こころ
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著者名:夏目漱石 

「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、貰(もら)うものはちゃんと貰っておくようにしたらどうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」
「ええ」
 私(わたくし)は先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。その上先生のいう事の、先生として、あまりに実際的なのに私は少し驚かされた。しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。
「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉遣(ことばづか)いをするのが気に触(さわ)ったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬか分らないものだからね」
 先生の口気(こうき)は珍しく苦々しかった。
「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」と私は弁解した。
「君の兄弟(きょうだい)は何人でしたかね」と先生が聞いた。
 先生はその上に私の家族の人数(にんず)を聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父(おじ)や叔母(おば)の様子を問いなどした。そうして最後にこういった。
「みんな善(い)い人ですか」
「別に悪い人間というほどのものもいないようです。大抵田舎者(いなかもの)ですから」
「田舎者はなぜ悪くないんですか」
 私はこの追窮(ついきゅう)に苦しんだ。しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚(しんせき)なぞの中(うち)に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型(いかた)に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
 先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。私はまたここで何かいおうとした。すると後(うし)ろの方で犬が急に吠(ほ)え出した。先生も私も驚いて後ろを振り返った。
 縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗の傍(そば)に、熊笹(くまざさ)が三坪(みつぼ)ほど地を隠すように茂って生えていた。犬はその顔と背を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。そこへ十(とお)ぐらいの小供(こども)が馳(か)けて来て犬を叱(しか)り付けた。小供は徽章(きしょう)の着いた黒い帽子を被(かぶ)ったまま先生の前へ廻(まわ)って礼をした。
「叔父さん、はいって来る時、家(うち)に誰(だれ)もいなかったかい」と聞いた。
「誰もいなかったよ」
「姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに」
「そうか、いたのかい」
「ああ。叔父さん、今日(こんち)はって、断ってはいって来ると好(よ)かったのに」
 先生は苦笑した。懐中(ふところ)から蟇口(がまぐち)を出して、五銭の白銅(はくどう)を小供の手に握らせた。
「おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって」
 小供は怜悧(りこう)そうな眼に笑(わら)いを漲(みなぎ)らして、首肯(うなず)いて見せた。
「今斥候長(せっこうちょう)になってるところなんだよ」
 小供はこう断って、躑躅(つつじ)の間を下の方へ駈け下りて行った。犬も尻尾(しっぽ)を高く巻いて小供の後を追い掛けた。しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方へ駈けていった。

     二十九

 先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。先生の気にする財産云々(うんぬん)の掛念(けねん)はその時の私(わたくし)には全くなかった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。
 先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私に解(わか)らない事はなかった。しかし私はこの句についてもっと知りたかった。
 犬と小供(こども)が去ったあと、広い若葉の園は再び故(もと)の静かさに帰った。そうして我々は沈黙に鎖(と)ざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前にある樹(き)は大概楓(かえで)であったが、その枝に滴(したた)るように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日(えんにち)へでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に瞑想(めいそう)から呼息(いき)を吹き返した人のように立ち上がった。
「もう、そろそろ帰りましょう。大分(だいぶ)日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」
 先生の背中には、さっき縁台の上に仰向(あおむ)きに寝た痕(あと)がいっぱい着いていた。私は両手でそれを払い落した。
「ありがとう。脂(やに)がこびり着いてやしませんか」
「綺麗(きれい)に落ちました」
「この羽織はつい此間(こないだ)拵(こしら)えたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、妻(さい)に叱(しか)られるからね。有難う」
 二人はまただらだら坂(ざか)の中途にある家(うち)の前へ来た。はいる時には誰もいる気色(けしき)の見えなかった縁(えん)に、お上(かみ)さんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金魚鉢の横から、「どうもお邪魔(じゃま)をしました」と挨拶(あいさつ)した。お上さんは「いいえお構(かま)い申しも致しませんで」と礼を返した後(あと)、先刻(さっき)小供にやった白銅(はくどう)の礼を述べた。
 門口(かどぐち)を出て二、三町(ちょう)来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
「さきほど先生のいわれた、人間は誰(だれ)でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」
「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」
「事実で差支(さしつか)えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」
 先生は笑い出した。あたかも時機(じき)の過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風(ふう)に。
「金(かね)さ君。金を見ると、どんな君子(くんし)でもすぐ悪人になるのさ」
 私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰(つま)らなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し後(おく)れがちになった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。
「そら見たまえ」
「何をですか」
「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
 待ち合わせるために振り向いて立(た)ち留(ど)まった私の顔を見て、先生はこういった。

