虞美人草
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著者名:夏目漱石 

「西洋なんか行きたくもないんだけれども――まあ順序だから仕方がない」
「うん、まあ勝手な所へ行くがいい」
「支那や朝鮮なら、故(もと)の通(とおり)の五分刈で、このだぶだぶの洋服を着て出掛けるですがね」
「西洋はやかましい。御前のような不作法(ぶさほう)ものには好い修業になって結構だ」
「ハハハハ西洋へ行くと堕落するだろうと思ってね」
「なぜ」
「西洋へ行くと人間を二(ふ)た通(とお)り拵(こしら)えて持っていないと不都合ですからね」
「二た通とは」
「不作法(ぶさほう)な裏と、奇麗な表と。厄介(やっかい)でさあ」
「日本でもそうじゃないか。文明の圧迫が烈(はげ)しいから上部(うわべ)を奇麗にしないと社会に住めなくなる」
「その代り生存競争も烈しくなるから、内部はますます不作法になりまさあ」
「ちょうどなんだな。裏と表と反対の方角に発達する訳になるな。これからの人間は生きながら八(や)つ裂(ざき)の刑を受けるようなものだ。苦しいだろう」
「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の睾丸(きんたま)をつけたような奴(やつ)ばかり出来て、それで落つきが取れるかも知れない。いやだな、そんな修業に出掛けるのは」
「いっそ廃(やめ)にするか。うちにいて親父(おやじ)の古洋服でも着て太平楽を並べている方が好いかも知れない。ハハハハ」
「ことに英吉利(イギリス)人は気に喰わない。一から十まで英国が模範であると云わんばかりの顔をして、何でもかでも我流(がりゅう)で押し通そうとするんですからね」
「だが英国紳士と云って近頃だいぶ評判がいいじゃないか」
「日英同盟だって、何もあんなに賞(ほ)めるにも当らない訳だ。弥次馬共が英国へ行った事もない癖に、旗ばかり押し立てて、まるで日本が無くなったようじゃありませんか」
「うん。どこの国でも表が表だけに発達すると、裏も裏相応に発達するだろうからな。――なに国ばかりじゃない個人でもそうだ」
「日本がえらくなって、英国の方で日本の真似でもするようでなくっちゃ駄目だ」
「御前が日本をえらくするさ。ハハハハ」
 宗近君は日本をえらくするとも、しないとも云わなかった。ふと手を伸(のば)すと更紗(さらさ)の結襟(ネクタイ)が白襟(カラ)の真中(まんなか)まで浮き出して結目(むすびめ)は横に捩(ねじ)れている。
「どうも、この襟飾(えりかざり)は滑(すべ)っていけない」と手探(てさぐり)に位地を正しながら、
「じゃ糸にちょっと話しましょう」と立ちかける。
「まあ御待ち、少し相談がある」
「何ですか」と立ち掛けた尻を卸(おろ)す機会(しお)に、準胡坐(じゅんあぐら)の姿勢を取る。
「実は今までは、御前の位地もまだきまっていなかったから、さほどにも云わなかったが……」
「嫁ですかね」
「そうさ。どうせ外国へ行くなら、行く前にきめるとか、結婚するとか、または連れて行くとか……」
「とても連れちゃ行かれませんよ。金が足りないから」
「連れて行かんでも好い。ちゃんと片をつけて、そうして置いて行くなら。留守中は私(わし)が大事に預かってやる」
「私(わたし)もそうしようと思ってるんです」
「どうだなそこで。気に入った婦人でもあるかな」
「甲野の妹を貰うつもりなんですがね。どうでしょう」
「藤尾(ふじお)かい。うん」
「駄目ですかね」
「なに駄目じゃない」
「外交官の女房にゃ、ああ云うんでないといけないです」
「そこでだて。実は甲野の親父(おやじ)が生きているうち、私と親父の間に、少しはその話もあったんだがな。御前は知らんかも知らんが」
「叔父さんは時計をやると云いました」
「あの金時計かい。藤尾が玩弄(おもちゃ)にするんで有名な」
「ええ、あの太古の時計です」
「ハハハハあれで針が回るかな。時計はそれとして、実は肝心(かんじん)の本人の事だが――この間甲野の母(おっか)さんが来た時、ついでだから話して見たんだがね」
「はあ、何とか云いましたか」
「まことに好い御縁だが、まだ御身分がきまって御出(おいで)でないから残念だけれども……」
「身分がきまらないと云うのは外交官の試験に及第しないと云う意味ですかね」
「まあ、そうだろう」
「だろうはちっと驚ろいたな」
「いや、あの女の云う事は、非常に能弁な代りによく意味が通じないで困る。滔々(とうとう)と述べる事は述べるが、ついに要点が分らない。要するに不経済な女だ」
 多少苦々(にがにが)しい気色(けしき)に、煙管(きせる)でとんと膝頭(ひざがしら)を敲(たた)いた父(おとっ)さんは、視線さえ椽側(えんがわ)の方へ移した。最前植え易(か)えた仏見笑(ぶっけんしょう)が鮮(あざやか)な紅(くれない)を春と夏の境(さかい)に今ぞと誇っている。
「だけれども断ったんだか、断らないんだか分らないのは厄介(やっかい)ですね」
「厄介だよ。あの女にかかると今までも随分厄介な事がだいぶあった。猫撫声(ねこなでごえ)で長ったらしくって――私(わし)ゃ嫌(きらい)だ」
「ハハハハそりゃ好いが――ついに談判は発展しずにしまったんですか」
「つまり先方の云うところでは、御前が外交官の試験に及第したらやってもいいと云うんだ」
「じゃ訳ない。この通り及第したんだから」
「ところがまだあるんだ。面倒な事が。まことにどうも」と云いながら父(おとっ)さんは、手の平を二つ内側へ揃(そろ)えて眼の球をぐりぐり擦(こす)る。眼の球は赤くなる。
「及第しても駄目なんですか」
「駄目じゃあるまいが――欽吾(きんご)がうちを出ると云うそうだ」
「馬鹿な」
「もし出られてしまうと、年寄の世話の仕手がなくなる。だから藤尾に養子をしなければならない。すると宗近へでも、どこへでも嫁にやる訳には行かなくなると、まあこう云うんだな」
「下らない事を云うもんですね。第一甲野が家(うち)を出るなんて、そんな訳がないがな」
「家を出るって、まさか坊主になる料簡(りょうけん)でもなかろうが、つまり嫁を貰って、あの御袋の世話をするのが厭(いや)だと云うんだろうじゃないか」
「甲野が神経衰弱だから、そんな馬鹿気(ばかげ)た事を云うんですよ。間違ってる。よし出るたって――叔母さんが甲野を出して、養子をする気なんですか」
「そうなっては大変だと云って心配しているのさ」
「そんなら藤尾さんを嫁にやっても好さそうなものじゃありませんか」
「好い。好いが、万一の事を考えると私も心細くってたまらないと云うのさ」
「何が何だか分りゃしない。まるで八幡(やわた)の藪不知(やぶしらず)へ這入(はい)ったようなものだ」
「本当に――要領を得ないにも困り切る」
 父(おとっ)さんは額に皺(しわ)を寄せて上眼(うわめ)を使いながら、頭を撫(な)で廻す。
「元来そりゃいつの事です」
「この間だ。今日で一週間にもなるかな」
「ハハハハ私(わたし)の及第報告は二三日後(おく)れただけだが、父さんのは一週間だ。親だけあって、私より倍以上気楽ですぜ」
