伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 □斎も慊堂も既に退隠後年を経てゐた。その蘭軒の二子に教へたのは、皆退隠後の事であらう。□斎が文化十四年に四十三歳で浅草の常関(じやうくわん)書屋に移り、湯島の店を十四歳の懐之(くわいし)に譲つたことは、上に云つた如くである。慊堂の事はわたくしは未だ深く究めてゐない。しかし塩谷宕陰(しほのやたういん)撰の行状に拠るに、慊堂は明和八年辛卯の生である。その掛川に仕へたのが享和二年三十二歳の時である。その肥後の聘を却(しりぞ)けて骸骨を乞うた時、「吾帰于此十年、所天三喪、不可以移矣」と云つてゐる。享和二年より十年とすると、文化八年で、慊堂は四十一歳である。慊堂が羽沢(はねざは)の石経山房に入つたのは即此年であらう。所謂「所天三喪」は、太田備中守資愛(すけちか)、摂津守資順(すけのぶ)、備後守資言(すけとき)であらう。資言は文化七年八月十一日に卒し、嗣子が無かつたので、宮川の堀田家から養子丈三郎が迎へられたのである。行状に「其嗣公之自宮川来続也、先生密疏言事、事秘不伝」と書してある。
 わたくしは榛軒が何歳を以て就学したか知らない。権(かり)に十四歳を以てしたとすると、恰も好し□斎が常関書屋に隠れた時である。榛軒は新に湯島の店の主人となつた□斎の子懐之と同庚であつた。
 柏軒の鉄三郎が□斎退隠後の弟子たることは、疑を容れない。幼年の間鉄三郎は恐くは父に句読を受けてゐたであらう。しかしその文学出精と云ふを以て、夙(はや)く十二歳にして正精の賞詞を受けたことを思へば、少くも一二年前から師を外に求めてゐたであらう。そして其師は即ち□斎であつた。
 榛軒と慊堂とは、わたくしは何時始て相見たか知らない。姑(しばら)く榛軒は□斎に従学すると同時に、慊堂にも従学したとすると、当時□斎は四十三歳、慊堂は四十七歳であつた。慊堂は羽沢にあること既に七年になつてゐた。
 此年の夏の初には、狩谷□斎が京都に往つてゐた。これは□斎が初度の西遊では無い。しかしわたくしは是より先其遊蹤(いうしよう)を尋ねようとしてゐながら、遂に何の得る所も無かつた。そこで三村清三郎さんに問うた。三村氏は古京遺文に□斎が仏足石の事を言つて、京遊云々の語をなしたことを記憶してゐて、わたくしに告げ、又好古小録、好古日録に就いて索(もと)めたなら、其形跡が得られようと云つた。
 わたくしは再び書を三村氏に寄せて、□斎の自ら語つた京遊云々の事を詳(つまびらか)にしようとした。三村氏はわたくしのために書を検する労を辞せなかつた。わたくしは此に其復柬中考証に係るものを節録する。
「既に古京遺文仏足石の条にも、余親至西京、経七日之久、精撫一本云々と御座候。遺文は文政元年之序候へど、(再校之節補入と疑へばともかく、普通にては)是れ以前之西遊を証せられ申候。扨好古小日録之填註を精査候処、大分詳細に相成候間、左に申上候。」
 書牘はこれより無仏斎が二著の抄録に入る。

     その百十三

 狩谷□斎の西遊にして、此年辛巳以前に係るものは、これを三村氏の抄録中に索(もと)むるに、下(しも)の如くである。
「好古日録永仁古文孝経の条に□斎云。寛政二年京師書肆竹苞楼(ちくはうろう)にて観(みる)。」
「同春秋左氏伝の条に□斎云。寛政二年山田以文の家にて観る。押小路外史の家蔵也。」
「好古小録鴨毛屏風(あふまうへいふう)の条に□斎云。寛政九年三月観。」
「同薬師寺魚養大般若経、大安寺縁起、志義山毘沙門縁起、来迎寺所蔵十界図の条に□斎云。文政二年四月観。」
「同覚融勝画の条に□斎云。文政二年四月京師の商家にて観。」
「同仏鬼軍の条に□斎云。京寺町十念寺蔵文政二年五月観。(下略。)」
 以上寛政二年、九年、文政二年の三度、□斎は京都に往つたらしく見える。即ち十六歳、二十三歳、四十五歳の時である。
 此に一の留意すべき事がある。それは第三次文政二年の入京である。果して□斎が此旅をなしたとすると、それは余程遽(あわた)だしい旅であつたと見なくてはならない。
 何故にさう云ふかと云ふに、菅茶山は文化十四年に「□斎西遊之志御坐候よし、これは何卒晋帥が墓にならぬうちに被成よと御申可被下候」と、蘭軒に嘱した。越えて文政二年に□斎は入京した。そして茶山が神辺にあつて待つてゐるにも拘らず、往いてこれを訪ふことなしに、京都から踵(くびす)を旋したこととなる。己卯には□斎の神辺に往つた形迹が絶無だからである。
 是よりわたくしは此年辛巳の旅を記さうとおもふ。□斎は文政四年に江戸より木曾路を経て京都に入つた。入京の日は四月八日であつた。
 十五年前に蘭軒は同じ街道を京都に往つた。そしてその京に著いたのは発程第十七日であつた。仮に□斎が同じ日数を同じ道中に費したものとすると、□斎の江戸を発した日も、略(ほゞ)推知することが出来る。暦(れき)を閲(けみ)するに文政四年には三月が大、四月が小であつた。今四月八日を以て第十七日とするときは、溯つて第一日に至つて三月二十二日を得る。□斎は概ね三月二十日頃に江戸を立つたものと見て大過なからう。
 □斎の江戸より京都に至る間、月日の詳(つまびらか)にすべきものが只二つある。其一は三月二十六日に和田駅を過ぎたことである。其二は四月朔(ついたち)に見戸野々尻(みとののしり)を過ぎたことである。
 蘭軒は旅行の第六日に上和田下和田を過ぎた。□斎が二十日に上途(しやうと)したとすると、二十六日は第七日となる。次の「見戸野々尻」は三富野(みとの)、野尻であらう。蘭軒は第十日に野尻を経た。□斎の旅の四月朔は第十一日となる。日程は大抵符合するやうである。
 □斎は京都に着いて、福井榕亭(ようてい)を訪ひ、稲荷祭、御蔭祭を観て、十四日に書を蘭軒に寄せた。此書牘が文淵堂所蔵の花天月地(くわてんげつち)中に収めてある。わたくしは下に其全文を写し出さうとおもふ。

     その百十四

 狩谷□斎が此年辛巳四月十四日に京都から蘭軒に寄せた書牘はかうである。
「追日向暑、倍(ます/\)起居御安和可被成御座奉恭賀候。京都総而(そうじて)静謐、僕等本月八日入京仕候。途中雨少(すくな)にて、僅一両日微雨に逢候而已(のみ)、只入京之日半日雨降申候。」
「上州長尾春斎(草屋の弟子)世話にて、神亀之古碑共一覧、其後多胡碑(たごのひ)も観申候。」
「木曾桜□□(やまぶき)殊妙、其外花盛に御座候而驚目申候。総而木曾之山水、豚児輩感心仕候。僕も一昨年より増り候様に覚申候。御紀行毎夕読候而御同行仕候様に奉存候。乍去余程涼気にて、日限延引を却而悦申候。和田駅(三月廿六日)など綿衣四襲位之事に御座候。乍然暑中よりは歩行致能御座候。尤一人も駕籠馬の力を借り不申候。(日程七八里故。)朔日(ついたち)(四月)見戸野々尻辺花猶盛に而珍しく、歌あり。花の香ををしむのみかは谷風にころもかへうき木曾の山道。御笑可被下候。今朝抜た綿ではないか谷ざくら。松宇君へ御つたへ可被下候。」
「福井へ尋申候。甚よく遇せられ、昨年断被申候事途中之間違のよし等被申候。何より以家屋園池之結構、小障子一枚といへども、一草一礫といへ共、みな/\心を用ひ、額聯之数は黄檗山より多く、すきま/\はアンヘラにてはりつめ、中々千金二千金之用途にて作り候物に無之、露台、庭の檻(てすり)、朱緑間錯、釣燈籠凡三百にあまり申候。実に田舎漢(でんしやかん)の京の門跡を始而見候より驚申候。但し工(たくみ)ときたな細工とを以組詰たるものにて、僕など三日も右之家に居候ものならば、大病に相成候事相違有之まじく被存候。此後数度参候而珍蔵乞可申所存に候へども、但右之一儀に迷惑いたし居申候。」
「稲荷祭。」
「御蔭祭。」
「古雅結構、面(おもしろ)き事に御座候。(森云。面の下原文白字を脱す。)土佐画の画工等、或は社頭の式を観(み)をみる人あり。(森云。をみ二字衍文。)或は路中行装を観(みる)もの有、洛東にて騎馬音楽有之、此所へ来りみるもの有。御蔭森御旅所にて、音楽神供を観するもの有。江戸人と違心を用候事感心いたし候。」
「右之帰路小野毛人墓(をのけひとのはか)へ参り申候。石槨ふた土上に現れ出(八尺に五尺ほど)有之、内には右之蓋石取除見候へば、小礫を以てつめ有之候。果して右之内に墓志有之事と被存候。八瀬小原辺にて甚幽邃なる山上に御座候。」
「此日御蔭山(これさへ此度はじめて参りし也)より廻りし所、茶屋等一向無之、饑(うゑ)甚し。人窮する時驚人之句あり。肥(こえ)し身の我大はらもひだるさにやせ行やうにおもひけるかな。此一条皆川へ御話可被下候。」
「今日迄両三輩づゝ朝夕書林も参候所、手に取てみる様なる本者(ほんは)一冊といへ共無之候。」
「一切経音義は頼申候。義疏と内経はいまだ見当り不申候。明日坂本山王祭、明々後日葵祭拝見候て、南都へ一先罷越可申と存居候。猶後便可申上候。頓首。四月十四日。狩谷望之。蘭軒先生御前。」

