彼岸過迄
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著者名:夏目漱石 

もっともこれは幾分か、純粋な気象(きしょう)を受けて生れた彼女の性情からも出るので、そこになるとまた僕ほど彼女を知り抜いているものはないのだが、単にそれだけでああ男女(なんにょ)の牆壁(しょうへき)が取り除(の)けられる訳のものではあるまい。ただ一度……しかしこれは後で話す方が宜(よ)かろうと思う。
 母は自分のいう事に耳を借さなかった僕を羞恥家(はにかみや)と解釈して、再び時期を待つもののごとくに、この問題を懐(ふところ)に収めた。羞恥は僕といえども否定する勇気がない。しかし千代子に意があるから羞恥(はにか)んだのだと取った母は、全くの反対を事実と認めたと同じ事である。要するに母は未来に対する準備という考から、僕ら二人をなるべく仲善く育て上げよう育て上げようと力(つと)めた結果、男女としての二人をしだいに遠ざからした。そうして自分では知らずにいた。それを知らなければならないようにした僕は全く残酷であった。
 その日の事を語るのが僕には実際の苦痛である。母は高等学校時代に匂(にお)わした千代子の問題を、僕が大学の二年になるまで、じっと懐に抱(だ)いたまま一人で温(あたた)めていたと見えて、ある晩――春休みの頃の花の咲いたという噂(うわさ)のあったある日の晩――そっと僕の前に出して見せた。その時は僕もだいぶ大人(おとな)らしくなっていたので、静かにその問題を取り上げて、裏表から鄭寧(ていねい)に吟味(ぎんみ)する余裕(よゆう)ができていた。母もその時にはただ遠くから匂わせるだけでなくて、自分の希望に正当の形式を与える事を忘れなかった。僕は何心なく従妹(いとこ)は血属だから厭(いや)だと答えた。母は千代子の生れた時くれろと頼んでおいたのだから貰ったらいいだろうと云って僕を驚ろかした。なぜそんな事を頼んだのかと聞くと、なぜでも私(わたし)の好きな子で、御前も嫌(きら)うはずがないからだと、赤ん坊には応用の利(き)かないような挨拶(あいさつ)をして僕を弱らせた。だんだんそこを押して見ると、しまいに涙ぐんで、実は御前のためではない、全く私のために頼むのだと云う。しかもどうしてそれが母のためになるのか、その理由はいくら聞いても語らない。最後に何でもかでも千代子は厭(いや)かと聞かれた。僕は厭でも何でもないと答えた。しかし当人も僕のところへ来る気はなし、田口の叔父も叔母も僕にくれたくはないのだから、そんな事を申し込むのは止した方が好い、先方で迷惑するだけだからと教えた。母は約束だから迷惑しても構わない、また迷惑するはずがないと主張して、昔(むか)し田口が父の世話になったり厄介(やっかい)になったりした例を数え挙げた。僕はやむを得ないからこの問題は卒業するまで解決を着けずにおこうと云い出した。母は不安の裏(うち)に一縷(いちる)の望を現わした顔色をして、もう一遍とくと考えて見てくれと頼んだ。
 こういう事情で、今まで母一人で懐(ふところ)に抱(だ)いていた問題を、その後(のち)は僕も抱かなければならなくなった。田口はまた田口流に、同じ問題を孵(かえ)しつつあるのではなかろうか。たとい千代子をほかへ縁づけるにしても、いざと云う場合には一応こちらの承諾を得る必要があるとすれば、叔父も気がかりに違いない。

        七

 僕は不安になった。母の顔を見るたびに、彼女を欺(あざ)むいてその日その日を姑息(こそく)に送っているような気がしてすまなかった。一頃(ひところ)は思い直してでき得るならば母の希望通り千代子を貰(もら)ってやりたいとも考えた。僕はそのためにわざわざ用もない田口の家へ遊びに行ってそれとなく叔父や叔母の様子を見た。彼らは僕の母の肉薄に応ずる準備としてまえもって僕を疎(うと)んずるような素振(そぶり)を口にも挙動にもけっして示さなかった。彼らはそれほど浅薄なまた不親切な人間ではなかったのである。けれども彼らの娘の未来の夫として、僕が彼らの眼にいかに憐(あわ)れむべく映じていたかは、遠き前から僕の見抜いていたところと、ちっとも変化を来さないばかりか、近頃になってますますその傾(かたむき)が著るしくなるように思われた。彼らは第一に僕の弱々しい体格と僕の蒼白(あおしろ)い顔色とを婿(むこ)として肯(うけ)がわないつもりらしかった。もっとも僕は神経の鋭どく動く性質(たち)だから、物を誇大に考え過したり、要(い)らぬ僻(ひが)みを起して見たりする弊がよくあるので、自分の胸に収めた委(くわ)しい叔父叔母の観察を遠慮なくここに述べる非礼は憚(はば)かりたい。ただ一言(いちごん)で云うと、彼らはその当時千代子を僕の嫁にしようと明言したのだろう。少なくともやってもいいぐらいには考えていたのだろう。が、その後(ご)彼らの社会に占め得た地位と、彼らとは背中合せに進んで行く僕の性格が、二重に実行の便宜を奪って、ただ惚(ぼ)けかかった空(むな)しい義理の抜殻(ぬけがら)を、彼らの頭のどこかに置き去りにして行ったと思えば差支(さしつかえ)ないのである。
 僕と彼らとはあらゆる人の結婚問題についても多くを語る機会を持たなかった。ただある時叔母と僕との間にこんな会話が取り換わされた。
「市(いっ)さんももうそろそろ奥さんを探さなくっちゃなりませんね。姉さんはとうから心配しているようですよ」
「好いのがあったら母に知らしてやって下さい」
「市さんにはおとなしくって優(やさ)しい、親切な看護婦みたような女がいいでしょう」
「看護婦みたような嫁はないかって探しても、誰も来手(きて)はあるまいな」
 僕が苦笑しながら、自(みずか)ら嘲(あざ)けるごとくこう云った時、今まで向うの隅(すみ)で何かしていた千代子が、不意に首を上げた。
「あたし行って上げましょうか」
 僕は彼女の眼を深く見た。彼女も僕の顔を見た。けれども両方共そこに意味のある何物をも認めなかった。叔母は千代子の方を振り向きもしなかった。そうして、「御前のようなむきだしのがらがらした者が、何で市さんの気に入るものかね」と云った。僕は低い叔母の声のうちに、窘(たし)なめるようなまた怖(おそ)れるような一種の響を聞いた。千代子はただからからと面白そうに笑っただけであった。その時百代子も傍(そば)にいた。これは姉の言葉を聞いて微笑しながら席を立った。形式を具(そな)えない断りを云われたと解釈した僕はしばらくしてまた席を立った。
 この事件後僕は同じ問題に関して母の満足を買うための努力をますます屑(いさぎ)よしとしなくなった。自尊心の強い父の子として、僕の神経はこういう点において自分でも驚ろくくらい過敏なのである。もちろん僕はその折の叔母に対してけっして感情を害しはしなかった。こっちからまだ正式の申し込みを受けていない叔母としては、ああよりほかに意向の洩(も)らし方も無かったのだろうと思う。千代子に至っては何を云おうが笑おうが、いつでも蟠(わだか)まりのない彼女の胸の中を、そのまま外に表わしたに過ぎないと考えていた。僕はその時の千代子の言葉や様子から察して、彼女が僕のところへ来たがっていない事だけは、従前通りたしかに認めたが、同時に、もし差し向いで僕の母にしんみり話し込まれでもしたら、ええそういう訳(わけ)なら御嫁に来て上げましょうと、その場ですぐ承知しないとも限るまいと思って、私(ひそ)かに掛念(けねん)を抱(いだ)いたくらいである。彼女はそう云う時に、平気で自分の利害や親の意思を犠牲に供し得る極(きわ)めて純粋の女だと僕は常から信じていたからである。