「ハハハだが要領を得ないからね」
「要領はたしかに得ませんね。早速要領を得るようにして来ます」
「どうして」
「まず甲野に妻帯の件を説諭して、坊主にならないようにしてしまって、それから藤尾さんをくれるかくれないか判然(はっきり)談判して来るつもりです」
「御前一人でやる気かね」
「ええ、一人でたくさんです。卒業してから何にもしないから、せめてこんな事でもしなくっちゃ退屈でいけない」
「うん、自分の事を自分で片づけるのは結構な事だ。一つやって見るが好い」
「それでね。もし甲野が妻(さい)を貰うと云ったら糸をやるつもりですが好いでしょうね」
「それは好い。構わない」
「一先(ひとまず)本人の意志を聞いて見て……」
「聞かんでも好かろう」
「だって、そりゃ聞かなくっちゃいけませんよ。ほかの事とは違うから」
「そんなら聞いて見るが好い。ここへ呼ぼうか」
「ハハハハ親と兄の前で詰問しちゃなおいけない。これから私が聞いて見ます。で当人が好いと云ったら、そのつもりで甲野に話しますからね」
「うん、よかろう」
 宗近君はずんど切(ぎり)の洋袴(ズボン)を二本ぬっと立てた。仏見笑(ぶっけんしょう)と二人静(ふたりしずか)と蜆子和尚(けんすおしょう)と活(い)きた布袋(ほてい)の置物を残して廊下つづきを中二階(ちゅうにかい)へ上る。
 とんとんと二段踏むと妹の御太鼓(おたいこ)が奇麗(きれい)に見える。三段目に水色の絹(リボン)が、横に傾いて、ふっくらした片頬(かたほ)が入口の方に向いた。
「今日は勉強だね。珍らしい。何だい」といきなり机の横へ坐り込む。糸子(いとこ)ははたりと本を伏せた。伏せた上へ肉のついた丸い手を置く。
「何でもありませんよ」
「何でもない本を読むなんて、天下の逸民だね」
「どうせ、そうよ」
「手を放したって好いじゃないか。まるで散らしでも取ったようだ」
「散らしでも何でも好くってよ。御生(ごしょう)だからあっちへ行ってちょうだい」
「大変邪魔にするね。糸公、父(おと)っさんが、そう云ってたぜ」
「何て」
「糸はちっと女大学でも読めば好いのに、近頃は恋愛小説ばかり読んでて、まことに困るって」
「あら嘘(うそ)ばっかり。私がいつそんなものを読んで」
「兄さんは知らないよ。阿父(おとっ)さんがそう云うんだから」
「嘘よ、阿父様(おとうさま)がそんな事をおっしゃるもんですか」
「そうかい。だって、人が来ると読み掛けた本を伏せて、枡落(ますおと)し見たように一生懸命におさえているところをもって見ると、阿父さんの云うところもまんざら嘘とは思えないじゃないか」
「嘘ですよ。嘘だって云うのに、あなたもよっぽど卑劣な方ね」
「卑劣は一大痛棒だね。注意人物の売国奴(ばいこくど)じゃないかハハハハ」
「だって人の云う事を信用なさらないんですもの。そんなら証拠を見せて上げましょうか。ね。待っていらっしゃいよ」
 糸子は抑えた本を袖(そで)で隠さんばかりに、机から手本(てもと)へ引き取って、兄の見えぬように帯の影に忍ばした。
「掏(す)り替(か)えちゃいけないぜ」
「まあ黙って、待っていらっしゃい」
 糸子は兄の眼を掠(かす)めて、長い袖の下に隠した本を、しきりに細工していたが、やがて
「ほら」と上へ出す。
 両手で叮嚀(ていねい)に抑えた頁(ページ)の、残る一寸角(いっすんかく)の真中に朱印が見える。
「見留(みとめ)じゃないか。なんだ――甲野」
「分ったでしょう」
「借りたのかい」
「ええ。恋愛小説じゃないでしょう」
「種を見せない以上は何とも云えないが、まあ勘弁してやろう。時に糸公御前今年幾歳(いくつ)になるね」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ないだって区役所へ行きゃ、すぐ分る事だが、ちょいと参考のために聞いて見るんだよ。隠さずに云う方が御前の利益だ」
「隠さずに云う方がだって――何だか悪い事でもしたようね。私(わたし)厭(いや)だわ、そんなに強迫されて云うのは」
「ハハハハさすが哲学者の御弟子だけあって、容易に権威に服従しないところが感心だ。じゃ改めて伺うが、取って御幾歳(おいくつ)ですか」
「そんな茶化(ちゃか)したって、誰が云うもんですか」
「困ったな。叮嚀(ていねい)に云えば云うで怒るし。――一だったかね。二かい」
「おおかたそんなところでしょう」
「判然しないのか。自分の年が判然しないようじゃ、兄さんも少々心細いな。とにかく十代じゃないね」
「余計な御世話じゃありませんか。人の年齢(とし)なんぞ聞いて。――それを聞いて何になさるの」
「なに別の用でもないが、実は糸公を御嫁にやろうと思ってさ」
 冗談半分に相手になって、調戯(からかわ)れていた妹の様子は突然と変った。熱い石を氷の上に置くと見る見る冷(さ)めて来る。糸子は一度に元気を放散した。同時に陽気な眼を陰に俯(ふ)せて、畳みの目を勘定(かんじょう)し出した。
「どうだい、御嫁は。厭(いや)でもないだろう」
「知らないわ」と低い声で云う。やっぱり下を向いたままである。
「知らなくっちゃ困るね。兄さんが行くんじゃない、御前が行くんだ」
「行くって云いもしないのに」
「じゃ行かないのか」
 糸子は頭(かぶり)を竪(たて)に振った。
「行かない? 本当に」
 答はなかった。今度は首さえ動かさない。
「行かないとなると、兄さんが切腹しなけりゃならない。大変だ」
 俯向(うつむ)いた眼の色は見えぬ。ただ豊(ゆたか)なる頬を掠(かす)めて笑の影が飛び去った。
「笑い事じゃない。本当に腹を切るよ。好いかね」
「勝手に御切んなさい」と突然顔を上げた。にこにこと笑う。
「切るのは好いが、あんまり深刻だからね。なろう事ならこのまんまで生きている方が、御互に便利じゃないか。御前だってたった一人の兄さんに腹を切らしたって、つまらないだろう」
「誰もつまると云やしないわ」
「だから兄さんを助けると思ってうんと御云い」
「だって訳も話さないで、藪(やぶ)から棒(ぼう)にそんな無理を云ったって」
「訳は聞(きき)さえすれば、いくらでも話すさ」
「好くってよ、訳なんか聞かなくっても、私御嫁なんかに行かないんだから」
「糸公御前の返事は鼠花火(ねずみはなび)のようにくるくる廻っているよ。錯乱体(さくらんたい)だ」
「何ですって」
「なに、何でもいい、法律上の術語だから――それでね、糸公、いつまで行っても埓(らち)が明かないから、一(ひ)と思(おもい)に打ち明けて話してしまうが、実はこうなんだ」
「訳は聞いても御嫁にゃ行かなくってよ」
「条件つきに聞くつもりか。なかなか狡猾(こうかつ)だね。――実は兄さんが藤尾さんを御嫁に貰おうと思うんだがね」
「まだ」
「まだって今度(こんだ)が始(はじめ)てだね」
「だけれど、藤尾さんは御廃(およ)しなさいよ。藤尾さんの方で来たがっていないんだから」
「御前この間もそんな事を云ったね」
「ええ、だって、厭(いや)がってるものを貰わなくっても好いじゃありませんか。ほかに女がいくらでも有るのに」