     その百十五

 此辛巳四月十四日の狩谷□斎の書を読んで、最初にわたくしの目を留めたのは、木曾の景を叙して、「一昨年より増り候様に覚申候」と云つてある事である。三村氏の考証した文政二年の旅が此句に由つて確保(かくはう)せられる。□斎は二年己卯に京都へ往つた。しかもその木曾路を経て西したことさへ知ることが出来る。□斎は己卯に京までは往つたが、更に南下して菅茶山を神辺に訪ふことをばせずに已んだのである。茶山は□斎の西遊を慫慂(しようよう)して、「長崎は一とほり見ておきたき処也」と云つた。想ふに□斎は入京数度に及びながら、京よりして南下するには及ばなかつたのであらう。少くも丁丑前には九州の地をば踏まなかつたことが明である。
 □斎は木曾路を行くのに、十五年前の蘭軒の紀行を携へてゐて、且読み且行つた。「御紀行毎夕読候而御同行仕候様に奉存候」と云つてある。或は二年前の旅にも持つて行き、此度の旅にも持つて行つて、反覆翫味したかも知れない。紀行の繕写せられたのは、己卯よりは早かつた筈だからである。
 □斎の此書牘には、千載の後に墓を訪はれた小野妹子の子、毛野の父毛人よりして外、五人の人物が出てゐる。第一は□斎の子懐之である。
 □斎は此旅に倅懐之を連れて行つた。「総而木曾の山水豚児輩感心仕候」と云つてある。「豚児」懐之は此年十八歳であつた。□斎の始て京に上つたのが寛政二年十六歳であつたとすると、懐之の初旅は遅るること二歳であつた。
 第二は□斎に神亀の古碑を見せた上野の人長尾春斎である。「草屋の弟子」と註してある。世間若し草屋春斎の師弟を知つた人があるなら、敢て教を請ふ。
 第三は福井榕亭である。名は需、字(あざな)は光亨(くわうかう)、一の字は終吉(しゆうきつ)、楓亭の子にして衣笠(いりつ)の兄である。榕亭は前年庚辰に□斎が何事をか交渉した時、すげない返事をした。しかし今親く訪はれては、厚遇せざることを得なかつた。そして前年の事をば「途中之間違」として謝した。□斎の書牘には榕亭の第宅(ていたく)庭園が細叙してある。その結構には詩人の所謂堆□(たいた)の病がある。「僕など三日も右之家に居候ものならば、大病に相成候事相違有之まじく被存候。」説き得て痛切を極めてゐる。わたくしなども此種の家に住んでゐる人二三を知つてゐる。それゆゑ□斎の書を読んで、わたくしの胸は直ちにレゾナンスを起すのである。兎に角□斎の筆に由つて、福井丹波守の懐かしくない一面が伝へられたのは、笑止である。
 第四は□斎が木曾の俳句「今朝抜た綿ではないか谷ざくら」を見せようとした松宇である。蘭軒集中に出てゐる真野松宇であらう。第五は□斎が八瀬小原の狂歌を見せようとした皆川である。蘭軒集中に出てゐる皆川叔茂(しゆくも)であらう。此に藉(よ)つて松宇には俳趣味、叔茂には狂歌趣味のあつたことが推せられる。わたくしは此に今一つ言つて置きたい事がある。それは八瀬小原の狂歌がわたくしに□斎の相貌を教へたことである。此歌より推せば、□斎は一箇の胖大漢で便々たる腹を有してゐたらしい。しかし三村清三郎さんは□斎が美丈夫であつたと云ふことを聞き伝へてゐるさうである。然らば所謂かつぷくの好い立派な男であつたのだらう。

     その百十六

 狩谷□斎は辛巳西遊の途上、木曾で桜の句を得て、これを蘭軒に与ふる書中に記し、松宇に伝へ示さむことを嘱した。
 わたくしは※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-234-上-7]詩集の戊寅の作中、蘭軒が真野松宇の庭の瞿麦(なでしこ)を賞したことを憶ひ出した。そして□斎の謂ふ松宇は此真野松宇であらうと云ひ、又□斎が特に其俳句を示さうとしたことより推して、松宇は俳趣味のある人であつただらうと云つた。
 わたくしが前記の文稿を郵便に附し去つた時、忽ち一の生客があつて刺を通じた。刺には「真野幸作、下谷区箪笥町一番地」と題してある。わたくしは奇異の念(おもひ)をなして引見した。幸作さんは松宇の孫で、わたくしに家乗の一端を語つた。
 幸作さんの高祖父を鼎斎と云つた。名は甘匹(かんひつ)、字(あざな)は子由、一に西巷と号した。鼎斎の子竹亭、名は茂竜、字は子群、通称は徳弥が阿部侯正右(まさすけ)に仕へた。即ち幸作の曾祖父である。
 竹亭は元文四年に生れ、寛延三年十二歳にして元服し、宝暦五年に、十七歳にして正右の儒者にせられた。わたくしは此に先づ正右の世に於ける竹亭の履歴を摘記する。宝暦九年二十一歳、大目付触流。十二年二十四歳、群右衛門と改称した。
 明和六年に阿部家に代替があつた。以下は正倫(まさとも)の世に於ける履歴である。安永元年冬、竹亭は三十四歳にして江戸勤を命ぜられ、十一月十五日に福山を発した。九年四十二歳、世子正精(まさきよ)侍読。天明七年四十九歳、十一月奥勤。八年五十歳、世子四書五経素読畢業。寛政元年五十一歳、伊勢奉幣代参。二年五十二歳、大目付格。系図調に付金三百疋下賜。四年五十四歳、世子四書講釈畢業。享和二年六十四歳、門人柴山乙五郎召出、儒者見習。
 享和三年には又代替があつた。以下は正精の世に於ける履歴である。文化元年、竹亭六十六歳、読書御用。二年六十七歳、熈徳院(きとくゐん)石槨蓋裏雕文(せきくわくがいりてうぶん)作字(さくじ)。熈徳院は正倫の法諡(はふし)である。六年七十一歳、四月二十日出精に付金五百疋。十一年七十六歳、霊台院石槨蓋裏雕文作字。霊台院は上(かみ)に云つた如く、正倫の継室津軽信寧(のぶやす)の女(ぢよ)、比左子である。十四年四月十二日、竹亭は七十九歳にして歿した。
 竹亭の遺した無題簽の一小冊子がある。中に菅茶山、太田全斎、頼杏坪等と交つた跡がある。竹亭は彼□州牽牛子(けにごし)をも茶山の手から受けた。「菅太中遙贈牽牛子種。謂此□州所産。花到日午猶不萎。乃蒔見花。信如所聞。遂賦一絶寄謝。牽牛異種異邦来。駅使寄投手自栽。紅日中天花未酔。籬頭猶□琉璃杯。」甲子の歳に茶山の江戸に来た時、竹亭は公退の途次其病床を訪うた。蘭軒が菜花を贈つた比の事である。其席には杏坪が来てゐた。「甲子二月下直、過菅太中僑居問疾、邂逅于藝藩頼千祺、観其餞辛島伯彜還西肥之作、席上□韻示千祺、用進退韻。相遇還歎相遇遅。風騒如涌筆如飛。青年令聞徒翹慕。白首仰顔交喜悲。退食過門朝問疾。高談前席※[#「日+干」、7巻-235-下-8]忘帰。寄書伯氏為伝語。官脚広陵報信時。自註、伯氏弥太郎也、頼惟寛、字千秋、其仲頼惟疆、字千齢。」太田全斎のためには、竹亭が詩を其日本輿地図に題した。「題太田方日本輿地図。一摺輿図万里程。東漸西被属文明。五畿七道存胸臆。六十八州接眼睛。彩色辨疆如錦繍。針盤記度似棋□。越都歴険無糧費。看愛臥遊楽太平。」宛然たる明治大正詩人の口吻である。
 竹亭の子松宇は名を頼寛(らいくわん)と云つて、俳諧を嗜(たし)んだ。松宇の子兵助は喜多七大夫の門に入つて、能師となつた。兵助の子が即ち我客幸作さんである。

