虞美人草
是非お友達にも!
◇暇つぶし何某◇

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著者名:夏目漱石 

「母が帰って来たのです」と女は坐(すわ)ったまま、何気なく云う。
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を判然(はっき)と外に露(あら)わさぬうちは罪にはならん。取り返しのつく謎(なぞ)は、法庭(ほうてい)の証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。何人(なんびと)も後指(うしろゆび)を指(さ)す事は出来ぬ。出来れば向うが悪(わ)るい。天下はあくまでも太平である。
「御母(おっか)さんは、どちらへか行らしったんですか」
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ち懸(か)ける前に居住(いずまい)をちょっと繕(つく)ろい直す。洋袴(ズボン)の襞(ひだ)の崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、突(つ)っかい棒(ぼう)に、尻を挙げるための、膝頭(ひざがしら)に揃(そろ)えた両手は、雪のようなカフスに甲(こう)まで蔽(おお)われて、くすんだ鼠縞(ねずみじま)の袖の下から、七宝(しっぽう)の夫婦釦(めおとボタン)が、きらりと顔を出している。
「まあ御緩(ごゆっ)くりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える気色(けしき)もない。男はもとより尻を上げるのは厭(いや)である。
「しかし」と云いながら、隠袋(かくし)の中を捜(さ)ぐって、太い巻煙草(まきたばこ)を一本取り出した。煙草の煙は大抵のものを紛(まぎ)らす。いわんやこれは金の吸口の着いた埃及産(エジプトさん)である。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰を据(す)え直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでも詰(つづ)める便(たより)が出来んとも限らぬ。
 薄い煙りの、黒い口髭(くちひげ)を越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、
「まあ、御坐り遊ばせ」と叮嚀(ていねい)な命令を下した。
 男は無言のまま再び膝(ひざ)を崩(くず)す。御互に春の日は永い。
「近頃は女ばかりで淋(さむ)しくっていけません」
「甲野君はいつ頃(ごろ)御帰りですか」
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」
「御音信(おたより)が有りますか」
「いいえ」
「時候が好いから京都は面白いでしょう」
「あなたもいっしょに御出(おいで)になればよかったのに」
「私(わたし)は……」と小野さんは後を暈(ぼ)かしてしまう。
「なぜ行らっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古い御馴染(おなじみ)じゃありませんか」
「え?」
 小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。
「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」
「それで御馴染なんですか」
「ええ」
「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」
「随分不人情ね」
「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的真面目(まじめ)になって、埃及煙草(エジプトたばこ)を肺の中まで吸い込んだ。
「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。
「御母(おっか)さんでしょう」と小野さんが聞く。
「ええ」
「私(わたし)はもう帰ります」
「なぜです」
「でも何か御用が御在(おあ)りになるんでしょう」
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと御免蒙(ごめんこうむ)ります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」
 藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。平床(ひらどこ)に据えた古薩摩(こさつま)の香炉(こうろ)に、いつ焼(た)き残したる煙の迹(あと)か、こぼれた灰の、灰のままに崩(くず)れもせず、藤尾の部屋は昨日(きのう)も今日も静かである。敷き棄てた八反(はったん)の座布団(ざぶとん)に、主(ぬし)を待つ間(ま)の温気(ぬくもり)は、軽く払う春風に、ひっそり閑(かん)と吹かれている。
 小野さんは黙然(もくねん)と香炉(こうろ)を見て、また黙然と布団を見た。崩(くず)し格子(ごうし)の、畳から浮く角に、何やら光るものが奥に挟(はさ)まっている。小野さんは少し首を横にして輝やくものを物色して考えた。どうも時計らしい。今までは頓(とん)と気がつかなかった。藤尾の立つ時に、絹障(きぬざわり)のしなやかに、布団(ふとん)が擦(ず)れて、隠したものが出掛ったのかも知れぬ。しかし布団の下に時計を隠す必要はあるまい。小野さんは再び布団の下を覗(のぞ)いて見た。松葉形(まつばがた)に繋(つな)ぎ合せた鎖の折れ曲って、表に向いている方が、細く光線を射返す奥に、盛り上がる七子(ななこ)の縁(ふち)が幽(かす)かに浮いている。たしかに時計に違ない。小野さんは首を傾けた。
 金は色の純にして濃きものである。富貴(ふうき)を愛するものは必ずこの色を好む。栄誉を冀(こいねが)うものは必ずこの色を撰(えら)む。盛名を致すものは必ずこの色を飾る。磁石(じしゃく)の鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なき護謨(ゴム)である。一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。
