寿阿弥の手紙
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著者名:森鴎外 

「あれは別に深い仔細のある事ではないさうでございます。藤井紋太夫は水戸樣のお手討ちになりました。所が親戚のものは憚(はゞかり)があつて葬式をいたすことが出來ませんでした。其時眞志屋の先祖が御用達(ごようたし)をいたしてゐますので、内々お許を戴(いたゞ)いて死骸(しがい)を引き取りました。そして自分の菩提所(ぼだいしよ)で葬(とぶらひ)をいたして進ぜたのだと申します。」
 わたくしは落胤問題、屋號の縁起、藤井紋太夫の遺骸の埋葬、此等の事件に、彼の海録に載せてある八百屋(やほや)お七の話をも考へ合せて見た。
 水戸家の初代威公頼房(ゐこうよりふさ)は慶長十四年に水戸城を賜はつて、寛文元年に薨(こう)じた。二代義公光圀(ぎこうみつくに)は元祿三年に致仕し、十三年に薨じた。三代肅公綱條(しゆくこうつなえだ)は享保三年に薨じた。
 海録に據れば、八百屋お七の地主河内屋の女(むすめ)島は眞志屋の祖先の許(もと)へ嫁入して、其時お七のくれた袱帛(ふくさ)を持つて來た。河内屋も眞志屋の祖先も水戸家の用達であつた。お七の刑死せられたのは天和三年三月二十八日である。即ち義公の世の事で、眞志屋の祖先は當時既に水戸家の用達であつた。只眞志屋の屋號が何年から附けられたかは不明である。
 藤井紋太夫の手討になつたのは、元祿七年十一月二十三日ださうで、諸書に傳ふる所と、昌林院の記載とが符合してゐる。これは肅公の世の事で、義公は隱居の身分で藤井を誅(ちゆう)したのである。
 此等の事實より推窮すれば、落胤問題や屋號の由來は威公の時代より遲れてはをらぬらしく、餘程古い事である。始て眞志屋と號した祖先某は、威公若(もし)くは義公の胤(たね)であつたかも知れない。

     十七

 わたくしは以上の事實の斷片を湊合(そうがふ)して、姑(しばら)く下(しも)の如くに推測した。水戸の威公若くは義公の世に、江戸の商家の女(むすめ)が水戸家に仕へて、殿樣の胤を舍(やど)して下げられた。此女の生んだ子は商人になつた。此商人の家は水戸家の用達で、眞志屋と號した。しかし用達になつたのと、落胤問題との孰(いづ)れが先と云ふことは不明である。その後代々の眞志屋は水戸家の特別保護の下にある。壽阿彌の五郎作は此眞志屋の後である。
 わたくしの師岡の未亡人石に問ふべき事は、只一つ殘つた。それは力士谷の音の事である。
 石は問はれてかう答へた。「それは可笑(をか)しな事なのでございます。好くは存じませんが其お相撲(すまふ)は眞志屋の出入であつたとかで、それが亡くなつた時、何のことわりもなしに昌林院の墓所にいけてしまつたのださうでございます。幾ら贔屓(ひいき)だつたと云つたつて、死骸(しがい)まで持つて來るのはひどいと云つて、こちらからは掛け合つたが、色々談判した擧句(あげく)に、一旦(いつたん)いけてしまつたものなら爲方(しかた)が無いと云ふことになつたと、夫が話したことがございます。」石は關口と云ふ後裔(こうえい)の名をだに知らぬのであつた。
 餘り長座をするもいかゞと思つて、わたくしは辭し去らむとしたが、ふと壽阿彌の連歌師であつたことに就いて、石が何か聞いてゐはせぬかと思つた。武鑑には數年間日輪寺其阿と壽阿曇□とが列記せられてゐて、しかも壽阿の住所は日輪寺方だとしてある。わたくしは是より先、淺草芝崎町の日輪寺に往つて見た。一つには壽阿彌の同僚であつた其阿の墓石を尋ねようと思ひ、二つには日輪寺其阿の名が一代には限らぬらしく、古く物に見えてゐるので、それを確めようと思つたからである。日輪寺は今の淺草公園の活動寫眞館の西で、昔は東南共に街(まち)に面した角地面であつた。今は薪屋の横町の衝當(つきあたり)になつてゐる。寺内の墓地は半ば水に浸されて沮洳(しよじよ)の地となり、藺(ゐ)を生じ芹(せり)を生じてゐる。わたくしは墓を檢することを得ずして還つた。わたくしは石に問うた。「若し日輪寺と云ふ寺の名をお聞きになつたことはありませんか。」
「存じてをります。日輪寺は壽阿彌さんの縁故のあるお寺ださうで、壽阿彌さんの御位牌が置いてありました。しかし昌林院の方にあれば、あちらには無くても好いと云ふことになりまして、只今は何もございません。」
 わたくしはお石さんに暇乞(いとまごひ)をして、小間物屋の帳場を辭した。小間物屋は牛込肴町(さかなまち)で當主を淺井平八郎さんと云ふ。初め石は師岡久次郎に嫁して一人女(ひとりむすめ)京を生んだ。京は會津東山の人淺井善藏に嫁した。善藏の女おせいさんが婿(むこ)平八郎を迎へた。おせいさんは即ち子を負(おぶ)つて門に立つてゐたお上さんである。
 壽阿彌の事は舊に依つて暗黒の中にある。しかしわたくしは伊澤の刀自や師岡の未亡人の如き長壽の人を識ることを得て、幾分か諸書の誤謬(ごびう)を正すことを得たのを喜んだ。
 わたくしは再び此稿を畢(をは)らむとした。そこへ平八郎さんが尋ねて來た。前(さき)に淺井氏を訪(と)うた時は、平八郎さんは不在であつたが、後にわたくしの事を外祖母(ぐわいそぼ)に聞いて、今眞志屋の祖先の遺物や文書(もんじよ)をわたくしに見せに來たのである。
 遺物も文書も、淺井氏に現存してゐるものゝ一部分に過ぎない。しかし其遺物には頗る珍奇なるものがあり、其文書には種々の新事實の證となすべきものがある。壽阿彌研究の道は幾度(いくたび)か窮まらむとして、又幾度か通ずるのである。八百屋お七の手づから縫つた袱紗(ふくさ)は、六十三年前の嘉永六年に壽阿彌が手から山崎美成の手にわたされた如くに、今平八郎さんの手からわたくしの手にわたされた。水戸家の用達眞志屋十餘代の繼承次第は殆ど脱漏なくわたくしの目の前に展開せられた。

