坑夫
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著者名:夏目漱石 

みしりと音がするほど、関節が窮屈に硬張(こわば)って、動きたがらない。じっとして、布団の中に膝頭(ひざがしら)を横たえていると、倦怠(だるい)のを通り越して重い。腿(もも)から下を切り取って、その代りに筋金入(すじがねい)りの義足をつけられたように重い。まるで感覚のある二本の棒である。自分は冷たくって重たい足を苦(く)に病(や)んで、頭を布団の中に突っ込んだ。せめて頭だけでも暖(あったか)にしたら、足の方でも折れ合ってくれるだろうとの、はかない望みから出た窮策であった。
 しかしさすがに疲れている。寒さよりも、足よりも、布団の臭(にお)いよりも、煩悶(はんもん)よりも、厭世(えんせ)よりも――疲れている。実に死ぬ方が楽(らく)なほど疲れ切っていた。それで、横になるとすぐ――畳から足を引っ込まして、頭を布団に入れるだけの所作(しょさ)を仕遂(しと)げたと思うが早いか、眠(ね)てしまった。ぐうぐう正体なく眠てしまった。これから先きは自分の事ながらとうてい書けない。……
 すると、突然針で背中を刺された。夢に刺されたのか、起きていて、刺されたのか、感じはすこぶる曖昧(あいまい)であった。だからそれだけの事ならば、針だろうが刺(とげ)だろうが、頓着(とんじゃく)はなかったろう。正気の針を夢の中に引摺(ひきず)り込んで、夢の中の刺を前後不覚の床(とこ)の下に埋(うず)めてしまう分の事である。ところがそうは行かなかった。と云うものは、刺されたなと思いながらも、針の事を忘れるほどにうっとりとなると、また一つ、ちくりとやられた。
 今度は大きな眼を開(あ)いた。ところへまたちくりと来た。おやと驚く途端(とたん)にまたちくりと刺した。これは大変だとようやく気がつきがけに、飛び上るほど劇(はげ)しく股(もも)の辺(あたり)をやられた。自分はこの時始めて、普通の人間に帰った。そうして身体中(からだじゅう)至る所がちくちくしているのを発見した。そこでそっと襯衣(シャツ)の間から手を入れて、背中を撫(な)でて見ると、一面にざらざらする。最初指先が肌に触れた時は、てっきり劇烈な皮膚病に罹(かか)ったんだと思った。ところが指を肌に着けたまま、二三寸引いて見ると、何だか、ばらばらと落ちた。これはただ事でないとたちまち跳(は)ね起きて、襯衣一枚の見苦しい姿ながら囲炉裏(いろり)の傍(そば)へ行って、親指と人差指の間に押えた、米粒ほどのものを、検査して見ると、異様の虫であった。実はこの時分には、まだ南京虫(ナンキンむし)を見た事がないんだから、はたしてこれがそうだとは断言出来なかったが――何だか直覚的に南京虫らしいと思った。こう云う下卑(げび)た所に直覚の二字を濫用(らんよう)しては済まんが、ほかに言葉がないから、やむを得ず高尚な術語を使った。さてその虫を検査しているうちに、非常に悪(にく)らしくなって来た。囲炉裏の縁(ふち)へ乗せて、ぴちりと親指の爪で圧(お)し潰(つぶ)したら、云うに云われぬ青臭い虫であった。この青臭い臭気(におい)を嗅(か)ぐと、何となく好い心持になる。――自分はこんな醜い事を真面目(まじめ)にかかねばならぬほど狂違染(きちがいじ)みていた。実を云うと、この青臭い臭気を嗅ぐまでは、恨(うらみ)を霽(は)らしたような気がしなかったのである。それだから捕(と)っては潰し、捕っては潰し、潰すたんびに親指の爪を鼻へあてがって嗅いでいた。すると鼻の奥へ詰って来た。今にも涙が出そうになる。非常に情(なさけ)ない。それだのに、爪を嗅ぐと愉快である。この時二階下で大勢が一度にどっと笑う声がした。自分は急に虫を潰すのをやめた。広間を見渡すと誰もいない。金さんだけが、平たくなって静かに寝ている。頭も足も見えない。そのほかにたった一人いた。もっとも始めて気がついた時は人間とは思わなかった。向うの柱の中途から、窓の敷居へかけて、帆木綿(ほもめん)のようなものを白く渡して、その幅のなかに包まっていたから、何だか気味が悪かった。しかしよく見ると、白い中から黒いものが斜(はす)に出ている。そうしてそれが人間の毬栗頭(いがぐりあたま)であった。――広い部屋には、自分とこの二人を除(のぞ)いて、誰もいない。ただ電気灯がかんかん点(つ)いている。大変静かだ、と思うとまた下座敷でわっと笑った。さっきの連中か、または作業を済まして帰って来たものが、大勢寄ってふざけ散らしているに違ない。自分はぼんやりして布団のある所まで帰って来た。そうして裸体(はだか)になって、襯衣を振るって、枕元にある着物を着て、帯を締めて、一番しまいに敷いてある布団を叮嚀(ていねい)に畳んで戸棚へ入れた。それから後(あと)はどうして好いか分らない。時間は何時(なんじ)だか、夜(よ)はとうていまだ明けそうにしない。腕組をして立って考えていると、足の甲がまたむずむずする。自分は堪(こら)え切れずに、
「えっ畜生」
と云いながら二三度小踊をした。それから、右の足の甲で、左の上を擦(こす)って、左の足の甲で右の上を擦って、これでもかと歯軋(はぎしり)をした。しかし表へ飛び出す訳にも行かず、寝る勇気はなし、と云って、下へ降りて、車座の中へ割り込んで見る元気は固(もとよ)りない。さっき毒突(どくづ)かれた事を思い出すと、南京虫よりよっぽど厭(いや)だ。夜が明ければいい、夜が明ければいいと思いながら、自分は表へ向いた窓の方へ歩いて行った。するとそこに柱があった。自分は立ちながら、この柱に倚(よ)っ掛った。背中をつけて腰を浮かして、足の裏で身体を持たしていると、両足がずるずる畳の目を滑(すべ)ってだんだん遠くへ行っちまう。それからまた真直(まっすぐ)に立つ。またずるずる滑(すべ)る。また立つ。まずこんな事をしていた。幸い南京虫(ナンキンむし)は出て来なかった。下では時々どっと笑う。
 いても立ってもと云うのは喩(たとえ)だが、そのいても立ってもを、実際に経験したのはこの時である。だから坐るとも立つとも方(かた)のつかない運動をして、中途半端に紛(まぎ)らかしていた。ところがその運動をいつまで根気(こんき)にやったものか覚えていない。いとど疲れている上に、なお手足を疲らして、いかな南京虫でも応(こた)えないほど疲れ切ったんで、始めて寝たもんだろう。夜が明けたら、自分が摺(ず)り落ちた柱の下に、足だけ延ばして、背を丸く蹲踞(うずくま)っていた。
