大塩平八郎
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著者名:森鴎外 

さやうなら以後御相談は申しますまい。」
「已(や)むを得ません。いかやうとも御勝手になさりませい。」
「然(しか)らばお暇(いとま)しませう。」広瀬は町奉行所を出ようとした。
 そこへ京橋口を廻つて来た畑佐(はたさ)が落ち合つて、広瀬を引き止めて利害を説いた。広瀬はしぶりながら納得して引き返したが、暫(しばら)くして同心三十人を連れて来た。併(しか)し自分は矢張雪駄穿(せつたばき)で、小筒(こづゝ)も何も持たなかつた。
 坂本は庭に出て、今工事を片付けて持口(もちくち)に附いた同心共を見張つてゐた。そこへ跡部(あとべ)は、相役(あひやく)堀を城代土井大炊頭利位(どゐおほひのかみとしつら)の所へ報告に遣(や)つて置いて、書院から降りて来た。そして天満(てんま)の火事を見てゐた。強くはないが、方角の極(き)まらぬ風が折々吹くので、火は人家の立て込んでゐる西南(にしみなみ)の方へひろがつて行く。大塩の進む道筋を聞いた坂本が、「いかがでございませう、御出馬になりましては」と跡部に言つた。「されば」と云つて、跡部は火事を見てゐる。暫くして坂本が、「どうもなか/\こちらへは参りますまいが」と云つた。跡部は矢張「されば」と云つて、火事を見てゐる。

   七、船場

 大塩平八郎は天満与力町(てんまよりきまち)を西へ進みながら、平生私曲(しきよく)のあるやうに思つた与力の家々に大筒を打ち込ませて、夫婦町(めうとまち)の四辻(よつつじ)から綿屋町(わたやまち)を南へ折れた。それから天満宮の側(そば)を通つて、天神橋に掛かつた。向うを見れば、もう天神橋はこはされてゐる。ここまで来るうちに、兼(かね)て天満に火事があつたら駆け附けてくれと言ひ付けてあつた近郷(きんがう)の者が寄つて来たり、途中で行き逢つて誘はれたりした者があるので、同勢三百人ばかりになつた。不意に馳(は)せ加はつたものの中に、砲術の心得(こゝろえ)のある梅田源左衛門(うめだげんざゑもん)と云ふ彦根浪人もあつた。
 平八郎は天神橋のこはされたのを見て、菅原町河岸(すがはらまちかし)を西に進んで、門樋橋(かどひばし)を渡り、樋上町河岸(ひかみまちかし)を難波橋(なんばばし)の袂(たもと)に出た。見れば天神橋をこはしてしまつて、こちらへ廻つた杣人足(そまにんそく)が、今難波橋の橋板を剥(は)がさうとしてゐる所である。「それ、渡れ」と云ふと、格之助が先に立つて橋に掛かつた。人足は抜身(ぬきみ)の鑓(やり)を見て、ばら/\と散つた。
 北浜二丁目の辻に立つて、平八郎は同勢の渡つてしまふのを待つた。そのうち時刻は正午になつた。
 方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場(きたせんば)に簇(むら)がつてゐるので、もう悉(ことごと)く指顧(しこ)の間(あひだ)にある。平八郎は倅(せがれ)格之助、瀬田以下の重立(おもだ)つた人々を呼んで、手筈(てはず)の通(とほり)に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋(いまばしすぢ)には鴻池屋(こうのいけや)善右衛門、同(おなじく)庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人(おほしやうにん)がゐる。南側の高麗橋筋(かうらいばしすぢ)には三井、岩城桝屋(いはきますや)等の大店(おほみせ)がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝(けふかつ)してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔(など)は、一々(いち/\)方略に取(と)り極(き)めてあつたので、ここでも為事(しごと)は自然に発展した。只銭穀(せんこく)の取扱(とりあつかひ)だけは全く予定した所と相違して、雑人共(ざふにんども)は身に着(つけ)られる限(かぎり)の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち退(の)いてしまつた。鴻池本家(こうのいけほんけ)の外(ほか)は、大抵金庫(かねぐら)を破壊せられたので、今橋筋には二分金(にぶきん)が道にばら蒔(ま)いてあつた。
 平八郎は難波橋(なんばばし)[#ルビの「なんばばし」は底本では「なんぱばし」]の南詰(みなみづめ)に床几(しやうぎ)を立てさせて、白井、橋本、其外若党(わかたう)中間(ちゆうげん)を傍(そば)にをらせ、腰に附けて出た握飯(にぎりめし)を噛(か)みながら、砲声の轟(とゞろ)き渡り、火焔(くわえん)の燃(も)え上がるのを見てゐた。そして心の内には自分が兼て排斥した枯寂(こじやく)の空(くう)を感じてゐた。昼八つ時(どき)に平八郎は引上(ひきあげ)の太鼓を打たせた。それを聞いて寄り集まつたのはやう/\百五十人許(ばか)りであつた。その重立(おもだ)つた人々の顔には、言ひ合せた様な失望の色がある。これは富豪を懲(こら)すことは出来たが、窮民を賑(にぎは)すことが出来ないからである。切角(せつかく)発散した鹿台(ろくたい)の財を、徒(いたづら)に烏合(うがふ)の衆の攫(つか)み取るに任せたからである。
 人々は黙つて平八郎の気色(けしき)を伺(うかが)つた。平八郎も黙つて人々の顔を見た。暫(しばら)くして瀬田が「まだ米店(こめみせ)が残つてゐましたな」と云つた。平八郎は夢を揺(ゆ)り覚(さま)されたやうに床几(しやうぎ)を起(た)つて、「好(よ)い、そんなら手配(てくばり)をせう」と云つた。そして残(のこり)の人数(にんず)を二手(ふたて)に分けて、自分達親子の一手は高麗橋(かうらいばし)を渡り、瀬田の一手は今橋(いまばし)を渡つて、内平野町(うちひらのまち)の米店(こめみせ)に向ふことにした。

