伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 わたくしの三村氏を煩はして検してもらつた好古小録の填註に、既に引いたものの外、猶左の数箇条がある。
「好古小録法隆寺上宮太子画像。□斎曰。文政四年六月観。」
「同施法隆寺物数書。□斎曰。文政四年六月二十五日法隆寺西園院にて観。」
「同円光大師絵詞。□斎曰。文政四年七月観。」
 最後の一条を見れば、□斎父子が秋に入つて猶奈良に留まつてゐたことが知られる。此より後父子の江戸に還つたのが、まだ冬にならぬ前であつた証跡は、※[#「くさかんむり/姦」、7巻-249-下-7]斎詩集に見えてゐるが、それは後に記す。
 わたくしは此より蘭軒の事蹟に立ち帰つて、夏より後の詩集を検する。此時に当つてわたくしは先づ一事を記して置きたい。それは富士川氏蔵の詩集は蘭軒自筆本であるのに、所々に榛軒柏軒の二子及渋江抽斎、森枳園の二弟子(ていし)の、蘭軒に代つて浄写した詩が夾雑してゐる事である。そして此年辛巳の夏より秋の半(なかば)に至る詩は抽斎の書する所の小楷(せうかい)である。
 抽斎は是より先文化十一年十歳にして蘭軒の門に入つてゐた。若し詩の浄写が其製作当時に於てせられたものとすると、是は抽斎十七歳の時の書である。蘭軒も自筆、棕軒侯、茶山の評も皆其自筆なるより推せば、わたくしは抽斎のこれを書した年の多く辛巳より遅れなかつたことを想ふ。只後年の補写で無いと云ふ確証を有せぬだけである。
 辛巳の夏の詩は二首である。初の「菖節小集」の絶句は蘭軒が五月五日に友を会し詩を賦したことを証する。「満座忻無独醒客。榴花那若酔顔紅。」
 後の「夏日偶成」の七律は此頃黒沢雪堂が蘭軒を招いたのに、蘭軒が辞したことを証する。詩の頷聯に、「病脚不趨官路険、微量難敵酒軍長」と云つて、「此日不応雪堂招飲、故第四及之」と題下に自註してある。
 黒沢雪堂、名は惟直(ゐちよく)、字(あざな)は正甫(せいほ)、正助(しやうすけ)と称した。武蔵国児玉郡の人で、父雉岡(ちかう)の後を襲(つ)ぎ、田安家に仕へた。当蒔六十四歳になつて、昌平黌の司貨(しくわ)を職としてゐた。

     その百二十五

 此年文政四年の秋に入つて、蘭軒の冢子(ちようし)榛軒が初て阿部正精に謁した。勤向覚書の文は下(しも)の如くである。「七月廿三日、左之願書相触流新井仁助を以差出候処、御受取被置候旨。口上之覚。私悴良安儀御序之節御目見被仰付被下置候様奉願上候。右之趣不苦思召候ば、御年寄御衆中迄宜被仰達可被下候以上。七月廿三日。伊沢辞安。大目付衆御中。同日、前条に付左之年齢書指出す。覚。伊沢良安、当巳十八歳。右之通年齢にて御座候以上。七月廿三日。伊沢辞安。但糊入半切に認、上包半紙半分折懸、上に年齢書、下に名。同月廿七日、悴良安明廿八日初而御目見被相請候に付私召連可罷出処、足痛に付難罷出、左之通及御達候。口上之覚。私悴良安儀明廿八日初而御目見被為請候に付召連可罷出処、足痛に付名代新井仁助差出申候、此段御達申上候以上。七月廿七日。伊沢辞安。同月廿八日、悴良安儀初而御目見被仰付候。」初謁の日は七月二十八日であつた。其請謁(せいえつ)の形式は、父蘭軒に足疾があつて替人(ていじん)をして榛軒を伴ひ往かしめたために、幾分の煩しさを加へたのではあるが、縦(たと)ひ替人の事を除外して見るとしても、実に鄭重を極めたものである。わたくしは当時の諸侯が威儀を重んじた一例として、ことさらに全文を此に写し出した。
 八月十二日に蘭軒は岸本由豆流(きしもとゆづる)に請待(しやうだい)せられて、墨田川の舟遊をした。相客は余語古庵(よごこあん)と万笈堂(まんきふだう)主人とであつた。詩集には此秋の詩十四首があつて、此遊を叙する七律三が即其第二、第三、第四である。わたくしは此に其引を抄するに止めて詩を略する。「八月十二日□園岸本君泛舟迎飲余於墨田川。与古庵余語君万笈兄同賦以謝。」□園(ざいゑん)は岸本由豆流、此年三十三歳であつた。万笈は英氏(はなぶさうぢ)、通称は平吉である。
 此舟遊の七律と「戯呈余語先生」の絶句とを以て、抽斎浄写の詩が畢(をは)る。余語に戯るる語は、其妻妾の事に関するものの如くである。「何識仙人伴嫦娥。涼秋已覓合歓裘。」
 前記の詩の次、秋行の詩の前に「懐狩谷□斎」の一絶がある。「故人半歳在天涯。別後心同未別時。漸近帰期才数日。杳然方覚思君滋。」
 わたくしは上(かみ)に西遊中の□斎の最後の消息として、その七月に奈良にゐたことを挙げた。そして今此に蘭軒が其帰期の迫つたことを言ふ詩を見る。其詩は八月十二日の作の後にあつて、秋行の作の前にある。八月十二日に□斎の未だ江戸に帰つてゐなかつたことは明で、其帰期は未だ冬に至らぬ前に既に迫つてゐたのである。想ふに□斎は春の末に江戸を去つて、秋の末には帰り来つたのであらう。「故人半歳在天涯。」留守は丁度半年の間であつた。
 序(ついで)にわたくしは此「秋行」の絶句の本草家蘭軒の詩たるに負(そむ)かぬことを附記して置く。それは石蒜(せきさん)が珍らしく詩に入つてゐることである。「荒径雨過滑緑苔。花紅石蒜幾茎開。」詩歌の石蒜を詠ずるものはわたくしの記憶に殆無い。桑名の儒官某の集に七絶一首があり、又昔年池辺義象(よしかた)さんの紀行に歌一首があつたかとおもふが、今は忘れた。わたくしは大正五年の文部省展覧会の洋画を監査して家に還り、其夜燈下に此文を草する。昼間(ちうかん)観た油画に児童が石蒜数茎(すうかう)を摘んで帰る図があつて、心にこれを奇とした。そして夜蘭軒の詩を閲(けみ)して、又此花に逢つたのである。石蒜は和名したまがり、死人花(しびとばな)、幽霊花等の方言があつて、邦人に忌まれてゐる。しかし英国人は其根を伝へて栽培し、一盆の価(あたひ)往々数磅(ポンド)に上(のぼ)つてゐる。

