永日小品
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著者名:夏目漱石 

     下宿

 始めて下宿をしたのは北の高台である。赤煉瓦(あかれんが)の小じんまりした二階建が気に入ったので、割合に高い一週二磅(ポンド)の宿料(しゅくりょう)を払って、裏の部屋を一間(ひとま)借り受けた。その時表を専領(せんりょう)しているK氏は目下蘇格蘭(スコットランド)巡遊中で暫(しばら)くは帰らないのだと主婦の説明があった。
 主婦と云うのは、眼の凹(くぼ)んだ、鼻のしゃくれた、顎(あご)と頬の尖(とが)った。鋭い顔の女で、ちょっと見ると、年恰好(としかっこう)の判断ができないほど、女性を超越している。疳(かん)、僻(ひが)み、意地、利(き)かぬ気、疑惑、あらゆる弱点が、穏かな眼鼻をさんざんに弄(もてあそ)んだ結果、こう拗(ひ)ねくれた人相になったのではあるまいかと自分は考えた。
 主婦は北の国に似合わしからぬ黒い髪と黒い眸(ひとみ)をもっていた。けれども言語は普通の英吉利人(イギリスじん)と少しも違ったところがない。引き移った当日、階下(した)から茶の案内があったので、降りて行って見ると、家族は誰もいない。北向の小さい食堂に、自分は主婦とたった二人差向(さしむか)いに坐った。日の当った事のないように薄暗い部屋を見回すと、マントルピースの上に淋(さび)しい水仙が活(い)けてあった。主婦は自分に茶だの焼麺麭(トースト)を勧(すす)めながら、四方山(よもやま)の話をした。その時何かの拍子で、生れ故郷は英吉利ではない、仏蘭西(フランス)であるという事を打ち明けた。そうして黒い眼を動かして、後(うしろ)の硝子壜(ガラスびん)に挿(さ)してある水仙を顧(かえ)りみながら、英吉利は曇っていて、寒くていけないと云った。花でもこの通り奇麗(きれい)でないと教えたつもりなのだろう。
 自分は肚(はら)の中でこの水仙の乏(とぼ)しく咲いた模様と、この女のひすばった頬の中を流れている、色の褪(さ)めた血の瀝(したたり)とを比較して、遠い仏蘭西で見るべき暖かな夢を想像した。主婦の黒い髪や黒い眼の裏(うち)には、幾年(いくねん)の昔に消えた春の匂(におい)の空(むな)しき歴史があるのだろう。あなたは仏蘭西語を話しますかと聞いた。いいやと答えようとする舌先を遮(さえぎ)って、二三句続け様(ざま)に、滑(なめ)らかな南の方の言葉を使った。こういう骨の勝った咽喉(のど)から、どうして出るだろうと思うくらい美しいアクセントであった。
 その夕、晩餐(ばんさん)の時は、頭の禿(は)げた髯(ひげ)の白い老人が卓に着いた。これが私の親父(おやじ)ですと主婦から紹介されたので始めて主人は年寄であったんだと気がついた。この主人は妙な言葉遣(ことばづかい)をする。ちょっと聞いてもけっして英人ではない。なるほど親子して、海峡を渡って、倫敦(ロンドン)へ落ちついたものだなと合点(がてん)した。すると老人が私は独逸人(ドイツじん)であると、尋ねもせぬのに向うから名乗って出た。自分は少し見当(けんとう)が外(はず)れたので、そうですかと云ったきりであった。
 部屋へ帰って、書物を読んでいると、妙に下の親子が気に懸(かか)ってたまらない。あの爺さんは骨張った娘と較べてどこも似た所がない。顔中は腫(は)れ上(あが)ったように膨(ふく)れている真中に、ずんぐりした肉の多い鼻が寝転(ねころ)んで、細い眼が二つ着いている。南亜(なんあ)の大統領にクルーゲルと云うのがあった。あれによく似ている。すっきりと心持よくこっちの眸(ひとみ)に映る顔ではない。その上娘に対しての物の云い方が和気(わき)を欠いている。歯が利(き)かなくって、もごもごしているくせに何となく調子の荒いところが見える。娘も阿爺(おやじ)に対するときは、険相(けんそう)な顔がいとど険相になるように見える。どうしても普通の親子ではない。――自分はこう考えて寝た。
 翌日朝飯を食いに下りると、昨夕(ゆうべ)の親子のほかに、また一人家族が殖(ふ)えている。新しく食卓に連(つら)なった人は、血色の好い、愛嬌(あいきょう)のある、四十恰好(がっこう)の男である。自分は食堂の入口でこの男の顔を見た時、始めて、生気のある人間社会に住んでいるような心持ちがした。my brother(マイブラザー)と主婦がその男を自分に紹介した。やっぱり亭主では無かったのである。しかし兄弟とはどうしても受取れないくらい顔立(かおだち)が違っていた。
 その日は中食(ちゅうじき)を外でして、三時過ぎに帰って、自分の部屋へ這入(はい)ると間もなく、茶を飲みに来いと云って呼びにきた。今日も曇っている。薄暗い食堂の戸を開けると、主婦がたった一人煖炉(ストーブ)の横に茶器を控(ひか)えて坐(すわ)っていた。石炭を燃(もや)してくれたので、幾分か陽気な感じがした。燃えついたばかりの□(ほのお)に照らされた主婦の顔を見ると、うすく火熱(ほて)った上に、心持御白粉(おしろい)を塗(つ)けている。自分は部屋の入り口で化粧の淋(さび)しみと云う事を、しみじみと悟った。主婦は自分の印象を見抜いたような眼遣(めづか)いをした。自分が主婦から一家の事情を聞いたのはこの時である。
 主婦の母は、二十五年の昔、ある仏蘭西人(フランスじん)に嫁(とつ)いで、この娘を挙(あ)げた。幾年か連れ添った後(のち)夫は死んだ。母は娘の手を引いて、再び独逸人(ドイツじん)の許(もと)に嫁いだ。その独逸人が昨夜(ゆうべ)の老人である。今では倫敦(ロンドン)のウェスト・エンドで仕立屋の店を出して、毎日毎日そこへ通勤している。先妻の子も同じ店で働いているが、親子非常に仲が悪い。一(ひと)つ家(うち)にいても、口を利(き)いた事がない。息子(むすこ)は夜きっと遅く帰る。玄関で靴を脱いで足袋跣足(たびはだし)になって、爺(おやじ)に知れないように廊下を通って、自分の部屋へ這入って寝てしまう。母はよほど前に失(な)くなった。死ぬ時に自分の事をくれぐれも云いおいて死んだのだが、母の財産はみんな阿爺(おやじ)の手に渡って、一銭も自由にする事ができない。仕方がないから、こうして下宿をして小遣(こづかい)を拵(こしら)えるのである。アグニスは――
 主婦はそれより先を語らなかった。アグニスと云うのはここのうちに使われている十三四の女の子の名である。自分はその時今朝見た息子(むすこ)の顔と、アグニスとの間にどこか似たところがあるような気がした。あたかもアグニスは焼麺麭(トースト)を抱(かか)えて厨(くりや)から出て来た。
「アグニス、焼麺麭(トースト)を食べるかい」
 アグニスは黙って、一片(いっぺん)の焼麺麭を受けてまた厨の方へ退いた。
 一箇月の後(のち)自分はこの下宿を去った。

