虞美人草
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著者名:夏目漱石 

「だって向(むこう)で世話をするのが厭だって云うんじゃありませんか。世話は出来ない、財産はやらない。それじゃ御母(おっか)さんをどうするつもりなんです」
「どうするつもりも何も有りゃしない。ただああやってぐずぐずして人を困らせる男なんだよ」
「少しはこっちの様子でも分りそうなもんですがね」
 母は黙っている。
「この間金時計を宗近(むねちか)にやれって云った時でも……」
「小野さんに上げると御云いのかい」
「小野さんにとは云わないけれども。一(はじめ)さんに上げるとは云わなかったわ」
「妙だよあの人は。藤尾に養子をして、面倒を見て御貰(おもら)いなさいと云うかと思うと、やっぱり御前を一にやりたいんだよ。だって一は一人息子じゃないか。養子なんぞに来られるものかね」
「ふん」と受けた藤尾は、細い首を横に庭の方(かた)を見る。夕暮を促がすとのみ眺められた浅葱桜(あさぎざくら)は、ことごとく梢(こずえ)を辞して、光る茶色の嫩葉(わかば)さえ吹き出している。左に茂る三四本の扇骨木(かなめ)の丸く刈り込まれた間から、書斎の窓が少し見える。思うさま片寄って枝を伸(の)した桜の幹を、右へ離れると池になる。池が尽きれば張り出した自分の座敷である。
 静かな庭を一目見廻わした藤尾は再び横顔を返して、母を真向(まむき)に見る。母はさっきから藤尾の方を向いたなり眼を放さない。二人が顔を合せた時、何を思ったか、藤尾は美くしい片頬(かたほ)をむずつかせた。笑とまで片づかぬものは、明かに浮ばぬ先に自然(じねん)と消える。
「宗近の方は大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫でなくったって、仕方がないじゃないか」
「でも断って下すったんでしょう」
「断ったんだとも。この間行った時に、宗近の阿爺(おとっさん)に逢って、よく理由(わけ)は話して来たのさ。――帰ってから御前にも話した通り」
「それは覚えていますけれども、何だか判然(はっきり)しないようだったから」
「判然しないのは向の事さ。阿爺があの通り気の長い人だもんだから」
「こっちでも判然とは断わらなかったんでしょう」
「そりゃ今までの義理があるから、そう子供の使のように、藤尾が厭(いや)だと申しますから、平(ひら)に御断わり申しますとは云えないからね」
「なに厭なものは、どうしたって好くなりっこ無いんだから、いっそ平ったく云った方が好いんですよ」
「だって、世間はそうしたもんじゃあるまい。御前はまだ年が若いから露骨(むきだし)でも構わないと御思(おおもい)かも知れないが、世の中はそうは行かないよ。同じ断わるにしても、そこにはね。やっぱり蓋(ふた)も味(み)もあるように云わないと――ただ怒らしてしまったって仕方がないから」
「何とか云って断ったのね」
「欽吾がどうあっても嫁を貰(もら)うと云ってくれません。私も取る年で心細うございますから」と一と息に下(くだ)して来る。ちょっと御茶を呑む。
「年を取って心細いから」
「心細いから、欽吾(あれ)があのまま押し通す料簡(りょうけん)なら、藤尾に養子でもして掛かるよりほかに致し方がございません。すると一(はじめ)さんは大事な宗近家の御相続人だから私共へいらしっていただく訳にも行かず、また藤尾を差し上げる訳にも参らなくなりますから……」
「それじゃ兄さんがもしや御嫁を貰うと云い出したら困るでしょう」
「なに大丈夫だよ」と母は浅黒い額へ癇癪(かんしゃく)の八の字を寄せた。八の字はすぐとれる。やがて云う。
「貰うなら、貰うで、糸子(いとこ)でも何でも勝手な人を貰うがいいやね。こっちはこっちで早く小野さんを入れてしまうから」
「でも宗近の方は」
「いいよ。そう心配しないでも」と地烈太(じれった)そうに云い切った後で
「外交官の試験に及第しないうちは嫁どころじゃないやね」と付けた。
「もし及第したら、すぐ何か云うでしょう」
「だって、彼(あの)男に及第が出来ますものかね。考えて御覧な。――もし及第なすったら藤尾を差上(さしあげ)ましょうと約束したって大丈夫だよ」
「そう云ったの」
「そうは云わないさ。そうは云わないが、云っても大丈夫、及第出来っ子ない男だあね」
 藤尾は笑ながら、首を傾けた。やがてすっきと姿勢を正して、話を切り上げながら云う。
「じゃ宗近の御叔父(おじさん)はたしかに断わられたと思ってるんですね」
「思ってるはずだがね。――どうだい、あれから一の様子は、少しは変ったかい」
「やっぱり同(おんな)じですからさ。この間博覧会へ行ったときも相変らずですもの」
「博覧会へ行ったのは、いつだったかね」
「今日で」と考える。「一昨日(おととい)、一昨々日(さきおととい)の晩です」と云う。
「そんなら、もう一に通じている時分だが。――もっとも宗近の御叔父がああ云う人だから、ことに依ると謎(なぞ)が通じなかったかも知れないね」とさも歯痒(はがゆ)そうである。
「それとも一さんの事だから、御叔父から聞いても平気でいるのかも知れないわね」
「そうさ。どっちがどっちとも云えないね。じゃ、こうしよう。ともかくも欽吾に話してしまおう。――こっちで黙っていちゃ、いつまで立っても際限がない」
「今、書斎にいるでしょう」
 母は立ち上がった。椽側(えんがわ)へ出た足を一歩(ひとあし)後(あと)へ返して、小声に
「御前、一に逢(あ)うだろう」と屈(こごみ)ながら云う。
「逢うかも知れません」
「逢ったら少し匂わして置く方が好いよ。小野さんと大森へ行くとか云っていたじゃないか。明日(あした)だったかね」
「ええ、明日の約束です」
「何なら二人で遊んで歩くところでも見せてやると好い」
「ホホホホ」
 母は書斎に向う。
 からりとした椽(えん)を通り越して、奇麗な木理(もくめ)を一面に研(と)ぎ出してある西洋間の戸を半分明けると、立て切った中は暗い。円鈕(ノッブ)を前に押しながら、開く戸に身を任せて、音なき両足を寄木(よせき)の床(ゆか)に落した時、釘舌(ボールト)のかちゃりと跳(は)ね返る音がする。窓掛に春を遮(さえ)ぎる書斎は、薄暗く二人を、人の世から仕切った。
「暗い事」と云いながら、母は真中の洋卓(テエブル)まで来て立ち留まる。椅子(いす)の背の上に首だけ見えた欽吾の後姿が、声のした方へ、じいっと廻り込むと、なぞえに引いた眉の切れが三が一ほどあらわれた。黒い片髭(かたひげ)が上唇を沿うて、自然(じねん)と下りて来て、尽んとする角(かど)から、急に捲(ま)き返す。口は結んでいる。同時に黒い眸(ひとみ)は眼尻まで擦(ず)って来た。母と子はこの姿勢のうちに互を認識した。
「陰気だねえ」と母は立ちながら繰り返す。
 無言の人は立ち上る。上靴を二三度床に鳴らして、洋卓の角まで足を運ばした時、始めて
「窓を明けましょうか」と緩(ゆっくり)聞いた。