 これほど苦しめられた南京虫も、二日三日と過(た)つにつれて、だんだん痛くなくなったのは妙である。その実、一箇月ばかりしたら、いくら南京虫がいようと、まるで米粒でも、ぞろぞろ転がってるくらいに思って、夜はいつでも、ぐっすり安眠した。もっとも南京虫の方でも日数(ひかず)を積むに従って遠慮してくるそうである。その証拠には新来(きたて)のお客には、べた一面にたかって、夜通し苛(いじ)めるが、少し辛抱していると、向うから、愛想(あいそ)をつかして、あまり寄りつかなくなるもんだと云う。毎日食ってる人間の肉は自然鼻につくからだとも教えたものがあるし、いや肉の方にそれだけの品格が出来て、シキ臭くなるから、虫も恐れ入るんだとも説明したものがある。そうして見るとこの南京虫と坑夫とは、性質(たち)がよく似ている。おそらく坑夫ばかりじゃあるまい、一般の人類の傾向と、この南京虫とはやはり同様の心理に支配されてるんだろう。だからこの解釈は人間と虫けらを概括(がいかつ)するところに面白味があって、哲学者の喜びそうな、美しいものであるが、自分の考えを云うと全くそうじゃないらしい。虫の方で気兼(きがね)をしたり、贅沢(ぜいたく)を云ったりするんじゃなくって、食われる人間の方で習慣の結果、無神経になるんだろうと思う。虫は依然として食ってるが、食われても平気でいるに違ない、もっとも食われて感じないのも、食われなくって感じないのも、趣(おもむき)こそ違え、結果は同じ事であるから、これは実際上議論をしても、あまり役に立たない話である。
 そんな無用の弁は、どうでもいいとして、自分が眼を開けて見たら、夜は全く明け放れていた。下ではもうがやがや云っている。嬉しかった。窓から首を出して見ると、また雨だ。もっとも判然(はっきり)とは降っていない。雲の濃いのが糸になり損(そく)なって、なっただけが、細く地へ落ちる気色(けしき)だ。だからむやみに濛々(もうもう)とはしていない。しだいしだいに雨の方に片づいて、片づくに従って糸の間が透(す)いて見える。と云っても見えるものは山ばかりである。しかも草も木も至って乏(とぼ)しい、潤(うるおい)のない山である。これが夏の日に照りつけられたら、山の奥でもさぞ暑かろうと思われるほど赤く禿(は)げてぐるりと自分を取り捲(ま)いている。そうして残らず雨に濡(ぬ)れている。潤い気(け)のないものが、濡れているんだから、土器(かわらけ)に霧を吹いたように、いくら濡れても濡れ足りない。その癖寒い気持がする。それで自分は首を引っ込めようとしたら、ちょっと眼についた。――手拭(てぬぐい)を被(かぶ)って、藁(わら)を腰に当てて、筒服(つつっぽう)を着た男が二三人、向うの石垣の下にあらわれた。ちょうど昨日(きのう)ジャンボーの通った路を逆に歩いて来る。遠くから見ると、いかにもしょぼしょぼして気の毒なほど憐れである。自分も今朝からああなるんだなと、ふと気がついて見ると、人事(ひとごと)とは思われないほど、向(むこう)へ行く手拭(てぬぐい)の影――雨に濡(ぬ)れた手拭の影が情(なさけ)なかった。すると雨の間からまた古帽子が出て来た。その後(あと)からまた筒袖姿(つつそですがた)があらわれた。何でも朝の番に当った坑夫がシキへ這入(はい)る時間に相違ない。自分はようやく窓から首を引き込めた。すると、下から五六人一度にどやどやと階下段(はしごだん)を上(あが)って来る。来たなと思ったが仕方がないから懐手(ふところで)をして、柱にもたれていた。五六人は見る間に、同じ出立(いでたち)に着更えて下りて行った。後(あと)からまた上がってくる。また筒袖になって下りて行く。とうとう飯場(はんば)にいる当番はことごとく出払ったようだ
 こう飯場中活動して来ると、自分も安閑としちゃいられない。と云って誰も顔を御洗いなさいとも、御飯を御上がんなさいとも云いに来てくれない。いかな坊っちゃんも、あまり手持無沙汰(てもちぶさた)過ぎて困っちまったから、思い切って、のこのこ下りて行った。心は無論落ついちゃいないが、態度だけはまるで宿屋へ泊って、茶代を置いた御客のようであった。いくら恐縮しても自分には、これより以外の態度が出来ないんだから全くの生息子(きむすこ)である。下りて見ると例の婆さんが、襷(たすき)がけをして、草鞋(わらじ)を一足ぶら下げて奥から駆けて来たところへ、ばったり出逢(であ)った。
「顔はどこで洗うんですか」
と聞くと、婆さんは、ちょっと自分を見たなりで、
「あっち」
と云い捨てて門口(かどぐち)の方へ行った。まるで相手にしちゃいない。自分にはあっちの見当(けんとう)がわからなかったが、とにかく婆さんの出て来た方角だろうと思って、奥の方へ歩いて行ったら、大きな台所へ出た。真中に四斗樽(しとだる)を輪切にしたようなお櫃(はち)が据(す)えてある。あの中に南京米(ナンキンまい)の炊(た)いたのがいっぱい詰ってるのかと思ったら、――何しろ自分が三度三度一箇月食っても食い切れないほどの南京米なんだから、食わない前からうんざりしちまった。――顔を洗う所も見つけた。台所を下りて長い流の前へ立って、冷たい水で、申し訳のために頬辺(ほっぺた)を撫(な)でて置いた。こうなると叮嚀(ていねい)に顔なんか洗うのは馬鹿馬鹿しくなる。これが一歩進むと、顔は洗わなくっても宜(い)いものと度胸が坐ってくるんだろう。昨日(きのう)の赤毛布(あかげっと)や小僧は全くこう云う順序を踏んで進化したものに違ない。
 顔はようやく自力で洗った。飯はどうなる事かと、またのそのそ台所へ上(あが)った。ところへ幸(さいわ)い婆さんが表から帰って来て膳立(ぜんだ)てをしてくれた。ありがたい事に味噌汁(みそしる)がついていたんで、こいつを南京米の上から、ざっと掛けて、ざくざくと掻(か)き込んだんで、今度(こんだ)は壁土の味を噛(か)み分(わけ)ないで済んだ。すると婆さんが、
「御飯(おまんま)が済んだら、初(はつ)さんがシキへ連れて行くって待ってるから、早くおいでなさい」
と、箸(はし)も置かない先から急(せ)き立てる。実はもう一杯くらい食わないと身体(からだ)が持つまいと思ってたところだが、こう催促されて見ると、無論御代りなんか盛(よそ)う必要はない。自分は、
「はあ、そうですか」
と立ち上がった。表へ出て見ると、なるほど上(あが)り口(くち)に一人掛けている。自分の顔を見て、
「御前(おめえ)か、シキへ行くなあ」
と、石でもぶっ欠くような勢いで聞いた。
「ええ」
と素直に答えたら、
「じゃ、いっしょに来ねえ」
と云う。
「この服装(なり)でも好いんですか」
と叮嚀(ていねい)に聞き返すと、
「いけねえ、いけねえ。そんな服装で這入(へえ)れるもんか。ここへ親分とこから一枚(いちめえ)借りて来てやったから、此服(こいつ)を着るがいい」
と云いながら、例の筒袖(つつそで)を抛(ほう)り出した。
「そいつが上だ。こいつが股引(ももひき)だ。そら」
とまた股引を抛(な)げつけた。取りあげて見ると、じめじめする。所々に泥が着いている。地(じ)は小倉(こくら)らしい。自分もとうとうこの御仕着(おしきせ)を着る始末になったんだなと思いながら、絣(かすり)を脱いで上下(うえした)とも紺揃(こんぞろい)になった。ちょっと見ると内閣の小使のようだが、心持から云うと、小使を拝命した時よりも遥(はるか)に不景気であった。これで支度(したく)は出来たものと思込んで土間へ下りると、
「おっと待った」
と、初さんがまた勇み肌の声を掛けた。
「これを尻(けつ)の所へ当てるんだ」
 初さんが出してくれたものを見ると、三斗俵坊(さんだらぼ)っちのような藁布団(わらぶとん)に紐(ひも)をつけた変挺(へんてこ)なものだ。自分は初さんの云う通り、これを臀部(でんぶ)へ縛(しば)りつけた。
「それが、アテシコだ。好(よ)しか。それから鑿(のみ)だ。こいつを腰ん所へ差してと……」
