模倣と独立
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著者名:夏目漱石 

 近頃読んだ本でありませんがマンテガッツァの『フィジオロジー・エンド・エキスプレション』という本の中にイミテーションということについて例を沢山挙げてありましたが、私は今一々(いちいち)人間という者は真似をするものであるということの沢山な例を記憶しておりませんが、茲処(ここ)に二つ三つあります。例えば、一人の人が往来で洋傘を広げて見ようとすると、同行している隣りの女もきっと洋傘を広げるという。こういう風に一般に或(ある)程度まではそうです。往来で空を眺めていると二人立ち三人立つのは訳はなくやる。それで空に何かあるかというと、飛行船が飛んでいる訳でも何でもない。けれども飛行船が飛んでいるとか何とかいえば、大勢の群集が必ず空を仰いで見る。その時に何か空中に飛行船でも認めしむることが出来ないとも限らない。
 それほど人間という者は人の真似をするように出来ている情けないものであります。それでその、人の真似をするということは、子供の内から始まって、今言ったような些末(さまつ)の事柄ばかりでない、道徳的にもあるいは芸術的にも、社会上においてもそうである。無論流行などは人の真似をする。われわれが極(ご)く子供の内は東京の者はこんな薩摩飛白(さつまがすり)などは決して着せません。田舎者でなければ着ないものでした。それを今の書生は大抵皆薩摩飛白を着る。安いからか知りませんが、皆着るようになった。それから一時白い羽織(はおり)の紐(ひも)の毛糸(けいと)か何かの長いのをこう――結んで胸から背負って頸(くび)に掛けておった。あれも一人遣(や)るとああなるのであります。私たちの若い時は羽織の紋(もん)が一つしきゃないのを着て通人(つうじん)とか何とかいって喜んでいた。それが近頃は五つ紋をつけるようになった。それも大きなのが段々小さくなったようだが、近頃どの位になっているのか。私は羽織の紋が余り大きいから流行に後(おく)れぬように小さくした位それほど流行というものは人を圧迫して来る。圧迫するのじゃないが、流行にこっちから赴(おもむ)くのです。イミテーターとして人の真似をするのが人間の殆ど本能です。人の真似がしたくなるのです。こういう洋服でも二十年前の洋服は余り着られない。この間(あいだ)着ていた人を見たけれども可笑(おか)しいです。あまり見っとも宜(よ)いものではない。殊に女なんぞは、二十年前の女の写真なんぞは非常に可笑しい。本来の意味では可笑しいとは自分で思っていないけれども、熟々(つくづく)見ると、やはり模倣ということに重きを置く結果、どうもその自分と異(ことな)った物、あるいは世間と異ったものは可笑しく見えるのであります。そういう風にそれを道徳上にも応用が出来ます。それから芸術上は無論の事ですね。そんな例は沢山挙げても宜(よ)いけれども、時間がないから略して置きます。とにかく大変人は模倣を喜ぶものだということ、それは自分の意志からです、圧迫ではないのです。好(この)んで遣る、好んで模倣をするのです。
 同時に世の中には、法律とか、法則とかいうものがあって、これは外圧的に人間というものを一束(ひとたば)にしようとする。貴方がたも一束にされて教育を受けている。十把一(じっぱひと)からげにして教育されている。そうしないと始末に終(お)えないから、やむをえず外圧的に皆さんを圧迫しているのである。これも一種の約束で、そうしないと教育上に困難であるからである。その約束、法則というものは政治上にも教育上にもソシャル・マナーの上にもある。飯を食べるのにサラサラグチャグチャは不可(いけ)ないという。そういうのはこれは法則でしょう。それから道徳の法則、これは当り前の話で、金を借りればどうしても返さねばならぬようになっている。それから芸術上の法則というのがある。これがまた在来の日本画だとか、御能(おのう)だとか、芝居の踊りだとかいうものには、非常に究屈(きゅうくつ)な面倒な固(かた)まった法則があって、動かすことが出来ないようになっております。それらの例を一々挙げると宜いのですが、それは一々挙げません。例を省(はぶ)くと詰らないものになりますが、早く済みますから、詰らなくして早く切り上げてしまおうと思う。
