伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

     その百三十三

 此歳文政六年二月十三日には、蘭軒が友を会して詩を賦した。宿題は「看梅」であつた。十七日には蘭軒の季子柏軒が前年間文学に励精したと云ふを以て、阿部正精の賞詞を受けた。事は勤向覚書に見えてゐる。
 同二月十八日に、菅茶山は神辺にあつて、蘭軒に寄する書に追加したかとおもはれる。本書は前日に作つたもので、それは今伝はらない。饗庭篁村さんの所蔵の書牘中に、首(はじめ)に「追書(つゐしよ)」と記した断簡が是である。
 茶山の文は末に「春社(しゆんしや)」と記してある。そして大田南畝の病の事が書いてある。南畝は中一月を隔てて歿した。わたくしは暦道に□(くら)いが、南畝が歿した年の二月中に八日、十八日、二十八日の戊日のあることを推算し得た。そこで十八日を以て春社となした。
「追書。」
「前日の書に申のこし候こと申上候。先大蔵謙介(おほくらけんすけ)(牛ごみの南御徒士町とやら承候)下地(したぢ)御とゞけ被下候賜(たまもの)もあり。宜奉願上候。下地といへば江戸にては蕎麦の汁などを申候。備後にては由来をいふ。笑申候。」
「華御座(はなござ)は届申候哉。これは山南(さんな)と申処にて出来(いでく)。神辺をさること五里。(日本里程。)かの方にしる人有之、宜くたのむと申遣し候。(凡(おほよそ)たたみ類の事あちらは黒人(くろうと)也。こちらはしらず候ゆゑ也。)勿論浦郷(うらざと)にて便も宜候故也。私添書どもなきをあやしむことなかれ。」
「矢代太郎様御安祥に被遊御座候哉。乍憚宜奉願上候。去年か御伝言被下候御礼も奉頼上候。豊後人田辺主計(かぞへ)と申ものへ御書通、私へも宜(よろしく)と被仰下候由、其方より申来候。前年さし上候うたは御届被下候覧と奉存候。」
「去年長崎名村新八てふをのこ参候。于今(いまに)滞留に候はば御次(おんついで)に宜奉願上候。之子(このし)いかなる用事に候哉。」
「此余申上べき事なし。大田之御病人様いかが。御左右(おんさう)承度候。恐惶謹言。春社。菅太中晋帥。伊沢辭安様。」
「去年狂詩被遣、人にはなしをかしがらせ候。あんなもの又出候はば御こし可被下候。」
「蜀山人先生御病気のよし御次に宜奉願上候。御病状も承度候。衰老は同病也。失礼ながら相憐候かた也。敬白。」
 大蔵謙介はわたくしは其人を詳(つまびらか)にせぬが、その茶山集に見えてゐる大蔵謙甫(けんほ)と同人なることは明である。茶山が甲戌に江戸に再遊した時、謙甫は重陽に牛込の家に招飲した。此書を裁する前年壬午「九日独酌」の詩に自註がある。「甲戌是日。同黒沢正甫、立原翠軒、平井可大。飲大蔵謙甫牛門宅。主客今並無恙。独可大不在。」此会は好記念であつたと見えて、其詩に「老来佳節幾歓場、最憶牛門九日觴」と云つてある。翠軒は甲戌に七十一歳で小石川の水戸邸内杏所(きやうしよ)甚五郎の許にゐた。壬午重陽には七十九歳であつたが、茶山の此書を裁する四日前に八十歳で歿した。詩中「年年縦継藍田会、無復当時杜少陵」は可大(かだい)を悼んだのである。牛込を「うしごみ」と書した例は当時の文に多く見えてゐる。
 大蔵は嘗て茶山に何物をか贈つたことがある。所謂「下地御とどけ被下候賜」である。
 次に謂ふ華蓙(はなござ)は茶山が大蔵に贈つたものか、或は蘭軒に贈つたものか、不明である。何故と云ふに、此条と前の下地の条との間には空白を存ぜず、只行を更めてあるのみで、次の矢代太郎の事は特に行を隔てて記してあるからである。
 華蓙の産地は沼隈郡山南(ぬまくまごほりさんな)である。此郡と御調郡(みつきごほり)とが御荘蓙(みしやうござ)を産する。所謂備後表である。茶山は山南の地名に特に傍訓を附してゐる。

     その百三十四

 屋代弘賢(ひろかた)は此年癸未の武鑑に「奥祐筆所詰、勘定格、百五十俵高、神田明神下、屋代太郎」と記してある。年は六十六であつた。弘賢は前年壬午に豊後の人田辺主計(かぞへ)に書を与へた時、田辺をして菅茶山の起居を問はしめた。又同じ年に茶山は歌を弘賢に贈つた。茶山の書牘には「去年か」と書し、又「前年」と書してあつて、思ひ出づるまに/\筆を下した痕が見える。茶山は屋代を矢代に作つてゐる。
 名村新八は長崎の人で、壬午に神辺を経て江戸に来た。此人が江戸にあつて何事をなしたかは、書を作つた茶山も知らなかつた。「之子いかなる用事に候哉」と疑つてある。
 最後に茶山の書牘には大田南畝が出でてゐる。既に「大田之御病人様いかが、御左右承度候」と書し、又「蜀山人先生御病気のよし(中略)御病状も承度候」と書してある。わたくしは猝(にはか)に見て、大田の病人と蜀山人とは別人ではないかと疑つた。しかし熟(つく/″\)おもへば同人であらう。僅に数行を隔てて同じ事を反復してゐるのは、忌憚なく言へば、老茶山の健忘のためかと推せられる。
 三月二十五日に蘭軒の女(ぢよ)順(じゆん)が、生れて四歳にして夭折した。蘭軒は既に文化二年に長女天津(てつ)を喪(うしな)ひ、九年に二女智貌童女を喪ひ、今又四女順を喪つた。剰す所は三女長のみである。勤向覚書にかう云つてある。「三月廿六日末女病気之処養生不相叶今暁丑中刻病死仕候処、七歳未満に付三日之遠慮引仕候旨、合御触流を以及御達候。」此に二十六日と云つてあるのは届出の日である。先霊名録には実を伝へてかう云つてある。「二十五日。花影禅童女。名阿順。芳桜軒妾腹之女也。母佐藤氏。文政六年癸未三月歿。」
 春夏の交(かう)に阿部侯正精は病気届をしたかとおもはれる。次の年の蘭軒の詩引に、「客歳春夏之際、吾公嬰疾辞職」云云と云つてあるからである。正精は文化元年に奏者番にせられ、三年に寺社奉行を兼ね、十四年に老中に列した。渡辺修二郎さんはかう云つてゐる。「正精閣老たること殆ど七年、公正廉潔を以て聞ゆ。時に同僚水野忠成君寵を得、権威を振ひ、専ら事を用ゐ、請託公行(せいたくこうかう)す。正精忠成が行ふ所を見てこれを是とせず、意見相協(かな)はず、因て病と称して職を辞す。」忠成は沼津の城主水野出羽守である。正精は病と称したとは云つてあるが、事実上にも身体に多少の違例があつたことは、下(しも)に記す如くである。正精の解綬は冬の初に至つて纔に裁可せられた。
 八月朔(ついたち)の蘭軒が覚書に阿部侯の病の事が記してある。「八月朔日、殿様御不快中拝診被仰付候に付、爰元御門並丸山表御門刻限過出入共定御移被下候様、岡西玄亭を以及御達候処、勝手次第と被仰聞候。」爰元(こゝもと)は西丸下の老中屋敷、丸山は中屋敷である。尋(つい)で十月十一日に正精は老中を免ぜられた。蘭軒の詩引には「至冬大痊」と云つてある。正精の違例は甚だ重くはなかつたと見える。
 詩引に「幕府下特恩之命、賜邸於小川街、而邸未竣重修之功、公来居丸山荘、荘園鉅大深邃、渓山之趣為不乏矣、公日行渉為娯」と云つてある。江戸図を検すれば、神田の阿部邸は正精の未だ老中にならなかつた前と、その既に老中を罷めた後と、同じく猿楽町の西側にある。蘭軒が「賜邸」と書したのは故ある事であらうが、福山藩の人に質(たゞ)さなくてはわからない。それはとまれかくまれ、正精は西丸下より小川町に移る中間に、一たび丸山邸に入つたのである。

