硝子戸の中
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著者名:夏目漱石 

        一

 硝子戸(ガラスど)の中(うち)から外を見渡すと、霜除(しもよけ)をした芭蕉(ばしょう)だの、赤い実(み)の結(な)った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来(こ)ない。書斎にいる私の眼界は極(きわ)めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。
 その上私は去年の暮から風邪(かぜ)を引いてほとんど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかり坐(すわ)っているので、世間の様子はちっとも分らない。心持が悪いから読書もあまりしない。私はただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。
 しかし私の頭は時々動く。気分も多少は変る。いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起って来る。それから小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入って来(く)る。それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったり為(し)たりする。私は興味に充(み)ちた眼をもってそれらの人を迎えたり送ったりした事さえある。
 私はそんなものを少し書きつづけて見ようかと思う。私はそうした種類の文字(もんじ)が、忙がしい人の眼に、どれほどつまらなく映るだろうかと懸念(けねん)している。私は電車の中でポッケットから新聞を出して、大きな活字だけに眼を注(そそ)いでいる購読者の前に、私の書くような閑散な文字を列(なら)べて紙面をうずめて見せるのを恥ずかしいものの一つに考える。これらの人々は火事や、泥棒や、人殺しや、すべてその日その日の出来事のうちで、自分が重大と思う事件か、もしくは自分の神経を相当に刺戟(しげき)し得る辛辣(しんらつ)な記事のほかには、新聞を手に取る必要を認めていないくらい、時間に余裕をもたないのだから。――彼らは停留所で電車を待ち合わせる間に、新聞を買って、電車に乗っている間に、昨日(きのう)起った社会の変化を知って、そうして役所か会社へ行き着くと同時に、ポッケットに収めた新聞紙の事はまるで忘れてしまわなければならないほど忙がしいのだから。
 私は今これほど切りつめられた時間しか自由にできない人達の軽蔑(けいべつ)を冒(おか)して書くのである。
 去年から欧洲では大きな戦争が始まっている。そうしてその戦争がいつ済むとも見当(けんとう)がつかない模様である。日本でもその戦争の一小部分を引き受けた。それが済むと今度は議会が解散になった。来(きた)るべき総選挙は政治界の人々にとっての大切な問題になっている。米が安くなり過ぎた結果農家に金が入らないので、どこでも不景気だと零(こぼ)している。年中行事で云えば、春の相撲(すもう)が近くに始まろうとしている。要するに世の中は大変多事である。硝子戸の中にじっと坐っている私なぞはちょっと新聞に顔が出せないような気がする。私が書けば政治家や軍人や実業家や相撲狂(すもうきょう)を押(お)し退(の)けて書く事になる。私だけではとてもそれほどの胆力が出て来ない。ただ春に何か書いて見ろと云われたから、自分以外にあまり関係のないつまらぬ事を書くのである。それがいつまでつづくかは、私の筆の都合(つごう)と、紙面の編輯(へんしゅう)の都合とできまるのだから、判然(はっきり)した見当は今つきかねる。

        二

 電話口へ呼び出されたから受話器を耳へあてがって用事を訊(き)いて見ると、ある雑誌社の男が、私の写真を貰(もら)いたいのだが、いつ撮(と)りに行って好いか都合を知らしてくれろというのである。私は「写真は少し困ります」と答えた。
 私はこの雑誌とまるで関係をもっていなかった。それでも過去三四年の間にその一二冊を手にした記憶はあった。人の笑っている顔ばかりをたくさん載(の)せるのがその特色だと思ったほかに、今は何にも頭に残っていない。けれどもそこにわざとらしく笑っている顔の多くが私に与えた不快の印象はいまだに消えずにいた。それで私は断(こと)わろうとしたのである。
 雑誌の男は、卯年(うどし)の正月号だから卯年の人の顔を並べたいのだという希望を述べた。私は先方のいう通り卯年の生れに相違なかった。それで私はこう云った。――
「あなたの雑誌へ出すために撮(と)る写真は笑わなくってはいけないのでしょう」
「いえそんな事はありません」と相手はすぐ答えた。あたかも私が今までその雑誌の特色を誤解していたごとくに。
「当り前の顔で構いませんなら載せていただいても宜(よろ)しゅうございます」
「いえそれで結構でございますから、どうぞ」
 私は相手と期日の約束をした上、電話を切った。
 中一日(なかいちにち)おいて打ち合せをした時間に、電話をかけた男が、綺麗(きれい)な洋服を着て写真機を携(たずさ)えて私の書斎に這入(はい)って来た。私はしばらくその人と彼の従事している雑誌について話をした。それから写真を二枚撮(と)って貰った。一枚は机の前に坐っている平生の姿、一枚は寒い庭前(にわさき)の霜(しも)の上に立っている普通の態度であった。書斎は光線がよく透(とお)らないので、機械を据(す)えつけてからマグネシアを燃(も)した。その火の燃えるすぐ前に、彼は顔を半分ばかり私の方へ出して、「御約束ではございますが、少しどうか笑っていただけますまいか」と云った。私はその時突然微(かす)かな滑稽(こっけい)を感じた。しかし同時に馬鹿な事をいう男だという気もした。私は「これで好いでしょう」と云ったなり先方の注文には取り合わなかった。彼が私を庭の木立(こだち)の前に立たして、レンズを私の方へ向けた時もまた前と同じような鄭寧(ていねい)な調子で、「御約束ではございますが、少しどうか……」と同じ言葉を繰(く)り返(かえ)した。私は前よりもなお笑う気になれなかった。
 それから四日ばかり経(た)つと、彼は郵便で私の写真を届けてくれた。しかしその写真はまさしく彼の注文通りに笑っていたのである。その時私は中(あて)が外(はず)れた人のように、しばらく自分の顔を見つめていた。私にはそれがどうしても手を入れて笑っているように拵(こしら)えたものとしか見えなかったからである。
 私は念のため家(うち)へ来る四五人のものにその写真を出して見せた。彼らはみんな私と同様に、どうも作って笑わせたものらしいという鑑定を下(くだ)した。
 私は生れてから今日(こんにち)までに、人の前で笑いたくもないのに笑って見せた経験が何度となくある。その偽(いつわ)りが今この写真師のために復讐(ふくしゅう)を受けたのかも知れない。
 彼は気味のよくない苦笑を洩(も)らしている私の写真を送ってくれたけれども、その写真を載せると云った雑誌はついに届けなかった。

