虞美人草
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著者名:夏目漱石 

        一

「随分遠いね。元来(がんらい)どこから登るのだ」
と一人(ひとり)が手巾(ハンケチ)で額(ひたい)を拭きながら立ち留(どま)った。
「どこか己(おれ)にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」
と顔も体躯(からだ)も四角に出来上った男が無雑作(むぞうさ)に答えた。
 反(そり)を打った中折れの茶の廂(ひさし)の下から、深き眉(まゆ)を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫(かすか)なる春の空の、底までも藍(あい)を漂わして、吹けば揺(うご)くかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然(きつぜん)として、どうする気かと云(い)わぬばかりに叡山(えいざん)が聳(そび)えている。
「恐ろしい頑固(がんこ)な山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜の杖(つえ)に身を倚(も)たせていたが、
「あんなに見えるんだから、訳(わけ)はない」と今度は叡山(えいざん)を軽蔑(けいべつ)したような事を云う。
「あんなに見えるって、見えるのは今朝(けさ)宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに歩行(ある)いていれば自然と山の上へ出るさ」
 細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりを煽(あお)いでいる。日頃(ひごろ)からなる廂(ひさし)に遮(さえ)ぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広き額(ひたい)だけは目立って蒼白(あおしろ)い。
「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」
 相手は汗ばんだ額を、思うまま春風に曝(さら)して、粘(ねば)り着いた黒髪の、逆(さか)に飛ばぬを恨(うら)むごとくに、手巾(ハンケチ)を片手に握って、額とも云わず、顔とも云わず、頸窩(ぼんのくぼ)の尽くるあたりまで、くちゃくちゃに掻(か)き廻した。促(うな)がされた事には頓着(とんじゃく)する気色(けしき)もなく、
「君はあの山を頑固(がんこ)だと云ったね」と聞く。
「うむ、動かばこそと云ったような按排(あんばい)じゃないか。こう云う風に」と四角な肩をいとど四角にして、空(あ)いた方の手に栄螺(さざえ)の親類をつくりながら、いささか我も動かばこその姿勢を見せる。
「動かばこそと云うのは、動けるのに動かない時の事を云うのだろう」と細長い眼の角(かど)から斜(なな)めに相手を見下(みおろ)した。
「そうさ」
「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君は余計な事を云いに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の洋杖(ステッキ)を、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるや否(いな)や、歩行(ある)き出した。瘠(や)せた男も手巾(ハンケチ)を袂(たもと)に収めて歩行き出す。
「今日は山端(やまばな)の平八茶屋(へいはちぢゃや)で一日(いちんち)遊んだ方がよかった。今から登ったって中途半端(はんぱ)になるばかりだ。元来(がんらい)頂上まで何里あるのかい」
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」
 瘠(や)せた男は何にも云わずににやにやと笑った。四角な男は威勢よく喋舌(しゃべ)り続ける。
「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも見損(みそこな)ってしまう。連(つれ)こそいい迷惑だ」
「君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。第一、人を連れ出して置きながら、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか見当(けんとう)がつかんじゃないか」
「なんの、これしきの事に計画も何もいったものか、たかがあの山じゃないか」
「あの山でもいいが、あの山は高さ何千尺だか知っているかい」
「知るものかね。そんな下らん事を。――君知ってるのか」
「僕も知らんがね」
「それ見るがいい」
「何もそんなに威張らなくてもいい。君だって知らんのだから。山の高さは御互に知らんとしても、山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確めて来なくっちゃ、予定通りに日程は進行するものじゃない」
「進行しなければやり直すだけだ。君のように余計な事を考えてるうちには何遍でもやり直しが出来るよ」となおさっさと行く。瘠(や)せた男は無言のままあとに後(おく)れてしまう。
 春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に貫(つら)ぬいて、煙(けぶ)る柳の間から、温(ぬく)き水打つ白き布(ぬの)を、高野川(たかのがわ)の磧(かわら)に数え尽くして、長々と北にうねる路(みち)を、おおかたは二里余りも来たら、山は自(おのず)から左右に逼(せま)って、脚下に奔(はし)る潺湲(せんかん)の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は更(ふ)けたるを、山を極(きわ)めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の裾(すそ)を縫(ぬ)うて、暗き陰に走る一条(ひとすじ)の路に、爪上(つまあが)りなる向うから大原女(おはらめ)が来る。牛が来る。京の春は牛の尿(いばり)の尽きざるほどに、長くかつ静かである。
「おおい」と後れた男は立ち留(どま)りながら、先(さ)きなる友を呼んだ。おおいと云う声が白く光る路を、春風に送られながら、のそり閑(かん)と行き尽して、萱(かや)ばかりなる突き当りの山にぶつかった時、一丁先きに動いていた四角な影ははたと留った。瘠せた男は、長い手を肩より高く伸(の)して、返れ返れと二度ほど揺(ゆす)って見せる。桜の杖(つえ)が暖かき日を受けて、またぴかりと肩の先に光ったと思う間(ま)もなく、彼は帰って来た。
「何だい」
「何だいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな丸木橋(まるきばし)を渡るのは妙だぜ」
「君見たようにむやみに歩行(ある)いていると若狭(わかさ)の国へ出てしまうよ」
「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女に聴(き)いて見た。この橋を渡って、あの細い道を向(むこう)へ一里上がると出るそうだ」
「出るとはどこへ出るのだい」
「叡山(えいざん)の上へさ」
「叡山の上のどこへ出るだろう」
「そりゃ知らない。登って見なければ分らないさ」
「ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったと見えるね。千慮の一失か。それじゃ、仰(おお)せに従って渡るとするかな。君いよいよ登りだぜ。どうだ、歩行(ある)けるか」
「歩行けないたって、仕方がない」
「なるほど哲学者だけあらあ。それで、もう少し判然すると一人前(いちにんまえ)だがな」
「何でも好いから、先へ行くが好い」
「あとから尾(つ)いて来るかい」
「いいから行くが好い」
「尾いて来る気なら行くさ」