「どうでも――母(おっか)さんはどうでも構わないが、ただ御前が欝陶(うっとう)しいだろうと思ってさ」
 無言の人は再び右の手の平を、洋卓越に前へ出した。促(うな)がされたる母はまず椅子に着く。欽吾も腰を卸(おろ)した。
「どうだね、具合は」
「ありがとう」
「ちっとは好い方かね」
「ええ――まあ――」と生返事(なまへんじ)をした時、甲野さんは背を引いて腕を組んだ。同時に洋卓の下で、右足の甲の上へ左の外踝(そとくろぶし)を乗せる。母の眼からは、ただ裄(ゆき)の縮んだ卵色の襯衣(シャツ)の袖が正面に見える。
「身体(からだ)を丈夫にしてくれないとね、母さんも心配だから……」
 句の切れぬうちに、甲野さんは自分の顎(あご)を咽喉(のど)へ押しつけて、洋卓の下を覗き込んだ。黒い足袋が二つ重なっている。母の足は見えない。母は出直した。
「身体が悪いと、つい気分まで欝陶しくなって、自分も面白くないし……」
 甲野さんはふと眼を上げた。母は急に言葉を移す。
「でも京都へ行ってから、少しは好いようだね」
「そうですか」
「ホホホホ、そうですかって、他人(ひと)の事のように。――何だか顔色が丈夫丈夫して来たじゃないか。日に焼けたせいかね」
「そうかも知れない」と甲野さんは、首を向け直して、窓の方を見る。窓掛の深い襞(ひだ)が左右に切れる間から、扇骨木(かなめ)の若葉が燃えるように硝子(ガラス)に映(うつ)る。
「ちっと、日本間の方へ話にでも来て御覧。あっちは、廓(から)っとして、書斎より心持が好いから。たまには、一(はじめ)のようにつまらない女を相手にして世間話をするのも気が変って面白いものだよ」
「ありがとう」
「どうせ相手になるほどの話は出来ないけれども――それでも馬鹿は馬鹿なりにね。……」
 甲野さんは眩(まぶ)しそうな眼を扇骨木から放した。
「扇骨木が大変奇麗(きれい)に芽(め)を吹きましたね」
「見事だね。かえって生(なま)じいな花よりも、好(よ)ござんすよ。ここからは、たった一本しっきゃ見えないね。向(むこう)へ廻ると刈り込んだのが丸(まある)く揃(そろ)って、そりゃ奇麗」
「あなたの部屋からが一番好く見えるようですね」
「ああ、御覧かい」
 甲野さんは見たとも見ないとも云わなかった。母は云う。――
「それにね。近頃は陽気のせいか池の緋鯉(ひごい)が、まことによく跳(はね)るんで……ここから聞えますかい」
「鯉の跳る音がですか」
「ああ」
「いいえ」
「聞えない。聞えないだろうねこう立て切って有っちゃあ。母(おっか)さんの部屋からでも聞えないくらいだから。この間藤尾に母さんは耳が悪くなったって、さんざん笑われたのさ。――もっとも、もう耳も悪くなって好い年だから仕方がないけれども」
「藤尾はいますか」
「いるよ。もう小野さんが来て稽古(けいこ)をする時分だろう。――何か用でもあるかい」
「いえ、用は別にありません」
「あれも、あんな、気の勝った子で、さぞ御前さんの気に障(さわ)る事もあろうが、まあ我慢して、本当の妹だと思って、面倒を見てやって下さい」
 甲野さんは腕組のまま、じっと、深い瞳(ひとみ)を母の上に据(す)えた。母の眼はなぜか洋卓(テエブル)の上に落ちている。
「世話はする気です」と徐(しず)かに云う。
「御前がそう云ってくれると私(わたし)もまことに安心です」
「する気どころじゃない。したいと思っているくらいです」
「それほどに思ってくれると聞いたら当人もさぞ喜ぶ事だろう」
「ですが……」で言葉は切れた。母は後(あと)を待つ。欽吾は腕組を解いて、椅子に倚(よ)る背を前に、胸を洋卓(テエブル)の角(かど)へ着けるほど母に近づいた。
「ですが、母(おっか)さん。藤尾の方では世話になる気がありません」
「そんな事が」と今度は母の方が身体(からだ)を椅子の背に引いた。甲野さんは一筋の眉さえ動かさない。同じような低い声を、静かに繋(つな)げて行く。
「世話をすると云うのは、世話になる方でこっちを信仰――信仰と云うのは神さまのようでおかしい」
 甲野さんはここでぽつりと言葉を切った。母はまだ番が回って来ないと心得たか、尋常に控えている。
「とにかく世話になっても好いと思うくらいに信用する人物でなくっちゃ駄目です」
「そりゃ御前にそう見限られてしまえばそれまでだが」とここまでは何の苦もなく出したが、急に調子を逼(せま)らして、
「藤尾(あれ)も実は可哀想(かわいそう)だからね。そう云わずに、どうかしてやって下さい」と云う。甲野さんは肘(ひじ)を立てて、手の平で額(ひたい)を抑えた。
「だって見縊(みくび)られているんだから、世話を焼けば喧嘩(けんか)になるばかりです」
「藤尾が御前さんを見縊るなんて……」と打(う)ち消(けし)はしとやかな母にしては比較的に大きな声であった。
「そんな事があっては第一私(わたし)が済まない」と次に添えた時はもう常に復していた。
 甲野さんは黙って肘を立てている。
「何か藤尾が不都合な事でもしたかい」
 甲野さんは依然として額に加えた手の下から母を眺(なが)めている。
「もし不都合があったら、私から篤(とく)と云って聞かせるから、遠慮しないで、何でも話しておくれ。御互のなかで気不味(きまず)い事があっちゃあ面白くないから」
 額に加えた五本の指は、節長に細(ほっそ)りして、爪の形さえ女のように華奢(きゃしゃ)に出来ている。
「藤尾はたしか二十四になったんですね」
「明けて四(し)になったのさ」
「もうどうかしなくっちゃならないでしょう」
「嫁の口かい」と母は簡単に念を押した。甲野さんは嫁とも聟(むこ)とも判然した答をしない。母は云う。
「藤尾の事も、実は相談したいと思っているんだが、その前にね」
「何ですか」
 右の眉(まゆ)はやはり手の下に隠れている。眼の光(いろ)は深い。けれども鋭い点はどこにも見えぬ。
「どうだろう。もう一遍考え直してくれると好いがね」
「何をですか」
「御前の事をさ。藤尾も藤尾でどうかしなければならないが、御前の方を先へきめないと、母(おっか)さんが困るからね」
 甲野さんは手の甲の影で片頬(かたほ)に笑った。淋(さみ)しい笑である。
「身体(からだ)が悪いと御云いだけれども、御前くらいの身体で御嫁を取った人はいくらでもあります」
「そりゃ、有るでしょう」
「だからさ。御前も、もう一遍考え直して御覧な。中には御嫁を貰って大変丈夫になった人もあるくらいだよ」
 甲野さんの手はこの時始めて額を離れた。洋卓(テエブル)の上には一枚の罫紙(けいし)に鉛筆が添えて載(の)せてある。何気なく罫紙を取り上げて裏を返して見ると三四行の英語が書いてある。読み掛けて気がついた。昨日(きのう)読んだ書物の中から備忘のため抄録して、そのままに捨てて置いた紙片(かみきれ)である。甲野さんは罫紙を洋卓の上に伏せた。
 母は額の裏側だけに八の字を寄せて、甲野さんの返事をおとなしく待っている。甲野さんは鉛筆を執(と)って紙の上へ烏と云う字を書いた。
「どうだろうね」
 烏と云う字が鳥になった。
「そうしてくれると好いがね」