     過去の匂い

 自分がこの下宿を出る二週間ほど前に、K君は蘇格蘭(スコットランド)から帰って来た。その時自分は主婦によってK君に紹介された。二人の日本人が倫敦(ロンドン)の山の手の、とある小さな家に偶然落ち合って、しかも、まだ互に名乗(なの)り換(かわ)した事がないので、身分も、素性(すじょう)も、経歴も分らない外国婦人の力を藉(か)りて、どうか何分と頭を下げたのは、考えると今もって妙な気がする。その時この老令嬢は黒い服を着ていた。骨張って膏(あぶら)の脱けたような手を前へ出して、Kさん、これがNさんと云ったが、全く云い切らない先に、また一本の手を相手の方へ寄せて、Nさん、これがKさんと、公平に双方を等分に引き合せた。
 自分は老令嬢の態度が、いかにも、厳(おごそか)で、一種重要の気に充(み)ちた形式を具えているのに、尠(すくな)からず驚かされた。K君は自分の向(むこう)に立って、奇麗(きれい)な二重瞼(ふたえまぶち)の尻に皺(しわ)を寄せながら、微笑を洩(も)らしていた。自分は笑うと云わんよりはむしろ矛盾の淋(さび)しみを感じた。幽霊の媒妁(ばいしゃく)で、結婚の儀式を行ったら、こんな心持ではあるまいかと、立ちながら考えた。すべてこの老令嬢の黒い影の動く所は、生気を失って、たちまち古蹟に変化するように思われる。誤ってその肉に触れれば、触れた人の血が、そこだけ冷たくなるとしか想像できない。自分は戸の外に消えてゆく女の足音に半(なか)ば頭(こうべ)を回(めぐ)らした。
 老令嬢が出て行ったあとで、自分とK君はたちまち親しくなってしまった。K君の部屋は美くしい絨□(じゅうたん)が敷いてあって、白絹(しらぎぬ)の窓掛(まどかけ)が下がっていて、立派な安楽椅子とロッキング・チェアが備えつけてある上に、小さな寝室が別に附属している。何より嬉(うれ)しいのは断えず煖炉(ストーブ)に火を焚(た)いて、惜気(おしげ)もなく光った石炭を崩(くず)している事である。
 これから自分はK君の部屋で、K君と二人で茶を飲むことにした。昼はよく近所の料理店(りょうりや)へいっしょに出かけた。勘定(かんじょう)は必ずK君が払ってくれた。K君は何でも築港の調査に来ているとか云って、だいぶ金を持っていた。家(うち)にいると、海老茶(えびちゃ)の繻子(しゅす)に花鳥の刺繍(ぬいとり)のあるドレッシング・ガウンを着て、はなはだ愉快そうであった。これに反して自分は日本を出たままの着物がだいぶ汚(よご)れて、見共(みとも)ない始末であった。K君はあまりだと云って新調の費用を貸してくれた。
 二週間の間K君と自分とはいろいろな事を話した。K君が、今に慶応内閣(けいおうないかく)を作るんだと云った事がある。慶応年間に生れたものだけで内閣を作るから慶応内閣と云うんだそうである。自分に、君はいつの生れかと聞くから慶応三年だと答えたら、それじゃ、閣員の資格があると笑っていた。K君はたしか慶応二年か元年生れだと覚えている。自分はもう一年の事で、K君と共に枢機(すうき)に参する権利を失うところであった。
 こんな面白い話をしている間に、時々下の家族が噂(うわさ)に上(のぼ)る事があった。するとK君はいつでも眉(まゆ)をひそめて、首を振っていた。アグニスと云う小さい女が一番可愛想(かわいそう)だと云っていた。アグニスは朝になると石炭をK君の部屋に持って来る。昼過には茶とバタと麺麭(パン)を持って来る。だまって持って来て、だまって置いて帰る。いつ見ても蒼褪(あおざ)めた顔をして、大きな潤(うるおい)のある眼でちょっと挨拶(あいさつ)をするだけである。影のようにあらわれては影のように下りて行く。かつて足音のした試しがない。
 ある時自分は、不愉快だから、この家(うち)を出ようと思うとK君に告げた。K君は賛成して、自分はこうして調査のため方々飛び歩いている身体(からだ)だから、構わないが、君などは、もっとコンフォタブルな所へ落ち着いて勉強したらよかろうと云う注意をした。その時K君は地中海の向側(むこうがわ)へ渡るんだと云って、しきりに旅装をととのえていた。
 自分が下宿を出るとき、老令嬢は切(せつ)に思いとまるようにと頼んだ。下宿料は負ける、K君のいない間は、あの部屋を使っても構わないとまで云ったが、自分はとうとう南の方へ移ってしまった。同時にK君も遠くへ行ってしまった。
 二三箇月してから、突然K君の手紙に接した。旅から帰って来た。当分ここにいるから遊びに来いと書いてあった。すぐ行きたかったけれども、いろいろ都合があって、北の果(はて)まで推(お)しかける時間がなかった。一週間ほどして、イスリントンまで行く用事ができたのを幸いに、帰りにK君の所へ回って見た。
 表二階の窓から、例の羽二重(はぶたえ)の窓掛が引(ひ)き絞(しぼ)ったまま硝子(ガラス)に映っている。自分は暖かい煖炉(ストーブ)と、海老茶(えびちゃ)の繻子(しゅす)の刺繍(ぬいとり)と、安楽椅子と、快活なK君の旅行談を予想して、勇んで、門を入って、階段を駆(か)け上(あが)るように敲子(ノッカー)をとんとんと打った。戸の向側(むこうがわ)に足音がしないから、通じないのかと思って、再び敲子に手を掛けようとする途端(とたん)に、戸が自然(じねん)と開(あ)いた。自分は敷居から一歩なかへ足を踏み込んだ。そうして、詫(わ)びるように自分をじっと見上げているアグニスと顔を合わした。その時この三箇月ほど忘れていた、過去の下宿の匂が、狭い廊下の真中で、自分の嗅覚(きゅうかく)を、稲妻(いなずま)の閃(ひら)めくごとく、刺激した。その匂のうちには、黒い髪と黒い眼と、クルーゲルのような顔と、アグニスに似た息子(むすこ)と、息子の影のようなアグニスと、彼らの間に蟠(わだか)まる秘密を、一度にいっせいに含んでいた。自分はこの匂を嗅(か)いだ時、彼らの情意、動作、言語、顔色を、あざやかに暗い地獄の裏(うち)に認めた。自分は二階へ上がってK君に逢(あ)うに堪(た)えなかった。

