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著者名:森鴎外 

   一、西町奉行所

 天保(てんぱう)八年丁酉(ひのととり)の歳(とし)二月十九日の暁方(あけがた)七つ時(どき)に、大阪西町奉行所(にしまちぶぎやうしよ)の門を敲(たゝ)くものがある。西町奉行所と云ふのは、大阪城の大手(おほて)の方角から、内本町通(うちほんまちどほり)を西へ行つて、本町橋(ほんまちばし)に掛からうとする北側にあつた。此頃はもう四年前から引き続いての飢饉(ききん)で、やれ盗人(ぬすびと)、やれ行倒(ゆきだふれ)と、夜中(やちゆう)も用事が断(た)えない。それにきのふの御用日(ごようび)に、月番(つきばん)の東町(ひがしまち)奉行所へ立会(たちあひ)に往(い)つて帰つてからは、奉行堀伊賀守利堅(ほりいがのかみとしかた)は何かひどく心せはしい様子で、急に西組与力(にしぐみよりき)吉田勝右衛門(かつゑもん)を呼び寄せて、長い間密談をした。それから東町奉行所との間に往反(わうへん)して、けふ十九日にある筈(はず)であつた堀の初入式(しよにふしき)の巡見が取止(とりやめ)になつた。それから家老中泉撰司(なかいづみせんし)を以(もつ)て、奉行所詰(ぶぎやうしよづめ)のもの一同に、夜中(やちゆう)と雖(いへども)、格別に用心するやうにと云ふ達(たつ)しがあつた。そこで門を敲(たゝ)かれた時、門番がすぐに立つて出て、外に来たものの姓名と用事とを聞き取つた。
 門外に来てゐるのは二人(にん)の少年であつた。一人(にん)は東組町同心(どうしん)吉見九郎右衛門(よしみくらうゑもん)の倅(せがれ)英太郎(えいたらう)、今一人は同組同心河合郷左衛門(かはひがうざゑもん)の倅八十次郎(やそじらう)と名告(なの)つた。用向(ようむき)は一大事があつて吉見九郎右衛門の訴状(そじやう)を持参したのを、ぢきにお奉行様(ぶぎやうさま)に差し出したいと云ふことである。
 上下共(じやうげとも)何か事がありさうに思つてゐた時、一大事と云つたので、それが門番の耳にも相応に強く響いた。門番は猶予(いうよ)なく潜門(くゞりもん)をあけて二人の少年を入れた。まだ暁(あかつき)の白(しら)けた光が夜闇(よやみ)の衣(きぬ)を僅(わづか)に穿(うが)つてゐる時で、薄曇(うすぐもり)の空の下、風の無い、沈んだ空気の中に、二人は寒げに立つてゐる。英太郎(えいたらう)は十六歳、八十次郎(やそじらう)は十八歳である。
「お奉行様にぢきに差し上げる書付(かきつけ)があるのだな。」門番は念を押した。
「はい。ここに持つてをります。」英太郎が懐(ふところ)を指(ゆび)さした。
「お前がその吉見九郎右衛門の倅(せがれ)か。なぜ九郎右衛門が自分で持つて来ぬのか。」
「父は病気で寝てをります。」
「一体(いつたい)東のお奉行所附(づき)のものの書付(かきつけ)なら、なぜそれを西のお奉行所へ持つて来たのだい。」
「西のお奉行様にでなくては申し上げられぬと、父が申しました。」
「ふん。さうか。」門番は八十次郎(やそじらう)の方に向いた。「お前はなぜ附いて来たのか。」
「大切な事だから、間違(まちがひ)の無いやうに二人(ふたり)で往(い)けと、吉見のをぢさんが言ひ附けました。」
「ふん。お前は河合と言つたな。お前の親父様(おやぢさま)は承知してお前をよこしたのかい。」
「父は正月の二十七日に出た切(きり)、帰つて来ません。」
「さうか。」
 門番は二人の若者に対して、こんな問答をした。吉見の父が少年二人を密訴(みつそ)に出したので、門番も猜疑心(さいぎしん)を起さずに応対して、却(かへ)つて運びが好かつた。門番の聞き取つた所を、当番のものが中泉(なかいづみ)に届ける。中泉が堀に申し上げる。間もなく堀の指図で、中泉が二人を長屋に呼び入れて、一応取り調べた上訴状(そじやう)を受け取つた。
 堀は前役(ぜんやく)矢部駿河守定謙(やべするがのかみさだかた)の後(のち)を襲(つ)いで、去年十一月に西町奉行になつて、やう/\今月二日に到着した。東西の町奉行は月番交代(つきばんかうたい)をして職務を行(おこな)つてゐて、今月は堀が非番(ひばん)である。東町奉行跡部山城守良弼(あとべやましろのかみよしすけ)も去年四月に現職に任ぜられて、七月に到着したのだから、まだ大阪には半年しかをらぬが、兎(と)に角(かく)一日(じつ)の長(ちやう)があるので、堀は引(ひ)き廻(まは)して貰(もら)ふと云ふ風になつてゐる。町奉行になつて大阪に来たものは、初入式(しよにふしき)と云つて、前からゐる町奉行と一しよに三度に分けて市中を巡見する。初度(しよど)が北組(きたぐみ)、二度目が南組、三度目が天満組(てんまぐみ)である。北組、南組とは大手前(おほてまへ)は本町通(ほんまちどほり)北側、船場(せんば)は安土町通(あづちまちどほり)、西横堀(にしよこぼり)以西は神田町通(かんだまちどほり)を界(さかひ)にして、市中を二分してあるのである。天満組(てんまぐみ)とは北組の北界(きたざかひ)になつてゐる大川(おほかは)より更に北方に当る地域で、東は材木蔵(ざいもくぐら)から西は堂島(だうじま)の米市場(こめいちば)までの間、天満(てんま)の青物市場(あをものいちば)、天満宮(てんまんぐう)、総会所(そうくわいしよ)等を含んでゐる。北組が二百五十町、南組が二百六十一町、天満組が百九町ある。予定通にすると、けふは天満組を巡見して、最後に東照宮(とうせうぐう)附近の与力町(よりきまち)に出て、夕(ゆふ)七つ時(どき)には天満橋筋長柄町(ながらまち)を東に入(い)る北側の、迎方(むかへかた)東組与力朝岡助之丞(あさをかすけのじよう)が屋敷で休息するのであつた。迎方(むかへかた)とは新任の奉行を迎へに江戸に往つて、町与力(まちよりき)同心(どうしん)の総代として祝詞(しゆくし)を述べ、引き続いて其奉行の在勤中、手許(てもと)の用を達(た)す与力一人(にん)同心二人(にん)で、朝岡は其与力である。然(しか)るにきのふの御用日の朝、月番跡部(あとべ)の東町奉行所へ立会(たちあひ)に往くと、其前日十七日の夜東組同心平山助次郎(ひらやますけじらう)と云ふものの密訴(みつそ)の事を聞せられた。一大事と云ふ詞(ことば)が堀の耳を打つたのは此時(このとき)が始(はじめ)であつた。それからはどんな事が起つて来るかと、前晩(ぜんばん)も殆(ほとんど)寝ずに心配してゐる。今中泉(なかいづみ)が一大事の訴状を持つて二人の少年が来たと云ふのを聞くと、堀はすぐにあの事だなと思つた。堀のためには、中泉が英太郎の手から受け取つて出した書付(かきつけ)の内容は、未知(みち)の事の発明ではなくて、既知(きち)の事の証験(しようけん)として期待せられてゐるのである。
 堀は訴状を披見(ひけん)した。胸を跳(をど)らせながら最初から読んで行くと、果(はた)してきのふ跡部(あとべ)に聞いた、あの事である。陰謀(いんぼう)の首領(しゆりやう)、その与党(よたう)などの事は、前に聞いた所と格別の相違は無い。長文の訴状の末三分の二程は筆者九郎右衛門の身囲(みがこひ)である。堀が今少しく精(くは)しく知りたいと思ふやうな事は書いてなくて、読んでも読んでも、陰謀に対する九郎右衛門の立場、疑懼(ぎく)、愁訴(しうそ)である。きのふから気に掛かつてゐる所謂(いはゆる)一大事がこれからどう発展して行くだらうか、それが堀自身にどう影響するだらうかと、とつおいつ考へながら読むので、動(やゝ)もすれば二行も三行も読んでから、書いてある意味が少しも分かつてをらぬのに気が附く。はつと思つては又読み返す。やう/\読んでしまつて、堀の心の内には、きのふから知つてゐる事の外に、これ丈(だけ)の事が残つた。陰謀の与党の中で、筆者と東組与力渡辺良左衛門(わたなべりやうざゑもん)、同組同心河合郷左衛門(かはひがうざゑもん)との三人は首領を諫(いさ)めて陰謀を止(や)めさせようとした。併(しか)し首領が聴かぬ。そこで河合は逐電(ちくてん)した。筆者は正月三日後(ご)に風を引いて持病が起つて寝てゐるので、渡辺を以(もつ)て首領にことわらせた。此体(このてい)では事を挙げられる日になつても所詮(しよせん)働く事は出来ぬから、切腹して詫(わ)びようと云つたのである。渡辺は首領の返事を伝へた。そんならゆる/\保養しろ。場合によつては立(た)ち退(の)けと云ふことである。これを伝へると同時に、渡辺は自分が是非なく首領と進退を共にすると決心したことを話した。次いで首領は倅(せがれ)と渡辺とを見舞によこした。筆者は病中やう/\の事で訴状を書いた。それを支配を受けてゐる東町奉行に出さうには、取次(とりつぎ)を頼むべき人が無い。そこで隔所(かくしよ)を見計(みはか)らつて托訴(たくそ)をする。筆者は自分と倅英太郎以下の血族との赦免(しやめん)を願ひたい。尤(もつと)も自分は与党(よたう)を召(め)し捕(と)られる時には、矢張(やはり)召し捕つて貰(もら)ひたい。或は其間(そのあひだ)に自殺するかも知れない。留置(とめおき)、預(あづ)けなどゝ云ふことにせられては、病体で凌(しの)ぎ兼(か)ねるから、それは罷(やめ)にして貰ひたい。倅英太郎は首領の立てゝゐる塾で、人質(ひとじち)のやうになつてゐて帰つて来ない。兎(と)に角(かく)自分と一族とを赦免(しやめん)して貰ひたい。それから西組与力見習(よりきみならひ)に内山彦次郎(うちやまひこじらう)と云ふものがある。これは首領に嫉(にく)まれてゐるから、保護を加へて貰ひたいと云ふのである。
 読んでしまつて、堀は前から懐(いだ)いてゐた憂慮は別として、此訴状の筆者に対する一種の侮蔑(ぶべつ)の念を起さずにはゐられなかつた。形式に絡(から)まれた役人生涯に慣れてはゐても、成立してゐる秩序を維持するために、賞讃すべきものにしてある返忠(かへりちゆう)を、真(まこと)の忠誠だと看(み)ることは、生(うま)れ附いた人間の感情が許さない。その上自分の心中の私(わたくし)を去ることを難(かた)んずる人程却(かへ)つて他人の意中の私(わたくし)を訐(あば)くに敏(びん)なるものである。九郎右衛門は一しよに召(め)し捕(と)られたいと云ふ。それは責(せめ)を引く潔(いさぎよ)い心ではなくて、与党を怖(おそ)れ、世間を憚(はゞか)る臆病である。又自殺するかも知れぬと云ふ。それは覚束(おぼつか)ない。自殺することが出来るなら、なぜ先(ま)づ自殺して後に訴状を貽(のこ)さうとはしない。又牢に入れてくれるなと云ふ。大阪の牢屋から生きて還(かへ)るものゝ少いのは公然の秘密だから、病体でなくても、入(い)らずに済(す)めば入(い)るまいとする筈である。横着者(わうちやくもの)だなとは思つたが、役馴(やくな)れた堀は、公儀(こうぎ)のお役に立つ返忠(かへりちゆう)のものを周章(しうしやう)の間にも非難しようとはしない。家老に言ひ付けて、少年二人を目通(めどほ)りへ出させた。
「吉見英太郎と云ふのはお前か。」
「はい。」怜悧(れいり)らしい目を見張つて、存外怯(おく)れた様子もなく堀を仰(あふ)ぎ視(み)た。
「父九郎右衛門は病気で寝てをるのぢやな。」
「風邪(ふうじや)の跡(あと)で持病の疝痛(せんつう)痔疾(ぢしつ)が起りまして、行歩(ぎやうほ)が□(かな)ひませぬ。」
「書付(かきつけ)にはお前は内へ帰られぬと書いてあるが、どうして帰られた。」
「父は帰られぬかも知れぬが、大変になる迄(まで)に脱(ぬ)けて出られるなら、出て来いと申し付けてをりました。さう申したのは十三日に見舞に参つた時の事でございます。それから一しよに塾にゐる河合八十次郎(やそじらう)と相談いたしまして、昨晩四(よ)つ時(どき)に抜けて帰りました。先生の所にはお客が大勢(おほぜい)ありまして、混雑いたしてゐましたので、出られたのでございます。それから。」英太郎は何か言ひさして口を噤(つぐ)んだ。
 堀は暫(しばら)く待つてゐたが、英太郎は黙つてゐる。「それからどういたした」と、堀が問うた。
「それから父が申しました。東の奉行所には瀬田と小泉とが当番で出てをりますから、それを申し上げいと申しました。」
「さうか。」東組与力瀬田済之助(せいのすけ)、同小泉淵次郎(えんじらう)の二人が連判(れんぱん)に加はつてゐると云ふことは、平山の口上(こうじやう)にもあつたのである。
 堀は八十次郎の方に向いた。「お前が河合八十次郎か。」
「はい。」頬(ほゝ)の円(まる)い英太郎と違つて、これは面長(おもなが)な少年であるが、同じやうに小気(こき)が利(き)いてゐて、臆(おく)する気色(けしき)は無い。
「お前の父はどういたしたのぢや。」
「母が申しました。先月の二十六日の晩であつたさうでございます。父は先生の所から帰つて、火箸(ひばし)で打擲(ちやうちやく)せられて残念だと申したさうでございます。あくる朝父は弟の謹之助(きんのすけ)を連れて、天満宮(てんまんぐう)へ参ると云つて出ましたが、それ切(きり)どちらへ参つたか、帰りません。」
「さうか。もう宜(よろ)しい。」かう云つて堀は中泉を顧みた。
「いかが取り計らひませう」と、中泉が主人の気色(けしき)を伺つた。
「番人を附けて留(と)め置け。」かう云つて置いて、堀は座を立つた。
 堀は居間に帰つて不安らしい様子をしてゐたが、忙(いそが)しげに手紙を書き出した。これは東町奉行に宛てて、当方にも訴人(そにん)があつた、当番の瀬田、小泉に油断せられるな、追附(おつつけ)参上すると書いたのである。堀はそれを持たせて使(つかひ)を出した跡(あと)で、暫く腕組(うでぐみ)をして強(し)ひて気を落ち着けようとしてゐた。
 堀はきのふ跡部(あとべ)に陰謀者の方略(はうりやく)を聞いた。けふの巡見を取り止めたのはそのためである。然(しか)るに只(たゞ)三月と書いて日附をせぬ吉見の訴状には、その方略は書いてない。吉見が未明に倅(せがれ)を托訴(たくそ)に出したのを見ると方略を知らぬのではない。書き入れる暇(ひま)がなかつたのだらう。東町奉行所へ訴へた平山は、今月十五日に渡辺良左衛門が来て、十九日の手筈(てはず)を話し、翌十六日に同志一同が集まつた席で、首領が方略を打ち明けたと云つたさうである。それは跡部と自分とが与力朝岡の役宅(やくたく)に休息してゐる所へ襲(おそ)つて来(こ)ようと云ふのである。一体吉見の訴状にはなんと云つてあつたか、それに添へてある檄文(げきぶん)にはどう書いてあるか、好く見て置かうと堀は考へて、書類を袖(そで)の中から出した。
 堀は不安らしい目附(めつき)をして、二つの文書(ぶんしよ)をあちこち見競(みくら)べた。陰謀に対してどう云ふ手段を取らうと云ふ成案がないので、すぐに跡部(あとべ)の所へ往かずに書面を遣(や)つたが、安座して考へても、思案が纏(まと)まらない。併(しか)し何かせずにはゐられぬので、文書を調べ始めたのである。
 訴状には「御城(おんしろ)、御役所(おんやくしよ)、其外(そのほか)組屋敷等(くみやしきとう)火攻(ひぜめ)の謀(はかりごと)」と書いてある。檄文(げきぶん)には無道(むだう)の役人を誅(ちゆう)し、次に金持の町人共を懲(こら)すと云つてある。兎(と)に角(かく)恐ろしい陰謀である。昨晩跡部からの書状には、慥(たしか)な与力共の言分(いひぶん)によれば、さ程の事でないかも知れぬから、兼(かね)て打ち合せたやうに捕方(とりかた)を出すことは見合(みあは)せてくれと云つてあつた。それで少し安心して、こつちから吉田を出すことも控へて置いた。併し数人(すにん)の申分(まをしぶん)がかう符合して見れば、容易な事ではあるまい。跡部はどうする積(つもり)だらうか。手紙を遣(や)つたのだから、なんとか云つて来さうなものだ。こんな事を考へて、堀は時の移るのをも知らずにゐた。

