あそび
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著者名:森鴎外 

 木村の心持には真剣も木刀もないのであるが、あらゆる為事に対する「遊び」の心持が、ノラでない細君にも、人形にせられ、おもちゃにせられる不愉快を感じさせたのであろう。
 木村のためには、この遊びの心持は「与えられたる事実」である。木村と往来しているある青年文士は、「どうも先生には現代人の大事な性質が闕(か)けています、それは nervosit□(ネルウォジテエ) です」と云った。しかし木村は格別それを不幸にも感じていないらしい。
 夕方のあとはまた小降になって余り涼しくもならない。
 十一時半頃になると、遠い処に住まっているものだけが、弁当を食いに食堂へ立つ。木村は号砲(ドン)が鳴るまでは為事をしていて、それから一人で弁当を食うことにしている。
 二三人の同僚が食堂へ立ったとき、電話のベルが鳴った。給仕が往って暫く聞いていたが、「少々お待下さい」と云って置いて、木村の処へ来た。
「日出新聞社のものですが、一寸電話口へお出(いで)下さいと申すことです。」
 木村が電話口に出た。
「もしもし。木村ですが、なんの御用ですか。」
「木村先生ですか。お呼立て申して済みません。あの応募脚本ですが、いつ頃御覧済になりましょうか。」
「そうですなあ。此頃忙しくて、まだ急には見られませんよ。」
「さようですか。」なんと云おうかと、暫く考えているらしい。「いずれまた伺います。何分宜しく。」
「さようなら。」
「さようなら。」
 微笑の影が木村の顔を掠(かす)めて過ぎた。そしてあの用箪笥の上から、当分脚本は降りないのだと、心の中で思った。昔の木村なら、「あれはもう見ない事にしました」なんぞと云って、電話で喧嘩(けんか)を買ったのである。今は大分おとなしくなっているが、彼れの微笑の中には多少の Bosheit(ボオスハイト) がある。しかしこんな、けちな悪意では、ニイチェ主義の現代人にもなられまい。
 号砲(ドン)が鳴った。皆が時計を出して巻く。木村も例の車掌の時計を出して巻く。同僚はもうとっくに書類を片附けていて、どやどや退出する。木村は給仕とただ二人になって、ゆっくり書類を戸棚にしまって、食堂へ行って、ゆっくり弁当を食って、それから汗臭い満員の電車に乗った。
(明治四十三年八月)



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