伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

相継不絶。二百有余年。而所齎来載籍。即当時之鈔本。所直得於宮庫或学士。非如趙宋而降。仮工賈之手。以成帙者也。康頼蓋資用於此。故皆是原書之旧。而所以異於見存者也。」

     その百八

 蘭軒は医心方を影写するに、島武(たうぶ)と云ふものの手を倩(やと)つた。そして自らこれに訓点を施した。島武は或は彼の儒門事親を写した高島信章と同人ではなからうか。跋にかう云つてある。「右丹波康頼医心方廿本。借之多紀氏聿脩堂。友人島武為余影鈔。如其旁訓朱点。乃余手鈔写焉。以青筆者。桂山先生之標記也。以朱筆抹旁者。余自便於捜閲人名与書目也。」わたくしはこれを読んで、蘭軒に「集書家」の目(もく)を与ふることの或は妥(おだやか)ならざるべきを思ふ。蘭軒は書を集むるを以て能事畢るとなしたものではない。その校讐に労すること此の如くであつた。しかも所謂校讐は意義ある校讐であつた。又其書を活用せむがための校讐であつた。
 此年文政三年の夏、集中に詩四首が載せてあつて、其二は福山に還る人を送る作である。一は鈴木圭輔(すゞきけいすけ)、一は馬屋原伯孝(まいばらはくかう)である。
「送鈴木先生圭輔還福山」の詩はかうである。「分手不須歎索居。帰程行装寵栄余。芸窓占静校新誌。華館侍閑講尚書。月朗鴨川涼夜色。濤高榛海素秋初。到来応是推儒吏。恰似倪寛得美誉。」圭輔が儒を以て阿部家に仕へたものであることは、詩が既に自ら語つてゐる。
 しかしわたくしは圭輔の事を今少し精(くは)しく知りたく思つた。菅茶山の集には鈴圭輔(れいけいほ)と書してある。渡辺修次郎さんの阿部正弘事蹟には、「正精(まさきよ)の時、村上清次郎、菅太仲、鈴木圭輔、北条譲四郎(中略)皆藩の儒員たり」と記してある。只それだけである。わたくしは浜野知三郎さんを煩はして検してもらつた。
 鈴木圭、字(あざな)は君璧(くんへき)、宜山(ぎざん)と号した。通称は初め圭雲、中ごろ圭輔、後徳輔である。天明八年「儒医之場へ被召出、弘道館学術世話取並御屋形御講釈、」寛政二年「御医師本科、」七年「眼科兼、」十年「儒医、」享和二年「上下格(かみしもかく)御儒者、」文化六年「奥詰、」十年「御使番格、」文政二年「江戸在番、」三年「大御目付被仰付、奥詰並御家中学問世話是迄之通、」七年「御儒者、」十年「奥詰、」天保二年「江戸在番、」以上が官歴の略である。
 圭輔の召し出されたのは天明八年、茶山は寛政四年である。府志の編纂、阿部神社の造営は、二人が共に勤めた。
 圭輔は江戸在番を命ぜらるること二度であつた。初は文政二年に入府し、三年に大目附にせられて在番を免ぜられた。「六月十七日帰郷之御目見」と云つてある。これが蘭軒の詩を贈つた時である。後の入府は天保二年で、三年に帰つた。
 圭輔は天保五年九月二十六日に、六十三歳で歿した。墓は東町洞林寺にあつて、篠崎小竹が銘してゐる、子卓介が後(のち)を襲(つ)いだ。後秉之助(へいのすけ)と云ふ。名は秉、字は師揚(しやう)、号は篁翁(くわうをう)、小竹の門人である。明治十七年一月十二日に歿した。
 次に「馬屋原伯孝将還福山、因示一絶」の詩はかうである。「読書万巻一要醇。学不如斯医不神。斗火盤冰方是癖。勝於岐路逐羊人。」馬屋原伯孝(まいばらはくかう)の何人なるかは、わたくしは毫も知らぬので、これも亦浜野氏に質(たゞ)した。そして伯孝の蘭軒の門人であるべきことが略(ほゞ)明なるに至つた。蘭軒が贈るに訓誨の語を以てした所以であらう。

     その百九

 此年文政三年の夏、鈴木宜山(ぎざん)に次いで、江戸から福山へ帰つたものに、馬屋原伯孝があつて、蘭軒がこれにも贈言(ぞうげん)したことは、前に云つた如くである。
 わたくしは手許にある文書を検した。そして蘭軒の門人録に一の馬屋原周迪(しうてき)があることを発見した。伯孝と周迪とは均(ひと)しく馬屋原を氏として、均しく蘭軒に接触した人である。しかも伯孝は福山に帰つた人で、周迪の名の下(しも)にも福山と註してある。わたくしはその或は同一の人物なるべきを推した。
 しかしわたくしは既に羮(あつもの)に懲りてゐる。曩(さき)にわたくしは太田孟昌の名を蘭軒の集中に見、又伊沢氏の口碑に太田方(はう)の狩谷□斎の門人なることを錯(あやま)り伝へてゐるのを聞いて、二者の或は同一人物なるべきを思つた。然るに方、字(あざな)は叔亀(しゆくき)は父で、周、字は孟昌は子であつた。それゆゑわたくしは過を弐(ふたゝ)びせざらむがために、浜野知三郎さんを労するに至つた。浜野氏のわたくしに教ふる所は下の如くであつた。
 菅茶山等の編した福山志料第十二巻神農廟の条にかう云ふ記事がある。「福山の町医馬屋原玄益(げんえき)なるもの、享保廿一年神農の像を彫刻し、封内の医師五十人と相はかり再建し侍り。」これが医師馬屋原氏の書籍に記載せられた始である。
 阿部家の医官馬屋原氏は世(よゝ)玄益と称した。初代が玄益寧成(ねいせい)、二代が玄益順成(じゆんせい)、三代が玄益成美(せいび)である。寧成は安永十年に表医師に召し出だされ、寛政元年に歿した。福山志料の町医玄益は此寧成か、或は其父かであらう。順成は其後を襲(つ)いで表医師となり、文化九年奥医師に進み、文政十一年に歿した。成美は文政元年に出仕を命ぜられ、四年に表医師となり、十年に医学世話を命ぜられ、十一年に順成の後を襲ぎ、十二年に奥医師となつた。
 然るに二世順成には弟があつて、一旦順成の養嗣子となつたが、早く文化元年に歿した。其名が周山世成(しうざんせいせい)であつた。三世成美は叔父(しゆくふ)の死んだために家を継ぐこととなつた。其初の名は周迪成美であつたと云ふのである。
 是に於て蘭軒の門人周迪が三世玄益成美だと云ふことが明になつた。按ずるに成美は出仕を命ぜられた後に、江戸へ修業に来て文政三年の夏福山に還り、四年に表医師を拝したのであらう。
 果して然らば周迪成美の伯孝たることは、復(また)疑ふことを須(もち)ゐぬであらう。馬屋原成美、字は伯孝、初め周迪と称し、後恕庵と改め、又父祖の称玄益を襲いだ。医を蘭軒に学んで、福山に於て医学世話を命ぜられたのである。わたくしの此証左を得たのは浜野氏の賚(たまもの)である。
 此年庚辰の秋は、蘭軒の集に詩六首がある。八月は十三日に雨が降つた。蘭軒は友と湯島の酒楼に会し、韻を分つて詩を賦した。「八月十三日雨、飲湯島某楼、分韻得麻」の七律がある。十五日は晴であつた。「中秋」の七絶に「夜色冷凄軽靄収、満城明月好中秋」の句がある。茶山の集には此日詩三首がある。暦(れき)が社日に当つてゐたこと、隣郷に放生会があつて、神辺(かんなべ)の街が賑つたこと、木星が月に入つたこと等が知られる。「忽覩一星排戸入。得非后□覓妻来。」一星は木星である。九月には蘭軒に唯一詩の録すべきものがある。それは月日を徴すべき作で、しかも其事が頗る奇である。「九月七日即事。吟味値秋方覚奇。菊花香浅点疎籬。忽然有客来催債。想得満城風雨詩。」