     その百二十六

 此年文政四年秋の蘭軒の詩は、上(かみ)に云ふ所の外、猶八首ある。其中に嫡子榛軒と真野冬旭(まのとうきよく)との名が見えてゐる。
 榛軒は或日友を会して詩を賦した。此時父蘭軒が秋の七草を詠じた。わたくしは此にその「秋郊詠所見七首」の引を抄出する。「古昔寧楽朝山上憶良詠秋野花草七種。載在万葉集。其所詠皆是清淡蕭灑。可愛之種。実足想韻士之胸襟也。近時人間或栽而為賞。画而為観。秋七草之称。於是乎為盛矣。抑亦古学之所風靡。而好事之所波及也歟。一日児厚会詩友数輩。以秋郊詠所見為題。余因賦秋野花草七種詩。」所謂七種は胡枝花(はぎ)、芒(すゝき)、葛(くず)、敗醤花(をみなへし)、蘭草(ふぢばかま)、牽牛花(あさがほ)及瞿麦(なでしこ)である。わたくしの嘗て引いた蘭の詩二首の一は此七種の詩中より取つたものである。
 真野冬旭は或日向島の百花園に遊んで詩を賦し、これを蘭軒に示した。蘭軒の「次韻真野冬旭題墨田川百花園詩」の作はかうである。「久無病脚訪江干。勝事索然奈老残。何料花園四時富。佳詩写得与余看。」当時百花園は尚開発者菊塢(きくう)の時代であつた。菊塢は北平(きたへい)と呼ばれて陸奥国の産(うまれ)であつた。人に道号を求めて帰空(きくう)と命ぜられ、其文字を忌んで菊塢に作つたのだと云ふ。此菊塢が百花園を多賀屋敷址に開いたのは、享和年間で、園主は天保の初に至るまでながらへてゐたのである。
 冬が来てからは、只「冬至前一日余語君天錫宅集」の七絶一首が集に見えてゐる。此日余語の家には、瓶(へい)に梅菊(ばいきく)が插してあつたので、それが蘭軒の詩に入つた。歳晩に近づいては、詩集は事を紀せずして、勤向覚書が僅に例年の医術申合会頭の賞を得たことを伝へてゐる。歳晩の詩は此年も蘭軒集中に見えない。
 阿部家では此年三男寛三郎正寧(まさやす)が正精(まさきよ)の嗣子にせられて、将軍家斉に謁見した。これは嫡男正粋(まさただ)が病を以て罷められ、次男が夭札(えうさつ)したからである。勤向覚書に下の文がある。「十一月十三日、寛三郎様御嫡子御願之通被為蒙仰候、依之為祝儀若殿様え組合目録を以御肴一種奉差上候。同月廿九日、悴良安、此度若殿様御目見被仰上候為御祝儀御家中一統へ御酒御吸物被成下候に付、右同様被成下候旨、大目付海塩忠左衛門殿御談被成候間、御酒御吸物頂戴仕候。同年十二月朔日、若殿様御目見被仰上候為御祝儀、殿様若殿様に組合目録を以御肴一種宛奉差上候。」
 菅氏では此年茶山が七十四歳になつてゐた。詩集を閲(けみ)するに、茶山は春の半に北条霞亭の志摩に帰省するを送つてゐる。これは東役(とうえき)の前に故郷に還つて、別を親戚に告げたのであらう。同日偶(たま/\)山県貞三と云ふものは平戸に、僧玉産(ぎよくさん)と云ふものは近江に往つたので、祖筵の詩に「花前一日一尊酒、春半三人三処行」の句がある。又茶山集中の五律に「蛇年今夜尽、鶴髪幾齢存」の句のあつたのが、此年の暮である。
 頼氏では山陽が此年木屋町の居を営んだ。「吾儂怕折看山福。翻把琴書移入城。」
 小島氏では此年尚質(なほかた)が番医師にせられ、森氏では枳園立之(きゑんりつし)の父恭忠(きようちゆう)が歿した。後に小島氏の姻戚となる塙氏では保己一が歿した。
 此年蘭軒は四十五歳、妻益は三十九歳、子女は榛軒十八、常三郎十七、柏軒十二、長八つ、順二つであつた。

     その百二十七

 文政五年の元日には江戸は雪が降つて、夕(ゆふべ)に至つて霽(は)れた。蘭軒は例に依つて詩を遺してゐる。「壬午元日雪、将□新霽、天気和煦、即欣然而作。梅花未発雪花妍。方喜新年兆有年。不似三冬寒気沍。瑤台玉樹自春烟。」尋(つい)で「豆日艸堂集」も亦雪の日であつた。五律の前半に、「入春纔九日、白雪再霏々、未使花香放、奈何鶯語稀」と云つてある。
 菅茶山の集には歳首の詩が闕けてゐる。七日に至つて「初春逢置閏、四野未浮陽」、又「誰家挑菜女、載雪満傾篋」の句がある。これは「人日雪」と題する五律の三四七八である。第三は此年に閏(うるふ)正月のあつたことを斥(さ)すのである。此春の初は神辺(かんなべ)も亦寒かつたものと見える。
 勤向覚書を見るに、「二月廿五日、次男盤安去年中文学出精に付奉蒙御意候」の文がある。柏軒は辛巳中例の如く勉学を怠らなかつたのである。
 三月四日に蘭軒は向島へ花見に往つた。「上巳後一日早行、墨田川看花、帰時日景猶午、与横田万年同賦」として五絶がある。横田万年は門人宗禎であらうか。又は其父宗春であらうか。門人録横田氏の下(もと)には十の字内藤と註してある。十の字内藤とは信濃国高遠の城主たる内藤氏で、当時の当主は大和守頼寧(よりやす)であつた。初めわたくしは十の字内藤の何れの家なるを知らなかつたが、牛込の秋荘(しうさう)さんが手書して教へてくれた。詩は此に末の一首を録する。「看花宜在早朝清。露未全晞塵未生。一賞吾将帰艇去。俗人漸々幾群行。」
 茶山は此歳首に書を蘭軒に寄せずに、三月九日に至つて始て問安した。其書は文淵堂所蔵の花天月地中に収められてゐる。
「今歳(こんさい)は歳始の書もいまだ差上不申哉。老衰こゝに至り候。御憐察可被下候。又御一笑可被下候。吾兄愈御達者、合家(がふか)御清祥は時々承候。拙家も無事に御座候。御放念可被下候。ことしの春も昔の如くに過候。かくて七十五にも相成候。前路おもふべし。」
「市野篤実北条を動かし候由、奇と可申候。狩谷は橋梓(けうし)ともにさだめて依旧候覧(きうによりそろらむ)。ことしは西遊はなきや。御次(おんついで)に宜奉願上候。去年宮島よりいづかたいかなる遊びに候ひしや承度候。さて御次に古庵様市川子成田鵜川(近得一書未報)諸君へ宜奉願上候。梧堂は杳然(えうぜん)寸耗(すんばう)なし。いまだ東都に候哉。もはや帰郷に候哉。もしゐられ候はば宜御申可被下候。松島の画題は届候哉。種々旧遊憶出候而御なつかしく奉存候。御内上様(おんうちうへさま)おさよどのへも御次に宜奉願上候。妻も宜申上よと申候。恐惶謹言。三月九日。(正月二日祁寒(きかん)、硯に生冰(こほりをしやうず)。そののち尋常。花朝前(くわてうぜん)一夕雷雨めづらしく、二月廿三日小地震、三月八日亦小地震。其外なにごともなし。)菅太中晋帥。伊沢辞安様。」
「令郎様高作驚目申候。実底に御読書あれかしと奉存候。才子は浮躁なりやすきものに候。」

     その百二十八

 菅茶山が「かくて七十五にも相成候」と書した此年壬午三月九日の書牘にも、例の如く許多(あまた)の人名が見えてゐる。しかし此度は新しい名字は無い。
 市野迷庵の質愨(しつかく)が能く北条霞亭を感動せしめたとは何事を斥(さ)して言つたか、知りたいものである。しかしわたくしは未だこれを窮むるよすがを得ない。
 狩谷の橋梓(けうし)即望之懐之が辛巳西遊中、宮島に往つた後「いづかたいかなる遊(あそび)」をなしたか、茶山は聞きたいと云つてゐる。わたくしも今茶山と願を同じうしてゐる。しかし既に云つた如く、わたくしは只父子が奈良に遊んだことを知るのみである。茶山の口※(こうふん)[#「月+(勿/口)」、7巻-256-上-11]によつて考へて見れば、□斎父子の宮島の遊は計画のみに止まつたのではないらしい。書牘の文が茶山は既に宮島までの事を知つてゐて、其後の旅程を問ふやうに聞き取られるからである。
 茶山の存問(そんもん)を受けた古庵は余語(よご)氏である。市川は恐くは市河であらう。若し然りとすると、米庵でなくてはならない。何故といふに寛斎は既に二年前に歿してゐるからである。成田氏は成章、鵜川氏は子醇である。梧堂は石田道である。鵜川は茶山に書を寄せたことが、原本の氏旁(しはう)に朱書してある。今これを括弧内に収めた。これに反して石田は茶山に無沙汰をしてゐる。「杳然寸耗なし」である。
 蘭軒は十九歳になつた榛軒の詩を茶山に寄示(きし)した。榛軒詩存はわたくしは未だ細検せぬが、弘化三年以前の作を載せぬものかとおもはれる。それゆゑ茶山の目を驚かした詩は何の篇たるを知らない。茶山は又蘭軒の正側室の安を問うてゐる。「おさよの方」は故(もと)の称呼「おさよどの」に復してある。
「松島の画題」云々は何事なるを知らない。月日の下(もと)の括弧内数行は原本に朱書してある。
 詩集にある春の作は既に引いた七首の外、猶六首があつて、わたくしは此に其中の二を挙げることゝする。それは病める蘭軒の情懐を窺ふに足るものと、榛軒柏軒二人の講余のすさびを知るべきものとである。
「余平常好自掃園、病脚数年、不復得然、即令家僮朝掃、時或不能如意、偶賦一絶。脚疾久忘官路煩。山※[#「譽」の「言」に代えて「車」、7巻-257-上-6]江艇興猶繁。但於閑事有遺恨。筅箒不能手掃園。」自ら園を掃くに慣れた蘭軒は人の掃くに慊(あきたら)なかつたのである。
「偶成。元識読書属戯嬉。両児猶是好無移。剰鋤菜圃多栽薬。方比乃翁増一痴。」薬艸を栽培することは蘭軒が為さなかつたのに、榛軒柏軒がこれに手を下した。嘉賞の意が嘲笑の語の中に蔵してある。
 二詩の外猶「賀阿波某氏大孺人百歳」の一絶がある。しかし其女子の氏名を載せない。且其辞(ことば)にもことさらに録すべきものが無い。
 夏の詩は五首あるが、抄出すべきものを見ない。唯「夏日」に「愛看芭蕉長丈許、翠陰濃映架頭書」の句がある。他人にあつては何の奇も無かるべき語であつて、蘭軒にあつては人をして羨望して已まざらしむるものがある。
 秋の詩も亦五首あつて、末の三首に冬の詩を連ねて森枳園が浄写してゐる。わたくしは渋江抽斎伝に枳園が癸未の年に始て蘭軒に従学したことを言つた。今その写す所の師の詩はこれに先(さきだ)つこと一年の作に係る。詩集の此幾頁(いくけつ)は後年の補写と見るべきであらうか。或は抽斎と親善であつた枳園は、未だ贄(にへ)を執らざる時、既に蘭軒の家に出入して筆生の務に服したものと看るべきであらうか。此年枳園は十六歳であつた。