     その百三十五

 阿部正精は将(まさ)に老中の職を罷めむとする時詩を賦した。「癸未以病辞相、短述□懐」として七律一首、又「同前七絶八首」として聯作の絶句がある。末(すゑ)には「文政六年歳次癸未秋九月下澣、阿正精藁」と署してある。
 此詩は正精が自ら書して古山静斎に与へた。後正精の六男正弘は、静斎の子善一郎のために、「牆羮」の二字を巻首に題した。後漢書の「昔堯□之後、舜仰慕三年、坐則見堯於牆、食則覩堯於羹」に取つたのである。
 七律に云く。「半歳寥寥久抱痾。一朝解綬意蹉□。欲抛人世栄名累。難奈君恩眷寵多。庭際霜寒飄老葉。池頭秋晩倒枯荷。回思二十年間夢。浩歎□□駒隙過。」第七の下(しも)に「甲子蒙典謁之命、丙寅兼領祠曹、丁丑陞相位、通前後廿年」と註してある。二十三字の官歴である。
 絶句に云く。「抛擲世紛半歳余。繩床一臥愛間居。解官猶在城門内。無復邸前停客車。」第一は蘭軒の「春夏之際」と書した文と符する。免罷の未だ発表せられぬに、門前客が絶えた。九月には猶西丸下(にしまるした)にゐたのである。「又。陸雲之癖癖做病。一擲功名此挂冠。憶得春秋五十夢。猶疑身是在邯鄲。」正精は四十九歳であつた。第三ある所以である。「做病」は或は「為□」の誤ではなからうか。「又。一年沈痼尚難痊。避位避官本任天。縁是君恩深到骨。未能采薬去従仙。又。菊砕蘭摧各一時。人間変態総如此。尚存憂国愛君意。毎使夢魂夜夜馳。」「此」は「斯」に作るべきである。「又。七年相位夢初醒。解綬一朝意自寧。遮莫斯身辞眷寵。儘将風月送余齢。又。病躯却喜出塵寰。得告一朝免綴班。門外雀羅設猶未。南窓翻帙領清間。又。陸癖作痾十月余。翻将翰墨付間居。看他多少男児輩。何事営営索世誉。又。春秋已届五旬齢。病鶴離群似鏃□。疇昔飛鳴九天上。夢魂時復到朝廷。」
 茶山の集に「恭次公製辞相短述一律八絶句瑤韻」の作がある。七律。「中歳抽簪為病痾。七年重較豈蹉□。官途憂思随時在。人世歓場到処多。自有名園開緑野。不関初服製青荷。久将恩沢流寰宇。非是光陰徒爾過。」絶句其一。「苑在城中十頃余。紅塵不染似山居。尋涼月径試間歩。愛暖花陰停小車。」其二。「明時賢哲晦終難。赤□何曾称褐冠。伯予宜重位山岳。呂翁漫説夢邯鄲。」其三。「賜休半載病初痊。行薬東橋二月天。晴院嬌鶯鳴哈哈。午階狂蝶舞僊僊。」第一は蘭軒の「至冬大痊」の文と符する。其四。「芹宮憶昔息遊時。東魯多賢乃取斯。不怪他年枢要路。王良特地範駆馳。」其五。「捧誦瑤篇愁始醒。緩声忻見体中寧。祈君不改台池楽。延寿能同亀鶴齢。」其六。「隠棲何必水雲寰。貴爵仍従鴛鷺班。碑帖庫添新巻第。琴詩客会旧遊間。」其七。「投間始得事三余。却見臣僚警逸居。都下日伝輿誦美。公偏百計避声誉。」其八。「暫辞鳳穴未頽齢。寧比仙禽老□□。看取分憂勤所職。藩城非是小朝廷。」
 蘭軒は此時次韻の作が無かつた。それゆゑ正精の丸山邸に居るに及んで、次年元日の詩に和して、其引に侯の挂冠(くわいくわん)の事を追記した。

     その百三十六

 此年文政六年十一月二十三日に、菅茶山が書を蘭軒に与へた。書中には多く北条霞亭の歿後の事が言つてある。霞亭は是より先八月十七日に嚢里(なうり)の家に歿した。墓表に「居丸山邸舎三年、罹疾不起、実文政癸未八月十七日、享年四十四、葬巣鴨真性寺」と書してある。茶山の此書は文淵堂蔵の花天月地中に収めてある。
「一筆啓上仕候。時節寒冷催候。愈御安祥御座被成候哉承度奉存候。北条事最早可申ことも無御座候。何さま家内無事に大坂迄著、明廿四日には大かた帰宅可仕やと書状にて申こし折角待ゐ申候。始終段々御世話難申尽候。これは後信にも可申上候。其内急便、先帰宅明日にあり候事を申上候。」
「これも途中いろ/\事有之候。先箱根にて御書付と髪の結(ゆひ)ぶり違候とて引付られ、半日余もかかり候由。(金三歩出し候由。)又被指添候(さしそへられそろ)足軽池鯉鮒(ちりふ)之駅にて吐血急症、近隣近郷之医を招候由。(これは三両余の入用と申すこと。)しかし箱根もすみ、池鯉鮒も翌日発足いたす位になりし由、不幸中之幸なるべし。明日帰りて委細不承候内は、往来上下(じやうか)人足の沙汰計、書状も瑩々とわけきこえかね候故、確然は得信可申上候。」
「何様始終之御邪魔御面倒可謝詞もなく候。先大坂迄帰著の処申上候。鵜川段々世話いたしくれられ候由、此事御申伝尚御たのみ可被下奉願上候。御内公(うちぎみ)令郎(れいらう)至おさよどの(おさよどのにいたる)まで、宜(よろしく)御礼奉願上候。恐惶謹言。十一月廿三日。菅太中晋帥。伊沢辞安様。」
「北条妻は私が姪女(てつぢよ)也。ことさらの鈍物、御世話奉察候。初め東行仕候時、(去々年也)心に落着いたさずつらき事、何ごとも必辞安先生に申上よと申遣候。いかが候や覧。」
「用事。」
「北条事に付これはかくせよ、かれはいかゞせよと被仰下たく候。」
「牧唯助(まきたゞすけ)(むかしの臼杵直卿(うすきちよくけい)也)松平冠山様之以状御たのみの事申遣候。うんともすんとも返事無之候。御先方貴人に候へばはやく承度候。御きき可被下候。」
「余に一も申上べき事なし。春以来大旱雨なし。雷は一年一声もきかず候。或云。遙雷はなりたれども老聾(らうろう)きこえざるなりと。筑前は十月廿四日大雷大雨と申こと。雨は八月に少々ふり、其後まだふらず、冬之大旱也。御地は雨しげく候よし、ふるもふらぬもさだめなき世の中也。」
 霞亭の妻井上氏は、頃日(このごろ)福田禄太郎さんを介して、黒瀬格一さんに検してもらつた所に徴するに、名は敬(きやう)である。菅波久助の次女、茶山の妹、井上源右衛門の妻にちよと云ふものがあつた。此ちよの三女が敬である。
 久助の次男、茶山の弟猶右衛門汝□(じよへん)に、一子長作万年があつた。万年は初め井上源右衛門の次女さほを娶り、さほの歿後に其妹敬を納れた。万年が歿して、敬が寡居してゐたのを、茶山が霞亭に妻(めあは)せた。
 敬が霞亭に随つて江戸に向ふとき、茶山は何事をも蘭軒に相談せよと言ひ含めた。茶山は所謂「鈍物」の上を気遣つて蘭軒に託したのであつた。浜野知三郎さんの語る所に拠れば、辛巳の歳に霞亭は一たび江戸に来て、尋(つい)で神辺へ敬を迎へに帰つたさうである。しかし敬が嚢里の家の落成に先(さきだ)つて来てゐたことは、移居の詩に「家人駆我懶」と云ひ、「団欒対妻孥」と云つてあるを見て知られる。