        三

 私がHさんからヘクトーを貰った時の事を考えると、もういつの間にか三四年の昔になっている。何だか夢のような心持もする。
 その時彼はまだ乳離(ちばな)れのしたばかりの小供であった。Hさんの御弟子は彼を風呂敷(ふろしき)に包んで電車に載(の)せて宅(うち)まで連れて来てくれた。私はその夜(よ)彼を裏の物置の隅(すみ)に寝かした。寒くないように藁(わら)を敷いて、できるだけ居心地の好い寝床(ねどこ)を拵(こしら)えてやったあと、私は物置の戸を締(し)めた。すると彼は宵(よい)の口(くち)から泣き出した。夜中には物置の戸を爪で掻き破って外へ出ようとした。彼は暗い所にたった独(ひと)り寝るのが淋しかったのだろう、翌(あく)る朝(あさ)までまんじりともしない様子であった。
 この不安は次の晩もつづいた。その次(つぎ)の晩もつづいた。私は一週間余りかかって、彼が与えられた藁の上にようやく安らかに眠るようになるまで、彼の事が夜(よる)になると必ず気にかかった。
 私の小供は彼を珍らしがって、間(ま)がな隙(すき)がな玩弄物(おもちゃ)にした。けれども名がないのでついに彼を呼ぶ事ができなかった。ところが生きたものを相手にする彼らには、是非とも先方の名を呼んで遊ぶ必要があった。それで彼らは私に向って犬に名を命(つ)けてくれとせがみ出した。私はとうとうヘクトーという偉い名を、この小供達の朋友(ほうゆう)に与えた。
 それはイリアッドに出てくるトロイ一の勇将の名前であった。トロイと希臘(ギリシャ)と戦争をした時、ヘクトーはついにアキリスのために打たれた。アキリスはヘクトーに殺された自分の友達の讐(かたき)を取ったのである。アキリスが怒(いか)って希臘方(がた)から躍(おど)り出した時に、城の中に逃げ込まなかったものはヘクトー一人であった。ヘクトーは三たびトロイの城壁をめぐってアキリスの鋒先(ほこさき)を避けた。アキリスも三たびトロイの城壁をめぐってその後(あと)を追いかけた。そうしてしまいにとうとうヘクトーを槍(やり)で突き殺した。それから彼の死骸(しがい)を自分の軍車(チャリオット)に縛(しば)りつけてまたトロイの城壁を三度引(ひ)き摺(ず)り廻した。……
 私はこの偉大な名を、風呂敷包にして持って来た小さい犬に与えたのである。何にも知らないはずの宅(うち)の小供も、始めは変な名だなあと云っていた。しかしじきに慣れた。犬もヘクトーと呼ばれるたびに、嬉(うれ)しそうに尾を振った。しまいにはさすがの名もジョンとかジォージとかいう平凡な耶蘇教信者(ヤソきょうしんじゃ)の名前と一様に、毫(ごう)も古典的(クラシカル)な響を私に与えなくなった。同時に彼はしだいに宅のものから元(もと)ほど珍重されないようになった。
 ヘクトーは多くの犬がたいてい罹(かか)るジステンパーという病気のために一時入院した事がある。その時は子供がよく見舞(みまい)に行った。私も見舞に行った。私の行った時、彼はさも嬉しそうに尾を振って、懐(なつ)かしい眼を私の上に向けた。私はしゃがんで私の顔を彼の傍(そば)へ持って行って、右の手で彼の頭を撫(な)でてやった。彼はその返礼に私の顔を所嫌(ところきら)わず舐(な)めようとしてやまなかった。その時彼は私の見ている前で、始めて医者の勧(すす)める小量の牛乳を呑(の)んだ。それまで首を傾(かし)げていた医者も、この分ならあるいは癒(なお)るかも知れないと云った。ヘクトーははたして癒った。そうして宅(うち)へ帰って来て、元気に飛び廻った。

        四

 日ならずして、彼は二三の友達を拵(こしら)えた。その中(うち)で最も親しかったのはすぐ前の医者の宅にいる彼と同年輩ぐらいの悪戯者(いたずらもの)であった。これは基督教徒(キリストきょうと)に相応(ふさわ)しいジョンという名前を持っていたが、その性質は異端者(いたんしゃ)のヘクトーよりも遥(はるか)に劣っていたようである。むやみに人に噛(か)みつく癖(くせ)があるので、しまいにはとうとう打(う)ち殺(ころ)されてしまった。
 彼はこの悪友を自分の庭に引き入れて勝手な狼藉(ろうぜき)を働らいて私を困らせた。彼らはしきりに樹の根を掘って用もないのに大きな穴を開(あ)けて喜んだ。綺麗(きれい)な草花の上にわざと寝転(ねころ)んで、花も茎も容赦(ようしゃ)なく散らしたり、倒したりした。
 ジョンが殺されてから、無聊(ぶりょう)な彼は夜遊(よあそ)び昼遊びを覚えるようになった。散歩などに出かける時、私はよく交番の傍(そば)に日向(ひなた)ぼっこをしている彼を見る事があった。それでも宅にさえいれば、よくうさん臭いものに吠(ほ)えついて見せた。そのうちで最も猛烈に彼の攻撃を受けたのは、本所辺から来る十歳(とお)ばかりになる角兵衛獅子(かくべえじし)の子であった。この子はいつでも「今日(こんち)は御祝い」と云って入って来る。そうして家(うち)の者から、麺麭(パン)の皮と一銭銅貨を貰わないうちは帰らない事に一人できめていた。だからヘクトーがいくら吠えても逃げ出さなかった。かえってヘクトーの方が、吠えながら尻尾(しっぽ)を股(また)の間に挟(はさ)んで物置の方へ退却するのが例になっていた。要するにヘクトーは弱虫であった。そうして操行からいうと、ほとんど野良犬(のらいぬ)と択(えら)ぶところのないほどに堕落していた。それでも彼らに共通な人懐(ひとなつ)っこい愛情はいつまでも失わずにいた。時々顔を見合せると、彼は必(かなら)ず尾を掉(ふ)って私に飛びついて来た。あるいは彼の背を遠慮なく私の身体(からだ)に擦(す)りつけた。私は彼の泥足のために、衣服や外套(がいとう)を汚(よご)した事が何度あるか分らない。
 去年の夏から秋へかけて病気をした私は、一カ月ばかりの間(あいだ)ついにヘクトーに会う機会を得ずに過ぎた。病(やまい)がようやく怠(おこた)って、床(とこ)の外へ出られるようになってから、私は始めて茶の間の縁(えん)に立って彼の姿を宵闇(よいやみ)の裡(うち)に認めた。私はすぐ彼の名を呼んだ。しかし生垣(いけがき)の根にじっとうずくまっている彼は、いくら呼んでも少しも私の情(なさ)けに応じなかった。彼は首も動かさず、尾も振らず、ただ白い塊(かたまり)のまま垣根にこびりついてるだけであった。私は一カ月ばかり会わないうちに、彼がもう主人の声を忘れてしまったものと思って、微(かす)かな哀愁(あいしゅう)を感ぜずにはいられなかった。
 まだ秋の始めなので、どこの間(ま)の雨戸も締(し)められずに、星の光が明け放たれた家の中からよく見られる晩であった。私の立っていた茶の間の縁には、家(うち)のものが二三人いた。けれども私がヘクトーの名前を呼んでも彼らはふり向きもしなかった。私がヘクトーに忘れられたごとくに、彼らもまたヘクトーの事をまるで念頭に置いていないように思われた。
 私は黙って座敷へ帰って、そこに敷いてある布団(ふとん)の上に横になった。病後の私は季節に不相当な黒八丈(くろはちじょう)の襟(えり)のかかった銘仙(めいせん)のどてらを着ていた。私はそれを脱ぐのが面倒だから、そのまま仰向(あおむけ)に寝て、手を胸の上で組み合せたなり黙って天井(てんじょう)を見つめていた。