     その百十

 此年文政三年冬の半に、蘭軒の姉幾勢(きせ)が記念すべき事に遭遇した。仕ふる所の黒田家未亡人幸子(さちこ)が、十一月二十四日に六十三歳で歿したのである。既に云つた如く、此主従の関係は中島利一郎さんの手を煩はして纔(わづか)に明にすることを得たものである。
 幸子、初め亀子と云つた。越後国高田の城主榊原式部大輔政永の女(ぢよ)、黒田筑前守治之(はるゆき)の室である。治之は是より先天明六年十一月二十一日に福岡で卒し、崇福寺に葬られた。
 伊沢分家の伝ふる所に拠れば、幾勢は八歳にして夫人に仕へたさうである。然らば安永七年幸子二十一歳の時である。次で十八歳にして一たび暇(いとま)を乞ひ、旗本坪田三代三郎(みよさぶらう)と云ふものに嫁して子をも生んださうである。然らばその暇を乞うたのは天明八年で、幸子の夫治之が卒した後二年である。既にして幾勢は再び黒田家の奥に入り、前(さき)の主に仕へ、祐筆を勤め、又京都産(うまれ)の女中二人と偕(とも)に、常に夫人の詠歌の相手に召されたさうである。然らば幾勢の再勤は早くても寛政二年幸子三十三歳の頃である。幾勢は当時二十歳になつてゐた筈である。伊沢良子刀自は幾勢が晩年の手紙一通を蔵してゐる。「正宗院」と署し、宛名を「伊沢磐安殿御うもじ殿」としてある。年次は不明であるが、歳暮の祝儀が言つてある。「うもじ」は内歟(うちか)。即柏軒の妻狩谷氏俊子(しゆんこ)であらう。わたくしは此手紙に由つて幾勢の能書であつたことを知つた。祐筆を勤めたと云ふ口碑がげにもと頷かれる。
 幾勢は主の喪に逢つた時、正に五十歳になつてゐた。榊原氏幸子は天明六年より三十五年間寡婦生活をなしてゐたもので、そのうち少くも三十一年間は幾勢がこれと苦楽を共にしたのである。
 幸子は既に卒して、法諡(はふし)を瑤津院殿瓊山妙瑩大禅尼と云ひ、祥雲寺に葬られた。幾勢は再び仕ふるに当つて、所謂一生奉公を為し遂げむことを期してゐたので、此時に至つて暇を乞ふことを欲せなかつた。そこで彼京都産の女中二人と共に剃髪して黒田家に留まり、瑤津院の木位に侍することとなつた。
 黒田家では三人のために一軒の家を三室にしきり、正宗院等三人の尼を住はせた。正宗院は幾勢が薙染後(ちせんご)の名である。因(ちなみ)に云ふ。幾勢の墓には俗名世代(せよ)と彫(ゑ)つてある。世代は恐くは黒田家の奥に仕へた時の呼名であつただらう。当時市人は正宗院等の家をお玉が池の比丘尼長屋と称した。
 此冬蘭軒の集に詩四首がある。其中歳晩に無名氏の詩を読んで作つたと云ふ七絶がある。無名氏の詩に曰く。「節臘都城人語囂。何知貧富似風潮。近来一事尤堪怪。斗米三銭歎歳饒。」蘭軒の詩に曰く。「四十余年戯楽中。老来猶喜迎春風。請看恵政方優渥。一邸不知歳歉豊。」前詩は年(とし)豊(ゆたか)にして米(こめ)賤(いやし)きを歎じ、後詩は年の豊凶と米価の昂低とに無頓着であるものと聞える。
 頼氏では此年山陽の次男辰蔵が生れた。一に辰之助とも云つてある。聿庵(いつあん)の弟、支峰の兄で、里恵の始て生んだ男児である。山陽は喜んで母に報じた。「家書新有承歓処。報向天涯獲一孫。」しかし辰蔵は後僅に六歳にして夭扎(えうさつ)した。宗家を嗣いだ聿庵は此年戸田氏を娶つた。

     その百十一

 菅茶山は此年文政三年に書を某に与へて、蘭軒に言伝(ことつて)をしたが、某の名も知れず、書を作つた月日も知れない。饗庭篁村(あへばくわうそん)さんの所蔵の此書牘の断片は下(しも)の如きものである。「歳旦の詩二首、去年の作一首、辞安へ必ず御見せ可被下候。これもよほど快く候よし、病はすこしいゆるに加はると申こと、かの性悪先生之語也。きつと御慎被成よと、御申可被下候。これは書状に申遣候筈なれども、人を媒(なかだち)にして申が却而(かへつて)こたへ宜候哉。私詩をほらせくれよと書肆のぞみ候。しかし詩は前の集よりも人ずきあしくなり候覧、心はあがり候へども人の好みには遠くなり候覧と奉存候。辞安開板せよとすゝめ候へども二の足をふみゐ申候。また/\御商量可被下候。つがるや市のや両三右衛門時々御逢被成候哉、いづれもおもしろき人物に候。御次(おんついで)もあらば宜御つたへ可被下候。土屋七郎相果候由、おもひもよらぬ事に候。」
 断片は剪刀(はさみ)で截り取つたものである。某が截り取つて蘭軒に示したのであらう。その此年の書牘たることは、「新年の詩二首」と云ふを以てこれを知る。前年己卯には元日に七絶一首を作り、次年辛巳には五古一首を作つたのに、独り此年庚辰には七律二首を作つてゐるからである。書を裁した月日は知れぬが、歳首の詩を添へたとすれば、春の初であつただらう。刊行せしめむとして「二の足をふみゐ申候」と云ふ詩集は、黄葉夕陽村舎詩後編である。これは次年十二月に至つて刻成せられた。わたくしは茶山の自ら評した語を見て、其藝術的良心を尊重する。此年の「雪日」七律の七八を参照すべきである。「衰老但知詩胆小。一聯慚踏古人蹤。」蘭軒と共に混外(こんげ)を訪ひ、又曾て頼春甫に交つた土屋七郎の死が此断片に由つて知られる。茶山のこれを書いたのが此年の初春だとすると、七郎は前年己卯に歿したことであらう。
 文政四年の元旦には、蘭軒の詩に生計の太(はなは)だ裕ではなかつた痕が見える。「辛巳元日作。昨来家計説輸贏。纔迎新年心自平。椒酒酔余逢客至。先評花信品鶯声。」人生は猶瘧(ぎやく)のごとくである。熱来れば呻吟し、熱去れば笑歌する。わたくしは去つて菅茶山のこれに処する奈何(いかん)を顧みる。「元日。一年始今日。転瞬已昏鴉。三百六十日。例当如此過。吾年七十四。所余知幾多。不如決我策。閑行日酔歌。」貧が蘭軒の心に□繞(えいぜう)する如くに、老が茶山の心を擾乱する。偶(たま/\)節物の改まるに逢つて、二人は排除の力に一策励を加へてゐたのである。
 例年の「豆日草堂集」には、其前日に高束(たかつか)応助と云ふものが梅花を贈つたので、それを瓶(へい)に插した。「佳賓満堂供何物。独有梅花信不違。」高束応助とは誰であらうか。後に蘭軒の女(ぢよ)長(ちやう)の嫁する先手与力井戸翁助と云ふものがある。蘭軒は翁助と書してゐるが、親類書には応助に作つてある。その或は同人なるべきをおもつて、徳(めぐむ)さんに質した。しかし異人であつた。集中の春の詩は以上二首のみである。
 三月には蘭軒の二子が阿部侯正精(まさきよ)の賞詞を受けた。勤向覚書に曰く。「三月十一日悴良安医学出精仕、御満足被思召候御意奉蒙候。同日次男盤安去年中文学出精之段達御聴御満足思召候段奉蒙御意候。」良安は榛軒信厚(のぶあつ)、盤安(はんあん)は柏軒信重で、彼は十八歳、此は十二歳である。