 渓川(たにがわ)に危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、辛(かろ)うじて一縷(いちる)の細き力に頂(いただ)きへ抜ける小径(こみち)のなかに隠れた。草は固(もと)より去年の霜(しも)を持ち越したまま立枯(たちがれ)の姿であるが、薄く溶けた雲を透(とお)して真上から射し込む日影に蒸(む)し返されて、両頬(りょうきょう)のほてるばかりに暖かい。
「おい、君、甲野(こうの)さん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適当した細い体躯(からだ)を真直(まっすぐ)に立てたまま、下を向いて
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。
 振り廻した杖の先の尽くる、遥(はる)か向うには、白銀(しろかね)の一筋に眼を射る高野川を閃(ひら)めかして、左右は燃え崩(くず)るるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりと擦(なす)り着けた背景には薄紫(うすむらさき)の遠山(えんざん)を縹緲(ひょうびょう)のあなたに描(えが)き出してある。
「なるほど好い景色(けしき)だ」と甲野さんは例の長身を捩(ね)じ向けて、際(きわ)どく六十度の勾配(こうばい)に擦り落ちもせず立ち留っている。
「いつの間(ま)に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近(むねちか)君が云う。宗近君は四角な男の名である。
「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」
「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれも疾(と)くに心得ている」
「ハハハハそれで君は幾歳(いくつ)だったかな」
「おれの幾歳より、君は幾歳だ」
「僕は分かってるさ」
「僕だって分かってるさ」
「ハハハハやっぱり隠す了見(りょうけん)だと見える」
「隠すものか、ちゃんと分ってるよ」
「だから、幾歳なんだよ」
「君から先へ云え」と宗近君はなかなか動じない。
「僕は二十七さ」と甲野君は雑作(ぞうさ)もなく言って退(の)ける。
「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」
「だいぶ年を取ったものだね」
「冗談(じょうだん)を言うな。たった一つしか違わんじゃないか」
「だから御互にさ。御互に年を取ったと云うんだ」
「うん御互にか、御互なら勘弁するが、おれだけじゃ……」
「聞き捨てにならんか。そう気にするだけまだ若いところもあるようだ」
「何だ坂の途中で人を馬鹿にするな」
「そら、坂の途中で邪魔になる。ちょっと退(ど)いてやれ」
 百折(ももお)れ千折(ちお)れ、五間とは直(すぐ)に続かぬ坂道を、呑気(のんき)な顔の女が、ごめんやすと下りて来る。身の丈(たけ)に余る粗朶(そだ)の大束を、緑(みど)り洩(も)る濃き髪の上に圧(おさ)え付けて、手も懸(か)けずに戴(いただ)きながら、宗近君の横を擦(す)り抜ける。生(お)い茂(しげ)る立ち枯れの萱(かや)をごそつかせた後(うし)ろ姿の眼(め)につくは、目暗縞(めくらじま)の黒きが中を斜(はす)に抜けた赤襷(あかだすき)である。一里を隔(へだ)てても、そこと指(さ)す指(ゆび)の先に、引っ着いて見えるほどの藁葺(わらぶき)は、この女の家でもあろう。天武天皇の落ちたまえる昔のままに、棚引(たなび)く霞(かすみ)は長(とこ)しえに八瀬(やせ)の山里を封じて長閑(のどか)である。
「この辺の女はみんな奇麗(きれい)だな。感心だ。何だか画(え)のようだ」と宗近君が云う。
「あれが大原女(おはらめ)なんだろう」
「なに八瀬女(やせめ)だ」
「八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ」
「なくっても八瀬の女に違ない。嘘だと思うなら今度逢(あ)ったら聞いてみよう」
「誰も嘘だと云やしない。しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか」
「きっとそうか、受合うか」
「そうする方が詩的でいい。何となく雅(が)でいい」
「じゃ当分雅号として用いてやるかな」
「雅号は好いよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、悌(てい)、だのってさまざまな奴があるから」
「なるほど、蕎麦屋(そばや)に藪(やぶ)がたくさん出来て、牛肉屋がみんないろはになるのもその格だね」
「そうさ、御互に学士を名乗ってるのも同じ事だ」
「つまらない。そんな事に帰着するなら雅号は廃(よ)せばよかった」
「これから君は外交官の雅号を取るんだろう」
「ハハハハあの雅号はなかなか取れない。試験官に雅味のある奴がいないせいだな」
「もう何遍落第したかね。三遍か」
「馬鹿を申せ」
「じゃ二遍か」
「なんだ、ちゃんと知ってる癖に。はばかりながら落第はこれでたった一遍だ」
「一度受けて一遍なんだから、これからさき……」
「何遍やるか分らないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君は全体何をするんだい」
「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう後足(あとあし)で石を転(ころ)がしてはいかん。後(あと)から尾(つ)いて行くものが剣呑(けんのん)だ。――ああ随分くたびれた。僕はここで休むよ」と甲野さんは、がさりと音を立てて枯薄(かれすすき)の中へ仰向(あおむ)けに倒れた。
「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号を唱(とな)えるが、山登りはから駄目だね」と宗近君は例の桜の杖(つえ)で、甲野さんの寝(ね)ている頭の先をこつこつ敲(たた)く。敲くたびに杖の先が薄を薙(な)ぎ倒してがさがさ音を立てる。
「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」
「うん」
「うんか、おやおや」
「反吐(へど)が出そうだ」
「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも一(ひ)と休息(やすみ)仕(つかまつ)ろう」
 甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子も傘(かさ)も坂道に転がしたまま、仰向(あおむ)けに空を眺(なが)めている。蒼白(あおじろ)く面高(おもだか)に削(けず)り成(な)せる彼の顔と、無辺際(むへんざい)に浮き出す薄き雲の□然(ゆうぜん)と消えて入る大いなる天上界(てんじょうかい)の間には、一塵の眼を遮(さえ)ぎるものもない。反吐は地面の上へ吐くものである。大空に向う彼の眼中には、地を離れ、俗を離れ、古今の世を離れて万里の天があるのみである。
 宗近君は米沢絣(よねざわがすり)の羽織を脱いで、袖畳(そでだた)みにしてちょっと肩の上へ乗せたが、また思い返して、今度は胸の中から両手をむずと出して、うんと云う間(ま)に諸肌(もろはだ)を脱いだ。下から袖無(ちゃんちゃん)が露(あら)われる。袖無の裏から、もじゃもじゃした狐(きつね)の皮が食(は)み出している。これは支那へ行った友人の贈り物として君が大事の袖無である。千羊(せんよう)の皮は一狐(いっこ)の腋(えき)にしかずと云って、君はいつでもこの袖無を一着している。その癖裏に着けた狐の皮は斑(まだら)にほうけて、むやみに脱落するところをもって見ると、何でもよほど性(たち)の悪い野良狐(のらぎつね)に違ない。
「御山(おやま)へ御登(おあが)りやすのどすか、案内しまほうか、ホホホ妙(けったい)な所(とこ)に寝ていやはる」とまた目暗縞(めくらじま)が下りて来る。
「おい、甲野さん。妙な所に寝ていやはるとさ。女にまで馬鹿にされるぜ。好い加減に起きてあるこうじゃないか」
「女は人を馬鹿にするもんだ」