     その百三十七

 北条霞亭と其妻敬とが辛巳の歳に江戸に来てから、此年癸未に至るまで、足掛三年の間、蘭軒の家と往来してゐたことは明である。霞亭が菅茶山の書牘を剪(き)り断つて蘭軒に示したことは、上(かみ)に云つた如くである。
 しかし敬が果して、茶山の誨(をし)へた如くに、蘭軒を視ること尊属に同じく、これに内事を諮(はか)つたかは疑はしい。少くも此の如き証跡は一も存してゐない。
 さて此年八月十七日に霞亭は病死した。主家阿部氏に於ては、正精(まさきよ)が病と称して事を視ざるに至つてから、四五箇月の月日が立つてゐる。霞亭は解褐(かいかつ)以来未だ幾(いくばく)ならぬに死んだ。しかも主家に事ある日に死んだ。其臨終の情懐を想へば、憐むべきものがある。
 わたくしは霞亭に痼疾のあつたことを聞かない。其死を致した病は恐くは急劇の症であつただらう。わたくしは唯霞亭が酒を嗜(たし)んだことを知つてゐる。酒を嗜むものは病に抗する力を殺(そ)がれてゐるものである。急病に於て殊にさうである。
 霞亭の酒を嗜んだことは、何に縁(よ)つて知つたか。わたくしは頃日(このごろ)浜野知三郎さんに就いて、霞亭の著す所の書数種を借ることを得た。霞亭渉筆は其一である。渉筆に左の二条がある。
「予性疎慢。一切之物。寡所嗜好。唯有酒癖。習以成性。欲止未能。然年歯漸長。節而飲之。亦似不甚害。要之在人。不在酒也。毎誦汪遵詩。九□松醪一曲歌。本図間放養天和。後人不識前賢意。破国亡家事甚多。深以為知言。」
「蜀志諸葛孔明戒子曰。夫酒之設。合礼致情。適体帰性。礼終而退。此和之至。主意未殫。賓有余豪。可以至酔。無致於乱。此言可謂唯酒無量不及乱好註脚。」
 わたくしは酒が必ず霞亭に祟をなしたとは云はない。しかし霞亭の酒を説くを見るに、自ら嘲る中に自ら解する意を含んでゐる。わたくしは此を除いては、霞亭の健康を害すべき所以のものを知らぬから、これに言及した。
 霞亭は歿して、跡に未亡人敬が遺つた。子は山陽が「生二女、皆夭」と云つてゐるから、恐くは既に亡かつただらう。霞亭の父適斎道有は、霞亭の弟惟長をして家を嗣がしめ、霞亭に分家せしめてゐたから、敬には仕ふべき舅姑(きうこ)は無い。的屋には敬の帰るべき家は無い。山陽は「考以次子立敬承家」と書してゐる。立敬は惟長である。
 そこで敬は神辺(かんなべ)の里方へ帰ることとなつた。敬は江戸を立つて東海道にさし掛かつた。然るに江戸より神辺に至る途中に、茶山の書牘に云ふ如く、二三の厄難があつた。
 敬は箱根の関に半日余抑留せられた。それは髪の結振(ゆひぶり)が書付と符せぬが故であつた。或は後家らしい髪が途上却つて人の目に附くを憚つて、常体(つねてい)に改めてゐたのであらうか。関の役人は金三歩を受けて、纔(わづか)に敬を放つて去らしめた。当時の吏の収賄である。わたくしは此汚吏の長官の誰なるかを検して見た。此年の役人武鑑に箱根の関所番として載せてあるのは、相模国小田原の城主大久保加賀守忠真(たゞざね)であつた。或はおもふに当時の吏は例として此の如き金を受け、その収賄たるに心付かずにゐたのではなからうか。

     その百三十八

 北条霞亭の未亡人敬は僅に箱根の関を踰(こ)ゆることを許されて、池鯉鮒(ちりふ)の駅まで来ると、又一の障礙に遭つた。それは江戸から供をして来た足軽が重病を発したのである。証候(しようこう)は喀血若くは吐血であつた。敬の一行は医を延(ひ)いて治を求め、留宿一日、費金三両で此難をも脱することを得た。
 敬等は大坂に著いた。菅茶山は神辺にあつてこれを聞いた。そして書を裁して蘭軒に報じたのである。茶山は敬等が此年文政六年十一月二十四日に神辺に帰り著くことを期してゐた。
 江戸には未亡人敬の帰り去つた後、猶亡(ばう)霞亭のために処理すべき事があつたと見える。茶山は蘭軒に、「北条事に付これはかくせよ、かれはいかがせよと被仰下たく候」と委嘱してゐる。霞亭の葬られた寺の事、北条氏の継嗣の事等であつただらう。巣鴨の真性寺に、頼山陽の銘を刻した墓碣(ぼけつ)の立てられたのは、此より後九年であつた。浜野知三郎さんの言(こと)に拠るに、「北条子譲墓碣銘」は山陽の作つた最後の金石文であらうと云ふことである。霞亭の家は養子退(たい)が襲いだ。山陽は「河村氏子退為嗣、即進之」と云ひ、「其子進之寓昌平学」と云つてゐる。所謂河村氏は嘗て文部省に仕へた河村重固(しげかた)と云ふ人の家で、重固の女(ぢよ)が今の帝国劇場の女優河村菊枝ださうである。
 霞亭の遺事は他日浜野氏が編述し、併て其遺稿をも刊行する筈ださうである。わたくしは上(かみ)に云つた如く、浜野氏に就いて既刊の霞亭の書二三種を借り得たから、読過の間にわたくしの目に留まつた事どもを此に插記しようとおもふ。人若しその道聴途説(だうていとせつ)の陋(ろう)を咎むることなくば幸である。
 山陽は霞亭の祖先を説いて、「其先出於早雲氏」と云つた。霞亭も亦自ら其家系を語つてゐる。渉筆に云く。「昔吾家宗瑞入道。嘗召一講師読七書。首聴三略主将之法務攬英雄之心句。断然曰。吾已領略。其他不欲聞之。英豪之気象。千載如生。而斯語也。実名言也。為将帥者不可不服膺。」軼事(いつじ)は今人の皆知る所である。わたくしの此に引いたのは、その霞亭の筆に上つたためである。
 次に山陽は「後仕内藤侯、侯国除」と云つてゐる。そして「志摩的屋人」の句は先祖を説くに先だつて下(くだ)してある。文が頗る解し難い。所謂「内藤侯」の何人(なにひと)なるかは、稍(やゝ)史に通ずるものと雖、容易に知ることが出来ぬであらう。わたくしは山陽が強て人の解することを求めなかつたのではないかと疑ふ。
 渉筆に西村維祺(ゐき)の文が載せてある。霞亭の曾祖父道益の弟僧了普(れうふ)の事を紀(き)したものである。了普の伝は僧真栄の伝と混淆して、二人の同異を辨じ難い。西村は「子譲初欲自書栄公事、顧命予其撰」と云つてゐる。西村維祺は或は驥□(きばう)日記の西村子賛(しさん)ではなからうか。此篇は霞亭の世系を説くこと、墓誌に比すれば稍(やゝ)詳である。わたくしはこれを読んで、始て内藤侯とは或は此人ではなからうかと云ふ、微(かすか)なる手がかりを得た。

     その百三十九

 西村維祺は北条霞亭の曾祖父道益の弟僧了普が事を紀(き)する文にかう云つてゐる。「予友北条子譲先。嘗事鳥羽内藤侯。及侯亡。提家隠于的屋。」此句の下(しも)に、「時北条省為北氏、或称喜多」と註してある。
 霞亭の遠祖の主家内藤某は鳥羽に封ぜられてゐた。内藤氏の城池のある鳥羽とは何処か。角利助(すみりすけ)さんの説くを聞くに、鳥羽は的屋より程遠からぬ志摩国鳥羽で、封を除かれた内藤氏は延宝八年六月二十七日に死を賜はつた内藤和泉守忠勝である。
 北条氏の的屋に住んだのは、内藤氏の亡びた後である。此時一旦北条を改めて北と云ひ、又喜多とも書した。山陽は「曾祖道益、祖道可、考道有、皆隠医本邑」と書してゐる。要するに曾祖以後は皆的屋の医であつた。道益の弟僧了普は三箇所村棲雲庵(せいうんあん)に住んで、寛保三年某月二十六日に寂した。然るに此了普と僧真栄との事蹟が混淆して辨じ難くなつてゐる。西村は「栄普二公、其跡迷離」と云つてゐる。唯真栄は享保七年九月七日に寂して、北岡に碑があり、了普は棲雲庵に碑がある。西村は「的是両人」と断じ、「或疑了普学書於真栄、以其善書、世亦直称無量寺也歟」と追記してゐる。越坂(をつさか)の無量寺は真栄終焉の地である。
 霞亭の父道有は適斎と号した。山陽は「娶中村氏、生六男四女」と云つてゐる。帰省詩嚢を見れば、適斎は文化十三年丙子に七十の寿宴を開いた。神辺(かんなべ)から帰つて宴に列つた霞亭は、「三弟及一妹、次第侍厳慈」と云つてゐる。寿を献じたものは長子霞亭以下の男子四人と女子一人とであつた。霞亭の弟の中維長立敬は適斎の継嗣である。山陽は「以次子立敬承家」と云つてゐる。
 霞亭は安永九年に生れた。適斎が三十四歳にしてまうけた嫡男である。
 霞亭は幼(いとけな)かつた時の家庭の一小事を記憶してゐて、後にこれを筆に上(のぼ)せた。それは天明八年に霞亭が九歳であつた時の事である。霞亭に、惟長でない今一人の弟があつて、名は彦(げん)、字(あざな)は子彦(しげん)、通称は内蔵太郎(くらたらう)と云つた。彦は天明四年生で、此年五歳であつた。霞亭が文化戊辰に著した文の渉筆中に収められたものはかうである。「記二十年前一冬多雪。予時髫□喜甚。乃与穉弟彦。就庭砌団雪塑一箇布袋和尚。坐之盆内。愛翫竟日。旋復移置寝処。褥臥視之。其翌起問布袋和尚所在。已消釈尽矣。弟涕泣求再塑之不已。而雪不可得。母氏慰諭而止。後十余年。彦罹疾没。爾来毎雪下。追憶当時之事。其声音笑貌。垂髦之□□。綵衣之斑爛。宛然在耳目。併感及平生之志行。未嘗不愴然悲苗而不秀矣。」
 霞亭が志を立てて郷を出でたのは、寛政九年十八歳の時であつたらしい。詩嚢に「跌蕩不量分、功業妄自期」と云ひ、「不事家人産、遠与膝下辞」と云つた時である。適斎は子を愛するがために廃嫡した。山陽は「以次子立敬承家、聴君遊学」と云つてゐる。此事が霞亭十八歳の時に於てせられた証は、渉筆に自ら「予年十八遊京師」と云ひ、又嵯峨樵歌(せうか)の首に載せてある五古に韓凹巷(かんあふこう)が、「発憤年十八、何必守弓箕、負笈不辞遠、就師欲孜々」と云ふに見て知られる。樵歌も亦わたくしの浜野氏に借りた書の一である。

