彼岸過迄
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著者名:夏目漱石 

        十二

 好奇心に駆(か)られた敬太郎(けいたろう)は破るようにこの無名氏の書信を披(ひら)いて見た。すると西洋罫紙(せいようけいし)の第一行目に、親愛なる田川君として下に森本よりとあるのが何より先に眼に入った。敬太郎はすぐまた封筒を取り上げた。彼は視線の角度を幾通りにも変えて、そこに消印の文字を読もうと力(つと)めたが、肉が薄いのでどうしても判断がつかなかった。やむを得ず再び本文に立ち帰って、まずそれから片づける事にした。本文にはこうあった。
「突然消えたんで定めて驚ろいたでしょう。あなたは驚ろかないにしても、雷獣(らいじゅう)とそうしてズク(森本は平生下宿の主人夫婦を、雷獣とそうしてズクと呼んでいた。ズクは耳ズクの略である)彼ら両人は驚ろいたに違ない。打ち明けた御話をすると、実は少し下宿代を滞(とどこ)おらしていたので、話をしたら雷獣とそうしてズクが面倒をいうだろうと思って、わざと断らずに、自由行動を取りました。僕の室(へや)に置いてある荷物を始末したら――行李(こり)の中には衣類その他がすっかり這入(はい)っていますから、相当の金になるだろうと思うんです。だから両人にあなたから右を売るなり着るなりしろとおっしゃっていただきたい。もっとも彼雷獣は御承知のごとき曲者(くせもの)故(ゆえ)僕の許諾を待たずして、とっくの昔にそう取計っているかも知れない。のみならず、こっちからそう穏便(おんびん)に出ると、まだ残っている僕の尻を、あなたに拭って貰いたいなどと、とんでもない難題を持ちかけるかも知れませんが、それにはけっして取り合っちゃいけません。あなたのように高等教育を受けて世の中へ出たての人はとかく雷獣輩(はい)が食物(くいもの)にしたがるものですから、その辺(へん)はよく御注意なさらないといけません。僕だって教育こそないが、借金を踏んじゃ善(よ)くないくらいの事はまさかに心得ています。来年になればきっと返してやるつもりです。僕に意外な経歴が数々あるからと云って、あなたにこの点まで疑われては、せっかくの親友を一人失くしたも同様、はなはだ遺憾(いかん)の至(いたり)だから、どうか雷獣ごときもののために僕を誤解しないように願います」
 森本は次に自分が今大連で電気公園の娯楽がかりを勤めている由(よし)を書いて、来年の春には活動写真買入の用向を帯びて、是非共出京するはずだから、その節は御地で久しぶりに御目にかかるのを今から楽(たのしみ)にして待っているとつけ加えていた。そうしてその後(あと)へ自分が旅行した満洲(まんしゅう)地方の景況をさも面白そうに一口ぐらいずつ吹聴(ふいちょう)していた。中で最も敬太郎を驚ろかしたのは、長春(ちょうしゅん)とかにある博打場(ばくちば)の光景で、これはかつて馬賊の大将をしたというさる日本人の経営に係るものだが、そこへ行って見ると、何百人と集まる汚ない支那人が、折詰のようにぎっしり詰って、血眼(ちまなこ)になりながら、一種の臭気(しゅうき)を吐き合っているのだそうである。しかも長春の富豪が、慰(なぐさ)み半分わざと垢(あか)だらけな着物を着て、こっそりここへ出入(しゅつにゅう)するというんだから、森本だってどんな真似(まね)をしたか分らないと敬太郎は考えた。
 手紙の末段には盆栽(ぼんさい)の事が書いてあった。「あの梅の鉢は動坂(どうざか)の植木屋で買ったので、幹はそれほど古くないが、下宿の窓などに載(の)せておいて朝夕(あさゆう)眺(なが)めるにはちょうど手頃のものです。あれを献上(けんじょう)するからあなたの室(へや)へ持っていらっしゃい。もっとも雷獣(らいじゅう)とそうしてズクは両人共極(きわ)めて不風流故(ゆえ)、床の間の上へ据(す)えたなり放っておいて、もう枯らしてしまったかも知れません。それから上り口の土間の傘入(かさいれ)に、僕の洋杖(ステッキ)が差さっているはずです。あれも価格(ねだん)から云えばけっして高く踏めるものではありませんが、僕の愛用したものだから、紀念のため是非あなたに進上したいと思います。いかな雷獣とそうしてズクもあの洋杖をあなたが取ったって、まさか故障は申し立てますまい。だからけっして御遠慮なさらずと好い。取って御使いなさい。――満洲ことに大連ははなはだ好い所です。あなたのような有為の青年が発展すべき所は当分ほかに無いでしょう。思い切って是非いらっしゃいませんか。僕はこっちへ来て以来満鉄の方にもだいぶ知人ができたから、もしあなたが本当に来る気なら、相当の御世話はできるつもりです。ただしその節は前もってちょっと御通知を願います。さよなら」
 敬太郎は手紙を畳んで机の抽出(ひきだし)へ入れたなり、主人夫婦へは森本の消息について、何事も語らなかった。洋杖は依然として、傘入の中に差さっていた。敬太郎は出入(でいり)の都度(つど)、それを見るたびに一種妙な感に打たれた。


     停留所

        一

 敬太郎(けいたろう)に須永(すなが)という友達があった。これは軍人の子でありながら軍人が大嫌(だいきらい)で、法律を修(おさ)めながら役人にも会社員にもなる気のない、至って退嬰主義(たいえいしゅぎ)の男であった。少くとも敬太郎にはそう見えた。もっとも父はよほど以前に死んだとかで、今では母とたった二人ぎり、淋(さみ)しいような、また床(ゆか)しいような生活を送っている。父は主計官としてだいぶ好い地位にまで昇(のぼ)った上、元来が貨殖(かしょく)の道に明らかな人であっただけ、今では母子共(おやことも)衣食の上に不安の憂(うれい)を知らない好い身分である。彼の退嬰主義も半(なか)ばはこの安泰な境遇に慣(な)れて、奮闘の刺戟(しげき)を失った結果とも見られる。というものは、父が比較的立派な地位にいたせいか、彼には世間体(せけんてい)の好いばかりでなく、実際ためになる親類があって、いくらでも出世の世話をしてやろうというのに、彼は何だかだと手前勝手ばかり並べて、今もってぐずぐずしているのを見ても分る。
「そう贅沢(ぜいたく)ばかり云ってちゃもったいない。厭(いや)なら僕に譲るがいい」と敬太郎は冗談(じょうだん)半分に須永を強請(せび)ることもあった。すると須永は淋(さび)しそうなまた気の毒そうな微笑を洩(も)らして、「だって君じゃいけないんだから仕方がないよ」と断るのが常であった。断られる敬太郎は冗談にせよ好い心持はしなかった。おれはおれでどうかするという気概も起して見た。けれども根が執念深(しゅうねんぶか)くない性質(たち)だから、これしきの事で須永に対する反抗心などが永く続きようはずがなかった。その上身分が定まらないので、気の落ちつく背景を有(も)たない彼は、朝から晩まで下宿の一(ひ)と間(ま)にじっと坐っている苦痛に堪(た)えなかった。用がなくっても半日は是非出て歩(あ)るいた。そうしてよく須永の家(うち)を訪問(おとず)れた。一つはいつ行っても大抵留守の事がないので、行く敬太郎の方でも張合があったのかも知れない。
「糊口(くち)も糊口[#「糊口」は底本では「口糊」]だが、糊口より先に、何か驚嘆に価(あたい)する事件に会いたいと思ってるが、いくら電車に乗って方々歩いても全く駄目だね。攫徒(すり)にさえ会わない」などと云うかと思うと、「君、教育は一種の権利かと思っていたら全く一種の束縛(そくばく)だね。いくら学校を卒業したって食うに困るようじゃ何の権利かこれあらんやだ。それじゃ位地(いち)はどうでもいいから思う存分勝手な真似(まね)をして構わないかというと、やっぱり構うからね。厭(いや)に人を束縛するよ教育が」と忌々(いまいま)しそうに嘆息する事がある。須永は敬太郎のいずれの不平に対しても余り同情がないらしかった。第一彼の態度からしてが本当に真面目(まじめ)なのだか、またはただ空焦燥(からはしゃぎ)に焦燥いでいるのか見分がつかなかったのだろう。ある時須永はあまり敬太郎がこういうような浮ずった事ばかり言い募(つの)るので、「それじゃ君はどんな事がして見たいのだ。衣食問題は別として」と聞いた。敬太郎は警視庁の探偵見たような事がして見たいと答えた。
「じゃするが好いじゃないか、訳ないこった」
「ところがそうは行かない」
 敬太郎は本気になぜ自分に探偵ができないかという理由を述べた。元来探偵なるものは世間の表面から底へ潜(もぐ)る社会の潜水夫のようなものだから、これほど人間の不思議を攫(つか)んだ職業はたんとあるまい。それに彼らの立場は、ただ他(ひと)の暗黒面を観察するだけで、自分と堕落してかかる危険性を帯びる必要がないから、なおの事都合がいいには相違ないが、いかんせんその目的がすでに罪悪の暴露(ばくろ)にあるのだから、あらかじめ人を陥(おとしい)れようとする成心の上に打ち立てられた職業である。そんな人の悪い事は自分にはできない。自分はただ人間の研究者否(いな)人間の異常なる機関(からくり)が暗い闇夜(やみよ)に運転する有様を、驚嘆の念をもって眺(なが)めていたい。――こういうのが敬太郎の主意であった。須永は逆(さから)わずに聞いていたが、これという批判の言葉も放たなかった。それが敬太郎には老成と見えながらその実平凡なのだとしか受取れなかった。しかも自分を相手にしないような落ちつき払った風のあるのを悪(にく)く思って別れた。けれども五日と経(た)たないうちにまた須永の宅(うち)へ行きたくなって、表へ出ると直(すぐ)神田行の電車に乗った。

