこの山寺(やまでら)へ踊りに来たのだろう。
 近寄って見ると大きな覇王樹(さぼてん)である。高さは七八尺もあろう、糸瓜(へちま)ほどな青い黄瓜(きゅうり)を、杓子(しゃもじ)のように圧(お)しひしゃげて、柄(え)の方を下に、上へ上へと継(つ)ぎ合(あわ)せたように見える。あの杓子がいくつ継(つな)がったら、おしまいになるのか分らない。今夜のうちにも廂(ひさし)を突き破って、屋根瓦の上まで出そうだ。あの杓子が出来る時には、何でも不意に、どこからか出て来て、ぴしゃりと飛びつくに違いない。古い杓子が新しい小杓子を生んで、その小杓子が長い年月のうちにだんだん大きくなるようには思われない。杓子と杓子の連続がいかにも突飛(とっぴ)である。こんな滑稽(こっけい)な樹(き)はたんとあるまい。しかも澄ましたものだ。いかなるこれ仏(ぶつ)と問われて、庭前(ていぜん)の柏樹子(はくじゅし)と答えた僧があるよしだが、もし同様の問に接した場合には、余は一も二もなく、月下(げっか)の覇王樹(はおうじゅ)と応(こた)えるであろう。
 少時(しょうじ)、晁補之(ちょうほし)と云う人の記行文を読んで、いまだに暗誦(あんしょう)している句がある。「時に九月天高く露清く、山空(むな)しく、月明(あきら)かに、仰いで星斗(せいと)を視(み)れば皆(みな)光大(ひかりだい)、たまたま人の上にあるがごとし、窓間(そうかん)の竹(たけ)数十竿(かん)、相摩戞(まかつ)して声切々(せつせつ)やまず。竹間(ちくかん)の梅棕(ばいそう)森然(しんぜん)として鬼魅(きび)の離立笑□(りりつしょうひん)の状(じょう)のごとし。二三子相顧(あいかえり)み、魄(はく)動いて寝(いぬ)るを得ず。遅明(ちめい)皆去る」とまた口の内で繰り返して見て、思わず笑った。この覇王樹(さぼてん)も時と場合によれば、余の魄(はく)を動かして、見るや否や山を追い下げたであろう。刺(とげ)に手を触れて見ると、いらいらと指をさす。
 石甃(いしだたみ)を行き尽くして左へ折れると庫裏(くり)へ出る。庫裏の前に大きな木蓮(もくれん)がある。ほとんど一(ひ)と抱(かかえ)もあろう。高さは庫裏の屋根を抜いている。見上げると頭の上は枝である。枝の上も、また枝である。そうして枝の重なり合った上が月である。普通、枝がああ重なると、下から空は見えぬ。花があればなお見えぬ。木蓮の枝はいくら重なっても、枝と枝の間はほがらかに隙(す)いている。木蓮は樹下に立つ人の眼を乱すほどの細い枝をいたずらには張らぬ。花さえ明(あきら)かである。この遥かなる下から見上げても一輪の花は、はっきりと一輪に見える。その一輪がどこまで簇(むら)がって、どこまで咲いているか分らぬ。それにもかかわらず一輪はついに一輪で、一輪と一輪の間から、薄青い空が判然(はんぜん)と望まれる。花の色は無論純白ではない。いたずらに白いのは寒過ぎる。専(もっぱ)らに白いのは、ことさらに人の眼を奪う巧(たく)みが見える。木蓮の色はそれではない。極度の白きをわざと避(さ)けて、あたたかみのある淡黄(たんこう)に、奥床(おくゆか)しくも自(みずか)らを卑下(ひげ)している。余は石甃(いしだたみ)の上に立って、このおとなしい花が累々(るいるい)とどこまでも空裏(くうり)に蔓(はびこ)る様(さま)を見上げて、しばらく茫然(ぼうぜん)としていた。眼に落つるのは花ばかりである。葉は一枚もない。
木蓮の花ばかりなる空を瞻(み)る
と云う句を得た。どこやらで、鳩がやさしく鳴き合うている。
 庫裏に入る。庫裏は明け放してある。盗人(ぬすびと)はおらぬ国と見える。狗(いぬ)はもとより吠(ほ)えぬ。
「御免」
と訪問(おとず)れる。森(しん)として返事がない。
「頼む」
と案内を乞う。鳩の声がくううくううと聞える。
「頼みまああす」と大きな声を出す。
