坊っちゃん
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著者名:夏目漱石 

 うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。
 ところへ入口で若々しい女の笑声が聞(きこ)えたから、何心なく振(ふ)り返ってみるとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが並(なら)んで切符(きっぷ)を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶(すいしょう)の珠(たま)を香水(こうすい)で暖(あっ)ためて、掌(てのひら)へ握(にぎ)ってみたような心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし顔はよく似ているから親子だろう。おれは、や、来たなと思う途端(とたん)に、うらなり君の事は全然(すっかり)忘れて、若い女の方ばかり見ていた。すると、うらなり君が突然(とつぜん)おれの隣(となり)から、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。マドンナじゃないかと思った。三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠いから何を云ってるのか分らない。
 停車場の時計を見るともう五分で発車だ。早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へ馳(か)け込(こ)んで来たものがある。見れば赤シャツだ。何だかべらべら然たる着物へ縮緬(ちりめん)の帯をだらしなく巻き付けて、例の通り金鎖(きんぐさ)りをぶらつかしている。あの金鎖りは贋物(にせもの)である。赤シャツは誰(だれ)も知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符売下所(うりさげじょ)の前に話している三人へ慇懃(いんぎん)にお辞儀(じぎ)をして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく猫足(ねこあし)にあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。あの時計はたしかかしらんと、自分の金側(きんがわ)を出して、二分ほどちがってると云いながら、おれの傍(そば)へ腰を卸(おろ)した。女の方はちっとも見返らないで杖(つえ)の上に顋(あご)をのせて、正面ばかり眺(なが)めている。年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナに違いない。
 やがて、ピューと汽笛(きてき)が鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ吾(わ)れ勝(がち)に乗り込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったって威張れるどころではない、住田(すみた)まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発(ふんぱつ)して白切符を握(にぎ)ってるんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵(たいてい)は下等へ乗る。赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。うらなり君は活版で押(お)したように下等ばかりへ乗る男だ。先生、下等の車室の入口へ立って、何だか躊躇(ちゅうちょ)の体(てい)であったが、おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。おれはこの時何となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。
 温泉へ着いて、三階から、浴衣(ゆかた)のなりで湯壺(ゆつぼ)へ下りてみたら、またうらなり君に逢った。おれは会議や何かでいざと極まると、咽喉(のど)が塞(ふさ)がって饒舌(しゃべ)れない男だが、平常(ふだん)は随分(ずいぶん)弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。何だか憐れぽくってたまらない。こんな時に一口でも先方の心を慰(なぐさ)めてやるのは、江戸(えど)っ子の義務だと思ってる。ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。何を云っても、えとかいえとかぎりで、しかもそのえといえが大分面倒(めんどう)らしいので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちからご免蒙(めんこうむ)った。
 湯の中では赤シャツに逢わなかった。もっとも風呂(ふろ)の数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢うとは極まっていない。別段不思議にも思わなかった。風呂を出てみるといい月だ。町内の両側に柳(やなぎ)が植(うわ)って、柳の枝(えだ)が丸(ま)るい影を往来の中へ落(おと)している。少し散歩でもしよう。北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が妓楼(ぎろう)である。山門のなかに遊廓(ゆうかく)があるなんて、前代未聞の現象だ。ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。門の並びに黒い暖簾(のれん)をかけた、小さな格子窓(こうしまど)の平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。丸提灯(まるぢょうちん)に汁粉(しるこ)、お雑煮(ぞうに)とかいたのがぶらさがって、提灯の火が、軒端(のきば)に近い一本の柳の幹を照らしている。食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。
 食いたい団子の食えないのは情ない。しかし自分の許嫁(いいなずけ)が他人に心を移したのは、なお情ないだろう。うらなり君の事を思うと、団子は愚(おろ)か、三日ぐらい断食(だんじき)しても不平はこぼせない訳だ。本当に人間ほどあてにならないものはない。あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情な事をしそうには思えないんだが――うつくしい人が不人情で、冬瓜(とうがん)の水膨(みずぶく)れのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断が出来ない。淡泊(たんぱく)だと思った山嵐は生徒を煽動(せんどう)したと云うし。生徒を煽動したのかと思うと、生徒の処分を校長に逼(せま)るし。厭味(いやみ)で練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれに余所(よそ)ながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナを胡魔化(ごまか)したり、胡魔化したのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと云うし。いか銀が難癖(なんくせ)をつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公が入(い)れ替(かわ)ったり――どう考えてもあてにならない。こんな事を清にかいてやったら定めて驚く事だろう。箱根(はこね)の向うだから化物(ばけもの)が寄り合ってるんだと云うかも知れない。