 初さんの出した鑿を受け取って見ると、長さ一尺四五寸もあろうと云う鉄の棒で、先が少し尖(とが)っている。これを腰へ差す。
「ついでにこれも差すんだ。少し重いぜ。大丈夫か。しっかり受け取らねえと怪我をする」
 なるほど重い。こんな槌(つち)を差してよく坑(あな)の中が歩けるもんだと思う。
「どうだ重いか」
「ええ」
「それでも軽いうちだ。重いのになると五斤ある。――いいか、差せたか、そこでちょっと腰を振って見な。大丈夫か。大丈夫ならこれを提(さ)げるんだ」
とカンテラを出しかけたが、
「待ったり。カンテラの前に一つ草鞋(わらじ)を穿(は)いちまいねえ」
 草鞋(わらじ)の新しいのが、上り口にある。さっき婆さんが振(ぶ)ら下げてたのは、大方これだろう。自分は素足(すあし)の上へ草鞋を穿(は)いた。緒(お)を踵(かかと)へ通してぐっと引くと、
「駑癡(どじ)だなあ。そんなに締める奴があるかい。もっと指(いび)の股を寛(ゆる)めろい」
と叱られた。叱られながら、どうにか、こうにか穿いてしまう。
「さあ、これでいよいよおしまいだ」
と初さんは饅頭笠(まんじゅうがさ)とカンテラを渡した。饅頭笠と云うのか筍笠(たけのこがさ)というのか知らないが、何でも懲役人の被(かぶ)るような笠であった。その笠を神妙(しんびょう)に被る。それからカンテラを提(さ)げる。このカンテラは提げるようにできている。恰好(かっこう)は二合入りの石油缶(せきゆかん)とも云うべきもので、そこへ油を注(さ)す口と、心(しん)を出す孔(あな)が開(あ)いてる上に、細長い管(くだ)が食っついて、その管の先がちょっと横へ曲がると、すぐ膨(ふく)らんだカップになる。このカップへ親指を突っ込んで、その親指の力で提げるんだから、指五本の代りに一本で事を済ますはなはだ実用的のものである。
「こう、穿(は)めるんだ」
と初さんが、勝栗(かちぐり)のような親指を、カンテラの孔の中へ突込(つっこ)んだ。旨(うま)い具合にはまる。
「そうら」
 初さんは指一本で、カンテラを柱時計の振子のように、二三度振って見せた。なかなか落ちない。そこで自分も、同じように、調子をとって揺(うごか)して見たがやっぱり落ちなかった。
「そうだ。なかなか器用だ。じゃ行くぜ、いいか」
「ええ、好(よ)ござんす」
 自分は初さんに連れられて表へ出た。所が降っている。一番先へ笠(かさ)へあたった。仰向(あおむ)いて、空模様を見ようとしたら、顎(あご)と、口と、鼻へぽつぽつとあたった。それからあとは、肩へもあたる。足へもあたる。少し歩くうちには、身体中じめじめして、肌へ抜けた湿気が、皮膚の活気で蒸(む)し返される。しかし雨の方が寒いんで、身体のほとぼりがだんだん冷(さ)めて行くような心持であったが、坂へかかると初さんがむやみに急ぎ出したんで、濡(ぬ)れながらも、毛穴から、雨を弾(はじ)き出す勢いで、とうとうシキの入口まで来た。
 入口はまず汽車の隧道(トンネル)の大きいものと云って宜(よろ)しい。蒲鉾形(かまぼこなり)の天辺(てっぺん)は二間くらいの高さはあるだろう。中から軌道が出て来るところも汽車の隧道(トンネル)に似ている。これは電車が通う路なんだそうだ。自分は入口の前に立って、奥の方を透(す)かして見た。奥は暗かった。
「どうだここが地獄の入口だ。這入(はい)れるか」
と初さんが聞いた。何だか嘲弄(ちょうろう)の語気を帯びている。さっき飯場(はんば)を出て、ここまで来る途中でも、方々の長屋の窓から首を出して、
「昨日(きのう)のだ」
「新来(しんき)だ」
と口々に罵(ののし)っていたが、その様子を見ると単に山の中に閉じ込められて物珍らしさの好奇心とは思えなかった。その言葉の奥底にはきっと愚弄(ぐろう)の意味がある。これを布衍(ふえん)して云うと、一つには貴様もとうとうこんな所へ転げ込んで来た、いい気味だ、ざまあ見ろと云う事になる。もう一つは御気の毒だが来たって駄目だよ。そんな脂(やに)っこい身体(からだ)で何が勤まるものかと云う事にもなる。だから「昨日(きのう)のだ」「新来(しんき)だ」と騒ぐうちには、自分が彼らと同様の苦痛を甞(な)めなければならないほど堕落したのを快く感ずると共に、とうていこの苦痛には堪(た)えがたい奴だとの軽蔑(けいべつ)さえ加わっている。彼らは他人(ひと)を彼らと同程度に引き摺(ず)り落して喝采(かっさい)するのみか、ひとたび引き摺り落したものを、もう一返(いっぺん)足の下まで蹴落(けおと)して、堕落は同程度だが、堕落に堪(た)える力は彼らの方がかえって上だとの自信をほのめかして満足するらしい。自分は途上(みちみち)「昨日のだ」と聞くたんびに、懲役笠(ちょうえきがさ)で顔を半分隠しながら通り抜けて、シキの入口まで来た。そこで初さんがまた愚弄(ぐろう)したんだから、自分は少しむっとして、
「這入(はい)れますとも。電車さえ通(かよ)ってるじゃありませんか」
と答えた。すると初さんが、
「なに這入れる? 豪義(ごうぎ)な事を云うない」
と云った。ここで「這入れません」と恐れ入ったら、「それ見ろ」と直(すぐ)こなされるにきまってる。どっちへ転んでも駄目なんだから別に後悔もしなかった。初さんは、いきなり、シキの中へ飛び込んだ。自分も続いて這入った。這入って見ると、思ったよりも急に暗くなる。何だか足元がおっかなくなり出したには降参した。雨が降っていても外は明かるいものだ。その上軌道(レール)の上はとにかく、両側はすこぶる泥(ぬか)っている。それだのに初さんは中(ちゅう)っ腹(ぱら)でずんずん行く。自分も負けない気でずんずん行く。
「シキの中でおとなしくしねえと、すのこの中へ抛(ほう)り込まれるから、用心しなくっちゃあいけねえ」
と云いながら初さんは突然暗い中で立ち留(どま)った。初さんの腰には鑿(のみ)がある。五斤の槌(つち)がある。自分は暗い中で小さくなって、
「はい」
と返事をした。
「よしか、分ったか。生きて出る料簡(りょうけん)なら生意気にシキなんかへ這入らねえ方が増しだ」
 これは向うむきになって、初さんが歩き出した時に、半分は独(ひと)り言(ごと)のように話した言葉である。自分は少からず驚いた。坑(あな)の中は反響が強いので、初さんの言葉がわんわんわんと自分の耳へ跳(は)ねっ返って来る。はたして初さんの言う通りなら、飛んだ所へ這入ったもんだ。実は死ぬのも同然な職業であればこそ坑夫になろうと云う気も起して見たんだが、本当に死ぬなら――こんな怖(こわ)い商売なら――殺されるんなら――すのこの中へ抛(な)げ込まれるなら――すのことは全体どんなもんだろうと思い出した。
「すのことはどんなもんですか」
「なに?」
と初さんが後(うしろ)を振り向いた。
「すのことはどんなもんですか」
「穴だ」
「え?」
「穴だよ。――鉱(あらがね)を抛(ほう)り込んで、纏(まと)めて下へ降(さ)げる穴だ。鉱といっしょに抛り込まれて見ねえ……」
で言葉を切ってまたずんずん行く。