        八

 意地の強い僕は母を嬉(うれ)しがらせるよりもなるべく自我を傷(きずつ)けないようにと祈った。その結果千代子が僕の知らない間に、母から説き落されてはと掛念して、暗にそれを防ぐ分別をした。母は彼女の生れ落ちた当初すでに僕の嫁ときめただけあって、多くある姪(めい)や甥(おい)の中で、取り分け千代子を可愛(かわい)がった。千代子も子供の時分から僕の家を生家のごとく心得て遠慮なく寝泊(ねとま)りに来た。その縁故で、田口と僕の家が昔に比べると比較的疎(うと)くなった今日(こんにち)でも、千代子だけは叔母さん叔母さんと云って、生(うみ)の親にでも逢いに来るような朗らかな顔をして、しげしげ出入(でいり)をしていた。単純な彼女は、自分の身を的(まと)に時々起る縁談をさえ、隠すところなく母に打ち明けた。人の好い母はまたそれを素直に聞いてやるだけで、恨(うら)めしい眼つき一つも見せ得なかった。僕の恐れる懇談は、こういう関係の深い二人の間に、いつ起らないとも限らなかったのである。
 僕の分別というのはまずこの点に関して、当分母の口を塞(ふさ)いでおこうとする用心に過ぎなかった。ところがいざ改たまって母にそれを切り出そうとすると、ただ自分の我(が)を通すために、弱い親の自由を奪うのは残酷な子に違ないという心持が、どこにか萌(きざ)すので、ついそれなりにしてやめる事が多かった。もっとも年寄の眉(まゆ)を曇らすのがただ情(なさけ)ないばかりでやめたとも云われない。これほど親しい間柄でさえ今まで思い切ったところを千代子に打ち明け得なかった母の事だから、たといこのままにしておいても、まあ当分は大丈夫だろうという考が、母に対する僕を多少抑(おさ)えたのである。
 それで僕は千代子に関して何という明瞭(めいりょう)な所置も取らずに過ぎた。もっともこういう不安な状態で日を送った時期にも、まるで田口の家と打絶えた訳ではなかったので、会(たま)には単に母の喜こぶ顔を見るだけの目的をもって内幸町まで電車を利用した覚さえあったのである。そういうある日の晩、僕は久しぶりに千代子から、習い立ての珍らしい手料理を御馳走(ごちそう)するからと引止められて、夕飯の膳(ぜん)についた。いつも留守(るす)がちな叔父がその日はちょうど内にいて、食事中例の気作(きさく)な話をし続けにしたため、若い人の陽気な笑い声が障子(しょうじ)に響くくらい家の中が賑(にぎ)わった。飯が済んだ後(あと)で、叔父はどういう考か、突然僕に「市(いっ)さん久しぶりに一局やろうか」と云い出した。僕はさほど気が進まなかったけれどもせっかくだから、やりましょうと答えて、叔父と共に別室へ退(しりぞ)いた。二人はそこで二三番打った。固(もと)より下手と下手の勝負なので、時間のかかるはずもなく、碁石(ごいし)を片づけてもまだそれほど遅くはならなかった。二人は煙草(たばこ)を呑(の)みながらまた話を始めた。その時僕は適当な機会を利用してわざと叔父に「千代子さんの縁談はまだ纏(まと)まりませんか」と聞いた。それは固より僕が千代子に対して他意のないという事を示すためであった。がまた一方では、一日も早くこの問題の解決が着けば、自分も安心だし、千代子も幸福だと考えたからである。すると叔父はさすがに男だけあって、何の躊躇(ちゅうちょ)もなくこう云った。――
「いやまだなかなかそう行きそうもない。だんだんそんな話を持って来てくれるものはあるが、何しろむずかしくって弱る。その上調べれば調べるほど面倒になるだけだし、まあ大抵のところで纏まるなら纏めてしまおうかと思ってる。――縁談なんてものは妙なものでね。今だから御前に話すが、実は千代子の生れたとき、御前の御母さんが、これを市蔵の嫁に欲しいってね――生れ立ての赤ん坊をだよ」
 叔父はこの時笑いながら僕の顔を見た。
「母は本気でそう云ったんだそうです」
「本気さ。姉さんはまた正直な人だからね。実に好い人だ。今でも時々真面目(まじめ)になって叔母さんにその話をするそうだ」
 叔父は再び大きな声を出して笑った。僕ははたして叔父がこう軽くこの事件を解釈しているなら、母のために少し弁じてやろうかと考えた。が、もしこれが世慣(よな)れた人の巧妙な覚(さと)らせぶりだとすれば、一口でも云うだけが愚(おろか)だと思い直して黙った。叔父は親切な人でまた世慣(よな)れた人である。彼のこの時の言葉はどちらの眼で見ていいのか、僕には今もって解らない。ただ僕がその時以来千代子を貰わない方へいよいよ傾いたのは事実である。

        九

 それから二カ月ばかりの間僕は田口の家へ近寄らなかった。母さえ心配しなければ、それぎり内幸町へは足を向けずにすましたかも知れなかった。たとい母が心配するにしても、単に彼女に対する掛念(けねん)だけが問題なら、あるいは僕の気随(きずい)をいざという極点まで押し通したかも知れなかった。僕はそんな[#「そんな」は底本では「そんに」]風に生みつけられた男なのである。ところが二カ月の末になって、僕は突然自分の片意地を翻(ひる)がえさなければ不利だという事に気がついた。実を云うと、僕と田口と疎遠になればなるほど、母はあらゆる機会を求めて、ますます千代子と接触するように力(つと)め出したのである。そうしていつなんどき僕の最も恐れる直接の談判を、千代子に向って開かないとも限らないように、漸々(ぜんぜん)形勢を切迫させて来たのである。僕は思い切って、この危機を一帳場(ひとちょうば)先へ繰り越そうとした。そうしてその決心と共にまた田口の敷居を跨(また)ぎ出した。
 彼らの僕を遇する態度に固(もと)より変りはなかった。僕の彼らに対する様子もまた二カ月前の通りであった。僕と彼らとは故(もと)のごとく笑ったり、ふざけたり、揚足(あげあし)の取りっくらをしたりした。要するに僕の田口で費(つい)やした時間は、騒がしいくらい陽気であった。本当のところをいうと、僕には少し陽気過ぎたのである。したがって腹の中が常に空虚な努力に疲れていた。鋭どい眼で注意したら、どこかに偽(いつわり)の影が射して、本来の自分を醜く彩(いろど)っていたろうと思う。そのうちで自分の気分と自分の言葉が、半紙の裏表のようにぴたりと合った愉快を感じた覚(おぼえ)がただ一遍ある。それは家例として年に一度か二度田口の家族が揃(そろ)って遊びに出る日の出来事であった。僕は知らずに奥へ通って、千代子一人が閑静に坐っているのを見て驚ろいた。彼女は風邪(かぜ)を引いたと見えて、咽喉(のど)に湿布をしていた。常にも似ない蒼(あお)い顔色も淋(さび)しく思われた。微笑しながら、「今日はあたし御留守居よ」と云った時、僕は始めて皆(みんな)出払った事に気がついた。
 その日彼女は病気のせいかいつもよりしんみり落ちついていた。僕の顔さえ見ると、きっと冷かし文句を並べて、どうしても悪口の云い合いを挑(いど)まなければやまない彼女が、一人ぼっちで妙に沈んでいる姿を見たとき、僕はふと可憐な心を起した。それで席に着くや否(いな)や、優しい慰藉(いしゃ)の言葉を口から出す気もなく自(おのず)から出した。すると千代子は一種変な表情をして、「あなた今日は大変優しいわね。奥さんを貰(もら)ったらそういう風に優しくしてあげなくっちゃいけないわね」と云った。遠慮がなくて親しみだけ持っていた僕は、今まで千代子に対していくら無愛嬌(ぶあいきょう)に振舞っても差支(さしつかえ)ないものと暗(あん)に自(みず)から許していたのだという事にこの時始めて気がついた。そうして千代子の眼の中(うち)にどこか嬉しそうな色の微(かす)かながら漂ようのを認めて、自分が悪かったと後悔した。
 二人はほとんどいっしょに生長したと同じような自分達の過去を振り返った。昔の記憶を語る言葉が互の唇(くちびる)から当時を蘇生(よみがえ)らせる便(たより)として洩(も)れた。僕は千代子の記憶が、僕よりも遥(はる)かに勝(すぐ)れて、細かいところまで鮮(あざ)やかに行き渡っているのに驚ろいた。彼女は今から四年前、僕が玄関に立ったまま袴(はかま)の綻(ほころび)を彼女に縫わせた事まで覚えていた。その時彼女の使ったのは木綿糸(もめんいと)でなくて絹糸であった事も知っていた。
「あたしあなたの描(か)いてくれた画(え)をまだ持っててよ」
 なるほどそう云われて見ると、千代子に画を描いてやった覚(おぼえ)があった。けれどもそれは彼女が十二三の時の事で、自分が田口に買って貰った絵具と紙を僕の前へ押しつけて無理矢理に描かせたものである。僕の画道における嗜好(たしなみ)は、それから以後今日(こんにち)に至るまで、ついぞ画筆(えふで)を握った試しがないのでも分るのだから、赤や緑の単純な刺戟(しげき)が、一通り彼女の眼に映ってしまえば、興味はそこに尽きなければならないはずのものであった。それを保存していると聞いた僕は迷惑そうに苦笑せざるを得なかった。
「見せて上げましょうか」
 僕は見ないでもいいと断った。彼女は構わず立ち上がって、自分の室(へや)から僕の画を納めた手文庫を持って来た。