 おれは、性来(しょうらい)構わない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで来たのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを物騒(ぶっそう)に思い出した。別段際だった大事件にも出逢わないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を渡(わた)って野芹川(のぜりがわ)の堤(どて)へ出た。川と云うとえらそうだが実は一間ぐらいな、ちょろちょろした流れで、土手に沿うて十二丁ほど下ると相生村(あいおいむら)へ出る。村には観音様(かんのんさま)がある。
 温泉(ゆ)の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。太鼓(たいこ)が鳴るのは遊廓に相違ない。川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向うに人影(ひとかげ)が見え出した。月に透(す)かしてみると影は二つある。温泉(ゆ)へ来て村へ帰る若い衆(しゅ)かも知れない。それにしては唄(うた)もうたわない。存外静かだ。
 だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離(きょり)に逼った時、男がたちまち振り向いた。月は後(うしろ)からさしている。その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。男と女はまた元の通りにあるき出した。おれは考えがあるから、急に全速力で追っ懸(か)けた。先方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移している。今は話し声も手に取るように聞える。土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。おれは苦もなく後ろから追い付いて、男の袖(そで)を擦(す)り抜(ぬ)けざま、二足前へ出した踵(くびす)をぐるりと返して男の顔を覗(のぞ)き込(こ)んだ。月は正面からおれの五分刈(がり)の頭から顋の辺(あた)りまで、会釈(えしゃく)もなく照(てら)す。男はあっと小声に云ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女を促(うな)がすが早いか、温泉(ゆ)の町の方へ引き返した。
 赤シャツは図太くて胡魔化すつもりか、気が弱くて名乗り損(そく)なったのかしら。ところが狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。

     八

 赤シャツに勧められて釣(つり)に行った帰りから、山嵐(やまあらし)を疑ぐり出した。無い事を種に下宿を出ろと云われた時は、いよいよ不埒(ふらち)な奴(やつ)だと思った。ところが会議の席では案に相違(そうい)して滔々(とうとう)と生徒厳罰論(げんばつろん)を述べたから、おや変だなと首を捩(ひね)った。萩野(はぎの)の婆(ばあ)さんから、山嵐が、うらなり君のために赤シャツと談判をしたと聞いた時は、それは感心だと手を拍(う)った。この様子ではわる者は山嵐じゃあるまい、赤シャツの方が曲ってるんで、好加減(いいかげん)な邪推(じゃすい)を実(まこと)しやかに、しかも遠廻(とおまわ)しに、おれの頭の中へ浸(し)み込(こ)ましたのではあるまいかと迷ってる矢先へ、野芹川(のぜりがわ)の土手で、マドンナを連れて散歩なんかしている姿を見たから、それ以来赤シャツは曲者(くせもの)だと極(き)めてしまった。曲者だか何だかよくは分(わか)らないが、ともかくも善(い)い男じゃない。表と裏とは違(ちが)った男だ。人間は竹のように真直(まっすぐ)でなくっちゃ頼(たの)もしくない。真直なものは喧嘩(けんか)をしても心持ちがいい。赤シャツのようなやさしいのと、親切なのと、高尚(こうしょう)なのと、琥珀(こはく)のパイプとを自慢(じまん)そうに見せびらかすのは油断が出来ない、めったに喧嘩も出来ないと思った。喧嘩をしても、回向院(えこういん)の相撲(すもう)のような心持ちのいい喧嘩は出来ないと思った。そうなると一銭五厘の出入(でいり)で控所(ひかえじょ)全体を驚(おど)ろかした議論の相手の山嵐の方がはるかに人間らしい。会議の時に金壺眼(かなつぼまなこ)をぐりつかせて、おれを睨(にら)めた時は憎(にく)い奴だと思ったが、あとで考えると、それも赤シャツのねちねちした猫撫声(ねこなでごえ)よりはましだ。実はあの会議が済んだあとで、よっぽど仲直りをしようかと思って、一こと二こと話しかけてみたが、野郎(やろう)返事もしないで、まだ眼(め)を剥(むく)ってみせたから、こっちも腹が立ってそのままにしておいた。
 それ以来山嵐はおれと口を利かない。机の上へ返した一銭五厘はいまだに机の上に乗っている。ほこりだらけになって乗っている。おれは無論手が出せない、山嵐は決して持って帰らない。この一銭五厘が二人の間の墻壁(しょうへき)になって、おれは話そうと思っても話せない、山嵐は頑(がん)として黙(だま)ってる。おれと山嵐には一銭五厘が祟(たた)った。しまいには学校へ出て一銭五厘を見るのが苦になった。
 山嵐とおれが絶交の姿となったに引き易(か)えて、赤シャツとおれは依然(いぜん)として在来の関係を保って、交際をつづけている。野芹川で逢(あ)った翌日などは、学校へ出ると第一番におれの傍(そば)へ来て、君今度の下宿はいいですかのまたいっしょに露西亜(ロシア)文学を釣(つ)りに行こうじゃないかのといろいろな事を話しかけた。おれは少々憎(にく)らしかったから、昨夜(ゆうべ)は二返逢いましたねと云(い)ったら、ええ停車場(ていしゃば)で――君はいつでもあの時分出掛(でか)けるのですか、遅いじゃないかと云う。野芹川の土手でもお目に懸(かか)りましたねと喰(く)らわしてやったら、いいえ僕(ぼく)はあっちへは行かない、湯にはいって、すぐ帰ったと答えた。何もそんなに隠(かく)さないでもよかろう、現に逢ってるんだ。よく嘘(うそ)をつく男だ。これで中学の教頭が勤まるなら、おれなんか大学総長がつとまる。おれはこの時からいよいよ赤シャツを信用しなくなった。信用しない赤シャツとは口をきいて、感心している山嵐とは話をしない。世の中は随分妙(ずいぶんみょう)なものだ。
 ある日の事赤シャツがちょっと君に話があるから、僕のうちまで来てくれと云うから、惜(お)しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時頃(ごろ)出掛けて行った。赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとくの昔(むかし)に引き払(はら)って立派な玄関(げんかん)を構えている。家賃は九円五拾銭(じっせん)だそうだ。田舎(いなか)へ来て九円五拾銭払えばこんな家へはいれるなら、おれも一つ奮発(ふんぱつ)して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ。頼むと云ったら、赤シャツの弟が取次(とりつぎ)に出て来た。この弟は学校で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。その癖渡(くせわた)りものだから、生れ付いての田舎者よりも人が悪(わ)るい。
 赤シャツに逢って用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きな臭(くさ)い烟草(たばこ)をふかしながら、こんな事を云った。「君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績(せいせき)がよくあがって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうか学校でも信頼(しんらい)しているのだから、そのつもりで勉強していただきたい」
「へえ、そうですか、勉強って今より勉強は出来ませんが――」
「今のくらいで充分(じゅうぶん)です。ただ先だってお話しした事ですね、あれを忘れずにいて下さればいいのです」
「下宿の世話なんかするものあ剣呑(けんのん)だという事ですか」
