坊っちゃん
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:夏目漱石 

     三

 いよいよ学校へ出た。初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。生徒はやかましい。時々図抜(ずぬ)けた大きな声で先生と云(い)う。先生には応(こた)えた。今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥(うんでい)の差だ。何だか足の裏がむずむずする。おれは卑怯(ひきょう)な人間ではない。臆病(おくびょう)な男でもないが、惜(お)しい事に胆力(たんりょく)が欠けている。先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で午砲(どん)を聞いたような気がする。最初の一時間は何だかいい加減にやってしまった。しかし別段困った質問も掛(か)けられずに済んだ。控所(ひかえじょ)へ帰って来たら、山嵐がどうだいと聞いた。うんと単簡に返事をしたら山嵐は安心したらしかった。
 二時間目に白墨(はくぼく)を持って控所を出た時には何だか敵地へ乗り込(こ)むような気がした。教場へ出ると今度の組は前より大きな奴(やつ)ばかりである。おれは江戸(えど)っ子で華奢(きゃしゃ)に小作りに出来ているから、どうも高い所へ上がっても押(お)しが利かない。喧嘩(けんか)なら相撲取(すもうとり)とでもやってみせるが、こんな大僧(おおぞう)を四十人も前へ並(なら)べて、ただ一枚(まい)の舌をたたいて恐縮(きょうしゅく)させる手際はない。しかしこんな田舎者(いなかもの)に弱身を見せると癖(くせ)になると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった。最初のうちは、生徒も烟(けむ)に捲(ま)かれてぼんやりしていたから、それ見ろとますます得意になって、べらんめい調を用いてたら、一番前の列の真中(まんなか)に居た、一番強そうな奴が、いきなり起立して先生と云う。そら来たと思いながら、何だと聞いたら、「あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣(や)って、おくれんかな、もし」と云った。おくれんかな、もしは生温(なまぬ)るい言葉だ。早過ぎるなら、ゆっくり云ってやるが、おれは江戸っ子だから君等(きみら)の言葉は使えない、分(わか)らなければ、分るまで待ってるがいいと答えてやった。この調子で二時間目は思ったより、うまく行った。ただ帰りがけに生徒の一人がちょっとこの問題を解釈をしておくれんかな、もし、と出来そうもない幾何(きか)の問題を持って逼(せま)ったには冷汗(ひやあせ)を流した。仕方がないから何だか分らない、この次教えてやると急いで引き揚(あ)げたら、生徒がわあと囃(はや)した。その中に出来ん出来んと云う声が聞(きこ)える。箆棒(べらぼう)め、先生だって、出来ないのは当り前だ。出来ないのを出来ないと云うのに不思議があるもんか。そんなものが出来るくらいなら四十円でこんな田舎へくるもんかと控所へ帰って来た。今度はどうだとまた山嵐が聞いた。うんと云ったが、うんだけでは気が済まなかったから、この学校の生徒は分らずやだなと云ってやった。山嵐は妙(みょう)な顔をしていた。
 三時間目も、四時間目も昼過ぎの一時間も大同小異であった。最初の日に出た級は、いずれも少々ずつ失敗した。教師ははたで見るほど楽じゃないと思った。授業はひと通り済んだが、まだ帰れない、三時までぽつ然(ねん)として待ってなくてはならん。三時になると、受持級の生徒が自分の教室を掃除(そうじ)して報知(しらせ)にくるから検分をするんだそうだ。それから、出席簿(しゅっせきぼ)を一応調べてようやくお暇(ひま)が出る。いくら月給で買われた身体(からだ)だって、あいた時間まで学校へ縛(しば)りつけて机と睨(にら)めっくらをさせるなんて法があるものか。しかしほかの連中はみんな大人(おとな)しくご規則通りやってるから新参のおればかり、だだを捏(こ)ねるのもよろしくないと思って我慢(がまん)していた。帰りがけに、君何でもかんでも三時過(すぎ)まで学校にいさせるのは愚(おろか)だぜと山嵐に訴えたら、山嵐はそうさアハハハと笑ったが、あとから真面目(まじめ)になって、君あまり学校の不平を云うと、いかんぜ。云うなら僕(ぼく)だけに話せ、随分(ずいぶん)妙な人も居るからなと忠告がましい事を云った。四つ角で分れたから詳(くわ)しい事は聞くひまがなかった。
 それからうちへ帰ってくると、宿の亭主(ていしゅ)がお茶を入れましょうと云ってやって来る。お茶を入れると云うからご馳走(ちそう)をするのかと思うと、おれの茶を遠慮(えんりょ)なく入れて自分が飲むのだ。この様子では留守中(るすちゅう)も勝手にお茶を入れましょうを一人(ひとり)で履行(りこう)しているかも知れない。亭主が云うには手前は書画骨董(しょがこっとう)がすきで、とうとうこんな商買を内々で始めるようになりました。あなたもお見受け申すところ大分ご風流でいらっしゃるらしい。ちと道楽にお始めなすってはいかがですと、飛んでもない勧誘(かんゆう)をやる。二年前ある人の使(つかい)に帝国(ていこく)ホテルへ行った時は錠前(じょうまえ)直しと間違(まちが)えられた事がある。ケットを被(かぶ)って、鎌倉(かまくら)の大仏を見物した時は車屋から親方と云われた。その外今日(こんにち)まで見損(みそくな)われた事は随分あるが、まだおれをつらまえて大分ご風流でいらっしゃると云ったものはない。大抵(たいてい)はなりや様子でも分る。風流人なんていうものは、画(え)を見ても、頭巾(ずきん)を被(かぶ)るか短冊(たんざく)を持ってるものだ。このおれを風流人だなどと真面目に云うのはただの曲者(くせもの)じゃない。おれはそんな呑気(のんき)な隠居(いんきょ)のやるような事は嫌(きら)いだと云ったら、亭主はへへへへと笑いながら、いえ始めから好きなものは、どなたもございませんが、いったんこの道にはいるとなかなか出られませんと一人で茶を注いで妙な手付(てつき)をして飲んでいる。実はゆうべ茶を買ってくれと頼(たの)んでおいたのだが、こんな苦い濃(こ)い茶はいやだ。一杯(ぱい)飲むと胃に答えるような気がする。今度からもっと苦くないのを買ってくれと云ったら、かしこまりましたとまた一杯しぼって飲んだ。人の茶だと思って無暗(むやみ)に飲む奴(やつ)だ。主人が引き下がってから、明日の下読(したよみ)をしてすぐ寝(ね)てしまった。
 それから毎日毎日学校へ出ては規則通り働く、毎日毎日帰って来ると主人がお茶を入れましょうと出てくる。一週間ばかりしたら学校の様子もひと通りは飲み込めたし、宿の夫婦の人物も大概(たいがい)は分った。ほかの教師に聞いてみると辞令を受けて一週間から一ヶ月ぐらいの間は自分の評判がいいだろうか、悪(わ)るいだろうか非常に気に掛(か)かるそうであるが、おれは一向そんな感じはなかった。教場で折々しくじるとその時だけはやな心持ちだが三十分ばかり立つと奇麗(きれい)に消えてしまう。おれは何事によらず長く心配しようと思っても心配が出来ない男だ。教場のしくじりが生徒にどんな影響(えいきょう)を与(あた)えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を呈(てい)するかまるで無頓着(むとんじゃく)であった。おれは前に云う通りあまり度胸の据(すわ)った男ではないのだが、思い切りはすこぶるいい人間である。この学校がいけなければすぐどっかへ行(ゆ)く覚悟(かくご)でいたから、狸(たぬき)も赤シャツも、ちっとも恐(おそろ)しくはなかった。まして教場の小僧(こぞう)共なんかには愛嬌(あいきょう)もお世辞も使う気になれなかった。学校はそれでいいのだが下宿の方はそうはいかなかった。亭主が茶を飲みに来るだけなら我慢もするが、いろいろな者を持ってくる。始めに持って来たのは何でも印材で、十(とお)ばかり並(なら)べておいて、みんなで三円なら安い物だお買いなさいと云う。田舎巡(いなかまわ)りのヘボ絵師じゃあるまいし、そんなものは入らないと云ったら、今度は華山(かざん)とか何とか云う男の花鳥の掛物(かけもの)をもって来た。