永日小品
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著者名:夏目漱石 

 空谷子の警句としてははなはだ陳腐(ちんぷ)だと思ったから、そうさね、と云ったぎり相手にならずにいた。空谷子は火鉢の灰の中に大きな丸を描(か)いて、君ここに金があるとするぜ、と丸の真中を突ッついた。
「これが何にでも変化する。衣服(きもの)にもなれば、食物(くいもの)にもなる。電車にもなれば宿屋にもなる」
「下らんな。知れ切ってるじゃないか」
「否(いや)、知れ切っていない。この丸がね」とまた大きな丸を描いた。
「この丸が善人にもなれば悪人にもなる。極楽へも行く、地獄へも行く。あまり融通が利(き)き過ぎるよ。まだ文明が進まないから困る。もう少し人類が発達すると、金の融通に制限をつけるようになるのは分り切っているんだがな」
「どうして」
「どうしても好いが、――例(たと)えば金を五色(ごしき)に分けて、赤い金、青い金、白い金などとしても好かろう」
「そうして、どうするんだ」
「どうするって。赤い金は赤い区域内だけで通用するようにする。白い金は白い区域内だけで使う事にする。もし領分外へ出ると、瓦(かわら)の破片(かけら)同様まるで幅が利(き)かないようにして、融通の制限をつけるのさ」
 もし空谷子が初対面の人で、初対面の最先(さいさき)からこんな話をしかけたら、自分は空谷子をもって、あるいは脳の組織に異状のある論客(ろんかく)と認めたかも知れない。しかし空谷子は地球より大きな火事を想像する男だから、安心してその訳を聞いて見た。空谷子の答はこうであった。
「金はある部分から見ると、労力の記号だろう。ところがその労力がけっして同種類のものじゃないから、同じ金で代表さして、彼是(ひし)相通ずると、大変な間違になる。例えば僕がここで一万噸(トン)の石炭を掘ったとするぜ。その労力は器械的の労力に過ぎないんだから、これを金に代えたにしたところが、その金は同種類の器械的の労力と交換する資格があるだけじゃないか。しかるに一度(ひとたび)この器械的の労力が金に変形するや否や、急に大自在(だいじざい)の神通力(じんずうりき)を得て、道徳的の労力とどんどん引き換えになる。そうして、勝手次第に精神界が攪乱(かくらん)されてしまう。不都合極(きわ)まる魔物じゃないか。だから色分(いろわけ)にして、少しその分(ぶん)を知らしめなくっちゃいかんよ」
 自分は色分説(いろわけせつ)に賛成した。それからしばらくして、空谷子に尋ねて見た。
「器械的の労力で道徳的の労力を買収するのも悪かろうが、買収される方も好かあないんだろう」
「そうさな。今のような善知善能(ぜんちぜんのう)の金を見ると、神も人間に降参するんだから仕方がないかな。現代の神は野蛮だからな」
 自分は空谷子と、こんな金にならない話をして帰った。

     心

 二階の手摺(てすり)に湯上りの手拭(てぬぐい)を懸(か)けて、日の目の多い春の町を見下(みおろ)すと、頭巾(ずきん)を被(かむ)って、白い髭(ひげ)を疎(まば)らに生(は)やした下駄(げた)の歯入が垣の外を通る。古い鼓(つづみ)を天秤棒(てんびんぼう)に括(くく)りつけて、竹のへらでかんかんと敲(たた)くのだが、その音は頭の中でふと思い出した記憶のように、鋭いくせに、どこか気が抜けている。爺さんが筋向(すじむこう)の医者の門の傍(わき)へ来て、例の冴(さ)え損(そこ)なった春の鼓(つづみ)をかんと打つと、頭の上に真白に咲いた梅の中から、一羽の小鳥が飛び出した。歯入は気がつかずに、青い竹垣をなぞえに向(むこう)の方へ廻り込んで見えなくなった。鳥は一摶(ひとはばたき)に手摺の下まで飛んで来た。しばらくは柘榴(ざくろ)の細枝に留(とま)っていたが、落ちつかぬと見えて、二三度身(み)ぶりを易(か)える拍子(ひょうし)に、ふと欄干(らんかん)に倚(よ)りかかっている自分の方を見上げるや否や、ぱっと立った。枝の上が煙(けむ)るごとくに動いたと思ったら、小鳥はもう奇麗(きれい)な足で手摺の桟(さん)を踏(ふ)まえている。