        五

 翌朝(あくるあさ)書斎の縁に立って、初秋(はつあき)の庭の面(おもて)を見渡した時、私は偶然また彼の白い姿を苔(こけ)の上に認めた。私は昨夕(ゆうべ)の失望を繰(く)り返(かえ)すのが厭(いや)さに、わざと彼の名を呼ばなかった。けれども立ったなりじっと彼の様子を見守らずにはいられなかった。彼は立木(たちき)の根方(ねがた)に据(す)えつけた石の手水鉢(ちょうずばち)の中に首を突き込んで、そこに溜(たま)っている雨水(あまみず)をぴちゃぴちゃ飲んでいた。
 この手水鉢はいつ誰が持って来たとも知れず、裏庭の隅(すみ)に転(ころ)がっていたのを、引越した当時植木屋に命じて今の位置に移させた六角形(ろっかくがた)のもので、その頃は苔(こけ)が一面に生(は)えて、側面に刻みつけた文字(もんじ)も全く読めないようになっていた。しかし私には移す前一度判然(はっきり)とそれを読んだ記憶があった。そうしてその記憶が文字として頭に残らないで、変な感情としていまだに胸の中を往来していた。そこには寺と仏と無常の匂(におい)が漂(ただよ)っていた。
 ヘクトーは元気なさそうに尻尾(しっぽ)を垂れて、私の方へ背中を向けていた。手水鉢を離れた時、私は彼の口から流れる垂涎(よだれ)を見た。
「どうかしてやらないといけない。病気だから」と云って、私は看護婦を顧(かえり)みた。私はその時まだ看護婦を使っていたのである。
 私は次の日も木賊(とくさ)の中に寝ている彼を一目見た。そうして同じ言葉を看護婦に繰り返した。しかしヘクトーはそれ以来姿を隠したぎり再び宅(うち)へ帰って来なかった。
「医者へ連れて行こうと思って、探したけれどもどこにもおりません」
 家(うち)のものはこう云って私の顔を見た。私は黙っていた。しかし腹の中では彼を貰い受けた当時の事さえ思い起された。届書(とどけしょ)を出す時、種類という下へ混血児(あいのこ)と書いたり、色という字の下へ赤斑(あかまだら)と書いた滑稽(こっけい)も微(かす)かに胸に浮んだ。
 彼がいなくなって約一週間も経(た)ったと思う頃、一二丁隔(へだた)ったある人の家から下女が使に来た。その人の庭にある池の中に犬の死骸(しがい)が浮いているから引き上げて頸輪(くびわ)を改ためて見ると、私の家の名前が彫(ほ)りつけてあったので、知らせに来たというのである。下女は「こちらで埋(う)めておきましょうか」と尋ねた。私はすぐ車夫(くるまや)をやって彼を引き取らせた。
 私は下女をわざわざ寄こしてくれた宅(うち)がどこにあるか知らなかった。ただ私の小供の時分から覚えている古い寺の傍(そば)だろうとばかり考えていた。それは山鹿素行(やまがそこう)の墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のように、古い榎(えのき)が一本立っているのが、私の書斎の北の縁から数多(あまた)の屋根を越してよく見えた。
 車夫は筵(むしろ)の中にヘクトーの死骸を包(くる)んで帰って来た。私はわざとそれに近づかなかった。白木(しらき)の小さい墓標を買って来(こ)さして、それへ「秋風の聞えぬ土に埋(う)めてやりぬ」という一句を書いた。私はそれを家(うち)のものに渡して、ヘクトーの眠っている土の上に建てさせた。彼の墓は猫の墓から東北(ひがしきた)に当って、ほぼ一間ばかり離れているが、私の書斎の、寒い日の照らない北側の縁に出て、硝子戸(ガラスど)のうちから、霜(しも)に荒された裏庭を覗(のぞ)くと、二つともよく見える。もう薄黒く朽(く)ちかけた猫のに比べると、ヘクトーのはまだ生々(なまなま)しく光っている。しかし間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の眼につかなくなるだろう。