 鳥と云う字が鴃(げき)の字になった。その下に舌の字が付いた。そうして顔を上げた。云う。
「まあ藤尾の方からきめたら好いでしょう」
「御前が、どうしても承知してくれなければ、そうするよりほかに道はあるまい」
 云い終った母は悄然(しょうぜん)として下を向いた。同時に忰(せがれ)の紙の上に三角が出来た。三角が三つ重なって鱗(うろこ)の紋になる。
「母(おっ)かさん。家(うち)は藤尾にやりますよ」
「それじゃ御前……」と打(う)ち消(けし)にかかる。
「財産も藤尾にやります。私(わたし)は何にもいらない」
「それじゃ私達が困るばかりだあね」
「困りますか」と落ちついて云った。母子(おやこ)はちょっと眼を見合せる。
「困りますかって。――私が、死んだ阿父(おとっ)さんに済まないじゃないか」
「そうですか。じゃどうすれば好いんです」と飴色(あめいろ)に塗った鉛筆を洋卓の上にはたりと放(ほう)り出した。
「どうすれば好いか、どうせ母(おっか)さんのような無学なものには分らないが、無学は無学なりにそれじゃ済まないと思いますよ」
「厭(いや)なんですか」
「厭だなんて、そんなもったいない事を今まで云った事があったかね」
「有りません」
「私(わたし)も無いつもりだ。御前がそう云ってくれるたんびに、御礼は始終(しょっちゅう)云ってるじゃないか」
「御礼は始終聞いています」
 母は転がった鉛筆を取り上げて、尖(とが)った先を見た。丸い護謨(ゴム)の尻を見た。心のうちで手のつけようのない人だと思った。ややあって護謨の尻をきゅうっと洋卓(テエブル)の上へ引っ張りながら云う。
「じゃ、どうあっても家(うち)を襲(つ)ぐ気はないんだね」
「家は襲いでいます。法律上私は相続人です」
「甲野の家は襲いでも、母(おっ)かさんの世話はしてくれないんだね」
 甲野さんは返事をする前に、眸(ひとみ)を長い眼の真中に据えてつくづくと母の顔を眺めた。やがて、
「だから、家も財産もみんな藤尾にやると云うんです」と慇懃(いんぎん)に云う。
「それほどに御云いなら、仕方がない」
 母は溜息と共に、この一句を洋卓の上にうちやった。甲野さんは超然としている。
「じゃ仕方がないから、御前の事は御前の思い通りにするとして、――藤尾の方だがね」
「ええ」
「実はあの小野さんが好かろうと思うんだが、どうだろう」
「小野をですか」と云ったぎり、黙った。
「いけまいか」
「いけない事もないでしょう」と緩(ゆっ)くり云う。
「よければ、そうきめようと思うが……」
「好いでしょう」
「好いかい」
「ええ」
「それでようやく安心した」
 甲野さんはじっと眼を凝(こ)らして正面に何物をか見詰めている。あたかも前にある母の存在を認めざるごとくである。
「それでようやく――御前どうかおしかい」
「母(おっ)かさん、藤尾は承知なんでしょうね」
「無論知っているよ。なぜ」
 甲野さんは、やはり遠方を見ている。やがて瞬(またたき)を一つすると共に、眼は急に近くなった。
「宗近はいけないんですか」と聞く。
「一(はじめ)かい。本来なら一が一番好いんだけれども。――父(おとっ)さんと宗近とは、ああ云う間柄ではあるしね」
「約束でもありゃしなかったですか」
「約束と云うほどの事はなかったよ」
「何だか父(おとっ)さんが時計をやるとか云った事があるように覚えていますが」
「時計?」と母は首を傾(かた)げた。
「父さんの金時計です。柘榴石(ガーネット)の着いている」
「ああ、そうそう。そんな事が有ったようだね」と母は思い出したごとくに云う。
「一(はじめ)はまだ当(あて)にしているようです」
「そうかい」と云ったぎり母は澄ましている。
「約束があるならやらなくっちゃ悪い。義理が欠ける」
「時計は今藤尾が預(あずか)っているから、私(わたし)から、よく、そう云って置こう」
「時計もだが、藤尾の事を重(おも)に云ってるんです」
「だって藤尾をやろうと云う約束はまるで無いんだよ」
「そうですか。――それじゃ、好いでしょう」
「そう云うと私が何だか御前の気に逆(さから)うようで悪いけれども、――そんな約束はまるで覚(おぼえ)がないんだもの」
「はああ。じゃ無いんでしょう」
「そりゃね。約束があっても無くっても、一ならやっても好いんだが、あれも外交官の試験がまだ済まないんだから勉強中に嫁でもあるまいし」
「そりゃ、構わないです」
「それに一は長男だから、どうしても宗近の家を襲(つ)がなくっちゃならずね」
「藤尾へは養子をするつもりなんですか」
「したくはないが、御前が母(おっ)かさんの云う事を聞いておくれでないから……」
「藤尾がわきへ行くにしても、財産は藤尾にやります」
「財産は――御前私の料簡(りょうけん)を間違えて取っておくれだと困るが――母(おっか)さんの腹の中には財産の事なんかまるでありゃしないよ。そりゃ割って見せたいくらいに奇麗(きれい)なつもりだがね。そうは見えないか知ら」
「見えます」と甲野さんが云った。極(きわ)めて真面目(まじめ)な調子である。母にさえ嘲弄(ちょうろう)の意味には受取れなかった。
「ただ年を取って心細いから……たった一人の藤尾をやってしまうと、後(あと)が困るんでね」
「なるほど」
「でなければ一が好いんだがね。御前とも仲が善し……」
「母かさん、小野をよく知っていますか」
「知ってるつもりです。叮嚀(ていねい)で、親切で、学問がよく出来て立派な人じゃないか。――なぜ」
「そんなら好いです」
「そう素気(そっけ)なく云わずと、何か考(かんがえ)があるなら聞かしておくれな。せっかく相談に来たんだから」
 しばらく罫紙(けいし)の上の楽書(らくがき)を見詰めていた甲野さんは眼を上げると共に穏かに云い切った。
「宗近の方が小野より母(おっか)さんを大事にします」
「そりゃ」とたちまち出る。後(あと)から静かに云う。
「そうかも知れない――御前の見た眼に間違はあるまいが、ほかの事と違って、こればかりは親や兄の自由には行(い)かないもんだからね」
「藤尾が是非にと云うんですか」
「え、まあ――是非とも云うまいが」
「そりゃ私(わたし)も知っている。知ってるんだが。――藤尾はいますか」
「呼びましょう」
 母は立った。薄紅色(ときいろ)に深く唐草(からくさ)を散らした壁紙に、立ちながら、手頃に届く電鈴(ベル)を、白きただ中に押すと、座に返るほどなきに応(こたえ)がある。入口の戸が五寸ばかりそっと明(あ)く、ところを振り返った母が
「藤尾に用があるからちょいと」と云う。そっと明いた戸はそっと締る。
 母と子は洋卓(テエブル)を隔てて差し向う。互に無言である。欽吾はまた鉛筆を取り上げた。三(み)つ鱗(うろこ)の周囲(まわり)に擦(す)れ擦れの大きさに円(まる)を描(か)く。円と鱗の間を塗る。黒い線を一本一本叮嚀(ていねい)に並行させて行く。母は所在なさに、忰(せがれ)の図案を慇懃(いんぎん)に眺(なが)めている。
