大塩平八郎
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著者名:森鴎外 

   一、西町奉行所

 天保(てんぱう)八年丁酉(ひのととり)の歳(とし)二月十九日の暁方(あけがた)七つ時(どき)に、大阪西町奉行所(にしまちぶぎやうしよ)の門を敲(たゝ)くものがある。西町奉行所と云ふのは、大阪城の大手(おほて)の方角から、内本町通(うちほんまちどほり)を西へ行つて、本町橋(ほんまちばし)に掛からうとする北側にあつた。此頃はもう四年前から引き続いての飢饉(ききん)で、やれ盗人(ぬすびと)、やれ行倒(ゆきだふれ)と、夜中(やちゆう)も用事が断(た)えない。それにきのふの御用日(ごようび)に、月番(つきばん)の東町(ひがしまち)奉行所へ立会(たちあひ)に往(い)つて帰つてからは、奉行堀伊賀守利堅(ほりいがのかみとしかた)は何かひどく心せはしい様子で、急に西組与力(にしぐみよりき)吉田勝右衛門(かつゑもん)を呼び寄せて、長い間密談をした。それから東町奉行所との間に往反(わうへん)して、けふ十九日にある筈(はず)であつた堀の初入式(しよにふしき)の巡見が取止(とりやめ)になつた。それから家老中泉撰司(なかいづみせんし)を以(もつ)て、奉行所詰(ぶぎやうしよづめ)のもの一同に、夜中(やちゆう)と雖(いへども)、格別に用心するやうにと云ふ達(たつ)しがあつた。そこで門を敲(たゝ)かれた時、門番がすぐに立つて出て、外に来たものの姓名と用事とを聞き取つた。
 門外に来てゐるのは二人(にん)の少年であつた。一人(にん)は東組町同心(どうしん)吉見九郎右衛門(よしみくらうゑもん)の倅(せがれ)英太郎(えいたらう)、今一人は同組同心河合郷左衛門(かはひがうざゑもん)の倅八十次郎(やそじらう)と名告(なの)つた。用向(ようむき)は一大事があつて吉見九郎右衛門の訴状(そじやう)を持参したのを、ぢきにお奉行様(ぶぎやうさま)に差し出したいと云ふことである。
 上下共(じやうげとも)何か事がありさうに思つてゐた時、一大事と云つたので、それが門番の耳にも相応に強く響いた。門番は猶予(いうよ)なく潜門(くゞりもん)をあけて二人の少年を入れた。まだ暁(あかつき)の白(しら)けた光が夜闇(よやみ)の衣(きぬ)を僅(わづか)に穿(うが)つてゐる時で、薄曇(うすぐもり)の空の下、風の無い、沈んだ空気の中に、二人は寒げに立つてゐる。英太郎(えいたらう)は十六歳、八十次郎(やそじらう)は十八歳である。
「お奉行様にぢきに差し上げる書付(かきつけ)があるのだな。」門番は念を押した。
「はい。ここに持つてをります。」英太郎が懐(ふところ)を指(ゆび)さした。
「お前がその吉見九郎右衛門の倅(せがれ)か。なぜ九郎右衛門が自分で持つて来ぬのか。」
「父は病気で寝てをります。」
「一体(いつたい)東のお奉行所附(づき)のものの書付(かきつけ)なら、なぜそれを西のお奉行所へ持つて来たのだい。」
「西のお奉行様にでなくては申し上げられぬと、父が申しました。」
「ふん。さうか。」門番は八十次郎(やそじらう)の方に向いた。「お前はなぜ附いて来たのか。」
「大切な事だから、間違(まちがひ)の無いやうに二人(ふたり)で往(い)けと、吉見のをぢさんが言ひ附けました。」
「ふん。お前は河合と言つたな。お前の親父様(おやぢさま)は承知してお前をよこしたのかい。」
「父は正月の二十七日に出た切(きり)、帰つて来ません。」
「さうか。」
 門番は二人の若者に対して、こんな問答をした。吉見の父が少年二人を密訴(みつそ)に出したので、門番も猜疑心(さいぎしん)を起さずに応対して、却(かへ)つて運びが好かつた。門番の聞き取つた所を、当番のものが中泉(なかいづみ)に届ける。中泉が堀に申し上げる。間もなく堀の指図で、中泉が二人を長屋に呼び入れて、一応取り調べた上訴状(そじやう)を受け取つた。
 堀は前役(ぜんやく)矢部駿河守定謙(やべするがのかみさだかた)の後(のち)を襲(つ)いで、去年十一月に西町奉行になつて、やう/\今月二日に到着した。東西の町奉行は月番交代(つきばんかうたい)をして職務を行(おこな)つてゐて、今月は堀が非番(ひばん)である。東町奉行跡部山城守良弼(あとべやましろのかみよしすけ)も去年四月に現職に任ぜられて、七月に到着したのだから、まだ大阪には半年しかをらぬが、兎(と)に角(かく)一日(じつ)の長(ちやう)があるので、堀は引(ひ)き廻(まは)して貰(もら)ふと云ふ風になつてゐる。町奉行になつて大阪に来たものは、初入式(しよにふしき)と云つて、前からゐる町奉行と一しよに三度に分けて市中を巡見する。初度(しよど)が北組(きたぐみ)、二度目が南組、三度目が天満組(てんまぐみ)である。北組、南組とは大手前(おほてまへ)は本町通(ほんまちどほり)北側、船場(せんば)は安土町通(あづちまちどほり)、西横堀(にしよこぼり)以西は神田町通(かんだまちどほり)を界(さかひ)にして、市中を二分してあるのである。天満組(てんまぐみ)とは北組の北界(きたざかひ)になつてゐる大川(おほかは)より更に北方に当る地域で、東は材木蔵(ざいもくぐら)から西は堂島(だうじま)の米市場(こめいちば)までの間、天満(てんま)の青物市場(あをものいちば)、天満宮(てんまんぐう)、総会所(そうくわいしよ)等を含んでゐる。北組が二百五十町、南組が二百六十一町、天満組が百九町ある。予定通にすると、けふは天満組を巡見して、最後に東照宮(とうせうぐう)附近の与力町(よりきまち)に出て、夕(ゆふ)七つ時(どき)には天満橋筋長柄町(ながらまち)を東に入(い)る北側の、迎方(むかへかた)東組与力朝岡助之丞(あさをかすけのじよう)が屋敷で休息するのであつた。迎方(むかへかた)とは新任の奉行を迎へに江戸に往つて、町与力(まちよりき)同心(どうしん)の総代として祝詞(しゆくし)を述べ、引き続いて其奉行の在勤中、手許(てもと)の用を達(た)す与力一人(にん)同心二人(にん)で、朝岡は其与力である。然(しか)るにきのふの御用日の朝、月番跡部(あとべ)の東町奉行所へ立会(たちあひ)に往くと、其前日十七日の夜東組同心平山助次郎(ひらやますけじらう)と云ふものの密訴(みつそ)の事を聞せられた。一大事と云ふ詞(ことば)が堀の耳を打つたのは此時(このとき)が始(はじめ)であつた。それからはどんな事が起つて来るかと、前晩(ぜんばん)も殆(ほとんど)寝ずに心配してゐる。今中泉(なかいづみ)が一大事の訴状を持つて二人の少年が来たと云ふのを聞くと、堀はすぐにあの事だなと思つた。堀のためには、中泉が英太郎の手から受け取つて出した書付(かきつけ)の内容は、未知(みち)の事の発明ではなくて、既知(きち)の事の証験(しようけん)として期待せられてゐるのである。