と甲野さんは依然として天(そら)を眺(なが)めている。
「そう泰然と尻を据(す)えちゃ困るな。まだ反吐(へど)を吐きそうかい」
「動けば吐く」
「厄介(やっかい)だなあ」
「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界万斛(ばんこく)の反吐皆動(どう)の一字より来(きた)る」
「何だ本当に吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君を担(かつ)いで麓(ふもと)まで下りなけりゃならんかと思って、内心少々辟易(へきえき)していたんだ」
「余計な御世話だ。誰も頼みもしないのに」
「君は愛嬌(あいきょう)のない男だね」
「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
「何のかのと云って、一分(いっぷん)でも余計動かずにいようと云う算段だな。怪(け)しからん男だ」
「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものを斃(たお)す柔(やわら)かい武器だよ」
「それじゃ無愛想(ぶあいそ)は自分より弱いものを、扱(こ)き使う鋭利なる武器だろう」
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」
「いやに詭弁(きべん)を弄(ろう)するね。そんなら僕は御先へ御免蒙(ごめんこうむ)るぜ。いいか」
「勝手にするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。
 宗近君は脱いだ両袖をぐるぐると腰へ巻き付けると共に、毛脛(けずね)に纏(まつ)わる竪縞(たてじま)の裾(すそ)をぐいと端折(はしお)って、同じく白縮緬(しろちりめん)の周囲(まわり)に畳み込む。最前袖畳にした羽織を桜の杖の先へ引き懸(か)けるが早いか「一剣天下を行く」と遠慮のない声を出しながら、十歩に尽くる岨路(そばみち)を飄然(ひょうぜん)として左へ折れたぎり見えなくなった。
 あとは静である。静かなる事定(さだま)って、静かなるうちに、わが一脈(いちみゃく)の命を託(たく)すると知った時、この大乾坤(だいけんこん)のいずくにか通(かよ)う、わが血潮は、粛々(しゅくしゅく)と動くにもかかわらず、音なくして寂定裏(じゃくじょうり)に形骸(けいがい)を土木視(どぼくし)して、しかも依稀(いき)たる活気を帯ぶ。生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき有耶無耶(うやむや)の累(わずらい)を捨てたるは、雲の岫(しゅう)を出で、空の朝な夕なを変わると同じく、すべての拘泥(こうでい)を超絶したる活気である。古今来(ここんらい)を空(むな)しゅうして、東西位(とうざいい)を尽(つ)くしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ化石(かせき)になりたい。赤も吸い、青も吸い、黄も紫(むらさき)も吸い尽くして、元の五彩に還(かえ)す事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、詮(せん)ずるにすべてを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の此方側(こちらがわ)なるすべてのいさくさは、肉一重(ひとえ)の垣に隔(へだ)てられた因果(いんが)に、枯れ果てたる骸骨にいらぬ情(なさ)けの油を注(さ)して、要なき屍(しかばね)に長夜(ちょうや)の踊をおどらしむる滑稽(こっけい)である。遐(はるか)なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。
 考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起した。また歩行(ある)かねばならぬ。見たくもない叡山を見て、いらざる豆の数々に、役にも立たぬ登山の痕迹(こんせき)を、二三日がほどは、苦しき記念と残さねばならぬ。苦しき記念が必要ならば数えて白頭に至って尽きぬほどある。裂いて髄(ずい)にいって消えぬほどある。いたずらに足の底に膨(ふく)れ上る豆の十や二十――と切り石の鋭どき上に半(なか)ば掛けたる編み上げの踵(かかと)を見下ろす途端(とたん)、石はきりりと面(めん)を更(か)えて、乗せかけた足をすわと云う間(ま)に二尺ほど滑(す)べらした。甲野さんは
「万里の道を見ず」
と小声に吟(ぎん)じながら、傘(かさ)を力に、岨路(そばみち)を登り詰めると、急に折れた胸突坂(むなつきざか)が、下から来る人を天に誘(いざな)う風情(ふぜい)で帽に逼(せま)って立っている。甲野さんは真廂(まびさし)を煽(あお)って坂の下から真一文字に坂の尽きる頂(いただ)きを見上げた。坂の尽きた頂きから、淡きうちに限りなき春の色を漲(みな)ぎらしたる果(はて)もなき空を見上げた。甲野さんはこの時
「ただ万里の天を見る」
と第二の句を、同じく小声に歌った。
 草山を登り詰めて、雑木(ぞうき)の間を四五段上(のぼ)ると、急に肩から暗くなって、踏む靴の底が、湿(しめ)っぽく思われる。路は山の背(せ)を、西から東へ渡して、たちまちのうちに草を失するとすぐ森に移ったのである。近江(おうみ)の空を深く色どるこの森の、動かねば、その上(かみ)の幹と、その上の枝が、幾重(いくえ)幾里に連(つら)なりて、昔(むか)しながらの翠(みど)りを年ごとに黒く畳むと見える。二百の谷々を埋(うず)め、三百の神輿(みこし)を埋め、三千の悪僧を埋めて、なお余りある葉裏に、三藐三菩提(さまくさぼだい)の仏達を埋め尽くして、森々(しんしん)と半空に聳(そび)ゆるは、伝教大師(でんぎょうだいし)以来の杉である。甲野さんはただ一人この杉の下を通る。
 右よりし左よりして、行く人を両手に遮(さえ)ぎる杉の根は、土を穿(うが)ち石を裂いて深く地磐に食い入るのみか、余る力に、跳(は)ね返して暗き道を、二寸の高さに段々と横切っている。登らんとする岩(いわお)の梯子(ていし)に、自然の枕木を敷いて、踏み心地よき幾級の階(かい)を、山霊(さんれい)の賜(たまもの)と甲野さんは息を切らして上(のぼ)って行く。
 行く路の杉に逼(せま)って、暗きより洩(も)るるがごとく這(は)い出ずる日影蔓(ひかげかずら)の、足に纏(まつ)わるほどに繁きを越せば、引かれたる蔓(つる)の長きを伝わって、手も届かぬに、朽(く)ちかかる歯朶(しだ)の、風なき昼をふらふらと揺(うご)く。
「ここだ、ここだ」
と宗近君が急に頭の上で天狗(てんぐ)のような声を出す。朽草(くちくさ)の土となるまで積み古(ふ)るしたる上を、踏めば深靴を隠すほどに踏み答えもなきに、甲野さんはようやくの思で、蝙蝠傘(かわほりがさ)を力に、天狗(てんぐ)の座(ざ)まで、登って行く。
「善哉善哉(ぜんざいぜんざい)、われ汝(なんじ)を待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ」
 甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘を放(ほう)り出すと、その上へどさりと尻持(しりもち)を突いた。
「また反吐(へど)か、反吐を吐く前に、ちょっとあの景色を見なさい。あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう」
と例の桜の杖(つえ)で、杉の間を指す。天を封ずる老幹の亭々と行儀よく並ぶ隙間(すきま)に、的□(てきれき)と近江(おうみ)の湖(うみ)が光った。
「なるほど」と甲野さんは眸(ひとみ)を凝(こ)らす。
 鏡を延べたとばかりでは飽(あ)き足らぬ。琵琶(びわ)の銘ある鏡の明かなるを忌(い)んで、叡山の天狗共が、宵(よい)に偸(ぬす)んだ神酒(みき)の酔(えい)に乗じて、曇れる気息(いき)を一面に吹き掛けたように――光るものの底に沈んだ上には、野と山にはびこる陽炎(かげろう)を巨人の絵の具皿にあつめて、ただ一刷(ひとはけ)に抹(なす)り付けた、瀲□(れんえん)たる春色が、十里のほかに糢糊(もこ)と棚引(たなび)いている。