     その百十二

 蘭軒の二子榛軒柏軒は、上(かみ)に云つた如く、此年文政四年三月十一日に阿部侯正精の賞詞を受けた。
 歴世略伝に拠るに、是より先榛軒は狩谷□斎、松崎慊堂(かうだう)に就いて経を受け、父蘭軒、多紀□庭(さいてい)、辻本□庵(しゆうあん)、田村元雄(げんゆう)に就いて医学諸科を修めた。柏軒が経学の師も亦□斎である。
 □斎も慊堂も既に退隠後年を経てゐた。その蘭軒の二子に教へたのは、皆退隠後の事であらう。□斎が文化十四年に四十三歳で浅草の常関(じやうくわん)書屋に移り、湯島の店を十四歳の懐之(くわいし)に譲つたことは、上に云つた如くである。慊堂の事はわたくしは未だ深く究めてゐない。しかし塩谷宕陰(しほのやたういん)撰の行状に拠るに、慊堂は明和八年辛卯の生である。その掛川に仕へたのが享和二年三十二歳の時である。その肥後の聘を却(しりぞ)けて骸骨を乞うた時、「吾帰于此十年、所天三喪、不可以移矣」と云つてゐる。享和二年より十年とすると、文化八年で、慊堂は四十一歳である。慊堂が羽沢(はねざは)の石経山房に入つたのは即此年であらう。所謂「所天三喪」は、太田備中守資愛(すけちか)、摂津守資順(すけのぶ)、備後守資言(すけとき)であらう。資言は文化七年八月十一日に卒し、嗣子が無かつたので、宮川の堀田家から養子丈三郎が迎へられたのである。行状に「其嗣公之自宮川来続也、先生密疏言事、事秘不伝」と書してある。
 わたくしは榛軒が何歳を以て就学したか知らない。権(かり)に十四歳を以てしたとすると、恰も好し□斎が常関書屋に隠れた時である。榛軒は新に湯島の店の主人となつた□斎の子懐之と同庚であつた。
 柏軒の鉄三郎が□斎退隠後の弟子たることは、疑を容れない。幼年の間鉄三郎は恐くは父に句読を受けてゐたであらう。しかしその文学出精と云ふを以て、夙(はや)く十二歳にして正精の賞詞を受けたことを思へば、少くも一二年前から師を外に求めてゐたであらう。そして其師は即ち□斎であつた。
 榛軒と慊堂とは、わたくしは何時始て相見たか知らない。姑(しばら)く榛軒は□斎に従学すると同時に、慊堂にも従学したとすると、当時□斎は四十三歳、慊堂は四十七歳であつた。慊堂は羽沢にあること既に七年になつてゐた。
 此年の夏の初には、狩谷□斎が京都に往つてゐた。これは□斎が初度の西遊では無い。しかしわたくしは是より先其遊蹤(いうしよう)を尋ねようとしてゐながら、遂に何の得る所も無かつた。そこで三村清三郎さんに問うた。三村氏は古京遺文に□斎が仏足石の事を言つて、京遊云々の語をなしたことを記憶してゐて、わたくしに告げ、又好古小録、好古日録に就いて索(もと)めたなら、其形跡が得られようと云つた。
 わたくしは再び書を三村氏に寄せて、□斎の自ら語つた京遊云々の事を詳(つまびらか)にしようとした。三村氏はわたくしのために書を検する労を辞せなかつた。わたくしは此に其復柬中考証に係るものを節録する。
「既に古京遺文仏足石の条にも、余親至西京、経七日之久、精撫一本云々と御座候。遺文は文政元年之序候へど、(再校之節補入と疑へばともかく、普通にては)是れ以前之西遊を証せられ申候。扨好古小日録之填註を精査候処、大分詳細に相成候間、左に申上候。」
 書牘はこれより無仏斎が二著の抄録に入る。

     その百十三

 狩谷□斎の西遊にして、此年辛巳以前に係るものは、これを三村氏の抄録中に索(もと)むるに、下(しも)の如くである。
「好古日録永仁古文孝経の条に□斎云。寛政二年京師書肆竹苞楼(ちくはうろう)にて観(みる)。」
「同春秋左氏伝の条に□斎云。寛政二年山田以文の家にて観る。押小路外史の家蔵也。」
「好古小録鴨毛屏風(あふまうへいふう)の条に□斎云。寛政九年三月観。」
「同薬師寺魚養大般若経、大安寺縁起、志義山毘沙門縁起、来迎寺所蔵十界図の条に□斎云。文政二年四月観。」
「同覚融勝画の条に□斎云。文政二年四月京師の商家にて観。」
「同仏鬼軍の条に□斎云。京寺町十念寺蔵文政二年五月観。(下略。)」
 以上寛政二年、九年、文政二年の三度、□斎は京都に往つたらしく見える。即ち十六歳、二十三歳、四十五歳の時である。
 此に一の留意すべき事がある。それは第三次文政二年の入京である。果して□斎が此旅をなしたとすると、それは余程遽(あわた)だしい旅であつたと見なくてはならない。
 何故にさう云ふかと云ふに、菅茶山は文化十四年に「□斎西遊之志御坐候よし、これは何卒晋帥が墓にならぬうちに被成よと御申可被下候」と、蘭軒に嘱した。越えて文政二年に□斎は入京した。そして茶山が神辺にあつて待つてゐるにも拘らず、往いてこれを訪ふことなしに、京都から踵(くびす)を旋したこととなる。己卯には□斎の神辺に往つた形迹が絶無だからである。
 是よりわたくしは此年辛巳の旅を記さうとおもふ。□斎は文政四年に江戸より木曾路を経て京都に入つた。入京の日は四月八日であつた。
 十五年前に蘭軒は同じ街道を京都に往つた。そしてその京に著いたのは発程第十七日であつた。仮に□斎が同じ日数を同じ道中に費したものとすると、□斎の江戸を発した日も、略(ほゞ)推知することが出来る。暦(れき)を閲(けみ)するに文政四年には三月が大、四月が小であつた。今四月八日を以て第十七日とするときは、溯つて第一日に至つて三月二十二日を得る。□斎は概ね三月二十日頃に江戸を立つたものと見て大過なからう。
 □斎の江戸より京都に至る間、月日の詳(つまびらか)にすべきものが只二つある。其一は三月二十六日に和田駅を過ぎたことである。其二は四月朔(ついたち)に見戸野々尻(みとののしり)を過ぎたことである。
 蘭軒は旅行の第六日に上和田下和田を過ぎた。□斎が二十日に上途(しやうと)したとすると、二十六日は第七日となる。次の「見戸野々尻」は三富野(みとの)、野尻であらう。蘭軒は第十日に野尻を経た。□斎の旅の四月朔は第十一日となる。日程は大抵符合するやうである。
 □斎は京都に着いて、福井榕亭(ようてい)を訪ひ、稲荷祭、御蔭祭を観て、十四日に書を蘭軒に寄せた。此書牘が文淵堂所蔵の花天月地(くわてんげつち)中に収めてある。わたくしは下に其全文を写し出さうとおもふ。

     その百十四

 狩谷□斎が此年辛巳四月十四日に京都から蘭軒に寄せた書牘はかうである。
「追日向暑、倍(ます/\)起居御安和可被成御座奉恭賀候。京都総而(そうじて)静謐、僕等本月八日入京仕候。途中雨少(すくな)にて、僅一両日微雨に逢候而已(のみ)、只入京之日半日雨降申候。」
「上州長尾春斎(草屋の弟子)世話にて、神亀之古碑共一覧、其後多胡碑(たごのひ)も観申候。」
「木曾桜□□(やまぶき)殊妙、其外花盛に御座候而驚目申候。総而木曾之山水、豚児輩感心仕候。僕も一昨年より増り候様に覚申候。御紀行毎夕読候而御同行仕候様に奉存候。乍去余程涼気にて、日限延引を却而悦申候。和田駅(三月廿六日)など綿衣四襲位之事に御座候。乍然暑中よりは歩行致能御座候。尤一人も駕籠馬の力を借り不申候。(日程七八里故。)朔日(ついたち)(四月)見戸野々尻辺花猶盛に而珍しく、歌あり。花の香ををしむのみかは谷風にころもかへうき木曾の山道。御笑可被下候。今朝抜た綿ではないか谷ざくら。松宇君へ御つたへ可被下候。」
「福井へ尋申候。甚よく遇せられ、昨年断被申候事途中之間違のよし等被申候。何より以家屋園池之結構、小障子一枚といへども、一草一礫といへ共、みな/\心を用ひ、額聯之数は黄檗山より多く、すきま/\はアンヘラにてはりつめ、中々千金二千金之用途にて作り候物に無之、露台、庭の檻(てすり)、朱緑間錯、釣燈籠凡三百にあまり申候。実に田舎漢(でんしやかん)の京の門跡を始而見候より驚申候。但し工(たくみ)ときたな細工とを以組詰たるものにて、僕など三日も右之家に居候ものならば、大病に相成候事相違有之まじく被存候。此後数度参候而珍蔵乞可申所存に候へども、但右之一儀に迷惑いたし居申候。」
「稲荷祭。」
「御蔭祭。」
「古雅結構、面(おもしろ)き事に御座候。(森云。面の下原文白字を脱す。)土佐画の画工等、或は社頭の式を観(み)をみる人あり。(森云。をみ二字衍文。)或は路中行装を観(みる)もの有、洛東にて騎馬音楽有之、此所へ来りみるもの有。御蔭森御旅所にて、音楽神供を観するもの有。江戸人と違心を用候事感心いたし候。」
「右之帰路小野毛人墓(をのけひとのはか)へ参り申候。石槨ふた土上に現れ出(八尺に五尺ほど)有之、内には右之蓋石取除見候へば、小礫を以てつめ有之候。果して右之内に墓志有之事と被存候。八瀬小原辺にて甚幽邃なる山上に御座候。」
「此日御蔭山(これさへ此度はじめて参りし也)より廻りし所、茶屋等一向無之、饑(うゑ)甚し。人窮する時驚人之句あり。肥(こえ)し身の我大はらもひだるさにやせ行やうにおもひけるかな。此一条皆川へ御話可被下候。」
「今日迄両三輩づゝ朝夕書林も参候所、手に取てみる様なる本者(ほんは)一冊といへ共無之候。」
「一切経音義は頼申候。義疏と内経はいまだ見当り不申候。明日坂本山王祭、明々後日葵祭拝見候て、南都へ一先罷越可申と存居候。猶後便可申上候。頓首。四月十四日。狩谷望之。蘭軒先生御前。」