     猫の墓

 早稲田へ移ってから、猫がだんだん瘠(や)せて来た。いっこうに小供と遊ぶ気色(けしき)がない。日が当ると縁側(えんがわ)に寝ている。前足を揃(そろ)えた上に、四角な顎(あご)を載せて、じっと庭の植込(うえこみ)を眺めたまま、いつまでも動く様子が見えない。小供がいくらその傍(そば)で騒いでも、知らぬ顔をしている。小供の方でも、初めから相手にしなくなった。この猫はとても遊び仲間にできないと云わんばかりに、旧友を他人扱いにしている。小供のみではない、下女はただ三度の食(めし)を、台所の隅(すみ)に置いてやるだけでそのほかには、ほとんど構いつけなかった。しかもその食はたいてい近所にいる大きな三毛猫が来て食ってしまった。猫は別に怒(おこ)る様子もなかった。喧嘩(けんか)をするところを見た試(ため)しもない。ただ、じっとして寝ていた。しかしその寝方にどことなく余裕(ゆとり)がない。伸(の)んびり楽々と身を横に、日光を領(りょう)しているのと違って、動くべきせきがないために――これでは、まだ形容し足りない。懶(ものう)さの度(ど)をある所まで通り越して、動かなければ淋(さび)しいが、動くとなお淋しいので、我慢して、じっと辛抱しているように見えた。その眼つきは、いつでも庭の植込を見ているが、彼(か)れはおそらく木の葉も、幹の形も意識していなかったのだろう。青味がかった黄色い瞳子(ひとみ)を、ぼんやり一(ひ)と所(ところ)に落ちつけているのみである。彼れが家(うち)の小供から存在を認められぬように、自分でも、世の中の存在を判然(はっきり)と認めていなかったらしい。
 それでも時々は用があると見えて、外へ出て行く事がある。するといつでも近所の三毛猫から追(おっ)かけられる。そうして、怖(こわ)いものだから、縁側を飛び上がって、立て切ってある障子(しょうじ)を突き破って、囲炉裏(いろり)の傍まで逃げ込んで来る。家のものが、彼れの存在に気がつくのはこの時だけである。彼れもこの時に限って、自分が生きている事実を、満足に自覚するのだろう。
 これが度(たび)重なるにつれて、猫の長い尻尾(しっぽ)の毛がだんだん抜けて来た。始めはところどころがぽくぽく穴のように落ち込んで見えたが、後(のち)には赤肌(あかはだ)に脱け広がって、見るも気の毒なほどにだらりと垂れていた。彼れは万事に疲れ果てた、体躯(からだ)を圧(お)し曲げて、しきりに痛い局部を舐(な)め出した。
 おい猫がどうかしたようだなと云うと、そうですね、やっぱり年を取ったせいでしょうと、妻(さい)は至極(しごく)冷淡である。自分もそのままにして放(ほう)っておいた。すると、しばらくしてから、今度は三度のものを時々吐くようになった。咽喉(のど)の所に大きな波をうたして、嚏(くしゃみ)とも、しゃくりともつかない苦しそうな音をさせる。苦しそうだけれども、やむをえないから、気がつくと表へ追い出す。でなければ畳(たたみ)の上でも、布団(ふとん)の上でも容赦(ようしゃ)なく汚す。来客の用意に拵(こしら)えた八反(はったん)の座布団(ざぶとん)は、おおかた彼れのために汚されてしまった。
「どうもしようがないな。腸胃(ちょうい)が悪いんだろう、宝丹(ほうたん)でも水に溶(と)いて飲ましてやれ」
 妻(さい)は何とも云わなかった。二三日してから、宝丹を飲ましたかと聞いたら、飲ましても駄目です、口を開(あ)きませんという答をした後(あと)で、魚の骨を食べさせると吐くんですと説明するから、じゃ食わせんが好いじゃないかと、少し嶮(けん)どんに叱りながら書見をしていた。
 猫は吐気(はきけ)がなくなりさえすれば、依然として、おとなしく寝ている。この頃では、じっと身を竦(すく)めるようにして、自分の身を支える縁側(えんがわ)だけが便(たより)であるという風に、いかにも切りつめた蹲踞(うずく)まり方をする。眼つきも少し変って来た。始めは近い視線に、遠くのものが映るごとく、悄然(しょうぜん)たるうちに、どこか落ちつきがあったが、それがしだいに怪しく動いて来た。けれども眼の色はだんだん沈んで行く。日が落ちて微(かす)かな稲妻(いなずま)があらわれるような気がした。けれども放(ほう)っておいた。妻も気にもかけなかったらしい。小供は無論猫のいる事さえ忘れている。
 ある晩、彼は小供の寝る夜具の裾(すそ)に腹這(はらばい)になっていたが、やがて、自分の捕(と)った魚を取り上げられる時に出すような唸声(うなりごえ)を挙(あ)げた。この時変だなと気がついたのは自分だけである。小供はよく寝ている。妻は針仕事に余念がなかった。しばらくすると猫がまた唸(うな)った。妻はようやく針の手をやめた。自分は、どうしたんだ、夜中に小供の頭でも噛(かじ)られちゃ大変だと云った。まさかと妻はまた襦袢(じゅばん)の袖(そで)を縫い出した。猫は折々唸っていた。
 明くる日は囲炉裏(いろり)の縁(ふち)に乗ったなり、一日唸っていた。茶を注(つ)いだり、薬缶(やかん)を取ったりするのが気味が悪いようであった。が、夜になると猫の事は自分も妻もまるで忘れてしまった。猫の死んだのは実にその晩である。朝になって、下女が裏の物置に薪(まき)を出しに行った時は、もう硬くなって、古い竈(へっつい)の上に倒れていた。
 妻はわざわざその死態(しにざま)を見に行った。それから今までの冷淡に引(ひ)き更(か)えて急に騒ぎ出した。出入(でいり)の車夫を頼んで、四角な墓標を買って来て、何か書いてやって下さいと云う。自分は表に猫の墓と書いて、裏にこの下に稲妻(いなずま)起る宵(よい)あらんと認(したた)めた。車夫はこのまま、埋(う)めても好いんですかと聞いている。まさか火葬にもできないじゃないかと下女が冷(ひや)かした。
 小供も急に猫を可愛(かわい)がり出した。墓標の左右に硝子(ガラス)の罎(びん)を二つ活(い)けて、萩(はぎ)の花をたくさん挿(さ)した。茶碗(ちゃわん)に水を汲(く)んで、墓の前に置いた。花も水も毎日取り替えられた。三日目の夕方に四つになる女の子が――自分はこの時書斎の窓から見ていた。――たった一人墓の前へ来て、しばらく白木の棒を見ていたが、やがて手に持った、おもちゃの杓子(しゃくし)をおろして、猫に供えた茶碗の水をしゃくって飲んだ。それも一度ではない。萩の花の落ちこぼれた水の瀝(したた)りは、静かな夕暮の中に、幾度(いくたび)か愛子(あいこ)の小さい咽喉(のど)を潤(うる)おした。
 猫の命日には、妻がきっと一切(ひとき)れの鮭(さけ)と、鰹節(かつぶし)をかけた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れた事がない。ただこの頃では、庭まで持って出ずに、たいていは茶の間の箪笥(たんす)の上へ載せておくようである。