     その百十七

 蘭軒は京に往く狩谷□斎に書を買ふことを託したので、□斎は此辛巳四月十四日の簡牘の末に訪書の消息を語つてゐる。蘭軒のあつらへた書は一切経音義、論語義疏及黄帝内経であつたらしい。
 三書はいかにも蘭軒が□斎にあつらへさうな書である。若し小説家が此書牘を擬作するとしたら、やはり此種の書を筆に上(のぼ)することとなるだらう。そして批評家は云ふだらう。そんな本は蘭軒は疾(と)くに備へてゐた筈である。作者の用意は未だ至らないと云ふだらう。
 わたくしは此に少しく三書の事を言ひたい。しかしわたくしは此方面の知識に乏しい。殆ど支那の文献に喙(くちばし)を容るゝ資格だに闕けてゐる。それゆゑわたくしの言ふ所には定て誤があらう。どうぞ世間匿好の士に其誤を指□してもらひたい。
 一切経音義と云へば玄応の書か、慧琳の書かと疑はれるが、わたくしは蘭軒が前者を求めたものと解する。何故と云ふに今流布してゐる慧琳音義は元文二年に既に刊行せられてゐて、此本以外に善本を坊間に獲むことは殆ど望むべからざる事であつた筈だからである。且蘭軒の徒なる渋江抽斎、森枳園の後に撰んだ訪古志にも、玄応音義の下(もと)には特に「尤有補小学焉」と註してある如く、当時蘭軒一派の学者が此書を尊重してゐて、現に□斎自家も玄応音義の和刻本に、校讐を加へて蔵してゐたからである。□斎の識語のある此本は後枳園の子約之(やくし)の手に帰し、今は浜野知三郎さんの庫中にある。
 文献史上に於ける音義諸書の顕晦存亡は、其迹小説よりも奇である。今は定てこれに関する新研究もあらうが、わたくしの此に言ふ所は単に流布本の序跋等に見えてゐる限を反復するに過ぎない。それのみでも既に人をして其奇に驚かしむるに足るであらう。
 玄応が音義を著したのは唐の初である。「貞観末暦」と云つてあるから、猶太宗の世であつた。即ち七世紀の書である。初二十五巻であつたのが、二十六巻となり、清の乾隆に至つて旧に復せられた。これがわたくしの蘭軒の捜してゐた本だらうと推する書である。五号活字の弘教(くげう)書院蔵にも、四号の蔵経書院蔵にも載せてある。しかし善本を求めたら、今も獲難からう。
 顕晦の尤奇なのは、此書では無い。慧琳の音義である。裴氏(はいし)慧琳が音義一百巻を著したのは、「以建中末年剏製」とも云つてあり、又「起貞元四年」とも云つてある。要するに唐の徳宗の世であつた。その成つたのは、「至元和二祀方就」、「迄元和五載」、「元和十二年二月二十日絶筆於西明寺焉」等記載区々になつてゐる。要するに憲宗の世であつた。慧琳は元和十五年庚午に八十四歳で卒したから、十二年に筆を絶つたとすると、入寂三年前に至るまで著述に従事したことになる。その蔵に入れられたのは大中五年だと云ふから、既に宣宗の世となつてゐた。即ち慧琳音義は九世紀に成つた書である。
 然るに此書は支那に亡くなつた。「高麗国(中略)周顕徳中遣使齎金、入浙中求慧琳経音義、時無此本」と云つてある。後周の世宗の時である。即ち十世紀には早く既に亡びてゐた。後高麗国は異邦に求めてこれを得た。「応是契丹蔵本」と云つてある。そして慧琳音義は朝鮮海印寺の蔵中に入つた。
 足利義満が経を朝鮮に求め、義政がこれを得た時、慧琳音義が蔵中にあつて倶(とも)に来た。これが洛東建仁寺の本である。元文板には「朝鮮海印蔵版、近古罹兵燹而散亡」と云つてあるが、徳富蘇峰さんの語る所に従へば、麗蔵(れいざう)は今猶完存してゐて、慧琳の音義も亦其中にあるさうである。

     その百十八

 わたくしは慧琳音義が唐に成り後周に亡び、契丹(きつたん)より朝鮮に入り、朝鮮より日本に来たことを語つた。さて此書の刊布は忍澂(にんちよう)に企てられ、其弟子の手に成つた。それが元文二年で、徳川吉宗の時である。支那に於て十世紀に亡びた書が、日本に於て十八世紀に刊行せられたのである。慧琳音義は弘教書院蔵に有つて、蔵経書院蔵に無い。しかし元文版は今も容易に得られる。
 玄応慧琳の音義よりして外、蔵経書院蔵に収められてゐる慧苑の華厳経音義、処観の紹興蔵音、弘教書院蔵に収められてゐる可洪(かこう)の随函録、希麟の続経音義等がある。しかし此等は姑(しばら)く措いて、わたくしは書籍(しよじやく)の運命の奇を説く次(ついで)に、行□(かうたう)の大蔵経音疏五百巻の事を附加したい。これは「慨郭□音義疎略、慧琳音義不伝、遂述大蔵経音疏五百許巻」と云つてある。郭□(くわくい)の音義とは所謂一切経類音である。類音の疎略にして、慧琳音義の伝はらざるを慨(なげ)いて作つたのである。然るに此行□の書も亦亡びて、未だその発見せられたことを聞かない。行□は恐くは己が書の亡びて、慧琳の書の再び出づることをば、夢にだに想はなかつたであらう。
 わたくしは経音義のために余りに多くの辞(ことば)を費した。論語義疏と内経との事は省略に従がふこととしたい。□斎の書牘には単に「義疏」と云つてある。それを皇侃(くわうかん)の論語義疏と解するのは、嘗て寛延板が□□(けいへい)本に□(なら)つて変改してあるのに慊(あきたら)ぬため、当時の学者は古鈔本を捜すことになつてゐたからである。黄帝内経は素問と霊枢とである。これも当時尚古版本若くは古抄本を得べき望が多少あつたことであらう。
 以上が□斎の蘭軒に与へた書の註脚である。□斎は文政四年四月十四日に、其子懐之と共に京都にあつて此書を裁し、其後どうしたか。
 十五日には、書牘に拠るに、坂本の山王祭を観た筈である。
 十七日には奈良へ立つた筈である。
 此より後五月十八日に至る三十日間の行住の迹は、さしあたり尋ぬることを得ない。五月十九日には□斎父子が福山に宿した。
 二十日の朝父子は菅茶山を神辺(かんなべ)に訪ひ、其家に宿した。
 二十一日には父子が猶黄葉夕陽村舎に留まつてゐた。
 二十二日に二人は神辺を発し、三原に向つた。
 此五月十九日より二十二日に至る四日間の旅程は、茶山が江戸にある北条霞亭に与へた書に由つて証することが出来る。
 茶山の霞亭に与へた書は断片である。霞亭はこれを剪(き)り取つて蘭軒に示した。この剪刀(はさみ)の痕を存した断片は饗庭篁村さんの蔵儲中にある。「扨津軽屋三右衛門父子今月廿日朝来り候。ふくやまに一泊いたされ候よし也。其夜と其翌夜滞留、廿二日三原をさして発程也。今すこし留めたく候へども、宮島迄も参、京祇園会に必かへると申こと、日数なく候故、乍残念かへし候。八幡にて古経を見、宮じまにて古経古器を見ると申こと、中々祇園会に間に逢かね候覧。ふたりとも連を羨しく候。此段伊沢へ御はなし可被下候。扨竹内森脇いづかたも無事に候。宜御申可被下候。右用事のみ草々申上残候。御道中道ゆきぶりは追而可被仰遣候。先右序文いそぎ此事のみ申上候。恐惶謹言。五月二十六日。菅太中晋帥。北条譲四郎様。伊十も可也に取つゞき出来申候覧。銅脈先生(広右衛門こと)は矢かはにしばらくゐ申候由、いかがいたし候や。」

