坊っちゃん
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著者名:夏目漱石 

 山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の挨拶(あいさつ)をして浜(はま)の港屋まで下(さが)ったが、人に知れないように引き返して、温泉(ゆ)の町の枡屋(ますや)の表二階へ潜(ひそ)んで、障子(しょうじ)へ穴をあけて覗(のぞ)き出した。これを知ってるものはおればかりだろう。赤シャツが忍(しの)んで来ればどうせ夜だ。しかも宵(よい)の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎに極(きま)ってる。最初の二晩はおれも十一時頃(ごろ)まで張番(はりばん)をしたが、赤シャツの影(かげ)も見えない。三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。駄目を踏(ふ)んで夜なかに下宿へ帰るほど馬鹿気た事はない。四五日(しごんち)すると、うちの婆さんが少々心配を始めて、奥(おく)さんのおありるのに、夜遊びはおやめたがええぞなもしと忠告した。そんな夜遊びとは夜遊びが違う。こっちのは天に代って誅戮(ちゅうりく)を加える夜遊びだ。とはいうものの一週間も通って、少しも験(げん)が見えないと、いやになるもんだ。おれは性急(せっかち)な性分だから、熱心になると徹夜(てつや)でもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試しがない。いかに天誅党でも飽(あ)きる事に変りはない。六日目には少々いやになって、七日目にはもう休もうかと思った。そこへ行くと山嵐は頑固(がんこ)なものだ。宵(よい)から十二時過(すぎ)までは眼を障子へつけて、角屋の丸ぼやの瓦斯燈(がすとう)の下を睨(にら)めっきりである。おれが行くと今日は何人客があって、泊(とま)りが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚ろいた。どうも来ないようじゃないかと云うと、うん、たしかに来るはずだがと時々腕組(うでぐみ)をして溜息(ためいき)をつく。可愛想に、もし赤シャツがここへ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯(しょうがい)天誅を加える事は出来ないのである。
 八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆるりと湯に入って、それから町で鶏卵(けいらん)を八つ買った。これは下宿の婆さんの芋責(いもぜめ)に応ずる策である。その玉子を四つずつ左右の袂(たもと)へ入れて、例の赤手拭(あかてぬぐい)を肩(かた)へ乗せて、懐手(ふところで)をしながら、枡屋(ますや)の楷子段(はしごだん)を登って山嵐の座敷(ざしき)の障子をあけると、おい有望有望と韋駄天(いだてん)のような顔は急に活気を呈(てい)した。昨夜(ゆうべ)までは少し塞(ふさ)ぎの気味で、はたで見ているおれさえ、陰気臭(いんきくさ)いと思ったくらいだが、この顔色を見たら、おれも急にうれしくなって、何も聞かない先から、愉快(ゆかい)愉快と云った。
「今夜七時半頃あの小鈴(こすず)と云う芸者が角屋へはいった」
「赤シャツといっしょか」
「いいや」
「それじゃ駄目だ」
「芸者は二人づれだが、――どうも有望らしい」
「どうして」
「どうしてって、ああ云う狡(ずる)い奴だから、芸者を先へよこして、後から忍んでくるかも知れない」
「そうかも知れない。もう九時だろう」
「今九時十二分ばかりだ」と帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら云ったが「おい洋燈(らんぷ)を消せ、障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。狐(きつね)はすぐ疑ぐるから」
 おれは一貫張(いっかんばり)の机の上にあった置き洋燈(らんぷ)をふっと吹きけした。星明りで障子だけは少々あかるい。月はまだ出ていない。おれと山嵐は一生懸命(いっしょうけんめい)に障子へ面(かお)をつけて、息を凝(こ)らしている。チーンと九時半の柱時計が鳴った。
「おい来るだろうかな。今夜来なければ僕はもう厭(いや)だぜ」
「おれは銭のつづく限りやるんだ」
「銭っていくらあるんだい」
「今日までで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出しても都合(つごう)のいいように毎晩勘定(かんじょう)するんだ」
「それは手廻しがいい。宿屋で驚いてるだろう」
「宿屋はいいが、気が放せないから困る」
「その代り昼寝(ひるね)をするだろう」
「昼寝はするが、外出が出来ないんで窮屈(きゅうくつ)でたまらない」
「天誅も骨が折れるな。これで天網恢々疎(てんもうかいかいそ)にして洩(も)らしちまったり、何かしちゃ、つまらないぜ」
「なに今夜はきっとくるよ。――おい見ろ見ろ」と小声になったから、おれは思わずどきりとした。黒い帽子(ぼうし)を戴(いただ)いた男が、角屋の瓦斯燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。違っている。おやおやと思った。そのうち帳場の時計が遠慮(えんりょ)なく十時を打った。今夜もとうとう駄目らしい。