   八、高麗橋、平野橋、淡路町

 土井の所へ報告に往つた堀が、東町奉行所に帰つて来て、跡部(あとべ)に土井の指図(さしづ)を伝へた。両町奉行に出馬せいと指図したのである。
「承知いたしました。そんなら拙者は手の者と玉造組(たまつくりぐみ)とを連れて出ることにいたしませう。」跡部はかう云つた儘(まゝ)すわつてゐた。
 堀は土井の機嫌の悪いのを見て来たので、気がせいてゐた。そこで席を離れるや否(いな)や、部下の与力同心を呼び集めて東町奉行所の門前に出た。そこには広瀬が京橋組の同心三十人に小筒(こづゝ)を持たせて来てゐた。
「どこの組か」と堀が声を掛けた。
「京橋組でござります」と広瀬が答へた。
「そんなら先手(さきて)に立て」と堀が号令した。
 同階級の坂本に対しては命令の筋道を論じた広瀬が、奉行の詞(ことば)を聞くと、一も二もなく領承した。そして鉄砲同心を引き纏(まと)めて、西組与力同心の前に立つた。
 堀の手は島町通(しまゝちどほり)を西へ御祓筋(おはらひすぢ)まで進んだ。丁度大塩父子(ふし)の率(ひき)ゐた手が高麗橋に掛かつた時で、橋の上に白旗(しらはた)が見えた。
「あれを打たせい」と、堀が広瀬に言つた。
 広瀬が同心等に「打て」と云つた。
 同心等の持つてゐた三文目(もんめ)五分筒(ふんづゝ)が煎豆(いりまめ)のやうな音を立てた。
 堀の乗つてゐた馬が驚いて跳(は)ねた。堀はころりと馬から墜(お)ちた。それを見て同心等は「それ、お頭(かしら)が打たれた」と云つて、ぱつと散つた。堀は馬丁(ばてい)に馬を牽(ひ)かせて、御祓筋(おはらひすぢ)の会所(くわいしよ)に這入(はひ)つて休息した。部下を失つた広瀬は、暇乞(いとまごひ)をして京橋口に帰つて、同役馬場に此(この)顛末(てんまつ)を話して、一しよに東町奉行所前まで来て、大川(おほかは)を隔てて南北両方にひろがつて行く火事を見てゐた。
 御祓筋(おはらひすぢ)から高麗橋までは三丁余あるので、三文目(もんめ)五分筒(ふんづゝ)の射撃を、大塩の同勢(どうぜい)は知らずにしまつた。
 堀が出た跡(あと)の東町奉行所へ、玉造口へ往つた蒲生(がまふ)が大筒を受け取つて帰つた。蒲生は遠藤の所へ乗り付けて、大筒の事を言上(ごんじやう)すると、遠藤は岡翁助(をうすけ)に当てて、平与力(ひらよりき)四人に大筒を持たせて、目附中井半左衛門(なかゐはんざゑもん)方へ出せと云ふ達しをした。岡は柴田勘兵衛、石川彦兵衛に百目筒(めづゝ)を一挺(ちやう)宛(づゝ)、脇勝太郎、米倉倬次郎(よねくらたくじらう)に三十目筒一挺宛を持たせて中川方へ遣(や)つた。中川がをらぬので、四人は遠藤にことわつて、蒲生と一しよに東町奉行所へ来たのである。跡部(あとべ)は坂本が手の者と、今到着した与力四人とを併(あは)せて、玉造組の加勢与力七人、同心三十人を得たので、坂本を先に立てて出馬した。此一手は島町通を西へ進んで、同町二丁目の角から、内骨屋町筋(うちほねやまちすぢ)を南に折れ、それから内平野町(うちひらのまち)へ出て、再び西へ曲らうとした。
 此時大塩の同勢は、高麗橋を渡つた平八郎父子の手と、今橋を渡つた瀬田の手とが東横堀川(ひがしよこぼりがは)の東河岸(ひがしかし)に落ち合つて、南へ内平野町(うちひらのまち)まで押して行き、米店(こめみせ)数軒に火を掛けて平野橋(ひらのばし)の東詰(ひがしづめ)に引き上げてゐた。さうすると内骨屋町筋(うちほねやまちすぢ)から、神明(しんめい)の社(やしろ)の角をこつちへ曲がつて来る跡部(あとべ)の纏(まとひ)が見えた。二町足らず隔たつた纏(まとひ)を目当(めあて)に、格之助は木筒(きづゝ)を打たせた。
 跡部の手は停止した。与力本多(ほんだ)や同心山崎弥四郎(やまざきやしらう)が、坂本に「打ちませうか/\」と催促した。
 坂本は敵が見えぬので、「待て/\」と制しながら、神明(しんめい)の社(やしろ)の角に立つて見てゐると、やう/\烟の中に木筒(きづゝ)の口が現れた。「さあ、打て」と云つて、坂本は待ち構へた部下と一しよに小筒(こづゝ)をつるべかけた。
 烟が散つてから見れば、もう敵は退いて、道が橋向(はしむかう)まで開いてゐる。橋詰(はしづめ)近く進んで見ると、雑人(ざふにん)が一人打たれて死んでゐた。
 坂本は平野橋へ掛からうとしたが、東詰の両側の人家が焼けてゐるので、烟に噎(むせ)んで引き返した。そして始(はじめ)て敵に逢つて混乱してゐる跡部の手の者を押し分けながら、天神橋筋を少し南へ抜けて、豊後町(ぶんごまち)を西へ思案橋に出た。跡部は混乱の渦中に巻き込まれてとう/\落馬した。
 思案橋を渡つて、瓦町(かはらまち)を西へ進む坂本の跡には、本多、蒲生(がまふ)の外、同心山崎弥四郎、糟谷助蔵(かすやすけざう)等が切れ/″\に続いた。
 平野橋で跡部の手と衝突した大塩の同勢(どうぜい)は、又逃亡者が出たので百人余(あまり)になり、浅手(あさで)を負(お)つた庄司に手当をして遣つて、平野橋の西詰から少し南へよぢれて、今淡路町(あはぢまち)を西へ退く所である。
 北の淡路町を大塩の同勢が一歩先に西へ退くと、それと併行した南の瓦町通(かはらまちどほり)を坂本の手の者が一歩遅れて西へ進む。南北に通じた町を交叉(かうさ)する毎に、坂本は淡路町の方角を見ながら進む。一丁目筋(ちやうめすぢ)と鍛冶屋町筋(かぢやまちすぢ)との交叉点では、もう敵が見えなかつた。
 堺筋(さかひすぢ)との交叉点に来た時、坂本はやう/\敵の砲車を認めた。黒羽織(くろばおり)を着た[#「着た」は底本では「来た」]大男がそれを挽(ひ)かせて西へ退かうとしてゐる所である。坂本は堺筋(さかひすぢ)西側の紙屋の戸口に紙荷(かみに)の積んであるのを小楯(こだて)に取つて、十文目筒(もんめづゝ)で大筒方(おほづゝかた)らしい、彼(かの)黒羽織を狙(ねら)ふ。さうすると又(また)東側の用水桶の蔭から、大塩方の猟師金助が猟筒(れふづゝ)で坂本を狙ふ。坂本の背後(うしろ)にゐた本多が金助を見付けて、自分の小筒(こづゝ)で金助を狙ひながら、坂本に声を掛ける。併し二度まで呼んでも、坂本の耳に入らない。そのうち大筒方が少しづつ西へ歩くので、坂本は西側の人家に沿うて、十間(けん)程(ほど)前へ出た。三人の筒は殆(ほとんど)同時に発射せられた。
 坂本の玉は大砲方(たいはうかた)の腰を打ち抜いた。金助の玉は坂本の陣笠(ぢんがさ)をかすつたが、坂本は只(たゞ)顔に風が当つたやうに感じただけであつた。本多の玉(たま)は全(まつた)く的(まと)をはづれた。
 坂本等は稍(やゝ)久しく敵と鉄砲を打ち合つてゐたが、敵がもう打たなくなつたので、用心しつゝ淡路町の四辻に出た。西の方を見れば、もう大塩の同勢は見えない。東の方を見れば、火が次第に燃(も)えて来る。四辻の辺(あたり)に敵の遺棄した品々を拾ひ集めたのが、百目筒(ひやくめづゝ)三挺(さんちやう)車台付(しやだいつき)、木筒(きづゝ)二挺(にちやう)内一挺車台付、小筒(こづゝ)三挺、其外鑓(やり)、旗、太鼓、火薬葛籠(つゞら)、具足櫃(ぐそくびつ)、長持(ながもち)等であつた。鑓(やり)のうち一本は、見知つたものがあつて平八郎の持鑓(もちやり)だと云つた。
 玉に中(あた)つて死んだものは、黒羽織(くろばおり)の大筒方の外には、淡路町の北側に雑人(ざふにん)が一人倒れてゐるだけである。大筒方は大筒の側に仰向(あふむけ)に倒れてゐた。身(み)の丈(たけ)六尺余の大男で、羅紗(らしや)の黒羽織の下には、黒羽二重(くろはぶたへ)紅裏(べにうら)の小袖(こそで)、八丈(はちぢやう)の下着(したぎ)を着て、裾(すそ)をからげ、袴(はかま)も股引(もゝひき)も着ずに、素足(すあし)に草鞋(わらぢ)を穿(は)いて、立派な拵(こしらへ)の大小(だいせう)を帯びてゐる。高麗橋、平野橋、淡路町の三度の衝突で、大塩方の死者は士分一人、雑人(ざふにん)二人に過ぎない。堀、跡部の両奉行の手には一人の死傷もない。双方から打つ玉は大抵頭の上を越して、堺筋(さかひすぢ)では町家(まちや)の看板が蜂(はち)の巣のやうに貫(つらぬ)かれ、檐口(のきぐち)の瓦が砕(くだ)かれてゐたのである。
 跡部(あとべ)は大筒方(おほづゝかた)の首を斬らせて、鑓先(やりさき)に貫(つらぬ)かせ、市中(しちゆう)を持ち歩かせた。後にこの戦死した唯一の士(さむらひ)が、途中から大塩の同勢(どうぜい)に加はつた浪人梅田だと云ふことが知れた。
 跡部が淡路町(あはぢまち)の辻にゐた所へ、堀が来合(きあは)せた。堀は御祓筋(おはらひすぢ)の会所(くわいしよ)で休息してゐると、一旦散つた与力(よりき)同心(どうしん)が又ぽつ/\寄つて来て、二十人ばかりになつた。そのうち跡部の手が平野橋(ひらのばし)の敵を打(う)ち退(しりぞ)けたので、堀は会所を出て、内平野町(うちひらのまち)で跡部に逢つた。そして二人相談した上、堀は跡部の手にゐた脇、石川、米倉の三人を借りて先手(さきて)を命じ、天神橋筋(てんじんばしすぢ)を南へ橋詰町(はしづめまち)迄出て、西に折れて本町橋(ほんまちばし)を渡つた。これは本町を西に進んで、迂廻(うくわい)して敵の退路を絶たうと云ふ計画であつた。併(しか)し一手(ひとて)のものが悉(ことごと)く跡(あと)へ/\とすざるので、脇等三人との間が切れる。人数もぽつ/\耗(へ)つて、本町堺筋(ほんまちさかひすぢ)では十三四人になつてしまふ。そのうち瓦町(かはらまち)と淡路町との間で鉄砲を打ち合ふのを見て、やう/\堺筋(さかひすぢ)を北へ、衝突のあつた処に駆け付けたのである。
 跡部は堀と一しよに淡路町を西へ踏み出して見たが、もう敵らしいものの影も見えない。そこで本町橋の東詰(ひがしづめ)まで引き上げて、二人(にん)は袂(たもと)を分ち、堀は石川と米倉とを借りて、西町奉行所へ連れて帰り、跡部は城へ這入(はひ)つた。坂本、本多、蒲生(がまふ)、柴田、脇並(ならび)に同心等は、大手前(おほてまへ)の番場(ばんば)で跡部に分れて、東町奉行所へ帰つた。

