虞美人草
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著者名:夏目漱石 

「この間甲野の御叔母(おば)さんが来て、下で内談をしていたろう。あの時その話があったんだとさ。叔母さんが云うには、今はまだいけないが、一(はじめ)さんが外交官の試験に及第して、身分がきまったら、どうでも御相談を致しましょうって阿爺(おとっさん)に話したそうだ」
「それで」
「だから好いじゃないか、兄さんがちゃんと外交官の試験に及第したんだから」
「おや、いつ」
「いつって、ちゃんと及第しちまったんだよ」
「あら、本当なの、驚ろいた」
「兄が及第して驚ろく奴があるもんか。失礼千万な」
「だって、そんなら早くそうおっしゃれば好いのに。これでもだいぶ心配して上げたんだわ」
「全く御前の御蔭(おかげ)だよ。大いに感泣(かんきゅう)しているさ。感泣はしているようなものの忘れちまったんだから仕方がない」
 兄妹は隔(へだて)なき眼と眼を見合せた。そうして同時に笑った。
 笑い切った時、兄が云う。
「そこで兄さんもこの通り頭を刈って、近々(きんきん)洋行するはずになったんだが、阿父(おとっ)さんの云うには、立つ前に嫁を貰(もら)って人格を作ってけって責めるから、兄さんが、どうせ貰うなら藤尾さんを貰いましょう。外交官の妻君にはああ云うハイカラでないと将来困るからと云ったのさ」
「それほど御気に入ったら藤尾さんになさい。――女を見るのはやっぱり女の方が上手ね」
「そりゃ才媛糸公の意見に間違はなかろうから、充分兄さんも参考にはするつもりだが、とにかく判然談判をきめて来なくっちゃいけない。向うだって厭(いや)なら厭と云うだろう。外交官の試験に及第したからって、急に気が変って参りましょうなんて軽薄な事は云うまい」
 糸子は微(かす)かな笑を、二三段に切って鼻から洩(もら)した。
「云うかね」
「どうですか。聞いて御覧なさらなくっちゃ――しかし聞くなら欽吾さんに御聞きなさいよ。恥を掻(か)くといけないから」
「ハハハハ厭なら断(ことわ)るのが天下の定法(じょうほう)だ。断わられたって恥じゃない……」
「だって」
「……ないが甲野に聞くよ。聞く事は甲野に聞くが――そこに問題がある」
「どんな」
「先決問題がある。――先決問題だよ、糸公」
「だから、どんなって、聞いてるじゃありませんか」
「ほかでもないが、甲野が坊主になるって騒ぎなんだよ」
「馬鹿をおっしゃい。縁喜(えんぎ)でもない」
「なに、今の世に坊主になるくらいな決心があるなら、縁喜はともかく、大(おおい)に慶すべき現象だ」
「苛(ひど)い事を……だって坊さんになるのは、酔興(すいきょう)になるんじゃないでしょう」
「何とも云えない。近頃のように煩悶(はんもん)が流行した日にゃ」
「じゃ、兄さんからなって御覧なさいよ」
「酔興にかい」
「酔興でも何でもいいから」
「だって五分刈(ごぶがり)でさえ懲役人と間違えられるところを青坊主になって、外国の公使館に詰めていりゃ気違としきゃ思われないもの。ほかの事なら一人の妹の事だから何でも聞くつもりだが、坊主だけは勘弁して貰いたい。坊主と油揚(あぶらげ)は小供の時から嫌(きらい)なんだから」
「じゃ欽吾さんもならないだって好いじゃありませんか」
「そうさ、何だか論理(ロジック)が少し変だが、しかしまあ、ならずに済むだろうよ」
「兄さんのおっしゃる事はどこまでが真面目(まじめ)でどこまでが冗談(じょうだん)だか分らないのね。それで外交官が勤まるでしょうか」
「こう云うんでないと外交官には向かないとさ」
「人を……それで欽吾さんがどうなすったんですよ。本当のところ」
「本当のところ、甲野がね。家(うち)と財産を藤尾にやって、自分は出てしまうと云うんだとさ」
「なぜでしょう」
「つまり、病身で御叔母(おば)さんの世話が出来ないからだそうだ」
「そう、御気の毒ね。ああ云う方は御金も家もいらないでしょう。そうなさる方が好いかも知れないわ」
「そう御前まで賛成しちゃ、先決問題が解決しにくくなる」
「だって御金が山のようにあったって、欽吾さんには何にもならないでしょう。それよりか藤尾さんに上げる方が好(よ)ござんすよ」
「御前は女に似合わず気前が好いね。もっとも人のものだけれども」
「私だって御金なんかいりませんわ。邪魔になるばかりですもの」
「邪魔にするほどないからたしかだ。ハハハハ。しかしその心掛は感心だ。尼になれるよ」
「おお厭(いや)だ。尼だの坊さんだのって大嫌い」
「そこだけは兄さんも賛成だ。しかし自分の財産を棄てて吾家(わがいえ)を出るなんて馬鹿気(ばかげ)ている。財産はまあいいとして、――欽吾に出られればあとが困るから藤尾に養子をする。すると一(はじめ)さんへは上げられませんと、こう御叔母(おば)さんが云うんだよ。もっともだ。つまり甲野のわがままで兄さんの方が破談になると云う始末さ」
「じゃ兄さんが藤尾さんを貰うために、欽吾さんを留めようと云うんですね」
「まあ一面から云えばそうなるさ」
「それじゃ欽吾さんより兄さんの方がわがままじゃありませんか」
「今度は非常に論理的(ロジカル)に来たね。だってつまらんじゃないか、当然相続している財産を捨てて」
「だって厭(いや)なら仕方がないわ」
「厭だなんて云うのは神経衰弱のせいだあね」
「神経衰弱じゃありませんよ」
「病的に違ないじゃないか」
「病気じゃありません」
「糸公、今日は例に似ず大いに断々乎(だんだんこ)としているね」
「だって欽吾さんは、ああ云う方なんですもの。それを皆(みんな)が病気にするのは、皆の方が間違っているんです」
「しかし健全じゃないよ。そんな動議を呈出するのは」
「自分のものを自分が棄(す)てるんでしょう」
「そりゃごもっともだがね……」
「要(い)らないから棄てるんでしょう」
「要らないって……」
「本当に要らないんですよ、甲野さんのは。負惜(まけおし)みや面当(つらあて)じゃありません」
「糸公、御前は甲野の知己(ちき)だよ。兄さん以上の知己だ。それほど信仰しているとは思わなかった」
「知己でも知己でなくっても、本当のところを云うんです。正しい事を云うんです。叔母さんや藤尾さんがそうでないと云うんなら、叔母さんや藤尾さんの方が間違ってるんです。私は嘘を吐(つ)くのは大嫌(だいきらい)です」
「感心だ。学問がなくっても誠から出た自信があるから感心だ。兄さん大賛成だ。それでね、糸公、改めて相談するが甲野が家(うち)を出ても出なくっても、財産をやってもやらなくっても、御前甲野のところへ嫁に行く気はあるかい」
「それは話がまるで違いますわ。今云ったのはただ正直なところを云っただけですもの。欽吾さんに御気の毒だから云ったんです」
「よろしい。なかなか訳が分っている。妹ながら見上げたもんだ。だから別問題として聞くんだよ。どうだね厭(いや)かい」
「厭だって……」とと言い懸(か)けて糸子は急に俯向(うつむ)いた。しばらくは半襟(はんえり)の模様を見詰めているように見えた。やがて瞬(しばたた)く睫(まつげ)を絡(から)んで一雫(ひとしずく)の涙がぽたりと膝(ひざ)の上に落ちた。