        二

 須永(すなが)はもとの小川亭即ち今の天下堂という高い建物を目標(めじるし)に、須田町の方から右へ小さな横町を爪先上(つまさきのぼ)りに折れて、二三度不規則に曲った極(きわ)めて分り悪(にく)い所にいた。家並(いえなみ)の立て込んだ裏通りだから、山の手と違って無論屋敷を広く取る余地はなかったが、それでも門から玄関まで二間ほど御影(みかげ)の上を渡らなければ、格子先(こうしさき)の電鈴(ベル)に手が届かないくらいの一構(ひとかまえ)であった。もとから自分の持家(もちいえ)だったのを、一時親類の某(なにがし)に貸したなり久しく過ぎたところへ、父が死んだので、無人(ぶにん)の活計(くらし)には場所も広さも恰好(かっこう)だろうという母の意見から、駿河台(するがだい)の本宅を売払ってここへ引移ったのである。もっともそれからだいぶ手を入れた。ほとんど新築したも同然さとかつて須永が説明して聞かせた時に、敬太郎(けいたろう)はなるほどそうかと思って、二階の床柱や天井板(てんじょういた)を見廻した事がある。この二階は須永の書斎にするため、後から継(つ)ぎ足したので、風が強く吹く日には少し揺れる気味はあるが、ほかにこれと云って非の打ちようのない綺麗(きれい)に明かな四畳六畳二間(ふたま)つづきの室(へや)であった。その室に坐(すわ)っていると、庭に植えた松の枝と、手斧目(ちょうなめ)の付いた板塀(いたべい)の上の方と、それから忍び返しが見えた。縁に出て手摺(てすり)から見下した時、敬太郎は松の根に一面と咲いた鷺草(さぎそう)を眺めて、あの白いものは何だと須永に聞いた事もあった。
 彼は須永を訪問してこの座敷に案内されるたびに、書生と若旦那の区別を判然と心に呼び起さざるを得なかった。そうしてこう小ぢんまり片づいて暮している須永を軽蔑(けいべつ)すると同時に、閑静ながら余裕(よゆう)のあるこの友の生活を羨(うら)やみもした。青年があんなでは駄目だと考えたり、またあんなにもなって見たいと思ったりして、今日も二つの矛盾からでき上った斑(まだら)な興味を懐(ふところ)に、彼は須永を訪問したのである。
 例の小路(こうじ)を二三度曲折して、須永の住居(すま)っている通りの角まで来ると、彼より先に一人の女が須永の門を潜(くぐ)った。敬太郎はただ一目(ひとめ)その後姿を見ただけだったが、青年に共通の好奇心と彼に固有の浪漫趣味(ロマンしゅみ)とが力を合せて、引き摺(ず)るように彼を同じ門前に急がせた。ちょっと覗(のぞ)いて見ると、もう女の影は消えていた。例の通り紅葉(もみじ)を引手(ひきて)に張り込んだ障子(しょうじ)が、閑静に閉(しま)っているだけなのを、敬太郎は少し案外にかつ物足らず眺(なが)めていたが、やがて沓脱(くつぬぎ)の上に脱ぎ捨てた下駄(げた)に気をつけた。その下駄はもちろん女ものであったが、行儀よく向うむきに揃(そろ)っているだけで、下女が手をかけて直した迹(あと)が少しも見えない。敬太郎は下駄の向(むき)と、思ったより早く上(あが)ってしまった女の所作(しょさ)とを継(つ)ぎ合わして、これは取次を乞わずに、独(ひと)りで勝手に障子を開けて這入(はい)った極(きわ)めて懇意の客だろうと推察した。でなければ家(うち)のものだが、それでは少し変である。須永の家(いえ)は彼と彼の母と仲働(なかばたら)きと下女の四人(よつたり)暮しである事を敬太郎はよく知っていたのである。
 敬太郎は須永の門前にしばらく立っていた。今這入った女の動静をそっと塀の外から窺(うかが)うというよりも、むしろ須永とこの女がどんな文(あや)に二人の浪漫(ロマン)を織っているのだろうと想像するつもりであったが、やはり聞耳(ききみみ)は立てていた。けれども内はいつもの通りしんとしていた。艶(なま)めいた女の声どころか、咳嗽(せき)一つ聞えなかった。
「許嫁(いいなずけ)かな」
 敬太郎はまず第一にこう考えたが、彼の想像はそのくらいで落ちつくほど、訓練を受けていなかった。――母は仲働を連れて親類へ行ったから今日は留守である。飯焚(めしたき)は下女部屋に引き下がっている。須永と女とは今差向いで何か私語(ささや)いている。――はたしてそうだとするといつものように格子戸(こうしど)をがらりと開けて頼むと大きな声を出すのも変なものである。あるいは須永も母も仲働もいっしょに出たかも知れない。おさんはきっと昼寝(ひるね)をしている。女はそこへ這入(はい)ったのである。とすれば泥棒である。このまま引返してはすまない。――敬太郎は狐憑(きつねつき)のようにのそりと立っていた。