     三十

 その時の私(わたくし)は腹の中で先生を憎らしく思った。肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたい事をわざと聞かずにいた。しかし先生の方では、それに気が付いていたのか、いないのか、まるで私の態度に拘泥(こだわ)る様子を見せなかった。いつもの通り沈黙がちに落ち付き払った歩調をすまして運んで行くので、私は少し業腹(ごうはら)になった。何とかいって一つ先生をやっ付けてみたくなって来た。
「先生」
「何ですか」
「先生はさっき少し昂奮(こうふん)なさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮したのを滅多(めった)に見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」
 先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを手応(てごた)えのあったようにも思った。また的(まと)が外(はず)れたようにも感じた。仕方がないから後(あと)はいわない事にした。すると先生がいきなり道の端(はじ)へ寄って行った。そうして綺麗(きれい)に刈り込んだ生垣(いけがき)の下で、裾(すそ)をまくって小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。
「やあ失敬」
 先生はこういってまた歩き出した。私はとうとう先生をやり込める事を断念した。私たちの通る道は段々賑(にぎ)やかになった。今までちらほらと見えた広い畠(はたけ)の斜面や平地(ひらち)が、全く眼に入(い)らないように左右の家並(いえなみ)が揃(そろ)ってきた。それでも所々(ところどころ)宅地の隅などに、豌豆(えんどう)の蔓(つる)を竹にからませたり、金網(かなあみ)で鶏(にわとり)を囲い飼いにしたりするのが閑静に眺(なが)められた。市中から帰る駄馬(だば)が仕切りなく擦(す)れ違って行った。こんなものに始終気を奪(と)られがちな私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落してしまった。先生が突然そこへ後戻(あともど)りをした時、私は実際それを忘れていた。
「私は先刻(さっき)そんなに昂奮したように見えたんですか」
「そんなにというほどでもありませんが、少し……」
「いや見えても構わない。実際昂奮(こうふん)するんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」
 先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むしろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私にも全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな執着力(しゅうじゃくりょく)をいまだかつて想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高い処(ところ)に、私の懐かしみの根を置いていた。一時の気分で先生にちょっと盾(たて)を突いてみようとした私は、この言葉の前に小さくなった。先生はこういった。
「私は他(ひと)に欺(あざむ)かれたのです。しかも血のつづいた親戚(しんせき)のものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや否(いな)や許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供(こども)の時から今日(きょう)まで背負(しょ)わされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。しかし私はまだ復讐(ふくしゅう)をしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」
 私は慰藉(いしゃ)の言葉さえ口へ出せなかった。

     三十一

 その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。私(わたくし)はむしろ先生の態度に畏縮(いしゅく)して、先へ進む気が起らなかったのである。
 二人は市の外(はず)れから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。電車を降りると間もなく別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」といった。私は笑って帽子を脱(と)った。その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人間を憎んでいるのだろうかと疑(うたぐ)った。その眼、その口、どこにも厭世的(えんせいてき)の影は射(さ)していなかった。
 私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられない事が間々(まま)あったといわなければならない。先生の談話は時として不得要領(ふとくようりょう)に終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例として私の胸の裏(うち)に残った。
 無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。
「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解(わか)ってるくせに、はっきりいってくれないのは困ります」
「私は何にも隠してやしません」
「隠していらっしゃいます」
「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏(まと)め上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉(ことごと)くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
 先生はあきれたといった風(ふう)に、私の顔を見た。巻烟草(まきタバコ)を持っていたその手が少し顫(ふる)えた。
「あなたは大胆だ」
「ただ真面目(まじめ)なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を訐(あば)いてもですか」
 訐くという言葉が、突然恐ろしい響(ひび)きをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐(すわ)っているのが、一人の罪人(ざいにん)であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼(あお)かった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果(いんが)で、人を疑(うたぐ)りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好(い)いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
 私の声は顫えた。
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増(まし)かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
 私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。

