彼岸過迄
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著者名:夏目漱石 

彼らが公然と膝(ひざ)を突き合わせて、例になく長い時間を、遠慮の交(まじ)らない談話に更(ふ)かしたのは、正月半(なか)ばの歌留多会(かるたかい)の折であった。その時敬太郎は千代子から、あなた随分鈍(のろ)いのねと云われた。百代子からは、あたしあなたと組むのは厭(いや)よ、負けるにきまってるからと怒(おこ)られた。
 それからまた一カ月ほど経(た)って、梅の音信(たより)の新聞に出る頃、敬太郎はある日曜の午後を、久しぶりに須永の二階で暮した時、偶然遊びに来ていた千代子に出逢(であ)った。三人してそれからそれへと纏(まと)まらない話を続けて行くうちに、ふと松本の評判が千代子の口に上(のぼ)った。
「あの叔父さんも随分変ってるのね。雨が降ると一しきりよく御客を断わった事があってよ。今でもそうかしら」

        二

「実は僕も雨の降る日に行って断られた一人(いちにん)なんだが……」と敬太郎(けいたろう)が云い出した時、須永(すなが)と千代子は申し合せたように笑い出した。
「君も随分運の悪い男だね。おおかた例の洋杖(ステッキ)を持って行かなかったんだろう」と須永は調戯(からか)い始めた。
「だって無理だわ、雨の降る日に洋杖なんか持って行けったって。ねえ田川さん」
 この理攻(りぜ)めの弁護を聞いて、敬太郎も苦笑した。
「いったい田川さんの洋杖って、どんな洋杖なの。わたしちょっと見たいわ。見せてちょうだい、ね、田川さん。下へ行って見て来ても好くって」
「今日は持って来ません」
「なぜ持って来ないの。今日はあなたそれでも好い御天気よ」
「大事な洋杖だから、いくら好い御天気でも、ただの日には持って出ないんだとさ」
「本当?」
「まあそんなものです」
「じゃ旗日(はたび)にだけ突いて出るの」
 敬太郎は一人で二人に当っているのが少し苦しくなった。この次内幸町へ行く時は、きっと持って行って見せるという約束をしてようやく千代子の追窮を逃(のが)れた。その代り千代子からなぜ松本が雨の降る日に面会を謝絶したかの源因を話して貰う事にした。――
 それは珍らしく秋の日の曇った十一月のある午過(ひるすぎ)であった。千代子は松本の好きな雲丹(うに)を母からことづかって矢来(やらい)へ持って来た。久しぶりに遊んで行こうかしらと云って、わざわざ乗って来た車まで返して、緩(ゆっ)くり腰を落ちつけた。松本には十三になる女を頭(かしら)に、男、女、男と互違(たがいちがい)に順序よく四人の子が揃(そろ)っていた。これらは皆二つ違いに生れて、いずれも世間並に成長しつつあった。家庭に華(はな)やかな匂を着けるこの生き生きした装飾物の外に、松本夫婦は取って二つになる宵子(よいこ)を、指環に嵌(は)めた真珠のように大事に抱(だ)いて離さなかった。彼女は真珠のように透明な青白い皮膚と、漆(うるし)のように濃い大きな眼を有(も)って、前の年の雛(ひな)の節句の前の宵(よい)に松本夫婦の手に落ちたのである。千代子は五人のうちで、一番この子を可愛(かわい)がっていた。来るたんびにきっと何か玩具(おもちゃ)を買って来てやった。ある時は余り多量に甘(あま)いものをあてがって叔母から怒(おこ)られた事さえある。すると千代子は、大事そうに宵子を抱いて縁側(えんがわ)へ出て、ねえ宵子さんと云っては、わざと二人の親しい様子を叔母に見せた。叔母は笑いながら、何だね喧嘩(けんか)でもしやしまいしと云った。松本は、御前そんなにその子が好きなら御祝いの代りに上げるから、嫁に行くとき持っておいでと調戯(からか)った。
 その日も千代子は坐ると直(すぐ)宵子を相手にして遊び始めた。宵子は生れてからついぞ月代(さかやき)を剃(そ)った事がないので、頭の毛が非常に細く柔(やわら)かに延びていた。そうして皮膚の青白いせいか、その髪の色が日光に照らされると、潤沢(うるおい)の多い紫(むらさき)を含んでぴかぴか縮(ちぢ)れ上っていた。「宵子さんかんかん結(い)って上げましょう」と云って、千代子は鄭寧(ていねい)にその縮れ毛に櫛(くし)を入れた。それから乏しい片鬢(かたびん)を一束割(さ)いて、その根元に赤いリボンを括(くく)りつけた。宵子の頭は御供(おそなえ)のように平らに丸く開いていた。彼女は短かい手をやっとその御供の片隅(かたすみ)へ乗せて、リボンの端(はじ)を抑えながら、母のいる所までよたよた歩いて来て、イボンイボンと云った。母がああ好くかんかんが結えましたねと賞(ほ)めると、千代子は嬉(うれ)しそうに笑いながら、子供の後姿を眺(なが)めて、今度は御父さんの所へ行って見せていらっしゃいと指図(さしず)した。宵子はまた足元の危ない歩きつきをして、松本の書斎の入口まで来て、四つ這(ばい)になった。彼女が父に礼をするときには必ず四つ這になるのが例であった。彼女はそこで自分の尻をできるだけ高く上げて、御供のような頭を敷居から二三寸の所まで下げて、またイボンイボンと云った。書見をちょっとやめた松本が、ああ好い頭だね、誰に結って貰ったのと聞くと、宵子は頸(くび)を下げたまま、ちいちいと答えた。ちいちいと云うのは、舌の廻らない彼女の千代子を呼ぶ常の符徴(ふちょう)であった。後(うしろ)に立って見ていた千代子は小(ち)さい唇(くちびる)から出る自分の名前を聞いて、また嬉しそうに大きな声で笑った。