        三

 すると二階の障子(しょうじ)がすうと開(あ)いて、青い色の硝子瓶(ガラスびん)を提(さ)げた須永(すなが)の姿が不意に縁側(えんがわ)へ現われたので敬太郎(けいたろう)はちょっと吃驚(びっくり)した。
「何をしているんだ。落し物でもしたのかい」と上から不思議そうに聞きかける須永を見ると、彼は咽喉(のど)の周囲(まわり)に白いフラネルを捲(ま)いていた。手に提(さ)げたのは含嗽剤(がんそうざい)らしい。敬太郎は上を向いて、風邪(かぜ)を引いたのかとか何とか二三言葉を換(か)わしたが、依然として表に立ったまま、動こうともしなかった。須永はしまいに這入れと云った。敬太郎はわざと這入っていいかと念を入れて聞き返した。須永はほとんどその意味を覚(さと)らない人のごとく、軽く首肯(うなず)いたぎり障子の内に引き込んでしまった。
 階段(はしごだん)を上(あが)る時、敬太郎は奥の部屋で微(かす)かに衣摺(きぬずれ)の音がするような気がした。二階には今まで須永の羽織っていたらしい黒八丈(くろはちじょう)の襟(えり)の掛ったどてらが脱ぎ捨ててあるだけで、ほかに平生と変ったところはどこにも認められなかった。敬太郎の性質から云っても、彼の須永に対する交情から云っても、これほど気にかかる女の事を、率直に切り出して聞けないはずはなかったのだが、今までにどこか罪な想像を逞(たく)ましくしたという疚(や)ましさもあり、また面(めん)と向ってすぐとは云い悪(にく)い皮肉な覘(ねらい)を付けた自覚もあるので、今しがた君の家(うち)へ這入った女は全体何者だと無邪気に尋ねる勇気も出なかった。かえって自分の先へ先へと走りたがる心を圧(お)し隠すような風に、
「空想はもう当分やめだ。それよりか口の方が大事だからね」と云って、兼(かね)て須永から聞いている内幸町(うちさいわいちょう)の叔父さんという人に、一応そういう方の用向で会っておきたいから紹介してくれと真面目(まじめ)に頼んだ。叔父というのは須永の母の妹の連合(つれあい)で、官吏から実業界へ這入って、今では四つか五つの会社に関係を有(も)っている相当な位地の人であったが、須永はその叔父の力を藉(か)りてどうしようという料簡(りょうけん)もないと見えて、「叔父がいろいろ云ってくれるけれども、僕は余(あんまり)進まないから」と、かつて敬太郎に話した事があったのを、敬太郎は覚えていたのである。
 須永は今朝すでにその叔父に会うはずであったが、咽喉(のど)を痛めたため、外出を見合せたのだそうで、四五日内には大抵行けるだろうから、その時には是非話して見ようと答えたあとで、「叔父も忙がしい身体(からだ)だしね、それに方々から頼まれるようだから、きっととは受合われないが、まあ会って見たまえ」と念のためだか何だかつけ加えた。余り望(のぞみ)を置き過ぎられては困るというのだろうと敬太郎は解釈したが、それでも会わないよりは増しだぐらいに考えて、例に似ず宜(よろ)しく頼む気になった。が、口で頼むほど腹の中では心配も苦労もしていなかった。
 元来彼が卒業後相当の地位を求めるために、腐心し運動し奔走し、今もなおしつつあるのは、当人の公言するごとく佯(いつわ)りなき事実ではあるが、いまだに成効(せいこう)の曙光(しょこう)を拝まないと云って、さも苦しそうな声を出して見せるうちには、少なくとも五割方の懸値(かけね)が籠(こも)っていた。彼は須永のような一人息子ではなかったが、(妹が片づいて、)母一人残っているところは両方共同じであった。彼は須永のように地面家作の所有主でない代りに、国に少し田地(でんじ)を有(も)っていた。固(もと)より大した穀高(こくだか)になるというほどのものでもないが、俵(ひょう)がいくらというきまった金に毎年替えられるので、二十や三十の下宿代に窮する身分ではなかった。その上女親の甘いのにつけ込んで、自分で自分の身を喰うような臨時費を請求した事も今までに一度や二度ではなかった。だから位地位地と云って騒ぐのが、全くの空騒(からさわぎ)でないにしても、郷党だの朋友(ほうゆう)だのまたは自分だのに対する虚栄心に煽(あお)られている事はたしかであった。そんなら学校にいるうちもっと勉強して好い成績でも取っておきそうなものだのに、そこが浪漫家(ロマンか)だけあって、学課はなるべく怠けよう怠けようと心がけて通して来た結果、すこぶる鮮(あざ)やかならぬ及第をしてしまったのである。

        四

 それで約一時間ほど須永(すなが)と話す間にも、敬太郎(けいたろう)は位地とか衣食とかいう苦しい問題を自分と進んで持ち出しておきながら、やっぱり先刻(さっき)見た後姿(うしろすがた)の女の事が気に掛って、肝心(かんじん)の世渡りの方には口先ほど真面目(まじめ)になれなかった。一度下座敷(したざしき)で若々しい女の笑い声が聞えた時などは、誰か御客が来ているようだねと尋ねて見ようかしらんと考えたくらいである。ところがその考えている時間が、すでに自然をぶち壊(こわ)す道具になって、せっかくの問が間外(まはず)れになろうとしたので、とうとう口へ出さずにやめてしまった。
 それでも須永の方ではなるべく敬太郎の好奇心に媚(こ)びるような話題を持ち出した気でいた。彼は自分の住んでいる電車の裏通りが、いかに小さな家と細い小路(こうじ)のために、賽(さい)の目(め)のように区切られて、名も知らない都会人士の巣を形づくっているうちに、社会の上層に浮き上らない戯曲がほとんど戸(こ)ごとに演ぜられていると云うような事実を敬太郎に告げた。
 まず須永の五六軒先には日本橋辺の金物屋(かなものや)の隠居の妾(めかけ)がいる。その妾が宮戸座(みやとざ)とかへ出る役者を情夫(いろ)にしている。それを隠居が承知で黙っている。その向う横町に代言(だいげん)だか周旋屋(しゅうせんや)だか分らない小綺麗(こぎれい)な格子戸作(こうしどづく)りの家(うち)があって、時々表へ女記者一名、女コック一名至急入用などという広告を黒板(ボールド)へ書いて出す。そこへある時二十七八の美くしい女が、襞(ひだ)を取った紺綾(こんあや)の長いマントをすぽりと被(かぶ)って、まるで西洋の看護婦という服装(なり)をして来て職業の周旋を頼んだ。それが其家(そこ)の主人の昔(むか)し書生をしていた家の御嬢さんなので、主人はもちろん妻君も驚ろいたという話がある。次に背中合せの裏通りへ出ると、白髪頭(しらがあたま)で廿(はたち)ぐらいの妻君を持った高利貸がいる。人の評判では借金の抵当(かた)に取った女房だそうである。その隣りの博奕打(ばくちうち)が、大勢同類を寄せて、互に血眼(ちまなこ)を擦(こす)り合っている最中に、ねんね子で赤ん坊を負(おぶ)ったかみさんが、勝負で夢中になっている亭主を迎(むかえ)に来る事がある。かみさんが泣きながらどうかいっしょに帰ってくれというと、亭主は帰るには帰るが、もう一時間ほどして負けたものを取り返してから帰るという。するとかみさんはそんな意地を張れば張るほど負けるだけだから、是非今帰ってくれと縋(すが)りつくように頼む。いや帰らない、いや帰れといって、往来の氷る夜中でも四隣(あたり)の眠(ねむり)を驚ろかせる。……
 須永の話をだんだん聞いているうちに、敬太郎はこういう実地小説のはびこる中に年来住み慣れて来た須永もまた人の見ないような芝居をこっそりやって、口を拭(ぬぐ)ってすましているのかも知れないという気が強くなって来た。固(もと)よりその推察の裏には先刻(さっき)見た後姿の女が薄い影を投げていた。「ついでに君の分も聞こうじゃないか」と切り込んで見たが、須永はふんと云って薄笑いをしただけであった。その後で簡単に「今日は咽喉(のど)が痛いから」と云った。さも小説は有(も)っているが、君には話さないのだと云わんばかりの挨拶(あいさつ)に聞えた。
 敬太郎が二階から玄関へ下りた時は、例の女下駄がもう見えなかった。帰ったのか、下駄箱へしまわしたのか、または気を利(き)かして隠したのか、彼にはまるで見当(けんとう)がつかなかった。表へ出るや否や、どういう料簡(りょうけん)か彼はすぐ一軒の煙草屋(たばこや)へ飛び込んだ。そうしてそこから一本の葉巻を銜(くわ)えて出て来た。それを吹かしながら須田町まで来て電車に乗ろうとする途端(とたん)に、喫煙御断りという社則を思い出したので、また万世橋の方へ歩いて行った。彼は本郷の下宿へ帰るまでこの葉巻を持たすつもりで、ゆっくりゆっくり足を運ばせながらなお須永の事を考えた。その須永はけっしていつものように単独には頭の中へは這入(はい)って来なかった。考えるたびにきっと後姿の女がちらちら跟(つ)いて来た。しまいに「本郷台町の三階から遠眼鏡(とおめがね)で世の中を覗(のぞ)いていて、浪漫的(ロマンてき)探険なんて気の利いた真似(まね)ができるものか」と須永から冷笑(ひや)かされたような心持がし出した。