 世間は大分静かになった。遊廓(ゆうかく)で鳴らす太鼓(たいこ)が手に取るように聞(きこ)える。月が温泉(ゆ)の山の後(うしろ)からのっと顔を出した。往来はあかるい。すると、下(しも)の方から人声が聞えだした。窓から首を出す訳には行かないから、姿を突(つ)き留める事は出来ないが、だんだん近づいて来る模様だ。からんからんと駒下駄(こまげた)を引き擦(ず)る音がする。眼を斜(なな)めにするとやっと二人の影法師(かげぼうし)が見えるくらいに近づいた。
「もう大丈夫(だいじょうぶ)ですね。邪魔(じゃま)ものは追っ払ったから」正(まさ)しく野だの声である。「強がるばかりで策がないから、仕様がない」これは赤シャツだ。「あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえと来たら、勇み肌(はだ)の坊(ぼ)っちゃんだから愛嬌(あいきょう)がありますよ」「増給がいやだの辞表を出したいのって、ありゃどうしても神経に異状があるに相違ない」おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思う様打(ぶ)ちのめしてやろうと思ったが、やっとの事で辛防(しんぼう)した。二人はハハハハと笑いながら、瓦斯燈の下を潜(くぐ)って、角屋の中へはいった。
「おい」
「おい」
「来たぜ」
「とうとう来た」
「これでようやく安心した」
「野だの畜生、おれの事を勇み肌の坊っちゃんだと抜(ぬ)かしやがった」
「邪魔物と云うのは、おれの事だぜ。失敬千万な」
 おれと山嵐は二人の帰路を要撃(ようげき)しなければならない。しかし二人はいつ出てくるか見当がつかない。山嵐は下へ行って今夜ことによると夜中に用事があって出るかも知れないから、出られるようにしておいてくれと頼(たの)んで来た。今思うと、よく宿のものが承知したものだ。大抵(たいてい)なら泥棒(どろぼう)と間違えられるところだ。
 赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして待ってるのはなおつらい。寝る訳には行かないし、始終障子の隙(すき)から睨めているのもつらいし、どうも、こうも心が落ちつかなくって、これほど難儀(なんぎ)な思いをした事はいまだにない。いっその事角屋へ踏み込んで現場を取って抑(おさ)えようと発議(ほつぎ)したが、山嵐は一言にして、おれの申し出を斥(しりぞ)けた。自分共が今時分飛び込んだって、乱暴者だと云って途中(とちゅう)で遮(さえぎ)られる。訳を話して面会を求めれば居ないと逃(に)げるか別室へ案内をする。不用意のところへ踏み込めると仮定したところで何十とある座敷のどこに居るか分るものではない、退屈でも出るのを待つより外に策はないと云うから、ようやくの事でとうとう朝の五時まで我慢(がまん)した。
 角屋から出る二人の影を見るや否や、おれと山嵐はすぐあとを尾(つ)けた。一番汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。温泉(ゆ)の町をはずれると一丁ばかりの杉並木(すぎなみき)があって左右は田圃(たんぼ)になる。それを通りこすとここかしこに藁葺(わらぶき)があって、畠(はたけ)の中を一筋に城下まで通る土手へ出る。町さえはずれれば、どこで追いついても構わないが、なるべくなら、人家のない、杉並木で捕(つら)まえてやろうと、見えがくれについて来た。町を外(はず)れると急に馳(か)け足(あし)の姿勢で、はやてのように後ろから、追いついた。何が来たかと驚ろいて振(ふ)り向く奴を待てと云って肩に手をかけた。野だは狼狽(ろうばい)の気味で逃げ出そうという景色(けしき)だったから、おれが前へ廻って行手を塞(ふさ)いでしまった。
「教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行って泊(とま)った」と山嵐はすぐ詰(なじ)りかけた。
「教頭は角屋へ泊って悪(わ)るいという規則がありますか」と赤シャツは依然(いぜん)として鄭寧(ていねい)な言葉を使ってる。顔の色は少々蒼い。
「取締上(とりしまりじょう)不都合だから、蕎麦屋(そばや)や団子屋(だんごや)へさえはいってはいかんと、云うくらい謹直(きんちょく)な人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へとまり込んだ」野だは隙を見ては逃げ出そうとするからおれはすぐ前に立ち塞がって「べらんめえの坊っちゃんた何だ」と怒鳴り付けたら、「いえ君の事を云ったんじゃないんです、全くないんです」と鉄面皮に言訳がましい事をぬかした。おれはこの時気がついてみたら、両手で自分の袂を握(にぎ)ってる。追っかける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。おれはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やっと云いながら、野だの面へ擲(たた)きつけた。玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。野だはよっぽど仰天(ぎょうてん)した者と見えて、わっと言いながら、尻持(しりもち)をついて、助けてくれと云った。おれは食うために玉子は買ったが、打(ぶ)つけるために袂へ入れてる訳ではない。ただ肝癪(かんしゃく)のあまりに、ついぶつけるともなしに打つけてしまったのだ。しかし野だが尻持を突いたところを見て始めて、おれの成功した事に気がついたから、こん畜生(ちくしょう)、こん畜生と云いながら残る六つを無茶苦茶に擲(たた)きつけたら、野だは顔中黄色になった。
