坊っちゃん
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著者名:夏目漱石 

お早うお帰りと、かみさんが、浜に立って赤シャツに挨拶(あいさつ)する。おれは船端(ふなばた)から、やっと掛声(かけごえ)をして磯へ飛び下りた。

     六

 野だは大嫌(だいきら)いだ。こんな奴(やつ)は沢庵石(たくあんいし)をつけて海の底へ沈(しず)めちまう方が日本のためだ。赤シャツは声が気に食わない。あれは持前の声をわざと気取ってあんな優しいように見せてるんだろう。いくら気取ったって、あの面じゃ駄目(だめ)だ。惚(ほ)れるものがあったってマドンナぐらいなものだ。しかし教頭だけに野だよりむずかしい事を云(い)う。うちへ帰って、あいつの申し条を考えてみると一応もっとものようでもある。はっきりとした事は云わないから、見当がつきかねるが、何でも山嵐(やまあらし)がよくない奴だから用心しろと云うのらしい。それならそうとはっきり断言するがいい、男らしくもない。そうして、そんな悪(わ)るい教師なら、早く免職(めんしょく)さしたらよかろう。教頭なんて文学士の癖(くせ)に意気地(いくじ)のないもんだ。蔭口(かげぐち)をきくのでさえ、公然と名前が云えないくらいな男だから、弱虫に極(き)まってる。弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろう。親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違(ちが)う。それにしても世の中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気のあった友達が悪漢(わるもの)だなんて、人を馬鹿(ばか)にしている。大方田舎(いなか)だから万事東京のさかに行くんだろう。物騒(ぶっそう)な所だ。今に火事が氷って、石が豆腐(とうふ)になるかも知れない。しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたずらをしそうもないがな。一番人望のある教師だと云うから、やろうと思ったら大抵(たいてい)の事は出来るかも知れないが、――第一そんな廻(まわ)りくどい事をしないでも、じかにおれを捕(つら)まえて喧嘩(けんか)を吹き懸(か)けりゃ手数が省ける訳だ。おれが邪魔(じゃま)になるなら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれと云や、よさそうなもんだ。物は相談ずくでどうでもなる。向(むこ)うの云い条がもっともなら、明日にでも辞職してやる。ここばかり米が出来る訳でもあるまい。どこの果(はて)へ行ったって、のたれ死(じに)はしないつもりだ。山嵐もよっぽど話せない奴だな。
 ここへ来た時第一番に氷水を奢(おご)ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一杯(ぱい)しか飲まなかったから一銭五厘(りん)しか払(はら)わしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師(さぎし)の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。おれは清(きよ)から三円借りている。その三円は五年経(た)った今日までまだ返さない。返せないんじゃない。返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中(かいちゅう)をあてにしてはいない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清を踏(ふ)みつけるのじゃない、清をおれの片破(かたわ)れと思うからだ。清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶(あまちゃ)だろうが、他人から恵(めぐみ)を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有(ありがた)いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊(たっ)といお礼と思わなければならない。
 おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発(ふんぱつ)させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。山嵐は難有(ありがた)いと思ってしかるべきだ。それに裏へ廻って卑劣(ひれつ)な振舞(ふるまい)をするとは怪(け)しからん野郎(やろう)だ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をしてやろう。
 おれはここまで考えたら、眠(ねむ)くなったからぐうぐう寝(ね)てしまった。あくる日は思う仔細(しさい)があるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところがなかなか出て来ない。うらなりが出て来る。漢学の先生が出て来る。野だが出て来る。しまいには赤シャツまで出て来たが山嵐の机の上は白墨(はくぼく)が一本竪(たて)に寝ているだけで閑静(かんせい)なものだ。おれは、控所(ひかえじょ)へはいるや否や返そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校まで握(にぎ)って来た。おれは膏(あぶら)っ手だから、開けてみると一銭五厘が汗(あせ)をかいている。汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐が何とか云うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。ところへ赤シャツが来て昨日は失敬、迷惑(めいわく)でしたろうと云ったから、迷惑じゃありません、お蔭で腹が減りましたと答えた。すると赤シャツは山嵐の机の上へ肱(ひじ)を突(つ)いて、あの盤台面(ばんだいづら)をおれの鼻の側面へ持って来たから、何をするかと思ったら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれたまえ。まだ誰(だれ)にも話しやしますまいねと云った。女のような声を出すだけに心配性な男と見える。話さない事はたしかである。しかしこれから話そうと云う心持ちで、すでに一銭五厘手の平に用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ちと困る。赤シャツも赤シャツだ。山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察の出来る謎(なぞ)をかけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。元来ならおれが山嵐と戦争をはじめて鎬(しのぎ)を削(けず)ってる真中(まんなか)へ出て堂々とおれの肩(かた)を持つべきだ。それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つというもんだ。
 おれは教頭に向(むか)って、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云ったら、赤シャツは大いに狼狽(ろうばい)して、君そんな無法な事をしちゃ困る。僕(ぼく)は堀田(ほった)君の事について、別段君に何も明言した覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。君は学校に騒動(そうどう)を起すつもりで来たんじゃなかろうと妙(みょう)に常識をはずれた質問をするから、当(あた)り前(まえ)です、月給をもらったり、騒動を起したりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと云った。すると赤シャツはそれじゃ昨日の事は君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼(いらい)に及(およ)ぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。君大丈夫(だいじょうぶ)かいと赤シャツは念を押(お)した。どこまで女らしいんだか奥行(おくゆき)がわからない。文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。辻褄(つじつま)の合わない、論理に欠けた注文をして恬然(てんぜん)としている。しかもこのおれを疑ぐってる。憚(はばか)りながら男だ。受け合った事を裏へ廻って反古(ほご)にするようなさもしい了見(りょうけん)はもってるもんか。