「そう露骨(ろこつ)に云うと、意味もない事になるが――まあ善いさ――精神は君にもよく通じている事と思うから。そこで君が今のように出精(しゅっせい)して下されば、学校の方でも、ちゃんと見ているんだから、もう少しして都合(つごう)さえつけば、待遇(たいぐう)の事も多少はどうにかなるだろうと思うんですがね」
「へえ、俸給(ほうきゅう)ですか。俸給なんかどうでもいいんですが、上がれば上がった方がいいですね」
「それで幸い今度転任者が一人出来るから――もっとも校長に相談してみないと無論受け合えない事だが――その俸給から少しは融通(ゆうずう)が出来るかも知れないから、それで都合をつけるように校長に話してみようと思うんですがね」
「どうも難有(ありがと)う。だれが転任するんですか」
「もう発表になるから話しても差し支(つか)えないでしょう。実は古賀君です」
「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか」
「ここの地(じ)の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」
「どこへ行(ゆ)くんです」
「日向(ひゅうが)の延岡(のべおか)で――土地が土地だから一級俸上(あが)って行く事になりました」
「誰(だれ)か代りが来るんですか」
「代りも大抵(たいてい)極まってるんです。その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです」
「はあ、結構です。しかし無理に上がらないでも構いません」
「とも角も僕は校長に話すつもりです。それで校長も同意見らしいが、追っては君にもっと働いて頂(いた)だかなくってはならんようになるかも知れないから、どうか今からそのつもりで覚悟(かくご)をしてやってもらいたいですね」
「今より時間でも増すんですか」
「いいえ、時間は今より減るかも知れませんが――」
「時間が減って、もっと働くんですか、妙だな」
「ちょっと聞くと妙だが、――判然とは今言いにくいが――まあつまり、君にもっと重大な責任を持ってもらうかも知れないという意味なんです」
 おれには一向分らない。今より重大な責任と云えば、数学の主任だろうが、主任は山嵐だから、やっこさんなかなか辞職する気遣(きづか)いはない。それに、生徒の人望があるから転任や免職(めんしょく)は学校の得策であるまい。赤シャツの談話はいつでも要領を得ない。要領を得なくっても用事はこれで済んだ。それから少し雑談をしているうちに、うらなり君の送別会をやる事や、ついてはおれが酒を飲むかと云う問や、うらなり先生は君子で愛すべき人だと云う事や――赤シャツはいろいろ弁じた。しまいに話をかえて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来た。発句(ほっく)は芭蕉(ばしょう)か髪結床(かみいどこ)の親方のやるもんだ。数学の先生が朝顔やに釣瓶(つるべ)をとられてたまるものか。
 帰ってうんと考え込んだ。世間には随分気の知れない男が居る。家屋敷はもちろん、勤める学校に不足のない故郷がいやになったからと云って、知らぬ他国へ苦労を求めに出る。それも花の都の電車が通(かよ)ってる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何の事だ。おれは船つきのいいここへ来てさえ、一ヶ月立たないうちにもう帰りたくなった。延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ。赤シャツの云うところによると船から上がって、一日(いちんち)馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた一日(いちんち)車へ乗らなくっては着けないそうだ。名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。猿(さる)と人とが半々に住んでるような気がする。いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という物数奇(ものずき)だ。
 ところへあいかわらず婆(ばあ)さんが夕食(ゆうめし)を運んで出る。今日もまた芋(いも)ですかいと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐(とうふ)ぞなもしと云った。どっちにしたって似たものだ。
「お婆さん古賀さんは日向へ行くそうですね」
「ほん当にお気の毒じゃな、もし」
「お気の毒だって、好んで行くんなら仕方がないですね」
「好んで行くて、誰がぞなもし」
「誰がぞなもしって、当人がさ。古賀先生が物数奇に行くんじゃありませんか」
「そりゃあなた、大違いの勘五郎(かんごろう)ぞなもし」
「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう云いましたぜ。それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衛門(ほらえもん)だ」
「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、古賀さんのお往(い)きともないのももっともぞなもし」
「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳なんですい」
「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」
「どんな訳をお話したんです」
「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど暮(くら)し向(むき)が豊かになうてお困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、あなた」
「なるほど」
「校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでお母さんも安心して、今に増給のご沙汰(さた)があろぞ、今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。――」
「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
「さよよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに居(お)りたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長がお云いたげな」
「へん人を馬鹿(ばか)にしてら、面白(おもしろ)くもない。じゃ古賀さんは行く気はないんですね。どうれで変だと思った。五円ぐらい上がったって、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く唐変木(とうへんぼく)はまずないからね」
「唐変木て、先生なんぞなもし」
「何でもいいでさあ、――全く赤シャツの作略(さりゃく)だね。よくない仕打(しうち)だ。まるで欺撃(だましうち)ですね。それでおれの月給を上げるなんて、不都合(ふつごう)な事があるものか。上げてやるったって、誰が上がってやるものか」
「先生は月給がお上りるのかなもし」
「上げてやるって云うから、断(こと)わろうと思うんです」
「何で、お断わりるのぞなもし」
「何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯(ひきょう)でさあ」
「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人(おとな)しく頂いておく方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢(がまん)じゃあったのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたと悔(くや)むのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有(ありがと)うと受けておおきなさいや」
「年寄(としより)の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」