   二、東町奉行所

 東町奉行所で、奉行跡部山城守良弼(あとべやましろのかみよしすけ)が堀の手紙を受け取つたのは、明(あけ)六つ時(どき)頃であつた。
 大阪の東町奉行所は城の京橋口(きやうばしぐち)の外、京橋通(どほり)と谷町(たにまち)との角屋敷(かどやしき)で、天満橋(てんまばし)の南詰(みなみづめ)東側にあつた。東は城、西は谷町の通である。南の島町通(しままちどほり)には街を隔てて籾蔵(もみぐら)がある。北は京橋通の河岸(かし)で、書院の庭から見れば、対岸天満組の人家が一目に見える。只(たゞ)庭の外囲(ぐわいゐ)に梅の立木(たちき)があつて、少し展望を遮(さへぎ)るだけである。
 跡部もきのふから堀と同じやうな心配をしてゐる。きのふの御用日にわざと落ち着いて、平常の事務を片附けて、それから平山の密訴(みつそ)した陰謀に対する処置を、堀と相談して別れた後、堀が吉田を呼んだやうに、跡部(あとべ)は東組与力の中で、あれかこれかと慥(たしか)なものを選(よ)り抜いて、とう/\荻野勘左衛門(をぎのかんざゑもん)、同人(どうにん)倅(せがれ)四郎助(しろすけ)、磯矢頼母(いそやたのも)の三人を呼び出した。頼母(たのも)と四郎助とは陰謀の首領を師と仰いでゐるものではあるが、半年以上使つてゐるうちに、その師弟の関係は読書の上ばかりで、師の家とは疎遠にしてゐるのが分かつた。「あの先生は学問はえらいが、肝積持(かんしやくもち)で困ります」などと、四郎助が云つたこともある。「そんな男か」と跡部が聞くと、「矢部様の前でお話をしてゐるうちに激(げき)して来て、六寸もある金頭(かながしら)を頭からめり/\と咬(か)ん食べたさうでございます」と云つた。それに此三人は半年の間跡部の言ひ付けた用事を、人一倍念入(ねんいり)にしてゐる。そこを見込んで跡部が呼び出したのである。
 さて捕方(とりかた)の事を言ひ付けると、三人共思ひも掛けぬ様子で、良(やゝ)久しく顔を見合せて考へた上で云つた。平山が訴(うつたへ)はいかにも実事(じつじ)とは信ぜられない。例の肝積持(かんしやくもち)の放言を真(ま)に受けたのではあるまいか。お受(うけ)はいたすが、余所(よそ)ながら様子を見て、いよ/\実正(じつしやう)と知れてから手を着けたいと、折り入つて申し出た。後に跡部の手紙で此事を聞いた堀よりは、三人の態度を目(ま)のあたり見た跡部は、一層切実に忌々(いま/\)しい陰謀事件が□(うそ)かも知れぬと云ふ想像に伴ふ、一種の安心を感じた。そこで逮捕を見合せた。
 跡部は荻野(をぎの)等の話を聞いてから考へて見て、平山に今一度一大事を聞いた前後の事を精(くは)しく聞いて置けば好かつたと後悔した。をとつひの夜平山が来て、用人(ようにん)野々村次平に取り次いで貰(もら)つて、所謂(いはゆる)一大事の訴(うつたへ)をした時、跡部は急に思案して、突飛(とつぴ)な手段を取つた。尋常なら平山を留(と)め置(お)いて、陰謀を鎮圧する手段を取るべきであるのに、跡部はその決心が出来なかつた。若し平山を留め置いたら、陰謀者が露顕を悟つて、急に事を挙げはすまいかと懼(おそ)れ、さりとて平山を手放して此土地に置くのも心許(こゝろもと)ないと思つたのである。そこで江戸で勘定奉行になつてゐる前任西町奉行矢部駿河守(するがのかみ)定謙に当てた私信を書いて、平山にそれを持たせて、急に江戸へ立たせたのである。平山はきのふ暁(あけ)七つ時(どき)に、小者(こもの)多助(たすけ)、雇人(やとひにん)弥助(やすけ)を連れて大阪を立つた。そして後(のち)十二日目の二月二十九日に、江戸の矢部が邸(やしき)に着いた。
 意志の確かでない跡部は、荻野等三人の詞(ことば)をたやすく聴(き)き納(い)れて、逮捕の事を見合(みあは)せたが、既にそれを見合せて置いて見ると、その見合せが自分の責任に帰すると云ふ所から、疑懼(ぎく)が生じて来た。延期は自分が極(き)めて堀に言つて遣(や)つた。若(も)し手遅れと云ふ問題が起ると、堀は免(まぬか)れて自分は免れぬのである。跡部が丁度この新(あらた)に生じた疑懼(ぎく)に悩まされてゐる所へ、堀の使(つかひ)が手紙を持つて来た。同じ陰謀に就いて西奉行所へも訴人(そにん)が出た、今日当番の瀬田、小泉に油断をするなと云ふ手紙である。
 跡部は此手紙を読んで突然決心して、当番の瀬田、小泉に手を着けることにした。此決心には少し不思議な処がある。堀の手紙には何一つ前に平山が訴へたより以上の事実を書いては無い。瀬田、小泉が陰謀の与党だと云ふことは、既に平山が云つたので、荻野等三人に内命を下すにも、跡部は綿密な警戒をした。さうして見れば、堀の手紙によつて得た所は、今まで平山一人の訴(うつたへ)で聞いてゐた事が、更に吉見と云ふものの訴で繰り返されたと云ふに過ぎない。これには決心を促(うなが)す動機としての価値は殆(ほとんど)無い。然(しか)るにその決心が跡部には出来て、前には腫物(はれもの)に障(さは)るやうにして平山を江戸へ立たせて置きながら、今は目前の瀬田、小泉に手を着けようとする。これは一昨日の夜平山の密訴(みつそ)を聞いた時にすべき決心を、今偶然の機縁に触れてしたやうなものである。
 跡部は荻野等を呼んで、二人(にん)を捕(とら)へることを命じた。その手筈(てはず)はかうである。奉行所に詰めるものは、先(ま)づ刀を脱(だつ)して詰所(つめしよ)の刀架(かたなかけ)に懸(か)ける。そこで脇差(わきざし)ばかり挿(さ)してゐて、奉行に呼ばれると、脇差をも畳廊下(たゝみらうか)に抜いて置いて、無腰(むこし)で御用談(ごようだん)の間(ま)に出る。この御用談の間に呼んで捕へようと云ふのが手筈である。併(しか)し万一の事があつたら切り棄てる外(ほか)ないと云ふので、奉行所に居合(ゐあは)せた剣術の師一条一(いちでうはじめ)が切棄(きりすて)の役を引き受けた。
 さて跡部は瀬田、小泉の二人を呼ばせた。それを聞いた時、瀬田は「暫時(ざんじ)御猶予(ごいうよ)を」と云つて便所に起(た)つた。小泉は一人いつもの畳廊下(たゝみらうか)まで来て、脇差を抜いて下に置かうとした。此畳廊下の横手に奉行の近習(きんじゆ)部屋がある。小泉が脇差を下に置くや否(いな)や、その近習部屋から一人の男が飛び出して、脇差に手を掛けた。「はつ」と思つた小泉は、一旦手を放した脇差を又掴(つか)んだ。引き合ふはずみに鞘走(さやはし)つて、とう/\、小泉が手に白刃(しらは)が残つた。様子を見てゐた跡部が、「それ、切り棄てい」と云ふと、弓の間(ま)まで踏み出した小泉の背後(うしろ)から、一条が百会(ひやくゑ)の下へ二寸程切り附けた。次に右の肩尖(かたさき)を四寸程切り込んだ。小泉がよろめく所を、右の脇腹(わきはら)へ突(つき)を一本食はせた。東組与力小泉淵次郎(えんじらう)は十八歳を一期(いちご)として、陰謀第一の犠牲として命(いのち)を隕(おと)した。花のやうな許嫁(いひなづけ)の妻があつたさうである。
 便所にゐた瀬田は素足(すあし)で庭へ飛び出して、一本の梅の木を足場にして、奉行所の北側の塀(へい)を乗り越した。そして天満橋(てんまばし)を北へ渡つて、陰謀の首領大塩平八郎(おほしほへいはちらう)の家へ奔(はし)つた。

   三、四軒屋敷

 天満橋筋(てんまばしすぢ)長柄町(ながらまち)を東に入(い)つて、角(かど)から二軒目の南側で、所謂(いはゆる)四軒屋敷の中に、東組与力大塩格之助(おほしほかくのすけ)の役宅(やくたく)がある。主人は今年二十七歳で、同じ組与力西田青太夫(あをたいふ)の弟に生れたのを、養父平八郎が貰(もら)つて置いて、七年前にお暇(いとま)になる時、番代(ばんだい)に立たせたのである。併(しか)し此家では当主は一向当主らしくなく、今年四十五歳になる隠居平八郎が万事の指図をしてゐる。
 玄関を上がつて右が旧塾(きうじゆく)と云つて、ここには平八郎が隠居する数年前から、その学風を慕(した)つて寄宿したものがある。左は講堂で、読礼堂(どくれいだう)と云ふ□額(へんがく)が懸けてある。その東隣が後に他家(たけ)を買ひ潰(つぶ)して広げた新塾(しんじゆく)である。講堂の背後(うしろ)が平八郎の書斎で、中斎(ちゆうさい)と名づけてある。それから奥、東照宮(とうせうぐう)の境内(けいだい)の方へ向いた部屋々々(へや/″\)が家内(かない)のものの居所(ゐどころ)で、食事の時などに集まる広間には、鏡中看花館(きやうちゆうかんくわくわん)と云ふ□額(へんがく)が懸(か)かつてゐる。これだけの建物の内に起臥(きぐわ)してゐるものは、家族でも学生でも、悉(ことごと)く平八郎が独裁の杖(つゑ)の下(もと)に項(うなじ)を屈してゐる。当主格之助などは、旧塾に九人、新塾に十余人ゐる平(ひら)の学生に比べて、殆(ほとんど)何等(なにら)の特権をも有してをらぬのである。
 東町奉行所で白刃(はくじん)の下(した)を脱(のが)れて、瀬田済之助(せいのすけ)が此屋敷に駆け込んで来た時の屋敷は、決して此出来事を青天(せいてん)の霹靂(へきれき)として聞くやうな、平穏無事の光景(ありさま)ではなかつた。家内中(かないぢゆう)の女子供(をんなこども)はもう十日前に悉(ことごと)く立(た)ち退(の)かせてある。平八郎が二十六歳で番代(ばんだい)に出た年に雇つた妾(めかけ)、曾根崎新地(そねざきしんち)の茶屋大黒屋和市(わいち)の娘ひろ、後の名ゆうが四十歳、七年前に格之助が十九歳で番代に出た時に雇つた妾、般若寺村(はんにやじむら)の庄屋橋本忠兵衛の娘みねが十七歳、平八郎が叔父宮脇志摩(しま)の二女を五年前に養女にしたいくが九歳、大塩家にゐた女は此三人で、それに去年の暮にみねの生んだ弓太郎(ゆみたらう)を附け、女中りつを連れさせて、ゆうがためには義兄、みねがためには実父に当る般若寺村の橋本方へ立(た)ち退(の)かせたのである。
 女子供がをらぬばかりでは無い。屋敷は近頃急に殺風景になつてゐる。それは兼(かね)て門人の籍にゐる兵庫西出町(にしでまち)の柴屋長太夫(しばやちやうだいふ)、其外(そのほか)縁故のある商人に買つて納めさせ、又学生が失錯(しつさく)をする度(たび)に、科料の代(かはり)に父兄に買つて納めさせた書籍が、玄関から講堂、書斎へ掛けて、二三段に積んだ本箱の中にあつたのに、今月に入(い)つてからそれを悉(ことごと)く運び出させ、土蔵にあつた一切経(いつさいきやう)などをさへそれに加へて、書店河内屋喜兵衛(かはちやきへゑ)、同新次郎(しんじらう)、同記一兵衛(きいちべゑ)、同茂兵衛(もへゑ)の四人の手で銀に換へさせ、飢饉続きのために難儀(なんぎ)する人民に施(ほどこ)すのだと云つて、安堂寺町(あんだうじまち)五丁目の本屋会所(ほんやくわいしよ)で、親類や門下生に縁故のある凡(およそ)三十三町村のもの一万軒に、一軒(けん)一朱(しゆ)の割(わり)を以(もつ)て配つた。質素な家の唯一の装飾になつてゐた書籍が無くなつたので、家(うち)はがらんとしてしまつた。
 今一つ此家の外貌が傷(きずつ)けられてゐるのは、職人を入れて兵器弾薬を製造させてゐるからである。町与力(まちよりき)は武芸を以て奉公してゐる上に、隠居平八郎は玉造組(たまつくりぐみ)与力柴田勘兵衛(しばたかんべゑ)の門人で、佐分利流(さぶりりう)の槍(やり)を使ふ。当主格之助は同組同心故人藤重孫三郎(ふぢしげまごさぶらう)の門人で、中島流の大筒(おほづゝ)を打つ。中にも砲術家は大筒をも貯(たくは)へ火薬をも製する習(ならひ)ではあるが、此家では夫(それ)が格別に盛(さかん)になつてゐる。去年九月の事であつた。平八郎は格之助の師藤重(ふぢしげ)の倅(せがれ)良左衛門(りやうざゑもん)、孫槌太郎(つちたらう)の両人を呼んで、今年の春堺(さかひ)七堂(だう)が浜(はま)で格之助に丁打(ちやううち)をさせる相談をした。それから平八郎、格之助の部屋の附近に戸締(とじまり)をして、塾生を使つて火薬を製させる。棒火矢(ぼうひや)、炮碌玉(はうろくだま)を作らせる。職人を入れると、口実を設けて再び外へ出さない。火矢(ひや)の材木を挽(ひ)き切つた天満北木幡町(てんまきたこばたまち)の大工作兵衛(さくべゑ)などがそれである。かう云ふ製造は昨晩まで続けられてゐた。大筒(おほづゝ)は人から買ひ取つた百目筒(ひやくめづゝ)が一挺(ちやう)、人から借り入れて返さずにある百目筒が二挺、門人守口村(もりぐちむら)の百姓兼質商白井孝右衛門(しらゐかうゑもん)が土蔵の側(そば)の松の木を伐(き)つて作つた木筒(きづゝ)が二挺ある。砲車(はうしや)は石を運ぶ台だと云つて作らせた。要するに此半年ばかりの間に、絃誦洋々(げんしようやう/\)の地が次第に喧噪(けんさう)と雑□ (ざつたふ)とを常とする工場(こうぢやう)になつてゐたのである。
 家がそんな摸様(もやう)になつてゐて、そこへ重立(おもだ)つた門人共の寄り合つて、夜(よ)の更(ふ)けるまで還らぬことが、此頃次第に度重(たびかさ)なつて来てゐる。昨夜は隠居と当主との妾(めかけ)の家元、摂津(せつつ)般若寺村(はんにやじむら)の庄屋橋本忠兵衛、物持(ものもち)で大塩家の生計を助けてゐる摂津守口村(もりぐちむら)の百姓兼質屋白井孝右衛門、東組与力渡辺良左衛門、同組同心庄司義左衛門(しやうじぎざゑもん)、同組同心の倅近藤梶五郎(かぢごらう)、般若寺村の百姓柏岡(かしはをか)源右衛門、同倅伝七(でんしち)、河内(かはち)門真(もんしん)三番村の百姓茨田郡次(いばらたぐんじ)の八人が酒を飲みながら話をしてゐて、折々(をり/\)いつもの人を圧伏(あつぷく)するやうな調子の、隠居の声が漏れた。平生最も隠居に親(したし)んでゐる此八人の門人は、とう/\屋敷に泊まつてしまつた。此頃は客があつてもなくても、勝手の為事(しごと)は、兼て塾の賄方(まかなひかた)をしてゐる杉山三平(すぎやまさんぺい)が、人夫を使つて取り賄(まかな)つてゐる。杉山は河内国(かはちのくに)衣摺村(きぬすりむら)の庄屋で、何か仔細(しさい)があつて所払(ところばらひ)になつたものださうである。手近な用を達(た)すのは、格之助の若党大和国(やまとのくに)曾我村生(そがむらうまれ)の曾我岩蔵(いはざう)、中間(ちゆうげん)木八(きはち)、吉助(きちすけ)である。女はうたと云ふ女中が一人、傍輩(はうばい)のりつがお部屋に附いて立(た)ち退(の)いた跡(あと)で、頻(しきり)に暇(いとま)を貰(もら)ひたがるのを、宥(なだ)め賺(すか)して引(ひ)き留(と)めてあるばかりで、格別物の用には立つてゐない。そこでけさ奥にゐるものは、隠居平八郎、当主格之助、賄方(まかなひかた)杉山、若党曾我、中間木八、吉助、女中うたの七人、昨夜の泊客八人、合計十五人で、其外には屋敷内の旧塾、新塾の学生、職人、人夫抔(など)がゐたのである。
 瀬田済之助(せいのすけ)はかう云ふ中へ駆け込んで来た。

   四、宇津木と岡田と

 新塾にゐる学生のうちに、三年前に来て寄宿し、翌年一旦立ち去つて、去年再び来た宇津木矩之允(うつぎのりのすけ)と云ふものがある。平八郎の著(あらは)した大学刮目(だいがくくわつもく)の訓点(くんてん)を施(ほどこ)した一人(にん)で、大塩の門人中学力の優(すぐ)れた方である。此宇津木が一昨年九州に遊歴して、連れて来た孫弟子がある。これは長崎西築町(にしつきまち)の医師岡田道玄(だうげん)の子で、名を良之進(りやうのしん)と云ふ。宇津木に連れられて親元を離れた時が十四歳だから、今年十六歳になつてゐる。

 この岡田と云ふ少年が、けさ六つ半に目を醒(さ)ました。職人が多く入(い)り込(こ)むやうになつてから、随分騒がしい家ではあるが、けさは又格別である。がた/\、めり/\、みし/\と、物を打ち毀(こは)す音がする。しかと聴き定めようとして、床(とこ)の上にすわつてゐるうちに、今毀してゐる物が障子(しやうじ)襖(ふすま)だと云ふことが分かつた。それに雑(まじ)つて人声がする。「役に立たぬものは討(う)ち棄てい」と云ふ詞(ことば)がはつきり聞えた。岡田は怜悧(れいり)な、思慮のある少年であつたが、余り思ひ掛けぬ事なので、一旦夢ではないかと思つた。それから宇津木先生はどうしてゐるかと思つて、頸(くび)を延(の)ばして見ると、先生はいつもの通(とほり)に着布団(きぶとん)の襟(えり)を頤(あご)の下に挿(はさ)むやうにして寝てゐる。物音は次第に劇(はげ)しくなる。岡田は心のはつきりすると共に、尋常でない此屋敷の現状が意識に上つて来た。
 岡田は跳(は)ね起(お)きた。宇津木の枕元(まくらもと)にゐざり寄つて、「先生」と声を掛けた。
 宇津木は黙つて目を大きく開いた。眠つてはゐなかつたのである。
「先生。えらい騒ぎでございますが。」
「うん。知つてをる。己(おれ)は余り人を信じ過ぎて、君をまで危地(きち)に置いた。こらへてくれ給(たま)へ。去年の秋からの丁打(ちやううち)の支度(したく)が、仰山(ぎやうさん)だとは己(おれ)も思つた。それに門人中の老輩(らうはい)数人と、塾生の一半とが、次第に我々と疎遠になつて、何か我々の知らぬ事を知つてをるらしい素振(そぶり)をする。それを怪(あや)しいとは己(おれ)も思つた。併(しか)し己はゆうべまで事の真相を看破することが出来なかつた。所(ところ)が君、ゆうべ塾生一同に申し渡すことがあると云つて呼んだ、あの時の事だね。己は代りに聞いて来て遣(や)ると云つて、君を残して置いて出席した。それから帰つて、格別な事でもないから、あした話すと云つて寝たのだがね、実はあの時例の老輩共と酒宴をしてゐた先生が、独(ひと)り席を起(た)つて我々の集まつてゐる所へ出て来て、かう云つたのだ。一大事であるが、お前方(まへがた)はどう身を処置するか承知したいと云つたのだ。己(おれ)は一大事とは何事か問うて見た。先生はざつとこんな事を説かれた。我々は平生良知(りやうち)の学を攻(をさ)めてゐる。あれは根本の教(をしへ)だ。然(しか)るに今の天下の形勢は枝葉(しえふ)を病(や)んでゐる。民の疲弊(ひへい)は窮(きは)まつてゐる。草妨礙(くさばうがい)あらば、理(り)亦(また)宜(よろ)しく去(さ)るべしである。天下のために残賊(ざんぞく)を除かんではならぬと云ふのだ。そこで其残賊だがな。」
「はあ」と云つて、岡田は目を□(みは)つた。
「先づ町奉行衆(まちぶぎやうしゆう)位(くらゐ)の所らしい。それがなんになる。我々は実に先生を見損(みそこな)つてをつたのだ。先生の眼中には将軍家もなければ、朝廷もない。先生はそこまでは考へてをられぬらしい。」
「そんなら今事(こと)を挙(あ)げるのですね。」
「さうだ。家には火を掛け、与(くみ)せぬものは切棄(きりす)てゝ起(た)つと云ふのだらう。併(しか)しあの物音のするのは奥から書斎の辺だ。まだ旧塾もある。講堂もある。こゝまで来るには少し暇(ひま)がある。まあ、聞き給(たま)へ。例の先生の流義だから、ゆうべも誰一人抗争するものはなかつた。己(おれ)は明朝御返事をすると云つて一時を糊塗(こと)した。若(も)し諫(いさ)める機会があつたら、諫めて陰謀を思ひ止(と)まらせよう。それが出来なかつたら、師となり弟子(ていし)となつたのが命(めい)だ、甘(あま)んじて死なうと決心した。そこで君だがね。」
 岡田は又「はあ」と云つて耳を欹(そばだ)てた。
「君は中斎先生の弟子ではない。己(おれ)は君に此場を立ち退(の)いて貰(もら)ひたい。挙兵の時期が最も好(い)い。若(も)しどうすると問ふものがあつたら、お供(とも)をすると云ひ給(たま)へ。さう云つて置いて逃げるのだ。己(おれ)はゆうべ寝られぬから墓誌銘(ぼしめい)を自撰(じせん)した。それを今書いて君に遣(や)る。それから京都東本願寺家(ひがしほんぐわんじけ)の粟津陸奥之助(あはづむつのすけ)と云ふものに、己の心血を灑(そゝ)いだ詩文稿(しぶんかう)が借してある。君は京都へ往つてそれを受け取つて、彦根にゐる兄下総(しもふさ)の邸(やしき)へ往つて大林権之進(ごんのしん)と云ふものに逢つて、詩文稿に墓誌銘を添へてわたしてくれ給へ。」かう云ひながら宇津木(うつぎ)はゆつくり起きて、机に靠(もた)れたが、宿墨(しゆくぼく)に筆を浸(ひた)して、有り合せた美濃紙(みのがみ)二枚に、一字の書損(しよそん)もなく腹藁(ふくかう)の文章を書いた。書き畢(をは)つて一読して、「さあ、これだ」と云つて岡田にわたした。
 岡田は草稿を受け取りながら、「併(しか)し先生」と何やら言ひ出しさうにした。
 宇津木は「ちよいと」と云ひ掛けて、便所へ立つた。
 手に草稿を持つた儘(まゝ)、ぢつとして考へてゐる岡田の耳に、廊下一つを隔てた講堂の口あたりから人声が聞えた。
「先生の指図通(さしづどほり)、宇津木を遣(や)つてしまふのだ。君は出口で見張つてゐてくれ給へ。」聞き馴(な)れた門人大井(おほゐ)の声である。玉造組与力(たまつくりぐみよりき)の倅(せがれ)で、名は正一郎(しやういちらう)と云ふ。三十五歳になる。
「宜(よろ)しい。しつかり遣(や)り給(たま)へ。」これは安田図書(やすだづしよ)の声である。外宮(げぐう)の御師(おし)で、三十三歳になる。
 岡田はそつと立つて便所の戸口へ往つた。「殺しに来ます。」
「好(い)い。君早く逃げてくれ給へ。」
「併(しか)し。」
「早くせんと駄目だ。」
 廊下を忍び寄る大井の足音がする。岡田は草稿を懐(ふところ)に捩(ね)ぢ込んで、机の所へ小鼠(こねずみ)のやうに走り戻つて、鉄の文鎮(ぶんちん)を手に持つた。そして跣足(はだし)で庭に飛び下りて、植込(うゑごみ)の中を潜(くゞ)つて、塀(へい)にぴつたり身を寄せた。
 大井は抜刀(ばつたう)を手にして新塾に這入(はひ)つて来た。先づ寝所(しんじよ)の温(あたゝか)みを探(さぐ)つてあたりを見廻して、便所の口に来て、立ち留(と)まつた。暫(しばら)くして便所の戸に手を掛けて開けた。
 中から無腰(むこし)の宇津木が、恬然(てんぜん)たる態度で出て来た。
 大井は戸から手を放して一歩下がつた。そして刀を構(かま)へながら言分(いひわけ)らしく「先生のお指図(さしづ)だ」と云つた。
 宇津木は「うん」と云つた切(きり)、棒立(ぼうだち)に立つてゐる。
 大井は酔人(すゐじん)を虎が食(く)ひ兼(か)ねるやうに、良(やゝ)久しく立ち竦(すく)んでゐたが、やう/\思ひ切つて、「やつ」と声を掛けて真甲(まつかふ)を目掛(めが)けて切り下(おろ)した。宇津木が刀を受け取るやうに、俯向加減(うつむきかげん)になつたので、百会(ひやくゑ)の背後(うしろ)が縦(たて)に六寸程骨まで切れた。宇津木は其儘(そのまゝ)立つてゐる。大井は少し慌(あわ)てながら、二の太刀(たち)で宇津木の腹を刺した。刀は臍(ほぞ)の上から背へ抜けた。宇津木は縁側にぺたりとすわつた。大井は背後(うしろ)へ押し倒して喉(のど)を刺した。
 塀際(へいぎは)にゐた岡田は、宇津木の最期(さいご)を見届けるや否(いな)や、塀に沿うて東照宮(とうせうぐう)の境内(けいだい)へ抜ける非常口に駆け附けた。そして錠前(ぢやうまへ)を文鎮(ぶんちん)で開(あ)けて、こつそり大塩の屋敷を出た。岡田は二十日に京都に立ち寄つて二十一日には彦根へ着いた。

