虞美人草
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◇暇つぶし何某◇

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著者名:夏目漱石 

        一

「随分遠いね。元来(がんらい)どこから登るのだ」
と一人(ひとり)が手巾(ハンケチ)で額(ひたい)を拭きながら立ち留(どま)った。
「どこか己(おれ)にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」
と顔も体躯(からだ)も四角に出来上った男が無雑作(むぞうさ)に答えた。
 反(そり)を打った中折れの茶の廂(ひさし)の下から、深き眉(まゆ)を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫(かすか)なる春の空の、底までも藍(あい)を漂わして、吹けば揺(うご)くかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然(きつぜん)として、どうする気かと云(い)わぬばかりに叡山(えいざん)が聳(そび)えている。
「恐ろしい頑固(がんこ)な山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜の杖(つえ)に身を倚(も)たせていたが、
「あんなに見えるんだから、訳(わけ)はない」と今度は叡山(えいざん)を軽蔑(けいべつ)したような事を云う。
「あんなに見えるって、見えるのは今朝(けさ)宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに歩行(ある)いていれば自然と山の上へ出るさ」
 細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりを煽(あお)いでいる。日頃(ひごろ)からなる廂(ひさし)に遮(さえ)ぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広き額(ひたい)だけは目立って蒼白(あおしろ)い。
「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」
 相手は汗ばんだ額を、思うまま春風に曝(さら)して、粘(ねば)り着いた黒髪の、逆(さか)に飛ばぬを恨(うら)むごとくに、手巾(ハンケチ)を片手に握って、額とも云わず、顔とも云わず、頸窩(ぼんのくぼ)の尽くるあたりまで、くちゃくちゃに掻(か)き廻した。促(うな)がされた事には頓着(とんじゃく)する気色(けしき)もなく、
「君はあの山を頑固(がんこ)だと云ったね」と聞く。
「うむ、動かばこそと云ったような按排(あんばい)じゃないか。こう云う風に」と四角な肩をいとど四角にして、空(あ)いた方の手に栄螺(さざえ)の親類をつくりながら、いささか我も動かばこその姿勢を見せる。
「動かばこそと云うのは、動けるのに動かない時の事を云うのだろう」と細長い眼の角(かど)から斜(なな)めに相手を見下(みおろ)した。
「そうさ」
「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君は余計な事を云いに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の洋杖(ステッキ)を、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるや否(いな)や、歩行(ある)き出した。瘠(や)せた男も手巾(ハンケチ)を袂(たもと)に収めて歩行き出す。
「今日は山端(やまばな)の平八茶屋(へいはちぢゃや)で一日(いちんち)遊んだ方がよかった。今から登ったって中途半端(はんぱ)になるばかりだ。元来(がんらい)頂上まで何里あるのかい」
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」
 瘠(や)せた男は何にも云わずににやにやと笑った。四角な男は威勢よく喋舌(しゃべ)り続ける。
「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも見損(みそこな)ってしまう。連(つれ)こそいい迷惑だ」
「君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。第一、人を連れ出して置きながら、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか見当(けんとう)がつかんじゃないか」
「なんの、これしきの事に計画も何もいったものか、たかがあの山じゃないか」
「あの山でもいいが、あの山は高さ何千尺だか知っているかい」
「知るものかね。そんな下らん事を。――君知ってるのか」
「僕も知らんがね」
「それ見るがいい」
「何もそんなに威張らなくてもいい。君だって知らんのだから。山の高さは御互に知らんとしても、山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確めて来なくっちゃ、予定通りに日程は進行するものじゃない」
「進行しなければやり直すだけだ。君のように余計な事を考えてるうちには何遍でもやり直しが出来るよ」となおさっさと行く。瘠(や)せた男は無言のままあとに後(おく)れてしまう。
 春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に貫(つら)ぬいて、煙(けぶ)る柳の間から、温(ぬく)き水打つ白き布(ぬの)を、高野川(たかのがわ)の磧(かわら)に数え尽くして、長々と北にうねる路(みち)を、おおかたは二里余りも来たら、山は自(おのず)から左右に逼(せま)って、脚下に奔(はし)る潺湲(せんかん)の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は更(ふ)けたるを、山を極(きわ)めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の裾(すそ)を縫(ぬ)うて、暗き陰に走る一条(ひとすじ)の路に、爪上(つまあが)りなる向うから大原女(おはらめ)が来る。牛が来る。京の春は牛の尿(いばり)の尽きざるほどに、長くかつ静かである。