「糸公、どうしたんだ。今日は天候劇変(げきへん)で兄さんに面喰(めんくら)わしてばかりいるね」
 答のない口元が結んだまましゃくんで、見るうちにまた二雫(ふたしずく)落ちた。宗近君は親譲の背広(せびろ)の隠袋(かくし)から、くちゃくちゃの手巾(ハンケチ)をするりと出した。
「さあ、御拭き」と云いながら糸子の胸の先へ押し付ける。妹は作りつけの人形のようにじっとして動かない。宗近君は右の手に手巾を差し出したまま、少し及び腰になって、下から妹の顔を覗(のぞ)き込む。
「糸公厭(いや)なのかい」
 糸子は無言のまま首を掉(ふ)った。
「じゃ、行く気だね」
 今度は首が動かない。
 宗近君は手巾を妹の膝の上に落したまま、身体(からだ)だけを故(もと)へ戻す。
「泣いちゃいけないよ」と云って糸子の顔を見守っている。しばらくは双方共言葉が途切れた。
 糸子はようやく手巾を取上げる。粗(あら)い銘仙(めいせん)の膝が少し染(しみ)になった。その上へ、手巾の皺(しわ)を叮嚀(ていねい)に延(の)して四つ折に敷いた。角(かど)をしっかり抑えている。それから眼を上げた。眼は海のようである。
「私は御嫁には行きません」と云う。
「御嫁には行かない」とほとんど無意味に繰り返した宗近君は、たちまち勢をつけて
「冗談云っちゃいけない。今厭じゃないと云ったばかりじゃないか」
「でも、欽吾さんは御嫁を御貰いなさりゃしませんもの」
「そりゃ聞いて見なけりゃ――だから兄さんが聞きに行くんだよ」
「聞くのは廃(よ)してちょうだい」
「なぜ」
「なぜでも廃してちょうだい」
「じゃしようがない」
「しようがなくっても好いから廃してちょうだい。私は今のままでちっとも不足はありません。これで好いんです。御嫁に行くとかえっていけません」
「困ったな、いつの間(ま)に、そう硬くなったんだろう。――糸公、兄さんはね、藤尾さんを貰うために、御前を甲野にやろうなんて利己主義で云ってるんじゃないよ。今のところじゃ、ただ御前の事ばかり考えて相談しているんだよ」
「そりゃ分っていますわ」
「そこが分りさえすれば、後(あと)が話がし好い。それでと、御前は甲野を嫌ってるんじゃなかろう。――よし、それは兄さんがそう認めるから構わない。好いかね。次に、甲野に貰うか貰わないか聞くのは厭だと云うんだね。兄さんにはその理窟(りくつ)がさらに解(げ)せないんだが、それも、それでよしとするさ。――聞くのは厭だとして、もし甲野が貰うと云いさえすれば行っても好いんだろう。――なに金や家はどうでも構わないさ。一文無(いちもんなし)の甲野のところへ行こうと云やあ、かえって御前の名誉だ。それでこそ糸公だ。兄さんも阿父(おとっ)さんも故障を云やしない。……」
「御嫁に行ったら人間が悪くなるもんでしょうか」
「ハハハハ突然大問題を呈出するね。なぜ」
「なぜでも――もし悪くなると愛想(あいそ)をつかされるばかりですもの。だからいつまでもこうやって阿父様(おとうさま)と兄さんの傍(そば)にいた方が好いと思いますわ」
「阿父様と兄さんと――そりゃ阿父様も兄さんもいつまでも御前といっしょにいたい事はいたいがね。なあ糸公、そこが問題だ。御嫁に行ってますます人間が上等になって、そうして御亭主に可愛がられれば好いじゃないか。――それよりか実際問題が肝要だ。そこでね、さっきの話だが兄さんが受合ったら好いだろう」
「何を」
「甲野に聞くのは厭だと、と云って甲野の方から御前を貰いに来るのはいつの事だか分らずと……」
「いつまで待ったって、そんな事があるものですか。私には欽吾さんの胸の中がちゃんと分っています」
「だからさ、兄さんが受合うんだよ。是非甲野にうんと云わせるんだよ」
「だって……」
「何云わせて見せる。兄さんが責任をもって受合うよ。なあに大丈夫だよ。兄さんもこの頭が延びしだい外国へ行かなくっちゃならない。すると当分糸公にも逢(あ)えないから、平生(へいぜい)親切にしてくれた御礼に、やってやるよ。――狐の袖無(ちゃんちゃん)の御礼に。ねえ好いだろう」
 糸子は何とも答えなかった。下で阿父(おとっ)さんが謡(うたい)をうたい出す。
「そら始まった――じゃ行って来るよ」と宗近君は中二階(ちゅうにかい)を下りる。

        十七

 小野と浅井は橋まで来た。来た路は青麦の中から出る。行く路は青麦のなかに入る。一筋を前後に余して、深い谷の底を鉄軌(レエル)が通る。高い土手は春に籠(こも)る緑を今やと吹き返しつつ、見事なる切り岸を立て廻して、丸い屏風(びょうぶ)のごとく弧形に折れて遥(はる)かに去る。断橋(だんきょう)は鉄軌(レエル)を高きに隔つる事丈(じょう)を重ねて十に至って南より北に横ぎる。欄に倚(よ)って俯(ふ)すとき広き両岸の青(せい)を極(きわ)めつくして、始めて石垣に至る。石垣を底に見下(みおろ)して始めて茶色の路(みち)が細く横(よこた)わる。鉄軌は細い路のなかに細く光る。――二人は断橋の上まで来て留(とま)った。
「いい景色だね」
「うん、ええ景色じゃ」
 二人は欄に倚(よ)って立った。立って見る間(ま)に、限りなき麦は一分(いちぶ)ずつ延びて行く。暖たかいと云わんよりむしろ暑い日である。
 青蓆(あおむしろ)をのべつに敷いた一枚の果(はて)は、がたりと調子の変った地味な森になる。黒ずんだ常磐木(ときわぎ)の中に、けばけばしくも黄を含む緑の、粉(こ)となって空に吹き散るかと思われるのは、樟(くす)の若葉らしい。
「久しぶりで郊外へ来て好い心持だ」
「たまには、こう云う所も好(え)えな。僕はしかし田舎(いなか)から帰ったばかりだからいっこう珍しゅうない」
「君はそうだろう。君をこんな所へ連れて来たのは少し気の毒だったね」
「なに構わん。どうせ遊(あす)んどるんだから。しかし人間も遊んどる暇があるようでは駄目じゃな、君。ちっとなんぞ金儲(かねもうけ)の口はないかい」
「金儲は僕の方にゃないが、君の方にゃたくさんあるだろう」
「いや近頃は法科もつまらん。文科と同じこっちゃ、銀時計でなくちゃ通用せん」
 小野さんは橋の手擦(てすり)に背を靠(も)たせたまま、内隠袋(うちがくし)から例の通り銀製の煙草入を出してぱちりと開(あ)けた。箔(はく)を置いた埃及煙草(エジプトたばこ)の吸口が奇麗に並んでいる。
「一本どうだね」
「や、ありがとう。大変立派なものを持っとるの」
「貰い物だ」と小野さんは、自分も一本抜き取った後で、また見えない所へ投げ込んだ。
 二人の煙はつつがなく立ち騰(のぼ)って、事なき空に入る。
「君は始終(しじゅう)こんな上等な煙草を呑(の)んどるのか。よほど余裕があると見えるの。少し貸さんか」
「ハハハハこっちが借りたいくらいだ」
「なにそんな事があるものか。少し貸せ。僕は今度国へ行ったんで大変銭(ぜに)がいって困っとるところじゃ」
 本気に云っているらしい。小野さんの煙草の煙がふうと横に走った。
「どのくらい要(い)るのかね」
「三十円でも二十円でも好(え)え」
「そんなにあるものか」
「じゃ十円でも好え。五円でも好え」