   九、八軒屋、新築地、下寺町

 梅田の挽(ひ)かせて行く大筒(おほづゝ)を、坂本が見付けた時、平八郎はまだ淡路町二丁目の往来の四辻に近い処に立ち止まつてゐた。同勢は見る/\耗(へ)つて、大筒(おほづゝ)の車を挽(ひ)く人足(にんそく)にも事を闕(か)くやうになつて来る。坂本等の銃声が聞えはじめてからは、同勢が殆(ほとんど)無節制の状態に陥(おちい)り掛かる。もう射撃をするにも、号令には依らずに、人々(ひと/″\)勝手に射撃する。平八郎は暫(しばら)くそれを見てゐたが、重立(おもだ)つた人々を呼び集めて、「もう働きもこれまでぢや、好く今まで踏みこたへてゐてくれた、銘々(めい/\)此場を立(た)ち退(の)いて、然(しか)るべく処決せられい」と云ひ渡した。
 集まつてゐた十二人は、格之助、白井、橋本、渡辺、瀬田、庄司、茨田(いばらた)、高橋、父柏岡(かしはをか)、西村、杉山と瀬田の若党植松(うゑまつ)とであつたが、平八郎の詞(ことば)を聞いて、皆顔を見合せて黙つてゐた。瀬田が進み出て、「我々はどこまでもお供をしますが、御趣意(ごしゆい)はなるべく一同に伝へることにしませう」と云つた。そして所々(しよ/\)に固まつてゐる身方(みかた)の残兵に首領(しゆりやう)の詞を伝達した。
 それを聞いて悄然(せうぜん)と手持無沙汰に立ち去るものもある。待ち構へたやうに持つてゐた鑓(やり)、負(お)つてゐた荷を棄てて、足早(あしはや)に逃げるものもある。大抵は此場を脱(ぬ)け出ることが出来たが、安田が一人(にん)逃げおくれて、町家(まちや)に潜伏したために捕へられた。此時同勢の中(うち)に長持(ながもち)の宰領(さいりやう)をして来た大工作兵衛がゐたが、首領の詞を伝達せられた時、自分だけはどこまでも大塩父子(ふし)の供がしたいと云つて居残(ゐのこ)つた。質樸(しつぼく)な職人気質(かたぎ)から平八郎が企(くはだて)の私欲を離れた処に感心したので、強(し)ひて与党に入れられた怨(うらみ)を忘れて、生死を共にする気になつたのである。
 平八郎は格之助以下十二人と作兵衛とに取り巻かれて、淡路町(あはぢまち)二丁目の西端から半丁程東へ引き返して、隣まで火の移つてゐる北側の町家に踏み込んだ。そして北裏の東平野町(ひがしひらのまち)へ抜けた。坂本等が梅田を打ち倒してから、四辻に出るまで、大(だい)ぶ時が立つたので、この上下十四人は首尾好く迹(あと)を晦(くら)ますことが出来た。
 此時北船場(きたせんば)の方角は、もう騒動が済んでから暫(しばら)く立つたので、焼けた家の址(あと)から青い煙が立ち昇つてゐるだけである。何物にか執着(しふぢやく)して、黒く焦(こ)げた柱、地に委(ゆだ)ねた瓦(かはら)のかけらの側(そば)を離れ兼ねてゐるやうな人、獣(けもの)の屍(かばね)の腐(くさ)る所に、鴉(からす)や野犬(のいぬ)の寄るやうに、何物をか捜(さが)し顔(がほ)にうろついてゐる人などが、互(たがひ)に顔を見合せぬやうにして行き違ふだけで、平八郎等の立(た)ち退(の)く邪魔をするものはない。八つ頃から空は次第に薄鼠色(うすねずみいろ)になつて来て、陰鬱(いんうつ)な、人の頭を押さへ附けるやうな気分が市中を支配してゐる。まだ鉄砲や鑓(やり)を持つてゐる十四人は、詞(ことば)もなく、稲妻形(いなづまがた)に焼跡(やけあと)の町を縫(ぬ)つて、影のやうに歩(あゆみ)を運びつつ東横堀川(ひがしよこぼりがは)の西河岸(にしかし)へ出た。途中で道に沿うて建て並べた土蔵の一つが焼け崩れて、壁の裾(すそ)だけ残つた中に、青い火がちよろ/\と燃(も)えてゐるのを、平八郎が足を停(と)めて見て、懐(ふところ)から巻物を出して焔(ほのほ)の中に投げた。これは陰謀の檄文(げきぶん)と軍令状とを書いた裏へ、今年の正月八日から二月十五日までの間に、同盟者に記名調印させた連判状(れんぱんじやう)であつた。
 十四人はたつた今七八十人の同勢を率(ひき)ゐて渡つた高麗橋(かうらいばし)を、殆(ほとんど)世を隔てたやうな思(おもひ)をして、同じ方向に渡つた。河岸(かし)に沿うて曲つて、天神橋詰(てんじんばしづめ)を過ぎ、八軒屋に出たのは七つ時であつた。ふと見れば、桟橋(さんばし)に一艘(さう)の舟が繋(つな)いであつた。船頭が一人艫(とも)の方に蹲(うづくま)つてゐる。土地のものが火事なんぞの時、荷物を積んで逃げる、屋形(やかた)のやうな、余り大きくない舟である。平八郎は一行に目食(めく)はせをして、此舟に飛び乗つた。跡(あと)から十三人がどや/\と乗込(のりこ)んだ。
「こら。舟を出せ。」かう叫んだのは瀬田である。
 不意を打たれた船頭は器械的に起(た)つて纜(ともづな)を解いた。
 舟が中流に出てから、庄司は持つてゐた十文目筒(もんめづゝ)、其外の人々は手鑓(てやり)を水中に投げた。それから川風の寒いのに、皆着込(きごみ)を脱(ぬ)いで、これも水中に投げた。
「どつちへでも好いから漕(こ)いでをれ。」瀬田はかう云つて、船頭に艪(ろ)を操(あやつ)らせた。火災に遭(あ)つたものの荷物を運び出す舟が、大川(おほかは)にはばら蒔(ま)いたやうに浮かんでゐる。平八郎等の舟がそれに雑(まじ)つて上(のぼ)つたり下(く)だつたりしてゐても、誰も見咎(みとが)めるものはない。