        十

 千代子はその中から僕の描いた画を五六枚出して見せた。それは赤い椿(つばき)だの、紫(むらさき)の東菊(あずまぎく)だの、色変りのダリヤだので、いずれも単純な花卉(かき)の写生に過ぎなかったが、要(い)らない所にわざと手を掛けて、時間の浪費を厭(いと)わずに、細かく綺麗(きれい)に塗り上げた手際(てぎわ)は、今の僕から見るとほとんど驚ろくべきものであった。僕はこれほど綿密であった自分の昔に感服した。
「あなたそれを描いて下すった時分は、今よりよっぽど親切だったわね」
 千代子は突然こう云った。僕にはその意味がまるで分らなかった。画から眼を上げて、彼女の顔を見ると、彼女も黒い大きな瞳(ひとみ)を僕の上にじっと据(す)えていた。僕はどういう訳でそんな事を云うのかと尋ねた。彼女はそれでも答えずに僕の顔を見つめていた。やがていつもより小さな声で「でも近頃頼んだって、そんなに精出して描いては下さらないでしょう」と云った。僕は描くとも描かないとも答えられなかった。ただ腹の中で、彼女の言葉をもっともだと首肯(うけが)った。
「それでもよくこんな物を丹念にしまっておくね」
「あたし御嫁に行く時も持ってくつもりよ」
 僕はこの言葉を聞いて変に悲しくなった。そうしてその悲しい気分が、すぐ千代子の胸に応(こた)えそうなのがなお恐ろしかった。僕はその刹那(せつな)すでに涙の溢(あふ)れそうな黒い大きな眼を自分の前に想像したのである。
「そんな下らないものは持って行かないがいいよ」
「いいわ、持って行ったって、あたしのだから」
 彼女はこう云いつつ、赤い椿や紫の東菊を重ねて、また文庫の中へしまった。僕は自分の気分を変えるためわざと彼女にいつごろ嫁に行くつもりかと聞いた。彼女はもう直(じき)に行くのだと答えた。
「しかしまだきまった訳じゃないんだろう」
「いいえ、もうきまったの」
 彼女は明らかに答えた。今まで自分の安心を得る最後の手段として、一日(いちじつ)も早く彼女の縁談が纏(まと)まれば好いがと念じていた僕の心臓は、この答と共にどきんと音のする浪(なみ)を打った。そうして毛穴から這(は)い出すような膏汗(あぶらあせ)が、背中と腋(わき)の下を不意に襲(おそ)った。千代子は文庫を抱(だ)いて立ち上った。障子(しょうじ)を開けるとき、上から僕を見下(みおろ)して、「嘘(うそ)よ」と一口判切(はっきり)云い切ったまま、自分の室(へや)の方へ出て行った。
 僕は動く考(かんがえ)もなく故(もと)の席に坐っていた。僕の胸には忌々(いまいま)しい何物も宿らなかった。千代子の嫁に行く行かないが、僕にどう影響するかを、この時始めて実際に自覚する事のできた僕は、それを自覚させてくれた彼女の翻弄(ほんろう)に対して感謝した。僕は今まで気がつかずに彼女を愛していたのかも知れなかった。あるいは彼女が気がつかないうちに僕を愛していたのかも知れなかった。――僕は自分という正体が、それほど解り悪(にく)い怖(こわ)いものなのだろうかと考えて、しばらく茫然(ぼうぜん)としていた。するとあちらの方で電話がちりんちりんと鳴った。千代子が縁伝いに急ぎ足でやって来て、僕にいっしょに電話をかけてくれと頼んだ。僕にはいっしょにかけるという意味が呑み込めなかったが、すぐ立って彼女と共に電話口へ行った。
「もう呼び出してあるのよ。あたし声が嗄(か)れて、咽喉(のど)が痛くって話ができないからあなた代理をしてちょうだい。聞く方はあたしが聞くから」
 僕は相手の名前も分らない、また向うの話の通じない電話をかけるべく、前屈(まえこご)みになって用意をした。千代子はすでに受話器を耳にあてていた。それを通して彼女の頭へ送られる言葉は、独(ひと)り彼女が占有するだけなので、僕はただ彼女の小声でいう挨拶(あいさつ)を大きくして訳も解らず先方へ取次ぐに過ぎなかった。それでも始の内は滑稽(こっけい)も構わず暇がかかるのも厭(いと)わず平気でやっていたが、しだいに僕の好奇心を挑発(ちょうはつ)するような返事や質問が千代子の口から出て来るので、僕は曲(こご)んだまま、おいちょいとそれを御貸(おかし)と声をかけて左手を真直(まっすぐ)に千代子の方へ差し伸べた。千代子は笑いながら否々(いやいや)をして見せた。僕はさらに姿勢を正しくして、受話器を彼女の手から奪おうとした。彼女はけっしてそれを離さなかった。取ろうとする取らせまいとする争が二人の間に起った時、彼女は手早く電話を切った。そうして大きな声をあげて笑い出した。――