 自分はちょっと立ち留った。振り返ると、入口が小さい月のように見える。這入(はい)るときは、これがシキならと思った。聞いたほどでもないと思った。ところが初さんに威嚇(おど)かされてから、いかな平凡な隧道(トンネル)も、大いに容子(ようす)が変って来た。懲役笠(ちょうえきがさ)をたたく冷たい雨が恋しくなった。そこで振り返ると、入口が小さい月のように見える。小さい月のように見えるほど奥へ這入ったなと、振り返って始めて気がついた。いくら曇っていてもやっぱり外が懐(なつ)かしい。真黒な天井(てんじょう)が上から抑(おさ)えつけてるのは心持のわるいものだ。しかもこの天井がだんだん低くなって来るように感ぜられる。と思うと、軌道(レール)を横へ切れて、右へ曲った。だらだら坂の下りになる。もう入口は見えない。振返っても真暗だ。小さい月のような浮世の窓は遠慮なくぴしゃりと閉って、初さんと自分はだんだん下の方へ降りて行く。降りながら手を延ばして壁へ触(さわ)って見ると、雨が降ったように濡(ぬ)れている。
「どうだ、尾(つ)いて来るか」
と、初さんが聞いた。
「ええ」
とおとなしく答えたら、
「もう少しで地獄の三丁目へ来る」
と云ったなり、また二人とも無言になった。この時行く手の方(かた)に一点の灯(あかり)が見えた。暗闇(くらやみ)の中の黒猫の片眼のように光ってる。カンテラの灯(ひ)なら散らつくはずだが、ちっとも動かない。距離もよく分らない。方角も真直(まっすぐ)じゃないが、とにかく見える。もし坑(あな)の中が一本道だとすれば、この灯を目懸(めが)けて、初さんも自分も進んで行くに違ない。自分は何にも聞かなかったが、大方これが地獄の三丁目なんだろうと思って、這入って行った。すると、だらだら坂がようやく尽きた。路は平らに向うへ廻り込む。その突き当りに例の灯(ひ)が点(つ)いている。さっきは鼻の下に見えたが、今では眼と擦々(すれすれ)の所まで来た。距離も間近くなった。
「いよいよ三丁目へ着いた」
と、初さんが云う。着いて見ると、坑(あな)が四五畳ほどの大(おおき)さに広がって、そこに交番くらいな小屋がある。そうしてその中に電気灯が点いている。洋服を着た役人が二人ほど、椅子の対(むか)い合せに洋卓(テーブル)を隔てて腰を掛けていた。表(おもて)には第一見張所とあった。これは坑夫の出入(でいり)だの労働の時間だのを検査する所だと後から聞いて、始めて分ったんだが、その当時には何のための設備だか知らなかったもんだから、六七人の坑夫が、どす黒い顔を揃(そろ)えて無言のまま、見張所の前に立っていたのを不審に思った。これは時間を待ち合わして交替するためである。自分は腰に鑿(のみ)と槌(つち)を差してカンテラさえ提(さ)げてはいるが、坑夫志願というんで、シキの様子を見に這入っただけだから、まだ見習にさえ採用されていないと云う訳で、待ち合わす必要もないものと見えて、すぐこの溜(たまり)を通り越した。その時初さんが見張所の硝子窓(ガラスまど)へ首を突っ込んで、ちょいと役人に断(ことわ)ったが、役人は別に自分の方を見向もしなかった。その代り立っていた坑夫はみんな見た。しかし役人の前を憚(はばか)ってだろう、全く一言(ひとこと)も口を利(き)いたものはなかった。
 溜を出るや否や坑(あな)の様子が突然変った。今までは立ってあるいても、背延(せいの)びをしても届きそうにもしなかった天井が急に落ちて来て、真直(まっすぐ)に歩くと時々頭へ触(さわ)るような気持がする。これがものの二寸も低かろうものなら、岩へぶつかって眉間(みけん)から血が出るに違ないと思うと、松原をあるくように、ありったけの背で、野風雑(のふうぞう)にゃやって行けない。おっかないから、なるべく首を肩の中へ縮め込んで、初さんに食っついて行った。もっともカンテラはさっき点(つ)けた。
 すると三尺ばかり前にいる初さんが急に四(よつ)ん這(ば)いになった。おや、滑(すべ)って転んだ。と思って、後(うしろ)から突っ掛かりそうなところを、ぐっと足を踏ん張った。このくらいにして喰い留めないと、坂だから、前へのめる恐(おそれ)がある。心持腰から上を反(そ)らすようにして、初さんの起きるのを待ち合わしていると、初さんはなかなか起きない。やっぱり這(は)っている。
「どうか、しましたか」
と後から聞いた。初さんは返事もしない。――はてな――怪我でもしやしないかしら――もう一遍聞いて見ようか――すると初さんはのこのこ歩き出した。
「何ともなかったですか」
「這うんだ」
「え?」
「這うのだてえ事よ」
と初さんの声はだんだん遠くなってしまう。その声で自分は不審を打った。いくら向うむきでも、普通なら明かに聞きとられべき距離から出るのに、急に潜(もぐ)ってしまう。声が細いんじゃない。当り前の初さんの声が袋のなかに閉じ込められたように曖昧(あいまい)になる。こりゃただ事じゃないと気がついたから、透(すか)して見るとようやく分った。今までは尋常に歩けた坑が、ここでたちまち狭(せま)くなって、這わなくっちゃ抜けられなくなっている。その狭い入口から、初さんの足が二本出ている。初さんは今胴を入れたばかりである。やがて出ていた足が一本這入った。見ているうちにまた一本這入った。これで自分も四つん這いにならなくっちゃ仕方がないと諦(あきら)めをつけた。「這うんだ」と初さんの教えたのもけっして無理じゃないんだから、教えられた通り這った。ところが右にはカンテラを提(さ)げている。左の手の平(ひら)だけを惜気(おしげ)もなく氷のような泥だか岩だかへな土だか分らない上へぐしゃりと突いた時は、寒さが二の腕を伝わって肩口から心臓へ飛び込んだような気持がした。それでカンテラを下へ着けまいとすると、右の手が顔とすれすれになって、はなはだ不便である。どうしたもんだろうと、この姿勢のままじっとしていた。そうして、右の手で宙に釣っているカンテラを見た。ところへぽたりと天井(てんじょう)からしずくが垂れた。カンテラの灯(ひ)がじいと鳴った。油煙が顎(あご)から頬へかかる。眼へも這入(はい)った。それでもこの灯を見詰めていた。すると遠くの方でかあん、かあん、と云う音がする。坑夫が作業をしているに違ないが、どのくらい距離があるんだか、どの見当(けんとう)にあたるんだか、いっこう分らない。東西南北のある浮世の音じゃない。自分はこの姿勢でともかくも二三歩歩き出した。不便は無論不便だが、歩けない事はない。ただ時々しずくが落ちてカンテラのじいと鳴るのが気にかかる。初さんは先へ行ってしまった。頼(たより)はカンテラ一つである。そのカンテラがじいと鳴って水のために消えそうになる。かと思うとまた明かるくなる。まあよかったと安心する時分に、またぽたりと落ちて来る。じいと鳴る。消えそうになる。非常に心細い。実は今までも、しずくは始終(しじゅう)垂れていたんだが、灯(ひ)が腰から下にあるんで、いっこう気がつかなかったんだろう。灯が耳の近くへ来て、じいと云う音が聞えるようになってから急に神経が起って来た。だから這う方はなお遅くなる。しかもまだ三足しか歩いちゃいない。ところへ突然初さんの声がした。
「やい、好い加減に出て来ねえか。何をぐずぐずしているんだ。――早くしないと日が暮れちまうよ」
 暗いなかで初さんはたしかに日が暮れちまうと云った。