     暖かい夢

 風が高い建物に当って、思うごとく真直(まっすぐ)に抜けられないので、急に稲妻(いなずま)に折れて、頭の上から、斜(はす)に舗石(しきいし)まで吹きおろして来る。自分は歩きながら被(かぶ)っていた山高帽(やまたかぼう)を右の手で抑(おさ)えた。前に客待の御者(ぎょしゃ)が一人いる。御者台(ぎょしゃだい)から、この有様を眺めていたと見えて、自分が帽子から手を離して、姿勢を正すや否や、人指指(ひとさしゆび)を竪(たて)に立てた。乗らないかと云う符徴(ふちょう)である。自分は乗らなかった。すると御者は右の手に拳骨(げんこつ)を固めて、烈(はげ)しく胸の辺(あたり)を打ち出した。二三間離れて聞いていても、とんとん音がする。倫敦(ロンドン)の御者はこうして、己(おの)れとわが手を暖めるのである。自分はふり返ってちょっとこの御者を見た。剥(は)げ懸(かか)った堅い帽子の下から、霜(しも)に侵(おか)された厚い髪の毛が食(は)み出(だ)している。毛布(ケット)を継(つ)ぎ合せたような粗(あら)い茶の外套(がいとう)の背中の右にその肱(ひじ)を張って、肩と平行になるまで怒(いか)らしつつ、とんとん胸を敲(たた)いている。まるで一種の器械の活動するようである。自分は再び歩き出した。
 道を行くものは皆追い越して行く。女でさえ後(おく)れてはいない。腰の後部(うしろ)でスカートを軽く撮(つま)んで、踵(かかと)の高い靴が曲(まが)るかと思うくらい烈(はげ)しく舗石を鳴らして急いで行く。よく見ると、どの顔もどの顔もせっぱつまっている。男は正面を見たなり、女は傍目(わきめ)も触らず、ひたすらにわが志(こころざ)す方(かた)へと一直線に走るだけである。その時の口は堅く結んでいる。眉(まゆ)は深く鎖(とざ)している。鼻は険(けわ)しく聳(そび)えていて、顔は奥行ばかり延びている。そうして、足は一文字に用のある方へ運んで行く。あたかも往来(おうらい)は歩くに堪(た)えん、戸外はいるに忍(しの)びん、一刻も早く屋根の下へ身を隠さなければ、生涯(しょうがい)の恥辱である、かのごとき態度である。
 自分はのそのそ歩きながら、何となくこの都にいづらい感じがした。上を見ると、大きな空は、いつの世からか、仕切られて、切岸(きりぎし)のごとく聳(そび)える左右の棟(むね)に余された細い帯だけが東から西へかけて長く渡っている。その帯の色は朝から鼠色(ねずみいろ)であるが、しだいしだいに鳶色(とびいろ)に変じて来た。建物は固(もと)より灰色である。それが暖かい日の光に倦(う)み果(は)てたように、遠慮なく両側を塞(ふさ)いでいる。広い土地を狭苦しい谷底の日影にして、高い太陽が届く事のできないように、二階の上に三階を重ねて、三階の上に四階を積んでしまった。小さい人はその底の一部分を、黒くなって、寒そうに往来(おうらい)する。自分はその黒く動くもののうちで、もっとも緩漫(かんまん)なる一分子である。谷へ挟(はさ)まって、出端(では)を失った風が、この底を掬(すく)うようにして通り抜ける。黒いものは網の目を洩(も)れた雑魚(ざこ)のごとく四方にぱっと散って行く。鈍(のろ)い自分もついにこの風に吹き散らされて、家のなかへ逃げ込んだ。
 長い廻廊をぐるぐる廻って、二つ三つ階子段(はしごだん)を上(のぼ)ると、弾力(ばね)じかけの大きな戸がある。身躯(からだ)の重みをちょっと寄せかけるや否や、音もなく、自然(じねん)と身は大きなガレリーの中に滑(すべ)り込んだ。眼の下は眩(まばゆ)いほど明かである。後(うしろ)をふり返ると、戸はいつの間にか締(しま)って、いる所は春のように暖かい。自分はしばらくの間、瞳(ひとみ)を慣(な)らすために、眼をぱちぱちさせた。そうして、左右を見た。左右には人がたくさんいる。けれども、みんな静かに落ちついている。そうして顔の筋肉が残らず緩(ゆる)んで見える。たくさんの人がこう肩を並べているのに、いくらたくさんいても、いっこう苦にならない。ことごとく互いと互いを和(やわら)げている。自分は上を見た。上は大穹窿(おおまるがた)の天井(てんじょう)で極彩色(ごくさいしき)の濃く眼に応(こた)える中に、鮮(あざや)かな金箔(きんぱく)が、胸を躍(おど)らすほどに、燦(さん)として輝いた。自分は前を見た。前は手欄(てすり)で尽きている。手欄の外には何(な)にもない。大きな穴である。自分は手欄の傍(そば)まで近寄って、短い首を伸(のば)して穴の中を覗(のぞ)いた。すると遥(はるか)の下は、絵にかいたような小さな人で埋(うま)っていた。その数の多い割に鮮(あざやか)に見えた事。人の海とはこの事である。白、黒、黄、青、紫、赤、あらゆる明かな色が、大海原(おおうなばら)に起る波紋(はもん)のごとく、簇然(そうぜん)として、遠くの底に、五色の鱗(うろこ)を并(なら)べたほど、小さくかつ奇麗(きれい)に、蠢(うごめ)いていた。
 その時この蠢くものが、ぱっと消えて、大きな天井から、遥かの谷底まで一度に暗くなった。今まで何千となくいならんでいたものは闇(やみ)の中に葬られたぎり、誰あって声を立てるものがない。あたかもこの大きな闇に、一人残らずその存在を打ち消されて、影も形もなくなったかのごとくに寂(しん)としている。と、思うと、遥かの底の、正面の一部分が四角に切り抜かれて、闇の中から浮き出したように、ぼうっといつの間(ま)にやら薄明るくなって来た。始めは、ただ闇の段取(だんどり)が違うだけの事と思っていると、それがしだいしだいに暗がりを離れてくる。たしかに柔(やわら)かな光を受けておるなと意識できるぐらいになった時、自分は霧(きり)のような光線の奥に、不透明な色を見出(みいだ)す事ができた。その色は黄と紫(むらさき)と藍(あい)であった。やがて、そのうちの黄と紫が動き出した。自分は両眼の視神経を疲れるまで緊張して、この動くものを瞬(またた)きもせず凝視(みつめ)ていた。靄(もや)は眼の底からたちまち晴れ渡った。遠くの向うに、明かな日光の暖かに照り輝(かがや)く海を控(ひか)えて、黄(き)な上衣(うわぎ)を着た美しい男と、紫の袖(そで)を長く牽(ひ)いた美しい女が、青草の上に、判然(はっきり)あらわれて来た。女が橄欖(かんらん)の樹(き)の下に据(す)えてある大理石の長椅子に腰をかけた時に、男は椅子の横手に立って、上から女を見下(みおろ)した。その時南から吹く温かい風に誘われて、閑和(のどか)な楽(がく)の音(ね)が、細く長く、遠くの波の上を渡って来た。
 穴の上も、穴の下も、一度にざわつき出した。彼らは闇の中に消えたのではなかった。闇の中で暖かな希臘(ギリシャ)を夢みていたのである。

     印象

 表へ出ると、広い通りが真直(まっすぐ)に家の前を貫(つらぬ)いている。試みにその中央に立って見廻して見たら、眼に入(い)る家はことごとく四階で、またことごとく同じ色であった。隣も向うも区別のつきかねるくらい似寄った構造なので、今自分が出て来たのははたしてどの家であるか、二三間行過ぎて、後戻りをすると、もう分らない。不思議な町である。
 昨夕(ゆうべ)は汽車の音に包(くる)まって寝た。十時過ぎには、馬の蹄(ひづめ)と鈴の響に送られて、暗いなかを夢のように馳(か)けた。その時美しい灯(ともしび)の影が、点々として何百となく眸(ひとみ)の上を往来(おうらい)した。そのほかには何も見なかった。見るのは今が始めてである。
 二三度この不思議な町を立ちながら、見上(みあげ)、見下(みおろ)した後(のち)、ついに左へ向いて、一町ほど来ると、四ツ角へ出た。よく覚えをしておいて、右へ曲ったら、今度は前よりも広い往来へ出た。その往来の中を馬車が幾輛(いくりょう)となく通る。いずれも屋根に人を載せている。その馬車の色が赤であったり黄であったり、青や茶や紺(こん)であったり、仕切(しき)りなしに自分の横を追い越して向うへ行く。遠くの方を透(す)かして見ると、どこまで五色が続いているのか分らない。ふり返れば、五色の雲のように動いて来る。どこからどこへ人を載せて行くものかしらんと立ち止まって考えていると、後(うしろ)から背の高い人が追(お)い被(かぶ)さるように、肩のあたりを押した。避(よ)けようとする右にも背の高い人がいた。左りにもいた。肩を押した後の人は、そのまた後の人から肩を押されている。そうしてみんな黙っている。そうして自然のうちに前へ動いて行く。
 自分はこの時始めて、人の海に溺(おぼ)れた事を自覚した。この海はどこまで広がっているか分らない。しかし広い割には極めて静かな海である。ただ出る事ができない。右を向いても痞(つか)えている。左を見ても塞(ふさ)がっている。後をふり返ってもいっぱいである。それで静かに前の方へ動いて行く。ただ一筋の運命よりほかに、自分を支配するものがないかのごとく、幾万の黒い頭が申し合せたように歩調を揃(そろ)えて一歩ずつ前へ進んで行く。
 自分は歩きながら、今出て来た家の事を想(おも)い浮べた。一様の四階建の、一様の色の、不思議な町は、何でも遠くにあるらしい。どこをどう曲って、どこをどう歩いたら帰れるか、ほとんど覚束(おぼつか)ない気がする。よし帰れても、自分の家は見出(みいだ)せそうもない。その家は昨夕暗い中に暗く立っていた。
 自分は心細く考えながら、背の高い群集に押されて、仕方なしに大通を二つ三つ曲がった。曲るたんびに、昨夕の暗い家とは反対の方角に遠ざかって行くような心持がした。そうして眼の疲れるほど人間のたくさんいるなかに、云うべからざる孤独を感じた。すると、だらだら坂へ出た。ここは大きな道路が五つ六つ落ち合う広場のように思われた。今まで一筋に動いて来た波は、坂の下で、いろいろな方角から寄せるのと集まって、静かに廻転し始めた。
 坂の下には、大きな石刻(いしぼり)の獅子(しし)がある。全身灰色をしておった。尾の細い割に、鬣(たてがみ)に渦(うず)を捲(ま)いた深い頭は四斗樽(しとだる)ほどもあった。前足を揃(そろ)えて、波を打つ群集の中に眠っていた。獅子は二ついた。下は舗石(しきいし)で敷きつめてある。その真中に太い銅の柱があった。自分は、静かに動く人の海の間に立って、眼を挙(あ)げて、柱の上を見た。柱は眼の届く限り高く真直(まっすぐ)に立っている。その上には大きな空が一面に見えた。高い柱はこの空を真中で突き抜いているように聳(そび)えていた。この柱の先には何があるか分らなかった。自分はまた人の波に押されて広場から、右の方の通りをいずくともなく下(さが)って行った。しばらくして、ふり返ったら、竿(さお)のような細い柱の上に、小さい人間がたった一人立っていた。