        三

 そのうち子供がみんな学校から帰って来たので、今まで赤いリボンに占領されていた家庭が、急に幾色かの華(はな)やかさを加えた。幼稚園へ行く七つになる男の子が、巴(ともえ)の紋(もん)のついた陣太鼓(じんだいこ)のようなものを持って来て、宵子(よいこ)さん叩かして上げるからおいでと連れて行った。その時千代子は巾着(きんちゃく)のような恰好(かっこう)をした赤い毛織の足袋(たび)が廊下を動いて行く影を見つめていた。その足袋の紐(ひも)の先には丸い房がついていて、それが小いさな足を運ぶたびにぱっぱっと飛んだ。
「あの足袋はたしか御前が編(あ)んでやったのだったね」
「ええ可愛(かわい)らしいわね」
 千代子はそこへ坐って、しばらく叔父と話していた。そのうちに曇った空から淋しい雨が落ち出したと思うと、それが見る見る音を立てて、空坊主(からぼうず)になった梧桐(ごとう)をしたたか濡(ぬ)らし始めた。松本も千代子も申し合せたように、硝子越(ガラスごし)の雨の色を眺めて、手焙(てあぶり)に手を翳(かざ)した。
「芭蕉(ばしょう)があるもんだから余計音がするのね」
「芭蕉はよく持つものだよ。この間から今日は枯れるか、今日は枯れるかと思って、毎日こうして見ているがなかなか枯れない。山茶花(さざんか)が散って、青桐(あおぎり)が裸になっても、まだ青いんだからなあ」
「妙な事に感心するのね。だから恒三(つねぞう)は閑人(ひまじん)だって云われるのよ」
「その代り御前の叔父さんには芭蕉の研究なんか死ぬまでできっこない」
「したかないわ、そんな研究なんか。だけど叔父さんは内の御父さんよりか全く学者ね。わたし本当に敬服しててよ」
「生意気(なまいき)云うな」
「あら本当よあなた。だって何を聞いても知ってるんですもの」
 二人がこんな話をしていると、ただいまこの方(かた)が御見えになりましたと云って、下女が一通の紹介状のようなものを持って来て松本に渡した。松本は「千代子待っておいで。今にまた面白い事を教えてやるから」と笑いながら立ち上った。
「厭(いや)よまたこないだみたいに、西洋煙草(たばこ)の名なんかたくさん覚えさせちゃ」
 松本は何にも答えずに客間の方へ出て行った。千代子も茶の間へ取って返した。そこには雨に降り込められた空の光を補なうため、もう電気灯が点(とも)っていた。台所ではすでに夕飯(ゆうめし)の支度を始めたと見えて、瓦斯七輪(ガスしちりん)が二つとも忙がしく青い□(ほのお)を吐いていた。やがて小供は大きな食卓に二人ずつ向い合せに坐った。宵子だけは別に下女がついて食事をするのが例になっているので、この晩は千代子がその役を引受けた。彼女は小(ち)さい朱塗の椀(わん)と小皿に盛った魚肉とを盆の上に載(の)せて、横手にある六畳へ宵子を連れ込んだ。そこは家(うち)のものの着更(きがえ)をするために多く用いられる室(へや)なので、箪笥(たんす)が二つと姿見が一つ、壁から飛び出したように据(す)えてあった。千代子はその姿見の前に玩具(おもちゃ)のような椀と茶碗を載せた盆を置いた。
「さあ宵子さん、まんまよ。御待遠(おまちどお)さま」
 千代子が粥(かゆ)を一匙(ひとさじ)ずつ掬(すく)って口へ入れてやるたびに、宵子は旨(おい)しい旨しいだの、ちょうだいちょうだいだのいろいろな芸を強(し)いられた。しまいに自分一人で食べると云って、千代子の手から匙を受け取った時、彼女はまた丹念(たんねん)に匙の持ち方を教えた。宵子は固(もと)より極(きわ)めて短かい単語よりほかに発音できなかった。そう持つのではないと叱られると、きっと御供(おそなえ)のような平たい頭を傾(かし)げて、こう? こう? と聞き直した。それを千代子が面白がって、何遍もくり返さしているうちに、いつもの通りこう? と半分言いかけて、心持横にした大きな眼で千代子を見上げた時、突然右の手に持った匙を放り出して、千代子の膝(ひざ)の前に俯伏(うつぶせ)になった。
「どうしたの」
 千代子は何の気もつかずに宵子を抱(だ)き起した。するとまるで眠った子を抱えたように、ただ手応(てごたえ)がぐたりとしただけなので、千代子は急に大きな声を出して、宵子さん宵子さんと呼んだ。

        四

 宵子(よいこ)はうとうと寝入(ねい)った人のように眼を半分閉じて口を半分開(あ)けたまま千代子の膝(ひざ)の上に支えられた。千代子は平手でその背中を二三度叩(たた)いたが、何の効目(ききめ)もなかった。
「叔母さん、大変だから来て下さい」
 母は驚ろいて箸(はし)と茶碗を放り出したなり、足音を立てて這入(はい)って来た。どうしたのと云いながら、電灯の真下で顔を仰向(あおむけ)にして見ると、唇(くちびる)にもう薄く紫の色が注(さ)していた。口へ掌(てのひら)を当てがっても、呼息(いき)の通う音はしなかった。母は呼吸(こきゅう)の塞(つま)ったような苦しい声を出して、下女に濡手拭(ぬれてぬぐい)を持って来さした。それを宵子の額に載(の)せた時、「脈(みゃく)はあって」と千代子に聞いた。千代子はすぐ小さい手頸(てくび)を握ったが脈はどこにあるかまるで分らなかった。
「叔母さんどうしたら好いでしょう」と蒼(あお)い顔をして泣き出した。母は茫然(ぼうぜん)とそこに立って見ている小供に、「早く御父さんを呼んでいらっしゃい」と命じた。小供は四人(よつたり)とも客間の方へ馳(か)け出した。その足音が廊下の端(はずれ)で止まったと思うと、松本が不思議そうな顔をして出て来た。「どうした」と云いながら、蔽(お)い被(かぶ)さるように細君と千代子の上から宵子を覗(のぞ)き込んだが、一目見ると急に眉(まゆ)を寄せた。
「医者は……」
 医者は時を移さず来た。「少し模様が変です」と云ってすぐ注射をした。しかし何の効能(ききめ)もなかった。「駄目でしょうか」という苦しく張りつめた問が、固く結ばれた主人の唇(くちびる)を洩(も)れた。そうして絶望を怖(おそ)れる怪しい光に充(み)ちた三人の眼が一度に医者の上に据(す)えられた。鏡を出して瞳孔(どうこう)を眺めていた医者は、この時宵子の裾(すそ)を捲(まく)って肛門(こうもん)を見た。
「これでは仕方がありません。瞳孔も肛門も開いてしまっていますから。どうも御気の毒です」
 医者はこう云ったがまた一筒(いっとう)の注射を心臓部に試みた。固(もと)よりそれは何の手段にもならなかった。松本は透(す)き徹(とお)るような娘の肌に針の突き刺される時、自(おのず)から眉間(みけん)を険(けわ)しくした。千代子は涙をぽろぽろ膝の上に落した。
「病因は何でしょう」
「どうも不思議です。ただ不思議というよりほかに云いようがないようです。どう考えても……」と医者は首を傾むけた。「辛子湯(からしゆ)でも使わして見たらどうですか」と松本は素人料簡(しろうとりょうけん)で聞いた。「好いでしょう」と医者はすぐ答えたが、その顔には毫(ごう)も奨励(しょうれい)の色が出なかった。
 やがて熱い湯を盥(たらい)へ汲(く)んで、湯気の濛々(もうもう)と立つ真中へ辛子(からし)を一袋空(あ)けた。母と千代子は黙って宵子の着物を取り除(の)けた。医者は熱湯の中へ手を入れて、「もう少し注水(うめ)ましょう。余り熱いと火傷(やけど)でもなさるといけませんから」と注意した。
 医者の手に抱(だ)き取られた宵子は、湯の中に五六分浸(つ)けられていた。三人は息を殺して柔らかい皮膚の色を見つめていた。「もう好いでしょう。余(あん)まり長くなると……」と云いながら、医者は宵子を盥(たらい)から出した。母はすぐ受取ってタオルで鄭寧(ていねい)に拭いて元の着物を着せてやったが、ぐたぐたになった宵子の様子に、ちっとも前と変りがないので、「少しの間このまま寝かしておいてやりましょう」と恨(うら)めしそうに松本の顔を見た。松本はそれがよかろうと答えたまま、また座敷の方へ取って返して、来客を玄関に送り出した。
 小(ち)さい蒲団(ふとん)と小さい枕がやがて宵子のために戸棚(とだな)から取り出された。その上に常の夜の安らかな眠に落ちたとしか思えない宵子の姿を眺(なが)めた千代子は、わっと云って突伏(つっぷ)した。
「叔母さんとんだ事をしました……」
「何も千代ちゃんがした訳じゃないんだから……」
「でもあたしが御飯を喫(た)べさしていたんですから……叔父さんにも叔母さんにもまことにすみません」
 千代子は途切(とぎ)れ途切れの言葉で、先刻(さっき)自分が夕飯(ゆうめし)の世話をしていた時の、平生(ふだん)と異ならない元気な様子を、何遍もくり返して聞かした。松本は腕組をして、「どうもやっぱり不思議だよ」と云ったが、「おい御仙(おせん)、ここへ寝かしておくのは可哀(かわい)そうだから、あっちの座敷へ連れて行ってやろう」と細君を促(うな)がした。千代子も手を貸した。