「そりゃ大いにごもっともだ。厭なものを強請(ねだ)るなんて卑怯な兄さんじゃない。糸公の威信にも関係する。厭なら厭と事がきまればほかに捜すよ」
「いっそそうなすった方がいいでしょう」
「だがその辺が判然しないからね」
「だから判然させるの。まあ」と内気な妹は少し驚いたように眼を机の上に転じた。
「この間甲野の御叔母(おば)さんが来て、下で内談をしていたろう。あの時その話があったんだとさ。叔母さんが云うには、今はまだいけないが、一(はじめ)さんが外交官の試験に及第して、身分がきまったら、どうでも御相談を致しましょうって阿爺(おとっさん)に話したそうだ」
「それで」
「だから好いじゃないか、兄さんがちゃんと外交官の試験に及第したんだから」
「おや、いつ」
「いつって、ちゃんと及第しちまったんだよ」
「あら、本当なの、驚ろいた」
「兄が及第して驚ろく奴があるもんか。失礼千万な」
「だって、そんなら早くそうおっしゃれば好いのに。これでもだいぶ心配して上げたんだわ」
「全く御前の御蔭(おかげ)だよ。大いに感泣(かんきゅう)しているさ。感泣はしているようなものの忘れちまったんだから仕方がない」
 兄妹は隔(へだて)なき眼と眼を見合せた。そうして同時に笑った。
 笑い切った時、兄が云う。
「そこで兄さんもこの通り頭を刈って、近々(きんきん)洋行するはずになったんだが、阿父(おとっ)さんの云うには、立つ前に嫁を貰(もら)って人格を作ってけって責めるから、兄さんが、どうせ貰うなら藤尾さんを貰いましょう。外交官の妻君にはああ云うハイカラでないと将来困るからと云ったのさ」
「それほど御気に入ったら藤尾さんになさい。――女を見るのはやっぱり女の方が上手ね」
「そりゃ才媛糸公の意見に間違はなかろうから、充分兄さんも参考にはするつもりだが、とにかく判然談判をきめて来なくっちゃいけない。向うだって厭(いや)なら厭と云うだろう。外交官の試験に及第したからって、急に気が変って参りましょうなんて軽薄な事は云うまい」
 糸子は微(かす)かな笑を、二三段に切って鼻から洩(もら)した。
「云うかね」
「どうですか。聞いて御覧なさらなくっちゃ――しかし聞くなら欽吾さんに御聞きなさいよ。恥を掻(か)くといけないから」
「ハハハハ厭なら断(ことわ)るのが天下の定法(じょうほう)だ。断わられたって恥じゃない……」
「だって」
「……ないが甲野に聞くよ。聞く事は甲野に聞くが――そこに問題がある」
「どんな」
「先決問題がある。――先決問題だよ、糸公」
「だから、どんなって、聞いてるじゃありませんか」
「ほかでもないが、甲野が坊主になるって騒ぎなんだよ」
「馬鹿をおっしゃい。縁喜(えんぎ)でもない」
「なに、今の世に坊主になるくらいな決心があるなら、縁喜はともかく、大(おおい)に慶すべき現象だ」
「苛(ひど)い事を……だって坊さんになるのは、酔興(すいきょう)になるんじゃないでしょう」
「何とも云えない。近頃のように煩悶(はんもん)が流行した日にゃ」
「じゃ、兄さんからなって御覧なさいよ」
「酔興にかい」
「酔興でも何でもいいから」
「だって五分刈(ごぶがり)でさえ懲役人と間違えられるところを青坊主になって、外国の公使館に詰めていりゃ気違としきゃ思われないもの。ほかの事なら一人の妹の事だから何でも聞くつもりだが、坊主だけは勘弁して貰いたい。坊主と油揚(あぶらげ)は小供の時から嫌(きらい)なんだから」
「じゃ欽吾さんもならないだって好いじゃありませんか」
「そうさ、何だか論理(ロジック)が少し変だが、しかしまあ、ならずに済むだろうよ」
「兄さんのおっしゃる事はどこまでが真面目(まじめ)でどこまでが冗談(じょうだん)だか分らないのね。それで外交官が勤まるでしょうか」
「こう云うんでないと外交官には向かないとさ」
「人を……それで欽吾さんがどうなすったんですよ。本当のところ」
「本当のところ、甲野がね。家(うち)と財産を藤尾にやって、自分は出てしまうと云うんだとさ」
「なぜでしょう」
「つまり、病身で御叔母(おば)さんの世話が出来ないからだそうだ」
「そう、御気の毒ね。ああ云う方は御金も家もいらないでしょう。そうなさる方が好いかも知れないわ」
「そう御前まで賛成しちゃ、先決問題が解決しにくくなる」
「だって御金が山のようにあったって、欽吾さんには何にもならないでしょう。それよりか藤尾さんに上げる方が好(よ)ござんすよ」
「御前は女に似合わず気前が好いね。もっとも人のものだけれども」
「私だって御金なんかいりませんわ。邪魔になるばかりですもの」
「邪魔にするほどないからたしかだ。ハハハハ。しかしその心掛は感心だ。尼になれるよ」
「おお厭(いや)だ。尼だの坊さんだのって大嫌い」
「そこだけは兄さんも賛成だ。しかし自分の財産を棄てて吾家(わがいえ)を出るなんて馬鹿気(ばかげ)ている。財産はまあいいとして、――欽吾に出られればあとが困るから藤尾に養子をする。すると一(はじめ)さんへは上げられませんと、こう御叔母(おば)さんが云うんだよ。もっともだ。つまり甲野のわがままで兄さんの方が破談になると云う始末さ」
「じゃ兄さんが藤尾さんを貰うために、欽吾さんを留めようと云うんですね」
「まあ一面から云えばそうなるさ」
「それじゃ欽吾さんより兄さんの方がわがままじゃありませんか」
「今度は非常に論理的(ロジカル)に来たね。だってつまらんじゃないか、当然相続している財産を捨てて」
「だって厭(いや)なら仕方がないわ」
「厭だなんて云うのは神経衰弱のせいだあね」
「神経衰弱じゃありませんよ」
「病的に違ないじゃないか」
「病気じゃありません」
「糸公、今日は例に似ず大いに断々乎(だんだんこ)としているね」
「だって欽吾さんは、ああ云う方なんですもの。それを皆(みんな)が病気にするのは、皆の方が間違っているんです」
「しかし健全じゃないよ。そんな動議を呈出するのは」
「自分のものを自分が棄(す)てるんでしょう」
「そりゃごもっともだがね……」
「要(い)らないから棄てるんでしょう」
「要らないって……」
「本当に要らないんですよ、甲野さんのは。負惜(まけおし)みや面当(つらあて)じゃありません」
「糸公、御前は甲野の知己(ちき)だよ。兄さん以上の知己だ。それほど信仰しているとは思わなかった」
「知己でも知己でなくっても、本当のところを云うんです。正しい事を云うんです。叔母さんや藤尾さんがそうでないと云うんなら、叔母さんや藤尾さんの方が間違ってるんです。私は嘘を吐(つ)くのは大嫌(だいきらい)です」
「感心だ。学問がなくっても誠から出た自信があるから感心だ。兄さん大賛成だ。それでね、糸公、改めて相談するが甲野が家(うち)を出ても出なくっても、財産をやってもやらなくっても、御前甲野のところへ嫁に行く気はあるかい」
「それは話がまるで違いますわ。今云ったのはただ正直なところを云っただけですもの。欽吾さんに御気の毒だから云ったんです」
「よろしい。なかなか訳が分っている。妹ながら見上げたもんだ。だから別問題として聞くんだよ。どうだね厭(いや)かい」
