虞美人草
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著者名:夏目漱石 

        二

 紅(くれない)を弥生(やよい)に包む昼酣(たけなわ)なるに、春を抽(ぬき)んずる紫(むらさき)の濃き一点を、天地(あめつち)の眠れるなかに、鮮(あざ)やかに滴(した)たらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりも艶(あでやか)に眺(なが)めしむる黒髪を、乱るるなと畳める鬢(びん)の上には、玉虫貝(たまむしかい)を冴々(さえさえ)と菫(すみれ)に刻んで、細き金脚(きんあし)にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き眸(ひとみ)のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴(はんてき)のひろがりに、一瞬の短かきを偸(ぬす)んで、疾風の威(い)を作(な)すは、春にいて春を制する深き眼(まなこ)である。この瞳(ひとみ)を遡(さかのぼ)って、魔力の境(きょう)を窮(きわ)むるとき、桃源(とうげん)に骨を白うして、再び塵寰(じんかん)に帰るを得ず。ただの夢ではない。糢糊(もこ)たる夢の大いなるうちに、燦(さん)たる一点の妖星(ようせい)が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、眉(まゆ)近く逼(せま)るのである。女は紫色の着物を着ている。
 静かなる昼を、静かに栞(しおり)を抽(ぬ)いて、箔(はく)に重き一巻を、女は膝の上に読む。
「墓の前に跪(ひざま)ずいて云う。この手にて――この手にて君を埋(うず)め参らせしを、今はこの手も自由ならず。捕われて遠き国に、行くほどもあらねば、この手にて君が墓を掃(はら)い、この手にて香(こう)を焚(た)くべき折々の、長(とこ)しえに尽きたりと思いたまえ。生ける時は、莫耶(ばくや)も我らを割(さ)き難きに、死こそ無惨(むざん)なれ。羅馬(ロウマ)の君は埃及(エジプト)に葬むられ、埃及なるわれは、君が羅馬に埋(うず)められんとす。君が羅馬は――わが思うほどの恩を、憂(う)きわれに拒(こば)める、君が羅馬は、つれなき君が羅馬なり。されど、情(なさけ)だにあらば、羅馬の神は、よも生きながらの辱(はずかしめ)に、市(いち)に引かるるわれを、雲の上よりよそに見たまわざるべし。君が仇(あだ)なる人の勝利を飾るわれを。埃及の神に見離されたるわれを。君が片身と残したまえるわが命こそ仇なれ。情ある羅馬の神に祈る。――われを隠したまえ。恥見えぬ墓の底に、君とわれを永劫(えいごう)に隠したまえ。」
 女は顔を上げた。蒼白(あおしろ)き頬(ほお)の締(しま)れるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、一重(ひとえ)の底に、余れる何物かを蔵(かく)せるがごとく、蔵せるものを見極(みき)わめんとあせる男はことごとく虜(とりこ)となる。男は眩(まばゆ)げに半(なか)ば口元を動かした。口の居住(いずまい)の崩(くず)るる時、この人の意志はすでに相手の餌食(えじき)とならねばならぬ。下唇(したくちびる)のわざとらしく色めいて、しかも判然(はっき)と口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損う。
 女はただ隼(はやぶさ)の空を搏(う)つがごとくちらと眸(ひとみ)を動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負はすでについた。舌を□頭(あごさき)に飛ばして、泡吹く蟹(かに)と、烏鷺(うろ)を争うは策のもっとも拙(つた)なきものである。風励鼓行(ふうれいここう)して、やむなく城下(じょうか)の誓(ちかい)をなさしむるは策のもっとも凡(ぼん)なるものである。蜜(みつ)を含んで針を吹き、酒を強(し)いて毒を盛るは策のいまだ至らざるものである。最上の戦には一語をも交うる事を許さぬ。拈華(ねんげ)の一拶(いっさつ)は、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にしてまた不語である。ただ躊躇(ちゅうちょ)する事刹那(せつな)なるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼに迷(まよい)と書き、惑(まどい)と書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云う間(ま)に引き上げる。下界万丈(げかいばんじょう)の鬼火(おにび)に、腥(なまぐ)さき青燐(せいりん)を筆の穂に吹いて、会釈(えしゃく)もなく描(えが)き出(いだ)せる文字は、白髪(しらが)をたわしにして洗っても容易(たやす)くは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑を引き戻す訳(わけ)には行くまい。
「小野(おの)さん」と女が呼びかけた。
「え?」とすぐ応じた男は、崩(くず)れた口元を立て直す暇(いとま)もない。唇に笑(えみ)を帯びたのは、半ば無意識にあらわれたる、心の波を、手持無沙汰(てもちぶさた)に草書に崩(くず)したまでであって、崩したものの尽きんとする間際(まぎわ)に、崩すべき第二の波の来ぬのを煩(わずら)っていた折であるから、渡りに船の「え?」は心安く咽喉(のど)を滑(すべ)り出たのである。女は固(もと)より曲者(くせもの)である。「え?」と云わせたまま、しばらくは何にも云わぬ。
「何ですか」と男は二の句を継(つ)いだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯といえども常にこの感を起す。いわんや今、紫の女のほかに、何ものも映(うつ)らぬ男の眼には、二の句は固(もと)より愚かである。
 女はまだ何(なん)にも言わぬ。床(とこ)に懸(か)けた容斎(ようさい)の、小松に交(まじ)る稚子髷(ちごまげ)の、太刀持(たちもち)こそ、昔(むか)しから長閑(のどか)である。狩衣(かりぎぬ)に、鹿毛(かげ)なる駒(こま)の主人(あるじ)は、事なきに慣(な)れし殿上人(てんじょうびと)の常か、動く景色(けしき)も見えぬ。ただ男だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた、二の矢のあたった所は判然せぬ。これが外(そ)れれば、また継がねばならぬ。男は気息(いき)を凝(こ)らして女の顔を見詰めている。肉の足らぬ細面(ほそおもて)に予期の情(じょう)を漲(みなぎ)らして、重きに過ぐる唇の、奇(き)か偶(ぐう)かを疑がいつつも、手答(てごたえ)のあれかしと念ずる様子である。
「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向って彎(ひ)ける弓の、危うくも吾(わ)が頭の上に、瓢箪羽(ひょうたんば)を舞い戻したようなものである。男の我を忘れて、相手を見守るに引き反(か)えて、女は始めより、わが前に坐(す)われる人の存在を、膝(ひざ)に開(ひら)ける一冊のうちに見失っていたと見える。その癖、女はこの書物を、箔(はく)美しと見つけた時、今携(たずさ)えたる男の手から□(も)ぎ取るようにして、読み始めたのである。
 男は「ええ」と申したぎりであった。
「この女は羅馬(ロウマ)へ行くつもりなんでしょうか」
 女は腑(ふ)に落ちぬ不快の面持(おももち)で男の顔を見た。小野さんは「クレオパトラ」の行為に対して責任を持たねばならぬ。
「行きはしませんよ。行きはしませんよ」
と縁もない女王を弁護したような事を云う。
「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく納得(なっとく)する。小野さんは暗い隧道(トンネル)を辛(かろ)うじて抜け出した。
