虞美人草
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著者名:夏目漱石 

 親譲りの背広を着た男は、丸い眼を据(す)えて、室(へや)の中に聳(そび)える、漆(うるし)のような髪の主(あるじ)を見守った。次に丸い眼を据えて、壁の上にある故人の肖像を見守った。最後に漆の髪の主と、故人の肖像とを見較(みくら)べた。見較べてしまった時、聳えたる人は瘠(や)せた肩を動かして、宗近君の頭の上から云う。――
「父は死んでいる。しかし活(い)きた母よりもたしかだよ。たしかだよ」
 椅子に倚る人の顔は、この言葉と共に、自(おのず)からまた画像の方に向った。向ったなりしばらくは動かない。活きた眼は上から見下(みおろ)している。
 しばらくして、椅子に倚る人が云う。――
「御叔父(おじ)さんも気の毒な事をしたなあ」
 立つ人は答えた。――
「あの眼は活きている。まだ活きている」
 言い終って、部屋の中を歩き出した。
「庭へ出よう、部屋の中は陰気でいけない」
 席を立った宗近君は、横から来て甲野さんの手を取るや否や、明け放った仏蘭西窓(フランスまど)を抜けて二段の石階を芝生(しばふ)へ下(くだ)る。足が柔かい地に着いた時、
「いったいどうしたんだ」と宗近君が聞いた。
 芝生は南に走る事十間余にして、高樫(たかがし)の生垣に尽くる。幅は半ばに足らぬ。繁(しげ)き植込に遮(さえ)ぎられた奥は、五坪(いつつぼ)ほどの池を隔てて、張出(はりだし)の新座敷には藤尾の机が据えてある。
 二人は緩(ゆる)き歩調に、芝生を突き当った。帰りには二三間迂回(うねっ)て、植込の陰を書斎の方(かた)へ戻って来た。双方共無言である。足並は偶然にも揃(そろ)っている。植込が真中で開いて、二三の敷石に、池の方(かた)へ人を誘う曲り角まで来た時、突然新座敷で、雉子(きじ)の鳴くように、けたたましく笑う声がした。二人の足は申し合せたごとくぴたりと留まる。眼は一時に同じ方角へ走る。
 四尺の空地(くうち)を池の縁(ふち)まで細長く余して、真直(まっすぐ)に水に落つる池の向側(むこうがわ)に、横から伸(の)す浅葱桜(あさぎざくら)の長い枝を軒のあたりに翳(かざ)して小野さんと藤尾がこちらを向いて笑いながら椽鼻(えんばな)に立っている。
 不規則なる春の雑樹(ぞうき)を左右に、桜の枝を上に、温(ぬる)む水に根を抽(ぬきん)でて這(は)い上がる蓮(はす)の浮葉を下に、――二人の活人画は包まれて立つ。仕切る枠(わく)が自然の景物の粋(すい)をあつめて成るがために、――枠の形が趣きを損(そこ)なわぬほどに正しくて、また眼を乱さぬほどに不規則なるがために――飛石に、水に、椽(えん)に、間隔の適度なるがために――高きに失わず、低きに過ぎざる恰好(かっこう)の地位にあるために――最後に、一息の短かきに、吐く幻影(まぼろし)と、忽然(こつぜん)に現われたるために――二人の視線は水の向(むかい)の二人にあつまった。と共に、水の向の二人の視線も、水のこなたの二人に落ちた。見合す四人は、互に互を釘付(くぎづけ)にして立つ。際(きわ)どい瞬間である。はっと思う刹那(せつな)を一番早く飛び超(こ)えたものが勝になる。
 女はちらりと白足袋の片方を後(うしろ)へ引いた。代赭(たいしゃ)に染めた古代模様の鮮(あざや)かに春を寂(さ)びたる帯の間から、するすると蜿蜒(うね)るものを、引き千切(ちぎ)れとばかり鋭どく抜き出した。繊(ほそ)き蛇(だ)の膨(ふく)れたる頭(かしら)を掌(たなごころ)に握って、黄金(こがね)の色を細長く空に振れば、深紅(しんく)の光は発矢(はっし)と尾より迸(ほとば)しる。――次の瞬間には、小野さんの胸を左右に、燦爛(さんらん)たる金鎖が動かぬ稲妻(いなずま)のごとく懸(かか)っていた。
「ホホホホ一番あなたによく似合う事」
 藤尾の癇声(かんごえ)は鈍い水を敲(たた)いて、鋭どく二人の耳に跳(は)ね返って来た。
「藤……」と動き出そうとする宗近君の横腹を突かぬばかりに、甲野さんは前へ押した。宗近君の眼から活人画が消える。追いかぶさるように、後(うしろ)から乗(の)し懸(かか)って来た甲野さんの顔が、親しき友の耳のあたりまで着いたとき、
「黙って……」と小声に云いながら、煙(けむ)に巻かれた人を植込の影へ引いて行く。
 肩に手を掛けて押すように石段を上(あが)って、書斎に引き返した甲野さんは、無言のまま、扉に似たる仏蘭西窓(フランスまど)を左右からどたりと立て切った。上下(うえした)の栓釘(ボールト)を式(かた)のごとく鎖(さ)す。次に入口の戸に向う。かねて差し込んである鍵(かぎ)をかちゃりと回すと、錠(じょう)は苦もなく卸(お)りた。
「何をするんだ」
「部屋を立て切った。人が這入(はい)って来ないように」
「なぜ」
「なぜでも好い」
「全体どうしたんだ。大変顔色が悪い」
「なに大丈夫。まあ掛けたまえ」と最前の椅子を机に近く引きずって来る。宗近君は小供のごとく命令に服した。甲野さんは相手を落ちつけた後(のち)、静かに、用い慣(な)れた安楽椅子に腰を卸(おろ)す。体は机に向ったままである。
「宗近さん」と壁を向いて呼んだが、やがて首だけぐるりと回して、正面から、
「藤尾は駄目だよ」と云う。落ちついた調子のうちに、何となく温(ぬる)い暖味(あたたかみ)があった。すべての枝を緑に返す用意のために、寂(さ)びたる中を人知れず通う春の脈は、甲野さんの同情である。
「そうか」
 腕を組んだ宗近君はこれだけ答えた。あとから、
「糸公もそう云った」と沈んでつけた。
「君より、君の妹の方が眼がある。藤尾は駄目だ。飛び上りものだ」
 かちゃりと入口の円鈕(ノッブ)を捩(ねじ)ったものがある。戸は開(あ)かない。今度はとんとんと外から敲(たた)く。宗近君は振り向いた。甲野さんは眼さえ動かさない。
「うちやって置け」と冷やかに云う。
 入口の扉に口を着けたようにホホホホと高く笑ったものがある。足音は日本間の方へ馳(か)けながら遠退(とおの)いて行く。二人は顔を見合わした。
「藤尾だ」と甲野さんが云う。
「そうか」と宗近君がまた答えた。
 あとは静かになる。机の上の置時計がきちきちと鳴る。
「金時計も廃(よ)せ」
「うん。廃そう」
 甲野さんは首を壁に向けたまま、宗近君は腕を拱(こまぬ)いたまま、――時計はきちきちと鳴る。日本間の方で大勢が一度に笑った。
「宗近さん」と欽吾(きんご)はまた首を向け直した。「藤尾に嫌われたよ。黙ってる方がいい」
「うん黙っている」
「藤尾には君のような人格は解らない。浅墓(あさはか)な跳(は)ね返(かえ)りものだ。小野にやってしまえ」
「この通り頭ができた」
 宗近君は節太(ふしぶと)の手を胸から抜いて、刈(か)り立(たて)の頭の天辺(てっぺん)をとんと敲いた。
 甲野さんは眼尻に笑の波を、あるか、なきかに寄せて重々(おもおも)しく首肯(うなず)いた。あとから云う。
「頭ができれば、藤尾なんぞは要(い)らないだろう」
 宗近君は軽くうふんと云ったのみである。
「それでようやく安心した」と甲野さんは、くつろいだ片足を上げて、残る膝頭(ひざがしら)の上へ載(の)せる。宗近君は巻煙草を燻(くゆ)らし始めた。吹く煙のなかから、