     人間

 御作(おさく)さんは起きるが早いか、まだ髪結(かみゆい)は来ないか、髪結は来ないかと騒いでいる。髪結は昨夕(ゆうべ)たしかに頼んでおいた。ほかさまでございませんから、都合をして、是非九時までには上(あが)りますとの返事を聞いて、ようやく安心して寝たくらいである。柱時計を見ると、もう九時には五分しかない。どうしたんだろうと、いかにも焦(じ)れったそうなので、見兼ねた下女は、ちょっと見て参りましょうと出て行った。御作さんは及(およ)び腰(ごし)になって、障子(しょうじ)の前に取り出した鏡台を、立ちながら覗(のぞ)き込んで見た。そうして、わざと唇(くちびる)を開けて、上下(うえした)とも奇麗(きれい)に揃(そろ)った白い歯を残らず露(あら)わした。すると時計が柱の上でボンボンと九時を打ち出した。御作さんは、すぐ立ち上って、間(あい)の襖(ふすま)を開けて、どうしたんですよ、あなたもう九時過ぎですよ。起きて下さらなくっちゃ、晩(おそ)くなるじゃありませんかと云った。御作さんの旦那(だんな)は九時を聞いて、今床の上に起き直ったところである。御作さんの顔を見るや否や、あいよと云いながら、気軽に立ち上がった。
 御作さんは、すぐ台所の方へ取って返して、楊枝(ようじ)と歯磨(はみがき)と石鹸(しゃぼん)と手拭(てぬぐい)を一(ひ)と纏(まと)めにして、さあ、早く行っていらっしゃい、と旦那に渡した。帰りにちょっと髯(ひげ)を剃(す)って来るよと、銘仙(めいせん)のどてらの下へ浴衣(ゆかた)を重ねた旦那は、沓脱(くつぬぎ)へ下りた。じゃ、ちょいと御待ちなさいと、御作さんはまた奥へ駆(か)け込んだ。その間に旦那は楊枝を使い出した。御作さんは用箪笥(ようだんす)の抽出(ひきだし)から小さい熨斗袋(のしぶくろ)を出して、中へ銀貨を入れて、持って出た。旦那は口が利(き)けないものだから、黙って、袋を受取って格子(こうし)を跨(また)いだ。御作さんは旦那の肩の後(うしろ)へ、手拭(てぬぐい)の余りがぶら下がっているのを、少しの間眺めていたが、やがて、また奥へ引込(ひっこ)んで、ちょっと鏡台の前へ坐って、再び我が姿を映して見た。それから箪笥の抽出を半分開けて、少し首を傾(かたむ)けた。やがて、中から何か二三点取り出して、それを畳の上へ置いて考えた。が、せっかく取り出したものを、一つだけ残して、あとは丁寧(ていねい)にしまってしまった。それからまた二番目の抽出を開けた。そうしてまた考えた。御作さんは、考えたり、出したり、またはしまったりするので約三十分ほど費やした。その間も始終(しじゅう)心配そうに柱時計を眺めていた。ようやく衣裳(いしょう)を揃(そろ)えて、大きな欝金木綿(うこんもめん)の風呂敷にくるんで、座敷の隅(すみ)に押しやると、髪結が驚いたような大きな声を出して勝手口から這入(はい)って来た。どうも遅くなってすみません、と息を喘(はず)ませて言訳を云っている。御作さんは、本当に、御忙がしいところを御気の毒さまでしたねえと、長い煙管(きせる)を出して髪結に煙草(たばこ)を呑(の)ました。
 梳手(すきて)が来ないので、髪を結(ゆ)うのにだいぶ暇(ひま)が取れた。旦那は湯に入(い)って、髭(ひげ)を剃(す)って、やがて帰って来た。その間に、御作さんは、髪結に今日は美(み)いちゃんを誘って、旦那に有楽座へ連れて行って貰うんだと話した。髪結はおやおや私も御伴(おとも)をしたいもんだなどと、だいぶ冗談交(じょうだんまじ)りの御世辞を使った末、どうぞごゆっくりと帰って行った。
 旦那は欝金木綿(うこんもめん)の風呂敷を、ちょっと剥(はぐ)って見て、これを着て行くのかい、これよりか、この間の方がお前には似合うよと云った。でも、あれは、もう暮に、美(み)いちゃんの所へ着て行ったんですものと御作さんが答えた。そうか、じゃこれが好いだろう。おれはあっちの綿入羽織(わたいればおり)を着て行こうか、少し寒いようだねと、旦那がまた云い出すと、およしなさいよ、見っともない、一つものばかり着てと、御作さんは絣(かすり)の綿入羽織を出さなかった。
 やがて、御化粧が出来上って、流行の鶉縮緬(うずらちりめん)の道行(みちゆき)を着て、毛皮の襟巻(えりまき)をして、御作さんは旦那といっしょに表へ出た。歩きながら旦那にぶら下がるようにして話をする。四つ角まで出ると交番の所に人が大勢立っていた。御作さんは旦那の廻套(まわし)の羽根(はね)を捕(つら)まえて、伸び上がりながら、群集(ぐんじゅ)の中を覗(のぞ)き込んだ。
 真中に印袢天(しるしばんてん)を着た男が、立つとも坐るとも片づかずに、のらくらしている。今までも泥の中へ何度も倒れたと見えて、たださえ色の変った袢天(はんてん)がびたびたに濡(ぬ)れて寒く光っている。巡査が御前は何だと云うと、呂律(ろれつ)の回らない舌で、お、おれは人間だと威張っている。そのたんびに、みんなが、どっと笑う。御作さんも旦那の顔を見て笑った。すると酔っ払いは承知しない。怖(こわ)い眼をして、あたりを見廻しながら、な、なにがおかしい。おれが人間なのが、どこがおかしい。こう見(め)えたって、と云って、だらりと首を垂れてしまうかと思うと、突然(いきなり)思い出したように、人間だいと大きな声を出す。
 ところへまた印袢天を着た背の高い黒い顔をした男が荷車を引いてどこからか、やって来た。人を押し分けて巡査に何か小さな声で云っていたが、やがて、酔っ払いの方を向いて、さあ、野郎連れて行ってやるから、この上へ乗れと云った。酔払いは嬉(うれ)しそうな顔をして、ありがてえと云いながら荷車の上に、どさりと仰向(あおむ)けに寝た。明(あ)かるい空を見て、しょぼしょぼした眼を、二三度ぱちつかせたが、箆棒(べらぼう)め、こう見(め)えたって人間でえと云った。うん人間だ、人間だからおとなしくしているんだよと、背の高い男は藁(わら)の縄(なわ)で酔払いを荷車の上へしっかり縛(しば)りつけた。そうして屠(ほふ)られた豚のように、がらがらと大通りを引いて行った。御作さんはやっぱり廻套の羽根を捕まえたまま、注目飾(しめかざ)りの間を、向うへ押されて行く荷車の影を見送った。そうして、これから美いちゃんの所へ行って、美いちゃんに話す種が一つ殖(ふ)えたのを喜んだ。