   五、門出

 瀬田済之助(せたせいのすけ)が東町奉行所の危急を逃(のが)れて、大塩の屋敷へ駆け込んだのは、明(あけ)六つを少し過ぎた時であつた。
 書斎の襖(ふすま)をあけて見ると、ゆうべ泊つた八人の与党(よたう)、その外(ほか)中船場町(なかせんばまち)の医師の倅(せがれ)で僅(わづか)に十四歳になる松本隣太夫(りんたいふ)、天満(てんま)五丁目の商人阿部長助(ちやうすけ)、摂津(せつつ)沢上江村(さはかみえむら)の百姓上田孝太郎(うえだかうたらう)、河内(かはち)門真三番村の百姓高橋九右衛門(たかはしくゑもん)、河内弓削村(ゆげむら)の百姓西村利三郎(にしむらりさぶらう)、河内尊延寺村(そんえんじむら)の百姓深尾才次郎(ふかをさいじらう)、播磨(はりま)西村の百姓堀井儀三郎(ほりゐぎさぶらう)、近江(あふみ)小川村の医師志村力之助(しむらりきのすけ)、大井、安田等に取り巻かれて、平八郎は茵(しとね)の上に端坐(たんざ)してゐた。
 身(み)の丈(たけ)五尺五六寸の、面長(おもなが)な、色の白い男で、四十五歳にしては老人らしい所が無い。濃い、細い眉(まゆ)は弔(つ)つてゐるが、張(はり)の強い、鋭い目は眉程には弔つてゐない。広い額(ひたひ)に青筋(あをすぢ)がある。髷(まげ)は短く詰(つ)めて結(ゆ)つてゐる。月題(さかやき)は薄い。一度喀血(かくけつ)したことがあつて、口の悪い男には青瓢箪(あをべうたん)と云はれたと云ふが、現(げ)にもと頷(うなづ)かれる。
「先生。御用心をなさい。手入れがあります。」駆け込んで、平八郎が前にすわりながら、瀬田は叫んだ。
「さうだらう。巡見(じゆんけん)が取止(とりやめ)になつたには、仔細(しさい)がなうてはならぬ。江戸へ立つた平山の所為(しよゐ)だ。」
「小泉は遣(や)られました。」
「さうか。」
 目を見合せた一座の中には、同情のささやきが起つた。
 平八郎は一座をずつと見わたした。「兼(かね)ての手筈(てはず)の通りに打ち立たう。棄て置き難(がた)いのは宇津木一人(にん)だが、その処置は大井と安田に任せる。」
 大井、安田の二人(にん)はすぐに起(た)たうとした。
「まあ待て。打ち立つてからの順序は、只(たゞ)第一段を除いて、すぐに第二段に掛かるまでぢや。」第一段とは朝岡の家を襲(おそ)ふことで、第二段とは北船場(きたせんば)へ進むことである。これは方略(はうりやく)に極(き)めてあつたのである。
「さあ」と瀬田が声を掛けて一座を顧(かへり)みると、皆席を起つた。中で人夫の募集を受け合つてゐた柏岡(かしはをか)伝七と、檄文(げきぶん)を配る役になつてゐた上田とは屋敷を出て往つた。間もなく家財や、はづした建具(たてぐ)を奥庭(おくには)へ運び出す音がし出した。
 平八郎は其儘(そのまゝ)端坐(たんざ)してゐる。そして熱した心の内を、此陰謀がいかに萌芽(はうが)し、いかに生長し、いかなる曲折を経(へ)て今に至つたと云ふことが夢のやうに往来する。平八郎はかう思ひ続けた。己(おれ)が自分の材幹(さいかん)と値遇(ちぐう)とによつて、吏胥(りしよ)として成(な)し遂(と)げられるだけの事を成し遂げた上で、身を引いた天保(てんぱう)元年は泰平であつた。民の休戚(きうせき)が米作(べいさく)の豊凶(ほうきよう)に繋(かゝ)つてゐる国では、豊年は泰平である。二年も豊作であつた。三年から気候が不順になつて、四年には東北の洪水のために、天明六七年以来の飢饉になつた。五年に稍(やゝ)常(つね)に復しさうに見えるかと思ふと、冬から六年の春に掛けて雨がない。六年には東北に螟虫(めいちゆう)が出来る。海嘯(つなみ)がある。とう/\去年は五月から雨続きで、冬のやうに寒く、秋は大風(たいふう)大水(たいすゐ)があり、東北を始(はじめ)として全国の不作になつた。己は隠居してから心を著述に専(もつぱら)にして、古本大学刮目(こほんだいがくくわつもく)、洗心洞剳記(せんしんどうさつき)、同附録抄(ふろくせう)、儒門空虚聚語(じゆもんくうきよしゆうご)、孝経彙註(かうきやうゐちゆう)の刻本が次第に完成し、剳記(さつき)を富士山の石室(せきしつ)に蔵(ざう)し、又足代権太夫弘訓(あじろごんたいふひろのり)の勧(すゝめ)によつて、宮崎、林崎の両文庫に納(をさ)めて、学者としての志(こゝろざし)をも遂げたのだが、連年の飢饉、賤民の困窮を、目を塞(ふさ)いで見ずにはをられなかつた。そしてそれに対する町奉行以下諸役人の処置に平(たひら)かなることが出来なかつた。賑恤(しんじゆつ)もする。造酒(ざうしゆ)に制限も加へる。併(しか)し民の疾苦(しつく)は増すばかりで減じはせぬ。殊(こと)に去年から与力内山を使つて東町奉行跡部(あとべ)の遣(や)つてゐる為事(しごと)が気に食はぬ。幕命(ばくめい)によつて江戸へ米を廻漕(くわいさう)するのは好い。併(しか)し些(すこ)しの米を京都に輸(おく)ることをも拒(こば)んで、細民(さいみん)が大阪へ小買(こがひ)に出ると、捕縛(ほばく)するのは何事だ。己(おれ)は王道の大体を学んで、功利の末技を知らぬ。上(かみ)の驕奢(けうしや)と下(しも)の疲弊(ひへい)とがこれまでになつたのを見ては、己にも策の施すべきものが無い。併し理を以て推(お)せば、これが人世(じんせい)必然の勢(いきほひ)だとして旁看(ばうかん)するか、町奉行以下諸役人や市中の富豪に進んで救済の法を講ぜさせるか、諸役人を誅(ちゆう)し富豪を脅(おびやか)して其私蓄(しちく)を散ずるかの三つより外(ほか)あるまい。己(おれ)は此不平に甘んじて旁看(ばうかん)してはをられぬ。己は諸役人や富豪が大阪のために謀(はか)つてくれようとも信ぜぬ。己はとう/\誅伐(ちゆうばつ)と脅迫(けふはく)とによつて事を済(な)さうと思ひ立つた。鹿台(ろくたい)の財を発するには、無道(むだう)の商(しやう)を滅(ほろぼ)さんではならぬと考へたのだ。己が意を此(こゝ)に決し、言(げん)を彼(かれ)に託(たく)し、格之助に丁打(ちやううち)をさせると称して、準備に取り掛つたのは、去年の秋であつた。それからは不平の事は日を逐(お)うて加はつても、準備の捗(はかど)つて行くのを顧みて、慰藉(ゐしや)を其中(そのうち)に求めてゐた。其間に半年立つた。さてけふになつて見れば、心に逡巡(しゆんじゆん)する怯(おくれ)もないが、又踊躍(ようやく)する競(きほひ)もない。準備をしてゐる久しい間には、折々(をり/\)成功の時の光景が幻(まぼろし)のやうに目に浮かんで、地上に血を流す役人、脚下に頭(かうべ)を叩(たゝ)く金持、それから草木(さうもく)の風に靡(なび)くやうに来(きた)り附(ふ)する諸民が見えた。それが近頃はもうそんな幻(まぼろし)も見えなくなつた。己はまだ三十代で役を勤めてゐた頃、高井(たかゐ)殿に信任せられて、耶蘇(やそ)教徒を逮捕したり、奸吏(かんり)を糺弾(きうだん)したり、破戒僧を羅致(らち)したりしてゐながら、老婆豊田貢(とよだみつぎ)の磔(はりつけ)になる所や、両組与力(りやうくみよりき)弓削新右衛門(ゆげしんゑもん)の切腹する所や、大勢(おほぜい)の坊主が珠数繋(じゆずつなぎ)にせられる所を幻(まぼろし)に見ることがあつたが、それは皆間もなく事実になつた。そして事実になるまで、己(おれ)の胸には一度も疑(うたがひ)が萌(きざ)さなかつた。今度はどうもあの時とは違ふ。それにあの時は己の意図が先(ま)づ恣(ほしいまゝ)に動いて、外界(げかい)の事柄がそれに附随して来た。今度の事になつてからは、己は準備をしてゐる間、何時(いつ)でも用に立てられる左券(さけん)を握つてゐるやうに思つて、それを慰藉(ゐしや)にした丈(だけ)で、動(やゝ)もすれば其準備を永く準備の儘(まゝ)で置きたいやうな気がした。けふまでに事柄の捗(はかど)つて来たのは、事柄其物が自然に捗(はかど)つて来たのだと云つても好い。己(おれ)が陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己を拉(らつ)して走つたのだと云つても好い。一体此(この)終局はどうなり行くだらう。平八郎はかう思ひ続けた。
 平八郎が書斎で沈思してゐる間に、事柄は実際自然に捗(はかど)つて行く。屋敷中に立ち別れた与党の人々は、受持々々(うけもち/\)の為事(しごと)をする。時々書斎の入口まで来て、今宇津木を討(う)ち果(はた)したとか、今奥庭(おくには)に積み上げた家財に火を掛けたとか、知らせるものがあるが、其度毎(そのたびごと)に平八郎は只(ただ)一目(ひとめ)そつちを見る丈(だけ)である。
 さていよ/\勢揃(せいぞろひ)をすることになつた。場所は兼(かね)て東照宮の境内(けいだい)を使ふことにしてある。そこへ出る時人々は始て非常口の錠前(ぢやうまへ)の開(あ)いてゐたのを知つた。行列の真(ま)つ先(さき)に押し立てたのは救民と書いた四半(はん)の旗(はた)である。次に中に天照皇大神宮(てんせうくわうだいじんぐう)、右に湯武両聖王(たうぶりやうせいわう)、左に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と書いた旗、五七の桐(きり)に二つ引(びき)の旗を立てゝ行く。次に木筒(きづゝ)が二挺(ちやう)行く。次は大井と庄司とで各(おの/\)小筒(こづゝ)を持つ。次に格之助が着込野袴(きごみのばかま)で、白木綿(しろもめん)の鉢巻(はちまき)を締(し)めて行く。下辻村(しもつじむら)の猟師(れふし)金助(きんすけ)がそれに引き添ふ。次に大筒(おほづゝ)が二挺と鑓(やり)を持つた雑人(ざふにん)とが行く。次に略(ほゞ)格之助と同じ支度の平八郎が、黒羅紗(くろらしや)の羽織、野袴(のばかま)で行く。茨田(いばらた)と杉山とが鑓(やり)を持つて左右に随ふ。若党(わかたう)曾我(そが)と中間(ちゆうげん)木八(きはち)、吉助(きちすけ)とが背後(うしろ)に附き添ふ。次に相図(あひづ)の太鼓が行く。平八郎の手には高橋、堀井、安田、松本等の与党がゐる。次は渡辺、志村、近藤、深尾、父柏岡等重立(おもだ)つた人々で、特(こと)に平八郎に親しい白井や橋本も此中にゐる。一同着込帯刀(きごみたいたう)で、多くは手鑓(てやり)を持つ。押(おさ)へは大筒(おほづゝ)一挺(ちやう)を挽(ひ)かせ、小筒持(こづゝもち)の雑人(ざふにん)二十人を随へた瀬田で、傍(そば)に若党植松周次(うゑまつしうじ)、中間浅佶(あさきち)が附いてゐる。
 此(この)総人数(そうにんず)凡(およそ)百余人が屋敷に火を掛け、表側(おもてがは)の塀(へい)を押し倒して繰り出したのが、朝五つ時(どき)である。先(ま)づ主人の出勤した跡(あと)の、向屋敷(むかうやしき)朝岡の門に大筒の第一発を打ち込んで、天満橋筋(てんまばしすぢ)の長柄町(ながらまち)に出て、南へ源八町(げんぱちまち)まで進んで、与力町(よりきまち)を西へ折れた。これは城と東町奉行所とに接してゐる天満橋を避けて、迂回(うくわい)して船場(せんば)に向はうとするのである。