     十八

 わたくしは姑(しばら)く淺井氏所藏の文書を眞志屋文書と名づける。眞志屋文書に徴するに眞志屋の祖先は威公頼房が水戸城に入つた時に共に立つてゐる。文化二年に武公治紀(はるとし)が家督して、四年九月九日に十代目眞志屋五郎兵衞が先祖書を差し出した。「先祖儀御入國の砌(みぎり)御供仕來元和年中引續」云々(うんぬん)と書してある。入國とは頼房が慶長十四年に水戸城に入つたことを指すのである。此眞志屋始祖西村氏は參河(みかは)の人で、過去帳に據ると、淺譽日水信士と法諡(ほふし)し、元和二年正月三日に歿した。屋號は眞志屋でなかつたが、名は既に五郎兵衞であつた。
 二代は方譽清西信士で、寛永十九年九月十八日に歿した。後の數代の法諡の例を以て推すに、清西は生前に命じた名であらう。
 三代は相譽清傳信士で、寛文四年九月二十二日に歿した。水戸家は既に義公光圀の世になつてゐる。
 四代は西村清休居士である。清休の時、元祿三年に光圀は致仕し、肅公綱條が家を繼いだ。
 此(この)代替(だいがはり)に先(さきだ)つて、清休の家は大いなる事件に遭遇した。眞志屋の遺物の中に寫本西山遺事並附録三卷があつて、其附録の末一枚の表に「文政五年壬午(みづのえうま)秋八月、眞志屋五郎作秋邦謹書」と署した漢文の書後がある。其中にかう云つてある。「嗚呼家先清休君(あゝかせんせいきうくん)、得知於公深(こうにしらるゝのふかきをえて)、身庶人而俸賜三百石(みしよじんにしてほうさんびやくこくをたまひ)、位列參政之後(くらゐはさんせいののちにれつす)」と云つてある。公は西山公を謂ふのである。
 此俸祿の事は先祖書の方には、側女中(そばぢよちゆう)島を娶(めと)つた次の代廓清が受けたことにしてある。「乍恐(おそれながら)御西山君樣御代御側向(おんそばむき)御召抱お島之御方(のおんかた)と被申候(まうされそろ)を妻に被下置(くだしおかれ)厚き奉蒙御重恩候而(ごぢゆうおんをかうむりたてまつりそろて)、年々御米百俵宛(づゝ)三季に享保年中迄頂戴仕來冥加至極難有仕合(きやうはうねんちゆうまでちやうだいつかまつりきたりみやうがしごくありがたきしあはせ)に奉存候(ぞんじたてまつりそろ)」と云つてある。しかし清休がためには、島は子婦(よめ)である。光圀は清休をして島を子婦として迎へしめ、俸祿を與へたのであらう。
 八百屋お七の幼馴染(をさななじみ)で、後に眞志屋祖先の許(もと)に嫁した島の事は海録に見えてゐる。お七が袱紗を縫つて島に贈つたのは、島がお屋敷奉公に出る時の餞別(せんべつ)であつたと云ふことも、同書に見えてゐる。しかし水戸家から下(さが)つて眞志屋の祖先の許に嫁した疑問の女が即ち此島であつたことは、わたくしは知らなかつた。島の奉公に出た屋敷が即ち水戸家であつたことは、わたくしは知らなかつた。眞志屋文書を見るに及んで、わたくしは落胤問題と八百屋お七の事とが倶(とも)に島、其岳父、其夫の三人の上に輳(あつま)り來(きた)るのに驚いた。わたくしは三人と云つた。しかし或は一人と云つても不可なることが無からう。其中心人物は島である。
 眞志屋の祖先と共に、水戸家の用達を勤めた河内屋(かはちや)と云ふものがある。眞志屋の祖先が代々五郎兵衞と云つたと同じく、河内屋は代々半兵衞と云つた。眞志屋の家説には、寛文の頃であつたかと云つてあるが、當時の半兵衞に一人の美しい女(むすめ)が生れて、名を島と云つた。島は後に父の出入屋敷なる水戸家へ女中に上ることになつた。

     十九

 河内屋は本郷森川宿に地所を持つてゐた。それを借りて住んでゐる八百屋市左衞門にも、亦一人の美しい女(むすめ)があつて、名を七と云つた。七は島よりは年下であつたであらう。島が水戸家へ奉公に上る時、餞別に手づから袱紗を縫つて贈つた。表は緋縮緬(ひぢりめん)、裏は紅絹(もみ)であつた。
 島が小石川の御殿に上つてから間もなく、森川宿の八百屋が類燒した。此火災のために市左衞門等は駒込の寺院に避難し、七は寺院に於て一少年と相識になり、新築の家に歸つた後、彼(かの)少年に再會したさに我家に放火し、其(その)科(とが)に因(よ)つて天和三年三月二十八日に十六歳で刑せられた。島は七の死を悼(いた)んで、七が遺物の袱紗に祐天上人(いうてんしやうにん)筆の名號(みやうがう)を包んで、大切にして持つてゐた。
 後に壽阿彌は此袱紗の一邊に、白羽二重の切(きれ)を縫ひ附けて、それに縁起を自書した。そしてそれを持つて山崎美成に見せに往つた。
 此袱紗は今淺井氏の所藏になつてゐるのを、わたくしは見ることを得た。袱紗は燧袋形(ひうちぶくろなり)に縫つた更紗縮緬(さらさちりめん)の上被(うはおほひ)の中(うち)に入れてある。上被には蓮華(れんげ)と佛像とを畫(ゑが)き、裏面中央に「倣尊澄法親王筆(そんちようはふしんのうひつにならふ)」、右邊に「保午浴佛日呈壽阿上人蓮座(はうごよくぶつじつじゆあしやうにんれんざにていす)」と題し、背面に心經(しんぎやう)の全文を寫し、其右に「天保五年甲午(かふご)二月廿五日佛弟子竹谷依田瑾薫沐書(きんくんもくしてしよす)」と記してある。依田竹谷(よだちくこく)、名は瑾(きん)、字(あざな)は子長、盈科齋(えいくわさい)、三谷庵(こくあん)、又凌寒齋(りようかんさい)と號した。文晁(ぶんてう)の門人である。此上被(うはおほひ)に畫いた天保五年は竹谷が四十五歳の時で、後九年にして此人は壽阿彌に先(さきだ)つて歿した。山崎美成が見た時には、上被はまだ作られてゐなかつたのである。
 上被から引き出して見れば、袱紗は緋縮緬の表も、紅絹(もみ)の裏も、皆淡い黄色に褪(さ)めて、後に壽阿彌が縫ひ附けた白羽二重の古びたのと、殆ど同色になつてゐる。壽阿彌の假名文は海録に讓つて此(こゝ)に寫さない。末に「文政六年癸未(きび)四月眞志屋五郎作新發意(しんぼつち)壽阿彌陀佛」と署して、邦字の華押(くわあふ)がしてある。
 わたくしは更に此袱紗に包んであつた六字の名號を披(ひら)いて見た。中央に「南無阿彌陀佛」、其兩邊に「天下和順、日月清明」と四字づゝに分けて書き、下に祐天(いうてん)と署し、華押がしてある。裝□(さうくわう)には葵(あふひ)の紋のある錦(にしき)が用ゐてある。享保三年に八十三歳で、目黒村の草菴(さうあん)に於て祐天の寂(じやく)したのは、島の歿した享保十一年に先つこと僅に八年である。名號は島が親しく祐天に受けたものであらう。
 島の年齡は今知ることが出來ない。遺物の中に縫薄(ぬひはく)の振袖(ふりそで)がある。袖の一邊に「三譽妙清樣小石川御屋形江御上(おんやかたへおんあが)り之節縫箔(ぬひはく)の振袖、其頃の小唄にたんだ振れ/\六尺袖をと唄ひし物是也(これなり)、享保十一年丙辰(へいしん)六月七日死、生年不詳、家説を以て考ふれば寛文年間なるべし、裔孫(えいそん)西村氏所藏」と記してある。
 島が若し寛文元年に生れたとすると、天和元年が二十一歳で、歿年が六十六歳になり、寛文十二年に生れたとすると、天和元年が十歳で、歿年が五十五歳になる。わたくしは島が生れたのは寛文七年より前で、その水戸家に上つたのは、延寶の末か天和の初であつたとしたい。さうするとお七が十三四になつてゐて、袱紗を縫ふにふさはしいのである。いづれにしても當時の水戸家は義公時代である。
 さていつの事であつたか、詳(つまびらか)でないが、義公の猶(なほ)位にある間に、即ち元祿三年以前に水戸家は義公の側女中になつてゐた島に暇(いとま)を遣(や)つた。そして清休の子廓清が妻にせいと内命した。島は清休の子婦(よめ)、廓清の妻になつて、一子東清を擧げた。若し島が下げられた時、義公の胤(たね)を舍(やど)してゐたとすると、東清は義公の庶子(しよし)であらう。