     山鳥

 五六人寄って、火鉢(ひばち)を囲みながら話をしていると、突然一人の青年が来た。名も聞かず、会った事もない、全く未知の男である。紹介状も携(たずさ)えずに、取次を通じて、面会を求めるので、座敷へ招(しょう)じたら、青年は大勢いる所へ、一羽の山鳥(やまどり)を提(さ)げて這入(はい)って来た。初対面の挨拶(あいさつ)が済むと、その山鳥を座の真中に出して、国から届きましたからといって、それを当座の贈物にした。
 その日は寒い日であった。すぐ、みんなで山鳥の羹(あつもの)を拵(こしら)えて食った。山鳥を料(りょう)る時、青年は袴(はかま)ながら、台所へ立って、自分で毛を引いて、肉を割(さ)いて、骨をことことと敲(たた)いてくれた。青年は小作(こづく)りの面長(おもなが)な質(たち)で、蒼白(あおじろ)い額の下に、度の高そうな眼鏡を光らしていた。もっとも著るしく見えたのは、彼の近眼よりも、彼の薄黒い口髭(くちひげ)よりも、彼の穿(は)いていた袴であった。それは小倉織(こくらおり)で、普通の学生には見出(みいだ)し得(う)べからざるほどに、太い縞柄(しまがら)の派出(はで)な物であった。彼はこの袴の上に両手を載せて、自分は南部(なんぶ)のものだと云った。
 青年は一週間ほど経(た)ってまた来た。今度は自分の作った原稿を携(たずさ)えていた。あまり佳(よ)くできていなかったから、遠慮なくその旨(むね)を話すと、書き直して見ましょうと云って持って帰った。帰ってから一週間の後(のち)、また原稿を懐(ふところ)にして来た。かようにして彼(か)れは来るたびごとに、書いたものを何か置いて行かない事はなかった。中には三冊続きの大作さえあった。しかしそれはもっとも不出来なものであった。自分は彼れの手に成ったもののうちで、もっとも傑(すぐ)れたと思われるのを、一二度雑誌へ周旋した事がある。けれども、それは、ただ編輯者(へんしゅうしゃ)の御情(おなさけ)で誌上にあらわれただけで、一銭の稿料にもならなかったらしい。自分が彼の生活難を耳にしたのはこの時である。彼はこれから文(ぶん)を売って口を糊(のり)するつもりだと云っていた。
 或時妙なものを持って来てくれた。菊の花を乾(ほ)して、薄い海苔(のり)のように一枚一枚に堅めたものである。精進(しょうじん)の畳鰯(たたみいわし)だと云って、居合せた甲子(こうし)が、さっそく浸(ひた)しものに湯がいて、箸(はし)を下(くだ)しながら、酒を飲んだ。それから、鈴蘭(すずらん)の造花を一枝持って来てくれた事もある。妹が拵(こしら)えたんだと云って、指の股(また)で、枝の心(しん)になっている針金をぐるぐる廻転さしていた。妹といっしょに家を持っている事はこの時始めて知った。兄妹(きょうだい)して薪屋(まきや)の二階を一間借りて、妹は毎日刺繍(ぬいとり)の稽古(けいこ)に通(かよ)っているのだそうである。その次来た時には御納戸(おなんど)の結び目に、白い蝶(ちょう)を刺繍(ぬいと)った襟飾(えりかざ)りを、新聞紙にくるんだまま、もし御掛けなさるなら上げましょうと云って置いて行った。それを安野(やすの)が私に下さいと云って取って帰った。
 そのほか彼は時々来た。来るたびに自分の国の景色(けいしょく)やら、習慣やら、伝説やら、古めかしい祭礼の模様やら、いろいろの事を話した。彼の父は漢学者であると云う事も話した。篆刻(てんこく)が旨(うま)いという事も話した。御祖母(おばあ)さんは去る大名の御屋敷に奉公していた。申(さる)の年の生れだったそうだ。大変殿様の御気に入りで、猿に縁(ちな)んだものを時々下さった。その中に崋山(かざん)の画(か)いた手長猿(てながざる)の幅(ふく)がある。今度持って来て御覧に入れましょうと云った。青年はそれぎり来なくなった。
 すると春が過ぎて、夏になって、この青年の事もいつか忘れるようになった或日、――その日は日に遠い座敷の真中に、単衣(ひとえ)を唯(ただ)一枚つけて、じっと書見(しょけん)をしていてさえ堪(た)えがたいほどに暑かった。――彼れは突然やって来た。
 相変らず例の派出(はで)な袴(はかま)を穿(は)いて、蒼白(あおしろ)い額ににじんだ汗をこくめいに手拭(てぬぐい)で拭(ふ)いている。少し瘠(や)せたようだ。はなはだ申し兼ねたが金を二十円貸して下さいという。実は友人が急病に罹(かか)ったから、さっそく病院へ入れたのだが、差し当り困るのは金で、いろいろ奔走もして見たが、ちょっとできない。やむをえず上がった。と説明した。
 自分は書見をやめて、青年の顔をじっと見た。彼は例のごとく両手を膝(ひざ)の上に正しく置いたまま、どうぞと低い声で云った。あなたの友人の家(うち)はそれほど貧しいのかと聞き返したら、いやそうではない、ただ遠方で急の間に合わないから御願をする、二週間経(た)てば、国から届くはずだからその時はすぐと御返しするという答である。自分は金の調達(ちょうだつ)を引き受けた。その時彼(か)れは風呂敷包の中から一幅の懸物(かけもの)を取り出して、これがせんだって御話をした崋山(かざん)の軸(じく)ですと云って、紙表装の半切(はんせつ)ものを展(の)べて見せた。旨(うま)いのか不味(まず)いのか判然(はっきり)とは解らなかった。印譜(いんぷ)をしらべて見ると、渡辺崋山にも横山華山にも似寄った落款(らっかん)がない。青年はこれを置いて行きますと云うから、それには及ばないと辞退したが、聞かずに預けて行った。翌日また金を取りに来た。それっきり音沙汰(おとさた)がない。約束の二週間が来ても影も形も見せなかった。自分は欺(だま)されたのかも知れないと思った。猿(さる)の軸は壁へ懸(か)けたまま秋になった。
 袷(あわせ)を着て気の緊(し)まる時分に、長塚(ながつか)が例のごとく金を借(か)してくれと云って来た。自分はそうたびたび借すのが厭(いや)であった。ふと例の青年の事を思い出して、こう云う金があるが、もし、それを君が取りに行く気なら取りに行け、取れたら貸してやろうと云うと、長塚は頭を掻(か)いて、少し逡巡(しゅんじゅん)していたが、やがて思い切ったと見えて、行きましょうと答えた。それから、せんだっての金をこの者に渡してくれろという手紙を書いて、それに猿の懸物(かけもの)を添えて、長塚に持たせてやった。
 長塚はあくる日また車でやって来た。来るや否や懐(ふところ)から手紙を出したから、受け取って見ると昨日(きのう)自分の書いたものである。まだ封が切らずにある。行かなかったのかと聞くと、長塚は額(ひたい)に八の字を寄せて、行ったんですけれども、とても駄目です、惨澹(さんたん)たるものです、汚(きた)ない所でしてね、妻君(さいくん)が刺繍(ぬい)をしていましてね、本人が病気でしてね、――金の事なんぞ云い出せる訳のものじゃないんだから、けっして御心配には及びませんと安心させて、掛物(かけもの)だけ帰して来ましたと云う。自分はへええ、そうかと少し驚ろいた。
 翌(あく)る日(ひ)、青年から、どうも嘘言(うそ)を吐(つ)いてすまなかった、軸はたしかに受取ったと云う端書(はがき)が来た。自分はその端書を他の信書といっしょに重ねて、乱箱(みだればこ)の中に入れた。そうして、また青年の事を忘れるようになった。
 そのうち冬が来た。例のごとく忙(せわ)しい正月を迎えた。客の来ない隙間(すきま)を見て、仕事をしていると、下女が油紙に包んだ小包を持って来た。どさりと音のする丸い物である。差出人(さしだしにん)の名前は、忘れていた、いつぞやの青年である。油紙を解いて新聞紙を剥(は)ぐと、中から一羽の山鳥が出た。手紙がついている。その後(のち)いろいろの事情があって、今国へ帰っている。御恩借(ごおんしゃく)の金子(きんす)は三月頃上京の節是非御返しをするつもりだとある。手紙は山鳥の血で堅まって容易に剥(はが)れなかった。
 その日はまた木曜で、若い人の集まる晩であった。自分はまた五六人と共に、大きな食卓を囲んで、山鳥の羹(あつもの)を食った。そうして、派出(はで)な小倉(こくら)の袴(はかま)を着けた蒼白(あおしろ)い青年の成功を祈った。五六人の帰ったあとで、自分はこの青年に礼状を書いた。そのなかに先年の金子の件御介意(ごかいい)に及ばずと云う一句を添えた。