   六、坂本鉉之助

 東町奉行所で小泉を殺し、瀬田を取り逃がした所へ、堀が部下の与力(よりき)同心(どうしん)を随へて来た。跡部(あとべ)は堀と相談して、明(あけ)六つ時(どき)にやう/\三箇条の手配(てくばり)をした。鈴木町(すゞきまち)の代官根本善左衛門(ねもとぜんざゑもん)に近郷(きんがう)の取締(とりしまり)を托したのが一つ。谷町(たにまち)の代官池田岩之丞(いはのじよう)に天満(てんま)の東照宮、建国寺(けんこくじ)方面の防備を托したのが二つ。平八郎の母の兄、東組与力大西与五郎(おほにしよごらう)が病気引(びやうきびき)をしてゐる所へ使(つかひ)を遣(や)つて、甥(をひ)平八郎に切腹させるか、刺し違へて死ぬるかのうちを選べと云はせたのが三つである。与五郎の養子善之進は父のために偵察しようとして長柄町(ながらまち)近くへ往くと、もう大塩の同勢(どうぜい)が繰り出すので、驚いて逃げ帰り、父と一しよに西の宮へ奔(はし)り、又懼(おそ)れて大阪へ引き返ししなに、両刀を海に投げ込んだ。
 大西へ使(つかひ)を遣(や)つた跡(あと)で、跡部、堀の両奉行は更に相談して、両組の与力同心を合併した捕手(とりて)を大塩が屋敷へ出した。そのうち朝五つ近くなると、天満(てんま)に火の手が上がつて、間もなく砲声が聞えた。捕手(とりて)は所詮(しよせん)近寄れぬと云つて帰つた。
 両奉行は鉄砲奉行石渡彦太夫(いしわたひこだいふ)、御手洗伊右衛門(みたらしいゑもん)に、鉄砲同心を借りに遣(や)つた。同心は二人(にん)の部下を併(あは)せて四十人である。次にそれでは足らぬと思つて、玉造口定番(たまつくりぐちぢやうばん)遠藤但馬守胤統(たぢまのかみたねをさ)に加勢を願つた。遠藤は公用人畑佐秋之助(はたさあきのすけ)に命じて、玉造組与力で月番(つきばん)同心支配をしてゐる坂本鉉之助(げんのすけ)を上屋敷(かみやしき)に呼び出した。
 坂本は荻野流(をぎのりう)の砲術者で、けさ丁打(ちやううち)をすると云つて、門人を城の東裏(ひがしうら)にある役宅の裏庭に集めてゐた。そのうち五つ頃になると、天満に火の手が上がつたので、急いで役宅から近い大番所(おほばんしよ)へ出た。そこに月番の玉造組平与力(ひらよりき)本多為助(ほんだためすけ)、山寺(やまでら)三二郎、小島鶴之丞(つるのじよう)が出てゐて、本多が天満の火事は大塩平八郎の所為(しよゐ)だと告げた。これは大塩の屋敷に出入(でいり)する猟師清五郎と云ふ者が、火事場に駆け附けて引き返し、同心支配岡翁助(をうすけ)に告げたのを、岡が本多に話したのである。坂本はすぐに城の東裏にゐる同じ組の与力同心に総出仕(そうしゆつし)の用意を命じた。間もなく遠藤の総出仕の達しが来て、同時に坂本は上屋敷(かみやしき)へ呼ばれたのである。
 畑佐(はたさ)の伝へた遠藤の命令はかうである。同心支配一人、与力二人、同心三十人鉄砲を持つて東町奉行所へ出て来い。又同文の命令を京橋組へも伝達せいと云ふのである。坂本は承知の旨(むね)を答へて、上屋敷から大番所へ廻つて手配(てくばり)をした。同心支配は三人あるが、これは自分が出ることにし、小頭(こがしら)の与力二人には平与力(ひらよりき)蒲生熊次郎(がまふくまじらう)、本多為助(ためすけ)を当て、同心三十人は自分と同役岡との組から十五人宛(づゝ)出(だ)すことにした。集合の場所は土橋(どばし)と極めた。京橋組への伝達には、当番与力脇(わき)勝太郎に書附を持たせて出して遣つた。
 手配(てくばり)が済んで、坂本は役宅(やくたく)に帰つた。そして火事装束(くわじしやうぞく)、草鞋掛(わらぢがけ)で、十文目筒(じふもんめづゝ)を持つて土橋(どばし)へ出向いた。蒲生(がまふ)と同心三十人とは揃つてゐた。本多はまだ来てゐない。集合を見に来てゐた畑佐(はたさ)は、跡部(あとべ)に二度催促せられて、京橋口へ廻(まは)つて東町奉行所に往くことにして、先へ帰つたのださうである。坂本は本多がために同心一人(にん)を留(と)めて置いて、集合地を発した。堀端(ほりばた)を西へ、東町奉行所を指(さ)して進むうちに、跡部からの三度目の使者に行き合つた。本多と残して置いた同心とは途中で追ひ附いた。
 坂本が東町奉行所に来て見ると、畑佐はまだ来てゐない。東組与力朝岡助之丞(すけのじよう)と西組与力近藤三右衛門とが応接して、大筒(おほづゝ)を用意して貰(もら)ひたいと云つた。坂本はそれまでの事には及ばぬと思ひ、又指図の区々(まち/\)なのを不平に思つたが、それでも馬一頭を借りて蒲生(がまふ)を乗せて、大筒を取り寄せさせに、玉造口定番所(ぢやうばんしよ)へ遣つた。昼四(よ)つ時(どき)に跡部が坂本を引見した。そして坂本を書院の庭に連れて出て、防備の相談をした。坂本は大川に面した北手(きたて)の展望を害する梅の木を伐(き)ること、島町(しままち)に面した南手の控柱(ひかへばしら)と松の木とに丸太を結び附けて、武者走(むしやばしり)の板をわたすことを建議した。混雑の中で、跡部の指図は少しも行はれない。坂本は部下の同心に工事を命じて、自分でそれを見張つてゐた。
 坂本が防備の工事をしてゐるうちに、跡部は大塩の一行が長柄町(ながらまち)から南へ迂廻(うくわい)したことを聞いた。そして杣人足(そまにんそく)の一組に天神橋(てんじんばし)と難波橋(なんばばし)[#ルビの「なんばばし」は底本では「なんぱばし」]との橋板をこはせと言ひ付けた。
 坂本の使者脇は京橋口へ往つて、同心支配広瀬治左衛門(ひろせぢざゑもん)、馬場佐十郎(ばゝさじふらう)に遠藤の命令を伝達した。これは京橋口定番(ぢやうばん)米津丹後守昌寿(よねづたんごのかみまさひさ)が、去年十一月に任命せられて、まだ到着せぬので、京橋口も遠藤が預(あづか)りになつてゐるからである。広瀬は伝達の書附を見て、首を傾けて何やら思案してゐたが、脇へはいづれ当方から出向いて承(うけたまは)らうと云つた。
 広瀬は雪駄穿(せつたばき)で東町奉行所に来て、坂本に逢つてかう云つた。「只今書面を拝見して、これへ出向いて参りましたが、原来(ぐわんらい)お互(たがひ)に御城警固(おんしろけいご)の役柄ではありませんか。それをお城の外で使はうと云ふ、遠藤殿の思召(おぼしめし)が分かり兼ねます。貴殿(きでん)はどう考へられますか。」
 坂本は目を□(みは)つた。「成程(なるほど)自分の役柄は拙者(せつしや)も心得てをります。併(しか)し頭(かしら)遠藤殿の申付(まをしつけ)であつて見れば、縦(たと)ひ生駒山(いこまやま)を越してでも出張せんではなりますまい。御覧の通(とほり)拙者は打支度(うちしたく)をいたしてをります。」
「いや。それは頭(かしら)御自身が御出馬になることなら、拙者もどちらへでも出張しませう。我々ばかりがこんな所へ参つて働いては、町奉行の下知(げぢ)を受(うけ)るやうなわけで、体面にも係(かゝは)るではありませんか。先年出水(しゆつすゐ)の時、城代松平伊豆守殿へ町奉行が出兵を願つたが、大切の御城警固(おんしろけいご)の者を貸すことは相成らぬと仰(おつし)やつたやうに聞いてをります。一応御一しよにことわつて見ようぢやありませんか。」
「それは御同意がなり兼ねます。頭(かしら)の申付(まをしつけ)なら、拙者は誰の下(した)にでも附いて働きます。その上叛逆人(ほんぎやくにん)が起つた場合は出水(しゆつすゐ)などとは違ひます。貴殿がおことわりになるなら、どうぞお一人で上屋敷(かみやしき)へお出(いで)になつて下さい。」
「いや。さう云ふ御所存ですか。何事によらず両組相談の上で取り計らふ慣例でありますから申し出(だ)しました。さやうなら以後御相談は申しますまい。」
「已(や)むを得ません。いかやうとも御勝手になさりませい。」
「然(しか)らばお暇(いとま)しませう。」広瀬は町奉行所を出ようとした。
 そこへ京橋口を廻つて来た畑佐(はたさ)が落ち合つて、広瀬を引き止めて利害を説いた。広瀬はしぶりながら納得して引き返したが、暫(しばら)くして同心三十人を連れて来た。併(しか)し自分は矢張雪駄穿(せつたばき)で、小筒(こづゝ)も何も持たなかつた。
 坂本は庭に出て、今工事を片付けて持口(もちくち)に附いた同心共を見張つてゐた。そこへ跡部(あとべ)は、相役(あひやく)堀を城代土井大炊頭利位(どゐおほひのかみとしつら)の所へ報告に遣(や)つて置いて、書院から降りて来た。そして天満(てんま)の火事を見てゐた。強くはないが、方角の極(き)まらぬ風が折々吹くので、火は人家の立て込んでゐる西南(にしみなみ)の方へひろがつて行く。大塩の進む道筋を聞いた坂本が、「いかがでございませう、御出馬になりましては」と跡部に言つた。「されば」と云つて、跡部は火事を見てゐる。暫くして坂本が、「どうもなか/\こちらへは参りますまいが」と云つた。跡部は矢張「されば」と云つて、火事を見てゐる。

   七、船場

 大塩平八郎は天満与力町(てんまよりきまち)を西へ進みながら、平生私曲(しきよく)のあるやうに思つた与力の家々に大筒を打ち込ませて、夫婦町(めうとまち)の四辻(よつつじ)から綿屋町(わたやまち)を南へ折れた。それから天満宮の側(そば)を通つて、天神橋に掛かつた。向うを見れば、もう天神橋はこはされてゐる。ここまで来るうちに、兼(かね)て天満に火事があつたら駆け附けてくれと言ひ付けてあつた近郷(きんがう)の者が寄つて来たり、途中で行き逢つて誘はれたりした者があるので、同勢三百人ばかりになつた。不意に馳(は)せ加はつたものの中に、砲術の心得(こゝろえ)のある梅田源左衛門(うめだげんざゑもん)と云ふ彦根浪人もあつた。
 平八郎は天神橋のこはされたのを見て、菅原町河岸(すがはらまちかし)を西に進んで、門樋橋(かどひばし)を渡り、樋上町河岸(ひかみまちかし)を難波橋(なんばばし)の袂(たもと)に出た。見れば天神橋をこはしてしまつて、こちらへ廻つた杣人足(そまにんそく)が、今難波橋の橋板を剥(は)がさうとしてゐる所である。「それ、渡れ」と云ふと、格之助が先に立つて橋に掛かつた。人足は抜身(ぬきみ)の鑓(やり)を見て、ばら/\と散つた。
 北浜二丁目の辻に立つて、平八郎は同勢の渡つてしまふのを待つた。そのうち時刻は正午になつた。
 方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場(きたせんば)に簇(むら)がつてゐるので、もう悉(ことごと)く指顧(しこ)の間(あひだ)にある。平八郎は倅(せがれ)格之助、瀬田以下の重立(おもだ)つた人々を呼んで、手筈(てはず)の通(とほり)に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋(いまばしすぢ)には鴻池屋(こうのいけや)善右衛門、同(おなじく)庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人(おほしやうにん)がゐる。南側の高麗橋筋(かうらいばしすぢ)には三井、岩城桝屋(いはきますや)等の大店(おほみせ)がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝(けふかつ)してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔(など)は、一々(いち/\)方略に取(と)り極(き)めてあつたので、ここでも為事(しごと)は自然に発展した。只銭穀(せんこく)の取扱(とりあつかひ)だけは全く予定した所と相違して、雑人共(ざふにんども)は身に着(つけ)られる限(かぎり)の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち退(の)いてしまつた。鴻池本家(こうのいけほんけ)の外(ほか)は、大抵金庫(かねぐら)を破壊せられたので、今橋筋には二分金(にぶきん)が道にばら蒔(ま)いてあつた。
 平八郎は難波橋(なんばばし)[#ルビの「なんばばし」は底本では「なんぱばし」]の南詰(みなみづめ)に床几(しやうぎ)を立てさせて、白井、橋本、其外若党(わかたう)中間(ちゆうげん)を傍(そば)にをらせ、腰に附けて出た握飯(にぎりめし)を噛(か)みながら、砲声の轟(とゞろ)き渡り、火焔(くわえん)の燃(も)え上がるのを見てゐた。そして心の内には自分が兼て排斥した枯寂(こじやく)の空(くう)を感じてゐた。昼八つ時(どき)に平八郎は引上(ひきあげ)の太鼓を打たせた。それを聞いて寄り集まつたのはやう/\百五十人許(ばか)りであつた。その重立(おもだ)つた人々の顔には、言ひ合せた様な失望の色がある。これは富豪を懲(こら)すことは出来たが、窮民を賑(にぎは)すことが出来ないからである。切角(せつかく)発散した鹿台(ろくたい)の財を、徒(いたづら)に烏合(うがふ)の衆の攫(つか)み取るに任せたからである。
 人々は黙つて平八郎の気色(けしき)を伺(うかが)つた。平八郎も黙つて人々の顔を見た。暫(しばら)くして瀬田が「まだ米店(こめみせ)が残つてゐましたな」と云つた。平八郎は夢を揺(ゆ)り覚(さま)されたやうに床几(しやうぎ)を起(た)つて、「好(よ)い、そんなら手配(てくばり)をせう」と云つた。そして残(のこり)の人数(にんず)を二手(ふたて)に分けて、自分達親子の一手は高麗橋(かうらいばし)を渡り、瀬田の一手は今橋(いまばし)を渡つて、内平野町(うちひらのまち)の米店(こめみせ)に向ふことにした。

   八、高麗橋、平野橋、淡路町

 土井の所へ報告に往つた堀が、東町奉行所に帰つて来て、跡部(あとべ)に土井の指図(さしづ)を伝へた。両町奉行に出馬せいと指図したのである。
「承知いたしました。そんなら拙者は手の者と玉造組(たまつくりぐみ)とを連れて出ることにいたしませう。」跡部はかう云つた儘(まゝ)すわつてゐた。
 堀は土井の機嫌の悪いのを見て来たので、気がせいてゐた。そこで席を離れるや否(いな)や、部下の与力同心を呼び集めて東町奉行所の門前に出た。そこには広瀬が京橋組の同心三十人に小筒(こづゝ)を持たせて来てゐた。
「どこの組か」と堀が声を掛けた。
「京橋組でござります」と広瀬が答へた。
「そんなら先手(さきて)に立て」と堀が号令した。
 同階級の坂本に対しては命令の筋道を論じた広瀬が、奉行の詞(ことば)を聞くと、一も二もなく領承した。そして鉄砲同心を引き纏(まと)めて、西組与力同心の前に立つた。
 堀の手は島町通(しまゝちどほり)を西へ御祓筋(おはらひすぢ)まで進んだ。丁度大塩父子(ふし)の率(ひき)ゐた手が高麗橋に掛かつた時で、橋の上に白旗(しらはた)が見えた。
「あれを打たせい」と、堀が広瀬に言つた。
 広瀬が同心等に「打て」と云つた。
 同心等の持つてゐた三文目(もんめ)五分筒(ふんづゝ)が煎豆(いりまめ)のやうな音を立てた。
 堀の乗つてゐた馬が驚いて跳(は)ねた。堀はころりと馬から墜(お)ちた。それを見て同心等は「それ、お頭(かしら)が打たれた」と云つて、ぱつと散つた。堀は馬丁(ばてい)に馬を牽(ひ)かせて、御祓筋(おはらひすぢ)の会所(くわいしよ)に這入(はひ)つて休息した。部下を失つた広瀬は、暇乞(いとまごひ)をして京橋口に帰つて、同役馬場に此(この)顛末(てんまつ)を話して、一しよに東町奉行所前まで来て、大川(おほかは)を隔てて南北両方にひろがつて行く火事を見てゐた。
 御祓筋(おはらひすぢ)から高麗橋までは三丁余あるので、三文目(もんめ)五分筒(ふんづゝ)の射撃を、大塩の同勢(どうぜい)は知らずにしまつた。
 堀が出た跡(あと)の東町奉行所へ、玉造口へ往つた蒲生(がまふ)が大筒を受け取つて帰つた。蒲生は遠藤の所へ乗り付けて、大筒の事を言上(ごんじやう)すると、遠藤は岡翁助(をうすけ)に当てて、平与力(ひらよりき)四人に大筒を持たせて、目附中井半左衛門(なかゐはんざゑもん)方へ出せと云ふ達しをした。岡は柴田勘兵衛、石川彦兵衛に百目筒(めづゝ)を一挺(ちやう)宛(づゝ)、脇勝太郎、米倉倬次郎(よねくらたくじらう)に三十目筒一挺宛を持たせて中川方へ遣(や)つた。中川がをらぬので、四人は遠藤にことわつて、蒲生と一しよに東町奉行所へ来たのである。跡部(あとべ)は坂本が手の者と、今到着した与力四人とを併(あは)せて、玉造組の加勢与力七人、同心三十人を得たので、坂本を先に立てて出馬した。此一手は島町通を西へ進んで、同町二丁目の角から、内骨屋町筋(うちほねやまちすぢ)を南に折れ、それから内平野町(うちひらのまち)へ出て、再び西へ曲らうとした。
 此時大塩の同勢は、高麗橋を渡つた平八郎父子の手と、今橋を渡つた瀬田の手とが東横堀川(ひがしよこぼりがは)の東河岸(ひがしかし)に落ち合つて、南へ内平野町(うちひらのまち)まで押して行き、米店(こめみせ)数軒に火を掛けて平野橋(ひらのばし)の東詰(ひがしづめ)に引き上げてゐた。さうすると内骨屋町筋(うちほねやまちすぢ)から、神明(しんめい)の社(やしろ)の角をこつちへ曲がつて来る跡部(あとべ)の纏(まとひ)が見えた。二町足らず隔たつた纏(まとひ)を目当(めあて)に、格之助は木筒(きづゝ)を打たせた。
 跡部の手は停止した。与力本多(ほんだ)や同心山崎弥四郎(やまざきやしらう)が、坂本に「打ちませうか/\」と催促した。
 坂本は敵が見えぬので、「待て/\」と制しながら、神明(しんめい)の社(やしろ)の角に立つて見てゐると、やう/\烟の中に木筒(きづゝ)の口が現れた。「さあ、打て」と云つて、坂本は待ち構へた部下と一しよに小筒(こづゝ)をつるべかけた。
 烟が散つてから見れば、もう敵は退いて、道が橋向(はしむかう)まで開いてゐる。橋詰(はしづめ)近く進んで見ると、雑人(ざふにん)が一人打たれて死んでゐた。
 坂本は平野橋へ掛からうとしたが、東詰の両側の人家が焼けてゐるので、烟に噎(むせ)んで引き返した。そして始(はじめ)て敵に逢つて混乱してゐる跡部の手の者を押し分けながら、天神橋筋を少し南へ抜けて、豊後町(ぶんごまち)を西へ思案橋に出た。跡部は混乱の渦中に巻き込まれてとう/\落馬した。
 思案橋を渡つて、瓦町(かはらまち)を西へ進む坂本の跡には、本多、蒲生(がまふ)の外、同心山崎弥四郎、糟谷助蔵(かすやすけざう)等が切れ/″\に続いた。
 平野橋で跡部の手と衝突した大塩の同勢(どうぜい)は、又逃亡者が出たので百人余(あまり)になり、浅手(あさで)を負(お)つた庄司に手当をして遣つて、平野橋の西詰から少し南へよぢれて、今淡路町(あはぢまち)を西へ退く所である。
 北の淡路町を大塩の同勢が一歩先に西へ退くと、それと併行した南の瓦町通(かはらまちどほり)を坂本の手の者が一歩遅れて西へ進む。南北に通じた町を交叉(かうさ)する毎に、坂本は淡路町の方角を見ながら進む。一丁目筋(ちやうめすぢ)と鍛冶屋町筋(かぢやまちすぢ)との交叉点では、もう敵が見えなかつた。
 堺筋(さかひすぢ)との交叉点に来た時、坂本はやう/\敵の砲車を認めた。黒羽織(くろばおり)を着た[#「着た」は底本では「来た」]大男がそれを挽(ひ)かせて西へ退かうとしてゐる所である。坂本は堺筋(さかひすぢ)西側の紙屋の戸口に紙荷(かみに)の積んであるのを小楯(こだて)に取つて、十文目筒(もんめづゝ)で大筒方(おほづゝかた)らしい、彼(かの)黒羽織を狙(ねら)ふ。さうすると又(また)東側の用水桶の蔭から、大塩方の猟師金助が猟筒(れふづゝ)で坂本を狙ふ。坂本の背後(うしろ)にゐた本多が金助を見付けて、自分の小筒(こづゝ)で金助を狙ひながら、坂本に声を掛ける。併し二度まで呼んでも、坂本の耳に入らない。そのうち大筒方が少しづつ西へ歩くので、坂本は西側の人家に沿うて、十間(けん)程(ほど)前へ出た。三人の筒は殆(ほとんど)同時に発射せられた。
 坂本の玉は大砲方(たいはうかた)の腰を打ち抜いた。金助の玉は坂本の陣笠(ぢんがさ)をかすつたが、坂本は只(たゞ)顔に風が当つたやうに感じただけであつた。本多の玉(たま)は全(まつた)く的(まと)をはづれた。
 坂本等は稍(やゝ)久しく敵と鉄砲を打ち合つてゐたが、敵がもう打たなくなつたので、用心しつゝ淡路町の四辻に出た。西の方を見れば、もう大塩の同勢は見えない。東の方を見れば、火が次第に燃(も)えて来る。四辻の辺(あたり)に敵の遺棄した品々を拾ひ集めたのが、百目筒(ひやくめづゝ)三挺(さんちやう)車台付(しやだいつき)、木筒(きづゝ)二挺(にちやう)内一挺車台付、小筒(こづゝ)三挺、其外鑓(やり)、旗、太鼓、火薬葛籠(つゞら)、具足櫃(ぐそくびつ)、長持(ながもち)等であつた。鑓(やり)のうち一本は、見知つたものがあつて平八郎の持鑓(もちやり)だと云つた。
 玉に中(あた)つて死んだものは、黒羽織(くろばおり)の大筒方の外には、淡路町の北側に雑人(ざふにん)が一人倒れてゐるだけである。大筒方は大筒の側に仰向(あふむけ)に倒れてゐた。身(み)の丈(たけ)六尺余の大男で、羅紗(らしや)の黒羽織の下には、黒羽二重(くろはぶたへ)紅裏(べにうら)の小袖(こそで)、八丈(はちぢやう)の下着(したぎ)を着て、裾(すそ)をからげ、袴(はかま)も股引(もゝひき)も着ずに、素足(すあし)に草鞋(わらぢ)を穿(は)いて、立派な拵(こしらへ)の大小(だいせう)を帯びてゐる。高麗橋、平野橋、淡路町の三度の衝突で、大塩方の死者は士分一人、雑人(ざふにん)二人に過ぎない。堀、跡部の両奉行の手には一人の死傷もない。双方から打つ玉は大抵頭の上を越して、堺筋(さかひすぢ)では町家(まちや)の看板が蜂(はち)の巣のやうに貫(つらぬ)かれ、檐口(のきぐち)の瓦が砕(くだ)かれてゐたのである。
 跡部(あとべ)は大筒方(おほづゝかた)の首を斬らせて、鑓先(やりさき)に貫(つらぬ)かせ、市中(しちゆう)を持ち歩かせた。後にこの戦死した唯一の士(さむらひ)が、途中から大塩の同勢(どうぜい)に加はつた浪人梅田だと云ふことが知れた。
 跡部が淡路町(あはぢまち)の辻にゐた所へ、堀が来合(きあは)せた。堀は御祓筋(おはらひすぢ)の会所(くわいしよ)で休息してゐると、一旦散つた与力(よりき)同心(どうしん)が又ぽつ/\寄つて来て、二十人ばかりになつた。そのうち跡部の手が平野橋(ひらのばし)の敵を打(う)ち退(しりぞ)けたので、堀は会所を出て、内平野町(うちひらのまち)で跡部に逢つた。そして二人相談した上、堀は跡部の手にゐた脇、石川、米倉の三人を借りて先手(さきて)を命じ、天神橋筋(てんじんばしすぢ)を南へ橋詰町(はしづめまち)迄出て、西に折れて本町橋(ほんまちばし)を渡つた。これは本町を西に進んで、迂廻(うくわい)して敵の退路を絶たうと云ふ計画であつた。併(しか)し一手(ひとて)のものが悉(ことごと)く跡(あと)へ/\とすざるので、脇等三人との間が切れる。人数もぽつ/\耗(へ)つて、本町堺筋(ほんまちさかひすぢ)では十三四人になつてしまふ。そのうち瓦町(かはらまち)と淡路町との間で鉄砲を打ち合ふのを見て、やう/\堺筋(さかひすぢ)を北へ、衝突のあつた処に駆け付けたのである。
 跡部は堀と一しよに淡路町を西へ踏み出して見たが、もう敵らしいものの影も見えない。そこで本町橋の東詰(ひがしづめ)まで引き上げて、二人(にん)は袂(たもと)を分ち、堀は石川と米倉とを借りて、西町奉行所へ連れて帰り、跡部は城へ這入(はひ)つた。坂本、本多、蒲生(がまふ)、柴田、脇並(ならび)に同心等は、大手前(おほてまへ)の番場(ばんば)で跡部に分れて、東町奉行所へ帰つた。