        十一

 こういう光景がもし今より一年前に起ったならと僕はその後(ご)何遍もくり返しくり返し思った。そう思うたびに、もう遅過ぎる、時機はすでに去ったと運命から宣告されるような気がした。今からでもこういう光景を二度三度と重ねる機会は捉(つら)まえられるではないかと、同じ運命が暗に僕を唆(そそ)のかす日もあった。なるほど二人の情愛を互いに反射させ合うためにのみ眼の光を使う手段を憚(はば)からなかったなら、千代子と僕とはその日を基点として出立しても、今頃は人間の利害で割(さ)く事のできない愛に陥(おちい)っていたかも知れない。ただ僕はそれと反対の方針を取ったのである。
 田口夫婦の意向や僕の母の希望は、他人の入智慧(いれぢえ)同様に意味の少ないものとして、単に彼女と僕を裸にした生れつきだけを比較すると、僕らはとてもいっしょになる見込のないものと僕は平生から信じていた。これはなぜと聞かれても満足の行くように答弁ができないかも知れない。僕は人に説明するためにそう信じているのでないから。僕はかつて文学好のある友達からダヌンチオと一少女の話を聞いた事がある。ダヌンチオというのは今の以太利(イタリア)で一番有名な小説家だそうだから、僕の友達の主意は無論彼の勢力を僕に紹介するつもりだったのだろうが、僕にはそこへ引合に出された少女の方が彼よりも遥(はる)かに興味が多かった。その話はこうである。――
 ある時ダヌンチオが招待を受けてある会合の席へ出た。文学者を国家の装飾のようにもてはやす西洋の事だから、ダヌンチオはその席に群(むら)がるすべての人から多大の尊敬と愛嬌(あいきょう)をもって偉人のごとく取扱かわれた。彼が満堂の注意を一身に集めて、衆人の間をあちこち徘徊(はいかい)しているうち、どういう機会(はずみ)か自分の手巾(ハンケチ)を足の下(もと)へ落した。混雑の際と見えて、彼は固(もと)より、傍(はた)のものもいっこうそれに気がつかずにいた。するとまだ年の若い美くしい女が一人その手巾を床(ゆか)の上から取り上げて、ダヌンチオの前へ持って来た。彼女はそれをダヌンチオに渡すつもりで、これはあなたのでしょうと聞いた。ダヌンチオはありがとうと答えたが、女の美くしい器量に対してちょっと愛嬌(あいきょう)が必要になったと見えて、「あなたのにして持っていらっしゃい、進上しますから」とあたかも少女の喜びを予想したような事を云った。女は一口の答もせず黙ってその手巾を指先でつまんだまま暖炉(ストーヴ)の傍(そば)まで行っていきなりそれを火の中へ投げ込んだ。ダヌンチオは別にしてその他の席に居合せたものはことごとく微笑を洩(も)らした。
 僕はこの話を聞いた時、年の若い茶褐色の髪毛を有(も)った以太利生れの美人を思い浮べるよりも、その代りとしてすぐ千代子の眼と眉(まゆ)を想像した。そうしてそれがもし千代子でなくって妹の百代子であったなら、たとい腹の中はどうあろうとも、その場は礼を云って快よく手巾を貰い受けたに違いあるまいと思った。ただ千代子にはそれができないのである。
 口の悪い松本の叔父はこの姉妹(きょうだい)に渾名(あだな)をつけて常に大蝦蟆(おおがま)と小蝦蟆(ちいがま)と呼んでいる。二人の口が唇(くちびる)の薄い割に長過ぎるところが銀貨入れの蟇口(がまぐち)だと云っては常に二人を笑わせたり怒らせたりする。これは性質に関係のない顔形の話であるが、同じ叔父が口癖のようにこの姉妹を評して、小蟇(ちいがま)はおとなしくって好いが、大蟇(おおがま)は少し猛烈過ぎると云うのを聞くたびに、僕はあの叔父がどう千代子を観察しているのだろうと考えて、必ず彼の眼識に疑(うたがい)を挟(さしは)さみたくなる。千代子の言語なり挙動なりが時に猛烈に見えるのは、彼女が女らしくない粗野なところを内に蔵(かく)しているからではなくって、余り女らしい優しい感情に前後を忘れて自分を投げかけるからだと僕は固く信じて疑がわないのである。彼女の有(も)っている善悪是非の分別はほとんど学問や経験と独立している。ただ直覚的に相手を目当に燃え出すだけである。それだから相手は時によると稲妻(いなずま)に打たれたような思いをする。当りの強く烈(はげ)しく来るのは、彼女の胸から純粋な塊(かた)まりが一度に多量に飛んで出るという意味で、刺(とげ)だの毒だの腐蝕剤(ふしょくざい)だのを吹きかけたり浴びせかけたりするのとはまるで訳が違う。その証拠にはたといどれほど烈(はげ)しく怒(おこ)られても、僕は彼女から清いもので自分の腸(はらわた)を洗われたような気持のした場合が今までに何遍もあった。気高(けだか)いものに出会ったという感じさえ稀(まれ)には起したくらいである。僕は天下の前にただ一人立って、彼女はあらゆる女のうちでもっとも女らしい女だと弁護したいくらいに思っている。

        十二

 これほど好(よ)く思っている千代子を妻(さい)としてどこが不都合なのか。――実は僕も自分で自分の胸にこう聞いた事がある。その時理由(わけ)も何もまだ考えない先に、僕はまず恐ろしくなった。そうして夫婦としての二人を長く眼前に想像するにたえなかった。こんな事を母に云ったら定めし驚ろくだろう、同年輩の友達に話してもあるいは通じないかも知れない。けれども強(し)いて沈黙のなかに記憶を埋(うず)める必要もないから、それを自分だけの感想に止(とど)めないでここに自白するが、一口に云うと、千代子は恐ろしい事を知らない女なのである。そうして僕は恐ろしい事だけ知った男なのである。だからただ釣り合わないばかりでなく、夫婦となればまさに逆にでき上るよりほかに仕方がないのである。
 僕は常に考えている。「純粋な感情ほど美くしいものはない。美くしいものほど強いものはない」と。強いものが恐れないのは当り前である。僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の眼から出る強烈な光に堪(た)えられないだろう。その光は必ずしも怒(いかり)を示すとは限らない。情(なさけ)の光でも、愛の光でも、もしくは渇仰(かっこう)の光でも同じ事である。僕はきっとその光のために射竦(いすく)められるにきまっている。それと同程度あるいはより以上の輝くものを、返礼として彼女に与えるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。僕は芳烈な一樽の清酒を貰っても、それを味わい尽くす資格を持たない下戸(げこ)として、今日(こんにち)まで世間から教育されて来たのである。
 千代子が僕のところへ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない。彼女は美くしい天賦(てんぷ)の感情を、あるに任せて惜気(おしげ)もなく夫の上に注(つ)ぎ込む代りに、それを受け入れる夫が、彼女から精神上の営養を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫から予期するに違いない。年のいかない、学問の乏しい、見識の狭い点から見ると気の毒と評して然(しか)るべき彼女は、頭と腕を挙げて実世間に打ち込んで、肉眼で指(さ)す事のできる権力か財力を攫(つか)まなくっては男子でないと考えている。単純な彼女は、たとい僕のところへ嫁に来ても、やはりそう云う働きぶりを僕から要求し、また要求さえすれば僕にできるものとのみ思いつめている。二人の間に横たわる根本的の不幸はここに存在すると云っても差支(さしつかえ)ないのである。僕は今云った通り、妻(さい)としての彼女の美くしい感情を、そう多量に受け入れる事のできない至って燻(くす)ぶった性質(たち)なのだが、よし焼石に水を濺(そそ)いだ時のように、それをことごとく吸い込んだところで、彼女の望み通りに利用する訳にはとても行かない。もし純粋な彼女の影響が僕のどこかに表われるとすれば、それはいくら説明しても彼女には全く分らないところに、思いも寄らぬ形となって発現するだけである。万一彼女の眼にとまっても、彼女はそれをコスメチックで塗り堅めた僕の頭や羽二重(はぶたえ)の足袋(たび)で包んだ僕の足よりもありがたがらないだろう。要するに彼女から云えば、美くしいものを僕の上に永久浪費して、しだいしだいに結婚の不幸を嘆くに過ぎないのである。
 僕は自分と千代子を比較するごとに、必ず恐れない女と恐れる男という言葉をくり返したくなる。しまいにはそれが自分の作った言葉でなくって、西洋人の小説にそのまま出ているような気を起す。この間講釈好きの松本の叔父から、詩と哲学の区別を聞かされて以来は、恐れない女と恐れる男というと、たちまち自分に縁の遠い詩と哲学を想(おも)い出す。叔父は素人(しろうと)学問ながらこんな方面に興味を有(も)っているだけに、面白い事をいろいろ話して聞かしたが、僕を捕(つら)まえて「御前のような感情家は」と暗(あん)に詩人らしく僕を評したのは間違っている。僕に云わせると、恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命である。僕の思い切った事のできずにぐずぐずしているのは、何より先に結果を考えて取越苦労(とりこしぐろう)をするからである。千代子が風のごとく自由に振舞うのは、先の見えないほど強い感情が一度に胸に湧(わ)き出るからである。彼女は僕の知っている人間のうちで、最も恐れない一人(いちにん)である。だから恐れる僕を軽蔑(けいべつ)するのである。僕はまた感情という自分の重みでけつまずきそうな彼女を、運命のアイロニーを解せざる詩人として深く憐(あわ)れむのである。否(いな)時によると彼女のために戦慄(せんりつ)するのである。