「おおおおおおお」と遥かの向(むこう)で答えたものがある。人の家を訪(と)うて、こんな返事を聞かされた事は決してない。やがて足音が廊下へ響くと、紙燭(しそく)の影が、衝立(ついたて)の向側にさした。小坊主がひょこりとあらわれる。了念(りょうねん)であった。
「和尚(おしょう)さんはおいでかい」
「おられる。何しにござった」
「温泉にいる画工(えかき)が来たと、取次(とりつい)でおくれ」
「画工さんか。それじゃ御上(おあが)り」
「断わらないでもいいのかい」
「よろしかろ」
 余は下駄を脱いで上がる。
「行儀がわるい画工さんじゃな」
「なぜ」
「下駄を、よう御揃(おそろ)えなさい。そらここを御覧」と紙燭を差しつける。黒い柱の真中に、土間から五尺ばかりの高さを見計(みはから)って、半紙を四つ切りにした上へ、何か認(したた)めてある。
「そおら。読めたろ。脚下(きゃっか)を見よ、と書いてあるが」
「なるほど」と余は自分の下駄を丁寧に揃える。
 和尚の室(へや)は廊下を鍵(かぎ)の手(て)に曲(まが)って、本堂の横手にある。障子(しょうじ)を恭(うやうや)しくあけて、恭しく敷居越しにつくばった了念が、
「あのう、志保田(しほだ)から、画工さんが来られました」と云う。はなはだ恐縮の体(てい)である。余はちょっとおかしくなった。
「そうか、これへ」
 余は了念と入れ代る。室がすこぶる狭い。中に囲炉裏(いろり)を切って、鉄瓶(てつびん)が鳴る。和尚は向側に書見(しょけん)をしていた。
「さあこれへ」と眼鏡(めがね)をはずして、書物を傍(かたわら)へおしやる。
「了念。りょううねええん」
「ははははい」
「座布団(ざぶとん)を上げんか」
「はははははい」と了念は遠くで、長い返事をする。
「よう、来られた。さぞ退屈だろ」
「あまり月がいいから、ぶらぶら来ました」
「いい月じゃな」と障子をあける。飛び石が二つ、松一本のほかには何もない、平庭(ひらにわ)の向うは、すぐ懸崖(けんがい)と見えて、眼の下に朧夜(おぼろよ)の海がたちまちに開ける。急に気が大きくなったような心持である。漁火(いさりび)がここ、かしこに、ちらついて、遥かの末は空に入って、星に化(ば)けるつもりだろう。
「これはいい景色。和尚(おしょう)さん、障子をしめているのはもったいないじゃありませんか」
「そうよ。しかし毎晩見ているからな」
「何晩(いくばん)見てもいいですよ、この景色は。私なら寝ずに見ています」
「ハハハハ。もっともあなたは画工(えかき)だから、わしとは少し違うて」
「和尚さんだって、うつくしいと思ってるうちは画工でさあ」
「なるほどそれもそうじゃろ。わしも達磨(だるま)の画(え)ぐらいはこれで、かくがの。そら、ここに掛けてある、この軸(じく)は先代がかかれたのじゃが、なかなかようかいとる」
 なるほど達磨の画が小さい床(とこ)に掛っている。しかし画としてはすこぶるまずいものだ。ただ俗気(ぞっき)がない。拙(せつ)を蔽(おお)おうと力(つと)めているところが一つもない。無邪気な画だ。この先代もやはりこの画のような構わない人であったんだろう。
「無邪気な画ですね」
「わしらのかく画はそれで沢山じゃ。気象(きしょう)さえあらわれておれば……」
「上手で俗気があるのより、いいです」
「ははははまあ、そうでも、賞(ほ)めて置いてもらおう。時に近頃は画工にも博士があるかの」
「画工の博士はありませんよ」
「あ、そうか。この間、何でも博士に一人逢(お)うた」
「へええ」
「博士と云うとえらいものじゃろな」
「ええ。えらいんでしょう」
「画工にも博士がありそうなものじゃがな。なぜ無いだろう」
「そういえば、和尚さんの方にも博士がなけりゃならないでしょう」
「ハハハハまあ、そんなものかな。――何とか云う人じゃったて、この間逢うた人は――どこぞに名刺があるはずだが……」
「どこで御逢いです、東京ですか」