 併(しか)し器械的に働いてゐる船頭は、次第に醒覚(せいかく)して来て、どうにかして早くこの気味の悪い客を上陸させてしまはうと思つた。「旦那方(だんながた)どこへお上(あが)りなさいます。」
「黙つてをれ」と瀬田が叱つた。
 平八郎は側(そば)にゐた高橋に何やらささやいだ。高橋は懐中から金を二両出して船頭の手に握らせた。「いかい世話になるのう。お前の名はなんと云ふかい。」
「へえ。これは済みません。直吉と申します。」
 これからは船頭が素直に指図を聞いた。平八郎は項垂(うなだ)れてゐた頭(かしら)を挙げて、「これから拙者(せつしや)の所存(しよぞん)をお話いたすから、一同聞いてくれられい」と云つた。所存と云ふのは大略かうである。此度(このたび)の企(くはだて)は残賊(ざんぞく)を誅(ちゆう)して禍害(くわがい)を絶(た)つと云ふ事と、私蓄(しちく)を発(あば)いて陥溺(かんでき)を救ふと云ふ事との二つを志(こゝろざ)した者である。然(しか)るに彼(かれ)は全(まつた)く敗れ、此(これ)は成るに垂(なん/\)として挫(くじ)けた。主謀たる自分は天をも怨(うら)まず、人をも尤(とが)めない。只(たゞ)気の毒に堪へぬのは、親戚故旧友人徒弟たるお前方(まへがた)である。自分はお前方に罪を謝する。どうぞ此同舟の会合を最後の団欒(だんらん)として、袂(たもと)を分つて陸(りく)に上(のぼ)り、各(おの/\)潔(いさぎよ)く処決して貰(もら)ひたい。自分等父子(ふし)は最早(もはや)思ひ置くこともないが、跡(あと)には女小供がある。橋本氏には大工作兵衛を連れて、いかにもして彼等の隠家(かくれが)へ往き、自裁(じさい)するやうに勧めて貰ふことを頼むと云ふのである。平八郎の妾(めかけ)以下は、初め般若寺村(はんにやじむら)の橋本方へ立(た)ち退(の)いて、それから伊丹(いたみ)の紙屋某方(かた)へ往つたのである。後に彼等が縛(ばく)に就(つ)いたのは京都であつたが、それは二人の妾が弓太郎(ゆみたろう)を残しては死なれぬと云ふので、橋本が連れてさまよひ歩いた末である。
 暮(くれ)六つ頃から、天満橋北詰(てんまばしきたづめ)の人の目に立たぬ所に舟を寄せて、先づ橋本と作兵衛とが上陸した。次いで父柏岡(かしはをか)、西村、茨田(いばらた)、高橋と瀬田に暇(いとま)を貰つた植松(うゑまつ)との五人が上陸した。後に茨田は瀬田の妻子を落(おと)して遣(や)つた上で自首し、父柏岡と高橋とも自首し、西村は江戸で願人坊主(ぐわんにんばうず)になつて、時疫(じえき)で死に、植松は京都で捕はれた。
 跡(あと)に残つた人々は土佐堀川(とさぼりがは)から西横堀川(にしよこぼりがは)に這入(はひ)つて、新築地(しんつきぢ)に上陸した。平八郎、格之助、瀬田、渡辺、庄司、白井、杉山の七人である。人々は平八郎に迫(せま)つて所存(しよぞん)を問うたが、只(たゞ)「いづれ免(まぬか)れぬ身ながら、少し考(かんがへ)がある」とばかり云つて、打ち明けない。そして白井と杉山とに、「お前方は心残(こゝろのこり)のないやうにして、身の始末を附けるが好い」と云つて、杉山には金五両を渡した。
 一行は暫(しばら)く四つ橋の傍(そば)に立ち止まつてゐた。其時平八郎が「どこへ死所(しにどころ)を求めに往くにしても、大小(だいせう)を挿(さ)してゐては人目に掛かるから、一同刀を棄てるが好い」と云つて、先づ自分の刀を橋の上から水中に投げた。格之助始(はじめ)、人々もこれに従つて刀を投げて、皆脇差(わきざし)ばかりになつた。それから平八郎の黙つて歩く跡(あと)に附いて、一同下寺町(したでらまち)まで出た。ここで白井と杉山とが、いつまで往つても名残(なごり)は尽きぬと云つて、暇乞(いとまごひ)をした。後に白井は杉山を連れて、河内国(かはちのくに)渋川郡(しぶかはごほり)大蓮寺村(たいれんじむら)の伯父の家に往き、鋏(はさみ)を借りて杉山と倶(とも)に髪を剪(そ)り、伏見へ出ようとする途中で捕はれた。
 跡には平八郎父子と瀬田、渡辺、庄司との五人が残つた。そのうち下寺町(したでらまち)で火事を見に出てゐた人の群を避けようとするはずみに、庄司が平八郎等四人にはぐれた。後に庄司は天王寺村(てんわうじむら)で夜(よ)を明(あ)かして、平野郷(ひらのがう)から河内(かはち)、大和(やまと)を経て、自分と前後して大和路(やまとぢ)へ奔(はし)つた平八郎父子には出逢はず、大阪へ様子を見に帰る気になつて、奈良まで引き返して捕はれた。
 庄司がはぐれて、平八郎父子と瀬田、渡辺との四人になつた時、下寺町の両側共寺ばかりの所を歩きながら、瀬田が重ねて平八郎に所存を問うた。平八郎は暫く黙つてゐて答へた。「いや先刻(せんこく)考(かんがへ)があるとは云つたが、別にかうと極(き)まつた事ではない。お前方二人は格別の間柄だから話して聞かせる。己(おれ)は今暫く世の成行(なりゆき)を見てゐようと思ふ。尤(もつと)も間断(かんだん)なく死ぬる覚悟をしてゐて、恥辱を受けるやうな事はせぬ」と云つたのである。これを聞いた瀬田と渡辺とは、「そんなら我々も是非共御先途(ごせんと)を見届けます」と云つて、河内(かはち)から大和路(やまとぢ)へ奔(はし)ることを父子(ふし)に勧めた。四人の影は平野郷方角へ出る畑中道(はたなかみち)の闇(やみ)の裏(うち)に消えた。