自分で床(とこ)の間(ま)へかけて、いい出来じゃありませんかと云うから、そうかなと好加減(いいかげん)に挨拶(あいさつ)をすると、華山には二人(ふたり)ある、一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この幅(ふく)はその何とか華山の方だと、くだらない講釈をしたあとで、どうです、あなたなら十五円にしておきます。お買いなさいと催促(さいそく)をする。金がないと断わると、金なんか、いつでもようございますとなかなか頑固(がんこ)だ。金があつても買わないんだと、その時は追っ払(ぱら)っちまった。その次には鬼瓦(おにがわら)ぐらいな大硯(おおすずり)を担ぎ込んだ。これは端渓(たんけい)です、端渓ですと二遍(へん)も三遍も端渓がるから、面白半分に端渓た何だいと聞いたら、すぐ講釈を始め出した。端渓には上層中層下層とあって、今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、この眼(がん)をご覧なさい。眼が三つあるのは珍(めず)らしい。溌墨(はつぼく)の具合も至極よろしい、試してご覧なさいと、おれの前へ大きな硯を突(つ)きつける。いくらだと聞くと、持主が支那(しな)から持って帰って来て是非売りたいと云いますから、お安くして三十円にしておきましょうと云う。この男は馬鹿(ばか)に相違(そうい)ない。学校の方はどうかこうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責(こっとうぜめ)に逢(あ)ってはとても長く続きそうにない。
 そのうち学校もいやになった。  ある日の晩大町(おおまち)と云う所を散歩していたら郵便局の隣(とな)りに蕎麦(そば)とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。おれは蕎麦が大好きである。東京に居(お)った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香(にお)いをかぐと、どうしても暖簾(のれん)がくぐりたくなった。今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。ついでだから一杯食って行こうと思って上がり込んだ。見ると看板ほどでもない。東京と断(こと)わる以上はもう少し奇麗にしそうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、滅法(めっぽう)きたない。畳(たたみ)は色が変ってお負けに砂でざらざらしている。壁(かべ)は煤(すす)で真黒(まっくろ)だ。天井(てんじょう)はランプの油烟(ゆえん)で燻(くす)ぼってるのみか、低くって、思わず首を縮めるくらいだ。ただ麗々と蕎麦の名前をかいて張り付けたねだん付けだけは全く新しい。何でも古いうちを買って二三日(にさんち)前から開業したに違(ちが)いなかろう。ねだん付の第一号に天麩羅(てんぷら)とある。おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。するとこの時まで隅(すみ)の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食ってた連中(れんじゅう)が、ひとしくおれの方を見た。部屋(へや)が暗いので、ちょっと気がつかなかったが顔を合せると、みんな学校の生徒である。先方で挨拶(あいさつ)をしたから、おれも挨拶をした。その晩は久(ひさ)し振(ぶり)に蕎麦を食ったので、旨(うま)かったから天麩羅を四杯平(たいら)げた。
 翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顔を見てみんなわあと笑った。おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ可笑(おか)しいかと聞いた。すると生徒の一人(ひとり)が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。十分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯なり。但(ただ)し笑うべからず。と黒板にかいてある。さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪(しゃく)に障(さわ)った。冗談(じょうだん)も度を過ごせばいたずらだ。焼餅(やきもち)の黒焦(くろこげ)のようなもので誰(だれ)も賞(ほ)め手はない。田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押(お)して行っても構わないと云う了見(りょうけん)だろう。一時間あるくと見物する町もないような狭(せま)い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露(にちろ)戦争のように触(ふ)れちらかすんだろう。憐(あわ)れな奴等(やつら)だ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢(うえきばち)の楓(かえで)みたような小人(しょうじん)が出来るんだ。無邪気(むじゃき)ならいっしょに笑ってもいいが、こりゃなんだ。小供の癖(くせ)に乙(おつ)に毒気を持ってる。おれはだまって、天麩羅を消して、こんないたずらが面白いか、卑怯(ひきょう)な冗談だ。君等は卑怯と云う意味を知ってるか、と云ったら、自分がした事を笑われて怒(おこ)るのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。やな奴だ。わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思ったら情なくなった。余計な減らず口を利かないで勉強しろと云って、授業を始めてしまった。それから次の教場へ出たら天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなりと書いてある。どうも始末に終えない。あんまり腹が立ったから、そんな生意気な奴は教えないと云ってすたすた帰って来てやった。生徒は休みになって喜んだそうだ。こうなると学校より骨董の方がまだましだ。
 天麩羅蕎麦もうちへ帰って、一晩寝たらそんなに肝癪(かんしゃく)に障らなくなった。学校へ出てみると、生徒も出ている。何だか訳が分らない。それから三日ばかりは無事であったが、四日目の晩に住田(すみた)と云う所へ行って団子(だんご)を食った。この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓(ゆうかく)がある。おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。今度は生徒にも逢わなかったから、誰(だれ)も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二皿(さら)七銭と書いてある。実際おれは二皿食って七銭払(はら)った。どうも厄介(やっかい)な奴等だ。二時間目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。あきれ返った奴等だ。団子がそれで済んだと思ったら今度は赤手拭(あかてぬぐい)と云うのが評判になった。何の事だと思ったら、つまらない来歴だ。おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極(き)めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及(およ)ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛(でかけ)る。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。この手拭が湯に染(そま)った上へ、赤い縞(しま)が流れ出したのでちょっと見ると紅色(べにいろ)に見える。おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云うんだそうだ。どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。まだある。温泉は三階の新築で上等は浴衣(ゆかた)をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目(てんもく)へ茶を載(の)せて出す。おれはいつでも上等へはいった。すると四十円の月給で毎日上等へはいるのは贅沢(ぜいたく)だと云い出した。余計なお世話だ。まだある。湯壺(ゆつぼ)は花崗石(みかげいし)を畳(たた)み上げて、十五畳敷(じょうじき)ぐらいの広さに仕切ってある。大抵(たいてい)は十三四人漬(つか)ってるがたまには誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快(ゆかい)だ。おれは人の居ないのを見済(みすま)しては十五畳の湯壺を泳ぎ巡(まわ)って喜んでいた。ところがある日三階から威勢(いせい)よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗(のぞ)いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼(は)りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札(はりふだ)はおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは断念した。泳ぐのは断念したが、学校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚(おど)ろいた。何だか生徒全体がおれ一人を探偵(たんてい)しているように思われた。くさくさした。生徒が何を云ったって、やろうと思った事をやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえるような所へ来たのかと思うと情なくなった。それでうちへ帰ると相変らず骨董責である。

     四

 学校には宿直があって、職員が代る代るこれをつとめる。但(ただ)し狸(たぬき)と赤シャツは例外である。何でこの両人が当然の義務を免(まぬ)かれるのかと聞いてみたら、奏任待遇(そうにんたいぐう)だからと云う。面白くもない。月給はたくさんとる、時間は少ない、それで宿直を逃(の)がれるなんて不公平があるものか。勝手な規則をこしらえて、それが当(あた)り前(まえ)だというような顔をしている。よくまああんなにずうずうしく出来るものだ。これについては大分不平であるが、山嵐(やまあらし)の説によると、いくら一人(ひとり)で不平を並(なら)べたって通るものじゃないそうだ。一人だって二人(ふたり)だって正しい事なら通りそうなものだ。山嵐は might is right という英語を引いて説諭(せつゆ)を加えたが、何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の権利と云う意味だそうだ。強者の権利ぐらいなら昔(むかし)から知っている。今さら山嵐から講釈をきかなくってもいい。強者の権利と宿直とは別問題だ。狸や赤シャツが強者だなんて、誰(だれ)が承知するものか。議論は議論としてこの宿直がいよいよおれの番に廻(まわ)って来た。一体疳性(かんしょう)だから夜具蒲団(やぐふとん)などは自分のものへ楽に寝ないと寝たような心持ちがしない。小供の時から、友達のうちへ泊(とま)った事はほとんどないくらいだ。友達のうちでさえ厭(いや)なら学校の宿直はなおさら厭だ。厭だけれども、これが四十円のうちへ籠(こも)っているなら仕方がない。我慢(がまん)して勤めてやろう。
 教師も生徒も帰ってしまったあとで、一人ぽかんとしているのは随分(ずいぶん)間が抜(ぬ)けたものだ。宿直部屋は教場の裏手にある寄宿舎の西はずれの一室だ。ちょっとはいってみたが、西日をまともに受けて、苦しくって居たたまれない。田舎(いなか)だけあって秋がきても、気長に暑いもんだ。生徒の賄(まかない)を取りよせて晩飯を済ましたが、まずいには恐(おそ)れ入(い)った。よくあんなものを食って、あれだけに暴れられたもんだ。それで晩飯を急いで四時半に片付けてしまうんだから豪傑(ごうけつ)に違(ちが)いない。飯は食ったが、まだ日が暮(く)れないから寝(ね)る訳に行かない。ちょっと温泉に行きたくなった。宿直をして、外へ出るのはいい事だか、悪(わ)るい事だかしらないが、こうつくねんとして重禁錮(じゅうきんこ)同様な憂目(うきめ)に逢(あ)うのは我慢の出来るもんじゃない。始めて学校へ来た時当直の人はと聞いたら、ちょっと用達(ようたし)に出たと小使(こづかい)が答えたのを妙(みょう)だと思ったが、自分に番が廻(まわ)ってみると思い当る。出る方が正しいのだ。おれは小使にちょっと出てくると云ったら、何かご用ですかと聞くから、用じゃない、温泉へはいるんだと答えて、さっさと出掛(でか)けた。赤手拭(あかてぬぐい)は宿へ忘れて来たのが残念だが今日は先方で借りるとしよう。
 それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく日暮方(ひぐれがた)になったから、汽車へ乗って古町(こまち)の停車場(ていしゃば)まで来て下りた。学校まではこれから四丁だ。訳はないとあるき出すと、向うから狸が来た。狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだろう。すたすた急ぎ足にやってきたが、擦(す)れ違(ちが)った時おれの顔を見たから、ちょっと挨拶(あいさつ)をした。すると狸はあなたは今日は宿直ではなかったですかねえと真面目(まじめ)くさって聞いた。なかったですかねえもないもんだ。二時間前おれに向って今夜は始めての宿直ですね。ご苦労さま。と礼を云ったじゃないか。校長なんかになるといやに曲りくねった言葉を使うもんだ。おれは腹が立ったから、ええ宿直です。宿直ですから、これから帰って泊る事はたしかに泊りますと云い捨てて済ましてあるき出した。竪町(たてまち)の四つ角までくると今度は山嵐(やまあらし)に出っ喰(く)わした。どうも狭(せま)い所だ。出てあるきさえすれば必ず誰かに逢う。「おい君は宿直じゃないか」と聞くから「うん、宿直だ」と答えたら、「宿直が無暗(むやみ)に出てあるくなんて、不都合(ふつごう)じゃないか」と云った。「ちっとも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ」と威張(いば)ってみせた。「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢うと面倒(めんどう)だぜ」と山嵐に似合わない事を云うから「校長にはたった今逢った。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨でしょうと校長が、おれの散歩をほめたよ」と云って、面倒臭(くさ)いから、さっさと学校へ帰って来た。