 ところへ両隣(りょうどな)りの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ帰って行った。赤シャツは歩(あ)るき方から気取ってる。部屋の中を往来するのでも、音を立てないように靴(くつ)の底をそっと落(おと)す。音を立てないであるくのが自慢(じまん)になるもんだとは、この時から始めて知った。泥棒(どろぼう)の稽古(けいこ)じゃあるまいし、当り前にするがいい。やがて始業の喇叭(らっぱ)がなった。山嵐はとうとう出て来ない。仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ出掛(でか)けた。
 授業の都合(つごう)で一時間目は少し後(おく)れて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控えて話をしている。山嵐もいつの間にか来ている。欠勤だと思ったら遅刻(ちこく)したんだ。おれの顔を見るや否や今日は君のお蔭で遅刻したんだ。罰金(ばっきん)を出したまえと云った。おれは机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから取っておけ。先達(せんだっ)て通町(とおりちょう)で飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を云ってるんだと笑いかけたが、おれが存外真面目(まじめ)でいるので、つまらない冗談(じょうだん)をするなと銭をおれの机の上に掃(は)き返した。おや山嵐の癖(くせ)にどこまでも奢る気だな。
「冗談じゃない本当だ。おれは君に氷水を奢られる因縁(いんえん)がないから、出すんだ。取らない法があるか」
「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すんだ」
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」
 山嵐は冷然とおれの顔を見てふんと云った。赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣(ひれつ)をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだから動きがとれない。人がこんなに真赤(まっか)になってるのにふんという理窟(りくつ)があるものか。
「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ」
「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主(ていしゅ)が来て君に出てもらいたいと云うから、その訳を聞いたら亭主の云うのはもっともだ。それでももう一応たしかめるつもりで今朝(けさ)あすこへ寄って詳(くわ)しい話を聞いてきたんだ」
 おれには山嵐の云う事が何の意味だか分らない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。そう自分だけで極めたって仕様があるか。訳があるなら、訳を話すが順だ。てんから亭主の云う方がもっともだなんて失敬千万な事を云うな」
「うん、そんなら云ってやろう。君は乱暴であの下宿で持て余(あ)まされているんだ。いくら下宿の女房だって、下女たあ違うぜ。足を出して拭(ふ)かせるなんて、威張(いば)り過ぎるさ」
「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うじゃ、君に困ってるんだ。下宿料の十円や十五円は懸物(かけもの)を一幅(ぷく)売りゃ、すぐ浮(う)いてくるって云ってたぜ」
「利いた風な事をぬかす野郎(やろう)だ。そんなら、なぜ置いた」
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだから、出ろと云うんだろう。君出てやれ」
「当り前だ。居てくれと手を合せたって、居るものか。一体そんな云い懸(がか)りを云うような所へ周旋(しゅうせん)する君からしてが不埒(ふらち)だ」
「おれが不埒か、君が大人(おとな)しくないんだか、どっちかだろう」
 山嵐もおれに劣(おと)らぬ肝癪持(かんしゃくも)ちだから、負け嫌(ぎら)いな大きな声を出す。控所に居た連中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋(あご)を長くしてぼんやりしている。おれは、別に恥(は)ずかしい事をした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡(みま)わしてやった。みんなが驚(おど)ろいてるなかに野だだけは面白そうに笑っていた。おれの大きな眼(め)が、貴様も喧嘩をするつもりかと云う権幕で、野だの干瓢(かんぴょう)づらを射貫(いぬ)いた時に、野だは突然(とつぜん)真面目な顔をして、大いにつつしんだ。少し怖(こ)わかったと見える。そのうち喇叭が鳴る。山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。

 午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。会議というものは生れて始めてだからとんと容子(ようす)が分らないが、職員が寄って、たかって自分勝手な説をたてて、それを校長が好い加減に纏(まと)めるのだろう。纏めるというのは黒白(こくびゃく)の決しかねる事柄(ことがら)について云うべき言葉だ。この場合のような、誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは暇潰(ひまつぶ)しだ。誰が何と解釈したって異説の出ようはずがない。こんな明白なのは即座(そくざ)に校長が処分してしまえばいいに。随分(ずいぶん)決断のない事だ。校長ってものが、これならば、何の事はない、煮(に)え切(き)らない愚図(ぐず)の異名だ。
 会議室は校長室の隣(とな)りにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒い皮で張った椅子(いす)が二十脚(きゃく)ばかり、長いテーブルの周囲に並(なら)んでちょっと神田の西洋料理屋ぐらいな格だ。そのテーブルの端(はじ)に校長が坐(すわ)って、校長の隣りに赤シャツが構える。あとは勝手次第に席に着くんだそうだが、体操(たいそう)の教師だけはいつも席末に謙遜(けんそん)するという話だ。おれは様子が分らないから、博物の教師と漢学の教師の間へはいり込(こ)んだ。向うを見ると山嵐と野だが並んでる。野だの顔はどう考えても劣等だ。喧嘩はしても山嵐の方が遥(はる)かに趣(おもむき)がある。おやじの葬式(そうしき)の時に小日向(こびなた)の養源寺(ようげんじ)の座敷(ざしき)にかかってた懸物はこの顔によく似ている。坊主(ぼうず)に聞いてみたら韋駄天(いだてん)と云う怪物だそうだ。今日は怒(おこ)ってるから、眼をぐるぐる廻しちゃ、時々おれの方を見る。そんな事で威嚇(おど)かされてたまるもんかと、おれも負けない気で、やっぱり眼をぐりつかせて、山嵐をにらめてやった。おれの眼は恰好(かっこう)はよくないが、大きい事においては大抵な人には負けない。あなたは眼が大きいから役者になるときっと似合いますと清がよく云ったくらいだ。
 もう大抵お揃(そろ)いでしょうかと校長が云うと、書記の川村と云うのが一つ二つと頭数を勘定(かんじょう)してみる。一人足りない。一人不足ですがと考えていたが、これは足りないはずだ。唐茄子(とうなす)のうらなり君が来ていない。おれとうらなり君とはどう云う宿世(すくせ)の因縁かしらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない。控所へくれば、すぐ、うらなり君が眼に付く、途中(とちゅう)をあるいていても、うらなり先生の様子が心に浮(うか)ぶ。温泉へ行くと、うらなり君が時々蒼(あお)い顔をして湯壺(ゆつぼ)のなかに膨(ふく)れている。挨拶(あいさつ)をするとへえと恐縮(きょうしゅく)して頭を下げるから気の毒になる。学校へ出てうらなり君ほど大人しい人は居ない。めったに笑った事もないが、余計な口をきいた事もない。おれは君子という言葉を書物の上で知ってるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思ってたが、うらなり君に逢(あ)ってから始めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらいだ。