        五

 手頃な屏風(びょうぶ)がないので、ただ都合の好い位置を択(よ)って、何の囲(かこ)いもない所へ、そっと北枕に寝かした。今朝方(けさがた)玩弄(おもちゃ)にしていた風船玉を茶の間から持って来て、御仙がその枕元に置いてやった。顔へは白い晒(さら)し木綿(もめん)をかけた。千代子は時々それを取り除(の)けて見ては泣いた。「ちょっとあなた」と御仙が松本を顧(かえり)みて、「まるで観音様(かんのんさま)のように可愛(かわい)い顔をしています」と鼻を詰らせた。松本は「そうか」と云って、自分の坐っている席から宵子の顔を覗(のぞ)き込んだ。
 やがて白木の机の上に、櫁(しきみ)と線香立と白団子が並べられて、蝋燭(ろうそく)の灯(ひ)が弱い光を放った時、三人は始めて眠から覚(さ)めない宵子と自分達が遠く離れてしまったという心細い感じに打たれた。彼らは代る代る線香を上げた。その煙の香(におい)が、二時間前とは全く違う世界に誘(いざ)ない込まれた彼らの鼻を断えず刺戟(しげき)した。ほかの子供は平生の通り早く寝かされた後(あと)に、咲子(さきこ)という十三になる長女だけが起きて線香の側(そば)を離れなかった。
「御前も御寝(おね)よ」
「まだ内幸町からも神田からも誰も来ないのね」
「もう来るだろう。好いから早く御寝」
 咲子は立って廊下へ出たが、そこで振り回(かえ)って、千代子を招いた。千代子が同じく立って廊下へ出ると、小さな声で、怖(こわ)いからいっしょに便所(はばかり)へ行ってくれろと頼んだ。便所には電灯が点(つ)けてなかった。千代子は燐寸(マッチ)を擦(す)って雪洞(ぼんぼり)に灯(ひ)を移して、咲子といっしょに廊下を曲った。帰りに下女部屋を覗(のぞ)いて見ると、飯焚(めしたき)が出入(でいり)の車夫と火鉢(ひばち)を挟(はさ)んでひそひそ何か話していた。千代子にはそれが宵子の不幸を細かに語っているらしく思われた。ほかの下女は茶の間で来客の用意に盆を拭いたり茶碗を並べたりしていた。
 通知を受けた親類のものがそのうち二三人寄った。いずれまた来るからと云って帰ったのもあった。千代子は来る人ごとに宵子の突然な最後をくり返しくり返し語った。十二時過から御仙は通夜(つや)をする人のために、わざと置火燵(おきごたつ)を拵(こし)らえて室(へや)に入れたが、誰もあたるものはなかった。主人夫婦は無理に勧められて寝室へ退(しり)ぞいた。その後(あと)で千代子は幾度か短かくなった線香の煙を新らしく継(つ)いだ。雨はまだ降りやまなかった。夕方芭蕉(ばしょう)に落ちた響はもう聞こえない代りに、亜鉛葺(トタンぶき)の廂(ひさし)にあたる音が、非常に淋しくて悲しい点滴(てんてき)を彼女の耳に絶えず送った。彼女はこの雨の中で、時々宵子の顔に当てた晒(さらし)を取っては啜泣(すすりなき)をしているうちに夜が明けた。
 その日は女がみんなして宵子の経帷子(きょうかたびら)を縫った。百代子(ももよこ)が新たに内幸町から来たのと、ほかに懇意の家(うち)の細君が二人ほど見えたので、小さい袖(そで)や裾(すそ)が、方々の手に渡った。千代子は半紙と筆と硯(すずり)とを持って廻って、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)という六字を誰にも一枚ずつ書かした。「市(いっ)さんも書いて上げて下さい」と云って、須永(すなが)の前へ来た。「どうするんだい」と聞いた須永は、不思議そうに筆と紙を受取った。
「細かい字で書けるだけ一面に書いて下さい。後(あと)から六字ずつを短冊形(たんざくがた)に剪(き)って棺(かん)の中へ散らしにして入れるんですから」
 皆(みん)な畏(かし)こまって六字の名号(みょうごう)を認(した)ためた。咲子は見ちゃ厭(いや)よと云いながら袖屏風(そでびょうぶ)をして曲りくねった字を書いた。十一になる男の子は僕は仮名で書くよと断わって、ナムアミダブツと電報のようにいくつも並べた。午過(ひるすぎ)になっていよいよ棺に入れるとき松本は千代子に「御前着物を着換さしておやりな」と云った。千代子は泣きながら返事もせずに、冷たい宵子を裸にして抱(だ)き起した。その背中には紫色(むらさきいろ)の斑点が一面に出ていた。着換が済むと御仙が小さい珠数(じゅず)を手にかけてやった。同じく小さい編笠(あみがさ)と藁草履(わらぞうり)を棺に入れた。昨日(きのう)の夕方まで穿(は)いていた赤い毛糸の足袋(たび)も入れた。その紐(ひも)の先につけた丸い珠(たま)のぶらぶら動く姿がすぐ千代子の眼に浮んだ。みんなのくれた玩具(おもちゃ)も足や頭の所へ押し込んだ。最後に南無阿弥陀仏の短冊(たんざく)を雪のように振りかけた上へ葢(ふた)をして、白綸子(しろりんず)の被(おい)をした。

