彼岸過迄
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著者名:夏目漱石 

こう聞かれるだろうぐらいの腹は始めから敬太郎にもあったのだが、正直に答えれば、「どうですか」という他(ひと)を馬鹿にした生返事になるので、彼はちょっと口籠(くちごも)った後(あと)、
「そうです御通知のあった人だけはやっと探し当てました」と答えた。
「眉間(みけん)に黒子(ほくろ)がありましたか」
 敬太郎は少し隆起した黒い肉の一点を局部に認めたと答えた。
「衣服(なり)もこっちから云って上げた通りでしたか。黒の中折(なかおれ)に、霜降(しもふり)の外套(がいとう)を着て」
「そうです」
「それじゃ大抵間違はないでしょう。四時と五時の間に小川町で降りたんですね」
「時間は少し後(おく)れたようです」
「何分ぐらい」
「何分か知りませんが、何でも五時よっぽど過(すぎ)のようでした」
「よっぽど過(すぎ)。よっぽど過ならそんな人を待っていなくても好いじゃありませんか。四時から五時までの間と、わざわざ時間を切って通知して上げたくらいだから、五時を過ぎればもうあなたの義務はすんだも同然じゃないですか。なぜそのまま帰って、その通り報知しないんです」
 今まで穏(おだ)やかに機嫌(きげん)よく話していた長者(ちょうしゃ)から突然こう手厳(てきび)しくやりつけられようとは、敬太郎は夢にも思わなかった。

        三

 敬太郎(けいたろう)は今まで下町出(したまちで)の旦那を眼の前に描いていた。それが突然規律ずくめの軍人として彼を威圧して来た時、彼はたちまち心の中心を狂わした。友達に対してなら云い得る「君のためだから」という言葉も挨拶(あいさつ)も有(も)っていたのだが、この場合にはそれがまるで役に立たなかった。
「ただ私の勝手で、時間が来てもそこを動かなかったのです」
 敬太郎がこう答えるか答えないうちに、田口は今のきっとした態度をすぐ崩(くず)して、
「そりゃ私(わたし)のために大変都合が好かった」と機嫌(きげん)の好い調子で受けたが、「しかしあなたの勝手と云うのは何です」と聞き返した。敬太郎は少し逡巡(しゅんじゅん)した。
「なにそりゃ聞かないでも構いません。あなたの事だから。話したくなければ話さないでも差支(さしつかえ)ない」
 田口はこう云って、自分の前に引きつけた手提煙草盆(てさげたばこぼん)の抽出(ひきだし)を開けると、その中から角(つの)でできた細長い耳掻(みみかき)を捜(さが)し出した。それを右の耳の中に入れて、さも痒(か)ゆそうに掻(か)き廻した。敬太郎は見ないふりをしてわざと自分を見ているような、また耳だけに気を取られているような、田口の蹙面(しかめつら)を薄気味悪く感じた。
「実は停留所に女が一人立っていたのです」と彼はとうとう自白してしまった。
「年寄ですか、若い女ですか」
「若い女です」
「なるほど」
 田口はただ一口こう云っただけで、何とも後を継(つ)いでくれなかった。敬太郎も頓挫(とんざ)したなり言葉を途切(とぎ)らした。二人はしばらく差向いのまま口を聞かずにいた。
「いや、若かろうが年寄だろうが、その婦人の事を聞くのはよくなかった。それはあなただけに関係のある事なんでしょうから、止しにしましょう。私の方じゃただ顔に黒子(ほくろ)のある男について、研究の結果さえ伺がえばいいんだから」
「しかしその女が黒子のある人の行動に始終(しじゅう)入り込んでくるのです。第一女の方で男を待ち合わしていたのですから」
「はあ」
 田口はちょっと思いも寄らぬという顔つきをしたが、「じゃその婦人はあなたの御知合でも何でもないのですね」と聞いた。敬太郎は固(もと)より知合だと答える勇気を有(も)たなかった。きまりの悪い思いをしても、見た事も口を利(き)いた事もない女だと正直に云わなければならなかった。田口はそうですかと、穏(おだや)かに敬太郎の返事を聞いただけで、少しも追窮する気色(けしき)を見せなかったが、急に摧(くだ)けた調子になって、
「どんな女なんです。その若い婦人と云うのは。器量からいうと」と興味に充(み)ちた顔を提煙草盆(さげたばこぼん)の上に出した。
「いえ、なに、つまらない女なんです」と敬太郎は前後の行(い)きがかり上答えてしまって、実際頭の中でもつまらないような気がした。これが相手と場合しだいでは、うん器量はなかなか好い方だぐらいは固より云い兼ねなかったのである。田口は「つまらない女」という敬太郎の判断を聞いて、たちまち大きな声を出して笑った。敬太郎にはその意味がよく解らなかったけれども、何でも頭の上で大濤(おおなみ)が崩れたような心持がして、幾分か顔が熱くなった。
「よござんす、それで。――それからどうしました。女が停留所で待ち合わしているところへ男が来て」
 田口はまた普通の調子に戻って、真面目(まじめ)に事件の経過を聞こうとした。実をいうと敬太郎は自分がこれから話す顛末(てんまつ)を、どうして握る事ができたかの苦心談を、まず冒頭に敷衍(ふえん)して、二つある同じ名の停留所の迷った事から、不思議な謎(なぞ)の活(い)きて働らく洋杖(ステッキ)を、どう抱(かか)え出して、どう利用したかに至るまでを、自分の手柄(てがら)のなるべく重く響くように、詳しく述べたかったのであるが、会うや否(いな)や四時と五時とのいきさつでやられた上に、勝手に見張りの時間を延ばした源因になる例の女が、源因にも何にもならない見ず知らずの女だったりした不味(まず)いところがあるので、自分を広告する勇気は全く抜けていた。それで男と女が洋食屋へ入ってから以後の事だけをごく淡泊(あっさ)り話して見ると、宅(うち)を出る時自分が心配していた通り、少しも捕(つら)まえどころのない、あたかも灰色の雲を一握り田口の鼻の先で開いて見せたと同じような貧しい報告になった。