「いやここで、東京へは、も二十年も出ん。近頃は電車とか云うものが出来たそうじゃが、ちょっと乗って見たいような気がする」
「つまらんものですよ。やかましくって」
「そうかな。蜀犬(しょっけん)日に吠(ほ)え、呉牛(ごぎゅう)月に喘(あえ)ぐと云うから、わしのような田舎者(いなかもの)は、かえって困るかも知れんてのう」
「困りゃしませんがね。つまらんですよ」
「そうかな」
 鉄瓶(てつびん)の口から煙が盛(さかん)に出る。和尚(おしょう)は茶箪笥(ちゃだんす)から茶器を取り出して、茶を注(つ)いでくれる。
「番茶を一つ御上(おあが)り。志保田の隠居さんのような甘(うま)い茶じゃない」
「いえ結構です」
「あなたは、そうやって、方々あるくように見受けるがやはり画(え)をかくためかの」
「ええ。道具だけは持ってあるきますが、画はかかないでも構わないんです」
「はあ、それじゃ遊び半分かの」
「そうですね。そう云っても善(い)いでしょう。屁(へ)の勘定(かんじょう)をされるのが、いやですからね」
 さすがの禅僧も、この語だけは解(げ)しかねたと見える。
「屁の勘定た何かな」
「東京に永くいると屁の勘定をされますよ」
「どうして」
「ハハハハハ勘定だけならいいですが。人の屁を分析して、臀(しり)の穴が三角だの、四角だのって余計な事をやりますよ」
「はあ、やはり衛生の方かな」
「衛生じゃありません。探偵(たんてい)の方です」
「探偵? なるほど、それじゃ警察じゃの。いったい警察の、巡査のて、何の役に立つかの。なけりゃならんかいの」
「そうですね、画工(えかき)には入(い)りませんね」
「わしにも入らんがな。わしはまだ巡査の厄介(やっかい)になった事がない」
「そうでしょう」
「しかし、いくら警察が屁の勘定をしたてて、構わんがな。澄(す)ましていたら。自分にわるい事がなけりゃ、なんぼ警察じゃて、どうもなるまいがな」
「屁くらいで、どうかされちゃたまりません」
「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑(ぞうふ)をさらけ出して、恥ずかしくないようにしなければ修業を積んだとは云われんてな。あなたもそれまで修業をしたらよかろ。旅などはせんでも済むようになる」
「画工になり澄ませば、いつでもそうなれます」
「それじゃ画工になり澄したらよかろ」
「屁の勘定をされちゃ、なり切れませんよ」
「ハハハハ。それ御覧。あの、あなたの泊(とま)っている、志保田の御那美さんも、嫁に入(い)って帰ってきてから、どうもいろいろな事が気になってならん、ならんと云うてしまいにとうとう、わしの所へ法(ほう)を問いに来たじゃて。ところが近頃はだいぶ出来てきて、そら、御覧。あのような訳(わけ)のわかった女になったじゃて」
「へええ、どうもただの女じゃないと思いました」
「いやなかなか機鋒(きほう)の鋭(する)どい女で――わしの所へ修業に来ていた泰安(たいあん)と云う若僧(にゃくそう)も、あの女のために、ふとした事から大事(だいじ)を窮明(きゅうめい)せんならん因縁(いんねん)に逢着(ほうちゃく)して――今によい智識(ちしき)になるようじゃ」
 静かな庭に、松の影が落ちる、遠くの海は、空の光りに応(こた)うるがごとく、応えざるがごとく、有耶無耶(うやむや)のうちに微(かす)かなる、耀(かがや)きを放つ。漁火(いさりび)は明滅す。
「あの松の影を御覧」
「奇麗(きれい)ですな」
「ただ奇麗かな」
「ええ」
「奇麗な上に、風が吹いても苦にしない」
 茶碗に余った渋茶を飲み干して、糸底(いとぞこ)を上に、茶托(ちゃたく)へ伏せて、立ち上る。
「門まで送ってあげよう。りょううねええん。御客が御帰(おかえり)だぞよ」
 送られて、庫裏(くり)を出ると、鳩がくううくううと鳴く。