     三十二

 私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り及第した。卒業式の日、私は黴臭(かびくさ)くなった古い冬服を行李(こうり)の中から出して着た。式場にならぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私は風の通らない厚羅紗(あつラシャ)の下に密封された自分の身体(からだ)を持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょになった。
 私は式が済むとすぐ帰って裸体(はだか)になった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡(とおめがね)のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、室(へや)の真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
 私はその晩先生の家へ御馳走(ごちそう)に招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐(ばんさん)はよそで喰(く)わずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
 食卓は約束通り座敷の縁(えん)近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い糊(のり)の硬(こわ)い卓布(テーブルクロース)が美しくかつ清らかに電燈の光を射返(いかえ)していた。先生のうちで飯(めし)を食うと、きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、箸(はし)や茶碗(ちゃわん)が置かれた。そうしてそれが必ず洗濯したての真白(まっしろ)なものに限られていた。
「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層(いっそ)始(はじ)めから色の着いたものを使うが好(い)い。白ければ純白でなくっちゃ」
 こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎なども実に整然(きちり)と片付いていた。無頓着(むとんじゃく)な私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。
「先生は癇性(かんしょう)ですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」と答えた事があった。それを傍(そば)に聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿(ばかばか)しい性分(しょうぶん)だ」といって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという意味か、私には解(わか)らなかった。奥さんにも能(よ)く通じないらしかった。
 その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布(たくふ)の前に坐(すわ)った。奥さんは二人を左右に置いて、独(ひと)り庭の方を正面にして席を占めた。
「お目出とう」といって、先生が私のために杯(さかずき)を上げてくれた。私はこの盃(さかずき)に対してそれほど嬉(うれ)しい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの源因(げんいん)であった。けれども先生のいい方も決して私の嬉(うれ)しさを唆(そそ)る浮々(うきうき)した調子を帯びていなかった。先生は笑って杯(さかずき)を上げた。私はその笑いのうちに、些(ちっ)とも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も汲(く)み取る事ができなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語っていた。
 奥さんは私に「結構ね。さぞお父(とう)さんやお母(かあ)さんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。
「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。
「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。
「ええ、たしかしまってあるはずですが」
 卒業証書の在処(ありどころ)は二人ともよく知らなかった。

     三十三

 飯(めし)になった時、奥さんは傍(そば)に坐(すわ)っている下女(げじょ)を次へ立たせて、自分で給仕(きゅうじ)の役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の仕来(しきた)りらしかった。始めの一、二回は私(わたくし)も窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗(ちゃわん)を奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。
「お茶? ご飯(はん)? ずいぶんよく食べるのね」
 奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そんなに調戯(からか)われるほど食欲が進まなかった。
「もうおしまい。あなた近頃(ちかごろ)大変小食(しょうしょく)になったのね」
「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」
 奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子(みずがし)を運ばせた。
「これは宅(うち)で拵(こしら)えたのよ」
 用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞(ふるま)うだけの余裕があると見えた。私はそれを二杯更(か)えてもらった。
「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をずらして、敷居際(しきいぎわ)で背中を障子(しょうじ)に靠(も)たせていた。
 私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的(あて)もなかった。返事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃお役人(やくにん)?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。
「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくらいなんですから。だいちどれが善(い)いか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないと解(わか)らないんだから、選択に困る訳だと思います」
「それもそうね。けれどもあなたは必竟(ひっきょう)財産があるからそんな呑気(のんき)な事をいっていられるのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」
 私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事実を認めた。しかしこういった。
「少し先生にかぶれたんでしょう」
「碌(ろく)なかぶれ方をして下さらないのね」
 先生は苦笑した。
「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けてもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」
 私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの躑躅(つつじ)の咲いている五月の初めを思い出した。あの時帰り途(みち)に、先生が昂奮(こうふん)した語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、むしろ凄(すご)い言葉であった。けれども事実を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあった。
「奥さん、お宅(たく)の財産はよッぽどあるんですか」
「何だってそんな事をお聞きになるの」
「先生に聞いても教えて下さらないから」
 奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
「教えて上げるほどないからでしょう」
「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、宅(うち)へ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい」
 先生は庭の方を向いて、澄まして烟草(タバコ)を吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかった。
「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。――そりゃどうでも宜(い)いとして、あなたはこれから何か為(な)さらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生のようにごろごろばかりしていちゃ……」
「ごろごろばかりしていやしないさ」
 先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。