「厭だって……」とと言い懸(か)けて糸子は急に俯向(うつむ)いた。しばらくは半襟(はんえり)の模様を見詰めているように見えた。やがて瞬(しばたた)く睫(まつげ)を絡(から)んで一雫(ひとしずく)の涙がぽたりと膝(ひざ)の上に落ちた。
「糸公、どうしたんだ。今日は天候劇変(げきへん)で兄さんに面喰(めんくら)わしてばかりいるね」
 答のない口元が結んだまましゃくんで、見るうちにまた二雫(ふたしずく)落ちた。宗近君は親譲の背広(せびろ)の隠袋(かくし)から、くちゃくちゃの手巾(ハンケチ)をするりと出した。
「さあ、御拭き」と云いながら糸子の胸の先へ押し付ける。妹は作りつけの人形のようにじっとして動かない。宗近君は右の手に手巾を差し出したまま、少し及び腰になって、下から妹の顔を覗(のぞ)き込む。
「糸公厭(いや)なのかい」
 糸子は無言のまま首を掉(ふ)った。
「じゃ、行く気だね」
 今度は首が動かない。
 宗近君は手巾を妹の膝の上に落したまま、身体(からだ)だけを故(もと)へ戻す。
「泣いちゃいけないよ」と云って糸子の顔を見守っている。しばらくは双方共言葉が途切れた。
 糸子はようやく手巾を取上げる。粗(あら)い銘仙(めいせん)の膝が少し染(しみ)になった。その上へ、手巾の皺(しわ)を叮嚀(ていねい)に延(の)して四つ折に敷いた。角(かど)をしっかり抑えている。それから眼を上げた。眼は海のようである。
「私は御嫁には行きません」と云う。
「御嫁には行かない」とほとんど無意味に繰り返した宗近君は、たちまち勢をつけて
「冗談云っちゃいけない。今厭じゃないと云ったばかりじゃないか」
「でも、欽吾さんは御嫁を御貰いなさりゃしませんもの」
「そりゃ聞いて見なけりゃ――だから兄さんが聞きに行くんだよ」
「聞くのは廃(よ)してちょうだい」
「なぜ」
「なぜでも廃してちょうだい」
「じゃしようがない」
「しようがなくっても好いから廃してちょうだい。私は今のままでちっとも不足はありません。これで好いんです。御嫁に行くとかえっていけません」
「困ったな、いつの間(ま)に、そう硬くなったんだろう。――糸公、兄さんはね、藤尾さんを貰うために、御前を甲野にやろうなんて利己主義で云ってるんじゃないよ。今のところじゃ、ただ御前の事ばかり考えて相談しているんだよ」
「そりゃ分っていますわ」
「そこが分りさえすれば、後(あと)が話がし好い。それでと、御前は甲野を嫌ってるんじゃなかろう。――よし、それは兄さんがそう認めるから構わない。好いかね。次に、甲野に貰うか貰わないか聞くのは厭だと云うんだね。兄さんにはその理窟(りくつ)がさらに解(げ)せないんだが、それも、それでよしとするさ。――聞くのは厭だとして、もし甲野が貰うと云いさえすれば行っても好いんだろう。――なに金や家はどうでも構わないさ。一文無(いちもんなし)の甲野のところへ行こうと云やあ、かえって御前の名誉だ。それでこそ糸公だ。兄さんも阿父(おとっ)さんも故障を云やしない。……」
「御嫁に行ったら人間が悪くなるもんでしょうか」
「ハハハハ突然大問題を呈出するね。なぜ」
「なぜでも――もし悪くなると愛想(あいそ)をつかされるばかりですもの。だからいつまでもこうやって阿父様(おとうさま)と兄さんの傍(そば)にいた方が好いと思いますわ」
「阿父様と兄さんと――そりゃ阿父様も兄さんもいつまでも御前といっしょにいたい事はいたいがね。なあ糸公、そこが問題だ。御嫁に行ってますます人間が上等になって、そうして御亭主に可愛がられれば好いじゃないか。――それよりか実際問題が肝要だ。そこでね、さっきの話だが兄さんが受合ったら好いだろう」
「何を」
「甲野に聞くのは厭だと、と云って甲野の方から御前を貰いに来るのはいつの事だか分らずと……」
「いつまで待ったって、そんな事があるものですか。私には欽吾さんの胸の中がちゃんと分っています」
「だからさ、兄さんが受合うんだよ。是非甲野にうんと云わせるんだよ」
「だって……」
「何云わせて見せる。兄さんが責任をもって受合うよ。なあに大丈夫だよ。兄さんもこの頭が延びしだい外国へ行かなくっちゃならない。すると当分糸公にも逢(あ)えないから、平生(へいぜい)親切にしてくれた御礼に、やってやるよ。――狐の袖無(ちゃんちゃん)の御礼に。ねえ好いだろう」
 糸子は何とも答えなかった。下で阿父(おとっ)さんが謡(うたい)をうたい出す。
「そら始まった――じゃ行って来るよ」と宗近君は中二階(ちゅうにかい)を下りる。

        十七

 小野と浅井は橋まで来た。来た路は青麦の中から出る。行く路は青麦のなかに入る。一筋を前後に余して、深い谷の底を鉄軌(レエル)が通る。高い土手は春に籠(こも)る緑を今やと吹き返しつつ、見事なる切り岸を立て廻して、丸い屏風(びょうぶ)のごとく弧形に折れて遥(はる)かに去る。断橋(だんきょう)は鉄軌(レエル)を高きに隔つる事丈(じょう)を重ねて十に至って南より北に横ぎる。欄に倚(よ)って俯(ふ)すとき広き両岸の青(せい)を極(きわ)めつくして、始めて石垣に至る。石垣を底に見下(みおろ)して始めて茶色の路(みち)が細く横(よこた)わる。鉄軌は細い路のなかに細く光る。――二人は断橋の上まで来て留(とま)った。
「いい景色だね」
「うん、ええ景色じゃ」
 二人は欄に倚(よ)って立った。立って見る間(ま)に、限りなき麦は一分(いちぶ)ずつ延びて行く。暖たかいと云わんよりむしろ暑い日である。
 青蓆(あおむしろ)をのべつに敷いた一枚の果(はて)は、がたりと調子の変った地味な森になる。黒ずんだ常磐木(ときわぎ)の中に、けばけばしくも黄を含む緑の、粉(こ)となって空に吹き散るかと思われるのは、樟(くす)の若葉らしい。
「久しぶりで郊外へ来て好い心持だ」
「たまには、こう云う所も好(え)えな。僕はしかし田舎(いなか)から帰ったばかりだからいっこう珍しゅうない」
「君はそうだろう。君をこんな所へ連れて来たのは少し気の毒だったね」
「なに構わん。どうせ遊(あす)んどるんだから。しかし人間も遊んどる暇があるようでは駄目じゃな、君。ちっとなんぞ金儲(かねもうけ)の口はないかい」
「金儲は僕の方にゃないが、君の方にゃたくさんあるだろう」
「いや近頃は法科もつまらん。文科と同じこっちゃ、銀時計でなくちゃ通用せん」
 小野さんは橋の手擦(てすり)に背を靠(も)たせたまま、内隠袋(うちがくし)から例の通り銀製の煙草入を出してぱちりと開(あ)けた。箔(はく)を置いた埃及煙草(エジプトたばこ)の吸口が奇麗に並んでいる。
「一本どうだね」
「や、ありがとう。大変立派なものを持っとるの」
「貰い物だ」と小野さんは、自分も一本抜き取った後で、また見えない所へ投げ込んだ。
 二人の煙はつつがなく立ち騰(のぼ)って、事なき空に入る。
「君は始終(しじゅう)こんな上等な煙草を呑(の)んどるのか。よほど余裕があると見えるの。少し貸さんか」
「ハハハハこっちが借りたいくらいだ」