        四

 それでも田口は別段厭(いや)な顔も見せなかった。落ちついた腕組をしまいまで解かずに、ただふんとか、なるほどとか、それからとか云う繋(つな)ぎの言葉を、時々敬太郎(けいたろう)のために投げ込んでくれるだけであった。その代り報告の結末が来ても、まだ何か予期しているように、今までの態度を容易に変えなかった。敬太郎は仕方なしに、「それだけです。実際つまらない結果で御気の毒です」と言訳をつけ加えた。
「いやだいぶ参考になりました。どうも御苦労でした。なかなか骨が折れたでしょう」
 田口のこの挨拶(あいさつ)の中(うち)に、大した感謝の意を含んでいない事は無論であったが、自分が馬鹿に見えつつある今の敬太郎にはこれだけの愛嬌(あいきょう)が充分以上に聞こえた。彼は辛うじて恥を掻(か)かずにすんだという安心をこの時ようやく得た。同時に垂味(たるみ)のできた気分が、すぐ田口に向いて働らきかけた。
「いったいあの人は何なんですか」
「さあ何でしょうか。あなたはどう鑑定しました」
 敬太郎の前には黒の中折(なかおれ)を被(かぶ)って、襟開(えりあき)の広い霜降(しもふり)の外套(がいとう)を着[#「着」は底本では「来」]た男の姿がありありと現われた。その人の様子といい言葉遣(ことばづか)いといい歩きつきといい、何から何まで判切(はっきり)見えたには見えたが、田口に対する返事は一口も出て来なかった。
「どうも分りません」
「じゃ性質はどんな性質でしょう」
 性質なら敬太郎にもほぼ見当(けんとう)がついていた。「穏(おだ)やかな人らしく思いました」と観察の通りを答えた。
「若い女と話しているところを見て、そう云うんじゃありませんか」
 こう云った時、田口の唇(くちびる)の角に薄笑の影がちらついているのを認めた敬太郎は、何か答えようとした口をまた塞(ふさ)いでしまった。
「若い女には誰でも優(やさ)しいものですよ。あなただって満更(まんざら)経験のない事でもないでしょう。ことにあの男と来たら、人一倍そうなのかも知れないから」と田口は遠慮なく笑い出した。けれども笑いながらちゃんと敬太郎の上に自分の眼を注いでいた。敬太郎は傍(はた)で自分を見たらさぞ気の利(き)かない愚物(ぐぶつ)になっているんだろうと考えながらも、やっぱり苦しい思いをして田口と共に笑わなければいられなかった。
「じゃ女は何物なんでしょう」
 田口はここで観察点を急に男から女へ移した。そうして今度は自分の方で敬太郎にこういう質問を掛けた。敬太郎はすぐ正直に「女の方は男よりもなお分り悪(にく)いです」と答えてしまった。
「素人(しろうと)だか黒人(くろうと)だか、大体の区別さえつきませんか」
「さよう」と云いながら、敬太郎はちょっと考がえて見た。革(かわ)の手袋だの、白い襟巻(えりまき)だの、美くしい笑い顔だの、長いコートだの、続々記憶の表面に込み上げて来たが、それを綜括(すべくく)ったところでどこからもこの問に応ぜられるような要領は得られなかった。
「割合に地味なコートを着て、革の手袋を穿(は)めていましたが……」
 女の身に着けた品物の中(うち)で、特に敬太郎の注意を惹(ひ)いたこの二点も、田口には何の興味も与えないらしかった。彼はやがて真面目(まじめ)な顔をして、「じゃ男と女の関係について何か御意見はありませんか」と聞き出した。
 敬太郎は先刻(さっき)自分の報告が滞(とどこお)りなく済んだ証拠(しょうこ)に、御苦労さまと云う謝辞さえ受けた後(あと)で、こう難問が続発しようとは毫(ごう)も思いがけなかった。しかも窮しているせいか、それが順をおってだんだんむずかしい方へ競(せ)り上(あが)って行くように感ぜられてならなかった。田口は敬太郎の行きづまった様子を見て、再び同じ問をほかの言葉で説明してくれた。
「例えば夫婦だとか、兄弟(きょうだい)だとか、またはただの友達だとか、情婦(いろ)だとかですね。いろいろな関係があるうちで何だと思いますか」
「私も女を見た時に、処女だろうか細君だろうかと考えたんですが……しかしどうも夫婦じゃないように思います」
「夫婦でないにしてもですね。肉体上の関係があるものと思いますか」

        五

 敬太郎(けいたろう)の胸にもこの疑(うたがい)は最初から多少萌(きざ)さないでもなかった。改ためて自分の心を解剖して見たら、彼ら二人の間に秘密の関係がすでに成立しているという仮定が遠くから彼を操(あやつ)って、それがために偵察(ていさつ)の興味が一段と鋭どく研(と)ぎ澄まされたのかも知れなかった。肉と肉の間に起るこの関係をほかにして、研究に価する交渉は男女(なんにょ)の間に起り得るものでないと主張するほど彼は理論家ではなかったが、暖たかい血を有(も)った青年の常として、この観察点から男女(なんにょ)を眺(なが)めるときに、始めて男女らしい心持が湧(わ)いて来るとは思っていたので、なるべくそこを離れずに世の中を見渡したかったのである。年の若い彼の眼には、人間という大きな世界があまり判切(はっきり)分らない代りに、男女という小さな宇宙はかく鮮(あざ)やかに映った。したがって彼は大抵の社会的関係を、できるだけこの一点まで切落して楽んでいた。停留所で逢った二人の関係も、敬太郎の気のつかない頭の奥では、すでにこういう一対(いっつい)の男女として最初から結びつけられていたらしかった。彼はまたその背後に罪悪を想像して要もないのに恐れを抱(いだ)くほどの道徳家でもなかった。彼は世間並な道義心の所有者としてありふれた人間の一人(いちにん)であったけれども、その道義心は彼の空想力と違って、いざという場合にならなければ働らかないのを常とするので、停留所の二人を自分に最も興味のある男女関係に引き直して見ても、別段不愉快にはならずにすんだのである。彼はただ年齢(とし)の上において二人の相違の著るしいのを疑ぐった。が、また一方ではその相違がかえって彼の眼に映ずる「男女の世界」なるものの特色を濃く示しているようにも見えた。
 彼の二人に対する心持は知らず知らずの間にこう弛(ゆる)んでいたのだが、いよいよそうかと正式に田口から質問を掛けられて見ると、断然とした返答は、責任のあるなしにかかわらず、纏(まと)まった形となって頭の中には現われ悪(にく)かった。それでこう云った。――
「肉体上の関係はあるかも知れませんが、無いかも分りません」
 田口はただ微笑した。そこへ例の袴(はかま)を穿(は)いた書生が、一枚の名刺を盆に載(の)せて持って来た。田口はちょっとそれを受取ったまま、「まあ分らないところが本当でしょう」と敬太郎に答えたが、すぐ書生の方を見て、「応接間へ通しておいて……」と命令した。先刻(さっき)からよほど窮していた矢先だから、敬太郎はこの来客を好い機(しお)に、もうここで切り上げようと思って身繕(みづくろ)いにかかると、田口はわざわざ彼の立たない前にそれを遮(さえ)ぎった。そうして敬太郎の辟易(へきえき)するのに頓着(とんじゃく)なくなお質問を進行させた。そのうちで敬太郎の明瞭(めいりょう)に答えられるのはほとんど一カ条もなかったので、彼は大学で受けた口答試験の時よりもまだ辛(つら)い思いをした。
「じゃこれぎりにしますが、男と女の名前は分りましたろう」
 田口の最後と断(ことわ)ったこの問に対しても、敬太郎は固(もと)より満足な返事を有(も)っていなかった。彼は洋食店で二人の談話に注意を払う間にも何々さんとか何々子とかあるいは御何(おなに)とかいう言葉がきっとどこかへ交(まじ)って来るだろうと心待に待っていたのだが、彼らは特にそれを避ける必要でもあるごとくに、御互の名はもちろん、第三者の名もけっして引合にさえ出さなかったのである。
「名前も全く分りません」
 田口はこの答を聞いて、手焙(てあぶり)の胴に当てた手を動かしながら、拍子(ひょうし)を取るように、指先で桐(きり)の縁(ふち)を敲(たた)き始めた。それをしばらくくり返した後(あと)で、「どうしたんだか余(あん)まり要領を得ませんね」と云ったが、直(すぐ)言葉を継(つ)いで、「しかしあなたは正直だ。そこがあなたの美点だろう。分らない事を分ったように報告するよりもよっぽど好いかも知れない。まあ買えばそこを買うんですね」と笑い出した。敬太郎は自分の観察が、はたして実用に向かなかったのを発見して、多少わが迂闊(うかつ)に恥じ入る気も起ったが、しかしわずか二三時間の注意と忍耐と推測では、たとい自分より十層倍行き届いた人間に代理を頼んだところで、田口を満足させるような結果は得られる訳のものでないと固く信じていたから、この評価に対してそれほどの苦痛も感じなかった。その代り正直と賞(ほ)められた事も大した嬉(うれ)しさにはならなかった。このくらいの正直さ加減は全くの世間並に過ぎないと彼には見えたからである。