     その百二十九

 此年文政五年の秋の蘭軒の詩は、末の三首が森枳園の手写する所であると、わたくしは上(かみ)に云つた。其前に等間に看過すことの出来ぬ一首がある。「七月十三日作。奈何家計太寒酸。付与天公強自寛。千万謝言求債客。窃来窓下把書看。」蘭軒は此日債鬼に肉薄せられたのである。千万謝言の後、架上の書を抽(ぬ)いて読んだと云ふ、その灑々(しや/\)たる風度が、洵(まこと)に愛すべきである。
 枳園の書した最初の詩は「熊板君実将帰東奥、臨別贈以一律。」と題してある。「君家先世称雄武。遺訓守淳猶混農。賑□郷隣経奕葉。優游翰墨托高踪。自言真隠名何隠。人喚素封徳可封。遙想東帰秋爽日。恢然□笏対群峰。」
 熊板は或は熊坂の誤ではなからうか。これはわたくしの手抄に係る五山堂詩話の文に依つて言ふのである。わたくしは偶(たま/\)その何巻なるを註せなかつたので、今遽(にはか)に刊本の詩話を検することを得ない。其文はかうである。「東奥熊坂秀。字君実。号磐谷。家資巨万。累世好施。大父覇陵山人頗喜禅理。好誦蘇黄詩。至乃翁台州。嗜学益深。蔵書殆万巻。自称邑中文不識。海内知名之士。無不交投縞紵。磐谷能継箕裘。家声赫著。」蘭軒の贈言(ぞうげん)を得た人は其字(あざな)を同じうし、其郷を同じうしてゐて、氏に熊字がある。且詩の云ふ所が、菊池五山の叙する所と概ね符合してゐる。二者の同一人物たること、殆ど疑を容れない。
 五山の言(こと)は磐谷(はんこく)の大父(たいふ)まで溯つてゐて、三世以上に及ばない。しかし蘭軒の「君家先世称雄武、遺訓守淳猶混農」と云ふより推せば、磐谷の祖先は武士であつただらう。さて蘭軒の「賑□郷隣経奕葉」と云ふは、五山の所謂「累世好施」である。その「優游翰墨托高踪」と云ふは、五山の挙ぐる所の禅を修め詩を誦した祖父覇陵と、学を好み書を蔵した父台州とである。わたくしはこれを符合と看るのである。想ふに磐谷は江戸にある間、五山と交つた如くに、又蘭軒とも交つたのであらう。
 磐谷に別るる詩の次には、高某(かうぼう)を弔する詩がある。「壬午九月十有二日、為亡友高君子融小祥期矣、同社諸彦賦感秋詩、述思旧之情、余亦賦一律以奠。秋光何事偏愴心。駒隙一年成古今。嘉穀秀苗嗟不実。素琴清調失知音。朱黄課減書堂上。鴎鷺盟寒墨水潯。自慚驢鳴呈醜態。難酬歳月友情深。」第五の下に「余校書之際、君時助対讐」と註し、第六の下に「嘗与君約墨水舟遊、而遂不果」と註してある。
 高某、字(あざな)は子融、何(いづれ)の許(ところ)の人なるを知らない。蘭軒と文字の交を訂し、時に其校讐の業を助けた。文政四年九月十二日に歿した。頼菅二家の集に高孺皮(かうじゆひ)、高子彬(かうしひん)、高叔鷹(かうしゆくよう)があり、五山の詩話に高公嵩(かうこうすう)、高初暹(かうしよせん)、高凡鳥(かうぼんてう)、高俊民(かうしゆんみん)、高聖誕(かうせいたん)、高石居(かうせききよ)、高文鳳(かうぶんほう)があり、竹田の集に高嵩谷(かうすうこく)、高暘谷(かうやうこく)、高寸田(かうすんでん)がある。しかし字を子融と云ふものを見ない。原来氏を高と修するものが必ずしも同姓ではないのだから、捜索は容易で無い。
 冬に入つて蘭軒の嫡子榛軒が阿部正精に召されて何事をか命ぜられた。勤向覚書に下の文がある。「十月廿九日、明朔日悴良安御用之儀御坐候間、私召連四時御坐敷え可罷出旨御達書到来に付、奉畏候旨及御請候。前条に付私召連可罷出処、足痛に付難召連候間、御医師成田玄琳を以左之通及御達候。口上之覚。私悴良安儀明朔日御用之儀御座候に付召連可罷出処、足痛に付皆川周安差出申候、此段御達申上候以上。十月廿九日。伊沢辭安。」

     その百三十

 蘭軒の動向覚書に拠るに、其嫡子榛軒は此年文政五年十月二十九日に阿部侯正精の召状(めしぢやう)を受けた。そして翌十一月朔(ついたち)に医官成田玄琳(げんりん)に率ゐられて登庁した筈である。然るに榛軒は其日に何事を命ぜられたか、覚書に記載を闕いてゐる。
 按ずるに歴世略伝榛軒の部に、「文政四年七月二十八日備中守阿部正精公侍医」と記(しる)してある。しかし覚書に徴するに、辛巳七月二十八日は初謁の日である。或は榛軒は初謁と同時に任官したかも知れぬが、わたくしは辛巳の紀事に疑を存じて筆せずに置いた。そして窃に榛軒が辛巳七月二十八日に初謁し、壬午十一月朔に任官したのではないかと思つてゐる。
 十二月二十一日には蘭軒の季子柏軒が藩の子弟に素読を授け、且これをして復習せしめたと云ふを以て、阿部侯の賞を受けた。勤向覚書の文は下(しも)の如くである。「十二月廿一日次男盤安学問所え月に八九度出席五経之素読教遣、其上宅にて浚いたし遣候に付、金二百疋被成下候。」柏軒は時に年甫(はじめ)て十三であつた。
 二十三日に蘭軒は例の如く医術申合会頭たる故を以て金を賜はつた。覚書の文は略する。
 冬の詩は集に載するもの凡(おほよそ)四首である。中に「病中偶成」の作がある。蘭軒の起居を知らむがために此に抄出する。「遊事久無問酔醒。兼旬臥病寂山□。更恐飲膳多成祟。欹枕時時検食経。」最後に「閑中書事」の五律二首がある。其前なるは尚枳園の書であるに、後なるは蘭軒の自筆に復(かへ)つてゐる。前者の三四は「壁挂唐碑幅、架蔵宋板書」である。病める蘭軒を慰むるものは、此古搨本(こたふほん)古槧本(こざんほん)であつただらう。
 菅氏では此年茶山が七十五になつた。わたくしはその一載間(さいかん)の詩を読んで、事の間接に蘭軒に関するものあるを見出した。それは文化甲子七月九日の墨田川舟遊(ふなあそび)の記を補ふべき事である。
 舟遊には犬冢印南(いぬづかいんなん)と茶山との両先輩の下に、蠣崎波響(かきざきはきやう)、木村文河(ぶんか)、釧雲泉(くしろうんせん)、今川槐庵及蘭軒が来り集つた。しかし誰が何時此遊を企てたか未詳であつた。然るに此遊の発端が茶山の「憶昔三章呈蠣崎公子」の詩中に詳叙せられてゐる。
 此詩は茶山と波響との交を知る好資料であつて、啻(たゞ)に甲子舟遊の発端を見るべきのみでなく、寛政より文政に至る間の二三聞人の聚散の蹤(あと)がこれに由つて明められる。
 京都の相国寺に維明(ゐめい)といふ僧がゐて、墨梅(ぼくばい)を画くことを善くした。名は周圭(しうけい)、字(あざな)は羽山と云つたのは此人である。茶山と波響とは始て維明が庵室に於て相見た。其席には僧六如(りくによ)と大原呑響(どんきやう)とが居合せた。「憶昔与君始相逢。維明道人読書槞。座有六如及呑響。主客並称詩画雄。」此会合は寛政五年であつたらしい。何故と云ふに、後に甲子の舟遊を叙するに及んで、茶山は「君道平安分手時、不期生前首重聚、十一年後忽此歓、安知他年不再晤」と云つてゐるからである。わたくしは草卒に推算したから誤があるかも知れぬが、当時六十三歳の主人維明の許で、四十六歳の茶山と二十四歳の波響とが相識になつたのである。
 甲子の歳に茶山は江戸に来て、柴野栗山の家で波響と再会した。それは雷雨の日であつた。「憶昔与君会東武。栗山堂上正雷雨。」次で二人は又犬冢印南の家で落ち合つた。そして舟遊の計画が此に胚胎したのである。