     その百十九

 菅茶山の北条霞亭に与へた、此年文政四年五月二十六日の書牘の断片は、独り狩谷□斎の西遊中四日間の消息を伝へてゐるのみでは無い。去つて霞亭の経歴を顧みるに、此にも亦其伝記を補ふに足るものがあるらしい。それは霞亭が何時江戸に来たかと云ふことである。
 先づ山陽撰の墓碣銘を見るにかう云つてある。「歳癸酉遊備後。訪菅茶山翁。翁欲留掌其塾。諮之父。父命勿辞。福山藩給俸五口。時召説書。尋特召之東邸。給三十口。准大監察。将孥東徙。居丸山邸舎。三年罹疾。不起。実文政癸未八月十七日。享年四十四。葬巣鴨真性寺。」
 霞亭が備後に往つたと云ふ癸酉は文化十年で、茶山の甲戌東役の前年である。茶山は霞亭に廉塾の留守をさせて置いて江戸に来り、乙亥に還つて、彼八月二日の書を以てこれを蘭軒に紹介した。
 茶山の蘭軒に与へた書には、茶山が将(まさ)に妹女(まいぢよ)井上氏を以て霞亭に妻(めあは)せむとしてゐることが見えてゐた。茶山は遂に妹女をして嫁せしめ、後霞亭を阿部家に薦めた。しかし霞亭の此婚姻は何時であつたか。又此仕宦は何時であつたか。これは東遊の時を問ふに先だつて問ふべき件々である。
 わたくしは多く霞亭の詩歌文章を読まない。しかし曾て読んだだけの詩に就いて言はむに、茶山が霞亭を蘭軒に紹介した乙亥の翌年丙子の秋以前に、霞亭が既に井上氏を納(い)れてゐたことは確である。
 今わたくしの許(もと)に帰省詩嚢と云ふ小冊子がある。これは浜野知三郎さんに借りてゐる書である。霞亭の門人井達夫(せいたつふ)等は嘗て貲(し)を捐(す)てゝ霞亭の薇山三観を刻して知友に貽(おく)つた。然るにこれを受けたものが多く紙価を寄せてこれに報いた。達夫等は刻費を償(つぐの)つて余財を獲、霞亭に呈した。霞亭は受くることを肯(がへん)ぜなかつた。そこで達夫等はこれを帰省詩嚢を刻する資に充(み)てたのださうである。これは「文化丁丑冬井毅識」と署した序の略である。
 帰省詩嚢は文化十三年丙子の秋、霞亭が父適斎道有の七十の寿宴に侍せむがために、廉塾を辞して志摩国的屋に帰つた有韻の紀行である。秋の初に神辺を立つて、秋の末に又神辺に還つたらしい。巻首の「留別塾子」の絶句はかうである。「雲山千里一担□。暫此会文抛友朋。帰日相逢須刮目。新涼莫負読書燈。」以て発程が新涼の節に当つてゐたことを知るべきである。巻尾の「西宮途上寄懐韓宇二兄」の絶句はかうである。「昨遊連日共提携。一別今朝独杖藜。断雁有声遙目送。秋雲漠々澱江西。」韓は韓聯玉(かんれんぎよく)、宇は宇清蔚(うせいうつ)である。詩の後に一行を隔てて「右丙子晩秋」と註してある。以て此遊が晩秋に終つたことを知るべきである。
 わたくしは此帰省詩嚢中の詩に、霞亭が既に娶つてゐた証を見出し、又これを評した亀田鵬斎の語に、其婚姻がしかも成後未だ久しきを経なかつた証をも見出したのである。詩は書中の最長篇で、一韻徹底の五古である。引にかう云つてある。「閏八月念五日。従嵯峨歩経山崎桜井。弔小侍従墓。到芥川宿。翌尋伊勢寺。邂逅国常禅師。因過能因旧址松林庵。遂宿禅師之院。其翌登金竜寺。下到前嶼。乗舟至浪華。詩以代記。」辞(ことば)長ければ全篇を写し出さずに、下(しも)に有用の句を摘録することとする。

     その百二十

 わたくしは此年辛巳五月二十六日に、菅茶山の北条霞亭に与へた書の断片中より、既に当時西遊途上にあつた狩谷□斎の数日間の行住去留を検出し、又受信者霞亭の東徙(とうし)の時を推定しようと試みた。霞亭は京都より神辺へ往き、神辺に於て茶山に拘留せられ、其妹女を娶つて阿部家に仕へ、此に東役の命を受くるに至つたのである。霞亭が「歳癸酉、遊備後」の後、東徙に至るまでには、其婚姻があつて、これがために東徙は「将孥東徙」となつたのである。わたくしは東徙の時を言ふに先だつて、婚姻の時を言はむことを欲した。そしてこれがために霞亭の帰省詩嚢を引くこととしたのである。
 詩嚢の五古の長篇に、丙子の歳閏(じゆん)八月二十五日より二十七日に至る遭遇を叙したものがある。霞亭は二十六日に伊勢寺を尋ねて僧国常に逢ひ、院内に宿した。「為我開法庫。芸香散講台。画軸多仙仏。妙筆縦離奇。経巻堆牙籤。繙閲白日移。斗藪塵埃客。浄境忘倦疲。久遭妻孥汚。転覚葷羶非。」前年乙亥に茶山が書を蘭軒に寄せた時には、霞亭はまだ独身であつた。そして今忽ち「久遭妻孥汚」と云つてゐる。乙亥八月より後、帰省の途に上つた丙子初秋より前に霞亭は有妻者となつた。所謂遭汚(さうを)の間は乙亥の八月をも丙子の閏八月をも併せ算して、辛うじて十四箇月に達するのである。婚姻の日は乙亥八月より丙子七月頃に至る満一年の間にあつた筈である。
 そこで亀田鵬斎がかう云ふ評語を下した。「子譲年来高踏。不覊塵累。聞近始領妻孥。而遽下久字。殊可怪。」
 わたくしは前に茶山の善謔を語つた。是に由つて観れば、鵬斎の善謔も亦多く茶山に譲らないらしい。此評は分明に霞亭をからかつてゐる。此からかひの妙は霞亭の備後に往く前の生活を一顧して、方(まさ)に纔(わづか)に十分に味ふことが出来るのである。山陽は「素愛嵐峡山水、就其最清絶処縛屋、挈弟倶居、嚢硯壺酒、蕭然自適」と云つてゐる。岡本花亭は霞亭を村尾源右衛門に紹介するに当つて、「君子の才行器識あり、うたもよみ候、曾而(かつて)嵯峨に隠遁いたし候を茶山老人に招かれ、備後黄葉山廉塾をあづかり、去年福山侯の聘に応じ解褐(かつをとき)候」と云つてゐる。此弟惟長との嵯峨の幽棲があつて、始て鵬斎の「年来高踏、不覊塵累」が活きるのである。花亭の文は竹柏園の蔵儲に係る尺牘で、九月四日の日附がある。そしてそれが文政五年九月四日だと云ふことは、霞亭の齢(よはひ)が四十三としてあるを以て知ることが出来る。
 わたくしは語つて此に至つて、霞亭の容貌を想ひ浮べる。山陽は「君為人□而晢、隆準、眼有光」と云つてゐる。又「風神灑脱」とも云つてゐる。これが嵯峨の庵(いほり)の主人(あるじ)であつた。そしてその口にする所は奈何(いかん)。「跌蕩不量分。功業妄自期。意謂身顕達。竹帛名可垂。」そして此主人に侍してゐたものは誰か。少(わか)い弟惟長只一人であつた。
 想ふに霞亭は所謂一筋繩では行かぬ男であつた。茶山はこれを捉へるまでには、余程骨を折つたことであらう。