     モナリサ

 井深(いぶか)は日曜になると、襟巻(えりまき)に懐手(ふところで)で、そこいらの古道具屋を覗(のぞ)き込んで歩るく。そのうちでもっとも汚(きた)ならしい、前代の廃物ばかり並んでいそうな見世(みせ)を選(よ)っては、あれの、これのと捻(ひね)くり廻(まわ)す。固(もと)より茶人でないから、好いの悪いのが解る次第ではないが、安くて面白そうなものを、ちょいちょい買って帰るうちには、一年に一度ぐらい掘り出し物に、あたるだろうとひそかに考えている。
 井深は一箇月ほど前に十五銭で鉄瓶(てつびん)の葢(ふた)だけを買って文鎮にした。この間の日曜には二十五銭で鉄の鍔(つば)を買って、これまた文鎮(ぶんちん)にした。今日はもう少し大きい物を目懸(めが)けている。懸物(かけもの)でも額でもすぐ人の眼につくような、書斎の装飾が一つ欲しいと思って、見廻していると、色摺(いろずり)の西洋の女の画(え)が、埃(ほこり)だらけになって、横に立て懸(か)けてあった。溝(みぞ)の磨(す)れた井戸車の上に、何とも知れぬ花瓶(かびん)が載っていて、その中から黄色い尺八の歌口(うたぐち)がこの画(え)の邪魔をしている。
 西洋の画はこの古道具屋に似合わない。ただその色具合が、とくに現代を超越して、上昔(そのかみ)の空気の中に黒く埋(うま)っている。いかにもこの古道具屋にあって然(しか)るべき調子である。井深はきっと安いものだと鑑定した。聞いて見ると一円と云うのに、少し首を捻(ひね)ったが、硝子(ガラス)も割れていないし、額縁(がくぶち)もたしかだから、爺さんに談判して、八十銭までに負けさせた。
 井深がこの半身の画像を抱(いだ)いて、家(うち)へ帰ったのは、寒い日の暮方であった。薄暗い部屋へ入って、さっそく額(がく)を裸(はだか)にして、壁へ立て懸(か)けて、じっとその前へ坐(すわ)り込んでいると、洋灯(ランプ)を持って細君(さいくん)がやって来た。井深は細君に灯(ひ)を画の傍(そば)へ翳(かざ)さして、もう一遍(いっぺん)とっくりと八十銭の額を眺めた。総体に渋く黒ずんでいる中に、顔だけが黄(き)ばんで見える。これも時代のせいだろう。井深は坐ったまま細君を顧(かえり)みて、どうだと聞いた。細君は洋灯を翳した片手を少し上に上げて、しばらく物も言わずに黄ばんだ女の顔を眺めていたが、やがて、気味の悪い顔です事ねえと云った。井深はただ笑って、八十銭だよと答えたぎりである。
 飯を食ってから、踏台をして欄間(らんま)に釘(くぎ)を打って、買って来た額を頭の上へ掛けた。その時細君は、この女は何をするか分らない人相だ。見ていると変な心持になるから、掛けるのは廃(よ)すが好いと云ってしきりに止(と)めたけれども、井深はなあに御前の神経だと云って聞かなかった。
 細君は茶の間へ下(さが)る。井深は机に向って調べものを始めた。十分ばかりすると、ふと首を上げて、額の中が見たくなった。筆を休めて、眼を転ずると、黄色い女が、額の中で薄笑いをしている。井深はじっとその口元を見つめた。全く画工(えかき)の光線のつけ方である。薄い唇(くちびる)が両方の端(はじ)で少し反(そ)り返(かえ)って、その反り返った所にちょっと凹(くぼみ)を見せている。結んだ口をこれから開けようとするようにも取れる。または開(あ)いた口をわざと、閉(と)じたようにも取れる。ただしなぜだか分らない。井深は変な心持がしたが、また机に向った。
 調べものとは云(い)い条(じょう)、半分は写しものである。大して注意を払う必要もないので、少し経(た)ったら、また首を挙(あ)げて画の方を見た。やはり口元に何か曰(いわ)くがある。けれども非常に落ちついている。切れ長の一重瞼(ひとえまぶち)の中から静かな眸(ひとみ)が座敷の下に落ちた。井深はまた机の方に向き直った。
 その晩井深は何遍(なんべん)となくこの画を見た。そうして、どことなく細君の評が当っているような気がし出した。けれども明(あく)る日になったら、そうでもないような顔をして役所へ出勤した。四時頃家(うち)へ帰って見ると、昨夕(ゆうべ)の額は仰向(あおむ)けに机の上に乗せてある。午(ひる)少し過に、欄間(らんま)の上から突然落ちたのだという。道理で硝子(ガラス)がめちゃめちゃに破(こわ)れている。井深は額の裏を返して見た。昨夕紐(ひも)を通した環(かん)が、どうした具合か抜けている。井深はそのついでに額の裏を開けて見た。すると画と背中合せに、四つ折の西洋紙が出た。開けて見ると、印気(インキ)で妙な事が書いてある。
「モナリサの唇には女性(にょしょう)の謎(なぞ)がある。原始以降この謎を描き得たものはダ ヴィンチだけである。この謎を解き得たものは一人もない。」
 翌日(あくるひ)井深は役所へ行って、モナリサとは何だと云って、皆(みんな)に聞いた。しかし誰も分らなかった。じゃダ ヴィンチとは何だと尋ねたが、やっぱり誰も分らなかった。井深は細君の勧(すすめ)に任(まか)せてこの縁喜(えんぎ)の悪い画を、五銭で屑屋(くずや)に売り払った。