 それから、法則というものは社会的にも道徳的にもまた法律的にもあるが、最も劇(はげ)しいのは軍隊である。芸術にでも総(すべ)てそういうような一種の法則というものがあって、それを守らなければならぬように周囲が吾人(ごじん)に責めるのであります。一方ではイミテーション、自分から進んで人の真似をしたがる。一方ではそういう法則があって、外の人から自分を圧迫して人に従わせる。この二つの原因があって、人間というものの特殊の性というものは失われて、平等なものになる傾きがある。その意味で私なら私が、人間全体を代表することが出来る資格を有(も)ち得るのであります。
 私は人間を代表すると同時に私自身をも代表している。その私自身を代表しているという所から出立(しゅったつ)して考えて見ると、イミテーションという代りにインデペンデントという事が重きを為(な)さなければならぬ。人がするから自分もするのではない。人がそうすれば――他人(ひと)は朝飯に粥(かゆ)を食う俺はパンを食う。他人は蕎麦(そば)を食う俺は雑□(ぞうに)を食う、われわれは自分勝手に遣(や)ろう御前(おまえ)は三杯(ばい)食う俺は五杯食う、というようなそういう事はイミテーションではない。他人が四杯食えば俺は六杯食う。それはイミテーションでないか知らぬが、事によると故意(こい)に反対することもある。これは不可(いけ)ない。世の中には奇人(きじん)というものがありまして、どうも人並の事をしちゃあ面白くないから、何でも人とは反対をしなければ気が済まない。中には広告するためにやる奴もある。普通のことでは面白くないから、何か特別な事をして見たいというので、髪の毛を伸ばして見たり、冬夏帽(なつぼう)を被(かぶ)って見たり――それは此処(ここ)の生徒などにもよくある。が、あれは無頓着(むとんじゃく)から来るのでしょう。人が冬帽を被(かぶ)っているという事に気が付けば自分も被りたくなるでしょう。故意に俺は夏帽を被るといった日にはよほど奇人(きじん)となる。私のここにインデペンデントというのは、この故意を取り除(の)ける。次には奇人を取り除ける。気が付かないのも勘定(かんじょう)の中に這入らない。それじゃあどういうのがインデペンデントであるか。人間は自然天然に独立の傾向を有(も)っている。人間は一方でイミテーション、一方で独立自尊、というような傾向を有っている。その内で区別して見れば、横着(おうちゃく)な奴と、横着でない奴と、横着でないけれども分らないから横着をやって、まあ朝八時に起きる所を自然天然の傾向で十時頃まで寐ている。それはインデペンデントには違いないが、甚(はなは)だどうも結構でない事かも知れません。それは我儘、横着であるが自然でもある、インデペンデントともなるけれども、これも取り除(のぞ)けということになる。最後に残るのは――貴方がたの中で能(よ)く誘惑ということを言いましょう。人と歩調(ほちょう)を合わして行きたいという誘惑を感じても、如何(いかん)せんどうも私にはその誘惑に従う訳に行かぬ。丁度(ちょうど)跛を兵式体操(へいしきたいそう)に引き出したようなもので、如何せんどうも歩調が揃(そろ)わぬ。それは、諸君と行動を共にしたいけれども、どうもそう行かないので仕方がない。こういうのをインデペンデントというのです。勿論それは体質上のそういう一種のデマンドじゃない、精神的の――ポジチブな内心のデマンドである。あるいはこれが道徳上に発現して来る場合もありましょう。あるいは芸術上に発現して来る場合もありましょう。精神的になって来ると――そうですね、古臭(ふるくさ)い例を引くようでありますが、坊さんというものは肉食妻帯(にくじきさいたい)をしない主義であります。それを真宗(しんしゅう)の方では、ずっと昔から肉を食った、女房を持っている。これはまあ思想上の大革命でしょう。親鸞上人(しんらんしょうにん)に初めから非常な思想があり、非常な力があり、非常な強い根柢(こんてい)のある思想を持たなければ、あれほどの大改革は出来ない。言葉を換えて言えば親鸞は非常なインデペンデントの人といわなければならぬ。あれだけのことをするには初めからチャンとした、シッカリした根柢がある。そうして自分の執るべき道はそうでなければならぬ、外(ほか)の坊主と歩調を共にしたいけれども、如何(いかん)せん独り身の僕は唯女房を持ちたい肉食をしたいという、そんな意味ではない。その時分に、今でもそうだけれども、思い切って妻帯し肉食をするということを公言するのみならず、断行して御覧なさい。どの位迫害を受けるか分らない。尤(もっと)も迫害などを恐れるようではそんな事は出来ないでしょう。そんな小さい事を心配するようでは、こんな事は仕切(しき)れないでしょう。其所(そこ)にその人の自信なり、確乎(かくこ)たる精神なりがある。その人を支配する権威があって初めてああいうことが出来るのである。だから親鸞上人は、一方じゃ人間全体の代表者かも知らんが、一方では著(いちじる)しき自己の代表者である。