 まだ見た事のない鳥だから、名前を知ろうはずはないが、その色合が著(いちじ)るしく自分の心を動かした。鶯(うぐいす)に似て少し渋味(しぶみ)の勝った翼(つばさ)に、胸は燻(くす)んだ、煉瓦(れんが)の色に似て、吹けば飛びそうに、ふわついている。その辺(あたり)には柔(やわら)かな波を時々打たして、じっとおとなしくしている。怖(おど)すのは罪だと思って、自分もしばらく、手摺に倚ったまま、指一本も動かさずに辛抱していたが、存外鳥の方は平気なようなので、やがて思い切って、そっと身を後(うしろ)へ引いた。同時に鳥はひらりと手摺の上に飛び上がって、すぐと眼の前に来た。自分と鳥の間はわずか一尺ほどに過ぎない。自分は半(なか)ば無意識に右手(めて)を美しい鳥の方に出した。鳥は柔(やわら)かな翼(つばさ)と、華奢(きゃしゃ)な足と、漣(さざなみ)の打つ胸のすべてを挙(あ)げて、その運命を自分に託するもののごとく、向うからわが手の中(うち)に、安らかに飛び移った。自分はその時丸味のある頭を上から眺めて、この鳥は……と思った。しかしこの鳥は……の後(あと)はどうしても思い出せなかった。ただ心の底の方にその後(あと)が潜(ひそ)んでいて、総体を薄く暈(ぼか)すように見えた。この心の底一面に煮染(にじ)んだものを、ある不可思議の力で、一所(ひとところ)に集めて判然(はっきり)と熟視したら、その形は、――やっぱりこの時、この場に、自分の手のうちにある鳥と同じ色の同じ物であったろうと思う。自分は直(ただち)に籠(かご)の中に鳥を入れて、春の日影の傾(かたむ)くまで眺めていた。そうしてこの鳥はどんな心持で自分を見ているだろうかと考えた。
 やがて散歩に出た。欣々然(きんきんぜん)として、あてもないのに、町の数をいくつも通り越して、賑(にぎや)かな往来(おうらい)を行ける所まで行ったら、往来は右へ折れたり左へ曲ったりして、知らない人の後(あと)から、知らない人がいくらでも出て来る。いくら歩いても賑(にぎや)かで、陽気で、楽々しているから、自分はどこの点で世界と接触して、その接触するところに一種の窮屈を感ずるのか、ほとんど想像も及ばない。知らない人に幾千人となく出逢(であ)うのは嬉(うれ)しいが、ただ嬉しいだけで、その嬉しい人の眼つきも鼻つきもとんと頭に映らなかった。するとどこかで、宝鈴(ほうれい)が落ちて廂瓦(ひさしがわら)に当るような音がしたので、はっと思って向うを見ると、五六間先の小路(こうじ)の入口に一人の女が立っていた。何を着ていたか、どんな髷(まげ)に結(ゆ)っていたか、ほとんど分らなかった。ただ眼に映ったのはその顔である。その顔は、眼と云い、口と云い、鼻と云って、離れ離れに叙述する事のむずかしい――否、眼と口と鼻と眉(まゆ)と額といっしょになって、たった一つ自分のために作り上げられた顔である。百年の昔からここに立って、眼も鼻も口もひとしく自分を待っていた顔である。百年の後(のち)まで自分を従えてどこまでも行く顔である。黙って物を云う顔である。女は黙って後(うしろ)を向いた。追いついて見ると、小路と思ったのは露次(ろじ)で、不断(ふだん)の自分なら躊躇(ちゅうちょ)するくらいに細くて薄暗い。けれども女は黙ってその中へ這入(はい)って行く。黙っている。けれども自分に後を跟(つ)けて来いと云う。自分は身を穿(すぼ)めるようにして、露次の中に這入った。