     二十

 既にして清休は未だ世を去らぬに、主家に於ては義公光圀が致仕し、肅公綱條が家を繼いだ。頃(しばら)くあつて藤井紋太夫の事があつた。隱居西山公が能の中入(なかいれ)に樂屋に於て紋太夫を斬つた時、清休は其場に居合せた。眞志屋の遺物寫本西山遺事の附録末二枚の欄外に、壽阿彌の手で書入がしてある。「家説云(かせつにいはく)、元祿七年十一月廿三日、御能有之(おんのうこれあり)、公羽衣のシテ被遊(あそばさる)、御中入之節御樂屋に而(て)、紋太夫を御手討に被遊候(あそばされそろ)、(中略)、御樂屋に有合(ありあふ)人々八方へ散亂せし内に、清休君一人公の御側(おんそば)をさらず、御刀の拭(ぬぐひ)、御手水(おんてうづ)一人にて相勤、扨(さて)申上けるは、私共愚眛(ぐまい)に而(て)、かゝる奸惡之者共不存(かんあくのものともぞんぜず)、入魂(じゆつこん)に立入仕候段只今に相成重々奉恐入候(おそれいりたてまつりそろ)、思召次第如何樣共御咎仰付可被下置段申上(おぼしめししだいいかやうともおんとがめおほせつけくだしおかるべきだんまうしあげ)ける時、公笑はせ玉ひ、余が眼目をさへ眩(くら)ませし程のやつ、汝等(なむぢら)が欺かれたるは尤(もつと)ものことなり、少(すこし)も咎申付(とがめまうしつく)る所存なし、しかし汝は格別世話にもなりたる者なれば、汝が菩提所(ぼだいしよ)へなりとも、死骸葬り得さすべしと仰有之候(おほせこれありそろ)に付、則(すなはち)菩提所傳通院寺中昌林院へ埋(うづ)め、今猶墳墓あれども、一華を手向(たむく)る者もなし、僅に番町邊の人一人正忌日にのみ參詣すと云ふ、法名光含院孤峰心了居士といへり。」
 説いて此(こゝ)に至れば、獨(ひとり)所謂落胤問題と八百屋お七の事のみならず、彼(かの)藤井紋太夫の事も亦清休、廓清の父子と子婦(よめ)島との時代に當つてゐるのがわかる。
 清休は元祿十二年閏(うるふ)九月十日に歿した。次に其家を繼いだのが五代西村廓清信士で、問題の女島の夫、所謂落胤東清の表向の父である。「御西山君樣御代御側向御召抱お島之御方と被申候を妻に被下置、厚き奉蒙御重恩候而、年々御米百俵宛三季に」頂戴したのは此人である。此書上の文を翫味(ぐわんみ)すれば、落胤問題の生じたのは、決して偶然でない。次で「元文三年より御扶持方七人分被下置」と云ふことに改められた。廓清は享保四年三月二十九日に歿した。島は遲れて享保十一年六月七日に歿した。眞志屋文書の過去帳に「五代廓清君室、六代東清君母儀、三譽妙清信尼、俗名嶋」と記してある。當時水戸家は元祿十三年に西山公が去り、享保三年に肅公綱條が去つて、成公宗堯(むねたか)の世になつてゐた。
 六代西村東清信士は過去帳一本に「幼名五郎作自義公(ぎこうより)拜領、十五歳初御目見得(はつおんめみえ)、依願(ねがひによつて)西村家相續被仰付(おほせつけらる)、眞志屋號拜領、高三百石被下置、俳名春局」と註してある。幼名拜領並に初御目見得から西村家相續に至るには、年月が立つてゐたであらう。此人が即ち所謂落胤である。若し落胤だとすると、水戸家は光圀の庶兄頼重の曾孫たる宗堯(むねたか)の世となつてゐたのに、光圀の庶子東清は用達商人をしてゐたわけである。
 過去帳一本の註に據るに、五郎作の稱が此時より始まつてゐる。初代以來五郎兵衞と稱してゐたのに、東清に至つて始めて五郎作と稱し、後に壽阿彌もこれを襲(つ)いだのである。又「俳名春局」と註してあるのを見れば、東清が俳諧をしたことが知られる。
 眞志屋の屋號は、右の過去帳一本の言ふ所に從へば、東清が始て水戸家から拜領したものである。眞志屋の紋は、金澤蒼夫(さうふ)さんの言(こと)に從へば、マの字に象(かたど)つたもので、これも亦水戸家の賜ふ所であつたと云ふ。
 東清は寶暦二年十二月五日に歿した。水戸家は成公宗堯が享保十五年に去つて、良公宗翰(むねもと)の世になつてゐた。

     二十一

 眞志屋の七代は西譽淨賀信士である。過去帳一本に「實は東國屋伊兵衞弟、俳名東之(とうし)」と註してある。東清の壻養子であらう。淨賀は安永十年三月二十七日に歿した。水戸家は良公宗翰(むねもと)が明和二年に世を去つて、文公治保(はるもり)の世になつてゐた。
 八代は薫譽沖谷居士(くんよちゆうこくこじ)である。天明三年七月二十日に歿した。水戸家は舊に依つて治保(はるもり)の世であつた。
 九代は心譽一鐵信士である。此人の代に、「寛政五丑年(うしどし)より暫の間三人半扶持御減し當時三人半被下置」と云ふことになつた。一鐵の歿年は二種の過去帳が記載を殊(こと)にしてゐる。文化三年十一月六日とした本は手入の迹(あと)の少い本である。他の一本は此年月日を書してこれを抹殺(まつさつ)し、傍(かたはら)に寛政八年十一月六日と書してある。前者の歿年に先つこと一年、文化二年に水戸家では武公治紀(はるとし)が家督相續をした。
 十代は二種の過去帳に別人が載せてある。誓譽淨本居士としたのが其一で、他の一本には此(こゝ)に淨譽了蓮信士(じやうよれうれんしんし)が入れて、「十代五郎作、後(のち)平兵衞」と註してある。淨本は文化十三年六月二十九日に歿した人、了蓮は寛政八年七月六日に歿した人である。今遽(にはか)に孰(いづ)れを是なりとも定め難いが、要するに九代十代の間に不明な處がある。淨本の歿した年に、水戸家では哀公齊脩(なりのぶ)が家督相續をした。
 これよりして後の事は、手入の少い過去帳には全く載せて無い。これに反して他の一本には、壽阿彌の五郎作が了蓮の後を襲(つ)いで眞志屋の十一代目となつたものとしてある。寛政八年には壽阿彌は二十八歳になつてゐた。
 壽阿彌は本(もと)江間氏で、其家は遠江國(とほたふみのくに)濱名郡舞坂から出てゐる。父は利右衞門、法諡(ほふし)頓譽淨岸居士(とんよじやうがんこじ)である。過去帳の一本は此人を以て十一代目五郎作としてゐるが、配偶其他卑屬を載せてゐない。此人に妹があり、姪(をひ)があるとしても、此人と彼等とが血統上いかにして眞志屋の西村氏と連繋してゐるかは不明である。しかし此連繋は恐らくは此人の尊屬姻戚(いんせき)の上に存するのであらう。
 壽阿彌の五郎作は文政五年に出家した。これは手入の少い過去帳の空白に、後に加へた文と、過去帳一本の八日の下(もと)に記した文とを以つて證することが出來る。前者には、「延譽壽阿彌、俗名五郎作、文政五年壬午十月於淺草日輪寺出家」と記してあり、後者は「光譽壽阿彌陀佛、十一代目五郎作、實(じつは)江間利右衞門男、文政五年壬午十月於日輪寺出家」と記してある。後者は八日の條に出てゐるから、落飾の日は文政五年十月八日である。
 わたくしは壽阿彌の手紙を讀んで、壽阿彌は姪(をひ)に菓子店を讓つて出家したらしいと推測し、又師岡未亡人の言(こと)に據つて、此姪を山崎某であらうと推測した。後に眞志屋文書を見るに及んで、新に壽阿彌の姪一人の名を發見した。此姪は分明に五郎兵衞と稱して眞志屋を繼承し、尋(つい)で壽阿彌に先だつて歿したのである。
 壽阿彌が自筆の西山遺事の書後に、「姪眞志屋五郎兵衞清常、藏西山遺事一部、其書誤脱不爲不多(おほからずとなさず)、今謹考數本、校訂以貽後生(もつてこうせいにのこす)」と云ひ、「文政五年秋八月、眞志屋五郎作秋邦謹書」と署してある。此年月は壽阿彌が剃髮する二月前である。これに由(よ)つて觀れば、壽阿彌が將(まさ)に出家せむとして、戸主たる姪清常のために此文を作つたことは明である。わたくしは少しく推測を加へて、此を以つて十一代の五郎作即ち壽阿彌が十二代の五郎兵衞清常のために書いたものと見たい。
 此清常は過去帳の一本に載せてあり、又壽阿彌の位牌の左邊に「戒譽西村清常居士、文政十三年庚寅(かういん)十二月十二日」と記してある。文政十三年は即ち天保元年である。清常は壽阿彌が出家した文政五年の後八年、眞志屋の火災に遇(あ)つた文政十年の後三年、壽阿彌が□堂(ひつだう)に與ふる書を作つた文政十一年の後二年にして歿した。書中の所謂「愚姪」が此清常であることは、殆ど疑を容れない。しかし此人と石の夫師岡久次郎の兄事した山崎某とは別人で、山崎某は過去帳の一本に「清譽凉風居士、文久元酉年(とりのとし)七月二十四日、五郎作兄、行年四十五歳」と記してあるのが、即(すなはち)是(これ)であらう。果して然らば山崎は恐らくは鈴木と師岡との實兄ではあるまい。所謂「五郎作兄」は年齡より推すに、壽阿彌の兄を謂ふのでないことは勿論であるが、未だ考へられない。
 清常の歿するに先つこと一年、文政十二年に、水戸家は烈公齊昭(なりあき)の世となつた。