        六

 私はその女に前後四五回会った。
 始めて訪(たず)ねられた時私は留守(るす)であった。取次のものが紹介状を持って来るように注意したら、彼女は別にそんなものを貰う所がないといって帰って行ったそうである。
 それから一日ほど経(た)って、女は手紙で直接(じか)に私の都合を聞き合せに来た。その手紙の封筒から、私は女がつい眼と鼻の間に住んでいる事を知った。私はすぐ返事を書いて面会日を指定してやった。
 女は約束の時間を違(たが)えず来た。三(み)つ柏(かしわ)の紋(もん)のついた派出(はで)な色の縮緬(ちりめん)の羽織を着ているのが、一番先に私の眼に映った。女は私の書いたものをたいてい読んでいるらしかった。それで話は多くそちらの方面へばかり延びて行った。しかし自分の著作について初見(しょけん)の人から賛辞(さんじ)ばかり受けているのは、ありがたいようではなはだこそばゆいものである。実をいうと私は辟易(へきえき)した。
 一週間おいて女は再び来た。そうして私の作物(さくぶつ)をまた賞(ほ)めてくれた。けれども私の心はむしろそういう話題を避けたがっていた。三度目に来た時、女は何かに感激したものと見えて、袂(たもと)から手帛(ハンケチ)を出して、しきりに涙を拭(ぬぐ)った。そうして私に自分のこれまで経過して来た悲しい歴史を書いてくれないかと頼んだ。しかしその話を聴かない私には何という返事も与えられなかった。私は女に向って、よし書くにしたところで迷惑を感ずる人が出て来はしないかと訊(き)いて見た。女は存外判然(はっきり)した口調で、実名(じつみょう)さえ出さなければ構わないと答えた。それで私はとにかく彼女の経歴を聴(き)くために、とくに時間を拵(こしら)えた。
 するとその日になって、女は私に会いたいという別の女の人を連れて来て、例の話はこの次に延ばして貰いたいと云った。私には固(もと)より彼女の違約を責める気はなかった。二人を相手に世間話をして別れた。
 彼女が最後に私の書斎に坐(すわ)ったのはその次の日の晩であった。彼女は自分の前に置かれた桐(きり)の手焙(てあぶり)の灰を、真鍮(しんちゅう)の火箸(ひばし)で突ッつきながら、悲しい身の上話を始める前、黙っている私にこう云った。
「この間は昂奮(こうふん)して私の事を書いていただきたいように申し上げましたが、それは止(や)めに致します。ただ先生に聞いていただくだけにしておきますから、どうかそのおつもりで……」
 私はそれに対してこう答えた。
「あなたの許諾を得ない以上は、たといどんなに書きたい事柄(ことがら)が出て来てもけっして書く気遣(きづかい)はありませんから御安心なさい」
 私が充分な保証を女に与えたので、女はそれではと云って、彼女の七八年前からの経歴を話し始めた。私は黙然(もくねん)として女の顔を見守っていた。しかし女は多く眼を伏せて火鉢(ひばち)の中ばかり眺めていた。そうして綺麗(きれい)な指で、真鍮の火箸を握っては、灰の中へ突き刺した。
 時々腑(ふ)に落ちないところが出てくると、私は女に向って短かい質問をかけた。女は単簡(たんかん)にまた私の納得(なっとく)できるように答をした。しかしたいていは自分一人で口を利(き)いていたので、私はむしろ木像のようにじっとしているだけであった。
 やがて女の頬は熱(ほて)って赤くなった。白粉(おしろい)をつけていないせいか、その熱った頬の色が著るしく私の眼に着いた。俯向(うつむき)になっているので、たくさんある黒い髪の毛も自然私の注意を惹(ひ)く種になった。

        七

 女の告白は聴いている私を息苦しくしたくらいに悲痛を極(きわ)めたものであった。彼女は私に向ってこんな質問をかけた。――
「もし先生が小説を御書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」
 私は返答に窮した。
「女の死ぬ方がいいと御思いになりますか、それとも生きているように御書きになりますか」
 私はどちらにでも書けると答えて、暗(あん)に女の気色(けしき)をうかがった。女はもっと判然した挨拶(あいさつ)を私から要求するように見えた。私は仕方なしにこう答えた。――
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支(さしつかえ)ないでしょう。しかし美くしいものや気高(けだか)いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」
「先生はどちらを御択(おえら)びになりますか」
 私はまた躊躇(ちゅうちょ)した。黙って女のいう事を聞いているよりほかに仕方がなかった。
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのが怖(こわ)くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻(ぬけがら)のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
 私は女が今広い世間(せかい)の中にたった一人立って、一寸(いっすん)も身動きのできない位置にいる事を知っていた。そうしてそれが私の力でどうする訳にも行かないほどに、せっぱつまった境遇である事も知っていた。私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられてじっとしていた。
 私は服薬の時間を計るため、客の前も憚(はば)からず常に袂時計(たもとどけい)を座蒲団(ざぶとん)の傍(わき)に置く癖(くせ)をもっていた。
「もう十一時だから御帰りなさい」と私はしまいに女に云った。女は厭(いや)な顔もせずに立ち上った。私はまた「夜が更(ふ)けたから送って行って上げましょう」と云って、女と共に沓脱(くつぬぎ)に下りた。
 その時美くしい月が静かな夜(よ)を残る隈(くま)なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄(げた)の音はまるで聞こえなかった。私は懐手(ふところで)をしたまま帽子も被(かぶ)らずに、女の後(あと)に跟(つ)いて行った。曲り角の所で女はちょっと会釈(えしゃく)して、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と云った。「もったいない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。
 次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた云った。私は「本当に光栄と思いますか」と真面目(まじめ)に尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、また宅(うち)の方へ引き返したのである。
 むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれが尊(たっ)とい文芸上の作物(さくぶつ)を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。

        八

 不愉快に充(み)ちた人生をとぼとぼ辿(たど)りつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりも尊(たっ)とい」
 こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来(おうらい)するようになった。
 しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母(ふぼ)、私の祖父母(そふぼ)、私の曾祖父母(そうそふぼ)、それから順次に溯(さかの)ぼって、百年、二百年、乃至(ないし)千年万年の間に馴致(じゅんち)された習慣を、私一代で解脱(げだつ)する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。
 だから私の他(ひと)に与える助言(じょごん)はどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人(いちにん)として他の人類の一人に向わなければならないと思う。すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。
「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」
 こうした言葉は、どんなに情(なさけ)なく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。医者などは安らかな眠に赴(おも)むこうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を凝(こ)らしている。こんな拷問(ごうもん)に近い所作(しょさ)が、人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字に執着(しゅうちゃく)しているかが解る。私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
 その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を傷(きずつ)けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人の面(おもて)を輝やかしていた。
 彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱(だ)き締(し)めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷(てきず)そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。
 私は彼女に向って、すべてを癒(いや)す「時」の流れに従って下(くだ)れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥(は)げて行くだろうと嘆いた。
 公平な「時」は大事な宝物(たからもの)を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。烈(はげ)しい生の歓喜を夢のように暈(ぼか)してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々(なまなま)しい苦痛も取(と)り除(の)ける手段を怠(おこ)たらないのである。
 私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創口(きずぐち)から滴(したた)る血潮を「時」に拭(ぬぐ)わしめようとした。いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当だったからである。
 かくして常に生よりも死を尊(たっと)いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に充(み)ちた生というものを超越する事ができなかった。しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸(ぼんよう)な自然主義者として証拠(しょうこ)立てたように見えてならなかった。私は今でも半信半疑の眼でじっと自分の心を眺めている。