        十三

 須永(すなが)の話の末段は少し敬太郎(けいたろう)の理解力を苦しめた。事実を云えば彼はまた彼なりに詩人とも哲学者とも云い得る男なのかも知れなかった。しかしそれは傍(はた)から彼を見た眼の評する言葉で、敬太郎自身はけっしてどっちとも思っていなかった。したがって詩とか哲学とかいう文字も、月の世界でなければ役に立たない夢のようなものとして、ほとんど一顧に価(あたい)しないくらいに見限(みかぎ)っていた。その上彼は理窟(りくつ)が大嫌(だいきら)いであった。右か左へ自分の身体(からだ)を動かし得ないただの理窟は、いくら旨(うま)くできても彼には用のない贋造紙幣(がんぞうしへい)と同じ物であった。したがって恐れる男とか恐れない女とかいう辻占(つじうら)に似た文句を、黙って聞いているはずはなかったのだが、しっとりと潤(うるお)った身の上話の続きとして、感想がそこへ流れ込んで来たものだから、敬太郎もよく解らないながら素直に耳を傾むけなければすまなかったのである。
 須永もそこに気がついた。
「話が理窟張(りくつば)ってむずかしくなって来たね。あんまり一人で調子に乗って饒舌(しゃべ)っているものだから」
「いや構わん。大変面白い」
「洋杖(ステッキ)の効果(ききめ)がありゃしないか」
「どうも不思議にあるようだ。ついでにもう少し先まで話す事にしようじゃないか」
「もう無いよ」
 須永はそう云い切って、静かな水の上に眼を移した。敬太郎もしばらく黙っていた。不思議にも今聞かされた須永の詩だか哲学だか分らないものが、形の判然(はっきり)しない雲の峰のように、頭の中に聳(そび)えて容易に消えそうにしなかった。何事も語らないで彼の前に坐(すわ)っている須永自身も、平生の紋切形(もんきりがた)を離れた怪しい一種の人物として彼の眼に映じた。どうしてもまだ話の続きがあるに違ないと思った敬太郎は、今の一番しまいの物語はいつごろの事かと須永に尋ねた。それは自分の三年生ぐらいの時の出来事だと須永は答えた。敬太郎は同じ関係が過去一年余りの間にどういう径路を取ってどう進んで、今はどんな解釈がついているかと聞き返した。須永は苦笑して、まず外へ出てからにしようと云った。二人は勘定(かんじょう)を済まして外へ出た。須永は先へ立つ敬太郎の得意に振り動かす洋杖の影を見てまた苦笑した。
 柴又(しばまた)の帝釈天(たいしゃくてん)の境内(けいだい)に来た時、彼らは平凡な堂宇(どうう)を、義理に拝ませられたような顔をしてすぐ門を出た。そうして二人共汽車を利用してすぐ東京へ帰ろうという気を起した。停車場(ステーション)へ来ると、間怠(まだ)るこい田舎(いなか)汽車の発車時間にはまだだいぶ間(ま)があった。二人はすぐそこにある茶店に入って休息した。次の物語はその時敬太郎が前約を楯(たて)に須永から聞かして貰ったものである。――
 僕が大学の三年から四年に移る夏休みの出来事であった。宅(うち)の二階に籠(こも)ってこの暑中をどう暮らしたら宜(よ)かろうと思案していると、母が下から上(あが)って来て、閑(ひま)になったら鎌倉へちょっと行って来たらどうだと云った。鎌倉にはその一週間ほど前から田口のものが避暑に行っていた。元来叔父は余り海辺(うみべ)を好まない性質(たち)なので、一家(いっけ)のものは毎年軽井沢の別荘へ行くのを例にしていたのだが、その年は是非海水浴がしたいと云う娘達の希望を容(い)れて、材木座にある、ある人の邸宅(やしき)を借り入れたのである。移る前に千代子が暇乞(いとまごい)かたがた報知(しらせ)に来て、まだ行っては見ないけれども、山陰の涼しい崖(がけ)の上に、二段か三段に建てた割合手広な住居(すまい)だそうだから是非遊びに来いと母に勧めていたのを、僕は傍(そば)で聞いていた。それで僕は母にあなたこそ行って遊んで来たら気保養(きぼよう)になってよかろうと忠告した。母は懐(ふところ)から千代子の手紙を出して見せた。それには千代子と百代子の連名で、母と僕にいっしょに来るようにと、彼らの女親の命令を伝えるごとく書いてあった。母が行くとすれば年寄一人を汽車に乗せるのは心配だから、是非共僕がついて行かなければならなかった。変窟(へんくつ)な僕からいうと、そう混雑(ごたごた)した所へ二人で押しかけるのは、世話にならないにしても気の毒で厭(いや)だった。けれども母は行きたいような顔をした。そうしてそれが僕のために行きたいような顔に見えるので僕はますます厭になった。が、とどのつまりとうとう行く事にした。こう云っても人には通じないかも知れないが、僕は意地の強い男で、また意地の弱い男なのである。