「これからだ」と独語(ひとりごと)のように云う。
「これからだ。僕もこれからだ」と甲野さんも独語のように答えた。
「君もこれからか。どうこれからなんだ」と宗近君は煙草の煙(けむ)を押し開いて、元気づいた顔を近寄(ちかよせ)た。
「本来の無一物から出直すんだからこれからさ」
 指の股に敷島(しきしま)を挟んだまま、持って行く口のある事さえ忘れて、呆気(あっけ)に取られた宗近君は、
「本来の無一物から出直すとは」と自(みずか)ら自らの頭脳を疑うごとく問い返した。甲野さんは尋常の調子で、落ちつき払った答をする。――
「僕はこの家(うち)も、財産も、みんな藤尾にやってしまった」
「やってしまった? いつ」
「もう少しさっき。その紋尽しを書いている時だ」
「そりゃ……」
「ちょうどその丸に三(み)つ鱗(うろこ)を描(か)いてる時だ。――その模様が一番よく出来ている」
「やってしまうってそう容易(たやす)く……」
「何要(い)るものか。あればあるほど累(わずらい)だ」
「御叔母(おば)さんは承知したのかい」
「承知しない」
「承知しないものを……それじゃ御叔母さんが困るだろう」
「やらない方が困るんだ」
「だって御叔母さんは始終(しじゅう)君がむやみな事をしやしまいかと思って心配しているんじゃないか」
「僕の母は偽物(にせもの)だよ。君らがみんな欺(あざむ)かれているんだ。母じゃない謎(なぞ)だ。澆季(ぎょうき)の文明の特産物だ」
「そりゃ、あんまり……」
「君は本当の母でないから僕が僻(ひが)んでいると思っているんだろう。それならそれで好いさ」
「しかし……」
「君は僕を信用しないか」
「無論信用するさ」
「僕の方が母より高いよ。賢いよ。理由(わけ)が分っているよ。そうして僕の方が母より善人だよ」
 宗近君は黙っている。甲野さんは続けた。――
「母の家を出てくれるなと云うのは、出てくれと云う意味なんだ。財産を取れと云うのは寄こせと云う意味なんだ。世話をして貰いたいと云うのは、世話になるのが厭(いや)だと云う意味なんだ。――だから僕は表向母の意志に忤(さから)って、内実は母の希望通にしてやるのさ。――見たまえ、僕が家(うち)を出たあとは、母が僕がわるくって出たように云うから、世間もそう信じるから――僕はそれだけの犠牲をあえてして、母や妹のために計ってやるんだ」
 宗近君は突然椅子(いす)を立って、机の角(かど)まで来ると片肘(かたひじ)を上に突いて、甲野さんの顔を掩(お)いかぶすように覗(のぞ)き込(こ)みながら、
「貴様、気が狂ったか」と云った。
「気違は頭から承知の上だ。――今まででも蔭じゃ、馬鹿の気違のと呼びつづけに呼ばれていたんだ」
 この時宗近君の大きな丸い眼から涙がぽたぽたと机の上のレオパルジに落ちた。
「なぜ黙っていたんだ。向(むこう)を出してしまえば好いのに……」
「向を出したって、向の性格は堕落するばかりだ」
「向を出さないまでも、こっちが出るには当るまい」
「こっちが出なければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」
「なぜ財産をみんなやったのか」
「要(い)らないもの」
「ちょっと僕に相談してくれれば好かったのに」
「要らないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ」
 宗近君はふうんと云った。
「僕に要らない金のために、義理のある母や妹を堕落させたところが手柄にもならない」
「じゃいよいよ家を出る気だね」
「出る。おれば両方が堕落する」
「出てどこへ行く」
「どこだか分らない」
 宗近君は机の上にあるレオパルジを無意味に取って、背皮(せがわ)を竪(たて)に、勾配(こうばい)のついた欅(けやき)の角でとんとんと軽く敲(たた)きながら、少し沈吟(ちんぎん)の体(てい)であったが、やがて、
「僕のうちへ来ないか」と云う。
「君のうちへ行ったって仕方がない」
「厭(いや)かい」
「厭じゃないが、仕方がない」
 宗近君はじっと甲野さんを見た。
「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や阿父(おやじ)のためはとにかく、糸公のために来てやってくれ」
「糸公のために?」
「糸公は君の知己だよ。御叔母(おば)さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損(みそこ)なっても、日本中がことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値(ねうち)を解している。君の胸の中を知り抜いている。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊(たっと)い女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣(きづかい)のない女だ。――甲野さん、糸公を貰ってやってくれ。家(うち)を出ても好い。山の中へ這入(はい)っても好い。どこへ行ってどう流浪(るろう)しても構わない。何でも好いから糸公を連れて行ってやってくれ。――僕は責任をもって糸公に受合って来たんだ。君が云う事を聞いてくれないと妹に合す顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。糸公は尊(たっと)い女だ、誠のある女だ。正直だよ、君のためなら何でもするよ。殺すのはもったいない」
 宗近君は骨張った甲野さんの肩を椅子の上で振り動かした。

        十八

 小夜子(さよこ)は婆さんから菓子の袋を受取った。底を立てて出雲焼(いずもやき)の皿に移すと、真中にある青い鳳凰(ほうおう)の模様が和製のビスケットで隠れた。黄色な縁(ふち)はだいぶ残っている。揃(そろ)えて渡す二本の竹箸(たけばし)を、落さぬように茶の間から座敷へ持って出た。座敷には浅井君が先生を相手に、京都以来の旧歓を暖めている。時は朝である。日影はじりじりと椽(えん)に逼(せま)ってくる。
「御嬢さんは、東京を御存じでしたな」と問いかけた。
 菓子皿を主客の間に置いて、やさしい肩を後(うしろ)へ引くついでに、
「ええ」と小声に答えて、立ち兼ねた。
「これは東京で育ったのだよ」と先生が足らぬところを補ってくれる。
「そうでしたな。――大変大きくなりましたな」と突然別問題に飛び移った。
 小夜子は淋しい笑顔を俯向(うつむ)けて、今度は答さえも控えた。浅井君は遠慮のない顔をして小夜子を眺(なが)めている。これからこの女の結婚問題を壊すんだなと思いながら平気に眺めている。浅井君の結婚問題に関する意見は大道易者のごとく容易である。女の未来や生涯(しょうがい)の幸福についてはあまり同情を表(ひょう)しておらん。ただ頼まれたから頼まれたなりに事を運べば好いものと心得ている。そうしてそれがもっとも法学士的で、法学士的はもっとも実際的で、実際的は最上の方法だと心得ている。浅井君はもっとも想像力の少ない男で、しかも想像力の少ないのをかつて不足だと思った事のない男である。想像力は理知の活動とは全然別作用で、理知の活動はかえって想像力のために常に阻害(そがい)せらるるものと信じている。想像力を待って、始めて、全(まっ)たき人性に戻(もと)らざる好処置が、知慧(ちえ)分別の純作用以外に活(い)きてくる場合があろうなどとは法科の教室で、どの先生からも聞いた事がない。したがって浅井君はいっこう知らない。ただ断われば済むと思っている。淋しい小夜子の運命が、夫子(ふうし)の一言(いちごん)でどう変化するだろうかとは浅井君の夢にだも考え得ざる問題である。