     その百三十一

 わたくしは菅茶山の此年文政五年に蠣崎波響に贈つた詩に拠つて、蘭軒等の甲子舟遊の端緒を究めようとした。詩の云ふ所はかうである。茶山は甲子の歳に江戸に来て、波響と一たび柴野栗山の家に会し、再び犬冢印南の家に会した。犬冢の家で二人は夜の更けるまで昔語(むかしがたり)をして、さて主人と三人川開の日に墨田川に舟を泛べて遊ぶことを約した。蘭軒は誘はれてこれに加はつたのである。「更集冢翁木王園。夜半忘帰泣道故。坐上刻日謀舟遊。新旧相結尽仙侶。泝到綾瀬出塵囂。叢葦覆岸烟生午。沿下柳橋入笙歌。万燈映波夜無暑。」わたくしは嘗て当時茶山の詩が烟火戯(えんくわき)を言はぬことに注目したが、此詩を作るに至つても、茶山は尚飽くまでこれを言ふことを避けてゐる。
 甲戌の歳に茶山が再び江戸に来た時には、波響蠣崎将監の宗家の当主松前若狭守章広(あきひろ)が陸奥国伊達郡梁川の城主になつてゐて、波響は章広に従つて梁川に往つてゐた。「憶昔東武再遊時。君従移封阿武□。両地比旧差為近。卸鞍先報我新来。阿武東武猶千里。君云相告何太遅。置郵時時説近況。十書一面非可比。我去君来如相避。秋鴻春燕巧参差。」阿武は阿武隈川である。
 茶山の詩は往迹(わうせき)を説き畢(をは)つて現状に入つた。此年壬午の状況に入つた。「近聞朝旨新賜環。箪壺争迎旧君帰。巨鎮懸海拠要衝。近接蝦夷遠赤夷。非是故封恩信洽。北門鎖鑰守者誰。万人歓喜独我恨。我恨音信更応稀。」環を賜ふは荀子の「絶人以□、反絶以環」を用ゐたもので、松前家が一たび松前の封を失つて、又これを復したことを謂ふ。幕府が章広に蝦夷の地を還付したのは前年辛巳の十二月七日であつた。
 頼氏では此年山陽が三本木の水西荘に遷つた。「棲息有如此。足以□素情。」聿庵元協(いつあんげんけふ)が寺川氏を娶つた。
 此年蘭軒は四十六歳、妻益四十歳、子女は榛軒十九、常三郎十八、長九つ、順三つであつた。
 文政六年は蘭軒の家に於て平穏に迎へられた。「癸未元日。忘老抃忻復値春。城烟山靄自清新。纔因椒酒成微酔。蘇得三冬凍縮身。」茶山は此「元日」に神辺一郷(がう)の最長者となつたのださうである。「鶴髪※[#「白+番」、7巻-262-下-11]々映羽觴。屠蘇憶昨最先嘗。酔聞童子談耆旧。驚殺吾齢長一郷。」
「豆日草堂小集」は雪後(せつご)であつた。「雪融烟淡鳥相呼」の句がある。
 二十二日に蘭軒は元板千金方の跋を書した。署して「文政癸未孟春廿二日伊沢信恬識」と云つてある。跋の後に更に数行の識語を著けて、「信恬又識」と再署してある。
 千金方は、上(かみ)の医範の条に云つた如くに、唐の孫思□(そんしばく)の撰に係る。「思□嘗謂。人命至重。貴於千金。一方済之。徳躋於此。故所著方書以千金名。」孫の遺す所の書は此千金方三十巻と脈経一巻とであつた。
 然るに千金方の唐代の真を存してゐるものは、和気氏所伝の古抄本一巻があるのみである。即三十巻中の第一巻で、「処士孫思□撰」と題してある。此本は後に躋寿館に帰し、蘭軒も亦別に一本を影写した。
 次に三十巻全備の本に宋槧(そうざん)と元槧(げんざん)とがある。彼は北条顕時が求め得て金沢文庫に蔵してゐたもので、北宋所刊のものたる証迹が明である。蘭軒はこれを見るに及ばなかつた。後嘉永二年に至つて、幕府が躋寿館に命じてこれを覆刻した。そして多紀□庭(たきさいてい)等が校定の事に当つた。
 その元槧本は則ち蘭軒の跋する所のものである。

     その百三十二

 蘭軒が此年文政六年に跋した千金方の元槧本は、後年世に出でた宋槧本には劣つてゐても、蘭軒の時にあつては、三十巻の全本中最善本として推すべきものであつた。
 支那に於ては、清の康□雍正の頃に至るまで、猶善本を存してゐた証がある。銭曾(せんそう)の読書敏求記(どくしよびんきうき)、張□(ちやうろ)の千金方衍義の云ふ所の如きが是である。既にして乾隆中四庫全書提要の成つた時には、三十巻の善本は既に佚してゐた。降つて嘉慶に至つて、銭□(せんどう)も亦崇文総目に於て乾隆の旧に依つてゐる。
 然らば善本に代つて支那に行はれたのは、いかなる本か。それは所謂道蔵本と道蔵本に変改を加へたものとである。蘭軒はかう云つてゐる。「道家者流。要抗仏蔵之浩瀚。自嫌其書寡少。妄析其巻。虚張其目。如他素問。素廿四巻。分為五十巻。玄珠密語十巻。分十七巻之類。」
 千金方の道蔵本は即ち九十三巻の嘉靖本で、四庫全書の収むる所である。
 嘉靖本は我国に於ても亦飜刻せられた。これが万治本である。普通本は舶載嘉靖本と万治本とである。
 猶我国には天明本がある。これは嘉靖本を変改して三十巻とし、題して元板飜刻と云ひ、京都に於て刊行した。
 此の如く千金方は、支那に於ても我国に於ても、偽本のみ行はれてゐることゝなつた。それゆゑ金沢文庫の零本第一巻の貴いことは論なく、次に三十巻全備の書としては、北宋槧本の未だ世に出でざる間は、元槧本を以て第一に推さなくてはならなかつたのである。
 只蘭軒の時には猶明の正徳中の刻本があつて、これは元槧本の旧に依つたものであつたが、それだに容易には獲られなかつた。蘭軒は「巻数体裁、与元板同、世不多有、而字形陋拙、刻様□悪、蓋為坊本」と云つてゐる。
 元槧本はこれに反して、頗る意を校刻に用ゐたものであつた。蘭軒は「此本章句方法、彰々全整、而筆勢生動、盈満行界、銭氏所謂原書是也、可謂希世之本哉」と云つてゐる。銭氏とは読書敏求記を著した銭遵王(せんじゆんわう)である。
 蘭軒は元板千金方を狩谷□斎に獲た。□斎はこれを万笈堂(まんきふだう)に獲た。これは亨和中の事であつた。此年癸未に蘭軒は関定能(せきさだよし)と云ふものをして装釘せしめて、自らこれに跋した。「此本二十年前。友人狩谷卿雲為余購得之於書賈英平吉。簡編蠧蝕。古色可愛。不欲繕修改旧。但平生披閲。怕愈就壊爛。頃日倩関定能。背装綴緝。跋以数語。吁余与卿雲。今倶為頒白翁。而尚孜々読書。不異少年之態。則其迂濶於世。固不復疑。毎相対嗤耳。信恬又識。」これが跋の後に低書(ていしよ)せられた識語の全文である。二人の頒白翁(はんぱくをう)は四十七歳の蘭軒と、四十九歳の□斎とであつた。
 蘭軒は又自らその蔵する所の金沢文庫零本千金方にも跋してゐる。しかしこれを書した年月を詳(つまびらか)にしない。「近日倩友人清川吉人□抄」と云ふより推せば、これを写したものは門人清川玄道□(きよかはげんだうがい)であらう。