 浅井君はいくらでも下げる。小野さんは両肘(りょうひじ)を鉄の手擦(てすり)に後(うしろ)から持たして、山羊仔(キッド)の靴を心持前へ出した。煙草を啣(くわ)えたまま、眼鏡越に爪先の飾を眺(なが)めている。遅日(ちじつ)影長くして光を惜まず。拭き込んだ皮の濃(こまや)かに照る上に、眼に入らぬほどの埃(ほこり)が一面に積んでいる。小野さんは携えた細手の洋杖(ステッキ)で靴の横腹をぽんぽんと鞭(むち)うった。埃は靴を離れて一寸(いっすん)ほど舞い上がる。鞭うたれた局部だけは斑(まだら)に黒くなった。並んで見える浅井の靴は、兵隊靴のごとく重くかつ無細工(ぶさいく)である。
「十円くらいなら都合が出来ない事もないが――いつ頃(ごろ)まで」
「今月末(すえ)にはきっと返す。それで好かろう」と浅井君は顔を寄せて来る。小野さんは口から煙草を離した。指の股(また)に挟んだまま、一振はたくと三分(さんぶ)の灰は靴の甲に落ちた。
 体(たい)をそのままに白い襟(えり)の上から首だけを横に捩(ねじ)ると、欄干(らんかん)に頬杖(ほおづえ)をついた人の顔が五寸下に見える。
「今月末でも、いつでも好い。――その代り少し御願がある。聞いてくれるかい」
「うん、話して見い」
 浅井君は容易に受合った。同時に頬杖をやめて背を立てる。二人の顔はすれすれに来た。
「実は井上先生の事だがね」
「おお、先生はどうしとるか。帰ってから、まだ尋ねる閑(ひま)がないから、行かんが。君先生に逢(お)うたら宜(よろ)しく云うてくれ。ついでに御嬢さんにも」
 浅井君はハハハハと高く笑った。ついでに欄干から胸をつき出して、涎(よだれ)のごとき唾(つば)を遥(はる)かの下に吐いた。
「その御嬢さんの事なんだが……」
「いよいよ結婚するか」
「君は気が早くっていけない。そう先へ云っちまっちゃあ……」と言葉を切って、しばらく麦畑を眺めていたが、たちまち手に持った吸殻を向(むこう)へ投げた。白いカフスが七宝(しっぽう)の夫婦釦(めおとボタン)と共にかしゃと鳴る。一寸に余る金が空(くう)を掠(かす)めて橋の袂(たもと)に落ちた。落ちた煙は逆様(さかさま)に地から這(は)い揚(あ)がる。
「もったいない事をするのう」と浅井君が云った。
「君本当に僕の云う事を聞いてくれるのかい」
「本当に聞いとる。それから」
「それからって、まだ何にも話しゃしないじゃないか。――金の工面はどうでもするが、君に折入って御願があるんだよ」
「だから話せ。京都からの知己じゃ。何でもしてやるぞ」
 調子はだいぶ熱心である。小野さんは片肘(かたひじ)を放して、ぐるりと浅井君の方へ向き直る。
「君ならやってくれるだろうと思って、実は君の帰るのを待っていたところだ」
「そりゃ、好(え)え時に帰って来た。何か談判でもするのか。結婚の条件か。近頃は無財産の細君を貰うのは不便だからのう」
「そんな事じゃない」
「しかし、そう云う条件を付けて置く方が君の将来のために好(え)えぞ。そうせい。僕が懸合(かけお)うてやる」
「そりゃ貰(もら)うとなれば、そう云う談判にしても好いが……」
「貰う事は貰うつもりじゃろう。みんな、そう思うとるぞ」
「誰が」
「誰がてて、我々が」
「そりゃ困る。僕が井上の御嬢さんを貰うなんて、――そんな堅い約束はないんだからね」
「そうか。――いや怪しいぞ」と浅井君が云った。小野さんは腹の中で下等な男だと思う。こんな男だから破談を平気に持ち込む事が出来るんだと思う。
「そう頭から冷やかしちゃ話が出来ない」と故(もと)のようなおとなしい調子で云う。
「ハハハハ。そう真面目(まじめ)にならんでも好い。そうおとなしくちゃ損だぞ。もう少し面(つら)の皮を厚くせんと」
「まあ少し待ってくれたまえ。修業中なんだから」
「ちと稽古(けいこ)のためにどっかへ連れて行ってやろうか」
「何分宜(よろ)しく……」
「などと云って、裏では盛(さかん)に修業しとるかも知れんの」
「まさか」
「いやそうでないぞ。近頃だいぶ修飾(しゃれ)るところをもって見ると。ことにさっきの巻煙草入の出所(でどころ)などははなはだ疑わしい。そう云えばこの煙草も何となく妙な臭(におい)がするわい」
 浅井君はここに至って指の股に焦(こ)げついて来そうな煙草を、鼻の先へ持って来てふんふんと二三度嗅(か)いだ。小野さんはいよいよノンセンスなわる洒落(じゃれ)だと思った。
「まあ歩きながら話そう」
 悪洒落の続きを切るために、小野さんは一歩橋の真中(まんなか)へ踏み出した。浅井君の肘(ひじ)は欄干を離れる。右左地を抜く麦に、日は空から寄って来る。暖かき緑は穂を掠(かす)めて畦(あぜ)を騰(のぼ)る。野を蔽(おお)う一面の陽炎(かげろう)は逆上(のぼせ)るほどに二人を込めた。
「暑いのう」と浅井君は後(あと)から跟(つ)いて来る。
「暑い」と待ち合わした小野さんは、肩の並んだ時、歩き出す。歩き出しながら真面目(まじめ)な問題に入る。
「さっきの話だが――実は二三日前井上先生の所へ行ったところが、先生から突然例の縁談一条を持ち出されて、ね。……」
「待ってましたじゃ」と受けた浅井君はまた何か云いそうだから、小野さんは談話の速力を増して、急に進行してしまう。――
「先生が随分はげしく来たので、僕もそう世話になった先生の感情を害する訳にも行かないから、熟考するために二三日の余裕を与えて貰って帰ったんだがね」
「そりゃ慎重の……」
「まあしまいまで聞いてくれたまえ。批評はあとで緩(ゆっ)くり聞くから。――それで僕も、君の知っている通(とおり)、先生の世話には大変なったんだから、先生の云う事は何でも聞かなければ義理がわるい……」
「そりゃ悪い」
「悪いが、ほかの事と違って結婚問題は生涯(しょうがい)の幸福に関係する大事件だから、いくら恩のある先生の命令だって、そう、おいそれと服従する訳にはいかない」
「そりゃいかない」
 小野さんは、相手の顔をじろりと見た。相手は存外真面目である。話は進行する。――
「それも僕に判然たる約束をしたとか、あるいは御嬢さんに対して済まん関係でも拵(こし)らえたと云う大責任があれば、先生から催促されるまでもない。こっちから進んで、どうでも方(かた)をつけるつもりだが、実際僕はその点に関しては潔白なんだからね」
「うん潔白だ。君ほど高尚で潔白な人間はない。僕が保証する」
 小野さんはまたじろりと浅井君の顔を見た。浅井君はいっこう気が着かない。話はまた進行する。――
「ところが先生の方では、頭から僕にそれだけの責任があるかのごとく見傚(みな)してしまって、そうして万事をそれから演繹(えんえき)してくるんだろう」
「うん」
「まさか根本に立ち返って、あなたの御考は出立点が間違っていますと誤謬(ごびゅう)を指摘する訳にも行かず……」
「そりゃ、あまり君が人が好過ぎるからじゃ。もう少し世の中に擦(す)れんと損だぞ」
「損は僕も知ってるんだが、どうも僕の性質として、そう露骨(むき)に人に反対する事が出来ないんだね。ことに相手は世話になった先生だろう」
「そう、相手が世話になった先生じゃからな」
「それに僕の方から云うと、今ちょうど博士論文を書きかけている最中だから、そんな話を持ち込まれると余計困るんだ」
「博士論文をまだ書いとるか、えらいもんじゃな」