「なにそんな事があるものか。少し貸せ。僕は今度国へ行ったんで大変銭(ぜに)がいって困っとるところじゃ」
 本気に云っているらしい。小野さんの煙草の煙がふうと横に走った。
「どのくらい要(い)るのかね」
「三十円でも二十円でも好(え)え」
「そんなにあるものか」
「じゃ十円でも好え。五円でも好え」
 浅井君はいくらでも下げる。小野さんは両肘(りょうひじ)を鉄の手擦(てすり)に後(うしろ)から持たして、山羊仔(キッド)の靴を心持前へ出した。煙草を啣(くわ)えたまま、眼鏡越に爪先の飾を眺(なが)めている。遅日(ちじつ)影長くして光を惜まず。拭き込んだ皮の濃(こまや)かに照る上に、眼に入らぬほどの埃(ほこり)が一面に積んでいる。小野さんは携えた細手の洋杖(ステッキ)で靴の横腹をぽんぽんと鞭(むち)うった。埃は靴を離れて一寸(いっすん)ほど舞い上がる。鞭うたれた局部だけは斑(まだら)に黒くなった。並んで見える浅井の靴は、兵隊靴のごとく重くかつ無細工(ぶさいく)である。
「十円くらいなら都合が出来ない事もないが――いつ頃(ごろ)まで」
「今月末(すえ)にはきっと返す。それで好かろう」と浅井君は顔を寄せて来る。小野さんは口から煙草を離した。指の股(また)に挟んだまま、一振はたくと三分(さんぶ)の灰は靴の甲に落ちた。
 体(たい)をそのままに白い襟(えり)の上から首だけを横に捩(ねじ)ると、欄干(らんかん)に頬杖(ほおづえ)をついた人の顔が五寸下に見える。
「今月末でも、いつでも好い。――その代り少し御願がある。聞いてくれるかい」
「うん、話して見い」
 浅井君は容易に受合った。同時に頬杖をやめて背を立てる。二人の顔はすれすれに来た。
「実は井上先生の事だがね」
「おお、先生はどうしとるか。帰ってから、まだ尋ねる閑(ひま)がないから、行かんが。君先生に逢(お)うたら宜(よろ)しく云うてくれ。ついでに御嬢さんにも」
 浅井君はハハハハと高く笑った。ついでに欄干から胸をつき出して、涎(よだれ)のごとき唾(つば)を遥(はる)かの下に吐いた。
「その御嬢さんの事なんだが……」
「いよいよ結婚するか」
「君は気が早くっていけない。そう先へ云っちまっちゃあ……」と言葉を切って、しばらく麦畑を眺めていたが、たちまち手に持った吸殻を向(むこう)へ投げた。白いカフスが七宝(しっぽう)の夫婦釦(めおとボタン)と共にかしゃと鳴る。一寸に余る金が空(くう)を掠(かす)めて橋の袂(たもと)に落ちた。落ちた煙は逆様(さかさま)に地から這(は)い揚(あ)がる。
「もったいない事をするのう」と浅井君が云った。
「君本当に僕の云う事を聞いてくれるのかい」
「本当に聞いとる。それから」
「それからって、まだ何にも話しゃしないじゃないか。――金の工面はどうでもするが、君に折入って御願があるんだよ」
「だから話せ。京都からの知己じゃ。何でもしてやるぞ」
 調子はだいぶ熱心である。小野さんは片肘(かたひじ)を放して、ぐるりと浅井君の方へ向き直る。
「君ならやってくれるだろうと思って、実は君の帰るのを待っていたところだ」
「そりゃ、好(え)え時に帰って来た。何か談判でもするのか。結婚の条件か。近頃は無財産の細君を貰うのは不便だからのう」
「そんな事じゃない」
「しかし、そう云う条件を付けて置く方が君の将来のために好(え)えぞ。そうせい。僕が懸合(かけお)うてやる」
「そりゃ貰(もら)うとなれば、そう云う談判にしても好いが……」
「貰う事は貰うつもりじゃろう。みんな、そう思うとるぞ」
「誰が」
「誰がてて、我々が」
「そりゃ困る。僕が井上の御嬢さんを貰うなんて、――そんな堅い約束はないんだからね」
「そうか。――いや怪しいぞ」と浅井君が云った。小野さんは腹の中で下等な男だと思う。こんな男だから破談を平気に持ち込む事が出来るんだと思う。
「そう頭から冷やかしちゃ話が出来ない」と故(もと)のようなおとなしい調子で云う。
「ハハハハ。そう真面目(まじめ)にならんでも好い。そうおとなしくちゃ損だぞ。もう少し面(つら)の皮を厚くせんと」
「まあ少し待ってくれたまえ。修業中なんだから」
「ちと稽古(けいこ)のためにどっかへ連れて行ってやろうか」
「何分宜(よろ)しく……」
「などと云って、裏では盛(さかん)に修業しとるかも知れんの」
「まさか」
「いやそうでないぞ。近頃だいぶ修飾(しゃれ)るところをもって見ると。ことにさっきの巻煙草入の出所(でどころ)などははなはだ疑わしい。そう云えばこの煙草も何となく妙な臭(におい)がするわい」
 浅井君はここに至って指の股に焦(こ)げついて来そうな煙草を、鼻の先へ持って来てふんふんと二三度嗅(か)いだ。小野さんはいよいよノンセンスなわる洒落(じゃれ)だと思った。
「まあ歩きながら話そう」
 悪洒落の続きを切るために、小野さんは一歩橋の真中(まんなか)へ踏み出した。浅井君の肘(ひじ)は欄干を離れる。右左地を抜く麦に、日は空から寄って来る。暖かき緑は穂を掠(かす)めて畦(あぜ)を騰(のぼ)る。野を蔽(おお)う一面の陽炎(かげろう)は逆上(のぼせ)るほどに二人を込めた。
「暑いのう」と浅井君は後(あと)から跟(つ)いて来る。
「暑い」と待ち合わした小野さんは、肩の並んだ時、歩き出す。歩き出しながら真面目(まじめ)な問題に入る。
「さっきの話だが――実は二三日前井上先生の所へ行ったところが、先生から突然例の縁談一条を持ち出されて、ね。……」
「待ってましたじゃ」と受けた浅井君はまた何か云いそうだから、小野さんは談話の速力を増して、急に進行してしまう。――
「先生が随分はげしく来たので、僕もそう世話になった先生の感情を害する訳にも行かないから、熟考するために二三日の余裕を与えて貰って帰ったんだがね」
「そりゃ慎重の……」
「まあしまいまで聞いてくれたまえ。批評はあとで緩(ゆっ)くり聞くから。――それで僕も、君の知っている通(とおり)、先生の世話には大変なったんだから、先生の云う事は何でも聞かなければ義理がわるい……」
「そりゃ悪い」
「悪いが、ほかの事と違って結婚問題は生涯(しょうがい)の幸福に関係する大事件だから、いくら恩のある先生の命令だって、そう、おいそれと服従する訳にはいかない」
「そりゃいかない」
 小野さんは、相手の顔をじろりと見た。相手は存外真面目である。話は進行する。――
「それも僕に判然たる約束をしたとか、あるいは御嬢さんに対して済まん関係でも拵(こし)らえたと云う大責任があれば、先生から催促されるまでもない。こっちから進んで、どうでも方(かた)をつけるつもりだが、実際僕はその点に関しては潔白なんだからね」
「うん潔白だ。君ほど高尚で潔白な人間はない。僕が保証する」
 小野さんはまたじろりと浅井君の顔を見た。浅井君はいっこう気が着かない。話はまた進行する。――
「ところが先生の方では、頭から僕にそれだけの責任があるかのごとく見傚(みな)してしまって、そうして万事をそれから演繹(えんえき)してくるんだろう」
「うん」
「まさか根本に立ち返って、あなたの御考は出立点が間違っていますと誤謬(ごびゅう)を指摘する訳にも行かず……」