 今は古い例を挙げたが、今度はもっと新しい例を挙げれば、イブセンという人がある。イブセンの道徳主義は御承知の通り、昔の道徳というものはどうも駄目だという。何が駄目かといえば、あれは男に都合の宜(よ)いように出来たものである。女というものは眼中(がんちゅう)に置かないで、強い男が自分の権利を振り廻すために自分の便利を計るために、一種の制裁なり法則というものを拵えて、弱い女を無視してそれを鉄窓(てっそう)の中に押し込めたのが今日までの道徳というものであるといっている。それでイブセンの道徳というものは二色(ふたいろ)にしなければならぬのである。男の道徳、女の道徳というようにしなければならぬ。女の方から見ますれば、それが逆にまあならなければならないというのです。その思想、主義から出発して書いたものがイブセンの作の中にある。最も著しい例は、『ノラ』というようなものであります。それがイブセンという人は人間の代表者であると共に彼自身の代表者であるという特殊の点を発揮している。イミテーションではない。今までの道徳はそうだから、たといその道徳は不都合であるとは考えていても、別に仕様(しよう)がないからまあそれに従って置こう、というような余裕のある、そんな自己ではない。もっと特別な猛烈な自己である。それがためイブセンは大変迫害を受けたという訳であります。無論事実不遇(ふぐう)な人でありました。それのみならずあの人は特殊な人で、人間全体を代表しているというより彼自身を代表している方がよほど多い。そこで国を出て諸方を流浪して、偶(たま)に国へ帰っても評判が宜(よ)くないから、国へは滅多(めった)に帰らなかった。或時国へ帰って来た。国へ帰っても家がないから宿屋に泊っている。その時ブランデスという人がイブセンが来たから歓迎会を開こうというと、イブセンはそんな歓迎会などは御免蒙ると言っている。しかし折角(せっかく)の催しで人数も十二人だけだからといって、漸(ようや)くイブセンを説(と)き伏せた。面倒を省くためにイブセンの泊っている宿屋で、帝国ホテル見たようなところで開くということになり、それでいよいよ当日になって丁度宜い時刻になったから、ブランデスはイブセンの室に行ってドアーをコツコツと叩いて、衣服の用意は出来たかと外から聞いたら、イブセン曰(いわ)く衣服などは持っておらぬ、自分は決して服装などは改めた事はない。シャツを着ている。シャツといっても露西亜辺(ロシアへん)では家の中ではこんな冬の日には温度が七十度位にしてある。本でも読む時は上衣をとっている。外に出る時はこういうものを着るでしょう。それでシャツを着ているのは宜いが、皆んなは燕尾服(えんびふく)を着て来ているのだからというと、イブセンは自分の行李(こうり)の中には燕尾服などは這入っていない、もし燕尾服を着なければならぬようなら御免蒙るという。御客を呼んで、その御客が揃(そろ)っているのに、御免を蒙られては大変だから――そんなことを言わないでどうか出てもらいたい、それじゃ出るという事になったが、ブランデスが実は十二人だった所が、段々と人数が殖(ふ)えて二十四人になったというと、そんな嘘を吐(つ)くならもう出ないという。実に手古摺(てこず)らされたということをブランデス自身が書いている。そんな事で色々面倒なことがあった末、ようよう連れて行ってチャンと坐らせた。ところが大将(たいしょう)大いにふくれていて一口も口を利かない、黙っている。まだ面白い話があるけれどもまあこれ位で切り上げてしまいましょう。とにかく人間を代表しても獣(けだもの)を代表しても、イブセンはイブセンを代表していると言った方が宜い。イブセンはイブセンなりと言った方が当っている。そういう特殊な人であります。この話は幼稚でありますが、今のイブセンの道徳の見解からいっても、イブセンはイミテーションという側の反対に立った人といわなければならない訳であります。
