一夜
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著者名:夏目漱石 

 女は洗えるままの黒髪を肩に流して、丸張りの絹団扇(きぬうちわ)を軽(かろ)く揺(ゆる)がせば、折々は鬢(びん)のあたりに、そよと乱るる雲の影、収まれば淡き眉(まゆ)の常よりもなお晴れやかに見える。桜の花を砕いて織り込める頬の色に、春の夜の星を宿せる眼を涼しく見張りて「私(わたし)も画(え)になりましょか」と云う。はきと分らねど白地に葛(くず)の葉を一面に崩して染め抜きたる浴衣(ゆかた)の襟(えり)をここぞと正せば、暖かき大理石にて刻(きざ)めるごとき頸筋(くびすじ)が際立(きわだ)ちて男の心を惹(ひ)く。
「そのまま、そのまま、そのままが名画じゃ」と一人が云うと
「動くと画が崩れます」と一人が注意する。
「画になるのもやはり骨が折れます」と女は二人の眼を嬉しがらしょうともせず、膝に乗せた右手をいきなり後(うし)ろへ廻(ま)わして体をどうと斜めに反(そ)らす。丈(たけ)長き黒髪がきらりと灯(ひ)を受けて、さらさらと青畳に障(さわ)る音さえ聞える。
「南無三、好事(こうず)魔多し」と髯ある人が軽(かろ)く膝頭を打つ。「刹那(せつな)に千金を惜しまず」と髯なき人が葉巻の飲(の)み殻(がら)を庭先へ抛(たた)きつける。隣りの合奏はいつしかやんで、樋(ひ)を伝う雨点(うてん)の音のみが高く響く。蚊遣火(かやりび)はいつの間(ま)にやら消えた。
「夜もだいぶ更(ふ)けた」
「ほととぎすも鳴かぬ」
「寝ましょか」
 夢の話しはつい中途で流れた。三人は思い思いに臥床(ふしど)に入る。
 三十分の後(のち)彼らは美くしき多くの人の……と云う句も忘れた。ククーと云う声も忘れた。蜜を含んで針を吹く隣りの合奏も忘れた、蟻の灰吹(はいふき)を攀(よ)じ上(のぼ)った事も、蓮(はす)の葉に下りた蜘蛛(くも)の事も忘れた。彼らはようやく太平に入る。
 すべてを忘れ尽したる後女はわがうつくしき眼と、うつくしき髪の主(ぬし)である事を忘れた。一人の男は髯のある事を忘れた。他の一人は髯のない事を忘れた。彼らはますます太平である。
 昔(むか)し阿修羅(あしゅら)が帝釈天(たいしゃくてん)と戦って敗れたときは、八万四千の眷属(けんぞく)を領して藕糸孔中(ぐうしこうちゅう)に入(い)って蔵(かく)れたとある。維摩(ゆいま)が方丈の室に法を聴ける大衆は千か万かその数を忘れた。胡桃(くるみ)の裏(うち)に潜(ひそ)んで、われを尽大千世界(じんだいせんせかい)の王とも思わんとはハムレットの述懐と記憶する。粟粒芥顆(ぞくりゅうかいか)のうちに蒼天(そうてん)もある、大地もある。一世(いっせい)師に問うて云う、分子(ぶんし)は箸(はし)でつまめるものですかと。分子はしばらく措(お)く。天下は箸の端(さき)にかかるのみならず、一たび掛け得れば、いつでも胃の中に収まるべきものである。
 また思う百年は一年のごとく、一年は一刻のごとし。一刻を知ればまさに人生を知る。日は東より出でて必ず西に入る。月は盈(み)つればかくる。いたずらに指を屈して白頭に到(いた)るものは、いたずらに茫々(ぼうぼう)たる時に身神を限らるるを恨(うら)むに過ぎぬ。日月は欺(あざむ)くとも己れを欺くは智者とは云われまい。一刻に一刻を加うれば二刻と殖(ふ)えるのみじゃ。蜀川(しょくせん)十様の錦、花を添えて、いくばくの色をか変ぜん。
 八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく一夜(いちや)を過した。彼らの一夜を描(えが)いたのは彼らの生涯(しょうがい)を描いたのである。
 なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と素性(すじょう)と性格を有する? それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ? 人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時に寝た? 三人とも一時に眠くなったからである。
(三十八年七月二十六日)



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