        六

 敬太郎(けいたろう)は先刻(さっき)から頭の上らない田口の前で、たった一言(ひとこと)で好いから、思い切った自分の腹をずばりと云って見たいと考えていたが、ここで云わなければもう云う機会はあるまいという気がこの時ふと萌(きざ)した。
「要領を得ない結果ばかりで私もはなはだ御気の毒に思っているんですが、あなたの御聞きになるような立ち入った事が、あれだけの時間で、私のような迂闊(うかつ)なものに見極(みきわ)められる訳はないと思います。こういうと生意気に聞こえるかも知れませんが、あんな小刀細工をして後(あと)なんか跟(つ)けるより、直(じか)に会って聞きたい事だけ遠慮なく聞いた方が、まだ手数(てかず)が省(はぶ)けて、そうして動かない確かなところが分りゃしないかと思うのです」
 これだけ云った敬太郎は、定めて世故(せこ)に長(た)けた相手から笑われるか、冷かされる事だろうと考えて田口の顔を見た。すると田口は案外にもむしろ真面目(まじめ)な態度で「あなたにそれだけの事が解っていましたか。感心だ」と云った。敬太郎はわざと答を控えていた。
「あなたのいう方法は最も迂闊のようで、最も簡便なまた最も正当な方法ですよ。そこに気がついていれば人間として立派なものです」と田口が再びくり返した時、敬太郎はますます返答に窮した。
「それほどの考(かんがえ)がちゃんとあるあなたに、あんなつまらない仕事を御頼(おたのみ)申したのは私(わたし)が悪かった。人物を見損(みそく)なったのも同然なんだから。が、市蔵があなたを紹介する時に、そう云いましたよ。あなたは探偵のやるような仕事に興味を有(も)っておいでだって。それでね、ついとんでもない事を御願いして。止(よ)しゃあよかった……」
「いえ須永(すなが)君にはそう云う意味の事をたしかに話した覚えがあります」と敬太郎は苦しい思(おもい)をして答えた。
「そうでしたか」
 田口は敬太郎の矛盾をこの一句で切り棄(す)てたなり、それ以上に追窮する愚(ぐ)をあえてしなかった。そうして問題をすぐ改めて見せた。
「じゃどうでしょう。黙って後なんどを跟けずに、あなたのいう通り尋常に玄関からかかって行っちゃ。あなたにそれだけの勇気がありますか」
「無い事もありません」
「あんなに跟け廻した後で」
「あんなに跟け廻したって、私はあの人達の不名誉になるような観察はけっしてしていないつもりです」
「ごもっともだ。そんなら一つ行って御覧なさい。紹介するから」
 田口はこう云いながら、大きな声を出して笑った。けれども敬太郎にはこの申し出が万更(まんざら)の冗談(じょうだん)とも思えなかったので、彼は紹介状を携(たずさ)えて本当に眉間(みけん)の黒子(ほくろ)と向き合って話して見ようかという料簡(りょうけん)を起した。
「会いますから紹介状を書いて下さい。私はあの人と話して見たい気がしますから」
「宜(い)いでしょう。これも経験の一つだから、まあ会って直(じか)に研究して御覧なさい。あなたの事だから田口に頼まれてこの間の晩後(あと)を跟(つ)けましたぐらいきっと云うでしょう。しかしそれは構わない。云いたければ云っても宜(よ)うござんす。私(わたし)に遠慮は要(い)らないから。それからあの女との関係もですね、あなたに勇気さえあるなら聞いて御覧なさい。どうです、それを聞くだけの度胸があなたにありますか」
 田口はここでちょっと言葉を切らして敬太郎の顔を見たが、答の出ないうちにまた自分から話を続けた。
「だが両方とも口へ出せるように自然が持ちかけて来るまでは、聞いても話してもいけませんよ。いくら勇気があったって、常識のない奴(やつ)だと思われるだけだから。それどころじゃない、あの男はただでさえ随分会(あ)い悪(にく)い方(ほう)なんだから、そんな事をむやみに喋(しゃ)べろうものなら、直(すぐ)帰ってくれぐらい云い兼ねないですよ。紹介をして上げる代りには、そこいらはよく用心しないとね……」
 敬太郎は固(もと)より畏(かしこ)まりましたと答えた。けれども腹の中では黒の中折(なかおれ)の男を田口のように見る事がどうしてもできなかった。

        七

 田口は硯箱(すずりばこ)と巻紙を取り寄せて、さらさらと紹介状を書き始めた。やがて名宛(なあて)を認(したた)め終ると、「ただ通り一遍の文言(もんごん)だけ並べておいたらそれで好いでしょう」と云いながら、手焙(てあぶり)の前に翳(かざ)した手紙を敬太郎(けいたろう)に読んで聞かせた。その中には書いた当人の自白したごとく、これといって特別の注意に価(あたい)する事は少しも出て来なかった。ただこの者は今年大学を卒業したばかりの法学士で、ことによると自分が世話をしなければならない男だから、どうか会って話をしてやってくれとあるだけだった。田口は異存のない敬太郎の顔を見届けた上で、すぐその巻紙をぐるぐると巻いて封筒へ入れた。それからその表へ松本恒三(まつもとつねぞう)様と大きく書いたなり、わざと封をせずに敬太郎に渡した。敬太郎は真面目(まじめ)になって松本恒三様の五字を眺(なが)めたが、肥(ふと)った締(しま)りのない書体で、この人がこんな字を書くかと思うほど拙(せつ)らしくできていた。
「そう感心していつまでも眺(なが)めていちゃあいけない」
「番地が書いてないようですが」
「ああそうか。そいつは私(わたし)の失念だ」
 田口は再び手紙を受け取って、名宛の人の住所と番地を書き入れてくれた。
「さあこれなら好いでしょう。不味(まず)くって大きなところは土橋(どばし)の大寿司流(おおずしりゅう)とでも云うのかな。まあ役に立ちさえすればよかろう、我慢なさい」
「いえ結構です」
「ついでに女の方へも一通書きましょうか」
「女も御存じなのですか」
「ことによると知ってるかも知れません」と答えた田口は何だか意味のありそうに微笑した。
「御差支(おさしつかえ)さえなければ、おついでに一本書いていただいても宜(よろ)しゅうございます」と敬太郎も冗談(じょうだん)半分に頼んだ。
「まあ止した方が安全でしょうね。あなたのような年の若い男を紹介して、もし間違でもできると責任問題だから。浪漫(ローマン)―何とか云うじゃありませんか、あなたのような人の事を。私(わたし)ゃ学問がないから、今頃流行(はや)るハイカラな言葉を直(すぐ)忘れちまって困るが、何とか云いましたっけね、あの、小説家の使う言葉は。……」
 敬太郎はまさかそりゃこう云う言葉でしょうと教える気にもなれなかった。ただエヘヘと馬鹿みたように笑っていた。そうして長居をすればするほど、だんだん非道(ひど)く冷かされそうなので、心の内では、この一段落がついたら、早く切り上げて帰ろうと思った。彼は田口のくれた紹介状を懐(ふところ)に収めて、「では二三日内(うち)にこれを持って行って参りましょう。その模様でまた伺がう事に致しますから」と云いながら、柔(やわら)かい座蒲団(ざぶとん)の上を滑(すべ)り下りた。田口は「どうも御苦労でした」と叮嚀(ていねい)に挨拶(あいさつ)しただけで、ロマンチックもコスメチックもすっかり忘れてしまったという顔つきをして立ち上った。
 敬太郎は帰り途に、今会った田口と、これから会おうという松本と、それから松本を待ち合わした例の恰好(かっこう)のいい女とを、合せたり離したりしてしきりにその関係を考えた。そうして考えれば考えるほど一歩ずつ迷宮(メーズ)の奥に引き込まれるような面白味を感じた。今日(きょう)田口での獲物(えもの)は松本という名前だけであるが、この名前がいろいろに錯綜(さくそう)した事実を自分のために締(し)め括(くく)っている妙な嚢(ふくろ)のように彼には思えるので、そこから何が出るか分らないだけそれだけ彼には楽みが多かった。田口の説明によると、近寄悪(にく)い人のようにも聞こえるが、彼の見たところでは田口より数倍話しがしやすそうであった。彼は今日田口から得た印象のうちに、人を取扱う点にかけてなるほど老練だという嘆美(たんび)の声を見出した上、人物としてもどこか偉そうに思われる点が、時々彼の眼を射るようにちらちら輝やいたにもかかわらず、その前に坐(すわ)っている間、彼は始終(しじゅう)何物にか縛(しば)られて自由に動けない窮屈な感じを取り去る事ができなかった。絶えず監視の下(もと)に置かれたようなこの状態は、一時性のものでなくって、いくら面会の度数を重ねても、けっして薄らぐ折はなかろうとまで彼には見えたくらいである。彼はこういう風に気のおける田口と反対の側に、何でも遠慮なく聞いて怒られそうにない、話し声その物のうちにすでに懐(なつ)かし味の籠(こも)ったような松本を想像してやまなかった。