 自分は這(は)いながら、咽喉仏(のどぼとけ)の角(かど)を尖(とが)らすほどに顎(あご)を突き出して、初さんの方を見た。すると一間(いっけん)ばかり向うに熊の穴見たようなものがあって、その穴から、初さんの顔が――顔らしいものが出ている。自分があまり手間取るんで、初さんが屈(こご)んでこっちを覗(のぞ)き込んでるところであった。この一間をどうして抜け出したか、今じゃ善く覚えていない。何しろできるだけ早く穴まで来て、首だけ出すと、もう初さんは顔を引っ込まして穴の外に立っている。その足が二本自分の鼻の先に見えた。自分はやれ嬉(うれ)しやと狭い所を潜(くぐ)り抜けた。
「何をしていたんだ」
「あんまり狭いもんだから」
「狭いんで驚いちゃ、シキへは一足(ひとあし)だって踏(ふ)ん込(ご)めっこはねえ。陸(おか)のように地面はねえ所(とこ)だくらいは、どんな頓珍漢(とんちんかん)だって知ってるはずだ」
 初さんはたしかに坑(あな)の中は陸のように地面のない所だと云った。この人は時々思い掛けない事を云うから、今度もたしかにとただし書(がき)をつけて、その確実な事を保証して置くんである。自分は何か云い訳をするたんびに、初さんから容赦なくやっつけられるんで、大抵は黙っていたが、この時はつい、
「でもカンテラが消えそうで、心配したもんですから」
と云っちまった。すると初さんは、自分の鼻の先へカンテラを差しつけて、徐(おもむろ)に自分の顔を検査し始めた。そうして、命令を下した。
「消して見ねえ」
「どうしてですか」
「どうしてでも好いから、消して見ねえ」
「吹くんですか」
 初さんはこの時大きな声を出して笑った。
 自分は喫驚(びっくり)して稀有(けう)な顔をしていた。
「冗談(じょうだん)じゃねえ。何が這入(へっ)てると思う。種油(たねあぶら)だよ、しずくぐらいで消(けえ)てたまるもんか」
 自分はこれでやっと安心した。
「安心したか。ハハハハ」
と初さんがまた笑った。初さんが笑うたんびに、坑(あな)の中がみんな響き出す。その響が収まると前よりも倍静かになる。ところへかあん、かあんとどこかで鑿(のみ)と槌(つち)を使ってる音が伝わって来る。
「聞えるか」
と、初さんが顋(あご)で相図をした。
「聞えます」
と耳を峙(そばだ)てていると、たちまち催促を受けた。
「さあ行こう。今度(こんだ)あ後(おく)れないように跟(つ)いて来な」
 初さんはなかなか機嫌がいい。これは自分が一も二もなく初さんにやられているせいだろうと思った。いくら手苛(てひど)くきめつけられても、初さんの機嫌がいいうちは結構であった。こうなると得になる事がすなわち結構という意味になる。自分はこれほど堕落して、おめおめ初さんの尻を嗅(か)いで行ったら、路が左の方に曲り込んでまた峻(けわ)しい坂になった。
「おい下りるよ」
と初さんが、後(うしろ)も向かず声を掛けた。その時自分は何となく東京の車夫を思い出して苦しいうちにもおかしかった。が初さんはそれとも気がつかず下(お)り出した。自分も負けずに降りる。路は地面を刻んで段々になっている。四五間ずつに折れてはいるが、勘定したら愛宕様(あたごさま)の高さぐらいはあるだろう。これは一生懸命になって、いっしょに降りた。降りた時にほっと息を吐(つ)くと、その息が何となく苦しかった。しかしこれは深い坑(あな)のなかで、空気の流通が悪いからとばかり考えた。実はこの時すでに身体(からだ)も冒(おか)されていたんである。この苦しい息で二三十間来るとまた模様が変った。
 今度は初さんが仰向(あおむ)けに手を突いて、腰から先を入れる。腰から入れるような芸をしなければ通れないほど、坑(あな)の幅も高さも逼(せま)って来たのである。
「こうして抜けるんだ。好く見て置きねえ」
と初さんが云ったと思ったら、胴も頭もずる、ずると抜けて見えなくなった。さすが熟練の功はえらいもんだと思いながら、自分もまず足だけ前へ出して、草鞋(わらじ)で探(さぐり)を入れた。ところが全く宙に浮いてるようで足掛りがちっともない。何でも穴の向うは、がっくり落(おち)か、それでなくても、よほど勾配(こうばい)の急な坂に違ないと見当(けんとう)をつけた。だから頭から先へ突っ込めばのめって怪我をするばかり、また足をむやみに出せば引っ繰り返るだけと覚ったから、足を棒のように前へ寝かして、そうして後(うしろ)へ手を突いた。ところがこの所作(しょさ)がはなはだ不味(まず)かったので、手を突くと同時に、尻もべったり突いてしまった。ぴちゃりと云った。アテシコを伝わって臀部(でんぶ)へ少々感じがあった。それほど強く尻餅(しりもち)を搗(つ)いたと見える。自分はしまったと思いながらも直(すぐ)両足を前の方へ出した。ずるりと一尺ばかり振(ぶ)ら下げたが、まだどこへも届かない。仕方がないから、今度は手の方を前へ運ばせて、腰を押し出すように足を伸ばした。すると腿(もも)の所まで摺(ず)り落ちて、草鞋(わらじ)の裏がようやく堅いものに乗った。自分は念のためこの堅いものをぴちゃぴちゃ足の裏で敲(たた)いて見た。大丈夫なら手を離してこの堅いものの上へ立とうと云う料簡(りょうけん)であった。
「何で足ばかり、ばたばたやってるんだ。大丈夫だから、うんと踏ん張って立ちねえな。意久地(いくじ)のねえ」
と、下から初さんの声がする。自分の胴から上は叱られると同時に、穴を抜けて真直に立った。
「まるで傘(からかさ)の化物(ばけもの)のようだよ」
と初さんが、自分の顔を見て云った。自分は傘の化物とは何の意味だか分らなかったから、別に笑う気にもならなかった。ただ
「そうですか」
と真面目に答えた。妙な事にこの返事が面白かったと見えて、初さんは、また大きな声を出して笑った。そうして、この時から態度が変って、前よりは幾分(いくぶん)か親切になった。偶然の事がどんな拍子(ひょうし)で他(ひと)の気に入らないとも限らない。かえって、気に入ってやろうと思って仕出(しで)かす芸術は大抵駄目なようだ。天巧(てんこう)を奪うような御世辞使はいまだかつて見た事がない。自分も我が身が可愛さに、その後(ご)いろいろ人の御機嫌を取って見たが、どうも旨(うま)い結果が出て来ない。相手がいくら馬鹿でも、いつか露見するから怖(こわ)いもんだ。用意をして置いた挨拶(あいさつ)で、この傘の化物に対する返事くらいに成功した場合はほとんどない。骨を折って失敗するのは愚(ぐ)だと悟ったから、近頃では宿命論者の立脚地から人と交際をしている。ただ困るのは演舌(えんぜつ)と文章である。あいつは骨を折って準備をしないと失敗する。その代りいくら骨を折ってもやっぱり失敗する。つまりは同じ事なんだが、骨を折った失敗は、人の気に入らないでも、自分の弱点(ぼろ)が出ないから、まあ準備をしてからやる事にしている。いつかは初さんの気に入ったような演説をしたり、文章を書いて見たいが、――どうも馬鹿にされそうでいけないから、いまだにやらずにいる。――それはここには余計な事だから、このくらいでやめてまた初さんの話を続けて行く。
 その時初さんは、笑いながら、下から、自分に向って、
「おい、そう真面目くさらねえで、早く下りて来ねえな。日は短(みじけ)えやな」
と云った。坑(あな)の中でカンテラを点(つ)けた、初さんはたしかに日は短えやなと云った。