     その百十五

 此辛巳四月十四日の狩谷□斎の書を読んで、最初にわたくしの目を留めたのは、木曾の景を叙して、「一昨年より増り候様に覚申候」と云つてある事である。三村氏の考証した文政二年の旅が此句に由つて確保(かくはう)せられる。□斎は二年己卯に京都へ往つた。しかもその木曾路を経て西したことさへ知ることが出来る。□斎は己卯に京までは往つたが、更に南下して菅茶山を神辺に訪ふことをばせずに已んだのである。茶山は□斎の西遊を慫慂(しようよう)して、「長崎は一とほり見ておきたき処也」と云つた。想ふに□斎は入京数度に及びながら、京よりして南下するには及ばなかつたのであらう。少くも丁丑前には九州の地をば踏まなかつたことが明である。
 □斎は木曾路を行くのに、十五年前の蘭軒の紀行を携へてゐて、且読み且行つた。「御紀行毎夕読候而御同行仕候様に奉存候」と云つてある。或は二年前の旅にも持つて行き、此度の旅にも持つて行つて、反覆翫味したかも知れない。紀行の繕写せられたのは、己卯よりは早かつた筈だからである。
 □斎の此書牘には、千載の後に墓を訪はれた小野妹子の子、毛野の父毛人よりして外、五人の人物が出てゐる。第一は□斎の子懐之である。
 □斎は此旅に倅懐之を連れて行つた。「総而木曾の山水豚児輩感心仕候」と云つてある。「豚児」懐之は此年十八歳であつた。□斎の始て京に上つたのが寛政二年十六歳であつたとすると、懐之の初旅は遅るること二歳であつた。
 第二は□斎に神亀の古碑を見せた上野の人長尾春斎である。「草屋の弟子」と註してある。世間若し草屋春斎の師弟を知つた人があるなら、敢て教を請ふ。
 第三は福井榕亭である。名は需、字(あざな)は光亨(くわうかう)、一の字は終吉(しゆうきつ)、楓亭の子にして衣笠(いりつ)の兄である。榕亭は前年庚辰に□斎が何事をか交渉した時、すげない返事をした。しかし今親く訪はれては、厚遇せざることを得なかつた。そして前年の事をば「途中之間違」として謝した。□斎の書牘には榕亭の第宅(ていたく)庭園が細叙してある。その結構には詩人の所謂堆□(たいた)の病がある。「僕など三日も右之家に居候ものならば、大病に相成候事相違有之まじく被存候。」説き得て痛切を極めてゐる。わたくしなども此種の家に住んでゐる人二三を知つてゐる。それゆゑ□斎の書を読んで、わたくしの胸は直ちにレゾナンスを起すのである。兎に角□斎の筆に由つて、福井丹波守の懐かしくない一面が伝へられたのは、笑止である。
 第四は□斎が木曾の俳句「今朝抜た綿ではないか谷ざくら」を見せようとした松宇である。蘭軒集中に出てゐる真野松宇であらう。第五は□斎が八瀬小原の狂歌を見せようとした皆川である。蘭軒集中に出てゐる皆川叔茂(しゆくも)であらう。此に藉(よ)つて松宇には俳趣味、叔茂には狂歌趣味のあつたことが推せられる。わたくしは此に今一つ言つて置きたい事がある。それは八瀬小原の狂歌がわたくしに□斎の相貌を教へたことである。此歌より推せば、□斎は一箇の胖大漢で便々たる腹を有してゐたらしい。しかし三村清三郎さんは□斎が美丈夫であつたと云ふことを聞き伝へてゐるさうである。然らば所謂かつぷくの好い立派な男であつたのだらう。

     その百十六

 狩谷□斎は辛巳西遊の途上、木曾で桜の句を得て、これを蘭軒に与ふる書中に記し、松宇に伝へ示さむことを嘱した。
 わたくしは※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-234-上-7]詩集の戊寅の作中、蘭軒が真野松宇の庭の瞿麦(なでしこ)を賞したことを憶ひ出した。そして□斎の謂ふ松宇は此真野松宇であらうと云ひ、又□斎が特に其俳句を示さうとしたことより推して、松宇は俳趣味のある人であつただらうと云つた。
 わたくしが前記の文稿を郵便に附し去つた時、忽ち一の生客があつて刺を通じた。刺には「真野幸作、下谷区箪笥町一番地」と題してある。わたくしは奇異の念(おもひ)をなして引見した。幸作さんは松宇の孫で、わたくしに家乗の一端を語つた。
 幸作さんの高祖父を鼎斎と云つた。名は甘匹(かんひつ)、字(あざな)は子由、一に西巷と号した。鼎斎の子竹亭、名は茂竜、字は子群、通称は徳弥が阿部侯正右(まさすけ)に仕へた。即ち幸作の曾祖父である。
 竹亭は元文四年に生れ、寛延三年十二歳にして元服し、宝暦五年に、十七歳にして正右の儒者にせられた。わたくしは此に先づ正右の世に於ける竹亭の履歴を摘記する。宝暦九年二十一歳、大目付触流。十二年二十四歳、群右衛門と改称した。
 明和六年に阿部家に代替があつた。以下は正倫(まさとも)の世に於ける履歴である。安永元年冬、竹亭は三十四歳にして江戸勤を命ぜられ、十一月十五日に福山を発した。九年四十二歳、世子正精(まさきよ)侍読。天明七年四十九歳、十一月奥勤。八年五十歳、世子四書五経素読畢業。寛政元年五十一歳、伊勢奉幣代参。二年五十二歳、大目付格。系図調に付金三百疋下賜。四年五十四歳、世子四書講釈畢業。享和二年六十四歳、門人柴山乙五郎召出、儒者見習。
 享和三年には又代替があつた。以下は正精の世に於ける履歴である。文化元年、竹亭六十六歳、読書御用。二年六十七歳、熈徳院(きとくゐん)石槨蓋裏雕文(せきくわくがいりてうぶん)作字(さくじ)。熈徳院は正倫の法諡(はふし)である。六年七十一歳、四月二十日出精に付金五百疋。十一年七十六歳、霊台院石槨蓋裏雕文作字。霊台院は上(かみ)に云つた如く、正倫の継室津軽信寧(のぶやす)の女(ぢよ)、比左子である。十四年四月十二日、竹亭は七十九歳にして歿した。
 竹亭の遺した無題簽の一小冊子がある。中に菅茶山、太田全斎、頼杏坪等と交つた跡がある。竹亭は彼□州牽牛子(けにごし)をも茶山の手から受けた。「菅太中遙贈牽牛子種。謂此□州所産。花到日午猶不萎。乃蒔見花。信如所聞。遂賦一絶寄謝。牽牛異種異邦来。駅使寄投手自栽。紅日中天花未酔。籬頭猶□琉璃杯。」甲子の歳に茶山の江戸に来た時、竹亭は公退の途次其病床を訪うた。蘭軒が菜花を贈つた比の事である。其席には杏坪が来てゐた。「甲子二月下直、過菅太中僑居問疾、邂逅于藝藩頼千祺、観其餞辛島伯彜還西肥之作、席上□韻示千祺、用進退韻。相遇還歎相遇遅。風騒如涌筆如飛。青年令聞徒翹慕。白首仰顔交喜悲。退食過門朝問疾。高談前席※[#「日+干」、7巻-235-下-8]忘帰。寄書伯氏為伝語。官脚広陵報信時。自註、伯氏弥太郎也、頼惟寛、字千秋、其仲頼惟疆、字千齢。」太田全斎のためには、竹亭が詩を其日本輿地図に題した。「題太田方日本輿地図。一摺輿図万里程。東漸西被属文明。五畿七道存胸臆。六十八州接眼睛。彩色辨疆如錦繍。針盤記度似棋□。越都歴険無糧費。看愛臥遊楽太平。」宛然たる明治大正詩人の口吻である。
 竹亭の子松宇は名を頼寛(らいくわん)と云つて、俳諧を嗜(たし)んだ。松宇の子兵助は喜多七大夫の門に入つて、能師となつた。兵助の子が即ち我客幸作さんである。