        八

 翌朝(よくあさ)さっそく支度をして松本に会いに行こうと思っているとあいにく寒い雨が降り出した。窓を細目に開けて高い三階から外を見渡した時分には、もう世の中が一面に濡(ぬ)れていた。屋根瓦(やねがわら)に徹(とお)るような佗(わ)びしい色をしばらく眺(なが)めていた敬太郎(けいたろう)は、田口の紹介状を机の上に置いて、出ようか止そうかとちょっと思案したが、早く会って見たいという気が強く起るので、とうとう机の前を離れた。そうして豆腐屋の喇叭(らっぱ)が、陰気な空気を割(さ)いて鋭どく往来に響く下の方へ降りて行った。
 松本の家(うち)は矢来(やらい)なので、敬太郎はこの間の晩狐(きつね)につままれたと同じ思いをした交番下の景色(けしき)を想像しつつ、そこへ来ると、坂下と坂上が両方共二股(ふたまた)に割れて、勾配(こうばい)のついた真中だけがいびつに膨(ふく)れているのを発見した。彼は寒い雨の袴(はかま)の裾(すそ)に吹きかけるのも厭(いと)わずに足を留めて、あの晩車夫が梶棒(かじぼう)を握ったまま立往生をしたのはこのへんだろうと思う所を見廻した。今日も同じように雨がざあざあ落ちて、彼の踏んでいる土は地下の鉛管まで腐れ込むほど濡れていた。ただ昼だけに周囲は暗いながらも明るいので、立ちどまった時の心持はこの間とはまるで趣(おもむき)が違っていた。敬太郎は後(うしろ)の方に高く黒ずんでいる目白台(めじろだい)の森と、右手の奥に朦朧(もうろう)と重なり合った水稲荷(みずいなり)の木立(こだち)を見て坂を上(あが)った。それから同じ番地の家の何軒でもある矢来の中をぐるぐる歩いた。始めのうちは小(ち)さい横町を右へ折れたり左へ曲ったり、濡れた枳殻(からたち)の垣を覗(のぞ)いたり、古い椿(つばき)の生(お)い被(かぶ)さっている墓地らしい構(かまえ)の前を通ったりしたが、松本の家は容易に見当らなかった。しまいに尋ねあぐんで、ある横町の角にある車屋を見つけて、そこの若い者に聞いたら、何でもない事のようにすぐ教えてくれた。
 松本の家はこの車屋の筋向うを這入(はい)った突き当りの、竹垣に囲われた綺麗(きれい)な住居(すまい)であった。門を潜(くぐ)ると子供が太鼓を鳴らしている音が聞こえた。玄関へかかって案内を頼んでもその太鼓の音は毫(ごう)もやまなかった。その代り四辺(あたり)は森閑(しんかん)として人の住んでいる臭(におい)さえしなかった。雨に鎖(とざ)された家(いえ)の奥から現われた十六七の下女は、手を突いて紹介状を受取ったなり無言のまま引っ込んだが、しばらくしてからまた出て来て、「はなはだ勝手を申し上げてすみませんでございますが、雨の降らない日においでを願えますまいか」と云った。今まで就職運動のため諸方へ行って断わられつけている敬太郎にも、この断り方だけは不思議に聞こえた。彼はなぜ雨が降っては面会に差支(さしつか)えるのか直(すぐ)反問したくなった。けれども下女に議論を仕かけるのも一種変な場合なので、「じゃ御天気の日に伺がえば御目にかかれるんですね」と念晴(ねんばら)しに聞き直して見た。下女はただ「はい」と答えただけであった。敬太郎は仕方なしにまた雨の降る中へ出た。ざあと云う音が急に烈(はげ)しく聞こえる中に、子供の鳴らす太鼓がまだどんどんと響いていた。彼は矢来の坂を下(お)りながら変な男があったものだという観念を数度(すど)くり返した。田口がただでさえ会(あ)い悪(にく)いと云ったのは、こんなところを指すのではなかろうかとも考えた。その日は家(うち)へ帰っても、気分が中止の姿勢に余儀なく据(す)えつけられたまま、どの方角へも進行できないのが苦痛になった。久しぶりに須永(すなが)の家(うち)へでも行って、この間からの顛末(てんまつ)を茶話に半日を暮らそうかと考えたが、どうせ行くなら、今の仕事に一段落つけて、自分にも見当(けんとう)の立った筋を吹聴(ふいちょう)するのでなくては話しばいもしないので、ついに行かずじまいにしてしまった。
 翌日(あくるひ)は昨日(きのう)と打って変って好い天気になった。起き上る時、あらゆる濁(にごり)を雨の力で洗い落したように綺麗(きれい)に輝やく蒼空(あおぞら)を、眩(まば)ゆそうに仰ぎ見た敬太郎は、今日(きょう)こそ松本に会えると喜こんだ。彼はこの間の晩行李(こうり)の後(うしろ)に隠しておいた例の洋杖(ステッキ)を取り出して、今日は一つこれを持って行って見ようと考がえた。彼はそれを突いて、また矢来(やらい)の坂を上(あが)りながら、昨日の下女が今日も出て来て、せっかくですが今日は御天気過ぎますから、も少(すこ)し曇った日においで下さいましと云ったらどんなものだろうと想像した。