        十四

 母は内気な性分なので平生(へいぜい)から余り旅行を好まなかった。昔風に重きをおかなければ承知しない厳格な父の生きている頃は外へもそうたびたびは出られない様子であった。現に僕は父と母が娯楽の目的をもっていっしょに家を留守にした例を覚えていない。父が死んで自由が利(き)くようになってからも、そう勝手な時に好きな所へ行く機会は不幸にして僕の母には与えられなかった。一人で遠くへ行ったり、長く宅(うち)を空(あ)けたりする便宜(べんぎ)を有(も)たない彼女は、母子(おやこ)二人の家庭にこうして幾年を老いたのである。
 鎌倉へ行こうと思い立った日、僕は彼女のために一個の鞄(かばん)を携(たずさ)えて直行(ちょっこう)の汽車に乗った。母は車の動き出す時、隣に腰をかけた僕に、汽車も久しぶりだねと笑いながら云った。そう云われた僕にも実は余り頻繁(ひんぱん)な経験ではなかった。新らしい気分に誘われた二人の会話は平生(ふだん)よりは生々(いきいき)していた。何を話したか自分にもいっこう覚えのない事を、聞いたり聞かれたりして断続に任せているうちに車は目的地に着いた。あらかじめ通知をしてないので停車場(ステーション)には誰も迎(むかえ)に来ていなかったが、車を雇うとき某(なにがし)さんの別荘と注意したら、車夫はすぐ心得て引き出した。僕はしばらく見ないうちに、急に新らしい家の多くなった砂道を通りながら、松の間から遠くに見える畠中(はたなか)の黄色い花を美くしく眺(なが)めた。それはちょっと見るとまるで菜種の花と同じ趣(おもむき)を具(そな)えた目新らしいものであった。僕は車の上で、このちらちらする色は何だろうと考え抜いた揚句(あげく)、突然唐茄子(とうなす)だと気がついたので独(ひと)りおかしがった。
 車が別荘の門に着いた時、戸障子(としょうじ)を取り外(はず)した座敷の中に動く人の影が往来からよく見えた。僕はそのうちに白い浴衣(ゆかた)を着た男のいるのを見て、多分叔父が昨日(きのう)あたり東京から来て泊ってるのだろうと思った。ところが奥にいるものがことごとく僕らを迎えるために玄関へ出て来たのに、その男だけは少しも顔を見せなかった。もちろん叔父ならそのくらいの事はあるべきはずだと思って、座敷へ通って見ると、そこにも彼の姿は見えなかった。僕はきょろきょろしているうちに、叔母と母が汽車の中はさぞ暑かったろうとか、見晴しの好い所が手に入(い)って結構だとか、年寄の女だけに口数(くちかず)の多い挨拶(あいさつ)のやりとりを始めた。千代子と百代子は母のために浴衣を勧めたり、脱ぎ捨てた着物を晒干(さぼ)してくれたりした。僕は下女に風呂場へ案内して貰って、水で顔と頭を洗った。海岸からはだいぶ道程(みちのり)のある山手だけれども水は存外悪かった。手拭(てぬぐい)を絞(しぼ)って金盥(かなだらい)の底を見ていると、たちまち砂のような滓(おり)が澱(おど)んだ。
「これを御使いなさい」という千代子の声が突然後(うしろ)でした。振り返ると、乾いた白いタオルが肩の所に出ていた。僕はタオルを受取って立ち上った。千代子はまた傍(そば)にある鏡台の抽出(ひきだし)から櫛(くし)を出してくれた。僕が鏡の前に坐(すわ)って髪を解かしている間、彼女は風呂場の入口の柱に身体(からだ)を持たして、僕の濡(ぬ)れた頭を眺めていたが、僕が何も云わないので、向うから「悪い水でしょう」と聞いた。僕は鏡の中を見たなり、どうしてこんな色が着いているのだろうと云った。水の問答が済んだとき、僕は櫛を鏡台の上に置いて、タオルを肩にかけたまま立ち上った。千代子は僕より先に柱を離れて座敷の方へ行こうとした。僕は藪(やぶ)から棒に後(うしろ)から彼女の名を呼んで、叔父はどこにいるかと尋ねた。彼女は立ち止まって振り返った。
「御父さんは四五日前ちょっといらしったけど、一昨日(おととい)また用が出来たって東京へ御帰りになったぎりよ」
「ここにゃいないのかい」
「ええ。なぜ。ことによると今日の夕方吾一(ごいち)さんを連れて、またいらっしゃるかも知れないけども」
 千代子は明日(あした)もし天気が好ければ皆(みんな)と魚を漁(と)りに行くはずになっているのだから、田口が都合して今日の夕方までに来てくれなければ困るのだと話した。そうして僕にも是非いっしょに行けと勧めた。僕は魚の事よりも先刻(さっき)見た浴衣(ゆかた)がけの男の居所が知りたかった。

        十五

「先刻誰だか男の人が一人座敷にいたじゃないか」
「あれ高木さんよ。ほら秋子さんの兄さんよ。知ってるでしょう」
 僕は知っているともいないとも答えなかった。しかし腹の中では、この高木と呼ばれる人の何者かをすぐ了解した。百代子の学校朋輩(ほうばい)に高木秋子という女のある事は前から承知していた。その人の顔も、百代子といっしょに撮(と)った写真で知っていた。手蹟(しゅせき)も絵端書(えはがき)で見た。一人の兄が亜米利加(アメリカ)へ行っているのだとか、今帰って来たばかりだとかいう話もその頃耳にした。困らない家庭なのだろうから、その人が鎌倉へ遊びに来ているぐらいは怪しむに足らなかった。よしここに別荘を持っていたところで不思議はなかった。が、僕はその高木という男の住んでいる家を千代子から聞きたくなった。
「ついこの下よ」と彼女は云ったぎりであった。
「別荘かい」と僕は重ねて聞いた。
「ええ」
 二人はそれ以外を語らずに座敷へ帰った。座敷では母と叔母がまだ海の色がどうだとか、大仏がどっちの見当にあたるとかいうさほどでもない事を、問題らしく聞いたり教えたりしていた。百代子は千代子に彼らの父がその日の夕方までに来ると云って、わざわざ知らせて来た事を告げた。二人は明日(あす)魚を漁(と)りに行く時の楽みを、今眼(ま)の当りに描(えが)き出して、すでに手の内に握った人のごとく語り合った。
「高木さんもいらっしゃるんでしょう」
「市(いっ)さんもいらっしゃい」
 僕は行かないと答えた。その理由として、少し宅(うち)に用があって、今夜東京へ帰えらなければならないからという説明を加えた。しかし腹の中ではただでさえこう混雑(ごたごた)しているところへ、もし田口が吾一でも連れて来たら、それこそ自分の寝る場所さえ無くなるだろうと心配したのである。その上僕は姉妹(きょうだい)の知っている高木という男に会うのが厭(いや)だった。彼は先刻(さっき)まで二人と僕の評判をしていたが、僕の来たのを見て、遠慮して裏から帰ったのだと百代子から聞いた時、僕はまず窮屈な思いを逃(のが)れて好かったと喜こんだ。僕はそれほど知らない人を怖(こわ)がる性分なのである。
 僕の帰ると云うのを聞いた二人は、驚ろいたような顔をしてとめにかかった。ことに千代子は躍起(やっき)になった。彼女は僕を捉(つら)まえて変人だと云った。母を一人残してすぐ帰る法はないと云った。帰ると云っても帰さないと云った。彼女は自分の妹や弟に対してよりも、僕に対しては遥(はる)かに自由な言葉を使い得る特権を有(も)っていた。僕は平生から彼女が僕に対して振舞うごとく大胆に率直に(ある時は善意ではあるが)威圧的に、他人に向って振舞う事ができたなら、僕のような他に欠点の多いものでも、さぞ愉快に世の中を渡って行かれるだろうと想像して、大いにこの小さな暴君(タイラント)を羨(うらや)ましがっていた。
「えらい権幕(けんまく)だね」
「あなたは親不孝よ」
「じゃ叔母さんに聞いて来るから、もし叔母さんが泊って行く方がいいって、おっしゃったら、泊っていらっしゃい。ね」
 百代子は仲裁を試みるような口調でこう云いながら、すぐ年寄の話している座敷の方へ立って行った。僕の母の意向は無論聞くまでもなかった。したがって百代子の年寄二人から齎(もた)らした返事もここに述べるのは蛇足(だそく)に過ぎない。要するに僕は千代子の捕虜になったのである。
 僕はやがてちょっと町へ出て来るという口実(いいまえ)の下(もと)に、午後の暑い日を洋傘(こうもり)で遮(さえ)ぎりながら別荘の附近を順序なく徘徊(はいかい)した。久しく見ない土地の昔を偲(しの)ぶためと云えば云えない事もないが、僕にそんな寂(さ)びた心持を嬉(うれ)しがる風流があったにしたところで、今はそれに耽(ふけ)る落ちつきも余裕(よゆう)も与えられなかった。僕はただうろうろとそこらの標札を読んで歩いた。そうして比較的立派な平屋建(ひらやだて)の門の柱に、高木の二字を認めた時、これだろうと思って、しばらく門前に佇(たたず)んだ。それから後(あと)は全く何の目的もなしになお緩漫(かんまん)な歩行を約十五分ばかり続けた。しかしこれは僕が自分の心に、高木の家を見るためにわざわざ表へ出たのではないと申し渡したと同じようなものであった。僕はさっさと引き返した。