        九

 私が高等学校にいた頃、比較的親しく交際(つきあ)った友達の中にOという人がいた。その時分からあまり多くの朋友(ほうゆう)を持たなかった私には、自然Oと往来(ゆきき)を繁(しげ)くするような傾向があった。私はたいてい一週に一度くらいの割で彼を訪(たず)ねた。ある年の暑中休暇などには、毎日欠かさず真砂町(まさごちょう)に下宿している彼を誘って、大川(おおかわ)の水泳場まで行った。
 Oは東北の人だから、口の利(き)き方(かた)に私などと違った鈍(どん)でゆったりした調子があった。そうしてその調子がいかにもよく彼の性質を代表しているように思われた。何度となく彼と議論をした記憶のある私は、ついに彼の怒(おこ)ったり激したりする顔を見る事ができずにしまった。私はそれだけでも充分彼を敬愛に価(あたい)する長者(ちょうしゃ)として認めていた。
 彼の性質が鷹揚(おうよう)であるごとく、彼の頭脳も私よりは遥(はる)かに大きかった。彼は常に当時の私には、考えの及ばないような問題を一人で考えていた。彼は最初から理科へ入る目的をもっていながら、好んで哲学の書物などを繙(ひもと)いた。私はある時彼からスペンサーの第一原理という本を借りた事をいまだに忘れずにいる。
 空の澄み切った秋日和(あきびより)などには、よく二人連れ立って、足の向く方へ勝手な話をしながら歩いて行った。そうした場合には、往来へ塀越(へいごし)に差し出た樹(き)の枝から、黄色に染まった小(ち)さい葉が、風もないのに、はらはらと散る景色(けしき)をよく見た。それが偶然彼の眼に触れた時、彼は「あッ悟った」と低い声で叫んだ事があった。ただ秋の色の空(くう)に動くのを美くしいと観ずるよりほかに能のない私には、彼の言葉が封じ込められた或秘密の符徴(ふちょう)として怪しい響を耳に伝えるばかりであった。「悟りというものは妙なものだな」と彼はその後(あと)から平生のゆったりした調子で独言(ひとりごと)のように説明した時も、私には一口の挨拶(あいさつ)もできなかった。
 彼は貧生であった。大観音(おおがんのん)の傍(そば)に間借をして自炊(じすい)していた頃には、よく干鮭(からざけ)を焼いて佗(わ)びしい食卓に私を着かせた。ある時は餅菓子(もちがし)の代りに煮豆を買って来て、竹の皮のまま双方から突っつき合った。
 大学を卒業すると間もなく彼は地方の中学に赴任した。私は彼のためにそれを残念に思った。しかし彼を知らない大学の先生には、それがむしろ当然と見えたかも知れない。彼自身は無論平気であった。それから何年かの後(のち)に、たしか三年の契約で、支那のある学校の教師に雇われて行ったが、任期が充(み)ちて帰るとすぐまた内地の中学校長になった。それも秋田から横手に遷(うつ)されて、今では樺太(かばふと)の校長をしているのである。
 去年上京したついでに久しぶりで私を訪(たず)ねてくれた時、取次のものから名刺を受取った私は、すぐその足で座敷へ行って、いつもの通り客より先に席に着いていた。すると廊下伝(ろうかづたい)に室(へや)の入口まで来た彼は、座蒲団(ざぶとん)の上にきちんと坐(すわ)っている私の姿を見るや否や、「いやに澄ましているな」と云った。
 その時向(むこう)の言葉が終るか終らないうちに「うん」という返事がいつか私の口を滑(すべ)って出てしまった。どうして私の悪口(わるくち)を自分で肯定するようなこの挨拶(あいさつ)が、それほど自然に、それほど雑作(ぞうさ)なく、それほど拘泥(こだ)わらずに、するすると私の咽喉(のど)を滑(すべ)り越したものだろうか。私はその時透明な好い心持がした。

        十

 向い合って座を占めたOと私とは、何より先に互の顔を見返して、そこにまだ昔(むか)しのままの面影(おもかげ)が、懐(なつ)かしい夢の記念のように残っているのを認めた。しかしそれはあたかも古い心が新しい気分の中にぼんやり織り込まれていると同じ事で、薄暗く一面に霞(かす)んでいた。恐ろしい「時」の威力に抵抗して、再びもとの姿に返る事は、二人にとってもう不可能であった。二人は別れてから今会うまでの間に挟(はさ)まっている過去という不思議なものを顧(かえり)みない訳に行かなかった。
 Oは昔し林檎(りんご)のように赤い頬と、人一倍大きな丸い眼と、それから女に適したほどふっくりした輪廓(りんかく)に包まれた顔をもっていた。今見てもやはり赤い頬と丸い眼と、同じく骨張らない輪廓の持主ではあるが、それが昔しとはどこか違っている。
 私は彼に私の口髭(くちひげ)と揉(も)み上(あ)げを見せた。彼はまた私のために自分の頭を撫(な)でて見せた。私のは白くなって、彼のは薄く禿(は)げかかっているのである。
「人間も樺太(かばふと)まで行けば、もう行く先はなかろうな」と私が調戯(からか)うと、彼は「まあそんなものだ」と答えて、私のまだ見た事のない樺太の話をいろいろして聞かせた。しかし私は今それをみんな忘れてしまった。夏は大変好い所だという事を覚えているだけである。
 私は幾年ぶりかで、彼といっしょに表へ出た。彼はフロックの上へ、とんびのような外套(がいとう)をぶわぶわに着ていた。そうして電車の中で釣革(つりかわ)にぶら下りながら、隠袋(かくし)から手帛(ハンケチ)に包んだものを出して私に見せた。私は「なんだ」と訊(き)いた。彼は「栗饅頭(くりまんじゅう)だ」と答えた。栗饅頭は先刻(さっき)彼が私の宅(うち)にいた時に出した菓子であった。彼がいつの間に、それを手帛に包んだろうかと考えた時、私はちょっと驚かされた。
「あの栗饅頭を取って来たのか」
「そうかも知れない」
 彼は私の驚いた様子を馬鹿にするような調子でこう云ったなり、その手帛(ハンケチ)の包をまた隠袋(かくし)に収めてしまった。
 我々はその晩帝劇へ行った。私の手に入れた二枚の切符に北側から入れという注意が書いてあったのを、つい間違えて、南側へ廻ろうとした時、彼は「そっちじゃないよ」と私に注意した。私はちょっと立ち留まって考えた上、「なるほど方角は樺太(かばふと)の方が確(たしか)なようだ」と云いながら、また指定された入口の方へ引き返した。
 彼は始めから帝劇を知っていると云っていた。しかし晩餐(ばんさん)を済ました後(あと)で、自分の席へ帰ろうとするとき、誰でもやる通り、二階と一階の扉(ドアー)を間違えて、私から笑われた。
 折々隠袋から金縁(きんぶち)の眼鏡(めがね)を出して、手に持った摺物(すりもの)を読んで見る彼は、その眼鏡を除(はず)さずに遠い舞台を平気で眺めていた。
「それは老眼鏡じゃないか。よくそれで遠い所が見えるね」
「なにチャブドーだ」
 私にはこのチャブドーという意味が全く解らなかった。彼はそれを大差なしという支那語だと云って説明してくれた。
 その夜の帰りに電車の中で私と別れたぎり、彼はまた遠い寒い日本の領地の北の端(はず)れに行ってしまった。
 私は彼を想(おも)い出すたびに、達人(たつじん)という彼の名を考える。するとその名がとくに彼のために天から与えられたような心持になる。そうしてその達人が雪と氷に鎖(と)ざされた北の果(はて)に、まだ中学校長をしているのだなと思う。