「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。
「なるほどだけか。君は何を見せてやっても嬉(うれ)しがらない男だね」
「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」
「そう云う恩知らずは、得て哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、日々(にちにち)人間と御無沙汰(ごぶさた)になって……」
「誠に済みません。――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山を背(うしろ)にして――まるで動かんぜ。いつまで見ていても動かんぜ」
「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ。しかし奇麗だ。おや、こっちにもいるぜ」
「あの、ずっと向うの紫色の岸の方にもある」
「うん、ある、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」
「まるで夢のようだ」
「何が」
「何がって、眼前の景色がさ」
「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片付けるに限るね。夢のごとしだって懐手(ふところで)をしていちゃ、駄目だよ」
「何を云ってるんだい」
「おれの云う事もやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に将門(まさかど)が気□(きえん)を吐いたのはどこいらだろう」
「何でも向う側だ。京都を瞰下(みおろ)したんだから。こっちじゃない。あいつも馬鹿だなあ」
「将門か。うん、気□を吐くより、反吐(へど)でも吐く方が哲学者らしいね」
「哲学者がそんなものを吐くものか」
「本当の哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで達磨(だるま)だね」
「あの煙(けぶ)るような島は何だろう」
「あの島か、いやに縹緲(ひょうびょう)としているね。おおかた竹生島(ちくぶしま)だろう」
「本当かい」
「なあに、好い加減さ。雅号なんざ、どうだって、質(もの)さえたしかなら構わない主義だ」
「そんなたしかなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
「人間万事夢のごとしか。やれやれ」
「ただ死と云う事だけが真(まこと)だよ」
「いやだぜ」
「死に突き当らなくっちゃ、人間の浮気(うわき)はなかなかやまないものだ」
「やまなくって好いから、突き当るのは真(ま)っ平(ぴら)御免(ごめん)だ」
「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
「誰が」
「小刀細工(こがたなざいく)の好(すき)な人間がさ」
 山を下りて近江(おうみ)の野に入れば宗近君の世界である。高い、暗い、日のあたらぬ所から、うららかな春の世を、寄り付けぬ遠くに眺(なが)めているのが甲野さんの世界である。

        二

 紅(くれない)を弥生(やよい)に包む昼酣(たけなわ)なるに、春を抽(ぬき)んずる紫(むらさき)の濃き一点を、天地(あめつち)の眠れるなかに、鮮(あざ)やかに滴(した)たらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりも艶(あでやか)に眺(なが)めしむる黒髪を、乱るるなと畳める鬢(びん)の上には、玉虫貝(たまむしかい)を冴々(さえさえ)と菫(すみれ)に刻んで、細き金脚(きんあし)にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き眸(ひとみ)のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴(はんてき)のひろがりに、一瞬の短かきを偸(ぬす)んで、疾風の威(い)を作(な)すは、春にいて春を制する深き眼(まなこ)である。この瞳(ひとみ)を遡(さかのぼ)って、魔力の境(きょう)を窮(きわ)むるとき、桃源(とうげん)に骨を白うして、再び塵寰(じんかん)に帰るを得ず。ただの夢ではない。糢糊(もこ)たる夢の大いなるうちに、燦(さん)たる一点の妖星(ようせい)が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、眉(まゆ)近く逼(せま)るのである。女は紫色の着物を着ている。
 静かなる昼を、静かに栞(しおり)を抽(ぬ)いて、箔(はく)に重き一巻を、女は膝の上に読む。
「墓の前に跪(ひざま)ずいて云う。この手にて――この手にて君を埋(うず)め参らせしを、今はこの手も自由ならず。捕われて遠き国に、行くほどもあらねば、この手にて君が墓を掃(はら)い、この手にて香(こう)を焚(た)くべき折々の、長(とこ)しえに尽きたりと思いたまえ。生ける時は、莫耶(ばくや)も我らを割(さ)き難きに、死こそ無惨(むざん)なれ。羅馬(ロウマ)の君は埃及(エジプト)に葬むられ、埃及なるわれは、君が羅馬に埋(うず)められんとす。君が羅馬は――わが思うほどの恩を、憂(う)きわれに拒(こば)める、君が羅馬は、つれなき君が羅馬なり。されど、情(なさけ)だにあらば、羅馬の神は、よも生きながらの辱(はずかしめ)に、市(いち)に引かるるわれを、雲の上よりよそに見たまわざるべし。君が仇(あだ)なる人の勝利を飾るわれを。埃及の神に見離されたるわれを。君が片身と残したまえるわが命こそ仇なれ。情ある羅馬の神に祈る。――われを隠したまえ。恥見えぬ墓の底に、君とわれを永劫(えいごう)に隠したまえ。」
 女は顔を上げた。蒼白(あおしろ)き頬(ほお)の締(しま)れるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、一重(ひとえ)の底に、余れる何物かを蔵(かく)せるがごとく、蔵せるものを見極(みき)わめんとあせる男はことごとく虜(とりこ)となる。男は眩(まばゆ)げに半(なか)ば口元を動かした。口の居住(いずまい)の崩(くず)るる時、この人の意志はすでに相手の餌食(えじき)とならねばならぬ。下唇(したくちびる)のわざとらしく色めいて、しかも判然(はっき)と口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損う。
 女はただ隼(はやぶさ)の空を搏(う)つがごとくちらと眸(ひとみ)を動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負はすでについた。舌を□頭(あごさき)に飛ばして、泡吹く蟹(かに)と、烏鷺(うろ)を争うは策のもっとも拙(つた)なきものである。風励鼓行(ふうれいここう)して、やむなく城下(じょうか)の誓(ちかい)をなさしむるは策のもっとも凡(ぼん)なるものである。蜜(みつ)を含んで針を吹き、酒を強(し)いて毒を盛るは策のいまだ至らざるものである。最上の戦には一語をも交うる事を許さぬ。拈華(ねんげ)の一拶(いっさつ)は、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にしてまた不語である。ただ躊躇(ちゅうちょ)する事刹那(せつな)なるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼに迷(まよい)と書き、惑(まどい)と書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云う間(ま)に引き上げる。下界万丈(げかいばんじょう)の鬼火(おにび)に、腥(なまぐ)さき青燐(せいりん)を筆の穂に吹いて、会釈(えしゃく)もなく描(えが)き出(いだ)せる文字は、白髪(しらが)をたわしにして洗っても容易(たやす)くは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑を引き戻す訳(わけ)には行くまい。