 二人の心は無論わからぬ。ただ上部(うわべ)だけはいかにも静である。もし手足(しゅそく)の挙止が、内面の消息を形而下(けいじか)に運び来(きた)る記号となり得るならば、この二人ほどに長閑(のどか)な母子(おやこ)は容易に見出し得まい。退屈の刻を、数十(すじゅう)の線に劃(かく)して、行儀よく三つ鱗の外部(そとがわ)を塗り潰す子と、尋常に手を膝の上に重ねて、一劃ごとに黒くなる円(まる)の中を、端然(たんねん)と打ち守る母とは、咸雍(かんよう)の母子である。和怡(わい)の母子である。挟(さしは)さむ洋卓に、遮(さえぎ)らるる胸と胸を対(むか)い合せて、春鎖(とざ)す窓掛のうちに、世を、人を、争を、忘れたる姿である。亡(な)き人の肖像は例に因(よ)って、壁の上から、閑静なるこの母子を照らしている。
 丹念に引く線はようやく繁(しげ)くなる。黒い部分はしだいに増す。残るはただ右手に当る弓形(ゆみなり)の一ヵ所となった時、がちゃりと釘舌(ボールト)を捩(ねじ)る音がして、待ち設けた藤尾の姿が入口に現われた。白い姿を春に託す。深い背景のうちに肩から上が浮いて見える。甲野さんの鉛筆は引きかけた線の半(なか)ばでぴたりと留った。同時に藤尾の顔は背景を抜け出して来る。
「炙(あぶ)り出しはどうして」と言いながら、母の隣まで来て、横合から腰を卸(おろ)す。卸し終った時、また、
「出て?」と母に聞く。母はただ藤尾の方を意味ありげに見たのみである。甲野さんの黒い線はこの間に四本増した。
「兄さんが御前に何か御用があると御云いだから」
「そう」と云ったなり、藤尾は兄の方へ向き直った。黒い線がしきりに出来つつある。
「兄さん、何か御用」
「うん」と云った甲野さんは、ようやく顔を上げた。顔を上げたなり何とも云わない。
 藤尾は再び母の方を見た。見ると共に薄笑(うすわらい)の影が奇麗(きれい)な頬にさす。兄はやっと口を切る。
「藤尾、この家(うち)と、私(わたし)が父(おとっ)さんから受け襲(つ)いだ財産はみんな御前にやるよ」
「いつ」
「今日からやる。――その代り、母(おっか)さんの世話は御前がしなければいけない」
「ありがとう」と云いながら、また母の方を見る。やはり笑っている。
「御前宗近へ行く気はないか」
「ええ」
「ない? どうしても厭(いや)か」
「厭です」
「そうか。――そんなに小野が好いのか」
 藤尾は屹(きっ)となる。
「それを聞いて何になさる」と椅子(いす)の上に背を伸(の)して云う。
「何にもしない。私のためには何にもならない事だ。ただ御前のために云ってやるのだ」
「私のために?」と言葉の尻を上げて置いて、
「そう」とさも軽蔑(けいべつ)したように落す。母は始めて口を出す。
「兄さんの考では、小野さんより一(はじめ)の方がよかろうと云う話なんだがね」
「兄さんは兄さん。私は私です」
「兄さんは小野さんよりも一の方が、母さんを大事にしてくれると御言いのだよ」
「兄さん」と藤尾は鋭く欽吾に向った。「あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか」
「知っている」と閑静(しずか)に云う。
「知ってるもんですか」と立ち上がる。「小野さんは詩人です。高尚な詩人です」
「そうか」
「趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの価値(ねうち)は分りません。けっして分りません。一さんを賞(ほ)める人に小野さんの価値が分る訳がありません。……」
「じゃ小野にするさ」
「無論します」
 云い棄(す)てて紫の絹(リボン)は戸口の方へ揺(うご)いた。繊(ほそ)い手に円鈕(ノッブ)をぐるりと回すや否(いな)や藤尾の姿は深い背景のうちに隠れた。

        十六

 叙述の筆は甲野(こうの)の書斎を去って、宗近(むねちか)の家庭に入る。同日である。また同刻である。
 相変らずの唐机(とうづくえ)を控えて、宗近の父(おとっ)さんが鬼更紗(おにざらさ)の座蒲団(ざぶとん)の上に坐っている。襯衣(シャツ)を嫌った、黒八丈(くろはちじょう)の襦袢(じゅばん)の襟(えり)が崩(くず)れて、素肌に、もじゃ、もじゃと胸毛が見える。忌部焼(いんべやき)の布袋(ほてい)の置物にこんなのがよくある。布袋の前に異様の煙草盆(たばこぼん)を置く。呉祥瑞(ごしょんずい)の銘のある染付(そめつけ)には山がある、柳がある、人物がいる。人物と山と同じくらいな大きさに描(えが)かれている間を、一筋の金泥(きんでい)が蜿蜒(えんえん)と縁(ふち)まで這上(はいあが)る。形は甕(かめ)のごとく、鉢(はち)が開いて、開いた頂(いただき)が、がっくりと縮まると、丸い縁(ふち)になる。向い合せの耳を潜(くぐ)る蔓(つる)には、ぎりぎりと渋(しぶ)を帯びた籐(と)を巻きつけて手提(てさげ)の便を計る。
 宗近の父(おとっ)さんは昨日(きのう)どこの古道具屋からか、継(つぎ)のあるこの煙草盆を堀り出して来て、今朝から祥瑞だ、祥瑞だと騒いだ結果、灰を入れ、火を入れ、しきりに煙草を吸っている。
 ところへ入口の唐紙(からかみ)をさらりと開けて、宗近君が例のごとく活溌(かっぱつ)に這入(はい)って来る。父は煙草盆から眼を離した。見ると忰(せがれ)は親譲りの背広をだぶだぶに着て、カシミヤの靴足袋(くつたび)だけに、大なる通(つう)をきめている。
「どこぞへ行くかね」
「行くんじゃない、今帰ったところです。――ああ暑い。今日はよっぽど暑いですね」
「家(うち)にいると、そうでもない。御前はむやみに急ぐから暑いんだ。もう少し落ちついて歩いたらどうだ」
「充分落ちついているつもりなんだが、そう見えないかな。弱るな。――やあ、とうとう煙草盆へ火を入れましたね。なるほど」
「どうだ祥瑞は」
「何だか酒甕(さかがめ)のようですね」
「なに煙草盆さ。御前達が何だかだって笑うが、こうやって灰を入れて見るとやっぱり煙草盆らしいだろう」
 老人は蔓(つる)を持って、ぐっと祥瑞を宙に釣るし上げた。
「どうだ」
「ええ。好いですね」
「好いだろう。祥瑞は贋(にせ)の多いもんで容易には買えない」
「全体いくらなんですか」
「いくらだか当てて御覧」
「見当が着きませんね。滅多(めった)な事を云うとまたこの間の松見たように頭ごなしに叱られるからな」
「壱円八十銭だ。安いもんだろう」
「安いですかね」
「全く堀出(ほりだし)だ」
「へええ――おや椽側にもまた新らしい植木が出来ましたね」
「さっき万両(まんりょう)と植え替えた。それは薩摩(さつま)の鉢(はち)で古いものだ」
「十六世紀頃の葡萄耳(ポルトガル)人が被った帽子のような恰好(かっこう)ですね。――この薔薇(ばら)はまた大変赤いもんだな、こりゃあ」
「それは仏見笑(ぶっけんしょう)と云ってね。やっぱり薔薇の一種だ」
「仏見笑? 妙な名だな」
「華厳経(けごんきょう)に外面(げめん)如菩薩(にょぼさつ)、内心(ないしん)如夜叉(にょやしゃ)と云う句がある。知ってるだろう」
「文句だけは知ってます」
「それで仏見笑と云うんだそうだ。花は奇麗だが、大変刺(とげ)がある。触(さわ)って御覧」