 それで、人間にはこの二通りの人がある。というと、片方と片方は紅白見たように別れているように見えますが、一人の人がこの両面を有(も)っているということが一番適切である。人間には二種の何とかがあるということを能(よ)くいうものですが、それは大変間違いだ。そうすると片方は片方だけの性格しか具(そな)えていないようになる。議論する人はそういう風になるから、あとがどうも事実から出発していない議論に陥ってしまう。とにかく二通りの人間があるということを言うが、これはこの両面を持っているというのが、これが本統(ほんとう)の事でしょう。いくらオリヂナルの人でもイミテーションの分子を何処かに持っている。イミテーションの側に立って考えると、これはどういう人がイミテーターかというと、要するにイミテーターというものは人の真似をする。それだから自分に標準はない。あるいはあっても標準を立て通すだけの強い猛烈な勇気を欠いているか、どっちかなのである。しかしながらインデペンデントの側の方は、自分に一種の目安(めやす)がある。アイデアル・センセーション、それが個人的になっておって、とにかくそれを言い現わし、それを実行しなければいても立ってもどうしてもいられない。風変(ふうがわ)りではあるが、人からいくら非難されても、御前(おまえ)は風変りだと言われても、どうしてもこうしなければいられない。藪睨(やぶにら)みは藪睨みで、どうしても横ばかり見ている。これはインデペンデントの方の分子を余計有(も)っている人である。だからこういう人というものは寔(まこと)に厄介(やっかい)なもので、世の中の人と歩調を共にすることは出来ない。おい君湯に行こう、僕は水を被(かぶ)る、君散歩に行かないか、俺は行かない座禅(ざぜん)をする、君飯を食わんか、僕はパンを食う、そういうようなインデペンデントな人になっては手が付けられない。到底一緒に住む事は困難である。しかし人に困難を与えるから気の毒な感じがないかというと、そうではない。唯そんな事は考えていられないのでしょう。それが本統のインデペンデントの人といわなければならぬ。厄介ではあるけれども、イミテートする人あるいは自己の標準を欠いていて差(さ)し障(さわ)りのない方が間違いがなくて安心だというような人に比べれば、自己の標準があるだけでもこっちの方が恕(ゆる)すべく貴ぶべし――といったらどんな奴が出て来るか分らぬが、事実貴ぶべき人もありましょう。とにかくインデペンデントの人にはまあ恕すべきものがあると思うです。
 元来私はこういう考えを有(も)っています。泥棒をして懲役(ちょうえき)にされた者、人殺をして絞首台(こうしゅだい)に臨(のぞ)んだもの、――法律上罪になるというのは徳義上の罪であるから公(おおやけ)に所刑(しょけい)せらるるのであるけれども、その罪を犯した人間が、自分の心の径路(けいろ)をありのままに現わすことが出来たならば、そうしてそのままを人にインプレッスする事が出来たならば、総(すべ)ての罪悪というものはないと思う。総て成立しないと思う。それをしか思わせるに一番宜(よ)いものは、ありのままをありのままに書いた小説、良く出来た小説です。ありのままをありのままに書き得る人があれば、その人は如何なる意味から見ても悪いということを行(おこな)ったにせよ、ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得たならば、その人は描いた功徳(くどく)に依って正(まさ)に成仏(じょうぶつ)することが出来る。法律には触れます懲役にはなります。けれどもその人の罪は、その人の描いた物で十分に清められるものだと思う。私は確かにそう信じている。けれどもこれは、世の中に法律とか何とかいうものは要(い)らない、懲役にすることも要らない、そういう意味ではありませんよ。それは能(よ)く申しますると、如何に傍(はた)から見て気狂(きちがい)じみた不道徳な事を書いても、不道徳な風儀を犯しても、その経過を何にも隠さずに衒(てら)わずに腹の中をすっかりそのままに描き得たならば、その人はその人の罪が十分に消えるだけの立派な証明を書き得たものだと思っているから、さっきいったような、インデペンデントの主義標準を曲げないということは恕(ゆる)すべきものがあるといったような意味において、立派に恕すべきであるという事が出来ると、私は考えるのであります。