        九

 ところが昨日と違って、門を潜(くぐ)っても、子供の鳴らす太鼓の音は聞こえなかった。玄関にはこの前目に着かなかった衝立(ついたて)が立っていた。その衝立には淡彩(たんさい)の鶴がたった一羽佇(たた)ずんでいるだけで、姿見のように細長いその格好(かっこう)が、普通の寸法と違っている意味で敬太郎の注意を促(うな)がした。取次には例の下女が現われたには相違ないが、その後(あと)から遠慮のない足音をどんどん立てて二人の小供が衝立の影まで来て、珍らしそうな顔をして敬太郎を眺(なが)めた。昨日に比べるとこれだけの変化を認めた彼は、最後にどうぞという案内と共に、硝子戸(ガラスど)の締(し)まっている座敷へ通った。その真中にある金魚鉢のように大きな瀬戸物の火鉢(ひばち)の両側に、下女は座蒲団(ざぶとん)を一枚ずつ置いて、その一枚を敬太郎の席とした。その座蒲団は更紗(さらさ)の模様を染めた真丸の形をしたものなので、敬太郎は不思議そうにその上へ坐(すわ)った。床(とこ)の間(ま)には刷毛(はけ)でがしがしと粗末(ぞんざい)に書いたような山水(さんすい)の軸(じく)がかかっていた。敬太郎はどこが樹でどこが巌(いわ)だか見分のつかない画を、軽蔑(けいべつ)に値する装飾品のごとく眺(なが)めた。するとその隣りに銅鑼(どら)が下(さが)っていて、それを叩(たた)く棒まで添えてあるので、ますます変った室(へや)だと思った。
 すると間(あい)の襖(ふすま)を開けて隣座敷から黒子(ほくろ)のある主人が出て来た。「よくおいでです」と云ったなり、すぐ敬太郎の鼻の先に坐ったが、その調子はけっして愛嬌(あいきょう)のある方ではなかった。ただどこかおっとりしているので、相手に余り重きを置かないところが、かえって敬太郎に楽な心持を与えた。それで火鉢一つを境に、顔と顔を突き合わせながら、敬太郎は別段気がつまる思もせずにいられた。その上彼はこの間の晩、たしかに自分の顔をここの主人に覚えられたに違ないと思い込んでいたにもかかわらず、今会って見ると、覚えているのだか、いないのだか、平然としてそんな素振(そぶり)は、口にも色にも出さないので、彼はなおさら気兼(きがね)の必要を感じなくなった。最後に主人は昨日雨天のため面会を謝絶した理由も言訳も一言(ひとこと)も述べなかった。述べたくなかったのか、述べなくっても構わないと認めていたのか、それすら敬太郎にはまるで判断がつかなかった。
 話は自然の順序として、紹介者になった田口の事から始まった。「あなたはこれから田口に使って貰(もら)おうというのでしたね」というのを冒頭に、主人は敬太郎の志望だの、卒業の成績だのを一通り聞いた。それから彼のいまだかつて考えた事もない、社会観とか人生観とかいうこむずかしい方面の問題を、時々持ち出して彼を苦しめた。彼はその時心のうちで、この松本という男は世に著(あら)われない学者の一人なのではなかろうかと疑ぐったくらい、妙な理窟(りくつ)をちらちらと閃(ひら)めかされた。そればかりでなく、松本は田口を捕(つら)まえて、役には立つが頭のなっていない男だと罵(のの)しった。
「第一(だいち)ああ忙がしくしていちゃ、頭の中に組織立った考(かんがえ)のできる閑(ひま)がないから駄目です。あいつの脳と来たら、年(ねん)が年中(ねんじゅう)摺鉢(すりばち)の中で、擂木(すりこぎ)に攪(か)き廻されてる味噌(みそ)見たようなもんでね。あんまり活動し過ぎて、何の形にもならない」
 敬太郎にはなぜこの主人が田口に対してこうまで悪体(あくたい)を吐(つ)くのかさっぱり訳が分らなかった。けれども彼の不思議に感じたのは、これほどの激語を放つ主人の態度なり口調なりに、毫(ごう)も毒々しいところだの、小悪(こにく)らしい点だのの見えない事であった。彼の罵(のの)しる言葉は、人を罵しった経験を知らないような落ちつきを具(そな)えた彼の声を通して、敬太郎の耳に響くので、敬太郎も強く反抗する気になれなかった。ただ一種変った人だという感じが新たに刺戟(しげき)を受けるだけであった。
「それでいて、碁(ご)を打つ、謡(うたい)を謡(うた)う。いろいろな事をやる。もっともいずれも下手糞(へたくそ)なんですが」
「それが余裕(よゆう)のある証拠(しょうこ)じゃないでしょうか」
「余裕って君。――僕は昨日(きのう)雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民(こうとうゆうみん)でないからです。いくら他(ひと)の感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」

        十

「実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか」
「文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ」
 松本は大きな火鉢(ひばち)の縁(ふち)へ両肱(りょうひじ)を掛けて、その一方の先にある拳骨(げんこつ)を顎(あご)の支えにしながら敬太郎(けいたろう)を見た。敬太郎は初対面の客を客と感じていないらしいこの松本の様子に、なるほど高等遊民の本色(ほんしょく)があるらしくも思った。彼は煙草(たばこ)道楽と見えて、今日は大きな丸い雁首(がんくび)のついた木製の西洋パイプを口から離さずに、時々思い出したような濃い煙を、まだ火の消えていない証拠として、狼煙(のろし)のごとくぱっぱっと揚げた。その煙が彼の顔の傍(そば)でいつの間にか消えて行く具合が、どこにも締(しま)りを設ける必要を認めていないらしい彼の眼鼻と相待って、今まで経験した事のない一種静かな心持を敬太郎に与えた。彼は少し薄くなりかかった髪を、頭の真中から左右へ分けているので、平たい頭がなおの事尋常に落ちついて見えた。彼はまた普通世間の人が着ないような茶色の無地の羽織を着て、同じ色の上足袋(うわたび)を白の上に重ねていた。その色がすぐ坊主の法衣(ころも)を聯想(れんそう)させるところがまた変に特別な男らしく敬太郎の眼に映った。自分で高等遊民だと名乗るものに会ったのはこれが始めてではあるが、松本の風采(ふうさい)なり態度なりが、いかにもそう云う階級の代表者らしい感じを、少し不意を打たれた気味の敬太郎に投げ込んだのは事実であった。
「失礼ながら御家族は大勢でいらっしゃいますか」
 敬太郎は自(みず)から高等遊民と称する人に対して、どういう訳かまずこういう問がかけて見たかった。すると松本は「ええ子供がたくさんいます」と答えて、敬太郎の忘れかかっていたパイプからぱっと煙を出した。
「奥さんは……」
「妻(さい)は無論います。なぜですか」
 敬太郎は取り返しのつかない愚(ぐ)な問を出して、始末に行かなくなったのを後悔した。相手がそれほど感情を害した様子を見せないにしろ、不思議そうに自分の顔を眺めて、解決を予期している以上は、何とか云わなければすまない場合になった。
「あなたのような方が、普通の人間と同じように、家庭的に暮して行く事ができるかと思ってちょっと伺ったまでです」
「僕が家庭的に……。なぜ。高等遊民だからですか」
「そう云う訳でも無いんですが、何だかそんな心持がしたからちょっと伺がったのです」
「高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」
 敬太郎はもう何も云う事がなくなってしまった。彼の頭脳の中では、返事に行き詰まった困却と、ここで問題を変えようとする努力と、これを緒口(いとくち)に、革(かわ)の手袋を穿(は)めた女の関係を確かめたい希望が三ついっしょに働らくので、元からそれほど秩序の立っていない彼の思想になおさら暗い影を投げた。けれども松本はそんな事にまるで注意しない風で、困った敬太郎の顔を平気に眺(なが)めていた。もしこれが田口であったなら手際(てぎわ)よく相手を打ち据(す)える代りに、打ち据えるとすぐ向うから局面を変えてくれて、相手に見苦るしい立ち往生などはけっしてさせない鮮(あざ)やかな腕を有(も)っているのにと敬太郎は思った。気はおけないが、人を取扱かう点において、全く冴(さ)えた熟練を欠いている松本の前で、敬太郎は図(はか)らず二人の相違を認めたような気がしていると、松本は偶然「あなたはそういう問題を考えて見た事がないようですね」と聞いてくれた。
「ええまるで考えていません」
「考える必要はありませんね。一人で下宿している以上は。けれどもいくら一人だって、広い意味での男対女の問題は考えるでしょう」
「考えると云うよりむしろ興味があるといった方が適当かも知れません。興味なら無論あります」