        五

 彼は今日(こんにち)まで、俗にいう下町生活に昵懇(なじみ)も趣味も有(も)ち得ない男であった。時たま日本橋の裏通りなどを通って、身を横にしなければ潜(くぐ)れない格子戸(こうしど)だの、三和土(たたき)の上から訳(わけ)もなくぶら下がっている鉄灯籠(かなどうろう)だの、上(あが)り框(がまち)の下を張り詰めた綺麗(きれい)に光る竹だの、杉だか何だか日光(ひ)が透(とお)って赤く見えるほど薄っぺらな障子(しょうじ)の腰だのを眼にするたびに、いかにもせせこましそうな心持になる。こう万事がきちりと小さく整のってかつ光っていられては窮屈でたまらないと思う。これほど小ぢんまりと几帳面(きちょうめん)に暮らして行く彼らは、おそらく食後に使う楊枝(ようじ)の削(けず)り方(かた)まで気にかけているのではなかろうかと考える。そうしてそれがことごとく伝説的の法則に支配されて、ちょうど彼らの用いる煙草盆(たばこぼん)のように、先祖代々順々に拭(ふ)き込まれた習慣を笠(かさ)に、恐るべく光っているのだろうと推察する。須永(すなが)の家(うち)へ行って、用もない松へ大事そうな雪除(ゆきよけ)をした所や、狭い庭を馬鹿丁寧(ばかていねい)に枯松葉で敷きつめた景色(けしき)などを見る時ですら、彼は繊細な江戸式の開花の懐(ふところ)に、ぽうと育った若旦那(わかだんな)を聯想(れんそう)しない訳に行かなかった。第一須永が角帯(かくおび)をきゅうと締(し)めてきちりと坐る事からが彼には変であった。そこへ長唄(ながうた)の好きだとかいう御母(おっか)さんが時々出て来て、滑(すべ)っこい癖(くせ)にアクセントの強い言葉で、舌触(したざわり)の好い愛嬌(あいきょう)を振りかけてくれる折などは、昔から重詰(じゅうづめ)にして蔵の二階へしまっておいたものを、今取り出して来たという風に、出来合(できあい)以上の旨(うま)さがあるので、紋切形(もんきりがた)とは無論思わないけれども、幾代(いくだい)もかかって辞令の練習を積んだ巧みが、その底に潜(ひそ)んでいるとしか受取れなかった。
 要するに敬太郎(けいたろう)はもう少し調子外(ちょうしはず)れの自由なものが欲しかったのである。けれども今日(きょう)の彼は少くとも想像の上において平生の彼とは違っていた。彼は徳川時代の湿(しめ)っぽい空気がいまだに漂(ただ)よっている黒い蔵造(くらづくり)の立ち並ぶ裏通に、親譲りの家を構えて、敬ちゃん御遊びなという友達を相手に、泥棒ごっこや大将ごっこをして成長したかった。月に一遍ずつ蠣殼町(かきがらちょう)の水天宮様(すいてんぐうさま)と深川の不動様へ御参りをして、護摩(ごま)でも上げたかった。(現に須永は母の御供をしてこういう旧弊(きゅうへい)な真似(まね)を当り前のごとくやっている。)それから鉄無地(てつむじ)の羽織でも着ながら、歌舞伎を当世(とうせい)に崩(くず)して往来へ流した匂(におい)のする町内を恍惚(こうこつ)と歩きたかった。そうして習慣に縛(しば)られた、かつ習慣を飛び超(こ)えた艶(なま)めかしい葛藤(かっとう)でもそこに見出したかった。
 彼はこの時たちまち森本の二字を思い浮かべた。するとその二字の周囲にある空想が妙に色を変えた。彼は物好(ものずき)にも自(みずか)ら進んでこの後(うし)ろ暗(ぐら)い奇人に握手を求めた結果として、もう少しでとんだ迷惑を蒙(こう)むるところであった。幸いに下宿の主人が自分の人格を信じたからいいようなものの、疑ぐろうとすればどこまでも疑ぐられ得る場合なのだから、主人の態度いかんに依(よ)っては警察ぐらいへ行かなければならなかったのかも知れない。と、こう考えると、彼の空中に編み上げる勝手な浪漫(ロマン)が急に温味(あたたかみ)を失って、醜(みに)くい想像からでき上った雲の峰同様に、意味もなく崩れてしまった。けれどもその奥に口髭(くちひげ)をだらしなく垂らした二重瞼(ふたえまぶち)の瘠(やせ)ぎすの森本の顔だけは粘(ねば)り強く残っていた。彼はその顔を愛したいような、侮(あなど)りたいような、また憐(あわれ)みたいような心持になった。そうしてこの凡庸(ぼんよう)な顔の後(うしろ)に解すべからざる怪しい物がぼんやり立っているように思った。そうして彼が記念(かたみ)にくれると云った妙な洋杖(ステッキ)を聯想(れんそう)した。
 この洋杖は竹の根の方を曲げて柄(え)にした極(きわ)めて単簡(たんかん)のものだが、ただ蛇(へび)を彫ってあるところが普通の杖(つえ)と違っていた。もっとも輸出向によく見るように蛇の身をぐるぐる竹に巻きつけた毒々しいものではなく、彫ってあるのはただ頭だけで、その頭が口を開けて何か呑(の)みかけているところを握(にぎり)にしたものであった。けれどもその呑みかけているのが何であるかは、握りの先が丸く滑(すべ)っこく削(けず)られているので、蛙(かえる)だか鶏卵(たまご)だか誰にも見当(けんとう)がつかなかった。森本は自分で竹を伐(き)って、自分でこの蛇を彫ったのだと云っていた。