 しかしこういう風にインデペンデントの人というものは、恕すべく或時は貴(たっと)むべきものであるかも知れないけれども、その代りインデペンデントの精神というものは非常に強烈でなければならぬ。のみならずその強烈な上に持って来て、その背後には大変深い背景を背負った思想なり感情なりがなければならぬ。如何となれば、もし薄弱なる背景があるだけならば、徒(いたずら)にインデペンデントを悪用して、唯世の中に弊害を与えるだけで、成功はとても出来ないからである。
 此処(ここ)に成功という意味についても説明を要する。また強い背景という事についても説明を要するが、強い背景というものは何だというと、それは別なものではありません。例えば私なら私が世の中の仕来(しきた)りに反したことを、断言し、宣言し、そうしてそれを実行する。その時に、もしそれが根柢のない事を遣(や)っているならば、如何に私自身にはそれが必然の結果であり、私自身には必要であろうとも、人間として他の人のためにならない。何らの影響を与える事が出来ない。何らの影響を与える事が出来なければ、私は文字に現われたるインデペンデントであって、その文字に現われたるインデペンデントなことをして、最後に文字に現われたるインデペンデントで死ななければならない。人には何らの影響を与えざるのみならず、そのインデペンデントは人の感情を害し、法則というものに一種の波動を起して、人に一種の不愉快を醸(かも)させるに過ぎないのであります。それではどんな風な深い背景を有(も)っていなければならないかというと、例えば非常に個人主義のような仏蘭西(フランス)革命でも、明治改革でも宜(よろ)しゅう御座います。徳川家が将軍に成(な)った末で余り勢いは強くなかったけれども、とにかく将軍というものが政権を持っておってその上に天子様(てんしさま)がおられるという。これは一般の法則でないという処から、習慣的に続いて来た幕府というものを引っ繰り返したというのは、その引っ繰り返るという時の人の胸中(きょうちゅう)に同情があって、その同情を惹(ひ)き起すという事が出来なければ、あれは成功は出来ないのである。だから徒(いたずら)にインデペンデントということは不可(いけ)ない。人間の自覚というものは一歩先へ先へと来るものである。一歩遅れたら人より一歩遅れて歩行(ある)かなければならない。人は相当の時期が来ればその通りになるべき運命を持っているのだから、一歩先に啓発しなければならぬ。それが強い深い背景といえばいえる。それがなければ成功は出来ない。
 成功ということについて歴史などの例を挙げたが、誤解されるといけないからここに手近い例をもう一つ挙げて置きたい。学校騒動があってその学校の校長さんが代る。この学校ではありませんよ。そうすると後に新しい校長さんが来ましょう。そうしてその学校騒動を鎮(しず)めに掛(かか)る。その時は色々思案もやりましょう計画も要(い)りましょう。刷新(さっしん)も色々ありましょう。そうして旨(うま)く往(い)けばあの人は成功したといわれる。成功したというと、その人の遣口(やりくち)が刷新でもなく、改革でもなく、整理でもなくても、その結果が宜いと、唯その結果だけを見て、あの人は成功した、なるほどあの人は偉いということになる。ところが騒動が益(ますます)大きくなる。そうすると今まで遣(や)ったその人の一切の事が非難せられる。同じ事を同じように遣っても、結果に行って好ければ成功だというが、同じ事をしても結果に行って悪いと、直ぐにあの人の遣口は悪いという。その遣方(やりかた)の実際を見ないで、結果ばかりを見ていうのである。その遣方の善(よ)し悪(あ)しなどは見ないで、唯結果ばかり見て批評をする。それであの人は成功したとか失敗したとかいうけれども、私の成功というのはそういう単純な意味ではない。仮令(たとい)その結果は失敗に終っても、その遣ることが善いことを行い、それが同情に値いし、敬服に値いする観念を起させれば、それは成功である。そういう意味の成功を私は成功といいたい。十字架の上に磔(はりつけ)にされても成功である。こういうのは余り宜(よ)い成功ではないかも知らぬが、成功には相違ない。これはテンポラルな意味で宗教的の意味ではない。乃木(のぎ)さんが死にましたろう。