「えらい事もない」
「なにえらい。銀時計の頭でなくちゃ、とても出来ん」
「そりゃどうでも好(い)いが、――それでね、今云う通りの事情だから、せっかくの厚意はありがたいけれども、まあここのところはいったん断わりたいと思うんだね。しかし僕の性質じゃ、とても先生に逢(あ)うと気の毒で、そんな強い事が云えそうもないから、それで君に頼みたいと云う訳だが。どうだね、引き受けてくれるかい」
「そうか、訳ない。僕が先生に逢(お)うてよく話してやろう」
 浅井君は茶漬を掻(か)き込(こ)むように容易(たやす)く引き受けた。注文通りに行った小野さんは中休みに一二歩前へ移す。そうして云う。――
「その代り先生の世話は生涯(しょうがい)する考だ。僕もいつまでもこんなにぐずぐずしているつもりでもないから――実のところを云うと先生も故(もと)のように経済が楽じゃないようだ。だからなお気の毒なのさ。今度の相談もただ結婚と云う単純な問題じゃなくって、それを方便にして、僕の補助を受けたいような素振(そぶり)も見えたくらいだ。だから、そりゃやるよ。飽(あ)くまでも先生のために尽すつもりだ。だが結婚したから尽す、結婚せんから尽さないなんて、そんな軽薄な料簡(りょうけん)は少しもこっちにゃないんだから――世話になった以上はどうしたって世話になったのさ。それを返してしまうまではどうしたって恩は消えやしないからな」
「君は感心な男だ。先生が聞いたらさぞ喜ぶだろう」
「よく僕の意志が徹するように云ってくれたまえ。誤解が出来るとまた後(あと)が困るから」
「よし。感情を害せんようにの。よう云うてやる。その代り十円貸すんぜ」
「貸すよ」と小野さんは笑ながら答えた。
 錐(きり)は穴を穿(うが)つ道具である。縄は物を括(くく)る手段である。浅井君は破談を申し込む器械である。錐でなくては松板を潜(くぐ)り抜けようと企(くわだ)てるものはない。縄でなくては栄螺(さざえ)を取り巻く覚悟はつかぬ。浅井君にして始めてこの談判を、風呂に行く気で、引き受ける事が出来る。小野さんは才人である。よく道具を用いるの法を心得ている。
 ただ破談を申し込むのと、破談を申し込みながら、申し込んだ後を奇麗に片づけるのとは別才である。落葉を振うものは必ずしも庭を掃(は)く人とは限らない。浅井君はたとい内裏拝観(だいりはいかん)の際でも落葉を振いおとす事をあえてする無遠慮な男である。と共に、たとい内裏拝観の際でも一塵を掃(はら)う事を解せざるほどに無責任の男である。浅井君は浮ぶ術を心得ずして、水に潜(もぐ)る度胸者である。否潜るときに、浮ぶ術が必要であると考えつけぬ豪傑である。ただ引受ける。やって見ようと云う気で、何でも引き受ける。それだけである。善悪、理非、軽重(けいちょう)、結果を度外に置いて事物を考え得るならば、浅井君は他意なき善人である。
 それほどの事を知らぬ小野さんではない。知って依頼するのはただ破談を申し込めばそれで構わんと見限(みきり)をつけたからである。先方で苦状(くじょう)を云えば逃げる気である。逃げられなくても、そのうち向うから泣寝入(なきねいり)にせねばならぬような準備をととのえてある。小野さんは明日(あした)藤尾と大森へ遊びに行く約束がある。――大森から帰ったあとならば大抵な事が露見しても、藤尾と関係を絶つ訳には行かぬだろう。そこで井上へは約束通り物質的の補助をする。
 こう思い定めている小野さんは、浅井君が快よく依頼に応じた時、まず片荷(かたに)だけ卸(おろ)したなと思った。
「こう日が照ると、麦の香(におい)が鼻の先へ浮いてくるようだね」と小野さんの話頭はようやく自然に触れた。
「香(におい)がするかの。僕にはいっこうにおわんが」と浅井君は丸い鼻をふんふんと云わしたが、
「時に君はやはりあのハムレットの家(うち)へ行くのか」と聞く。
「甲野(こうの)の家かい。まだ行っている。今日もこれから行くんだ」と何気なく云う。
「この間京都へ行ったそうじゃな。もう帰ったか。ちと麦の香(におい)でも嗅(か)いで来たか知らんて。――つまらんのう、あんな人間は。何だか陰気くさい顔ばかりしているじゃないか」
「そうさね」
「ああ云う人間は早く死んでくれる方が好(え)え。だいぶ財産があるか」
「あるようだね」
「あの親類の人はどうした。学校で時々顔を見たが」
「宗近(むねちか)かい」
「そうそう。あの男の所へ二三日中(うち)に行こうと思っとる」
 小野さんは突然留った。
「何しに」
「口を頼みにさ。できるだけ運動して置かんと駄目だからな」
「だって、宗近だって外交官の試験に及第しないで困ってるところだよ。頼んだってしようがない」
「なに構わん。話に行って見る」
 小野さんは眼を地面の上へ卸(おろ)して、二三間は無言で来た。
「君、先生のところへはいつ行ってくれる」
「今夜か明日(あした)の朝行ってやる」
「そうか」
 麦畑を折れると、杉の木陰(こかげ)のだらだら坂になる。二人は前後して坂を下りた。言葉を交すほどの遑(いとま)もない。下り切って疎(まばら)な杉垣を、肩を並べて通り越すとき、小野さんは云った。――
「君もし宗近へ行ったらね。井上先生の事は話さずに置いてくれたまえ」
「話しゃせん」
「いえ、本当に」
「ハハハハ大変恥(はじ)かんどるの。構わんじゃないか」
「少し困る事があるんだから、是非……」
「好し、話しゃせん」
 小野さんははなはだ心元(こころもと)なく思った。半分ほどは今頼んだ事を取り返したく思った。
 四つ角で浅井君に別れた小野さんは、安からぬ胸を運んで甲野の邸(やしき)まで来る。藤尾(ふじお)の部屋へ這入(はい)って十五分ほど過ぎた頃、宗近君の姿は甲野さんの書斎の戸口に立った。
「おい」
 甲野さんは故(もと)の椅子に、故の通りに腰を掛けて、故のごとくに幾何(きか)模様を図案している。丸に三(み)つ鱗(うろこ)はとくに出来上った。
 おいと呼ばれた時、首を上げる。驚いたと云わんよりは、激したと云わんよりは、臆(おく)したと云わんよりは、様子ぶったと云わんよりはむしろ遥(はる)かに簡単な上げ方である。したがって哲学的である。
「君か」と云う。
 宗近君はつかつかと洋卓(テエブル)の角(かど)まで進んで来たが、いきなり太い眉に八の字を寄せて、
「こりゃ空気が悪い。毒だ。少し開(あ)けよう」と上下(うえした)の栓釘(ボールト)を抜き放って、真中の円鈕(ノッブ)を握るや否や、正面の仏蘭西窓(フランスまど)を、床(ゆか)を掃うごとく、一文字に開いた。室(へや)の中には、庭前に芽ぐむ芝生(しばふ)の緑と共に、広い春が吹き込んで来る。
「こうすると大変陽気になる。ああ好い心持だ。庭の芝がだいぶ色づいて来た」
 宗近君は再び洋卓まで戻って、始めて腰を卸(おろ)した。今さきがた謎(なぞ)の女が坐っていた椅子の上である。
「何をしているね」
「うん?」と云って鉛筆の進行を留めた甲野さんは
「どうだ。なかなか旨(うま)いだろう」と模様いっぱいになった紙片を、宗近君の方へ、洋卓の上を滑(すべ)らせる。
「何だこりゃ。恐ろしいたくさん書いたね」
「もう一時間以上書いている」
「僕が来なければ晩まで書いているんだろう。くだらない」