「なに触らなくっても結構です」
「ハハハハ外面如菩薩、内心如夜叉。女は危ないものだ」と云いながら、老人は雁首(がんくび)の先で祥瑞(しょんずい)の中を穿(ほじく)り廻す。
「むずかしい薔薇があるもんだな」と宗近君は感心して仏見笑を眺(なが)めている。
「うん」と老人は思い出したように膝を打つ。
「一(はじめ)あの花を見た事があるかい。あの床(とこ)に挿(さ)してある」
 老人はいながら、顔の向を後(うしろ)へ変える。捩(ねじ)れた頸(くび)に、行き所を失った肉が、三筋ほど括(くび)られて肩の方へ競(せ)り出して来る。
 茶がかった平床(ひらどこ)には、釣竿を担(かつ)いだ蜆子和尚(けんすおしょう)を一筆(ひとふで)に描(か)いた軸(じく)を閑静に掛けて、前に青銅の古瓶(こへい)を据(す)える。鶴ほどに長い頸の中から、すいと出る二茎(ふたくき)に、十字と四方に囲う葉を境に、数珠(じゅず)に貫(ぬ)く露の珠(たま)が二穂(ふたほ)ずつ偶(ぐう)を作って咲いている。
「大変細い花ですね。――見た事がない。何と云うんですか」
「これが例の二人静(ふたりしずか)だ」
「例の二人静? 例にも何にも今まで聞いた事がないですね」
「覚えて置くがいい。面白い花だ。白い穂がきっと二本ずつ出る。だから二人静。謡曲に静の霊が二人して舞うと云う事がある。知っているかね」
「知りませんね」
「二人静。ハハハハ面白い花だ」
「何だか因果(いんが)のある花ばかりですね」
「調べさえすれば因果はいくらでもある。御前、梅に幾通(いくとおり)あるか知ってるか」と煙草盆を釣るして、また煙管(きせる)の雁首で灰の中を掻(か)き廻す。宗近君はこの機に乗じて話頭を転換した。
「阿爺(おとっ)さん。今日ね、久しぶりに髪結床(かみゆいどこ)へ行って、頭を刈って来ました」と右の手で黒いところを撫(な)で廻す。
「頭を」と云いながら羅宇(らお)の中ほどを祥瑞(しょんずい)の縁(ふち)でとんと叩(たた)いて灰を落す。
「あんまり奇麗(きれい)にもならんじゃないか」と真向(まむき)に帰ってから云う。
「奇麗にもならんじゃないかって、阿爺(おとっ)さん、こりゃ五分刈(ごぶがり)じゃないですぜ」
「じゃ何刈だい」
「分けるんです」
「分かっていないじゃないか」
「今に分かるようになるんです。真中が少し長いでしょう」
「そう云えば心持長いかな。廃(よ)せばいいのに、見っともない」
「見っともないですか」
「それにこれから夏向は熱苦しくって……」
「ところがいくら熱苦しくっても、こうして置かないと不都合なんです」
「なぜ」
「なぜでも不都合なんです」
「妙な奴だな」
「ハハハハ実はね、阿爺さん」
「うん」
「外交官の試験に及第してね」
「及第したか。そりゃそりゃ。そうか。そんなら早くそう云えば好いのに」
「まあ頭でも拵(こしら)えてからにしようと思って」
「頭なんぞはどうでも好いさ」
「ところが五分刈で外国へ行くと懲役人と間違えられるって云いますからね」
「外国へ――外国へ行くのかい。いつ」
「まあこの髪が延びて小野清三式になる時分でしょう」
「じゃ、まだ一ヵ月くらいはあるな」
「ええ、そのくらいはあります」
「一ヵ月あるならまあ安心だ。立つ前にゆっくり相談も出来るから」
「ええ時間はいくらでもあります。時間の方はいくらでもありますが、この洋服は今日限(こんにちかぎり)御返納に及びたいです」
「ハハハハいかんかい。よく似合うぜ」
「あなたが似合う似合うとおっしゃるから今日まで着たようなものの――至るところだぶだぶしていますぜ」
「そうかそれじゃ廃(よ)すがいい。また阿爺さんが着よう」
「ハハハハ驚いたなあ。それこそ御廃(およ)しなさい」
「廃しても好い。黒田にでもやるかな」
「黒田こそいい迷惑だ」
「そんなにおかしいかな」
「おかしかないが、身体(からだ)に合わないでさあ」
「そうか、それじゃやっぱりおかしいだろう」
「ええ、つまるところおかしいです」
「ハハハハ時に糸にも話したかい」
「試験の事ですか」
「ああ」
「まだ話さないです」
「まだ話さない。なぜ。――全体いつ分ったんだ」
「通知のあったのは二三日前ですがね。つい、忙しいもんだから、まだ誰にも話さない」
「御前は呑気(のんき)過ぎていかんよ」
「なに忘れやしません。大丈夫」
「ハハハハ忘れちゃ大変だ。まあもう、ちっと気をつけるがいい」
「ええこれから糸公に話してやろうと思ってね。――心配しているから。――及第の件とそれからこの頭の説明を」
「頭は好いが――全体どこへ行く事になったのかい。英吉利(イギリス)か、仏蘭西(フランス)か」
「その辺はまだ分らないです。何でも西洋は西洋でしょう」
「ハハハハ気楽なもんだ。まあどこへでも行くが好い」
「西洋なんか行きたくもないんだけれども――まあ順序だから仕方がない」
「うん、まあ勝手な所へ行くがいい」
「支那や朝鮮なら、故(もと)の通(とおり)の五分刈で、このだぶだぶの洋服を着て出掛けるですがね」
「西洋はやかましい。御前のような不作法(ぶさほう)ものには好い修業になって結構だ」
「ハハハハ西洋へ行くと堕落するだろうと思ってね」
「なぜ」
「西洋へ行くと人間を二(ふ)た通(とお)り拵(こしら)えて持っていないと不都合ですからね」
「二た通とは」
「不作法(ぶさほう)な裏と、奇麗な表と。厄介(やっかい)でさあ」
「日本でもそうじゃないか。文明の圧迫が烈(はげ)しいから上部(うわべ)を奇麗にしないと社会に住めなくなる」
「その代り生存競争も烈しくなるから、内部はますます不作法になりまさあ」
「ちょうどなんだな。裏と表と反対の方角に発達する訳になるな。これからの人間は生きながら八(や)つ裂(ざき)の刑を受けるようなものだ。苦しいだろう」
「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の睾丸(きんたま)をつけたような奴(やつ)ばかり出来て、それで落つきが取れるかも知れない。いやだな、そんな修業に出掛けるのは」
「いっそ廃(やめ)にするか。うちにいて親父(おやじ)の古洋服でも着て太平楽を並べている方が好いかも知れない。ハハハハ」
「ことに英吉利(イギリス)人は気に喰わない。一から十まで英国が模範であると云わんばかりの顔をして、何でもかでも我流(がりゅう)で押し通そうとするんですからね」
「だが英国紳士と云って近頃だいぶ評判がいいじゃないか」
「日英同盟だって、何もあんなに賞(ほ)めるにも当らない訳だ。弥次馬共が英国へ行った事もない癖に、旗ばかり押し立てて、まるで日本が無くなったようじゃありませんか」
「うん。どこの国でも表が表だけに発達すると、裏も裏相応に発達するだろうからな。――なに国ばかりじゃない個人でもそうだ」
「日本がえらくなって、英国の方で日本の真似でもするようでなくっちゃ駄目だ」
「御前が日本をえらくするさ。ハハハハ」