        六

 友引(ともびき)は善(よ)くないという御仙(おせん)の説で、葬式を一日延ばしたため、家(うち)の中は陰気な空気の裡(うち)に常よりは賑(にぎ)わった。七つになる嘉吉(かきち)という男の子が、いつもの陣太鼓(じんだいこ)を叩(たた)いて叱られた後(あと)、そっと千代子の傍(そば)へ来て、宵子(よいこ)さんはもう帰って来ないのと聞いた。須永(すなが)が笑いながら、明日(あした)は嘉吉さんも焼場へ持って行って、宵子さんといっしょに焼いてしまうつもりだと調戯(からか)うと、嘉吉はそんなつもりなんか僕厭(いや)だぜと云いながら、大きな眼をくるくるさせて須永を見た。咲子(さきこ)は、御母さんわたしも明日(あした)御葬式に行きたいわと御仙にせびった。あたしもねと九つになる重子(しげこ)が頼んだ。御仙はようやく気がついたように、奥で田口夫婦と話をしていた夫を呼んで、「あなた、明日いらしって」と聞いた。
「行くよ。御前も行ってやるが好い」
「ええ、行く事にきめてます。小供には何を着せたらいいでしょう」
「紋付(もんつき)でいいじゃないか」
「でも余(あん)まり模様が派手だから」
「袴(はかま)を穿(は)けばいいよ。男の子は海軍服でたくさんだし。御前は黒紋付だろう。黒い帯は持ってるかい」
「持ってます」
「千代子、御前も持ってるなら喪服を着て供(とも)に立っておやり」
 こんな世話を焼いた後で、松本はまた奥へ引返した。千代子もまた線香を上げに立った。棺(かん)の上を見ると、いつの間にか綺麗(きれい)な花環(はなわ)が載(の)せてあった。「いつ来たの」と傍(そば)にいる妹の百代(ももよ)に聞いた。百代は小さな声で「先刻(さっき)」と答えたが、「叔母さんが小供のだから、白い花だけでは淋(さみ)しいって、わざと赤いのを交(ま)ぜさしたんですって」と説明した。姉と妹はしばらくそこに並んで坐っていた。十分ばかりすると、千代子は百代の耳に口を付けて、「百代さんあなた宵子さんの死顔を見て」と聞いた。百代は「ええ」と首肯(うな)ずいた。
「いつ」
「ほら先刻(さっき)御棺に入れる時見たんじゃないの。なぜ」
 千代子はそれを忘れていた。妹がもし見ないと云ったら、二人で棺の葢(ふた)をもう一遍開けようと思ったのである。「御止しなさいよ、怖(こわ)いから」と云って百代は首をふった。
 晩には通夜僧(つやそう)が来て御経を上げた。千代子が傍で聞いていると、松本は坊さんを捕まえて、三部経(さんぶきょう)がどうだの、和讃(わさん)がどうだのという変な話をしていた。その会話の中には親鸞上人(しんらんしょうにん)と蓮如上人(れんにょしょうにん)という名がたびたび出て来た。十時少し廻った頃、松本は菓子と御布施(おふせ)を僧の前に並べて、もう宜(よろ)しいから御引取下さいと断(こと)わった。坊さんの帰った後(あと)で御仙がその理由(わけ)を聞くと、「何坊さんも早く寝た方が勝手だあね。宵子だって御経なんか聴くのは嫌(きらい)だよ」とすましていた。千代子と百代子は顔を見合せて微笑した。
 あくる日は風のない明らかな空の下に、小いさな棺が静かに動いた。路端(みちばた)の人はそれを何か不可思議のものでもあるかのように目送(もくそう)した。松本は白張(しらはり)の提灯(ちょうちん)や白木(しらき)の輿(こし)が嫌だと云って、宵子の棺を喪車に入れたのである。その喪車の周囲(ぐるり)に垂れた黒い幕が揺れるたびに、白綸子(しろりんず)の覆(おい)をした小さな棺の上に飾った花環がちらちら見えた。そこいらに遊んでいた子供が駆(か)け寄って来て、珍らしそうに車を覗(のぞ)き込んだ。車と行き逢った時、脱帽して過ぎた人もあった。
 寺では読経(どきょう)も焼香も形式通り済んだ。千代子は広い本堂に坐っている間、不思議に涙も何も出なかった。叔父叔母の顔を見てもこれといって憂(うれい)に鎖(とざ)された様子は見えなかった。焼香の時、重子が香(こう)をつまんで香炉(こうろ)の裏(うち)へ燻(くべ)るのを間違えて、灰を一撮(ひとつか)み取って、抹香(まっこう)の中へ打ち込んだ折には、おかしくなって吹き出したくらいである。式が果ててから松本と須永と別に一二人棺につき添って火葬場へ廻ったので、千代子はほかのものといっしょにまた矢来(やらい)へ帰って来た。車の上で、切なさの少し減った今よりも、苦しいくらい悲しかった昨日(きのう)一昨日(おととい)の気分の方が、清くて美くしい物を多量に含んでいたらしく考えて、その時味わった痛烈な悲哀をかえって恋しく思った。

        七

 骨上(こつあげ)には御仙(おせん)と須永(すなが)と千代子とそれに平生(ふだん)宵子(よいこ)の守をしていた清(きよ)という下女がついて都合四人(よつたり)で行った。柏木(かしわぎ)の停車場(ステーション)を下りると二丁ぐらいな所を、つい気がつかずに宅(うち)から車に乗って出たので時間はかえって長くかかった。火葬場の経験は千代子に取って生れて始めてであった。久しく見ずにいた郊外の景色(けしき)も忘れ物を思い出したように嬉(うれ)しかった。眼に入るものは青い麦畠(むぎばたけ)と青い大根畠と常磐木(ときわぎ)の中に赤や黄や褐色を雑多に交ぜた森の色であった。前へ行く須永は時々後(うしろ)を振り返って、穴八幡(あなはちまん)だの諏訪(すわ)の森(もり)だのを千代子に教えた。車が暗いだらだら坂へ来た時、彼はまた小高い杉の木立の中にある細長い塔を千代子のために指(ゆびさ)した。それには弘法大師(こうぼうだいし)千五十年供養塔(くようとう)と刻(きざ)んであった。その下に熊笹(くまざさ)の生い茂った吹井戸を控えて、一軒の茶見世が橋の袂(たもと)をさも田舎路(いなかみち)らしく見せていた。折々坊主になりかけた高い樹の枝の上から、色の変った小さい葉が一つずつ落ちて来た。それが空中で非常に早くきりきり舞う姿が鮮(あざ)やかに千代子の眼を刺戟(しげき)した。それが容易に地面の上へ落ちずに、いつまでも途中でひらひらするのも、彼女には眼新らしい現象であった。
 火葬場は日当りの好い平地(ひらち)に南を受けて建てられているので、車を門内に引き入れた時、思ったより陽気な影が千代子の胸に射した。御仙が事務所の前で、松本ですがと云うと、郵便局の受付口みたような窓の中に坐っていた男が、鍵(かぎ)は御持ちでしょうねと聞いた。御仙は変な顔をして急に懐(ふところ)や帯の間を探り出した。
「とんだ事をしたよ。鍵を茶の間の用箪笥(ようだんす)の上へ置いたなり……」
「持って来なかったの。じゃ困るわね。まだ時間があるから急いで市(いっ)さんに取って来て貰うと好いわ」
 二人の問答を後(うしろ)の方で冷淡に聞いていた須永は、鍵なら僕が持って来ているよと云って、冷たい重いものを袂(たもと)から出して叔母に渡した。御仙がそれを受付口へ見せている間に、千代子は須永を窘(たし)なめた。
「市さん、あなた本当に悪(にく)らしい方(かた)ね。持ってるなら早く出して上げればいいのに。叔母さんは宵子さんの事で、頭がぼんやりしているから忘れるんじゃありませんか」
 須永はただ微笑して立っていた。
「あなたのような不人情な人はこんな時にはいっそ来ない方がいいわ。宵子さんが死んだって、涙一つ零(こぼ)すじゃなし」
「不人情なんじゃない。まだ子供を持った事がないから、親子の情愛がよく解らないんだよ」
「まあ。よく叔母さんの前でそんな呑気(のんき)な事が云えるのね。じゃあたしなんかどうしたの。いつ子供持った覚(おぼえ)があって」
「あるかどうか僕は知らない。けれども千代ちゃんは女だから、おおかた男より美くしい心を持ってるんだろう」
 御仙は二人の口論を聞かない人のように、用事を済ますとすぐ待合所の方へ歩いて行った。そこへ腰をかけてから、立っている千代子を手招きした。千代子はすぐ叔母の傍(そば)へ来て座に着いた。須永も続いて這入(はい)って来た。そうして二人の向側(むこうがわ)にある涼み台みたようなものの上に腰をかけた。清もおかけと云って自分の席を割(さ)いてやった。
 四人が茶を呑(の)んで待ち合わしている間(あいだ)に、骨上(こつあげ)の連中が二三組見えた。最初のは田舎染(いなかじ)みた御婆さんだけで、これは御仙と千代子の服装に対して遠慮でもしたらしく口数を多く利(き)かなかった。次には尻を絡(から)げた親子連(おやこづれ)が来た。活溌(かっぱつ)な声で、壺(つぼ)を下さいと云って、一番安いのを十六銭で買って行った。三番目には散髪(さんぱつ)に角帯を締(し)めた男とも女とも片のつかない盲者(めくら)が、紫の袴(はかま)を穿(は)いた女の子に手を引かれてやって来た。そうしてまだ時間はあるだろうねと念を押して、袂(たもと)から出した巻煙草(まきたばこ)を吸い始めた。須永はこの盲者の顔を見ると立ち上ってぷいと表へ出たぎりなかなか返って来なかった。ところへ事務所のものが御仙の傍へ来て、用意が出来ましたからどうぞと促(うな)がしたので、千代子は須永を呼びに裏手へ出た。