 婆さんはだまって引き込んだ。爺(じい)さんは呑気(のんき)な声を出して謡(うたい)をうたってる。謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らなくする術だろう。あんな者を毎晩飽(あ)きずに唸(うな)る爺さんの気が知れない。おれは謡どころの騒(さわ)ぎじゃない。月給を上げてやろうと云うから、別段欲しくもなかったが、入らない金を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させてその男の月給の上前を跳(は)ねるなんて不人情な事が出来るものか。当人がもとの通りでいいと云うのに延岡下(くんだ)りまで落ちさせるとは一体どう云う了見(りょうけん)だろう。太宰権帥(だざいごんのそつ)でさえ博多(はかた)近辺で落ちついたものだ。河合又五郎(かあいまたごろう)だって相良(さがら)でとまってるじゃないか。とにかく赤シャツの所へ行って断わって来なくっちあ気が済まない。
 小倉(こくら)の袴(はかま)をつけてまた出掛けた。大きな玄関へ突(つ)っ立って頼むと云うと、また例の弟が取次に出て来た。おれの顔を見てまた来たかという眼付(めつき)をした。用があれば二度だって三度だって来る。よる夜なかだって叩(たた)き起(おこ)さないとは限らない。教頭の所へご機嫌伺(きげんうかが)いにくるようなおれと見損(みそくな)ってるか。これでも月給が入らないから返しに来(きた)んだ。すると弟が今来客中だと云うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと云ったら奥(おく)へ引き込んだ。足元を見ると、畳付(たたみつ)きの薄っぺらな、のめりの駒下駄(こまげた)がある。奥でもう万歳(ばんざい)ですよと云う声が聞(きこ)える。お客とは野だだなと気がついた。野だでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を穿(は)くものはない。
 しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、外の人じゃない吉川君だ、と云うから、いえここでたくさんです。ちょっと話せばいいんです、と云って、赤シャツの顔を見ると金時のようだ。野だ公と一杯(いっぱい)飲んでると見える。
「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです」
 赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔を眺(なが)めたが、とっさの場合返事をしかねて茫然(ぼうぜん)としている。増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを不審(ふしん)に思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、呆(あき)れ返ったのか、または双方合併(そうほうがっぺい)したのか、妙な口をして突っ立ったままである。
「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」
「古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです」
「そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に居たいのです」
「君は古賀君から、そう聞いたのですか」
「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」
「じゃ誰からお聞きです」
「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっ母(か)さんから聞いたのを今日僕に話したのです」
「じゃ、下宿の婆さんがそう云ったのですね」
「まあそうです」
「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して差支(さしつか)えないでしょうか」
 おれはちょっと困った。文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。妙な所へこだわって、ねちねち押(お)し寄せてくる。おれはよく親父(おやじ)から貴様はそそっかしくて駄目(だめ)だ駄目だと云われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実はうらなり君にもうらなりのおっ母さんにも逢って詳(くわ)しい事情は聞いてみなかったのだ。だからこう文学士流に斬(き)り付けられると、ちょっと受け留めにくい。
 正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに対して不信任を心の中(うち)で申し渡してしまった。下宿の婆さんもけちん坊(ぼう)の欲張り屋に相違ないが、嘘は吐(つ)かない女だ、赤シャツのように裏表はない。おれは仕方がないから、こう答えた。
「あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙(めんこうむ)ります」
「それはますます可笑(おか)しい。今君がわざわざお出(いで)になったのは増俸を受けるには忍(しの)びない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね」
「解しかねるかも知れませんがね。とにかく断わりますよ」
「そんなに否(いや)なら強いてとまでは云いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹変(ひょうへん)しちゃ、将来君の信用にかかわる」
「かかわっても構わないです」
「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩譲(ゆず)って、下宿の主人が……」
「主人じゃない、婆さんです」
「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は古賀君の所得を削(けず)って得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。その剰余(じょうよ)を君に廻(ま)わすと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。新任者は最初からの約束(やくそく)で安くくる。それで君が上がられれば、これほど都合(つごう)のいい事はないと思うですがね。いやなら否(いや)でもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか」
 おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙(こうみょう)な弁舌を揮(ふる)えば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたと恐(おそ)れ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。途中(とちゅう)で親切な女みたような男だと思い返した事はあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽど厭(いや)になっている。だから先がどれほどうまく論理的に弁論を逞(たくまし)くしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めようとも、そんな事は構わない。議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで惚(ほ)れさせる訳には行かない。金や威力(いりょく)や理屈(りくつ)で人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査(じゅんさ)でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。