あの乃木さんの死というものは至誠(しせい)より出(い)でたものである。けれども一部には悪い結果が出た。それを真似して死ぬ奴が大変出た。乃木さんの死んだ精神などは分らんで、唯形式の死だけを真似する人が多いと思う。そういう奴が出たのは仮に悪いとしても、乃木さんは決して不成功ではない。結果には多少悪いところがあっても、乃木さんの行為の至誠であるということはあなた方を感動せしめる。それが私には成功だと認められる。そういう意味の成功である。だからインデペンデントになるのは宜いけれども、それには深い背景を持ったインデペンデントとならなければ成功は出来ない。成功という意味はそう言う意味でいっている。
 それで人間というものには二通りの色合(いろあい)があるということは今申した通りですが、このイミテーションとインデペンデントですが、片方はユニテー――人の真似をしたり、法則に囚(とら)われたりする人である。片方は自由、独立の径路を通って行く。これは人間のそのバライエテーを形作っている。こういう両面を持っているのではありますけれども、先ず今日までの改正とか改革とか刷新とか名のつくものは、そういうような意味で、知識なり感情なり経験なりを豊富にされる土台は、インデペンデントな人が出て来なければ出来ない事である。もしそれが出来なかったならば、われわれはわれわれの過去の歴史を顧(かえり)みて如何に貧弱であるかということを考えれば、その人は如何にわれわれの経験を豊富にしてくれたかということが能(よ)く分るのであります。その意味でインデペンデントというものは大変必要なものである。私はイミテーションを非難しているのではないけれども、人間の持って生れた高尚な良いものを、もしそれだけ取り去ったならば、心の発展は出来ない。心の発展はそのインデペンデントという向上心なり、自由という感情から来るので、われわれもあなた方もこの方面に修養する必要がある。そういうことをしないでも生きてはいられます。また自分の内心にそういう要求のないのに、唯その表面だけ突飛(とっぴ)なことを遣(や)る必要は無論ない。イミテーションで済まし得る人はそれで宜(よろ)しい。インデペンデントで働きたい人はインデペンデントで遣って行くが宜しい。インデペンデントの資格を持っておって、それを抛(ほう)って置くのは惜しいから、それを持っている人はそれを発達させて行くのが、自己のため日本のため社会のために幸福である。こういうのです。
 繰り返して申しますが、イミテーションは決して悪いとは私は思っておらない。どんなオリヂナルの人でも、人から切り離されて、自分から切り離して、自身で新しい道を行ける人は一人もありません。画かきの人の絵などについて言っても、そう新しい絵ばかり描けるものではない。ゴーガンという人は仏蘭西(フランス)の人ですが、野蛮人の妙な絵を描きます。仏蘭西に生れたけれども野蛮地に這入って行って、あれだけの絵を描いたのも、前に仏蘭西におった時に色々の絵を見ているから、野蛮地に這入ってからあれだけの絵を描くことが出来たのである。いくらオリヂナルの人でも前に外の絵を見ておらなかったならば、あれだけのヒントを得ることは出来なかったと思う。ヒントを得るということとイミテートするということとは相違があるが、ヒントも一歩進めばイミテーションとなるのである。しかしイミテーションは啓発するようなものではないと私は考えている。
 それから、イミテーションは外圧的の法則であり、規則であるという点から、唯打(う)ち毀(こわ)して宜(よ)いというものではない。必要がなくなれば自然に毀れる。唯、利益、存在の意義の軽重(けいちょう)によって、それが予期したより十年前に自(みずか)ら倒れるか、十年後に倒れるかである。またオリヂナルの方が早く自然に滅亡するか、イミテーションの方が先に滅亡するかであって、大した違いはない。片方だけを悪いとは決して言わない。両方とも各□(おのおの)存在するには存在すべき理由があって存在しているのである。殊に教育を受ける諸君の如きものに向って規則をなくしたらとても始末が付かない。また兵式体操なども出来ない。子供の内は親のいうことばかり聞いておっても、段々一人前(いちにんまえ)になって来るとインデペンデントというものは自然に発達して来る。また発達しても然(しか)るべきような時期に到着するのであります。一概(いちがい)に唯インデペンデントであるということを主張するのではないのであります。