   九、八軒屋、新築地、下寺町

 梅田の挽(ひ)かせて行く大筒(おほづゝ)を、坂本が見付けた時、平八郎はまだ淡路町二丁目の往来の四辻に近い処に立ち止まつてゐた。同勢は見る/\耗(へ)つて、大筒(おほづゝ)の車を挽(ひ)く人足(にんそく)にも事を闕(か)くやうになつて来る。坂本等の銃声が聞えはじめてからは、同勢が殆(ほとんど)無節制の状態に陥(おちい)り掛かる。もう射撃をするにも、号令には依らずに、人々(ひと/″\)勝手に射撃する。平八郎は暫(しばら)くそれを見てゐたが、重立(おもだ)つた人々を呼び集めて、「もう働きもこれまでぢや、好く今まで踏みこたへてゐてくれた、銘々(めい/\)此場を立(た)ち退(の)いて、然(しか)るべく処決せられい」と云ひ渡した。
 集まつてゐた十二人は、格之助、白井、橋本、渡辺、瀬田、庄司、茨田(いばらた)、高橋、父柏岡(かしはをか)、西村、杉山と瀬田の若党植松(うゑまつ)とであつたが、平八郎の詞(ことば)を聞いて、皆顔を見合せて黙つてゐた。瀬田が進み出て、「我々はどこまでもお供をしますが、御趣意(ごしゆい)はなるべく一同に伝へることにしませう」と云つた。そして所々(しよ/\)に固まつてゐる身方(みかた)の残兵に首領(しゆりやう)の詞を伝達した。
 それを聞いて悄然(せうぜん)と手持無沙汰に立ち去るものもある。待ち構へたやうに持つてゐた鑓(やり)、負(お)つてゐた荷を棄てて、足早(あしはや)に逃げるものもある。大抵は此場を脱(ぬ)け出ることが出来たが、安田が一人(にん)逃げおくれて、町家(まちや)に潜伏したために捕へられた。此時同勢の中(うち)に長持(ながもち)の宰領(さいりやう)をして来た大工作兵衛がゐたが、首領の詞を伝達せられた時、自分だけはどこまでも大塩父子(ふし)の供がしたいと云つて居残(ゐのこ)つた。質樸(しつぼく)な職人気質(かたぎ)から平八郎が企(くはだて)の私欲を離れた処に感心したので、強(し)ひて与党に入れられた怨(うらみ)を忘れて、生死を共にする気になつたのである。
 平八郎は格之助以下十二人と作兵衛とに取り巻かれて、淡路町(あはぢまち)二丁目の西端から半丁程東へ引き返して、隣まで火の移つてゐる北側の町家に踏み込んだ。そして北裏の東平野町(ひがしひらのまち)へ抜けた。坂本等が梅田を打ち倒してから、四辻に出るまで、大(だい)ぶ時が立つたので、この上下十四人は首尾好く迹(あと)を晦(くら)ますことが出来た。
 此時北船場(きたせんば)の方角は、もう騒動が済んでから暫(しばら)く立つたので、焼けた家の址(あと)から青い煙が立ち昇つてゐるだけである。何物にか執着(しふぢやく)して、黒く焦(こ)げた柱、地に委(ゆだ)ねた瓦(かはら)のかけらの側(そば)を離れ兼ねてゐるやうな人、獣(けもの)の屍(かばね)の腐(くさ)る所に、鴉(からす)や野犬(のいぬ)の寄るやうに、何物をか捜(さが)し顔(がほ)にうろついてゐる人などが、互(たがひ)に顔を見合せぬやうにして行き違ふだけで、平八郎等の立(た)ち退(の)く邪魔をするものはない。八つ頃から空は次第に薄鼠色(うすねずみいろ)になつて来て、陰鬱(いんうつ)な、人の頭を押さへ附けるやうな気分が市中を支配してゐる。まだ鉄砲や鑓(やり)を持つてゐる十四人は、詞(ことば)もなく、稲妻形(いなづまがた)に焼跡(やけあと)の町を縫(ぬ)つて、影のやうに歩(あゆみ)を運びつつ東横堀川(ひがしよこぼりがは)の西河岸(にしかし)へ出た。途中で道に沿うて建て並べた土蔵の一つが焼け崩れて、壁の裾(すそ)だけ残つた中に、青い火がちよろ/\と燃(も)えてゐるのを、平八郎が足を停(と)めて見て、懐(ふところ)から巻物を出して焔(ほのほ)の中に投げた。これは陰謀の檄文(げきぶん)と軍令状とを書いた裏へ、今年の正月八日から二月十五日までの間に、同盟者に記名調印させた連判状(れんぱんじやう)であつた。
 十四人はたつた今七八十人の同勢を率(ひき)ゐて渡つた高麗橋(かうらいばし)を、殆(ほとんど)世を隔てたやうな思(おもひ)をして、同じ方向に渡つた。河岸(かし)に沿うて曲つて、天神橋詰(てんじんばしづめ)を過ぎ、八軒屋に出たのは七つ時であつた。ふと見れば、桟橋(さんばし)に一艘(さう)の舟が繋(つな)いであつた。船頭が一人艫(とも)の方に蹲(うづくま)つてゐる。土地のものが火事なんぞの時、荷物を積んで逃げる、屋形(やかた)のやうな、余り大きくない舟である。平八郎は一行に目食(めく)はせをして、此舟に飛び乗つた。跡(あと)から十三人がどや/\と乗込(のりこ)んだ。
「こら。舟を出せ。」かう叫んだのは瀬田である。
 不意を打たれた船頭は器械的に起(た)つて纜(ともづな)を解いた。
 舟が中流に出てから、庄司は持つてゐた十文目筒(もんめづゝ)、其外の人々は手鑓(てやり)を水中に投げた。それから川風の寒いのに、皆着込(きごみ)を脱(ぬ)いで、これも水中に投げた。
「どつちへでも好いから漕(こ)いでをれ。」瀬田はかう云つて、船頭に艪(ろ)を操(あやつ)らせた。火災に遭(あ)つたものの荷物を運び出す舟が、大川(おほかは)にはばら蒔(ま)いたやうに浮かんでゐる。平八郎等の舟がそれに雑(まじ)つて上(のぼ)つたり下(く)だつたりしてゐても、誰も見咎(みとが)めるものはない。
 併(しか)し器械的に働いてゐる船頭は、次第に醒覚(せいかく)して来て、どうにかして早くこの気味の悪い客を上陸させてしまはうと思つた。「旦那方(だんながた)どこへお上(あが)りなさいます。」
「黙つてをれ」と瀬田が叱つた。
 平八郎は側(そば)にゐた高橋に何やらささやいだ。高橋は懐中から金を二両出して船頭の手に握らせた。「いかい世話になるのう。お前の名はなんと云ふかい。」
「へえ。これは済みません。直吉と申します。」
 これからは船頭が素直に指図を聞いた。平八郎は項垂(うなだ)れてゐた頭(かしら)を挙げて、「これから拙者(せつしや)の所存(しよぞん)をお話いたすから、一同聞いてくれられい」と云つた。所存と云ふのは大略かうである。此度(このたび)の企(くはだて)は残賊(ざんぞく)を誅(ちゆう)して禍害(くわがい)を絶(た)つと云ふ事と、私蓄(しちく)を発(あば)いて陥溺(かんでき)を救ふと云ふ事との二つを志(こゝろざ)した者である。然(しか)るに彼(かれ)は全(まつた)く敗れ、此(これ)は成るに垂(なん/\)として挫(くじ)けた。主謀たる自分は天をも怨(うら)まず、人をも尤(とが)めない。只(たゞ)気の毒に堪へぬのは、親戚故旧友人徒弟たるお前方(まへがた)である。自分はお前方に罪を謝する。どうぞ此同舟の会合を最後の団欒(だんらん)として、袂(たもと)を分つて陸(りく)に上(のぼ)り、各(おの/\)潔(いさぎよ)く処決して貰(もら)ひたい。自分等父子(ふし)は最早(もはや)思ひ置くこともないが、跡(あと)には女小供がある。橋本氏には大工作兵衛を連れて、いかにもして彼等の隠家(かくれが)へ往き、自裁(じさい)するやうに勧めて貰ふことを頼むと云ふのである。平八郎の妾(めかけ)以下は、初め般若寺村(はんにやじむら)の橋本方へ立(た)ち退(の)いて、それから伊丹(いたみ)の紙屋某方(かた)へ往つたのである。後に彼等が縛(ばく)に就(つ)いたのは京都であつたが、それは二人の妾が弓太郎(ゆみたろう)を残しては死なれぬと云ふので、橋本が連れてさまよひ歩いた末である。
 暮(くれ)六つ頃から、天満橋北詰(てんまばしきたづめ)の人の目に立たぬ所に舟を寄せて、先づ橋本と作兵衛とが上陸した。次いで父柏岡(かしはをか)、西村、茨田(いばらた)、高橋と瀬田に暇(いとま)を貰つた植松(うゑまつ)との五人が上陸した。後に茨田は瀬田の妻子を落(おと)して遣(や)つた上で自首し、父柏岡と高橋とも自首し、西村は江戸で願人坊主(ぐわんにんばうず)になつて、時疫(じえき)で死に、植松は京都で捕はれた。
 跡(あと)に残つた人々は土佐堀川(とさぼりがは)から西横堀川(にしよこぼりがは)に這入(はひ)つて、新築地(しんつきぢ)に上陸した。平八郎、格之助、瀬田、渡辺、庄司、白井、杉山の七人である。人々は平八郎に迫(せま)つて所存(しよぞん)を問うたが、只(たゞ)「いづれ免(まぬか)れぬ身ながら、少し考(かんがへ)がある」とばかり云つて、打ち明けない。そして白井と杉山とに、「お前方は心残(こゝろのこり)のないやうにして、身の始末を附けるが好い」と云つて、杉山には金五両を渡した。
 一行は暫(しばら)く四つ橋の傍(そば)に立ち止まつてゐた。其時平八郎が「どこへ死所(しにどころ)を求めに往くにしても、大小(だいせう)を挿(さ)してゐては人目に掛かるから、一同刀を棄てるが好い」と云つて、先づ自分の刀を橋の上から水中に投げた。格之助始(はじめ)、人々もこれに従つて刀を投げて、皆脇差(わきざし)ばかりになつた。それから平八郎の黙つて歩く跡(あと)に附いて、一同下寺町(したでらまち)まで出た。ここで白井と杉山とが、いつまで往つても名残(なごり)は尽きぬと云つて、暇乞(いとまごひ)をした。後に白井は杉山を連れて、河内国(かはちのくに)渋川郡(しぶかはごほり)大蓮寺村(たいれんじむら)の伯父の家に往き、鋏(はさみ)を借りて杉山と倶(とも)に髪を剪(そ)り、伏見へ出ようとする途中で捕はれた。
 跡には平八郎父子と瀬田、渡辺、庄司との五人が残つた。そのうち下寺町(したでらまち)で火事を見に出てゐた人の群を避けようとするはずみに、庄司が平八郎等四人にはぐれた。後に庄司は天王寺村(てんわうじむら)で夜(よ)を明(あ)かして、平野郷(ひらのがう)から河内(かはち)、大和(やまと)を経て、自分と前後して大和路(やまとぢ)へ奔(はし)つた平八郎父子には出逢はず、大阪へ様子を見に帰る気になつて、奈良まで引き返して捕はれた。
 庄司がはぐれて、平八郎父子と瀬田、渡辺との四人になつた時、下寺町の両側共寺ばかりの所を歩きながら、瀬田が重ねて平八郎に所存を問うた。平八郎は暫く黙つてゐて答へた。「いや先刻(せんこく)考(かんがへ)があるとは云つたが、別にかうと極(き)まつた事ではない。お前方二人は格別の間柄だから話して聞かせる。己(おれ)は今暫く世の成行(なりゆき)を見てゐようと思ふ。尤(もつと)も間断(かんだん)なく死ぬる覚悟をしてゐて、恥辱を受けるやうな事はせぬ」と云つたのである。これを聞いた瀬田と渡辺とは、「そんなら我々も是非共御先途(ごせんと)を見届けます」と云つて、河内(かはち)から大和路(やまとぢ)へ奔(はし)ることを父子(ふし)に勧めた。四人の影は平野郷方角へ出る畑中道(はたなかみち)の闇(やみ)の裏(うち)に消えた。

   十、城

 けふの騒動が始(はじめ)て大阪の城代(じやうだい)土井の耳に入(い)つたのは、東町奉行跡部(あとべ)が玉造口定番(たまつくりぐちぢやうばん)遠藤に加勢を請(こ)うた時の事である。土井は遠藤を以て東西両町奉行に出馬を言ひ付けた。丁度西町奉行堀が遠藤の所に来てゐたので、堀自分はすぐに沙汰(さた)を受け、それから東町奉行所に往つて、跡部に出馬の命を伝へることになつた。
 土井は両町奉行に出馬を命じ、同時に目附中川半左衛門、犬塚太郎左衛門を陰謀の偵察、与党の逮捕に任じて置いて、昼四つ時(どき)に定番(ぢやうばん)、大番(おほばん)、加番(かばん)の面々を呼び集めた。
 城代土井は下総(しもふさ)古河(こが)の城主である。其下に居る定番(ぢやうばん)二人(ににん)のうち、まだ着任しない京橋口定番米倉(よねくら)は武蔵金沢の城主で、現に京橋口をも兼ね預かつてゐる玉造口定番遠藤は近江(あふみ)三上(みかみ)の城主である。定番の下には一年交代の大番頭(おほばんがしら)が二人ゐる。東大番頭は三河(みかは)新城(しんじやう)の菅沼織部正定忠(すがぬまおりべのしやうさだたゞ)、西大番頭は河内(かはち)狭山(さやま)の北条遠江守氏春(とほたふみのかみうぢはる)である。以上は幕府の旗下で、定番の下には各与力三十騎、同心百人がゐる。大番頭の下には各組頭(くみがしら)四人、組衆(くみしゆう)四十六人、与力十騎、同心二十人がゐる。京橋組、玉造組、東西大番を通算すると、上下の人数が定番二百六十四人、大番百六十二人、合計四百二十六人になる。これ丈(だけ)では守備が不足なので、幕府は外様(とざま)の大名に役知(やくち)一万石宛(づゝ)を遣(や)つて加番(かばん)に取つてゐる。山里丸(やまざとまる)の一加番が越前大野の土井能登守利忠(どゐのとのかみとしたゞ)、中小屋(なかごや)の二加番が越後与板(よいた)の井伊右京亮直経(うきやうのすけなほつね)、青屋口(あをやぐち)の三加番が出羽(では)長瀞(ながとろ)の米津伊勢守政懿(よねづいせのかみまさよし)、雁木坂(がんきざか)の四加番が播磨(はりま)安志(あんじ)の小笠原信濃守長武(しなのゝかみながたけ)である。加番は各物頭(ものがしら)五人、徒目付(かちめつけ)六人、平士(ひらざむらひ)九人、徒(かち)六人、小頭(こがしら)七人、足軽(あしがる)二百二十四人を率(ひき)ゐて入城する。其内に小筒(こづゝ)六十挺(ちやう)弓二十張(はり)がある。又棒突足軽(ぼうつきあしがる)が三十五人ゐる。四箇所の加番を積算すると、上下の人数が千三十四人になる。定番以下の此人数に城代の家来を加へると、城内には千五六百人の士卒がゐる。
 定番、大番、加番の集まつた所で、土井は正(しやう)九つ時(どき)に城内を巡見するから、それまでに各(かく)持口(もちくち)を固めるやうにと言ひ付けた。それから士分のものは鎧櫃(よろひゞつ)を担(かつ)ぎ出す。具足奉行(ぐそくぶぎやう)上田五兵衛は具足を分配する。鉄砲奉行石渡彦太夫(いしわたひこだいふ)は鉄砲玉薬(てつぱうたまくすり)を分配する。鍋釜(なべかま)の這入(はひ)つてゐた鎧櫃(よろひびつ)もあつた位で、兵器装具には用立たぬものが多く、城内は一方(ひとかた)ならぬ混雑であつた。
 九つ時になると、両大番頭(おほばんがしら)が先導になつて、土井は定番(ぢやうばん)、加番(かばん)の諸大名を連れて、城内を巡見した。門の数が三十三箇所、番所の数が四十三箇所あるのだから、随分手間が取れる。どこに往つて見ても、防備はまだ目も鼻も開いてゐない。土井は暮(くれ)六つ時(どき)に改めて巡見することにした。
 二度目に巡見した時は、城内の士卒の外に、尼崎(あまがさき)、岸和田(きしわだ)、高槻(たかつき)、淀(よど)などから繰り出した兵が到着してゐる。
 坤(ひつじさる)に開(ひら)いてゐる城の大手(おほて)は土井の持口(もちくち)である。詰所(つめしよ)は門内の北にある。門前には柵(さく)を結(ゆ)ひ、竹束(たけたば)を立て、土俵を築き上げて、大筒(おほづゝ)二門を据(す)ゑ、別に予備筒(よびづゝ)二門が置いてある。門内には番頭(ばんがしら)が控へ、門外北側には小筒を持つた足軽百人が北向に陣取つてゐる。南側には尼崎から来た松平遠江守忠栄(とほたふみのかみたゞよし)の一番手三百三十余人が西向に陣取る。略(ほゞ)同数の二番手は後にここへ参着して、京橋口に遷(うつ)り、次いで跡部(あとべ)の要求によつて守口(もりぐち)、吹田(すゐた)へ往つた。後に郡山(こほりやま)の一二番手も大手に加はつた。
 大手門内を、城代の詰所を過ぎて北へ行くと、西の丸である。西の丸の北、乾(いぬゐ)の角(すみ)に京橋口が開いてゐる。此口の定番の詰所は門内の東側にある。定番米津が着任してをらぬので、山里丸加番土井が守つてゐる。大筒の数は大手と同じである。門外には岸和田から来た岡部内膳正長和(ないぜんのしやうながかず)の一番手二百余人、高槻の永井飛騨守直与(ひだのかみなほとも)の手、其外(そのほか)淀の手が備へてゐる。
 京橋口定番の詰所の東隣は焔硝蔵(えんせうぐら)である。焔硝蔵と艮(うしとら)の角(すみ)の青屋口との中間に、本丸に入る極楽橋(ごくらくばし)が掛かつてゐる。極楽橋から這入(はひ)つた所が山里で、其南が天主閣、其又南が御殿である。本丸には菅沼、北条の両大番頭が備へてゐる。
 青屋口には門の南側に加番の詰所がある。此門は加番米津が守つて、中小屋加番(なかごやかばん)の井伊が遊軍としてこれに加はつてゐる。青屋口加番の詰所から南へ順次に、中小屋加番、雁木坂(がんきざか)加番、玉造口定番の詰所が並んでゐる。雁木坂加番小笠原は、自分の詰所の前の雁木坂に馬印(うまじるし)を立ててゐる。
 玉造口定番(ぢやうばん)の詰所は巽(たつみ)に開いてゐる。玉造口の北側である。此門は定番遠藤が守つてゐる。これに高槻の手が加はり、後には郡山(こほりやま)の三番手も同じ所に附けられた。玉造口と大手との間は、東が東大番、西が西大番の平常の詰所である。
 土井の二度の巡見の外、中川、犬塚の両目附は城内所々(しよ/\)を廻つて警戒し、又両町奉行所に出向いて情報を取つた。夜(よ)に入(い)つてからは、城の内外の持口々々(もちくち/″\)に篝火(かゞりび)を焚(た)き連(つら)ねて、炎焔(えん/\)天(てん)を焦(こが)すのであつた。跡部の役宅(やくたく)には伏見奉行加納遠江守久儔(かなふとほたふみのかみひさとも)、堀の役宅には堺奉行曲淵甲斐守景山(まがりぶちかひのかみけいざん)が、各与力同心を率ゐて繰り込んだ。又天王寺方面には岸和田から来た二番手千四百余人が陣を張つた。
 目附中川、犬塚の手で陰謀の与党を逮捕しようと云ふ手配(てくばり)は、日暮頃から始まつたが、はか/″\しい働きも出来なかつた。吹田村(すゐたむら)で氏神(うぢがみ)の神主をしてゐる、平八郎の叔父宮脇志摩(しま)の所へ捕手(とりて)の向つたのは翌二十日で、宮脇は切腹して溜池(ためいけ)に飛び込んだ。船手(ふなて)奉行の手で、川口の舟を調べはじめたのは、中一日置いた二十一日の晩からである。城の兵備を撤(てつ)したのも二十一日である。
 朝五つ時に天満(てんま)から始まつた火事は、大塩の同勢が到る処に大筒を打ち掛け火を放つたので、風の余り無い日でありながら、思(おもひ)の外(ほか)にひろがつた。天満は東が川崎、西が知源寺(ちげんじ)、摂津国町(つのくにまち)、又二郎町(またじらうまち)、越後町、旅籠町(はたごまち)、南が大川、北が与力町を界(さかひ)とし、大手前から船場(せんば)へ掛けての市街は、谷町(たにまち)一丁目から三丁目までを東界(ひがしさかひ)、上大(かみおほ)みそ筋から下難波橋(しもなんばばし)筋までを西界(にしさかひ)、内本町(うちほんまち)、太郎左衛門町(たらうざゑもんまち)、西入町(にしいりまち)、豊後町(ぶんごまち)、安土町(あづちまち)、魚屋町(うをやまち)を南界(みなみさかひ)、大川、土佐堀川を北界(きたさかひ)として、一面の焦土となつた。本町橋(ほんまちばし)東詰で、西町奉行堀に分れて入城した東町奉行跡部は、火が大手近く燃(も)えて来たので、夕(ゆふ)七つ時に又坂本以下の与力同心を率ゐて火事場に出馬した。丁度火消人足(ひけしにんそく)が谷町で火を食ひ止めようとしてゐる所であつたが、人数が少いのと一同疲れてゐるのとのために、暮(くれ)六つ半(はん)に谷町代官所に火の移るのを防ぐことが出来なかつた。鎮火したのは翌二十日の宵(よひ)五つ半である。町数(まちかず)で言へば天満組四十二町、北組五十九町、南組十一町、家数(いへかず)、竈数(かまどかず)で言へば、三千三百八十九軒、一万二千五百七十八戸が災(わざはひ)に罹(かゝ)つたのである。