     火事

 息が切れたから、立ち留まって仰向くと、火の粉(こ)がもう頭の上を通る。霜(しも)を置く空の澄み切って深い中に、数を尽くして飛んで来ては卒然(そつぜん)と消えてしまう。かと思うと、すぐあとから鮮(あざやか)なやつが、一面に吹かれながら、追(おっ)かけながら、ちらちらしながら、熾(さかん)にあらわれる。そうして不意に消えて行く。その飛んでくる方角を見ると、大きな噴水を集めたように、根が一本になって、隙間(すきま)なく寒い空を染めている。二三間先に大きな寺がある。長い石段の途中に太い樅(もみ)が静かな枝を夜(よ)に張って、土手から高く聳(そび)えている。火はその後(うしろ)から起る。黒い幹と動かぬ枝をことさらに残して、余る所は真赤(まっか)である。火元はこの高い土手の上に違(ちがい)ない。もう一町ほど行って左へ坂を上(あが)れば、現場(げんば)へ出られる。
 また急ぎ足に歩き出した。後から来るものは皆追越して行く。中には擦れ違に大きな声をかけるものがある。暗い路は自(おの)ずと神経的に活(い)きて来た。坂の下まで歩いて、いよいよ上(のぼ)ろうとすると、胸を突くほど急である。その急な傾斜を、人の頭がいっぱいに埋(うず)めて、上から下まで犇(ひしめ)いている。焔(ほのお)は坂の真上から容赦(ようしゃ)なく舞い上る。この人の渦(うず)に捲(ま)かれて、坂の上まで押し上げられたら、踵(くびす)を回(めぐ)らすうちに焦(こ)げてしまいそうである。
 もう半町ほど行くと、同じく左へ折れる大きな坂がある。上(のぼ)るならこちらが楽で安全であると思い直して、出合頭(であいがしら)の人を煩(わずら)わしく避(よ)けて、ようやく曲り角まで出ると、向うから劇(はげ)しく号鈴(ベル)を鳴らして蒸汽喞筒(じょうきポンプ)が来た。退(の)かぬものはことごとく敷(し)き殺(ころ)すぞと云わぬばかりに人込の中を全速力で駆(か)り立てながら、高い蹄(ひづめ)の音と共に、馬の鼻面(はなづら)を坂の方へ一捻(ひとひねり)に向直(むけなお)した。馬は泡を吹いた口を咽喉(のど)に摺(す)りつけて、尖(とが)った耳を前に立てたが、いきなり前足を揃(そろ)えてもろに飛び出した。その時栗毛の胴が、袢天(はんてん)を着た男の提灯(ちょうちん)を掠(かす)めて、天鵞絨(びろうど)のごとく光った。紅色(べにいろ)に塗った太い車の輪が自分の足に触れたかと思うほど際(きわ)どく回った。と思うと、喞筒は一直線に坂を馳(か)け上がった。
 坂の中途へ来たら、前は正面にあった□(ほのお)が今度は筋違(すじかい)に後の方に見え出した。坂の上からまた左へ取って返さなければならない。横丁(よこちょう)を見つけていると、細い路次(ろじ)のようなのが一つあった。人に押されて入り込むと真暗である。ただ一寸(いっすん)のセキもないほど詰(つ)んでいる。そうして互に懸命な声を揚(あ)げる。火は明かに向うに燃えている。
 十分の後(のち)ようやく路次を抜けて通りへ出た。その通りもまた組屋敷(くみやしき)ぐらいな幅で、すでに人でいっぱいになっている。路次を出るや否や、さっき地(じ)を蹴(け)って、馳け上がった蒸汽喞筒が眼の前にじっとしていた。喞筒はようやくここまで馬を動かしたが、二三間先きの曲り角に妨(さまた)げられて、どうする事もできずに、焔を見物している。焔は鼻の先から燃え上がる。
 傍(そば)に押し詰められているものは口々にどこだ、どこだと号(さけ)ぶ。聞かれるものは、そこだそこだと云う。けれども両方共に焔の起る所までは行かれない。□は勢いを得て、静かな空を煽(あお)るように、凄(すさま)じく上(のぼ)る。……
 翌日午過(ひるすぎ)散歩のついでに、火元を見届(みとどけ)ようと思う好奇心から、例の坂を上って、昨夕(ゆうべ)の路次を抜けて、蒸汽喞筒の留まっていた組屋敷へ出て、二三間先の曲角(まがりかど)をまがって、ぶらぶら歩いて見たが、冬籠(ふゆごも)りと見える家が軒を並べてひそりと静まっているばかりである。焼け跡はどこにも見当(みあた)らない。火の揚(あ)がったのはこの辺だと思われる所は、奇麗(きれい)な杉垣ばかり続いて、そのうちの一軒からは微(かす)かに琴(こと)の音(ね)が洩(も)れた。

     霧

 昨宵(ゆうべ)は夜中(よじゅう)枕の上で、ばちばち云う響を聞いた。これは近所にクラパム・ジャンクションと云う大停車場(おおステーション)のある御蔭(おかげ)である。このジャンクションには一日のうちに、汽車が千いくつか集まってくる。それを細(こま)かに割りつけて見ると、一分に一(ひ)と列車ぐらいずつ出入(でいり)をする訳になる。その各列車が霧(きり)の深い時には、何かの仕掛(しかけ)で、停車場間際(まぎわ)へ来ると、爆竹(ばくちく)のような音を立てて相図をする。信号の灯光は青でも赤でも全く役に立たないほど暗くなるからである。
 寝台(ねだい)を這(は)い下りて、北窓の日蔽(ブラインド)を捲(ま)き上げて外面(そと)を見おろすと、外面は一面に茫(ぼう)としている。下は芝生の底から、三方煉瓦(れんが)の塀(へい)に囲われた一間余(いっけんよ)の高さに至るまで、何も見えない。ただ空(むな)しいものがいっぱい詰っている。そうして、それが寂(しん)として凍(こお)っている。隣の庭もその通りである。この庭には奇麗(きれい)なローンがあって、春先の暖かい時分になると、白い髯(ひげ)を生(はや)した御爺(おじい)さんが日向(ひなた)ぼっこをしに出て来る。その時この御爺さんは、いつでも右の手に鸚鵡(おうむ)を留まらしている。そうして自分の目を鸚鵡の嘴(くちばし)で突つかれそうに近く、鳥の傍(そば)へ持って行く。鸚鵡は羽搏(はばた)きをして、しきりに鳴き立てる。御爺さんの出ないときは、娘が長い裾(すそ)を引いて、絶え間なく芝刈(しばかり)器械をローンの上に転(ころ)がしている。この記憶に富んだ庭も、今は全く霧(きり)に埋(うま)って、荒果(あれは)てた自分の下宿のそれと、何の境もなくのべつに続いている。
 裏通りを隔(へだ)てて向う側に高いゴシック式の教会の塔がある。その塔の灰色に空を刺す天辺(てっぺん)でいつでも鐘が鳴る。日曜はことにはなはだしい。今日は鋭く尖(とが)った頂きは無論の事、切石を不揃(ふそろい)に畳み上げた胴中(どうなか)さえ所在(ありか)がまるで分らない。それかと思うところが、心持黒いようでもあるが、鐘の音(ね)はまるで響かない。鐘の形の見えない濃い影の奥に深く鎖(とざ)された。
 表へ出ると二間ばかり先は見える。その二間を行き尽くすとまた二間ばかり先が見えて来る。世の中が二間四方に縮(ちぢ)まったかと思うと、歩けば歩(あ)るくほど新しい二間四方が露(あら)われる。その代り今通って来た過去の世界は通るに任(まか)せて消えて行く。
 四つ角でバスを待ち合せていると、鼠色(ねずみいろ)の空気が切り抜かれて急に眼の前へ馬の首が出た。それだのにバスの屋根にいる人は、まだ霧を出切らずにいる。こっちから霧を冒(おか)して、飛乗って下を見ると、馬の首はもう薄ぼんやりしている。バスが行き逢(あ)うときは、行き逢った時だけ奇麗(きれい)だなと思う。思う間もなく色のあるものは、濁った空(くう)の中に消えてしまう。漠々(ばくばく)として無色の裡(うち)に包まれて行った。ウェストミンスター橋を通るとき、白いものが一二度眼を掠(かす)めて翻(ひる)がえった。眸(ひとみ)を凝(こ)らして、その行方(ゆくえ)を見つめていると、封じ込められた大気の裡(うち)に、鴎(かもめ)が夢のように微(かす)かに飛んでいた。その時頭の上でビッグベンが厳(おごそか)に十時を打ち出した。仰ぐと空の中でただ音(おん)だけがする。
 ヴィクトリヤで用を足(た)して、テート画館の傍(はた)を河沿(かわぞい)にバタシーまで来ると、今まで鼠色(ねずみいろ)に見えた世界が、突然と四方からばったり暮れた。泥炭(ピート)を溶(と)いて濃く、身の周囲(まわり)に流したように、黒い色に染められた重たい霧が、目と口と鼻とに逼(せま)って来た。
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