     三十四

 私(わたくし)はその夜十時過ぎに先生の家を辞した。二、三日うちに帰国するはずになっていたので、座を立つ前に私はちょっと暇乞(いとまご)いの言葉を述べた。
「また当分お目にかかれませんから」
「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」
 私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。しかし暑い盛りの八月を東京まで来て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。
「まあ九月頃(ごろ)になるでしょう」
「じゃずいぶんご機嫌(きげん)よう。私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかも知れないのよ。ずいぶん暑そうだから。行ったらまた絵端書(えはがき)でも送って上げましょう」
「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」
 先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。
「何まだ行くとも行かないとも極(き)めていやしないんです」
 席を立とうとした時、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気はどうなんです」と聞いた。私は父の健康についてほとんど知るところがなかった。何ともいって来ない以上、悪くはないのだろうくらいに考えていた。
「そんなに容易(たやす)く考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症(にょうどくしょう)が出ると、もう駄目(だめ)なんだから」
 尿毒症という言葉も意味も私には解(わか)らなかった。この前の冬休みに国で医者と会見した時に、私はそんな術語をまるで聞かなかった。
「本当に大事にしてお上げなさいよ」と奥さんもいった。「毒が脳へ廻(まわ)るようになると、もうそれっきりよ、あなた。笑い事じゃないわ」
 無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。
「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」
「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」
 奥さんは昔同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でも憶(おも)い出したのか、沈んだ調子でこういったなり下を向いた。私も父の運命が本当に気の毒になった。
 すると先生が突然奥さんの方を向いた。
「静(しず)、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」
「なぜ」
「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それとも己(おれ)の方がお前より前に片付くかな。大抵世間じゃ旦那(だんな)が先で、細君(さいくん)が後へ残るのが当り前のようになってるね」
「そう極(きま)った訳でもないわ。けれども男の方(ほう)はどうしても、そら年が上でしょう」
「だから先へ死ぬという理屈なのかね。すると己もお前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事になるね」
「あなたは特別よ」
「そうかね」
「だって丈夫なんですもの。ほとんど煩(わずら)った例(ためし)がないじゃありませんか。そりゃどうしたって私の方が先だわ」
「先かな」
「え、きっと先よ」
 先生は私の顔を見た。私は笑った。
「しかしもしおれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」
「どうするって……」
 奥さんはそこで口籠(くちごも)った。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分を更(か)えていた。
「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定(ろうしょうふじょう)っていうくらいだから」
 奥さんはことさらに私の方を見て笑談(じょうだん)らしくこういった。

     三十五

 私(わたくし)は立て掛けた腰をまたおろして、話の区切りの付くまで二人の相手になっていた。
「君はどう思います」と先生が聞いた。
 先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、固(もと)より私に判断のつくべき問題ではなかった。私はただ笑っていた。
「寿命は分りませんね。私にも」
「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんと極(きま)った年数をもらって来るんだから仕方がないわ。先生のお父(とう)さんやお母さんなんか、ほとんど同(おんな)じよ、あなた、亡くなったのが」
「亡くなられた日がですか」
「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」
 この知識は私にとって新しいものであった。私は不思議に思った。
「どうしてそう一度に死なれたんですか」
 奥さんは私の問いに答えようとした。先生はそれを遮(さえぎ)った。
「そんな話はお止(よ)しよ。つまらないから」
 先生は手に持った団扇(うちわ)をわざとばたばたいわせた。そうしてまた奥さんを顧みた。
「静(しず)、おれが死んだらこの家(うち)をお前にやろう」
 奥さんは笑い出した。
「ついでに地面も下さいよ」
「地面は他(ひと)のものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものは皆(みん)なお前にやるよ」
「どうも有難う。けれども横文字の本なんか貰(もら)っても仕様がないわね」
「古本屋に売るさ」
「売ればいくらぐらいになって」
 先生はいくらともいわなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった。そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答えをしているらしく見えた。それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍(なんべん)おっしゃるの。後生(ごしょう)だからもう好(い)い加減にして、おれが死んだらは止(よ)して頂戴(ちょうだい)。縁喜(えんぎ)でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」
 先生は庭の方を向いて笑った。しかしそれぎり奥さんの厭(いや)がる事をいわなくなった。私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。
「ご病人をお大事(だいじ)に」と奥さんがいった。
「また九月に」と先生がいった。
 私は挨拶(あいさつ)をして格子(こうし)の外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした木犀(もくせい)の一株(ひとかぶ)が、私の行手(ゆくて)を塞(ふさ)ぐように、夜陰(やいん)のうちに枝を張っていた。私は二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被(おお)われているその梢(こずえ)を見て、来たるべき秋の花と香を想(おも)い浮べた。私は先生の宅(うち)とこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように、いっしょに記憶していた。私が偶然その樹(き)の前に立って、再びこの宅の玄関を跨(また)ぐべき次の秋に思いを馳(は)せた時、今まで格子の間から射(さ)していた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。
 私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に調(ととの)える買物もあったし、ご馳走(ちそう)を詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ賑(にぎ)やかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であった。用事もなさそうな男女(なんにょ)がぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに会った。彼は私を無理やりにある酒場(バー)へ連れ込んだ。私はそこで麦酒(ビール)の泡のような彼の気□(きえん)を聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。