   十一、二月十九日の後の一、信貴越

 大阪兵燹(へいせん)の余焔(よえん)が城内の篝火(かがりび)と共に闇(やみ)を照(てら)し、番場(ばんば)の原には避難した病人産婦の呻吟(しんぎん)を聞く二月十九日の夜、平野郷(ひらのがう)のとある森蔭(もりかげ)に体(からだ)を寄せ合つて寒さを凌(しの)いでゐる四人があつた。これは夜(よ)の明(あ)けぬ間(ま)に河内(かはち)へ越さうとして、身も心も疲れ果て、最早(もはや)一歩も進むことの出来なくなつた平八郎父子(ふし)と瀬田、渡辺とである。
 四人は翌二十日に河内(かはち)の界(さかひ)に入(い)つて、食を求める外には人家に立ち寄らぬやうに心掛け、平野川に沿うて、間道(かんだう)を東へ急いだ。さて途中どこで夜を明かさうかと思つてゐるうち、夜なかから大風雨になつた。やう/\産土(うぶすな)の社(やしろ)を見付けて駈(か)け込んでゐると、暫く物を案じてゐた渡辺が、突然もう此先きは歩けさうにないから、先生の手足纏(てあしまとひ)にならぬやうにすると云つて、手早く脇差(わきざし)を抜いて腹に突き立てた。左の脇腹に三寸余り切先(きつさき)が這入(はひ)つたので、所詮(しよせん)助からぬと見極(みきは)めて、平八郎が介錯(かいしやく)した。渡辺は色の白い、少し歯の出た、温順篤実な男で、年齢は僅(わづか)に四十を越したばかりであつた。
 二十一日の暁(あかつき)になつても、大風雨は止(や)みさうな気色(けしき)もない。平八郎父子(ふし)と瀬田とは、渡辺の死骸(しがい)を跡(あと)に残して、産土(うぶすな)の社(やしろ)を出た。土地の百姓が死骸を見出して訴(うつた)へたのは、二十二日の事であつた。社のあつた所は河内国(かはちのくに)志紀郡(しきごほり)田井中村(たゐなかむら)である。
 三人は風雨を冒(をか)して、間道を東北の方向に進んだ。風雨はやう/\午頃(ひるごろ)に息(や)んだが、肌まで濡(ぬ)れ通(とほ)つて、寒さは身に染(し)みる。辛(から)うじて大和川(やまとがは)の支流幾つかを渡つて、夜(よ)に入つて高安郡(たかやすごほり)恩地村(おんちむら)に着いた。さて例の通(とほり)人家を避けて、籔陰(やぶかげ)の辻堂を捜し当てた。近辺から枯枝(かれえだ)を集めて来て、おそる/\焚火(たきび)をしてゐると、瀬田が発熱(ほつねつ)して来た。いつも血色の悪い、蒼白(あをじろ)い顔が、大酒(たいしゆ)をしたやうに暗赤色(あんせきしよく)になつて、持前の二皮目(ふたかはめ)が血走(ちばし)つてゐる。平八郎父子が物を言ひ掛ければ、驚いたやうに返事をするが、其間々(あひだ/\)は焚火の前に蹲(うづくま)つて、現(うつゝ)とも夢(ゆめ)とも分からなくなつてゐる。ここまで来る途中で、先生が寒からうと云つて、瀬田は自分の着てゐた羽織を脱(ぬ)いで平八郎に襲(かさ)ねさせたので、誰よりも強く寒さに侵(をか)されたものだらう。平八郎は瀬田に、兎(と)に角(かく)人家に立ち寄つて保養して跡から来るが好いと云つて、無理に田圃道(たんぼみち)を百姓家のある方へ往かせた。其後影(うしろかげ)を暫く見送つてゐた平八郎は、急に身を起して焚火を踏み消した。そして信貴越(しぎごえ)の方角を志(こゝろざ)して、格之助と一しよに、又間道(かんだう)を歩き出した。
 瀬田は頭がぼんやりして、体(からだ)ぢゆうの脈が鼓(つゞみ)を打つやうに耳に響く。狭い田の畔道(くろみち)を踏んで行くに、足がどこを踏んでゐるか感じが無い。動(やゝ)もすれば苅株(きりかぶ)の間の湿(しめ)つた泥に足を蹈(ふ)み込む。やう/\一軒の百姓家の戸の隙(すき)から明かりのさしてゐるのにたどり着いて、瀬田ははつきりとした声で、暫(しばら)く休息させて貰(もら)ひたいと云つた。雨戸を開けて顔を出したのは、四角な赭(あか)ら顔の爺(ぢ)いさんである。瀬田の様子をぢつと見てゐたが、思(おもひ)の外(ほか)拒(こば)まうともせずに、囲炉裏(ゐろり)の側(そば)に寄つて休めと云つた。婆(ば)あさんが草鞋(わらぢ)を脱(ぬ)がせて、足を洗つてくれた。瀬田は火の側(そば)に横になるや否(いな)や、目を閉ぢてすぐに鼾(いびき)をかき出した。其時爺いさんはそつと瀬田の顔に手を当てた。瀬田は知らずにゐた。爺いさんはその手を瀬田の腰の所に持つて往つて、脇差(わきざし)を抜き取つた。そしてそれを持つて、家を駈け出した。行灯(あんどう)の下にすわつた婆あさんは、呆(あき)れて夫の跡(あと)を見送つた。
 瀬田は夢を見てゐる。松並木のどこまでも続いてゐる街道を、自分は力限(ちからかぎり)駈(か)けて行く。跡(あと)から大勢(おほぜい)の人が追ひ掛けて来る。自分の身は非常に軽くて、殆(ほとんど)鳥の飛ぶやうに駈けることが出来る。それに追ふものの足音が少しも遠ざからない。瀬田は自分の足の早いのに頗(すこぶる)満足して、只(たゞ)追ふものの足音の同じやうに近く聞えるのを不審に思つてゐる。足音は急調(きふてう)に鼓(つゞみ)を打つ様に聞える。ふと気が附いて見ると、足音と思つたのは、自分の脈の響くのであつた。意識が次第に明瞭になると共に、瀬田は腰の物の亡(な)くなつたのを知つた。そしてそれと同時に自分の境遇を不思議な程的確(てきかく)に判断することが出来た。
 瀬田は跳(は)ね起(お)きた。眩暈(めまひ)の起(おこ)りさうなのを、出来るだけ意志を緊張してこらへた。そして前に爺(ぢ)いさんの出て行つた口から、同じやうに駈け出した。行灯(あんどう)の下(もと)の婆(ば)あさんは、又呆(あき)れてそれを見送つた。
 百姓家の裏に出て見ると、小道を隔てて孟宗竹(まうそうちく)の大籔(おほやぶ)がある。その奥を透(す)かして見ると、高低種々の枝を出してゐる松の木がある。瀬田は堆(うづたか)く積もつた竹の葉を蹈(ふ)んで、松の下に往つて懐(ふところ)を探つた。懐には偶然捕縄(とりなは)があつた。それを出してほぐして、低い枝に足を蹈(ふ)み締(し)めて、高い枝に投げ掛けた。そして罠(わな)を作つて自分の頸(くび)に掛けて、低い枝から飛び降りた。瀬田は二十五歳で、脇差を盗まれたために、見苦しい最期(さいご)を遂げた。村役人を連れて帰つた爺(ぢ)いさんが、其夜(そのよ)の中(うち)に死骸を見付けて、二十二日に領主稲葉丹後守(たんごのかみ)に届けた。
 平八郎は格之助の遅(おく)れ勝(がち)になるのを叱り励まして、二十二日の午後に大和(やまと)の境(さかひ)に入つた。それから日暮に南畑(みなみはた)で格之助に色々な物を買はせて、身なりを整へて、駅のはづれにある寺に這入(はひ)つた。暫(しばら)くすると出て来て、「お前も頭を剃(そ)るのだ」と云つた。格之助は別に驚きもせず、連れられて這入つた。親子が僧形(そうぎやう)になつて、麻の衣を着て寺を出たのは、二十三日の明(あけ)六つ頃であつた。
 寺にゐた間は平八郎が殆(ほとんど)一言(ごん)も物を言はなかつた。さて寺を出離れると、平八郎が突然云つた。「さあ、これから大阪に帰るのだ。」
 格之助も此(この)詞(ことば)には驚いた。「でも帰りましたら。」
「好(い)いから黙つて附いて来い。」
 平八郎は足の裏が燃(も)えるやうに逃げて来た道を、渇(かつ)したものが泉を求めて走るやうに引き返して行く。傍(はた)から見れば、その大阪へ帰らうとする念は、一種の不可抗力のやうに平八郎の上に加はつてゐるらしい。格之助も寺で宵(よひ)と暁(あかつき)とに温(あたゝか)い粥(かゆ)を振舞(ふるま)はれてからは、霊薬(れいやく)を服したやうに元気を恢復して、もう遅れるやうな事はない。併(しか)し一歩々々危険な境に向つて進むのだと云ふ考(かんがへ)が念頭を去らぬので、先に立つて行く養父の背を望んで、驚異の情の次第に加はるのを禁ずることが出来ない。

   十二、二月十九日後の二、美吉屋

 大阪油懸町(あぶらかけまち)の、紀伊国橋(きのくにばし)を南へ渡つて東へ入る南側で、東から二軒目に美吉屋(みよしや)と云ふ手拭地(てぬぐひぢ)の為入屋(しいれや)がある。主人五郎兵衛は六十二歳、妻つねは五十歳になつて、娘かつ、孫娘かくの外(ほか)、家内(かない)に下男(げなん)五人、下女(げぢよ)一人を使つてゐる。上下十人暮しである。五郎兵衛は年来大塩家に出入して、勝手向(かつてむき)の用を達(た)したこともあるので、二月十九日に暴動のあつた後は、町奉行所の沙汰(さた)で町預(まちあづけ)になつてゐる。
 此美吉屋(みよしや)で二月二十四日の晩に、いつものやうに主人が勝手に寝て、家族や奉公人を二階と台所とに寝させてゐると、宵(よひ)の五つ過に表の門を敲(たゝ)くものがある。主人が起きて誰(たれ)だと問へば、備前島町(びぜんしままち)河内屋(かはちや)八五郎の使(つかひ)だと云ふ。河内屋は兼(かね)て取引(とりひき)をしてゐる家なので、どんな用事があつて、夜(よ)に入(い)つて人をよこしたかと訝(いぶか)りながら、庭へ降りて潜戸(くゞりど)を開けた。
 戸があくとすぐに、衣の上に鼠色(ねずみいろ)の木綿合羽(もめんかつぱ)をはおつた僧侶が二人つと這入(はひ)つて、低い声に力を入れて、早くその戸を締(し)めろと指図した。驚きながら見れば、二人共僧形(そうぎやう)に不似合(ふにあひ)な脇差(わきざし)を左の手に持つてゐる。五郎兵衛はがた/\震えて、返事もせず、身動きもしない。先に這入つた年上の僧が目食(めく)はせをすると、跡(あと)から這入つた若い僧が五郎兵衛を押し除(の)けて戸締(とじまり)をした。
 二人は縁(えん)に腰を掛けて、草鞋(わらぢ)の紐(ひも)を解(と)き始めた。五郎兵衛はそれを見てゐるうちに、再び驚いた。髪(かみ)をおろして相好(さうがう)は変つてゐても、大塩親子だと分かつたからである。「や。大塩様ではございませんか。」「名なんぞを言ふな」と、平八郎が叱るやうに云つた。
 二人は黙つて奥へ通るので、五郎兵衛は先に立つて、納戸(なんど)の小部屋に案内した。五郎兵衛が、「どうなさる思召(おぼしめし)か」と問ふと、平八郎は只(たゞ)「当分厄介になる」とだけ云つた。
 陰謀の首領をかくまふと云ふことが、容易ならぬ罪になるとは、五郎兵衛もすぐに思つた。併(しか)し平八郎の言ふことは、年来暗示(あんじ)のやうに此爺(ぢ)いさんの心の上に働く習慣になつてゐるので、ことわることは所詮(しよせん)出来ない。其上親子が放さずに持つてゐる脇差も、それとなく威嚇(ゐかく)の功を奏してゐる。五郎兵衛は只二人を留めて置いて、若(も)し人に知られるなら、それが一刻も遅く、一日も遅いやうにと、禍殃(くわあう)を未来に推(お)し遣(や)る工夫をするより外ない。そこで小部屋の襖(ふすま)をぴつたり締め切つて、女房にだけわけを話し、奉公人に知らせぬやうに、食事を調(とゝの)へて運ぶことにした。
 一日立つ。二日立つ。いつは立(た)ち退(の)いてくれるかと、老人夫婦は客の様子を覗(うかゞ)つてゐるが、平八郎は落ち着き払つてゐる。心安(こゝろやす)い人が来ては奥の間へ通ることもあるので、襖一重(ふすまひとへ)の先にお尋者(たづねもの)を置くのが心配に堪へない。幸(さいはひ)に美吉屋(みよしや)の家には、坤(ひつじさる)の隅(すみ)に離座敷(はなれざしき)がある。周囲(まはり)は小庭(こには)になつてゐて、母屋(おもや)との間には、小さい戸口の附いた板塀(いたべい)がある。それから今一つすぐに往来に出られる口が、表口から西に当る路次(ろじ)に附いてゐる。此離座敷なら家族も出入せぬから、奉公人に知られる虞(おそれ)もない。そこで五郎兵衛は平八郎父子を夜中にそこへ移した。そして日々(にち/\)飯米(はんまい)を測(はか)つて勝手へ出す時、紙袋(かみぶくろ)に取り分け、味噌(みそ)、塩(しほ)、香(かう)の物(もの)などを添へて、五郎兵衛が手づから持ち運んだ。それを親子炭火(すみび)で自炊(じすゐ)するのである。
 兎角(とかく)するうちに三月になつて、美吉屋(みよしや)にも奉公人の出代(でかはり)があつた。その時女中の一人が平野郷(ひらのがう)の宿元(やどもと)に帰つてこんな話をした。美吉屋では不思議に米が多くいる。老人夫婦が毎日米を取り分けて置くのを、奉公人は神様に供(そな)へるのだらうと云つてゐるが、それにしてもおさがりが少しも無いと云ふのである。
 平野郷は城代土井の領分八万石の内一万石の土地で、七名家(しちめいか)と云ふ土着のものが支配してゐる。其中の末吉(すゑよし)平左衛門、中瀬(なかせ)九郎兵衛の二人が、美吉屋から帰つた女中の話を聞いて、郷(がう)の陣屋(ぢんや)に訴へた。陣屋に詰めてゐる家来が土井に上申した。土井が立入与力(たちいりよりき)内山彦次郎に美吉屋五郎兵衛を取り調べることを命じた。立入与力と云ふのは、東西両町奉行の組のうちから城代の許(もと)へ出して用を聞せる与力である。五郎兵衛は内山に糺問(きうもん)せられて、すぐに実を告げた。
 土井は大目附時田肇(ときだはじめ)に、岡野小右衛門(こゑもん)、菊地鉄平、芹沢(せりざは)啓次郎、松高縫蔵(まつたかぬひざう)、安立讃太郎(あだちさんたらう)、遠山(とほやま)勇之助、斎藤正五郎(しやうごらう)[#ルビの「しやうごらう」は底本では「しやうごろう」]、菊地弥六(やろく)の八人を附けて、これに逮捕を命じた。
 三月二十六日の夜(よ)四つ半時(はんどき)、時田は自宅に八人のものを呼んで命を伝へ、すぐに支度(したく)をして中屋敷に集合させた。中屋敷では、時田が美吉屋の家宅の摸様を書いたものを一同に見せ、なるべく二人を生擒(いけどり)にするやうにと云ふ城代の注文を告げた。岡野某は相談して、時田から半棒(はんぼう)を受け取つた。それから岡野が入口の狭い所を進むには、順番を籤(くじ)で極(き)めて、争論のないやうにしたいと云ふと、一同これに同意した。岡野は重ねて、自分は齢(よはひ)五十歳を過ぎて、跡取(あととり)の倅(せがれ)もあり、此度の事を奉公のしをさめにしたいから、一番を譲つて貰(もら)つて、次の二番から八番までの籤(くじ)を人々に引かせたいと云つた。これにも一同が同意したので、籤を引いて二番菊地弥六、三番松高、四番菊地鉄平、五番遠山、六番安立、七番芹沢、八番斎藤と極めた。
 二十七日の暁(あけ)八つ時(どき)過、土井の家老鷹見(たかみ)十郎左衛門は岡野、菊地鉄平、芹沢の三人を宅に呼んで、西組与力内山を引き合せ、内山と同心四人とに部屋目附(へやめつけ)鳥巣(とす)彦四郎を添へて、偵察に遣(や)ることを告げた。岡野等三人は中屋敷に帰つて、一同に鷹見(たかみ)の処置を話して、偵察の結果を待つてゐると、鷹見が出向いて来て、大切の役目だから、手落のないやうにせいと云ふ訓示をした。七つ半過に鳥巣(とす)が中屋敷(なかやしき)に来て、内山の口上を伝へて、本町(ほんまち)五丁目の会所(くわいしよ)へ案内した。時田以下の九人は鳥巣(とす)を先に立てゝ、外に岡村桂蔵と云ふものを連れて本町へ往つた。暫(しばら)く本町の会所に待つてゐると、内山の使に同心が一人来て、一同を信濃町の会所に案内した。油懸町(あぶらかけまち)の南裏通(みなみうらどほり)である。信濃町(しなのまち)では、一同が内山の出した美吉屋の家の図面を見て、その意見に従つて、東表口(ひがしおもてぐち)に向ふ追手(おつて)と、西裏口(にしうらぐち)に向ふ搦手(からめて)とに分れることになつた。
 追手(おつて)は内山、同心二人、岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平の七人、搦手(からめて)は同心二人、遠山、安立(あだち)、芹沢(せりざは)、斎藤、時田の七人である。此二手は総年寄今井官之助、比田小伝次(ひだこでんじ)、永瀬(ながせ)七三郎三人の率ゐた火消人足(ひけしにんそく)に前以(まへもつ)て取り巻かせてある美吉屋(みよしや)へ、六つ半時に出向いた。搦手(からめて)は一歩先に進んで西裏口を固めた。追手(おつて)は続いて岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平、内山の順序に東表口を這入つた。内山は菊地鉄平に表口の内側に居残つてくれと頼んだ。鉄平は一人では心元(こゝろもと)ないので、附いて来た岡村に一しよにゐて貰つた。
 追手の同心一人は美吉屋の女房つねを呼び出して、耳に口を寄せて云つた。「お前大切の御用だから、しつかりして勤めんではならぬぞ。お前は板塀(いたべい)の戸口へ往つて、平八郎にかう云ふのだ。内の五郎兵衛はお預(あづ)けになつてゐるので、今家財改(かざいあらため)のお役人が来られた。どうぞちよいとの間裏(うら)の路次口(ろじぐち)から外へ出てゐて下さいと云ふのだ。間違へてはならぬぞ」と云つた。
 つねは顔色が真(ま)つ蒼(さを)になつたが、やう/\先に立つて板塀の戸口に往つて、もし/\と声を掛けた。併(しか)し教へられた口上を言ふことは出来なかつた。
 暫くすると戸口が細目に開(あ)いた。内から覗(のぞ)いたのは坊主頭(ばうずあたま)の平八郎である。平八郎は捕手(とりて)と顔を見合せて、すぐに戸を閉ぢた。
 岡野等は戸を打ちこはした。そして戸口から岡野が呼び掛けた。「平八郎卑怯(ひけふ)だ。これへ出い。」
「待て」と、平八郎が離座敷(はなれざしき)の雨戸の内から叫んだ。
 岡野等は暫(しばら)くためらつてゐた。
 表口(おもてぐち)の内側にゐた菊地鉄平は、美吉屋の女房小供や奉公人の立(た)ち退(の)いた跡(あと)で暫(しばら)く待つてゐたが、板塀(いたべい)の戸口で手間の取れる様子を見て、鍵形(かぎがた)になつてゐる表の庭を、縁側の角(すみ)に附いて廻つて、戸口にゐる同心に、「もう踏み込んではどうだらう」と云つた。
「宜(よろ)しうございませう」と同心が答へた。
 鉄平は戸口をつと這入(はひ)つて、正面にある離座敷(はなれざしき)の雨戸を半棒(はんぼう)で敲(たゝ)きこはした。戸の破れた所からは烟が出て、火薬の臭(にほひ)がした。
 鉄平に続いて、同心、岡野、菊地弥六、松高が一しよに踏み込んで、残る雨戸を打ちこはした。
 離座敷の正面には格之助の死骸らしいものが倒れてゐて、それに衣類を覆(おほ)ひ、間内(まうち)の障子をはづして、死骸の上を越させて、雨戸に立て掛け、それに火を附けてあつた。雨戸がこはれると、火の附いた障子が、燃(も)えながら庭へ落ちた。死骸らしい物のある奥の壁際(かべぎは)に、平八郎は鞘(さや)を払つた脇差(わきざし)を持つて立つてゐたが、踏み込んだ捕手(とりて)を見て、其刃(やいば)を横に吭(のど)に突き立て、引き抜いて捕手の方へ投げた。
 投げた脇差は、傍輩(はうばい)と一しよに半棒で火を払ひ除(の)けてゐる菊地弥六の頭を越し、襟(えり)から袖をかすつて、半棒に触れ、少し切り込んでけし飛んだ。弥六の襟、袖、手首には、灑(そゝ)ぎ掛けたやうに血が附いた。
 火は次第に燃えひろがつた。捕手は皆焔(ほのほ)を避けて、板塀の戸口から表庭(おもてには)へ出た。
 弥六は脇差を投げ附けられたことを鉄平に話した。鉄平が「そんなら庭にあるだらう」と云つて、弥六を連れて戸口に往つて見ると、四五尺ばかり先に脇差は落ちてゐる。併(しか)し火が強くて取りに往くことが出来ない。そこへ最初案内に立つた同心が来て、「わたくし共の木刀には鍔(つば)がありますから、引つ掛けて掻(か)き寄せませう」と云つた。脇差は旨(うま)く掻き寄せられた。柄(つか)は茶糸巻(ちやいとまき)で、刃(は)が一尺八寸あつた。
 搦手(からめて)は一歩先に西裏口(にしうらぐち)に来て、遠山、安立、芹沢、時田が東側に、斎藤と同心二人とが西側に並んで、真(ま)ん中(なか)に道を開(あ)け、逃げ出したら挟撃(はさみうち)にしようと待つてゐた。そのうち余り手間取(てまど)るので、安立、遠山、斎藤の三人が覗(のぞ)きに這入つた。離座敷には人声がしてゐる。又持場(もちば)に帰つて暫く待つたが、誰も出て来ない。三人が又覗(のぞ)きに這入ると、雨戸の隙から火焔の中に立つてゐる平八郎の坊主頭が見えた。そこで時田、芹沢と同心二人とを促して、一しよに半棒で雨戸を打ちこはした。併(しか)し火気が熾(さかん)なので、此手のものも這入ることが出来なかつた。
 そこへ内山が来て、「もう跡(あと)は火を消せば好いのですから、消防方(せうばうかた)に任せてはいかがでせう」と云つた。
 遠山が云つた。「いや。死骸がぢき手近にありますから、どうかしてあれを引き出すことにしませう。」
 遠山はかう云つて、傍輩(はうばい)と一しよに死骸のある所へ水を打ち掛けてゐると、消防方(せうばうかた)が段々集つて来て、朝五つ過に火を消し止めた。
 総年寄(そうどしより)今井が火消人足(ひけしにんそく)を指揮して、焼けた材木を取(と)り除(の)けさせた。其下から吉兵衛と云ふ人足が先(ま)づ格之助らしい死骸を引き出した。胸が刺(さ)し貫(つらぬ)いてある。平生歯が出てゐたが、其歯を剥(む)き出してゐる。次に平八郎らしい死骸が出た。これは吭(のど)を突いて俯伏(うつぶ)してゐる。今井は二つの死骸を水で洗はせた。平八郎の首は焼けふくらんで、肩に埋(うづ)まつたやうになつてゐるのを、頭を抱へて引き上げて、面体(めんてい)を見定めた。格之助は創(きず)の様子で、父の手に掛かつて死んだものと察せられた。今井は近所の三宅(みやけ)といふ医者の家から、駕籠(かご)を二挺(ちやう)出させて、それに死骸を載せた。
 二つの死骸は美吉屋夫婦と共に高原溜(たかはらたまり)へ送られた。道筋には見物人の山を築(きづ)いた。