 甲野さんは何とも云わなかった。
「これが哲学と何か関係でもあるのかい」
「有っても好い」
「万有世界の哲学的象徴とでも云うんだろう。よく一人の頭でこんなに並べられたもんだね。紺屋(こんや)の上絵師(うわえし)と哲学者と云う論文でも書く気じゃないか」
 甲野さんは今度も何とも云わなかった。
「何だか、どうも相変らずぐずぐずしているね。いつ見ても煮え切らない」
「今日は特別煮え切らない」
「天気のせいじゃないか、ハハハハ」
「天気のせいより、生きてるせいだよ」
「そうさね、煮え切ってぴんぴんしているものは沢山(たんと)ないようだ。御互も、こうやって三十年近くも、しくしくして……」
「いつまでも浮世の鍋(なべ)の中で、煮え切れずにいるのさ」
 甲野さんはここに至って始めて笑った。
「時に甲野さん、今日は報告かたがた少々談判に来たんだがね」
「むつかしい来(き)ようだ」
「近いうち洋行をするよ」
「洋行を」
「うん欧羅巴(ヨウロッパ)へ行くのさ」
「行くのはいいが、親父(おやじ)見たように、煮え切っちゃいけない」
「なんとも云えないが、印度洋(インドよう)さえ越せば大抵大丈夫だろう」
 甲野さんはハハハハと笑った。
「実は最近の好機において外交官の試験に及第したんだから、この通り早速頭を刈ってね、やっぱり、最近の好機において出掛けなくっちゃならない。塵事多忙だ。なかなか丸や三角を並べちゃいられない」
「そりゃおめでたい」と云った甲野さんは洋卓越(テエブルごし)に相手の頭をつらつら観察した。しかし別段批評も加えなかった。質問も起さなかった。宗近君の方でも進んで説明の労を取らなかった。したがって頭はそれぎりになる。
「まずここまでが報告だ、甲野さん」と云う。
「うちの母に逢(あ)ったかい」と甲野さんが聞く。
「まだ逢わない。今日はこっちの玄関から、上ったから、日本間の方はまるで通らない」
 なるほど宗近君は靴のままである。甲野さんは椅子(いす)の背に倚(よ)りかかって、この楽天家の頭と、更紗模様(さらさもよう)の襟飾(えりかざり)と――襟飾は例に因(よ)って襟の途中まで浮き出している。――それから親譲の背広(せびろ)とをじっと眺(なが)めている。
「何を見ているんだ」
「いや」と云ったままやっぱり眺めている。
「御叔母(おば)さんに話して来(こ)ようか」
 今度はいやとも何とも云わずに眺めている。宗近君は椅子から腰を浮かしかかる。
「廃(よ)すが好い」
 洋卓の向側(むこうがわ)から一句を明暸(めいりょう)に云い切った。
 徐(おもむろ)に椅子を離れた長髪の人は右の手で額を掻(か)き上げながら、左の手に椅子の肩を抑(おさ)えたまま、亡(な)き父の肖像画の方に顔を向けた。
「母に話すくらいなら、あの肖像に話してくれ」
 親譲りの背広を着た男は、丸い眼を据(す)えて、室(へや)の中に聳(そび)える、漆(うるし)のような髪の主(あるじ)を見守った。次に丸い眼を据えて、壁の上にある故人の肖像を見守った。最後に漆の髪の主と、故人の肖像とを見較(みくら)べた。見較べてしまった時、聳えたる人は瘠(や)せた肩を動かして、宗近君の頭の上から云う。――
「父は死んでいる。しかし活(い)きた母よりもたしかだよ。たしかだよ」
 椅子に倚る人の顔は、この言葉と共に、自(おのず)からまた画像の方に向った。向ったなりしばらくは動かない。活きた眼は上から見下(みおろ)している。
 しばらくして、椅子に倚る人が云う。――
「御叔父(おじ)さんも気の毒な事をしたなあ」
 立つ人は答えた。――
「あの眼は活きている。まだ活きている」
 言い終って、部屋の中を歩き出した。
「庭へ出よう、部屋の中は陰気でいけない」
 席を立った宗近君は、横から来て甲野さんの手を取るや否や、明け放った仏蘭西窓(フランスまど)を抜けて二段の石階を芝生(しばふ)へ下(くだ)る。足が柔かい地に着いた時、
「いったいどうしたんだ」と宗近君が聞いた。
 芝生は南に走る事十間余にして、高樫(たかがし)の生垣に尽くる。幅は半ばに足らぬ。繁(しげ)き植込に遮(さえ)ぎられた奥は、五坪(いつつぼ)ほどの池を隔てて、張出(はりだし)の新座敷には藤尾の机が据えてある。
 二人は緩(ゆる)き歩調に、芝生を突き当った。帰りには二三間迂回(うねっ)て、植込の陰を書斎の方(かた)へ戻って来た。双方共無言である。足並は偶然にも揃(そろ)っている。植込が真中で開いて、二三の敷石に、池の方(かた)へ人を誘う曲り角まで来た時、突然新座敷で、雉子(きじ)の鳴くように、けたたましく笑う声がした。二人の足は申し合せたごとくぴたりと留まる。眼は一時に同じ方角へ走る。
 四尺の空地(くうち)を池の縁(ふち)まで細長く余して、真直(まっすぐ)に水に落つる池の向側(むこうがわ)に、横から伸(の)す浅葱桜(あさぎざくら)の長い枝を軒のあたりに翳(かざ)して小野さんと藤尾がこちらを向いて笑いながら椽鼻(えんばな)に立っている。
 不規則なる春の雑樹(ぞうき)を左右に、桜の枝を上に、温(ぬる)む水に根を抽(ぬきん)でて這(は)い上がる蓮(はす)の浮葉を下に、――二人の活人画は包まれて立つ。仕切る枠(わく)が自然の景物の粋(すい)をあつめて成るがために、――枠の形が趣きを損(そこ)なわぬほどに正しくて、また眼を乱さぬほどに不規則なるがために――飛石に、水に、椽(えん)に、間隔の適度なるがために――高きに失わず、低きに過ぎざる恰好(かっこう)の地位にあるために――最後に、一息の短かきに、吐く幻影(まぼろし)と、忽然(こつぜん)に現われたるために――二人の視線は水の向(むかい)の二人にあつまった。と共に、水の向の二人の視線も、水のこなたの二人に落ちた。見合す四人は、互に互を釘付(くぎづけ)にして立つ。際(きわ)どい瞬間である。はっと思う刹那(せつな)を一番早く飛び超(こ)えたものが勝になる。
 女はちらりと白足袋の片方を後(うしろ)へ引いた。代赭(たいしゃ)に染めた古代模様の鮮(あざや)かに春を寂(さ)びたる帯の間から、するすると蜿蜒(うね)るものを、引き千切(ちぎ)れとばかり鋭どく抜き出した。繊(ほそ)き蛇(だ)の膨(ふく)れたる頭(かしら)を掌(たなごころ)に握って、黄金(こがね)の色を細長く空に振れば、深紅(しんく)の光は発矢(はっし)と尾より迸(ほとば)しる。――次の瞬間には、小野さんの胸を左右に、燦爛(さんらん)たる金鎖が動かぬ稲妻(いなずま)のごとく懸(かか)っていた。
「ホホホホ一番あなたによく似合う事」
 藤尾の癇声(かんごえ)は鈍い水を敲(たた)いて、鋭どく二人の耳に跳(は)ね返って来た。
「藤……」と動き出そうとする宗近君の横腹を突かぬばかりに、甲野さんは前へ押した。宗近君の眼から活人画が消える。追いかぶさるように、後(うしろ)から乗(の)し懸(かか)って来た甲野さんの顔が、親しき友の耳のあたりまで着いたとき、
「黙って……」と小声に云いながら、煙(けむ)に巻かれた人を植込の影へ引いて行く。