     三十六

 私(わたくし)はその翌日(よくじつ)も暑さを冒(おか)して、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変臆劫(おっくう)に感ぜられた。私は電車の中で汗を拭(ふ)きながら、他(ひと)の時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない田舎者(いなかもの)を憎らしく思った。
 私はこの一夏(ひとなつ)を無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、それを履行(りこう)するに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日を丸善(まるぜん)の二階で潰(つぶ)す覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。
 買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟(はんえり)であった。小僧にいうと、いくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、ただ迷うだけであった。その上価(あたい)が極(きわ)めて不定であった。安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると、かえって大変安かったりした。あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付かないのもあった。私は全く弱らせられた。そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんを煩(わずら)わさなかったかを悔いた。
 私は鞄(かばん)を買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしているので、田舎ものを威嚇(おど)かすには充分であった。この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに一切(いっさい)の土産(みやげ)ものを入れて帰るようにと、わざわざ手紙の中に書いてあった。私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の料簡(りょうけん)が解(わか)らないというよりも、その言葉が一種の滑稽(こっけい)として訴えたのである。
 私は暇乞(いとまご)いをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った。この冬以来父の病気について先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。私はむしろ父がいなくなったあとの母を想像して気の毒に思った。そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の到底(とても)故(もと)のような健康体になる見込みのない事を述べた。一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのは定(さだ)めて心細いだろう、我々も子として遺憾(いかん)の至(いた)りであるというような感傷的な文句さえ使った。私は実際心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。
 私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。私は不愉快になった。私はまた先生夫婦の事を想(おも)い浮べた。ことに二、三日前晩食(ばんめし)に呼ばれた時の会話を憶(おも)い出した。
「どっちが先へ死ぬだろう」
 私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと判然(はっきり)分っていたならば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるより外(ほか)に仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。私は人間を果敢(はか)ないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。


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  中 両親と私


     一

 宅(うち)へ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。
「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔を洗って来るから」
 父は庭へ出て何かしていたところであった。古い麦藁帽(むぎわらぼう)の後ろへ、日除(ひよけ)のために括(くく)り付けた薄汚(うすぎた)ないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ廻(まわ)って行った。
 学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていた私(わたくし)は、それを予期以上に喜んでくれる父の前に恐縮した。
「卒業ができてまあ結構だ」
 父はこの言葉を何遍(なんべん)も繰り返した。私は心のうちでこの父の喜びと、卒業式のあった晩先生の家(うち)の食卓で、「お目出とう」といわれた時の先生の顔付(かおつき)とを比較した。私には口で祝ってくれながら、腹の底でけなしている先生の方が、それほどにもないものを珍しそうに嬉(うれ)しがる父よりも、かえって高尚に見えた。私はしまいに父の無知から出る田舎臭(いなかくさ)いところに不快を感じ出した。
「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」
 私はついにこんな口の利(き)きようをした。すると父が変な顔をした。
「何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。そりゃ卒業は結構に違いないが、おれのいうのはもう少し意味があるんだ。それがお前に解(わか)っていてくれさえすれば、……」
 私は父からその後(あと)を聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこういった。
「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月(みつき)か四月(よつき)ぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどういう仕合(しあわ)せか、今日までこうしている。起居(たちい)に不自由なくこうしている。そこへお前が卒業してくれた。だから嬉(うれ)しいのさ。せっかく丹精(たんせい)した息子が、自分のいなくなった後(あと)で卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば嬉(うれ)しいだろうじゃないか。大きな考えをもっているお前から見たら、高(たか)が大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」
 私は一言(いちごん)もなかった。詫(あや)まる以上に恐縮して俯向(うつむ)いていた。父は平気なうちに自分の死を覚悟していたものとみえる。しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。その卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全く愚(おろ)かものであった。私は鞄(かばん)の中から卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。証書は何かに圧(お)し潰(つぶ)されて、元の形を失っていた。父はそれを鄭寧(ていねい)に伸(の)した。
「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」
「中に心(しん)でも入れると好(よ)かったのに」と母も傍(かたわら)から注意した。
 父はしばらくそれを眺(なが)めた後(あと)、起(た)って床(とこ)の間の所へ行って、誰(だれ)の目にもすぐはいるような正面へ証書を置いた。いつもの私ならすぐ何とかいうはずであったが、その時の私はまるで平生(へいぜい)と違っていた。父や母に対して少しも逆らう気が起らなかった。私はだまって父の為(な)すがままに任せておいた。一旦(いったん)癖のついた鳥(とり)の子紙(こがみ)の証書は、なかなか父の自由にならなかった。適当な位置に置かれるや否(いな)や、すぐ己(おの)れに自然な勢(いきお)いを得て倒れようとした。