     その百二十一

 わたくしは北条霞亭の東徙(とうし)を語るに先だつて、霞亭は何時娶(めと)つたか、何時仕へたかと問うた。
 何時娶つたかの問題は、帰省詩嚢中の霞亭の詩を得て稍解決に近づいた。霞亭は文化十二年の後半若しくは十三年の前半に娶つたのである。
 次は何時仕へたかの問題である。わたくしは前に岡本花亭の霞亭を評した語を挙げた。それは花亭の書牘に見えてゐるものであつた。此書牘は、既に云つた如くに、文政五年九月四日に作られたものである。そして霞亭が仕宦の時を知るにも、亦上(かみ)の語が用立つのである。
 書牘には「去年福山侯の聘に応じ解褐候」と云つてある。即ち霞亭の仕へたのは文政四年である。
 霞亭は備後に往つた文化十年癸酉から算して、第三年の末若しくは第四年の初に娶つた。此間は頗短い。次で第九年に仕へた。此間は稍長い。
 彼詩嚢を齎(もたら)して塾に返つた帰省は、霞亭が既に娶つて未だ仕へざる間にある。それゆゑ「家大人適斎先生七十寿宴恭賦」と題した詩にも、不遇を歎ずる語が見えてゐる。「疎拙不合世。蹉□何所為。棲々十余載。置身無立錐。郷党是非起。到処遭罵嗤。哀々吾父母。愚衷深見知。在此羞辱際。恩愛終不移。遂住千里外。終年苦乖離。帰来雖云楽。一物無献遺。窃向弟妹歎。包羞汗淋漓。」霞亭が福山侯の聘を受けたのは、此寿宴の後五年であつた。
 わたくしは此より霞亭東徙の事を言はうと思ふ。山陽は霞亭が備後に仕宦するまでの事を叙して、其間に時を指定する語を下さなかつた。しかし仕宦は備後に往つてからの第九年に於いてしたのである。次に山陽は仕宦と東役とを叙して其間に一の「尋(ついで)」の字を下し、「尋特召東邸」と云つてゐる。しかし仕宦と東役とは同年の事であつた。上に写し出した茶山の書がこれを証する。
 茶山は此年文政四年五月二十六日に、書を霞亭に与へて、「御道中道ゆきぶりは追而可被仰遣候」と云つてゐる。これは未だ霞亭東徙後の書を得ざる時の語である。少くも未だ其覊旅の状況を悉(つく)さざる時の語である。霞亭の将孥(しやうど)東徙は恐くは春の末、夏の初であつただらう。
 約(つゞ)めて言へば下(しも)の如くになる。霞亭は文化十年三十四歳で備後に往つた。十一年三十五歳で廉塾を監した。十二年三十六歳若しくは十三年三十七歳で妻を娶つた。文政四年四十二歳で福山に仕へ、直ちに召されて江戸に至つた。此年辛巳の春杪(しゆんせう)夏初(かしよ)には、狩谷□斎が子を携へて江戸を発し、霞亭が孥(ど)を将(ひきゐ)て江戸に入つたのである。
 □斎はわたくしは其詳伝の有無を知らない。市人であつたので、由緒書の如きものも獲難からう。現に相識の曾孫三市さんの家には、此の如きものを存してゐない。これに反して霞亭に至つては、必ずや記録の現存してゐるものがあらう。しかし此の如き側面よりする立証も、全く無価値ではあるまい。何故と云ふに表向の書上(かきあげ)は必ずしも事実そのまゝでは無い。往々旁証のコントロオルを待つて始て信を伝ふるに足ることがあるからである。

     その百二十二

 北条霞亭は此年文政四年に家を挙げて江戸に徙(うつ)つた。わたくしの推測する所に従へば、春杪夏初の頃であつたらしい。山陽は「居丸山邸舎」と記してゐる。しかしこれには語つて詳(つまびらか)ならざるものがあるらしい。
 霞亭に「嚢里移居詩」があつて、此時の状況が悉(つく)してある。「我生本散誕。山沢一□儒。承乏厠教職。衆中実濫□。賢主不棄物。恩礼養迂愚。嚢里新賜地。草茅命僕誅。幾日経営畢。徙居入秋初。貧家無長物。□載只一車。家人駆我懶。身具各提扶。隣里新旧識。交来問所須。掃窓先安置。筆硯与琴書。門巷頗幽僻。不異在郊墟。素性慣野趣。早已把犂鋤。圃畦種晩茄。隙処蒔冬蔬。東市沽薄酒。西市買枯魚。相賀命一酌。団欒対妻孥。居室雖倹陋。□然已有余。大厦豈不好。弗称匪良図。燕安思懿戒。苟完慕遺模。唯当安一席。旧学理荒蕪。雨余残暑退。摧頽病骨蘇。燈火宜清夜。涼風動高梧。一枕酔眠穏。君恩何処無。」
 此詩を見るに、霞亭は只丸山邸内の一戸を賜はつてこれに住んだのではなく、或は空地(くうち)を賜はつて家を建てたのでは無いかと疑はれる。わたくしは「嚢里新賜地、草茅命僕誅、幾日経営畢、徙居入秋初」の四句を読んでしか云ふのである。
「賜地」と云へばとて必ず家が無かつたとは解せられない。「経営」と云へばとて必らず家を建てたとは解せられない。「草茅命僕誅」も掃除をしたに過ぎぬとも云はれよう。しかし霞亭が江戸に来たのは、夏の初より後れなかつたものとすると、その家に入るまでに余り多くの日数が掛かつてゐる。「徙居入秋初。」江戸に来てから家に入るまでの間に、少くも五月六月の二箇月が介(はさ)まつてゐたのである。
 霞亭の新居には今一つの疑問がある。それは嚢里(なうり)とは何処かと云ふことである。丸山の阿部家の地所だと云ふことは明であるが、修辞して嚢里と云つた、原(もと)の詞(ことば)は何であらうか。袋地(ふくろち)即行止(ゆきとまり)の地所であらうか。それが今の西片町十番地のどの辺であらうか。兎に角寂しい所ではあつたらしい。「門巷頗幽僻。不異在郊墟。」
 前に引いた岡本花亭の書牘に、霞亭が聘に応じた時の歌と云ふものが二首載せてある。其一。「山かげの落葉がくれのいささ水世にながれてはすみやかねなむ。」其二。「かげうすき秋のみか月出るよりはや山のはに入むとぞおもふ。」書牘には後の歌を見て、田内主税(ちから)の詠んだ歌が併せ記してある。「月の入る山のはもなきむさしのに千世もとどめむ清きひかりを。」田内の歌は霞亭が嚢里に住んでから後の作であらう。
 霞亭の嚢里に住んだ歳月は短かつた。徙(うつ)り来つた年の翌年壬午が僅に事なく過ぎて、癸未の八月十七日に霞亭は四十四歳で歿した。墓誌に「患東邸士習駁雑、授小学書、欲徐導之、未遂而没」と云つてある。その未だ遂げずと云ふのは、訓導の目的を遂げなかつたと云ふ意である。小学の書は早く成つて人に頒たれた。花亭の書牘に、「この北条小学纂註を蔵板に新雕(しんてう)いたし候、所望の人も候はば、何部なりとも可被仰下候、よき本に而(て)御座候」と云つてある。