     その百三十三

 此歳文政六年二月十三日には、蘭軒が友を会して詩を賦した。宿題は「看梅」であつた。十七日には蘭軒の季子柏軒が前年間文学に励精したと云ふを以て、阿部正精の賞詞を受けた。事は勤向覚書に見えてゐる。
 同二月十八日に、菅茶山は神辺にあつて、蘭軒に寄する書に追加したかとおもはれる。本書は前日に作つたもので、それは今伝はらない。饗庭篁村さんの所蔵の書牘中に、首(はじめ)に「追書(つゐしよ)」と記した断簡が是である。
 茶山の文は末に「春社(しゆんしや)」と記してある。そして大田南畝の病の事が書いてある。南畝は中一月を隔てて歿した。わたくしは暦道に□(くら)いが、南畝が歿した年の二月中に八日、十八日、二十八日の戊日のあることを推算し得た。そこで十八日を以て春社となした。
「追書。」
「前日の書に申のこし候こと申上候。先大蔵謙介(おほくらけんすけ)(牛ごみの南御徒士町とやら承候)下地(したぢ)御とゞけ被下候賜(たまもの)もあり。宜奉願上候。下地といへば江戸にては蕎麦の汁などを申候。備後にては由来をいふ。笑申候。」
「華御座(はなござ)は届申候哉。これは山南(さんな)と申処にて出来(いでく)。神辺をさること五里。(日本里程。)かの方にしる人有之、宜くたのむと申遣し候。(凡(おほよそ)たたみ類の事あちらは黒人(くろうと)也。こちらはしらず候ゆゑ也。)勿論浦郷(うらざと)にて便も宜候故也。私添書どもなきをあやしむことなかれ。」
「矢代太郎様御安祥に被遊御座候哉。乍憚宜奉願上候。去年か御伝言被下候御礼も奉頼上候。豊後人田辺主計(かぞへ)と申ものへ御書通、私へも宜(よろしく)と被仰下候由、其方より申来候。前年さし上候うたは御届被下候覧と奉存候。」
「去年長崎名村新八てふをのこ参候。于今(いまに)滞留に候はば御次(おんついで)に宜奉願上候。之子(このし)いかなる用事に候哉。」
「此余申上べき事なし。大田之御病人様いかが。御左右(おんさう)承度候。恐惶謹言。春社。菅太中晋帥。伊沢辭安様。」
「去年狂詩被遣、人にはなしをかしがらせ候。あんなもの又出候はば御こし可被下候。」
「蜀山人先生御病気のよし御次に宜奉願上候。御病状も承度候。衰老は同病也。失礼ながら相憐候かた也。敬白。」
 大蔵謙介はわたくしは其人を詳(つまびらか)にせぬが、その茶山集に見えてゐる大蔵謙甫(けんほ)と同人なることは明である。茶山が甲戌に江戸に再遊した時、謙甫は重陽に牛込の家に招飲した。此書を裁する前年壬午「九日独酌」の詩に自註がある。「甲戌是日。同黒沢正甫、立原翠軒、平井可大。飲大蔵謙甫牛門宅。主客今並無恙。独可大不在。」此会は好記念であつたと見えて、其詩に「老来佳節幾歓場、最憶牛門九日觴」と云つてある。翠軒は甲戌に七十一歳で小石川の水戸邸内杏所(きやうしよ)甚五郎の許にゐた。壬午重陽には七十九歳であつたが、茶山の此書を裁する四日前に八十歳で歿した。詩中「年年縦継藍田会、無復当時杜少陵」は可大(かだい)を悼んだのである。牛込を「うしごみ」と書した例は当時の文に多く見えてゐる。
 大蔵は嘗て茶山に何物をか贈つたことがある。所謂「下地御とどけ被下候賜」である。
 次に謂ふ華蓙(はなござ)は茶山が大蔵に贈つたものか、或は蘭軒に贈つたものか、不明である。何故と云ふに、此条と前の下地の条との間には空白を存ぜず、只行を更めてあるのみで、次の矢代太郎の事は特に行を隔てて記してあるからである。
 華蓙の産地は沼隈郡山南(ぬまくまごほりさんな)である。此郡と御調郡(みつきごほり)とが御荘蓙(みしやうござ)を産する。所謂備後表である。茶山は山南の地名に特に傍訓を附してゐる。

     その百三十四

 屋代弘賢(ひろかた)は此年癸未の武鑑に「奥祐筆所詰、勘定格、百五十俵高、神田明神下、屋代太郎」と記してある。年は六十六であつた。弘賢は前年壬午に豊後の人田辺主計(かぞへ)に書を与へた時、田辺をして菅茶山の起居を問はしめた。又同じ年に茶山は歌を弘賢に贈つた。茶山の書牘には「去年か」と書し、又「前年」と書してあつて、思ひ出づるまに/\筆を下した痕が見える。茶山は屋代を矢代に作つてゐる。
 名村新八は長崎の人で、壬午に神辺を経て江戸に来た。此人が江戸にあつて何事をなしたかは、書を作つた茶山も知らなかつた。「之子いかなる用事に候哉」と疑つてある。
 最後に茶山の書牘には大田南畝が出でてゐる。既に「大田之御病人様いかが、御左右承度候」と書し、又「蜀山人先生御病気のよし(中略)御病状も承度候」と書してある。わたくしは猝(にはか)に見て、大田の病人と蜀山人とは別人ではないかと疑つた。しかし熟(つく/″\)おもへば同人であらう。僅に数行を隔てて同じ事を反復してゐるのは、忌憚なく言へば、老茶山の健忘のためかと推せられる。
 三月二十五日に蘭軒の女(ぢよ)順(じゆん)が、生れて四歳にして夭折した。蘭軒は既に文化二年に長女天津(てつ)を喪(うしな)ひ、九年に二女智貌童女を喪ひ、今又四女順を喪つた。剰す所は三女長のみである。勤向覚書にかう云つてある。「三月廿六日末女病気之処養生不相叶今暁丑中刻病死仕候処、七歳未満に付三日之遠慮引仕候旨、合御触流を以及御達候。」此に二十六日と云つてあるのは届出の日である。先霊名録には実を伝へてかう云つてある。「二十五日。花影禅童女。名阿順。芳桜軒妾腹之女也。母佐藤氏。文政六年癸未三月歿。」
 春夏の交(かう)に阿部侯正精は病気届をしたかとおもはれる。次の年の蘭軒の詩引に、「客歳春夏之際、吾公嬰疾辞職」云云と云つてあるからである。正精は文化元年に奏者番にせられ、三年に寺社奉行を兼ね、十四年に老中に列した。渡辺修二郎さんはかう云つてゐる。「正精閣老たること殆ど七年、公正廉潔を以て聞ゆ。時に同僚水野忠成君寵を得、権威を振ひ、専ら事を用ゐ、請託公行(せいたくこうかう)す。正精忠成が行ふ所を見てこれを是とせず、意見相協(かな)はず、因て病と称して職を辞す。」忠成は沼津の城主水野出羽守である。正精は病と称したとは云つてあるが、事実上にも身体に多少の違例があつたことは、下(しも)に記す如くである。正精の解綬は冬の初に至つて纔に裁可せられた。
 八月朔(ついたち)の蘭軒が覚書に阿部侯の病の事が記してある。「八月朔日、殿様御不快中拝診被仰付候に付、爰元御門並丸山表御門刻限過出入共定御移被下候様、岡西玄亭を以及御達候処、勝手次第と被仰聞候。」爰元(こゝもと)は西丸下の老中屋敷、丸山は中屋敷である。尋(つい)で十月十一日に正精は老中を免ぜられた。蘭軒の詩引には「至冬大痊」と云つてある。正精の違例は甚だ重くはなかつたと見える。
 詩引に「幕府下特恩之命、賜邸於小川街、而邸未竣重修之功、公来居丸山荘、荘園鉅大深邃、渓山之趣為不乏矣、公日行渉為娯」と云つてある。江戸図を検すれば、神田の阿部邸は正精の未だ老中にならなかつた前と、その既に老中を罷めた後と、同じく猿楽町の西側にある。蘭軒が「賜邸」と書したのは故ある事であらうが、福山藩の人に質(たゞ)さなくてはわからない。それはとまれかくまれ、正精は西丸下より小川町に移る中間に、一たび丸山邸に入つたのである。