 黒い暖簾(のれん)がふわふわしている。白い字が染抜いてある。その次には頭を掠(かす)めるくらいに軒灯が出ていた。真中に三階松(さんがいまつ)が書いて下に本(もと)とあった。その次には硝子(ガラス)の箱に軽焼(かるやき)の霰(あられ)が詰っていた。その次には軒の下に、更紗(さらさ)の小片(こぎれ)を五つ六つ四角な枠(わく)の中に並べたのが懸(か)けてあった。それから香水の瓶(びん)が見えた。すると露次は真黒な土蔵の壁で行き留った。女は二尺ほど前にいた。と思うと、急に自分の方をふり返った。そうして急に右へ曲った。その時自分の頭は突然先刻(さっき)の鳥の心持に変化した。そうして女に尾(つ)いて、すぐ右へ曲った。右へ曲ると、前よりも長い露次が、細く薄暗く、ずっと続いている。自分は女の黙って思惟するままに、この細く薄暗く、しかもずっと続いている露次の中を鳥のようにどこまでも跟いて行った。

     変化

 二人は二畳敷の二階に机を並べていた。その畳の色の赤黒く光った様子がありありと、二十余年後の今日(こんにち)までも、眼の底に残っている。部屋は北向で、高さ二尺に足らぬ小窓を前に、二人が肩と肩を喰っつけるほど窮屈な姿勢で下調(したしらべ)をした。部屋の内が薄暗くなると、寒いのを思い切って、窓障子(まどしょうじ)を明け放ったものである。その時窓の真下の家(うち)の、竹格子(たけごうし)の奥に若い娘がぼんやり立っている事があった。静かな夕暮などはその娘の顔も姿も際立(きわだ)って美しく見えた。折々はああ美しいなと思って、しばらく見下(みおろ)していた事もあった。けれども中村には何にも言わなかった。中村も何にも言わなかった。
 女の顔は今は全く忘れてしまった。ただ大工か何かの娘らしかったという感じだけが残っている。無論長屋住居(ながやずまい)の貧しい暮しをしていたものの子である。我ら二人の寝起(ねおき)する所も、屋根に一枚の瓦(かわら)さえ見る事のできない古長屋の一部であった。下には学僕(がくぼく)と幹事を混(ま)ぜて十人ばかり寄宿していた。そうして吹(ふ)き曝(さら)しの食堂で、下駄(げた)を穿(は)いたまま、飯を食った。食料は一箇月に二円であったが、その代りはなはだ不味(まず)いものであった。それでも、隔日に牛肉の汁を一度ずつ食わした。もちろん肉の膏(あぶら)が少し浮いて、肉の香(か)が箸(はし)に絡(から)まって来るくらいなところであった。それで塾生は幹事が狡猾(こうかつ)で、旨(うま)いものを食わせなくっていかんとしきりに不平をこぼしていた。
 中村と自分はこの私塾(しじゅく)の教師であった。二人とも月給を五円ずつ貰って、日に二時間ほど教えていた。自分は英語で地理書や幾何学を教えた。幾何の説明をやる時に、どうしてもいっしょになるべき線が、いっしょにならないで困った事がある。ところが込(こ)みいった図を、太い線で書いているうちに、その線が二つ、黒板の上で重なり合っていっしょになってくれたのは嬉しかった。
 二人は朝起きると、両国橋を渡って、一つ橋の予備門に通学した。その時分予備門の月謝は二十五銭であった。二人は二人の月給を机の上にごちゃごちゃに攪(か)き交(ま)ぜて、そのうちから二十五銭の月謝と、二円の食料と、それから湯銭若干(そくばく)を引いて、あまる金を懐(ふところ)に入れて、蕎麦(そば)や汁粉(しるこ)や寿司(すし)を食い廻って歩いた。共同財産が尽きると二人とも全く出なくなった。
 予備門へ行く途中両国橋の上で、貴様の読んでいる西洋の小説のなかには美人が出て来るかと中村が聞いた事がある。自分はうん出て来ると答えた。しかしその小説は何の小説で、どんな美人が出て来たのか、今ではいっこう覚えない。中村はその時から小説などを読まない男であった。
 中村が端艇競争(ボートきょうそう)のチャンピヨンになって勝った時、学校から若干の金をくれて、その金で書籍を買って、その書籍へある教授が、これこれの記念に贈ると云う文句を書き添えた事がある。中村はその時おれは書物なんかいらないから、何でも貴様の好(すき)なものを買ってやると云った。そうしてアーノルドの論文と沙翁(さおう)のハムレットを買ってくれた。その本はいまだに持っている。自分はその時始めてハムレットと云うものを読んで見た。ちっとも分らなかった。