 肩に手を掛けて押すように石段を上(あが)って、書斎に引き返した甲野さんは、無言のまま、扉に似たる仏蘭西窓(フランスまど)を左右からどたりと立て切った。上下(うえした)の栓釘(ボールト)を式(かた)のごとく鎖(さ)す。次に入口の戸に向う。かねて差し込んである鍵(かぎ)をかちゃりと回すと、錠(じょう)は苦もなく卸(お)りた。
「何をするんだ」
「部屋を立て切った。人が這入(はい)って来ないように」
「なぜ」
「なぜでも好い」
「全体どうしたんだ。大変顔色が悪い」
「なに大丈夫。まあ掛けたまえ」と最前の椅子を机に近く引きずって来る。宗近君は小供のごとく命令に服した。甲野さんは相手を落ちつけた後(のち)、静かに、用い慣(な)れた安楽椅子に腰を卸(おろ)す。体は机に向ったままである。
「宗近さん」と壁を向いて呼んだが、やがて首だけぐるりと回して、正面から、
「藤尾は駄目だよ」と云う。落ちついた調子のうちに、何となく温(ぬる)い暖味(あたたかみ)があった。すべての枝を緑に返す用意のために、寂(さ)びたる中を人知れず通う春の脈は、甲野さんの同情である。
「そうか」
 腕を組んだ宗近君はこれだけ答えた。あとから、
「糸公もそう云った」と沈んでつけた。
「君より、君の妹の方が眼がある。藤尾は駄目だ。飛び上りものだ」
 かちゃりと入口の円鈕(ノッブ)を捩(ねじ)ったものがある。戸は開(あ)かない。今度はとんとんと外から敲(たた)く。宗近君は振り向いた。甲野さんは眼さえ動かさない。
「うちやって置け」と冷やかに云う。
 入口の扉に口を着けたようにホホホホと高く笑ったものがある。足音は日本間の方へ馳(か)けながら遠退(とおの)いて行く。二人は顔を見合わした。
「藤尾だ」と甲野さんが云う。
「そうか」と宗近君がまた答えた。
 あとは静かになる。机の上の置時計がきちきちと鳴る。
「金時計も廃(よ)せ」
「うん。廃そう」
 甲野さんは首を壁に向けたまま、宗近君は腕を拱(こまぬ)いたまま、――時計はきちきちと鳴る。日本間の方で大勢が一度に笑った。
「宗近さん」と欽吾(きんご)はまた首を向け直した。「藤尾に嫌われたよ。黙ってる方がいい」
「うん黙っている」
「藤尾には君のような人格は解らない。浅墓(あさはか)な跳(は)ね返(かえ)りものだ。小野にやってしまえ」
「この通り頭ができた」
 宗近君は節太(ふしぶと)の手を胸から抜いて、刈(か)り立(たて)の頭の天辺(てっぺん)をとんと敲いた。
 甲野さんは眼尻に笑の波を、あるか、なきかに寄せて重々(おもおも)しく首肯(うなず)いた。あとから云う。
「頭ができれば、藤尾なんぞは要(い)らないだろう」
 宗近君は軽くうふんと云ったのみである。
「それでようやく安心した」と甲野さんは、くつろいだ片足を上げて、残る膝頭(ひざがしら)の上へ載(の)せる。宗近君は巻煙草を燻(くゆ)らし始めた。吹く煙のなかから、
「これからだ」と独語(ひとりごと)のように云う。
「これからだ。僕もこれからだ」と甲野さんも独語のように答えた。
「君もこれからか。どうこれからなんだ」と宗近君は煙草の煙(けむ)を押し開いて、元気づいた顔を近寄(ちかよせ)た。
「本来の無一物から出直すんだからこれからさ」
 指の股に敷島(しきしま)を挟んだまま、持って行く口のある事さえ忘れて、呆気(あっけ)に取られた宗近君は、
「本来の無一物から出直すとは」と自(みずか)ら自らの頭脳を疑うごとく問い返した。甲野さんは尋常の調子で、落ちつき払った答をする。――
「僕はこの家(うち)も、財産も、みんな藤尾にやってしまった」
「やってしまった? いつ」
「もう少しさっき。その紋尽しを書いている時だ」
「そりゃ……」
「ちょうどその丸に三(み)つ鱗(うろこ)を描(か)いてる時だ。――その模様が一番よく出来ている」
「やってしまうってそう容易(たやす)く……」
「何要(い)るものか。あればあるほど累(わずらい)だ」
「御叔母(おば)さんは承知したのかい」
「承知しない」
「承知しないものを……それじゃ御叔母さんが困るだろう」
「やらない方が困るんだ」
「だって御叔母さんは始終(しじゅう)君がむやみな事をしやしまいかと思って心配しているんじゃないか」
「僕の母は偽物(にせもの)だよ。君らがみんな欺(あざむ)かれているんだ。母じゃない謎(なぞ)だ。澆季(ぎょうき)の文明の特産物だ」
「そりゃ、あんまり……」
「君は本当の母でないから僕が僻(ひが)んでいると思っているんだろう。それならそれで好いさ」
「しかし……」
「君は僕を信用しないか」
「無論信用するさ」
「僕の方が母より高いよ。賢いよ。理由(わけ)が分っているよ。そうして僕の方が母より善人だよ」
 宗近君は黙っている。甲野さんは続けた。――
「母の家を出てくれるなと云うのは、出てくれと云う意味なんだ。財産を取れと云うのは寄こせと云う意味なんだ。世話をして貰いたいと云うのは、世話になるのが厭(いや)だと云う意味なんだ。――だから僕は表向母の意志に忤(さから)って、内実は母の希望通にしてやるのさ。――見たまえ、僕が家(うち)を出たあとは、母が僕がわるくって出たように云うから、世間もそう信じるから――僕はそれだけの犠牲をあえてして、母や妹のために計ってやるんだ」
 宗近君は突然椅子(いす)を立って、机の角(かど)まで来ると片肘(かたひじ)を上に突いて、甲野さんの顔を掩(お)いかぶすように覗(のぞ)き込(こ)みながら、
「貴様、気が狂ったか」と云った。
「気違は頭から承知の上だ。――今まででも蔭じゃ、馬鹿の気違のと呼びつづけに呼ばれていたんだ」
 この時宗近君の大きな丸い眼から涙がぽたぽたと机の上のレオパルジに落ちた。
「なぜ黙っていたんだ。向(むこう)を出してしまえば好いのに……」
「向を出したって、向の性格は堕落するばかりだ」
「向を出さないまでも、こっちが出るには当るまい」
「こっちが出なければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」
「なぜ財産をみんなやったのか」
「要(い)らないもの」
「ちょっと僕に相談してくれれば好かったのに」
「要らないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ」
 宗近君はふうんと云った。
「僕に要らない金のために、義理のある母や妹を堕落させたところが手柄にもならない」
「じゃいよいよ家を出る気だね」
「出る。おれば両方が堕落する」
「出てどこへ行く」
「どこだか分らない」
 宗近君は机の上にあるレオパルジを無意味に取って、背皮(せがわ)を竪(たて)に、勾配(こうばい)のついた欅(けやき)の角でとんとんと軽く敲(たた)きながら、少し沈吟(ちんぎん)の体(てい)であったが、やがて、
「僕のうちへ来ないか」と云う。
「君のうちへ行ったって仕方がない」
「厭(いや)かい」
「厭じゃないが、仕方がない」
 宗近君はじっと甲野さんを見た。
「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や阿父(おやじ)のためはとにかく、糸公のために来てやってくれ」
「糸公のために?」