 宗近君は日本をえらくするとも、しないとも云わなかった。ふと手を伸(のば)すと更紗(さらさ)の結襟(ネクタイ)が白襟(カラ)の真中(まんなか)まで浮き出して結目(むすびめ)は横に捩(ねじ)れている。
「どうも、この襟飾(えりかざり)は滑(すべ)っていけない」と手探(てさぐり)に位地を正しながら、
「じゃ糸にちょっと話しましょう」と立ちかける。
「まあ御待ち、少し相談がある」
「何ですか」と立ち掛けた尻を卸(おろ)す機会(しお)に、準胡坐(じゅんあぐら)の姿勢を取る。
「実は今までは、御前の位地もまだきまっていなかったから、さほどにも云わなかったが……」
「嫁ですかね」
「そうさ。どうせ外国へ行くなら、行く前にきめるとか、結婚するとか、または連れて行くとか……」
「とても連れちゃ行かれませんよ。金が足りないから」
「連れて行かんでも好い。ちゃんと片をつけて、そうして置いて行くなら。留守中は私(わし)が大事に預かってやる」
「私(わたし)もそうしようと思ってるんです」
「どうだなそこで。気に入った婦人でもあるかな」
「甲野の妹を貰うつもりなんですがね。どうでしょう」
「藤尾(ふじお)かい。うん」
「駄目ですかね」
「なに駄目じゃない」
「外交官の女房にゃ、ああ云うんでないといけないです」
「そこでだて。実は甲野の親父(おやじ)が生きているうち、私と親父の間に、少しはその話もあったんだがな。御前は知らんかも知らんが」
「叔父さんは時計をやると云いました」
「あの金時計かい。藤尾が玩弄(おもちゃ)にするんで有名な」
「ええ、あの太古の時計です」
「ハハハハあれで針が回るかな。時計はそれとして、実は肝心(かんじん)の本人の事だが――この間甲野の母(おっか)さんが来た時、ついでだから話して見たんだがね」
「はあ、何とか云いましたか」
「まことに好い御縁だが、まだ御身分がきまって御出(おいで)でないから残念だけれども……」
「身分がきまらないと云うのは外交官の試験に及第しないと云う意味ですかね」
「まあ、そうだろう」
「だろうはちっと驚ろいたな」
「いや、あの女の云う事は、非常に能弁な代りによく意味が通じないで困る。滔々(とうとう)と述べる事は述べるが、ついに要点が分らない。要するに不経済な女だ」
 多少苦々(にがにが)しい気色(けしき)に、煙管(きせる)でとんと膝頭(ひざがしら)を敲(たた)いた父(おとっ)さんは、視線さえ椽側(えんがわ)の方へ移した。最前植え易(か)えた仏見笑(ぶっけんしょう)が鮮(あざやか)な紅(くれない)を春と夏の境(さかい)に今ぞと誇っている。
「だけれども断ったんだか、断らないんだか分らないのは厄介(やっかい)ですね」
「厄介だよ。あの女にかかると今までも随分厄介な事がだいぶあった。猫撫声(ねこなでごえ)で長ったらしくって――私(わし)ゃ嫌(きらい)だ」
「ハハハハそりゃ好いが――ついに談判は発展しずにしまったんですか」
「つまり先方の云うところでは、御前が外交官の試験に及第したらやってもいいと云うんだ」
「じゃ訳ない。この通り及第したんだから」
「ところがまだあるんだ。面倒な事が。まことにどうも」と云いながら父(おとっ)さんは、手の平を二つ内側へ揃(そろ)えて眼の球をぐりぐり擦(こす)る。眼の球は赤くなる。
「及第しても駄目なんですか」
「駄目じゃあるまいが――欽吾(きんご)がうちを出ると云うそうだ」
「馬鹿な」
「もし出られてしまうと、年寄の世話の仕手がなくなる。だから藤尾に養子をしなければならない。すると宗近へでも、どこへでも嫁にやる訳には行かなくなると、まあこう云うんだな」
「下らない事を云うもんですね。第一甲野が家(うち)を出るなんて、そんな訳がないがな」
「家を出るって、まさか坊主になる料簡(りょうけん)でもなかろうが、つまり嫁を貰って、あの御袋の世話をするのが厭(いや)だと云うんだろうじゃないか」
「甲野が神経衰弱だから、そんな馬鹿気(ばかげ)た事を云うんですよ。間違ってる。よし出るたって――叔母さんが甲野を出して、養子をする気なんですか」
「そうなっては大変だと云って心配しているのさ」
「そんなら藤尾さんを嫁にやっても好さそうなものじゃありませんか」
「好い。好いが、万一の事を考えると私も心細くってたまらないと云うのさ」
「何が何だか分りゃしない。まるで八幡(やわた)の藪不知(やぶしらず)へ這入(はい)ったようなものだ」
「本当に――要領を得ないにも困り切る」
 父(おとっ)さんは額に皺(しわ)を寄せて上眼(うわめ)を使いながら、頭を撫(な)で廻す。
「元来そりゃいつの事です」
「この間だ。今日で一週間にもなるかな」
「ハハハハ私(わたし)の及第報告は二三日後(おく)れただけだが、父さんのは一週間だ。親だけあって、私より倍以上気楽ですぜ」
「ハハハだが要領を得ないからね」
「要領はたしかに得ませんね。早速要領を得るようにして来ます」
「どうして」
「まず甲野に妻帯の件を説諭して、坊主にならないようにしてしまって、それから藤尾さんをくれるかくれないか判然(はっきり)談判して来るつもりです」
「御前一人でやる気かね」
「ええ、一人でたくさんです。卒業してから何にもしないから、せめてこんな事でもしなくっちゃ退屈でいけない」
「うん、自分の事を自分で片づけるのは結構な事だ。一つやって見るが好い」
「それでね。もし甲野が妻(さい)を貰うと云ったら糸をやるつもりですが好いでしょうね」
「それは好い。構わない」
「一先(ひとまず)本人の意志を聞いて見て……」
「聞かんでも好かろう」
「だって、そりゃ聞かなくっちゃいけませんよ。ほかの事とは違うから」
「そんなら聞いて見るが好い。ここへ呼ぼうか」
「ハハハハ親と兄の前で詰問しちゃなおいけない。これから私が聞いて見ます。で当人が好いと云ったら、そのつもりで甲野に話しますからね」
「うん、よかろう」
 宗近君はずんど切(ぎり)の洋袴(ズボン)を二本ぬっと立てた。仏見笑(ぶっけんしょう)と二人静(ふたりしずか)と蜆子和尚(けんすおしょう)と活(い)きた布袋(ほてい)の置物を残して廊下つづきを中二階(ちゅうにかい)へ上る。
 とんとんと二段踏むと妹の御太鼓(おたいこ)が奇麗(きれい)に見える。三段目に水色の絹(リボン)が、横に傾いて、ふっくらした片頬(かたほ)が入口の方に向いた。
「今日は勉強だね。珍らしい。何だい」といきなり机の横へ坐り込む。糸子(いとこ)ははたりと本を伏せた。伏せた上へ肉のついた丸い手を置く。
「何でもありませんよ」
「何でもない本を読むなんて、天下の逸民だね」
「どうせ、そうよ」
「手を放したって好いじゃないか。まるで散らしでも取ったようだ」
「散らしでも何でも好くってよ。御生(ごしょう)だからあっちへ行ってちょうだい」
「大変邪魔にするね。糸公、父(おと)っさんが、そう云ってたぜ」
「何て」
「糸はちっと女大学でも読めば好いのに、近頃は恋愛小説ばかり読んでて、まことに困るって」
「あら嘘(うそ)ばっかり。私がいつそんなものを読んで」
「兄さんは知らないよ。阿父(おとっ)さんがそう云うんだから」