     その百四十

 北条霞亭は寛政九年に十八歳にして的屋を出で、先づ京都に往つた。わたくしの狭い見聞を以てするに、文学の師に皆川淇園があり、医学の師に広岡文台(ぶんたい)があつたことは明である。霞亭は「不事家人産」とは云つてゐるが、初猶伝家の医学を廃せずにゐたのである。
 淇園は人の皆知る所なれば姑(しばら)く置く。文台、名は元(げん)、字(あざな)は子長(しちやう)、伊賀の人である。渉筆に霞亭の自記と、韓凹巷(かんあふこう)の文とがあつて、此人の事が悉(つく)してある。霞亭は文台の平生を叙して、「受学赤松滄洲翁、蚤歳継先人之志、潜心長沙氏之書、日夜研究、手不釈巻、三十年如一日矣、終大有所発揮、為之註釈、家刻傷寒論是也」と云ひ、凹巷は「聞先生終身坎※[#「土へん+稟」、7巻-278-下-1]、数十年所読、唯一部傷寒論、其所発明、註成六巻、既梓行世」と云つてゐる。
 文台は霞亭の初て従遊した時四十三歳であつた。それは十八歳の霞亭が「長予二十五歳」と云つてゐるので知られる。霞亭の云く。「予年十八遊京師。初見先生。時時就質傷寒論之疑義。先生長予二十五歳。折輩行交予。遇我甚厚。毎語人曰。夫人雖少。志気不凡。必当有為。」霞亭のためには、文台は獲易からざる知音であつた。
 霞亭は京都に学んだ頃、心友韓凹巷を獲、又長孺(ちやうじゆ)、仲彜(ちゆうい)、遠恥(ゑんち)の三人と交つた。長孺は堀見克礼(こくれい)さんの言(こと)に従へば、清水氏、号は雷首(らいしゆ)、通称は平八ださうである。遠恥、名は恭(きよう)、号は小蓮(せうれん)、鈴木氏、修(しう)して木(ぼく)と云つた。所謂木芙蓉(ぼくふよう)の子である。仲彜は越後国茨曾根(いばらそね)の人関根氏であるらしい。長孺、仲彜の事は凹巷の五古に、「幸為同門友、一朝接清規、(中略、)有時過我廬、吟興黙支頤、(中略、)憶曾長孺宅、邀君奏□※[#「たけかんむり/「虎」の「儿」に代えて「几」」、7巻-279-上-2]、豪爽人倶逝、長孺及仲彜」と云つてある。遠恥の事は渉筆に、「弱冠負笈西遊、予時在京師、相見定交、同筆硯殆半年」と云つてある。若しその霞亭との交が、早く霞亭京遊の第一年に於てせられたとすると、正に十九歳になつてゐた。
 霞亭は京に上(のぼ)つた年の暮に一たび帰省した。渉筆に云く。「寛政丁巳十二月。予出京赴郷。会天陰風粛。比過山科村。微雪飄瞥。点綴翠竹碧松之梢。寒景蕭散可愛。須臾愁雲四合。雪大如拳。積素満径。幾欲没腰。顛倒踉蹌。走就鶴浜茶店。卸担踞竈。以燎湿衣。少焉風止雲朗。予推窓試観。則天台比良三上諸峰。如白玉削成。園城寺之仏観法塔。如瓊宇瑤台。涌出霄漢之間。湖面一帯。倒暎揺蕩。宛若銀竜矯矯盤旋。令人心胆澄徹。坐作登仙之想。真奇観也。至今一念其境。恍如身在其中。雖盛夏酷暑。煩悶之苦堪頓忘矣。」
 霞亭が京都に遊学してゐた第二年、寛政十年に霞亭の弟彦(げん)が的屋から出て来た。そして霞亭の友源□瑰(げんまいくわい)と云ふものに師事した。渉筆に彦の事を叙して、「寛政戊午遊学京師、師事友人□瑰源先生」と云つてある。わたくしは未だ北条氏の系譜を見ぬから、彦と惟長と孰(いづれか)長、孰幼なるを知らない。しかし霞亭は自ら彦を称して「予次弟」と云つてゐる。これは直(すぐ)次(つぎ)の弟と解すべきではなからうか。此見解は山陽が「考(適斎)以次子立敬承家」と書したのと或は合はぬかと疑はれる。但し山陽は後に既成の迹より見て筆を下(くだ)したかも知れない。霞亭が遊学したのと、適斎が霞亭の嫡(てき)を廃し、代ふるに惟長立敬を以てしたのとは、必ずしも同時ではないかも知れない。山陽は彦が既に早世してゐたので、其次の惟長を次子と称したかも知れない。源□瑰は未だ考へない。要するに彦は、歿年より推すに、十五歳にして京都に来り、十九歳の兄霞亭と同居したものとおもはれる。

     その百四十一

 北条霞亭が京都に遊学した第二年、寛政十年には猶霞亭の筆に上(のぼ)つた一条の軼事(いつじ)がある。それは皆川淇園が歿してから一年の後、文化五年戊辰十一月に記して、後渉筆中に収めたものである。「十年前。余在京師。一日従先師淇園先生遊東山。路由京極御門。過一縉紳家門。先生乃指示曰。此万里小路氏也。又指示其西北隅之門曰。建武中。中納言避世。遁北山。微服従此出。其家哀慕其人。不忍出入其門。関鑰不肯啓。雖第邸変徙。旧制尚存。即此。余聞之。恍爾想像当時之艱。吁嗟不能已。爾後毎過其側。未曾不粛爾起敬矣。按太平記。藤房既知諫之不可行。特詣内廷拝帝。比退朝。直赴北山。是或一伝也。」
 霞亭は藤房を以て我国宋儒の最初の一人として尊崇してゐた。通途(つうづ)の説に従へば、始て朱註の四書を講じたものは僧玄慧(げんゑ)で、花園、後醒醐両朝の時である。然るに霞亭は首唱の功を藤房の師垂水(たるみ)氏に帰してゐる。わたくしは垂水氏の事を詳(つまびらか)にせぬが、往古唐通詞の家であつたらしい。霞亭は「四書集註、初伝播我邦、垂水広信崇信読之、藤房従而受業、或云、玄慧法師始講之、藤房玄慧同時与交、則其授受固当相通」と云つてゐる。
 遁世後の藤房に就いては、霞亭は妙心寺六祖伝の僧宗弼(そうひつ)を以て藤房とする説を取つてゐない。即ち今の史家の説に合してゐる。霞亭は一家の想像説を立てて、藤房は北山より近江国三雲に往き、其後越前国鷹巣山に入り、其後土佐国に渡らむとして溺れたやうに以為(おも)つてゐる。其文はかうである。「今以臆推之。三雲之棲。当在出北山之初。何以知之。以地相近。且従者尚在也。鷹巣之事。在三雲之後。土佐之行。又在鷹巣之後。何以知之。以拾遺(吉野拾遺)所言也。」
 霞亭の二十歳になつた寛政十一年の夏、弟彦(げん)は京都より的屋に帰つて、其秋十六歳で早世した。渉筆に、「翌年(戊午翌年)夏、帰省在家、九月十九日没、年十六歳」と云つてある。
 霞亭は京都を去つて江戸に来た。わたくしは未だ其年月を知らない。山陽は此間の事を、「入京及江戸」の五字中に収めてゐる。或は「及江戸」の三字中と云つた方が当つてゐるだらう。凹巷(あふこう)も亦「飄忽君東去、去舟汎不維」と云つてゐるだけである。しかし京を去つた年は或は享和二年ではなからうか。後庚午の年に、再び広岡文台(ぶんたい)を訪うて其死に驚く紀事に、「凡経八年南帰」と云つてあるからである。
 霞亭の確に江戸にゐた年は、享和三年である。其二十四歳の時である。此年七月には或は既に入府してゐたやうにおもはれ、十二月には確に在府したことが、その自ら語る所に徴して知られる。
 七月は霞亭の友鈴木小蓮(せうれん)の歿した月である。渉筆に、「遠恥東帰、開業授徒、享和癸亥七月、病麻疹而没、年纔二十五、府下識与不識、莫不悼惜者、親友輯其遺稿若干篇上木、予亦跋其後、小蓮残香集是也」と云つてある。先づ「府下」の字を下(くだ)し、次で「親友」の字を下し、後に「予亦」の字を以て承(う)けてゐる。わたくしをしてその在府者の語たるを想はしむるのである。
 十二月には霞亭が舟を柳橋に倩(やと)うて、墨田川に遊んだ。同遊者には河崎敬軒があつた。又池隣哉(ちりんさい)と云ふものがあつた。河崎は十二年の後、菅茶山と共に西帰して、驥□(きばう)日記を著した人である。池は十三年の後、霞亭が廉塾から的屋に帰つた時家にあつて、霞亭と弟惟長とに訪はれた人である。