   十、城

 けふの騒動が始(はじめ)て大阪の城代(じやうだい)土井の耳に入(い)つたのは、東町奉行跡部(あとべ)が玉造口定番(たまつくりぐちぢやうばん)遠藤に加勢を請(こ)うた時の事である。土井は遠藤を以て東西両町奉行に出馬を言ひ付けた。丁度西町奉行堀が遠藤の所に来てゐたので、堀自分はすぐに沙汰(さた)を受け、それから東町奉行所に往つて、跡部に出馬の命を伝へることになつた。
 土井は両町奉行に出馬を命じ、同時に目附中川半左衛門、犬塚太郎左衛門を陰謀の偵察、与党の逮捕に任じて置いて、昼四つ時(どき)に定番(ぢやうばん)、大番(おほばん)、加番(かばん)の面々を呼び集めた。
 城代土井は下総(しもふさ)古河(こが)の城主である。其下に居る定番(ぢやうばん)二人(ににん)のうち、まだ着任しない京橋口定番米倉(よねくら)は武蔵金沢の城主で、現に京橋口をも兼ね預かつてゐる玉造口定番遠藤は近江(あふみ)三上(みかみ)の城主である。定番の下には一年交代の大番頭(おほばんがしら)が二人ゐる。東大番頭は三河(みかは)新城(しんじやう)の菅沼織部正定忠(すがぬまおりべのしやうさだたゞ)、西大番頭は河内(かはち)狭山(さやま)の北条遠江守氏春(とほたふみのかみうぢはる)である。以上は幕府の旗下で、定番の下には各与力三十騎、同心百人がゐる。大番頭の下には各組頭(くみがしら)四人、組衆(くみしゆう)四十六人、与力十騎、同心二十人がゐる。京橋組、玉造組、東西大番を通算すると、上下の人数が定番二百六十四人、大番百六十二人、合計四百二十六人になる。これ丈(だけ)では守備が不足なので、幕府は外様(とざま)の大名に役知(やくち)一万石宛(づゝ)を遣(や)つて加番(かばん)に取つてゐる。山里丸(やまざとまる)の一加番が越前大野の土井能登守利忠(どゐのとのかみとしたゞ)、中小屋(なかごや)の二加番が越後与板(よいた)の井伊右京亮直経(うきやうのすけなほつね)、青屋口(あをやぐち)の三加番が出羽(では)長瀞(ながとろ)の米津伊勢守政懿(よねづいせのかみまさよし)、雁木坂(がんきざか)の四加番が播磨(はりま)安志(あんじ)の小笠原信濃守長武(しなのゝかみながたけ)である。加番は各物頭(ものがしら)五人、徒目付(かちめつけ)六人、平士(ひらざむらひ)九人、徒(かち)六人、小頭(こがしら)七人、足軽(あしがる)二百二十四人を率(ひき)ゐて入城する。其内に小筒(こづゝ)六十挺(ちやう)弓二十張(はり)がある。又棒突足軽(ぼうつきあしがる)が三十五人ゐる。四箇所の加番を積算すると、上下の人数が千三十四人になる。定番以下の此人数に城代の家来を加へると、城内には千五六百人の士卒がゐる。
 定番、大番、加番の集まつた所で、土井は正(しやう)九つ時(どき)に城内を巡見するから、それまでに各(かく)持口(もちくち)を固めるやうにと言ひ付けた。それから士分のものは鎧櫃(よろひゞつ)を担(かつ)ぎ出す。具足奉行(ぐそくぶぎやう)上田五兵衛は具足を分配する。鉄砲奉行石渡彦太夫(いしわたひこだいふ)は鉄砲玉薬(てつぱうたまくすり)を分配する。鍋釜(なべかま)の這入(はひ)つてゐた鎧櫃(よろひびつ)もあつた位で、兵器装具には用立たぬものが多く、城内は一方(ひとかた)ならぬ混雑であつた。
 九つ時になると、両大番頭(おほばんがしら)が先導になつて、土井は定番(ぢやうばん)、加番(かばん)の諸大名を連れて、城内を巡見した。門の数が三十三箇所、番所の数が四十三箇所あるのだから、随分手間が取れる。どこに往つて見ても、防備はまだ目も鼻も開いてゐない。土井は暮(くれ)六つ時(どき)に改めて巡見することにした。
 二度目に巡見した時は、城内の士卒の外に、尼崎(あまがさき)、岸和田(きしわだ)、高槻(たかつき)、淀(よど)などから繰り出した兵が到着してゐる。
 坤(ひつじさる)に開(ひら)いてゐる城の大手(おほて)は土井の持口(もちくち)である。詰所(つめしよ)は門内の北にある。門前には柵(さく)を結(ゆ)ひ、竹束(たけたば)を立て、土俵を築き上げて、大筒(おほづゝ)二門を据(す)ゑ、別に予備筒(よびづゝ)二門が置いてある。門内には番頭(ばんがしら)が控へ、門外北側には小筒を持つた足軽百人が北向に陣取つてゐる。南側には尼崎から来た松平遠江守忠栄(とほたふみのかみたゞよし)の一番手三百三十余人が西向に陣取る。略(ほゞ)同数の二番手は後にここへ参着して、京橋口に遷(うつ)り、次いで跡部(あとべ)の要求によつて守口(もりぐち)、吹田(すゐた)へ往つた。後に郡山(こほりやま)の一二番手も大手に加はつた。
 大手門内を、城代の詰所を過ぎて北へ行くと、西の丸である。西の丸の北、乾(いぬゐ)の角(すみ)に京橋口が開いてゐる。此口の定番の詰所は門内の東側にある。定番米津が着任してをらぬので、山里丸加番土井が守つてゐる。大筒の数は大手と同じである。門外には岸和田から来た岡部内膳正長和(ないぜんのしやうながかず)の一番手二百余人、高槻の永井飛騨守直与(ひだのかみなほとも)の手、其外(そのほか)淀の手が備へてゐる。
 京橋口定番の詰所の東隣は焔硝蔵(えんせうぐら)である。焔硝蔵と艮(うしとら)の角(すみ)の青屋口との中間に、本丸に入る極楽橋(ごくらくばし)が掛かつてゐる。極楽橋から這入(はひ)つた所が山里で、其南が天主閣、其又南が御殿である。本丸には菅沼、北条の両大番頭が備へてゐる。
 青屋口には門の南側に加番の詰所がある。此門は加番米津が守つて、中小屋加番(なかごやかばん)の井伊が遊軍としてこれに加はつてゐる。青屋口加番の詰所から南へ順次に、中小屋加番、雁木坂(がんきざか)加番、玉造口定番の詰所が並んでゐる。雁木坂加番小笠原は、自分の詰所の前の雁木坂に馬印(うまじるし)を立ててゐる。
 玉造口定番(ぢやうばん)の詰所は巽(たつみ)に開いてゐる。玉造口の北側である。此門は定番遠藤が守つてゐる。これに高槻の手が加はり、後には郡山(こほりやま)の三番手も同じ所に附けられた。玉造口と大手との間は、東が東大番、西が西大番の平常の詰所である。
 土井の二度の巡見の外、中川、犬塚の両目附は城内所々(しよ/\)を廻つて警戒し、又両町奉行所に出向いて情報を取つた。夜(よ)に入(い)つてからは、城の内外の持口々々(もちくち/″\)に篝火(かゞりび)を焚(た)き連(つら)ねて、炎焔(えん/\)天(てん)を焦(こが)すのであつた。跡部の役宅(やくたく)には伏見奉行加納遠江守久儔(かなふとほたふみのかみひさとも)、堀の役宅には堺奉行曲淵甲斐守景山(まがりぶちかひのかみけいざん)が、各与力同心を率ゐて繰り込んだ。又天王寺方面には岸和田から来た二番手千四百余人が陣を張つた。
 目附中川、犬塚の手で陰謀の与党を逮捕しようと云ふ手配(てくばり)は、日暮頃から始まつたが、はか/″\しい働きも出来なかつた。吹田村(すゐたむら)で氏神(うぢがみ)の神主をしてゐる、平八郎の叔父宮脇志摩(しま)の所へ捕手(とりて)の向つたのは翌二十日で、宮脇は切腹して溜池(ためいけ)に飛び込んだ。船手(ふなて)奉行の手で、川口の舟を調べはじめたのは、中一日置いた二十一日の晩からである。城の兵備を撤(てつ)したのも二十一日である。
 朝五つ時に天満(てんま)から始まつた火事は、大塩の同勢が到る処に大筒を打ち掛け火を放つたので、風の余り無い日でありながら、思(おもひ)の外(ほか)にひろがつた。天満は東が川崎、西が知源寺(ちげんじ)、摂津国町(つのくにまち)、又二郎町(またじらうまち)、越後町、旅籠町(はたごまち)、南が大川、北が与力町を界(さかひ)とし、大手前から船場(せんば)へ掛けての市街は、谷町(たにまち)一丁目から三丁目までを東界(ひがしさかひ)、上大(かみおほ)みそ筋から下難波橋(しもなんばばし)筋までを西界(にしさかひ)、内本町(うちほんまち)、太郎左衛門町(たらうざゑもんまち)、西入町(にしいりまち)、豊後町(ぶんごまち)、安土町(あづちまち)、魚屋町(うをやまち)を南界(みなみさかひ)、大川、土佐堀川を北界(きたさかひ)として、一面の焦土となつた。本町橋(ほんまちばし)東詰で、西町奉行堀に分れて入城した東町奉行跡部は、火が大手近く燃(も)えて来たので、夕(ゆふ)七つ時に又坂本以下の与力同心を率ゐて火事場に出馬した。丁度火消人足(ひけしにんそく)が谷町で火を食ひ止めようとしてゐる所であつたが、人数が少いのと一同疲れてゐるのとのために、暮(くれ)六つ半(はん)に谷町代官所に火の移るのを防ぐことが出来なかつた。鎮火したのは翌二十日の宵(よひ)五つ半である。町数(まちかず)で言へば天満組四十二町、北組五十九町、南組十一町、家数(いへかず)、竈数(かまどかず)で言へば、三千三百八十九軒、一万二千五百七十八戸が災(わざはひ)に罹(かゝ)つたのである。