     二

 私(わたくし)は母を蔭(かげ)へ呼んで父の病状を尋ねた。
「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」
「もう何ともないようだよ。大方(おおかた)好くおなりなんだろう」
 母は案外平気であった。都会から懸(か)け隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう事に掛けてはまるで無知識であった。それにしてもこの前父が卒倒した時には、あれほど驚いて、あんなに心配したものを、と私は心のうちで独り異(い)な感じを抱(いだ)いた。
「でも医者はあの時到底(とても)むずかしいって宣告したじゃありませんか」
「だから人間の身体(からだ)ほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が手重(ておも)くいったものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも始めのうちは心配して、なるべく動かさないようにと思ってたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はしなさるけれども、強情(ごうじょう)でねえ。自分が好(い)いと思い込んだら、なかなか私(わたし)のいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね」
 私はこの前帰った時、無理に床(とこ)を上げさして、髭(ひげ)を剃(そ)った父の様子と態度とを思い出した。「もう大丈夫、お母さんがあんまり仰山(ぎょうさん)過ぎるからいけないんだ」といったその時の言葉を考えてみると、満更(まんざら)母ばかり責める気にもなれなかった。「しかし傍(はた)でも少しは注意しなくっちゃ」といおうとした私は、とうとう遠慮して何にも口へ出さなかった。ただ父の病(やまい)の性質について、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。しかしその大部分は先生と先生の奥さんから得た材料に過ぎなかった。母は別に感動した様子も見せなかった。ただ「へえ、やっぱり同(おんな)じ病気でね。お気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、その方(かた)は」などと聞いた。
 私は仕方がないから、母をそのままにしておいて直接父に向かった。父は私の注意を母よりは真面目(まじめ)に聞いてくれた。「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、己(おれ)の身体(からだ)は必竟(ひっきょう)己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験上、己が一番能(よ)く心得ているはずだからね」といった。それを聞いた母は苦笑した。「それご覧な」といった。
「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大変喜んでいるのも、全くそのためなんです。生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに免状を持って来たから、それが嬉(うれ)しいんだって、お父さんは自分でそういっていましたぜ」
「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。お腹(なか)のなかではまだ大丈夫だと思ってお出(いで)のだよ」
「そうでしょうか」
「まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだがね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの家(うち)にいる気かなんて」
 私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家(いなかや)を想像して見た。この家(いえ)から父一人を引き去った後(あと)は、そのままで立ち行くだろうか。兄はどうするだろうか。母は何というだろうか。そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。私は母を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けて貰(もら)うものは、分けて貰って置けという注意を、偶然思い出した。
「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試(ため)しはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方が剣呑(けんのん)さ」
 私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐(ちんぷ)なような母の言葉を黙然(もくねん)と聞いていた。