 堀は訴状を披見(ひけん)した。胸を跳(をど)らせながら最初から読んで行くと、果(はた)してきのふ跡部(あとべ)に聞いた、あの事である。陰謀(いんぼう)の首領(しゆりやう)、その与党(よたう)などの事は、前に聞いた所と格別の相違は無い。長文の訴状の末三分の二程は筆者九郎右衛門の身囲(みがこひ)である。堀が今少しく精(くは)しく知りたいと思ふやうな事は書いてなくて、読んでも読んでも、陰謀に対する九郎右衛門の立場、疑懼(ぎく)、愁訴(しうそ)である。きのふから気に掛かつてゐる所謂(いはゆる)一大事がこれからどう発展して行くだらうか、それが堀自身にどう影響するだらうかと、とつおいつ考へながら読むので、動(やゝ)もすれば二行も三行も読んでから、書いてある意味が少しも分かつてをらぬのに気が附く。はつと思つては又読み返す。やう/\読んでしまつて、堀の心の内には、きのふから知つてゐる事の外に、これ丈(だけ)の事が残つた。陰謀の与党の中で、筆者と東組与力渡辺良左衛門(わたなべりやうざゑもん)、同組同心河合郷左衛門(かはひがうざゑもん)との三人は首領を諫(いさ)めて陰謀を止(や)めさせようとした。併(しか)し首領が聴かぬ。そこで河合は逐電(ちくてん)した。筆者は正月三日後(ご)に風を引いて持病が起つて寝てゐるので、渡辺を以(もつ)て首領にことわらせた。此体(このてい)では事を挙げられる日になつても所詮(しよせん)働く事は出来ぬから、切腹して詫(わ)びようと云つたのである。渡辺は首領の返事を伝へた。そんならゆる/\保養しろ。場合によつては立(た)ち退(の)けと云ふことである。これを伝へると同時に、渡辺は自分が是非なく首領と進退を共にすると決心したことを話した。次いで首領は倅(せがれ)と渡辺とを見舞によこした。筆者は病中やう/\の事で訴状を書いた。それを支配を受けてゐる東町奉行に出さうには、取次(とりつぎ)を頼むべき人が無い。そこで隔所(かくしよ)を見計(みはか)らつて托訴(たくそ)をする。筆者は自分と倅英太郎以下の血族との赦免(しやめん)を願ひたい。尤(もつと)も自分は与党(よたう)を召(め)し捕(と)られる時には、矢張(やはり)召し捕つて貰(もら)ひたい。或は其間(そのあひだ)に自殺するかも知れない。留置(とめおき)、預(あづ)けなどゝ云ふことにせられては、病体で凌(しの)ぎ兼(か)ねるから、それは罷(やめ)にして貰ひたい。倅英太郎は首領の立てゝゐる塾で、人質(ひとじち)のやうになつてゐて帰つて来ない。兎(と)に角(かく)自分と一族とを赦免(しやめん)して貰ひたい。それから西組与力見習(よりきみならひ)に内山彦次郎(うちやまひこじらう)と云ふものがある。これは首領に嫉(にく)まれてゐるから、保護を加へて貰ひたいと云ふのである。
 読んでしまつて、堀は前から懐(いだ)いてゐた憂慮は別として、此訴状の筆者に対する一種の侮蔑(ぶべつ)の念を起さずにはゐられなかつた。形式に絡(から)まれた役人生涯に慣れてはゐても、成立してゐる秩序を維持するために、賞讃すべきものにしてある返忠(かへりちゆう)を、真(まこと)の忠誠だと看(み)ることは、生(うま)れ附いた人間の感情が許さない。その上自分の心中の私(わたくし)を去ることを難(かた)んずる人程却(かへ)つて他人の意中の私(わたくし)を訐(あば)くに敏(びん)なるものである。九郎右衛門は一しよに召(め)し捕(と)られたいと云ふ。それは責(せめ)を引く潔(いさぎよ)い心ではなくて、与党を怖(おそ)れ、世間を憚(はゞか)る臆病である。又自殺するかも知れぬと云ふ。それは覚束(おぼつか)ない。自殺することが出来るなら、なぜ先(ま)づ自殺して後に訴状を貽(のこ)さうとはしない。又牢に入れてくれるなと云ふ。大阪の牢屋から生きて還(かへ)るものゝ少いのは公然の秘密だから、病体でなくても、入(い)らずに済(す)めば入(い)るまいとする筈である。横着者(わうちやくもの)だなとは思つたが、役馴(やくな)れた堀は、公儀(こうぎ)のお役に立つ返忠(かへりちゆう)のものを周章(しうしやう)の間にも非難しようとはしない。家老に言ひ付けて、少年二人を目通(めどほ)りへ出させた。
「吉見英太郎と云ふのはお前か。」
「はい。」怜悧(れいり)らしい目を見張つて、存外怯(おく)れた様子もなく堀を仰(あふ)ぎ視(み)た。
「父九郎右衛門は病気で寝てをるのぢやな。」
「風邪(ふうじや)の跡(あと)で持病の疝痛(せんつう)痔疾(ぢしつ)が起りまして、行歩(ぎやうほ)が□(かな)ひませぬ。」
「書付(かきつけ)にはお前は内へ帰られぬと書いてあるが、どうして帰られた。」
「父は帰られぬかも知れぬが、大変になる迄(まで)に脱(ぬ)けて出られるなら、出て来いと申し付けてをりました。さう申したのは十三日に見舞に参つた時の事でございます。それから一しよに塾にゐる河合八十次郎(やそじらう)と相談いたしまして、昨晩四(よ)つ時(どき)に抜けて帰りました。先生の所にはお客が大勢(おほぜい)ありまして、混雑いたしてゐましたので、出られたのでございます。それから。」英太郎は何か言ひさして口を噤(つぐ)んだ。
 堀は暫(しばら)く待つてゐたが、英太郎は黙つてゐる。「それからどういたした」と、堀が問うた。
「それから父が申しました。東の奉行所には瀬田と小泉とが当番で出てをりますから、それを申し上げいと申しました。」
「さうか。」東組与力瀬田済之助(せいのすけ)、同小泉淵次郎(えんじらう)の二人が連判(れんぱん)に加はつてゐると云ふことは、平山の口上(こうじやう)にもあつたのである。
 堀は八十次郎の方に向いた。「お前が河合八十次郎か。」
「はい。」頬(ほゝ)の円(まる)い英太郎と違つて、これは面長(おもなが)な少年であるが、同じやうに小気(こき)が利(き)いてゐて、臆(おく)する気色(けしき)は無い。
「お前の父はどういたしたのぢや。」
「母が申しました。先月の二十六日の晩であつたさうでございます。父は先生の所から帰つて、火箸(ひばし)で打擲(ちやうちやく)せられて残念だと申したさうでございます。あくる朝父は弟の謹之助(きんのすけ)を連れて、天満宮(てんまんぐう)へ参ると云つて出ましたが、それ切(きり)どちらへ参つたか、帰りません。」
「さうか。もう宜(よろ)しい。」かう云つて堀は中泉を顧みた。
「いかが取り計らひませう」と、中泉が主人の気色(けしき)を伺つた。
「番人を附けて留(と)め置け。」かう云つて置いて、堀は座を立つた。
 堀は居間に帰つて不安らしい様子をしてゐたが、忙(いそが)しげに手紙を書き出した。これは東町奉行に宛てて、当方にも訴人(そにん)があつた、当番の瀬田、小泉に油断せられるな、追附(おつつけ)参上すると書いたのである。堀はそれを持たせて使(つかひ)を出した跡(あと)で、暫く腕組(うでぐみ)をして強(し)ひて気を落ち着けようとしてゐた。
 堀はきのふ跡部(あとべ)に陰謀者の方略(はうりやく)を聞いた。けふの巡見を取り止めたのはそのためである。然(しか)るに只(たゞ)三月と書いて日附をせぬ吉見の訴状には、その方略は書いてない。吉見が未明に倅(せがれ)を托訴(たくそ)に出したのを見ると方略を知らぬのではない。書き入れる暇(ひま)がなかつたのだらう。東町奉行所へ訴へた平山は、今月十五日に渡辺良左衛門が来て、十九日の手筈(てはず)を話し、翌十六日に同志一同が集まつた席で、首領が方略を打ち明けたと云つたさうである。それは跡部と自分とが与力朝岡の役宅(やくたく)に休息してゐる所へ襲(おそ)つて来(こ)ようと云ふのである。一体吉見の訴状にはなんと云つてあつたか、それに添へてある檄文(げきぶん)にはどう書いてあるか、好く見て置かうと堀は考へて、書類を袖(そで)の中から出した。