     その百十七

 蘭軒は京に往く狩谷□斎に書を買ふことを託したので、□斎は此辛巳四月十四日の簡牘の末に訪書の消息を語つてゐる。蘭軒のあつらへた書は一切経音義、論語義疏及黄帝内経であつたらしい。
 三書はいかにも蘭軒が□斎にあつらへさうな書である。若し小説家が此書牘を擬作するとしたら、やはり此種の書を筆に上(のぼ)することとなるだらう。そして批評家は云ふだらう。そんな本は蘭軒は疾(と)くに備へてゐた筈である。作者の用意は未だ至らないと云ふだらう。
 わたくしは此に少しく三書の事を言ひたい。しかしわたくしは此方面の知識に乏しい。殆ど支那の文献に喙(くちばし)を容るゝ資格だに闕けてゐる。それゆゑわたくしの言ふ所には定て誤があらう。どうぞ世間匿好の士に其誤を指□してもらひたい。
 一切経音義と云へば玄応の書か、慧琳の書かと疑はれるが、わたくしは蘭軒が前者を求めたものと解する。何故と云ふに今流布してゐる慧琳音義は元文二年に既に刊行せられてゐて、此本以外に善本を坊間に獲むことは殆ど望むべからざる事であつた筈だからである。且蘭軒の徒なる渋江抽斎、森枳園の後に撰んだ訪古志にも、玄応音義の下(もと)には特に「尤有補小学焉」と註してある如く、当時蘭軒一派の学者が此書を尊重してゐて、現に□斎自家も玄応音義の和刻本に、校讐を加へて蔵してゐたからである。□斎の識語のある此本は後枳園の子約之(やくし)の手に帰し、今は浜野知三郎さんの庫中にある。
 文献史上に於ける音義諸書の顕晦存亡は、其迹小説よりも奇である。今は定てこれに関する新研究もあらうが、わたくしの此に言ふ所は単に流布本の序跋等に見えてゐる限を反復するに過ぎない。それのみでも既に人をして其奇に驚かしむるに足るであらう。
 玄応が音義を著したのは唐の初である。「貞観末暦」と云つてあるから、猶太宗の世であつた。即ち七世紀の書である。初二十五巻であつたのが、二十六巻となり、清の乾隆に至つて旧に復せられた。これがわたくしの蘭軒の捜してゐた本だらうと推する書である。五号活字の弘教(くげう)書院蔵にも、四号の蔵経書院蔵にも載せてある。しかし善本を求めたら、今も獲難からう。
 顕晦の尤奇なのは、此書では無い。慧琳の音義である。裴氏(はいし)慧琳が音義一百巻を著したのは、「以建中末年剏製」とも云つてあり、又「起貞元四年」とも云つてある。要するに唐の徳宗の世であつた。その成つたのは、「至元和二祀方就」、「迄元和五載」、「元和十二年二月二十日絶筆於西明寺焉」等記載区々になつてゐる。要するに憲宗の世であつた。慧琳は元和十五年庚午に八十四歳で卒したから、十二年に筆を絶つたとすると、入寂三年前に至るまで著述に従事したことになる。その蔵に入れられたのは大中五年だと云ふから、既に宣宗の世となつてゐた。即ち慧琳音義は九世紀に成つた書である。
 然るに此書は支那に亡くなつた。「高麗国(中略)周顕徳中遣使齎金、入浙中求慧琳経音義、時無此本」と云つてある。後周の世宗の時である。即ち十世紀には早く既に亡びてゐた。後高麗国は異邦に求めてこれを得た。「応是契丹蔵本」と云つてある。そして慧琳音義は朝鮮海印寺の蔵中に入つた。
 足利義満が経を朝鮮に求め、義政がこれを得た時、慧琳音義が蔵中にあつて倶(とも)に来た。これが洛東建仁寺の本である。元文板には「朝鮮海印蔵版、近古罹兵燹而散亡」と云つてあるが、徳富蘇峰さんの語る所に従へば、麗蔵(れいざう)は今猶完存してゐて、慧琳の音義も亦其中にあるさうである。

     その百十八

 わたくしは慧琳音義が唐に成り後周に亡び、契丹(きつたん)より朝鮮に入り、朝鮮より日本に来たことを語つた。さて此書の刊布は忍澂(にんちよう)に企てられ、其弟子の手に成つた。それが元文二年で、徳川吉宗の時である。支那に於て十世紀に亡びた書が、日本に於て十八世紀に刊行せられたのである。慧琳音義は弘教書院蔵に有つて、蔵経書院蔵に無い。しかし元文版は今も容易に得られる。
 玄応慧琳の音義よりして外、蔵経書院蔵に収められてゐる慧苑の華厳経音義、処観の紹興蔵音、弘教書院蔵に収められてゐる可洪(かこう)の随函録、希麟の続経音義等がある。しかし此等は姑(しばら)く措いて、わたくしは書籍(しよじやく)の運命の奇を説く次(ついで)に、行□(かうたう)の大蔵経音疏五百巻の事を附加したい。これは「慨郭□音義疎略、慧琳音義不伝、遂述大蔵経音疏五百許巻」と云つてある。郭□(くわくい)の音義とは所謂一切経類音である。類音の疎略にして、慧琳音義の伝はらざるを慨(なげ)いて作つたのである。然るに此行□の書も亦亡びて、未だその発見せられたことを聞かない。行□は恐くは己が書の亡びて、慧琳の書の再び出づることをば、夢にだに想はなかつたであらう。
 わたくしは経音義のために余りに多くの辞(ことば)を費した。論語義疏と内経との事は省略に従がふこととしたい。□斎の書牘には単に「義疏」と云つてある。それを皇侃(くわうかん)の論語義疏と解するのは、嘗て寛延板が□□(けいへい)本に□(なら)つて変改してあるのに慊(あきたら)ぬため、当時の学者は古鈔本を捜すことになつてゐたからである。黄帝内経は素問と霊枢とである。これも当時尚古版本若くは古抄本を得べき望が多少あつたことであらう。
 以上が□斎の蘭軒に与へた書の註脚である。□斎は文政四年四月十四日に、其子懐之と共に京都にあつて此書を裁し、其後どうしたか。
 十五日には、書牘に拠るに、坂本の山王祭を観た筈である。
 十七日には奈良へ立つた筈である。
 此より後五月十八日に至る三十日間の行住の迹は、さしあたり尋ぬることを得ない。五月十九日には□斎父子が福山に宿した。
 二十日の朝父子は菅茶山を神辺(かんなべ)に訪ひ、其家に宿した。
 二十一日には父子が猶黄葉夕陽村舎に留まつてゐた。
 二十二日に二人は神辺を発し、三原に向つた。
 此五月十九日より二十二日に至る四日間の旅程は、茶山が江戸にある北条霞亭に与へた書に由つて証することが出来る。
 茶山の霞亭に与へた書は断片である。霞亭はこれを剪(き)り取つて蘭軒に示した。この剪刀(はさみ)の痕を存した断片は饗庭篁村さんの蔵儲中にある。「扨津軽屋三右衛門父子今月廿日朝来り候。ふくやまに一泊いたされ候よし也。其夜と其翌夜滞留、廿二日三原をさして発程也。今すこし留めたく候へども、宮島迄も参、京祇園会に必かへると申こと、日数なく候故、乍残念かへし候。八幡にて古経を見、宮じまにて古経古器を見ると申こと、中々祇園会に間に逢かね候覧。ふたりとも連を羨しく候。此段伊沢へ御はなし可被下候。扨竹内森脇いづかたも無事に候。宜御申可被下候。右用事のみ草々申上残候。御道中道ゆきぶりは追而可被仰遣候。先右序文いそぎ此事のみ申上候。恐惶謹言。五月二十六日。菅太中晋帥。北条譲四郎様。伊十も可也に取つゞき出来申候覧。銅脈先生(広右衛門こと)は矢かはにしばらくゐ申候由、いかがいたし候や。」