     二十二

 清常より後の眞志屋の歴史は愈(いよ/\)模糊(もこ)として來る。しかし大體を論ずれば眞志屋は既に衰替の期に入つてゐると謂ふことが出來る。眞志屋は自ら支(さゝ)ふること能(あた)はざるがために、人の廡下(ぶか)に倚(よ)つた。初は「麹町二本(ふたもと)傳次方江(かたへ)同居」と云ふことになり、後「傳次不勝手に付金澤丹後方江又候(またぞろ)同居」と云ふことになつた。
 眞志屋文書に文化以後の書留と覺しき一册子があるが、惜むらくはその載する所の沙汰書(さたしよ)、伺書(うかがひしよ)、願書(ねがひしよ)等には多く年月日が闕(か)けてゐる。
 此等の文に據るに、家道衰微の原因として、表向申し立ててあるのは火災である。「類燒後御菓子製所大破に相成」云々と云つてある。此火災は壽阿彌の手紙にある「類燒」と同一で、文政十年の出來事であつたのだらう。
 さて二本傳次の同居人であつた當時の眞志屋五郎兵衞は、病に依つて二本氏の族人をして家を嗣(つ)がしめたらしい。年月日を闕(か)いた願書に、「願之上親類麹町二本傳次方江同居仕御用向無滯(とゞこほりなく)相勤候處、當夏中より中風相煩歩行相成兼其上甥(をひ)鎌作(かまさく)儀病身に付(中略)右傳次方私從弟定五郎と申者江跡式相續爲仕度(つかまつらせたく)(中略)奉願候、尤(もつとも)從弟儀未(いまだ)若年に御座候に付右傳次儀後見仕」云々と云つてある。署名者は眞志屋五郎兵衞、二本傳次の二人である。此願は定て聞き屆けられたであらう。
 しかし十二代清常と此定五郎との接續が不明である。中風になつた五郎兵衞が二十歳で歿した清常でないことは疑を容(い)れない。已(や)むことなくば一説がある。同じ册子の定五郎相續願の直前に、同じく年月日を闕(か)いた沙汰書が載せてある。これは五郎兵衞の病氣のために、伯父久衞門が相續することを聽許(ていきよ)する文である。此五郎兵衞を清常とするときは、十三代久衞門、十四代定五郎となるであらう。
 次に同じ册子に嘉永七寅霜月(とらのしもつき)とした願書があつて、これは眞志屋が既に二本氏から金澤氏に轉寓した後の文である。眞志屋五郎作が金澤方にゐながら、五郎兵衞と改稱したいと云ふので、五郎作の叔父永井榮伯が連署してゐる。此願書が定五郎相續願の直後に載せてあるのを見れば、或は定五郎は相續後に一旦五郎作と稱し、次で金澤氏に寓して、五郎兵衞と改めたのではなからうか。それは兎も角も、山崎久次郎を以て兄とする五郎作は、此文に見えてゐる五郎作即ち永井榮伯の兄の子の五郎作ではなからうか。因(ちなみ)に云ふ。壽阿彌を請じて源氏物語を講ぜしめた永井榮伯は、眞志屋の親戚であつたことが、此文に徴して知られる。師岡氏未亡人の言(こと)に據れば、わたくしが前(さき)に諸侯の抱醫か町醫かと云つた榮伯は、町醫であつたのである。
 わたくしの眞志屋文書より獲(え)た所の繼承順序は、概(おほむ)ね此(かく)の如きに過ぎない。今にして壽阿彌の手紙を顧(かへりみ)ればその所謂(いはゆる)「愚姪(ぐてつ)」は壽阿彌に家人株(けにんかぶ)を買つて貰つた鈴木、師岡、乃至(ないし)山崎ではなくて、眞志屋十二代清常であつた。鈴木、師岡は伊澤の刀自や師岡未亡人の言(こと)の如く、壽阿彌の妹の子であらう。山崎は稍(やゝ)疑はしい。案ずるに偶然師岡氏と同稱であつた山崎は、某代五郎作の實兄で、鈴木と師岡とは義兄としてこれを遇してゐたのではなからうか。清常に至つては壽阿彌がこれを謂つて姪(てつ)となす所以(ゆゑん)を審(つまびらか)にすることが出來ない。

     二十三

 わたくしは師岡未亡人に、壽阿彌の妹の子が二人共蒔繪(まきゑ)をしたことを聞いた。しかし先づ蒔繪を學んだのは兄鈴木で、師岡は鈴木の傍(かたはら)にあつてその爲(な)す所に傚(なら)つたのださうである。
 わたくしは又伊澤の刀自に、其父榛軒(しんけん)が壽阿彌の姪(をひ)をして櫛(くし)に蒔繪せしめたことを聞いた。此蒔繪師の號はすゐさいであつたさうである。
 師岡未亡人はすゐさいの名を識らない。夫師岡が此號を用ゐたなら、識らぬ筈が無い。そこでわたくしは蒔繪師すゐさいは鈴木であらうと推測した。
 此推測は當つたらしい。淺井平八郎さんは眞志屋の遺物の中から、寫本二種を選(え)り出して持つて來た。其一は蒔繪の圖案を集めたもので、西郭、溪雲、北可、玉燕女(ぎよくえんぢよ)等と署した畫が貼(は)り込んである。表紙の表には「畫本」と題し、裏には通二丁目山本と書して塗抹(とまつ)し、「壽哉(じゆさい)所藏」と書してある。其二は浮世繪師の名を年代順に列記し、これに略傳を附したもので、末に狩野家(かのけ)數世の印譜を寫して添へてある。表紙の表には「古今先生記」と題し、裏には「嘉永四辛亥(しんがい)春」と書し、其下に「鈴木壽哉」の印がある。伊澤榛軒のために櫛に蒔繪したのが、此鈴木壽哉であつたことは、殆ど疑を容れない。壽哉は或はしうさいなどと訓(よ)ませてゐたので、すゐさいと聞き錯(あやま)られたかも知れない。
 初めわたくしは壽阿彌の墓を討(もと)めに昌林院へ往つた。そして昌林院の住職に由つて師岡氏未亡人を知り、未亡人に由つて眞志屋文書を見るたつきを得た。然るにわたくしは曾(かつ)て昌林院に至りし日雨に阻(さまた)げられて墓に詣(まう)でなかつた。わたくしは平八郎さんが來た時、これに告ぐるに往訪に意あることを以てした。其時平八郎さんはわたくしに意外な事を語つた。それはかうである。近頃昌林院は墓地を整理するに當つて、墓石の一部を傳通院内に移し、爾餘のものは別に處分した。そして壽阿彌の墓は傳通院に移された墓石中には無かつた。師岡氏未亡人は忌日に參詣して、壽阿彌の墓の失踪(しつそう)を悲み、寺僧に其所在を問うて已(や)まなかつた。寺僧は資を捐(す)てて新に壽阿彌の石を立てた。今傳通院にあるものが即是である。未亡人石は毎(つね)に云つてゐる。「原(もと)の壽阿彌のお墓は硯(すゞり)のやうな、綺麗な石であつたのに、今のお墓はなんと云ふ見苦しい石だらう。」
 わたくしは曩(さき)に寺僧の言(こと)を聞いた時、壽阿彌が幸にして盛世碑碣(ひけつ)の厄(やく)を免れたことを喜んだ。然るに當時寺僧は實を以てわたくしに告げなかつたのである。壽阿彌の墓は香華(かうげ)未だ絶えざるに厄に罹(かゝ)つて、後僅に不完全なる代償を得たのである。
 大凡(おほよそ)改葬の名の下(もと)に墓石を處分するは、今の寺院の常習である。そして警察は措(お)いてこれを問はない。明治以降所謂改葬を經て、踪迹(そうせき)の尋ぬべからざるに至つた墓碣(ぼけつ)は、その幾何(いくばく)なるを知らない。此厄は世々の貴人大官碩學(せきがく)鴻儒(こうじゆ)及至諸藝術の聞人と雖(いへども)免れぬのである。
 此間寺僧にして能く過(あやまち)を悔いて、一旦處分した墓を再建したものは、恐らくは唯(たゞ)昌林院主一人あるのみであらう。そして院主をして肯(あへ)て財を投じて此稀有(けう)の功徳(くどく)を成さしめたのは、實に師岡氏未亡人石が悃誠(こんせい)の致す所である。