「小野(おの)さん」と女が呼びかけた。
「え?」とすぐ応じた男は、崩(くず)れた口元を立て直す暇(いとま)もない。唇に笑(えみ)を帯びたのは、半ば無意識にあらわれたる、心の波を、手持無沙汰(てもちぶさた)に草書に崩(くず)したまでであって、崩したものの尽きんとする間際(まぎわ)に、崩すべき第二の波の来ぬのを煩(わずら)っていた折であるから、渡りに船の「え?」は心安く咽喉(のど)を滑(すべ)り出たのである。女は固(もと)より曲者(くせもの)である。「え?」と云わせたまま、しばらくは何にも云わぬ。
「何ですか」と男は二の句を継(つ)いだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯といえども常にこの感を起す。いわんや今、紫の女のほかに、何ものも映(うつ)らぬ男の眼には、二の句は固(もと)より愚かである。
 女はまだ何(なん)にも言わぬ。床(とこ)に懸(か)けた容斎(ようさい)の、小松に交(まじ)る稚子髷(ちごまげ)の、太刀持(たちもち)こそ、昔(むか)しから長閑(のどか)である。狩衣(かりぎぬ)に、鹿毛(かげ)なる駒(こま)の主人(あるじ)は、事なきに慣(な)れし殿上人(てんじょうびと)の常か、動く景色(けしき)も見えぬ。ただ男だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた、二の矢のあたった所は判然せぬ。これが外(そ)れれば、また継がねばならぬ。男は気息(いき)を凝(こ)らして女の顔を見詰めている。肉の足らぬ細面(ほそおもて)に予期の情(じょう)を漲(みなぎ)らして、重きに過ぐる唇の、奇(き)か偶(ぐう)かを疑がいつつも、手答(てごたえ)のあれかしと念ずる様子である。
「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向って彎(ひ)ける弓の、危うくも吾(わ)が頭の上に、瓢箪羽(ひょうたんば)を舞い戻したようなものである。男の我を忘れて、相手を見守るに引き反(か)えて、女は始めより、わが前に坐(す)われる人の存在を、膝(ひざ)に開(ひら)ける一冊のうちに見失っていたと見える。その癖、女はこの書物を、箔(はく)美しと見つけた時、今携(たずさ)えたる男の手から□(も)ぎ取るようにして、読み始めたのである。
 男は「ええ」と申したぎりであった。
「この女は羅馬(ロウマ)へ行くつもりなんでしょうか」
 女は腑(ふ)に落ちぬ不快の面持(おももち)で男の顔を見た。小野さんは「クレオパトラ」の行為に対して責任を持たねばならぬ。
「行きはしませんよ。行きはしませんよ」
と縁もない女王を弁護したような事を云う。
「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく納得(なっとく)する。小野さんは暗い隧道(トンネル)を辛(かろ)うじて抜け出した。
「沙翁(シェクスピヤ)の書いたものを見るとその女の性格が非常によく現われていますよ」
 小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗って馳(か)け出そうとする。魚は淵(ふち)に躍(おど)る、鳶(とび)は空に舞う。小野さんは詩の郷(くに)に住む人である。
 稜錐塔(ピラミッド)の空を燬(や)く所、獅身女(スフィンクス)の砂を抱く所、長河(ちょうが)の鰐魚(がくぎょ)を蔵する所、二千年の昔妖姫(ようき)クレオパトラの安図尼(アントニイ)と相擁して、駝鳥(だちょう)の□□(しょうしょう)に軽く玉肌(ぎょっき)を払える所、は好画題であるまた好詩料である。小野さんの本領である。
「沙翁の描(か)いたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります」
「どんな心持ちに?」
「古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、紫色(むらさきいろ)のクレオパトラが眼の前に鮮(あざ)やかに映って来ます。剥(は)げかかった錦絵(にしきえ)のなかから、たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ます」
「紫? よく紫とおっしゃるのね。なぜ紫なんです」
「なぜって、そう云う感じがするのです」
「じゃ、こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長き袖(そで)を、さっと捌(さば)いて、小野さんの鼻の先に翻(ひるが)えす。小野さんの眉間(みけん)の奥で、急にクレオパトラの臭(におい)がぷんとした。
「え?」と小野さんは俄然(がぜん)として我に帰る。空を掠(かす)める子規(ほととぎす)の、駟(し)も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたるごとく、ちらと動ける異(あや)しき色は、疾(と)く収まって、美くしい手は膝頭(ひざがしら)に乗っている。脈打(みゃくう)つとさえ思えぬほどに静かに乗っている。
 ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、恋々(れんれん)と遠のく後(あと)を追うて、小野さんの心は杳窕(ようちょう)の境に誘(いざな)われて、二千年のかなたに引き寄せらるる。
「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息(ためいき)の恋じゃありません。暴風雨(あらし)の恋、暦(こよみ)にも録(の)っていない大暴雨(おおあらし)の恋。九寸五分の恋です」と小野さんが云う。
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋を斬(き)ると紫色の血が出るというのですか」
「恋が怒(おこ)ると九寸五分が紫色に閃(ひか)ると云うのです」
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
「沙翁(シェクスピヤ)が描(か)いた所を私(わたし)が評したのです。――安図尼(アントニイ)が羅馬(ロウマ)でオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の報道(しらせ)を持って来た時に――クレオパトラの……」
「紫が嫉妬(しっと)で濃く染まったんでしょう」
「紫が埃及(エジプト)の日で焦(こ)げると、冷たい短刀が光ります」
「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言う間(ま)もなく長い袖(そで)が再び閃(ひらめ)いた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むるところがある時でさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔を眺(なが)めている。
「そこでクレオパトラがどうしました」と抑(おさ)えた女は再び手綱(たづな)を緩(ゆる)める。小野さんは馳(か)け出さなければならぬ。
「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、詰(なじ)り方が、性格を活動させているから面白い。オクテヴィヤは自分のように背(せい)が高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を追窮(ついきゅう)します。……」
「全体追窮する人の年はいくつなんです」
「クレオパトラは三十ばかりでしょう」
「それじゃ私に似てだいぶ御婆(おばあ)さんね」