「そりゃ、あまり君が人が好過ぎるからじゃ。もう少し世の中に擦(す)れんと損だぞ」
「損は僕も知ってるんだが、どうも僕の性質として、そう露骨(むき)に人に反対する事が出来ないんだね。ことに相手は世話になった先生だろう」
「そう、相手が世話になった先生じゃからな」
「それに僕の方から云うと、今ちょうど博士論文を書きかけている最中だから、そんな話を持ち込まれると余計困るんだ」
「博士論文をまだ書いとるか、えらいもんじゃな」
「えらい事もない」
「なにえらい。銀時計の頭でなくちゃ、とても出来ん」
「そりゃどうでも好(い)いが、――それでね、今云う通りの事情だから、せっかくの厚意はありがたいけれども、まあここのところはいったん断わりたいと思うんだね。しかし僕の性質じゃ、とても先生に逢(あ)うと気の毒で、そんな強い事が云えそうもないから、それで君に頼みたいと云う訳だが。どうだね、引き受けてくれるかい」
「そうか、訳ない。僕が先生に逢(お)うてよく話してやろう」
 浅井君は茶漬を掻(か)き込(こ)むように容易(たやす)く引き受けた。注文通りに行った小野さんは中休みに一二歩前へ移す。そうして云う。――
「その代り先生の世話は生涯(しょうがい)する考だ。僕もいつまでもこんなにぐずぐずしているつもりでもないから――実のところを云うと先生も故(もと)のように経済が楽じゃないようだ。だからなお気の毒なのさ。今度の相談もただ結婚と云う単純な問題じゃなくって、それを方便にして、僕の補助を受けたいような素振(そぶり)も見えたくらいだ。だから、そりゃやるよ。飽(あ)くまでも先生のために尽すつもりだ。だが結婚したから尽す、結婚せんから尽さないなんて、そんな軽薄な料簡(りょうけん)は少しもこっちにゃないんだから――世話になった以上はどうしたって世話になったのさ。それを返してしまうまではどうしたって恩は消えやしないからな」
「君は感心な男だ。先生が聞いたらさぞ喜ぶだろう」
「よく僕の意志が徹するように云ってくれたまえ。誤解が出来るとまた後(あと)が困るから」
「よし。感情を害せんようにの。よう云うてやる。その代り十円貸すんぜ」
「貸すよ」と小野さんは笑ながら答えた。
 錐(きり)は穴を穿(うが)つ道具である。縄は物を括(くく)る手段である。浅井君は破談を申し込む器械である。錐でなくては松板を潜(くぐ)り抜けようと企(くわだ)てるものはない。縄でなくては栄螺(さざえ)を取り巻く覚悟はつかぬ。浅井君にして始めてこの談判を、風呂に行く気で、引き受ける事が出来る。小野さんは才人である。よく道具を用いるの法を心得ている。
 ただ破談を申し込むのと、破談を申し込みながら、申し込んだ後を奇麗に片づけるのとは別才である。落葉を振うものは必ずしも庭を掃(は)く人とは限らない。浅井君はたとい内裏拝観(だいりはいかん)の際でも落葉を振いおとす事をあえてする無遠慮な男である。と共に、たとい内裏拝観の際でも一塵を掃(はら)う事を解せざるほどに無責任の男である。浅井君は浮ぶ術を心得ずして、水に潜(もぐ)る度胸者である。否潜るときに、浮ぶ術が必要であると考えつけぬ豪傑である。ただ引受ける。やって見ようと云う気で、何でも引き受ける。それだけである。善悪、理非、軽重(けいちょう)、結果を度外に置いて事物を考え得るならば、浅井君は他意なき善人である。
 それほどの事を知らぬ小野さんではない。知って依頼するのはただ破談を申し込めばそれで構わんと見限(みきり)をつけたからである。先方で苦状(くじょう)を云えば逃げる気である。逃げられなくても、そのうち向うから泣寝入(なきねいり)にせねばならぬような準備をととのえてある。小野さんは明日(あした)藤尾と大森へ遊びに行く約束がある。――大森から帰ったあとならば大抵な事が露見しても、藤尾と関係を絶つ訳には行かぬだろう。そこで井上へは約束通り物質的の補助をする。
 こう思い定めている小野さんは、浅井君が快よく依頼に応じた時、まず片荷(かたに)だけ卸(おろ)したなと思った。
「こう日が照ると、麦の香(におい)が鼻の先へ浮いてくるようだね」と小野さんの話頭はようやく自然に触れた。
「香(におい)がするかの。僕にはいっこうにおわんが」と浅井君は丸い鼻をふんふんと云わしたが、
「時に君はやはりあのハムレットの家(うち)へ行くのか」と聞く。
「甲野(こうの)の家かい。まだ行っている。今日もこれから行くんだ」と何気なく云う。
「この間京都へ行ったそうじゃな。もう帰ったか。ちと麦の香(におい)でも嗅(か)いで来たか知らんて。――つまらんのう、あんな人間は。何だか陰気くさい顔ばかりしているじゃないか」
「そうさね」
「ああ云う人間は早く死んでくれる方が好(え)え。だいぶ財産があるか」
「あるようだね」
「あの親類の人はどうした。学校で時々顔を見たが」
「宗近(むねちか)かい」
「そうそう。あの男の所へ二三日中(うち)に行こうと思っとる」
 小野さんは突然留った。
「何しに」
「口を頼みにさ。できるだけ運動して置かんと駄目だからな」
「だって、宗近だって外交官の試験に及第しないで困ってるところだよ。頼んだってしようがない」
「なに構わん。話に行って見る」
 小野さんは眼を地面の上へ卸(おろ)して、二三間は無言で来た。
「君、先生のところへはいつ行ってくれる」
「今夜か明日(あした)の朝行ってやる」
「そうか」
 麦畑を折れると、杉の木陰(こかげ)のだらだら坂になる。二人は前後して坂を下りた。言葉を交すほどの遑(いとま)もない。下り切って疎(まばら)な杉垣を、肩を並べて通り越すとき、小野さんは云った。――
「君もし宗近へ行ったらね。井上先生の事は話さずに置いてくれたまえ」
「話しゃせん」
「いえ、本当に」
「ハハハハ大変恥(はじ)かんどるの。構わんじゃないか」
「少し困る事があるんだから、是非……」
「好し、話しゃせん」
 小野さんははなはだ心元(こころもと)なく思った。半分ほどは今頼んだ事を取り返したく思った。
 四つ角で浅井君に別れた小野さんは、安からぬ胸を運んで甲野の邸(やしき)まで来る。藤尾(ふじお)の部屋へ這入(はい)って十五分ほど過ぎた頃、宗近君の姿は甲野さんの書斎の戸口に立った。
「おい」
 甲野さんは故(もと)の椅子に、故の通りに腰を掛けて、故のごとくに幾何(きか)模様を図案している。丸に三(み)つ鱗(うろこ)はとくに出来上った。
 おいと呼ばれた時、首を上げる。驚いたと云わんよりは、激したと云わんよりは、臆(おく)したと云わんよりは、様子ぶったと云わんよりはむしろ遥(はる)かに簡単な上げ方である。したがって哲学的である。
「君か」と云う。
 宗近君はつかつかと洋卓(テエブル)の角(かど)まで進んで来たが、いきなり太い眉に八の字を寄せて、
「こりゃ空気が悪い。毒だ。少し開(あ)けよう」と上下(うえした)の栓釘(ボールト)を抜き放って、真中の円鈕(ノッブ)を握るや否や、正面の仏蘭西窓(フランスまど)を、床(ゆか)を掃うごとく、一文字に開いた。室(へや)の中には、庭前に芽ぐむ芝生(しばふ)の緑と共に、広い春が吹き込んで来る。