        十六

 実を云うと、僕はこの高木という男について、ほとんど何も知らなかった。ただ一遍百代子から彼が適当な配偶を求めつつある由を聞いただけである。その時百代子が、御姉さんにはどうかしらと、ちょうど相談でもするように僕の顔色を見たのを覚えている。僕はいつもの通り冷淡な調子で、好いかも知れない、御父さんか御母さんに話して御覧と云ったと記憶する。それから以後僕の田口の家(うち)に足を入れた度数は何遍あるか分らないが、高木の名前は少くとも僕のいる席ではついぞ誰の口にも上(のぼ)らなかったのである。それほど親しみの薄い、顔さえ見た事のない男の住居(すまい)に何の興味があって、僕はわざわざ砂の焼ける暑さを冒(おか)して外出したのだろう。僕は今日(こんにち)までその理由を誰にも話さずにいた。自分自身にもその時にはよく説明ができなかった。ただ遠くの方にある一種の不安が、僕の身体(からだ)を動かしに来たという漠(ばく)たる感じが胸に射(さ)したばかりであった。それが鎌倉で暮らした二日の間に、紛(まぎ)れもないある形を取って発展した結果を見て、僕を散歩に誘い出したのもやはり同じ力に違いないと今から思うのである。
 僕が別荘へ帰って一時間経(た)つか経たないうちに、僕の注意した門札と同じ名前の男がたちまち僕の前に現われた。田口の叔母は、高木さんですと云って叮嚀(ていねい)にその男を僕に紹介した。彼は見るからに肉の緊(しま)った血色の好い青年であった。年から云うと、あるいは僕より上かも知れないと思ったが、そのきびきびした顔つきを形容するには、是非共青年という文字が必要になったくらい彼は生気に充(み)ちていた。僕はこの男を始めて見た時、これは自然が反対を比較するために、わざと二人を同じ座敷に並べて見せるのではなかろうかと疑ぐった。無論その不利益な方面を代表するのが僕なのだから、こう改たまって引き合わされるのが、僕にはただ悪い洒落(しゃれ)としか受取られなかった。
 二人の容貌(ようぼう)がすでに意地の好くない対照を与えた。しかし様子とか応対(おうたい)ぶりとかになると僕はさらにはなはだしい相違を自覚しない訳に行かなかった。僕の前にいるものは、母とか叔母とか従妹(いとこ)とか、皆親しみの深い血属ばかりであるのに、それらに取り捲(ま)かれている僕が、この高木に比べると、かえってどこからか客にでも来たように見えたくらい、彼は自由に遠慮なく、しかもある程度の品格を落す危険なしに己(おのれ)を取扱かう術(すべ)を心得ていたのである。知らない人を怖(おそ)れる僕に云わせると、この男は生れるや否や交際場裏に棄(す)てられて、そのまま今日まで同じ所で人と成ったのだと評したかった。彼は十分と経たないうちに、すべての会話を僕の手から奪った。そうしてそれをことごとく一身に集めてしまった。その代り僕を除(の)け物(もの)にしないための注意を払って、時々僕に一句か二句の言葉を与えた。それがまた生憎(あいにく)僕には興味の乗らない話題ばかりなので、僕はみんなを相手にする事もできず、高木一人を相手にする訳にも行かなかった。彼は田口の叔母を親しげに御母さん御母さんと呼んだ。千代子に対しては、僕と同じように、千代ちゃんという幼馴染(おさななじみ)に用いる名を、自然に命ぜられたかのごとく使った。そうして僕に、先ほど御着になった時は、ちょうど千代ちゃんとあなたの御噂(おうわさ)をしていたところでしたと云った。
 僕は初めて彼の容貌を見た時からすでに羨(うらや)ましかった。話をするところを聞いて、すぐ及ばないと思った。それだけでもこの場合に僕を不愉快にするには充分だったかも知れない。けれどもだんだん彼を観察しているうちに、彼は自分の得意な点を、劣者の僕に見せつけるような態度で、誇り顔に発揮するのではなかろうかという疑が起った。その時僕は急に彼を憎(にく)み出した。そうして僕の口を利(き)くべき機会が廻って来てもわざと沈黙を守った。
 落ちついた今の気分でその時の事を回顧して見ると、こう解釈したのはあるいは僕の僻(ひが)みだったかも分らない。僕はよく人を疑ぐる代りに、疑ぐる自分も同時に疑がわずにはいられない性質(たち)だから、結局他(ひと)に話をする時にもどっちと判然(はっきり)したところが云い悪(にく)くなるが、もしそれが本当に僕の僻(ひが)み根性(こんじょう)だとすれば、その裏面にはまだ凝結した形にならない嫉□(しっと)が潜(ひそ)んでいたのである。