 堀は不安らしい目附(めつき)をして、二つの文書(ぶんしよ)をあちこち見競(みくら)べた。陰謀に対してどう云ふ手段を取らうと云ふ成案がないので、すぐに跡部(あとべ)の所へ往かずに書面を遣(や)つたが、安座して考へても、思案が纏(まと)まらない。併(しか)し何かせずにはゐられぬので、文書を調べ始めたのである。
 訴状には「御城(おんしろ)、御役所(おんやくしよ)、其外(そのほか)組屋敷等(くみやしきとう)火攻(ひぜめ)の謀(はかりごと)」と書いてある。檄文(げきぶん)には無道(むだう)の役人を誅(ちゆう)し、次に金持の町人共を懲(こら)すと云つてある。兎(と)に角(かく)恐ろしい陰謀である。昨晩跡部からの書状には、慥(たしか)な与力共の言分(いひぶん)によれば、さ程の事でないかも知れぬから、兼(かね)て打ち合せたやうに捕方(とりかた)を出すことは見合(みあは)せてくれと云つてあつた。それで少し安心して、こつちから吉田を出すことも控へて置いた。併し数人(すにん)の申分(まをしぶん)がかう符合して見れば、容易な事ではあるまい。跡部はどうする積(つもり)だらうか。手紙を遣(や)つたのだから、なんとか云つて来さうなものだ。こんな事を考へて、堀は時の移るのをも知らずにゐた。

   二、東町奉行所

 東町奉行所で、奉行跡部山城守良弼(あとべやましろのかみよしすけ)が堀の手紙を受け取つたのは、明(あけ)六つ時(どき)頃であつた。
 大阪の東町奉行所は城の京橋口(きやうばしぐち)の外、京橋通(どほり)と谷町(たにまち)との角屋敷(かどやしき)で、天満橋(てんまばし)の南詰(みなみづめ)東側にあつた。東は城、西は谷町の通である。南の島町通(しままちどほり)には街を隔てて籾蔵(もみぐら)がある。北は京橋通の河岸(かし)で、書院の庭から見れば、対岸天満組の人家が一目に見える。只(たゞ)庭の外囲(ぐわいゐ)に梅の立木(たちき)があつて、少し展望を遮(さへぎ)るだけである。
 跡部もきのふから堀と同じやうな心配をしてゐる。きのふの御用日にわざと落ち着いて、平常の事務を片附けて、それから平山の密訴(みつそ)した陰謀に対する処置を、堀と相談して別れた後、堀が吉田を呼んだやうに、跡部(あとべ)は東組与力の中で、あれかこれかと慥(たしか)なものを選(よ)り抜いて、とう/\荻野勘左衛門(をぎのかんざゑもん)、同人(どうにん)倅(せがれ)四郎助(しろすけ)、磯矢頼母(いそやたのも)の三人を呼び出した。頼母(たのも)と四郎助とは陰謀の首領を師と仰いでゐるものではあるが、半年以上使つてゐるうちに、その師弟の関係は読書の上ばかりで、師の家とは疎遠にしてゐるのが分かつた。「あの先生は学問はえらいが、肝積持(かんしやくもち)で困ります」などと、四郎助が云つたこともある。「そんな男か」と跡部が聞くと、「矢部様の前でお話をしてゐるうちに激(げき)して来て、六寸もある金頭(かながしら)を頭からめり/\と咬(か)ん食べたさうでございます」と云つた。それに此三人は半年の間跡部の言ひ付けた用事を、人一倍念入(ねんいり)にしてゐる。そこを見込んで跡部が呼び出したのである。
 さて捕方(とりかた)の事を言ひ付けると、三人共思ひも掛けぬ様子で、良(やゝ)久しく顔を見合せて考へた上で云つた。平山が訴(うつたへ)はいかにも実事(じつじ)とは信ぜられない。例の肝積持(かんしやくもち)の放言を真(ま)に受けたのではあるまいか。お受(うけ)はいたすが、余所(よそ)ながら様子を見て、いよ/\実正(じつしやう)と知れてから手を着けたいと、折り入つて申し出た。後に跡部の手紙で此事を聞いた堀よりは、三人の態度を目(ま)のあたり見た跡部は、一層切実に忌々(いま/\)しい陰謀事件が□(うそ)かも知れぬと云ふ想像に伴ふ、一種の安心を感じた。そこで逮捕を見合せた。
 跡部は荻野(をぎの)等の話を聞いてから考へて見て、平山に今一度一大事を聞いた前後の事を精(くは)しく聞いて置けば好かつたと後悔した。をとつひの夜平山が来て、用人(ようにん)野々村次平に取り次いで貰(もら)つて、所謂(いはゆる)一大事の訴(うつたへ)をした時、跡部は急に思案して、突飛(とつぴ)な手段を取つた。尋常なら平山を留(と)め置(お)いて、陰謀を鎮圧する手段を取るべきであるのに、跡部はその決心が出来なかつた。若し平山を留め置いたら、陰謀者が露顕を悟つて、急に事を挙げはすまいかと懼(おそ)れ、さりとて平山を手放して此土地に置くのも心許(こゝろもと)ないと思つたのである。そこで江戸で勘定奉行になつてゐる前任西町奉行矢部駿河守(するがのかみ)定謙に当てた私信を書いて、平山にそれを持たせて、急に江戸へ立たせたのである。平山はきのふ暁(あけ)七つ時(どき)に、小者(こもの)多助(たすけ)、雇人(やとひにん)弥助(やすけ)を連れて大阪を立つた。そして後(のち)十二日目の二月二十九日に、江戸の矢部が邸(やしき)に着いた。
 意志の確かでない跡部は、荻野等三人の詞(ことば)をたやすく聴(き)き納(い)れて、逮捕の事を見合(みあは)せたが、既にそれを見合せて置いて見ると、その見合せが自分の責任に帰すると云ふ所から、疑懼(ぎく)が生じて来た。延期は自分が極(き)めて堀に言つて遣(や)つた。若(も)し手遅れと云ふ問題が起ると、堀は免(まぬか)れて自分は免れぬのである。跡部が丁度この新(あらた)に生じた疑懼(ぎく)に悩まされてゐる所へ、堀の使(つかひ)が手紙を持つて来た。同じ陰謀に就いて西奉行所へも訴人(そにん)が出た、今日当番の瀬田、小泉に油断をするなと云ふ手紙である。
 跡部は此手紙を読んで突然決心して、当番の瀬田、小泉に手を着けることにした。此決心には少し不思議な処がある。堀の手紙には何一つ前に平山が訴へたより以上の事実を書いては無い。瀬田、小泉が陰謀の与党だと云ふことは、既に平山が云つたので、荻野等三人に内命を下すにも、跡部は綿密な警戒をした。さうして見れば、堀の手紙によつて得た所は、今まで平山一人の訴(うつたへ)で聞いてゐた事が、更に吉見と云ふものの訴で繰り返されたと云ふに過ぎない。これには決心を促(うなが)す動機としての価値は殆(ほとんど)無い。然(しか)るにその決心が跡部には出来て、前には腫物(はれもの)に障(さは)るやうにして平山を江戸へ立たせて置きながら、今は目前の瀬田、小泉に手を着けようとする。これは一昨日の夜平山の密訴(みつそ)を聞いた時にすべき決心を、今偶然の機縁に触れてしたやうなものである。
 跡部は荻野等を呼んで、二人(にん)を捕(とら)へることを命じた。その手筈(てはず)はかうである。奉行所に詰めるものは、先(ま)づ刀を脱(だつ)して詰所(つめしよ)の刀架(かたなかけ)に懸(か)ける。そこで脇差(わきざし)ばかり挿(さ)してゐて、奉行に呼ばれると、脇差をも畳廊下(たゝみらうか)に抜いて置いて、無腰(むこし)で御用談(ごようだん)の間(ま)に出る。この御用談の間に呼んで捕へようと云ふのが手筈である。併(しか)し万一の事があつたら切り棄てる外(ほか)ないと云ふので、奉行所に居合(ゐあは)せた剣術の師一条一(いちでうはじめ)が切棄(きりすて)の役を引き受けた。