 学校を出ると中村はすぐ台湾に行った。それぎりまるで逢(あ)わなかったのが、偶然倫敦(ロンドン)の真中でまたぴたりと出喰(でく)わした。ちょうど七年ほど前である。その時中村は昔の通りの顔をしていた。そうして金をたくさん持っていた。自分は中村といっしょに方々遊んで歩いた。中村も以前と異(かわ)って、貴様の読んでいる西洋の小説には美人が出て来るかなどとは聞かなかった。かえって向うから西洋の美人の話をいろいろした。
 日本へ帰ってからまた逢(あ)わなくなった。すると今年の一月の末、突然使をよこして、話がしたいから築地の新喜楽(しんきらく)まで来いと云って来た。正午(ひる)までにという注文だのに、時計はもう十一時過である。そうしてその日に限って北風が非常に強く吹いていた。外へ出ると、帽子も車も吹き飛ばされそうな勢いである。自分はその日の午後に是非片づけなくてはならない用事を控(ひか)えていた。妻(さい)に電話を懸(か)けさせて、明日(あす)じゃ都合が悪いかと聞かせると、明日になると出立の準備や何かで、こっちも忙(いそが)しいから……と云うところで、電話が切れてしまった。いくら、どうしても懸(かか)らない。おおかた風のせいでしょうと、妻が寒い顔をして帰って来た。それでとうとう逢わずにしまった。
 昔の中村は満鉄の総裁になった。昔の自分は小説家になった。満鉄の総裁とはどんな事をするものかまるで知らない。中村も自分の小説をいまだかつて一頁(ページ)も読んだ事はなかろう。

     クレイグ先生

 クレイグ先生は燕(つばめ)のように四階の上に巣をくっている。舗石(しきいし)の端に立って見上げたって、窓さえ見えない。下からだんだんと昇って行くと、股(もも)の所が少し痛くなる時分に、ようやく先生の門前に出る。門と申しても、扉や屋根のある次第ではない。幅三尺足らずの黒い戸に真鍮(しんちゅう)の敲子(ノッカー)がぶら下がっているだけである。しばらく門前で休息して、この敲子の下端(かたん)をこつこつと戸板へぶつけると、内から開けてくれる。
 開けてくれるものは、いつでも女である。近眼(ちかめ)のせいか眼鏡をかけて、絶えず驚いている。年は五十くらいだから、ずいぶん久しい間世の中を見て暮したはずだが、やっぱりまだ驚いている。戸を敲(たた)くのが気の毒なくらい大きな眼をしていらっしゃいと云う。
 這入(はい)ると女はすぐ消えてしまう。そうして取附(とっつき)の客間――始めは客間とも思わなかった。別段装飾も何もない。窓が二つあって、書物がたくさん並んでいるだけである。クレイグ先生はたいていそこに陣取っている。自分の這入(はい)って来るのを見ると、やあと云って手を出す。握手をしろという相図だから、手を握る事は握るが、向(むこう)ではかつて握り返した事がない。こっちもあまり握り心地が好い訳でもないから、いっそ廃(よ)したらよかろうと思うのに、やっぱりやあと云って毛だらけな皺(しわ)だらけな、そうして例によって消極的な手を出す。習慣は不思議なものである。
 この手の所有者は自分の質問を受けてくれる先生である。始めて逢(あ)った時報酬はと聞いたら、そうさな、とちょっと窓の外を見て、一回七志(シルリング)じゃどうだろう。多過ぎればもっと負けても好いと云われた。それで自分は一回七志の割で月末に全額を払う事にしていたが、時によると不意に先生から催促を受ける事があった。君、少し金が入(い)るから払って行ってくれんかなどと云われる。自分は洋袴(ズボン)の隠(かく)しから金貨を出して、むき出しにへえと云って渡すと、先生はやあすまんと受取りながら、例の消極的な手を拡(ひろ)げて、ちょっと掌(てのひら)の上で眺めたまま、やがてこれを洋袴の隠しへ収められる。困る事には先生けっして釣を渡さない。余分を来月へ繰(く)り越(こ)そうとすると、次の週にまた、ちょっと書物を買いたいからなどと催促される事がある。