「沙翁(シェクスピヤ)の書いたものを見るとその女の性格が非常によく現われていますよ」
 小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗って馳(か)け出そうとする。魚は淵(ふち)に躍(おど)る、鳶(とび)は空に舞う。小野さんは詩の郷(くに)に住む人である。
 稜錐塔(ピラミッド)の空を燬(や)く所、獅身女(スフィンクス)の砂を抱く所、長河(ちょうが)の鰐魚(がくぎょ)を蔵する所、二千年の昔妖姫(ようき)クレオパトラの安図尼(アントニイ)と相擁して、駝鳥(だちょう)の□□(しょうしょう)に軽く玉肌(ぎょっき)を払える所、は好画題であるまた好詩料である。小野さんの本領である。
「沙翁の描(か)いたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります」
「どんな心持ちに?」
「古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、紫色(むらさきいろ)のクレオパトラが眼の前に鮮(あざ)やかに映って来ます。剥(は)げかかった錦絵(にしきえ)のなかから、たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ます」
「紫? よく紫とおっしゃるのね。なぜ紫なんです」
「なぜって、そう云う感じがするのです」
「じゃ、こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長き袖(そで)を、さっと捌(さば)いて、小野さんの鼻の先に翻(ひるが)えす。小野さんの眉間(みけん)の奥で、急にクレオパトラの臭(におい)がぷんとした。
「え?」と小野さんは俄然(がぜん)として我に帰る。空を掠(かす)める子規(ほととぎす)の、駟(し)も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたるごとく、ちらと動ける異(あや)しき色は、疾(と)く収まって、美くしい手は膝頭(ひざがしら)に乗っている。脈打(みゃくう)つとさえ思えぬほどに静かに乗っている。
 ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、恋々(れんれん)と遠のく後(あと)を追うて、小野さんの心は杳窕(ようちょう)の境に誘(いざな)われて、二千年のかなたに引き寄せらるる。
「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息(ためいき)の恋じゃありません。暴風雨(あらし)の恋、暦(こよみ)にも録(の)っていない大暴雨(おおあらし)の恋。九寸五分の恋です」と小野さんが云う。
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋を斬(き)ると紫色の血が出るというのですか」
「恋が怒(おこ)ると九寸五分が紫色に閃(ひか)ると云うのです」
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
「沙翁(シェクスピヤ)が描(か)いた所を私(わたし)が評したのです。――安図尼(アントニイ)が羅馬(ロウマ)でオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の報道(しらせ)を持って来た時に――クレオパトラの……」
「紫が嫉妬(しっと)で濃く染まったんでしょう」
「紫が埃及(エジプト)の日で焦(こ)げると、冷たい短刀が光ります」
「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言う間(ま)もなく長い袖(そで)が再び閃(ひらめ)いた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むるところがある時でさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔を眺(なが)めている。
「そこでクレオパトラがどうしました」と抑(おさ)えた女は再び手綱(たづな)を緩(ゆる)める。小野さんは馳(か)け出さなければならぬ。
「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、詰(なじ)り方が、性格を活動させているから面白い。オクテヴィヤは自分のように背(せい)が高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を追窮(ついきゅう)します。……」
「全体追窮する人の年はいくつなんです」
「クレオパトラは三十ばかりでしょう」
「それじゃ私に似てだいぶ御婆(おばあ)さんね」
 女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しき靨(えくぼ)のなかに捲(ま)き込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すれば偽(いつわ)りになる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。皓(しろ)い歯に交る一筋の金の耀(かがや)いてまた消えんとする間際(まぎわ)まで、男は何の返事も出なかった。女の年は二十四である。小野さんは、自分と三つ違である事を疾(と)うから知っている。
 美しき女の二十(はたち)を越えて夫(おっと)なく、空(むな)しく一二三を数えて、二十四の今日(きょう)まで嫁(とつ)がぬは不思議である。春院(しゅんいん)いたずらに更(ふ)けて、花影(かえい)欄(おばしま)にたけなわなるを、遅日(ちじつ)早く尽きんとする風情(ふぜい)と見て、琴(こと)を抱(いだ)いて恨(うら)み顔なるは、嫁ぎ後(おく)れたる世の常の女の習(ならい)なるに、麈尾(ほっす)に払う折々の空音(そらね)に、琵琶(びわ)らしき響を琴柱(ことじ)に聴いて、本来ならぬ音色(ねいろ)を興あり気に楽しむはいよいよ不思議である。仔細(しさい)は固(もと)より分らぬ。この男とこの女の、互に語る言葉の影から、時々に覗(のぞ)き込んで、いらざる臆測(おくそく)に、うやむやなる恋の八卦(はっけ)をひそかに占(うら)なうばかりである。
「年を取ると嫉妬(しっと)が増して来るものでしょうか」と女は改たまって、小野さんに聞いた。
 小野さんはまた面喰(めんくら)う。詩人は人間を知らねばならん。女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬ事は答えられる訳(わけ)がない。中年の人の嫉妬を見た事のない男は、いくら詩人でも文士でも致し方がない。小野さんは文字に堪能(かんのう)なる文学者である。
「そうですね。やっぱり人に因(よ)るでしょう」
 角(かど)を立てない代りに挨拶(あいさつ)は濁っている。それで済ます女ではない。
「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」
「あなたが――あなたに嫉妬(しっと)なんて、そんなものは、今だって……」
「有りますよ」
 女の声は静かなる春風(はるかぜ)をひやりと斬(き)った。詩の国に遊んでいた男は、急に足を外(はず)して下界に落ちた。落ちて見ればただの人である。相手は寄りつけぬ高い崖(がけ)の上から、こちらを見下(みおろ)している。自分をこんな所に蹴落(けおと)したのは誰だと考える暇もない。
「清姫(きよひめ)が蛇(じゃ)になったのは何歳(いくつ)でしょう」
「左様(さよう)、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」
「安珍(あんちん)は」
「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」
「小野さん」
「ええ」
「あなたは御何歳(おいくつ)でしたかね」
「私(わたし)ですか――私はと……」