        六

 敬太郎(けいたろう)は下宿の門口(かどぐち)を潜(くぐ)るとき何より先にまずこの洋杖に眼をつけた。というよりも途(みち)すがらの聯想が、硝子戸(ガラスど)を開けるや否や、彼の眼を瀬戸物(せともの)の傘入(かさいれ)の方へ引きつけたのである。実をいうと、彼は森本の手紙を受取った当座、この洋杖を見るたびに、自分にも説明のできない妙な感じがしたので、なるべく眼を触れないように、出入(でいり)の際視線を逸(そ)らしたくらいである。ところがそうすると今度はわざと見ないふりをして傘入の傍(そば)を通るのが苦になってきて、極(きわ)めて軽微な程度ではあるけれどもこの変な洋杖におのずと祟(たた)られたと云う風になって、しまった。彼自身もついには自分の神経を不思議に思い出した。彼は一種の利害関係から、過去に溯(さかの)ぼる嫌疑(けんぎ)を恐れて、森本の居所もまたその言伝(ことづて)も主人夫婦に告げられないという弱味を有(も)っているには違ないが、それは良心の上にどれほどの曇(くもり)もかけなかった。記念(かたみ)として上げるとわざわざ云って来たものを、快よく貰い受ける勇気の出ないのは、他(ひと)の好意を空(むなし)くする点において、面白くないにきまっているが、これとても苦になるほどではない。ただ森本の浮世の風にあたる運命が近いうちに終りを告げるとする。(おそらくはのたれ死(じに)という終りを告げるのだろう。)その憐(あわ)れな最期(さいご)を今から予想して、この洋杖が傘入の中に立っているとする。そうして多能な彼の手によって刻(きざ)まれた、胴から下のない蛇の首が、何物かを呑もうとして呑まず、吐こうとして吐かず、いつまでも竹の棒の先に、口を開(あ)いたまま喰付(くっつ)いているとする。――こういう風に森本の運命とその運命を黙って代表している蛇の頭とを結びつけて考えた上に、その代表者たる蛇の頭を毎日握って歩くべく、近い内にのたれ死をする人から頼まれたとすると、敬太郎はその時に始めて妙な感じが起るのである。彼は自分でこの洋杖を傘入の中から抜き取る事もできず、また下宿の主人に命じて、自分の目の届かない所へ片づけさせる訳にも行かないのを大袈裟(おおげさ)ではあるが一種の因果(いんが)のように考えた。けれども詩で染めた色彩と、散文で行く活計(かっけい)とはだいぶ一致しないところもあって、実際を云うと、これがために下宿を変えて落ちついた方が楽だと思うほど彼は洋杖に災(わざわい)されていなかったのである。
 今日も洋杖(ステッキ)は依然として傘入の中に立っていた。鎌首は下駄箱(げたばこ)の方を向いていた。敬太郎はそれを横に見たなり自分の室(へや)に上ったが、やがて机の前に坐って、森本にやる手紙を書き始めた。まずこの間向うから来た音信(たより)の礼を述べた上、なぜ早く返事を出さなかったかという弁解を二三行でもいいからつけ加えたいと思ったが、それを明らさまに打ち開けては、君のような漂浪者(ヴァガボンド)を知己に有(も)つ僕の不名誉を考えると、書信の往復などはする気になれなかったからだとでも書くよりほかに仕方がないので、そこは例の奔走に取り紛(まぎ)れと簡単な一句でごまかしておいた。次に彼が大連で好都合な職業にありついた祝いの言葉をちょっと入れて、その後(あと)へだんだん東京も寒くなる時節柄、満洲(まんしゅう)の霜(しも)や風はさぞ凌(しの)ぎ悪(にく)いだろう。ことにあなたの身体(からだ)ではひどく応(こた)えるに違(ちがい)ないから、是非用心して病気に罹(かか)らないようになさいと優しい文句を数行(すぎょう)綴(つづ)った。敬太郎から云うと、実にここが手紙を出す主意なのだから、なるべく自分の同情が先方へ徹するように旨(うま)くかつ長く、そうして誰が見ても実意の籠(こも)っているように書きたかったのだけれども、読み直して見ると、やっぱり普通の人が普通時候の挨拶(あいさつ)に述べる用語以外に、何の新らしいところもないので、彼は少し失望した。と云って、固々(もともと)恋人に送る艶書(えんしょ)ほど熱烈な真心(まごころ)を籠(こ)めたものでないのは覚悟の前である。それで自分は文章が下手だから、いくら書き直したって駄目だくらいの口実の下に、そこはそのままにして前(さき)へ進んだ。

        七

 森本が下宿へ置き去りにして行った荷物の始末については義理にも何とか書き添えなければすまなかった。しかしその処置のつけ方を亭主に聞くのは厭(いや)だし、聞かなければ委細の報道はできるはずはなし、敬太郎(けいたろう)は筆の先を宙に浮かしたまま考えていたが、とうとう「あなたの荷物は、僕から主人に話して、どうでも彼の都合の宜(い)いように取り計らわせろとの御依頼でしたが、あなたの千里眼の通り、僕が何にも云わない先に、雷獣(らいじゅう)の方で勝手に取計ってしまったようですからさよう御承知を願います。梅の盆栽(ぼんさい)を下さるという事ですが、これは影も形も見えないようですから、頂きません。ただ御礼だけ申し述べておきます。それから」とつづけておいて、また筆を休めた。
 敬太郎はいよいよ洋杖(ステッキ)のところへ来たのである。根が正直な男だから、あの洋杖はせっかくの御覚召(おぼしめし)だから、ちょうだいして毎日散歩の時突いて出ますなどと空々しい嘘(うそ)は吐(つ)けず、と言って御親切はありがたいが僕は貰いませんとはなおさら書けず。仕方がないから、「あの洋杖はいまだに傘入(かさいれ)の中に立っています。持主の帰るのを毎日毎夜待ち暮しているごとく立っています。雷獣もあの蛇の頭へは手を触れる事をあえてしません。僕はあの首を見るたびに、彫刻家としてのあなたの手腕に敬服せざるを得ないです」と好加減(いいかげん)な御世辞(おせじ)を並べて、事実を暈(ぼか)す手段とした。
 状袋へ名宛を書くときに、森本の名前を思い出そうとしたが、どうしても胸に浮ばないので、やむを得ず大連電気公園内娯楽掛り森本様とした。今までの関係上主人夫婦の眼を憚(はば)からなければならない手紙なので、下女を呼んでポストへ入れさせる訳にも行かなかったから、敬太郎はすぐそれを自分の袂(たもと)の中に蔵(かく)した。彼はそれを持って夕食後散歩かたがた外へ出かける気で寒い梯子段(はしごだん)を下まで降り切ると、須永(すなが)から電話が掛った。
 今日内幸町から従妹(いとこ)が来ての話に、叔父は四五日内に用事で大阪へ行くかも知れないそうだから、余り遅くなってはと思って、立つ前に会って貰(もら)えまいかと電話で聞いて見たら、宜(よろ)しいという返事だから、行く気ならなるべく早く行った方がよかろう。もっとも電話の上に咽喉(のど)が痛いので、詳しい話はできなかったから、そのつもりでいてくれというのが彼の用向であった。敬太郎は「どうもありがとう。じゃなるべく早く行くようにするから」と礼を述べて電話を切ったが、どうせ行くなら今夜にでも行って見ようという気が起ったので、再び三階へ取って返してこの間拵(こし)らえたセルの袴(はかま)を穿(は)いた上、いよいよ表へ出た。
 曲り角へ来てポストへ手紙を入れる事は忘れなかったけれども、肝心(かんじん)の森本の安否はこの時すでに敬太郎の胸に、ただ微(かす)かな火気(ほとぼり)を残すのみであった。それでも状袋が郵便函の口を滑(すべ)って、すとんと底へ落ちた時は、受取人の一週間以内に封を披(ひら)く様を想見して、満更(まんざら)悪い心持もしまいと思った。
 それから電車へ乗るまではただ一直線にすたすた歩いた。考も一直線に内幸町の方を向いていたが、電車が明神下(みょうじんした)へ出る時分、何気なく今しがた電話口で須永から聞いた言葉を、頭の内で繰り返して見ると、覚えずはっと思うところが出て来た。須永は「今日内幸町からイトコが来て」とたしかに云ったが、そのイトコが彼の叔父さんの子である事は疑うまでもない。しかしその子が男であるか女であるかは不完全な日本語のまるで関係しないところである。
「どっちだろう」
 敬太郎は突然気にし始めた。もしそれが男だとすれば、あの後姿の女についての手がかりにはならない。したがって女は彼の好奇心を徒(いたず)らに刺戟(しげき)しただけで、ちっとも動いて来ない。しかしもし女だとすると、日といい時刻といい、須永の玄関から上り具合といい、どうも自分より一足先へ這入(はい)ったあの女らしい。想像と事実を継(つ)ぎ合わせる事に巧みな彼は、そうと確かめないうちに、てっきりそうときめてしまった。こう解釈した時彼は、今まで泡立(あわだ)っていた自分の好奇心に幾分の冷水を注(さ)したような満足を覚えると共に、予期したよりも平凡な方角に、手がかりが一つできたと云うつまらなさをも感じた。