        十一

 二人は人間として誰しも利害を感ずるこの問題についてしばらく話した。けれども年歯(とし)の違だか段の違だか、松本の云う事は肝心(かんじん)の肉を抜いた骨組だけを並べて見せるようで、敬太郎(けいたろう)の血の中まで這入(はい)り込んで来て、共に流れなければやまないほどの切実な勢(いきおい)をまるで持っていなかった。その代り敬太郎の秩序立たない断片的の言葉も口を出るとすぐ熱を失って、少しも松本の胸に徹(とお)らないらしかった。
 こんな縁遠い話をしている中(うち)で、ただ一つ敬太郎の耳に新らしく響いたのは、露西亜(ロシヤ)の文学者のゴーリキとかいう人が、自分の主張する社会主義とかを実行する上に、資金の必要を感じて、それを調達(ちょうたつ)のため細君同伴で亜米利加(アメリカ)へ渡った時の話であった。その時ゴーリキは大変な人気を一身に集めて、招待やら驩迎(かんげい)やらに忙殺(ぼうさつ)されるほどの景気のうちに、自分の目的を苦もなく着々と進行させつつあった。ところが彼の本国から伴(つ)れて来た細君というのが、本当の細君でなくて単に彼の情婦に過ぎないという事実がどこからか曝露(ばくろ)した。すると今まで狂熱に達していた彼の名声が、たちまちどさりと落ちて、広い新大陸に誰一人として彼と握手するものが無くなってしまったので、ゴーリキはやむを得ずそのまま亜米利加を去った。というのが筋であった。
「露西亜と亜米利加ではこれだけ男女(なんにょ)関係の解釈が違うんです。ゴーリキのやりくちは露西亜ならほとんど問題にならないくらい些細(ささい)な事件なんでしょうがね。下らない」と松本は全く下らなそうな顔をした。
「日本はどっちでしょう」と敬太郎は聞いて見た。
「まあ露西亜派でしょうね。僕は露西亜派でたくさんだ」と云って、松本はまた狼煙(のろし)のような濃い煙をぱっと口から吐いた。
 ここまで来て見ると、この間の女の事を尋ねるのが敬太郎に取って少しも苦にならないような気がし出した。
「せんだっての晩神田の洋食店で私はあなたに御目にかかったと思うんですが」
「ええ会いましたね。よく覚えています。それから帰りにも電車の中で会ったじゃありませんか。君も江戸川まで乗ったようだが、あすこいらに下宿でもしているんですか。あの晩は雨が降って困ったでしょう」
 松本ははたして敬太郎を記憶していた。それを初めから口に出すでもなく、今になってようやく気がついたふりをするでもなく、話してもよし話さないでもよしと云った風の態度が、無邪気から出るのか、度胸から出るのか、または鷹揚(おうよう)な彼の生れつきから出るのか、敬太郎にはちょっと判断しかねた。
「御伴(おつれ)がおありのようでしたが」
「ええ別嬪(べっぴん)を一人伴(つ)れていました。あなたはたしか一人でしたね」
「一人です。あなたも御帰りには御一人じゃなかったですか」
「そうです」
 ちょっとはきはき進んだ問答はここへ来てぴたりととまってしまった。松本がまた女の事を云い出すかと思って待っていると、「あなたの下宿は牛込ですか、小石川ですか」とまるで無関係の問を敬太郎はかけられた。
「本郷です」
 松本は腑(ふ)に落ちない顔をして敬太郎を見た。本郷に住んでいる彼が、なぜ江戸川の終点まで乗ったのか、その説明を聞きたいと云わぬばかりの松本の眼つきを見た時、敬太郎は面倒だからここで一つ心持よく万事を打ち明けてしまおうと決心した。もし怒(おこ)られたら、詫(あや)まるだけで、詫まって聞かれなければ、御辞儀(おじぎ)を叮嚀(ていねい)にして帰れば好かろうと覚悟をきめた。
「実はあなたの後(あと)を跟(つ)けてわざわざ江戸川まで来たのです」と云って松本の顔を見ると、案外にも予期したほどの変化も起らないので、敬太郎はまず安心した。
「何のために」と松本はほとんどいつものような緩(ゆる)い口調で聞き返した。
「人から頼まれたのです」
「頼まれた? 誰に」
 松本は始めて、少し驚いた声の中(うち)に、並より強いアクセントを置いて、こう聞いた。

        十二

「実は田口さんに頼まれたのです」
「田口とは。田口要作(ようさく)ですか」
「そうです」
「だって君はわざわざ田口の紹介状を持って僕に会いに来たんじゃありませんか」
 こう一句一句問いつめられて行くよりは、自分の方で一と思いに今までの経過を話してしまう方が楽な気がするので、敬太郎(けいたろう)は田口の速達便を受取って、すぐ小川町の停留所へ見張(みはり)に出た冒険の第一節目から始めて、電車が江戸川の終点に着いた後の雨の中の立往生に至るまでの顛末(てんまつ)を包まず打ち明けた。固(もと)よりただ筋の通るだけを目的に、誇張は無論布衍(ふえん)の煩(わずら)わしさもできる限り避けたので、時間がそれほどかからなかったせいか、松本は話の進行している間一口も敬太郎を遮(さえ)ぎらなかった。話が済んでからも、直(すぐ)とは声を出す様子は見えなかった。敬太郎は主人のこの沈黙を、感情を害した結果ではなかろうかと推察して、怒り出されないうちに早く詫(あや)まるに越した事はないと思い定めた。すると主人の方から突然口を利(き)き始めた。
「どうもけしからん奴だね、あの田口という男は。それに使われる君もまた君だ。よっぽどの馬鹿だね」
 こういった主人の顔を見ると、呆(あき)れ返っている風は誰の目にも着くが、怒気を帯びた様子は比較的どこにも現われていないので、敬太郎はむしろ安心した。この際馬鹿と呼ばれるぐらいの事は、彼に取って何でもなかったのである。
「どうも悪い事をしました」
「詫まって貰いたくも何ともない。ただ君が御気の毒だから云うのですよ。あんな者に使われて」
「それほど悪い人なんですか」
「いったい何の必要があって、そんな愚(ぐ)な事を引き受けたのです」
 物数奇(ものずき)から引き受けたという言葉は、この場合どうしても敬太郎の口へは出て来なかった。彼はやむを得ず、衣食問題の必要上どうしても田口に頼らなければならない事情があるので、面白くないとは知りながら、つい承諾したのだという風な答をした。
「衣食に困るなら仕方がないが、もう止した方がいいですよ。余計な事じゃありませんか、寒いのに雨に降られて人の後(あと)を跟(つ)けるなんて」
「私も少し懲(こ)りました。これからはもうやらないつもりです」
 この述懐を聞いた松本は何とも云わず、ただ苦笑(にがわら)いをしていた。それが敬太郎には軽蔑(けいべつ)の意味にも憐愍(れんみん)の意味にも取れるので、彼はいずれにしてもはなはだ肩身の狭い思をした。
「あなたは僕に対してすまん事をしたような風をしているが、実際そうなのですか」
 根本義に溯(さかの)ぼったらそれほどに感じていない敬太郎もこう聞かれると、行がかり上そうだと思わざるを得なかった。またそう答えざるを得なかった。
「じゃ田口へ行ってね。この間僕の伴(つ)れていた若い女は高等淫売(こうとういんばい)だって、僕自身がそう保証したと云ってくれたまえ」
「本当にそういう種類の女なんですか」
 敬太郎はちょっと驚ろかされた顔をしてこう聞いた。
「まあ何でも好いから、高等淫売だと云ってくれたまえ」
「はあ」
「はあじゃいけない、たしかにそう云わなくっちゃ。云えますか、君」
 敬太郎は現代に教育された青年の一人として、こういう意味の言葉を、年長者の前で口にする無遠慮を憚(はば)かるほどの男ではなかった。けれども松本が強(し)いてこの四字を田口の耳へ押し込もうとする奥底には、何か不愉快なある物が潜(ひそ)んでいるらしく思われるので、そう軽々しい調子で引き受ける気も起らなかった。彼が挨拶(あいさつ)に困ってむずかしい顔をしていると、それを見た松本は、「何、君心配しないでもいいですよ。相手が田口だもの」と云ったが、しばらくしてやっと気がついたように、「君は僕と田口との関係をまだ知らないんでしたね」と聞いた。敬太郎は「まだ何にも知りません」と答えた。