   十一、二月十九日の後の一、信貴越

 大阪兵燹(へいせん)の余焔(よえん)が城内の篝火(かがりび)と共に闇(やみ)を照(てら)し、番場(ばんば)の原には避難した病人産婦の呻吟(しんぎん)を聞く二月十九日の夜、平野郷(ひらのがう)のとある森蔭(もりかげ)に体(からだ)を寄せ合つて寒さを凌(しの)いでゐる四人があつた。これは夜(よ)の明(あ)けぬ間(ま)に河内(かはち)へ越さうとして、身も心も疲れ果て、最早(もはや)一歩も進むことの出来なくなつた平八郎父子(ふし)と瀬田、渡辺とである。
 四人は翌二十日に河内(かはち)の界(さかひ)に入(い)つて、食を求める外には人家に立ち寄らぬやうに心掛け、平野川に沿うて、間道(かんだう)を東へ急いだ。さて途中どこで夜を明かさうかと思つてゐるうち、夜なかから大風雨になつた。やう/\産土(うぶすな)の社(やしろ)を見付けて駈(か)け込んでゐると、暫く物を案じてゐた渡辺が、突然もう此先きは歩けさうにないから、先生の手足纏(てあしまとひ)にならぬやうにすると云つて、手早く脇差(わきざし)を抜いて腹に突き立てた。左の脇腹に三寸余り切先(きつさき)が這入(はひ)つたので、所詮(しよせん)助からぬと見極(みきは)めて、平八郎が介錯(かいしやく)した。渡辺は色の白い、少し歯の出た、温順篤実な男で、年齢は僅(わづか)に四十を越したばかりであつた。
 二十一日の暁(あかつき)になつても、大風雨は止(や)みさうな気色(けしき)もない。平八郎父子(ふし)と瀬田とは、渡辺の死骸(しがい)を跡(あと)に残して、産土(うぶすな)の社(やしろ)を出た。土地の百姓が死骸を見出して訴(うつた)へたのは、二十二日の事であつた。社のあつた所は河内国(かはちのくに)志紀郡(しきごほり)田井中村(たゐなかむら)である。
 三人は風雨を冒(をか)して、間道を東北の方向に進んだ。風雨はやう/\午頃(ひるごろ)に息(や)んだが、肌まで濡(ぬ)れ通(とほ)つて、寒さは身に染(し)みる。辛(から)うじて大和川(やまとがは)の支流幾つかを渡つて、夜(よ)に入つて高安郡(たかやすごほり)恩地村(おんちむら)に着いた。さて例の通(とほり)人家を避けて、籔陰(やぶかげ)の辻堂を捜し当てた。近辺から枯枝(かれえだ)を集めて来て、おそる/\焚火(たきび)をしてゐると、瀬田が発熱(ほつねつ)して来た。いつも血色の悪い、蒼白(あをじろ)い顔が、大酒(たいしゆ)をしたやうに暗赤色(あんせきしよく)になつて、持前の二皮目(ふたかはめ)が血走(ちばし)つてゐる。平八郎父子が物を言ひ掛ければ、驚いたやうに返事をするが、其間々(あひだ/\)は焚火の前に蹲(うづくま)つて、現(うつゝ)とも夢(ゆめ)とも分からなくなつてゐる。ここまで来る途中で、先生が寒からうと云つて、瀬田は自分の着てゐた羽織を脱(ぬ)いで平八郎に襲(かさ)ねさせたので、誰よりも強く寒さに侵(をか)されたものだらう。平八郎は瀬田に、兎(と)に角(かく)人家に立ち寄つて保養して跡から来るが好いと云つて、無理に田圃道(たんぼみち)を百姓家のある方へ往かせた。其後影(うしろかげ)を暫く見送つてゐた平八郎は、急に身を起して焚火を踏み消した。そして信貴越(しぎごえ)の方角を志(こゝろざ)して、格之助と一しよに、又間道(かんだう)を歩き出した。
 瀬田は頭がぼんやりして、体(からだ)ぢゆうの脈が鼓(つゞみ)を打つやうに耳に響く。狭い田の畔道(くろみち)を踏んで行くに、足がどこを踏んでゐるか感じが無い。動(やゝ)もすれば苅株(きりかぶ)の間の湿(しめ)つた泥に足を蹈(ふ)み込む。やう/\一軒の百姓家の戸の隙(すき)から明かりのさしてゐるのにたどり着いて、瀬田ははつきりとした声で、暫(しばら)く休息させて貰(もら)ひたいと云つた。雨戸を開けて顔を出したのは、四角な赭(あか)ら顔の爺(ぢ)いさんである。瀬田の様子をぢつと見てゐたが、思(おもひ)の外(ほか)拒(こば)まうともせずに、囲炉裏(ゐろり)の側(そば)に寄つて休めと云つた。婆(ば)あさんが草鞋(わらぢ)を脱(ぬ)がせて、足を洗つてくれた。瀬田は火の側(そば)に横になるや否(いな)や、目を閉ぢてすぐに鼾(いびき)をかき出した。其時爺いさんはそつと瀬田の顔に手を当てた。瀬田は知らずにゐた。爺いさんはその手を瀬田の腰の所に持つて往つて、脇差(わきざし)を抜き取つた。そしてそれを持つて、家を駈け出した。行灯(あんどう)の下にすわつた婆あさんは、呆(あき)れて夫の跡(あと)を見送つた。
 瀬田は夢を見てゐる。松並木のどこまでも続いてゐる街道を、自分は力限(ちからかぎり)駈(か)けて行く。跡(あと)から大勢(おほぜい)の人が追ひ掛けて来る。自分の身は非常に軽くて、殆(ほとんど)鳥の飛ぶやうに駈けることが出来る。それに追ふものの足音が少しも遠ざからない。瀬田は自分の足の早いのに頗(すこぶる)満足して、只(たゞ)追ふものの足音の同じやうに近く聞えるのを不審に思つてゐる。足音は急調(きふてう)に鼓(つゞみ)を打つ様に聞える。ふと気が附いて見ると、足音と思つたのは、自分の脈の響くのであつた。意識が次第に明瞭になると共に、瀬田は腰の物の亡(な)くなつたのを知つた。そしてそれと同時に自分の境遇を不思議な程的確(てきかく)に判断することが出来た。
 瀬田は跳(は)ね起(お)きた。眩暈(めまひ)の起(おこ)りさうなのを、出来るだけ意志を緊張してこらへた。そして前に爺(ぢ)いさんの出て行つた口から、同じやうに駈け出した。行灯(あんどう)の下(もと)の婆(ば)あさんは、又呆(あき)れてそれを見送つた。
 百姓家の裏に出て見ると、小道を隔てて孟宗竹(まうそうちく)の大籔(おほやぶ)がある。その奥を透(す)かして見ると、高低種々の枝を出してゐる松の木がある。瀬田は堆(うづたか)く積もつた竹の葉を蹈(ふ)んで、松の下に往つて懐(ふところ)を探つた。懐には偶然捕縄(とりなは)があつた。それを出してほぐして、低い枝に足を蹈(ふ)み締(し)めて、高い枝に投げ掛けた。そして罠(わな)を作つて自分の頸(くび)に掛けて、低い枝から飛び降りた。瀬田は二十五歳で、脇差を盗まれたために、見苦しい最期(さいご)を遂げた。村役人を連れて帰つた爺(ぢ)いさんが、其夜(そのよ)の中(うち)に死骸を見付けて、二十二日に領主稲葉丹後守(たんごのかみ)に届けた。
 平八郎は格之助の遅(おく)れ勝(がち)になるのを叱り励まして、二十二日の午後に大和(やまと)の境(さかひ)に入つた。それから日暮に南畑(みなみはた)で格之助に色々な物を買はせて、身なりを整へて、駅のはづれにある寺に這入(はひ)つた。暫(しばら)くすると出て来て、「お前も頭を剃(そ)るのだ」と云つた。格之助は別に驚きもせず、連れられて這入つた。親子が僧形(そうぎやう)になつて、麻の衣を着て寺を出たのは、二十三日の明(あけ)六つ頃であつた。
 寺にゐた間は平八郎が殆(ほとんど)一言(ごん)も物を言はなかつた。さて寺を出離れると、平八郎が突然云つた。「さあ、これから大阪に帰るのだ。」
 格之助も此(この)詞(ことば)には驚いた。「でも帰りましたら。」
「好(い)いから黙つて附いて来い。」
 平八郎は足の裏が燃(も)えるやうに逃げて来た道を、渇(かつ)したものが泉を求めて走るやうに引き返して行く。傍(はた)から見れば、その大阪へ帰らうとする念は、一種の不可抗力のやうに平八郎の上に加はつてゐるらしい。格之助も寺で宵(よひ)と暁(あかつき)とに温(あたゝか)い粥(かゆ)を振舞(ふるま)はれてからは、霊薬(れいやく)を服したやうに元気を恢復して、もう遅れるやうな事はない。併(しか)し一歩々々危険な境に向つて進むのだと云ふ考(かんがへ)が念頭を去らぬので、先に立つて行く養父の背を望んで、驚異の情の次第に加はるのを禁ずることが出来ない。