     二十四

 眞志屋の西村氏は古くから昌林院を菩提所にしてゐた。然るに中ごろ婚嫁のために江間氏と長島氏との血が交つたらしい。江間、長島の兩家は淺草山谷の光照院を菩提所にしてゐたのである。
 わたくしは眞志屋文書に二種の過去帳のあることを言つた。餘り手入のしてない原本と、手入のしてある他の一本とである。其手入は江間氏の人々の作(な)した手入である。姑(しばら)く前者を原本と名づけ、後者を別本と名づけることにする。
 原本は昌林院に葬つた人々のみを載せてゐる。初代日水から九代一鐵まで皆然りである。そして此本には十代を淨本としてゐる。
 別本は淨本を歴代の中から除き去つて、代ふるに了蓮を以てしてゐる。これは光照院に葬られた人で、恐らくは江間氏であらう。次が十一代壽阿彌曇□で、此人が始て江間氏から出て遺骸を昌林院に埋めた。
 長島氏の事蹟は頗る明(あきらか)でないが、わたくしは長島氏が江間氏と近密なる關係を有するものと推測する。過去帳別本に「貞譽誠範居士、葬于光照院(くわうせうゐんにはうむる)、長島五郎兵衞、□代五郎兵衞實父、□□□月」として「二十日」の下に記してある。四字は紙質が濕氣のために變じて讀むべからざるに至つてゐる。然るにこれに參照すべき戒名が今一つある。それは「覺譽泰了(たいれう)居士、明和六年己丑(きちう)七月、遠州舞坂人、江間小兵衞三男、俗名利右衞門、九代目五郎作實祖父、葬于淺草光照院(あさくさくわうせうゐんにはうむる)」と、「四日」の下に記してある泰了である。
 試みに誠範の所の何代を九代とすると、江間小兵衞の三男が利右衞門泰了、泰了の子が長島五郎兵衞誠範、誠範の子が眞志屋九代の五郎作、後(のち)五郎兵衞一鐵と云ふことになる。別本一鐵の下には五郎兵衞としてあつて、泰了の下に九代目五郎作としてあるから、初(はじめ)五郎作、後五郎兵衞となつたものと見るのである。
 更に推測の歩を進めて、江間氏は世(よゝ)利右衞門と稱してゐて、明和六年に歿した利右衞門泰了の嫡子が寛政四年に歿した利右衞門淨岸で、淨岸の弟が長島五郎兵衞誠範であつたとする。さうすると淨岸の子壽阿彌と誠範の子一鐵とは從兄弟になる。わたくしは此推測を以て甚だしく想像を肆(ほしいまゝ)にしたものだとは信ぜない。
 わたくしはこれだけの事を考へて、二種の過去帳を、他の眞志屋文書に併せて平八郎さんに還した。
 わたくしは昌林院の壽阿彌の墓が新に建てられたものだと聞いたので、これを訪(と)ふ念が稍(やゝ)薄らいだ。これに反して光照院の江間、長島兩家の墓所は、わたくしに新に何物をか教へてくれさうに思はれたので、わたくしは大いにこれに屬望(ぞくばう)した。わたくしは山谷の光照院に往つた。
 淺草聖天町(しやうでんちやう)の停留場で電車を下りて吉野町を北へ行くと、右側に石柱鐵扉(てつぴ)の門があつて、光照院と書いた陶製の標札が懸けてある。墓地は門を入つて右手、本堂の南にある。

     二十五

 光照院の墓地の東南隅に、殆ど正方形を成した扁石(ひらいし)の墓があつて、それに十四人の戒名が一列に彫(ゑ)り付けてある。其中三人だけは後に追加したものである。追加三人の最も右に居るのが眞志屋十一代の壽阿彌、次が十二代の「戒譽西村清常居士、文政十三年庚寅(かういん)十二月十二日」、次が「證譽西村清郷居士、天保九年戊戌(ぼじゆつ)七月五日」である。壽阿彌は西村氏の菩提所昌林院に葬られたが、親戚が其名を生家の江間氏の菩提所に留(とゞ)めむがために、此墓に彫(ゑ)り添へさせたものであらう。清常、清郷は過去帳原本の載せざる所で、獨(ひとり)別本にのみ見えてゐる。殘餘十一人の古い戒名は皆別本にのみ出てゐる名である。清郷の何人たるかは考へられぬが、清常の近親らしく推せられる。
 古い戒名の江間氏親戚十一人の關係は、過去帳別本に徴するに頗る複雜で、容易には明(あきら)め難い。唯(たゞ)二三の注意に値する件々を左に記して遺忘に備へて置く。
 十一人中に「法譽知性大※(ちしやうだいし)[#「姉」の正字、「女+□のつくり」、222-下-19]、寛政十年戊午(ぼご)八月二日」と云ふ人がある。十代の實祖母としてあるから、了蓮の祖母であらう。此知性の父は「玄譽幽本居士、寶暦九年己卯(きばう)三月十六日」、母は「深譽幽妙大※(めうさんだいし)[#「姉」の正字、「女+□のつくり」、222-下-229]、寶暦五年乙亥(おつがい)十一月五日」としてある。更にこれより溯(さかのぼ)つて、「月窓妙珊大※[#「姉」の正字、「女+□のつくり」、223-上-1]、寛保元年|辛酉(しんいう)十月二十四日」がある。これは知性の祖としてあるから、祖母ではなからうか。以上を知性系の人物とする。然るに幽本、幽妙の子、了蓮の父母は考へることが出來ない。
 十一人中に又「貞譽誠範居士、文政五年壬午(じんご)五月二十日」と云ふ人がある。即ち過去帳別本に讀むべからざる記註を見る戒名である。わたくしは其「何代五郎兵衞實父」を「九代」と讀まむと欲した。殘餘の闕文(けつぶん)は月字の上の三字で、わたくしは今これを讀んで「同年五月」となさむと欲する。何故と云ふに、別本には誠範の右に「蓮譽定生大※[#「姉」の正字、「女+□のつくり」、223-上-10]、文政五年壬午(じんご)八月」があつたから、此(かく)の如くに讀むときは、此彫文と符(ふ)するからである。果して誠範を九代一鐵の父長島五郎兵衞だとすると、此名の左隣にある別本の所謂九代の祖父「覺譽泰了居士、明和六年己丑(きちう)七月四日」は、誠範の父であらう。又此列の最右翼に居る「範叟道規庵主(はんそうだうきあんしゆ)、元文三年戊午(ぼご)八月八日」は、別本に泰了縁家の祖と註してあるから、此系の最も古い人に當り、又此列の最左翼に居る壽阿彌の父「頓譽(とんよ)淨岸居士、寛政四年壬子(じんし)八月九日」は、泰了と利右衞門の稱を同じうしてゐるから、泰了の子かと推せられる。以上を誠範系の人物とする。江間氏と長島氏との連繋は、此誠範系の上に存するのである。
 此大墓石と共に南面して、其西隣に小墓石がある。臺石に長島氏と彫(ゑ)り、上に四人の法諡(ほふし)が並記してある。二人は女子、二人は小兒である。「馨譽慧光大※(けいよゑくわうだいし)[#「姉」の正字、「女+□のつくり」、223-下-1]、文政六年癸未(きび)十月二十七日」は別本に十二代五郎兵衞※[#「姉」の正字、「女+□のつくり」、223-下-2]、實は叔母(しゆくぼ)と註してある。「誠月妙貞大※[#「姉」の正字、「女+□のつくり」、223-下-3]、安政三年丙辰(へいしん)七月十二日」は別本に五郎作母、六十四歳と註してある。小兒は勇雪、了智の二童子で、了智は別本に十二代五郎兵衞實弟と註してある。要するに此四人は皆十二代清常の近親らしいから、所謂五郎作母も清常の初稱五郎作の母と解すべきであるかも知れない。別本には猶(なほ)、次に記すべき墓に彫つてある蓮譽定生大※[#「姉」の正字、「女+□のつくり」、223-下-8]の下(もと)に、十二代五郎兵衞養母と註してある。清常には母かと覺しき妙貞があり、叔母慧光があつて、それが西村氏に養はれてから定生を養母とし、叔母慧光を姉とするに至つた。以上を清常系の人物として、これに別本に見えてゐる慧光の實母を加へなくてはならない。即ち深川靈岸寺開山堂に葬られたと云ふ「華開生悟信女(けかいしやうごしんによ)、享和二年壬戌(じんじゆつ)十二月六日」が其人である。しかし清常の父の誰なるかは遂に考へることが出來ない。