「嘘よ、阿父様(おとうさま)がそんな事をおっしゃるもんですか」
「そうかい。だって、人が来ると読み掛けた本を伏せて、枡落(ますおと)し見たように一生懸命におさえているところをもって見ると、阿父さんの云うところもまんざら嘘とは思えないじゃないか」
「嘘ですよ。嘘だって云うのに、あなたもよっぽど卑劣な方ね」
「卑劣は一大痛棒だね。注意人物の売国奴(ばいこくど)じゃないかハハハハ」
「だって人の云う事を信用なさらないんですもの。そんなら証拠を見せて上げましょうか。ね。待っていらっしゃいよ」
 糸子は抑えた本を袖(そで)で隠さんばかりに、机から手本(てもと)へ引き取って、兄の見えぬように帯の影に忍ばした。
「掏(す)り替(か)えちゃいけないぜ」
「まあ黙って、待っていらっしゃい」
 糸子は兄の眼を掠(かす)めて、長い袖の下に隠した本を、しきりに細工していたが、やがて
「ほら」と上へ出す。
 両手で叮嚀(ていねい)に抑えた頁(ページ)の、残る一寸角(いっすんかく)の真中に朱印が見える。
「見留(みとめ)じゃないか。なんだ――甲野」
「分ったでしょう」
「借りたのかい」
「ええ。恋愛小説じゃないでしょう」
「種を見せない以上は何とも云えないが、まあ勘弁してやろう。時に糸公御前今年幾歳(いくつ)になるね」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ないだって区役所へ行きゃ、すぐ分る事だが、ちょいと参考のために聞いて見るんだよ。隠さずに云う方が御前の利益だ」
「隠さずに云う方がだって――何だか悪い事でもしたようね。私(わたし)厭(いや)だわ、そんなに強迫されて云うのは」
「ハハハハさすが哲学者の御弟子だけあって、容易に権威に服従しないところが感心だ。じゃ改めて伺うが、取って御幾歳(おいくつ)ですか」
「そんな茶化(ちゃか)したって、誰が云うもんですか」
「困ったな。叮嚀(ていねい)に云えば云うで怒るし。――一だったかね。二かい」
「おおかたそんなところでしょう」
「判然しないのか。自分の年が判然しないようじゃ、兄さんも少々心細いな。とにかく十代じゃないね」
「余計な御世話じゃありませんか。人の年齢(とし)なんぞ聞いて。――それを聞いて何になさるの」
「なに別の用でもないが、実は糸公を御嫁にやろうと思ってさ」
 冗談半分に相手になって、調戯(からかわ)れていた妹の様子は突然と変った。熱い石を氷の上に置くと見る見る冷(さ)めて来る。糸子は一度に元気を放散した。同時に陽気な眼を陰に俯(ふ)せて、畳みの目を勘定(かんじょう)し出した。
「どうだい、御嫁は。厭(いや)でもないだろう」
「知らないわ」と低い声で云う。やっぱり下を向いたままである。
「知らなくっちゃ困るね。兄さんが行くんじゃない、御前が行くんだ」
「行くって云いもしないのに」
「じゃ行かないのか」
 糸子は頭(かぶり)を竪(たて)に振った。
「行かない? 本当に」
 答はなかった。今度は首さえ動かさない。
「行かないとなると、兄さんが切腹しなけりゃならない。大変だ」
 俯向(うつむ)いた眼の色は見えぬ。ただ豊(ゆたか)なる頬を掠(かす)めて笑の影が飛び去った。
「笑い事じゃない。本当に腹を切るよ。好いかね」
「勝手に御切んなさい」と突然顔を上げた。にこにこと笑う。
「切るのは好いが、あんまり深刻だからね。なろう事ならこのまんまで生きている方が、御互に便利じゃないか。御前だってたった一人の兄さんに腹を切らしたって、つまらないだろう」
「誰もつまると云やしないわ」
「だから兄さんを助けると思ってうんと御云い」
「だって訳も話さないで、藪(やぶ)から棒(ぼう)にそんな無理を云ったって」
「訳は聞(きき)さえすれば、いくらでも話すさ」
「好くってよ、訳なんか聞かなくっても、私御嫁なんかに行かないんだから」
「糸公御前の返事は鼠花火(ねずみはなび)のようにくるくる廻っているよ。錯乱体(さくらんたい)だ」
「何ですって」
「なに、何でもいい、法律上の術語だから――それでね、糸公、いつまで行っても埓(らち)が明かないから、一(ひ)と思(おもい)に打ち明けて話してしまうが、実はこうなんだ」
「訳は聞いても御嫁にゃ行かなくってよ」
「条件つきに聞くつもりか。なかなか狡猾(こうかつ)だね。――実は兄さんが藤尾さんを御嫁に貰おうと思うんだがね」
「まだ」
「まだって今度(こんだ)が始(はじめ)てだね」
「だけれど、藤尾さんは御廃(およ)しなさいよ。藤尾さんの方で来たがっていないんだから」
「御前この間もそんな事を云ったね」
「ええ、だって、厭(いや)がってるものを貰わなくっても好いじゃありませんか。ほかに女がいくらでも有るのに」
「そりゃ大いにごもっともだ。厭なものを強請(ねだ)るなんて卑怯な兄さんじゃない。糸公の威信にも関係する。厭なら厭と事がきまればほかに捜すよ」
「いっそそうなすった方がいいでしょう」
「だがその辺が判然しないからね」
「だから判然させるの。まあ」と内気な妹は少し驚いたように眼を机の上に転じた。
「この間甲野の御叔母(おば)さんが来て、下で内談をしていたろう。あの時その話があったんだとさ。叔母さんが云うには、今はまだいけないが、一(はじめ)さんが外交官の試験に及第して、身分がきまったら、どうでも御相談を致しましょうって阿爺(おとっさん)に話したそうだ」
「それで」
「だから好いじゃないか、兄さんがちゃんと外交官の試験に及第したんだから」
「おや、いつ」
「いつって、ちゃんと及第しちまったんだよ」
「あら、本当なの、驚ろいた」
「兄が及第して驚ろく奴があるもんか。失礼千万な」
「だって、そんなら早くそうおっしゃれば好いのに。これでもだいぶ心配して上げたんだわ」
「全く御前の御蔭(おかげ)だよ。大いに感泣(かんきゅう)しているさ。感泣はしているようなものの忘れちまったんだから仕方がない」
 兄妹は隔(へだて)なき眼と眼を見合せた。そうして同時に笑った。
 笑い切った時、兄が云う。
「そこで兄さんもこの通り頭を刈って、近々(きんきん)洋行するはずになったんだが、阿父(おとっ)さんの云うには、立つ前に嫁を貰(もら)って人格を作ってけって責めるから、兄さんが、どうせ貰うなら藤尾さんを貰いましょう。外交官の妻君にはああ云うハイカラでないと将来困るからと云ったのさ」
「それほど御気に入ったら藤尾さんになさい。――女を見るのはやっぱり女の方が上手ね」
「そりゃ才媛糸公の意見に間違はなかろうから、充分兄さんも参考にはするつもりだが、とにかく判然談判をきめて来なくっちゃいけない。向うだって厭(いや)なら厭と云うだろう。外交官の試験に及第したからって、急に気が変って参りましょうなんて軽薄な事は云うまい」
 糸子は微(かす)かな笑を、二三段に切って鼻から洩(もら)した。
「云うかね」
「どうですか。聞いて御覧なさらなくっちゃ――しかし聞くなら欽吾さんに御聞きなさいよ。恥を掻(か)くといけないから」
「ハハハハ厭なら断(ことわ)るのが天下の定法(じょうほう)だ。断わられたって恥じゃない……」