     その百四十二

 北条霞亭が二十四歳の時、歳晩に舟を墨田川に泛べた記は渉筆に見えてゐる。「予嘗居江戸数年。享和癸亥歳晩。河良佐池隣哉来在府下。一日快雪初霽。予与二子。乗興出遊。遂到柳橋。命舟泛於墨水。両岸人家。白玉合成。銀閣瑤楼出其上。左右映帯。一棹悠々。挙酒賦詩。楽甚。隣哉出所齎香□炉。一縷烟出窓外。真如坐画図中舟。幽遠清澹之趣。□与塵凡隔。実一時之勝事也。」亨和中の諸生は香を懐にして舟に上(のぼ)つた。当時の支那文化は大正の西洋文化に優つてゐたやうである。
 霞亭は江戸にあつて学業成就した。そして某藩の聘を避けむがために、奥州に赴いた。偶(たま/\)韓凹巷(かんあふこう)が伊勢国から来て此行を偕(とも)にした。山陽は「学成、一藩侯欲聘致之、会聯玉来偕遊奥、以避之」と云つてゐる。
 此北遊の年月はわたくしの未だ知らざる所である。しかし或は文化元年甲子二十五歳の時ではなかつただらうか。凹巷はかう云つてゐる。「松島偶同遊。柳橋訂此期。独奈河良佐。客中臨路岐。迢々彼遠道。共指天之涯。下毛路向東。十月朔風吹。(中略。)帯月発荒駅。衝雨尋古碑。塩浦過群嶼。宛如局上棋。有楼収全境。眼中無蔽虧。富山又石港。探勝路逶□。」わたくしは先づ「柳橋訂此期」の句と、敬軒の別れ去つたことを叙する数句とに注目する。
 わたくしは此詩句を取つて、姑(しばら)く妄(みだり)に下(しも)の如くに解する。霞亭の学術は前年癸亥に略(ほゞ)成つた。歳晩の舟遊は、その新に卒業して気(き)揚(あが)り興(きよう)豪(がう)なる時に於てせられた。柳橋の船宿で艤(ふなよそほひ)を待つ間に、霞亭は敬軒と松島に遊ぶことを約した。即ち「柳橋訂此期」である。然るにかねて契つた敬軒は官事に覊(き)せられて別を告げ、偶(たま/\)来つた凹巷が郷人に代つて行を同じくした。即ち「松島偶同遊、柳橋訂此期、独奈河良佐、客中臨路岐」である。柳橋の約はその訂せられた日より、その果たされた日に至るまで、多少の遷延を蒙つた。甲子の春が過ぎ、夏秋が過ぎた。霞亭と凹巷とが江戸を離れて下野国(しもつけのくに)に入り、路を転じて東に向つたとき、十月の風が客衣を飜した。「下毛路向東。十月朔風吹。」その東に向つたのは、宇都宮附近よりしたことであらう。
 二人は奥州街道を北へ進んで、仙台附近より又東に折れ、多賀城の碑を観た。其日は途中から雨になつた。「帯月発荒駅。衝雨尋古碑。」此より塩釜に遊び、富山(とみやま)に上り、石の巻に出た。「塩浦過群嶼。宛如局上棋。(中略。)富山又石港。探勝路逶□。」
 壮遊の興は此に至つて未だ尽きなかつた。わたくしは凹巷の詩に就いて、二人の鞋痕(あいこん)を印した道を追尋(つゐじん)することとする。詩にはかう云つてある。「更登高館墟。長吁歎文治。(中略。)唯余中尊寺。遺構纔未□。北対琵琶城。衣川長渺瀰。吹雪一関風。風刀劈面皮。帰途海浜険。魂断足胼胝。」
 二人は北上川に沿うて北し、文治の故蹟を高館(たかだち)に訪うて判官義経を弔し、中尊寺に詣で、衣川(ころもがは)を隔てて琵琶の柵の址(あと)を尋ね、一の関に至つて方(まさ)に纔(わづか)に踵(くびす)を回(めぐら)した。琵琶の柵は泉の城の別名である。
 帰路は海に沿うて南し、常陸の潮来(いたこ)に遊んだ。服部南郭の昔俗謡を翻(ほん)した所で、当時猶狭斜の盛を見ることが出来たであらう。後安井息軒が東遊の日に至つてさへ、妓館屋牆(ぎくわんをくしやう)の麗が旧に依つて存してゐたと云ふからである。凹巷の詩には「絃※[#「鼓/兆」、7巻-283-下-11]潮来夕、弛棹水中□」と云つてある。
 江戸に還つてから、霞亭は雨中凹巷を品川に送つた。凹巷の詩に「最記対烟雨、品川泣別離、(中略、)一別茫如夢、爾来歳月移」と云つてある。

     その百四十三

 北条霞亭は北遊より江戸に還つて、韓凹巷(かんあふこう)の西帰を品川に送つたが、其後幾(いくばく)ならぬに江戸を去つて、相模に往き、房総に往つた。凹巷の詩にかう云つてある。「聞君去江戸。浪迹又何之。(中略)房山与相海。孤往愁可知。(中略)慨然懐往昔。寄我鴻台詩。」
 此等の小旅行の月日は、わたくしは今これを審(つまびらか)にせぬが、北遊の翌年、文化二年の歳の暮に、霞亭が今の上総国君津郡(きみつごほり)貞元村(さだもとむら)の湯江(ゆえ)にゐたことは明である。渉筆にかう云つてある。「文化乙丑十二月。予遊南総。寓湯江村法岸精舎十余日。予与主僧二人而已。幽僻荒涼。除読書外無一事。一日天寒雪飛。林岫皓然。予緩歩遶庭園。俄而主僧温濁酒一瓶。摘蔬為羹侑予。予喜而謝。細酌間吟。頗得風致焉。蓋主僧憐予岑寂。倩村童遠※[#「貝+(やね/示)」、7巻-284-上-15]得也。一枯禅山僧。能解人意如此。亦可嘉。」法岸寺(はふがんじ)と云ふ寺は今猶湯江にあるか、どうだか。
 相模房総の遊後に、霞亭は再び北して越後に入つた。山陽の墓誌には「又寓越後」の四字が下(くだ)してある。凹巷の詩にはかう云つてある。「去此客于越。章甫未必悲。越人虚席迎。敬待物如儀。(中略)游賞渉春夏。新潟洵所宜。(中略)山水待君顕。文章敵七奇。」
 霞亭の越後に寓したのが、某年の春夏であつたことは、此凹巷の語に由つて知られる。そして某年は必ず文化四年でなくてはならない。何を以て謂ふか。渉筆に載せてある戊辰の記に下の一段があるからである。「去年仲春。主茨曾根関根氏。一夕与主人飲于斎中。大杯満酌。頽然酔倒。不知主人起去。夜将半渇甚。起視則篝燈□々。寂無人声。啓戸窺庭。雪月争輝。満園之樹如爛銀。予不覚叫奇三声。惟恨無同賞心者。困憶子猷山陰之興。誦招隠詩数回。取雪水煮茶。兀坐達旦。其襟抱之清。不言可知。」茨曾根村(いばらそねむら)は中蒲原郡白根町(しろねまち)の南にある。丁卯三月に霞亭は茨曾根にゐた。此より後夏を新潟に過したのであらう。
 此北越の遊が文化四年であつたことは、上(かみ)の文を草し畢(をは)つてから、凹巷の北陸游稿を見てこれを確証することを得た。此書はわたくしの曾て一たび蔵して、後これを失ひ、今又一書估の齎し来るに会つて購(あがな)ひ求めたものである。游稿の序は亀田鵬斎が撰んでゐる。其文にかう云つてある。「友人志州北条子譲。丁卯歳先我游于信越之間。為北游摘稿数十篇。上梓以問世。」此に由つて観れば霞亭の游は啻(たゞ)に筆に上(のぼ)せられたのみならず、又梓(あづさ)にも上せられてゐるのである。
 記して此に至つて、わたくしは再び霞亭南帰の問題に撞著(たうちやく)する。霞亭は越後より南帰して、伊勢国度会郡(わたらひごほり)林崎に駐(とゞ)まつた。此間の事を叙するに、山陽の筆は唯空間を記して時間に及ばない。
 凹巷の詩には此事を叙してかう云つてある。「異郷雖可楽。故国有厳慈。学成勝衣錦。菽水想怡々。信中攀桟道。帰思日夜馳。別来已八年。訪我顧茅茨。(中略。)経過従此数。咫尺寓林崎。」わたくしは初め「別来已八年」の句を下の「訪我」に連(つら)ねて読んだ。しかし霞亭と凹巷とが奥州より帰つて品川で袂を分つた文化甲子の後八年は、霞亭が嵯峨幽棲の後となる。別来の句は上に連ねて読まなくてはならない。即ち厳慈(げんじ)に別れてより八年である。
 此八年と云ふことは、凹巷が他所に於ても亦云つてゐる。霞亭と其医学の師広岡文台(ぶんたい)とは、別後久しきを経て再会すべきであつたに、文台は期に先だつて歿した。凹巷の所謂「訪我顧茅茨」の日は、霞亭が此恨事(こんじ)を閲(けみ)する直前と直後とにあつた。そして此事のあつたのは、霞亭が外にあること八年にして南帰した時であつたと云ふのである。