 さて跡部は瀬田、小泉の二人を呼ばせた。それを聞いた時、瀬田は「暫時(ざんじ)御猶予(ごいうよ)を」と云つて便所に起(た)つた。小泉は一人いつもの畳廊下(たゝみらうか)まで来て、脇差を抜いて下に置かうとした。此畳廊下の横手に奉行の近習(きんじゆ)部屋がある。小泉が脇差を下に置くや否(いな)や、その近習部屋から一人の男が飛び出して、脇差に手を掛けた。「はつ」と思つた小泉は、一旦手を放した脇差を又掴(つか)んだ。引き合ふはずみに鞘走(さやはし)つて、とう/\、小泉が手に白刃(しらは)が残つた。様子を見てゐた跡部が、「それ、切り棄てい」と云ふと、弓の間(ま)まで踏み出した小泉の背後(うしろ)から、一条が百会(ひやくゑ)の下へ二寸程切り附けた。次に右の肩尖(かたさき)を四寸程切り込んだ。小泉がよろめく所を、右の脇腹(わきはら)へ突(つき)を一本食はせた。東組与力小泉淵次郎(えんじらう)は十八歳を一期(いちご)として、陰謀第一の犠牲として命(いのち)を隕(おと)した。花のやうな許嫁(いひなづけ)の妻があつたさうである。
 便所にゐた瀬田は素足(すあし)で庭へ飛び出して、一本の梅の木を足場にして、奉行所の北側の塀(へい)を乗り越した。そして天満橋(てんまばし)を北へ渡つて、陰謀の首領大塩平八郎(おほしほへいはちらう)の家へ奔(はし)つた。

   三、四軒屋敷

 天満橋筋(てんまばしすぢ)長柄町(ながらまち)を東に入(い)つて、角(かど)から二軒目の南側で、所謂(いはゆる)四軒屋敷の中に、東組与力大塩格之助(おほしほかくのすけ)の役宅(やくたく)がある。主人は今年二十七歳で、同じ組与力西田青太夫(あをたいふ)の弟に生れたのを、養父平八郎が貰(もら)つて置いて、七年前にお暇(いとま)になる時、番代(ばんだい)に立たせたのである。併(しか)し此家では当主は一向当主らしくなく、今年四十五歳になる隠居平八郎が万事の指図をしてゐる。
 玄関を上がつて右が旧塾(きうじゆく)と云つて、ここには平八郎が隠居する数年前から、その学風を慕(した)つて寄宿したものがある。左は講堂で、読礼堂(どくれいだう)と云ふ□額(へんがく)が懸けてある。その東隣が後に他家(たけ)を買ひ潰(つぶ)して広げた新塾(しんじゆく)である。講堂の背後(うしろ)が平八郎の書斎で、中斎(ちゆうさい)と名づけてある。それから奥、東照宮(とうせうぐう)の境内(けいだい)の方へ向いた部屋々々(へや/″\)が家内(かない)のものの居所(ゐどころ)で、食事の時などに集まる広間には、鏡中看花館(きやうちゆうかんくわくわん)と云ふ□額(へんがく)が懸(か)かつてゐる。これだけの建物の内に起臥(きぐわ)してゐるものは、家族でも学生でも、悉(ことごと)く平八郎が独裁の杖(つゑ)の下(もと)に項(うなじ)を屈してゐる。当主格之助などは、旧塾に九人、新塾に十余人ゐる平(ひら)の学生に比べて、殆(ほとんど)何等(なにら)の特権をも有してをらぬのである。
 東町奉行所で白刃(はくじん)の下(した)を脱(のが)れて、瀬田済之助(せいのすけ)が此屋敷に駆け込んで来た時の屋敷は、決して此出来事を青天(せいてん)の霹靂(へきれき)として聞くやうな、平穏無事の光景(ありさま)ではなかつた。家内中(かないぢゆう)の女子供(をんなこども)はもう十日前に悉(ことごと)く立(た)ち退(の)かせてある。平八郎が二十六歳で番代(ばんだい)に出た年に雇つた妾(めかけ)、曾根崎新地(そねざきしんち)の茶屋大黒屋和市(わいち)の娘ひろ、後の名ゆうが四十歳、七年前に格之助が十九歳で番代に出た時に雇つた妾、般若寺村(はんにやじむら)の庄屋橋本忠兵衛の娘みねが十七歳、平八郎が叔父宮脇志摩(しま)の二女を五年前に養女にしたいくが九歳、大塩家にゐた女は此三人で、それに去年の暮にみねの生んだ弓太郎(ゆみたらう)を附け、女中りつを連れさせて、ゆうがためには義兄、みねがためには実父に当る般若寺村の橋本方へ立(た)ち退(の)かせたのである。
 女子供がをらぬばかりでは無い。屋敷は近頃急に殺風景になつてゐる。それは兼(かね)て門人の籍にゐる兵庫西出町(にしでまち)の柴屋長太夫(しばやちやうだいふ)、其外(そのほか)縁故のある商人に買つて納めさせ、又学生が失錯(しつさく)をする度(たび)に、科料の代(かはり)に父兄に買つて納めさせた書籍が、玄関から講堂、書斎へ掛けて、二三段に積んだ本箱の中にあつたのに、今月に入(い)つてからそれを悉(ことごと)く運び出させ、土蔵にあつた一切経(いつさいきやう)などをさへそれに加へて、書店河内屋喜兵衛(かはちやきへゑ)、同新次郎(しんじらう)、同記一兵衛(きいちべゑ)、同茂兵衛(もへゑ)の四人の手で銀に換へさせ、飢饉続きのために難儀(なんぎ)する人民に施(ほどこ)すのだと云つて、安堂寺町(あんだうじまち)五丁目の本屋会所(ほんやくわいしよ)で、親類や門下生に縁故のある凡(およそ)三十三町村のもの一万軒に、一軒(けん)一朱(しゆ)の割(わり)を以(もつ)て配つた。質素な家の唯一の装飾になつてゐた書籍が無くなつたので、家(うち)はがらんとしてしまつた。
 今一つ此家の外貌が傷(きずつ)けられてゐるのは、職人を入れて兵器弾薬を製造させてゐるからである。町与力(まちよりき)は武芸を以て奉公してゐる上に、隠居平八郎は玉造組(たまつくりぐみ)与力柴田勘兵衛(しばたかんべゑ)の門人で、佐分利流(さぶりりう)の槍(やり)を使ふ。当主格之助は同組同心故人藤重孫三郎(ふぢしげまごさぶらう)の門人で、中島流の大筒(おほづゝ)を打つ。中にも砲術家は大筒をも貯(たくは)へ火薬をも製する習(ならひ)ではあるが、此家では夫(それ)が格別に盛(さかん)になつてゐる。去年九月の事であつた。平八郎は格之助の師藤重(ふぢしげ)の倅(せがれ)良左衛門(りやうざゑもん)、孫槌太郎(つちたらう)の両人を呼んで、今年の春堺(さかひ)七堂(だう)が浜(はま)で格之助に丁打(ちやううち)をさせる相談をした。それから平八郎、格之助の部屋の附近に戸締(とじまり)をして、塾生を使つて火薬を製させる。棒火矢(ぼうひや)、炮碌玉(はうろくだま)を作らせる。職人を入れると、口実を設けて再び外へ出さない。火矢(ひや)の材木を挽(ひ)き切つた天満北木幡町(てんまきたこばたまち)の大工作兵衛(さくべゑ)などがそれである。かう云ふ製造は昨晩まで続けられてゐた。大筒(おほづゝ)は人から買ひ取つた百目筒(ひやくめづゝ)が一挺(ちやう)、人から借り入れて返さずにある百目筒が二挺、門人守口村(もりぐちむら)の百姓兼質商白井孝右衛門(しらゐかうゑもん)が土蔵の側(そば)の松の木を伐(き)つて作つた木筒(きづゝ)が二挺ある。砲車(はうしや)は石を運ぶ台だと云つて作らせた。要するに此半年ばかりの間に、絃誦洋々(げんしようやう/\)の地が次第に喧噪(けんさう)と雑□ (ざつたふ)とを常とする工場(こうぢやう)になつてゐたのである。