     その百三十五

 阿部正精は将(まさ)に老中の職を罷めむとする時詩を賦した。「癸未以病辞相、短述□懐」として七律一首、又「同前七絶八首」として聯作の絶句がある。末(すゑ)には「文政六年歳次癸未秋九月下澣、阿正精藁」と署してある。
 此詩は正精が自ら書して古山静斎に与へた。後正精の六男正弘は、静斎の子善一郎のために、「牆羮」の二字を巻首に題した。後漢書の「昔堯□之後、舜仰慕三年、坐則見堯於牆、食則覩堯於羹」に取つたのである。
 七律に云く。「半歳寥寥久抱痾。一朝解綬意蹉□。欲抛人世栄名累。難奈君恩眷寵多。庭際霜寒飄老葉。池頭秋晩倒枯荷。回思二十年間夢。浩歎□□駒隙過。」第七の下(しも)に「甲子蒙典謁之命、丙寅兼領祠曹、丁丑陞相位、通前後廿年」と註してある。二十三字の官歴である。
 絶句に云く。「抛擲世紛半歳余。繩床一臥愛間居。解官猶在城門内。無復邸前停客車。」第一は蘭軒の「春夏之際」と書した文と符する。免罷の未だ発表せられぬに、門前客が絶えた。九月には猶西丸下(にしまるした)にゐたのである。「又。陸雲之癖癖做病。一擲功名此挂冠。憶得春秋五十夢。猶疑身是在邯鄲。」正精は四十九歳であつた。第三ある所以である。「做病」は或は「為□」の誤ではなからうか。「又。一年沈痼尚難痊。避位避官本任天。縁是君恩深到骨。未能采薬去従仙。又。菊砕蘭摧各一時。人間変態総如此。尚存憂国愛君意。毎使夢魂夜夜馳。」「此」は「斯」に作るべきである。「又。七年相位夢初醒。解綬一朝意自寧。遮莫斯身辞眷寵。儘将風月送余齢。又。病躯却喜出塵寰。得告一朝免綴班。門外雀羅設猶未。南窓翻帙領清間。又。陸癖作痾十月余。翻将翰墨付間居。看他多少男児輩。何事営営索世誉。又。春秋已届五旬齢。病鶴離群似鏃□。疇昔飛鳴九天上。夢魂時復到朝廷。」
 茶山の集に「恭次公製辞相短述一律八絶句瑤韻」の作がある。七律。「中歳抽簪為病痾。七年重較豈蹉□。官途憂思随時在。人世歓場到処多。自有名園開緑野。不関初服製青荷。久将恩沢流寰宇。非是光陰徒爾過。」絶句其一。「苑在城中十頃余。紅塵不染似山居。尋涼月径試間歩。愛暖花陰停小車。」其二。「明時賢哲晦終難。赤□何曾称褐冠。伯予宜重位山岳。呂翁漫説夢邯鄲。」其三。「賜休半載病初痊。行薬東橋二月天。晴院嬌鶯鳴哈哈。午階狂蝶舞僊僊。」第一は蘭軒の「至冬大痊」の文と符する。其四。「芹宮憶昔息遊時。東魯多賢乃取斯。不怪他年枢要路。王良特地範駆馳。」其五。「捧誦瑤篇愁始醒。緩声忻見体中寧。祈君不改台池楽。延寿能同亀鶴齢。」其六。「隠棲何必水雲寰。貴爵仍従鴛鷺班。碑帖庫添新巻第。琴詩客会旧遊間。」其七。「投間始得事三余。却見臣僚警逸居。都下日伝輿誦美。公偏百計避声誉。」其八。「暫辞鳳穴未頽齢。寧比仙禽老□□。看取分憂勤所職。藩城非是小朝廷。」
 蘭軒は此時次韻の作が無かつた。それゆゑ正精の丸山邸に居るに及んで、次年元日の詩に和して、其引に侯の挂冠(くわいくわん)の事を追記した。

     その百三十六

 此年文政六年十一月二十三日に、菅茶山が書を蘭軒に与へた。書中には多く北条霞亭の歿後の事が言つてある。霞亭は是より先八月十七日に嚢里(なうり)の家に歿した。墓表に「居丸山邸舎三年、罹疾不起、実文政癸未八月十七日、享年四十四、葬巣鴨真性寺」と書してある。茶山の此書は文淵堂蔵の花天月地中に収めてある。
「一筆啓上仕候。時節寒冷催候。愈御安祥御座被成候哉承度奉存候。北条事最早可申ことも無御座候。何さま家内無事に大坂迄著、明廿四日には大かた帰宅可仕やと書状にて申こし折角待ゐ申候。始終段々御世話難申尽候。これは後信にも可申上候。其内急便、先帰宅明日にあり候事を申上候。」
「これも途中いろ/\事有之候。先箱根にて御書付と髪の結(ゆひ)ぶり違候とて引付られ、半日余もかかり候由。(金三歩出し候由。)又被指添候(さしそへられそろ)足軽池鯉鮒(ちりふ)之駅にて吐血急症、近隣近郷之医を招候由。(これは三両余の入用と申すこと。)しかし箱根もすみ、池鯉鮒も翌日発足いたす位になりし由、不幸中之幸なるべし。明日帰りて委細不承候内は、往来上下(じやうか)人足の沙汰計、書状も瑩々とわけきこえかね候故、確然は得信可申上候。」
「何様始終之御邪魔御面倒可謝詞もなく候。先大坂迄帰著の処申上候。鵜川段々世話いたしくれられ候由、此事御申伝尚御たのみ可被下奉願上候。御内公(うちぎみ)令郎(れいらう)至おさよどの(おさよどのにいたる)まで、宜(よろしく)御礼奉願上候。恐惶謹言。十一月廿三日。菅太中晋帥。伊沢辞安様。」
「北条妻は私が姪女(てつぢよ)也。ことさらの鈍物、御世話奉察候。初め東行仕候時、(去々年也)心に落着いたさずつらき事、何ごとも必辞安先生に申上よと申遣候。いかが候や覧。」
「用事。」
「北条事に付これはかくせよ、かれはいかゞせよと被仰下たく候。」
「牧唯助(まきたゞすけ)(むかしの臼杵直卿(うすきちよくけい)也)松平冠山様之以状御たのみの事申遣候。うんともすんとも返事無之候。御先方貴人に候へばはやく承度候。御きき可被下候。」
「余に一も申上べき事なし。春以来大旱雨なし。雷は一年一声もきかず候。或云。遙雷はなりたれども老聾(らうろう)きこえざるなりと。筑前は十月廿四日大雷大雨と申こと。雨は八月に少々ふり、其後まだふらず、冬之大旱也。御地は雨しげく候よし、ふるもふらぬもさだめなき世の中也。」
 霞亭の妻井上氏は、頃日(このごろ)福田禄太郎さんを介して、黒瀬格一さんに検してもらつた所に徴するに、名は敬(きやう)である。菅波久助の次女、茶山の妹、井上源右衛門の妻にちよと云ふものがあつた。此ちよの三女が敬である。
 久助の次男、茶山の弟猶右衛門汝□(じよへん)に、一子長作万年があつた。万年は初め井上源右衛門の次女さほを娶り、さほの歿後に其妹敬を納れた。万年が歿して、敬が寡居してゐたのを、茶山が霞亭に妻(めあは)せた。
 敬が霞亭に随つて江戸に向ふとき、茶山は何事をも蘭軒に相談せよと言ひ含めた。茶山は所謂「鈍物」の上を気遣つて蘭軒に託したのであつた。浜野知三郎さんの語る所に拠れば、辛巳の歳に霞亭は一たび江戸に来て、尋(つい)で神辺へ敬を迎へに帰つたさうである。しかし敬が嚢里の家の落成に先(さきだ)つて来てゐたことは、移居の詩に「家人駆我懶」と云ひ、「団欒対妻孥」と云つてあるを見て知られる。