「考えないと分らないんですか」
「いえ、なに――たしか甲野君と御同(おな)い年(どし)でした」
「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽど老(ふ)けて見えますよ」
「なに、そうでも有りません」
「本当よ」
「何か奢(おご)りましょうか」
「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」
「そんなに見えますか」
「まるで坊っちゃんのようですよ」
「可愛想(かわいそう)に」
「可愛らしいんですよ」
 女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の極(きわ)まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかは固(もと)より知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必(かなら)ず女である。男は必ず負ける。具象(ぐしょう)の籠(かご)の中に飼(か)われて、個体の粟(あわ)を喙(ついば)んでは嬉しげに羽搏(はばたき)するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音(ね)を競うものは必ず斃(たお)れる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴き損(そこ)ねた。
「可愛らしいんですよ。ちょうど安珍(あんちん)のようなの」
「安珍は苛(ひど)い」
 許せと云わぬばかりに、今度は受け留(と)めた。
「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
「だって……」
「だって、何が御厭(おいや)なの」
「私(わたし)は安珍のように逃げやしません」
 これを逃げ損ねの受太刀(うけだち)と云う。坊っちゃんは機(き)を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。
「ホホホ私は清姫のように追(お)っ懸(か)けますよ」
 男は黙っている。
「蛇(じゃ)になるには、少し年が老(ふ)け過ぎていますかしら」
 時ならぬ春の稲妻(いなずま)は、女を出でて男の胸をするりと透(とお)した。色は紫である。
「藤尾(ふじお)さん」
「何です」
 呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷は緑(みど)り濃き植込に隔(へだ)てられて、往来に鳴る車の響さえ幽(かす)かである。寂寞(せきばく)たる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。茶縁(ちゃべり)の畳を境に、二尺を隔(へだ)てて互に顔を見合した時、社会は彼らの傍(かたえ)を遠く立ち退(の)いた。救世軍はこの時太鼓を敲(たた)いて市中を練り歩(あ)るいている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息(いき)を引き取ろうとしている。露西亜(ロシア)では虚無党(きょむとう)が爆裂弾を投げている。停車場(ステーション)では掏摸(すり)が捕(つら)まっている。火事がある。赤子(あかご)が生れかかっている。練兵場(れんぺいば)で新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の兄(あに)さんと宗近君は叡山(えいざん)に登っている。
 花の香(か)さえ重きに過ぐる深き巷(ちまた)に、呼び交(か)わしたる男と女の姿が、死の底に滅(め)り込む春の影の上に、明らかに躍(おど)りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ来(きた)る心臓の扉(とびら)は、恋と開き恋と閉じて、動かざる男女(なんにょ)を、躍然と大空裏(たいくうり)に描(えが)き出している。二人の運命はこの危うき刹那(せつな)に定(さだ)まる。東か西か、微塵(みじん)だに体(たい)を動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、羃然(べきぜん)たる爆発物が抛(な)げ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の身体(からだ)は二塊(ふたかたまり)の□(ほのお)である。
「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、砂利(じゃり)を軋(きし)る車輪がはたと行き留まった。襖(ふすま)を開ける音がする。小走りに廊下を伝う足音がする。張り詰めた二人の姿勢は崩(くず)れた。
「母が帰って来たのです」と女は坐(すわ)ったまま、何気なく云う。
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を判然(はっき)と外に露(あら)わさぬうちは罪にはならん。取り返しのつく謎(なぞ)は、法庭(ほうてい)の証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。何人(なんびと)も後指(うしろゆび)を指(さ)す事は出来ぬ。出来れば向うが悪(わ)るい。天下はあくまでも太平である。
「御母(おっか)さんは、どちらへか行らしったんですか」
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ち懸(か)ける前に居住(いずまい)をちょっと繕(つく)ろい直す。洋袴(ズボン)の襞(ひだ)の崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、突(つ)っかい棒(ぼう)に、尻を挙げるための、膝頭(ひざがしら)に揃(そろ)えた両手は、雪のようなカフスに甲(こう)まで蔽(おお)われて、くすんだ鼠縞(ねずみじま)の袖の下から、七宝(しっぽう)の夫婦釦(めおとボタン)が、きらりと顔を出している。
「まあ御緩(ごゆっ)くりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える気色(けしき)もない。男はもとより尻を上げるのは厭(いや)である。
「しかし」と云いながら、隠袋(かくし)の中を捜(さ)ぐって、太い巻煙草(まきたばこ)を一本取り出した。煙草の煙は大抵のものを紛(まぎ)らす。いわんやこれは金の吸口の着いた埃及産(エジプトさん)である。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰を据(す)え直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでも詰(つづ)める便(たより)が出来んとも限らぬ。
 薄い煙りの、黒い口髭(くちひげ)を越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、
「まあ、御坐り遊ばせ」と叮嚀(ていねい)な命令を下した。
 男は無言のまま再び膝(ひざ)を崩(くず)す。御互に春の日は永い。
「近頃は女ばかりで淋(さむ)しくっていけません」
「甲野君はいつ頃(ごろ)御帰りですか」
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」
「御音信(おたより)が有りますか」
「いいえ」
「時候が好いから京都は面白いでしょう」
「あなたもいっしょに御出(おいで)になればよかったのに」
「私(わたし)は……」と小野さんは後を暈(ぼ)かしてしまう。
「なぜ行らっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古い御馴染(おなじみ)じゃありませんか」
「え?」
 小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。