   十二、二月十九日後の二、美吉屋

 大阪油懸町(あぶらかけまち)の、紀伊国橋(きのくにばし)を南へ渡つて東へ入る南側で、東から二軒目に美吉屋(みよしや)と云ふ手拭地(てぬぐひぢ)の為入屋(しいれや)がある。主人五郎兵衛は六十二歳、妻つねは五十歳になつて、娘かつ、孫娘かくの外(ほか)、家内(かない)に下男(げなん)五人、下女(げぢよ)一人を使つてゐる。上下十人暮しである。五郎兵衛は年来大塩家に出入して、勝手向(かつてむき)の用を達(た)したこともあるので、二月十九日に暴動のあつた後は、町奉行所の沙汰(さた)で町預(まちあづけ)になつてゐる。
 此美吉屋(みよしや)で二月二十四日の晩に、いつものやうに主人が勝手に寝て、家族や奉公人を二階と台所とに寝させてゐると、宵(よひ)の五つ過に表の門を敲(たゝ)くものがある。主人が起きて誰(たれ)だと問へば、備前島町(びぜんしままち)河内屋(かはちや)八五郎の使(つかひ)だと云ふ。河内屋は兼(かね)て取引(とりひき)をしてゐる家なので、どんな用事があつて、夜(よ)に入(い)つて人をよこしたかと訝(いぶか)りながら、庭へ降りて潜戸(くゞりど)を開けた。
 戸があくとすぐに、衣の上に鼠色(ねずみいろ)の木綿合羽(もめんかつぱ)をはおつた僧侶が二人つと這入(はひ)つて、低い声に力を入れて、早くその戸を締(し)めろと指図した。驚きながら見れば、二人共僧形(そうぎやう)に不似合(ふにあひ)な脇差(わきざし)を左の手に持つてゐる。五郎兵衛はがた/\震えて、返事もせず、身動きもしない。先に這入つた年上の僧が目食(めく)はせをすると、跡(あと)から這入つた若い僧が五郎兵衛を押し除(の)けて戸締(とじまり)をした。
 二人は縁(えん)に腰を掛けて、草鞋(わらぢ)の紐(ひも)を解(と)き始めた。五郎兵衛はそれを見てゐるうちに、再び驚いた。髪(かみ)をおろして相好(さうがう)は変つてゐても、大塩親子だと分かつたからである。「や。大塩様ではございませんか。」「名なんぞを言ふな」と、平八郎が叱るやうに云つた。
 二人は黙つて奥へ通るので、五郎兵衛は先に立つて、納戸(なんど)の小部屋に案内した。五郎兵衛が、「どうなさる思召(おぼしめし)か」と問ふと、平八郎は只(たゞ)「当分厄介になる」とだけ云つた。
 陰謀の首領をかくまふと云ふことが、容易ならぬ罪になるとは、五郎兵衛もすぐに思つた。併(しか)し平八郎の言ふことは、年来暗示(あんじ)のやうに此爺(ぢ)いさんの心の上に働く習慣になつてゐるので、ことわることは所詮(しよせん)出来ない。其上親子が放さずに持つてゐる脇差も、それとなく威嚇(ゐかく)の功を奏してゐる。五郎兵衛は只二人を留めて置いて、若(も)し人に知られるなら、それが一刻も遅く、一日も遅いやうにと、禍殃(くわあう)を未来に推(お)し遣(や)る工夫をするより外ない。そこで小部屋の襖(ふすま)をぴつたり締め切つて、女房にだけわけを話し、奉公人に知らせぬやうに、食事を調(とゝの)へて運ぶことにした。
 一日立つ。二日立つ。いつは立(た)ち退(の)いてくれるかと、老人夫婦は客の様子を覗(うかゞ)つてゐるが、平八郎は落ち着き払つてゐる。心安(こゝろやす)い人が来ては奥の間へ通ることもあるので、襖一重(ふすまひとへ)の先にお尋者(たづねもの)を置くのが心配に堪へない。幸(さいはひ)に美吉屋(みよしや)の家には、坤(ひつじさる)の隅(すみ)に離座敷(はなれざしき)がある。周囲(まはり)は小庭(こには)になつてゐて、母屋(おもや)との間には、小さい戸口の附いた板塀(いたべい)がある。それから今一つすぐに往来に出られる口が、表口から西に当る路次(ろじ)に附いてゐる。此離座敷なら家族も出入せぬから、奉公人に知られる虞(おそれ)もない。そこで五郎兵衛は平八郎父子を夜中にそこへ移した。そして日々(にち/\)飯米(はんまい)を測(はか)つて勝手へ出す時、紙袋(かみぶくろ)に取り分け、味噌(みそ)、塩(しほ)、香(かう)の物(もの)などを添へて、五郎兵衛が手づから持ち運んだ。それを親子炭火(すみび)で自炊(じすゐ)するのである。
 兎角(とかく)するうちに三月になつて、美吉屋(みよしや)にも奉公人の出代(でかはり)があつた。その時女中の一人が平野郷(ひらのがう)の宿元(やどもと)に帰つてこんな話をした。美吉屋では不思議に米が多くいる。老人夫婦が毎日米を取り分けて置くのを、奉公人は神様に供(そな)へるのだらうと云つてゐるが、それにしてもおさがりが少しも無いと云ふのである。
 平野郷は城代土井の領分八万石の内一万石の土地で、七名家(しちめいか)と云ふ土着のものが支配してゐる。其中の末吉(すゑよし)平左衛門、中瀬(なかせ)九郎兵衛の二人が、美吉屋から帰つた女中の話を聞いて、郷(がう)の陣屋(ぢんや)に訴へた。陣屋に詰めてゐる家来が土井に上申した。土井が立入与力(たちいりよりき)内山彦次郎に美吉屋五郎兵衛を取り調べることを命じた。立入与力と云ふのは、東西両町奉行の組のうちから城代の許(もと)へ出して用を聞せる与力である。五郎兵衛は内山に糺問(きうもん)せられて、すぐに実を告げた。
 土井は大目附時田肇(ときだはじめ)に、岡野小右衛門(こゑもん)、菊地鉄平、芹沢(せりざは)啓次郎、松高縫蔵(まつたかぬひざう)、安立讃太郎(あだちさんたらう)、遠山(とほやま)勇之助、斎藤正五郎(しやうごらう)[#ルビの「しやうごらう」は底本では「しやうごろう」]、菊地弥六(やろく)の八人を附けて、これに逮捕を命じた。
 三月二十六日の夜(よ)四つ半時(はんどき)、時田は自宅に八人のものを呼んで命を伝へ、すぐに支度(したく)をして中屋敷に集合させた。中屋敷では、時田が美吉屋の家宅の摸様を書いたものを一同に見せ、なるべく二人を生擒(いけどり)にするやうにと云ふ城代の注文を告げた。岡野某は相談して、時田から半棒(はんぼう)を受け取つた。それから岡野が入口の狭い所を進むには、順番を籤(くじ)で極(き)めて、争論のないやうにしたいと云ふと、一同これに同意した。岡野は重ねて、自分は齢(よはひ)五十歳を過ぎて、跡取(あととり)の倅(せがれ)もあり、此度の事を奉公のしをさめにしたいから、一番を譲つて貰(もら)つて、次の二番から八番までの籤(くじ)を人々に引かせたいと云つた。これにも一同が同意したので、籤を引いて二番菊地弥六、三番松高、四番菊地鉄平、五番遠山、六番安立、七番芹沢、八番斎藤と極めた。
 二十七日の暁(あけ)八つ時(どき)過、土井の家老鷹見(たかみ)十郎左衛門は岡野、菊地鉄平、芹沢の三人を宅に呼んで、西組与力内山を引き合せ、内山と同心四人とに部屋目附(へやめつけ)鳥巣(とす)彦四郎を添へて、偵察に遣(や)ることを告げた。岡野等三人は中屋敷に帰つて、一同に鷹見(たかみ)の処置を話して、偵察の結果を待つてゐると、鷹見が出向いて来て、大切の役目だから、手落のないやうにせいと云ふ訓示をした。七つ半過に鳥巣(とす)が中屋敷(なかやしき)に来て、内山の口上を伝へて、本町(ほんまち)五丁目の会所(くわいしよ)へ案内した。時田以下の九人は鳥巣(とす)を先に立てゝ、外に岡村桂蔵と云ふものを連れて本町へ往つた。暫(しばら)く本町の会所に待つてゐると、内山の使に同心が一人来て、一同を信濃町の会所に案内した。油懸町(あぶらかけまち)の南裏通(みなみうらどほり)である。信濃町(しなのまち)では、一同が内山の出した美吉屋の家の図面を見て、その意見に従つて、東表口(ひがしおもてぐち)に向ふ追手(おつて)と、西裏口(にしうらぐち)に向ふ搦手(からめて)とに分れることになつた。