     二十六

 次に遠く西に離れて、茱萸(ぐみ)の木の蔭に稍(やゝ)新しい墓石があつて、これも臺石に長島氏と彫つてある。墓表には男女二人の戒名が列記してある。男女の戒名は、「淨譽了蓮居士、寛政八辰天(しんてん)七月初七日」と「蓮譽定生大※[#「姉」の正字、「女+□のつくり」、223-下-20]、文政五午天(ごてん)八月二十日」とで、其中間に後に「遠譽清久居士、明治三十九年十二月十三日」の一行が彫り添へてある。了蓮は過去帳別本の十代五郎作、定生は同本の十二代五郎兵衞養母、清久は師岡久次郎即ち高野氏石の亡夫である。
 定生には父母があつて過去帳別本に見えてゐる。父は「本住院活法日觀信士、天明四年甲辰(かふしん)十二月十七日」、母は「靈照院妙慧日耀信女(めうゑにちえうしんによ)、文化十二年乙亥(おつがい)正月十三日」で、並(ならび)に橋場長照寺に葬られた。日觀の俗名は別本に小林彌右衞門と註してある。然るに了蓮の祖母知性の母幽妙の下にも、別本に小林彌右衞門妻の註がある。此二箇所に見えてゐる小林彌右衞門は同人であらうか、又は父子襲名であらうか。又定生の外祖母と稱するものも別本に見えてゐる。「貞圓妙達比丘尼(びくに)、天明七年丁未(ていび)八月十一日」と書し、深川佐賀町一向宗と註してあるものが即(すなはち)是(これ)である。
 了蓮と定生との關係、清久の名を其間に厠(まじ)へた理由は、過去帳別本の記載に由つて明にすることが出來ない。師岡氏未亡人は或はわたくしに教へてくれるであらうか。
 わたくしが光照院の墓の文字を讀んでゐるうちに、日は漸(やうや)く暮れむとした。わたくしのために香華を墓に供へた媼(おうな)は、「蝋燭(らうそく)を點(とぼ)してまゐりませうか」と云つた。「なに、もう濟んだから好(い)い」と云つて、わたくしは光照院を辭した。しかし江間、長島の親戚關係は、到底墓表と過去帳とに藉(よ)つて、明め得べきものでは無かつた。壽阿彌の母、壽阿彌の妹、壽阿彌の妹の夫の誰たるを審(つまびらか)にするに至らなかつたのは、わたくしの最も遺憾とする所である。
 わたくしは新石町の菓子商眞志屋が文政の末から衰運に向つて、一たび二本傳次に寄り、又轉じて金澤丹後に寄つて僅に自ら支へたことを記した。眞志屋は衰へて二本に寄り、二本が眞志屋と倶(とも)に衰へて又金澤に寄つたと云ふ此金澤は、そもそもどう云ふ家であらう。
 わたくしが此「壽阿彌の手紙」を新聞に公にするのを見て、或日金澤蒼夫(さうふ)と云ふ人がわたくしに音信を通じた。わたくしは蒼夫さんを白金臺町の家に訪うて交を結んだ。蒼夫さんは最後の金澤丹後で、祖父明了軒以來西村氏の後を承け、眞志屋五郎兵衞の名義を以て水戸家に菓子を調進した人である。
 初めわたくしは澀江抽齋傳中の壽阿彌の事蹟を補ふに、其尺牘(せきどく)一則を以てしようとした。然るに料(はか)らずも物語は物語を生んで、斷えむと欲しては又續き、此(こゝ)に金澤氏に説き及ぼさざることを得ざるに至つた。わたくしは此最後の丹後、眞志屋の鑑札を佩(お)びて維新前まで水戸邸の門を潜つた最後の丹後をまのあたり見て、これを緘默(かんもく)に附するに忍びぬからである。

     二十七

 眞志屋と云ふ難破船が最後に漕(こ)ぎ寄せた港は金澤丹後方である。當時眞志屋が金澤氏に寄つた表向の形式は「同居」で、其同居人は初め五郎作と稱し、後嘉永七年即安政元年に至つて五郎兵衞と改めたことが、眞志屋文書に徴して知られる。文書の收むる所は改稱の願書で、其願が聽許(ていきよ)せられたか否かは不明であるが、此(かく)の如き願が拒止せらるべきではなささうである。
 しかし此五郎作の五郎兵衞は必ずしも實に金澤氏の家に居つたとは見られない。現に金澤蒼夫(さうふ)さんは此の如き寓公(ぐうこう)の居つたことを聞き傳へてゐない。さうして見れば、單に寄寓したるものゝ如くに粧ひ成して、公邊を取り繕つたのであつたかも知れない。
 蒼夫さんの知つてゐる所を以てすれば、金澤氏が眞志屋の遺業を繼承したのは、蒼夫の祖父明了軒の代の事である。これより以後、金澤氏は江戸城に菓子を調進するためには金澤丹後の名を以て鑑札を受け、水戸邸に調進するためには眞志屋五郎兵衞の名を以て鑑札を受けた。金澤氏の年々受け得た所の二樣の鑑札は、蒼夫さんの家の筐(はこ)に滿ちてゐる。鑑札は白木の札に墨書して、烙印(らくいん)を押したものである。札は孔(あな)を穿(うが)ち緒(を)を貫き、覆(おほ)ふに革袋(かはぶくろ)を以てしてある。革袋は黒の漆塗で、その水戸家から受けたものには、眞志の二字が朱書してある。
 想ふに授受が眞志屋と金澤氏との間に行はれた初には、縱(よし)や實に寓公たらぬまでも、眞志屋の名前人が立てられてゐたが、後に至つては特にこれを立つることを須(もち)ゐなかつたのではなからうか。兎に角金澤氏の代々の當主は、徳川將軍家に對しては金澤丹後たり、水戸宰相家に對しては眞志屋五郎兵衞たることを得たのである。「まあ株を買つたやうなものだつたのでせう」と蒼夫さんは云ふ。今の語を以て言へば、此授受の形式は遂に「併合」に歸したのである。
 眞志屋の末裔(ばつえい)が二本に寄り、金澤に寄つたのは、啻(たゞ)に同業の好(よしみ)があつたのみではなかつたらしい。二本は眞志屋文書に「親類麹町二本傳次方」と云つてある。又眞志屋の相續人たるべき定五郎は「右傳次方私從弟定五郎」と云つてある。皆眞志屋五郎兵衞が此の如くに謂つたのである。金澤氏は果して眞志屋の親戚であつたか否か不明であるが、試に系譜を檢するに、貞享中に歿した初代相安院清頓の下に、「長島□校」に嫁した女子がある。此(この)壻(むこ)は或は眞志屋の一族長島氏の人であつたのではなからうか。
 金澤氏は本(もと)増田氏であつた。豐臣時代に大和國郡山(やまとのくにこほりやま)の城主であつた増田長盛の支族で、曾(かつ)て加賀國金澤に住したために、商家となるに及んで金澤屋と號し、後單に金澤と云つたのださうである。系譜の載する所の始祖は又兵衞と稱した。相摸國三浦郡蘆名村に生れ、江戸に入つて品川町に居り、魚を鬻(ひさ)ぐを業とした。蒼夫さんの所有の過去帳に、「相安院淨譽清頓信士、貞享五年五月二十五日」と記してある。