「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」
「それで御馴染なんですか」
「ええ」
「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」
「随分不人情ね」
「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的真面目(まじめ)になって、埃及煙草(エジプトたばこ)を肺の中まで吸い込んだ。
「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。
「御母(おっか)さんでしょう」と小野さんが聞く。
「ええ」
「私(わたし)はもう帰ります」
「なぜです」
「でも何か御用が御在(おあ)りになるんでしょう」
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと御免蒙(ごめんこうむ)ります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」
 藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。平床(ひらどこ)に据えた古薩摩(こさつま)の香炉(こうろ)に、いつ焼(た)き残したる煙の迹(あと)か、こぼれた灰の、灰のままに崩(くず)れもせず、藤尾の部屋は昨日(きのう)も今日も静かである。敷き棄てた八反(はったん)の座布団(ざぶとん)に、主(ぬし)を待つ間(ま)の温気(ぬくもり)は、軽く払う春風に、ひっそり閑(かん)と吹かれている。
 小野さんは黙然(もくねん)と香炉(こうろ)を見て、また黙然と布団を見た。崩(くず)し格子(ごうし)の、畳から浮く角に、何やら光るものが奥に挟(はさ)まっている。小野さんは少し首を横にして輝やくものを物色して考えた。どうも時計らしい。今までは頓(とん)と気がつかなかった。藤尾の立つ時に、絹障(きぬざわり)のしなやかに、布団(ふとん)が擦(ず)れて、隠したものが出掛ったのかも知れぬ。しかし布団の下に時計を隠す必要はあるまい。小野さんは再び布団の下を覗(のぞ)いて見た。松葉形(まつばがた)に繋(つな)ぎ合せた鎖の折れ曲って、表に向いている方が、細く光線を射返す奥に、盛り上がる七子(ななこ)の縁(ふち)が幽(かす)かに浮いている。たしかに時計に違ない。小野さんは首を傾けた。
 金は色の純にして濃きものである。富貴(ふうき)を愛するものは必ずこの色を好む。栄誉を冀(こいねが)うものは必ずこの色を撰(えら)む。盛名を致すものは必ずこの色を飾る。磁石(じしゃく)の鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なき護謨(ゴム)である。一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。
 折柄(おりから)向う座敷の方角から、絹のざわつく音が、曲(ま)がり椽(えん)を伝わって近づいて来る。小野さんは覗(のぞ)き込んだ眼を急に外(そ)らして、素知らぬ顔で、容斎(ようさい)の軸(じく)を真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。
 黒縮緬(くろちりめん)の三つ紋を撫(な)で肩(がた)に着こなして、くすんだ半襟(はんえり)に、髷(まげ)ばかりを古風につやつやと光らしている。
「おやいらっしゃい」と御母(おっか)さんは軽く会釈(えしゃく)して、椽に近く座を占める。鶯(うぐいす)も鳴かぬ代りに、目に立つほどの塵もなく掃除の行き届いた庭に、長過ぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、何となく同一体のように思われる。
「藤尾が始終(しじゅう)御厄介(ごやっかい)になりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。まるで小供でございますから――さあ、どうぞ御楽(おらく)に――いつも御挨拶(ごあいさつ)を申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみ致します。――どうも実に赤児(ねんね)で、困り切ります、駄々ばかり捏(こ)ねまして――でも英語だけは御蔭(おかげ)さまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――何兄がいるのでございますから、教えて貰えば好いのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟は行(ゆ)かんものと見えまして――」
 御母さんの弁舌は滾々(こんこん)としてみごとである。小野さんは一字の間投詞を挟(さしはさ)む遑(いと)まなく、口車(くちぐるま)に乗って馳(か)けて行く。行く先は固(もと)より判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いて続(つづき)を読んでいる。
「花を墓に、墓に口を接吻(くちづけ)して、憂(う)きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、浴湯(ゆ)をこそと召す。浴(ゆあ)みしたる後(のち)は夕餉(ゆうげ)をこそと召す。この時賤(いや)しき厠卒(こもの)ありて小さき籃(かご)に無花果(いちじく)を盛りて参らす。女王の該撒(シイザア)に送れる文(ふみ)に云う。願わくは安図尼(アントニイ)と同じ墓にわれを埋(うず)めたまえと。無花果(いちじく)の繁れる青き葉陰にはナイルの泥(つち)の□(ほのお)の舌(した)を冷やしたる毒蛇(どくだ)を、そっと忍ばせたり。該撒(シイザア)の使は走る。闥(たつ)を排して眼(まなこ)を射れば――黄金(こがね)の寝台に、位高き装(よそおい)を今日と凝(こ)らして、女王の屍(しかばね)は是非なく横(よこた)わる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王の頭(かしら)のあたりに、月黒き夜(よ)の露をあつめて、千顆(せんか)の珠(たま)を鋳たる冠(かんむり)の、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。埃及(エジプト)の御代(みよ)しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目を瞑(ねむ)る」
 埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、焚(た)き罩(こ)むる錬香(ねりこう)の尽きなんとして幽(かす)かなる尾を虚冥(きょめい)に曳(ひ)くごとく、全(まった)き頁(ページ)が淡く霞(かす)んで見える。
「藤尾」と知らぬ御母(おっか)さんは呼ぶ。
 男はやっと寛容(くつろい)だ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は俯向(うつむい)ている。
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
 女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ廂髪(ひさしがみ)の、白い額に接(つづ)く下から、骨張らぬ細い鼻を承(う)けて、紅(くれない)を寸(すん)に織る唇が――唇をそと滑(すべ)って、頬(ほお)の末としっくり落ち合う□(あご)が――□を棄(す)ててなよやかに退(ひ)いて行く咽喉(のど)が――しだいと現実世界に競(せ)り出して来る。
「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。
「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変奇麗(きれい)な――汚(よご)さないようになさいよ。本なぞは大事にしないと――」