「糸公は君の知己だよ。御叔母(おば)さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損(みそこ)なっても、日本中がことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値(ねうち)を解している。君の胸の中を知り抜いている。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊(たっと)い女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣(きづかい)のない女だ。――甲野さん、糸公を貰ってやってくれ。家(うち)を出ても好い。山の中へ這入(はい)っても好い。どこへ行ってどう流浪(るろう)しても構わない。何でも好いから糸公を連れて行ってやってくれ。――僕は責任をもって糸公に受合って来たんだ。君が云う事を聞いてくれないと妹に合す顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。糸公は尊(たっと)い女だ、誠のある女だ。正直だよ、君のためなら何でもするよ。殺すのはもったいない」
 宗近君は骨張った甲野さんの肩を椅子の上で振り動かした。

        十八

 小夜子(さよこ)は婆さんから菓子の袋を受取った。底を立てて出雲焼(いずもやき)の皿に移すと、真中にある青い鳳凰(ほうおう)の模様が和製のビスケットで隠れた。黄色な縁(ふち)はだいぶ残っている。揃(そろ)えて渡す二本の竹箸(たけばし)を、落さぬように茶の間から座敷へ持って出た。座敷には浅井君が先生を相手に、京都以来の旧歓を暖めている。時は朝である。日影はじりじりと椽(えん)に逼(せま)ってくる。
「御嬢さんは、東京を御存じでしたな」と問いかけた。
 菓子皿を主客の間に置いて、やさしい肩を後(うしろ)へ引くついでに、
「ええ」と小声に答えて、立ち兼ねた。
「これは東京で育ったのだよ」と先生が足らぬところを補ってくれる。
「そうでしたな。――大変大きくなりましたな」と突然別問題に飛び移った。
 小夜子は淋しい笑顔を俯向(うつむ)けて、今度は答さえも控えた。浅井君は遠慮のない顔をして小夜子を眺(なが)めている。これからこの女の結婚問題を壊すんだなと思いながら平気に眺めている。浅井君の結婚問題に関する意見は大道易者のごとく容易である。女の未来や生涯(しょうがい)の幸福についてはあまり同情を表(ひょう)しておらん。ただ頼まれたから頼まれたなりに事を運べば好いものと心得ている。そうしてそれがもっとも法学士的で、法学士的はもっとも実際的で、実際的は最上の方法だと心得ている。浅井君はもっとも想像力の少ない男で、しかも想像力の少ないのをかつて不足だと思った事のない男である。想像力は理知の活動とは全然別作用で、理知の活動はかえって想像力のために常に阻害(そがい)せらるるものと信じている。想像力を待って、始めて、全(まっ)たき人性に戻(もと)らざる好処置が、知慧(ちえ)分別の純作用以外に活(い)きてくる場合があろうなどとは法科の教室で、どの先生からも聞いた事がない。したがって浅井君はいっこう知らない。ただ断われば済むと思っている。淋しい小夜子の運命が、夫子(ふうし)の一言(いちごん)でどう変化するだろうかとは浅井君の夢にだも考え得ざる問題である。
 浅井君が無意味に小夜子を眺めているうちに、孤堂(こどう)先生は変な咳を二つ三つ塞(せ)いた。小夜子は心元なく父の方(かた)を向く。
「御薬はもう上がったんですか」
「朝の分はもう飲んだよ」
「御寒い事はござんせんか」
「寒くはないが、少し……」
 先生は右の手頸(てくび)へ左の指を三本懸(か)けた。小夜子は浅井のいる事も忘れて、脈をはかる先生の顔ばかり見詰めている。先生の顔は髯(ひげ)と共に日ごとに細長く瘠(や)せこけて来る。
「どうですか」と気遣(きづか)わし気(げ)に聞く。
「少し、早いようだ。やっぱり熱が除(と)れない」と額に少し皺(しわ)が寄った。先生が熱度を計って、じれったそうに不愉快な顔をするたびに小夜子は悲しくなる。夕立を野中に避けて、頼(たより)と思う一本杉をありがたしと梢(こずえ)を見れば稲妻(いなずま)がさす。怖(こわ)いと云うよりも、年を取った人に気の毒である。行き届かぬ世話から出る疳癪(かんしゃく)なら、機嫌(きげん)の取りようもある。気で勝てぬ病気のためなら孝行の尽しようがない。かりそめの風邪(かぜ)と、当人も思い、自分も苦(く)にしなかった昨日今日(きのうきょう)の咳(せき)を、蔭へ廻って聞いて見ると、医者は性質(たち)が善くないと云う。二三日で熱が退(ひ)かないと云って焦慮(じれ)るような軽い病症ではあるまい。知らせれば心配する。云わねば気で通す。その上疳(かん)を起す。この調子で進んで行くと、一年の後(のち)には神経が赤裸(あかはだか)になって、空気に触れても飛び上がるかも知れない。――昨夜(ゆうべ)小夜子は眼を合せなかった。
「羽織でも召していらしったら好いでしょう」
 孤堂先生は返事をせずに、
「験温器があるかい。一つ計ってみよう」と云う。小夜子は茶の間へ立つ。
「どうかなすったんですか」と浅井君が無雑作(むぞうさ)に尋ねた。
「いえ、ちっと風邪(かぜ)を引いてね」
「はあ、そうですか。――もう若葉がだいぶ出ましたな」と云った。先生の病気に対してはまるで同情も頓着(とんじゃく)もなかった。病気の源因と、経過と、容体を精(くわ)しく聞いて貰おうと思っていた先生は当(あて)が外(はず)れた。
「おい、無いかね。どうした」と次の間を向いて、常よりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。
「はい、ただ今」と小(ち)さい声が答えた。が験温器を持って出る様子がない。先生は浅井君の方を向いて
「はあ、そうかい」と気のない返事をした。
 浅井君はつまらなくなる。早く用を片づけて帰ろうと思う。
「先生小野はいっこう駄目ですな、ハイカラにばかりなって。御嬢さんと結婚する気はないですよ」とぱたぱたと順序なく並べた。
 孤堂先生の窪(くぼ)んだ眼(まなこ)は一度に鋭どくなった。やがて鋭どいものが一面に広がって顔中苦々(にがにが)しくなる。
「廃(よ)した方が好(え)えですな」
 置き失(な)くした験温器を捜(さ)がしていた、次の間の小夜子は、長火鉢の二番目の抽出(ひきだし)を二寸ほど抜いたまま、はたりと引く手を留めた。
 先生の苦々(にがにが)しい顔は一層こまやかになる。想像力のない浅井君はとんと結果を予想し得ない。
「小野は近頃非常なハイカラになりました。あんな所へ行くのは御嬢さんの損です」
 苦々しい顔はとうとう持ち切れなくなった。
「君は小野の悪口を云いに来たのかね」
「ハハハハ先生本当ですよ」
 浅井君は妙なところで高笑をいた。
「余計な御世話だ。軽薄な」と鋭どく跳(は)ねつけた。先生の声はようやく尋常を離れる。浅井君は始めて驚ろいた。しばらく黙っている。
「おい験温器はまだか。何をぐずぐずしている」