 浅井君が無意味に小夜子を眺めているうちに、孤堂(こどう)先生は変な咳を二つ三つ塞(せ)いた。小夜子は心元なく父の方(かた)を向く。
「御薬はもう上がったんですか」
「朝の分はもう飲んだよ」
「御寒い事はござんせんか」
「寒くはないが、少し……」
 先生は右の手頸(てくび)へ左の指を三本懸(か)けた。小夜子は浅井のいる事も忘れて、脈をはかる先生の顔ばかり見詰めている。先生の顔は髯(ひげ)と共に日ごとに細長く瘠(や)せこけて来る。
「どうですか」と気遣(きづか)わし気(げ)に聞く。
「少し、早いようだ。やっぱり熱が除(と)れない」と額に少し皺(しわ)が寄った。先生が熱度を計って、じれったそうに不愉快な顔をするたびに小夜子は悲しくなる。夕立を野中に避けて、頼(たより)と思う一本杉をありがたしと梢(こずえ)を見れば稲妻(いなずま)がさす。怖(こわ)いと云うよりも、年を取った人に気の毒である。行き届かぬ世話から出る疳癪(かんしゃく)なら、機嫌(きげん)の取りようもある。気で勝てぬ病気のためなら孝行の尽しようがない。かりそめの風邪(かぜ)と、当人も思い、自分も苦(く)にしなかった昨日今日(きのうきょう)の咳(せき)を、蔭へ廻って聞いて見ると、医者は性質(たち)が善くないと云う。二三日で熱が退(ひ)かないと云って焦慮(じれ)るような軽い病症ではあるまい。知らせれば心配する。云わねば気で通す。その上疳(かん)を起す。この調子で進んで行くと、一年の後(のち)には神経が赤裸(あかはだか)になって、空気に触れても飛び上がるかも知れない。――昨夜(ゆうべ)小夜子は眼を合せなかった。
「羽織でも召していらしったら好いでしょう」
 孤堂先生は返事をせずに、
「験温器があるかい。一つ計ってみよう」と云う。小夜子は茶の間へ立つ。
「どうかなすったんですか」と浅井君が無雑作(むぞうさ)に尋ねた。
「いえ、ちっと風邪(かぜ)を引いてね」
「はあ、そうですか。――もう若葉がだいぶ出ましたな」と云った。先生の病気に対してはまるで同情も頓着(とんじゃく)もなかった。病気の源因と、経過と、容体を精(くわ)しく聞いて貰おうと思っていた先生は当(あて)が外(はず)れた。
「おい、無いかね。どうした」と次の間を向いて、常よりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。
「はい、ただ今」と小(ち)さい声が答えた。が験温器を持って出る様子がない。先生は浅井君の方を向いて
「はあ、そうかい」と気のない返事をした。
 浅井君はつまらなくなる。早く用を片づけて帰ろうと思う。
「先生小野はいっこう駄目ですな、ハイカラにばかりなって。御嬢さんと結婚する気はないですよ」とぱたぱたと順序なく並べた。
 孤堂先生の窪(くぼ)んだ眼(まなこ)は一度に鋭どくなった。やがて鋭どいものが一面に広がって顔中苦々(にがにが)しくなる。
「廃(よ)した方が好(え)えですな」
 置き失(な)くした験温器を捜(さ)がしていた、次の間の小夜子は、長火鉢の二番目の抽出(ひきだし)を二寸ほど抜いたまま、はたりと引く手を留めた。
 先生の苦々(にがにが)しい顔は一層こまやかになる。想像力のない浅井君はとんと結果を予想し得ない。
「小野は近頃非常なハイカラになりました。あんな所へ行くのは御嬢さんの損です」
 苦々しい顔はとうとう持ち切れなくなった。
「君は小野の悪口を云いに来たのかね」
「ハハハハ先生本当ですよ」
 浅井君は妙なところで高笑をいた。
「余計な御世話だ。軽薄な」と鋭どく跳(は)ねつけた。先生の声はようやく尋常を離れる。浅井君は始めて驚ろいた。しばらく黙っている。
「おい験温器はまだか。何をぐずぐずしている」
 次の間の返事は聞えなかった。ことりとも云わぬうちに、片寄せた障子(しょうじ)に影がさす。腰板の外(はずれ)から細い白木の筒(つつ)がそっと出る。畳の上で受取った先生はぽんと云わして筒を抜いた。取り出した験温器を日に翳(かざ)して二三度やけに振りながら、
「何だって、そんな余計な事を云うんだ」と度盛(どもり)を透(すか)して見る。先生の精神は半ば験温器にある。浅井君はこの間に元気を回復した。
「実は頼まれたんです」
「頼まれた? 誰に」
「小野に頼まれたんです」
「小野に頼まれた?」
 先生は腋(わき)の下へ験温器を持って行く事を忘れた。茫然(ぼうぜん)としている。
「ああ云う男だものだから、自分で先生の所へ来て断わり切れないんです。それで僕に頼んだです」
「ふうん。もっと精(くわ)しく話すがいい」
「二三日中(じゅう)に是非こちらへ御返事をしなければならないからと云いますから、僕が代理にやって来たんです」
「だから、どう云う理由で断わるんだか、それを精しく話したら好いじゃないか」
 襖(ふすま)の蔭で小夜子が洟(はな)をかんだ。つつましき音ではあるが、一重(ひとえ)隔ててすぐ向(むこう)にいる人のそれと受け取れる。鴨居(かもい)に近く聞えたのは、襖越(ふすまごし)に立っているらしい。浅井君の耳にはどんな感じを与えたか知らぬ。
「理由はですな。博士にならなければならないから、どうも結婚なんぞしておられないと云うんです」
「じゃ博士の称号の方が、小夜より大事だと云うんだね」
「そう云う訳でもないでしょうが、博士になって置かんと将来非常な不利益ですからな」
「よし分った。理由はそれぎりかい」
「それに確然たる契約のない事だからと云うんです」
「契約とは法律上有効の契約という意味だな。証文のやりとりの事だね」
「証文でもないですが――その代り長い間御世話になったから、その御礼としては物質的の補助をしたいと云うんです」
「月々金でもくれると云うのかい」
「そうです」
「おい小夜や、ちょっと御出(おいで)。小夜や――小夜や」と声はしだいに高くなる。返事はついにない。
 小夜子は襖(ふすま)の蔭に蹲踞(うずくま)ったまま、動かずにいる。先生は仕方なしに浅井君の方へ向き直った。
「君は妻君があるかい」
「ないです。貰いたいが、自分の口が大事ですからな」
「妻君がなければ参考のために聞いて置くがいい。――人の娘は玩具(おもちゃ)じゃないぜ。博士の称号と小夜と引き替にされてたまるものか。考えて見るがいい。いかな貧乏人の娘でも活物(いきもの)だよ。私(わし)から云えば大事な娘だ。人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ。それから、そう云ってくれ。井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だって。――月々金を貢(みつ)いでやる? 貢いでくれと誰が頼んだ。小野の世話をしたのは、泣きついて来て可愛想(かわいそう)だから、好意ずくでした事だ。何だ物質的の補助をするなんて、失礼千万な。――小夜や、用があるからちょっと出て御出、おいいないのか」