 女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しき靨(えくぼ)のなかに捲(ま)き込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すれば偽(いつわ)りになる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。皓(しろ)い歯に交る一筋の金の耀(かがや)いてまた消えんとする間際(まぎわ)まで、男は何の返事も出なかった。女の年は二十四である。小野さんは、自分と三つ違である事を疾(と)うから知っている。
 美しき女の二十(はたち)を越えて夫(おっと)なく、空(むな)しく一二三を数えて、二十四の今日(きょう)まで嫁(とつ)がぬは不思議である。春院(しゅんいん)いたずらに更(ふ)けて、花影(かえい)欄(おばしま)にたけなわなるを、遅日(ちじつ)早く尽きんとする風情(ふぜい)と見て、琴(こと)を抱(いだ)いて恨(うら)み顔なるは、嫁ぎ後(おく)れたる世の常の女の習(ならい)なるに、麈尾(ほっす)に払う折々の空音(そらね)に、琵琶(びわ)らしき響を琴柱(ことじ)に聴いて、本来ならぬ音色(ねいろ)を興あり気に楽しむはいよいよ不思議である。仔細(しさい)は固(もと)より分らぬ。この男とこの女の、互に語る言葉の影から、時々に覗(のぞ)き込んで、いらざる臆測(おくそく)に、うやむやなる恋の八卦(はっけ)をひそかに占(うら)なうばかりである。
「年を取ると嫉妬(しっと)が増して来るものでしょうか」と女は改たまって、小野さんに聞いた。
 小野さんはまた面喰(めんくら)う。詩人は人間を知らねばならん。女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬ事は答えられる訳(わけ)がない。中年の人の嫉妬を見た事のない男は、いくら詩人でも文士でも致し方がない。小野さんは文字に堪能(かんのう)なる文学者である。
「そうですね。やっぱり人に因(よ)るでしょう」
 角(かど)を立てない代りに挨拶(あいさつ)は濁っている。それで済ます女ではない。
「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」
「あなたが――あなたに嫉妬(しっと)なんて、そんなものは、今だって……」
「有りますよ」
 女の声は静かなる春風(はるかぜ)をひやりと斬(き)った。詩の国に遊んでいた男は、急に足を外(はず)して下界に落ちた。落ちて見ればただの人である。相手は寄りつけぬ高い崖(がけ)の上から、こちらを見下(みおろ)している。自分をこんな所に蹴落(けおと)したのは誰だと考える暇もない。
「清姫(きよひめ)が蛇(じゃ)になったのは何歳(いくつ)でしょう」
「左様(さよう)、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」
「安珍(あんちん)は」
「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」
「小野さん」
「ええ」
「あなたは御何歳(おいくつ)でしたかね」
「私(わたし)ですか――私はと……」
「考えないと分らないんですか」
「いえ、なに――たしか甲野君と御同(おな)い年(どし)でした」
「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽど老(ふ)けて見えますよ」
「なに、そうでも有りません」
「本当よ」
「何か奢(おご)りましょうか」
「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」
「そんなに見えますか」
「まるで坊っちゃんのようですよ」
「可愛想(かわいそう)に」
「可愛らしいんですよ」
 女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の極(きわ)まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかは固(もと)より知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必(かなら)ず女である。男は必ず負ける。具象(ぐしょう)の籠(かご)の中に飼(か)われて、個体の粟(あわ)を喙(ついば)んでは嬉しげに羽搏(はばたき)するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音(ね)を競うものは必ず斃(たお)れる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴き損(そこ)ねた。
「可愛らしいんですよ。ちょうど安珍(あんちん)のようなの」
「安珍は苛(ひど)い」
 許せと云わぬばかりに、今度は受け留(と)めた。
「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
「だって……」
「だって、何が御厭(おいや)なの」
「私(わたし)は安珍のように逃げやしません」
 これを逃げ損ねの受太刀(うけだち)と云う。坊っちゃんは機(き)を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。
「ホホホ私は清姫のように追(お)っ懸(か)けますよ」
 男は黙っている。
「蛇(じゃ)になるには、少し年が老(ふ)け過ぎていますかしら」
 時ならぬ春の稲妻(いなずま)は、女を出でて男の胸をするりと透(とお)した。色は紫である。
「藤尾(ふじお)さん」
「何です」
 呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷は緑(みど)り濃き植込に隔(へだ)てられて、往来に鳴る車の響さえ幽(かす)かである。寂寞(せきばく)たる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。茶縁(ちゃべり)の畳を境に、二尺を隔(へだ)てて互に顔を見合した時、社会は彼らの傍(かたえ)を遠く立ち退(の)いた。救世軍はこの時太鼓を敲(たた)いて市中を練り歩(あ)るいている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息(いき)を引き取ろうとしている。露西亜(ロシア)では虚無党(きょむとう)が爆裂弾を投げている。停車場(ステーション)では掏摸(すり)が捕(つら)まっている。火事がある。赤子(あかご)が生れかかっている。練兵場(れんぺいば)で新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の兄(あに)さんと宗近君は叡山(えいざん)に登っている。
 花の香(か)さえ重きに過ぐる深き巷(ちまた)に、呼び交(か)わしたる男と女の姿が、死の底に滅(め)り込む春の影の上に、明らかに躍(おど)りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ来(きた)る心臓の扉(とびら)は、恋と開き恋と閉じて、動かざる男女(なんにょ)を、躍然と大空裏(たいくうり)に描(えが)き出している。二人の運命はこの危うき刹那(せつな)に定(さだ)まる。東か西か、微塵(みじん)だに体(たい)を動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、羃然(べきぜん)たる爆発物が抛(な)げ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の身体(からだ)は二塊(ふたかたまり)の□(ほのお)である。
「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、砂利(じゃり)を軋(きし)る車輪がはたと行き留まった。襖(ふすま)を開ける音がする。小走りに廊下を伝う足音がする。張り詰めた二人の姿勢は崩(くず)れた。
「母が帰って来たのです」と女は坐(すわ)ったまま、何気なく云う。