「大事にしていますわ」
「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」
「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」
「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口を開(ひら)いた。
「いえ、あなた、どうもわがまま者(もの)の寄り合いだもんでござんすから、始終(しじゅう)、小供のように喧嘩(けんか)ばかり致しまして――こないだも兄の本を……」と御母さんは藤尾の方を見て、言おうか、言うまいかと云う態度を取る。同情のある恐喝(きょうかつ)手段は長者(ちょうしゃ)の好んで年少に対して用いる遊戯である。
「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんは恐る恐る聞きたがる。
「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。玩具(おもちゃ)の九寸五分を突き付けたような気合である。
「兄の本を庭へ抛(な)げたんですよ」と藤尾は母を差し置いて、鋭どい返事を小野さんの眉間(みけん)へ向けて抛(な)げつけた。御母さんは苦笑(にがわら)いをする。小野さんは口を開(あ)く。
「これの兄も御存じの通り随分変人ですから」と御母(おっか)さんは遠廻しに棄鉢(すてばち)になった娘の御機嫌をとる。
「甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。
「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、始終(しじゅう)身体(からだ)が悪いとか申して、ぐずぐずしておりますから、それならば、ちと旅行でもして判然(はきはき)したらよかろうと申しましてね――でも、まだ、何だかだと駄々を捏(こ)ねて、動かないのを、ようやく宗近に頼んで連れ出して貰(もら)いました。ところがまるで鉄砲玉で。若いものと申すものは……」
「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」
「そうかね、御母さんには何だか分らないけれども――それにあなた、あの宗近と云うのが大の呑気屋(のんきや)で、あれこそ本当の鉄砲玉で、随分の困りものでしてね」
「アハハハ快活な面白い人ですな」
「宗近と云えば、御前(おまい)さっきのものはどこにあるのかい」と御母さんは、きりりとした眼を上げて部屋のうちを見廻わす。
「ここです」と藤尾は、軽く諸膝(もろひざ)を斜(なな)めに立てて、青畳の上に、八反(はったん)の座布団(ざぶとん)をさらりと滑(す)べらせる。富貴(ふうき)の色は蜷局(とぐろ)を三重に巻いた鎖の中に、堆(うずたか)く七子(ななこ)の蓋(ふた)を盛り上げている。
 右手を伸(の)べて、輝くものを戛然(かつぜん)と鳴らすよと思う間(ま)に、掌(たなごころ)より滑る鎖が、やおら畳に落ちんとして、一尺の長さに喰(く)い留(と)められると、余る力を横に抜いて、端(はじ)につけた柘榴石(ガーネット)の飾りと共に、長いものがふらりふらりと二三度揺れる。第一の波は紅(くれない)の珠(たま)に女の白き腕(かいな)を打つ。第二の波は観世(かんぜ)に動いて、軽く袖口(そでくち)にあたる。第三の波のまさに静まらんとするとき、女は衝(つ)と立ち上がった。
 奇麗な色が、二色、三色入り乱れて、疾(と)く動く景色(けしき)を、茫然(ぼうぜん)と眺(なが)めていた小野さんの前へぴたりと坐った藤尾は
「御母(おかあ)さん」と後(うしろ)を顧(かえり)みながら、
「こうすると引き立ちますよ」と云って故(もと)の席に返る。小野さんの胴衣(チョッキ)の胸には松葉形に組んだ金の鎖が、釦(ボタン)の穴を左右に抜けて、黒ずんだメルトン地を背景に燦爛(さんらん)と耀(かが)やいている。
「どうです」と藤尾が云う。
「なるほど善(よ)く似合いますね」と御母(おっか)さんが云う。
「全体どうしたんです」と小野さんは煙(けむ)に巻かれながら聞く。御母さんはホホホと笑う。
「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。
「じゃ、まあ、止(よ)しましょう」と藤尾は再び立って小野さんの胸から金時計を外(はず)してしまった。

        三

 柳(やなぎ)□(た)れて条々(じょうじょう)の煙を欄(らん)に吹き込むほどの雨の日である。衣桁(いこう)に懸(か)けた紺(こん)の背広の暗く下がるしたに、黒い靴足袋(くつたび)が三分一(さんぶいち)裏返しに丸く蹲踞(うずくま)っている。違棚(ちがいだな)の狭(せま)い上に、偉大な頭陀袋(ずだぶくろ)を据(す)えて、締括(しめくく)りのない紐(ひも)をだらだらと嬾(ものうく)も垂らした傍(かたわ)らに、錬歯粉(ねりはみがき)と白楊子(しろようじ)が御早うと挨拶(あいさつ)している。立て切った障子(しょうじ)の硝子(ガラス)を通して白い雨の糸が細長く光る。
「京都という所は、いやに寒い所だな」と宗近(むねちか)君は貸浴衣(かしゆかた)の上に銘仙(めいせん)の丹前を重ねて、床柱(とこばしら)の松の木を背負(しょっ)て、傲然(ごうぜん)と箕坐(あぐら)をかいたまま、外を覗(のぞ)きながら、甲野(こうの)さんに話しかけた。
 甲野さんは駱駝(らくだ)の膝掛(ひざかけ)を腰から下へ掛けて、空気枕の上で黒い頭をぶくつかせていたが
「寒いより眠い所だ」
と云いながらちょっと顔の向(むき)を換えると、櫛(くし)を入れたての濡(ぬ)れた頭が、空気の弾力で、脱ぎ棄てた靴足袋(くつたび)といっしょになる。
「寝てばかりいるね。まるで君は京都へ寝(ね)に来たようなものだ」
「うん。実に気楽な所だ」
「気楽になって、まあ結構だ。御母(おっか)さんが心配していたぜ」
「ふん」
「ふんは御挨拶だね。これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」
「君あの額(がく)の字が読めるかい」
「なるほど妙だね。※雨※風(せんうしゅうふう)[#「にんべん+孱」、51-3][#「にんべん+愁」、51-3]か。見た事がないな。何でも人扁(にんべん)だから、人がどうかするんだろう。いらざる字を書きやがる。元来何者だい」
「分らんね」
「分からんでもいいや、それよりこの襖(ふすま)が面白いよ。一面に金紙(きんがみ)を張り付けたところは豪勢だが、ところどころに皺(しわ)が寄ってるには驚ろいたね。まるで緞帳芝居(どんちょうしばい)の道具立(どうぐだて)見たようだ。そこへ持って来て、筍(たけのこ)を三本、景気に描(か)いたのは、どう云う了見(りょうけん)だろう。なあ甲野さん、これは謎(なぞ)だぜ」
「何と云う謎だい」
「それは知らんがね。意味が分からないものが描(か)いてあるんだから謎だろう」
「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」
「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。気狂(きちがい)の発明した詰将棋(つめしょうぎ)の手を、青筋を立てて研究しているようなものだ」
「じゃこの筍も気違の画工(えかき)が描いたんだろう」
「ハハハハ。そのくらい事理(じり)が分ったら煩悶(はんもん)もなかろう」
「世の中と筍といっしょになるものか」
「君、昔話(むかしばな)しにゴージアン・ノットと云うのがあるじゃないか。知ってるかい」
「人を中学生だと思ってる」
「思っていなくっても、まあ聞いて見るんだ。知ってるなら云って見ろ」
「うるさいな、知ってるよ」
「だから云って御覧なさいよ。哲学者なんてものは、よくごまかすもので、何を聞いても知らないと白状の出来ない執念深(しゅうねんぶか)い人間だから、……」