 小夜子は襖の蔭で啜(すす)り泣(なき)をしている。先生はしきりに咳(せ)く。浅井君は面喰(めんくら)った。
 こう怒られようとは思わなかった。またこう怒られる訳がない。自分の云う事は事理明白である。世間に立って成功するには誰の目にも博士号は大切である。瞹眛(あいまい)な約束をやめてくれと云うのもさほど不義理とは受取れない。世話をして貰いっ放しでは不都合かも知れないが、して貰っただけの事を物質的に返すと云い出せば、喜んでこっちの義務心を満足させべきはずである。それを突然怒り出す。――そこで浅井君は面喰った。
「先生そう怒っちゃ困ります。悪ければまた小野に逢(あ)って話して見ますから」と云った。これは本気の沙汰(さた)である。
 しばらく黙っていた先生は、やや落ちついた調子で、
「君は結婚を極(きわ)めて容易(たやすい)事のように考えているが、そんなものじゃない」と口惜(くちおし)そうに云う。
 先生の云う主意は分らんが、先生の様子にはさすがの浅井君も少し心を動かした。しかし結婚は便宜(べんぎ)によって約束を取り結び、便宜によって約束を破棄するだけで差支(さしつかえ)ないと信じている浅井君は、別に返事もしなかった。
「君は女の心を知らないから、そんな使に来たんだろう」
 浅井君はやっぱり黙っている。
「人情を知らないから平気でそんな事を云うんだろう。小野の方が破談になれば小夜は明日(あした)からどこへでも行けるだろうと思って、云うんだろう。五年以来夫(おっと)だと思い込んでいた人から、特別の理由もないのに、急に断わられて、平気ですぐ他家(わき)へ嫁に行くような女があるものか。あるかも知れないが小夜はそんな軽薄な女じゃない。そんな軽薄に育て上げたつもりじゃない。――君はそう軽卒に破談の取次をして、小夜の生涯(しょうがい)を誤まらして、それで好い心持なのか」
 先生の窪(くぼ)んだ眼が煮染(にじ)んで来た。しきりに咳が出る。浅井君はなるほどそれが事実ならと感心した。ようやく気の毒になってくる。
「じゃ、まあ御待ちなさい、先生。もう一遍小野に話して見ますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんな精(くわ)しい事情は知らんのですから」
「いや、話してくれないでも好い。厭(いや)だと云うものに無理に貰ってもらいたくはない。しかし本人が来て自家(じか)に訳を話すが好い」
「しかし御嬢さんが、そう云う御考だと……」
「小夜の考(かんがえ)ぐらい小野には分っているはずださ」と先生は平手(ひらて)で頬を打つように、ぴしゃりと云った。
「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」
「小野にそう云ってくれ。井上孤堂はいくら娘が可愛くっても、厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」
 襖(ふすま)の向側(むこうがわ)で、袖(そで)らしいものが唐紙(からかみ)の裾(すそ)にあたる音がした。
「そう返事をして差支(さしつかえ)ないだろうね」
 答はさらになかった。ややあって、わっと云う顔を袖の中に埋(うず)めた声がした。
「先生もう一遍小野に話しましょう」
「話さないでも好い。自家に来て断われと云ってくれ」
「とにかく……そう小野に云いましょう」
 浅井君はついに立った。玄関まで送って来た先生に頭を下げた時、先生は
「娘なんぞ持つもんじゃないな」と云った。表へ出た浅井君はほっと息をつく。今までこんな感じを経験した事はない。横町を出て蕎麦屋(そばや)の行灯(あんどう)を右に通へ出て、電車のある所まで来ると突然飛び乗った。
 突然電車に乗った浅井君は約一時間余(よ)の後(のち)、ぶらりと宗近(むねちか)家の門からあらわれた。つづいて車が二挺出る。一挺は小野の下宿へ向う。一挺は孤堂先生の家に去る。五十分ほど後(おく)れて、玄関の松の根際に梶棒(かじぼう)を上げた一挺は、黒い幌(ほろ)を卸(おろ)したまま、甲野(こうの)の屋敷を指して馳(か)ける。小説はこの三挺の使命を順次に述べなければならぬ。
 宗近君の車が、小野さんの下宿の前で、車輪(は)の音(おと)を留めた時、小野さんはちょうど午飯(ひるめし)を済ましたばかりである。膳(ぜん)が出ている。飯櫃(めしびつ)も引かれずにある。主人公は机の前へ座を移して、口から吹く濃き煙を眺めながら考えている。今日は藤尾(ふじお)と大森へ行く約束がある。約束だから行かなければならぬ。しかし是非行かねばならぬとなると、何となく気が咎(とが)める。不安である。約束さえしなければ、もう少しは太平であったろう。飯ももう一杯ぐらいは食えたかも知れぬ。賽(さい)は固(もと)より自分で投げた。一六(いちろく)の目は明かに出た。ルビコンは渡らねばならぬ。しかし事もなげに河を横切った該撒(シーザー)は英雄である。通例の人はいざと云う間際(まぎわ)になってからまた思い返す。小野さんは思い返すたびに、必ず廃(よ)せばよかったと後悔する。乗り掛けた船に片足を入れた時、船頭が出ますよと棹(さお)を取り直すと、待ってくれと云いたくなる。誰か陸(おか)から来て引っ張ってくれれば好いと思う。乗り掛けたばかりならまだ陸へ戻る機会があるからである。約束も履行(りこう)せんうちは岸を離れぬ舟と同じく、まだ絶体絶命と云う場合ではない。メレジスの小説にこんな話がある。――ある男とある女が諜(しめ)し合せて、停車場(ステーション)で落ち合う手筈(てはず)をする。手筈が順に行って、汽笛(きてき)がひゅうと鳴れば二人の名誉はそれぎりになる。二人の運命がいざと云う間際まで逼(せま)った時女はついに停車場へ来なかった。男は待ち耄(ぼけ)の顔を箱馬車の中に入れて、空しく家(うち)へ帰って来た。あとで聞くと朋友(ほうゆう)の誰彼が、女を抑留して、わざと約束の期を誤まらしたのだと云う。――藤尾と約束をした小野さんは、こんな風に約束を破る事が出来たら、かえって仕合(しあわせ)かも知れぬと思いつつ煙草の煙を眺めている。それに浅井の返事がまだ来ない。諾(だく)と云えばどっちへ転んでも幸(さいわい)である。否(ひ)と聞くならば、退(の)っ引(ぴ)きならぬ瀬戸際(せとぎわ)まであらかじめ押して置いて、振り返ってから、臨機応変に難関を切り抜けて行くつもりの計画だから、一刻も早く大森へ行ってしまえば済む。否(ひ)と云う返事を待つ必要は無論ない。ないが、決行する間際になると気掛りになる。頭で拵(こしら)え上げた計画を人情が崩(くず)しにかかる。想像力が実行させぬように引き戻す。小野さんは詩人だけにもっとも想像力に富んでいる。