        十七

 僕は男として嫉□の強い方か弱い方か自分にもよく解らない。競争者のない一人息子としてむしろ大事に育てられた僕は、少なくとも家庭のうちで嫉□を起す機会を有(も)たなかった。小学や中学は自分より成績の好い生徒が幸いにしてそう無かったためか、至極(しごく)太平に通り抜けたように思う。高等学校から大学へかけては、席次にさほど重きをおかないのが、一般の習慣であった上、年ごとに自分を高く見積る見識というものが加わって来るので、点数の多少は大した苦にならなかった。これらをほかにして、僕はまだ痛切な恋に落ちた経験がない。一人の女を二人で争った覚(おぼえ)はなおさらない。自白すると僕は若い女ことに美くしい若い女に対しては、普通以上に精密な注意を払い得る男なのである。往来を歩いて綺麗(きれい)な顔と綺麗な着物を見ると、雲間から明らかな日が射した時のように晴やかな心持になる。会(たま)にはその所有者になって見たいと云う考(かんがえ)も起る。しかしその顔とその着物がどうはかなく変化し得るかをすぐ予想して、酔(よい)が去って急にぞっとする人のあさましさを覚える。僕をして執念(しゅうね)く美くしい人に附纏(つけまつ)わらせないものは、まさにこの酒に棄(す)てられた淋しみの障害に過ぎない。僕はこの気分に乗り移られるたびに、若い時分が突然老人(としより)か坊主に変ったのではあるまいかと思って、非常な不愉快に陥(おちい)る。が、あるいはそれがために恋の嫉□というものを知らずにすます事が出来たかも知れない。
 僕は普通の人間でありたいという希望を有(も)っているから、嫉□心のないのを自慢にしたくも何ともないけれども、今話したような訳で、眼(ま)の当りにこの高木という男を見るまでは、そういう名のつく感情に強く心を奪われた試(ためし)がなかったのである。僕はその時高木から受けた名状しがたい不快を明らかに覚えている。そうして自分の所有でもない、また所有する気もない千代子が源因で、この嫉□心が燃え出したのだと思った時、僕はどうしても僕の嫉□心を抑(おさ)えつけなければ自分の人格に対して申し訳がないような気がした。僕は存在の権利を失った嫉□心を抱(いだ)いて、誰にも見えない腹の中で苦悶(くもん)し始めた。幸い千代子と百代子が日が薄くなったから海へ行くと云い出したので、高木が必ず彼らに跟(つ)いて行くに違ないと思った僕は、早く跡に一人残りたいと願った。彼らははたして高木を誘った。ところが意外にも彼は何とか言訳を拵(こしら)えて容易に立とうとしなかった。僕はそれを僕に対する遠慮だろうと推察して、ますます眉(まゆ)を暗くした。彼らは次に僕を誘った。僕は固(もと)より応じなかった。高木の面前から一刻も早く逃(のが)れる機会は、与えられないでも手を出して奪いたいくらいに思っていたのだが、今の気分では二人と浜辺まで行く努力がすでに厭(いや)であった。母は失望したような顔をして、いっしょに行っておいでなと云った。僕は黙って遠くの海の上を眺(なが)めていた。姉妹(きょうだい)は笑いながら立ち上った。
「相変らず偏窟(へんくつ)ねあなたは。まるで腕白小僧見たいだわ」
 千代子にこう罵(のの)しられた僕は、実際誰の目にも立派な腕白小僧として見えたろう。僕自身も腕白小僧らしい思いをした。調子の好い高木は縁側(えんがわ)へ出て、二人のために菅笠(すげがさ)のように大きな麦藁帽(むぎわらぼう)を取ってやって、行っていらっしゃいと挨拶(あいさつ)をした。
 二人の後姿が別荘の門を出た後で、高木はなおしばらく年寄を相手に話していた。こうやって避暑に来ていると気楽で好いが、どうして日を送るかが大問題になってかえって苦痛になるなどと、実際活気に充(み)ちた身体(からだ)を暑さと退屈さに持ち扱かっている風に見えた。やがて、これから晩まで何をして暮らそうかしらと独言(ひとりごと)のように云って、不意に思い出したごとく、玉(たま)はどうですと僕に聞いた。幸いにして僕は生れてからまだ玉突という遊戯を試みた事がなかったのですぐ断った。高木はちょうど好い相手ができたと思ったのに残念だと云いながら帰って行った。僕は活溌(かっぱつ)に動く彼の後影を見送って、彼はこれから姉妹(きょうだい)のいる浜辺の方へ行くに違いないという気がした。けれども僕は坐(すわ)っている席を動かなかった。

        十八

 高木の去った後(あと)、母と叔母はしばらく彼の噂(うわさ)をした。初対面の人だけに母の印象はことに深かったように見えた。気のおけない、至って行き届いた人らしいと云って賞(ほ)めていた。叔母はまた母の批評を一々実例に照らして確かめる風に見えた。この時僕は高木について知り得た極(きわ)めて乏しい知識のほとんど全部を訂正しなければならない事を発見した。僕が百代子から聞いたのでは、亜米利加(アメリカ)帰りという話であった彼は、叔母の語るところによると、そうではなくって全く英吉利(イギリス)で教育された男であった。叔母は英国流の紳士という言葉を誰かから聞いたと見えて、二三度それを使って、何の心得もない母を驚ろかしたのみか、だからどことなく品(ひん)の善いところがあるんですよと母に説明して聞かせたりした。母はただへえと感心するのみであった。
 二人がこんな話をしている内、僕はほとんど一口も口を利(き)かなかった。ただ上部(うわべ)から見て平生の調子と何の変るところもない母が、この際高木と僕を比較して、腹の中でどう思っているだろうと考えると、僕は母に対して気の毒でもありまた恨(うら)めしくもあった。同じ母が、千代子対僕と云う古い関係を一方に置いて、さらに千代子対高木という新らしい関係を一方に想像するなら、はたしてどんな心持になるだろうと思うと、たとい少しの不安でも、避け得られるところをわざと与えるために彼女を連れ出したも同じ事になるので、僕はただでさえ不愉快な上に、年寄にすまないという苦痛をもう一つ重ねた。
 前後の模様から推(お)すだけで、実際には事実となって現われて来なかったから何とも云い兼ねるが、叔母はこの場合を利用して、もし縁があったら千代子を高木にやるつもりでいるぐらいの打明話(うちあけばなし)を、僕ら母子(おやこ)に向って、相談とも宣告とも片づかない形式の下(もと)に、する気だったかも知れない。すべてに気がつく癖に、こうなるとかえって僕よりも迂遠(うと)い母はどうだか、僕はその場で叔母の口から、僕と千代子と永久に手を別つべき談判の第一節を予期していたのである。幸か不幸か、叔母がまだ何も云い出さないうちに、姉妹(きょうだい)は浜から広い麦藁帽(むぎわらぼう)の縁(ふち)をひらひらさして帰って来た。僕が僕の占いの的中しなかったのを、母のために喜こんだのは事実である。同時に同じ出来事が僕を焦躁(もどか)しがらせたのも嘘(うそ)ではない。
 夕方になって、僕は姉妹と共に東京から来るはずの叔父を停車場(ステーション)に迎えるべく母に命ぜられて家(いえ)を出た。彼らは揃(そろい)の浴衣(ゆかた)を着て白い足袋(たび)を穿(は)いていた。それを後(うしろ)から見送った彼らの母の眼に彼らがいかなる誇として映じたろう。千代子と並んで歩く僕の姿がまた僕の母には画(え)として普通以上にどんなに価(あたい)が高かったろう。僕は母を欺(あざ)むく材料に自然から使われる自分を心苦しく思って、門を出る時振り返って見たら、母も叔母もまだこっちを見ていた。
 途中まで来た頃、千代子は思い出したように突然とまって、「あっ高木さんを誘うのを忘れた」と云った。百代子はすぐ僕の顔を見た。僕は足の運びを止(と)めたが、口は開かなかった。「もう好いじゃないの、ここまで来たんだから」と百代子が云った。「だってあたし先刻(さっき)誘ってくれって頼まれたのよ」と千代子が云った。百代子はまた僕の顔を見て逡巡(ためら)った。
「市(いっ)さんあなた時計持っていらしって。今何時」
 僕は時計を出して百代子に見せた。
「まだ間に合わない事はない。誘って来るなら来ると好い。僕は先へ行って待っているから」
「もう遅いわよあなた。高木さん、もしいらっしゃるつもりならきっと一人でもいらしってよ。後から忘れましたって詫(あや)まったらそれで好(よ)かないの」
 姉妹は二三度押問答の末ついに後戻りをしない事にした。高木は百代子の予言通りまだ汽車の着かないうちに急ぎ足で構内へ這入(はい)って来て、姉妹に、どうも非道(ひど)い、あれほど頼んでおくのにと云った。それから御母さんはと聞いた。最後に僕の方を向いて、先ほどはと愛想(あいそ)の好い挨拶(あいさつ)をした。

        十九

 その晩は叔父と従弟(いとこ)を待ち合わした上に、僕ら母子(おやこ)が新たに食卓に加わったので、食事の時間がいつもより、だいぶ後(おく)れたばかりでなく、私(ひそ)かに恐れた通りはなはだしい混雑の中(うち)に箸(はし)と茶椀の動く光景を見せられた。叔父は笑いながら、市(いっ)さんまるで火事場のようだろう、しかし会(たま)にはこんな騒ぎをして飯を食うのも面白いものだよと云って、間接の言訳をした。閑静な膳(ぜん)に慣れた母は、この賑(にぎ)やかさの中に実際叔父の言葉通り愉快らしい顔をしていた。母は内気な癖にこういう陽気な席が好きなのである。
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