「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。考えたって同じ事です。さようなら」と云いすてて門を出た。頭の上には天の川が一筋かかっている。

     九

 うらなり君の送別会のあるという日の朝、学校へ出たら、山嵐(やまあらし)が突然(とつぜん)、君先だってはいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれと頼(たの)んだから、真面目(まじめ)に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いてみると、あいつは悪(わ)るい奴(やつ)で、よく偽筆(ぎひつ)へ贋落款(にせらっかん)などを押(お)して売りつけるそうだから、全く君の事も出鱈目(でたらめ)に違(ちが)いない。君に懸物(かけもの)や骨董(こっとう)を売りつけて、商売にしようと思ってたところが、君が取り合わないで儲(もう)けがないものだから、あんな作りごとをこしらえて胡魔化(ごまか)したのだ。僕はあの人物を知らなかったので君に大変失敬した勘弁(かんべん)したまえと長々しい謝罪をした。
 おれは何とも云わずに、山嵐の机の上にあった、一銭五厘(りん)をとって、おれの蝦蟇口(がまぐち)のなかへ入れた。山嵐は君それを引き込(こ)めるのかと不審(ふしん)そうに聞くから、うんおれは君に奢(おご)られるのが、いやだったから、是非返すつもりでいたが、その後だんだん考えてみると、やっぱり奢ってもらう方がいいようだから、引き込ますんだと説明した。山嵐は大きな声をしてアハハハと笑いながら、そんなら、なぜ早く取らなかったのだと聞いた。実は取ろう取ろうと思ってたが、何だか妙(みょう)だからそのままにしておいた。近来は学校へ来て一銭五厘を見るのが苦になるくらいいやだったと云ったら、君はよっぽど負け惜(お)しみの強い男だと云うから、君はよっぽど剛情張(ごうじょうっぱ)りだと答えてやった。それから二人の間にこんな問答が起(おこ)った。
「君は一体どこの産だ」
「おれは江戸(えど)っ子だ」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「きみはどこだ」
「僕は会津(あいづ)だ」
「会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ行くのかい」
「行くとも、君は?」
「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つ時は、浜(はま)まで見送りに行こうと思ってるくらいだ」
「送別会は面白いぜ、出て見たまえ。今日は大いに飲むつもりだ」
「勝手に飲むがいい。おれは肴(さかな)を食ったら、すぐ帰る。酒なんか飲む奴は馬鹿(ばか)だ」
「君はすぐ喧嘩(けんか)を吹(ふ)き懸(か)ける男だ。なるほど江戸っ子の軽跳(けいちょう)な風を、よく、あらわしてる」
「何でもいい、送別会へ行く前にちょっとおれのうちへお寄り、話(はな)しがあるから」

 山嵐は約束(やくそく)通りおれの下宿へ寄った。おれはこの間から、うらなり君の顔を見る度に気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別の今日となったら、何だか憐(あわ)れっぽくって、出来る事なら、おれが代りに行ってやりたい様な気がしだした。それで送別会の席上で、大いに演説でもしてその行を盛(さかん)にしてやりたいと思うのだが、おれのべらんめえ調子じゃ、到底(とうてい)物にならないから、大きな声を出す山嵐を雇(やと)って、一番赤シャツの荒肝(あらぎも)を挫(ひし)いでやろうと考え付いたから、わざわざ山嵐を呼んだのである。
 おれはまず冒頭(ぼうとう)としてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ事件はおれより詳(くわ)しく知っている。おれが野芹川(のぜりがわ)の土手の話をして、あれは馬鹿野郎(ばかやろう)だと云ったら、山嵐は君はだれを捕(つら)まえても馬鹿呼(よば)わりをする。今日学校で自分の事を馬鹿と云ったじゃないか。自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿じゃない。自分は赤シャツの同類じゃないと主張した。それじゃ赤シャツは腑抜(ふぬ)けの呆助(ほうすけ)だと云ったら、そうかもしれないと山嵐は大いに賛成した。山嵐は強い事は強いが、こんな言葉になると、おれより遥(はる)かに字を知っていない。会津っぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだろう。
 それから増給事件と将来重く登用すると赤シャツが云った話をしたら山嵐はふふんと鼻から声を出して、それじゃ僕を免職(めんしょく)する考えだなと云った。免職するつもりだって、君は免職になる気かと聞いたら、誰(だれ)がなるものか、自分が免職になるなら、赤シャツもいっしょに免職させてやると大いに威張(いば)った。どうしていっしょに免職させる気かと押し返して尋(たず)ねたら、そこはまだ考えていないと答えた。山嵐は強そうだが、智慧(ちえ)はあまりなさそうだ。おれが増給を断(こと)わったと話したら、大将大きに喜んでさすが江戸っ子だ、えらいと賞(ほ)めてくれた。
 うらなりが、そんなに厭(いや)がっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、既(すで)にきまってしまって、校長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうする事も出来なかったと話した。それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。赤シャツから話があった時、断然断わるか、一応考えてみますと逃(に)げればいいのに、あの弁舌に胡魔化されて、即席(そくせき)に許諾(きょだく)したものだから、あとからお母(っか)さんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。
 今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが云ったら、無論そうに違いない。あいつは大人(おとな)しい顔をして、悪事を働いて、人が何か云うと、ちゃんと逃道(にげみち)を拵(こしら)えて待ってるんだから、よっぽど奸物(かんぶつ)だ。あんな奴にかかっては鉄拳制裁(てっけんせいさい)でなくっちゃ利かないと、瘤(こぶ)だらけの腕(うで)をまくってみせた。おれはついでだから、君の腕は強そうだな柔術(じゅうじゅつ)でもやるかと聞いてみた。すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっと攫(つか)んでみろと云うから、指の先で揉(も)んでみたら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。
 おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと云いながら、曲げた腕を伸(の)ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで廻転(かいてん)する。すこぶる愉快(ゆかい)だ。山嵐の証明する所によると、かんじん綯(よ)りを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。かんじんよりなら、おれにも出来そうだと云ったら、出来るものか、出来るならやってみろと来た。切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
 君どうだ、今夜の送別会に大いに飲んだあと、赤シャツと野だを撲(なぐ)ってやらないかと面白半分に勧めてみたら、山嵐はそうだなと考えていたが、今夜はまあよそうと云った。なぜと聞くと、今夜は古賀に気の毒だから――それにどうせ撲るくらいなら、あいつらの悪るい所を見届けて現場で撲らなくっちゃ、こっちの落度になるからと、分別のありそうな事を附加(つけた)した。山嵐でもおれよりは考えがあると見える。