 家がそんな摸様(もやう)になつてゐて、そこへ重立(おもだ)つた門人共の寄り合つて、夜(よ)の更(ふ)けるまで還らぬことが、此頃次第に度重(たびかさ)なつて来てゐる。昨夜は隠居と当主との妾(めかけ)の家元、摂津(せつつ)般若寺村(はんにやじむら)の庄屋橋本忠兵衛、物持(ものもち)で大塩家の生計を助けてゐる摂津守口村(もりぐちむら)の百姓兼質屋白井孝右衛門、東組与力渡辺良左衛門、同組同心庄司義左衛門(しやうじぎざゑもん)、同組同心の倅近藤梶五郎(かぢごらう)、般若寺村の百姓柏岡(かしはをか)源右衛門、同倅伝七(でんしち)、河内(かはち)門真(もんしん)三番村の百姓茨田郡次(いばらたぐんじ)の八人が酒を飲みながら話をしてゐて、折々(をり/\)いつもの人を圧伏(あつぷく)するやうな調子の、隠居の声が漏れた。平生最も隠居に親(したし)んでゐる此八人の門人は、とう/\屋敷に泊まつてしまつた。此頃は客があつてもなくても、勝手の為事(しごと)は、兼て塾の賄方(まかなひかた)をしてゐる杉山三平(すぎやまさんぺい)が、人夫を使つて取り賄(まかな)つてゐる。杉山は河内国(かはちのくに)衣摺村(きぬすりむら)の庄屋で、何か仔細(しさい)があつて所払(ところばらひ)になつたものださうである。手近な用を達(た)すのは、格之助の若党大和国(やまとのくに)曾我村生(そがむらうまれ)の曾我岩蔵(いはざう)、中間(ちゆうげん)木八(きはち)、吉助(きちすけ)である。女はうたと云ふ女中が一人、傍輩(はうばい)のりつがお部屋に附いて立(た)ち退(の)いた跡(あと)で、頻(しきり)に暇(いとま)を貰(もら)ひたがるのを、宥(なだ)め賺(すか)して引(ひ)き留(と)めてあるばかりで、格別物の用には立つてゐない。そこでけさ奥にゐるものは、隠居平八郎、当主格之助、賄方(まかなひかた)杉山、若党曾我、中間木八、吉助、女中うたの七人、昨夜の泊客八人、合計十五人で、其外には屋敷内の旧塾、新塾の学生、職人、人夫抔(など)がゐたのである。
 瀬田済之助(せいのすけ)はかう云ふ中へ駆け込んで来た。

   四、宇津木と岡田と

 新塾にゐる学生のうちに、三年前に来て寄宿し、翌年一旦立ち去つて、去年再び来た宇津木矩之允(うつぎのりのすけ)と云ふものがある。平八郎の著(あらは)した大学刮目(だいがくくわつもく)の訓点(くんてん)を施(ほどこ)した一人(にん)で、大塩の門人中学力の優(すぐ)れた方である。此宇津木が一昨年九州に遊歴して、連れて来た孫弟子がある。これは長崎西築町(にしつきまち)の医師岡田道玄(だうげん)の子で、名を良之進(りやうのしん)と云ふ。宇津木に連れられて親元を離れた時が十四歳だから、今年十六歳になつてゐる。

 この岡田と云ふ少年が、けさ六つ半に目を醒(さ)ました。職人が多く入(い)り込(こ)むやうになつてから、随分騒がしい家ではあるが、けさは又格別である。がた/\、めり/\、みし/\と、物を打ち毀(こは)す音がする。しかと聴き定めようとして、床(とこ)の上にすわつてゐるうちに、今毀してゐる物が障子(しやうじ)襖(ふすま)だと云ふことが分かつた。それに雑(まじ)つて人声がする。「役に立たぬものは討(う)ち棄てい」と云ふ詞(ことば)がはつきり聞えた。岡田は怜悧(れいり)な、思慮のある少年であつたが、余り思ひ掛けぬ事なので、一旦夢ではないかと思つた。それから宇津木先生はどうしてゐるかと思つて、頸(くび)を延(の)ばして見ると、先生はいつもの通(とほり)に着布団(きぶとん)の襟(えり)を頤(あご)の下に挿(はさ)むやうにして寝てゐる。物音は次第に劇(はげ)しくなる。岡田は心のはつきりすると共に、尋常でない此屋敷の現状が意識に上つて来た。
 岡田は跳(は)ね起(お)きた。宇津木の枕元(まくらもと)にゐざり寄つて、「先生」と声を掛けた。
 宇津木は黙つて目を大きく開いた。眠つてはゐなかつたのである。
「先生。えらい騒ぎでございますが。」
「うん。知つてをる。己(おれ)は余り人を信じ過ぎて、君をまで危地(きち)に置いた。こらへてくれ給(たま)へ。去年の秋からの丁打(ちやううち)の支度(したく)が、仰山(ぎやうさん)だとは己(おれ)も思つた。それに門人中の老輩(らうはい)数人と、塾生の一半とが、次第に我々と疎遠になつて、何か我々の知らぬ事を知つてをるらしい素振(そぶり)をする。それを怪(あや)しいとは己(おれ)も思つた。併(しか)し己はゆうべまで事の真相を看破することが出来なかつた。所(ところ)が君、ゆうべ塾生一同に申し渡すことがあると云つて呼んだ、あの時の事だね。己は代りに聞いて来て遣(や)ると云つて、君を残して置いて出席した。それから帰つて、格別な事でもないから、あした話すと云つて寝たのだがね、実はあの時例の老輩共と酒宴をしてゐた先生が、独(ひと)り席を起(た)つて我々の集まつてゐる所へ出て来て、かう云つたのだ。一大事であるが、お前方(まへがた)はどう身を処置するか承知したいと云つたのだ。己(おれ)は一大事とは何事か問うて見た。先生はざつとこんな事を説かれた。我々は平生良知(りやうち)の学を攻(をさ)めてゐる。あれは根本の教(をしへ)だ。然(しか)るに今の天下の形勢は枝葉(しえふ)を病(や)んでゐる。民の疲弊(ひへい)は窮(きは)まつてゐる。草妨礙(くさばうがい)あらば、理(り)亦(また)宜(よろ)しく去(さ)るべしである。天下のために残賊(ざんぞく)を除かんではならぬと云ふのだ。そこで其残賊だがな。」
「はあ」と云つて、岡田は目を□(みは)つた。
「先づ町奉行衆(まちぶぎやうしゆう)位(くらゐ)の所らしい。それがなんになる。我々は実に先生を見損(みそこな)つてをつたのだ。先生の眼中には将軍家もなければ、朝廷もない。先生はそこまでは考へてをられぬらしい。」
「そんなら今事(こと)を挙(あ)げるのですね。」
「さうだ。家には火を掛け、与(くみ)せぬものは切棄(きりす)てゝ起(た)つと云ふのだらう。併(しか)しあの物音のするのは奥から書斎の辺だ。まだ旧塾もある。講堂もある。こゝまで来るには少し暇(ひま)がある。まあ、聞き給(たま)へ。例の先生の流義だから、ゆうべも誰一人抗争するものはなかつた。己(おれ)は明朝御返事をすると云つて一時を糊塗(こと)した。若(も)し諫(いさ)める機会があつたら、諫めて陰謀を思ひ止(と)まらせよう。それが出来なかつたら、師となり弟子(ていし)となつたのが命(めい)だ、甘(あま)んじて死なうと決心した。そこで君だがね。」
 岡田は又「はあ」と云つて耳を欹(そばだ)てた。
「君は中斎先生の弟子ではない。己(おれ)は君に此場を立ち退(の)いて貰(もら)ひたい。挙兵の時期が最も好(い)い。若(も)しどうすると問ふものがあつたら、お供(とも)をすると云ひ給(たま)へ。さう云つて置いて逃げるのだ。己(おれ)はゆうべ寝られぬから墓誌銘(ぼしめい)を自撰(じせん)した。それを今書いて君に遣(や)る。それから京都東本願寺家(ひがしほんぐわんじけ)の粟津陸奥之助(あはづむつのすけ)と云ふものに、己の心血を灑(そゝ)いだ詩文稿(しぶんかう)が借してある。君は京都へ往つてそれを受け取つて、彦根にゐる兄下総(しもふさ)の邸(やしき)へ往つて大林権之進(ごんのしん)と云ふものに逢つて、詩文稿に墓誌銘を添へてわたしてくれ給へ。」かう云ひながら宇津木(うつぎ)はゆつくり起きて、机に靠(もた)れたが、宿墨(しゆくぼく)に筆を浸(ひた)して、有り合せた美濃紙(みのがみ)二枚に、一字の書損(しよそん)もなく腹藁(ふくかう)の文章を書いた。書き畢(をは)つて一読して、「さあ、これだ」と云つて岡田にわたした。