     二十八

 増田氏の二代三右衞門は、享保四年五月九日に五十八歳で歿した。法諡(ほふし)實相院頓譽淨圓居士である。此人が菓子商の株を買つた。
 三代も亦同じく三右衞門と稱し、享保八年七月二十八日に三十七歳で歿した。法諡寂苑院(じやくをんゐん)淨譽玄清居士である。四代三右衞門の覺了院性譽一鎚(いつつゐ)自聞居士は、明和六年四月二十四日に四十六歳で歿した。五代三右衞門の自適齋眞譽東里威性居士は、天保六年十月五日に八十四歳で歿した。此人は増田氏累世中で、最も學殖あり最も文事ある人であつた。所謂(いはゆる)田威、字(あざな)は伯孚(はくふ)、別號は東里である。詩を善くし書を善くして、一時の名流に交つた。文政四年に七十の賀をした時、養拙齋高岡秀成、字は實甫(じつぽ)と云ふものが壽序を作つて贈つた。二本傳次の妻は東里が長女の第八女であつた。眞志屋が少くも此家と間接に親戚たることは、此一條のみを以てしても證するに足るのである。六代三右衞門はわたくしの閲(けみ)した系譜に載せて無い。増田氏は世(よゝ)駒込願行寺を菩提所としてゐるのに、獨り此人は谷中長運寺に葬られたさうである。七代三右衞門は天保十一年十月二日に四十四歳で歿し、寶龍院乘譽依心連戒居士と法諡(ほふし)せられた。
 按(あん)ずるに此頃に至るまでは、金澤三右衞門は丹後と稱せずして越後と稱したのではなからうか。文化の末に金澤瀬兵衞と云ふものが長崎奉行(ぶぎやう)を勤めてゐたが、此人は叙爵の時越後守(ゑちごのかみ)となるべきを、菓子商の稱を避けて百官名を受け、大藏少輔(おほくらせういう)にせられたと、大郷信齋の道聽塗説(どうていとせつ)に見えてゐる。或はおもふに道聽塗説の越後は丹後の誤か。
 八代は通稱金藏で、天保三年七月十六日に六十一歳で歿した。法諡(ほふし)梅翁日實居士である。九代は又三右衞門と稱し、後に三輔(すけ)と改めた。素細工頭(もとさいくがしら)支配玉屋市左衞門の子である。明治十年十一月十一日に六十四歳で歿し、明了軒唯譽深廣連海居士と法諡(ほふし)せられた。十代三右衞門、後の稱三左衞門は明治二十年二月二十六日に歿し、榮壽軒梵譽利貞至道居士と法諡せられた。此榮壽軒の後を襲いだ十一代三右衞門が今の蒼夫さんで、大正五年に七十一歳になつてゐる。その丹後掾(たんごのじよう)と稱したのは前代の勅賜に本づく。
 天保元年に眞志屋十二代の五郎兵衞清常が歿した時、増田氏の金澤には七十九歳の自適齋東里、五十九歳の梅翁、三十四歳の寶龍院依心、十七歳の明了軒深廣、十歳の榮壽軒利貞が並存してゐた筈である。嘉永七年に最後の眞志屋名前人五郎作が五郎右衞門と改稱した時に至ると、明了軒が四十一歳、榮壽軒が三十四歳、弘化二年生の蒼夫さんが九歳になつてゐた筈である。
 わたくしは前(さき)に、眞志屋最後の名前人五郎作改め五郎兵衞は定五郎ではなからうかと云つた。それは定五郎が眞志屋文書に載する所の最後の家督相續者らしく見えるからであつた。しかし更に考ふるに、此定五郎は幾(いくば)くならずして廢(や)められ、天保弘化の間に明了軒がこれに代つてゐて、所謂五郎作改五郎兵衞は明了軒自身であつたかも知れない。
 眞志屋の自立してゐた間の菓子店は、既に屡(しば/\)云つたやうに新石町、金澤の店は本石町二丁目西角であつた。

     二十九

 わたくしは駒込願行寺に増田氏の墓を訪うた。第一高等學校寄宿舍の西、巷(こうぢ)に面した石垣の新に築かれてゐるのが此寺である。露次を曲つて南向の門に入ると、左に大いなる鑄鐵の井欄(せいらん)を見る。井欄の前面に掌大(しやうだい)の凸字(とつじ)を以て金澤と記してある。恐らくは増田氏の盛時のかたみであらう。
 墓は門を入つて右に折れて往く塋域(えいゐき)にある。上に佛像を安置した墓の隣に、屋盖形(やねがた)のある石が二基並んで、南に面して立つてゐる。臺石には金澤屋と彫(ゑ)り、墓には正面から向つて左の面に及んで、許多(あまた)の戒名が列記してある。讀んで行く間に、明了軒の諡(おくりな)が系譜には運海と書してあつたのに、此には連海に作つてあるのに氣が付いた。金石文字は人の意を用ゐるものだから、或は系譜の方が誤ではなからうか。
 拜し畢つて歸る時、わたくしは曾て面(おもて)を識つてゐる女子に逢つた。恐くは願行寺の住職の妻であらう。此女子は曩(さき)の日わたくしに細木香以の墓ををしへてくれた人である。
「けふは金澤の墓へまゐりました。先日金澤の老人に逢つて、先祖の墓がこちらにあるのを聞いたものですから。」とわたくしは云つた。
「さやうですか。あれはこちらの古い檀家(だんか)だと承はつてゐます。昔の御商賣は何でございましたでせう。」
「菓子屋でした。徳川家の菓子の御用を勤めたものです。維新前の菓子屋の番附には金澤丹後が東の大關になつてゐて、風月堂なんぞは西の幕の内の末の方に出てゐます。本郷の菓子屋では、岡野榮泉だの、藤村だの、船橋屋織江だのが載つてゐますが、皆幕外(まくそと)です。なんでも金澤は將軍家や大名ばかりを得意先にしてゐたものだから、維新の時に得意先と一しよに滅びたのださうです。今の老人の細君は木場の萬和の女(むすめ)です。里親の萬屋和助なんぞも、維新前の金持の番附には幕の内に這入(はひ)つてゐました。」
 わたくしはこんな話をして女子に別を告げた。美しい怜悧(れいり)らしい言語の明晰(めいせき)な女子である。
 増田氏歴代の中で一人谷中長運寺に葬られたものがあると、わたくしは蒼夫さんに聞いた。家に歸つてから、手近い書に就いて谷中の寺を□したが、長運寺の名は容易(たやす)く見附けられなかつた。そこでわたくしは錯(あやま)り聞いたかも知れぬと思つた。後に武田信賢著墓所集覽で谷中長運寺を□出して往訪したが、増田氏の墓は無かつた。寺は渡邊治右衞門別莊の邊から一乘寺の辻へ拔ける狹い町の中程にある。
 蒼夫さんはわたくしの家を訪ふ約束をしてゐるから、若し再會したら重ねて長運寺の事をも問ひ質(たゞ)して見よう。

     三十

 諸書の載する所の壽阿彌の傳には、西村、江間、長島の三つの氏を列擧して、曾て其交互の關係に説き及ぼしたものが無かつた。わたくしは今淺井平八郎さんの齎(もたら)し來つた眞志屋文書に據つて、記載のもつれを解きほぐし、明(あきら)め得らるゝだけの事を明めようと努めた。次で金澤蒼夫さんを訪うて、系譜を閲(けみ)し談話を聽き、壽阿彌去後の眞志屋のなりゆきを追尋して、あらゆるトラヂシヨンの絲を斷ち截(き)つた維新の期に□(およ)んだ。わたくしの言はむと欲する所のものは略(ほゞ)此(こゝ)に盡きた。
 然るに淺井、金澤兩家の遺物文書の中には、□閲の際にわたくしの目に止まつたものも少く無い。左に其二三を録存することゝする。
 淺井氏のわたくしに示したものゝ中には、壽阿彌の筆跡と稱すべきものが少かつた。袱紗(ふくさ)に記した縁起、西山遺事の書後並に欄外書等は、自筆とは云ひながら太(はなは)だ意を用ゐずして寫した細字に過ぎない。これに反してわたくしは遺物中に、小形の短册二葉を絲で綴(と)ぢ合せたものゝあるのを見た。其一には「七十九のとしのくれに」と端書して「あすはみむ八十(やそ)のちまたの門(かど)の松」と書し、下に一の壽字が署してある。今一葉には「八十(やそ)になりけるとしのはじめに」と端書して「今朝ぞ見る八十のちまたの門の松」と書し、下に「壽松」と署してある。
 此二句は書估(しよこ)活東子が戲作者小傳に載せてゐるものと同じである。小傳には猶「月こよひ枕團子(まくらだんご)をのがれけり」と云ふ句もある。活東子は「或年の八月十五夜に、病重く既に終らむとせしに快くなりければ、月今宵云々と書いて孫に遣りけるとぞ」と云つてゐる。
 壽阿彌は嘉永元年八月二十九日に八十歳で歿したから、歳暮の句は弘化四年十二月晦日(みそか)の作、歳旦の句は嘉永元年正月朔(ついたち)の作である。後者は死ぬべき年の元旦の作である。これより推せば、月今宵の句も同じ年の中秋に成つて、後十四日にして病(やまひ)革(すみやか)なるに至つたのではなからうか。活東子は月今宵の句を書いて孫に遣つたと云つてゐるが、壽阿彌には子もなければ孫もなかつただらう。別に「まごひこに別るゝことの」云々と云ふ狂歌が、壽阿彌の辭世として傳へられてゐるが、わたくしは取らない。
 月今宵は少くも灑脱(しやだつ)の趣のある句である。歳暮歳旦の句はこれに反して極て平凡である。しかし萬葉の百足(もゝた)らず八十のちまたを使つてゐるのが、壽阿彌の壽阿彌たる所であらう。
 短册の手迹(しゆせき)を見るに、壽阿彌は能書であつた。字に媚□(びぶ)の態があつて、老人の書らしくは見えない。壽の一字を署したのは壽阿彌の省略であらう。壽松の號は他に所見が無い。