 想像力に富んでおればこそ、自分で断わりに行く気になれなかった。先生の顔と小夜子の顔と、部屋の模様と、暮しの有様とを眼(ま)のあたりに見て、眼のあたりに見たものを未来に延長(ひきのば)して想像の鏡に思い浮べて眺(なが)めると二(ふ)た通(とおり)になる。自分がこの鏡のなかに織り込まれているときは、春である、豊である、ことごとく幸福である。鏡の面(おもて)から自分の影を拭き消すと闇(やみ)になる、暮になる。すべてが悲惨(みじめ)になる。この一団の精神から、自分の魂だけを切り離す談判をするのは、小(ち)さき竈(かまど)に立つべき煙を予想しながら薪(たきぎ)を奪うと一般である。忍びない。人は眼を閉(つぶ)って苦(にが)い物を呑(の)む。こんな絡(から)んだ縁をふつりと切るのに想像の眼を開(あ)いていては出来ぬ。そこで小野さんは眼の閉(つぶ)れた浅井君を頼んだ。頼んだ後(あと)は、想像を殺してしまえば済む。と覚束(おぼつか)ないが決心だけはした。しかし犬一匹でも殺すのは容易な事ではない。持って生れた心の作用を、不都合なところだけ黒く塗って、消し切りに消すのは、古来から幾千万人の試みた窮策で、幾千万人が等しく失敗した陋策(ろうさく)である。人間の心は原稿紙とは違う。小野さんがこの決心をしたその晩から想像力は復活した。――
 瘠(や)せた頬を描(えが)く。落ち込んだ眼を描く。縺(もつ)れた髪を描く。虫のような気息(いき)を描く。――そうして想像は一転する。
 血を描く。物凄(ものすご)き夜と風と雨とを描く。寒き灯火(ともしび)を描く。白張(しらはり)の提灯(ちょうちん)を描く。――ぞっとして想像はとまる。
 想像のとまった時、急に約束を思い出す。約束の履行から出る快(こころよ)からぬ結果を思い出す。結果はまたも想像の力で曲々(きょくきょく)の波瀾を起す。――良心を質に取られる。生涯受け出す事が出来ぬ。利に利がつもる。背中が重くなる、痛くなる、そうして腰が曲る。寝覚(ねざめ)がわるい。社会が後指(うしろゆび)を指(さ)す。
 惘然(もうぜん)として煙草の煙を眺めている。恩賜の時計は一秒ごとに約束の履行を促(うな)がす。橇(そり)の上に力なき身を託したようなものである。手を拱(こま)ぬいていれば自然と約束の淵(ふち)へ滑(すべ)り込む。「時」の橇(そり)ほど正確に滑るものはない。
「やっぱり行く事にするか。後暗(うしろぐら)い行(おこない)さえなければ行っても差支(さしつかえ)ないはずだ。それさえ慎めば取り返しはつく。小夜子の方は浅井の返事しだいで、どうにかしよう」
 煙草の煙が、未来の影を朦朧(もうろう)と罩(こ)め尽すまで濃く揺曳(たなびい)た時、宗近君の頑丈(がんじょう)な姿が、すべての想像を払って、現実界にあらわれた。
 いつの間(ま)にどう下女が案内をしたか知らなかった。宗近君はぬっと這入(はい)った。
「だいぶ狼籍(ろうぜき)だね」と云いながら紅溜(べにだめ)の膳を廊下へ出す。黒塗の飯櫃(めしびつ)を出す。土瓶(どびん)まで運び出して置いて、
「どうだい」と部屋の真中に腰を卸(おろ)した。
「どうも失敬です」と主人は恐縮の体(てい)で向き直る。折よく下女が来て湯沸(ゆわかし)と共に膳椀を引いて行く。
 心を二六時に委(ゆだ)ねて、隻手(せきしゅ)を動かす事をあえてせざるものは、自(おのず)から約束を践(ふ)まねばならぬ運命を有(も)つ。安からぬ胸を秒ごとに重ねて、じりじりと怖(こわ)い所へ行く。突然と横合から飛び出した宗近君は、滑るべく余儀なくせられたる人を、半途(はんと)に遮(さえぎ)った。遮ぎられた人は邪魔に逢(あ)うと同時に、一刻の安きを故(もと)の位地に貪(むさぼ)る事が出来る。
 約束は履行すべきものときまっている。しかし履行すべき条件を奪ったものは自分ではない。自分から進んで違約したのと、邪魔が降って来て、守る事が出来なかったのとは心持が違う。約束が剣呑(けんのん)になって来た時、自分に責任がないように、人が履行を妨(さまた)げてくれるのは嬉しい。なぜ行かないと良心に責められたなら、行くつもりの義務心はあったが、宗近君に邪魔をされたから仕方がないと答える。
 小野さんはむしろ好意をもって宗近君を迎えた。しかしこの一点の好意は、不幸にして面白からぬ感情のために四方から深く鎖(とざ)されている。
 宗近君と藤尾とは遠い縁続である。自分が藤尾を陥(おとし)いれるにしても、藤尾が自分を陥いれるにしても、二人の間に取り返しのつかぬ関係が出来そうな際どい約束を、素知らぬ顔で結んだのみか、今実行にとりかかろうと云う矢先に、突然飛び込まれたのは、迷惑はさて置いて、大いに気が咎(とが)める。無関係のものならそれでも好い。突然飛び込んだものは、人もあろうに、相手の親類である。
 ただの親類ならまだしもである。兼(かね)てから藤尾に心のある宗近君である。外国で死んだ人が、これこそ娘の婿ととうから許していた宗近君である。昨日(きのう)まで二人の関係を知らずに、昔の望をそのままに繋(つな)いでいた宗近君である。偸(ぬす)まれた金の行先も知らずに、空金庫(からきんこ)を護(まも)っていた宗近君である。
 秘密の雲は、春を射る金鎖の稲妻で、半(なかば)劈(つんざか)れた。眠っていた眼を醒(さま)しかけた金鎖のあとへ、浅井君が行って井上の事でも喋舌(しゃべ)ったら――困る。気の毒とはただ先方へ対して云う言葉である。気が咎(とが)めるとは、その上にこちらから済まぬ事をした場合に用いる。困るとなると、もう一層上手(うわて)に出て、利害が直接に吾身(わがみ)の上に跳(は)ね返って来る時に使う。小野さんは宗近君の顔を見て大いに困った。
 宗近君の来訪に対して歓迎の意を表する一点好意の核は、気の毒の輪で尻こそばゆく取り巻かれている。その上には気が咎める輪が気味わるそうに重なっている。一番外には困る輪が黒墨を流したように際限なく未来に連(つら)なっている。そうして宗近君はこの未来を司(つかさ)どる主人公のように見えた。
「昨日(きのう)は失敬した」と宗近君が云う。小野さんは赤くなって下を向いた。あとから金時計が出るだろうと、心元なく煙草へ火を移す。宗近君はそんな気色(けしき)も見えぬ。
「小野さん、さっき浅井が来てね。その事でわざわざやって来た」とすぱりと云う。
 小野さんの神経は一度にびりりと動いた。すこし、してから煙草の煙が陰気にむうっと鼻から出る。
「小野さん、敵(かたき)が来たと思っちゃいけない」
「いえけっして……」と云った時に小野さんはまたぎくりとした。
「僕は当(あて)っ擦(こす)りなどを云って、人の弱点に乗ずるような人間じゃない。この通り頭ができた。そんな暇は薬にしたくってもない。あっても僕のうちの家風に背(そむ)く……」
 宗近君の意味は通じた。ただ頭のできた由来が分らなかった。しかし問い返すほどの勇気がないから黙っている。
「そんな卑(いや)しい人間と思われちゃ、急がしいところをわざわざ来た甲斐(かい)がない。君だって教育のある事理(わけ)の分った男だ。僕をそう云う男と見て取ったが最後、僕の云う事は君に対して全然無効になる訳だ」
 小野さんはまだ黙っている。
「僕はいくら閑人(ひまじん)だって、君に軽蔑(けいべつ)されようと思って車を飛ばして来やしない。――とにかく浅井の云う通なんだろうね」
「浅井がどう云いましたか」
「小野さん、真面目(まじめ)だよ。いいかね。人間は年(ねん)に一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮(うわかわ)ばかりで生きていちゃ、相手にする張合(はりあい)がない。また相手にされてもつまるまい。僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。好いかね、分ったかい」