 次の間の返事は聞えなかった。ことりとも云わぬうちに、片寄せた障子(しょうじ)に影がさす。腰板の外(はずれ)から細い白木の筒(つつ)がそっと出る。畳の上で受取った先生はぽんと云わして筒を抜いた。取り出した験温器を日に翳(かざ)して二三度やけに振りながら、
「何だって、そんな余計な事を云うんだ」と度盛(どもり)を透(すか)して見る。先生の精神は半ば験温器にある。浅井君はこの間に元気を回復した。
「実は頼まれたんです」
「頼まれた? 誰に」
「小野に頼まれたんです」
「小野に頼まれた?」
 先生は腋(わき)の下へ験温器を持って行く事を忘れた。茫然(ぼうぜん)としている。
「ああ云う男だものだから、自分で先生の所へ来て断わり切れないんです。それで僕に頼んだです」
「ふうん。もっと精(くわ)しく話すがいい」
「二三日中(じゅう)に是非こちらへ御返事をしなければならないからと云いますから、僕が代理にやって来たんです」
「だから、どう云う理由で断わるんだか、それを精しく話したら好いじゃないか」
 襖(ふすま)の蔭で小夜子が洟(はな)をかんだ。つつましき音ではあるが、一重(ひとえ)隔ててすぐ向(むこう)にいる人のそれと受け取れる。鴨居(かもい)に近く聞えたのは、襖越(ふすまごし)に立っているらしい。浅井君の耳にはどんな感じを与えたか知らぬ。
「理由はですな。博士にならなければならないから、どうも結婚なんぞしておられないと云うんです」
「じゃ博士の称号の方が、小夜より大事だと云うんだね」
「そう云う訳でもないでしょうが、博士になって置かんと将来非常な不利益ですからな」
「よし分った。理由はそれぎりかい」
「それに確然たる契約のない事だからと云うんです」
「契約とは法律上有効の契約という意味だな。証文のやりとりの事だね」
「証文でもないですが――その代り長い間御世話になったから、その御礼としては物質的の補助をしたいと云うんです」
「月々金でもくれると云うのかい」
「そうです」
「おい小夜や、ちょっと御出(おいで)。小夜や――小夜や」と声はしだいに高くなる。返事はついにない。
 小夜子は襖(ふすま)の蔭に蹲踞(うずくま)ったまま、動かずにいる。先生は仕方なしに浅井君の方へ向き直った。
「君は妻君があるかい」
「ないです。貰いたいが、自分の口が大事ですからな」
「妻君がなければ参考のために聞いて置くがいい。――人の娘は玩具(おもちゃ)じゃないぜ。博士の称号と小夜と引き替にされてたまるものか。考えて見るがいい。いかな貧乏人の娘でも活物(いきもの)だよ。私(わし)から云えば大事な娘だ。人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ。それから、そう云ってくれ。井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だって。――月々金を貢(みつ)いでやる? 貢いでくれと誰が頼んだ。小野の世話をしたのは、泣きついて来て可愛想(かわいそう)だから、好意ずくでした事だ。何だ物質的の補助をするなんて、失礼千万な。――小夜や、用があるからちょっと出て御出、おいいないのか」
 小夜子は襖の蔭で啜(すす)り泣(なき)をしている。先生はしきりに咳(せ)く。浅井君は面喰(めんくら)った。
 こう怒られようとは思わなかった。またこう怒られる訳がない。自分の云う事は事理明白である。世間に立って成功するには誰の目にも博士号は大切である。瞹眛(あいまい)な約束をやめてくれと云うのもさほど不義理とは受取れない。世話をして貰いっ放しでは不都合かも知れないが、して貰っただけの事を物質的に返すと云い出せば、喜んでこっちの義務心を満足させべきはずである。それを突然怒り出す。――そこで浅井君は面喰った。
「先生そう怒っちゃ困ります。悪ければまた小野に逢(あ)って話して見ますから」と云った。これは本気の沙汰(さた)である。
 しばらく黙っていた先生は、やや落ちついた調子で、
「君は結婚を極(きわ)めて容易(たやすい)事のように考えているが、そんなものじゃない」と口惜(くちおし)そうに云う。
 先生の云う主意は分らんが、先生の様子にはさすがの浅井君も少し心を動かした。しかし結婚は便宜(べんぎ)によって約束を取り結び、便宜によって約束を破棄するだけで差支(さしつかえ)ないと信じている浅井君は、別に返事もしなかった。
「君は女の心を知らないから、そんな使に来たんだろう」
 浅井君はやっぱり黙っている。
「人情を知らないから平気でそんな事を云うんだろう。小野の方が破談になれば小夜は明日(あした)からどこへでも行けるだろうと思って、云うんだろう。五年以来夫(おっと)だと思い込んでいた人から、特別の理由もないのに、急に断わられて、平気ですぐ他家(わき)へ嫁に行くような女があるものか。あるかも知れないが小夜はそんな軽薄な女じゃない。そんな軽薄に育て上げたつもりじゃない。――君はそう軽卒に破談の取次をして、小夜の生涯(しょうがい)を誤まらして、それで好い心持なのか」
 先生の窪(くぼ)んだ眼が煮染(にじ)んで来た。しきりに咳が出る。浅井君はなるほどそれが事実ならと感心した。ようやく気の毒になってくる。
「じゃ、まあ御待ちなさい、先生。もう一遍小野に話して見ますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんな精(くわ)しい事情は知らんのですから」
「いや、話してくれないでも好い。厭(いや)だと云うものに無理に貰ってもらいたくはない。しかし本人が来て自家(じか)に訳を話すが好い」
「しかし御嬢さんが、そう云う御考だと……」
「小夜の考(かんがえ)ぐらい小野には分っているはずださ」と先生は平手(ひらて)で頬を打つように、ぴしゃりと云った。
「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」
「小野にそう云ってくれ。井上孤堂はいくら娘が可愛くっても、厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」
 襖(ふすま)の向側(むこうがわ)で、袖(そで)らしいものが唐紙(からかみ)の裾(すそ)にあたる音がした。
「そう返事をして差支(さしつかえ)ないだろうね」
 答はさらになかった。ややあって、わっと云う顔を袖の中に埋(うず)めた声がした。
「先生もう一遍小野に話しましょう」
「話さないでも好い。自家に来て断われと云ってくれ」
「とにかく……そう小野に云いましょう」
 浅井君はついに立った。玄関まで送って来た先生に頭を下げた時、先生は
「娘なんぞ持つもんじゃないな」と云った。表へ出た浅井君はほっと息をつく。今までこんな感じを経験した事はない。横町を出て蕎麦屋(そばや)の行灯(あんどう)を右に通へ出て、電車のある所まで来ると突然飛び乗った。
 突然電車に乗った浅井君は約一時間余(よ)の後(のち)、ぶらりと宗近(むねちか)家の門からあらわれた。つづいて車が二挺出る。一挺は小野の下宿へ向う。一挺は孤堂先生の家に去る。
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