 このくらい関係の深い人の事だから、会議室へはいるや否や、うらなり君の居ないのは、すぐ気がついた。実を云うと、この男の次へでも坐(す)わろうかと、ひそかに目標(めじるし)にして来たくらいだ。校長はもうやがて見えるでしょうと、自分の前にある紫(むらさき)の袱紗包(ふくさづつみ)をほどいて、蒟蒻版(こんにゃくばん)のような者を読んでいる。赤シャツは琥珀(こはく)のパイプを絹ハンケチで磨(みが)き始めた。この男はこれが道楽である。赤シャツ相当のところだろう。ほかの連中は隣り同志で何だか私語(ささや)き合っている。手持無沙汰(てもちぶさた)なのは鉛筆(えんぴつ)の尻(しり)に着いている、護謨(ゴム)の頭でテーブルの上へしきりに何か書いている。野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向応じない。ただうんとかああと云うばかりで、時々怖(こわ)い眼をして、おれの方を見る。おれも負けずに睨(にら)め返す。
 ところへ待ちかねた、うらなり君が気の毒そうにはいって来て少々用事がありまして、遅刻致(いた)しましたと慇懃(いんぎん)に狸(たぬき)に挨拶(あいさつ)をした。では会議を開きますと狸はまず書記の川村君に蒟蒻版を配布させる。見ると最初が処分の件、次が生徒取締(とりしまり)の件、その他二三ヶ条である。狸は例の通りもったいぶって、教育の生霊(いきりょう)という見えでこんな意味の事を述べた。「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳(かとく)の致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧(ざんき)の念に堪(た)えんが、不幸にして今回もまたかかる騒動を引き起したのは、深く諸君に向って謝罪しなければならん。しかしひとたび起った以上は仕方がない、どうにか処分をせんければならん、事実はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹蔵のない事を参考のためにお述べ下さい」
 おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのと云うものは、えらい事を云うもんだと感心した。こう校長が何もかも責任を受けて、自分の咎(とが)だとか、不徳だとか云うくらいなら、生徒を処分するのは、やめにして、自分から先へ免職(めんしょく)になったら、よさそうなもんだ。そうすればこんな面倒(めんどう)な会議なんぞを開く必要もなくなる訳だ。第一常識から云(い)っても分ってる。おれが大人しく宿直をする。生徒が乱暴をする。わるいのは校長でもなけりゃ、おれでもない、生徒だけに極(きま)ってる。もし山嵐が煽動(せんどう)したとすれば、生徒と山嵐を退治(たいじ)ればそれでたくさんだ。人の尻(しり)を自分で背負(しょ)い込(こ)んで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかす奴が、どこの国にあるもんか、狸でなくっちゃ出来る芸当じゃない。彼(かれ)はこんな条理(じょうり)に適(かな)わない議論を吐(は)いて、得意気に一同を見廻した。ところが誰も口を開くものがない。博物の教師は第一教場の屋根に烏(からす)がとまってるのを眺(なが)めている。漢学の先生は蒟蒻版(こんにゃくばん)を畳(たた)んだり、延ばしたりしてる。山嵐はまだおれの顔をにらめている。会議と云うものが、こんな馬鹿気(ばかげ)たものなら、欠席して昼寝でもしている方がましだ。
 おれは、じれったくなったから、一番大いに弁じてやろうと思って、半分尻をあげかけたら、赤シャツが何か云い出したから、やめにした。見るとパイプをしまって、縞(しま)のある絹ハンケチで顔をふきながら、何か云っている。あの手巾(はんけち)はきっとマドンナから巻き上げたに相違(そうい)ない。男は白い麻(あさ)を使うもんだ。「私も寄宿生の乱暴を聞いてはなはだ教頭として不行届(ふゆきとどき)であり、かつ平常の徳化が少年に及ばなかったのを深く慚(は)ずるのであります。でこう云う事は、何か陥欠(かんけつ)があると起るもので、事件その物を見ると何だか生徒だけがわるいようであるが、その真相を極めると責任はかえって学校にあるかも知れない。だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのは、かえって未来のためによくないかとも思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、半ば無意識にこんな悪戯(いたずら)をやる事はないとも限らん。でもとより処分法は校長のお考えにある事だから、私の容喙(ようかい)する限りではないが、どうかその辺をご斟酌(しんしゃく)になって、なるべく寛大なお取計(とりはからい)を願いたいと思います」
 なるほど狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。生徒があばれるのは、生徒がわるいんじゃない教師が悪るいんだと公言している。気狂(きちがい)が人の頭を撲(なぐ)り付けるのは、なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。難有(ありがた)い仕合せだ。活気にみちて困るなら運動場へ出て相撲(すもう)でも取るがいい、半ば無意識に床の中へバッタを入れられてたまるものか。この様子じゃ寝頸(ねくび)をかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
 おれはこう考えて何か云おうかなと考えてみたが、云うなら人を驚ろすかように滔々(とうとう)と述べたてなくっちゃつまらない、おれの癖として、腹が立ったときに口をきくと、二言か三言で必ず行き塞(つま)ってしまう。狸でも赤シャツでも人物から云うと、おれよりも下等だが、弁舌はなかなか達者だから、まずい事を喋舌(しゃべ)って揚足(あげあし)を取られちゃ面白くない。ちょっと腹案を作ってみようと、胸のなかで文章を作ってる。すると前に居た野だが突然起立したには驚ろいた。野だの癖に意見を述べるなんて生意気だ。野だは例のへらへら調で「実に今回のバッタ事件及び咄喊(とっかん)事件は吾々(われわれ)心ある職員をして、ひそかに吾(わが)校将来の前途(ぜんと)に危惧(きぐ)の念を抱(いだ)かしむるに足る珍事(ちんじ)でありまして、吾々職員たるものはこの際奮(ふる)って自ら省りみて、全校の風紀を振粛(しんしゅく)しなければなりません。それでただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮(こうけい)に中(あた)った剴切(がいせつ)なお考えで私は徹頭徹尾(てっとうてつび)賛成致します。どうかなるべく寛大(かんだい)のご処分を仰(あお)ぎたいと思います」と云った。野だの云う事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列(ちんれつ)するぎりで訳が分らない。分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉だけだ。
 おれは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに起(た)ち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と云ったがあとが急に出て来ない。「……そんな頓珍漢(とんちんかん)な、処分は大嫌(だいきら)いです」とつけたら、職員が一同笑い出した。「一体生徒が全然悪(わ)るいです。どうしても詫(あや)まらせなくっちゃ、癖になります。退校さしても構いません。……何だ失敬な、新しく来た教師だと思って……」と云って着席した。すると右隣りに居る博物が「生徒がわるい事も、わるいが、あまり厳重な罰などをするとかえって反動を起していけないでしょう。やっぱり教頭のおっしゃる通り、寛な方に賛成します」と弱い事を云った。左隣の漢学は穏便説(おんびんせつ)に賛成と云った。歴史も教頭と同説だと云った。忌々(いまいま)しい、大抵のものは赤シャツ党だ。こんな連中が寄り合って学校を立てていりゃ世話はない。おれは生徒をあやまらせるか、辞職するか二つのうち一つに極めてるんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷作りをする覚悟(かくご)でいた。どうせ、こんな手合(てあい)を弁口(べんこう)で屈伏(くっぷく)させる手際はなし、させたところでいつまでご交際を願うのは、こっちでご免だ。学校に居ないとすればどうなったって構うもんか。また何か云うと笑うに違いない。だれが云うもんかと澄(すま)していた。
 すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、起ち上がった。野郎また赤シャツ賛成の意を表するな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると山嵐は硝子(ガラス)窓を振(ふる)わせるような声で「私(わたくし)は教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。というものはこの事件はどの点から見ても、五十名の寄宿生が新来の教師某氏(ぼうし)を軽侮(けいぶ)してこれを翻弄(ほんろう)しようとした所為(しょい)とより外(ほか)には認められんのであります。教頭はその源因を教師の人物いかんにお求めになるようでありますが失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事で、まだ生徒に接せられてから二十日に満たぬ頃(ころ)であります。この短かい二十日間において生徒は君の学問人物を評価し得る余地がないのであります。軽侮されべき至当な理由があって、軽侮を受けたのなら生徒の行為に斟酌(しんしゃく)を加える理由もありましょうが、何らの源因もないのに新来の先生を愚弄(ぐろう)するような軽薄な生徒を寛仮(かんか)しては学校の威信(いしん)に関わる事と思います。教育の精神は単に学問を授けるばかりではない、高尚(こうしょう)な、正直な、武士的な元気を鼓吹(こすい)すると同時に、野卑(やひ)な、軽躁(けいそう)な、暴慢(ぼうまん)な悪風を掃蕩(そうとう)するにあると思います。もし反動が恐(おそろ)しいの、騒動が大きくなるのと姑息(こそく)な事を云った日にはこの弊風(へいふう)はいつ矯正(きょうせい)出来るか知れません。かかる弊風を杜絶(とぜつ)するためにこそ吾々はこの学校に職を奉じているので、これを見逃(みの)がすくらいなら始めから教師にならん方がいいと思います。私は以上の理由で寄宿生一同を厳罰(げんばつ)に処する上に、当該(とうがい)教師の面前において公けに謝罪の意を表せしむるのを至当の所置と心得ます」と云いながら、どんと腰(こし)を卸(おろ)した。一同はだまって何にも言わない。赤シャツはまたパイプを拭(ふ)き始めた。おれは何だか非常に嬉(うれ)しかった。おれの云おうと思うところをおれの代りに山嵐がすっかり言ってくれたようなものだ。おれはこう云う単純な人間だから、今までの喧嘩はまるで忘れて、大いに難有(ありがた)いと云う顔をもって、腰を卸した山嵐の方を見たら、山嵐は一向知らん面(かお)をしている。
 しばらくして山嵐はまた起立した。「ただ今ちょっと失念して言い落(おと)しましたから、申します。当夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたようであるが、あれはもっての外の事と考えます。いやしくも自分が一校の留守番を引き受けながら、咎(とが)める者のないのを幸(さいわい)に、場所もあろうに温泉などへ入湯にいくなどと云うのは大きな失体である。生徒は生徒として、この点については校長からとくに責任者にご注意あらん事を希望します」
 妙な奴だ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失策をあばいている。おれは何の気もなく、前の宿直が出あるいた事を知って、そんな習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまったんだが、なるほどそう云われてみると、これはおれが悪るかった。攻撃(こうげき)されても仕方がない。そこでおれはまた起って「私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまります」と云って着席したら、一同がまた笑い出した。おれが何か云いさえすれば笑う。つまらん奴等(やつら)だ。貴様等これほど自分のわるい事を公けにわるかったと断言出来るか、出来ないから笑うんだろう。
 それから校長は、もう大抵ご意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しましょうと云った。ついでだからその結果を云うと、寄宿生は一週間の禁足になった上に、おれの前へ出て謝罪をした。謝罪をしなければその時辞職して帰るところだったがなまじい、おれのいう通りになったのでとうとう大変な事になってしまった。それはあとから話すが、校長はこの時会議の引き続きだと号してこんな事を云った。生徒の風儀(ふうぎ)は、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく飲食店などに出入(しゅつにゅう)しない事にしたい。もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい――たとえば蕎麦屋(そばや)だの、団子屋(だんごや)だの――と云いかけたらまた一同が笑った。野だが山嵐を見て天麩羅(てんぷら)と云って目くばせをしたが山嵐は取り合わなかった。いい気味(きび)だ。
 おれは脳がわるいから、狸の云うことなんか、よく分らないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、おれみたような食い心棒(しんぼう)にゃ到底(とうてい)出来っ子ないと思った。それなら、それでいいから、初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文して雇(やと)うがいい。だんまりで辞令を下げておいて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪なお布令(ふれ)を出すのは、おれのような外に道楽のないものにとっては大変な打撃だ。すると赤シャツがまた口を出した。「元来中学の教師なぞは社会の上流にくらいするものだからして、単に物質的の快楽ばかり求めるべきものでない。その方に耽(ふけ)るとつい品性にわるい影響(えいきょう)を及ぼすようになる。しかし人間だから、何か娯楽(ごらく)がないと、田舎(いなか)へ来て狭(せま)い土地では到底暮(くら)せるものではない。それで釣(つり)に行くとか、文学書を読むとか、または新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚(こうしょう)な精神的娯楽を求めなくってはいけない……」
 だまって聞いてると勝手な熱を吹く。沖(おき)へ行って肥料(こやし)を釣ったり、ゴルキが露西亜(ロシア)の文学者だったり、馴染(なじみ)の芸者が松(まつ)の木の下に立ったり、古池へ蛙(かわず)が飛び込んだりするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子を呑(の)み込むのも精神的娯楽だ。そんな下さらない娯楽を授けるより赤シャツの洗濯(せんたく)でもするがいい。あんまり腹が立ったから「マドンナに逢(あ)うのも精神的娯楽ですか」と聞いてやった。すると今度は誰も笑わない。妙な顔をして互(たがい)に眼と眼を見合せている。赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。それ見ろ。利いたろう。ただ気の毒だったのはうらなり君で、おれが、こう云ったら蒼い顔をますます蒼くした。

     七

 おれは即夜(そくや)下宿を引き払(はら)った。宿へ帰って荷物をまとめていると、女房(にょうぼう)が何か不都合(ふつごう)でもございましたか、お腹の立つ事があるなら、云(い)っておくれたら改めますと云う。どうも驚(おど)ろく。世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかり揃(そろ)ってるんだろう。出てもらいたいんだか、居てもらいたいんだか分(わか)りゃしない。まるで気狂(きちがい)だ。こんな者を相手に喧嘩(けんか)をしたって江戸(えど)っ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと出てきた。