「おおい」と後れた男は立ち留(どま)りながら、先(さ)きなる友を呼んだ。おおいと云う声が白く光る路を、春風に送られながら、のそり閑(かん)と行き尽して、萱(かや)ばかりなる突き当りの山にぶつかった時、一丁先きに動いていた四角な影ははたと留った。瘠せた男は、長い手を肩より高く伸(の)して、返れ返れと二度ほど揺(ゆす)って見せる。桜の杖(つえ)が暖かき日を受けて、またぴかりと肩の先に光ったと思う間(ま)もなく、彼は帰って来た。
「何だい」
「何だいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな丸木橋(まるきばし)を渡るのは妙だぜ」
「君見たようにむやみに歩行(ある)いていると若狭(わかさ)の国へ出てしまうよ」
「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女に聴(き)いて見た。この橋を渡って、あの細い道を向(むこう)へ一里上がると出るそうだ」
「出るとはどこへ出るのだい」
「叡山(えいざん)の上へさ」
「叡山の上のどこへ出るだろう」
「そりゃ知らない。登って見なければ分らないさ」
「ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったと見えるね。千慮の一失か。それじゃ、仰(おお)せに従って渡るとするかな。君いよいよ登りだぜ。どうだ、歩行(ある)けるか」
「歩行けないたって、仕方がない」
「なるほど哲学者だけあらあ。それで、もう少し判然すると一人前(いちにんまえ)だがな」
「何でも好いから、先へ行くが好い」
「あとから尾(つ)いて来るかい」
「いいから行くが好い」
「尾いて来る気なら行くさ」
 渓川(たにがわ)に危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、辛(かろ)うじて一縷(いちる)の細き力に頂(いただ)きへ抜ける小径(こみち)のなかに隠れた。草は固(もと)より去年の霜(しも)を持ち越したまま立枯(たちがれ)の姿であるが、薄く溶けた雲を透(とお)して真上から射し込む日影に蒸(む)し返されて、両頬(りょうきょう)のほてるばかりに暖かい。
「おい、君、甲野(こうの)さん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適当した細い体躯(からだ)を真直(まっすぐ)に立てたまま、下を向いて
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。
 振り廻した杖の先の尽くる、遥(はる)か向うには、白銀(しろかね)の一筋に眼を射る高野川を閃(ひら)めかして、左右は燃え崩(くず)るるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりと擦(なす)り着けた背景には薄紫(うすむらさき)の遠山(えんざん)を縹緲(ひょうびょう)のあなたに描(えが)き出してある。
「なるほど好い景色(けしき)だ」と甲野さんは例の長身を捩(ね)じ向けて、際(きわ)どく六十度の勾配(こうばい)に擦り落ちもせず立ち留っている。
「いつの間(ま)に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近(むねちか)君が云う。宗近君は四角な男の名である。
「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」
「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれも疾(と)くに心得ている」
「ハハハハそれで君は幾歳(いくつ)だったかな」
「おれの幾歳より、君は幾歳だ」
「僕は分かってるさ」
「僕だって分かってるさ」
「ハハハハやっぱり隠す了見(りょうけん)だと見える」
「隠すものか、ちゃんと分ってるよ」
「だから、幾歳なんだよ」
「君から先へ云え」と宗近君はなかなか動じない。
「僕は二十七さ」と甲野君は雑作(ぞうさ)もなく言って退(の)ける。
「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」
「だいぶ年を取ったものだね」
「冗談(じょうだん)を言うな。たった一つしか違わんじゃないか」
「だから御互にさ。御互に年を取ったと云うんだ」
「うん御互にか、御互なら勘弁するが、おれだけじゃ……」
「聞き捨てにならんか。そう気にするだけまだ若いところもあるようだ」
「何だ坂の途中で人を馬鹿にするな」
「そら、坂の途中で邪魔になる。ちょっと退(ど)いてやれ」
 百折(ももお)れ千折(ちお)れ、五間とは直(すぐ)に続かぬ坂道を、呑気(のんき)な顔の女が、ごめんやすと下りて来る。身の丈(たけ)に余る粗朶(そだ)の大束を、緑(みど)り洩(も)る濃き髪の上に圧(おさ)え付けて、手も懸(か)けずに戴(いただ)きながら、宗近君の横を擦(す)り抜ける。生(お)い茂(しげ)る立ち枯れの萱(かや)をごそつかせた後(うし)ろ姿の眼(め)につくは、目暗縞(めくらじま)の黒きが中を斜(はす)に抜けた赤襷(あかだすき)である。一里を隔(へだ)てても、そこと指(さ)す指(ゆび)の先に、引っ着いて見えるほどの藁葺(わらぶき)は、この女の家でもあろう。天武天皇の落ちたまえる昔のままに、棚引(たなび)く霞(かすみ)は長(とこ)しえに八瀬(やせ)の山里を封じて長閑(のどか)である。
「この辺の女はみんな奇麗(きれい)だな。感心だ。何だか画(え)のようだ」と宗近君が云う。
「あれが大原女(おはらめ)なんだろう」
「なに八瀬女(やせめ)だ」
「八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ」
「なくっても八瀬の女に違ない。嘘だと思うなら今度逢(あ)ったら聞いてみよう」
「誰も嘘だと云やしない。しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか」
「きっとそうか、受合うか」

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