     その百三十七

 北条霞亭と其妻敬とが辛巳の歳に江戸に来てから、此年癸未に至るまで、足掛三年の間、蘭軒の家と往来してゐたことは明である。霞亭が菅茶山の書牘を剪(き)り断つて蘭軒に示したことは、上(かみ)に云つた如くである。
 しかし敬が果して、茶山の誨(をし)へた如くに、蘭軒を視ること尊属に同じく、これに内事を諮(はか)つたかは疑はしい。少くも此の如き証跡は一も存してゐない。
 さて此年八月十七日に霞亭は病死した。主家阿部氏に於ては、正精(まさきよ)が病と称して事を視ざるに至つてから、四五箇月の月日が立つてゐる。霞亭は解褐(かいかつ)以来未だ幾(いくばく)ならぬに死んだ。しかも主家に事ある日に死んだ。其臨終の情懐を想へば、憐むべきものがある。
 わたくしは霞亭に痼疾のあつたことを聞かない。其死を致した病は恐くは急劇の症であつただらう。わたくしは唯霞亭が酒を嗜(たし)んだことを知つてゐる。酒を嗜むものは病に抗する力を殺(そ)がれてゐるものである。急病に於て殊にさうである。
 霞亭の酒を嗜んだことは、何に縁(よ)つて知つたか。わたくしは頃日(このごろ)浜野知三郎さんに就いて、霞亭の著す所の書数種を借ることを得た。霞亭渉筆は其一である。渉筆に左の二条がある。
「予性疎慢。一切之物。寡所嗜好。唯有酒癖。習以成性。欲止未能。然年歯漸長。節而飲之。亦似不甚害。要之在人。不在酒也。毎誦汪遵詩。九□松醪一曲歌。本図間放養天和。後人不識前賢意。破国亡家事甚多。深以為知言。」
「蜀志諸葛孔明戒子曰。夫酒之設。合礼致情。適体帰性。礼終而退。此和之至。主意未殫。賓有余豪。可以至酔。無致於乱。此言可謂唯酒無量不及乱好註脚。」
 わたくしは酒が必ず霞亭に祟をなしたとは云はない。しかし霞亭の酒を説くを見るに、自ら嘲る中に自ら解する意を含んでゐる。わたくしは此を除いては、霞亭の健康を害すべき所以のものを知らぬから、これに言及した。
 霞亭は歿して、跡に未亡人敬が遺つた。子は山陽が「生二女、皆夭」と云つてゐるから、恐くは既に亡かつただらう。霞亭の父適斎道有は、霞亭の弟惟長をして家を嗣がしめ、霞亭に分家せしめてゐたから、敬には仕ふべき舅姑(きうこ)は無い。的屋には敬の帰るべき家は無い。山陽は「考以次子立敬承家」と書してゐる。立敬は惟長である。
 そこで敬は神辺(かんなべ)の里方へ帰ることとなつた。敬は江戸を立つて東海道にさし掛かつた。然るに江戸より神辺に至る途中に、茶山の書牘に云ふ如く、二三の厄難があつた。
 敬は箱根の関に半日余抑留せられた。それは髪の結振(ゆひぶり)が書付と符せぬが故であつた。或は後家らしい髪が途上却つて人の目に附くを憚つて、常体(つねてい)に改めてゐたのであらうか。関の役人は金三歩を受けて、纔(わづか)に敬を放つて去らしめた。当時の吏の収賄である。わたくしは此汚吏の長官の誰なるかを検して見た。此年の役人武鑑に箱根の関所番として載せてあるのは、相模国小田原の城主大久保加賀守忠真(たゞざね)であつた。或はおもふに当時の吏は例として此の如き金を受け、その収賄たるに心付かずにゐたのではなからうか。

     その百三十八

 北条霞亭の未亡人敬は僅に箱根の関を踰(こ)ゆることを許されて、池鯉鮒(ちりふ)の駅まで来ると、又一の障礙に遭つた。それは江戸から供をして来た足軽が重病を発したのである。証候(しようこう)は喀血若くは吐血であつた。敬の一行は医を延(ひ)いて治を求め、留宿一日、費金三両で此難をも脱することを得た。
 敬等は大坂に著いた。菅茶山は神辺にあつてこれを聞いた。そして書を裁して蘭軒に報じたのである。茶山は敬等が此年文政六年十一月二十四日に神辺に帰り著くことを期してゐた。
 江戸には未亡人敬の帰り去つた後、猶亡(ばう)霞亭のために処理すべき事があつたと見える。茶山は蘭軒に、「北条事に付これはかくせよ、かれはいかがせよと被仰下たく候」と委嘱してゐる。霞亭の葬られた寺の事、北条氏の継嗣の事等であつただらう。巣鴨の真性寺に、頼山陽の銘を刻した墓碣(ぼけつ)の立てられたのは、此より後九年であつた。浜野知三郎さんの言(こと)に拠るに、「北条子譲墓碣銘」は山陽の作つた最後の金石文であらうと云ふことである。霞亭の家は養子退(たい)が襲いだ。山陽は「河村氏子退為嗣、即進之」と云ひ、「其子進之寓昌平学」と云つてゐる。所謂河村氏は嘗て文部省に仕へた河村重固(しげかた)と云ふ人の家で、重固の女(ぢよ)が今の帝国劇場の女優河村菊枝ださうである。
 霞亭の遺事は他日浜野氏が編述し、併て其遺稿をも刊行する筈ださうである。わたくしは上(かみ)に云つた如く、浜野氏に就いて既刊の霞亭の書二三種を借り得たから、読過の間にわたくしの目に留まつた事どもを此に插記しようとおもふ。人若しその道聴途説(だうていとせつ)の陋(ろう)を咎むることなくば幸である。
 山陽は霞亭の祖先を説いて、「其先出於早雲氏」と云つた。霞亭も亦自ら其家系を語つてゐる。渉筆に云く。「昔吾家宗瑞入道。嘗召一講師読七書。首聴三略主将之法務攬英雄之心句。断然曰。吾已領略。其他不欲聞之。英豪之気象。千載如生。而斯語也。実名言也。為将帥者不可不服膺。」軼事(いつじ)は今人の皆知る所である。わたくしの此に引いたのは、その霞亭の筆に上つたためである。
 次に山陽は「後仕内藤侯、侯国除」と云つてゐる。そして「志摩的屋人」の句は先祖を説くに先だつて下(くだ)してある。文が頗る解し難い。所謂「内藤侯」の何人(なにひと)なるかは、稍(やゝ)史に通ずるものと雖、容易に知ることが出来ぬであらう。わたくしは山陽が強て人の解することを求めなかつたのではないかと疑ふ。
 渉筆に西村維祺(ゐき)の文が載せてある。霞亭の曾祖父道益の弟僧了普(れうふ)の事を紀(き)したものである。了普の伝は僧真栄の伝と混淆して、二人の同異を辨じ難い。西村は「子譲初欲自書栄公事、顧命予其撰」と云つてゐる。西村維祺は或は驥□(きばう)日記の西村子賛(しさん)ではなからうか。此篇は霞亭の世系を説くこと、墓誌に比すれば稍(やゝ)詳である。わたくしはこれを読んで、始て内藤侯とは或は此人ではなからうかと云ふ、微(かすか)なる手がかりを得た。

     その百三十九

 西村維祺は北条霞亭の曾祖父道益の弟僧了普が事を紀(き)する文にかう云つてゐる。「予友北条子譲先。嘗事鳥羽内藤侯。及侯亡。提家隠于的屋。」此句の下(しも)に、「時北条省為北氏、或称喜多」と註してある。
 霞亭の遠祖の主家内藤某は鳥羽に封ぜられてゐた。内藤氏の城池のある鳥羽とは何処か。角利助(すみりすけ)さんの説くを聞くに、鳥羽は的屋より程遠からぬ志摩国鳥羽で、封を除かれた内藤氏は延宝八年六月二十七日に死を賜はつた内藤和泉守忠勝である。
 北条氏の的屋に住んだのは、内藤氏の亡びた後である。此時一旦北条を改めて北と云ひ、又喜多とも書した。山陽は「曾祖道益、祖道可、考道有、皆隠医本邑」と書してゐる。要するに曾祖以後は皆的屋の医であつた。道益の弟僧了普は三箇所村棲雲庵(せいうんあん)に住んで、寛保三年某月二十六日に寂した。然るに此了普と僧真栄との事蹟が混淆して辨じ難くなつてゐる。西村は「栄普二公、其跡迷離」と云つてゐる。唯真栄は享保七年九月七日に寂して、北岡に碑があり、了普は棲雲庵に碑がある。西村は「的是両人」と断じ、「或疑了普学書於真栄、以其善書、世亦直称無量寺也歟」と追記してゐる。越坂(をつさか)の無量寺は真栄終焉の地である。
 霞亭の父道有は適斎と号した。山陽は「娶中村氏、生六男四女」と云つてゐる。帰省詩嚢を見れば、適斎は文化十三年丙子に七十の寿宴を開いた。神辺(かんなべ)から帰つて宴に列つた霞亭は、「三弟及一妹、次第侍厳慈」と云つてゐる。寿を献じたものは長子霞亭以下の男子四人と女子一人とであつた。霞亭の弟の中維長立敬は適斎の継嗣である。山陽は「以次子立敬承家」と云つてゐる。
 霞亭は安永九年に生れた。適斎が三十四歳にしてまうけた嫡男である。
 霞亭は幼(いとけな)かつた時の家庭の一小事を記憶してゐて、後にこれを筆に上(のぼ)せた。それは天明八年に霞亭が九歳であつた時の事である。霞亭に、惟長でない今一人の弟があつて、名は彦(げん)、字(あざな)は子彦(しげん)、通称は内蔵太郎(くらたらう)と云つた。彦は天明四年生で、此年五歳であつた。霞亭が文化戊辰に著した文の渉筆中に収められたものはかうである。「記二十年前一冬多雪。予時髫□喜甚。乃与穉弟彦。就庭砌団雪塑一箇布袋和尚。坐之盆内。愛翫竟日。旋復移置寝処。褥臥視之。其翌起問布袋和尚所在。已消釈尽矣。弟涕泣求再塑之不已。而雪不可得。母氏慰諭而止。後十余年。彦罹疾没。爾来毎雪下。追憶当時之事。其声音笑貌。垂髦之□□。綵衣之斑爛。宛然在耳目。併感及平生之志行。未嘗不愴然悲苗而不秀矣。」
 霞亭が志を立てて郷を出でたのは、寛政九年十八歳の時であつたらしい。詩嚢に「跌蕩不量分、功業妄自期」と云ひ、「不事家人産、遠与膝下辞」と云つた時である。適斎は子を愛するがために廃嫡した。山陽は「以次子立敬承家、聴君遊学」と云つてゐる。此事が霞亭十八歳の時に於てせられた証は、渉筆に自ら「予年十八遊京師」と云ひ、又嵯峨樵歌(せうか)の首に載せてある五古に韓凹巷(かんあふこう)が、「発憤年十八、何必守弓箕、負笈不辞遠、就師欲孜々」と云ふに見て知られる。樵歌も亦わたくしの浜野氏に借りた書の一である。