     その百十九

 菅茶山の北条霞亭に与へた、此年文政四年五月二十六日の書牘の断片は、独り狩谷□斎の西遊中四日間の消息を伝へてゐるのみでは無い。去つて霞亭の経歴を顧みるに、此にも亦其伝記を補ふに足るものがあるらしい。それは霞亭が何時江戸に来たかと云ふことである。
 先づ山陽撰の墓碣銘を見るにかう云つてある。「歳癸酉遊備後。訪菅茶山翁。翁欲留掌其塾。諮之父。父命勿辞。福山藩給俸五口。時召説書。尋特召之東邸。給三十口。准大監察。将孥東徙。居丸山邸舎。三年罹疾。不起。実文政癸未八月十七日。享年四十四。葬巣鴨真性寺。」
 霞亭が備後に往つたと云ふ癸酉は文化十年で、茶山の甲戌東役の前年である。茶山は霞亭に廉塾の留守をさせて置いて江戸に来り、乙亥に還つて、彼八月二日の書を以てこれを蘭軒に紹介した。
 茶山の蘭軒に与へた書には、茶山が将(まさ)に妹女(まいぢよ)井上氏を以て霞亭に妻(めあは)せむとしてゐることが見えてゐた。茶山は遂に妹女をして嫁せしめ、後霞亭を阿部家に薦めた。しかし霞亭の此婚姻は何時であつたか。又此仕宦は何時であつたか。これは東遊の時を問ふに先だつて問ふべき件々である。
 わたくしは多く霞亭の詩歌文章を読まない。しかし曾て読んだだけの詩に就いて言はむに、茶山が霞亭を蘭軒に紹介した乙亥の翌年丙子の秋以前に、霞亭が既に井上氏を納(い)れてゐたことは確である。
 今わたくしの許(もと)に帰省詩嚢と云ふ小冊子がある。これは浜野知三郎さんに借りてゐる書である。霞亭の門人井達夫(せいたつふ)等は嘗て貲(し)を捐(す)てゝ霞亭の薇山三観を刻して知友に貽(おく)つた。然るにこれを受けたものが多く紙価を寄せてこれに報いた。達夫等は刻費を償(つぐの)つて余財を獲、霞亭に呈した。霞亭は受くることを肯(がへん)ぜなかつた。そこで達夫等はこれを帰省詩嚢を刻する資に充(み)てたのださうである。これは「文化丁丑冬井毅識」と署した序の略である。
 帰省詩嚢は文化十三年丙子の秋、霞亭が父適斎道有の七十の寿宴に侍せむがために、廉塾を辞して志摩国的屋に帰つた有韻の紀行である。秋の初に神辺を立つて、秋の末に又神辺に還つたらしい。巻首の「留別塾子」の絶句はかうである。「雲山千里一担□。暫此会文抛友朋。帰日相逢須刮目。新涼莫負読書燈。」以て発程が新涼の節に当つてゐたことを知るべきである。巻尾の「西宮途上寄懐韓宇二兄」の絶句はかうである。「昨遊連日共提携。一別今朝独杖藜。断雁有声遙目送。秋雲漠々澱江西。」韓は韓聯玉(かんれんぎよく)、宇は宇清蔚(うせいうつ)である。詩の後に一行を隔てて「右丙子晩秋」と註してある。以て此遊が晩秋に終つたことを知るべきである。
 わたくしは此帰省詩嚢中の詩に、霞亭が既に娶つてゐた証を見出し、又これを評した亀田鵬斎の語に、其婚姻がしかも成後未だ久しきを経なかつた証をも見出したのである。詩は書中の最長篇で、一韻徹底の五古である。引にかう云つてある。「閏八月念五日。従嵯峨歩経山崎桜井。弔小侍従墓。到芥川宿。翌尋伊勢寺。邂逅国常禅師。因過能因旧址松林庵。遂宿禅師之院。其翌登金竜寺。下到前嶼。乗舟至浪華。詩以代記。」辞(ことば)長ければ全篇を写し出さずに、下(しも)に有用の句を摘録することとする。

     その百二十

 わたくしは此年辛巳五月二十六日に、菅茶山の北条霞亭に与へた書の断片中より、既に当時西遊途上にあつた狩谷□斎の数日間の行住去留を検出し、又受信者霞亭の東徙(とうし)の時を推定しようと試みた。霞亭は京都より神辺へ往き、神辺に於て茶山に拘留せられ、其妹女を娶つて阿部家に仕へ、此に東役の命を受くるに至つたのである。霞亭が「歳癸酉、遊備後」の後、東徙に至るまでには、其婚姻があつて、これがために東徙は「将孥東徙」となつたのである。わたくしは東徙の時を言ふに先だつて、婚姻の時を言はむことを欲した。そしてこれがために霞亭の帰省詩嚢を引くこととしたのである。
 詩嚢の五古の長篇に、丙子の歳閏(じゆん)八月二十五日より二十七日に至る遭遇を叙したものがある。霞亭は二十六日に伊勢寺を尋ねて僧国常に逢ひ、院内に宿した。「為我開法庫。芸香散講台。画軸多仙仏。妙筆縦離奇。経巻堆牙籤。繙閲白日移。斗藪塵埃客。浄境忘倦疲。久遭妻孥汚。転覚葷羶非。」前年乙亥に茶山が書を蘭軒に寄せた時には、霞亭はまだ独身であつた。そして今忽ち「久遭妻孥汚」と云つてゐる。乙亥八月より後、帰省の途に上つた丙子初秋より前に霞亭は有妻者となつた。所謂遭汚(さうを)の間は乙亥の八月をも丙子の閏八月をも併せ算して、辛うじて十四箇月に達するのである。婚姻の日は乙亥八月より丙子七月頃に至る満一年の間にあつた筈である。
 そこで亀田鵬斎がかう云ふ評語を下した。「子譲年来高踏。不覊塵累。聞近始領妻孥。而遽下久字。殊可怪。」
 わたくしは前に茶山の善謔を語つた。是に由つて観れば、鵬斎の善謔も亦多く茶山に譲らないらしい。此評は分明に霞亭をからかつてゐる。此からかひの妙は霞亭の備後に往く前の生活を一顧して、方(まさ)に纔(わづか)に十分に味ふことが出来るのである。山陽は「素愛嵐峡山水、就其最清絶処縛屋、挈弟倶居、嚢硯壺酒、蕭然自適」と云つてゐる。岡本花亭は霞亭を村尾源右衛門に紹介するに当つて、「君子の才行器識あり、うたもよみ候、曾而(かつて)嵯峨に隠遁いたし候を茶山老人に招かれ、備後黄葉山廉塾をあづかり、去年福山侯の聘に応じ解褐(かつをとき)候」と云つてゐる。此弟惟長との嵯峨の幽棲があつて、始て鵬斎の「年来高踏、不覊塵累」が活きるのである。花亭の文は竹柏園の蔵儲に係る尺牘で、九月四日の日附がある。そしてそれが文政五年九月四日だと云ふことは、霞亭の齢(よはひ)が四十三としてあるを以て知ることが出来る。
 わたくしは語つて此に至つて、霞亭の容貌を想ひ浮べる。山陽は「君為人□而晢、隆準、眼有光」と云つてゐる。又「風神灑脱」とも云つてゐる。これが嵯峨の庵(いほり)の主人(あるじ)であつた。そしてその口にする所は奈何(いかん)。「跌蕩不量分。功業妄自期。意謂身顕達。竹帛名可垂。」そして此主人に侍してゐたものは誰か。少(わか)い弟惟長只一人であつた。
 想ふに霞亭は所謂一筋繩では行かぬ男であつた。茶山はこれを捉へるまでには、余程骨を折つたことであらう。