「どっちが執念深いか分りゃしない」
「どっちでも、いいから、云って御覧」
「ゴージアン・ノットと云うのはアレキサンダー時代の話しさ」
「うん、知ってるね。それで」
「ゴージアスと云う百姓がジュピターの神へ車を奉納(ほうのう)したところが……」
「おやおや、少し待った。そんな事があるのかい。それから」
「そんな事があるのかって、君、知らないのか」
「そこまでは知らなかった」
「何だ。自分こそ知らない癖に」
「ハハハハ学校で習った時は教師がそこまでは教えなかった。あの教師もそこまではきっと知らないに違ない」
「ところがその百姓が、車の轅(ながえ)と横木を蔓(かずら)で結(ゆわ)いた結び目を誰がどうしても解(と)く事が出来ない」
「なあるほど、それをゴージアン・ノットと云うんだね。そうか。その結目(ノット)をアレキサンダーが面倒臭いって、刀を抜いて切っちまったんだね。うん、そうか」
「アレキサンダーは面倒臭いとも何とも云やあしない」
「そりゃどうでもいい」
「この結目を解いたものは東方の帝(てい)たらんと云う神託(しんたく)を聞いたとき、アレキサンダーがそれなら、こうするばかりだと云って……」
「そこは知ってるんだ。そこは学校の先生に教わった所だ」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「いいがね、人間は、それならこうするばかりだと云う了見(りょうけん)がなくっちゃ駄目だと思うんだね」
「それもよかろう」
「それもよかろうじゃ張り合がないな。ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの」
「切れば解けるのかい」
「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」
「都合か。世の中に都合ほど卑怯(ひきょう)なものはない」
「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
「アレキサンダーなんか、そんなに豪(えら)いと思ってるのか」
 会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は箕坐(あぐら)のまま旅行案内をひろげる。雨は斜(なな)めに降る。
 古い京をいやが上に寂(さ)びよと降る糠雨(ぬかあめ)が、赤い腹を空に見せて衝(つ)いと行く乙鳥(つばくら)の背(せ)に応(こた)えるほど繁くなったとき、下京(しもきょう)も上京(かみきょう)もしめやかに濡(ぬ)れて、三十六峰(さんじゅうろっぽう)の翠(みど)りの底に、音は友禅(ゆうぜん)の紅(べに)を溶いて、菜の花に注(そそ)ぐ流のみである。「御前(おまえ)川上、わしゃ川下で……」と芹(せり)を洗う門口(かどぐち)に、眉(まゆ)をかくす手拭(てぬぐい)の重きを脱げば、「大文字(だいもんじ)」が見える。「松虫(まつむし)」も「鈴虫(すずむし)」も幾代(いくよ)の春を苔蒸(こけむ)して、鶯(うぐいす)の鳴くべき藪(やぶ)に、墓ばかりは残っている。鬼の出る羅生門(らしょうもん)に、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取り毀(こぼ)たれた。綱(つな)が□(も)ぎとった腕の行末(ゆくえ)は誰にも分からぬ。ただ昔しながらの春雨(はるさめ)が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇園(ぎおん)では桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。
 甲野さんは寝ながら日記を記(つ)けだした。横綴(よことじ)の茶の表布(クロース)の少しは汗に汚(よ)ごれた角(かど)を、折るようにあけて、二三枚めくると、一頁(ページ)の三(さん)が一(いち)ほど白い所が出て来た。甲野さんはここから書き始める。鉛筆を執(と)って景気よく、
「一奩(いちれん)楼角雨(ろうかくのあめ)、閑殺(かんさつす)古今人(ここんのひと)」
と書いてしばらく考えている。転結(てんけつ)を添えて絶句にする気と見える。
 旅行案内を放(ほう)り出して宗近君はずしんと畳を威嚇(おどか)して椽側(えんがわ)へ出る。椽側には御誂向(おあつらえむき)に一脚の籐(と)の椅子(いす)が、人待ち顔に、しめっぽく据(す)えてある。連□(れんぎょう)の疎(まばら)なる花の間から隣(とな)り家(や)の座敷が見える。障子(しょうじ)は立て切ってある。中(うち)では琴の音(ね)がする。
「忽(たちまち)※(きく)[#「耳+吾」、56-1]弾琴響(だんきんのひびき)、垂楊(すいよう)惹恨(うらみをひいて)新(あらたなり)」
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。
「宇宙は謎(なぞ)である。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは解けぬ謎を、押しつけられて、白頭(はくとう)に□□(せんかい)し、中夜(ちゅうや)に煩悶(はんもん)するために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これが出来ねば、親も妻も宇宙も疑である。解けぬ謎である、苦痛である。親兄弟と云う解けぬ謎のある矢先に、妻と云う新しき謎を好んで貰うのは、自分の財産の所置に窮している上に、他人の金銭を預かると一般である。妻と云う新らしき謎を貰うのみか、新らしき謎に、また新らしき謎を生ませて苦しむのは、預かった金銭に利子が積んで、他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。……すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」
 宗近君は籐(と)の椅子(いす)に横平(おうへい)な腰を据えてさっきから隣りの琴(こと)を聴いている。御室(おむろ)の御所(ごしょ)の春寒(はるさむ)に、銘(めい)をたまわる琵琶(びわ)の風流は知るはずがない。十三絃(じゅうさんげん)を南部の菖蒲形(しょうぶがた)に張って、象牙(ぞうげ)に置いた蒔絵(まきえ)の舌(した)を気高(けだか)しと思う数奇(すき)も有(も)たぬ。宗近君はただ漫然と聴(き)いているばかりである。
 滴々(てきてき)と垣を蔽(おお)う連□(れんぎょう)の黄(き)な向うは業平竹(なりひらだけ)の一叢(ひとむら)に、苔(こけ)の多い御影の突(つ)く這(ば)いを添えて、三坪に足らぬ小庭には、一面に叡山苔(えいざんごけ)を這(は)わしている。琴の音(ね)はこの庭から出る。
 雨は一つである。冬は合羽(かっぱ)が凍(こお)る。秋は灯心が細る。夏は褌(ふどし)を洗う。春は――平打(ひらうち)の銀簪(ぎんかん)を畳の上に落したまま、貝合(かいあわ)せの貝の裏が朱と金と藍(あい)に光る傍(かたわら)に、ころりんと掻(か)き鳴らし、またころりんと掻き乱す。宗近君の聴いてるのはまさにこのころりんである。
「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳に聴(き)くは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奥に捕(とら)えたる時、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは本来空(ほんらいくう)の不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」
 琴の手は次第に繁くなる。雨滴(あまだれ)の絶間(たえま)を縫(ぬ)うて、白い爪が幾度か駒(こま)の上を飛ぶと見えて、濃(こまや)かなる調べは、太き糸の音(ね)と細き音を綯(よ)り合せて、代る代るに乱れ打つように思われる。甲野さんが「無絃(むげん)の琴を聴(き)いて始めて序破急(じょはきゅう)の意義を悟る」と書き終った時、椅子(いす)に靠(もた)れて隣家(となり)ばかりを瞰下(みおろ)していた宗近君は