     その百二十三

 わたくしは此年文政四年五月二十六日の菅茶山の書牘の断片を写し出して、狩谷□斎の游蹤を、五月二十二日に神辺を発して三原に向ふまで追尋した。そして其断片が北条霞亭に与へた書であつたがために、霞亭が□斎の江戸を出でたと殆ど同時に江戸に入つたと云ふことに語り及んだ。
 茶山は此書牘中に□斎父子の事を叙して、さて末に「ふたりとも連を羨しく候、此段伊沢へ御はなし可被下候」と書いた。羨しくの下(しも)には存を添へて読むべきである。茶山は毎(つね)に己(おのれ)に子の無いことを歎いてゐた。それゆゑ□斎が懐之を連れてゐたのを羨ましく思つた。そしてこれを榛軒柏軒を左右に侍せしめてゐる蘭軒に告げようとしたのである。
 饗庭篁村さんの所蔵の茶山簡牘中にも、これに類した一通があつて、茶山は蘭軒の子を連れて向島へ往つたことを羨んで書いてゐる。此書は或は後に引くかも知れない。
 猶上(かみ)に引いた五月二十六日の書牘には解し難いこともある。所謂「序文」の如きが即是である。按ずるに此語の指す所が何の序文だと云ふことは、剪り去られた書牘の前半に見えてゐたのであらう。
 其他書中には□斎父子と蘭軒との外に二三の人名が出でゝゐて、それが生憎わたくしの識らぬ名のみである。第一の竹内、第二の森脇は、茶山が「いづかたも無事に候、宜御申可被下候」と云つてゐる。恐くは並びに是れ福山藩士で東役中の身の上であつただらう。その無事だと云ふのは福山の留守宅であらう。第三の伊十は或は伊七ならむも測り難いが、わたくしは姑(しばら)く「十」と読んで置いた。茶山が「可也に取つづき出来候覧」と半信半疑の語をなしてゐる。江戸にある知人で覚束ない生活をしてゐたものと察せられる。第四の銅脈先生は世の知る所の畠中観斎(はたなかくわんさい)に非ざることは論を須(ま)たない。観斎は夙(はや)く享和元年に歿したからである。書牘には銅脈先生の四字の下(しも)に「広右衛門こと」の註がある。但し此広右衛門(ひろゑもん)も亦艸体が頗る読み難い。或は誤読ならむも測り難い。その銅脈先生が暫く寓してゐると云ふ第五の「矢かは」も「は」文字が読み難い。わたくしは此に疑を存して置く。総括して言へば、竹内某、森脇某、某氏伊十、某氏広右衛門、矢川某の五人が茶山の此書牘に出でてゐる不明の人物である。
 茶山の蘭軒に与ふる書には多く聞人(ぶんじん)の名が出で、その霞亭に与ふる書にはこれに反して此の如く無名の人が畳出(でふしゆつ)するのは、茶山と霞亭とが姻戚関係を有してゐたからであらう。
 □斎父子が此年五月二十日に黄葉夕陽村舎に著き、其夜と二十一日の夜とを此に過し、二十二日に辞し去つたと云ふ事実は、独り右の茶山の書牘に其跡を留めてゐるのみでは無い。茶山の集中に「狩谷□斎父子来訪」と題した絶句がある。「時人久已棄荘樗。老去隣翁亦自疎。豈意東都千里客。穿来蘆葦覓吾廬。」

     その百二十四

 狩谷□斎父子は此年文政四年五月二十二日に、三原をさして神辺(かんなべ)を発した後、いづれの地を経歴したか、今わたくしの手許にはこれを詳(つまびらか)にすべき材料が無い。菅茶山は「八幡にて古経を見、宮島にて古経古器を見ると申こと」と云つてゐる。しかし□斎が能くこれを果したかどうか不明である。兎に角茶山が「京祇園会に必かへると申こと」と云つてゐるより推せば、兼て茶山の勧めてゐた長崎行は此旅の計画中に入つてゐなかつたものと見るべきであらう。
 祇園会(ぎをんゑ)は六月七日である。□斎父子は果して此日に京都まで引き返してゐたかどうか、これを知ることが出来ない。辛巳の歳の五月は大であつたから、其二十二日より六月七日に至る総日数は十六日間であつた。茶山が「間に逢かね候覧」と云つて危んだのも無理は無い。
 □斎父子の此漫遊中、右の五月二十二日以後に月日の明なるものが只一つある。それは六月二十五日に法隆寺西園院(さいをんゐん)にゐたと云ふことである。即ち神辺を立つてから第三十一日である。
 わたくしの三村氏を煩はして検してもらつた好古小録の填註に、既に引いたものの外、猶左の数箇条がある。
「好古小録法隆寺上宮太子画像。□斎曰。文政四年六月観。」
「同施法隆寺物数書。□斎曰。文政四年六月二十五日法隆寺西園院にて観。」
「同円光大師絵詞。□斎曰。文政四年七月観。」
 最後の一条を見れば、□斎父子が秋に入つて猶奈良に留まつてゐたことが知られる。此より後父子の江戸に還つたのが、まだ冬にならぬ前であつた証跡は、※[#「くさかんむり/姦」、7巻-249-下-7]斎詩集に見えてゐるが、それは後に記す。
 わたくしは此より蘭軒の事蹟に立ち帰つて、夏より後の詩集を検する。此時に当つてわたくしは先づ一事を記して置きたい。それは富士川氏蔵の詩集は蘭軒自筆本であるのに、所々に榛軒柏軒の二子及渋江抽斎、森枳園の二弟子(ていし)の、蘭軒に代つて浄写した詩が夾雑してゐる事である。そして此年辛巳の夏より秋の半(なかば)に至る詩は抽斎の書する所の小楷(せうかい)である。
 抽斎は是より先文化十一年十歳にして蘭軒の門に入つてゐた。若し詩の浄写が其製作当時に於てせられたものとすると、是は抽斎十七歳の時の書である。蘭軒も自筆、棕軒侯、茶山の評も皆其自筆なるより推せば、わたくしは抽斎のこれを書した年の多く辛巳より遅れなかつたことを想ふ。只後年の補写で無いと云ふ確証を有せぬだけである。
 辛巳の夏の詩は二首である。初の「菖節小集」の絶句は蘭軒が五月五日に友を会し詩を賦したことを証する。「満座忻無独醒客。榴花那若酔顔紅。」
 後の「夏日偶成」の七律は此頃黒沢雪堂が蘭軒を招いたのに、蘭軒が辞したことを証する。詩の頷聯に、「病脚不趨官路険、微量難敵酒軍長」と云つて、「此日不応雪堂招飲、故第四及之」と題下に自註してある。
 黒沢雪堂、名は惟直(ゐちよく)、字(あざな)は正甫(せいほ)、正助(しやうすけ)と称した。武蔵国児玉郡の人で、父雉岡(ちかう)の後を襲(つ)ぎ、田安家に仕へた。当蒔六十四歳になつて、昌平黌の司貨(しくわ)を職としてゐた。

     その百二十五

 此年文政四年の秋に入つて、蘭軒の冢子(ちようし)榛軒が初て阿部正精に謁した。勤向覚書の文は下(しも)の如くである。「七月廿三日、左之願書相触流新井仁助を以差出候処、御受取被置候旨。口上之覚。私悴良安儀御序之節御目見被仰付被下置候様奉願上候。右之趣不苦思召候ば、御年寄御衆中迄宜被仰達可被下候以上。七月廿三日。伊沢辞安。大目付衆御中。同日、前条に付左之年齢書指出す。覚。伊沢良安、当巳十八歳。右之通年齢にて御座候以上。七月廿三日。伊沢辞安。但糊入半切に認、上包半紙半分折懸、上に年齢書、下に名。同月廿七日、悴良安明廿八日初而御目見被相請候に付私召連可罷出処、足痛に付難罷出、左之通及御達候。口上之覚。私悴良安儀明廿八日初而御目見被為請候に付召連可罷出処、足痛に付名代新井仁助差出申候、此段御達申上候以上。七月廿七日。伊沢辞安。同月廿八日、悴良安儀初而御目見被仰付候。」初謁の日は七月二十八日であつた。其請謁(せいえつ)の形式は、父蘭軒に足疾があつて替人(ていじん)をして榛軒を伴ひ往かしめたために、幾分の煩しさを加へたのではあるが、縦(たと)ひ替人の事を除外して見るとしても、実に鄭重を極めたものである。わたくしは当時の諸侯が威儀を重んじた一例として、ことさらに全文を此に写し出した。
 八月十二日に蘭軒は岸本由豆流(きしもとゆづる)に請待(しやうだい)せられて、墨田川の舟遊をした。相客は余語古庵(よごこあん)と万笈堂(まんきふだう)主人とであつた。詩集には此秋の詩十四首があつて、此遊を叙する七律三が即其第二、第三、第四である。わたくしは此に其引を抄するに止めて詩を略する。「八月十二日□園岸本君泛舟迎飲余於墨田川。与古庵余語君万笈兄同賦以謝。」□園(ざいゑん)は岸本由豆流、此年三十三歳であつた。万笈は英氏(はなぶさうぢ)、通称は平吉である。
 此舟遊の七律と「戯呈余語先生」の絶句とを以て、抽斎浄写の詩が畢(をは)る。余語に戯るる語は、其妻妾の事に関するものの如くである。「何識仙人伴嫦娥。涼秋已覓合歓裘。」
 前記の詩の次、秋行の詩の前に「懐狩谷□斎」の一絶がある。「故人半歳在天涯。別後心同未別時。漸近帰期才数日。杳然方覚思君滋。」
 わたくしは上(かみ)に西遊中の□斎の最後の消息として、その七月に奈良にゐたことを挙げた。そして今此に蘭軒が其帰期の迫つたことを言ふ詩を見る。其詩は八月十二日の作の後にあつて、秋行の作の前にある。八月十二日に□斎の未だ江戸に帰つてゐなかつたことは明で、其帰期は未だ冬に至らぬ前に既に迫つてゐたのである。想ふに□斎は春の末に江戸を去つて、秋の末には帰り来つたのであらう。「故人半歳在天涯。」留守は丁度半年の間であつた。
 序(ついで)にわたくしは此「秋行」の絶句の本草家蘭軒の詩たるに負(そむ)かぬことを附記して置く。それは石蒜(せきさん)が珍らしく詩に入つてゐることである。「荒径雨過滑緑苔。花紅石蒜幾茎開。」詩歌の石蒜を詠ずるものはわたくしの記憶に殆無い。桑名の儒官某の集に七絶一首があり、又昔年池辺義象(よしかた)さんの紀行に歌一首があつたかとおもふが、今は忘れた。わたくしは大正五年の文部省展覧会の洋画を監査して家に還り、其夜燈下に此文を草する。昼間(ちうかん)観た油画に児童が石蒜数茎(すうかう)を摘んで帰る図があつて、心にこれを奇とした。そして夜蘭軒の詩を閲(けみ)して、又此花に逢つたのである。石蒜は和名したまがり、死人花(しびとばな)、幽霊花等の方言があつて、邦人に忌まれてゐる。しかし英国人は其根を伝へて栽培し、一盆の価(あたひ)往々数磅(ポンド)に上(のぼ)つてゐる。