 追手(おつて)は内山、同心二人、岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平の七人、搦手(からめて)は同心二人、遠山、安立(あだち)、芹沢(せりざは)、斎藤、時田の七人である。此二手は総年寄今井官之助、比田小伝次(ひだこでんじ)、永瀬(ながせ)七三郎三人の率ゐた火消人足(ひけしにんそく)に前以(まへもつ)て取り巻かせてある美吉屋(みよしや)へ、六つ半時に出向いた。搦手(からめて)は一歩先に進んで西裏口を固めた。追手(おつて)は続いて岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平、内山の順序に東表口を這入つた。内山は菊地鉄平に表口の内側に居残つてくれと頼んだ。鉄平は一人では心元(こゝろもと)ないので、附いて来た岡村に一しよにゐて貰つた。
 追手の同心一人は美吉屋の女房つねを呼び出して、耳に口を寄せて云つた。「お前大切の御用だから、しつかりして勤めんではならぬぞ。お前は板塀(いたべい)の戸口へ往つて、平八郎にかう云ふのだ。内の五郎兵衛はお預(あづ)けになつてゐるので、今家財改(かざいあらため)のお役人が来られた。どうぞちよいとの間裏(うら)の路次口(ろじぐち)から外へ出てゐて下さいと云ふのだ。間違へてはならぬぞ」と云つた。
 つねは顔色が真(ま)つ蒼(さを)になつたが、やう/\先に立つて板塀の戸口に往つて、もし/\と声を掛けた。併(しか)し教へられた口上を言ふことは出来なかつた。
 暫くすると戸口が細目に開(あ)いた。内から覗(のぞ)いたのは坊主頭(ばうずあたま)の平八郎である。平八郎は捕手(とりて)と顔を見合せて、すぐに戸を閉ぢた。
 岡野等は戸を打ちこはした。そして戸口から岡野が呼び掛けた。「平八郎卑怯(ひけふ)だ。これへ出い。」
「待て」と、平八郎が離座敷(はなれざしき)の雨戸の内から叫んだ。
 岡野等は暫(しばら)くためらつてゐた。
 表口(おもてぐち)の内側にゐた菊地鉄平は、美吉屋の女房小供や奉公人の立(た)ち退(の)いた跡(あと)で暫(しばら)く待つてゐたが、板塀(いたべい)の戸口で手間の取れる様子を見て、鍵形(かぎがた)になつてゐる表の庭を、縁側の角(すみ)に附いて廻つて、戸口にゐる同心に、「もう踏み込んではどうだらう」と云つた。
「宜(よろ)しうございませう」と同心が答へた。
 鉄平は戸口をつと這入(はひ)つて、正面にある離座敷(はなれざしき)の雨戸を半棒(はんぼう)で敲(たゝ)きこはした。戸の破れた所からは烟が出て、火薬の臭(にほひ)がした。
 鉄平に続いて、同心、岡野、菊地弥六、松高が一しよに踏み込んで、残る雨戸を打ちこはした。
 離座敷の正面には格之助の死骸らしいものが倒れてゐて、それに衣類を覆(おほ)ひ、間内(まうち)の障子をはづして、死骸の上を越させて、雨戸に立て掛け、それに火を附けてあつた。雨戸がこはれると、火の附いた障子が、燃(も)えながら庭へ落ちた。死骸らしい物のある奥の壁際(かべぎは)に、平八郎は鞘(さや)を払つた脇差(わきざし)を持つて立つてゐたが、踏み込んだ捕手(とりて)を見て、其刃(やいば)を横に吭(のど)に突き立て、引き抜いて捕手の方へ投げた。
 投げた脇差は、傍輩(はうばい)と一しよに半棒で火を払ひ除(の)けてゐる菊地弥六の頭を越し、襟(えり)から袖をかすつて、半棒に触れ、少し切り込んでけし飛んだ。弥六の襟、袖、手首には、灑(そゝ)ぎ掛けたやうに血が附いた。
 火は次第に燃えひろがつた。捕手は皆焔(ほのほ)を避けて、板塀の戸口から表庭(おもてには)へ出た。
 弥六は脇差を投げ附けられたことを鉄平に話した。鉄平が「そんなら庭にあるだらう」と云つて、弥六を連れて戸口に往つて見ると、四五尺ばかり先に脇差は落ちてゐる。併(しか)し火が強くて取りに往くことが出来ない。そこへ最初案内に立つた同心が来て、「わたくし共の木刀には鍔(つば)がありますから、引つ掛けて掻(か)き寄せませう」と云つた。脇差は旨(うま)く掻き寄せられた。柄(つか)は茶糸巻(ちやいとまき)で、刃(は)が一尺八寸あつた。
 搦手(からめて)は一歩先に西裏口(にしうらぐち)に来て、遠山、安立、芹沢、時田が東側に、斎藤と同心二人とが西側に並んで、真(ま)ん中(なか)に道を開(あ)け、逃げ出したら挟撃(はさみうち)にしようと待つてゐた。そのうち余り手間取(てまど)るので、安立、遠山、斎藤の三人が覗(のぞ)きに這入つた。離座敷には人声がしてゐる。又持場(もちば)に帰つて暫く待つたが、誰も出て来ない。三人が又覗(のぞ)きに這入ると、雨戸の隙から火焔の中に立つてゐる平八郎の坊主頭が見えた。そこで時田、芹沢と同心二人とを促して、一しよに半棒で雨戸を打ちこはした。併(しか)し火気が熾(さかん)なので、此手のものも這入ることが出来なかつた。
 そこへ内山が来て、「もう跡(あと)は火を消せば好いのですから、消防方(せうばうかた)に任せてはいかがでせう」と云つた。
 遠山が云つた。「いや。死骸がぢき手近にありますから、どうかしてあれを引き出すことにしませう。」
 遠山はかう云つて、傍輩(はうばい)と一しよに死骸のある所へ水を打ち掛けてゐると、消防方(せうばうかた)が段々集つて来て、朝五つ過に火を消し止めた。
 総年寄(そうどしより)今井が火消人足(ひけしにんそく)を指揮して、焼けた材木を取(と)り除(の)けさせた。其下から吉兵衛と云ふ人足が先(ま)づ格之助らしい死骸を引き出した。胸が刺(さ)し貫(つらぬ)いてある。平生歯が出てゐたが、其歯を剥(む)き出してゐる。次に平八郎らしい死骸が出た。これは吭(のど)を突いて俯伏(うつぶ)してゐる。今井は二つの死骸を水で洗はせた。平八郎の首は焼けふくらんで、肩に埋(うづ)まつたやうになつてゐるのを、頭を抱へて引き上げて、面体(めんてい)を見定めた。格之助は創(きず)の様子で、父の手に掛かつて死んだものと察せられた。今井は近所の三宅(みやけ)といふ医者の家から、駕籠(かご)を二挺(ちやう)出させて、それに死骸を載せた。
 二つの死骸は美吉屋夫婦と共に高原溜(たかはらたまり)へ送られた。道筋には見物人の山を築(きづ)いた。

   十三、二月十九日後の三、評定

 大塩平八郎が陰謀事件の評定(ひやうぢやう)は、六月七日に江戸の評定所(ひやうぢやうしよ)に命ぜられた。大岡紀伊守忠愛(きいのかみたゞちか)の預つてゐた平山助次郎、大阪から護送して来た吉見九郎右衛門、同(おなじく)英太郎、河合八十次郎(やそじらう)、大井正一郎、安田図書(やすだづしよ)、大西与五郎(よごらう)、美吉屋(みよしや)五郎兵衛、同(おなじく)つね、其外(そのほか)西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗(わうばく)の僧剛嶽(がうがく)、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の願人(ぐわんにん)冷月(れいげつ)、西村の死骸を葬(はうむ)つた浅草遍照院(へんせうゐん)の所化(しよけ)尭周(げうしう)等が呼び出されて、七月十六日から取調(とりしらべ)が始まつた。次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。罪案が定まつて上申せられたのは天保九年閏(うるふ)四月八日で、宣告のあつたのは八月二十一日である。

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