        八

 真鍮(しんちゅう)の掛札に何々殿と書いた並等(なみとう)の竈(かま)を、薄気味悪く左右に見て裏へ抜けると、広い空地(あきち)の隅(すみ)に松薪(まつまき)が山のように積んであった。周囲(まわり)には綺麗(きれい)な孟宗藪(もうそうやぶ)が蒼々(あおあお)と茂っていた。その下が麦畠(むぎばたけ)で、麦畠の向うがまた岡続きに高く蜿蜒(うねうね)しているので、北側の眺(なが)めはことに晴々(はればれ)しかった。須永(すなが)はこの空地の端(はし)に立って広い眼界をぼんやり見渡していた。
「市(いっ)さん、もう用意ができたんですって」
 須永は千代子の声を聞いて黙ったまま帰って来たが、「あの竹藪(たけやぶ)は大変みごとだね。何だか死人(しびと)の膏(あぶら)が肥料(こやし)になって、ああ生々(いきいき)延びるような気がするじゃないか。ここにできる筍(たけのこ)はきっと旨(うま)いよ」と云った。千代子は「おお厭(いや)だ」と云(い)い放(ぱなし)にして、さっさとまた並等(なみとう)を通り抜けた。宵子(よいこ)の竈(かま)は上等の一号というので、扉の上に紫の幕が張ってあった。その前に昨日(きのう)の花環が少し凋(しぼ)みかけて、台の上に静かに横たわっていた。それが昨夜(ゆうべ)宵子の肉を焼いた熱気(ねっき)の記念(かたみ)のように思われるので、千代子は急に息苦しくなった。御坊(おんぼう)が三人出て来た。そのうちの一番年を取ったのが「御封印を……」と云うので、須永は「よし、構わないから開けてくれ」と頼んだ。畏(かしこ)まった御坊は自分の手で封印を切って、かちゃりと響く音をさせながら錠(じょう)を抜いた。黒い鉄の扉が左右へ開(あ)くと、薄暗い奥の方に、灰色の丸いものだの、黒いものだの、白いものだのが、形を成さない一塊(ひとかたまり)となって朧気(おぼろげ)に見えた。御坊は「今出しましょう」と断って、レールを二本前の方に継(つ)ぎ足しておいて、鉄の環(かん)に似たものを二つ棺台の端(はし)にかけたかと思うと、いきなりがらがらという音と共に、かの形を成さない一塊の焼残(やけのこり)が四人の立っている鼻の下へ出て来た。千代子はそのなかで、例の御供(おそなえ)に似てふっくらと膨(ふく)らんだ宵子の頭蓋骨(ずがいこつ)が、生きていた時そのままの姿で残っているのを認めて急に手帛(ハンケチ)を口に銜(くわ)えた。御坊はこの頭蓋骨と頬骨と外に二つ三つの大きな骨を残して、「あとは綺麗(きれい)に篩(ふる)って持って参りましょう」と云った。
 四人(よつたり)は各自(めいめい)木箸(きばし)と竹箸を一本ずつ持って、台の上の白骨(はっこつ)を思い思いに拾っては、白い壺(つぼ)の中へ入れた。そうして誘い合せたように泣いた。ただ須永だけは蒼白(あおしろ)い顔をして口も利(き)かず鼻も鳴らさなかった。「歯は別になさいますか」と聞きながら、御坊が小器用に歯を拾い分けてくれた時、顎(あご)をくしゃくしゃと潰(つぶ)してその中から二三枚択(よ)り出したのを見た須永は、「こうなるとまるで人間のような気がしないな。砂の中から小石を拾い出すと同じ事だ」と独言(ひとりごと)のように云った。下女が三和土(たたき)の上にぽたぽたと涙を落した。御仙(おせん)と千代子は箸(はし)を置いて手帛(ハンケチ)を顔へ当てた。
 車に乗るとき千代子は杉の箱に入れた白い壺を抱(だ)いてそれを膝(ひざ)の上に載(の)せた。車が馳(か)け出すと冷たい風が膝掛と杉箱の間から吹き込んだ。高い欅(けやき)が白茶(しらちゃ)けた幹を路の左右に並べて、彼らを送り迎えるごとくに細い枝を揺り動かした。その細い枝が遥(はる)か頭の上で交叉(こうさ)するほど繁(しげ)く両側から出ているのに、自分の通る所は存外明るいのを奇妙に思って、千代子は折々頭を上げては、遠い空を眺(なが)めた。宅(うち)へ着いて遺骨を仏壇の前に置いた時、すぐ寄って来た小供が、葢(ふた)を開けて見せてくれというのを彼女は断然拒絶した。
 やがて家内中同じ室(へや)で昼飯の膳(ぜん)に向った。「こうして見ると、まだ子供がたくさんいるようだが、これで一人もう欠けたんだね」と須永が云い出した。
「生きてる内はそれほどにも思わないが、逝(ゆ)かれて見ると一番惜しいようだね。ここにいる連中のうちで誰か代りになればいいと思うくらいだ」と松本が云った。
「非道(ひど)いわね」と重子が咲子に耳語(ささや)いた。
「叔母さんまた奮発して、宵子さんと瓜二(うりふた)つのような子を拵(こしら)えてちょうだい。可愛(かわい)がって上げるから」
「宵子と同じ子じゃいけないでしょう、宵子でなくっちゃ。御茶碗や帽子と違って代りができたって、亡(な)くしたのを忘れる訳にゃ行かないんだから」
「己(おれ)は雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男が厭(いや)になった」


     須永の話

        一

 敬太郎(けいたろう)は須永(すなが)の門前で後姿(うしろすがた)の女を見て以来、この二人を結びつける縁(えん)の糸を常に想像した。その糸には一種夢のような匂(におい)があるので、二人を眼の前に、須永としまた千代子として眺(なが)める時には、かえってどこかへ消えてしまう事が多かった。けれども彼らが普通の人間として敬太郎の肉眼に現実の刺戟(しげき)を与えない折々には、失なわれた糸がまた二人の中を離すべからざる因果(いんが)のごとくに繋(つな)いだ。田口の家(うち)へ出入(でいり)するようになってからも、須永と千代子の関係については、一口(ひとくち)でさえ誰からも聞いた事はなし、また二人の様子を直(じか)に観察しても尋常の従兄弟(いとこ)以上に何物も仄(ほの)めいていなかったには違ないが、こういう当初からの聯想(れんそう)に支配されて、彼の頭のどこかに、二人を常に一対(いっつい)の男女(なんにょ)として認める傾きを有(も)っていた。女の連添(つれそ)わない若い男や、男の手を組まない若い女は、要するに敬太郎から見れば自然を損(そこ)なった片輪に過ぎないので、彼が自分の知る彼らを頭のうちでかように組み合わせたのは、まだ片輪の境遇にまごついている二人に、自然が生みつけた通りの資格を早く与えてやりたいという道義心の要求から起ったのかも知れなかった。
 それはこむずかしい理窟(りくつ)だから、たといどんな要求から起ろうと敬太郎のために弁ずる必要はないが、この頃になって偶然千代子の結婚談を耳にした彼が、頭の中の世界と、頭の外にある社会との矛盾に、ちょっと首を捻(ひね)ったのは事実に相違なかった。彼はその話を書生の佐伯(さえき)から聞いたのである。もっとも佐伯のようなものが、まだ事の纏(まと)まらない先から、奥の委(くわ)しい話を知ろうはずがなかった。彼はただ漠然(ばくぜん)とした顔の筋肉をいつもより緊張させて、何でもそんな評判ですと云うだけであった。千代子を貰う人の名前も無論分らなかったが、身分の実業家である事はたしかに思われた。
「千代子さんは須永君の所へ行くのだとばかり思っていたが、そうじゃないのかね」
「そうも行かないでしょう」
「なぜ」
「なぜって聞かれると、僕にも明瞭(めいりょう)な答はでき悪(にく)いんですが、ちょっと考えて見てもむずかしそうですね」
「そうかね、僕はまたちょうど好い夫婦だと思ってるがね。親類じゃあるし、年だって五つ六つ違ならおかしかなしさ」
「知らない人から見るとちょっとそう見えるでしょうがね。裏面にはいろいろ複雑な事情もあるようですから」
 敬太郎は佐伯の云わゆる「複雑な事情」なるものを根掘り葉掘り聞きたくなったが、何だか自分を門外漢扱いにするような彼の言葉が癪(しゃく)に障(さわ)るのと、たかが玄関番の書生から家庭の内幕を聞き出したと云われては自分の品格にかかわるのと、最後には、口ほど詳しい事情を佐伯が知っている気遣(きづかい)がないのとで、それぎりその話はやめにした。そのおりついでながら奥へ行って細君に挨拶(あいさつ)をしてしばらく話したが、別に平生と何の変る様子もないので、おめでとうございますと云う勇気も出なかった。
 これは敬太郎が須永の宅(うち)で矢来(やらい)の叔父さんの家(うち)にあった不幸を千代子から聞いたつい二三日前の事であった。その日彼が久しぶりに須永を訪問したのも、実はその結婚問題について須永の考えを確かめるつもりであった。須永がどこの何人(なんびと)と結婚しようと、千代子がどこの何人に片づこうと、それは敬太郎の関係するところではなかったが、この二人の運命が、それほど容易(たやす)く右左へ未練なく離れ離れになり得るものか、または自分の想像した通り幻(まぼろ)しに似た糸のようなものが、二人にも見えない縁となって、彼らを冥々(めいめい)のうちに繋(つな)ぎ合せているものか。それともこの夢で織った帯とでも形容して然(しか)るべきちらちらするものが、ある時は二人の眼に明らかに見え、ある時は全たく切れて、彼らをばらばらに孤立させるものか、――そこいらが敬太郎には知りたかったのである。固(もと)よりそれは単なる物数奇(ものずき)に過ぎなかった。彼は明らかにそうだと自覚していた。けれども須永に対してなら、この物数奇を満足させても無礼に当らない事も自覚していた。そればかりかこの物数奇を満足させる権利があるとまで信じていた。