 出た事は出たが、どこへ行くというあてもない。車屋が、どちらへ参りますと云うから、だまって尾(つ)いて来い、今にわかる、と云って、すたすたやって来た。面倒(めんどう)だから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり手数だ。こうして歩いてるうちには下宿とか、何とか看板のあるうちを目付け出すだろう。そうしたら、そこが天意に叶(かな)ったわが宿と云う事にしよう。とぐるぐる、閑静(かんせい)で住みよさそうな所をあるいているうち、とうとう鍛冶屋町(かじやちょう)へ出てしまった。ここは士族屋敷(やしき)で下宿屋などのある町ではないから、もっと賑(にぎ)やかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといい事を考え付いた。おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷を控(ひか)えているくらいだから、この辺の事情には通じているに相違(そうい)ない。あの人を尋(たず)ねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかも知れない。幸(さいわい)一度挨拶(あいさつ)に来て勝手は知ってるから、捜(さ)がしてあるく面倒はない。ここだろうと、いい加減に見当をつけて、ご免(めん)ご免と二返ばかり云うと、奥(おく)から五十ぐらいな年寄(としより)が古風な紙燭(しそく)をつけて、出て来た。おれは若い女も嫌(きら)いではないが、年寄を見ると何だかなつかしい心持ちがする。大方清(きよ)がすきだから、その魂(たましい)が方々のお婆(ばあ)さんに乗り移るんだろう。これは大方うらなり君のおっ母(か)さんだろう。切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。まあお上がりと云うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関(げんかん)まで呼び出して実はこれこれだが君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町に萩野(はぎの)と云って老人夫婦ぎりで暮(く)らしているものがある、いつぞや座敷(ざしき)を明けておいても無駄(むだ)だから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋(しゅうせん)してくれと頼(たの)んだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。
 その夜から萩野の家の下宿人となった。驚(おどろ)いたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、翌日(あくるひ)から入れ違(ちが)いに野だが平気な顔をして、おれの居た部屋を占領(せんりょう)した事だ。さすがのおれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、お互(たがい)に乗せっこをしているのかも知れない。いやになった。
 世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並(せけんなみ)にしなくちゃ、遣(や)りきれない訳になる。巾着切(きんちゃくきり)の上前をはねなければ三度のご膳(ぜん)が戴(いただ)けないと、事が極(き)まればこうして、生きてるのも考え物だ。と云ってぴんぴんした達者なからだで、首を縊(くく)っちゃ先祖へ済まない上に、外聞が悪い。考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本(もとで)にして牛乳屋でも始めればよかった。そうすれば清もおれの傍(そば)を離(はな)れずに済むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しずに暮(くら)される。いっしょに居るうちは、そうでもなかったが、こうして田舎(いなか)へ来てみると清はやっぱり善人だ。あんな気立(きだて)のいい女は日本中さがして歩いたってめったにはない。婆さん、おれの立つときに、少々風邪(かぜ)を引いていたが今頃(いまごろ)はどうしてるか知らん。先だっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。それにしても、もう返事がきそうなものだが――おれはこんな事ばかり考えて二三日暮していた。
 気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々尋(たず)ねてみるが、聞くたんびに何にも参りませんと気の毒そうな顔をする。ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方(そうほう)共上品だ。爺(じい)さんが夜(よ)るになると、変な声を出して謡(うたい)をうたうには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうと無暗(むやみ)に出て来ないから大きに楽だ。お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにお出(い)でなんだのぞなもしなどと質問をする。奥さんがあるように見えますかね。可哀想(かわいそう)にこれでもまだ二十四ですぜと云ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと冒頭(ぼうとう)を置いて、どこの誰(だれ)さんは二十でお嫁(よめ)をお貰(もら)いたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人(ふたり)お持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて反駁(はんばく)を試みたには恐(おそ)れ入った。それじゃ僕(ぼく)も二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似(まね)て頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。
「本当の本当(ほんま)のって僕あ、嫁が貰いたくって仕方がないんだ」
「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」この挨拶(あいさつ)には痛み入って返事が出来なかった。
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに極(きま)っとらい。私はちゃんと、もう、睨(ね)らんどるぞなもし」
「へえ、活眼(かつがん)だね。どうして、睨らんどるんですか」
「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ち焦(こ)がれておいでるじゃないかなもし」
「こいつあ驚(おどろ)いた。大変な活眼だ」
「中(あた)りましたろうがな、もし」
「そうですね。中ったかも知れませんよ」
「しかし今時の女子(おなご)は、昔(むかし)と違(ちご)うて油断が出来んけれ、お気をお付けたがええぞなもし」
「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい」
「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
「それで、やっと安心した。それじゃ何を気を付けるんですい」
「あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――」
「どこに不たしかなのが居ますかね」
「ここ等(ら)にも大分居(お)ります。先生、あの遠山のお嬢(じょう)さんをご存知かなもし」
「いいえ、知りませんね」
「まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪(べっぴん)さんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生方はみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
「うん、マドンナですか。僕あ芸者の名かと思った」