     その百二十一

 わたくしは北条霞亭の東徙(とうし)を語るに先だつて、霞亭は何時娶(めと)つたか、何時仕へたかと問うた。
 何時娶つたかの問題は、帰省詩嚢中の霞亭の詩を得て稍解決に近づいた。霞亭は文化十二年の後半若しくは十三年の前半に娶つたのである。
 次は何時仕へたかの問題である。わたくしは前に岡本花亭の霞亭を評した語を挙げた。それは花亭の書牘に見えてゐるものであつた。此書牘は、既に云つた如くに、文政五年九月四日に作られたものである。そして霞亭が仕宦の時を知るにも、亦上(かみ)の語が用立つのである。
 書牘には「去年福山侯の聘に応じ解褐候」と云つてある。即ち霞亭の仕へたのは文政四年である。
 霞亭は備後に往つた文化十年癸酉から算して、第三年の末若しくは第四年の初に娶つた。此間は頗短い。次で第九年に仕へた。此間は稍長い。
 彼詩嚢を齎(もたら)して塾に返つた帰省は、霞亭が既に娶つて未だ仕へざる間にある。それゆゑ「家大人適斎先生七十寿宴恭賦」と題した詩にも、不遇を歎ずる語が見えてゐる。「疎拙不合世。蹉□何所為。棲々十余載。置身無立錐。郷党是非起。到処遭罵嗤。哀々吾父母。愚衷深見知。在此羞辱際。恩愛終不移。遂住千里外。終年苦乖離。帰来雖云楽。一物無献遺。窃向弟妹歎。包羞汗淋漓。」霞亭が福山侯の聘を受けたのは、此寿宴の後五年であつた。
 わたくしは此より霞亭東徙の事を言はうと思ふ。山陽は霞亭が備後に仕宦するまでの事を叙して、其間に時を指定する語を下さなかつた。しかし仕宦は備後に往つてからの第九年に於いてしたのである。次に山陽は仕宦と東役とを叙して其間に一の「尋(ついで)」の字を下し、「尋特召東邸」と云つてゐる。しかし仕宦と東役とは同年の事であつた。上に写し出した茶山の書がこれを証する。
 茶山は此年文政四年五月二十六日に、書を霞亭に与へて、「御道中道ゆきぶりは追而可被仰遣候」と云つてゐる。これは未だ霞亭東徙後の書を得ざる時の語である。少くも未だ其覊旅の状況を悉(つく)さざる時の語である。霞亭の将孥(しやうど)東徙は恐くは春の末、夏の初であつただらう。
 約(つゞ)めて言へば下(しも)の如くになる。霞亭は文化十年三十四歳で備後に往つた。十一年三十五歳で廉塾を監した。十二年三十六歳若しくは十三年三十七歳で妻を娶つた。文政四年四十二歳で福山に仕へ、直ちに召されて江戸に至つた。此年辛巳の春杪(しゆんせう)夏初(かしよ)には、狩谷□斎が子を携へて江戸を発し、霞亭が孥(ど)を将(ひきゐ)て江戸に入つたのである。
 □斎はわたくしは其詳伝の有無を知らない。市人であつたので、由緒書の如きものも獲難からう。現に相識の曾孫三市さんの家には、此の如きものを存してゐない。これに反して霞亭に至つては、必ずや記録の現存してゐるものがあらう。しかし此の如き側面よりする立証も、全く無価値ではあるまい。何故と云ふに表向の書上(かきあげ)は必ずしも事実そのまゝでは無い。往々旁証のコントロオルを待つて始て信を伝ふるに足ることがあるからである。

     その百二十二

 北条霞亭は此年文政四年に家を挙げて江戸に徙(うつ)つた。わたくしの推測する所に従へば、春杪夏初の頃であつたらしい。山陽は「居丸山邸舎」と記してゐる。しかしこれには語つて詳(つまびらか)ならざるものがあるらしい。
 霞亭に「嚢里移居詩」があつて、此時の状況が悉(つく)してある。「我生本散誕。山沢一□儒。承乏厠教職。衆中実濫□。賢主不棄物。恩礼養迂愚。嚢里新賜地。草茅命僕誅。幾日経営畢。徙居入秋初。貧家無長物。□載只一車。家人駆我懶。身具各提扶。隣里新旧識。交来問所須。掃窓先安置。筆硯与琴書。門巷頗幽僻。不異在郊墟。素性慣野趣。早已把犂鋤。圃畦種晩茄。隙処蒔冬蔬。東市沽薄酒。西市買枯魚。相賀命一酌。団欒対妻孥。居室雖倹陋。□然已有余。大厦豈不好。弗称匪良図。燕安思懿戒。苟完慕遺模。唯当安一席。旧学理荒蕪。雨余残暑退。摧頽病骨蘇。燈火宜清夜。涼風動高梧。一枕酔眠穏。君恩何処無。」
 此詩を見るに、霞亭は只丸山邸内の一戸を賜はつてこれに住んだのではなく、或は空地(くうち)を賜はつて家を建てたのでは無いかと疑はれる。わたくしは「嚢里新賜地、草茅命僕誅、幾日経営畢、徙居入秋初」の四句を読んでしか云ふのである。
「賜地」と云へばとて必ず家が無かつたとは解せられない。「経営」と云へばとて必らず家を建てたとは解せられない。「草茅命僕誅」も掃除をしたに過ぎぬとも云はれよう。しかし霞亭が江戸に来たのは、夏の初より後れなかつたものとすると、その家に入るまでに余り多くの日数が掛かつてゐる。「徙居入秋初。」江戸に来てから家に入るまでの間に、少くも五月六月の二箇月が介(はさ)まつてゐたのである。
 霞亭の新居には今一つの疑問がある。それは嚢里(なうり)とは何処かと云ふことである。丸山の阿部家の地所だと云ふことは明であるが、修辞して嚢里と云つた、原(もと)の詞(ことば)は何であらうか。袋地(ふくろち)即行止(ゆきとまり)の地所であらうか。それが今の西片町十番地のどの辺であらうか。兎に角寂しい所ではあつたらしい。「門巷頗幽僻。不異在郊墟。」
 前に引いた岡本花亭の書牘に、霞亭が聘に応じた時の歌と云ふものが二首載せてある。其一。「山かげの落葉がくれのいささ水世にながれてはすみやかねなむ。」其二。「かげうすき秋のみか月出るよりはや山のはに入むとぞおもふ。」書牘には後の歌を見て、田内主税(ちから)の詠んだ歌が併せ記してある。「月の入る山のはもなきむさしのに千世もとどめむ清きひかりを。」田内の歌は霞亭が嚢里に住んでから後の作であらう。
 霞亭の嚢里に住んだ歳月は短かつた。徙(うつ)り来つた年の翌年壬午が僅に事なく過ぎて、癸未の八月十七日に霞亭は四十四歳で歿した。墓誌に「患東邸士習駁雑、授小学書、欲徐導之、未遂而没」と云つてある。その未だ遂げずと云ふのは、訓導の目的を遂げなかつたと云ふ意である。小学の書は早く成つて人に頒たれた。花亭の書牘に、「この北条小学纂註を蔵板に新雕(しんてう)いたし候、所望の人も候はば、何部なりとも可被仰下候、よき本に而(て)御座候」と云つてある。