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を判然(はっき)と外に露(あら)わさぬうちは罪にはならん。取り返しのつく謎(なぞ)は、法庭(ほうてい)の証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。何人(なんびと)も後指(うしろゆび)を指(さ)す事は出来ぬ。出来れば向うが悪(わ)るい。天下はあくまでも太平である。
「御母(おっか)さんは、どちらへか行らしったんですか」
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ち懸(か)ける前に居住(いずまい)をちょっと繕(つく)ろい直す。洋袴(ズボン)の襞(ひだ)の崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、突(つ)っかい棒(ぼう)に、尻を挙げるための、膝頭(ひざがしら)に揃(そろ)えた両手は、雪のようなカフスに甲(こう)まで蔽(おお)われて、くすんだ鼠縞(ねずみじま)の袖の下から、七宝(しっぽう)の夫婦釦(めおとボタン)が、きらりと顔を出している。
「まあ御緩(ごゆっ)くりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える気色(けしき)もない。男はもとより尻を上げるのは厭(いや)である。
「しかし」と云いながら、隠袋(かくし)の中を捜(さ)ぐって、太い巻煙草(まきたばこ)を一本取り出した。煙草の煙は大抵のものを紛(まぎ)らす。いわんやこれは金の吸口の着いた埃及産(エジプトさん)である。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰を据(す)え直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでも詰(つづ)める便(たより)が出来んとも限らぬ。
 薄い煙りの、黒い口髭(くちひげ)を越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、
「まあ、御坐り遊ばせ」と叮嚀(ていねい)な命令を下した。
 男は無言のまま再び膝(ひざ)を崩(くず)す。御互に春の日は永い。
「近頃は女ばかりで淋(さむ)しくっていけません」
「甲野君はいつ頃(ごろ)御帰りですか」
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」
「御音信(おたより)が有りますか」
「いいえ」
「時候が好いから京都は面白いでしょう」
「あなたもいっしょに御出(おいで)になればよかったのに」
「私(わたし)は……」と小野さんは後を暈(ぼ)かしてしまう。
「なぜ行らっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古い御馴染(おなじみ)じゃありませんか」
「え?」
 小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。
「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」
「それで御馴染なんですか」
「ええ」
「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」
「随分不人情ね」
「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的真面目(まじめ)になって、埃及煙草(エジプトたばこ)を肺の中まで吸い込んだ。
「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。
「御母(おっか)さんでしょう」と小野さんが聞く。
「ええ」
「私(わたし)はもう帰ります」
「なぜです」
「でも何か御用が御在(おあ)りになるんでしょう」
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと御免蒙(ごめんこうむ)ります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」
 藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。平床(ひらどこ)に据えた古薩摩(こさつま)の香炉(こうろ)に、いつ焼(た)き残したる煙の迹(あと)か、こぼれた灰の、灰のままに崩(くず)れもせず、藤尾の部屋は昨日(きのう)も今日も静かである。敷き棄てた八反(はったん)の座布団(ざぶとん)に、主(ぬし)を待つ間(ま)の温気(ぬくもり)は、軽く払う春風に、ひっそり閑(かん)と吹かれている。
 小野さんは黙然(もくねん)と香炉(こうろ)を見て、また黙然と布団を見た。崩(くず)し格子(ごうし)の、畳から浮く角に、何やら光るものが奥に挟(はさ)まっている。小野さんは少し首を横にして輝やくものを物色して考えた。どうも時計らしい。今までは頓(とん)と気がつかなかった。藤尾の立つ時に、絹障(きぬざわり)のしなやかに、布団(ふとん)が擦(ず)れて、隠したものが出掛ったのかも知れぬ。しかし布団の下に時計を隠す必要はあるまい。小野さんは再び布団の下を覗(のぞ)いて見た。松葉形(まつばがた)に繋(つな)ぎ合せた鎖の折れ曲って、表に向いている方が、細く光線を射返す奥に、盛り上がる七子(ななこ)の縁(ふち)が幽(かす)かに浮いている。たしかに時計に違ない。小野さんは首を傾けた。
 金は色の純にして濃きものである。富貴(ふうき)を愛するものは必ずこの色を好む。栄誉を冀(こいねが)うものは必ずこの色を撰(えら)む。盛名を致すものは必ずこの色を飾る。磁石(じしゃく)の鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なき護謨(ゴム)である。一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。
 折柄(おりから)向う座敷の方角から、絹のざわつく音が、曲(ま)がり椽(えん)を伝わって近づいて来る。小野さんは覗(のぞ)き込んだ眼を急に外(そ)らして、素知らぬ顔で、容斎(ようさい)の軸(じく)を真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。
 黒縮緬(くろちりめん)の三つ紋を撫(な)で肩(がた)に着こなして、くすんだ半襟(はんえり)に、髷(まげ)ばかりを古風につやつやと光らしている。
「おやいらっしゃい」と御母(おっか)さんは軽く会釈(えしゃく)して、椽に近く座を占める。鶯(うぐいす)も鳴かぬ代りに、目に立つほどの塵もなく掃除の行き届いた庭に、長過ぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、何となく同一体のように思われる。
「藤尾が始終(しじゅう)御厄介(ごやっかい)になりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。まるで小供でございますから――さあ、どうぞ御楽(おらく)に――いつも御挨拶(ごあいさつ)を申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみ致します。――どうも実に赤児(ねんね)で、困り切ります、駄々ばかり捏(こ)ねまして――でも英語だけは御蔭(おかげ)さまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――何兄がいるのでございますから、教えて貰えば好いのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟は行(ゆ)かんものと見えまして――」
 御母さんの弁舌は滾々(こんこん)としてみごとである。小野さんは一字の間投詞を挟(さしはさ)む遑(いと)まなく、口車(くちぐるま)に乗って馳(か)けて行く。行く先は固(もと)より判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いて続(つづき)を読んでいる。