「いいえ、あなた。マドンナと云うと唐人(とうじん)の言葉で、別嬪さんの事じゃろうがなもし」
「そうかも知れないね。驚いた」
「大方画学の先生がお付けた名ぞなもし」
「野だがつけたんですかい」
「いいえ、あの吉川(よしかわ)先生がお付けたのじゃがなもし」
「そのマドンナが不たしかなんですかい」
「そのマドンナさんが不たしかなマドンナさんでな、もし」
「厄介(やっかい)だね。渾名(あだな)の付いてる女にゃ昔から碌(ろく)なものは居ませんからね。そうかも知れませんよ」
「ほん当にそうじゃなもし。鬼神(きじん)のお松(まつ)じゃの、妲妃(だっき)のお百じゃのてて怖(こわ)い女が居(お)りましたなもし」
「マドンナもその同類なんですかね」
「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしておくれた古賀先生なもし――あの方の所へお嫁(よめ)に行く約束(やくそく)が出来ていたのじゃがなもし――」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艶福(えんぷく)のある男とは思わなかった。人は見懸(みか)けによらない者だな。ちっと気を付けよう」
「ところが、去年あすこのお父さんが、お亡くなりて、――それまではお金もあるし、銀行の株も持ってお出(いで)るし、万事都合(つごう)がよかったのじゃが――それからというものは、どういうものか急に暮し向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人が好過(よす)ぎるけれ、お欺(だま)されたんぞなもし。それや、これやでお輿入(こしいれ)も延びているところへ、あの教頭さんがお出(い)でて、是非お嫁にほしいとお云いるのじゃがなもし」
「あの赤シャツがですか。ひどい奴(やつ)だ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
「人を頼んで懸合(かけお)うておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出来かねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、手蔓(てづる)を求めて遠山さんの方へ出入(でいり)をおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さんを手馴付(てなづ)けておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんなが悪(わ)るく云いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、今さら学士さんがお出(いで)たけれ、その方に替(か)えよてて、それじゃ今日様(こんにちさま)へ済むまいがなもし、あなた」
「全く済まないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね」
「それで古賀さんにお気の毒じゃてて、お友達の堀田(ほった)さんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になれば貰うかも知れんが、今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山家と交際をするには別段古賀さんに済まん事もなかろうとお云いるけれ、堀田さんも仕方がなしにお戻(もど)りたそうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来折合(おりあい)がわるいという評判ぞなもし」
「よくいろいろな事を知ってますね。どうして、そんな詳(くわ)しい事が分るんですか。感心しちまった」
「狭(せま)いけれ何でも分りますぞなもし」
 分り過ぎて困るくらいだ。この容子(ようす)じゃおれの天麩羅(てんぷら)や団子(だんご)の事も知ってるかも知れない。厄介(やっかい)な所だ。しかしお蔭様(かげさま)でマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの関係もわかるし大いに後学になった。ただ困るのはどっちが悪る者だか判然しない。おれのような単純なものには白とか黒とか片づけてもらわないと、どっちへ味方をしていいか分らない。
「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」
「山嵐て何ぞなもし」
「山嵐というのは堀田の事ですよ」
「そりゃ強い事は堀田さんの方が強そうじゃけれど、しかし赤シャツさんは学士さんじゃけれ、働きはある方(かた)ぞな、もし。それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がええというぞなもし」
「つまりどっちがいいんですかね」
「つまり月給の多い方が豪(えら)いのじゃろうがなもし」
 これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。それから二三日して学校から帰るとお婆さんがにこにこして、へえお待遠さま。やっと参りました。と一本の手紙を持って来てゆっくりご覧と云って出て行った。取り上げてみると清からの便りだ。符箋(ふせん)が二三枚(まい)ついてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へ廻(まわ)して、いか銀から、萩野(はぎの)へ廻って来たのである。その上山城屋では一週間ばかり逗留(とうりゅう)している。宿屋だけに手紙まで泊(とめ)るつもりなんだろう。開いてみると、非常に長いもんだ。坊(ぼ)っちゃんの手紙を頂いてから、すぐ返事をかこうと思ったが、あいにく風邪を引いて一週間ばかり寝(ね)ていたものだから、つい遅(おそ)くなって済まない。その上今時のお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、かくのによっぽど骨が折れる。甥(おい)に代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分でかかなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざ下(し)たがきを一返して、それから清書をした。清書をするには二日で済んだが、下た書きをするには四日かかった。読みにくいかも知れないが、これでも一生懸命(いっしょうけんめい)にかいたのだから、どうぞしまいまで読んでくれ。という冒頭(ぼうとう)で四尺ばかり何やらかやら認(したた)めてある。なるほど読みにくい。字がまずいばかりではない、大抵(たいてい)平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句読(くとう)をつけるのによっぽど骨が折れる。おれは焦(せ)っ勝(か)ちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれても断わるのだが、この時ばかりは真面目(まじめ)になって、始(はじめ)から終(しまい)まで読み通した。読み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくく、なったから、とうとう椽鼻(えんばな)へ出て腰(こし)をかけながら鄭寧(ていねい)に拝見した。すると初秋(はつあき)の風が芭蕉(ばしょう)の葉を動かして、素肌(すはだ)に吹(ふ)きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、向(むこ)うの生垣まで飛んで行きそうだ。おれはそんな事には構っていられない。坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただ肝癪(かんしゃく)が強過ぎてそれが心配になる。――ほかの人に無暗(むやみ)に渾名(あだな)なんか、つけるのは人に恨(うら)まれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。――田舎者は人がわるいそうだから、気をつけてひどい目に遭(あ)わないようにしろ。――気候だって東京より不順に極ってるから、寝冷(ねびえ)をして風邪を引いてはいけない。坊っちゃんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。――宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困りゃしないか、田舎へ行って頼(たよ)りになるはお金ばかりだから、なるべく倹約(けんやく)して、万一の時に差支(さしつか)えないようにしなくっちゃいけない。――お小遣(こづかい)がなくて困るかも知れないから、為替(かわせ)で十円あげる。――先(せん)だって坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが、東京へ帰って、うちを持つ時の足しにと思って、郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。――なるほど女と云うものは細かいものだ。
 おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考え込(こ)んでいると、しきりの襖(ふすま)をあけて、萩野のお婆さんが晩めしを持ってきた。まだ見てお出(い)でるのかなもし。えっぽど長いお手紙じゃなもし、と云ったから、ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして膳(ぜん)についた。見ると今夜も薩摩芋(さつまいも)の煮(に)つけだ。ここのうちは、いか銀よりも鄭寧(ていねい)で、親切で、しかも上品だが、惜(お)しい事に食い物がまずい。昨日も芋、一昨日(おととい)も芋で今夜も芋だ。おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、こう立てつづけに芋を食わされては命がつづかない。うらなり君を笑うどころか、おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になっちまう。清ならこんな時に、おれの好きな鮪(まぐろ)のさし身か、蒲鉾(かまぼこ)のつけ焼を食わせるんだが、貧乏(びんぼう)士族のけちん坊(ぼう)と来ちゃ仕方がない。どう考えても清といっしょでなくっちあ駄目(だめ)だ。もしあの学校に長くでも居る模様なら、東京から召(よ)び寄(よ)せてやろう。天麩羅蕎麦(そば)を食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿に居て芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。禅宗(ぜんしゅう)坊主だって、これよりは口に栄耀(えよう)をさせているだろう。――おれは一皿の芋を平げて、机の抽斗(ひきだし)から生卵を二つ出して、茶碗(ちゃわん)の縁(ふち)でたたき割って、ようやく凌(しの)いだ。生卵ででも営養をとらなくっちあ一週二十一時間の授業が出来るものか。
 今日は清の手紙で湯に行く時間が遅くなった。しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。汽車にでも乗って出懸(でか)けようと、例の赤手拭(あかてぬぐい)をぶら下げて停車場(ていしゃば)まで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなければならぬ。ベンチへ腰を懸けて、敷島(しきしま)を吹かしていると、偶然(ぐうぜん)にもうらなり君がやって来た。おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。平常(ふだん)から天地の間に居候(いそうろう)をしているように、小さく構えているのがいかにも憐(あわ)れに見えたが、今夜は憐れどころの騒(さわ)ぎではない。出来るならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんと明日(あした)から結婚(けっこん)さして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした矢先だから、やお湯ですか、さあ、こっちへお懸けなさいと威勢(いせい)よく席を譲(ゆず)ると、うらなり君は恐(おそ)れ入った体裁で、いえ構(かも)うておくれなさるな、と遠慮(えんりょ)だか何だかやっぱり立ってる。少し待たなくっちゃ出ません、草臥(くたび)れますからお懸けなさいとまた勧めてみた。実はどうかして、そばへ懸けてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。それではお邪魔(じゃま)を致(いた)しましょうとようやくおれの云う事を聞いてくれた。世の中には野だみたように生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。山嵐のようにおれが居なくっちゃ日本(にっぽん)が困るだろうと云うような面を肩(かた)の上へ載(の)せてる奴もいる。そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと云わぬばかりの狸(たぬき)もいる。皆々(みなみな)それ相応に威張ってるんだが、このうらなり先生のように在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のように大人(おとな)しくしているのは見た事がない。顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シャツに靡(なび)くなんて、マドンナもよっぼど気の知れないおきゃんだ。赤シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な旦那様(だんなさま)が出来るもんか。
「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。大分たいぎそうに見えますが……」「いえ、別段これという持病もないですが……」
「そりゃ結構です。からだが悪いと人間も駄目ですね」
「あなたは大分ご丈夫(じょうぶ)のようですな」
「ええ瘠(や)せても病気はしません。病気なんてものあ大嫌いですから」
 うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。
 ところへ入口で若々しい女の笑声が聞(きこ)えたから、何心なく振(ふ)り返ってみるとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが並(なら)んで切符(きっぷ)を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶(すいしょう)の珠(たま)を香水(こうすい)で暖(あっ)ためて、掌(てのひら)へ握(にぎ)ってみたような心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし顔はよく似ているから親子だろう。おれは、や、来たなと思う途端(とたん)に、うらなり君の事は全然(すっかり)忘れて、若い女の方ばかり見ていた。すると、うらなり君が突然(とつぜん)おれの隣(となり)から、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。マドンナじゃないかと思った。三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠いから何を云ってるのか分らない。
 停車場の時計を見るともう五分で発車だ。早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へ馳(か)け込(こ)んで来たものがある。見れば赤シャツだ。何だかべらべら然たる着物へ縮緬(ちりめん)の帯をだらしなく巻き付けて、例の通り金鎖(きんぐさ)りをぶらつかしている。あの金鎖りは贋物(にせもの)である。赤シャツは誰(だれ)も知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符売下所(うりさげじょ)の前に話している三人へ慇懃(いんぎん)にお辞儀(じぎ)をして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく猫足(ねこあし)にあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。あの時計はたしかかしらんと、自分の金側(きんがわ)を出して、二分ほどちがってると云いながら、おれの傍(そば)へ腰を卸(おろ)した。女の方はちっとも見返らないで杖(つえ)の上に顋(あご)をのせて、正面ばかり眺(なが)めている。年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナに違いない。