「ええ、分りました」と小野さんはおとなしく答えた。
「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていないようだが」
「そうかも――知れないです」と小野さんは術(じゅつ)なげながら、正直に白状した。
「そう君が平たく云うと、はなはだ御気の毒だが、全く事実だろう」
「ええ」
「他人(ひと)が不安であろうと、泰然としていなかろうと、上皮(うわかわ)ばかりで生きている軽薄な社会では構った事じゃない。他人(ひと)どころか自分自身が不安でいながら得意がっている連中もたくさんある。僕もその一人(いちにん)かも知れない。知れないどころじゃない、たしかにその一人だろう」
 小野さんはこの時始めて積極的に相手を遮(さえ)ぎった。
「あなたは羨(うらやま)しいです。実はあなたのようになれたら結構だと思って、始終考えてるくらいです。そんなところへ行くと僕はつまらない人間に違ないです」
 愛嬌(あいきょう)に調子を合せるとは思えない。上皮の文明は破れた。中から本音(ほんね)が出る。悄然(しょうぜん)として誠を帯びた声である。
「小野さん、そこに気がついているのかね」
 宗近君の言葉には何だか暖味(あたたかみ)があった。
「いるです」と答えた。しばらくしてまた、
「いるです」と答えた。下を向く。宗近君は顔を前へ出した。相手は下を向いたまま、
「僕の性質は弱いです」と云った。
「どうして」
「生れつきだから仕方がないです」
 これも下を向いたまま云う。
 宗近君はなおと顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上に肱(ひじ)を乗せる。肱で前へ出した顔を支える。そうして云う。
「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」
「救いに……」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先にいた。顔を押しつけるようにして云う。――
「こう云う危(あや)うい時に、生れつきを敲(たた)き直して置かないと、生涯(しょうがい)不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目(まじめ)になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮(かわ)だけで生きている人間は、土(つち)だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった後(あと)は心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」
 小野さんは首を垂れた。
「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目(まじめ)の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺(ほら)じゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。なるほど神経も鈍いだろう。――しかしそう無神経なら今日でも、こうやって車で馳(か)けつけやしない。そうじゃないか、小野さん」
 宗近君はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。
「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据(すわ)る事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存(げんそん)していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者(こうしゃ)に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾(いかん)なく世の中へ敲(たた)きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も昨日(きのう)真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人一人(ひとり)真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」
「いえ、分ったです」
「真面目だよ」
「真面目に分ったです」
「そんなら好い」
「ありがたいです」
「そこでと、――あの浅井と云う男は、まるで人間として通用しない男だから、あれの云う事を一々真(ま)に受けちゃ大変だが――本来を云うと浅井が来てこれこれだと、あれが僕に話した通(とおり)を君の前で箇条がきにしてでも述べるところだね。そうして、君の云うところと照し合せた上で事実を判断するのが順当かも知れない。いくら頭の悪い僕でもそのくらいな事は知ってる。しかし真面目になると、ならないとは大問題だ。契約があったの、滑(すべ)ったの転(ころ)んだの。嫁があっちゃあ博士になれないの、博士にならなくっちゃ外聞が悪いのって、まるで小供見たような事は、どっちがどっちだって構わないだろう、なあ君」
「ええ構わないです」
「要するに真面目な処置は、どうつければ好いのかね。そこが君のやるところだ。邪魔でなければ相談になろう。奔走しても好い」
 悄然(しょうぜん)として項垂(うなだ)れていた小野さんは、この時居ずまいを正(ただ)した。顔を上げて宗近君を真向(まむき)に見る。眸(ひとみ)は例になく確乎(しっか)と坐っていた。
「真面目な処置は、出来るだけ早く、小夜子と結婚するのです。小夜子を捨てては済まんです。孤堂先生にも済まんです。僕が悪かったです。断わったのは全く僕が悪かったです。君に対しても済まんです」
「僕に済まん? まあそりゃ好い、後(あと)で分る事だから」
「全く済まんです。――断わらなければ好かったです。断わらなければ――浅井はもう断わってしまったんでしょうね」
「そりゃ君が頼んだ通り断わったそうだ。しかし井上さんは君自身に来て断われと云うそうだ」
「じゃ、行きます。これから、すぐ行って謝罪(あやま)って来ます」
「だがね、今僕の阿父(おやじ)を井上さんの所へやっておいたから」
「阿父(おとっ)さんを?」
「うん、浅井の話によると、何でも大変怒ってるそうだ。それから御嬢さんはひどく泣いてると云うからね。僕が君のうちへ来て相談をしているうちに、何か事でも起ると困るから慰問(なぐさめ)かたがたつなぎにやっておいた」
「どうもいろいろ御親切に」と小野さんは畳に近く頭を下げた。
「なに老人はどうせ遊んでいるんだから、御役にさえ立てば喜んで何でもしてくれる。それで、こうしておいたんだがね、――もし談判が調(ととの)えば、車で御嬢さんを呼びにやるからこっちへ寄こしてくれって。――来たら、僕のいる前で、御嬢さんに未来の細君だと君の口から明言してやれ」