 それから日はすぐくれる。くれてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽(あ)きたから、寝られないまでも床(とこ)へはいろうと思って、寝巻に着換(きが)えて、蚊帳(かや)を捲(ま)くって、赤い毛布(けっと)を跳(は)ねのけて、とんと尻持(しりもち)を突(つ)いて、仰向(あおむ)けになった。おれが寝るときにとんと尻持をつくのは小供の時からの癖(くせ)だ。わるい癖だと云って小川町(おがわまち)の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込(こ)んだ事がある。法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、愚(ぐ)な事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない。下宿の建築が粗末(そまつ)なんだ。掛(か)ケ合うなら下宿へ掛ケ合えと凹(へこ)ましてやった。この宿直部屋は二階じゃないから、いくら、どしんと倒(たお)れても構わない。なるべく勢(いきおい)よく倒れないと寝たような心持ちがしない。ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた。ざらざらして蚤(のみ)のようでもないからこいつあと驚(おど)ろいて、足を二三度毛布(けっと)の中で振(ふ)ってみた。するとざらざらと当ったものが、急に殖(ふ)え出して脛(すね)が五六カ所、股(もも)が二三カ所、尻の下でぐちゃりと踏(ふ)み潰(つぶ)したのが一つ、臍(へそ)の所まで飛び上がったのが一つ――いよいよ驚ろいた。早速(さっそく)起き上(あが)って、毛布(けっと)をぱっと後ろへ抛(ほう)ると、蒲団の中から、バッタが五六十飛び出した。正体の知れない時は多少気味が悪(わ)るかったが、バッタと相場が極(き)まってみたら急に腹が立った。バッタの癖に人を驚ろかしやがって、どうするか見ろと、いきなり括(くく)り枕(まくら)を取って、二三度擲(たた)きつけたが、相手が小さ過ぎるから勢よく抛(な)げつける割に利目(ききめ)がない。仕方がないから、また布団の上へ坐(すわ)って、煤掃(すすはき)の時に蓙(ござ)を丸めて畳(たたみ)を叩(たた)くように、そこら近辺を無暗にたたいた。バッタが驚ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、おれの肩(かた)だの、頭だの鼻の先だのへくっ付いたり、ぶつかったりする。顔へ付いた奴(やつ)は枕で叩く訳に行かないから、手で攫(つか)んで、一生懸命に擲きつける。忌々(いまいま)しい事に、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動くだけで少しも手答がない。バッタは擲きつけられたまま蚊帳へつらまっている。死にもどうもしない。ようやくの事に三十分ばかりでバッタは退治(たいじ)た。箒(ほうき)を持って来てバッタの死骸(しがい)を掃き出した。小使が来て何ですかと云うから、何ですかもあるもんか、バッタを床の中に飼(か)っとく奴がどこの国にある。間抜(まぬけ)め。と叱(しか)ったら、私は存じませんと弁解をした。存じませんで済むかと箒を椽側(えんがわ)へ抛(ほう)り出したら、小使は恐る恐る箒を担いで帰って行った。
 おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。すると六人出て来た。六人だろうが十人だろうが構うものか。寝巻のまま腕(うで)まくりをして談判を始めた。
「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と真先(まっさき)の一人がいった。やに落ち付いていやがる。この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」と云ったが、生憎(あいにく)掃き出してしまって一匹(ぴき)も居ない。また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら、「もう掃溜(はきだめ)へ棄(す)ててしまいましたが、拾って参りましょうか」と聞いた。「うんすぐ拾って来い」と云うと小使は急いで馳(か)け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり載(の)せて来て「どうもお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」と云う。小使まで馬鹿(ばか)だ。おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣(や)り込(こ)めた。「篦棒(べらぼう)め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕(つら)まえてなもした何だ。菜飯(なめし)は田楽(でんがく)の時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。いつまで行ってもなもしを使う奴だ。
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼(たの)んだ」
「誰も入れやせんがな」
「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
「イナゴは温(ぬく)い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」
 けちな奴等(やつら)だ。自分で自分のした事が云えないくらいなら、てんでしないがいい。証拠(しょうこ)さえ挙がらなければ、しらを切るつもりで図太く構えていやがる。おれだって中学に居た時分は少しはいたずらもしたもんだ。しかしだれがしたと聞かれた時に、尻込みをするような卑怯(ひきょう)な事はただの一度もなかった。したものはしたので、しないものはしないに極(きま)ってる。おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。嘘を吐(つ)いて罰(ばつ)を逃(に)げるくらいなら、始めからいたずらなんかやるものか。いたずらと罰はつきもんだ。罰があるからいたずらも心持ちよく出来る。いたずらだけで罰はご免蒙(めんこうむ)るなんて下劣(げれつ)な根性がどこの国に流行(はや)ると思ってるんだ。金は借りるが、返す事はご免だと云う連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違(そうい)ない。全体中学校へ何しにはいってるんだ。学校へはいって、嘘を吐いて、胡魔化(ごまか)して、陰(かげ)でこせこせ生意気な悪いたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと癇違(かんちが)いをしていやがる。話せない雑兵(ぞうひょう)だ。
 おれはこんな腐(くさ)った了見(りょうけん)の奴等と談判するのは胸糞(むなくそ)が悪(わ)るいから、「そんなに云われなきゃ、聞かなくっていい。中学校へはいって、上品も下品も区別が出来ないのは気の毒なものだ」と云って六人を逐(お)っ放(ぱな)してやった。おれは言葉や様子こそあまり上品じゃないが、心はこいつらよりも遥(はる)かに上品なつもりだ。六人は悠々(ゆうゆう)と引き揚(あ)げた。上部(うわべ)だけは教師のおれよりよっぽどえらく見える。実は落ち付いているだけなお悪るい。おれには到底(とうてい)これほどの度胸はない。
 それからまた床へはいって横になったら、さっきの騒動(そうどう)で蚊帳の中はぶんぶん唸(うな)っている。手燭(てしょく)をつけて一匹ずつ焼くなんて面倒な事は出来ないから、釣手(つりて)をはずして、長く畳(たた)んでおいて部屋の中で横竪(よこたて)十文字に振(ふる)ったら、環(かん)が飛んで手の甲(こう)をいやというほど撲(ぶ)った。三度目に床へはいった時は少々落ち付いたがなかなか寝られない。時計を見ると十時半だ。考えてみると厄介な所へ来たもんだ。一体中学の先生なんて、どこへ行っても、こんなものを相手にするなら気の毒なものだ。よく先生が品切れにならない。よっぽど辛防(しんぼう)強い朴念仁(ぼくねんじん)がなるんだろう。おれには到底やり切れない。それを思うと清(きよ)なんてのは見上げたものだ。教育もない身分もない婆(ばあ)さんだが、人間としてはすこぶる尊(たっ)とい。今まではあんなに世話になって別段難有(ありがた)いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。越後(えちご)の笹飴(ささあめ)が食いたければ、わざわざ越後まで買いに行って食わしてやっても、食わせるだけの価値は充分(じゅうぶん)ある。清はおれの事を欲がなくって、真直(まっすぐ)な気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢いたくなった。
 清の事を考えながら、のつそつしていると、突然(とつぜん)おれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子(ひょうし)を取って床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大きな鬨(とき)の声が起(おこ)った。おれは何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起きた。飛び起きる途端(とたん)に、ははあさっきの意趣返(いしゅがえ)しに生徒があばれるのだなと気がついた。手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうちは罪は消えないもんだ。わるい事は、手前達に覚(おぼえ)があるだろう。本来なら寝てから後悔(こうかい)してあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。たとい、あやまらないまでも恐れ入って、静粛(せいしゅく)に寝ているべきだ。それを何だこの騒(さわ)ぎは。寄宿舎を建てて豚(ぶた)でも飼っておきあしまいし。気狂(きちが)いじみた真似(まね)も大抵(たいてい)にするがいい。どうするか見ろと、寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、楷子段(はしごだん)を三股半(みまたはん)に二階まで躍(おど)り上がった。すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れていたのが、急に静まり返って、人声どころか足音もしなくなった。これは妙だ。ランプはすでに消してあるから、暗くてどこに何が居るか判然と分(わか)らないが、人気(ひとけ)のあるとないとは様子でも知れる。長く東から西へ貫(つらぬ)いた廊下(ろうか)には鼠(ねずみ)一匹(ぴき)も隠(かく)れていない。廊下のはずれから月がさして、遥か向うが際どく明るい。どうも変だ、おれは小供の時から、よく夢(ゆめ)を見る癖があって、夢中(むちゅう)に跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑われた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢(いきおい)で尋(たず)ねたくらいだ。その時は三日ばかりうち中(じゅう)の笑い草になって大いに弱った。ことによると今のも夢かも知れない。しかしたしかにあばれたに違いないがと、廊下の真中(まんなか)で考え込んでいると、月のさしている向うのはずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまって響(ひび)いたかと思う間もなく、前のように拍子を取って、一同が床板(ゆかいた)を踏み鳴らした。それ見ろ夢じゃないやっぱり事実だ。静かにしろ、夜なかだぞ、とこっちも負けんくらいな声を出して、廊下を向うへ馳(か)けだした。おれの通る路(みち)は暗い、ただはずれに見える月あかりが目標(めじるし)だ。おれが馳け出して二間も来たかと思うと、廊下の真中で、堅(かた)い大きなものに向脛(むこうずね)をぶつけて、あ痛いが頭へひびく間に、身体はすとんと前へ抛(ほう)り出された。こん畜生(ちきしょう)と起き上がってみたが、馳けられない。気はせくが、足だけは云う事を利かない。じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、森(しん)としている。いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。まるで豚だ。こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を極(き)めて寝室(しんしつ)の一つを開けて中を検査しようと思ったが開かない。錠(じょう)をかけてあるのか、机か何か積んで立て懸(か)けてあるのか、押(お)しても、押しても決して開かない。今度は向う合せの北側の室(へや)を試みた。開かない事はやっぱり同然である。おれが戸を開けて中に居る奴を引っ捕(つ)らまえてやろうと、焦慮(いらっ)てると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が始まった。この野郎(やろう)申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか分らない。正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に智慧(ちえ)が足りない。こんな時にはどうしていいかさっぱりわからない。わからないけれども、決して負けるつもりはない。このままに済ましてはおれの顔にかかわる。江戸(えど)っ子は意気地(いくじ)がないと云われるのは残念だ。宿直をして鼻垂(はなった)れ小僧(こぞう)にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本(はたもと)だ。旗本の元は清和源氏(せいわげんじ)で、多田(ただ)の満仲(まんじゅう)の後裔(こうえい)だ。こんな土百姓(どびゃくしょう)とは生まれからして違うんだ。ただ智慧のないところが惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る。おれはこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待っていた。蚊がぶんぶん来たけれども何ともなかった。さっき、ぶつけた向脛を撫(な)でてみると、何だかぬらぬらする。血が出るんだろう。血なんか出たければ勝手に出るがいい。そのうち最前からの疲(つか)れが出て、ついうとうと寝てしまった。何だか騒がしいので、眼(め)が覚めた時はえっ糞(くそ)しまったと飛び上がった。おれの坐(すわ)ってた右側にある戸が半分あいて、生徒が二人、おれの前に立っている。おれは正気に返って、はっと思う途端に、おれの鼻の先にある生徒の足を引(ひ)っ攫(つか)んで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと仰向(あおむけ)に倒れた。ざまを見ろ。残る一人がちょっと狼狽(ろうばい)したところを、飛びかかって、肩を抑(おさ)えて二三度こづき廻したら、あっけに取られて、眼をぱちぱちさせた。さあおれの部屋まで来いと引っ立てると、弱虫だと見えて、一も二もなく尾(つ)いて来た。夜(よ)はとうにあけている。
 おれが宿直部屋へ連れてきた奴を詰問(きつもん)し始めると、豚は、打(ぶ)っても擲いても豚だから、ただ知らんがなで、どこまでも通す了見と見えて、けっして白状しない。そのうち一人来る、二人来る、だんだん二階から宿直部屋へ集まってくる。見るとみんな眠(ねむ)そうに瞼(まぶた)をはらしている。けちな奴等だ。一晩ぐらい寝ないで、そんな面をして男と云われるか。面でも洗って議論に来いと云ってやったが、誰も面を洗いに行かない。
 おれは五十人あまりを相手に約一時間ばかり押問答(おしもんどう)をしていると、ひょっくり狸がやって来た。あとから聞いたら、小使が学校に騒動がありますって、わざわざ知らせに行ったのだそうだ。これしきの事に、校長を呼ぶなんて意気地がなさ過ぎる。それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ。