   十三、二月十九日後の三、評定

 大塩平八郎が陰謀事件の評定(ひやうぢやう)は、六月七日に江戸の評定所(ひやうぢやうしよ)に命ぜられた。大岡紀伊守忠愛(きいのかみたゞちか)の預つてゐた平山助次郎、大阪から護送して来た吉見九郎右衛門、同(おなじく)英太郎、河合八十次郎(やそじらう)、大井正一郎、安田図書(やすだづしよ)、大西与五郎(よごらう)、美吉屋(みよしや)五郎兵衛、同(おなじく)つね、其外(そのほか)西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗(わうばく)の僧剛嶽(がうがく)、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の願人(ぐわんにん)冷月(れいげつ)、西村の死骸を葬(はうむ)つた浅草遍照院(へんせうゐん)の所化(しよけ)尭周(げうしう)等が呼び出されて、七月十六日から取調(とりしらべ)が始まつた。次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。罪案が定まつて上申せられたのは天保九年閏(うるふ)四月八日で、宣告のあつたのは八月二十一日である。
 平八郎、格之助、渡辺、瀬田、小泉、庄司、近藤、大井、深尾、茨田(いばらだ)[#ルビの「いばらだ」はママ]、高橋、父柏岡(かしはをか)、倅柏岡、西村、宮脇、橋本、白井孝右衛門と暴動には加はらぬが連判をしてゐた摂津(せつゝ)森小路村(もりこうぢむら)の医師横山文哉(ぶんさい)、同国猪飼野村(ゐかひのむら)の百姓木村司馬之助(しまのすけ)との十九人、それから返忠(かへりちゆう)をし掛けて遅疑(ちぎ)した弓奉行組(ゆみぶぎやうぐみ)同心小頭(どうしんこがしら)竹上(たけがみ)万太郎は磔(はりつけ)になつた。然(しか)るに九月十八日に鳶田(とびた)で刑の執行があつた時、生きてゐたのは竹上一人(にん)である。他(た)の十九人は、自殺した平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇、病死した西村、人に殺された格之助、小泉を除き、彼(かの)江戸へ廻された大井迄悉(こと/″\)く牢死したので、磔柱(はりつけばしら)には塩詰(しほづめ)の死骸を懸けた。中にも平八郎父子(ふし)は焼けた死骸を塩詰にして懸けられたのである。西村は死骸が腐つてゐたので、墓を毀(こぼ)たれた。
 松本、堀井、杉山、曾我(そが)、植松(うゑまつ)、大工作兵衛、猟師金助、美吉屋五郎兵衛、瀬田の中間(ちゆうげん)浅佶(あさきち)、深尾の募集に応じた尊延寺村(そんえんじむら)の百姓忠右衛門と無宿(むしゆく)新右衛門とは獄門(ごくもん)、暴動に加はらぬ与党の内、上田、白井孝右衛門(かうゑもん)の甥(をひ)儀次郎(ぎじらう)、般若寺村(はんにやじむら)の百姓卯兵衛(うへゑ)は死罪、平八郎の妾(めかけ)ゆう、美吉屋の女房つね、大西与五郎と白井孝右衛門の倅(せがれ)で、穉(をさな)い時大塩の塾にゐたこともあり、父の陰謀の情を知つてゐた彦右衛門とは遠島(ゑんたう)、安田と杉山を剃髪させた同人(どうにん)の伯父、河内(かはち)大蓮寺(たいれんじ)の僧正方(しやうはう)、西村の逃亡を助けた同人の姉婿(あねむこ)、堺の医師寛輔(くわんぽ)の二人(にん)とは追放になつた。併(しか)し此人々も杉山、上田、大西、倅白井の四人の外は、皆刑の執行前に牢死した。
 密訴(みつそ)をした平山と父吉見とは取高(とりだか)の儘(まゝ)譜代席小普請入(ふだいせきこぶしんいり)になり、吉見英太郎、河合八十次郎(やそじらう)は各(おの/\)銀五十枚を賜(たま)はつた。此中(このうち)で酒井大和守忠嗣(やまとのかみたゞつぐ)へ預替(あづけがへ)になつてゐた平山は、番人の便所に立つた留守に詰所(つめしよ)の棚の刀箱(かたなばこ)から脇差を取り出して自殺した。
 城代土井以下賞与を受けたものは十九人あつた。中にも坂本鉉之助(げんのすけ)は鉄砲方(てつぱうかた)になつて、目見以上(めみえいじやう)の末席(ばつせき)に進められた。併し両町奉行には賞与がなかつた。


[#改頁]




   附録

 私が大塩平八郎の事を調べて見ようと思ひ立つたのは、鈴木本次郎君に一冊の写本を借りて見た時からの事である。写本は墨付(すみつき)二十七枚の美濃紙本で、表紙に「大阪大塩平八郎万記録(よろづきろく)」と題してある。表紙の右肩には「川辺文庫」の印がある。川辺御楯(かはのべみたて)君が鈴木君に贈与したものださうである。
 万記録(よろづきろく)の内容は、松平遠江守(とほたふみのかみ)の家来稲垣左近右衛門(さこんゑもん)と云ふ者が、見聞した事を数度に主家へ注進した文書である。松平遠江守とは摂津(せつつ)尼崎の城主松平忠栄(ただなが)の事であらう。
 万記録は所謂(いはゆる)風説が大部分を占めてゐるので、其中から史実を選(えら)み出さうとして見ると、獲ものは頗(すこぶる)乏しい。併(しか)し記事が穴だらけなだけに、私はそれに空想を刺戟(しげき)せられた。
 そこで現に公にせられてゐる、大塩に関した書籍の中で、一番多くの史料を使つて、一番精(くは)しく書いてある幸田成友(かうだしげとも)君の「大塩平八郎」を読み、同君の新小説に出した同題の記事を読んだ。そして古い大阪の地図や、「大阪城志」を参考して、伝へられた事実を時間と空間との経緯に配列して見た。
 こんな事をしてゐる間、私の頭の中を稍(やゝ)久しく大塩平八郎と云ふ人物が占領してゐた。私は友人に逢ふ度(たび)に、平八郎の話をし出して、これに関係した史料や史論を聞かうとした。松岡寿(まつをかひさし)君は平八郎の塾にゐた宇津木矩之允と岡田良之進との事に就いて、在来の記録に無い事実を聞かせてくれ、又三上参次(みかみさんじ)君、松本亦太郎(まつもとまたたらう)君は多少纏(まとま)つた評論を聞せてくれた。
 そのうち私の旧主人が建ててゐる菁々塾(せい/\じゆく)の創立記念会があつた。私は講話を頼まれて、外に何も考へてゐなかつた為め、大塩平八郎を題とした二時間ばかりの話をした。
 そしてとうとう平八郎の事に就いて何か書かうと云ふ気になつた。
――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置]
 私は無遠慮に「大塩平八郎」と題した一篇を書いた。それは中央公論に載せられた。
 平八郎の暴動は天保八年二月十九日である。私は史実に推測を加へて、此二月十九日と云ふ一日の間の出来事を書いたのである。史実として時刻の考へられるものは、概(おほむ)ね左の通である。
天保八年二月十九日
今の時刻 昔の時刻 事実
午前四時 暁七時(寅) 吉見英太郎、河合八十次郎の二少年吉見の父九郎右衛門の告発書を大阪西町奉行堀利堅(ほりとしかた)に呈す。
六時 明六時(卯) 東町奉行跡部良弼(あとべよしすけ)は代官二人に防備を命じ、大塩平八郎の母兄大西与五郎に平八郎を訪(と)ひて処決せしむることを嘱(しよく)す。
七時 朝五時(辰) 平八郎家宅に放火して事を挙ぐ。
十時 昼四時(巳) 跡部坂本鉉之助(げんのすけ)に東町奉行所の防備を命ず。
十一時 昼四半時 城代土井利位(どゐとしつら)城内の防備を命ず。
十二時 昼九時(午) 平八郎の隊北浜に至る。土井初めて城内を巡視す。
午後四時 夕七時(申) 平八郎等八軒屋に至りて船に上る。
六時 暮六時(酉) 平八郎に附随せる与党の一部上陸す。土井再び城内を巡視す。
 時刻の知れてゐるこれだけの事実の前後と中間とに、伝へられてゐる一日間の一切の事実を盛り込んで、矛盾が生じなければ、それで一切の事実が正確だと云ふことは証明せられぬまでも、記載の信用は可なり高まるわけである。私は敢(あへ)てそれを試みた。そして其間に推測を逞(たくまし)くしたには相違ないが、余り暴力的な切盛(きりもり)や、人を馬鹿にした捏造(ねつざう)はしなかつた。
――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置]
 私の「大塩平八郎」は一日間の事を書くを主としてはゐたのだが、其一日の間に活動してゐる平八郎と周囲の人物とは、皆それぞれの過去を持つてゐる。記憶を持つてゐる。殊(こと)に外生活だけを臚列(ろれつ)するに甘んじないで、幾分か内生活に立ち入つて書くことになると、過去の記憶は比較的大きい影響を其人々の上に加へなくてはならない。さう云ふ場合を書く時、一目に見わたしの付くやうに、私は平八郎の年譜を作つた。原稿には次第に種々な事を書き入れたので、啻(たゞ)に些(いさゝか)の空白をも残さぬばかりでなく、文字と文字とが重なり合つて、他人が見てはなんの反古(ほご)だか分からぬやうになつた。ここにはそれを省略して載せる。

     大塩平八郎年譜
寛政五年癸丑(一七九三年) 大塩平八郎後素生る。幼名文之助。祖先は今川氏の族にして、波右衛門と云ふ。今川氏滅びて後、岡崎の徳川家康に仕ふ。小田原役に足立勘平を討ちて弓を賜はる。伊豆塚本に采地(さいち)を授けらる。大阪陣の時、越後柏崎の城を守る。後尾張侯に仕へ、嫡子をして家を襲(つ)がしむ。名古屋白壁町の大塩氏は其後なり。波右衛門の末子(ばつし)大阪に入り、町奉行組与力となる。天満橋筋長柄町東入四軒屋敷に住す。数世にして喜内と云ふものあり。其弟を助左衛門、其子を政之丞成余と云ふ。成余の子を平八郎敬高と云ふ。敬高の弟志摩出でて宮脇氏を冒(をか)す。敬高大西氏を娶(めと)る。文之助を生む。名は後素。字(あざな)は子起。通称は平八郎。中斎と号す。居る所を洗心洞と云ふ。其親族関係左の如し。(幸田)
橋本氏              某─┬─忠兵衛─┬─みね
                   │     │
                   └ゆう   └松次郎
                    │
           ┌太一郎     │
           │        │┌格之助
大西氏      某─┼与五郎─善之進 ├┤  
           │        │└いく
           └女       │ 
            │       │
            │    ┌平八郎
            ├────┤
            │    └忠之丞
大塩氏       ┌平八郎
  ┌喜内─政之丞─┤ 
某─┤       └志摩
  └助左衛門    │
           │┌発太郎
           │├とく
           │├いく
           ├┼新次郎
           │├ゑい
           │└辰三郎
           │
宮脇氏    日向─┬りか
          └むつ