 けれども近来の傾向を見て、世の中の調子を見て、大体はインデペンデントに賛成である。今日の状況を以て学校の規則を蔑視して自分勝手にしろというのではありません。それは別問題ですが、今の日本の現在の有様(ありさま)から見て、どっちに重きを置くべきかというと、インデペンデントという方に重きを置いて、その覚悟を以てわれわれは進んで行くべきものではないかと思う。われわれ日本人民は人真似をする国民として自(みずか)ら許している。また事実そうなっている。昔は支那の真似ばかりしておったものが、今は西洋の真似ばかりしているという有様である。それは何故かというと、西洋の方は日本より少し先へ進んでいるから、一般に真似をされているのである。丁度あなた方のような若い人が、偉い人と思って敬意を持っている人の前に出ると、自分もその人のようになりたいと思う――かどうか知らんが、もしそう思うと仮定すれば、先輩が今まで踏んで来た径路を自分も一通り遣(や)らなければ茲処(ここ)に達せられないような気がする如く、日本が西洋の前に出ると茲処に達するにはあれだけの径路を真似て来なければならない、こういう心が起るものではないかと思う。また事実そうである。しかし考えるとそう真似ばかりしておらないで、自分から本式のオリヂナル、本式のインデペンデントになるべき時期はもう来ても宜(よろ)しい。また来るべきはずである。
 日露戦争というものは甚(はなは)だオリヂナルなものであります。インデペンデントなものであります。あれをもう少し遣っておったならば負けたかも知れない。宜(よ)い時に切り上げた。その代り沢山金は取れなかった。けれどもとにかく軍人がインデペンデントであるということはあれで証拠立てられている。西洋に対して日本が芸術においてもインデペンデントであるという事ももう証拠立てられても可(よ)い時である。日本は動(やや)もすれば恐露病(きょうろびょう)に罹(かか)ったり、支那のような国までも恐れているけれども、私は軽蔑している。そんなに恐しいものではないと思っている。これはあなた方を奨励するためにこういうことを言っているのである。それからまた日本人は雑誌などに出るちょっとした作物(さくぶつ)を見て、西洋のものと殆ど比較にならぬというが、それは嘘です。私の書いた小説なども雑誌に出ますが、それをいうのじゃない。間違えられては困る。それ以外のもので、文壇の偉い人の書いたものは大抵偉いのです。決して悪いものじゃありません。西洋のものに比べてちっとも驚くに足らぬ。唯竪(たて)に読むと横に読むだけの違いである。横に読むと大変巧いように見えるというのは誤解であります。自分でそれほどのオリヂナリテーを持っていながら、自分のオリヂナリテーを知らずに、あくまでもどうも西洋は偉い偉いと言わなくても、もう少しインデペンデントになって、西洋をやっつけるまでには行かないまでも、少しはイミテーションをそうしないようにしたい。芸術上ばかりではない。私は文芸に関係が深いからとかく文芸の方から例を引くが、その他においても決して追(お)っ着(つ)かないものはない。金の問題では追っ着かないか知らぬが、頭の問題ではそんなものではないと思っている。あなた方も大学を御遣(おや)りになって、そうして益(ますます)インデペンデントに御遣りになって、新しい方の、本当の新しい人にならなければ不可(いけ)ない。蒸返(むしかえ)しの新しいものではない。そういうものではいけない。
 要するにどっちの方が大切であろうかというと、両方が大切である、どっちも大切である。人間には裏と表がある。私は私をここに現わしていると同時に人間を現わしている。それが人間である。両面を持っていなければ私は人間とはいわれないと思う。唯どっちが今重いかというと、人と一緒になって人の後に喰っ付いて行く人よりも、自分から何かしたい、こういう方が今の日本の状況から言えば大切であろうと思うのであります。
 文展を見てもどうもそっちの方が欠乏しているように見えるので、特にそういう点に重きを置いて、御参考のために申し上げたような次第であります。
(第一高等学校校友会雑誌所載の筆記による)――大正二年十二月十二日第一高等学校において――



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