     その百四十四

 韓凹巷(かんあふこう)の記する所に拠るに、北条霞亭の南帰は、父適斎に別れてより後八年、其医学の師広岡文台(ぶんたい)に別れてより後十三年であつた。適斎は始終志摩国的屋にをり、文台は初め京都にをつて後伊賀に帰つてゐた。霞亭は寛政九年に京に入つて、享和二年に京を去つたらしい。京にある間は毎歳(まいさい)帰省するを例としてゐて、享和二年にも亦父を見て後に遠遊の途に上(のぼ)つたのであらう。享和二年の後八年は文化七年である。
 霞亭は寛政九年に京に入つて、直に文台に従学した。霞亭は「居無幾、先生帰伊州、予亦雲遊四方、数歳而帰郷、(中略)遂往訪則云、先生以本月朔病歿、今已六日、実文化七年三月也、夫知己相待之殷、以十三年□離之久、期一見於二百里外、豈意其人既亡、臨之後事、即俾予此行、纔在数日前、尚及其目未瞑也」と云つてゐる。文台は文化七年三月朔(ついたち)に五十六歳で歿したのである。此渉筆の文より推せば、所謂十三年前は寛政九年で、文台は霞亭と始て相識つた年に、早く既に京を去つたらしい。所謂「居無幾」は一載にだに満たぬ月日であつた。
 霞亭は文化七年三月六日に、伊賀の広岡の家を訪うた。そしてこれは郷里的屋に帰つて若干日(じやくかんじつ)を経た後であつた。上(かみ)に略した文に、「数歳而帰郷、爾来簡牘往来、比々不絶、先生数促予命駕、予亦佇望已久」と云つてある。霞亭は七年の春早く的屋に帰つたかとおもはれる。
 凹巷が文台の事を叙した文は下(しも)の如くである。其中には霞亭が郷を離れて後八年にして帰つたと云ふことと、師に別れて後十三年にして帰つたと云ふことと、両(ふた)つながら見えてゐる。「広岡文台先生伊州人也。嘗在京洛。以医為業。鬱々不得志。久之帰郷。吾友北条子譲寓都下之日。一見即為知己。其後子譲浪遊四方。凡経八年南帰。先生数寄書慰問。率無虚月。今茲庚午三月子譲往訪先生。視履交其門。以為延客宴集。既通姓名。出迎者愀然云。先生罹疾奄逝。今已六日矣。子譲初聞為妄為夢。終乃悲而慟。蓋相別十有三年。訪之不遠二百里。欲一把臂吐其胸臆。而幽明無由再見。豈不悲乎。子譲此行本期前月。余因事泥之。子譲亦遷延不発。卒致此死別。遺憾其謂之何。」
 以上引く所に従へば、霞亭南帰の時は略(ほゞ)推定することが出来るやうである。
 霞亭は文化七年三十一歳にして的屋に帰つた。その家に到り著いたのは、春未だ闌(たけなは)ならざる頃であつただらう。郷を離れてより八年の後であつた。
 次で霞亭は一たび凹巷を伊勢に訪ひ、留まること数日の後、医学の師広岡文台を伊賀国に訪うた。其日は三月六日で、文台は歿して已に六日であつた。別後十三年の事である。
 霞亭は伊賀より伊勢に往いて、又凹巷の家を訪うた。霞亭は自ら「恨歎弥日、帰来過山口聯玉家、説其故」と云ひ、凹巷は「悵然帰来、過予告故」と云つてゐる。「故」とは文台が旧弟子に再会するに及ばずして歿したことを謂ふのである。後者の詩に、「訪我顧茅茨」と云つてあるのは、初度の訪問を斥(さ)して言つたものであらう。
 霞亭は暫く伊勢に留まつた。そして林崎文庫の公吏となつたらしい。山陽は「為勢林崎院長」と書し、凹巷の詩には「経過従此数、咫尺寓林崎」と云つてある。

     その百四十五

 北条霞亭は文化七年庚午三月六日に、伊賀の広岡文台の家を訪うて其死を聞いた。次年八年辛未二月二十一日には嵯峨の竹里(ちくり)の家が出来た。霞亭の林崎生活は此間にあつた筈である。即ち晩春より次年仲春に至る一年の間である。
 然るに韓凹巷(かんあふこう)の詩の此間の事を叙するを見るに、少しく疑ふべき所がある。「経過従此数。咫尺寓林崎。(中略。)紅葉添秋興。翠嵐和晩炊。(中略。)中間又何楽。伴我游洛師。台嶽共登臨。淡雲湖色披。(中略。)朝尋西塔路。山靄帯軽※[#「雨かんむり/斯」、7巻-288-上-7]。下嶽過大原。奇縁遇浄尼。(中略。)采薇弔平后。題石悲侍姫。岩倉又訪花。林曙聴黄□。上舟航浪華。雨湿篷不推。勢南春尽帰。花謝緑陰滋。」林崎生活の中間に洛師の遊が介(はさ)まつてゐて、それが春游であつた。遊び畢(をは)つて伊勢に帰つたのが新緑の時であつた。此春は庚午の春でなくてはならない。辛未の春より初夏に至るまでは、霞亭が已に竹里にゐたからである。
 霞亭は庚午の三月六日に広岡の家で旧師の死を聞いて、後事を営んだ。此間に多少の日子を費したことは、「恨歎弥日」と書したのを見て推せられる。
 此より伊勢の山口の家に来たのだから、其時は早くても三月中旬であらう。そして此より初夏に入るまでに、霞亭は籍を林崎に置き、洛師の遊を作(な)した筈である。果して然らば「紅葉添秋興」の事は、詩に於ては中間の遊に先(さきだ)つて写してあつても、実は中間の遊に後れてゐなくてはならない。此秋は洛師遊後の秋でなくてはならない。
 想ふに林崎院長(りんきゐんちやう)は職に就いた直後に、凹巷を拉して京都に遊んだのであらう。此遊の顛末は、上(かみ)に引いた詩句を除いては、別に見る所が無い。わたくしは唯其中に見えてゐる一の人物を抽(ぬ)き出して、此に註して置く。即ち「奇縁遇浄尼」の句中の浄尼(じやうに)である。
 比丘尼、名は松珠(しようじゆ)、紀伊国人(きのくにびと)であつた。霞亭凹巷の二人が大原に遊んだ時、松珠は寂光院内の寂如軒(じやくによけん)に住んでゐた。そして二人を留めて軒中に宿せしめた。浜野知三郎さんのわたくしに借した書の中に、「芳野游藁」一巻がある。是は此遊に遅るること三年、癸酉の春、凹巷が河崎敬軒、佐藤子文及霞亭と偕(とも)に芳野に遊んだ時の詩巻である。凹巷等が当麻寺(たいまでら)に於て松珠に再会したことは載せて巻中にある。
 霞亭は庚午の夏より冬に至るまで、林崎(はやしざき)にあつて文庫の書を渉猟し、諸生を聚めて経を講じ、又述作に従事した。山陽は「院蔵書万巻、因益致深博」と云つてゐる。凹巷は「堂上散書帙、聚徒垂絳帷」と云つてゐる。渉筆の一書の如きも亦此間に成つた。首に題してかう云つてある。「予読書之次。異聞嘉話。苟有会於心。随即録之。間或附一二管見。(中略。)頃消暑之暇。省覧一過。因抄若干条其中。□為冊子。」末(すゑ)に「文化庚午夏日」と記してある。渉筆は秋に至つて刊行せられた。林崎書院(りんきしよゐん)の蔵板である。
 霞亭は文化八年二月に林崎を去つて嵯峨に入つた。嵯峨樵歌(せうか)は其隠遁生活の記録である。隠遁生活は霞亭の久しく願ふ所であつた。「勝地居新卜、此期吾自夙」と云ひ、「峨阜棲期自早齢、幽居先夢竹間□」と云つてゐる。わたくしは此より樵歌の叙する所に就いて、霞亭が幽棲の蹟(あと)を討(たづ)ねる。