「おい、甲野さん、理窟(りくつ)ばかり云わずと、ちとあの琴でも聴くがいい。なかなか旨(うま)いぜ」
と椽側(えんがわ)から部屋の中へ声を掛けた。
「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。
「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっと椽(えん)まで出張を命ずるから出て来なさい」
「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる景色(けしき)がない。
「おい、どうも東山が奇麗(きれい)に見えるぜ」
「そうか」
「おや、鴨川(かもがわ)を渉(わた)る奴(やつ)がある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」
「渉ってもいいよ」
「君、布団(ふとん)着て寝たる姿やとか何とか云うが、どこに布団を着ている訳かな。ちょっとここまで来て教えてくれんかな」
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加茂の水嵩(みずかさ)が増して来たぜ。いやあ大変だ。橋が落ちそうだ。おい橋が落ちるよ」
「落ちても差(さ)し支(つか)えなしだ」
「落ちても差し支えなしだ? 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」
「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寝返りを打って、例の金襖(きんぶすま)の筍(たけのこ)を横に眺(なが)め始めた。
「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとう我(が)を折って部屋の中へ這入(はい)って来る。
「おい、おい」
「何だ、うるさい男だね」
「あの琴を聴いたろう」
「聴いたと云ったじゃないか」
「ありゃ、君、女だぜ」
「当り前さ」
「幾何(いくつ)だと思う」
「幾歳(いくつ)だかね」
「そう冷淡じゃ張り合がない。教えてくれなら、教えてくれと判然(はっきり)云うがいい」
「誰が云うものか」
「云わない? 云わなければこっちで云うばかりだ。ありゃ、島田(しまだ)だよ」
「座敷でも開(あ)いてるのかい」
「なに座敷はぴたりと締ってる」
「それじゃまた例の通り好加減(いいかげん)な雅号なんだろう」
「雅号にして本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」
「どうして」
「そら聴(き)きたくなった」
「何聴かなくってもいいさ。そんな事を聞くよりこの筍(たけのこ)を研究している方がよっぽど面白い。この筍を寝ていて横に見ると、背(せい)が低く見えるがどう云うものだろう」
「おおかた君の眼が横に着いているせいだろう」
「二枚の唐紙(からかみ)に三本描(か)いたのは、どう云う因縁(いんねん)だろう」
「あんまり下手だから一本負けたつもりだろう」
「筍の真青(まっさお)なのはなぜだろう」
「食うと中毒(あた)ると云う謎(なぞ)なんだろう」
「やっぱり謎か。君だって謎を釈(と)くじゃないか」
「ハハハハ。時々は釈いて見るね。時に僕がさっきから島田の謎を解いてやろうと云うのに、いっこう釈かせないのは哲学者にも似合わん不熱心な事だと思うがね」
「釈きたければ釈くさ。そうもったいぶったって、頭を下げるような哲学者じゃない」
「それじゃ、ひとまず安っぽく釈いてしまって、後(あと)から頭を下げさせる事にしよう。――あのね、あの琴の主はね」
「うん」
「僕が見たんだよ」
「そりゃ今聴いた」
「そうか。それじゃ別に話す事もない」
「なければ、いいさ」
「いや好くない。それじゃ話す。昨日(きのう)ね、僕が湯から上がって、椽側(えんがわ)で肌を抜いで涼んでいると――聴きたいだろう――僕が何気なく鴨東(おうとう)の景色(けしき)を見廻わして、ああ好い心持ちだとふと眼を落して隣家を見下すと、あの娘が障子(しょうじ)を半分開けて、開けた障子に靠(も)たれかかって庭を見ていたのさ」
「別嬪(べっぴん)かね」
「ああ別嬪だよ。藤尾さんよりわるいが糸公(いとこう)より好いようだ」
「そうかい」
「それっきりじゃ、余(あん)まり他愛(たあい)が無さ過ぎる。そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかったぐらい義理にも云うがいい」
「そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかった」
「ハハハハだから見せてやるから椽側(えんがわ)まで出て来いと云うのに」
「だって障子は締ってるんじゃないか」
「そのうち開(あ)くかも知れないさ」
「ハハハハ小野なら障子の開くまで待ってるかも知れない」
「そうだね。小野を連れて来て見せてやれば好かった」
「京都はああ云う人間が住むに好い所だ」
「うん全く小野的だ。大将、来いと云うのになんのかのと云って、とうとう来ない」
「春休みに勉強しようと云うんだろう」
「春休みに勉強が出来るものか」
「あんな風じゃいつだって勉強が出来やしない。一体文学者は軽いからいけない」
「少々耳が痛いね。こっちも余まり重くはない方だからね」
「いえ、単なる文学者と云うものは霞(かすみ)に酔ってぽうっとしているばかりで、霞を披(ひら)いて本体を見つけようとしないから性根(しょうね)がないよ」
「霞の酔(よ)っ払(ぱらい)か。哲学者は余計な事を考え込んで苦(にが)い顔をするから、塩水の酔っ払だろう」
「君見たように叡山(えいざん)へ登るのに、若狭(わかさ)まで突き貫(ぬ)ける男は白雨(ゆうだち)の酔っ払だよ」
「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」
 甲野さんの黒い頭はこの時ようやく枕を離れた。光沢(つや)のある髪で湿(しめ)っぽく圧(お)し付けられていた空気が、弾力で膨(ふく)れ上がると、枕の位置が畳の上でちょっと廻った。同時に駱駝(らくだ)の膝掛(ひざかけ)が擦(ず)り落ちながら、裏を返して半分(はんぶ)に折れる。下から、だらしなく腰に捲(ま)き付けた平絎(ひらぐけ)の細帯があらわれる。
「なるほど酔っ払いに違ない」と枕元に畏(かしこ)まった宗近君は、即座に品評を加えた。相手は痩(や)せた体躯(からだ)を持ち上げた肱(ひじ)を二段に伸(のば)して、手の平に胴を支(ささ)えたまま、自分で自分の腰のあたりを睨(ね)め廻していたが
「たしかに酔っ払ってるようだ。君はまた珍らしく畏(かしこ)まってるじゃないか」と一重瞼(ひとえまぶた)の長く切れた間から、宗近君をじろりと見た。
「おれは、これで正気なんだからね」
「居住(いずまい)だけは正気だ」
「精神も正気だからさ」
「どてらを着て跪坐(かしこまっ)てるのは、酔っ払っていながら、異状がないと得意になるようなものだ。なおおかしいよ。酔っ払いは酔払(よっぱらい)らしくするがいい」
「そうか、それじゃ御免蒙(ごめんこうむ)ろう」と宗近君はすぐさま胡坐(あぐら)をかく。
「君は感心に愚(ぐ)を主張しないからえらい。愚にして賢と心得ているほど片腹(かたはら)痛い事はないものだ」
「諫(いさめ)に従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ」
「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」
「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