 岡田は草稿を受け取りながら、「併(しか)し先生」と何やら言ひ出しさうにした。
 宇津木は「ちよいと」と云ひ掛けて、便所へ立つた。
 手に草稿を持つた儘(まゝ)、ぢつとして考へてゐる岡田の耳に、廊下一つを隔てた講堂の口あたりから人声が聞えた。
「先生の指図通(さしづどほり)、宇津木を遣(や)つてしまふのだ。君は出口で見張つてゐてくれ給へ。」聞き馴(な)れた門人大井(おほゐ)の声である。玉造組与力(たまつくりぐみよりき)の倅(せがれ)で、名は正一郎(しやういちらう)と云ふ。三十五歳になる。
「宜(よろ)しい。しつかり遣(や)り給(たま)へ。」これは安田図書(やすだづしよ)の声である。外宮(げぐう)の御師(おし)で、三十三歳になる。
 岡田はそつと立つて便所の戸口へ往つた。「殺しに来ます。」
「好(い)い。君早く逃げてくれ給へ。」
「併(しか)し。」
「早くせんと駄目だ。」
 廊下を忍び寄る大井の足音がする。岡田は草稿を懐(ふところ)に捩(ね)ぢ込んで、机の所へ小鼠(こねずみ)のやうに走り戻つて、鉄の文鎮(ぶんちん)を手に持つた。そして跣足(はだし)で庭に飛び下りて、植込(うゑごみ)の中を潜(くゞ)つて、塀(へい)にぴつたり身を寄せた。
 大井は抜刀(ばつたう)を手にして新塾に這入(はひ)つて来た。先づ寝所(しんじよ)の温(あたゝか)みを探(さぐ)つてあたりを見廻して、便所の口に来て、立ち留(と)まつた。暫(しばら)くして便所の戸に手を掛けて開けた。
 中から無腰(むこし)の宇津木が、恬然(てんぜん)たる態度で出て来た。
 大井は戸から手を放して一歩下がつた。そして刀を構(かま)へながら言分(いひわけ)らしく「先生のお指図(さしづ)だ」と云つた。
 宇津木は「うん」と云つた切(きり)、棒立(ぼうだち)に立つてゐる。
 大井は酔人(すゐじん)を虎が食(く)ひ兼(か)ねるやうに、良(やゝ)久しく立ち竦(すく)んでゐたが、やう/\思ひ切つて、「やつ」と声を掛けて真甲(まつかふ)を目掛(めが)けて切り下(おろ)した。宇津木が刀を受け取るやうに、俯向加減(うつむきかげん)になつたので、百会(ひやくゑ)の背後(うしろ)が縦(たて)に六寸程骨まで切れた。宇津木は其儘(そのまゝ)立つてゐる。大井は少し慌(あわ)てながら、二の太刀(たち)で宇津木の腹を刺した。刀は臍(ほぞ)の上から背へ抜けた。宇津木は縁側にぺたりとすわつた。大井は背後(うしろ)へ押し倒して喉(のど)を刺した。
 塀際(へいぎは)にゐた岡田は、宇津木の最期(さいご)を見届けるや否(いな)や、塀に沿うて東照宮(とうせうぐう)の境内(けいだい)へ抜ける非常口に駆け附けた。そして錠前(ぢやうまへ)を文鎮(ぶんちん)で開(あ)けて、こつそり大塩の屋敷を出た。岡田は二十日に京都に立ち寄つて二十一日には彦根へ着いた。

   五、門出

 瀬田済之助(せたせいのすけ)が東町奉行所の危急を逃(のが)れて、大塩の屋敷へ駆け込んだのは、明(あけ)六つを少し過ぎた時であつた。
 書斎の襖(ふすま)をあけて見ると、ゆうべ泊つた八人の与党(よたう)、その外(ほか)中船場町(なかせんばまち)の医師の倅(せがれ)で僅(わづか)に十四歳になる松本隣太夫(りんたいふ)、天満(てんま)五丁目の商人阿部長助(ちやうすけ)、摂津(せつつ)沢上江村(さはかみえむら)の百姓上田孝太郎(うえだかうたらう)、河内(かはち)門真三番村の百姓高橋九右衛門(たかはしくゑもん)、河内弓削村(ゆげむら)の百姓西村利三郎(にしむらりさぶらう)、河内尊延寺村(そんえんじむら)の百姓深尾才次郎(ふかをさいじらう)、播磨(はりま)西村の百姓堀井儀三郎(ほりゐぎさぶらう)、近江(あふみ)小川村の医師志村力之助(しむらりきのすけ)、大井、安田等に取り巻かれて、平八郎は茵(しとね)の上に端坐(たんざ)してゐた。
 身(み)の丈(たけ)五尺五六寸の、面長(おもなが)な、色の白い男で、四十五歳にしては老人らしい所が無い。濃い、細い眉(まゆ)は弔(つ)つてゐるが、張(はり)の強い、鋭い目は眉程には弔つてゐない。広い額(ひたひ)に青筋(あをすぢ)がある。髷(まげ)は短く詰(つ)めて結(ゆ)つてゐる。月題(さかやき)は薄い。一度喀血(かくけつ)したことがあつて、口の悪い男には青瓢箪(あをべうたん)と云はれたと云ふが、現(げ)にもと頷(うなづ)かれる。
「先生。御用心をなさい。手入れがあります。」駆け込んで、平八郎が前にすわりながら、瀬田は叫んだ。
「さうだらう。巡見(じゆんけん)が取止(とりやめ)になつたには、仔細(しさい)がなうてはならぬ。江戸へ立つた平山の所為(しよゐ)だ。」
「小泉は遣(や)られました。」
「さうか。」
 目を見合せた一座の中には、同情のささやきが起つた。
 平八郎は一座をずつと見わたした。「兼(かね)ての手筈(てはず)の通りに打ち立たう。棄て置き難(がた)いのは宇津木一人(にん)だが、その処置は大井と安田に任せる。」
 大井、安田の二人(にん)はすぐに起(た)たうとした。
「まあ待て。打ち立つてからの順序は、只(たゞ)第一段を除いて、すぐに第二段に掛かるまでぢや。」第一段とは朝岡の家を襲(おそ)ふことで、第二段とは北船場(きたせんば)へ進むことである。これは方略(はうりやく)に極(き)めてあつたのである。
「さあ」と瀬田が声を掛けて一座を顧(かへり)みると、皆席を起つた。中で人夫の募集を受け合つてゐた柏岡(かしはをか)伝七と、檄文(げきぶん)を配る役になつてゐた上田とは屋敷を出て往つた。間もなく家財や、はづした建具(たてぐ)を奥庭(おくには)へ運び出す音がし出した。
 平八郎は其儘(そのまゝ)端坐(たんざ)してゐる。そして熱した心の内を、此陰謀がいかに萌芽(はうが)し、いかに生長し、いかなる曲折を経(へ)て今に至つたと云ふことが夢のやうに往来する。平八郎はかう思ひ続けた。己(おれ)が自分の材幹(さいかん)と値遇(ちぐう)とによつて、吏胥(りしよ)として成(な)し遂(と)げられるだけの事を成し遂げた上で、身を引いた天保(てんぱう)元年は泰平であつた。民の休戚(きうせき)が米作(べいさく)の豊凶(ほうきよう)に繋(かゝ)つてゐる国では、豊年は泰平である。二年も豊作であつた。三年から気候が不順になつて、四年には東北の洪水のために、天明六七年以来の飢饉になつた。五年に稍(やゝ)常(つね)に復しさうに見えるかと思ふと、冬から六年の春に掛けて雨がない。六年には東北に螟虫(めいちゆう)が出来る。海嘯(つなみ)がある。とう/\去年は五月から雨続きで、冬のやうに寒く、秋は大風(たいふう)大水(たいすゐ)があり、東北を始(はじめ)として全国の不作になつた。己は隠居してから心を著述に専(もつぱら)にして、古本大学刮目(こほんだいがくくわつもく)、洗心洞剳記(せんしんどうさつき)、同附録抄(ふろくせう)、儒門空虚聚語(じゆもんくうきよしゆうご)、孝経彙註(かうきやうゐちゆう)の刻本が次第に完成し、剳記(さつき)を富士山の石室(せきしつ)に蔵(ざう)し、又足代権太夫弘訓(あじろごんたいふひろのり)の勧(すゝめ)によつて、宮崎、林崎の両文庫に納(をさ)めて、学者としての志(こゝろざし)をも遂げたのだが、連年の飢饉、賤民の困窮を、目を塞(ふさ)いで見ずにはをられなかつた。