「鳩ほど可愛いものはない、わしが、手をたたくと、みな飛んでくる。呼んで見よか」
 月はいよいよ明るい。しんしんとして、木蓮(もくれん)は幾朶(いくだ)の雲華(うんげ)を空裏(くうり)に□(ささ)げている。□寥(けつりょう)たる春夜(しゅんや)の真中(まなか)に、和尚ははたと掌(たなごころ)を拍(う)つ。声は風中(ふうちゅう)に死して一羽の鳩も下りぬ。
「下りんかいな。下りそうなものじゃが」
 了念は余の顔を見て、ちょっと笑った。和尚は鳩の眼が夜でも見えると思うているらしい。気楽なものだ。
 山門の所で、余は二人に別れる。見返えると、大きな丸い影と、小さな丸い影が、石甃(いしだたみ)の上に落ちて、前後して庫裏の方に消えて行く。

        十二

 基督(キリスト)は最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー・ワイルドの説と記憶している。基督は知らず。観海寺の和尚(おしょう)のごときは、まさしくこの資格を有していると思う。趣味があると云う意味ではない。時勢に通じていると云う訳でもない。彼は画(え)と云う名のほとんど下(くだ)すべからざる達磨(だるま)の幅(ふく)を掛けて、ようできたなどと得意である。彼は画工(えかき)に博士があるものと心得ている。彼は鳩の眼を夜でも利(き)くものと思っている。それにも関(かか)わらず、芸術家の資格があると云う。彼の心は底のない嚢(ふくろ)のように行き抜けである。何にも停滞(ていたい)しておらん。随処(ずいしょ)に動き去り、任意(にんい)に作(な)し去って、些(さ)の塵滓(じんし)の腹部に沈澱(ちんでん)する景色(けしき)がない。もし彼の脳裏(のうり)に一点の趣味を貼(ちょう)し得たならば、彼は之(ゆ)く所に同化して、行屎走尿(こうしそうにょう)の際にも、完全たる芸術家として存在し得るだろう。余のごときは、探偵に屁(へ)の数を勘定(かんじょう)される間は、とうてい画家にはなれない。画架(がか)に向う事は出来る。小手板(こていた)を握る事は出来る。しかし画工にはなれない。こうやって、名も知らぬ山里へ来て、暮れんとする春色(しゅんしょく)のなかに五尺の痩躯(そうく)を埋(うず)めつくして、始めて、真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである。一たびこの境界(きょうがい)に入れば美の天下はわが有に帰する。尺素(せきそ)を染めず、寸□(すんけん)を塗らざるも、われは第一流の大画工である。技(ぎ)において、ミケルアンゼロに及ばず、巧(たく)みなる事ラフハエルに譲る事ありとも、芸術家たるの人格において、古今の大家と歩武(ほぶ)を斉(ひとし)ゅうして、毫(ごう)も遜(ゆず)るところを見出し得ない。余はこの温泉場へ来てから、まだ一枚の画(え)もかかない。絵の具箱は酔興(すいきょう)に、担(かつ)いできたかの感さえある。人はあれでも画家かと嗤(わら)うかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。立派な画家である。こう云う境(きょう)を得たものが、名画をかくとは限らん。しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。
 朝飯(あさめし)をすまして、一本の敷島(しきしま)をゆたかに吹かしたるときの余の観想は以上のごとくである。日は霞(かすみ)を離れて高く上(のぼ)っている。障子(しょうじ)をあけて、後(うし)ろの山を眺(なが)めたら、蒼(あお)い樹(き)が非常にすき通って、例になく鮮(あざ)やかに見えた。