        十三

「その関係を話すと、君が田口に向ってあの女の事を高等淫売(こうとういんばい)だと云う勇気が出悪(でにく)くなるだけだからつまり僕には損になるんだが、いつまで罪もない君を馬鹿にするのも気の毒だから、聞かして上げよう」
 こういう前置を置いた上、松本は田口と自分が社会的にどう交渉しているかを説明してくれた。その説明は最も簡単にすむだけに最も敬太郎(けいたろう)を驚ろかした。それを一言でいうと、田口と松本は近い親類の間柄だったのである。松本に二人の姉があって、一人が須永(すなが)の母、一人が田口の細君、という互の縁続きを始めて呑(の)み込んだ時、敬太郎は、田口の義弟に当る松本が、叔父という資格で、彼の娘と時間を極(きわ)めて停留所で待ち合わした上、ある料理店で会食したという事実を、世間の出来事のうちで最も平凡を極めたものの一つのように見た。それを込み入った文(あや)でも隠しているように、一生懸命に自分の燃やした陽炎(かげろう)を散らつかせながら、後(あと)を追(おっ)かけて歩いたのが、さもさも馬鹿馬鹿しくなって来た。
「御嬢さんは何でまたあすこまで出張(でば)っていたんですか。ただ私を釣るためなんですか」
「何須永へ行った帰りなんです。僕が田口で話していると、あの子が電話をかけて、四時半頃あすこで待ち合せているから、ちょっと帰りに降りてくれというんです。面倒だから止そうと思ったけれども、是非何とかかとかいうから、降りたところがね。今朝(けさ)御父さんから聞いたら、叔父さんが御歳暮(おせいぼ)に指環(ゆびわ)を買ってやると云っていたから、停留所で待ち伏せをして、逃(にが)さないようにいっしょに行って買って貰えと云われたから先刻(さっき)からここで待っていたんだって、人の知りもしないのに、一人で勝手な請求を持ち出してなかなか動かない。仕方がないから、まあ西洋料理ぐらいでごまかしておこうと思って、とうとう宝亭へ連れ込んだんです。――実に田口という男は箆棒(べらぼう)だね。わざわざそれほどの手数(てかず)をかけて、何もそんな下らない真似(まね)をするにも当らないじゃないか。騙(だま)された君よりもよっぽど田口の方が箆棒ですよ」
 敬太郎には騙された自分の方が遥(はる)かに愚物(ぐぶつ)に思われた。そうと知ったら、探偵の結果を報告する時にも、もう少しは手加減が出来たものをと、自(おのず)から赧(あか)い顔もしなければならなかった。
「あなたはまるで御承知ない事なんですね」
「知るものかね、君。いくら高等遊民だって、そんな暇の出るはずがないじゃありませんか」
「御嬢さんはどうでしょう。多分御存じなんだろうと思いますが」
「そうさ」と云って松本はしばらく思案していたが、やがて判切(はっきり)した口調で、「いや知るまい」と断言した。「あの箆棒の田口に、一つ取柄(とりえ)があると云えば云われるのだが、あの男はね、いくら悪戯(いたずら)をしても、その悪戯をされた当人が、もう少しで恥を掻(か)きそうな際(きわ)どい時になると、ぴたりととめてしまうか、または自分がその場へ出て来て、当人の体面にかかわらない内に綺麗(きれい)に始末をつける。そこへ行くと箆棒(べらぼう)には違ないが感心なところがあります。つまりやりかたは悪辣(あくらつ)でも、結末には妙に温(あたた)かい情(なさけ)の籠(こも)った人間らしい点を見せて来るんです。今度の事でもおそらく自分一人で呑(の)み込んでいるだけでしょう。君が僕の家(うち)へ来なかったら、僕はきっとこの事件を知らずに済むんだったろう。自分の娘にだって、君の馬鹿を証明するような策略(さくりゃく)を、始めから吹聴(ふいちょう)するほど無慈悲(むじひ)な男じゃない。だからついでに悪戯(いたずら)も止せばいいんだがね、それがどうしても止せないところが、要するに箆棒です」
 田口の性格に対する松本のこういう批評を黙って聞いていた敬太郎は、自分の馬鹿な振舞(ふるまい)を顧(かえり)みる後悔よりも、自分を馬鹿にした責任者を怨(うら)むよりも、むしろ悪戯をした田口を頼もしいと思う心が、わが胸の裏(うち)で一番勝を制したのを自覚した。が、はたしてそういう人ならば、なぜ彼の前に出て話をしている間に、あんな窮屈な感じが起るのだろうという不審も自(おの)ずと萌(きざ)さない訳に行かなかった。
「あなたの御話でだいぶ田口さんが解って来たようですが、私はあの方(かた)の前へ出ると、何だか気が落ちつかなくって変に苦しいです」
「そりゃ向うでも君に気を許さないからさ」