 自分が土の段を一二間下りて、初さんの立ってる所まで行くと、初さんは、右へ曲った。また段々が四五間続いている。それを降り切ると、今度は初さんが左へ折れる。そうしてまた段々がある。右へ折れたり左へ折れたり稲妻(いなずま)のように歩いて、段々を――さあ何町(なんちょう)降りたか分らない。始めての道ではあるし、ことに暗い坑(あな)の中の事であるから自分には非常に長く思われた。ようやく段々を降り切って、だいぶ浮世とは縁が遠くなったと思ったら急に五六畳の部屋に出た。部屋と云っても坑を切り広げたもので、上と下がすぼまって、腹の所が膨(ふく)らんでいるから、まるで酒甕(さかがめ)の中へでも落込んだ有様である。あとから分った話だが、これは作事場(さくじば)と云うんで、技師の鑑定で、ここには鉱脈があるとなると、そこを掘り拡(ひろ)げて作事場にするんである。だから通り路よりは自然広い訳で、この作事場を坑夫が三人一組で、請負(うけおい)仕事に引受ける。二週間と見積ったのが、四日で済む事もあり、高が五日くらいと踏んだ作事に半月以上食(くら)い込む事もある。こう云う訳で、シキのなかに路ができて、路のはたに銅脈さえ見つかれば、御構(おかまい)なくそこだけを掘り抜いて行くんだから、電車の通るシキの入口こそ、平らでもあり、また一条(ひとすじ)でもあるが、下へ折れて第一見張所のあたりからは、右へも左へも条路(えだみち)ができて、方々に作事場が建つ。その作事をしまうと、また銅脈を見つけては掘り抜いて行くんだから、シキの中は細い路だらけで、また暗い坑だらけである。ちょうど蟻(あり)が地面を縦横に抜いて歩くようなものだろう。または書蠹(のむし)が本を食(くら)うと見立てても差(さ)し支(つかえ)ない。つまり人間が土の中で、銅(あかがね)を食って、食い尽すと、また銅を探し出して食いにゆくんでむやみに路がたくさんできてしまったんである。だから、いくらシキの中を通っても、ただ通るだけで作事場へ出なければ坑夫には逢(あ)わない。かあんかあんという音はするが、音だけでは極(きわ)めて淋(さみ)しいものである。自分は初さんに連れられて、シキへ這入(はい)ったが、ただシキの様子を見るのが第一の目的であったためか、廻り道をして作事場へは寄らなかったと見えて、坑夫の仕事をしているところは、この段々の下へ来て、初めて見た。――稲妻形(いなずまがた)に段々を下りるときは、むやみに下りるばかりで、いくら下りても尽きないのみか、人っ子一人に逢(あ)わないものだから、はなはだ心細かったが、はじめて作事場へ出て、人間に逢ったら、大いに嬉しかった。
 見ると丸太(まるた)の上に腰をかけている。数は三人だった。丸太は四(よ)つや丸太(まるた)で、軌道(レール)の枕木くらいなものだから、随分の重さである。どうして、ここまで運んで来たかとうてい想像がつかない。これは天井の陥落を防ぐため、少し広い所になると突っかい棒に張るために、シチュウが必要な作事場へ置いて行くんだそうだ。その上に二人(ふたあり)腰を掛けて、残る一人が屈(しゃが)んで丸太へ向いている。そうして三人の間には小さな木の壺(つぼ)がある。伏せてある。一人がこの壺を上から抑(おさ)えている。三人が妙な叫び声を出した。抑えた壺をたちまち挙(あ)げた。下から賽(さい)が出た。――ところへ自分と初さんが這入った。
 三人はひとしく眼を上げて、自分と初さんを見た。カンテラが土の壁に突き刺してある。暗い灯(ひ)が、ぎろりと光る三人の眼球(めだま)を照らした。光ったものは実際眼球だけである。坑は固(もと)より暗い。明かるくなくっちゃならない灯も暗い。どす黒く燃えて煙(けぶり)を吹いている所は、濁った液体が動いてるように見えた。濁った先が黒くなって、煙と変化するや否や、この煙が暗いものの中に吸い込まれてしまう。だから坑の中がぼうとしている。そうして動いている。
 カンテラは三人の頭の上に刺さっていた。だから三人のうちで比較的判然(はっきり)見えたのは、頭だけである。ところが三人共頭が黒いので、つまりは、見えないのと同じ事である。しかも三つとも集(かたま)っていたから、なおさら変であったが、自分が這入(はい)るや否や、三つの頭はたちまち離れた。その間から、壺(つぼ)が見えたんである。壺の下から賽(さい)が見えたんである。壺と、賽と、三人の異(い)な叫び声を聞いた自分は、次に三人の顔を見たんである。よくはわからない顔であった。一人の男は頬骨(ほおぼね)の一点と、小鼻の片傍(かたわき)だけが、灯(ひ)に映った。次の男は額と眉(まゆ)の半分に光が落ちた。残る一人は総体にぼんやりしている。ただ自分の持っていた、カンテラを四五尺手前から真向(まっこう)に浴びただけである。――三人はこの姿勢で、ぎろりと眼を据(す)えた。自分の方に。
 ようやく人間に逢(あ)って、やれ嬉(うれ)しやと思った自分は、この三対(つい)の眼球(めだま)を見るや否や、思わずぴたりと立ち留った。
「手前(てめえ)は……」
と云い掛けて、一人が言葉を切った。残る二人はまだ口を開(ひら)かない。自分も立ち留まったなり、答えなかった。――答えられなかった。すると
「新(しん)めえだ」
と、初さんが、威勢のいい返事をしてくれた。本当のところを白状すると、三人の眼球が光って、「手前は……」と聞かれた時は、初さんの傍(そば)にいる事も忘れて、ただおやっと思った。立すくむと云うのはこれだろう。立ちすくんで、硬(かた)くこわ張り掛けたところへ「新めえだ」と云う声がした。この声が自分の左の耳の、つい後(うしろ)から出て、向うへ通り抜けた時、なるほど初さんがついてたなと思い出した。それがため、こわ張りかけた手足も、中途でもとへ引き返した。自分は一歩傍(わき)へ退(の)いた。初さんに前へ出てもらうつもりであった。初さんは注文通り出た。
「相変らずやってるな」
とカンテラを提(さ)げたまま、上から三人の真中に転がってる、壺と賽を眺(なが)めた。
「どうだ仲間入は」
「まあよそう。今日は案内だから」
と初さんは取り合わなかった。やがて、四(よ)つや丸太(まるた)の上へうんとこしょと腰をおろして、
「少し休んで行くかな」
と自分の方を見た。立ちすくむまで恐ろしかった、自分は急に嬉しくなって元気が出て来た。初さんの側(そば)へ腰をおろす。アテシコの利目(ききめ)は、ここで始めて分った。旨(うま)い具合に尻が乗って、柔らかに局部へ応(こた)える。かつ冷えないで、結構だ。実はさっきから、眼が少し眩(く)らんで――眩らんだか、眩らまないんだか、坑(あな)の中ではよく分らないが、何しろ好い気持ではなかったが、こう尻を掛けて落ちつくと、大きに楽(らく)になる。四人(よつたり)がいろいろな話をしている。
「広本(ひろもと)へは新らしい玉(たま)が来たが知ってるか」
「うん、知ってる」
「まだ、買わねえか」
「買わねえ、お前(めえ)は」
「おれか。おれは――ハハハハ」
と笑った。これは這入(はい)って来た時、顔中ぼんやり見えた男である。今でもぼんやり見える。その証拠には、笑っても笑わなくっても、顔の輪廓(りんかく)がほとんど同じである。
「随分手廻しがいいな」
と初さんもいささか笑っている。
「シキへ這入(へえ)ると、いつ死ぬか分らねえからな。だれだって、そうだろう」