「花を墓に、墓に口を接吻(くちづけ)して、憂(う)きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、浴湯(ゆ)をこそと召す。浴(ゆあ)みしたる後(のち)は夕餉(ゆうげ)をこそと召す。この時賤(いや)しき厠卒(こもの)ありて小さき籃(かご)に無花果(いちじく)を盛りて参らす。女王の該撒(シイザア)に送れる文(ふみ)に云う。願わくは安図尼(アントニイ)と同じ墓にわれを埋(うず)めたまえと。無花果(いちじく)の繁れる青き葉陰にはナイルの泥(つち)の□(ほのお)の舌(した)を冷やしたる毒蛇(どくだ)を、そっと忍ばせたり。該撒(シイザア)の使は走る。闥(たつ)を排して眼(まなこ)を射れば――黄金(こがね)の寝台に、位高き装(よそおい)を今日と凝(こ)らして、女王の屍(しかばね)は是非なく横(よこた)わる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王の頭(かしら)のあたりに、月黒き夜(よ)の露をあつめて、千顆(せんか)の珠(たま)を鋳たる冠(かんむり)の、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。埃及(エジプト)の御代(みよ)しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目を瞑(ねむ)る」
 埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、焚(た)き罩(こ)むる錬香(ねりこう)の尽きなんとして幽(かす)かなる尾を虚冥(きょめい)に曳(ひ)くごとく、全(まった)き頁(ページ)が淡く霞(かす)んで見える。
「藤尾」と知らぬ御母(おっか)さんは呼ぶ。
 男はやっと寛容(くつろい)だ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は俯向(うつむい)ている。
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
 女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ廂髪(ひさしがみ)の、白い額に接(つづ)く下から、骨張らぬ細い鼻を承(う)けて、紅(くれない)を寸(すん)に織る唇が――唇をそと滑(すべ)って、頬(ほお)の末としっくり落ち合う□(あご)が――□を棄(す)ててなよやかに退(ひ)いて行く咽喉(のど)が――しだいと現実世界に競(せ)り出して来る。
「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。
「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変奇麗(きれい)な――汚(よご)さないようになさいよ。本なぞは大事にしないと――」
「大事にしていますわ」
「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」
「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」
「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口を開(ひら)いた。
「いえ、あなた、どうもわがまま者(もの)の寄り合いだもんでござんすから、始終(しじゅう)、小供のように喧嘩(けんか)ばかり致しまして――こないだも兄の本を……」と御母さんは藤尾の方を見て、言おうか、言うまいかと云う態度を取る。同情のある恐喝(きょうかつ)手段は長者(ちょうしゃ)の好んで年少に対して用いる遊戯である。
「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんは恐る恐る聞きたがる。
「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。玩具(おもちゃ)の九寸五分を突き付けたような気合である。
「兄の本を庭へ抛(な)げたんですよ」と藤尾は母を差し置いて、鋭どい返事を小野さんの眉間(みけん)へ向けて抛(な)げつけた。御母さんは苦笑(にがわら)いをする。小野さんは口を開(あ)く。
「これの兄も御存じの通り随分変人ですから」と御母(おっか)さんは遠廻しに棄鉢(すてばち)になった娘の御機嫌をとる。
「甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。
「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、始終(しじゅう)身体(からだ)が悪いとか申して、ぐずぐずしておりますから、それならば、ちと旅行でもして判然(はきはき)したらよかろうと申しましてね――でも、まだ、何だかだと駄々を捏(こ)ねて、動かないのを、ようやく宗近に頼んで連れ出して貰(もら)いました。ところがまるで鉄砲玉で。若いものと申すものは……」
「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」
「そうかね、御母さんには何だか分らないけれども――それにあなた、あの宗近と云うのが大の呑気屋(のんきや)で、あれこそ本当の鉄砲玉で、随分の困りものでしてね」
「アハハハ快活な面白い人ですな」
「宗近と云えば、御前(おまい)さっきのものはどこにあるのかい」と御母さんは、きりりとした眼を上げて部屋のうちを見廻わす。
「ここです」と藤尾は、軽く諸膝(もろひざ)を斜(なな)めに立てて、青畳の上に、八反(はったん)の座布団(ざぶとん)をさらりと滑(す)べらせる。富貴(ふうき)の色は蜷局(とぐろ)を三重に巻いた鎖の中に、堆(うずたか)く七子(ななこ)の蓋(ふた)を盛り上げている。
 右手を伸(の)べて、輝くものを戛然(かつぜん)と鳴らすよと思う間(ま)に、掌(たなごころ)より滑る鎖が、やおら畳に落ちんとして、一尺の長さに喰(く)い留(と)められると、余る力を横に抜いて、端(はじ)につけた柘榴石(ガーネット)の飾りと共に、長いものがふらりふらりと二三度揺れる。第一の波は紅(くれない)の珠(たま)に女の白き腕(かいな)を打つ。第二の波は観世(かんぜ)に動いて、軽く袖口(そでくち)にあたる。第三の波のまさに静まらんとするとき、女は衝(つ)と立ち上がった。
 奇麗な色が、二色、三色入り乱れて、疾(と)く動く景色(けしき)を、茫然(ぼうぜん)と眺(なが)めていた小野さんの前へぴたりと坐った藤尾は
「御母(おかあ)さん」と後(うしろ)を顧(かえり)みながら、
「こうすると引き立ちますよ」と云って故(もと)の席に返る。小野さんの胴衣(チョッキ)の胸には松葉形に組んだ金の鎖が、釦(ボタン)の穴を左右に抜けて、黒ずんだメルトン地を背景に燦爛(さんらん)と耀(かが)やいている。
「どうです」と藤尾が云う。
「なるほど善(よ)く似合いますね」と御母(おっか)さんが云う。
「全体どうしたんです」と小野さんは煙(けむ)に巻かれながら聞く。御母さんはホホホと笑う。
「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。
「じゃ、まあ、止(よ)しましょう」と藤尾は再び立って小野さんの胸から金時計を外(はず)してしまった。

        三

 柳(やなぎ)□(た)れて条々(じょうじょう)の煙を欄(らん)に吹き込むほどの雨の日である。衣桁(いこう)に懸(か)けた紺(こん)の背広の暗く下がるしたに、黒い靴足袋(くつたび)が三分一(さんぶいち)裏返しに丸く蹲踞(うずくま)っている。違棚(ちがいだな)の狭(せま)い上に、偉大な頭陀袋(ずだぶくろ)を据(す)えて、締括(しめくく)りのない紐(ひも)をだらだらと嬾(ものうく)も垂らした傍(かたわ)らに、錬歯粉(ねりはみがき)と白楊子(しろようじ)が御早うと挨拶(あいさつ)している。立て切った障子(しょうじ)の硝子(ガラス)を通して白い雨の糸が細長く光る。

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