「まあ立ん坊だね」と甲野さんは淋(さび)し気に笑った。勢込(いきおいこ)んで喋舌(しゃべ)って来た宗近君は急に真面目(まじめ)になる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺腑(はいふ)に入る。面上の筋肉が我勝(われが)ちに躍(おど)るためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに稲妻(いなずま)を起すためでもない。涙管(るいかん)の関が切れて滂沱(ぼうだ)の観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして床(ゆか)を斬(き)るようなものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。
 毛筋ほどな細い管を通して、捕(とら)えがたい情(なさ)けの波が、心の底から辛(かろ)うじて流れ出して、ちらりと浮世の日に影を宿したのである。往来に転(ころ)がっている表情とは違う。首を出して、浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。引き返す前に、捕(つら)まえた人が勝ちである。捕まえ損(そこ)なえば生涯(しょうがい)甲野さんを知る事は出来ぬ。
 甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やかである。そのおとなしいうちに、その速(すみや)かなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生は明(あきら)かに描(えが)き出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の知己(ちき)である。斬(き)った張(は)ったの境に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと合点(がてん)するようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、始めて甲野さんの性格を描(えが)き出すのは野暮(やぼ)な小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出て来るものではない。
 春の旅は長閑(のどか)である。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。その間に宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。
「立ん坊か」と云ったまま宗近君は駱駝(らくだ)の膝掛(ひざかけ)の馬簾(ばれん)をひねくり始めたが、やがて
「いつまでも立ん坊か」
と相手の顔は見ず、質問のように、独語(ひとりごと)のように、駱駝の膝掛に話しかけるように、立ん坊を繰り返した。
「立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時始めて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。
「叔父さんが生きてると好いがな」
「なに、阿爺(おやじ)が生きているとかえって面倒かも知れない」
「そうさなあ」と宗近君はなあを引っ張った。
「つまり、家(うち)を藤尾にくれてしまえばそれで済むんだからね」
「それで君はどうするんだい」
「僕は立ん坊さ」
「いよいよ本当の立ん坊か」
「うん、どうせ家を襲(つ)いだって立ん坊、襲がなくったって立ん坊なんだからいっこう構わない」
「しかしそりゃ、いかん。第一叔母(おば)さんが困るだろう」
「母がか」
 甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
 疑がえば己(おのれ)にさえ欺(あざ)むかれる。まして己以外の人間の、利害の衢(ちまた)に、損失の塵除(ちりよけ)と被(かぶ)る、面(つら)の厚さは、容易には度(はか)られぬ。親しき友の、わが母を、そうと評するのは、面の内側で評するのか、または外側でのみ云う了見(りょうけん)か。己にさえ、己を欺く魔の、どこにか潜(ひそ)んでいるような気持は免かれぬものを、無二の友達とは云え、父方の縁続きとは云え、迂濶(うかつ)には天機を洩(も)らしがたい。宗近の言(こと)は継母に対するわが心の底を見んための鎌(かま)か。見た上でも元の宗近ならばそれまでであるが、鎌を懸(か)けるほどの男ならば、思う通りを引き出した後(あと)で、どう引っ繰り返らぬとも保証は出来ん。宗近の言は真率(しんそつ)なる彼の、裏表の見界(みさかい)なく、母の口占(くちうら)を一図(いちず)にそれと信じたる反響か。平生(へいぜい)のかれこれから推(お)して見ると多分そうだろう。よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしき淵(ふち)の底に、詮索(さぐり)の錘(おもり)を投げ込むような卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、見損(みそく)なった母の意を承(う)けて、御互に面白からぬ結果を、必然の期程(きてい)以前に、家庭のなかに打(ぶ)ち開(ま)ける事がないとも限らん。いずれにしても入らぬ口は発(き)くまい。
 二人はしばらく無言である。隣家(となり)ではまだ琴(こと)を弾(ひ)いている。
「あの琴は生田流(いくたりゅう)かな」と甲野さんは、つかぬ事を聞く。
「寒くなった、狐の袖無(ちゃんちゃん)でも着よう」と宗近君も、つかぬ事を云う。二人は離れ離れに口を発いている。
 丹前の胸を開いて、違棚(ちがいだな)の上から、例の異様な胴衣(チョッキ)を取り下ろして、体(たい)を斜(なな)めに腕を通した時、甲野さんは聞いた。
「その袖無(ちゃんちゃん)は手製か」
「うん、皮は支那に行った友人から貰ったんだがね、表は糸公が着けてくれた」
「本物だ。旨(うま)いもんだ。御糸(おいと)さんは藤尾なんぞと違って実用的に出来ているからいい」
「いいか、ふん。彼奴(あいつ)が嫁に行くと少々困るね」
「いい嫁の口はないかい」
「嫁の口か」と宗近君はちょっと甲野さんを見たが、気の乗らない調子で「無い事もないが……」とだらりと言葉の尾を垂れた。甲野さんは問題を転じた。
「御糸さんが嫁に行くと御叔父(おじ)さんも困るね」
「困ったって仕方がない、どうせいつか困るんだもの。――それよりか君は女房を貰わないのかい」
「僕か――だって――食わす事が出来ないもの」
「だから御母(おっか)さんの云う通りに君が家(うち)を襲(つ)いで……」
「そりゃ駄目だよ。母が何と云ったって、僕は厭(いや)なんだ」
「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」
「行かれないんじゃない、行かないんだ」
 宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。
「また鱧(はも)を食わせるな。毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨だらけだ。京都と云う所は実に愚(ぐ)な所だ。もういい加減に帰ろうじゃないか」
「帰ってもいい。鱧ぐらいなら帰らなくってもいい。しかし君の嗅覚(きゅうかく)は非常に鋭敏だね。鱧の臭がするかい」
「するじゃないか。台所でしきりに焼いていらあね」
「そのくらい虫が知らせると阿爺(おやじ)も外国で死ななくっても済んだかも知れない。阿爺は嗅覚が鈍かったと見える」
「ハハハハ。時に御叔父さんの遺物はもう、着いたか知ら」
「もう着いた時分だね。公使館の佐伯(さえき)と云う人が持って来てくれるはずだ。――何にもないだろう――書物が少しあるかな」
「例の時計はどうしたろう」
「そうそう。倫敦(ロンドン)で買った自慢の時計か。あれは多分来るだろう。小供の時から藤尾の玩具(おもちゃ)になった時計だ。あれを持つとなかなか離さなかったもんだ。
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