 校長はひと通りおれの説明を聞いた。生徒の言草(いいぐさ)もちょっと聞いた。追って処分するまでは、今まで通り学校へ出ろ。早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間に間に合わないから、早くしろと云って寄宿生をみんな放免(ほうめん)した。手温(てぬ)るい事だ。おれなら即席(そくせき)に寄宿生をことごとく退校してしまう。こんな悠長(ゆうちょう)な事をするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。その上おれに向って、あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日はご授業に及(およ)ばんと云うから、おれはこう答えた。「いえ、ちっとも心配じゃありません。こんな事が毎晩あっても、命のある間は心配にゃなりません。授業はやります、一晩ぐらい寝なくって、授業が出来ないくらいなら、頂戴(ちょうだい)した月給を学校の方へ割戻(わりもど)します」校長は何と思ったものか、しばらくおれの顔を見つめていたが、しかし顔が大分はれていますよと注意した。なるほど何だか少々重たい気がする。その上べた一面痒(かゆ)い。蚊がよっぽと刺(さ)したに相違ない。おれは顔中ぼりぼり掻(か)きながら、顔はいくら膨(は)れたって、口はたしかにきけますから、授業には差し支(つか)えませんと答えた。校長は笑いながら、大分元気ですねと賞(ほ)めた。実を云うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。

     五

 君釣(つ)りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味の悪(わ)るいように優しい声を出す男である。まるで男だか女だか分(わか)りゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。
 おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、小梅(こうめ)の釣堀(つりぼり)で鮒(ふな)を三匹(びき)釣った事がある。それから神楽坂(かぐらざか)の毘沙門(びしゃもん)の縁日(えんにち)で八寸ばかりの鯉(こい)を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えても惜(お)しいと云(い)ったら、赤シャツは顋(あご)を前の方へ突(つ)き出してホホホホと笑った。何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。「それじゃ、まだ釣りの味は分らんですな。お望みならちと伝授しましょう」とすこぶる得意である。だれがご伝授をうけるものか。一体釣や猟(りょう)をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、殺生(せっしょう)をして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽に極(き)まってる。釣や猟をしなくっちゃ活計(かっけい)がたたないなら格別だが、何不足なく暮(くら)している上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなんて贅沢(ぜいたく)な話だ。こう思ったが向(むこ)うは文学士だけに口が達者だから、議論じゃ叶(かな)わないと思って、だまってた。すると先生このおれを降参させたと疳違(かんちが)いして、早速伝授しましょう。おひまなら、今日どうです、いっしょに行っちゃ。吉川(よしかわ)君と二人(ふたり)ぎりじゃ、淋(さむ)しいから、来たまえとしきりに勧める。吉川君というのは画学の教師で例の野だいこの事だ。この野だは、どういう了見(りょうけん)だか、赤シャツのうちへ朝夕出入(でいり)して、どこへでも随行(ずいこう)して行(ゆ)く。まるで同輩(どうはい)じゃない。主従(しゅうじゅう)みたようだ。赤シャツの行く所なら、野だは必ず行くに極(きま)っているんだから、今さら驚(おど)ろきもしないが、二人で行けば済むところを、なんで無愛想(ぶあいそ)のおれへ口を掛(か)けたんだろう。大方高慢(こうまん)ちきな釣道楽で、自分の釣るところをおれに見せびらかすつもりかなんかで誘(さそ)ったに違いない。そんな事で見せびらかされるおれじゃない。鮪(まぐろ)の二匹や三匹釣ったって、びくともするもんか。おれだって人間だ、いくら下手(へた)だって糸さえ卸(おろ)しゃ、何かかかるだろう、ここでおれが行かないと、赤シャツの事だから、下手だから行かないんだ、嫌(きら)いだから行かないんじゃないと邪推(じゃすい)するに相違(そうい)ない。おれはこう考えたから、行きましょうと答えた。それから、学校をしまって、一応うちへ帰って、支度(したく)を整えて、停車場で赤シャツと野だを待ち合せて浜(はま)へ行った。船頭は一人(ひとり)で、船(ふね)は細長い東京辺では見た事もない恰好(かっこう)である。さっきから船中見渡(みわた)すが釣竿(つりざお)が一本も見えない。釣竿なしで釣が出来るものか、どうする了見だろうと、野だに聞くと、沖釣(おきづり)には竿は用いません、糸だけでげすと顋を撫(な)でて黒人(くろうと)じみた事を云った。こう遣(や)り込(こ)められるくらいならだまっていればよかった。
 船頭はゆっくりゆっくり漕(こ)いでいるが熟練は恐(おそろ)しいもので、見返(みか)えると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。高柏寺(こうはくじ)の五重の塔(とう)が森の上へ抜(ぬ)け出して針のように尖(とん)がってる。向側(むこうがわ)を見ると青嶋(あおしま)が浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松(まつ)ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望(ちょうぼう)していい景色だと云ってる。野だは絶景でげすと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹(ふ)かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松を見たまえ、幹が真直(まっすぐ)で、上が傘(かさ)のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙(だま)っていた。舟は島を右に見てぐるりと廻(まわ)った。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平(たいら)だ。赤シャツのお陰(かげ)ではなはだ愉快(ゆかい)だ。出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議(ほつぎ)をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々(われわれ)はこれからそう云おうと賛成した。この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑(めいわく)だ。おれには青嶋でたくさんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい笑い方をした。なに誰も居ないから大丈夫(だいじょうぶ)ですと、ちょっとおれの方を見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。おれは何だかやな心持ちがした。マドンナだろうが、小旦那(こだんな)だろうが、おれの関係した事でないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分らない事を言って分らないから聞いたって構やしませんてえような風をする。下品な仕草だ。これで当人は私(わたし)も江戸(えど)っ子でげすなどと云ってる。マドンナと云うのは何でも赤シャツの馴染(なじみ)の芸者の渾名(あだな)か何かに違いないと思った。なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たして眺(なが)めていれば世話はない。それを野だが油絵にでもかいて展覧会へ出したらよかろう。
 ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、錨(いかり)を卸した。幾尋(いくひろ)あるかねと赤シャツが聞くと、六尋(むひろ)ぐらいだと云う。六尋ぐらいじゃ鯛(たい)はむずかしいなと、赤シャツは糸を海へなげ込んだ。大将鯛を釣る気と見える、豪胆(ごうたん)なものだ。野だは、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。それになぎですからとお世辞を云いながら、これも糸を繰(く)り出して投げ入れる。何だか先に錘(おもり)のような鉛(なまり)がぶら下がってるだけだ。浮(うき)がない。浮がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるようなものだ。おれには到底(とうてい)出来ないと見ていると、さあ君もやりたまえ糸はありますかと聞く。糸はあまるほどあるが、浮がありませんと云ったら、浮がなくっちゃ釣が出来ないのは素人(しろうと)ですよ。こうしてね、糸が水底(みずそこ)へついた時分に、船縁(ふなべり)の所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食うとすぐ手に答える。――そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思ったら何にもかからない、餌(え)がなくなってたばかりだ。いい気味(きび)だ。教頭、残念な事をしましたね、今のはたしかに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお手際でさえ逃(に)げられちゃ、今日は油断ができませんよ。しかし逃げられても何ですね。浮と睨(にら)めくらをしている連中よりはましですね。ちょうど歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは妙(みよう)な事ばかり喋舌(しゃべ)る。よっぽど撲(なぐ)りつけてやろうかと思った。おれだって人間だ、教頭ひとりで借り切った海じゃあるまいし。広い所だ。鰹(かつお)の一匹ぐらい義理にだって、かかってくれるだろうと、どぼんと錘と糸を抛(ほう)り込んでいい加減に指の先であやつっていた。
 しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。おれは考えた。こいつは魚に相違ない。生きてるものでなくっちゃ、こうぴくつく訳がない。しめた、釣れたとぐいぐい手繰(たぐ)り寄せた。おや釣れましたかね、後世恐(おそ)るべしだと野だがひやかすうち、糸はもう大概手繰り込んでただ五尺ばかりほどしか、水に浸(つ)いておらん。船縁から覗(のぞ)いてみたら、金魚のような縞(しま)のある魚が糸にくっついて、右左へ漾(ただよ)いながら、手に応じて浮き上がってくる。面白い。水際から上げるとき、ぽちゃりと跳(は)ねたから、おれの顔は潮水だらけになった。ようやくつらまえて、針をとろうとするがなかなか取れない。捕(つら)まえた手はぬるぬるする。大いに気味がわるい。面倒だから糸を振(ふ)って胴(どう)の間(ま)へ擲(たた)きつけたら、すぐ死んでしまった。赤シャツと野だは驚ろいて見ている。おれは海の中で手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。まだ腥臭(なまぐさ)い。もう懲(こ)り懲(ご)りだ。何が釣れたって魚は握(にぎ)りたくない。魚も握られたくなかろう。そうそう糸を捲いてしまった。
 一番槍(いちばんやり)はお手柄(てがら)だがゴルキじゃ、と野だがまた生意気を云うと、ゴルキと云うと露西亜(ロシア)の文学者みたような名だねと赤シャツが洒落(しゃれ)た。そうですね、まるで露西亜の文学者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝(しば)の写真師で、米のなる木が命の親だろう。一体この赤シャツはわるい癖(くせ)だ。誰(だれ)を捕(つら)まえても片仮名の唐人(とうじん)の名を並べたがる。人にはそれぞれ専門があったものだ。おれのような数学の教師にゴルキだか車力(しゃりき)だか見当がつくものか、少しは遠慮(えんりょ)するがいい。云(い)うならフランクリンの自伝だとかプッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知ってる名を使うがいい。赤シャツは時々帝国文学とかいう真赤(まっか)な雑誌を学校へ持って来て難有(ありがた)そうに読んでいる。山嵐(やまあらし)に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。帝国文学も罪な雑誌だ。
 それから赤シャツと野だは一生懸命(いっしょうけんめい)に釣っていたが、約一時間ばかりのうちに二人(ふたり)で十五六上げた。可笑(おか)しい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。鯛なんて薬にしたくってもありゃしない。今日は露西亜文学の大当りだと赤シャツが野だに話している。あなたの手腕(しゅわん)でゴルキなんですから、私(わたし)なんぞがゴルキなのは仕方がありません。当り前ですなと野だが答えている。船頭に聞くとこの小魚は骨が多くって、まずくって、とても食えないんだそうだ。ただ肥料(こやし)には出来るそうだ。赤シャツと野だは一生懸命に肥料を釣っているんだ。気の毒の至りだ。おれは一匹(ぴき)で懲(こ)りたから、胴の間へ仰向(あおむ)けになって、さっきから大空を眺めていた。釣をするよりこの方がよっぽど洒落(しゃれ)ている。
 すると二人は小声で何か話し始めた。おれにはよく聞(きこ)えない、また聞きたくもない。おれは空を見ながら清(きよ)の事を考えている。金があって、清をつれて、こんな奇麗(きれい)な所へ遊びに来たらさぞ愉快だろう。いくら景色がよくっても野だなどといっしょじゃつまらない。清は皺苦茶(しわくちゃ)だらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出たって恥(は)ずかしい心持ちはしない。野だのようなのは、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、凌雲閣(りょううんかく)へのろうが、到底寄り付けたものじゃない。おれが教頭で、赤シャツがおれだったら、やっぱりおれにへけつけお世辞を使って赤シャツを冷(ひや)かすに違いない。江戸っ子は軽薄(けいはく)だと云うがなるほどこんなものが田舎巡(いなかまわ)りをして、私(わたし)は江戸っ子でげすと繰り返していたら、軽薄は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄の事だと田舎者が思うに極まってる。こんな事を考えていると、何だか二人がくすくす笑い出した。笑い声の間に何か云うが途切(とぎ)れ途切れでとんと要領を得ない。
「え? どうだか……」「……全くです……知らないんですから……罪ですね」「まさか……」「バッタを……本当ですよ」
 おれは外の言葉には耳を傾(かたむ)けなかったが、バッタと云う野だの語(ことば)を聴(き)いた時は、思わずきっとなった。野だは何のためかバッタと云う言葉だけことさら力を入れて、明瞭(めいりょう)におれの耳にはいるようにして、そのあとをわざとぼかしてしまった。おれは動かないでやはり聞いていた。
「また例の堀田(ほった)が……」「そうかも知れない……」「天麩羅(てんぷら)……ハハハハハ」「……煽動(せんどう)して……」「団子(だんご)も?」
 言葉はかように途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというところをもって推し測ってみると、何でもおれのことについて内所話(ないしょばな)しをしているに相違ない。話すならもっと大きな声で話すがいい、また内所話をするくらいなら、おれなんか誘わなければいい。いけ好かない連中だ。バッタだろうが雪踏(せった)だろうが、非はおれにある事じゃない。校長がひとまずあずけろと云ったから、狸(たぬき)の顔にめんじてただ今のところは控(ひか)えているんだ。野だの癖に入らぬ批評をしやがる。毛筆(けふで)でもしゃぶって引っ込んでるがいい。おれの事は、遅(おそ)かれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから、差支(さしつか)えはないが、また例の堀田がとか煽動してとか云う文句が気にかかる。堀田がおれを煽動して騒動(そうどう)を大きくしたと云う意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいじめたと云うのか方角がわからない。青空を見ていると、日の光がだんだん弱って来て、少しはひやりとする風が吹き出した。線香(せんこう)の烟(けむり)のような雲が、透(す)き徹(とお)る底の上を静かに伸(の)して行ったと思ったら、いつしか底の奥(おく)に流れ込んで、うすくもやを掛(か)けたようになった。