     三

 私(わたくし)のために赤い飯(めし)を炊(た)いて客をするという相談が父と母の間に起った。私は帰った当日から、あるいはこんな事になるだろうと思って、心のうちで暗(あん)にそれを恐れていた。私はすぐ断わった。
「あんまり仰山(ぎょうさん)な事は止(よ)してください」
 私は田舎(いなか)の客が嫌いだった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、何か事があれば好(い)いといった風(ふう)の人ばかり揃(そろ)っていた。私は子供の時から彼らの席に侍(じ)するのを心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそう甚(はなはだ)しいように想像された。しかし私は父や母の手前、あんな野鄙(やひ)な人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。
「仰山仰山とおいいだが、些(ちっ)とも仰山じゃないよ。生涯に二度とある事じゃないんだからね、お客ぐらいするのは当り前だよ。そう遠慮をお為(し)でない」
 母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でも貰(もら)ったと同じ程度に、重く見ているらしかった。
「呼ばなくっても好(い)いが、呼ばないとまた何とかいうから」
 これは父の言葉であった。父は彼らの陰口を気にしていた。実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期通りにならないと、すぐ何とかいいたがる人々であった。
「東京と違って田舎は蒼蠅(うるさ)いからね」
 父はこうもいった。
「お父さんの顔もあるんだから」と母がまた付け加えた。
 私は我(が)を張る訳にも行かなかった。どうでも二人の都合の好(い)いようにしたらと思い出した。
「つまり私のためなら、止(よ)して下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのが厭(いや)だからというご主意(しゅい)なら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありません」
「そう理屈をいわれると困る」
 父は苦い顔をした。
「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義理ぐらいは知っているだろう」
 母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。その代り口数からいうと、父と私を二人寄せてもなかなか敵(かな)うどころではなかった。
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
 父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生(へいぜい)から私に対してもっている不平の全体を見た。私はその時自分の言葉使いの角張(かどば)ったところに気が付かずに、父の不平の方ばかりを無理のように思った。
 父はその夜(よ)また気を更(か)えて、客を呼ぶなら何日(いつ)にするかと私の都合を聞いた。都合の好(い)いも悪いもなしにただぶらぶら古い家の中に寝起(ねお)きしている私に、こんな問いを掛けるのは、父の方が折れて出たのと同じ事であった。私はこの穏やかな父の前に拘泥(こだわ)らない頭を下げた。私は父と相談の上招待(しょうだい)の日取りを極(き)めた。
 その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇(めいじてんのう)のご病気の報知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家(いなかや)のうちに多少の曲折を経てようやく纏(まと)まろうとした私の卒業祝いを、塵(ちり)のごとくに吹き払った。
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
 眼鏡(めがね)を掛けて新聞を見ていた父はこういった。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかった。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸(ぎょうこう)になった陛下を憶(おも)い出したりした。

     四

 小勢(こぜい)な人数(にんず)には広過ぎる古い家がひっそりしている中に、私(わたくし)は行李(こうり)を解いて書物を繙(ひもと)き始めた。なぜか私は気が落ち付かなかった。あの目眩(めまぐ)るしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁(ページ)を一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持よく勉強ができた。
 私はややともすると机にもたれて仮寝(うたたね)をした。時にはわざわざ枕(まくら)さえ出して本式に昼寝を貪(むさ)ぼる事もあった。眼が覚めると、蝉(せみ)の声を聞いた。うつつから続いているようなその声は、急に八釜(やかま)しく耳の底を掻(か)き乱した。私は凝(じっ)とそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸に抱(いだ)いた。
 私は筆を執(と)って友達のだれかれに短い端書(はがき)または長い手紙を書いた。その友達のあるものは東京に残っていた。あるものは遠い故郷に帰っていた。返事の来るのも、音信(たより)の届かないのもあった。私は固(もと)より先生を忘れなかった。原稿紙へ細字(さいじ)で三枚ばかり国へ帰ってから以後の自分というようなものを題目にして書き綴(つづ)ったのを送る事にした。私はそれを封じる時、先生ははたしてまだ東京にいるだろうかと疑(うたぐ)った。先生が奥さんといっしょに宅(うち)を空(あ)ける場合には、五十恰好(がっこう)の切下(きりさげ)の女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。私がかつて先生にあの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私はその人を先生の親類と思い違えていた。先生は「私には親類はありませんよ」と答えた。先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一向(いっこう)音信の取(と)り遣(や)りをしていなかった。私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁のない奥さんの方の親戚(しんせき)であった。私は先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んでいるその人の姿を思い出した。もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あの切下のお婆(ばあ)さんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考えた。そのくせその手紙のうちにはこれというほどの必要の事も書いてないのを、私は能(よ)く承知していた。ただ私は淋(さび)しかった。そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。しかしその返事はついに来なかった。
 父はこの前の冬に帰って来た時ほど将棋(しょうぎ)を差したがらなくなった。将棋盤はほこりの溜(たま)ったまま、床(とこ)の間(ま)の隅に片寄せられてあった。ことに陛下のご病気以後父は凝(じっ)と考え込んでいるように見えた。毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先へ読んだ。それからその読(よみ)がらをわざわざ私のいる所へ持って来てくれた。
「おいご覧、今日も天子さまの事が詳しく出ている」
 父は陛下のことを、つねに天子さまといっていた。
「勿体(もったい)ない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
 こういう父の顔には深い掛念(けねん)の曇(くも)りがかかっていた。こういわれる私の胸にはまた父がいつ斃(たお)れるか分らないという心配がひらめいた。
「しかし大丈夫だろう。おれのような下(くだ)らないものでも、まだこうしていられるくらいだから」
 父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも己(おの)れに落ちかかって来そうな危険を予感しているらしかった。
「お父さんは本当に病気を怖(こわ)がってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生きる気じゃなさそうですぜ」
 母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
 私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりを拭(ふ)いた。