 じゃ演説をして古賀君を大いにほめてやれ、おれがすると江戸っ子のぺらぺらになって重みがなくていけない。そうして、きまった所へ出ると、急に溜飲(りゅういん)が起って咽喉(のど)の所へ、大きな丸(たま)が上がって来て言葉が出ないから、君に譲(ゆず)るからと云ったら、妙な病気だな、じゃ君は人中じゃ口は利けないんだね、困るだろう、と聞くから、何そんなに困りゃしないと答えておいた。
 そうこうするうち時間が来たから、山嵐と一所に会場へ行く。会場は花晨亭(かしんてい)といって、当地(ここ)で第一等の料理屋だそうだが、おれは一度も足を入れた事がない。もとの家老とかの屋敷(やしき)を買い入れて、そのまま開業したという話だが、なるほど見懸(みかけ)からして厳(いか)めしい構えだ。家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織(じんばおり)を縫(ぬ)い直して、胴着(どうぎ)にする様なものだ。
 二人が着いた頃(ころ)には、人数(にんず)ももう大概揃(たいがいそろ)って、五十畳(じょう)の広間に二つ三つ人間の塊(かたまり)が出来ている。五十畳だけに床(とこ)は素敵に大きい。おれが山城屋で占領(せんりょう)した十五畳敷の床とは比較にならない。尺を取ってみたら二間あった。右の方に、赤い模様のある瀬戸物の瓶(かめ)を据(す)えて、その中に松(まつ)の大きな枝(えだ)が挿(さ)してある。松の枝を挿して何にする気か知らないが、何ヶ月立っても散る気遣いがないから、銭が懸らなくって、よかろう。あの瀬戸物はどこで出来るんだと博物の教師に聞いたら、あれは瀬戸物じゃありません、伊万里(いまり)ですと云った。伊万里だって瀬戸物じゃないかと、云ったら、博物はえへへへへと笑っていた。あとで聞いてみたら、瀬戸で出来る焼物だから、瀬戸と云うのだそうだ。おれは江戸っ子だから、陶器(とうき)の事を瀬戸物というのかと思っていた。床の真中に大きな懸物があって、おれの顔くらいな大きさな字が二十八字かいてある。どうも下手(へた)なものだ。あんまり不味(まず)いから、漢学の先生に、なぜあんなまずいものを麗々(れいれい)と懸けておくんですと尋(たず)ねたところ、先生はあれは海屋(かいおく)といって有名な書家のかいた者だと教えてくれた。海屋だか何だか、おれは今だに下手だと思っている。
 やがて書記の川村がどうかお着席をと云うから、柱があって靠(よ)りかかるのに都合のいい所へ坐(すわ)った。海屋の懸物の前に狸(たぬき)が羽織(はおり)、袴(はかま)で着席すると、左に赤シャツが同じく羽織袴で陣取(じんど)った。右の方は主人公だというのでうらなり先生、これも日本服で控(ひか)えている。おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈(きゅうくつ)だったから、すぐ胡坐(あぐら)をかいた。隣(とな)りの体操(たいそう)教師は黒ずぼんで、ちゃんとかしこまっている。体操の教師だけにいやに修行が積んでいる。やがてお膳(ぜん)が出る。徳利(とくり)が並(なら)ぶ。幹事が立って、一言(いちごん)開会の辞を述べる。それから狸が立つ。赤シャツが起(た)つ。ことごとく送別の辞を述べたが、三人共申し合せたようにうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聴(ふいちょう)して、今回去られるのはまことに残念である、学校としてのみならず、個人として大いに惜しむところであるが、ご一身上のご都合で、切に転任をご希望になったのだから致(いた)し方(かた)がないという意味を述べた。こんな嘘(うそ)をついて送別会を開いて、それでちっとも恥(はず)かしいとも思っていない。ことに赤シャツに至って三人のうちで一番うらなり君をほめた。この良友を失うのは実に自分にとって大なる不幸であるとまで云った。しかもそのいい方がいかにも、もっともらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でもきっとだまされるに極(きま)ってる。マドンナも大方この手で引掛(ひっか)けたんだろう。赤シャツが送別の辞を述べ立てている最中、向側(むかいがわ)に坐っていた山嵐がおれの顔を見てちょっと稲光(いなびかり)をさした。おれは返電として、人指し指でべっかんこうをして見せた。
 赤シャツが座に復するのを待ちかねて、山嵐がぬっと立ち上がったから、おれは嬉(うれ)しかったので、思わず手をぱちぱちと拍(う)った。すると狸を始め一同がことごとくおれの方を見たには少々困った。山嵐は何を云うかと思うとただ今校長始めことに教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で古賀君が一日(いちじつ)も早く当地を去られるのを希望しております。延岡は僻遠(へきえん)の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう。が、聞くところによれば風俗のすこぶる淳朴(じゅんぼく)な所で、職員生徒ことごとく上代樸直(じょうだいぼくちょく)の気風を帯びているそうである。心にもないお世辞を振(ふ)り蒔(ま)いたり、美しい顔をして君子を陥(おとしい)れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君のごとき温良篤厚(とっこう)の士は必ずその地方一般の歓迎(かんげい)を受けられるに相違(そうい)ない。吾輩(わがはい)は大いに古賀君のためにこの転任を祝するのである。終りに臨んで君が延岡に赴任(ふにん)されたら、その地の淑女(しゅくじょ)にして、君子の好逑(こうきゅう)となるべき資格あるものを択(えら)んで一日(いちじつ)も早く円満なる家庭をかたち作って、かの不貞無節なるお転婆(てんば)を事実の上において慚死(ざんし)せしめん事を希望します。えへんえへんと二つばかり大きな咳払(せきばら)いをして席に着いた。おれは今度も手を叩(たた)こうと思ったが、またみんながおれの面(かお)を見るといやだから、やめにしておいた。山嵐が坐ると今度はうらなり先生が起った。先生はご鄭寧(ていねい)に、自席から、座敷の端(はし)の末座まで行って、慇懃(いんぎん)に一同に挨拶(あいさつ)をした上、今般は一身上の都合で九州へ参る事になりましたについて、諸先生方が小生のためにこの盛大(せいだい)なる送別会をお開き下さったのは、まことに感銘(かんめい)の至りに堪(た)えぬ次第で――ことにただ今は校長、教頭その他諸君の送別の辞を頂戴(ちょうだい)して、大いに難有(ありがた)く服膺(ふくよう)する訳であります。私はこれから遠方へ参りますが、なにとぞ従前の通りお見捨てなくご愛顧(あいこ)のほどを願います。とへえつく張って席に戻(もど)った。うらなり君はどこまで人が好いんだか、ほとんど底が知れない。自分がこんなに馬鹿にされている校長や、教頭に恭(うやうや)しくお礼を云っている。それも義理一遍(いっぺん)の挨拶ならだが、あの様子や、あの言葉つきや、あの顔つきから云うと、心(しん)から感謝しているらしい。こんな聖人に真面目にお礼を云われたら、気の毒になって、赤面しそうなものだが狸も赤シャツも真面目に謹聴(きんちょう)しているばかりだ。
 挨拶が済んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、という音がする。おれも真似をして汁(しる)を飲んでみたがまずいもんだ。口取(くちとり)に蒲鉾(かまぼこ)はついてるが、どす黒くて竹輪の出来損(できそこ)ないである。刺身(さしみ)も並んでるが、厚くって鮪(まぐろ)の切り身を生で食うと同じ事だ。それでも隣(とな)り近所の連中はむしゃむしゃ旨(うま)そうに食っている。大方江戸前の料理を食った事がないんだろう。