 もう帰ろうかと赤シャツが思い出したように云うと、ええちょうど時分ですね。今夜はマドンナの君にお逢(あ)いですかと野だが云う。赤シャツは馬鹿(ばか)あ云っちゃいけない、間違いになると、船縁に身を倚(も)たした奴(やつ)を、少し起き直る。エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。聞いたって……と野だが振り返った時、おれは皿(さら)のような眼(め)を野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてやった。野だはまぼしそうに引っ繰り返って、や、こいつは降参だと首を縮めて、頭を掻(か)いた。何という猪口才(ちょこざい)だろう。
 船は静かな海を岸へ漕(こ)ぎ戻(もど)る。君釣(つり)はあまり好きでないと見えますねと赤シャツが聞くから、ええ寝(ね)ていて空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた巻烟草(まきたばこ)を海の中へたたき込んだら、ジュと音がして艪(ろ)の足で掻き分けられた浪(なみ)の上を揺(ゆ)られながら漾(ただよ)っていった。「君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから、奮発(ふんぱつ)してやってくれたまえ」と今度は釣にはまるで縁故(えんこ)もない事を云い出した。「あんまり喜んでもいないでしょう」「いえ、お世辞じゃない。全く喜んでいるんです、ね、吉川君」「喜んでるどころじゃない。大騒(おおさわ)ぎです」と野だはにやにやと笑った。こいつの云う事は一々癪(しゃく)に障(さわ)るから妙だ。「しかし君注意しないと、険呑(けんのん)ですよ」と赤シャツが云うから「どうせ険呑です。こうなりゃ険呑は覚悟(かくご)です」と云ってやった。実際おれは免職(めんしょく)になるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どっちか一つにする了見でいた。「そう云っちゃ、取りつきどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから云うんだが、わるく取っちゃ困る」「教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。僕も及(およ)ばずながら、同じ江戸っ子だから、なるべく長くご在校を願って、お互(たがい)に力になろうと思って、これでも蔭ながら尽力(じんりょく)しているんですよ」と野だが人間並(なみ)の事を云った。野だのお世話になるくらいなら首を縊(くく)って死んじまわあ。
「それでね、生徒は君の来たのを大変歓迎(かんげい)しているんだが、そこにはいろいろな事情があってね。君も腹の立つ事もあるだろうが、ここが我慢(がまん)だと思って、辛防(しんぼう)してくれたまえ。決して君のためにならないような事はしないから」
「いろいろの事情た、どんな事情です」
「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分りますよ。僕(ぼく)が話さないでも自然と分って来るです、ね吉川君」
「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃ到底分りません。しかしだんだん分ります、僕が話さないでも自然と分って来るです」と野だは赤シャツと同じような事を云う。
「そんな面倒(めんどう)な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから伺(うかが)うんです」
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこれだけの事を云っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。ところが学校というものはなかなか情実のあるもので、そう書生流に淡泊(たんぱく)には行(ゆ)かないですからね」
「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏(とぼ)しいと云うんですがね……」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書(りれきしょ)にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」
「正直にしていれば誰(だれ)が乗じたって怖(こわ)くはないです」
「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気を付けないといけないと云うんです」
 野だが大人(おとな)しくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫(とも)の方で船頭と釣の話をしている。野だが居ないんでよっぽど話しよくなった。
「僕の前任者が、誰(だ)れに乗ぜられたんです」
「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えない。また判然と証拠(しょうこ)のない事だから云うとこっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕等(ぼくら)も君を呼んだ甲斐(かい)がない。どうか気を付けてくれたまえ」
「気を付けろったって、これより気の付けようはありません。わるい事をしなけりゃ好(い)いんでしょう」
 赤シャツはホホホホと笑った。別段おれは笑われるような事を云った覚えはない。今日(こんにち)ただ今に至るまでこれでいいと堅(かた)く信じている。考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励(しょうれい)しているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋(じゅんすい)な人を見ると、坊(ぼ)っちゃんだの小僧(こぞう)だのと難癖(なんくせ)をつけて軽蔑(けいべつ)する。それじゃ小学校や中学校で嘘(うそ)をつくな、正直にしろと倫理(りんり)の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大いに感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。
「無論悪(わ)るい事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくっても、人の悪るいのが分らなくっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。世の中には磊落(らいらく)なように見えても、淡泊なように見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断の出来ないのがありますから……。大分寒くなった。もう秋ですね、浜の方は靄(もや)でセピヤ色になった。いい景色だ。おい、吉川君どうだい、あの浜の景色は……」と大きな声を出して野だを呼んだ。なあるほどこりゃ奇絶(きぜつ)ですね。時間があると写生するんだが、惜(お)しいですね、このままにしておくのはと野だは大いにたたく。
 港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛(ふえ)がヒューと鳴るとき、おれの乗っていた舟は磯(いそ)の砂へざぐりと、舳(へさき)をつき込んで動かなくなった。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:205 KB

担当:undef