        二

 その日は生憎(あいにく)千代子に妨たげられた上、しまいには須永(すなが)の母さえ出て来たので、だいぶ長く坐っていたにもかかわらず、立ち入った話はいっさい持ち出す機会がなかった。ただ敬太郎(けいたろう)は偶然にも自分の前に並んだ三人が、ありのままの今の姿で、現に似合わしい夫婦と姑(しゅうとめ)になり終(おお)せているという事にふと思い及んだ時、彼らを世間並の形式で纏(まと)めるのは、最も容易い仕事のように考えて帰った。
 次の日曜がまた幸いな暖かい日和(ひより)をすべての勤(つと)め人(にん)に恵んだので、敬太郎は朝早くから須永を尋ねて、郊外に誘(いざ)なおうとした。無精(ぶしょう)でわがままな彼は玄関先まで出て来ながら、なかなか応じそうにしなかったのを、母親が無理に勧めてようやく靴を穿(は)かした。靴を穿いた以上彼は、敬太郎の意志通りどっちへでも動く人であった。その代りいくら相談をかけても、ある判切(はっきり)した方角へ是非共足を運ばなければならないと主張する男ではなかった。彼と矢来の松本といっしょに出ると、二人とも行先を考えずに歩くので、一致してとんでもない所へ到着する事がままあった。敬太郎は現にこの人の母の口からその例を聞かされたのである。
 この日彼らは両国から汽車に乗って鴻(こう)の台(だい)の下まで行って降りた。それから美くしい広い河に沿って土堤(どて)の上をのそのそ歩いた。敬太郎は久しぶりに晴々(はればれ)した好い気分になって、水だの岡だの帆(ほ)かけ船(ぶね)だのを見廻した。須永も景色(けしき)だけは賞(ほ)めたが、まだこんな吹き晴らしの土堤などを歩く季節じゃないと云って、寒いのに伴(つ)れ出した敬太郎を恨(うら)んだ。早く歩けば暖たかくなると出張した敬太郎はさっさと歩き始めた。須永は呆(あき)れたような顔をして跟(つ)いて来た。二人は柴又(しばまた)の帝釈天(たいしゃくてん)の傍(そば)まで来て、川甚(かわじん)という家(うち)へ這入(はい)って飯を食った。そこで誂(あつ)らえた鰻(うなぎ)の蒲焼(かばやき)が甘(あま)たるくて食えないと云って、須永はまた苦い顔をした。先刻(さっき)から二人の気分が熟しないので、しんみりした話をする余地が出て来ないのを苦しがっていた敬太郎は、この時須永に「江戸っ子は贅沢(ぜいたく)なものだね。細君を貰うときにもそう贅沢を云うかね」と聞いた。
「云えれば誰だって云うさ。何も江戸っ子に限りぁしない。君みたような田舎(いなか)ものだって云うだろう」
 須永はこう答えて澄ましていた。敬太郎は仕方なしに「江戸っ子は無愛嬌(ぶあいきょう)なものだね」と云って笑い出した。須永も突然おかしくなったと見えて笑い出した。それから後(あと)は二人の気分と同じように、二人の会話も円満に進行した。敬太郎が須永から「君もこの頃はだいぶ落ちついて来たようだ」と評されても、彼は「少し真面目(まじめ)になったかね」とおとなしく受けるし、彼が須永に「君はますます偏窟(へんくつ)に傾くじゃないか」と調戯(からか)っても、須永は「どうも自分ながら厭(いや)になる事がある」と快よく己(おの)れの弱点を承認するだけであった。
 こういう打ち解けた心持で、二人が差し向いに互の眼の奥を見透(みとお)して恥ずかしがらない時に、千代子の問題が持ち出されたのは、その真相を聞こうとする敬太郎に取って偶然の仕合せであった。彼はまず一週間ほど前耳にした彼女が近いうちに結婚するという噂(うわさ)を皮切(かわきり)に須永を襲(おそ)った。その時須永は少しも昂奮(こうふん)した様子を見せなかった。むしろいつもより沈んだ調子で、「また何か縁談が起りかけているようだね。今度は旨(うま)く纏(まと)まればいいが」と答えたが、急に口調(くちょう)を更(か)えて、「なに君は知らない事だが、今までもそう云う話は何度もあったんだよ」とさも陳腐(ちんぷ)らしそうに説明して聞かせた。
「君は貰(もら)う気はないのかい」
「僕が貰うように見えるかね」
 話しはこんな風に、御互で引き摺(ず)るようにしてだんだん先へ進んだが、いよいよ際(きわ)どいところまで打ち明けるか、さもなければ題目を更(か)えるよりほかに仕方がないという点まで押しつめられた時、須永はとうとう敬太郎に「また洋杖(ステッキ)を持って来たんだね」と云って苦笑した。敬太郎も笑いながら縁側(えんがわ)へ出た。そこから例の洋杖を取ってまた這入って来たが、「この通りだ」と蛇(へび)の頭を須永に見せた。