と云う答があった。この時、
「御互に死なねえうちの事だなあ」
と一人(だれか)が云った。その語調には妙に咏嘆(えいたん)の意が寓(ぐう)してあった。自分はあまり突然のように感じた。
 そうしているうちに、一間(いっけん)置いて隣りの男が突然自分に話しかけた。
「御前(おめえ)はどこから来た」
「東京です」
「ここへ来て儲(もう)けようたって駄目だぜ」
と他(ほか)のが、すぐ教えてくれた。自分は長蔵さんに逢うや否や儲かる儲かるを何遍となく聞かせられて驚いたが、飯場(はんば)へ着くが早いか、今度は反対に、儲からない儲からないで立てつづけに責められるんで、大いに辟易(へきえき)した。しかし地(じ)の底ではよもやそんな話も出まいと思ってここまで降りて来たが、人に逢えばまた儲からないを繰り返された。あんまり馬鹿馬鹿しいんで何とか答弁をしようかとも考えたが、滅多(めった)な事を云えば擲(は)りつけられるだけだから、まあやめにして置いた。さればと云って返事をしなければまたやりつけられる。そこで、こう云った。
「なぜ儲からないんです」
「この銅山(やま)には神様がいる。いくら金を蓄(た)めて出ようとしたって駄目だ。金は必ず戻ってくる」
「何の神様ですか」
と聞いて見たら、
「達磨(だるま)だ」
と云って、四人(よつたり)ながら面白そうに笑った。自分は黙っていた。すると四人は自分を措(お)いてしきりに達磨の話を始めた。約十分余りも続いたろう。その間自分はほかの事を考えていた。いろいろ考えたうちに一番感じたのは、自分がこんな泥だらけの服を着て、真暗な坑(あな)のなかに屈(しゃが)んでるところを、艶子(つやこ)さんと澄江(すみえ)さんに見せたらばと云う問題であった。気の毒がるだろうか、泣くだろうか、それともあさましいと云って愛想(あいそ)を尽かすだろうかと疑って見たが、これは難なく気の毒がって、泣くに違ないと結論してしまった。それで一目(ひとめ)くらいはこの姿を二人に見せたいような気がした。それから昨夜(ゆうべ)囲炉裏(いろり)の傍(そば)でさんざん馬鹿にされた事を思い出して、あの有様を二人に見せたらばと考えた。ところが今度は正反対で、二人共傍(そば)にいてくれないで仕合せだと思った。もし見られたらと想像して眼前に、意気地(いくじ)のない、大いに苛(いじ)められている自分の風体(ふうてい)と、ハイカラの女を二人描(えが)き出したら、はなはだ気恥ずかしくなって腋(わき)の下から汗が出そうになった。これで見ると、坑夫に堕落すると云う事実その物はさほど苦にならぬのみか、少しは得意の気味で、ただ坑夫になりたての幅(はば)の利(き)かないところだけを、女に見せたくなかった訳になる。自分の器量を下げるところは、誰にも隠したいが、ことに女には隠したい。女は自分を頼るほどの弱いものだから、頼られるだけに、自分は器量のある男だと云う証拠をどこまでも見せたいものと思われる。結婚前の男はことにこの感じが深いようだ。人間はいくら窮した場合でも、時々は芝居気(しばいぎ)を出す。自分がアテシコを臀(しり)に敷いて、深い坑のなかで、カンテラを提(ひっさ)げたまま、休んだ時の考えは、全く芝居じみていた。ある意味から云うと、これが苦痛の骨休めである。公然の骨休めとも云うべき芝居は全くここから発達したものと思う。自分は発達しない芝居の主人公を腹の中で演じて、落胆しながら得意がっていた。
 ところへ突然肺臓を打ち抜かれたと思うくらいの大きな音がした。その音は自分の足の下で起ったのか、頭の上で起ったのか、尻を懸(か)けた丸太(まるた)も、黒い天井(てんじょう)も一度に躍(おど)り上ったから、分からない。自分の頸(くび)と手と足が一度に動いた。縁側(えんがわ)に脛(はぎ)をぶらさげて、膝頭(ひざがしら)を丁(ちょう)と叩(たた)くと、膝から下がぴくんと跳(は)ねる事がある。この時自分の身体(からだ)の動き方は全くこれに似ている。しかしこれよりも倍以上劇烈に来たような気がした。身体ばかりじゃない、精神がその通りである。一人芝居の真最中でとんぼ返りを打って、たちまち我れに帰った。音はまだつづいている。落雷を、土中(どちゅう)に埋(うず)めて、自由の響きを束縛(そくばく)したように、渋(しぶ)って、焦(いら)って、陰(いん)に籠(こも)って、抑(おさ)えられて、岩にあたって、包まれて、激して、跳(は)ね返されて、出端(では)を失って、ごうと吼(ほ)えている。
「驚いちゃいけねえ」
と初さんが云った。そうして立ち上がった。自分も立ち上がった。三人の坑夫も立ち上がった。
「もう少しだ。やっちまうかな」
と、鑿(のみ)を取り上げた。初さんと自分は作事場(さくじば)を出る。ところへ煙(けむ)が来た。煙硝(えんしょう)の臭(におい)が、眼へも鼻へも口へも這入(はい)った。噎(む)せっぽくって苦しいから、後(うしろ)を向いたら、作事場ではかあん、かあんともう仕事を始めだした。
「なんですか」
と苦しい中で、初さんに聞いて見た。実はさっきの音が耳に応(こた)えた時、こりゃ坑内で大破裂が起ったに違ないから、逃げないと生命(いのち)が危ないとまで思い詰めたくらいだのに、初さんはますます深く這入る気色(けしき)だから、気味が悪いとは思ったが、何しろ自由行動のとれる身体ではなし、精神は無論独立の気象(きしょう)を具(そな)えていないんだから、いかに先輩だって逃げていい時分には、逃げてくれるだろうと安心して、後(あと)をつけて出ると、むっとするほどの煙(けむ)が向うから吹いて来たんで、こりゃ迂濶(うっかり)深入はできないわと云う腹もあって、かたがた後(うしろ)を向く途端(とたん)に、さっきの連中がもう、煙の中でかあん、かあん、鉱(あらがね)を叩(たた)いているのが聞えたんで、それじゃやっぱり安心なのかと、不審のあまりこの質問を起して見たんである。すると初さんは、煙の中で、咳(せき)を二つ三つしながら、
「驚かなくってもいい。ダイナマイトだ」
と教えてくれた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫でねえかも知れねえが、シキへ這入(はい)った以上、仕方がねえ。ダイナマイトが恐ろしくっちゃ一日だって、シキへは這入れねえんだから」
 自分は黙っていた。初さんは煙の中を押し分けるようにずんずん潜(くぐ)って行く。満更(まんざら)苦しくない事もないんだろうが、一つは新参の自分に対して、景気を見せるためじゃないかと思った。それとも煙は坑(あな)から坑へ抜け切って、陸(おか)の上なら、大抵晴れ渡った時分なのに、路が暗いんでいつまでも煙が這(は)ってるように感じたり噎(む)せっぽく思ったのかも知れない。そうすると自分の方が悪くなる。