 おれが玉子をたたきつけているうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。
「芸者をつれて僕が宿屋へ泊ったと云う証拠(しょうこ)がありますか」
「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て云う事だ。胡魔化せるものか」
「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊ったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知った事ではない」
「だまれ」と山嵐は拳骨(げんこつ)を食わした。赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉(ろうぜき)である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
「無法でたくさんだ」とまたぽかりと撲(な)ぐる。「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だを散々に擲き据えた。しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。
「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ撲(なぐ)ってやる」とぽかんぽかんと両人(ふたり)でなぐったら「もうたくさんだ」と云った。野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。
「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲(こ)りて以来つつしむがいい。いくら言葉巧(たく)みに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が云ったら両人共(ふたりとも)だまっていた。ことによると口をきくのが退儀(たいぎ)なのかも知れない。
「おれは逃げも隠(かく)れもせん。今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡査(じゅんさ)なりなんなり、よこせ」と山嵐が云うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴(うった)えたければ、勝手に訴えろ」と云って、二人してすたすたあるき出した。
 おれが下宿へ帰ったのは七時少し前である。部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済まして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。おれは早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分らないから、私儀(わたくしぎ)都合有之(これあり)辞職の上東京へ帰り申候(もうしそろ)につき左様御承知被下度候(さようごしょうちくだされたくそろ)以上とかいて校長宛(あて)にして郵便で出した。
 汽船は夜六時の出帆(しゅっぱん)である。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人は大きに笑った。
 その夜おれと山嵐はこの不浄(ふじょう)な地を離(はな)れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆(しゃば)へ出たような気がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。
 清(きよ)の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄(かばん)を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙(なみだ)をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉(うれ)しかったから、もう田舎(いなか)へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
 その後ある人の周旋(しゅうせん)で街鉄(がいてつ)の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関(げんかん)付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎(はいえん)に罹(かか)って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋(う)めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向(こびなた)の養源寺にある。
(明治三十九年四月)



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