「やります。こっちから行っても好いです」
「いや、ここへ呼ぶのはまだほかにも用があるからだ。それが済んだら三人で甲野へ行くんだよ。そうして藤尾さんの前で、もう一遍君が明言するんだ」
 小野さんは少しく□(ひる)んで見えた。宗近君はすぐつける。
「何、僕が君の妻君を藤尾さんに紹介してもいい」
「そう云う必要があるでしょうか」
「君は真面目になるんだろう。――僕の前で奇麗(きれい)に藤尾さんとの関係を絶って見せるがいい。その証拠に小夜子さんを連れて行くのさ」
「連れて行っても好いですが、あんまり面当(つらあて)になるから――なるべくなら穏便(おんびん)にした方が……」
「面当は僕も嫌(きらい)だが、藤尾さんを助けるためだから仕方がない。あんな性格は尋常の手段じゃ直せっこない」
「しかし……」
「君が面目ないと云うのかね。こう云う羽目(はめ)になって、面目ないの、きまりが悪いのと云ってぐずぐずしているようじゃやっぱり上皮(うわかわ)の活動だ。君は今真面目になると云ったばかりじゃないか。真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君と云う一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。……」
「じゃやりましょう。どんな大勢の中でも構わない、やりましょう」
「宜(よ)ろしい」
「ところで、みんな打ち明けてしまいますが。――実は今日大森へ行く約束があるんです」
「大森へ。誰と」
「その――今の人とです」
「藤尾さんとかね。何時(なんじ)に」
「三時に停車場(ステーション)で出合うはずになっているんですが」
「三時と――今何時か知らん」
 ぱちりと宗近君の胴衣(チョッキ)の中ほどで音がした。
「もう二時だ。君はどうせ行くまい」
「廃(よ)すです」
「藤尾さん一人で大森へ行く事は大丈夫ないね。うちやっておいたら帰ってくるだろう。三時過になれば」
「一分でも後(おく)れたら、待ち合す気遣(きづかい)ありません。すぐ帰るでしょう」
「ちょうど好い。――何だか、降って来たな。雨が降っても行く約束かい」
「ええ」
「この雨は――なかなか歇(や)みそうもない。――とにかく手紙で小夜子さんを呼ぼう。阿父(おやじ)が待ち兼(かね)て心配しているに違ない」
 春に似合わぬ強い雨が斜めに降る。空の底は計られぬほど深い。深いなかから、とめどもなく千筋(ちすじ)を引いて落ちてくる。火鉢が欲しいくらいの寒(さむさ)である。
 手紙は点滴(てんてき)の響の裡(うち)に認(したた)められた。使が幌(ほろ)の色を、打つ雨に揺(うご)かして、一散に去った時、叙述は移る。最前宗近家の門を出た第二の車はすでに孤堂先生の僑居(きょうきょ)に在(あ)って、応分の使命をつくしつつある。
 孤堂先生は熱が出て寝た。秘蔵の義董(ぎとう)の幅(ふく)に背(そむ)いて横(よこた)えた額際(ひたいぎわ)を、小夜子が氷嚢(ひょうのう)で冷している。蹲踞(うずくま)る枕元に、泣き腫(はら)した眼を赤くして、氷嚢の括目(くくりめ)に寄る皺(しわ)を勘定しているかと思われる。容易に顔を上げない。宗近の阿父(おとっ)さんは、鉄線模様(てっせんもよう)の臥被(かいまき)を二尺ばかり離れて、どっしりと尻を据(す)えている。厚い膝頭(ひざがしら)が坐布団(ざぶとん)から喰(は)み出して軽く畳を抑えたところは、血が退(ひ)いて肉が落ちた孤堂先生の顔に比べると威風堂々たるものである。
 宗近老人の声は相変らず大きい。孤堂先生の声は常よりは高い。対話はこの両人の間に進行しつつある。
「実はそう云うしだいで突然参上致したので、御不快のところをはなはだ恐縮であるが、取り急ぐ事と、どうか悪しからず」
「いや、はなはだ失礼の体(てい)たらくで、私こそ恐縮で。起きて御挨拶(ごあいさつ)を申し上げなければならんのだが……」
「どう致して、そのままの方が御話がしやすくて結句(けっく)私の都合になります。ハハハハ」
「まことに御親切にわざわざ御尋ね下すってありがたい」
「なに、昔なら武士は相見互(あいみたがい)と云うところで。ハハハハ私などもいつ何時(なんどき)御世話にならんとも限らん。しかし久しぶりで東京へ御移(おうつり)ではさぞ御不自由で御困りだろう」
「二十年目になります」
「二十年目、そりゃあそりゃあ。二(ふ)た昔(むかし)ですな。御親類は」
「無いと同然で。久しい間、音信不通(いんしんふつう)にしておったものですからな」
「なるほど。それじゃ、全く小野氏(うじ)だけが御力ですな。そりゃ、どうも、怪(け)しからん事になったもので」
「馬鹿を見ました」
「いやしかし、どうにか、なりましょう。そう御心配なさらずとも」
「心配は致しません。ただ馬鹿を見ただけで、先刻(さっき)よく娘にも因果(いんが)を含めて申し聞かしておきました」
「しかしせっかくこれまで御丹精になったものを、そう思い切りよく御断念(おあきらめ)になるのも惜(おし)いから、どうかここはひとまず私共に御任せ下さい。忰(せがれ)も出来るだけ骨を折って見たいと申しておりましたから」
「御好意は実に辱(かたじけ)ない。しかし先方で断わる以上は、娘も参りたくもなかろうし、参ると申しても私がやれんような始末で……」
 小夜子は氷嚢(ひょうのう)をそっと上げて、額の露を丁寧に手拭(てぬぐい)でふいた。
「冷やすのは少し休(や)めて見よう。――なあ小夜子行かんでも好いな」
 小夜子は氷嚢を盆へ載(の)せた。両手を畳の上へ突いて、盆の上へ蔽(お)いかぶせるように首を出す。氷嚢へぽたりぽたりと涙が垂れる。孤堂先生は枕に着けた胡麻塩頭(ごましおあたま)を
「好いな」と云いながら半分ほど後(うしろ)へ捩(ね)じ向けた。ぽたりと氷嚢へ垂れるところが見えた。
「ごもっともで。ごもっともで……」と宗近老人はとりあえず二遍つづけざまに述べる。孤堂先生の首は故(もと)の位地に復した。潤(うる)んだ眼をひからしてじっと老人を見守っている。やがて
「しかしそれがために小野が藤尾さんとか云う婦人と結婚でもしたら、御子息には御気の毒ですな」と云った。
「いや――そりゃ――御心配には及ばんです。忰は貰わん事にしました。多分――いや貰わんです。貰うと云っても私が不承知です。忰を嫌(きら)うような婦人は、忰が貰いたいと申しても私が許しません」
「小夜や、宗近さんの阿父(おとっ)さんも、ああおっしゃる。同(おんな)じ事だろう」
「私は――参らんでも――宜(よろ)しゅうございます」と小夜子が枕の後(うしろ)で切れ切れに云った。雨の音の強いなかでようやく聞き取れる。
「いや、そうなっちゃ困る。私がわざわざ飛んで来た甲斐(かい)がない。小野氏(うじ)にもだんだん事情のある事だろうから、まあ忰(せがれ)の通知しだいで、どうか、先刻御話を申したように御聞済(おききずみ)を願いたい。――自分で忰の事をかれこれ申すのは異(い)なものだが、忰は事理(わけ)の分った奴で、けっして後で御迷惑になるような取計(とりはからい)は致しますまい。御破談になった方が御為だと思えばその方を御勧めして来るでしょう。――始めて御目に懸(かか)ったのだがどうか私を御信用下さい。――もう何とか云って来る時分だが、あいにくの雨で……」