        八

 彼は小川町まで来た時、ちょっと電車を下りても須永(すなが)の門口(かどぐち)まで行って、友の口から事実を確かめて見たいくらいに思ったが、単純な好奇心以外にそんな立ち入った詮議(せんぎ)をすべき理由をどこにも見出し得ないので、我慢してすぐ三田線に移った。けれども真直(まっすぐ)に神田橋を抜けて丸の内を疾駆する際にも、自分は今須永の従妹(いとこ)の家に向って走りつつあるのだという心持は忘れなかった。彼は勧業銀行の辺(あたり)で下りるはずのところを、つい桜田本郷町まで乗り越して驚ろいてまた暗い方へ引き返した。淋(さび)しい夜であったが尋ねる目的の家はすぐ知れた。丸い瓦斯(ガス)に田口(たぐち)と書いた門の中を覗(のぞ)いて見ると、思ったより奥深そうな構(かまえ)であった。けれども実際は砂利を敷いた路(みち)が往来から筋違(すじかい)に玄関を隠しているのと、正面を遮(さえ)ぎる植込がこんもり黒ずんで立っているのとで、幾分か厳(いか)めしい景気を夜陰に添えたまでで、門内に這入(はい)ったところでは見付(みつき)ほど手広な住居(すまい)でもなかった。
 玄関には西洋擬(せいようまが)いの硝子戸(ガラスど)が二枚閉(た)ててあったが、頼むといっても、電鈴(ベル)を押しても、取次がなかなか出て来ないので、敬太郎(けいたろう)はやむを得ずしばらくその傍(そば)に立って内の様子を窺(うか)がっていた。すると、どこからかようやく足音が聞こえ出して、眼の前の擦硝子(すりガラス)がぱっと明るくなった。それから庭下駄(にわげた)で三和土(たたき)を踏む音が二足三足したと思うと、玄関の扉が片方開(あ)いた。敬太郎はこの際取次の風采(ふうさい)を想望するほどの物数奇(ものずき)もなく、全く漫然と立っていただけであるが、それでも絣(かすり)の羽織(はおり)を着た書生か、双子(ふたこ)の綿入を着た下女が、一応御辞儀をして彼の名刺を受取る事とのみ期待していたのに、今(いま)戸を半分開けて彼の前に立ったのは、思いも寄らぬ立派な服装(なり)をした老紳士であった。電気の光を背中に受けているので、顔は判然(はっきり)しなかったが、白縮緬(しろちりめん)の帯だけはすぐ彼の眼に映じた。その瞬間にすぐこれが田口という須永の叔父さんだろうという感じが敬太郎の頭に働いた。けれども事が余り意外なので、すぐ挨拶(あいさつ)をする余裕(よゆう)も出ず少しはあっけに取られた気味で、ぼんやりしていた。その上自分をはなはだ若く考えている敬太郎には、四十代だろうが五十代だろうが乃至(ないし)六十代だろうがほとんど区別のない一様(いちよう)の爺さんに見えるくらい、彼は老人に対して親しみのない男であった。彼は四十五と五十五を見分けてやるほどの同情心を年長者に対して有(も)たなかったと同時に、そのいずれに向っても慣れないうちは異人種のような無気味(ぶきみ)を覚えるのが常なので、なおさら迷児(まご)ついたのである。しかし相手は何も気にかからない様子で、「何か用ですか」と聞いた。丁寧(ていねい)でもなければ軽蔑(けいべつ)でもない至って無雑作(むぞうさ)なその言葉つきが、少し敬太郎の度胸を回復させたので、彼はようやく自分の姓名を名乗ると共に手短かく来意を告げる機会を得た。すると年嵩(としかさ)な男は思い出したように、「そうそう先刻(さっき)市蔵(いちぞう)(須永の名)から電話で話がありました。しかし今夜御出(おいで)になるとは思いませんでしたよ」と云った。そうして君そう早く来たっていけないという様子がその裏に見えたので、敬太郎は精一杯(せいいっぱい)言訳をする必要を感じた。老人はそれを聞くでもなし聞かぬでもなしといった風に黙って立っていたが、「そんならまたいらっしゃい。四五日うちにちょっと旅行しますが、その前に御目にかかれる暇さえあれば、御目にかかっても宜(よ)うござんす」と云った。敬太郎は篤(あつ)く礼を述べてまた門を出たが、暗い夜(よ)の中で、礼の述べ方がちと馬鹿丁寧過ぎたと思った。
 これはずっと後(あと)になって、須永の口から敬太郎に知れた話であるが、ここの主人は、この時玄関に近い応接間で、たった一人碁盤(ごばん)に向って、白石と黒石を互違(たがいちがい)に並べながら考え込んでいたのだそうである。それは客と一石(いっせき)やった後の引続きとして、是非共ある問題を解決しなければ気がすまなかったからであるが、肝心(かんじん)のところで敬太郎がさも田舎者(いなかもの)らしく玄関を騒がせるものだから、まずこの邪魔を追っ払った後でというつもりになって、じれったさの余り自分と取次に出たのだという。須永にこの顛末(てんまつ)を聞かされた時に、敬太郎はますます自分の挨拶(あいさつ)が丁寧(ていねい)過ぎたような気がした。