        三

 須永(すなが)の話は敬太郎(けいたろう)の予期したよりも遥(はる)かに長かった。――
 僕の父は早く死んだ。僕がまだ親子の情愛をよく解しない子供の頃に突然死んでしまった。僕は子がないから、自分の血を分けた温(あた)たかい肉の塊(かたま)りに対する情(なさけ)は、今でも比較的薄いかも知れないが、自分を生んでくれた親を懐(なつ)かしいと思う心はその後(ご)だいぶ発達した。今の心をその時分持っていたならと考える事も稀(まれ)ではない。一言(いちごん)でいうと、当時の僕は父にははなはだ冷淡だったのである。もっとも父もけっして甘い方ではなかった。今の僕の胸に映る彼の顔は、骨の高い血色の勝(すぐ)れない、親しみの薄い、厳格な表情に充(み)ちた肖像に過ぎない。僕は自分の顔を鏡の裏(うち)に見るたんびに、それが胸の中に収めた父の容貌(ようぼう)と大変似ているのを思い出しては不愉快になる。自分が父と同じ厭(いや)な印象を、傍(はた)の人に与えはしまいかと苦に病んで、そこで気が引けるばかりではない。こんな陰欝(いんうつ)な眉(まゆ)や額が代表するよりも、まだましな温たかい情愛を、血の中に流している今の自分から推して、あんなに冷酷に見えた父も、心の底には自分以上に熱い涙を貯(たくわ)えていたのではなかろうかと考えると、父の記念(かたみ)として、彼の悪い上皮(うわかわ)だけを覚えているのが、子としていかにも情ない心持がするからである。父は死ぬ二三日前僕を枕元に呼んで、「市蔵、おれが死ぬと御母さんの厄介(やっかい)にならなくっちゃならないぞ。知ってるか」と云った。僕は生れた時から母の厄介になっていたのだから、今更(いまさら)改ためて父からそれを聞かされるのを妙に思った。黙って坐っていると、父は骨ばかりになった顔の筋を無理に動かすようにして、「今のように腕白じゃ、御母さんも構ってくれないぞ。もう少しおとなしくしないと」と云った。僕は母が今まで構ってくれたんだからこのままの僕でたくさんだという気が充分あった。それで父の小言(こごと)をまるで必要のない余計な事のように考えて病室を出た。
 父が死んだ時母は非常に泣いた。葬式が出る間際(まぎわ)になって、僕は着物を着換えさせられたまま、手持無沙汰(てもちぶさた)だから、一人縁側(えんがわ)へ出て、蒼(あお)い空を覗(のぞ)き込むように眺(なが)めていると、白無垢(しろむく)を着た母が何を思ったか不意にそこへ出て来た。田口や松本を始め、供(とも)に立つものはみんな向(むこう)の方で混雑(ごたごた)していたので、傍(はた)には誰も見えなかった。母は突然(いきなり)自分の坊主頭へ手を載(の)せて、泣き腫(は)らした眼を自分の上に据(す)えた。そうして小さい声で、「御父さんが御亡(おな)くなりになっても、御母さんが今まで通り可愛(かわい)がって上げるから安心なさいよ」と云った。僕は何とも答えなかった。涙も落さなかった。その時はそれですんだが、両親(ふたおや)に対する僕の記憶を、生長の後(のち)に至って、遠くの方で曇らすものは、二人のこの時の言葉であるという感じがその後(のち)しだいしだいに強く明らかになって来た。何の意味もつける必要のない彼らの言葉に、僕はなぜ厚い疑惑の裏打をしなければならないのか、それは僕自身に聞いて見てもまるで説明がつかなかった。時々は母に向って直(じか)に問い糺(ただ)して見たい気も起ったが、母の顔を見ると急に勇気が摧(くじ)けてしまうのが例(つね)であった。そうして心の中(うち)のどこかで、それを打ち明けたが最後、親しい母子(おやこ)が離れ離れになって、永久今の睦(むつ)ましさに戻る機会はないと僕に耳語(ささや)くものが出て来た。それでなくても、母は僕の真面目(まじめ)な顔を見守って、そんな事があったっけかねと笑いに紛(まぎ)らしそうなので、そう剥(は)ぐらかされた時の残酷な結果を予想すると、とても口へ出された義理じゃないと思い直しては黙っていた。
 僕は母に対してけっして柔順な息子(むすこ)ではなかった。父の死ぬ前に枕元へ呼びつけられて意見されただけあって、小さいうちからよく母に逆(さか)らった。大きくなって、女親だけになおさら優しくしてやりたいという分別ができた後(あと)でも、やっぱり彼女の云う通りにはならなかった。この二三年はことに心配ばかりかけていた。が、いくら勝手を云い合っても、母子(おやこ)は生れて以来の母子で、この貴(たっ)とい観念を傷つけられた覚(おぼえ)は、重手(おもで)にしろ浅手(あさで)にしろ、まだ経験した試しがないという考えから、もしあの事を云い出して、二人共後悔の瘢痕(はんこん)を遺(のこ)さなければすまない瘡(きず)を受けたなら、それこそ取返しのつかない不幸だと思っていた。この畏怖(いふ)の念は神経質に生れた僕の頭で拵(こし)らえるのかも知れないとも疑(うたぐ)って見た。けれども僕にはそれが現在よりも明らかな未来として存在している事が多かった。だから僕はあの時の父と母の言葉を、それなり忘れてしまう事ができなかったのを、今でも情なく感ずるのである。

        四

 父と母の間はどれほど円満であったか、僕には分らない。僕はまだ妻(さい)を貰った経験がないから、そう云う事を口にする資格はないかも知れないが、いかな仲の善(い)い夫婦でも、時々は気不味(きまず)い思をしあうのが人間の常だろうから、彼らだって永く添っているうちには面白くない汚点(しみ)を双方の胸の裏(うち)に見出しつつ、世間も知らず互も口にしない不満を、自分一人苦(にが)く味わって我慢した場合もあったのだろうと思う。もっとも父は疳癖(かんぺき)の強い割に陰性な男だったし、母は長唄(ながうた)をうたう時よりほかに、大きな声の出せない性分(たち)なので、僕は二人の言い争そう現場を、父の死ぬまでいまだかつて目撃した事がなかった。要するに世間から云えば、僕らの宅(うち)ほど静かに整(とと)のった家庭は滅多(めった)に見当らなかったのである。あのくらい他(ひと)の悪口を露骨にいう松本の叔父でさえ、今だにそう認めて間違(まちがい)ないものと信じ切っている。
 母は僕に対して死んだ父を語るごとに、世間の夫のうちで最も完全に近いもののように説明してやまない。これは幾分か僕の腹の底に濁ったまま沈んでいる父の記憶を清めたいための弁護とも思われる。または彼女自身の記憶に時間の布巾(ふきん)をかけてだんだん光沢(つや)を出すつもりとも見られる。けれども慈愛に充(み)ちた親としての父を僕に紹介する時には、彼女の態度が全く一変する。平生僕が目(ま)のあたりに見ているあの柔和(にゅうわ)な母が、どうしてこう真面目(まじめ)になれるだろうと驚ろくくらい、厳粛な気象(きしょう)で僕を打ち据(す)える事さえあった。が、それは僕が中学から高等学校へ移る時分の昔である。今はいくら母に強請(せび)って同じ話をくり返して貰(もら)っても、そんな気高(けだか)い気分にはとてもなれない。僕の情操はその頃から学校を卒業するまでの間に、近頃の小説に出る主人公のように、まるで荒(すさ)み果てたのだろう。現代の空気に中毒した自分を呪(のろ)いたくなると、僕は時々もう一遍で好いから、母の前でああ云う崇高な感じに触れて見たいという望(のぞみ)を起すが、同時にその望みがとても遂(と)げられない過去の夢であるという悲しみも湧(わ)いて来る。
 母の性格は吾々(われわれ)が昔から用い慣れた慈母という言葉で形容さえすれば、それで尽きている。僕から見ると彼女はこの二字のために生れてこの二字のために死ぬと云っても差支(さしつかえ)ない。まことに気の毒であるが、それでも母は生活の満足をこの一点にのみ集注しているのだから、僕さえ充分の孝行ができれば、これに越した彼女の喜(よろこび)はないのである。が、もしその僕が彼女の意に背(そむ)く事が多かったら、これほどの不幸はまた彼女に取ってけっしてない訳になる。それを思うと僕は非常に心苦しい事がある。
 思い出したからここでちょっと云うが、僕は生れてからの一人息子ではない。子供の時分に妙(たえ)ちゃんという妹(いもと)と毎日遊んだ事を覚えている。その妹は大きな模様のある被布(ひふ)を平生(ふだん)着て、人形のように髪を切り下げていた。そうして僕の事を常に市蔵ちゃん市蔵ちゃんと云って、兄さんとはけっして呼ばなかった。この妹は父の亡(な)くなる何年前かに実扶的里亜(ジフテリア)で死んでしまった。その頃は血清注射がまだ発明されない時分だったので、治療も大変に困難だったのだろう。僕は固(もと)より実扶的里亜と云う名前さえ知らなかった。宅(うち)へ見舞に来た松本に、御前も実扶的里亜かと調戯(からか)われて、うんそうじゃないよ僕軍人だよと答えたのを今だに忘れずにいる。妹が死んでから当分はむずかしい父の顔がだいぶ優しく見えた。母に向って、まことに御前には気の毒な事をしたといった顔がことに穏(おだや)かだったので、小供ながら、ついその時の言葉まで小(ち)さい胸に刻みつけておいた。しかし母がそれに対してどう答えたかは全く知らない。いくら思い出そうとしても思い出せないところをもって見ると、初(はじめ)から覚えなかったのだろう。これほど鋭敏に父を観察する能力を、小供の時から持っていた僕が、母に対する注意に欠けていたのも不思議である。人間が自分よりも余計に他(ひと)を知りたがる癖のあるものだとすれば、僕の父は母よりもよほど他人らしく僕に見えていたのかも分らない。それを逆に云うと、母は観察に価(あたい)しないほど僕に親しかったのである。――とにかく妹は死んだ。それからの僕は父に対しても母に対しても一人息子であった。父が死んで以後の今の僕は母に対しての一人息子である。