 そのうち燗徳利(かんどくり)が頻繁(ひんぱん)に往来し始めたら、四方が急に賑(にぎ)やかになった。野だ公は恭しく校長の前へ出て盃(さかずき)を頂いてる。いやな奴だ。うらなり君は順々に献酬(けんしゅう)をして、一巡周(いちじゅんめぐ)るつもりとみえる。はなはだご苦労である。うらなり君がおれの前へ来て、一つ頂戴致しましょうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも窮屈にズボンのままかしこまって、一盃(ぱい)差し上げた。せっかく参って、すぐお別れになるのは残念ですね。ご出立(しゅったつ)はいつです、是非浜までお見送りをしましょうと云ったら、うらなり君はいえご用多(おお)のところ決してそれには及(およ)びませんと答えた。うらなり君が何と云ったって、おれは学校を休んで送る気でいる。
 それから一時間ほどするうちに席上は大分乱れて来る。まあ一杯(ぱい)、おや僕が飲めと云うのに……などと呂律(ろれつ)の巡(まわ)りかねるのも一人二人(ひとりふたり)出来て来た。少々退屈(たいくつ)したから便所へ行って、昔風な庭を星明りにすかして眺(なが)めていると山嵐が来た。どうださっきの演説はうまかったろう。と大分得意である。大賛成だが一ヶ所気に入らないと抗議(こうぎ)を申し込んだら、どこが不賛成だと聞いた。
「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡に居(お)らないから……と君は云ったろう」
「うん」
「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
「じゃ何と云うんだ」
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被(ねこっかぶ)りの、香具師(やし)の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」
「おれには、そう舌は廻らない。君は能弁だ。第一単語を大変たくさん知ってる。それで演舌(えんぜつ)が出来ないのは不思議だ」
「なにこれは喧嘩(けんか)のときに使おうと思って、用心のために取っておく言葉さ。演舌となっちゃ、こうは出ない」
「そうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やって見たまえ」
「何遍でもやるさいいか。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」と云いかけていると、椽側(えんがわ)をどたばた云わして、二人ばかり、よろよろしながら馳(か)け出して来た。
「両君そりゃひどい、――逃げるなんて、――僕が居るうちは決して逃(にが)さない、さあのみたまえ。――いかさま師?――面白い、いかさま面白い。――さあ飲みたまえ」
とおれと山嵐をぐいぐい引っ張って行く。実はこの両人共便所に来たのだが、酔(よ)ってるもんだから、便所へはいるのを忘れて、おれ等を引っ張るのだろう。酔っ払いは目の中(あた)る所へ用事を拵えて、前の事はすぐ忘れてしまうんだろう。
「さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ましてくれたまえ。いかさま師をうんと云うほど、酔わしてくれたまえ。君逃げちゃいかん」
と逃げもせぬ、おれを壁際(かべぎわ)へ圧(お)し付けた。諸方を見廻してみると、膳の上に満足な肴の乗っているのは一つもない。自分の分を奇麗(きれい)に食い尽(つく)して、五六間先へ遠征(えんせい)に出た奴もいる。校長はいつ帰ったか姿が見えない。
 ところへお座敷はこちら? と芸者が三四人はいって来た。おれも少し驚(おど)ろいたが、壁際へ圧し付けられているんだから、じっとしてただ見ていた。すると今まで床柱(とこばしら)へもたれて例の琥珀(こはく)のパイプを自慢(じまん)そうに啣(くわ)えていた、赤シャツが急に起(た)って、座敷を出にかかった。向(むこ)うからはいって来た芸者の一人が、行き違いながら、笑って挨拶をした。その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。遠くで聞(きこ)えなかったが、おや今晩はぐらい云ったらしい。赤シャツは知らん顔をして出て行ったぎり、顔を出さなかった。大方校長のあとを追懸(おいか)けて帰ったんだろう。
 芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同が鬨(とき)の声を揚(あ)げて歓迎(かんげい)したのかと思うくらい、騒々(そうぞう)しい。そうしてある奴はなんこを攫(つか)む。その声の大きな事、まるで居合抜(いあいぬき)の稽古(けいこ)のようだ。こっちでは拳(けん)を打ってる。よっ、はっ、と夢中(むちゅう)で両手を振るところは、ダーク一座の操人形(あやつりにんぎょう)よりよっぽど上手(じょうず)だ。向うの隅(すみ)ではおいお酌(しゃく)だ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。どうもやかましくて騒々しくってたまらない。そのうちで手持無沙汰(てもちぶさた)に下を向いて考え込んでるのはうらなり君ばかりである。自分のために送別会を開いてくれたのは、自分の転任を惜(おし)んでくれるんじゃない。みんなが酒を呑(の)んで遊ぶためだ。自分独りが手持無沙汰で苦しむためだ。こんな送別会なら、開いてもらわない方がよっぽどましだ。
 しばらくしたら、めいめい胴間声(どうまごえ)を出して何か唄(うた)い始めた。おれの前へ来た一人の芸者が、あんた、なんぞ、唄いなはれ、と三味線を抱(かか)えたから、おれは唄わない、貴様唄ってみろと云ったら、金(かね)や太鼓(たいこ)でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。叩いて廻って逢(あ)われるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて廻って逢いたい人がある、と二た息にうたって、おおしんどと云った。おおしんどなら、もっと楽なものをやればいいのに。
 すると、いつの間にか傍(そば)へ来て坐った、野だが、鈴ちゃん逢いたい人に逢ったと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたようでげすと相変らず噺(はな)し家みたような言葉使いをする。知りまへんと芸者はつんと済ました。野だは頓着(とんじゃく)なく、たまたま逢いは逢いながら……と、いやな声を出して義太夫(ぎだゆう)の真似(まね)をやる。おきなはれやと芸者は平手で野だの膝(ひざ)を叩いたら野だは恐悦(きょうえつ)して笑ってる。この芸者は赤シャツに挨拶をした奴だ。芸者に叩かれて笑うなんて、野だもおめでたい者だ。鈴ちゃん僕が紀伊(き)の国を踴(おど)るから、一つ弾(ひ)いて頂戴と云い出した。野だはこの上まだ踴る気でいる。
 向うの方で漢学のお爺(じい)さんが歯のない口を歪(ゆが)めて、そりゃ聞えません伝兵衛(でんべい)さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に済(すま)したが、それから? と芸者に聞いている。爺さんなんて物覚えのわるいものだ。一人が博物を捕(つら)まえて近頃(ちかごろ)こないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。よう聞いて、いなはれや――花月巻(かげつまき)、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可(はんか)の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。
 山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞(けんぶ)をやるから、三味線を弾けと号令を下した。芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取られて返事もしない。山嵐は委細構わず、ステッキを持って来て、踏破千山万岳烟(ふみやぶるせんざんばんがくのけむり)と真中(まんなか)へ出て独りで隠(かく)し芸を演じている。ところへ野だがすでに紀伊(き)の国を済まして、かっぽれを済まして、棚(たな)の達磨(だるま)さんを済して丸裸(まるはだか)の越中褌(えっちゅうふんどし)一つになって、棕梠箒(しゅろぼうき)を小脇に抱(か)い込んで、日清談判破裂(はれつ)して……と座敷中練りあるき出した。まるで気違(きちが)いだ。