「こうすると大変陽気になる。ああ好い心持だ。庭の芝がだいぶ色づいて来た」
 宗近君は再び洋卓まで戻って、始めて腰を卸(おろ)した。今さきがた謎(なぞ)の女が坐っていた椅子の上である。
「何をしているね」
「うん?」と云って鉛筆の進行を留めた甲野さんは
「どうだ。なかなか旨(うま)いだろう」と模様いっぱいになった紙片を、宗近君の方へ、洋卓の上を滑(すべ)らせる。
「何だこりゃ。恐ろしいたくさん書いたね」
「もう一時間以上書いている」
「僕が来なければ晩まで書いているんだろう。くだらない」
 甲野さんは何とも云わなかった。
「これが哲学と何か関係でもあるのかい」
「有っても好い」
「万有世界の哲学的象徴とでも云うんだろう。よく一人の頭でこんなに並べられたもんだね。紺屋(こんや)の上絵師(うわえし)と哲学者と云う論文でも書く気じゃないか」
 甲野さんは今度も何とも云わなかった。
「何だか、どうも相変らずぐずぐずしているね。いつ見ても煮え切らない」
「今日は特別煮え切らない」
「天気のせいじゃないか、ハハハハ」
「天気のせいより、生きてるせいだよ」
「そうさね、煮え切ってぴんぴんしているものは沢山(たんと)ないようだ。御互も、こうやって三十年近くも、しくしくして……」
「いつまでも浮世の鍋(なべ)の中で、煮え切れずにいるのさ」
 甲野さんはここに至って始めて笑った。
「時に甲野さん、今日は報告かたがた少々談判に来たんだがね」
「むつかしい来(き)ようだ」
「近いうち洋行をするよ」
「洋行を」
「うん欧羅巴(ヨウロッパ)へ行くのさ」
「行くのはいいが、親父(おやじ)見たように、煮え切っちゃいけない」
「なんとも云えないが、印度洋(インドよう)さえ越せば大抵大丈夫だろう」
 甲野さんはハハハハと笑った。
「実は最近の好機において外交官の試験に及第したんだから、この通り早速頭を刈ってね、やっぱり、最近の好機において出掛けなくっちゃならない。塵事多忙だ。なかなか丸や三角を並べちゃいられない」
「そりゃおめでたい」と云った甲野さんは洋卓越(テエブルごし)に相手の頭をつらつら観察した。しかし別段批評も加えなかった。質問も起さなかった。宗近君の方でも進んで説明の労を取らなかった。したがって頭はそれぎりになる。
「まずここまでが報告だ、甲野さん」と云う。
「うちの母に逢(あ)ったかい」と甲野さんが聞く。
「まだ逢わない。今日はこっちの玄関から、上ったから、日本間の方はまるで通らない」
 なるほど宗近君は靴のままである。甲野さんは椅子(いす)の背に倚(よ)りかかって、この楽天家の頭と、更紗模様(さらさもよう)の襟飾(えりかざり)と――襟飾は例に因(よ)って襟の途中まで浮き出している。――それから親譲の背広(せびろ)とをじっと眺(なが)めている。
「何を見ているんだ」
「いや」と云ったままやっぱり眺めている。
「御叔母(おば)さんに話して来(こ)ようか」
 今度はいやとも何とも云わずに眺めている。宗近君は椅子から腰を浮かしかかる。
「廃(よ)すが好い」
 洋卓の向側(むこうがわ)から一句を明暸(めいりょう)に云い切った。
 徐(おもむろ)に椅子を離れた長髪の人は右の手で額を掻(か)き上げながら、左の手に椅子の肩を抑(おさ)えたまま、亡(な)き父の肖像画の方に顔を向けた。
「母に話すくらいなら、あの肖像に話してくれ」
 親譲りの背広を着た男は、丸い眼を据(す)えて、室(へや)の中に聳(そび)える、漆(うるし)のような髪の主(あるじ)を見守った。次に丸い眼を据えて、壁の上にある故人の肖像を見守った。最後に漆の髪の主と、故人の肖像とを見較(みくら)べた。見較べてしまった時、聳えたる人は瘠(や)せた肩を動かして、宗近君の頭の上から云う。――
「父は死んでいる。しかし活(い)きた母よりもたしかだよ。たしかだよ」
 椅子に倚る人の顔は、この言葉と共に、自(おのず)からまた画像の方に向った。向ったなりしばらくは動かない。活きた眼は上から見下(みおろ)している。
 しばらくして、椅子に倚る人が云う。――
「御叔父(おじ)さんも気の毒な事をしたなあ」
 立つ人は答えた。――
「あの眼は活きている。まだ活きている」
 言い終って、部屋の中を歩き出した。
「庭へ出よう、部屋の中は陰気でいけない」
 席を立った宗近君は、横から来て甲野さんの手を取るや否や、明け放った仏蘭西窓(フランスまど)を抜けて二段の石階を芝生(しばふ)へ下(くだ)る。足が柔かい地に着いた時、
「いったいどうしたんだ」と宗近君が聞いた。
 芝生は南に走る事十間余にして、高樫(たかがし)の生垣に尽くる。幅は半ばに足らぬ。繁(しげ)き植込に遮(さえ)ぎられた奥は、五坪(いつつぼ)ほどの池を隔てて、張出(はりだし)の新座敷には藤尾の机が据えてある。
 二人は緩(ゆる)き歩調に、芝生を突き当った。帰りには二三間迂回(うねっ)て、植込の陰を書斎の方(かた)へ戻って来た。双方共無言である。足並は偶然にも揃(そろ)っている。植込が真中で開いて、二三の敷石に、池の方(かた)へ人を誘う曲り角まで来た時、突然新座敷で、雉子(きじ)の鳴くように、けたたましく笑う声がした。二人の足は申し合せたごとくぴたりと留まる。眼は一時に同じ方角へ走る。
 四尺の空地(くうち)を池の縁(ふち)まで細長く余して、真直(まっすぐ)に水に落つる池の向側(むこうがわ)に、横から伸(の)す浅葱桜(あさぎざくら)の長い枝を軒のあたりに翳(かざ)して小野さんと藤尾がこちらを向いて笑いながら椽鼻(えんばな)に立っている。
 不規則なる春の雑樹(ぞうき)を左右に、桜の枝を上に、温(ぬる)む水に根を抽(ぬきん)でて這(は)い上がる蓮(はす)の浮葉を下に、――二人の活人画は包まれて立つ。仕切る枠(わく)が自然の景物の粋(すい)をあつめて成るがために、――枠の形が趣きを損(そこ)なわぬほどに正しくて、また眼を乱さぬほどに不規則なるがために――飛石に、水に、椽(えん)に、間隔の適度なるがために――高きに失わず、低きに過ぎざる恰好(かっこう)の地位にあるために――最後に、一息の短かきに、吐く幻影(まぼろし)と、忽然(こつぜん)に現われたるために――二人の視線は水の向(むかい)の二人にあつまった。と共に、水の向の二人の視線も、水のこなたの二人に落ちた。見合す四人は、互に互を釘付(くぎづけ)にして立つ。際(きわ)どい瞬間である。はっと思う刹那(せつな)を一番早く飛び超(こ)えたものが勝になる。
 女はちらりと白足袋の片方を後(うしろ)へ引いた。代赭(たいしゃ)に染めた古代模様の鮮(あざや)かに春を寂(さ)びたる帯の間から、するすると蜿蜒(うね)るものを、引き千切(ちぎ)れとばかり鋭どく抜き出した。繊(ほそ)き蛇(だ)の膨(ふく)れたる頭(かしら)を掌(たなごころ)に握って、黄金(こがね)の色を細長く空に振れば、深紅(しんく)の光は発矢(はっし)と尾より迸(ほとば)しる。――次の瞬間には、小野さんの胸を左右に、燦爛(さんらん)たる金鎖が動かぬ稲妻(いなずま)のごとく懸(かか)っていた。