 先生は愛蘭土(アイヤランド)の人で言葉がすこぶる分らない。少し焦(せ)きこんで来ると、東京者が薩摩(さつま)人と喧嘩(けんか)をした時くらいにむずかしくなる。それで大変そそっかしい非常な焦きこみ屋なんだから、自分は事が面倒になると、運を天に任せて先生の顔だけ見ていた。
 その顔がまたけっして尋常じゃない。西洋人だから鼻は高いけれども、段があって、肉が厚過ぎる。そこは自分に善(よ)く似ているのだが、こんな鼻は一見したところがすっきりした好い感じは起らないものである。その代りそこいら中(じゅう)むしゃくしゃしていて、何となく野趣がある。髯(ひげ)などはまことに御気の毒なくらい黒白乱生(こくびゃくらんせい)していた。いつかベーカーストリートで先生に出合った時には、鞭(むち)を忘れた御者(カブマン)かと思った。
 先生の白襯衣(しろシャツ)や白襟(しろえり)を着けたのはいまだかつて見た事がない。いつでも縞(しま)のフラネルをきて、むくむくした上靴(うわぐつ)を足に穿(は)いて、その足を煖炉(ストーブ)の中へ突き込むくらいに出して、そうして時々短い膝を敲(たた)いて――その時始めて気がついたのだが、先生は消極的の手に金の指輪を嵌(は)めていた。――時には敲(たた)く代りに股(もも)を擦(こす)って、教えてくれる。もっとも何を教えてくれるのか分らない。聞いていると、先生の好きな所へ連れて行って、けっして帰してくれない。そうしてその好きな所が、時候の変り目や、天気都合でいろいろに変化する。時によると昨日(きのう)と今日(きょう)で両極へ引越しをする事さえある。わるく云えば、まあ出鱈目(でたらめ)で、よく評すると文学上の座談をしてくれるのだが、今になって考えて見ると、一回七志ぐらいで纏(まとま)った規則正しい講義などのできる訳のものではないのだから、これは先生の方がもっともなので、それを不平に考えた自分は馬鹿なのである。もっとも先生の頭も、その髯(ひげ)の代表するごとく、少しは乱雑に傾(かたむ)いていたようでもあるから、むしろ報酬の値上をして、えらい講義をして貰わない方がよかったかも知れない。
 先生の得意なのは詩であった。詩を読むときには顔から肩の辺(あたり)が陽炎(かげろう)のように振動する。――嘘(うそ)じゃない。全く振動した。その代り自分に読んでくれるのではなくって、自分が一人で読んで楽んでいる事に帰着してしまうからつまりはこっちの損になる。いつかスウィンバーンのロザモンドとか云うものを持って行ったら、先生ちょっと見せたまえと云って、二三行朗読したが、たちまち書物を膝(ひざ)の上に伏せて、鼻眼鏡(はなめがね)をわざわざはずして、ああ駄目駄目スウィンバーンも、こんな詩を書くように老い込んだかなあと云って嘆息された。自分がスウィンバーンの傑作アタランタを読んでみようと思い出したのはこの時である。
 先生は自分を小供のように考えていた。君こう云う事を知ってるか、ああ云う事が分ってるかなどと愚(ぐ)にもつかない事をたびたび質問された。かと思うと、突然えらい問題を提出して急に同輩扱(どうはいあつかい)に飛び移る事がある。いつか自分の前でワトソンの詩を読んで、これはシェレーに似た所があると云う人と、全く違っていると云う人とあるが、君はどう思うと聞かれた。どう思うたって、自分には西洋の詩が、まず眼に訴えて、しかる後(のち)耳を通過しなければまるで分らないのである。そこで好い加減な挨拶(あいさつ)をした。シェレーに似ている方だったか、似ていない方だったか、今では忘れてしまった。がおかしい事に、先生はその時例の膝を叩(たた)いて僕もそう思うと云われたので、大いに恐縮した。
 ある時窓から首を出して、遥(はる)かの下界を忙(いそが)しそうに通る人を見下(みおろ)しながら、君あんなに人間が通るが、あの内で詩の分るものは百人に一人もいない、可愛相(かわいそう)なものだ。いったい英吉利人(イギリスじん)は詩を解する事のできない国民でね。そこへ行くと愛蘭土人(アイヤランドじん)はえらいものだ。はるかに高尚だ。――実際詩を味(あじわ)う事のできる君だの僕だのは幸福と云わなければならない。と云われた。自分を詩の分る方の仲間へ入れてくれたのははなはだありがたいが、その割合には取扱がすこぶる冷淡である。自分はこの先生においていまだ情合(じょうあい)というものを認めた事がない。全く器械的にしゃべってる御爺(おじい)さんとしか思われなかった。