     その百二十六

 此年文政四年秋の蘭軒の詩は、上(かみ)に云ふ所の外、猶八首ある。其中に嫡子榛軒と真野冬旭(まのとうきよく)との名が見えてゐる。
 榛軒は或日友を会して詩を賦した。此時父蘭軒が秋の七草を詠じた。わたくしは此にその「秋郊詠所見七首」の引を抄出する。「古昔寧楽朝山上憶良詠秋野花草七種。載在万葉集。其所詠皆是清淡蕭灑。可愛之種。実足想韻士之胸襟也。近時人間或栽而為賞。画而為観。秋七草之称。於是乎為盛矣。抑亦古学之所風靡。而好事之所波及也歟。一日児厚会詩友数輩。以秋郊詠所見為題。余因賦秋野花草七種詩。」所謂七種は胡枝花(はぎ)、芒(すゝき)、葛(くず)、敗醤花(をみなへし)、蘭草(ふぢばかま)、牽牛花(あさがほ)及瞿麦(なでしこ)である。わたくしの嘗て引いた蘭の詩二首の一は此七種の詩中より取つたものである。
 真野冬旭は或日向島の百花園に遊んで詩を賦し、これを蘭軒に示した。蘭軒の「次韻真野冬旭題墨田川百花園詩」の作はかうである。「久無病脚訪江干。勝事索然奈老残。何料花園四時富。佳詩写得与余看。」当時百花園は尚開発者菊塢(きくう)の時代であつた。菊塢は北平(きたへい)と呼ばれて陸奥国の産(うまれ)であつた。人に道号を求めて帰空(きくう)と命ぜられ、其文字を忌んで菊塢に作つたのだと云ふ。此菊塢が百花園を多賀屋敷址に開いたのは、享和年間で、園主は天保の初に至るまでながらへてゐたのである。
 冬が来てからは、只「冬至前一日余語君天錫宅集」の七絶一首が集に見えてゐる。此日余語の家には、瓶(へい)に梅菊(ばいきく)が插してあつたので、それが蘭軒の詩に入つた。歳晩に近づいては、詩集は事を紀せずして、勤向覚書が僅に例年の医術申合会頭の賞を得たことを伝へてゐる。歳晩の詩は此年も蘭軒集中に見えない。
 阿部家では此年三男寛三郎正寧(まさやす)が正精(まさきよ)の嗣子にせられて、将軍家斉に謁見した。これは嫡男正粋(まさただ)が病を以て罷められ、次男が夭札(えうさつ)したからである。勤向覚書に下の文がある。「十一月十三日、寛三郎様御嫡子御願之通被為蒙仰候、依之為祝儀若殿様え組合目録を以御肴一種奉差上候。同月廿九日、悴良安、此度若殿様御目見被仰上候為御祝儀御家中一統へ御酒御吸物被成下候に付、右同様被成下候旨、大目付海塩忠左衛門殿御談被成候間、御酒御吸物頂戴仕候。同年十二月朔日、若殿様御目見被仰上候為御祝儀、殿様若殿様に組合目録を以御肴一種宛奉差上候。」
 菅氏では此年茶山が七十四歳になつてゐた。詩集を閲(けみ)するに、茶山は春の半に北条霞亭の志摩に帰省するを送つてゐる。これは東役(とうえき)の前に故郷に還つて、別を親戚に告げたのであらう。同日偶(たま/\)山県貞三と云ふものは平戸に、僧玉産(ぎよくさん)と云ふものは近江に往つたので、祖筵の詩に「花前一日一尊酒、春半三人三処行」の句がある。又茶山集中の五律に「蛇年今夜尽、鶴髪幾齢存」の句のあつたのが、此年の暮である。
 頼氏では山陽が此年木屋町の居を営んだ。「吾儂怕折看山福。翻把琴書移入城。」
 小島氏では此年尚質(なほかた)が番医師にせられ、森氏では枳園立之(きゑんりつし)の父恭忠(きようちゆう)が歿した。後に小島氏の姻戚となる塙氏では保己一が歿した。
 此年蘭軒は四十五歳、妻益は三十九歳、子女は榛軒十八、常三郎十七、柏軒十二、長八つ、順二つであつた。

     その百二十七

 文政五年の元日には江戸は雪が降つて、夕(ゆふべ)に至つて霽(は)れた。蘭軒は例に依つて詩を遺してゐる。「壬午元日雪、将□新霽、天気和煦、即欣然而作。梅花未発雪花妍。方喜新年兆有年。不似三冬寒気沍。瑤台玉樹自春烟。」尋(つい)で「豆日艸堂集」も亦雪の日であつた。五律の前半に、「入春纔九日、白雪再霏々、未使花香放、奈何鶯語稀」と云つてある。
 菅茶山の集には歳首の詩が闕けてゐる。七日に至つて「初春逢置閏、四野未浮陽」、又「誰家挑菜女、載雪満傾篋」の句がある。これは「人日雪」と題する五律の三四七八である。第三は此年に閏(うるふ)正月のあつたことを斥(さ)すのである。此春の初は神辺(かんなべ)も亦寒かつたものと見える。
 勤向覚書を見るに、「二月廿五日、次男盤安去年中文学出精に付奉蒙御意候」の文がある。柏軒は辛巳中例の如く勉学を怠らなかつたのである。
 三月四日に蘭軒は向島へ花見に往つた。「上巳後一日早行、墨田川看花、帰時日景猶午、与横田万年同賦」として五絶がある。横田万年は門人宗禎であらうか。又は其父宗春であらうか。門人録横田氏の下(もと)には十の字内藤と註してある。十の字内藤とは信濃国高遠の城主たる内藤氏で、当時の当主は大和守頼寧(よりやす)であつた。初めわたくしは十の字内藤の何れの家なるを知らなかつたが、牛込の秋荘(しうさう)さんが手書して教へてくれた。詩は此に末の一首を録する。「看花宜在早朝清。露未全晞塵未生。一賞吾将帰艇去。俗人漸々幾群行。」
 茶山は此歳首に書を蘭軒に寄せずに、三月九日に至つて始て問安した。其書は文淵堂所蔵の花天月地中に収められてゐる。
「今歳(こんさい)は歳始の書もいまだ差上不申哉。老衰こゝに至り候。御憐察可被下候。又御一笑可被下候。吾兄愈御達者、合家(がふか)御清祥は時々承候。拙家も無事に御座候。御放念可被下候。ことしの春も昔の如くに過候。かくて七十五にも相成候。前路おもふべし。」
「市野篤実北条を動かし候由、奇と可申候。狩谷は橋梓(けうし)ともにさだめて依旧候覧(きうによりそろらむ)。ことしは西遊はなきや。御次(おんついで)に宜奉願上候。去年宮島よりいづかたいかなる遊びに候ひしや承度候。さて御次に古庵様市川子成田鵜川(近得一書未報)諸君へ宜奉願上候。梧堂は杳然(えうぜん)寸耗(すんばう)なし。いまだ東都に候哉。もはや帰郷に候哉。もしゐられ候はば宜御申可被下候。松島の画題は届候哉。種々旧遊憶出候而御なつかしく奉存候。御内上様(おんうちうへさま)おさよどのへも御次に宜奉願上候。妻も宜申上よと申候。恐惶謹言。三月九日。(正月二日祁寒(きかん)、硯に生冰(こほりをしやうず)。そののち尋常。花朝前(くわてうぜん)一夕雷雨めづらしく、二月廿三日小地震、三月八日亦小地震。其外なにごともなし。)菅太中晋帥。伊沢辞安様。」
「令郎様高作驚目申候。実底に御読書あれかしと奉存候。才子は浮躁なりやすきものに候。」