 おれはさっきから苦しそうに袴も脱(ぬ)がず控えているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の裸踴(はだかおどり)まで羽織袴で我慢(がまん)してみている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。するとうらなり君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰っては失礼です、どうぞご遠慮(えんりょ)なくと動く景色もない。なに構うもんですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、あの様をご覧なさい。気狂会(きちがいかい)です。さあ行きましょうと、進まないのを無理に勧めて、座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して来て、やご主人が先へ帰るとはひどい。日清談判だ。帰せないと箒を横にして行く手を塞(ふさ)いだ。おれはさっきから肝癪(かんしゃく)が起っているところだから、日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨(げんこつ)で、野だの頭をぽかりと喰(く)わしてやった。野だは二三秒の間毒気を抜かれた体(てい)で、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。お撲(ぶ)ちになったのは情ない。この吉川をご打擲(ちょうちゃく)とは恐れ入った。いよいよもって日清談判だ。とわからぬ事をならべているところへ、うしろから山嵐が何か騒動(そうどう)が始まったと見てとって、剣舞をやめて、飛んできたが、このていたらくを見て、いきなり頸筋(くびすじ)をうんと攫(つか)んで引き戻(もど)した。日清……いたい。いたい。どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横に捩(ねじ)ったら、すとんと倒(たお)れた。あとはどうなったか知らない。途中(とちゅう)でうらなり君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。

     十

 祝勝会で学校はお休みだ。練兵場(れんぺいば)で式があるというので、狸(たぬき)は生徒を引率して参列しなくてはならない。おれも職員の一人(ひとり)としていっしょにくっついて行くんだ。町へ出ると日の丸だらけで、まぼしいくらいである。学校の生徒は八百人もあるのだから、体操の教師が隊伍(たいご)を整えて、一組一組の間を少しずつ明けて、それへ職員が一人か二人(ふたり)ずつ監督(かんとく)として割り込(こ)む仕掛(しか)けである。仕掛(しかけ)だけはすこぶる巧妙(こうみょう)なものだが、実際はすこぶる不手際である。生徒は小供(こども)の上に、生意気で、規律を破らなくっては生徒の体面にかかわると思ってる奴等(やつら)だから、職員が幾人(いくたり)ついて行ったって何の役に立つもんか。命令も下さないのに勝手な軍歌をうたったり、軍歌をやめるとワーと訳もないのに鬨(とき)の声を揚(あ)げたり、まるで浪人(ろうにん)が町内をねりあるいてるようなものだ。軍歌も鬨の声も揚げない時はがやがや何か喋舌(しゃべ)ってる。喋舌らないでも歩けそうなもんだが、日本人はみな口から先へ生れるのだから、いくら小言を云(い)ったって聞きっこない。喋舌るのもただ喋舌るのではない、教師のわる口を喋舌るんだから、下等だ。おれは宿直事件で生徒を謝罪さして、まあこれならよかろうと思っていた。ところが実際は大違(おおちが)いである。下宿の婆(ばあ)さんの言葉を借りて云えば、正に大違いの勘五郎(かんごろう)である。生徒があやまったのは心(しん)から後悔(こうかい)してあやまったのではない。ただ校長から、命令されて、形式的に頭を下げたのである。商人が頭ばかり下げて、狡(ずる)い事をやめないのと一般で生徒も謝罪だけはするが、いたずらは決してやめるものでない。よく考えてみると世の中はみんなこの生徒のようなものから成立しているかも知れない。人があやまったり詫(わ)びたりするのを、真面目(まじめ)に受けて勘弁するのは正直過ぎる馬鹿(ばか)と云うんだろう。あやまるのも仮りにあやまるので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思ってれば差(さ)し支(つか)えない。もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで叩(たた)きつけなくてはいけない。
 おれが組と組の間にはいって行くと、天麩羅(てんぷら)だの、団子(だんご)だの、と云う声が絶えずする。しかも大勢だから、誰(だれ)が云うのだか分らない。よし分ってもおれの事を天麩羅と云ったんじゃありません、団子と申したのじゃありません、それは先生が神経衰弱(しんけいすいじゃく)だから、ひがんで、そう聞くんだぐらい云うに極(き)まってる。こんな卑劣(ひれつ)な根性は封建時代から、養成したこの土地の習慣なんだから、いくら云って聞かしたって、教えてやったって、到底(とうてい)直りっこない。こんな土地に一年も居ると、潔白なおれも、この真似(まね)をしなければならなく、なるかも知れない。向(むこ)うでうまく言い抜(ぬ)けられるような手段で、おれの顔を汚(よご)すのを抛(ほう)っておく、樗蒲一(ちょぼいち)はない。向こうが人ならおれも人だ。生徒だって、子供だって、ずう体はおれより大きいや。だから刑罰(けいばつ)として何か返報をしてやらなくっては義理がわるい。ところがこっちから返報をする時分に尋常(じんじょう)の手段で行くと、向うから逆捩(さかねじ)を食わして来る。貴様がわるいからだと云うと、初手から逃(に)げ路(みち)が作ってある事だから滔々(とうとう)と弁じ立てる。弁じ立てておいて、自分の方を表向きだけ立派にしてそれからこっちの非を攻撃(こうげき)する。もともと返報にした事だから、こちらの弁護は向うの非が挙がらない上は弁護にならない。つまりは向うから手を出しておいて、世間体はこっちが仕掛けた喧嘩(けんか)のように、見傚(みな)されてしまう。大変な不利益だ。それなら向うのやるなり、愚迂多良童子(ぐうたらどうじ)を極め込んでいれば、向うはますます増長するばかり、大きく云えば世の中のためにならない。そこで仕方がないから、こっちも向うの筆法を用いて捕(つら)まえられないで、手の付けようのない返報をしなくてはならなくなる。そうなっては江戸(えど)っ子も駄目(だめ)だ。駄目だが一年もこうやられる以上は、おれも人間だから駄目でも何でもそうならなくっちゃ始末がつかない。どうしても早く東京へ帰って清(きよ)といっしょになるに限る。こんな田舎(いなか)に居るのは堕落(だらく)しに来ているようなものだ。新聞配達をしたって、ここまで堕落するよりはましだ。
 こう考えて、いやいや、附(つ)いてくると、何だか先鋒(せんぽう)が急にがやがや騒(さわ)ぎ出した。同時に列はぴたりと留まる。変だから、列を右へはずして、向うを見ると、大手町(おおてまち)を突(つ)き当って薬師町(やくしまち)へ曲がる角の所で、行き詰(づま)ったぎり、押(お)し返したり、押し返されたりして揉(も)み合っている。前方から静かに静かにと声を涸(か)らして来た体操教師に何ですと聞くと、曲り角で中学校と師範(しはん)学校が衝突(しょうとつ)したんだと云う。
 中学と師範とはどこの県下でも犬と猿(さる)のように仲がわるいそうだ。なぜだかわからないが、まるで気風が合わない。何かあると喧嘩をする。大方狭(せま)い田舎で退屈(たいくつ)だから、暇潰(ひまつぶ)しにやる仕事なんだろう。おれは喧嘩は好きな方だから、衝突と聞いて、面白半分に馳(か)け出して行った。すると前の方にいる連中は、しきりに何だ地方税の癖(くせ)に、引き込めと、怒鳴(どな)ってる。後ろからは押せ押せと大きな声を出す。
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