     三十一

 連歌師としての壽阿彌は里村昌逸の門人であつたかと思はれる。わたくしは眞志屋の遺物中にある連歌の方式を書いた無題號の寫本一册と、弘化嘉永間の某年正月十一日柳營之御會と題した連歌の卷數册とを見た。無題號の寫本は表紙に「如是縁庵(によぜえんあん)」と書し、「壽阿彌陀佛印」の朱記がある。卷尾には「享保八年癸卯(きばう)七月七日於京都、里村昌億翁以本書、乾正豪寫之」と云ふ奧書があつて、其次の餘白に、「先師次第」と題した略系と「玄川先祖より次第」と題した略系とが書き添へてある。連歌の卷々には左大臣として徳川家慶(いへよし)の句が入つてゐる。そして嘉永元年前のものには必ず壽阿彌が名を列して居る。
 先師次第にはかう記してある。「宗祇(そうぎ)、宗長、宗牧、里村元祖昌休(しやうきう)、紹巴(せうは)、里村二代昌叱(しやうしつ)、三代昌琢(しやうたく)、四代昌程、弟祖白、五代昌陸、六代昌億、七代昌迪(しやうてき)、八代昌桂、九代昌逸、十代昌同」である。玄川先祖より次第にはかう記してある。「法眼(はふげん)紹巴、同(おなじく)玄仍(げんじよう)、同玄陳、同玄俊、玄心、紹尹(せうゐん)、玄立、玄立、法橋(ほつけう)玄川寛政六年六月二十日法橋」である。
 二種の略系は里村兩家の承統次第を示したものである。宗家昌叱の裔(すゑ)は世(よゝ)京都に住み、分家玄仍の裔は世江戸石原に住んでゐた。しかし後には兩家共京住ひになつたらしい。
 わたくしは此略系を以て壽阿彌の書いたものとして、宗家の次第に先師と書したことに注目する。里村宗家は恐くは壽阿彌の師家であつたのだらう。然るに十代昌同は壽阿彌の同僚で、連歌の卷々に名を列してゐる。其「先師」は一代を溯(さかのぼ)つて故人昌逸とすべきであらう。昌逸昌同共に「百石二十人扶持京住居」と武鑑に註してある。
 壽阿彌の連歌師としての同僚中、坂昌功は壽阿彌と親しかつたらしい。眞志屋の遺物中に、「壽阿彌の手向(たむけ)に」と端書して一句を書し、下に「昌功」と署した短册(たんざく)がある。坂昌功は初め淺草黒船町河岸に住し、後根岸に遷つた。句は秋季である。しかし録するに足らない。川上宗壽が連歌を以て壽阿彌に交つたことは、□堂(ひつだう)に遣つた手紙に見えてゐた。
 眞志屋の扶持は初め河内屋島が此家に嫁した時、米百俵づつ三季に渡され、次で元文三年に七人扶持に改められ、九代一鐵の時寛政五年に暫くの内三人半扶持を減して三人半扶持にせられたことは既に記した。眞志屋文書中の「文化八年未(ひつじの)正月御扶持渡通帳(おんふちわたしかよひちやう)」に據るに、此後文化五年戊辰(ぼしん)に「三人半扶持の内一人半扶持借上二人扶持被下置(くだしおかる)」と云ふことになつた。これは十代若(もし)くは十一代の時の事である。眞志屋文書はこれより後の記載を闕(か)いてゐる。然るに金澤蒼夫さんの所藏の文書に據れば、天保七年丙申に又「一人扶持借上暫くの内一人扶持被下置」と云ふことになり、終に初の七人扶持が一人扶持となつたのである。しかし此一人扶持は、明治元年藩政改革の時に至るまで引き續いて、水戸家が眞志屋の後繼者たる金澤氏に給してゐたさうである。

     三十二

 西村廓清の妻島の里親河内屋半兵衞が、西村氏の眞志屋五郎兵衞と共に、世(よゝ)水戸家の用達であつたことは、夙(はや)く海録の記する所である。しかしわたくしは眞志屋の菓子商たるを知つて、河内屋の何商たるを知らなかつた。そのこれを知つたのは、金澤蒼夫さんを訪うた日の事である。
 わたくしは蒼夫さんの家に於て一の文書を見た。其中に「河内屋半兵衞、元和中より麪粉類(めんふんるゐ)御用相勤」云々(しか/″\)の文があつた。河内屋は粉商であつた。島は粉屋の娘であつた。わたくしの新に得た知識は啻(たゞ)にそれのみではない。河内屋が古くより水戸家の用達をしてゐたとは聞いてゐたが、いつからと云ふことを知らなかつた。その元和以還の用達たることは此文に徴して知られたのである。慶長中に水戸頼房入國の供をしたと云ふ眞志屋の祖先に較ぶれば少しく遲れてゐるが、河内屋も亦早く元和中に威公頼房の用達となつてゐたのである。
 金澤氏六代の増田東里には、弊帚集(へいさうしふ)と題する詩文稿があることを、蒼夫さんに聞いた。わたくしは卒(にはか)に聞いて弊帚の名の耳に熟してゐるのを怪んだ。後に想へば、水戸の栗山潜鋒(くりやませんぽう)に弊帚集六卷があつて火災に罹(かゝ)り、弟敦恒(とんこう)が其燼餘(じんよ)を拾つて二卷を爲した。載せて甘雨亭叢書(かんうていそうしよ)の中にある。東里の集は偶(たま/\)これと名を同じうしてゐたのであつた。
 わたくしの言はむと欲した所は是だけである。只最後に附記して置きたいのは、師岡未亡人石と東條琴臺の家との關係である。
 初め高野氏石に一人の姉があつて、名をさくと云つた。さくは東條琴臺の子信升(しんしよう)に嫁して、名をふぢと改めた。ふぢの生んだ信升の子は夭(えう)し、其女(むすめ)が現存してゐるさうである。
 淺井平八郎さんの話に據るに、石は嘗(かつ)て此縁故あるがために、東條氏の文書を託せられてゐた。文書は石が東條氏の親戚たる下田歌子さんに交付したさうである。
 わたくしは琴臺の事蹟を詳(つまびらか)にしない。聞く所に據れば、琴臺は信濃(しなの)の人で、名は耕、字(あざな)は子臧(しざう)、小字(をさなな)は義藏である。寛政七年六月七日芝宇田川町に生れ、明治十一年九月二十七日に八十四歳で歿した。文政七年林氏の門人籍に列し、昌平黌(しやうへいくわう)に講説し、十年榊原遠江守政令(さかきばらとほたふみのかみまさなり)に聘せられ、天保三年故あつて林氏の籍を除かれ、弘化四年榊原氏の臣となり、嘉永三年伊豆七島全圖を著(あらは)して幕府の譴責(けんせき)を受け、榊原氏の藩邸に幽せられ、四年謫(たく)せられて越後國高田に往き、戊辰(ぼしん)の年には尚(なほ)高田幸橋町(みゆきばしちやう)に居つた。明治五年八月に七十八歳で向島龜戸(かめゐど)神社の祠官(しくわん)となり、眼疾のために殆ど失明して終つたと云ふことである。
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