 雨を衝(つ)く一輛(りょう)の車は輪を鳴らして、格子(こうし)の前で留った。がらりと明(あ)く途端に、ぐちゃりと濡(ぬ)れた草鞋(わらじ)を沓脱(くつぬぎ)へ踏み込んだものがある。――叙述は第三の車の使命に移る。
 第三の車が糸子を載(の)せたまま、甲野の門に□々(りんりん)の響を送りつつ馳(か)けて来る間に、甲野さんは書斎を片づけ始めた。机の抽出(ひきだし)を一つずつ抜いて、いつとなく溜った往復の書類を裂いては捨て、裂いては捨る。床(ゆか)の上は千切れた半切(はんきれ)で膝の所だけが堆(うずたか)くなった。甲野さんは乱るる反故屑(ほごくず)を踏みつけて立った。今度は抽出(ひきだし)から一枚、二枚と細字(さいじ)に認(したた)めた控を取り出す。中には五六頁(ページ)纏(まと)めて綴じ込んだのもある。大抵は西洋紙である。また西洋字である。甲野さんは一と目見て、すぐ机の上へ重ねる。中には半行も読まずに置き易(か)えるのもある。しばらくすると、重(かさ)なるものは小一尺の高(たかさ)まで来た。抽出は大抵(たいてい)空(から)になる。甲野さんは上下(うえした)へ手を掛けて、総体を煖炉の傍(そば)まで持って来たが、やがて、無言のまま抛(な)げ込(こ)んだ。重なるものは主人公の手を離るると共に一面に崩(くず)れた。
 葡萄(ぶどう)の葉を青銅に鋳(い)た灰皿が洋卓(テエブル)の上にある。灰皿の上に燐寸(マッチ)がある。甲野さんは手を延ばして燐寸の箱を取った。取りながら横に振ると、あたじけない五六本の音がする。今度は机へ帰る。レオパルジの隣にあった黄表紙(きびょうし)の日記を持って煖炉の前まで戻って来た。親指を抑えにして小口を雨のように飛ばして見ると、黒い印気(インキ)と鼠(ねずみ)の鉛筆が、ちら、ちら、ちらと黄色い表紙まで来て留った。何を書いたものやらいっこう要領を得ない。昨夕(ゆうべ)寝る前に書き込んだ、
入レ道(みちにいる)無言客(むごんのかく)。出レ家(いえをいず)有髪僧(うはつのそう)。
の一聯が、最後の頁の最後の句である事だけを記憶している。甲野さんは思い切って日記を散らばった紙の上へ乗せた。屈(しゃが)んだ。煖炉敷(ハースラッグ)の前でしゅっと云う音がする。乱れた紙は、静なるうちに、惓怠(けったる)い伸(のび)をしながら、下から暖められて来る。きな臭い煙が、紙と紙の隙間(すきま)を這(は)い上(のぼ)って出た。すると紙は下層(したがわ)の方から動き出した。
「うん、まだ書く事があった」
と甲野さんは膝を立てながら、日記を煙のなかから救い出す。紙は茶に変る。ぼうと音がすると煖炉のうちは一面の火になった。
「おや、どうしたの」
 戸口に立った母は不審そうに煖炉の中を見詰めている。甲野さんは声に応じて体(たい)を斜めに開く。袂(たもと)の先に火を受けて母と向き合った。
「寒いから部屋を煖(あたた)めます」と云ったなり、上から煖炉の中を見下(みおろ)した。火は薄い水飴(みずあめ)の色に燃える。藍(あい)と紫(むらさき)が折々は思い出したように交って煙突の裏(うち)へ上(のぼ)って行く。
「まあ御あたんなさい」
 折から風に誘われた雨が四五筋、窓硝子(まどガラス)に当って砕けた。
「降り出しましたね」
 母は返事をせずに三足(みあし)ほど部屋の中に進んで来た。すかすように欽吾を見て、
「寒ければ、石炭を焼(た)かせようか」と云った。
 めらめらと燃えた火は、揺(ゆら)ぐ紫の舌の立ち騰(のぼ)る後(あと)から、ぱっと一度に消えた。煖炉の中は真黒である。
「もうたくさんです。もう消えました」
 云い終った欽吾は、煖炉に背中を向けた。時に亡父(おやじ)の眼玉が壁の上からぴかりと落ちて来た。雨の音がざあっとする。
「おやおや、手紙が大変散らばって――みんな要(い)らないのかい」
 欽吾は床(ゆか)の上を眺(なが)めた。裂き棄(す)てた書面は見事に乱れている。あるいは二三行、あるいは五六行、はなはだしいのは一行の半分で引き千切ったのがある。
「みんな要りません」
「それじゃ、ちっと片づけよう。紙屑籠(かみくずかご)はどこにあるの」
 欽吾は答えなかった。母は机の下を覗(のぞ)き込む。西洋流の籃製(かごせい)の屑籠(くずかご)が、足掛(あしかけ)の向(むこう)に仄(ほのか)に見える。母は屈(こご)んで手を伸(のば)した。紺緞子(こんどんす)の帯が、窓からさす明(あかり)をまともに受けた。
 欽吾は腕を右へ真直(まっすぐ)に、日蔽(ひおい)のかかった椅子(いす)の背頸(せくび)を握った。瘠(や)せた肩を斜(ななめ)にして、ずるずると机の傍(そば)まで引いて来た。
 母は机の奥から屑籠を引(ひ)き擦(ず)り出した。手紙の断片(きれ)を一つ一つ床から拾って籠の中へ入れる。捩(ね)じ曲げたのを丹念に引き延ばして見る。「いずれ拝眉(はいび)の上……」と云うのを投げ込む。「……御免蒙(ごめんこうむ)り度候(たくそろ)。もっとも事情の許す場合には御……」と云うのを投げ込む。「……はとうてい辛抱致しかね……」と云うのを裏返して見る。
 欽吾は尻眼に母をじろりと眺(なが)めた。机の角に引き寄せた椅子の背に、うんと腕の力を入れた。ひらりと紺足袋(こんたび)が白い日蔽(ひおい)の上に揃(そろ)った。揃った紺足袋はすぐ机の上に飛び上る。
「おや、何をするの」と母は手紙の断片を持ったまま、下から仰向(あおむ)いた。眼と眼の間に怖(おそれ)の色が明かに読まれた。
「額を卸(おろ)します」と上から落ちついて云う。
「額を?」
 怖(おそれ)は愕(おどろき)と変じた。欽吾は鍍金(ときん)の枠(わく)に右の手を懸(か)けた。
「ちょいと御待ち」
「何ですか」と右の手はやはり枠に懸っている。
「額を外(はず)して何にする気だい」
「持って行くんです」
「どこへ」
「家(うち)を出るから、額だけ持って行くんです」
「出るなんて、まあ。――出るにしても、もっと緩(ゆっくり)外(はず)したら宜(よ)さそうなもんじゃないか」
「悪いですか」
「悪くはないよ。御前が欲しければ持って行くが、いいけれども。何もそんなに急がなくっても好いんだろう」
「だって今外さなくっちゃ、時間がありません」
 母は変な顔をして呆然(ぼうぜん)として立った。欽吾は両手を額に掛ける。
「出るって、御前本当に出る気なのかい」
「出る気です」
 欽吾は後(うし)ろ向(むき)に答えた。
「いつ」
「これから、出るんです」
 欽吾は両手で一度上へ揺り上げた額を、折釘(おれくぎ)から外して、下へさげた。細い糸一本で額は壁とつながっている。手を放すと、糸が切れて落ちそうだ。両手で恭(うやうや)しく捧げたままである。母は下から云う。
「こんな雨の降るのに」
「雨が降っても構わないです」
「せめて藤尾に暇乞(いとまごい)でもして行ってやっておくれな」
「藤尾はいないでしょう」
「だから待っておくれと云うのだあね。藪(やぶ)から棒(ぼう)に出るなんて、御母(おっか)さんを困らせるようなもんじゃないか」
「困らせるつもりじゃありません」
「御前がその気でなくっても、世間と云うものがあります。
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