 余は常に空気と、物象と、彩色の関係を宇宙(よのなか)でもっとも興味ある研究の一と考えている。色を主にして空気を出すか、物を主にして、空気をかくか。または空気を主にしてそのうちに色と物とを織り出すか。画は少しの気合(きあい)一つでいろいろな調子が出る。この調子は画家自身の嗜好(しこう)で異なってくる。それは無論であるが、時と場所とで、自(おの)ずから制限されるのもまた当前(とうぜん)である。英国人のかいた山水(さんすい)に明るいものは一つもない。明るい画が嫌(きらい)なのかも知れぬが、よし好きであっても、あの空気では、どうする事も出来ない。同じ英人でもグーダルなどは色の調子がまるで違う。違うはずである。彼は英人でありながら、かつて英国の景色(けいしょく)をかいた事がない。彼の画題は彼の郷土にはない。彼の本国に比すると、空気の透明の度の非常に勝(まさ)っている、埃及(エジプト)または波斯辺(ペルシャへん)の光景のみを択(えら)んでいる。したがって彼のかいた画を、始めて見ると誰も驚ろく。英人にもこんな明かな色を出すものがあるかと疑うくらい判然(はっきり)出来上っている。
 個人の嗜好(しこう)はどうする事も出来ん。しかし日本の山水を描くのが主意であるならば、吾々(われわれ)もまた日本固有の空気と色を出さなければならん。いくら仏蘭西(フランス)の絵がうまいと云って、その色をそのままに写して、これが日本の景色(けいしょく)だとは云われない。やはり面(ま)のあたり自然に接して、朝な夕なに雲容煙態(うんようえんたい)を研究したあげく、あの色こそと思ったとき、すぐ三脚几(さんきゃくき)を担いで飛び出さなければならん。色は刹那(せつな)に移る。一たび機を失(しっ)すれば、同じ色は容易に眼には落ちぬ。余が今見上げた山の端(は)には、滅多(めった)にこの辺で見る事の出来ないほどな好(い)い色が充(み)ちている。せっかく来て、あれを逃(にが)すのは惜しいものだ。ちょっと写してきよう。
 襖(ふすま)をあけて、椽側(えんがわ)へ出ると、向う二階の障子(しょうじ)に身を倚(も)たして、那美さんが立っている。顋(あご)を襟(えり)のなかへ埋(うず)めて、横顔だけしか見えぬ。余が挨拶(あいさつ)をしようと思う途端(とたん)に、女は、左の手を落としたまま、右の手を風のごとく動かした。閃(ひらめ)くは稲妻(いなずま)か、二折(ふたお)れ三折(みお)れ胸のあたりを、するりと走るや否(いな)や、かちりと音がして、閃めきはすぐ消えた。女の左り手には九寸(すん)五分(ぶ)の白鞘(しらさや)がある。姿はたちまち障子の影に隠れた。余は朝っぱらから歌舞伎座(かぶきざ)を覗(のぞ)いた気で宿を出る。
 門を出て、左へ切れると、すぐ岨道(そばみち)つづきの、爪上(つまあが)りになる。鶯(うぐいす)が所々(ところどころ)で鳴く。左り手がなだらかな谷へ落ちて、蜜柑(みかん)が一面に植えてある。右には高からぬ岡が二つほど並んで、ここにもあるは蜜柑のみと思われる。何年前か一度この地に来た。指を折るのも面倒だ。何でも寒い師走(しわす)の頃であった。その時蜜柑山に蜜柑がべた生(な)りに生る景色を始めて見た。蜜柑取りに一枝売ってくれと云ったら、幾顆(いくつ)でも上げますよ、持っていらっしゃいと答えて、樹(き)の上で妙な節(ふし)の唄(うた)をうたい出した。東京では蜜柑の皮でさえ薬種屋(やくしゅや)へ買いに行かねばならぬのにと思った。夜になると、しきりに銃(つつ)の音がする。何だと聞いたら、猟師(りょうし)が鴨(かも)をとるんだと教えてくれた。その時は那美さんの、なの字も知らずに済んだ。
 あの女を役者にしたら、立派な女形(おんながた)が出来る。普通の役者は、舞台へ出ると、よそ行きの芸をする。あの女は家のなかで、常住(じょうじゅう)芝居をしている。しかも芝居をしているとは気がつかん。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:211 KB

担当:undef