 折柄(おりから)向う座敷の方角から、絹のざわつく音が、曲(ま)がり椽(えん)を伝わって近づいて来る。小野さんは覗(のぞ)き込んだ眼を急に外(そ)らして、素知らぬ顔で、容斎(ようさい)の軸(じく)を真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。
 黒縮緬(くろちりめん)の三つ紋を撫(な)で肩(がた)に着こなして、くすんだ半襟(はんえり)に、髷(まげ)ばかりを古風につやつやと光らしている。
「おやいらっしゃい」と御母(おっか)さんは軽く会釈(えしゃく)して、椽に近く座を占める。鶯(うぐいす)も鳴かぬ代りに、目に立つほどの塵もなく掃除の行き届いた庭に、長過ぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、何となく同一体のように思われる。
「藤尾が始終(しじゅう)御厄介(ごやっかい)になりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。まるで小供でございますから――さあ、どうぞ御楽(おらく)に――いつも御挨拶(ごあいさつ)を申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみ致します。――どうも実に赤児(ねんね)で、困り切ります、駄々ばかり捏(こ)ねまして――でも英語だけは御蔭(おかげ)さまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――何兄がいるのでございますから、教えて貰えば好いのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟は行(ゆ)かんものと見えまして――」
 御母さんの弁舌は滾々(こんこん)としてみごとである。小野さんは一字の間投詞を挟(さしはさ)む遑(いと)まなく、口車(くちぐるま)に乗って馳(か)けて行く。行く先は固(もと)より判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いて続(つづき)を読んでいる。
「花を墓に、墓に口を接吻(くちづけ)して、憂(う)きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、浴湯(ゆ)をこそと召す。浴(ゆあ)みしたる後(のち)は夕餉(ゆうげ)をこそと召す。この時賤(いや)しき厠卒(こもの)ありて小さき籃(かご)に無花果(いちじく)を盛りて参らす。女王の該撒(シイザア)に送れる文(ふみ)に云う。願わくは安図尼(アントニイ)と同じ墓にわれを埋(うず)めたまえと。無花果(いちじく)の繁れる青き葉陰にはナイルの泥(つち)の□(ほのお)の舌(した)を冷やしたる毒蛇(どくだ)を、そっと忍ばせたり。該撒(シイザア)の使は走る。闥(たつ)を排して眼(まなこ)を射れば――黄金(こがね)の寝台に、位高き装(よそおい)を今日と凝(こ)らして、女王の屍(しかばね)は是非なく横(よこた)わる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王の頭(かしら)のあたりに、月黒き夜(よ)の露をあつめて、千顆(せんか)の珠(たま)を鋳たる冠(かんむり)の、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。埃及(エジプト)の御代(みよ)しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目を瞑(ねむ)る」
 埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、焚(た)き罩(こ)むる錬香(ねりこう)の尽きなんとして幽(かす)かなる尾を虚冥(きょめい)に曳(ひ)くごとく、全(まった)き頁(ページ)が淡く霞(かす)んで見える。
「藤尾」と知らぬ御母(おっか)さんは呼ぶ。
 男はやっと寛容(くつろい)だ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は俯向(うつむい)ている。
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
 女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ廂髪(ひさしがみ)の、白い額に接(つづ)く下から、骨張らぬ細い鼻を承(う)けて、紅(くれない)を寸(すん)に織る唇が――唇をそと滑(すべ)って、頬(ほお)の末としっくり落ち合う□(あご)が――□を棄(す)ててなよやかに退(ひ)いて行く咽喉(のど)が――しだいと現実世界に競(せ)り出して来る。
「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。
「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変奇麗(きれい)な――汚(よご)さないようになさいよ。本なぞは大事にしないと――」
「大事にしていますわ」
「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」
「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」
「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口を開(ひら)いた。
「いえ、あなた、どうもわがまま者(もの)の寄り合いだもんでござんすから、始終(しじゅう)、小供のように喧嘩(けんか)ばかり致しまして――こないだも兄の本を……」と御母さんは藤尾の方を見て、言おうか、言うまいかと云う態度を取る。同情のある恐喝(きょうかつ)手段は長者(ちょうしゃ)の好んで年少に対して用いる遊戯である。

◇ピンチです!◇
★暇つぶし何某★

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