     五

 父の元気は次第に衰えて行った。私(わたくし)を驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子(むぎわらぼうし)が自然と閑却(かんきゃく)されるようになった。私は黒い煤(すす)けた棚の上に載(の)っているその帽子を眺(なが)めるたびに、父に対して気の毒な思いをした。父が以前のように、軽々と動く間は、もう少し慎(つつし)んでくれたらと心配した。父が凝(じっ)と坐(すわ)り込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという気が起った。私は父の健康についてよく母と話し合った。
「まったく気のせいだよ」と母がいった。母の頭は陛下の病(やまい)と父の病とを結び付けて考えていた。私にはそうばかりとも思えなかった。
「気じゃない。本当に身体(からだ)が悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くらしい」
 私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
「今年の夏はお前も詰(つま)らなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さんの身体(からだ)もあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方が好かったんだよ」
 私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それから一週間後(ご)であった。そうしていよいよと極(き)めた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。時間に束縛を許さない悠長な田舎(いなか)に帰った私は、お蔭(かげ)で好もしくない社交上の苦痛から救われたも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。
 崩御(ほうぎょ)の報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己(おれ)も……」
 父はその後(あと)をいわなかった。
 私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿(はたざお)の球(たま)を包んで、それで旗竿の先へ三寸幅(ずんはば)のひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、風のない空気のなかにだらりと下がった。私の宅(うち)の古い門の屋根は藁(わら)で葺(ふ)いてあった。雨や風に打たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々(ところどころ)の凸凹(でこぼこ)さえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地(じ)と、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とを眺(なが)めた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつて先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分(だいぶ)趣が違っていますかね」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。また先生に見せるのが恥ずかしくもあった。
 私はまた一人家のなかへはいった。自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしているなかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。私はその時この燈火が音のしない渦(うず)の中に、自然と捲(ま)き込まれている事に気が付かなかった。しばらくすれば、その灯(ひ)もまたふっと消えてしまうべき運命を、眼(め)の前に控えているのだとは固(もと)より気が付かなかった。
 私は今度の事件について先生に手紙を書こうかと思って、筆を執(と)りかけた。私はそれを十行ばかり書いて已(や)めた。書いた所は寸々(すんずん)に引き裂いて屑籠(くずかご)へ投げ込んだ。(先生に宛(あ)ててそういう事を書いても仕方がないとも思ったし、前例に徴(ちょう)してみると、とても返事をくれそうになかったから)。私は淋(さび)しかった。それで手紙を書くのであった。そうして返事が来れば好(い)いと思うのであった。

     六

 八月の半(なか)ばごろになって、私(わたくし)はある朋友(ほうゆう)から手紙を受け取った。その中に地方の中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探し廻(まわ)る男であった。この口も始めは自分の所へかかって来たのだが、もっと好(い)い地方へ相談ができたので、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。私はすぐ返事を出して断った。知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へ廻(まわ)してやったら好(よ)かろうと書いた。
 私は返事を出した後で、父と母にその話をした。二人とも私の断った事に異存はないようであった。
「そんな所へ行かないでも、まだ好(い)い口があるだろう」
 こういってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。迂闊(うかつ)な父や母は、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。
「相当の口って、近頃(ちかごろ)じゃそんな旨(うま)い口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さんと私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」
「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなたの所のご二男(じなん)は、大学を卒業なすって何をしてお出(いで)ですかと聞かれた時に返事ができないようじゃ、おれも肩身が狭いから」
 父は渋面(しゅうめん)をつくった。父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。その郷里の誰彼(だれかれ)から、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ百円ぐらいなものだろうかといわれたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業したての私を片付けたかったのである。広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まるで足を空に向けて歩く奇体(きたい)な人間に異ならなかった。私の方でも、実際そういう人間のような気持を折々起した。私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔(けんかく)の甚(はなはだ)しい父と母の前に黙然(もくねん)としていた。
「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら好(い)いじゃないか。こんな時こそ」
 母はこうより外(ほか)に先生を解釈する事ができなかった。その先生は私に国へ帰ったら父の生きているうちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人ではなかった。
「その先生は何をしているのかい」と父が聞いた。
「何にもしていないんです」と私が答えた。
 私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はたしかにそれを記憶しているはずであった。
「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやっていそうなものだがね」
 父はこういって、私を諷(ふう)した。父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得て働いている。必竟(ひっきょう)やくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
 父はこうもいった。私はそれでもまだ黙っていた。

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