「ホホホホ一番あなたによく似合う事」
 藤尾の癇声(かんごえ)は鈍い水を敲(たた)いて、鋭どく二人の耳に跳(は)ね返って来た。
「藤……」と動き出そうとする宗近君の横腹を突かぬばかりに、甲野さんは前へ押した。宗近君の眼から活人画が消える。追いかぶさるように、後(うしろ)から乗(の)し懸(かか)って来た甲野さんの顔が、親しき友の耳のあたりまで着いたとき、
「黙って……」と小声に云いながら、煙(けむ)に巻かれた人を植込の影へ引いて行く。
 肩に手を掛けて押すように石段を上(あが)って、書斎に引き返した甲野さんは、無言のまま、扉に似たる仏蘭西窓(フランスまど)を左右からどたりと立て切った。上下(うえした)の栓釘(ボールト)を式(かた)のごとく鎖(さ)す。次に入口の戸に向う。かねて差し込んである鍵(かぎ)をかちゃりと回すと、錠(じょう)は苦もなく卸(お)りた。
「何をするんだ」
「部屋を立て切った。人が這入(はい)って来ないように」
「なぜ」
「なぜでも好い」
「全体どうしたんだ。大変顔色が悪い」
「なに大丈夫。まあ掛けたまえ」と最前の椅子を机に近く引きずって来る。宗近君は小供のごとく命令に服した。甲野さんは相手を落ちつけた後(のち)、静かに、用い慣(な)れた安楽椅子に腰を卸(おろ)す。体は机に向ったままである。
「宗近さん」と壁を向いて呼んだが、やがて首だけぐるりと回して、正面から、
「藤尾は駄目だよ」と云う。落ちついた調子のうちに、何となく温(ぬる)い暖味(あたたかみ)があった。すべての枝を緑に返す用意のために、寂(さ)びたる中を人知れず通う春の脈は、甲野さんの同情である。
「そうか」
 腕を組んだ宗近君はこれだけ答えた。あとから、
「糸公もそう云った」と沈んでつけた。
「君より、君の妹の方が眼がある。藤尾は駄目だ。飛び上りものだ」
 かちゃりと入口の円鈕(ノッブ)を捩(ねじ)ったものがある。戸は開(あ)かない。今度はとんとんと外から敲(たた)く。宗近君は振り向いた。甲野さんは眼さえ動かさない。
「うちやって置け」と冷やかに云う。
 入口の扉に口を着けたようにホホホホと高く笑ったものがある。足音は日本間の方へ馳(か)けながら遠退(とおの)いて行く。二人は顔を見合わした。
「藤尾だ」と甲野さんが云う。
「そうか」と宗近君がまた答えた。
 あとは静かになる。机の上の置時計がきちきちと鳴る。
「金時計も廃(よ)せ」
「うん。廃そう」
 甲野さんは首を壁に向けたまま、宗近君は腕を拱(こまぬ)いたまま、――時計はきちきちと鳴る。日本間の方で大勢が一度に笑った。
「宗近さん」と欽吾(きんご)はまた首を向け直した。「藤尾に嫌われたよ。黙ってる方がいい」
「うん黙っている」
「藤尾には君のような人格は解らない。浅墓(あさはか)な跳(は)ね返(かえ)りものだ。小野にやってしまえ」
「この通り頭ができた」
 宗近君は節太(ふしぶと)の手を胸から抜いて、刈(か)り立(たて)の頭の天辺(てっぺん)をとんと敲いた。
 甲野さんは眼尻に笑の波を、あるか、なきかに寄せて重々(おもおも)しく首肯(うなず)いた。あとから云う。
「頭ができれば、藤尾なんぞは要(い)らないだろう」
 宗近君は軽くうふんと云ったのみである。
「それでようやく安心した」と甲野さんは、くつろいだ片足を上げて、残る膝頭(ひざがしら)の上へ載(の)せる。宗近君は巻煙草を燻(くゆ)らし始めた。吹く煙のなかから、
「これからだ」と独語(ひとりごと)のように云う。
「これからだ。僕もこれからだ」と甲野さんも独語のように答えた。
「君もこれからか。どうこれからなんだ」と宗近君は煙草の煙(けむ)を押し開いて、元気づいた顔を近寄(ちかよせ)た。
「本来の無一物から出直すんだからこれからさ」
 指の股に敷島(しきしま)を挟んだまま、持って行く口のある事さえ忘れて、呆気(あっけ)に取られた宗近君は、
「本来の無一物から出直すとは」と自(みずか)ら自らの頭脳を疑うごとく問い返した。甲野さんは尋常の調子で、落ちつき払った答をする。――
「僕はこの家(うち)も、財産も、みんな藤尾にやってしまった」
「やってしまった? いつ」
「もう少しさっき。その紋尽しを書いている時だ」
「そりゃ……」
「ちょうどその丸に三(み)つ鱗(うろこ)を描(か)いてる時だ。――その模様が一番よく出来ている」
「やってしまうってそう容易(たやす)く……」
「何要(い)るものか。あればあるほど累(わずらい)だ」
「御叔母(おば)さんは承知したのかい」
「承知しない」
「承知しないものを……それじゃ御叔母さんが困るだろう」
「やらない方が困るんだ」
「だって御叔母さんは始終(しじゅう)君がむやみな事をしやしまいかと思って心配しているんじゃないか」
「僕の母は偽物(にせもの)だよ。君らがみんな欺(あざむ)かれているんだ。母じゃない謎(なぞ)だ。澆季(ぎょうき)の文明の特産物だ」
「そりゃ、あんまり……」
「君は本当の母でないから僕が僻(ひが)んでいると思っているんだろう。それならそれで好いさ」
「しかし……」
「君は僕を信用しないか」
「無論信用するさ」
「僕の方が母より高いよ。賢いよ。理由(わけ)が分っているよ。そうして僕の方が母より善人だよ」
 宗近君は黙っている。甲野さんは続けた。――
「母の家を出てくれるなと云うのは、出てくれと云う意味なんだ。財産を取れと云うのは寄こせと云う意味なんだ。世話をして貰いたいと云うのは、世話になるのが厭(いや)だと云う意味なんだ。――だから僕は表向母の意志に忤(さから)って、内実は母の希望通にしてやるのさ。――見たまえ、僕が家(うち)を出たあとは、母が僕がわるくって出たように云うから、世間もそう信じるから――僕はそれだけの犠牲をあえてして、母や妹のために計ってやるんだ」
 宗近君は突然椅子(いす)を立って、机の角(かど)まで来ると片肘(かたひじ)を上に突いて、甲野さんの顔を掩(お)いかぶすように覗(のぞ)き込(こ)みながら、
「貴様、気が狂ったか」と云った。
「気違は頭から承知の上だ。――今まででも蔭じゃ、馬鹿の気違のと呼びつづけに呼ばれていたんだ」
 この時宗近君の大きな丸い眼から涙がぽたぽたと机の上のレオパルジに落ちた。
「なぜ黙っていたんだ。向(むこう)を出してしまえば好いのに……」
「向を出したって、向の性格は堕落するばかりだ」
「向を出さないまでも、こっちが出るには当るまい」
「こっちが出なければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」
「なぜ財産をみんなやったのか」
「要(い)らないもの」
「ちょっと僕に相談してくれれば好かったのに」
「要らないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ」
 宗近君はふうんと云った。

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