        五

 だから僕は母をできるだけ大事にしなければすまない。が、実際は同じ源因がかえって僕をわがままにしている。僕は去年学校を卒業してから今日(こんにち)まで、まだ就職という問題についてただの一日も頭を使った事がない。出た時の成績はむしろ好い方であった。席次を目安(めやす)に人を採(と)る今の習慣を利用しようと思えば、随分友達を羨(うらや)ましがらせる位置に坐り込む機会もないではなかった。現に一度はある方面から人選(にんせん)の依託(いたく)を受けた某教授に呼ばれて意向を聞かれた記憶さえ有(も)っている。それだのに僕は動かなかった。固(もと)より自慢でこう云う話をするのではない。真底を打ち明ければむしろ自慢の反対で、全く信念の欠乏から来た引込(ひっこ)み思案(じあん)なのだから不愉快である。が、朝から晩まで気骨を折って、世の中に持て囃(はや)されたところで、どこがどうしたんだという横着は、無論断わる時からつけ纏(まと)っていた。僕は時めくために生れた男ではないと思う。法律などを修(おさ)めないで、植物学か天文学でもやったらまだ性(しょう)に合った仕事が天から授かるかも知れないと思う。僕は世間に対してははなはだ気の弱い癖に、自分に対しては大変辛抱の好い男だからそう思うのである。
 こういう僕のわがままをわがままなりに通してくれるものは、云うまでもなく父が遺(のこ)して行ったわずかばかりの財産である。もしこの財産がなかったら、僕はどんな苦しい思をしても、法学士の肩書を利用して、世間と戦かわなければならないのだと考えると、僕は死んだ父に対して改ためて感謝の念を捧げたくなると同時に、自分のわがままはこの財産のためにやっと存在を許されているのだからよほど腰の坐(すわ)らないあさはかなものに違ないと推断する。そうしてその犠牲にされている母が一層気の毒になる。
 母は昔堅気(むかしかたぎ)の教育を受けた婦人の常として、家名を揚げるのが子たるものの第一の務(つとめ)だというような考えを、何より先に抱(いだ)いている。しかし彼女の家名を揚(あ)げるというのは、名誉の意味か、財産の意味か、権力の意味か、または徳望の意味か、そこへ行くと全く何の分別もない。ただ漠然(ばくぜん)と、一つが頭の上に落ちて来れば、すべてその他が後(あと)を追って門前に輻湊(ふくそう)するぐらいに思っている。しかし僕はそういう問題について、何事も母に説明してやる勇気がない。説明して聞かせるには、まず僕の見識でもっともと認めた家名の揚げ方をした上でないと、僕にその資格ができないからである。僕はいかなる意味においても家名を揚げ得る男ではない。ただ汚(けが)さないだけの見識を頭に入れておくばかりである。そうしてその見識は母に見せて喜こんで貰(もら)えるどころか、彼女とはまるでかけ離れた縁のないものなのだから、母も心細いだろう。僕も淋しい。
 僕が母にかける心配の数あるうちで、第一に挙げなければならないのは、今話した通りの僕の欠点である。しかしこの欠点を矯(た)めずに母と不足なく暮らして行かれるほど、母は僕を愛していてくれるのだから、ただすまないと思う心を失なわずに、このままで押せば押せない事もないが、このわがままよりももっと鋭どい失望を母に与えそうなので、僕が私(ひそ)かに胸を痛めているのは結婚問題である。結婚問題と云うより僕と千代子を取り巻く周囲の事情と云った方が適当かも知れない。それを説明するには話の順序としてまず千代子の生れない当時に溯(さかの)ぼる必要がある。その頃の田口はけっして今ほどの幅利(はばきき)でも資産家でもなかった。ただ将来見込のある男だからと云うので、父が母の妹(いもと)に当るあの叔母を嫁にやるように周旋したのである。田口は固(もと)より僕の父を先輩として仰いでいた。なにかにつけて相談もしたり、世話にもなった。両家の間に新らしく成立したこの親しい関係が、月と共に加速度をもって円満に進行しつつある際に千代子が生れた。その時僕の母はどう思ったものか、大きくなったらこの子を市蔵の嫁にくれまいかと田口夫婦に頼んだのだそうである。母の語るところによると、彼らはその折(おり)快よく母の頼みを承諾したのだと云う。固より後から百代が生まれる、吾一(ごいち)という男の子もできる、千代子もやろうとすればどこへでもやられるのだが、きっと僕にやらなければならないほど確かに母に受合ったかどうか、そこは僕も知らない。

        六

 とにかく僕と千代子の間には両方共物心のつかない当時からすでにこういう絆(きずな)があった。けれどもその絆は僕ら二人を結びつける上においてすこぶる怪しい絆であった。二人は固(もと)より天に上(あが)る雲雀(ひばり)のごとく自由に生長した。絆を綯(な)った人でさえ確(しか)とその端(はし)を握っている気ではなかったのだろう。僕は怪しい絆という文字を奇縁という意味でここに使う事のできないのを深く母のために悲しむのである。
 母は僕の高等学校に這入(はい)った時分それとなく千代子の事を仄(ほの)めかした。その頃の僕に色気のあったのは無論である。けれども未来の妻(さい)という観念はまるで頭に無かった。そんな話に取り合う落ちつきさえ持っていなかった。ことに子供の時からいっしょに遊んだり喧嘩(けんか)をしたり、ほとんど同じ家に生長したと違わない親しみのある少女は、余り自分に近過ぎるためかはなはだ平凡に見えて、異性に対する普通の刺戟(しげき)を与えるに足りなかった。これは僕の方ばかりではあるまい、千代子もおそらく同感だろうと思う。その証拠(しょうこ)には長い交際の前後を通じて、僕はいまだかつて男として彼女から取り扱かわれた経験を記憶する事ができない。彼女から見た僕は、怒(おこ)ろうが泣こうが、科(しな)をしようが色眼を使おうが、常に変らない従兄(いとこ)に過ぎないのである。
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