     その百四十六

 北条霞亭の嵯峨生活は自ら三期に分れる。霞亭は初期は竹里(ちくり)に、中期は任有亭(にんいうてい)に、後期は梅陽軒(ばいやうけん)に居つた。僧月江撰の嵯峨樵歌の跋は此の三期を列記して頗(すこぶる)明晰である。「余近与霞亭北条君。結交於方外。君勢南人。性好山水。客歳携令弟立敬来嵯峨。初寓止竹里。中居任有亭。後又移梅陽軒。任有亭者吾院之所有。是以朝夕相見。交日以親焉。君深究経史。旁通群書。若詩若文。其所自適。信口命筆。自竹里之始。至梅陽之終。其間一朞年。所獲詩殆二百首。題曰嵯峨樵歌。」月江、名は承宣(しようせん)、所謂「吾院」は三秀院である。文は文化九年七月に草したもので、「客歳」は八年を謂ふ。
 霞亭は林崎院長を辞して、京都に入つた。韓凹巷(かんあふこう)は「依然旧書院、長謂君在茲、鸞鳳辞荊棘、烏鳶如有疑」と云つてゐる。山陽は「素愛嵐峡山水、就其最清絶処縛屋」と云つてゐる。
 その林崎を去つた時は文化八年二月である。樵歌に「辛未二月予将卜居峨阜、留別社友諸君」の詩がある。霞亭は林崎にあつて恒心社を結んでゐた。社友とは此恒心社の同人を謂ふ。発程の前には暫く宇清蔚(うせいうつ)の家に舎(やど)つてゐたらしい。「予将西発前日石田生過訪予於宇氏寓館」と云ふ語がある。発程の日には凹巷が送つて宮川の下流、大湊の辺まで来た。「卜居択其勝、相送宮水□、大淀松陰雨、霑衣分手遅」と云つてゐる。
 京に入るとき弟惟長(ゐちやう)が同行した。そして宇清蔚が来て新居を嵯峨に経営することを助けた。此間井達夫(せいたつふ)も来て泊つてゐた。惟長の事は、山陽も「挈弟」と云ひ、月江も「携令弟」と云つてゐる。移居当時の事は、樵歌に「予卜居峨阜、宇清蔚偕来助事、適井達夫在都、亦来訪、留宿三日、二月念一日、修営粗了」と云つてある。想ふに早く二月中旬の某日に行李を卸して、二十一日に屋舎を修繕し畢(をは)つたのであらう。
 霞亭の卜する所の宅は、所謂竹里の居で、西に竹林(ちくりん)を控へてゐた。林間の遺礎(いそ)は僧涌蓮(ゆれん)が故居の址である。樵歌に「宅西竹林、偶見有遺礎、問之土人、云是師(涌蓮)故居、廃已久矣」と云つてある。涌蓮、名は達空(たつくう)、伊勢国一身田(しんでん)の人である。嘗て江戸に住し、後嵯峨に隠れて、獅子巌集(ししがんしふ)を遺して終つた。
 霞亭の居る所の草堂を幽篁書屋(いうくわうしよをく)と云ふ。「脩竹掩幽籬」と云ひ、「隣寺暮春静」と云ふ、並に凹巷が詩中の句である。「竹裏成村纔両隣」と云ひ、「隣是樵家兼仏寺」と云ふ、皆霞亭が書屋雑詠中の句である。堂の一隅に前主人の遺す所の紙屏(しへい)一張がある。西依成斎(にしよりせいさい)が朱元晦(しゆげんくわい)の「酔下祝融峰作」を題したものである。「我来万里駕長風。絶壑層雲許盪胸。濁酒三杯豪気発。朗吟飛下祝融峰。」成斎、初の名は正固(せいこ)、後周行(しうかう)、字(あざな)は潭明(たんめい)、通称は儀平(ぎへい)、肥後の人で京都に居つた。樵歌(せうか)には「祝」が「※[#「示+「酋」の「酉」に代えて「允」」、7巻-291-上-6]」又「※[#「木+「酋」の「酉」に代えて「允」」、7巻-291-上-6]」に作つてある。字書に※(ぜい)[#「示+兌」、7巻-291-上-6]、□(せつ)の字はあるが、峰(ほう)の名は祝融(しゆくゆう)であらう。霞亭は朱子に次韻した。「勃々豪情欲起風。銀杯一掉灑書胸。胸中韜得乾坤大。何屑祝融千万峰。」
 堂に書幌(しよくわう)が垂れてある。恒心社同人の贈る所で、「冢不騫写大梅、韓君聯玉題詩其上」と云つてある。冢不騫(ちようふけん)、名は寿(じゆ)、大塚氏、不騫は其字(あざな)、信濃国奈賀郡(なかごほり)駒場駅(こまばえき)の人である。
 移居当時の客宇清蔚が辞し去つた時、霞亭は送つて京の客舎に至つた。「可想今宵君去後。不堪孤寂守青燈。」
 中の閏(じゆん)二月を隔てて、三月二十八日に凹巷が伊勢から来た。凹巷は「命駕我欲西、好侶況相追、君亦出都門、望々幾翹跂」と云つてゐる。霞亭は粟田口の茶屋まで出迎へたのである。「痴坐亭中晩未回。先虚一榻預陳杯。眼穿青樹林陰路。杖響時疑君出来。」
 所謂好侶は田伯養(でんはくやう)、孫孟綽(そんまうしやく)、河良佐(かりやうさ)、池希白(ちきはく)である。樵歌に云く。「韓聯玉曾有訪予幽篁書屋之約。田伯養、孫孟綽従其行。適河良佐、池希白役越後。抂程亦偕聯玉輩。一斉入京。」霞亭が此日の詩に、「壮遊人五傑、快意酒千鍾」の句がある。所謂五傑中、韓凹巷、河敬軒(かけいけん)の二人を除いて、他の三人はわたくしのためには未知の人である。只田の名は光和(くわうくわ)、孫の名は公裕(こうゆう)で、孫は自ら凹巷の内姪(ないてつ)と称してゐる。