        十一

 ある奥さんがある女の人を私に紹介した。
「何か書いたものを見ていただきたいのだそうでございます」
 私は奥さんのこの言葉から、頭の中でいろいろの事を考えさせられた。今(いま)まで私の所へ自分の書いたものを読んでくれと云って来たものは何人となくある。その中には原稿紙の厚さで、一寸または二寸ぐらいの嵩(かさ)になる大部のものも交っていた。それを私は時間の都合の許す限りなるべく読んだ。そうして簡単な私はただ読みさえすれば自分の頼まれた義務を果(はた)したものと心得て満足していた。ところが先方では後から新聞に出してくれと云ったり、雑誌へ載せて貰(もら)いたいと頼んだりするのが常であった。中には他(ひと)に読ませるのは手段で、原稿を金に換えるのが本来の目的であるように思われるのも少なくはなかった。私は知らない人の書いた読みにくい原稿を好意的に読むのがだんだん厭(いや)になって来た。
 もっとも私の時間に教師をしていた頃から見ると、多少の弾力性ができてきたには相違なかった。それでも自分の仕事にかかれば腹の中はずいぶん多忙であった。親切ずくで見てやろうと約束した原稿すら、なかなか埒(らち)のあかない場合もないとは限らなかった。
 私は私の頭で考えた通りの事をそのまま奥さんに話した。奥さんはよく私のいう意味を領解して帰って行った。約束の女が私の座敷へ来て、座蒲団(ざぶとん)の上に坐ったのはそれから間もなくであった。佗(わ)びしい雨が今にも降り出しそうな暗い空を、硝子戸越(ガラスどごし)に眺めながら、私は女にこんな話をした。――
「これは社交ではありません。御互に体裁(ていさい)の好い事ばかり云い合っていては、いつまで経(た)ったって、啓発されるはずも、利益を受ける訳もないのです。あなたは思い切って正直にならなければ駄目(だめ)ですよ。自分さえ充分に開放して見せれば、今あなたがどこに立ってどっちを向いているかという実際が、私によく見えて来るのです。そうした時、私は始めてあなたを指導する資格を、あなたから与えられたものと自覚しても宜(よろ)しいのです。だから私が何か云ったら、腹に答えべき或物を持っている以上、けっして黙っていてはいけません。こんな事を云ったら笑われはしまいか、恥を掻(か)きはしまいか、または失礼だといって怒られはしまいかなどと遠慮して、相手に自分という正体を黒く塗り潰(つぶ)した所ばかり示す工夫(くふう)をするならば、私がいくらあなたに利益を与えようと焦慮(あせっ)ても、私の射る矢はことごとく空矢(あだや)になってしまうだけです。
「これは私のあなたに対する注文ですが、その代り私の方でもこの私というものを隠しは致しません。ありのままを曝(さら)け出(だ)すよりほかに、あなたを教える途(みち)はないのです。だから私の考えのどこかに隙(すき)があって、その隙をもしあなたから見破られたら、私はあなたに私の弱点を握られたという意味で敗北の結果に陥(おちい)るのです。教を受ける人だけが自分を開放する義務をもっていると思うのは間違っています。教える人も己(おの)れをあなたの前に打ち明けるのです。双方とも社交を離れて勘破(かんぱ)し合うのです。
「そういう訳で私はこれからあなたの書いたものを拝見する時に、ずいぶん手ひどい事を思い切って云うかも知れませんが、しかし怒ってはいけません。あなたの感情を害するためにいうのではないのですから。その代りあなたの方でも腑(ふ)に落ちない所があったらどこまでも切り込んでいらっしゃい。あなたが私の主意を了解している以上、私はけっして怒るはずはありませんから。
「要するにこれはただ現状維持を目的として、上滑(うわすべ)りな円滑を主位に置く社交とは全く別物なのです。解りましたか」
 女は解ったと云って帰って行った。

        十二

 私に短冊(たんざく)を書けの、詩を書けのと云って来る人がある。そうしてその短冊やら絖(ぬめ)やらをまだ承諾もしないうちに送って来る。最初のうちはせっかくの希望を無にするのも気の毒だという考から、拙(まず)い字とは思いながら、先方の云うなりになって書いていた。けれどもこうした好意は永続しにくいものと見えて、だんだん多くの人の依頼を無にするような傾向が強くなって来た。
 私はすべての人間を、毎日毎日恥を掻(か)くために生れてきたものだとさえ考える事もあるのだから、変な字を他(ひと)に送ってやるくらいの所作(しょさ)は、あえてしようと思えば、やれないとも限らないのである。しかし自分が病気のとき、仕事の忙がしい時、またはそんな真似(まね)のしたくない時に、そういう注文が引き続いて起ってくると、実際弱らせられる。彼らの多くは全く私の知らない人で、そうして自分達の送った短冊を再び送り返すこちらの手数(てすう)さえ、まるで眼中に置いていないように見えるのだから。
 そのうちで一番私を不愉快にしたのは播州(ばんしゅう)の坂越(さごし)にいる岩崎という人であった。この人は数年前よく端書(はがき)で私に俳句を書いてくれと頼んで来たから、その都度(つど)向うのいう通り書いて送った記憶のある男である。その後(のち)の事であるが、彼はまた四角な薄い小包を私に送った。私はそれを開けるのさえ面倒だったから、ついそのままにして書斎へ放(ほう)り出(だ)しておいたら、下女が掃除(そうじ)をする時、つい書物と書物の間へ挟(はさ)み込んで、まず体(てい)よくしまい失(な)くした姿にしてしまった。
 この小包と前後して、名古屋から茶の缶が私宛(わたくしあて)で届いた。しかし誰が何のために送ったものかその意味は全く解らなかった。私は遠慮なくその茶を飲んでしまった。するとほどなく坂越の男から、富士登山の画(え)を返してくれと云ってきた。彼からそんなものを貰った覚(おぼえ)のない私は、打(う)ちやっておいた。しかし彼は富士登山の画を返せ返せと三度も四度も催促してやまない。私はついにこの男の精神状態を疑い出した。「大方(おおかた)気違だろう。」私は心の中でこうきめたなり向うの催促にはいっさい取り合わない事にした。
 それから二三カ月経(た)った。たしか夏の初の頃と記憶しているが、私はあまり乱雑に取り散らされた書斎の中に坐(すわ)っているのがうっとうしくなったので、一人でぽつぽつそこいらを片づけ始めた。その時書物の整理をするため、好い加減に積み重ねてある字引や参考書を、一冊ずつ改めて行くと、思いがけなく坂越の男が寄こした例の小包が出て来た。私は今まで忘れていたものを、眼(ま)のあたり見て驚ろいた。さっそく封を解(と)いて中を検(しら)べたら、小さく畳んだ画が一枚入っていた。それが富士登山の図だったので、私はまた吃驚(びっくり)した。
 包のなかにはこの画のほかに手紙が一通添えてあって、それに画の賛をしてくれという依頼と、御礼に茶を送るという文句が書いてあった。私はいよいよ驚ろいた。
 しかしその時の私はとうてい富士登山の図などに賛をする勇気をもっていなかった。私の気分が、そんな事とは遥(はる)か懸(か)け離れた所にあったので、その画に調和するような俳句を考えている暇がなかったのである。けれども私は恐縮した。私は丁寧(ていねい)な手紙を書いて、自分の怠慢を謝した。それから茶の御礼を云った。最後に富士登山の図を小包にして返した。