     その百四十

 北条霞亭は寛政九年に十八歳にして的屋を出で、先づ京都に往つた。わたくしの狭い見聞を以てするに、文学の師に皆川淇園があり、医学の師に広岡文台(ぶんたい)があつたことは明である。霞亭は「不事家人産」とは云つてゐるが、初猶伝家の医学を廃せずにゐたのである。
 淇園は人の皆知る所なれば姑(しばら)く置く。文台、名は元(げん)、字(あざな)は子長(しちやう)、伊賀の人である。渉筆に霞亭の自記と、韓凹巷(かんあふこう)の文とがあつて、此人の事が悉(つく)してある。霞亭は文台の平生を叙して、「受学赤松滄洲翁、蚤歳継先人之志、潜心長沙氏之書、日夜研究、手不釈巻、三十年如一日矣、終大有所発揮、為之註釈、家刻傷寒論是也」と云ひ、凹巷は「聞先生終身坎※[#「土へん+稟」、7巻-278-下-1]、数十年所読、唯一部傷寒論、其所発明、註成六巻、既梓行世」と云つてゐる。
 文台は霞亭の初て従遊した時四十三歳であつた。それは十八歳の霞亭が「長予二十五歳」と云つてゐるので知られる。霞亭の云く。「予年十八遊京師。初見先生。時時就質傷寒論之疑義。先生長予二十五歳。折輩行交予。遇我甚厚。毎語人曰。夫人雖少。志気不凡。必当有為。」霞亭のためには、文台は獲易からざる知音であつた。
 霞亭は京都に学んだ頃、心友韓凹巷を獲、又長孺(ちやうじゆ)、仲彜(ちゆうい)、遠恥(ゑんち)の三人と交つた。長孺は堀見克礼(こくれい)さんの言(こと)に従へば、清水氏、号は雷首(らいしゆ)、通称は平八ださうである。遠恥、名は恭(きよう)、号は小蓮(せうれん)、鈴木氏、修(しう)して木(ぼく)と云つた。所謂木芙蓉(ぼくふよう)の子である。仲彜は越後国茨曾根(いばらそね)の人関根氏であるらしい。長孺、仲彜の事は凹巷の五古に、「幸為同門友、一朝接清規、(中略、)有時過我廬、吟興黙支頤、(中略、)憶曾長孺宅、邀君奏□※[#「たけかんむり/「虎」の「儿」に代えて「几」」、7巻-279-上-2]、豪爽人倶逝、長孺及仲彜」と云つてある。遠恥の事は渉筆に、「弱冠負笈西遊、予時在京師、相見定交、同筆硯殆半年」と云つてある。若しその霞亭との交が、早く霞亭京遊の第一年に於てせられたとすると、正に十九歳になつてゐた。
 霞亭は京に上(のぼ)つた年の暮に一たび帰省した。渉筆に云く。「寛政丁巳十二月。予出京赴郷。会天陰風粛。比過山科村。微雪飄瞥。点綴翠竹碧松之梢。寒景蕭散可愛。須臾愁雲四合。雪大如拳。積素満径。幾欲没腰。顛倒踉蹌。走就鶴浜茶店。卸担踞竈。以燎湿衣。少焉風止雲朗。予推窓試観。則天台比良三上諸峰。如白玉削成。園城寺之仏観法塔。如瓊宇瑤台。涌出霄漢之間。湖面一帯。倒暎揺蕩。宛若銀竜矯矯盤旋。令人心胆澄徹。坐作登仙之想。真奇観也。至今一念其境。恍如身在其中。雖盛夏酷暑。煩悶之苦堪頓忘矣。」
 霞亭が京都に遊学してゐた第二年、寛政十年に霞亭の弟彦(げん)が的屋から出て来た。そして霞亭の友源□瑰(げんまいくわい)と云ふものに師事した。渉筆に彦の事を叙して、「寛政戊午遊学京師、師事友人□瑰源先生」と云つてある。わたくしは未だ北条氏の系譜を見ぬから、彦と惟長と孰(いづれか)長、孰幼なるを知らない。しかし霞亭は自ら彦を称して「予次弟」と云つてゐる。これは直(すぐ)次(つぎ)の弟と解すべきではなからうか。此見解は山陽が「考(適斎)以次子立敬承家」と書したのと或は合はぬかと疑はれる。但し山陽は後に既成の迹より見て筆を下(くだ)したかも知れない。霞亭が遊学したのと、適斎が霞亭の嫡(てき)を廃し、代ふるに惟長立敬を以てしたのとは、必ずしも同時ではないかも知れない。山陽は彦が既に早世してゐたので、其次の惟長を次子と称したかも知れない。源□瑰は未だ考へない。要するに彦は、歿年より推すに、十五歳にして京都に来り、十九歳の兄霞亭と同居したものとおもはれる。

     その百四十一

 北条霞亭が京都に遊学した第二年、寛政十年には猶霞亭の筆に上(のぼ)つた一条の軼事(いつじ)がある。それは皆川淇園が歿してから一年の後、文化五年戊辰十一月に記して、後渉筆中に収めたものである。「十年前。余在京師。一日従先師淇園先生遊東山。路由京極御門。過一縉紳家門。先生乃指示曰。此万里小路氏也。又指示其西北隅之門曰。建武中。中納言避世。遁北山。微服従此出。其家哀慕其人。不忍出入其門。関鑰不肯啓。雖第邸変徙。旧制尚存。即此。余聞之。恍爾想像当時之艱。吁嗟不能已。爾後毎過其側。未曾不粛爾起敬矣。按太平記。藤房既知諫之不可行。特詣内廷拝帝。比退朝。直赴北山。是或一伝也。」
 霞亭は藤房を以て我国宋儒の最初の一人として尊崇してゐた。通途(つうづ)の説に従へば、始て朱註の四書を講じたものは僧玄慧(げんゑ)で、花園、後醒醐両朝の時である。然るに霞亭は首唱の功を藤房の師垂水(たるみ)氏に帰してゐる。わたくしは垂水氏の事を詳(つまびらか)にせぬが、往古唐通詞の家であつたらしい。霞亭は「四書集註、初伝播我邦、垂水広信崇信読之、藤房従而受業、或云、玄慧法師始講之、藤房玄慧同時与交、則其授受固当相通」と云つてゐる。
 遁世後の藤房に就いては、霞亭は妙心寺六祖伝の僧宗弼(そうひつ)を以て藤房とする説を取つてゐない。即ち今の史家の説に合してゐる。霞亭は一家の想像説を立てて、藤房は北山より近江国三雲に往き、其後越前国鷹巣山に入り、其後土佐国に渡らむとして溺れたやうに以為(おも)つてゐる。其文はかうである。「今以臆推之。三雲之棲。当在出北山之初。何以知之。以地相近。且従者尚在也。鷹巣之事。在三雲之後。土佐之行。又在鷹巣之後。何以知之。以拾遺(吉野拾遺)所言也。」

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