そしてそれに対する町奉行以下諸役人の処置に平(たひら)かなることが出来なかつた。賑恤(しんじゆつ)もする。造酒(ざうしゆ)に制限も加へる。併(しか)し民の疾苦(しつく)は増すばかりで減じはせぬ。殊(こと)に去年から与力内山を使つて東町奉行跡部(あとべ)の遣(や)つてゐる為事(しごと)が気に食はぬ。幕命(ばくめい)によつて江戸へ米を廻漕(くわいさう)するのは好い。併(しか)し些(すこ)しの米を京都に輸(おく)ることをも拒(こば)んで、細民(さいみん)が大阪へ小買(こがひ)に出ると、捕縛(ほばく)するのは何事だ。己(おれ)は王道の大体を学んで、功利の末技を知らぬ。上(かみ)の驕奢(けうしや)と下(しも)の疲弊(ひへい)とがこれまでになつたのを見ては、己にも策の施すべきものが無い。併し理を以て推(お)せば、これが人世(じんせい)必然の勢(いきほひ)だとして旁看(ばうかん)するか、町奉行以下諸役人や市中の富豪に進んで救済の法を講ぜさせるか、諸役人を誅(ちゆう)し富豪を脅(おびやか)して其私蓄(しちく)を散ずるかの三つより外(ほか)あるまい。己(おれ)は此不平に甘んじて旁看(ばうかん)してはをられぬ。己は諸役人や富豪が大阪のために謀(はか)つてくれようとも信ぜぬ。己はとう/\誅伐(ちゆうばつ)と脅迫(けふはく)とによつて事を済(な)さうと思ひ立つた。鹿台(ろくたい)の財を発するには、無道(むだう)の商(しやう)を滅(ほろぼ)さんではならぬと考へたのだ。己が意を此(こゝ)に決し、言(げん)を彼(かれ)に託(たく)し、格之助に丁打(ちやううち)をさせると称して、準備に取り掛つたのは、去年の秋であつた。それからは不平の事は日を逐(お)うて加はつても、準備の捗(はかど)つて行くのを顧みて、慰藉(ゐしや)を其中(そのうち)に求めてゐた。其間に半年立つた。さてけふになつて見れば、心に逡巡(しゆんじゆん)する怯(おくれ)もないが、又踊躍(ようやく)する競(きほひ)もない。準備をしてゐる久しい間には、折々(をり/\)成功の時の光景が幻(まぼろし)のやうに目に浮かんで、地上に血を流す役人、脚下に頭(かうべ)を叩(たゝ)く金持、それから草木(さうもく)の風に靡(なび)くやうに来(きた)り附(ふ)する諸民が見えた。それが近頃はもうそんな幻(まぼろし)も見えなくなつた。己はまだ三十代で役を勤めてゐた頃、高井(たかゐ)殿に信任せられて、耶蘇(やそ)教徒を逮捕したり、奸吏(かんり)を糺弾(きうだん)したり、破戒僧を羅致(らち)したりしてゐながら、老婆豊田貢(とよだみつぎ)の磔(はりつけ)になる所や、両組与力(りやうくみよりき)弓削新右衛門(ゆげしんゑもん)の切腹する所や、大勢(おほぜい)の坊主が珠数繋(じゆずつなぎ)にせられる所を幻(まぼろし)に見ることがあつたが、それは皆間もなく事実になつた。そして事実になるまで、己(おれ)の胸には一度も疑(うたがひ)が萌(きざ)さなかつた。今度はどうもあの時とは違ふ。それにあの時は己の意図が先(ま)づ恣(ほしいまゝ)に動いて、外界(げかい)の事柄がそれに附随して来た。今度の事になつてからは、己は準備をしてゐる間、何時(いつ)でも用に立てられる左券(さけん)を握つてゐるやうに思つて、それを慰藉(ゐしや)にした丈(だけ)で、動(やゝ)もすれば其準備を永く準備の儘(まゝ)で置きたいやうな気がした。けふまでに事柄の捗(はかど)つて来たのは、事柄其物が自然に捗(はかど)つて来たのだと云つても好い。己(おれ)が陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己を拉(らつ)して走つたのだと云つても好い。一体此(この)終局はどうなり行くだらう。平八郎はかう思ひ続けた。
 平八郎が書斎で沈思してゐる間に、事柄は実際自然に捗(はかど)つて行く。屋敷中に立ち別れた与党の人々は、受持々々(うけもち/\)の為事(しごと)をする。時々書斎の入口まで来て、今宇津木を討(う)ち果(はた)したとか、今奥庭(おくには)に積み上げた家財に火を掛けたとか、知らせるものがあるが、其度毎(そのたびごと)に平八郎は只(ただ)一目(ひとめ)そつちを見る丈(だけ)である。
 さていよ/\勢揃(せいぞろひ)をすることになつた。場所は兼(かね)て東照宮の境内(けいだい)を使ふことにしてある。そこへ出る時人々は始て非常口の錠前(ぢやうまへ)の開(あ)いてゐたのを知つた。行列の真(ま)つ先(さき)に押し立てたのは救民と書いた四半(はん)の旗(はた)である。次に中に天照皇大神宮(てんせうくわうだいじんぐう)、右に湯武両聖王(たうぶりやうせいわう)、左に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と書いた旗、五七の桐(きり)に二つ引(びき)の旗を立てゝ行く。次に木筒(きづゝ)が二挺(ちやう)行く。次は大井と庄司とで各(おの/\)小筒(こづゝ)を持つ。次に格之助が着込野袴(きごみのばかま)で、白木綿(しろもめん)の鉢巻(はちまき)を締(し)めて行く。下辻村(しもつじむら)の猟師(れふし)金助(きんすけ)がそれに引き添ふ。次に大筒(おほづゝ)が二挺と鑓(やり)を持つた雑人(ざふにん)とが行く。次に略(ほゞ)格之助と同じ支度の平八郎が、黒羅紗(くろらしや)の羽織、野袴(のばかま)で行く。茨田(いばらた)と杉山とが鑓(やり)を持つて左右に随ふ。若党(わかたう)曾我(そが)と中間(ちゆうげん)木八(きはち)、吉助(きちすけ)とが背後(うしろ)に附き添ふ。次に相図(あひづ)の太鼓が行く。平八郎の手には高橋、堀井、安田、松本等の与党がゐる。次は渡辺、志村、近藤、深尾、父柏岡等重立(おもだ)つた人々で、特(こと)に平八郎に親しい白井や橋本も此中にゐる。一同着込帯刀(きごみたいたう)で、多くは手鑓(てやり)を持つ。押(おさ)へは大筒(おほづゝ)一挺(ちやう)を挽(ひ)かせ、小筒持(こづゝもち)の雑人(ざふにん)二十人を随へた瀬田で、傍(そば)に若党植松周次(うゑまつしうじ)、中間浅佶(あさきち)が附いてゐる。
 此(この)総人数(そうにんず)凡(およそ)百余人が屋敷に火を掛け、表側(おもてがは)の塀(へい)を押し倒して繰り出したのが、朝五つ時(どき)である。先(ま)づ主人の出勤した跡(あと)の、向屋敷(むかうやしき)朝岡の門に大筒の第一発を打ち込んで、天満橋筋(てんまばしすぢ)の長柄町(ながらまち)に出て、南へ源八町(げんぱちまち)まで進んで、与力町(よりきまち)を西へ折れた。これは城と東町奉行所とに接してゐる天満橋を避けて、迂回(うくわい)して船場(せんば)に向はうとするのである。

   六、坂本鉉之助

 東町奉行所で小泉を殺し、瀬田を取り逃がした所へ、堀が部下の与力(よりき)同心(どうしん)を随へて来た。跡部(あとべ)は堀と相談して、明(あけ)六つ時(どき)にやう/\三箇条の手配(てくばり)をした。鈴木町(すゞきまち)の代官根本善左衛門(ねもとぜんざゑもん)に近郷(きんがう)の取締(とりしまり)を托したのが一つ。谷町(たにまち)の代官池田岩之丞(いはのじよう)に天満(てんま)の東照宮、建国寺(けんこくじ)方面の防備を托したのが二つ。平八郎の母の兄、東組与力大西与五郎(おほにしよごらう)が病気引(びやうきびき)をしてゐる所へ使(つかひ)を遣(や)つて、甥(をひ)平八郎に切腹させるか、刺し違へて死ぬるかのうちを選べと云はせたのが三つである。与五郎の養子善之進は父のために偵察しようとして長柄町(ながらまち)近くへ往くと、もう大塩の同勢(どうぜい)が繰り出すので、驚いて逃げ帰り、父と一しよに西の宮へ奔(はし)り、又懼(おそ)れて大阪へ引き返ししなに、両刀を海に投げ込んだ。