 けれどもこんな事があった。自分のいる下宿がはなはだ厭(いや)になったから、この先生の所へでも置いて貰おうかしらと思って、ある日例の稽古(けいこ)を済ましたあと、頼んで見ると、先生たちまち膝(ひざ)を敲(たた)いて、なるほど、僕のうちの部屋を見せるから、来たまえと云って、食堂から、下女部屋から、勝手から、一応すっかり引っ張り回して見せてくれた。固(もと)より四階裏の一隅(ひとすみ)だから広いはずはない。二三分かかると、見る所はなくなってしまった。先生はそこで、元の席へ帰って、君こういう家(うち)なんだから、どこへも置いて上げる訳には行かないよと断るかと思うと、たちまちワルト・ホイットマンの話を始めた。昔ホイットマンが来て自分の家へしばらく逗留(とうりゅう)していた事がある――非常に早口だから、よく分らなかったが、どうもホイットマンの方が来たらしい――で、始めあの人の詩を読んだ時はまるで物にならないような心持がしたが、何遍も読み過(すご)しているうちにだんだん面白くなって、しまいには非常に愛読するようになった。だから……
 書生に置いて貰う件は、まるでどこかへ飛んで行ってしまった。自分はただ成行(なりゆき)に任せてへえへえと云って聞いていた。何でもその時はシェレーが誰とかと喧嘩(けんか)をしたとか云う事を話して、喧嘩はよくない、僕は両方共好きなんだから、僕の好きな二人が喧嘩をするのははなはだよくないと故障を申し立てておられた。いくら故障を申し立てても、もう何十年か前に喧嘩をしてしまったのだから仕方がない。
 先生はそそっかしいから、自分の本などをよく置き違える。そうしてそれが見当(みあた)らないと、大いに焦(せ)きこんで、台所にいる婆さんを、ぼやでも起ったように、仰山(ぎょうさん)な声をして呼び立てる。すると例の婆さんが、これも仰山な顔をして客間へあらわれて来る。
「お、おれの『ウォーズウォース』はどこへやった」
 婆さんは依然として驚いた眼を皿のようにして一応書棚(しょだな)を見廻しているが、いくら驚いてもはなはだたしかなもので、すぐに、「ウォーズウォース」を見つけ出す。そうして、「ヒヤ、サー」と云って、いささかたしなめるように先生の前に突きつける。先生はそれを引ったくるように受け取って、二本の指で汚(きた)ない表紙をぴしゃぴしゃ敲(たた)きながら、君、ウォーズウォースが……とやり出す。婆さんは、ますます驚いた眼をして台所へ退(さが)って行く。先生は二分も三分も「ウォーズウォース」を敲いている。そうしてせっかく捜(さが)して貰った「ウォーズウォース」をついに開けずにしまう。
 先生は時々手紙を寄こす。その字がけっして読めない。もっとも二三行だから、何遍でも繰返(くりかえ)して見る時間はあるが、どうしたって判定はできない。先生から手紙がくれば差支(さしつかえ)があって稽古(けいこ)ができないと云うことと断定して始めから読む手数(てすう)を省(はぶ)くようにした。たまに驚いた婆さんが代筆をする事がある。その時ははなはだよく分る。先生は便利な書記を抱(かか)えたものである。先生は、自分に、どうも字が下手で困ると嘆息していられた。そうして君の方がよほど上手だと云われた。
 こう云う字で原稿を書いたら、どんなものができるか心配でならない。先生はアーデン・シェクスピヤの出版者である。よくあの字が活版に変形する資格があると思う。先生は、それでも平気に序文をかいたり、ノートをつけたりして済(すま)している。のみならず、この序文を見ろと云ってハムレットへつけた緒言(しょげん)を読まされた事がある。その次行って面白かったと云うと、君日本へ帰ったら是非この本を紹介してくれと依頼された。アーデン・シェクスピヤのハムレットは自分が帰朝後大学で講義をする時に非常な利益を受けた書物である。あのハムレットのノートほど周到にして要領を得たものはおそらくあるまいと思う。しかしその時はさほどにも感じなかった。しかし先生のシェクスピヤ研究にはその前から驚かされていた。