        十三

 私はこれで一段落(いちだんらく)ついたものと思って、例の坂越(さごし)の男の事を、それぎり念頭に置かなかった。するとその男がまた短冊を封じて寄(よ)こした。そうして今度は義士に関係のある句を書いてくれというのである。私はそのうち書こうと云ってやった。しかしなかなか書く機会が来なかったので、ついそのままになってしまった。けれども執濃(しつこ)いこの男の方ではけっしてそのままに済ます気はなかったものと見えて、むやみに催促を始め出した。その催促は一週に一遍か、二週に一遍の割できっと来た。それが必ず端書(はがき)に限っていて、その書き出しには、必ず「拝啓失敬申し候えども」とあるにきまっていた。私はその人の端書を見るのがだんだん不愉快になって来た。
 同時に向うの催促も、今まで私の予期していなかった変な特色を帯びるようになった。最初には茶をやったではないかという言葉が見えた。私がそれに取り合わずにいると、今度はあの茶を返してくれという文句に改たまった。私は返す事はたやすいが、その手数(てかず)が面倒だから、東京まで取りに来れば返してやると云ってやりたくなった。けれども坂越の男にそういう手紙を出すのは、自分の品格に関(かか)わるような気がしてあえてし切れなかった。返事を受け取らない先方はなおの事催促をした。茶を返さないならそれでも好いから、金一円をその代価として送って寄こせというのである。私の感情はこの男に対してしだいに荒(すさ)んで来た。しまいにはとうとう自分を忘れるようになった。茶は飲んでしまった、短冊は失(な)くしてしまった、以来端書を寄こす事はいっさい無用であると書いてやった。そうして心のうちで、非常に苦々(にがにが)しい気分を経験した。こんな非紳士的な挨拶(あいさつ)をしなければならないような穴の中へ、私を追い込んだのは、この坂越の男であると思ったからである。こんな男のために、品格にもせよ人格にもせよ、幾分の堕落を忍ばなければならないのかと考えると情(なさけ)なかったからである。
 しかし坂越の男は平気であった。茶は飲んでしまい、短冊は失(な)くしてしまうとは、余りと申せば……とまた端書に書いて来た。そうしてその冒頭には依然として拝啓失敬申し候(そうら)えどもという文句が規則通り繰り返されていた。
 その時私はもうこの男には取り合うまいと決心した。けれども私の決心は彼の態度に対して何の効果のあるはずはなかった。彼は相変らず催促をやめなかった。そうして今度は、もう一度書いてくれれば、また茶を送ってやるがどうだと云って来た。それから事いやしくも義士に関するのだから、句を作っても好いだろうと云って来た。
 しばらく端書が中絶したと思うと、今度はそれが封書に変った。もっともその封筒は区役所などで使う極(きわ)めて安い鼠色(ねずみいろ)のものであったが、彼はわざとそれに切手を貼(は)らないのである。その代り裏に自分の姓名も書かずに投函(とうかん)していた。私はそれがために、倍の郵税を二度ほど払わせられた。最後に私は配達夫に彼の氏名と住所とを教えて、封のまま先方へ逆送して貰った。彼はそれで六銭取られたせいか、ようやく催促を断念したらしい態度になった。
 ところが二カ月ばかり経って、年が改まると共に、彼は私に普通の年始状を寄こした。それが私をちょっと感心させたので、私はつい短冊へ句を書いて送る気になった。しかしその贈物は彼を満足させるに足りなかった。彼は短冊が折れたとか、汚(よご)れたとか云って、しきりに書き直しを請求してやまない。現に今年の正月にも、「失敬申し候えども……」という依頼状が七八日(ななようか)頃に届いた。
 私がこんな人に出会ったのは生れて始めてである。

        十四

 ついこの間昔(むか)し私の家(うち)へ泥棒の入った時の話を比較的詳(くわ)しく聞いた。
 姉がまだ二人とも嫁(かた)づかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行(はや)ったやかましい頃なのである。
 ある夜一番目の姉が、夜中(よなか)に小用(こよう)に起きた後(あと)、手を洗うために、潜戸(くぐりど)を開けると、狭い中庭の隅(すみ)に、壁を圧(お)しつけるような勢(いきおい)で立っている梅の古木の根方(ねがた)が、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらす暇(いとま)もないうちに、すぐ潜戸を締(し)めてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。
 私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらい鮮(あざや)かである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時縁側(えんがわ)に立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。
 広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確(はっきり)した輪廓(りんかく)を具えている鼻、人並(ひとなみ)より大きい二重瞼(ふたえまぶち)の眼、それから御沢(おさわ)という優しい名、――私はただこれらを綜合(そうごう)して、その場合における姉の姿を想像するだけである。
 しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念(けねん)が起った。それで彼女は思い切ってまた切戸(きりど)を開けて外を覗(のぞ)こうとする途端(とたん)に、一本の光る抜身(ぬきみ)が、闇(やみ)の中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚いて身を後(あと)へ退(ひ)いた。その隙(ひま)に、覆面をした、龕灯提灯(がんどうぢょうちん)を提(さ)げた男が、抜刀のまま、小(ち)さい潜戸から大勢家(うち)の中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数(にんず)はたしか八人とか聞いた。
 彼らは、他(ひと)を殺(あや)めるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金を借(か)せと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今角(かど)の小倉屋(こくらや)という酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性(ふしょうぶしょう)に、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。
 その事があって以来、私の家では柱を切(き)り組(くみ)にして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束(くろそうぞく)を着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切組(きりくみ)にしてある柱かまるで分らなくなっていた。
 泥棒が出て行く時、「この家(うち)は大変締(しま)りの好い宅(うち)だ」と云って賞(ほ)めたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日から擦(かす)り傷(きず)がいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしても宅(うち)にはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文も奪(と)られずにしまった。
 私はこの話を妻(さい)から聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受話(ちゃうけばなし)に聞いたのである。