 大西へ使(つかひ)を遣(や)つた跡(あと)で、跡部、堀の両奉行は更に相談して、両組の与力同心を合併した捕手(とりて)を大塩が屋敷へ出した。そのうち朝五つ近くなると、天満(てんま)に火の手が上がつて、間もなく砲声が聞えた。捕手(とりて)は所詮(しよせん)近寄れぬと云つて帰つた。
 両奉行は鉄砲奉行石渡彦太夫(いしわたひこだいふ)、御手洗伊右衛門(みたらしいゑもん)に、鉄砲同心を借りに遣(や)つた。同心は二人(にん)の部下を併(あは)せて四十人である。次にそれでは足らぬと思つて、玉造口定番(たまつくりぐちぢやうばん)遠藤但馬守胤統(たぢまのかみたねをさ)に加勢を願つた。遠藤は公用人畑佐秋之助(はたさあきのすけ)に命じて、玉造組与力で月番(つきばん)同心支配をしてゐる坂本鉉之助(げんのすけ)を上屋敷(かみやしき)に呼び出した。
 坂本は荻野流(をぎのりう)の砲術者で、けさ丁打(ちやううち)をすると云つて、門人を城の東裏(ひがしうら)にある役宅の裏庭に集めてゐた。そのうち五つ頃になると、天満に火の手が上がつたので、急いで役宅から近い大番所(おほばんしよ)へ出た。そこに月番の玉造組平与力(ひらよりき)本多為助(ほんだためすけ)、山寺(やまでら)三二郎、小島鶴之丞(つるのじよう)が出てゐて、本多が天満の火事は大塩平八郎の所為(しよゐ)だと告げた。これは大塩の屋敷に出入(でいり)する猟師清五郎と云ふ者が、火事場に駆け附けて引き返し、同心支配岡翁助(をうすけ)に告げたのを、岡が本多に話したのである。坂本はすぐに城の東裏にゐる同じ組の与力同心に総出仕(そうしゆつし)の用意を命じた。間もなく遠藤の総出仕の達しが来て、同時に坂本は上屋敷(かみやしき)へ呼ばれたのである。
 畑佐(はたさ)の伝へた遠藤の命令はかうである。同心支配一人、与力二人、同心三十人鉄砲を持つて東町奉行所へ出て来い。又同文の命令を京橋組へも伝達せいと云ふのである。坂本は承知の旨(むね)を答へて、上屋敷から大番所へ廻つて手配(てくばり)をした。同心支配は三人あるが、これは自分が出ることにし、小頭(こがしら)の与力二人には平与力(ひらよりき)蒲生熊次郎(がまふくまじらう)、本多為助(ためすけ)を当て、同心三十人は自分と同役岡との組から十五人宛(づゝ)出(だ)すことにした。集合の場所は土橋(どばし)と極めた。京橋組への伝達には、当番与力脇(わき)勝太郎に書附を持たせて出して遣つた。
 手配(てくばり)が済んで、坂本は役宅(やくたく)に帰つた。そして火事装束(くわじしやうぞく)、草鞋掛(わらぢがけ)で、十文目筒(じふもんめづゝ)を持つて土橋(どばし)へ出向いた。蒲生(がまふ)と同心三十人とは揃つてゐた。本多はまだ来てゐない。集合を見に来てゐた畑佐(はたさ)は、跡部(あとべ)に二度催促せられて、京橋口へ廻(まは)つて東町奉行所に往くことにして、先へ帰つたのださうである。坂本は本多がために同心一人(にん)を留(と)めて置いて、集合地を発した。堀端(ほりばた)を西へ、東町奉行所を指(さ)して進むうちに、跡部からの三度目の使者に行き合つた。本多と残して置いた同心とは途中で追ひ附いた。
 坂本が東町奉行所に来て見ると、畑佐はまだ来てゐない。東組与力朝岡助之丞(すけのじよう)と西組与力近藤三右衛門とが応接して、大筒(おほづゝ)を用意して貰(もら)ひたいと云つた。坂本はそれまでの事には及ばぬと思ひ、又指図の区々(まち/\)なのを不平に思つたが、それでも馬一頭を借りて蒲生(がまふ)を乗せて、大筒を取り寄せさせに、玉造口定番所(ぢやうばんしよ)へ遣つた。昼四(よ)つ時(どき)に跡部が坂本を引見した。そして坂本を書院の庭に連れて出て、防備の相談をした。坂本は大川に面した北手(きたて)の展望を害する梅の木を伐(き)ること、島町(しままち)に面した南手の控柱(ひかへばしら)と松の木とに丸太を結び附けて、武者走(むしやばしり)の板をわたすことを建議した。混雑の中で、跡部の指図は少しも行はれない。坂本は部下の同心に工事を命じて、自分でそれを見張つてゐた。
 坂本が防備の工事をしてゐるうちに、跡部は大塩の一行が長柄町(ながらまち)から南へ迂廻(うくわい)したことを聞いた。そして杣人足(そまにんそく)の一組に天神橋(てんじんばし)と難波橋(なんばばし)[#ルビの「なんばばし」は底本では「なんぱばし」]との橋板をこはせと言ひ付けた。
 坂本の使者脇は京橋口へ往つて、同心支配広瀬治左衛門(ひろせぢざゑもん)、馬場佐十郎(ばゝさじふらう)に遠藤の命令を伝達した。これは京橋口定番(ぢやうばん)米津丹後守昌寿(よねづたんごのかみまさひさ)が、去年十一月に任命せられて、まだ到着せぬので、京橋口も遠藤が預(あづか)りになつてゐるからである。広瀬は伝達の書附を見て、首を傾けて何やら思案してゐたが、脇へはいづれ当方から出向いて承(うけたまは)らうと云つた。
 広瀬は雪駄穿(せつたばき)で東町奉行所に来て、坂本に逢つてかう云つた。「只今書面を拝見して、これへ出向いて参りましたが、原来(ぐわんらい)お互(たがひ)に御城警固(おんしろけいご)の役柄ではありませんか。それをお城の外で使はうと云ふ、遠藤殿の思召(おぼしめし)が分かり兼ねます。貴殿(きでん)はどう考へられますか。」
 坂本は目を□(みは)つた。「成程(なるほど)自分の役柄は拙者(せつしや)も心得てをります。併(しか)し頭(かしら)遠藤殿の申付(まをしつけ)であつて見れば、縦(たと)ひ生駒山(いこまやま)を越してでも出張せんではなりますまい。御覧の通(とほり)拙者は打支度(うちしたく)をいたしてをります。」
「いや。それは頭(かしら)御自身が御出馬になることなら、拙者もどちらへでも出張しませう。我々ばかりがこんな所へ参つて働いては、町奉行の下知(げぢ)を受(うけ)るやうなわけで、体面にも係(かゝは)るではありませんか。先年出水(しゆつすゐ)の時、城代松平伊豆守殿へ町奉行が出兵を願つたが、大切の御城警固(おんしろけいご)の者を貸すことは相成らぬと仰(おつし)やつたやうに聞いてをります。一応御一しよにことわつて見ようぢやありませんか。」
「それは御同意がなり兼ねます。頭(かしら)の申付(まをしつけ)なら、拙者は誰の下(した)にでも附いて働きます。その上叛逆人(ほんぎやくにん)が起つた場合は出水(しゆつすゐ)などとは違ひます。貴殿がおことわりになるなら、どうぞお一人で上屋敷(かみやしき)へお出(いで)になつて下さい。」
「いや。さう云ふ御所存ですか。何事によらず両組相談の上で取り計らふ慣例でありますから申し出(だ)しました。さやうなら以後御相談は申しますまい。」
「已(や)むを得ません。いかやうとも御勝手になさりませい。
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