        九

 中一日(なかいちにち)置いて、敬太郎(けいたろう)は堂々と田口へ電話をかけて、これからすぐ行っても差支(さしつかえ)ないかと聞き合わせた。向うの電話口へ出たものは、敬太郎の言葉つきや話しぶりの比較的横風(おうふう)なところからだいぶ位地の高い人とでも思ったらしく、「どうぞ少々御待ち下さいまし、ただいま主人の都合をちょっと尋ねますから」と丁寧な挨拶をして引き込んだが、今度返事を伝えるときは、「ああ、もしもし今ね、来客中で少し差支えるそうです。午後の一時頃来るなら来ていただきたいという事です」と前よりは言葉がよほど粗末(ぞんざい)になっていた。敬太郎は、「そうですか、それでは一時頃上りますから、どうぞ御主人に宜(よろ)しく」と答えて電話を切ったが、内心は一種厭(いや)な心持がした。
 十二時かっきりに午飯(ひるめし)を食うつもりで、あらかじめ下女に云いつけておいた膳(ぜん)が、時間通り出て来ないので、敬太郎は騒々しく鳴る大学の鐘に急(せ)き立てられでもするように催促をして、できるだけ早く食事を済ました。電車の中では一昨日(おととい)の晩会った田口の態度を思い浮べて、今日もまたああいう風に無雑作(むぞうさ)な取扱を受けるのか知らん、それとも向うで会うというくらいだから、もう少しは愛嬌(あいきょう)のある挨拶でもしてくれるか知らんと考えなどした。彼はこの紳士の好意で、相当の地位さえ得られるならば、多少腰を曲(かが)めて窮屈な思をするぐらいは我慢するつもりであった。けれども先刻(さっき)電話の取次に出たもののように、五分と経(た)たないうちに、言葉使いを悪い方に改められたりすると、もう不愉快になって、どうかそいつがまた取次に出なければいいがと思う。その癖(くせ)自分のかけ方の自分としては少し横風過ぎた事にはまるで気がつかない性質(たち)であった。
 小川町の角で、斜(はす)に須永(すなが)の家(うち)へ曲(まが)る横町を見た時、彼ははっと例の後姿の事を思い出して、急に日蔭(ひかげ)から日向(ひなた)へ想像を移した。今日も美くしい須永の従妹(いとこ)のいる所へ訪問に出かけるのだと自分で自分に教える方が、億劫(おっくう)な手数(てかず)をかけて、好い顔もしない爺(じい)さんに、衣食の途(みち)を授けて下さいと泣(なき)つきに行くのだと意識するよりも、敬太郎に取っては遥(はる)かに麗(うらら)かであったからである。彼は須永の従妹(いとこ)と田口の爺さんを自分勝手に親子ときめておきながらどこまでも二人を引き離して考えていた。この間の晩田口と向き合って玄関先に立った時も、光線の具合で先方(さき)の人品は判然(はっきり)分らなかったけれども、眼鼻だちの輪廓(りんかく)だけで評したところが、あまり立派な方でなかった事は、この爺さんの第一印象として、敬太郎の胸に夜目(よめ)にも疑(うたがい)なく描かれたのである。それでいて彼はこの男の娘なら、須永との関係はどうあろうとも、器量(きりょう)はあまりいい方じゃあるまいという気がどこにも起らなかった。そこで離れていて合い、合っていて離れるような日向日蔭(ひなたひかげ)の裏表を一枚にした頭を彼は田口家に対して抱(いだ)いていたのである。それを互違にくり返した後(あと)、彼は田口の門前に立った。するとそこに大きな自働車が御者(ぎょしゃ)を乗せたまま待っていたので、少し安からぬ感じがした。
 玄関へ掛って名刺を出すと、小倉(こくら)の袴(はかま)を穿(は)いた若い書生がそれを受取って、「ちょっと」と云ったまま奥へ這入(はい)って行った。その声が確かに先刻(さっき)電話口で聞いたのに違ないので、敬太郎は彼の後姿(うしろすがた)を見送りながら厭(いや)な奴(やつ)だと思った。すると彼は名刺を持ったまままた現われた。そうして「御気の毒ですが、ただいま来客中ですからまたどうぞ」と云って、敬太郎の前に突立(つった)っていた。敬太郎も少しむっとした。
「先程電話で御都合を伺ったら、今客があるから午後一時頃来いという御返事でしたが」
「実はさっきの御客がまだ御帰りにならないで、御膳(おぜん)などが出て混雑(ごたごた)しているんです」
 落ちついて聞きさえすれば満更(まんざら)無理もない言訳なのだが、電話以後この取次が癪(しゃく)に障(さわ)っている敬太郎には彼の云い草がいかにも気に喰わなかった。それで自分の方から先(せん)を越すつもりか何かで、「そうですか、たびたび御足労でした。どうぞ御主人へよろしく」と平仄(ひょうそく)の合わない捨台詞(すてぜりふ)のような事を云った上、何だこんな自働車がと云わぬばかりにその傍(そば)を擦(す)り抜けて表へ出た。

        十

 彼はこの日必要な会見を都合よく済ました後(あと)、新らしく築地に世帯を持った友人の所へ廻って、須永(すなが)と彼の従妹(いとこ)とそれから彼の叔父に当る田口とを想像の糸で巧みに継(つ)ぎ合せつつある一部始終(いちぶしじゅう)を御馳走(ごちそう)に、晩まで話し込む気でいたのである。けれども田口の門を出て日比谷公園の傍(わき)に立った彼の頭には、そんな余裕(よゆう)はさらになかった。後姿を見ただけではあるが、在所(ありか)をすでに突き留めて、今その人の家を尋ねたのだという陽気な心持は固(もと)よりなかった。位置を求めにここまで来たという自覚はなおなかった。彼はただ屈辱を感じた結果として、腹を立てていただけである。そうして自分を田口のような男に紹介した須永こそこの取扱に対して当然責任を負わなくてはならないと感じていた。彼は帰りがけに須永の所へ寄って、逐一(ちくいち)顛末(てんまつ)を話した上、存分文句を並べてやろうと考えた。それでまた電車に乗って一直線に小川町まで引返して来た。時計を見ると、二時にはまだ二十分ほど間(ま)があった。須永の家(うち)の前へ来て、わざと往来から須永須永と二声ばかり呼んで見たが、いるのかいないのか二階の障子(しょうじ)は立て切ったままついに開(あ)かなかった。もっとも彼は体裁家(ていさいや)で、平生からこういう呼び出し方を田舎者(いなかもの)らしいといって厭(いや)がっていたのだから、聞こえても知らん顔をしているのではなかろうかと思って、敬太郎(けいたろう)は正式に玄関の格子口(こうしぐち)へかかった。けれども取次に出た仲働(なかばたらき)の口から「午(ひる)少し過に御出ましになりました」という言葉を聞いた時は、ちょっと張合が抜けて少しの間黙って立っていた。
「風邪(かぜ)を引いていたようでしたが」
「はい、御風邪を召していらっしゃいましたが、今日はだいぶ好いからとおっしゃって、御出かけになりました」
 敬太郎は帰ろうとした。仲働は「ちょっと御隠居さまに申し上げますから」といって、敬太郎を格子のうちに待たしたまま奥へ這入(はい)った。と思うと襖(ふすま)の陰から須永の母の姿が現われた。背の高い面長(おもなが)の下町風に品(ひん)のある婦人であった。
「さあどうぞ。もうそのうち帰りましょうから」
 須永の母にこう云い出されたが最後、江戸慣(えどな)れない敬太郎はどうそれを断って外へ出ていいか、いまだにその心得がなかった。第一(だいち)どこで断る隙間もないように、調子の好い文句がそれからそれへとずるずる彼の耳へ響いて来るのである。それが世間体(せけんてい)の好い御世辞(おせじ)と違って、引き留められているうちに、上っては迷惑だろうという遠慮がいつの間にか失(な)くなって、つい気の毒だから少し話して行こうという気になるのである。敬太郎は云われるままにとうとう例の書斎へ腰をおろした。須永の母が御寒いでしょうと云って、仕切りの唐紙(からかみ)を締(し)めてくれたり、さあ御手をお出しなさいと云って、佐倉(さくら)を埋(い)けた火鉢(ひばち)を勧めてくれたりするうちに、一時昂奮(こうふん)した彼の気分はしだいに落ちついて来た。彼はシキとかいう白い絹へ秋田蕗(あきたぶき)を一面に大きく摺(す)った襖(ふすま)の模様だの、唐桑(からくわ)らしくてらてらした黄色い手焙(てあぶり)だのを眺(なが)めて、このしとやかで能弁な、人を外(そら)す事を知らないと云った風の母と話をした。
 彼女の語るところによると、須永は今日矢来(やらい)の叔父の家(うち)へ行ったのだそうである。
「じゃついでだから帰りに小日向(こびなた)へ廻って御寺参りをして来ておくれって申しましたら、御母さんは近頃無精(ぶしょう)になったようですね、この間も他(ひと)に代理をさせたじゃありませんか、年を取ったせいかしらなんて悪口を云い云い出て参りましたが、あれもねあなた、せんだって中(じゅう)から風邪を引いて咽喉(のど)を痛めておりますので、今日も何なら止した方がいいじゃないかととめて見ましたが、やっぱり若いものは用心深いようでもどこか我無(がむ)しゃらで、年寄の云う事などにはいっさい無頓着(むとんじゃく)でございますから……」
 須永の留守へ行くと、彼の母は唯一の楽みのようにこういう調子で伜(せがれ)の話をするのが常であった。敬太郎の方で須永の評判でも持ち出そうものなら、いつまででもその問題の後(あと)へ喰付(くっつ)いて来て、容易に話頭を改めないのが例になっていた。敬太郎もそれにはだいぶ慣れているから、この際も向うのいう通りをただふんふんとおとなしく聞いて、一段落の来るのを待っていた。