     その百二十八

 菅茶山が「かくて七十五にも相成候」と書した此年壬午三月九日の書牘にも、例の如く許多(あまた)の人名が見えてゐる。しかし此度は新しい名字は無い。
 市野迷庵の質愨(しつかく)が能く北条霞亭を感動せしめたとは何事を斥(さ)して言つたか、知りたいものである。しかしわたくしは未だこれを窮むるよすがを得ない。
 狩谷の橋梓(けうし)即望之懐之が辛巳西遊中、宮島に往つた後「いづかたいかなる遊(あそび)」をなしたか、茶山は聞きたいと云つてゐる。わたくしも今茶山と願を同じうしてゐる。しかし既に云つた如く、わたくしは只父子が奈良に遊んだことを知るのみである。茶山の口※(こうふん)[#「月+(勿/口)」、7巻-256-上-11]によつて考へて見れば、□斎父子の宮島の遊は計画のみに止まつたのではないらしい。書牘の文が茶山は既に宮島までの事を知つてゐて、其後の旅程を問ふやうに聞き取られるからである。
 茶山の存問(そんもん)を受けた古庵は余語(よご)氏である。市川は恐くは市河であらう。若し然りとすると、米庵でなくてはならない。何故といふに寛斎は既に二年前に歿してゐるからである。成田氏は成章、鵜川氏は子醇である。梧堂は石田道である。鵜川は茶山に書を寄せたことが、原本の氏旁(しはう)に朱書してある。今これを括弧内に収めた。これに反して石田は茶山に無沙汰をしてゐる。「杳然寸耗なし」である。
 蘭軒は十九歳になつた榛軒の詩を茶山に寄示(きし)した。榛軒詩存はわたくしは未だ細検せぬが、弘化三年以前の作を載せぬものかとおもはれる。それゆゑ茶山の目を驚かした詩は何の篇たるを知らない。茶山は又蘭軒の正側室の安を問うてゐる。「おさよの方」は故(もと)の称呼「おさよどの」に復してある。
「松島の画題」云々は何事なるを知らない。月日の下(もと)の括弧内数行は原本に朱書してある。
 詩集にある春の作は既に引いた七首の外、猶六首があつて、わたくしは此に其中の二を挙げることゝする。それは病める蘭軒の情懐を窺ふに足るものと、榛軒柏軒二人の講余のすさびを知るべきものとである。
「余平常好自掃園、病脚数年、不復得然、即令家僮朝掃、時或不能如意、偶賦一絶。脚疾久忘官路煩。山※[#「譽」の「言」に代えて「車」、7巻-257-上-6]江艇興猶繁。但於閑事有遺恨。筅箒不能手掃園。」自ら園を掃くに慣れた蘭軒は人の掃くに慊(あきたら)なかつたのである。
「偶成。元識読書属戯嬉。両児猶是好無移。剰鋤菜圃多栽薬。方比乃翁増一痴。」薬艸を栽培することは蘭軒が為さなかつたのに、榛軒柏軒がこれに手を下した。嘉賞の意が嘲笑の語の中に蔵してある。
 二詩の外猶「賀阿波某氏大孺人百歳」の一絶がある。しかし其女子の氏名を載せない。且其辞(ことば)にもことさらに録すべきものが無い。
 夏の詩は五首あるが、抄出すべきものを見ない。唯「夏日」に「愛看芭蕉長丈許、翠陰濃映架頭書」の句がある。他人にあつては何の奇も無かるべき語であつて、蘭軒にあつては人をして羨望して已まざらしむるものがある。
 秋の詩も亦五首あつて、末の三首に冬の詩を連ねて森枳園が浄写してゐる。わたくしは渋江抽斎伝に枳園が癸未の年に始て蘭軒に従学したことを言つた。今その写す所の師の詩はこれに先(さきだ)つこと一年の作に係る。詩集の此幾頁(いくけつ)は後年の補写と見るべきであらうか。或は抽斎と親善であつた枳園は、未だ贄(にへ)を執らざる時、既に蘭軒の家に出入して筆生の務に服したものと看るべきであらうか。此年枳園は十六歳であつた。

     その百二十九

 此年文政五年の秋の蘭軒の詩は、末の三首が森枳園の手写する所であると、わたくしは上(かみ)に云つた。其前に等間に看過すことの出来ぬ一首がある。「七月十三日作。奈何家計太寒酸。付与天公強自寛。千万謝言求債客。窃来窓下把書看。」蘭軒は此日債鬼に肉薄せられたのである。千万謝言の後、架上の書を抽(ぬ)いて読んだと云ふ、その灑々(しや/\)たる風度が、洵(まこと)に愛すべきである。
 枳園の書した最初の詩は「熊板君実将帰東奥、臨別贈以一律。」と題してある。「君家先世称雄武。遺訓守淳猶混農。賑□郷隣経奕葉。優游翰墨托高踪。自言真隠名何隠。人喚素封徳可封。遙想東帰秋爽日。恢然□笏対群峰。」
 熊板は或は熊坂の誤ではなからうか。これはわたくしの手抄に係る五山堂詩話の文に依つて言ふのである。わたくしは偶(たま/\)その何巻なるを註せなかつたので、今遽(にはか)に刊本の詩話を検することを得ない。其文はかうである。「東奥熊坂秀。字君実。号磐谷。家資巨万。累世好施。大父覇陵山人頗喜禅理。好誦蘇黄詩。至乃翁台州。嗜学益深。蔵書殆万巻。自称邑中文不識。海内知名之士。無不交投縞紵。磐谷能継箕裘。家声赫著。」蘭軒の贈言(ぞうげん)を得た人は其字(あざな)を同じうし、其郷を同じうしてゐて、氏に熊字がある。且詩の云ふ所が、菊池五山の叙する所と概ね符合してゐる。二者の同一人物たること、殆ど疑を容れない。
 五山の言(こと)は磐谷(はんこく)の大父(たいふ)まで溯つてゐて、三世以上に及ばない。しかし蘭軒の「君家先世称雄武、遺訓守淳猶混農」と云ふより推せば、磐谷の祖先は武士であつただらう。さて蘭軒の「賑□郷隣経奕葉」と云ふは、五山の所謂「累世好施」である。その「優游翰墨托高踪」と云ふは、五山の挙ぐる所の禅を修め詩を誦した祖父覇陵と、学を好み書を蔵した父台州とである。わたくしはこれを符合と看るのである。想ふに磐谷は江戸にある間、五山と交つた如くに、又蘭軒とも交つたのであらう。
 磐谷に別るる詩の次には、高某(かうぼう)を弔する詩がある。「壬午九月十有二日、為亡友高君子融小祥期矣、同社諸彦賦感秋詩、述思旧之情、余亦賦一律以奠。秋光何事偏愴心。駒隙一年成古今。嘉穀秀苗嗟不実。素琴清調失知音。朱黄課減書堂上。鴎鷺盟寒墨水潯。自慚驢鳴呈醜態。難酬歳月友情深。」第五の下に「余校書之際、君時助対讐」と註し、第六の下に「嘗与君約墨水舟遊、而遂不果」と註してある。
 高某、字(あざな)は子融、何(いづれ)の許(ところ)の人なるを知らない。蘭軒と文字の交を訂し、時に其校讐の業を助けた。文政四年九月十二日に歿した。頼菅二家の集に高孺皮(かうじゆひ)、高子彬(かうしひん)、高叔鷹(かうしゆくよう)があり、五山の詩話に高公嵩(かうこうすう)、高初暹(かうしよせん)、高凡鳥(かうぼんてう)、高俊民(かうしゆんみん)、高聖誕(かうせいたん)、高石居(かうせききよ)、高文鳳(かうぶんほう)があり、竹田の集に高嵩谷(かうすうこく)、高暘谷(かうやうこく)、高寸田(かうすんでん)がある。
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