     その百二十三

 わたくしは此年文政四年五月二十六日の菅茶山の書牘の断片を写し出して、狩谷□斎の游蹤を、五月二十二日に神辺を発して三原に向ふまで追尋した。そして其断片が北条霞亭に与へた書であつたがために、霞亭が□斎の江戸を出でたと殆ど同時に江戸に入つたと云ふことに語り及んだ。
 茶山は此書牘中に□斎父子の事を叙して、さて末に「ふたりとも連を羨しく候、此段伊沢へ御はなし可被下候」と書いた。羨しくの下(しも)には存を添へて読むべきである。茶山は毎(つね)に己(おのれ)に子の無いことを歎いてゐた。それゆゑ□斎が懐之を連れてゐたのを羨ましく思つた。そしてこれを榛軒柏軒を左右に侍せしめてゐる蘭軒に告げようとしたのである。
 饗庭篁村さんの所蔵の茶山簡牘中にも、これに類した一通があつて、茶山は蘭軒の子を連れて向島へ往つたことを羨んで書いてゐる。此書は或は後に引くかも知れない。
 猶上(かみ)に引いた五月二十六日の書牘には解し難いこともある。所謂「序文」の如きが即是である。按ずるに此語の指す所が何の序文だと云ふことは、剪り去られた書牘の前半に見えてゐたのであらう。
 其他書中には□斎父子と蘭軒との外に二三の人名が出でゝゐて、それが生憎わたくしの識らぬ名のみである。第一の竹内、第二の森脇は、茶山が「いづかたも無事に候、宜御申可被下候」と云つてゐる。恐くは並びに是れ福山藩士で東役中の身の上であつただらう。その無事だと云ふのは福山の留守宅であらう。第三の伊十は或は伊七ならむも測り難いが、わたくしは姑(しばら)く「十」と読んで置いた。茶山が「可也に取つづき出来候覧」と半信半疑の語をなしてゐる。江戸にある知人で覚束ない生活をしてゐたものと察せられる。第四の銅脈先生は世の知る所の畠中観斎(はたなかくわんさい)に非ざることは論を須(ま)たない。観斎は夙(はや)く享和元年に歿したからである。書牘には銅脈先生の四字の下(しも)に「広右衛門こと」の註がある。但し此広右衛門(ひろゑもん)も亦艸体が頗る読み難い。或は誤読ならむも測り難い。その銅脈先生が暫く寓してゐると云ふ第五の「矢かは」も「は」文字が読み難い。わたくしは此に疑を存して置く。総括して言へば、竹内某、森脇某、某氏伊十、某氏広右衛門、矢川某の五人が茶山の此書牘に出でてゐる不明の人物である。
 茶山の蘭軒に与ふる書には多く聞人(ぶんじん)の名が出で、その霞亭に与ふる書にはこれに反して此の如く無名の人が畳出(でふしゆつ)するのは、茶山と霞亭とが姻戚関係を有してゐたからであらう。
 □斎父子が此年五月二十日に黄葉夕陽村舎に著き、其夜と二十一日の夜とを此に過し、二十二日に辞し去つたと云ふ事実は、独り右の茶山の書牘に其跡を留めてゐるのみでは無い。茶山の集中に「狩谷□斎父子来訪」と題した絶句がある。「時人久已棄荘樗。老去隣翁亦自疎。豈意東都千里客。穿来蘆葦覓吾廬。」

     その百二十四

 狩谷□斎父子は此年文政四年五月二十二日に、三原をさして神辺(かんなべ)を発した後、いづれの地を経歴したか、今わたくしの手許にはこれを詳(つまびらか)にすべき材料が無い。菅茶山は「八幡にて古経を見、宮島にて古経古器を見ると申こと」と云つてゐる。しかし□斎が能くこれを果したかどうか不明である。兎に角茶山が「京祇園会に必かへると申こと」と云つてゐるより推せば、兼て茶山の勧めてゐた長崎行は此旅の計画中に入つてゐなかつたものと見るべきであらう。
 祇園会(ぎをんゑ)は六月七日である。□斎父子は果して此日に京都まで引き返してゐたかどうか、これを知ることが出来ない。辛巳の歳の五月は大であつたから、其二十二日より六月七日に至る総日数は十六日間であつた。茶山が「間に逢かね候覧」と云つて危んだのも無理は無い。
 □斎父子の此漫遊中、右の五月二十二日以後に月日の明なるものが只一つある。それは六月二十五日に法隆寺西園院(さいをんゐん)にゐたと云ふことである。即ち神辺を立つてから第三十一日である。
 わたくしの三村氏を煩はして検してもらつた好古小録の填註に、既に引いたものの外、猶左の数箇条がある。
「好古小録法隆寺上宮太子画像。□斎曰。文政四年六月観。」
「同施法隆寺物数書。□斎曰。文政四年六月二十五日法隆寺西園院にて観。」
「同円光大師絵詞。□斎曰。文政四年七月観。」
 最後の一条を見れば、□斎父子が秋に入つて猶奈良に留まつてゐたことが知られる。此より後父子の江戸に還つたのが、まだ冬にならぬ前であつた証跡は、※[#「くさかんむり/姦」、7巻-249-下-7]斎詩集に見えてゐるが、それは後に記す。
 わたくしは此より蘭軒の事蹟に立ち帰つて、夏より後の詩集を検する。此時に当つてわたくしは先づ一事を記して置きたい。それは富士川氏蔵の詩集は蘭軒自筆本であるのに、所々に榛軒柏軒の二子及渋江抽斎、森枳園の二弟子(ていし)の、蘭軒に代つて浄写した詩が夾雑してゐる事である。そして此年辛巳の夏より秋の半(なかば)に至る詩は抽斎の書する所の小楷(せうかい)である。
 抽斎は是より先文化十一年十歳にして蘭軒の門に入つてゐた。若し詩の浄写が其製作当時に於てせられたものとすると、是は抽斎十七歳の時の書である。蘭軒も自筆、棕軒侯、茶山の評も皆其自筆なるより推せば、わたくしは抽斎のこれを書した年の多く辛巳より遅れなかつたことを想ふ。只後年の補写で無いと云ふ確証を有せぬだけである。
 辛巳の夏の詩は二首である。初の「菖節小集」の絶句は蘭軒が五月五日に友を会し詩を賦したことを証する。「満座忻無独醒客。榴花那若酔顔紅。」
 後の「夏日偶成」の七律は此頃黒沢雪堂が蘭軒を招いたのに、蘭軒が辞したことを証する。詩の頷聯に、「病脚不趨官路険、微量難敵酒軍長」と云つて、「此日不応雪堂招飲、故第四及之」と題下に自註してある。
 黒沢雪堂、名は惟直(ゐちよく)、字(あざな)は正甫(せいほ)、正助(しやうすけ)と称した。武蔵国児玉郡の人で、父雉岡(ちかう)の後を襲(つ)ぎ、田安家に仕へた。当蒔六十四歳になつて、昌平黌の司貨(しくわ)を職としてゐた。

     その百二十五

 此年文政四年の秋に入つて、蘭軒の冢子(ちようし)榛軒が初て阿部正精に謁した。勤向覚書の文は下(しも)の如くである。「七月廿三日、左之願書相触流新井仁助を以差出候処、御受取被置候旨。口上之覚。私悴良安儀御序之節御目見被仰付被下置候様奉願上候。右之趣不苦思召候ば、御年寄御衆中迄宜被仰達可被下候以上。七月廿三日。伊沢辞安。大目付衆御中。同日、前条に付左之年齢書指出す。覚。伊沢良安、当巳十八歳。右之通年齢にて御座候以上。七月廿三日。伊沢辞安。但糊入半切に認、上包半紙半分折懸、上に年齢書、下に名。同月廿七日、悴良安明廿八日初而御目見被相請候に付私召連可罷出処、足痛に付難罷出、左之通及御達候。口上之覚。私悴良安儀明廿八日初而御目見被為請候に付召連可罷出処、足痛に付名代新井仁助差出申候、此段御達申上候以上。七月廿七日。伊沢辞安。同月廿八日、悴良安儀初而御目見被仰付候。」初謁の日は七月二十八日であつた。其請謁(せいえつ)の形式は、父蘭軒に足疾があつて替人(ていじん)をして榛軒を伴ひ往かしめたために、幾分の煩しさを加へたのではあるが、縦(たと)ひ替人の事を除外して見るとしても、実に鄭重を極めたものである。わたくしは当時の諸侯が威儀を重んじた一例として、ことさらに全文を此に写し出した。
 八月十二日に蘭軒は岸本由豆流(きしもとゆづる)に請待(しやうだい)せられて、墨田川の舟遊をした。相客は余語古庵(よごこあん)と万笈堂(まんきふだう)主人とであつた。詩集には此秋の詩十四首があつて、此遊を叙する七律三が即其第二、第三、第四である。わたくしは此に其引を抄するに止めて詩を略する。「八月十二日□園岸本君泛舟迎飲余於墨田川。与古庵余語君万笈兄同賦以謝。」□園(ざいゑん)は岸本由豆流、此年三十三歳であつた。万笈は英氏(はなぶさうぢ)、通称は平吉である。
 此舟遊の七律と「戯呈余語先生」の絶句とを以て、抽斎浄写の詩が畢(をは)る。余語に戯るる語は、其妻妾の事に関するものの如くである。「何識仙人伴嫦娥。涼秋已覓合歓裘。」
 前記の詩の次、秋行の詩の前に「懐狩谷□斎」の一絶がある。「故人半歳在天涯。別後心同未別時。漸近帰期才数日。杳然方覚思君滋。」
 わたくしは上(かみ)に西遊中の□斎の最後の消息として、その七月に奈良にゐたことを挙げた。そして今此に蘭軒が其帰期の迫つたことを言ふ詩を見る。其詩は八月十二日の作の後にあつて、秋行の作の前にある。八月十二日に□斎の未だ江戸に帰つてゐなかつたことは明で、其帰期は未だ冬に至らぬ前に既に迫つてゐたのである。
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