        十一

 そのうち話がいつか肝心(かんじん)の須永(すなが)を逸(そ)れて、矢来の叔父という人の方へ移って行った。これは内幸町と違って、この御母(おっか)さんの実の弟に当る男だそうで、一種の贅沢屋(ぜいたくや)のように敬太郎(けいたろう)は須永から聞いていた。外套(がいとう)の裏は繻子(しゅす)でなくては見っともなくて着られないと云ったり、要(い)りもしないのに古渡(こわた)りの更紗玉(さらさだま)とか号して、石だか珊瑚(さんご)だか分らないものを愛玩(あいがん)したりする話はいまだに覚えていた。
「何にもしないで贅沢(ぜいたく)に遊んでいられるくらい好い事はないんだから、結構な御身分ですね」と敬太郎が云うのを引き取るように母は、「どうしてあなた、打ち明けた御話が、まあどうにかこうにかやって行けるというまでで、楽だの贅沢だのという段にはまだなかなかなのでございますからいけません」と打ち消した。
 須永の親戚に当る人の財力が、さほど敬太郎に関係のある訳でもないので、彼はそれなり黙ってしまった。すると母は少しでも談話の途切(とぎ)れるのを自分の過失ででもあるように、すぐ言葉を継(つ)いだ。
「それでも妹婿(いもとむこ)の方は御蔭(おかげ)さまで、何だかだって方々の会社へ首を突っ込んでおりますから、この方はまあ不自由なく暮しておる模様でございますが、手前共や矢来の弟(おとと)などになりますと、云わば、浪人(ろうにん)同様で、昔に比(くら)べたら、尾羽うち枯らさないばかりの体(てい)たらくだって、よく弟ともそう申しては笑うこってございますよ」
 敬太郎は何となく自分の身の上を顧(かえり)みて気恥かしい思をした。幸(さいわい)にさきがすらすら喋舌(しゃべ)ってくれるので、こっちに受け答をする文句を考える必要がないのをせめてもの得(とく)として聞き続けた。
「それにね、御承知の通り市蔵がああいう引っ込思案の男だもんでござんすから、私もただ学校を卒業させただけでは、全く心配が抜けませんので、まことに困り切ります。早く気に入った嫁でも貰って、年寄に安心でもさせてくれるようにおしなと申しますと、そう御母さんの都合のいいようにばかり世の中は行きゃしませんて、てんで相手にしないんでございますよ。そんなら世話をしてくれる人に頼んで、どこへでもいいから、務(つとめ)にでも出る気になればまだしも、そんな事にはまたまるで無頓着(むとんじゃく)であなた……」
 敬太郎はこの点において実際須永が横着過(おうちゃくすぎ)ると平生(ふだん)から思っていた。「余計な事ですが、少し目上の人から意見でもして上げるようにしたらどうでしょう。今御話の矢来の叔父さんからでも」と全く年寄に同情する気で云った。
「ところがこれがまた大の交際嫌の変人でございまして、忠告どころか、何だ銀行へ這入(はい)って算盤(そろばん)なんかパチパチ云わすなんて馬鹿があるもんかと、こうでございますから頭から相談にも何にもなりません。それをまた市蔵が嬉(うれ)しがりますので。矢来の叔父の方が好きだとか気が合うとか申しちゃよく出かけます。今日なども日曜じゃあるし御天気は好しするから、内幸町の叔父が大阪へ立つ前にちょっとあちらへ顔でも出せばいいのでございますけれども、やっぱり矢来へ行くんだって、とうとう自分の好きな方へ参りました」
 敬太郎はこの時自分が今日何のために馳(か)け込むようにこの家を襲(おそ)ったかの原因について、また新らしく考え出した。彼は須永の顔を見たら随分過激な言葉を使ってもその不都合を責めた上、僕はもう二度とあすこの門は潜(くぐ)らないつもりだから、そう思ってくれたまえぐらいの台詞(せりふ)を云って帰る気でいたのに、肝心(かんじん)の須永は留守(るす)で、事情も何も知らない彼の母から、逆(さか)さにいろいろな話をしかけられたので、怒(おこ)ってやろうという気は無論抜けてしまったのである。が、それでも行きがかり上、田口と会見を遂(と)げ得なかった顛末(てんまつ)だけは、一応この母の耳へでも構わないから入れておく必要があるだろう。それには話の中に内幸町へ行くとか行かないとかが問題になっている今が一番よかろう。――こう敬太郎は思った。

        十二

「実はその内幸町の方へ今日私も出たんですが」と云い出すと、自分の息子の事ばかり考えていた母は、「おやそうでございましたか」とやっと気がついてすまないという顔つきをした。この間から敬太郎(けいたろう)が躍起(やっき)になって口を探(さが)している事や、探しあぐんで須永(すなが)に紹介を頼んだ事や、須永がそれを引き受けて内幸町の叔父に会えるように周旋した事は、須永の傍(そば)にいる母として彼女(かのおんな)のことごとく見たり聞いたりしたところであるから、行き届いた人なら先方(さき)で何も云い出さない前に、こっちからどんな模様ですぐらいは聞いてやるべきだとでも思ったのだろう。こう観察した敬太郎は、この一句を前置に、今までの成行を残らず話そうと力(つと)めにかかったが、時々相手から「そうでございますとも」とか、「本当にまあ、間(ま)の悪い時にはね」とか、どっちにも同情したような間投詞が出るので、自分がむかっ腹(ぱら)を立てて悪体(あくたい)を吐(つ)いた事などは話のうちから綺麗(きれい)に抜いてしまった。須永の母は気の毒という言葉を何遍もくり返した後(あと)で、田口を弁護するようにこんな事を云った。――
「そりゃあ実のところ忙しい男なので。妹(いもと)などもああして一つ家に住んでおりますようなものの、――何でごさんしょう。――落々(おちおち)話のできるのはおそらく一週間に一日もございますまい。私が見かねて要作(ようさく)さんいくら御金が儲(もう)かるたって、そう働らいて身体(からだ)を壊しちゃ何にもならないから、たまには骨休めをなさいよ、身体が資本(もとで)じゃありませんかと申しますと、おいらもそう思ってるんだが、それからそれへと用が湧(わ)いてくるんで、傍(そば)から掬(しゃ)くい出さないと、用が腐っちまうから仕方がないなんて笑って取り合いませんので。そうかと思うとまた妹や娘に今日はこれから鎌倉へ伴(つ)れて行く、さあすぐ支度をしろって、まるで足元から鳥が立つように急(せ)き立てる事もございますが……」
「御嬢さんがおありなのですか」
「ええ二人おります。いずれも年頃でございますから、もうそろそろどこかへ片づけるとか婿(むこ)を取るとかしなければなりますまいが」
「そのうちの一人の方(かた)が、須永君のところへ御出(おいで)になる訳でもないんですか」
 母はちょっと口籠(くちごも)った。敬太郎もただ自分の好奇心を満足させるためにあまり立ち入った質問をかけ過ぎたと気がついた。何とかして話題を転じようと考えているうちに、相手の方で、
「まあどうなりますか。親達の考もございましょうし。
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