     その百四十七

 北条霞亭の竹里(ちくり)の家に宿つた韓凹巷(かんあふこう)等五人の客は、翌日辛未三月二十九日に、主人と共に嵐山に遊んだ。樵歌(せうか)に「春尽与諸君遊嵐峡」の詩がある。辛未の三月は小であつたので、二十九日が春尽(しゆんじん)になつてゐた。
 四月三日に主客は嵯峨を出でて天橋立に遊んだ。五客の中河良佐(かりやうさ)と池希白(ちきはく)とは、途上角鹿津(つぬがのつ)に於て別れ去つた。霞亭、凹巷並に田伯養(でんはくやう)、孫孟綽(そんまうしやく)の四人が若狭より丹後に入り、天橋立を看、大江山を踰(こ)えて帰つた。竹里に還つたのは四月十七日であつただらう。「初夏三日、与諸君取道湖西、抵越前角鹿津、与河池二君別、余輩経若狭、入丹後、観天橋、踰大江山帰、往来十有五日」と、樵歌に記してある。伊勢の看松(かんしよう)が杖を霞亭に贈つて、凹巷はそれを持つて来たので、霞亭は携へて天橋立に遊んだ。所謂蘆竹杖(ろちくぢやう)である。諸友の句を題した中に、「昔游観物最難忘、想倚天橋松影碧」と云ふのがある。これは凹巷の七律の七八である。凹巷と田孫二人とが辞し去る時、霞亭はこれを勢田の橋に近い茶店(ちやてん)まで送つた。「長橋短橋多少恨。満湖風雨送君帰。」
 霞亭は六月に至るまで竹里に居つた。次で事があつて、京の街に住むこと二十余日にして、又嵯峨に帰つた。そして再び幽篁書屋(いうくわうしよをく)に入ることをなさずに、任有亭(にんいうてい)に寄寓した。嵯峨生活の中期は此に始まる。樵歌に「予因事徙居都下二旬余、不堪擾雑、復返西峨、寓任有亭、翌賦呈宣上人」の詩がある。宣上人(せんしやうにん)は僧月江である。後に「予在任有亭宛百日、初冬八日将移林東梅陽軒」と云ふを見れば、任有亭に入つたのは六月二十八日であらう。これは前後のわたましの日をも算入して百日となしたのである。
 任有亭は享保中僧似雲(じうん)の住んだ故跡である。霞亭に「任有亭漫詠十五首」があり、又「題任有亭」「題似雲師肖像」の作がある。「聯結得一庵。斗大劣容躬。(中略。)嵐山当戸□。堰水遶庭叢。(中略。)心跡何所似。人称今西公。(中略。)吾夙慕高概。隠迹行将同。何彼名利客。区々在樊籠。斯人今不見。目送冥々鴻。」これは「題任有亭」の五古中より意に任せて摘み来つた数句である。「人称今西公」とは当時の似雲を以て古(いにしへ)の西行に比したのである。
 任有亭にゐた間の霞亭の境遇には、特に記すべき事が少い。九月上旬には少しく疾(や)むだ。「九日有登七老山之期、臥病不果、口占。望山不得登。対酒不思嘗。枕辺如欠菊。何以過重陽。」十九日には亡弟彦(げん)の法要を営んだ。此時僧月江が「薦北条子彦君霊」の詩を作つた。わたくしは此詩の一句に由つて三兄弟の長幼順序を知ることを得た。三人の最長者の霞亭なることは勿論であるが、次が夭折した彦、又次が惟長(ゐちやう)であつた。月江は「阿兄阿弟我相知」と云つてゐる。死者の阿兄が霞亭で、其阿弟が惟長だと云ふことになるのである。わたくしは系譜を見ることを須(もち)ゐずしてこれを知ることを得た。十月四日には入江若水(いりえじやくすゐ)の墓を弔した。若水、名は兼通(けんつう)、字(あざな)は子徹(してつ)である。嘗て僧似雲が任有亭にゐた時、若水は櫟谷(いちだに)にゐた。「跡つけてとはぬも深き心とは、雪に人待つ人の知るらむ」は、雪の日に似雲の若水に贈つた歌である。此日は享保十四年に若水の歿した忌辰であつた。

     その百四十八

 北条霞亭は辛未十月三日に任有亭(にんいうてい)から梅陽軒(ばいやうけん)に移つた。「一年為客四移蹤。来去自由無物従。」此より嵯峨生活の後期に入るのである。林崎より竹里(ちくり)へ、竹里より任有亭へ、任有亭より梅陽軒へ、以上三移である。四移と云ふは、竹里と任有亭との間に市中に住んだ二旬余があるからであらう。
 梅陽軒は空僧院(くうそうゐん)である。「幽寺無僧住。随縁暫寄身。」院は竹林(ちくりん)の中にある。「蘿纏留半壁。竹邃絶比隣。」そして門前をば大井川の支流芹川(せりかは)が流れ過ぎ、水を隔てて嵐山の櫟谷(いちだに)を望み見る。「櫟谷寒燈□々。芹渠暗水潺々。」前の四句は「初寓梅陽」の五律、後の二句は「梅陽雑興六言三首」より取つたのである。
 霞亭は梅陽軒にある間、伊勢の友三人に訪はれた。宇清蔚(うせいうつ)、冢不騫(ちようふけん)、尾間生(びかんせい)である。宇は大坂へ往くのに、往反ともに嵯峨に立ち寄つた。往路には霞亭が「楓葉為塵梅未開、非君誰肯顧蒿莱」と云つて迎へた。又反路(へんろ)には「雁断江天雪、梅開洛□春、客中傷歳暮、況別故郷人」と云つて送つた。冢尾の二人は筑前の亀井南溟の塾に往く途次におとづれた。「声名他日当如此、持贈清香梅一枝」は、霞亭が餞別の詩の末二句である。冢は前(さき)に霞亭がために梅を書幌(しよくわう)に画いた大塚寿(じゆ)である。
 霞亭は猶梅陽軒にあつて、「歳暮」を賦し、「壬申元旦」を賦した。三十三歳の春を迎へたのである。元旦の詩の後には応酬の作二首、梅を尋ぬる作一首があつて、最後に歳寒堂の詩が載せてある。歳寒堂の詩の引にはかう云つてある。「今茲壬申。因家君命。移居城中。予於嵯峨。已為一年之寄客。瞻恋不忍去。宣上人贈亀山松、堰汀梅、峨野竹。院屏有売茶翁松梅竹三字。併見恵寄。予栽三物於庭下。扁遺墨於堂上。命曰歳寒堂。(節録。)」想ふに霞亭は壬申の春の初に嵯峨を去つたのであらう。
 辛未二月より六月に至る、竹里に於る初期、六月より十月に至る、任有亭に於る中期、十月より壬申の春初に至る、梅陽軒に於る後期、霞亭の嵯峨生活は此三期を合して約一箇年に亘つた。
 此間の月日と日数とは、若し二三の前提を仮設することを嫌はぬならば、精細に算出することが出来るであらう。前提とは一、宇清蔚は霞亭と偕に竹里に来て、其「留宿三日」には二月二十一日をも含んでゐること、二、霞亭が竹里を去つて市中に住んだ「二旬余」を二十五日と算すること、三、壬申の正月猶梅陽軒に留まること一旬であつたとすることである。
 此前提を取るときは、嵯峨生活の三期は下の如くになる。霞亭は辛未二月十九日に竹里に来て、六月四日に去つた。其間百三十三日である。四日に市に入つて二十八日に出た。其間二十五日である。二十八日に任有亭に来て、十月八日に去つた。其間百日である。八日に梅陽軒に来て、壬申正月十日に去つた。其間九十二日である。嵯峨生活の日数は通計三百五十日となる。霞亭に由緒書等の文書があるべきことは既に云つた。又仄に聞けば、霞亭の書牘数百通も其処に現存してゐるさうである。此仮定に幾許(いくばく)の差誤(さご)があるか、これを検することを得る時も、他日或は到るかも知れない。

     その百四十九

 北条霞亭は文化九年三十三歳の春初の比、父適斎の命に因つて、京都の市中に移つた。此市中の家が歳寒堂である。
 歳寒堂は京都の何町にあつたか。わたくしは今これを知らない。しかし浜野氏のわたくしに借した書の中に、韓凹巷(かんあふこう)の「芳野游藁」がある。游藁の詩に、「知君昨自洛城西」の句がある。これは霞亭が、市に入つた次年の二月下旬に、関宿(せきじゆく)に往つて凹巷を待ち合せたことを言つたのである。霞亭が市中生活の末期には、歳寒堂は京都市街の西部にあつた。
 霞亭は九年壬申の歳をいかに暮したか。わたくしは特に記すべき事をも有せない。只嵯峨樵歌(せうか)の一巻は此年刊行せられた。菅茶山の序は「壬申孟夏」に成り、僧月江の跋は「壬申秋七月」に成つた。
 そして月江の跋がわたくしに、おぼろげながら市中生活の内容を教へる。適斎は何故に其子をして市中に移らしめたか。跋の云ふ所に従へば、霞亭は徒を聚(あつ)めて教授した。それが適斎の命であつた。適斎は嵯峨生活の徒食に慊(あきたら)なかつたらしい。其文に云く。「賢父母在堂。君(霞亭)因其命。今教授於京師。」
 跋が又わたくしに霞亭の母の事をも教へる。父適斎は四年の後七十の賀筵を開く人で、此年六十六歳であつた。しかし母の猶堂にあつたことは、此文に由つて知ることが出来た。
 此年十二月に霞亭は凹巷の書を得て、明年共に吉野に遊ばむことを約した。
 霞亭は文化十年二月二十三日に関宿に赴いた。凹巷を迎へて共に吉野に遊ばむがためである。これが三十四歳の春である。備後に往く年の春である。
 吉野の遊の成立(なりたち)を明にせむがために、わたくしは先づ游稿の文を節録する。「壬申臘月。河崎敬軒赴東府。帰期及花時。因約芳野之遊。時北条霞亭寓洛。余請明年二月会我于関駅。癸酉二月十九日。余拉佐藤子文発。枉路于北勢。廿二日到桑名駅。□時敬軒果至。廿三日発桑名。宿于亀山。廿四日到関駅。霞亭以前夕至。
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