        十四

 こう云われて見ると、田口が自分に気を許していない眼遣(めづかい)やら言葉つきやらがありありと敬太郎(けいたろう)の胸に、疑(うたがい)もない記憶として読まれた。けれども田口ほどの老巧のものに、何で学校を出たばかりの青臭(あおくさ)い自分が、それほど苦になるのか、敬太郎は全く合点(がてん)が行かなかった。彼は見た通りのままの自分で、誰の前へ出ても通用するものと今まで固く己(おの)れを信じていたのである。彼はただかような青年として、他(ひと)に憚(はば)かられたり気をおかれたりする資格さえないように自分を見縊(みくび)っていただけに、経験の程度の違う年長者から、自分の思(おも)わくと違う待遇を受けるのをむしろ不思議に考え出した。
「私はそんな裏表のある人間と見えますかね」
「どうだか、そんな細かい事は初めて会っただけじゃ分らないですよ。しかしあっても無くっても、僕の君に対する待遇にはいっこう関係がないからいいじゃありませんか」
「けれども田口さんからそう思われちゃ……」
「田口は君だからそう思うんじゃない、誰を見てもそう思うんだから仕方がないさ。ああして長い間人を使ってるうちには、だいぶ騙(だま)されなくっちゃならないからね。たまに自然そのままの美くしい人間が自分の前に現われて来ても、やっぱり気が許せないんです。それがああ云う人の因果(いんが)だと思えばそれで好いじゃないか。田口は僕の義兄だから、こう云うと変に聞えるが、本来は美質なんです。けっして悪い男じゃない。ただああして何年となく事業の成功という事だけを重(おも)に眼中に置いて、世の中と闘かっているものだから、人間の見方が妙に片寄って、こいつは役に立つだろうかとか、こいつは安心して使えるだろうかとか、まあそんな事ばかり考えているんだね。ああなると女に惚(ほ)れられても、こりゃ自分に惚れたんだろうか、自分の持っている金に惚れたんだろうか、すぐそこを疑ぐらなくっちゃいられなくなるんです。美人でさえそうなんだから君見たいな野郎が窮屈な取扱を受けるのは当然だと思わなくっちゃいけない。そこが田口の田口たるところなんだから」
 敬太郎はこの批評で田口という男が自分にも判切(はっきり)呑み込めたような気がした。けれどもこういう風に一々彼を肯(うけが)わせるほどの判断を、彼の頭に鉄椎(てっつい)で叩(たた)き込むように入れてくれる松本はそもそも何者だろうか、その点になると敬太郎は依然として茫漠(ぼうばく)たる雲に対する思があった。批評に上(のぼ)らない前の田口でさえ、この男よりはかえって活きた人間らしい気がした。
 同じ松本について見ても、この間の晩神田の洋食屋で、田口の娘を相手にして珊瑚樹(さんごじゅ)の珠(たま)がどうしたとかこうしたとか云っていた時の方が、よっぽど活きて動いていた。今彼の前に坐(すわ)っているのは、大きなパイプを銜(くわ)えた木像の霊が、口を利(き)くと同じような感じを敬太郎に与えるだけなので、彼はただその人の本体を髣髴(ほうふつ)するに苦しむに過ぎなかった。彼が一方では明瞭(めいりょう)な松本の批評に心服しながら、一方では松本の何者なるかをこういう風に考えつつ、自分は頭脳の悪い、直覚の鈍い、世間並以下の人物じゃあるまいかと疑り始めた時、この漠然(ばくぜん)たる松本がまた口を開いた。
「それでも田口が箆棒(べらぼう)をやってくれたため、君はかえって仕合(しあわせ)をしたようなものですね」
「なぜですか」
「きっと何か位置を拵(こし)らえてくれますよ。これなりで放っておきゃ田口でも何でもありゃしない。それは責任を持って受合って上げても宜(い)い。が、つまらないのは僕だ。全く探偵のされ損だから」
 二人は顔を見合せて笑った。敬太郎が丸い更紗(さらさ)の座蒲団(ざぶとん)の上から立ち上がった時、主人はわざわざ玄関まで送って出た。そこに飾ってあった墨絵の鶴の衝立(ついたて)の前に、瘠(や)せた高い身体(からだ)をしばらく佇(たた)ずまして、靴を穿(は)く敬太郎の後姿(うしろすがた)を眺(なが)めていたが、「妙な洋杖(ステッキ)を持っていますね。ちょっと拝見」と云った。そうしてそれを敬太郎の手から受取って、「へえ、蛇(へび)の頭だね。なかなか旨(うま)く刻(ほ)ってある。買ったんですか」と聞いた。「いえ素人(しろうと)が刻ったのを貰ったんです」と答えた敬太郎は、それを振りながらまた矢来(やらい)の坂を江戸川の方へ下(くだ)った。


     雨の降る日

        一

 雨の降る日に面会を謝絶した松本の理由は、ついに当人の口から聞く機会を得ずに久しく過ぎた。敬太郎(けいたろう)もそのうちに取り紛(まぎ)れて忘れてしまった。ふとそれを耳にしたのは、彼が田口の世話で、ある地位を得たのを縁故に、遠慮なく同家へ出入(しゅつにゅう)のできる身になってからの事である。その時分の彼の頭には、停留所の経験がすでに新らしい匂いを失いかけていた。彼は時々須永(すなが)からその話を持ち出されては苦笑するに過ぎなかった。須永はよく彼に向って、なぜその前に僕の所へ来て打ち明けなかったのだと詰問した。内幸町の叔父が人を担(かつ)ぐくらいの事は、母から聞いて知っているはずだのにと窘(たし)なめる事もあった。しまいには、君があんまり色気があり過ぎるからだと調戯(からか)い出した。敬太郎はそのたびに「馬鹿云え」で通していたが、心の内ではいつも、須永の門前で見た後姿の女を思い出した。その女がとりも直さず停留所の女であった事も思い出した。そうしてどこか遠くの方で気恥かしい心持がした。その女の名が千代子(ちよこ)で、その妹の名が百代子(ももよこ)である事も、今の敬太郎には珍らしい報知ではなかった。
 彼が松本に会って、すべて内幕の消息を聞かされた後(あと)、田口へ顔を出すのは多少きまりの悪い思をするだけであったにかかわらず、顔を出さなければ締(し)め括(くく)りがつかないという行きがかりから、笑われるのを覚悟の前で、また田口の門を潜(くぐ)った時、田口ははたして大きな声を出して笑った。けれどもその笑の中(うち)には己(おの)れの機略に誇る高慢の響よりも、迷った人を本来の路(みち)に返してやった喜びの勝利が聞こえているのだと敬太郎には解釈された。田口はその時訓戒のためだとか教育の方法だとかいった風の、恩に着せた言葉をいっさい使わなかった。ただ悪意でした訳でないから、怒(おこ)ってはいけないと断わって、すぐその場で相当の位置を拵(こし)らえてくれる約束をした。それから手を鳴らして、停留所に松本を待ち合わせていた方の姉娘を呼んで、これが私(わたし)の娘だとわざわざ紹介した。そうしてこの方(かた)は市(いっ)さんの御友達だよと云って敬太郎を娘に教えていた。娘は何でこういう人に引き合されるのか、ちょっと解(かい)しかねた風をしながら、極(きわ)めてよそよそしく叮嚀(ていねい)な挨拶(あいさつ)をした。敬太郎が千代子という名を覚えたのはその時の事であった。
 これが田口の家庭に接触した始めての機会になって、敬太郎はその後(ご)も用事なり訪問なりに縁を藉(か)りて、同じ人の門を潜る事が多くなった。時々は玄関脇の書生部屋へ這入(はい)って、かつて電話で口を利(き)き合った事のある書生と世間話さえした。奥へも無論通る必要が生じて来た。細君に呼ばれて内向(うちむき)の用を足す場合もあった。中学校へ行く長男から英語の質問を受けて窮する事も稀(まれ)ではなかった。出入(でいり)の度数がこう重なるにつれて、敬太郎が二人の娘に接近する機会も自然多くなって来たが、一種間(ま)の延びた彼の調子と、比較的引き締(しま)った田口の家風と、差向いで坐る時間の欠乏とが、容易に打ち解けがたい境遇に彼らを置き去りにした。彼らの間に取り換わされた言葉は、無論形式だけを重んずる堅苦しいものではなかったが、大抵は五分とかからない当用に過ぎないので、親しみはそれほど出る暇がなかった。
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