        十五

 私が去年の十一月学習院で講演をしたら、薄謝と書いた紙包を後から届けてくれた。立派な水引(みずひき)がかかっているので、それを除(はず)して中を改めると、五円札が二枚入っていた。私はその金を平生から気の毒に思っていた、或懇意な芸術家に贈ろうかしらと思って、暗(あん)に彼の来るのを待ち受けていた。ところがその芸術家がまだ見えない先に、何か寄附の必要ができてきたりして、つい二枚とも消費してしまった。
 一口でいうと、この金は私にとってけっして無用なものではなかったのである。世間の通り相場で、立派に私のために消費されたというよりほかに仕方がないのである。けれどもそれを他(ひと)にやろうとまで思った私の主観から見れば、そんなにありがたみの附着していない金には相違なかったのである。打ち明けた私の心持をいうと、こうした御礼を受けるより受けない時の方がよほど颯爽(さっぱり)していた。
 畔柳芥舟(くろやなぎかいしゅう)君が樗牛会(ちょぎゅうかい)の講演の事で見えた時、私は話のついでとして一通りその理由を述べた。
「この場合私は労力を売りに行ったのではない。好意ずくで依頼に応じたのだから、向うでも好意だけで私に酬(むく)いたらよかろうと思う。もし報酬問題とする気なら、最初から御礼はいくらするが、来てくれるかどうかと相談すべきはずでしょう」
 その時K君は納得(なっとく)できないといったような顔をした。そうしてこう答えた。
「しかしどうでしょう。その十円はあなたの労力を買ったという意味でなくって、あなたに対する感謝の意を表する一つの手段と見たら。そう見る訳には行かないのですか」
「品物なら判然(はっきり)そう解釈もできるのですが、不幸にも御礼が普通営業的の売買(ばいばい)に使用する金なのですから、どっちとも取れるのです」
「どっちとも取れるなら、この際(さい)善意の方に解釈した方が好くはないでしょうか」
 私はもっともだとも思った。しかしまたこう答えた。
「私は御存じの通り原稿料で衣食しているくらいですから、無論富裕とは云えません。しかしどうかこうか、それだけで今日(こんにち)を過ごして行かれるのです。だから自分の職業以外の事にかけては、なるべく好意的に人のために働いてやりたいという考えを持っています。そうしてその好意が先方に通じるのが、私にとっては、何よりも尊(たっ)とい報酬なのです。したがって金などを受けると、私が人のために働いてやるという余地、――今の私にはこの余地がまた極めて狭いのです。――その貴重な余地を腐蝕(ふしょく)させられたような心持になります」
 K君はまだ私の云う事を肯(うけが)わない様子であった。私も強情であった。
「もし岩崎とか三井とかいう大富豪に講演を頼むとした場合に、後から十円の御礼を持って行くでしょうか、あるいは失礼だからと云って、ただ挨拶(あいさつ)だけにとどめておくでしょうか。私の考ではおそらく金銭は持って行くまいと思うのですが」
「さあ」といっただけでK君は判然した返事を与えなかった。私にはまだ云う事が少し残っていた。
「己惚(おのぼれ)かは知りませんが、私の頭は三井岩崎に比(くら)べるほど富んでいないにしても、一般学生よりはずっと金持に違いないと信じています」
「そうですとも」とK君は首肯(うなず)いた。
「もし岩崎や三井に十円の御礼を持って行く事が失礼ならば、私の所へ十円の御礼を持って来るのも失礼でしょう。それもその十円が物質上私の生活に非常な潤沢(うるおい)を与えるなら、またほかの意味からこの問題を眺める事もできるでしょうが、現に私はそれを他(ひと)にやろうとまで思ったのだから。――私の現下の経済的生活は、この十円のために、ほとんど目に立つほどの影響を蒙(こうむ)らないのだから」
「よく考えて見ましょう」といったK君はにやにや笑いながら帰って行った。

        十六

 宅(うち)の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度そこで髪を刈(か)って貰った事がある。
 平生は白い金巾(かなきん)の幕で、硝子戸(ガラスど)の奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立って、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。
 亭主は私の入ってくるのを見ると、手に持った新聞紙を放(ほう)り出(だ)してすぐ挨拶(あいさつ)をした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私の後(うしろ)へ廻って、鋏(はさみ)をちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼は昔(むか)し寺町の郵便局の傍(そば)に店を持って、今と同じように、散髪を渡世(とせい)としていた事が解った。
「高田の旦那(だんな)などにもだいぶ御世話になりました」
 その高田というのは私の従兄(いとこ)なのだから、私も驚いた。
「へえ高田を知ってるのかい」
「知ってるどころじゃございません。始終(しじゅう)徳(とく)、徳(とく)、って贔屓(ひいき)にして下すったもんです」
 彼の言葉遣(づか)いはこういう職人にしてはむしろ丁寧(ていねい)な方であった。
「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚(びっくり)した調子で「へッ」と声を揚(あ)げた。
「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつ頃(ごろ)御亡(おな)くなりになりました」
「なに、つい此間(こないだ)さ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」
 彼はそれからこの死んだ従兄(いとこ)について、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日(きのう)の事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。
「あのそら求友亭(きゅうゆうてい)の横町にいらしってね、……」と亭主はまた言葉を継(つ)ぎ足した。
「うん、あの二階のある家(うち)だろう」
「ええ御二階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、方々様(ほうぼうさま)から御祝い物なんかあって、大変御盛(ごさかん)でしたがね。それから後(あと)でしたっけか、行願寺(ぎょうがんじ)の寺内(じない)へ御引越なすったのは」
 この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。
「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入って見た事もないが」
「変ったの変らないのってあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
 私は肴町(さかなまち)を通るたびに、その寺内へ入る足袋屋(たびや)の角の細い小路(こうじ)の入口に、ごたごた掲(かか)げられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定(かんじょう)して見るほどの道楽気も起らなかったので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えば誰(た)が袖(そで)なんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。
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