 やがて、ピューと汽笛(きてき)が鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ吾(わ)れ勝(がち)に乗り込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったって威張れるどころではない、住田(すみた)まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発(ふんぱつ)して白切符を握(にぎ)ってるんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵(たいてい)は下等へ乗る。赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。うらなり君は活版で押(お)したように下等ばかりへ乗る男だ。先生、下等の車室の入口へ立って、何だか躊躇(ちゅうちょ)の体(てい)であったが、おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。おれはこの時何となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。
 温泉へ着いて、三階から、浴衣(ゆかた)のなりで湯壺(ゆつぼ)へ下りてみたら、またうらなり君に逢った。おれは会議や何かでいざと極まると、咽喉(のど)が塞(ふさ)がって饒舌(しゃべ)れない男だが、平常(ふだん)は随分(ずいぶん)弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。何だか憐れぽくってたまらない。こんな時に一口でも先方の心を慰(なぐさ)めてやるのは、江戸(えど)っ子の義務だと思ってる。ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。何を云っても、えとかいえとかぎりで、しかもそのえといえが大分面倒(めんどう)らしいので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちからご免蒙(めんこうむ)った。
 湯の中では赤シャツに逢わなかった。もっとも風呂(ふろ)の数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢うとは極まっていない。別段不思議にも思わなかった。風呂を出てみるといい月だ。町内の両側に柳(やなぎ)が植(うわ)って、柳の枝(えだ)が丸(ま)るい影を往来の中へ落(おと)している。少し散歩でもしよう。北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が妓楼(ぎろう)である。山門のなかに遊廓(ゆうかく)があるなんて、前代未聞の現象だ。ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。門の並びに黒い暖簾(のれん)をかけた、小さな格子窓(こうしまど)の平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。丸提灯(まるぢょうちん)に汁粉(しるこ)、お雑煮(ぞうに)とかいたのがぶらさがって、提灯の火が、軒端(のきば)に近い一本の柳の幹を照らしている。食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。
 食いたい団子の食えないのは情ない。しかし自分の許嫁(いいなずけ)が他人に心を移したのは、なお情ないだろう。うらなり君の事を思うと、団子は愚(おろ)か、三日ぐらい断食(だんじき)しても不平はこぼせない訳だ。本当に人間ほどあてにならないものはない。あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情な事をしそうには思えないんだが――うつくしい人が不人情で、冬瓜(とうがん)の水膨(みずぶく)れのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断が出来ない。淡泊(たんぱく)だと思った山嵐は生徒を煽動(せんどう)したと云うし。生徒を煽動したのかと思うと、生徒の処分を校長に逼(せま)るし。厭味(いやみ)で練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれに余所(よそ)ながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナを胡魔化(ごまか)したり、胡魔化したのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと云うし。いか銀が難癖(なんくせ)をつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公が入(い)れ替(かわ)ったり――どう考えてもあてにならない。こんな事を清にかいてやったら定めて驚く事だろう。箱根(はこね)の向うだから化物(ばけもの)が寄り合ってるんだと云うかも知れない。
 おれは、性来(しょうらい)構わない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで来たのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを物騒(ぶっそう)に思い出した。別段際だった大事件にも出逢わないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を渡(わた)って野芹川(のぜりがわ)の堤(どて)へ出た。川と云うとえらそうだが実は一間ぐらいな、ちょろちょろした流れで、土手に沿うて十二丁ほど下ると相生村(あいおいむら)へ出る。村には観音様(かんのんさま)がある。
 温泉(ゆ)の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。太鼓(たいこ)が鳴るのは遊廓に相違ない。川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向うに人影(ひとかげ)が見え出した。月に透(す)かしてみると影は二つある。温泉(ゆ)へ来て村へ帰る若い衆(しゅ)かも知れない。それにしては唄(うた)もうたわない。存外静かだ。
 だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離(きょり)に逼った時、男がたちまち振り向いた。月は後(うしろ)からさしている。その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。男と女はまた元の通りにあるき出した。おれは考えがあるから、急に全速力で追っ懸(か)けた。先方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移している。今は話し声も手に取るように聞える。土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。おれは苦もなく後ろから追い付いて、男の袖(そで)を擦(す)り抜(ぬ)けざま、二足前へ出した踵(くびす)をぐるりと返して男の顔を覗(のぞ)き込(こ)んだ。月は正面からおれの五分刈(がり)の頭から顋の辺(あた)りまで、会釈(えしゃく)もなく照(てら)す。男はあっと小声に云ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女を促(うな)がすが早いか、温泉(ゆ)の町の方へ引き返した。
 赤シャツは図太くて胡魔化すつもりか、気が弱くて名乗り損(そく)なったのかしら。ところが狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。

     八

 赤シャツに勧められて釣(つり)に行った帰りから、山嵐(やまあらし)を疑ぐり出した。無い事を種に下宿を出ろと云われた時は、いよいよ不埒(ふらち)な奴(やつ)だと思った。ところが会議の席では案に相違(そうい)して滔々(とうとう)と生徒厳罰論(げんばつろん)を述べたから、おや変だなと首を捩(ひね)った。萩野(はぎの)の婆(ばあ)さんから、山嵐が、うらなり君のために赤シャツと談判をしたと聞いた時は、それは感心だと手を拍(う)った。
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