「だって」
「……ないが甲野に聞くよ。聞く事は甲野に聞くが――そこに問題がある」
「どんな」
「先決問題がある。――先決問題だよ、糸公」
「だから、どんなって、聞いてるじゃありませんか」
「ほかでもないが、甲野が坊主になるって騒ぎなんだよ」
「馬鹿をおっしゃい。縁喜(えんぎ)でもない」
「なに、今の世に坊主になるくらいな決心があるなら、縁喜はともかく、大(おおい)に慶すべき現象だ」
「苛(ひど)い事を……だって坊さんになるのは、酔興(すいきょう)になるんじゃないでしょう」
「何とも云えない。近頃のように煩悶(はんもん)が流行した日にゃ」
「じゃ、兄さんからなって御覧なさいよ」
「酔興にかい」
「酔興でも何でもいいから」
「だって五分刈(ごぶがり)でさえ懲役人と間違えられるところを青坊主になって、外国の公使館に詰めていりゃ気違としきゃ思われないもの。ほかの事なら一人の妹の事だから何でも聞くつもりだが、坊主だけは勘弁して貰いたい。坊主と油揚(あぶらげ)は小供の時から嫌(きらい)なんだから」
「じゃ欽吾さんもならないだって好いじゃありませんか」
「そうさ、何だか論理(ロジック)が少し変だが、しかしまあ、ならずに済むだろうよ」
「兄さんのおっしゃる事はどこまでが真面目(まじめ)でどこまでが冗談(じょうだん)だか分らないのね。それで外交官が勤まるでしょうか」
「こう云うんでないと外交官には向かないとさ」
「人を……それで欽吾さんがどうなすったんですよ。本当のところ」
「本当のところ、甲野がね。家(うち)と財産を藤尾にやって、自分は出てしまうと云うんだとさ」
「なぜでしょう」
「つまり、病身で御叔母(おば)さんの世話が出来ないからだそうだ」
「そう、御気の毒ね。ああ云う方は御金も家もいらないでしょう。そうなさる方が好いかも知れないわ」
「そう御前まで賛成しちゃ、先決問題が解決しにくくなる」
「だって御金が山のようにあったって、欽吾さんには何にもならないでしょう。それよりか藤尾さんに上げる方が好(よ)ござんすよ」
「御前は女に似合わず気前が好いね。もっとも人のものだけれども」
「私だって御金なんかいりませんわ。邪魔になるばかりですもの」
「邪魔にするほどないからたしかだ。ハハハハ。しかしその心掛は感心だ。尼になれるよ」
「おお厭(いや)だ。尼だの坊さんだのって大嫌い」
「そこだけは兄さんも賛成だ。しかし自分の財産を棄てて吾家(わがいえ)を出るなんて馬鹿気(ばかげ)ている。財産はまあいいとして、――欽吾に出られればあとが困るから藤尾に養子をする。すると一(はじめ)さんへは上げられませんと、こう御叔母(おば)さんが云うんだよ。もっともだ。つまり甲野のわがままで兄さんの方が破談になると云う始末さ」
「じゃ兄さんが藤尾さんを貰うために、欽吾さんを留めようと云うんですね」
「まあ一面から云えばそうなるさ」
「それじゃ欽吾さんより兄さんの方がわがままじゃありませんか」
「今度は非常に論理的(ロジカル)に来たね。だってつまらんじゃないか、当然相続している財産を捨てて」
「だって厭(いや)なら仕方がないわ」
「厭だなんて云うのは神経衰弱のせいだあね」
「神経衰弱じゃありませんよ」
「病的に違ないじゃないか」
「病気じゃありません」
「糸公、今日は例に似ず大いに断々乎(だんだんこ)としているね」
「だって欽吾さんは、ああ云う方なんですもの。それを皆(みんな)が病気にするのは、皆の方が間違っているんです」
「しかし健全じゃないよ。そんな動議を呈出するのは」
「自分のものを自分が棄(す)てるんでしょう」
「そりゃごもっともだがね……」
「要(い)らないから棄てるんでしょう」
「要らないって……」
「本当に要らないんですよ、甲野さんのは。負惜(まけおし)みや面当(つらあて)じゃありません」
「糸公、御前は甲野の知己(ちき)だよ。兄さん以上の知己だ。それほど信仰しているとは思わなかった」
「知己でも知己でなくっても、本当のところを云うんです。正しい事を云うんです。叔母さんや藤尾さんがそうでないと云うんなら、叔母さんや藤尾さんの方が間違ってるんです。私は嘘を吐(つ)くのは大嫌(だいきらい)です」
「感心だ。学問がなくっても誠から出た自信があるから感心だ。兄さん大賛成だ。それでね、糸公、改めて相談するが甲野が家(うち)を出ても出なくっても、財産をやってもやらなくっても、御前甲野のところへ嫁に行く気はあるかい」
「それは話がまるで違いますわ。今云ったのはただ正直なところを云っただけですもの。欽吾さんに御気の毒だから云ったんです」
「よろしい。なかなか訳が分っている。妹ながら見上げたもんだ。だから別問題として聞くんだよ。どうだね厭(いや)かい」
「厭だって……」とと言い懸(か)けて糸子は急に俯向(うつむ)いた。しばらくは半襟(はんえり)の模様を見詰めているように見えた。やがて瞬(しばたた)く睫(まつげ)を絡(から)んで一雫(ひとしずく)の涙がぽたりと膝(ひざ)の上に落ちた。
「糸公、どうしたんだ。今日は天候劇変(げきへん)で兄さんに面喰(めんくら)わしてばかりいるね」
 答のない口元が結んだまましゃくんで、見るうちにまた二雫(ふたしずく)落ちた。宗近君は親譲の背広(せびろ)の隠袋(かくし)から、くちゃくちゃの手巾(ハンケチ)をするりと出した。
「さあ、御拭き」と云いながら糸子の胸の先へ押し付ける。妹は作りつけの人形のようにじっとして動かない。宗近君は右の手に手巾を差し出したまま、少し及び腰になって、下から妹の顔を覗(のぞ)き込む。
「糸公厭(いや)なのかい」
 糸子は無言のまま首を掉(ふ)った。
「じゃ、行く気だね」
 今度は首が動かない。
 宗近君は手巾を妹の膝の上に落したまま、身体(からだ)だけを故(もと)へ戻す。
「泣いちゃいけないよ」と云って糸子の顔を見守っている。しばらくは双方共言葉が途切れた。
 糸子はようやく手巾を取上げる。粗(あら)い銘仙(めいせん)の膝が少し染(しみ)になった。その上へ、手巾の皺(しわ)を叮嚀(ていねい)に延(の)して四つ折に敷いた。角(かど)をしっかり抑えている。それから眼を上げた。眼は海のようである。
「私は御嫁には行きません」と云う。
「御嫁には行かない」とほとんど無意味に繰り返した宗近君は、たちまち勢をつけて
「冗談云っちゃいけない。今厭じゃないと云ったばかりじゃないか」
「でも、欽吾さんは御嫁を御貰いなさりゃしませんもの」
「そりゃ聞いて見なけりゃ――だから兄さんが聞きに行くんだよ」
「聞くのは廃(よ)してちょうだい」
「なぜ」
「なぜでも廃してちょうだい」
「じゃしようがない」
「しようがなくっても好いから廃してちょうだい。私は今のままでちっとも不足はありません。これで好いんです。御嫁に行くとかえっていけません」
「困ったな、いつの間(ま)に、そう硬くなったんだろう。
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