 客間を鍵(かぎ)の手(て)に曲ると六畳ほどな小さな書斎がある。先生が高く巣をくっているのは、実を云うと、この四階の角で、その角のまた角に先生にとっては大切な宝物がある。――長さ一尺五寸幅一尺ほどな青表紙の手帳を約十冊ばかり併(なら)べて、先生はまがな隙(すき)がな、紙片(かみぎれ)に書いた文句をこの青表紙の中へ書き込んでは、吝坊(けちんぼう)が穴の開(あ)いた銭(ぜに)を蓄(ため)るように、ぽつりぽつりと殖(ふ)やして行くのを一生の楽みにしている。この青表紙が沙翁字典(さおうじてん)の原稿であると云う事は、ここへ来出(きだ)してしばらく立つとすぐに知った。先生はこの字典を大成するために、ウェールスのさる大学の文学の椅子を抛(なげう)って、毎日ブリチッシ・ミュージアムへ通う暇をこしらえたのだそうである。大学の椅子さえ抛つくらいだから、七志(シルリング)の御弟子を疎末(そまつ)にするのは無理もない。先生の頭のなかにはこの字典が終日終夜槃桓磅□(ばんかんほうはく)しているのみである。
 先生、シュミッドの沙翁字彙(さおうじい)がある上にまだそんなものを作るんですかと聞いた事がある。すると先生はさも軽蔑(けいべつ)を禁じ得ざるような様子でこれを見たまえと云いながら、自己所有のシュミッドを出して見せた。見ると、さすがのシュミッドが前後二巻一頁として完膚(かんぷ)なきまで真黒になっている。自分はへえと云ったなり驚いてシュミッドを眺めていた。先生はすこぶる得意である。君、もしシュミッドと同程度のものを拵(こしら)えるくらいなら僕は何もこんなに骨を折りはしないさと云って、また二本の指を揃(そろ)えて真黒なシュミッドをぴしゃぴしゃ敲(たた)き始めた。
「全体いつ頃(ごろ)から、こんな事を御始めになったんですか」
 先生は立って向うの書棚(しょだな)へ行って、しきりに何か捜(さが)し出したが、また例の通り焦(じ)れったそうな声でジェーン、ジェーン、おれのダウデンはどうしたと、婆さんが出て来ないうちから、ダウデンの所在(ありか)を尋ねている。婆さんはまた驚いて出て来る。そうしてまた例のごとくヒヤ、サーと窘(たしな)めて帰って行くと、先生は婆さんの一拶(いっさつ)にはまるで頓着(とんじゃく)なく、餓(ひも)じそうに本を開けて、うんここにある。ダウデンがちゃんと僕の名をここへ挙(あ)げてくれている。特別に沙翁(さおう)を研究するクレイグ氏と書いてくれている。この本が千八百七十……年の出版で僕の研究はそれよりずっと前なんだから……自分は全く先生の辛抱に恐れ入った。ついでに、じゃいつ出来上るんですかと尋ねて見た。いつだか分るものか、死ぬまでやるだけの事さと先生はダウデンを元の所へ入れた。
 自分はその後(ご)しばらくして先生の所へ行かなくなった。行かなくなる少し前に、先生は日本の大学に西洋人の教授は要(い)らんかね。僕も若いと行くがなと云って、何となく無常を感じたような顔をしていられた。先生の顔にセンチメントの出たのはこの時だけである。自分はまだ若いじゃありませんかといって慰めたら、いやいやいつどんな事があるかも知れない。もう五十六だからと云って、妙に沈んでしまった。
 日本へ帰って二年ほどしたら、新着の文芸雑誌にクレイグ氏が死んだと云う記事が出た。沙翁(さおう)の専門学者であると云うことが、二三行書き加えてあっただけである。自分はその時雑誌を下へ置いて、あの字引はついに完成されずに、反故(ほご)になってしまったのかと考えた。




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