是年平八郎後素の祖父成余四十二歳、父敬高二十四歳。
六年甲寅 平八郎二歳。成余四十三歳。敬高二十五歳。
七年乙卯 平八郎三歳。成余四十四歳。敬高二十六歳。
八年丙辰 平八郎四歳。成余四十五歳。敬高二十七歳。橋本忠兵衛生る。
九年丁巳 平八郎五歳。成余四十六歳。敬高二十八歳。
十年戊午 平八郎六歳。成余四十七歳。敬高二十九歳。大黒屋和市の女ひろ生る。後橋本氏ゆうと改名し、平八郎の妾(めかけ)となる。
十一年己未 平八郎七歳。成余四十八歳。五月十一日敬高三十歳にして歿す。平八郎の弟忠之丞生る。
十二年庚申 平八郎八歳。成余四十九歳。七月二十五日忠之丞歿す。九月二十日平八郎の母大西氏歿す。
享和元年辛酉 平八郎九歳。成余五十歳。宮脇りか生る。
二年壬戌 平八郎十歳。成余五十一歳。
三年癸亥 平八郎十一歳。成余五十二歳。
文化元年甲子 平八郎十二歳。成余五十三歳。
二年乙丑 平八郎十三歳。成余五十四歳。
三年丙寅 平八郎十四歳。此頃番方見習となる。成余五十五歳。
四年丁卯 平八郎十五歳。家譜を読みて志を立つ。成余五十六歳。
五年戊辰 平八郎十六歳。成余五十七歳。
六年己巳 平八郎十七歳。成余五十八歳。
七年庚午 平八郎十八歳。成余五十九歳。豊田貢斎藤伊織に離別せられ、水野軍記の徒弟となる。
八年辛未 平八郎十九歳。成余六十歳。
九年壬申 平八郎二十歳。成余六十一歳。
十年癸酉 平八郎二十一歳。始て学問す。成余六十二歳。西組与力弓削(ゆげ)新右衛門地方役たり。
十一年甲戌 平八郎二十二歳。此頃竹上万太郎平八郎の門人となる。成余六十三歳。
十二年乙亥 平八郎二十三歳。成余六十四歳。
十三年丙子 平八郎二十四歳。成余六十五歳。京屋きぬ水野の徒弟となる。
十四年丁丑 平八郎二十五歳。成余六十六歳。
文政元年戊寅 六月二日成余六十七歳にして歿す。平八郎二十六歳にして番代を命ぜらる。妾ゆうを納(い)る。二十一歳。宮脇むつ生る。
二年己卯 平八郎二十七歳。
三年庚辰 平八郎二十八歳。目安役並証文役たり。十一月高井山城守実徳東町奉行となる。
四年辛巳 平八郎二十九歳。平山助次郎十六歳にして入門す。四月坂本鉉之助始て平八郎を訪ふ。橋本みね生る。
五年壬午 平八郎三十歳。
六年癸未 平八郎三十一歳。平八郎の叔父志摩宮脇氏の婿養子となり、りかに配せらる。是年大井正一郎入門す。水野軍記の妻そへ歿す。
七年甲申 平八郎三十二歳。宮脇発太郎生る。庄司義左衛門、堀井儀三郎入門す。庄司は二十七歳。水野軍記大阪木屋町に歿す。
八年乙酉 平八郎三十三歳。正月十四日洗心洞学舎東掲西掲を書す。白井孝右衛門三十七歳にして入門す。
九年丙戌 平八郎三十四歳。宮脇とく生る。
十年丁亥 平八郎三十五歳。吟味役たり。正月京屋さの、四月京屋きぬ、六月豊田貢、閏六月より七月に至り、水野軍記の関係者皆逮捕せらる。さの五十六歳、きぬ五十九歳、貢五十四歳、所謂邪宗門事件なり。
十一年戊子 平八郎三十六歳。吉見九郎右衛門三十八歳にして入門す。十月邪宗門事件評定所に移さる。
十二年己丑 平八郎三十七歳。三月弓削新右衛門糺弾事件あり。平八郎の妾ゆう薙髪(ちはつ)す。十二月五日邪宗門事件落着す。貢、きぬ、さの、外三人磔(はりつけ)に処せらる。きぬ、さのは屍(しかばね)を磔す。是年宮脇いく生る。上田孝太郎入門す。木村司馬之助、横山文哉交(まじはり)を訂(てい)す。
天保元年庚寅 平八郎三十八歳。三月破戒僧検挙事件あり。七月高井実徳西丸留守居に転ず。平八郎勤仕十三年にして暇を乞ひ、養子格之助番代を命ぜらる。格之助妾橋本みねを納る。九月平八郎名古屋の宗家を訪ひ、展墓す。頼襄(らいのぼる)序を作りて送る。十一月大阪に帰る。是年松本隣太夫、茨田軍次、白井儀次郎入門す。松本は甫(はじ)めて七歳なりき。
二年辛卯 平八郎三十九歳。父祖の墓石を天満東寺町成正寺に建つ。吉見英太郎、河合八十次郎入門す。彼は十歳、此は十二歳なり。
三年壬辰 平八郎四十歳。四月頼襄京都より至り、古本大学刮目(だいがくくわつもく)に序せんことを約す。六月大学刮目に自序す。同月近江国小川村なる中江藤樹の遺蹟を訪ふ。帰途舟に上りて大溝より坂本に至り、風波に逢ふ。秋頼襄京都に病む。平八郎往いて訪へば既に亡(な)し。是年宮脇いくを養ひて女とす。柴屋長太夫三十六歳にして入門す。
四年癸巳 平八郎四十一歳。四月洗心洞剳記(せんしんどうさつき)に自序し、これを刻す。頼余一に一本を貽(おく)る。又一本を佐藤坦(たひら)に寄せ、手書して志を言ふ。七月十七日富士山に登り、剳記を石室に蔵す。八月足代弘訓の勧(すゝめ)により、剳記を宮崎、林崎の両文庫に納(おさ)む。九月奉納書籍聚跋(ほうなふしよじやくしゆうばつ)に序す。十二月儒門空虚聚語(じゆもんくうきよしゆうご)に自序す。是年柏岡伝七、塩屋喜代蔵入門す。
五年甲午 平八郎四十二歳。秋剳記附録抄(さつきふろくせう)を刻す。十一月孝経彙註(かうきやうゐちゆう)に序す。是年宇津木矩之允入塾す。柏岡源右衛門入門す。此頃高橋九右衛門も亦入門す。
六年乙未 平八郎四十三歳。四月孝経彙註を刻す。夏剳記及附録抄の版を書估(しよこ)に与ふ。
七年丙申 平八郎四十四歳。七月跡部良弼東町奉行となる。九月格之助砲術を試みんとすと称し、火薬を製す。十一月百目筒三挺を買ひ又借る。十二月檄文を印刷す。同月格之助の子弓太郎生る。安田図書、服部末次郎入門す。宇津木矩之允再び入塾す。天保四年以後飢饉にして、是歳最も甚し。
八年丁酉(一八三七年) 平八郎四十五歳。正月八日吉見、平山、庄司連判状に署名す。十八日柏岡源右衛門、同伝七署名す。二十八日茨田、高橋署名す。是月白井孝右衛門、橋本、大井も亦署名す。二月二日西町奉行堀利堅就任す。七日ゆう、みね、弓太郎、いく般若寺村橋本の家に徙(うつ)る。上旬中書籍を売りて、金を窮民に施す。十三日竹上署名す。吉見父子平八郎の陰謀を告発せんと謀(はか)る。十五日上田署名す。木村、横山も亦此頃署名す。十六日より与党日々平八郎の家に会す。十七日夜平山陰謀を跡部に告発す。十八日暁(あけ)六時(どき)跡部平山を江戸矢部定謙の許(もと)に遣(や)る。堀と共に次日市内を巡視することを停(とゞ)む。十九日暁七時吉見英太郎、河合八十次郎英太郎が父の書を懐(ふところ)にして、平八郎の陰謀を堀利堅に告発す。東町奉行所に跡部平八郎の与党小泉淵次郎を斬らしめ、瀬田済之助を逸す。瀬田逃れて平八郎の家に至る。平八郎宇津木を殺さしめ、朝五時事を挙ぐ。昼九時北浜に至る。鴻池等を襲ふ。跡部の兵と平野橋、淡路町に闘ふ。二十日夜兵火息(や)む。二十四日夕平八郎父子油懸町美吉屋五郎兵衛の家に潜(ひそ)む。三月二十七日平八郎父子死す。
九年戊戌 八月二十一日平八郎等の獄定まる。九月十八日平八郎以下二十人を鳶田に磔す。竹上一人を除く外、皆屍(しかばね)なり。十月江戸日本橋に捨札を掲ぐ。
 二月十九日中の事を書くに、十九日前の事を回顧する必要があるやうに、十九日後の事も多少書き足さなくてはならない。それは平八郎の末路を明にして置きたいからである。平八郎は十九日の夜大阪下寺町を彷徨してゐた。それから二十四日の夕方同所油懸町の美吉屋に来て潜伏するまでの道行は不確である。併し下寺町で平八郎と一しよに彷徨してゐた渡辺良左衛門は河内国志紀郡田井中村で切腹してをり、瀬田済之助は同国高安郡恩地村で縊死(いし)してをつて、二人の死骸は二十二日に発見せられた。そこで大阪下寺町、河内田井中村、同恩地村の三箇所を貫いて線を引いて見ると、大阪から河内国を横断して、大和国に入る道筋になる。平八郎が二十日の朝から二十四日の暮までの間に、大阪、田井中、恩地の間を往反したことは、殆(ほとんど)疑を容(い)れない。又下寺町から田井中へ出るには、平野郷口から出たことも、亦(また)推定することが出来る。唯(たゞ)恩地から先をどの方向にどれ丈歩いたかが不明である。
 試みに大阪、田井中、恩地の線を、甚しい方向の変換と行程の延長とを避けて、大和境に向けて引いて見ると、亀瀬峠(かめのせたうげ)は南に偏し、十三峠は北に偏してゐて、恩地と相隣してゐる服部川(はつとりがは)から信貴越(しきごえ)をするのが順路だと云ひたくなる。かう云ふ理由で、私は平八郎父子に信貴越をさせた。そして美吉屋を叙する前に、信貴越の一段を挿入した。
 二月十九日後の記事は一、信貴越 二、美吉屋 三、評定と云ふことになつた。
――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置]
 平八郎が暴動の原因は、簡単に言へば飢饉である。外に種々の説があつても、大抵揣摩(しま)である。
 大阪は全国の生産物の融通分配を行つてゐる土地なので、どの地方に凶歉(きようけん)があつても、すぐに大影響を被(かうむ)る。市内の賤民が飢饉に苦むのに、官吏や富豪が奢侈を恣(ほしいまゝ)にしてゐる。平八郎はそれを憤(いきどほ)つた。それから幕府の命令で江戸に米を回漕(くわいさう)して、京都へ遣(や)らない。それをも不公平だと思つた。江戸の米の需要に比すれば、京都の米の需要は極(ごく)僅少であるから、京都への米の運送を絶たなくても好ささうなものである。全国の石高(こくだか)を幕府、諸大名、御料、皇族並公卿、社寺に配当したのを見るに、左の通である。
      石高実数(単位万石) 全国石高に対する百分比例
徳川幕府   800         29.2
諸大名   1900         69.4
御料      3          0.1
皇族并公卿   4.7         0.2
社寺     30          1.2
――――――――――――――――――――
 計    2737.7        100
 天保元年、二年は豊作であつた。三年の春は寒気が強く、気候が不順になつて、江戸で白米が小売百文に付五合になつた。文政頃百文に付三升であつたのだから、非常な騰貴である。四年には出羽の洪水のために、江戸で白米が一両に付四斗、百文に付四合とまでなつた。卸値(おろしね)は文政頃一両に付二石であつたのである。五年になつても江戸で最高価格が前年と同じであつた。七年には五月から寒くなつて雨が続き、秋洪水があつて、白米が江戸で一両に付一斗二升、百文に付二合とまでなつた。大阪では江戸程の騰貴を見なかつたらしいが、当時大阪総年寄をしてゐた今井官之助、後に克復と云つた人の話に、一石二十七匁五分の白米が二百匁近くなつてゐたと云ふことである。いかにも一石百八十七匁と云ふ記載がある。金一両銀六十匁銭六貫五百文の比例で換算して見ると、平常の一石二十七匁五分は一両に付二石一斗八升となり、一石百八十七匁は一両に付三斗二升となる。百文に付四合九勺である。此年の全国の作割と云ふものがある。
五畿内東山道   45%
東海道      45
関八州    30―40
奥州       28
羽州       40
北陸道      54
山陰道      32
山陽道及南海道  55
西海道      50
―――――――――――――
  ○      42.4%

 これから古米食込高一二%を入れ戻せば、三〇、四%の収穫となる。七年の不良な景況は、八年の初になつても依然としてゐた。江戸で白米が百俵百十五両、小売百文に付二合五勺、京都の小売相場も同じだと云ふ記載がある。江戸の卸値は二斗五升俵として換算すれば、一両に付三斗四合である。
 平八郎は天保七年に米価の騰貴した最中に陰謀を企てて、八年二月に事を挙げた。貧民の身方になつて、官吏と富豪とに反抗したのである。さうして見れば、此事件は社会問題と関係してゐる。勿論社会問題と云ふ名は、西洋の十八世紀末に、工業に機関を使用するやうになり、大工場が起つてから、企業者と労働者との間に生じたものではあるが、其萌芽はどこの国にも昔からある。貧富の差から生ずる衝突は皆それである。
 若し平八郎が、人に貴賤貧富の別のあるのは自然の結果だから、成行の儘(まゝ)に放任するが好いと、個人主義的に考へたら、暴動は起さなかつただらう。
 若し平八郎が、国家なり、自治団体なりにたよつて、当時の秩序を維持してゐながら、救済の方法を講ずることが出来たら、彼は一種の社会政策を立てただらう。幕府のために謀ることは、平八郎風情(ふぜい)には不可能でも、まだ徳川氏の手に帰せぬ前から、自治団体として幾分の発展を遂げてゐた大阪に、平八郎の手腕を揮(ふる)はせる余地があつたら、暴動は起らなかつただらう。
 この二つの道が塞がつてゐたので、平八郎は当時の秩序を破壊して望(のぞみ)を達せようとした。平八郎の思想は未だ醒覚せざる社会主義である。
 未だ醒覚せざる社会主義は、独り平八郎が懐抱してゐたばかりではない。天保より前に、天明の飢饉と云ふのがあつた。天明七年には江戸で白米が一両に付一斗二升、小売百文に付三合五勺になつた。此年の五月十二日に大阪で米屋こはしと云ふことが始まつた。貧民が群をなして米店を破壊したのである。同月二十日には江戸でも米屋こはしが起つた。赤坂から端緒を発して、破壊せられた米商富人の家が千七百戸に及んだ。次いで天保の飢饉になつても、天保七年五月十二日に大阪の貧民が米屋と富家とを襲撃し、同月十八日には江戸の貧民も同じ暴動をした。此等の貧民の頭の中には、皆未だ醒覚せざる社会主義があつたのである。彼等は食ふべき米を得ることが出来ない。そして富家と米商とが其資本を運転して、買占其他の策を施し、貧民の膏血を涸(か)らして自ら肥えるのを見てゐる。彼等はこれに処するにどう云ふ方法を以てして好いか知らない。彼等は未だ醒覚してゐない。唯盲目な暴力を以て富家と米商とに反抗するのである。
 平八郎は極言すれば米屋こはしの雄である。天明に於いても、天保に於いても、米屋こはしは大阪から始まつた。平八郎が大阪の人であるのは、決して偶然ではない。
 平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかつたのである。
――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置]
 平八郎が陰謀の与党は養子格之助、叔父宮脇志摩を除く外、殆皆門人である。それ以外には家塾の賄方(まかなひかた)、格之助の若党、中間(ちゆうげん)、瀬田済之助の若党、中間、大工が一人、猟師が一人ゐる位のものである。橋本忠兵衛は平八郎の妾の義兄、格之助の妾の実父であるが、これも同時に門人になつてゐた。
 暴動の翌年天保九年八月二十一日の裁決によつて、磔に処せられた二十人は左の通である。
大塩平八郎 美吉屋にて自刃す
大塩格之助 東組与力西田青太夫実子 美吉屋にて死す
渡辺良左衛門 東組同心 河内田井中にて切腹す
瀬田済之助 東組与力 河内恩地にて縊死す
小泉淵次郎 郡山柳沢甲斐守家来春木弥之助実子、東組与力養子 東町奉行所にて斬らる
庄司義左衛門 河内丹北郡東瓜破村助右衛門実子、東組同心養子 奈良にて捕はる
近藤梶五郎 東組同心 自宅焼跡にて切腹す
大井正一郎 玉造口与力倅 京都にて捕はる
深尾才次郎 河内交野郡尊延寺村百姓 能登にて自殺す
茨田郡次 河内茨田郡門真三番村百姓 支配役場へ自首す
高橋九右衛門 河内茨田郡門真三番村百姓 支配役場へ自首す
柏岡源右衛門 摂津東成郡般若寺村百姓 支配役場へ自首す
柏岡伝七 同上倅 自宅にて捕はる
西村利三郎 河内志紀郡弓削村百姓 江戸にて願人となり病死す
宮脇志摩 摂津三島郡吹田村神主 自宅にて切腹入水す
橋本忠兵衛 摂津東成郡般若寺村庄屋 京都にて捕はる
白井孝右衛門 摂津守口村百姓兼質屋 伏見に往く途中豊後橋にて捕はる
横山文哉 肥前三原村の人、摂津東成郡森小路村の医師となる 捕はる
木村司馬之助 摂津東成郡猪飼野村百姓 捕はる
竹上万太郎 弓奉行組同心 捕はる
 次に左の十一人は獄門に処せられた。
松本隣太夫 大阪船場医師倅 捕はる
堀井儀三郎 播磨加東郡西村百姓 捕はる
杉山三平 大塩塾賄方 伏見に往く途中豊後橋にて捕はる
曾我岩蔵 大塩若党 大阪にて捕はる
植松周次 瀬田若党 京都にて捕はる
作兵衛 天満北木幡町大工 京都にて捕はる
金助 摂津東成郡下辻村猟師 捕はる
美吉屋五郎兵衛 油懸町手拭地職 自宅にて捕はる
浅佶 瀬田中間 捕はる
新兵衛 河内尊延寺村無宿、深尾才次郎の募に応ず 捕はる
忠右衛門 同村百姓、同上 捕はる
 次に左の三人は死罪に処せられた。
上田孝太郎 摂津東成郡沢上江村百姓 捕はる
白井儀次郎 河内渋河郡衣摺村百姓、白井孝右衛門従弟 捕はる
卯兵衛 摂津東成郡般若寺村百姓 捕はる
 次に左の四人は遠島に処せられた。
大西与五郎 東組与力、平八郎の母兄 捕はる
白井彦右衛門 孝右衛門倅 大和に往く途中捕はる
橋本氏ゆう 実は曾根崎新地茶屋町大黒屋和市娘ひろ 京都にて捕はる
美吉屋つね 五郎兵衛妻 自宅にて捕はる
 次に左の三人は追放に処せられた。
安田図書 伊勢山田外宮御師 淡路町附近にて捕はる
寛輔 堺北糸町医師、西村の姉婿、西村の逃亡を幇助(ほうじよ)す 捕はる
正方 河内渋河郡大蓮寺隠居、杉山の伯父にして杉山をして剃髪せしむ 捕はる
 以上重罪者三十一人の中で、刑を執行せられる時生存してゐたものは、竹上、杉山、上田、大西、白井彦右衛門の五人丈である。他の二十六人は悉(こと/″\)く死んでゐて、内平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇六人は自殺、小泉は他殺、格之助は他殺の疑、西村は逮捕せられずに病死、残余の十七人は牢死である。九月十八日には鳶田で塩詰(しほづめ)にした屍首を磔柱(はりつけばしら)、獄門台に懸(か)けた。江戸で願人坊主(ぐわんにんばうず)[#ルビの「ぐわんにんばうず」は底本では「ぐわんにんぼうず」]になつて死んだ西村丈(だけ)は、浅草遍照院に葬(はうむ)つた死骸が腐つてゐたので、墓を毀(こぼ)たれた。
 当時の罪人は一年以内には必ず死ぬる牢屋に入れられ、死んでから刑の宣告を受け、塩詰にした死骸を磔柱などに懸けられたものである。これは独(ひとり)平八郎の与党のみではない。平八郎が前に吟味役として取り扱つた邪宗門事件の罪人も、同じ処置に逢つたのである。
――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置]
 近い頃のロシアの小説に、□(うそ)を衝(つ)かぬ小学生徒と云ふものを書いたのがある。我事も人の事も、有の儘を教師に告げる。そこで傍輩(ばうはい)に憎まれてゐたたまらなくなるのである。又ドイツの或る新聞は「小学教師は生徒に傍輩の非行を告発することを強制すべきものなりや否や」と云ふ問題を出して、諸方面の名士の答案を募つた。答案は区々(まち/\)であつた。
 個人の告発は、現に諸国の法律で自由行為になつてゐる。昔は一歩進んで、それを褒(ほ)むべき行為にしてゐた。秩序を維持する一の手段として奨励したのである。中にも非行の同類が告発をするのを返忠(かへりちゆう)と称して、これに忠と云ふ名を許すに至つては、奨励の最顕著なるものである。
 平八郎の陰謀を告発した四人は皆其門人で、中で単に手先に使はれた少年二人を除けば、皆其与党である。
平山助次郎 東組同心 暴動に先だつこと二日、東町奉行跡部良弼に密訴す
吉見九郎右衛門 東組同心 暴動当日の昧爽(まいさう)、西町奉行堀利堅に上書す
吉見英太郎 九郎右衛門倅 九郎右衛門の訴状を堀に呈す
河合八十次郎 平八郎の陰謀に与(くみ)し、半途にして逃亡し、遂に行方不明になりし東組同心郷左衛門の倅(せがれ)なり、陰謀事件の関係者中行方不明になりしは、此郷左衛門と近江小川村医師志村力之助との二人のみ 九郎右衛門の訴状を堀に呈す
 評定の結果として、平山、吉見は取高の儘小普請(こぶしん)入を命ぜられ、英太郎、八十次郎の二少年は賞銀を賜はつた。然るに平山は評定の局を結んだ天保九年閏(うるふ)四月八日と、それが発表せられた八月二十一日との中間、六月二十日に自分の預けられてゐた安房勝山の城主酒井大和守忠和(ただより)の邸(やしき)で、人間らしく自殺を遂げた。




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