 いずれにしても苦いところを我慢して尾(つ)いて行った。また胎内潜(たいないくぐ)りのような穴を抜けて、三四間ずつの段々を、右へ左へ折れ尽すと、路が二股(ふたまた)になっている。その条路(えだみち)の突き当りで、カラカラランと云う音がした。深い井戸へ石片(いしころ)を抛(な)げ込んだ時と調子は似ているが、普通の井戸よりも、遥(はるか)に深いように思われた。と云うものは、落ちて行く間(ま)に、側(がわ)へ当って鳴る音が、冴(さ)えている。ばかりか、よほど長くつづく。最後のカラランは底の底から出て、出るにはよほど手間(てま)がかかる。けれども一本道を、真直(まっすぐ)に上へ抜けるだけで、ほかに逃道がないから、どんなに暇取っても、きっと出てくる。途中で消えそうになると、壁の反響が手伝って、底で出ただけの響は、いかに微(かすか)な遠くであっても、洩(も)らすところなく上まで送り出す。――ざっとこんな音である。カラララン。カカラアン。……
 初さんが留(とま)った。
「聞えるか」
「聞えます」
「スノコへ鉱を落してる」
「はああ……」
「ついでだからスノコを見せてやろう」
と、急に思いついたような調子で、勢いよく初さんが、一足後へ引いて草鞋(わらじ)の踵(かかと)を向け直した。自分が耳の方へ気を取られて、返事もしないうちに、初さんは右へ切れた。自分も続いて暗いなかへ這入る。
 折れた路はわずか四尺ほどで行き当る。ところをまた右へ廻り込むと、一間ばかり先が急に薄明るく、縦にも横にも広がっている。その中に黒い影が二つあった。自分達がその傍(そば)まで近づいた時、黒い影の一つが、左の足と共に、精一杯前へ出した力を後(うしろ)へ抜く拍子(ひょうし)に、大きな箕(み)を、斜(はす)に抛(な)げ返した。箕は足掛りの板の上に落ちた。カカン、カラカランと云う音が遠くへ落ちて行く。一尺前は大きな穴である。広さは畳二畳敷(にじょうじき)ぐらいはあるだろう。箕に入れたばらの鉱(あらがね)を、掘子(ほりこ)が抛げ込んだばかりである。突き当りの壁は突立(つッた)っている。微(かすか)なカンテラに照らされて、色さえしっかり分らない上が、一面に濡(ぬ)れて、濡れた所だけがきらきら光っている。
「覗(のぞ)いて見ろ」
 初さんが云った。穴の手前が三尺ばかり板で張り詰めてある。自分は板の三分の一ほどまで踏み出した。
「もっと、出ろ」
と初さんが後から催促する。自分は躊躇(ちゅうちょ)した。これでさえ踏板が外(はず)れれば、どこまで落ちて行くか分らない。ましてもう一尺前へ出れば、いざと云う時、土の上へ飛(と)び退(の)く手間(てま)が一尺だけ遅くなる。一尺は何でもないようだが、ここでは平地(ひらち)の十間にも当る。自分は何分(なにぶん)にも躊躇(ちゅうちょ)した。
「出ろやい。吝(けち)な野郎だな。そんな事で掘子が勤まるかい」
と云われた。これは初さんの声ではなかった。黒い影の一人が云ったんだろう。自分は振り返って見なかった。しかし依然として足は前へ出なかった。ただ眼だけが、露で光った薄暗い向うの壁を伝わって、下の方へ、しだいに落ちて行くと、約一間ばかりは、どうにか見えるが、それから先は真暗だ。真暗だからどこまで視線に這入(はい)るんだか分らない。ただ深いと思えば際限もなく深い。落ちちゃ大変だと神経を起すと、後から背中を突かれるような気がする。足は依然としてもとの位地を持ち応(こた)えていた。すると、
「おい邪魔だ。ちょっと退(ど)きな」
と声を掛けられたんで、振り向くと、一人の掘子が重そうに俵を抱えて立っている。俵の大きさは米俵の半分ぐらいしかない。しかし両手で底を受けて、幾分か腰で支(ささ)えながら、うんと気合を入れているところは、全く重そうだ。自分はこの体(てい)を見て、すぐ傍(わき)へ避(よ)けた。そうして比較的安全な、板が折れても差支(さしつかえ)なく地面へ飛び退けるほどの距離まで退(しりぞ)いた。掘子は、俵で眼先がつかえてるから定めし剣呑(けんのん)がるだろうと思いのほか、容赦なく重い足を運ばして前へ出る。縁(ふち)から二尺ばかり手前まで出て、足を揃(そろ)えたから、もう留まるだろうと見ていると、また出した。余る所は一尺しきゃあない。その一尺へまた五寸ほど切り込んだ。そうして行儀よく右左を揃えた。そうして、うんと云った。胸と腰が同時に前へ出た。危ない。のめったと思う途端(とたん)に、重い俵は、とんぼ返りを打って、掘子の手を離れた。掘子はもとの所へ突っ立っている。落ちた俵はしばらく音沙汰(おとさた)もない。と思うと遠くでどさっと云った。俵は底まで落切ったと見える。
「どうだ、あの芸が出来るか」
と初さんが聞いた。自分は、
「そうですねえ」
と首を曲げて、恐れ入ってた。すると初さんも掘子(ほりこ)もみんな笑い出した。自分は笑われても全く致し方がないと思って、依然として恐れ入ってた。その時初さんがこんな事を云って聞かした。
「何になっても修業は要(い)るもんだ。やって見ねえうちは、馬鹿にゃ出来ねえ。お前(めえ)が掘子になるにしたって、おっかながって、手先ばかりで抛(な)げ込んで見ねえ。みんな板の上へ落ちちまって、肝心(かんじん)の穴へは這入(はい)りゃしねえ。そうして、鉱(あらがね)の重みで引っ張り込まれるから、かえって剣呑(けんのん)だ。ああ思い切って胸から突き出してかからにゃ……」
と云い掛けると、ほかの男が、
「二三度スノコへ落ちて見なくっちゃ駄目だ。ハハハハ」
と笑った。
 後戻(あともどり)をして元の路(みち)へ出て、半町ほど行くと、掘子は右へ折れた。初さんと自分は真直に坂を下りる。下り切ると、四五間平らな路を縫うように突き当った所で、初さんが留まった。
「おい。まだ下りられるか」
と聞く。実はよほど前から下りられない。しかし中途で降参(こうさん)したら、落第するにきまってるから、我慢に我慢を重ねて、ここまで来たようなものの、内心ではその内もうどん底へ行き着くだろうくらいの目算はあった。そこへ持って来て、相手がぴたりと留まって、一段落(いちだんらく)つけた上、さて改めて、まだ下りる気かと正式に尋ねられると、まだ下りるべき道程(みちのり)はけっして一丁や二丁でないと云う意味になる。――自分は暗いながら初さんの顔を見て考えた。御免蒙(ごめんこうぶ)ろうかしらと考えた。こう云う時の出処進退は、全く相手の思わく一つできまる。いかな馬鹿でも、いかな利口でも同じ事である。だから自分の胸に相談するよりも、初さんの顔色で判断する方が早く片がつく。つまり自分の性格よりも周囲の事情が運命を決する場合である。性格が水準以下に下落する場合である。平生(へいぜい)築き上げたと自信している性格が、めちゃくちゃに崩(くず)れる場合のうちでもっとも顕著(けんちょ)なる例である。――自分の無性格論はここからも出ている。
 前(ぜん)申す通り自分は初さんの顔を見た。すると、下(お)りようじゃないかと云う親密な情合(じょうあい)も見えない。下りなくっちゃ御前のためにならないと云う忠告の意も見えない。是非下ろして見せると云う威嚇(おどし)もあらわれていない。下りたかろうと焦(じ)らす気色(けしき)は無論ない。ただ下りられまいと云う侮辱(ぶべつ)の色で持ち切っている。それは何ともなかった。しかしその色の裏面には落第と云う切実な問題が潜(ひそ)んでいる。この場合における落第は、名誉より、品性より、何よりも大事件である。自分は窒息しても下りなければならない。
「下りましょう」
と思い切って、云った。
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