伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 此春蘭軒は大田南畝の七十を寿した。恐くは三月三日の誕辰に於てしたことであらう。「寿南畝大田先生七十。避世金門一老仙。却将文史被人伝。詼諧亦比東方朔。甲子三千政有縁。」詩は梅を詠ずる作と瞿麦(なでしこ)を詠ずる作との間に介(はさ)まつてゐる。
 次で夏より秋に至つて、詩八首がある。其中人名のあるものを摘記することとする。原来此種の記載は無用に属するかも知れぬが、或は他書を併せ考ふるに及んで、有用のものとなるかも知れない。わたくしは此の如き楽天観に住して、甘んじて点簿の労に服する。
 先づ真野父子がある。前(さき)に冬旭(とうきよく)とその善書(ぜんしよ)の子とがあつたが、今又竹亭松宇(ちくていしようう)の父子を見る。居る所を陶後園と云ふ。松宇は当時官吏であつた。蘭軒の集に此家の瞿麦と菊との詩がある。「真野松宇宅集、園中瞿麦花盛開、云是先人竹亭先生遺愛之種、因賦一絶為贈。種藝従来向客誇。山園開遍洛陽花。渾為千片斑爛錦。遺愛芳滋孝子家。又。真野松宇陶後園菊花盛開、贈主人。菊花満圃気清高。堪償栽培一歳労。幽事不妨官事劇。君家隠趣大於陶。」
 次に福山の人小野士遠(しゑん)がある。蘭軒は五律を作つてその郷に帰るを送つた。「送小野士遠還福山」として、其五六に「祗役添詩興、躋勝酬素情」と云つてある。

     その百四

 次に戊寅夏秋の詩に出てゐる人物は長谷川雪旦である。雪旦、名は宗秀、又厳嶽(げんがく)、一陽庵等の号がある。此年四十一歳で、肥前国唐津の城主小笠原主殿頭長昌(とのものかみながまさ)に聘せられて九州に往つた。「送画師長谷川雪旦従駕之唐津。移封初臨瀕海城。□騎隊裏虎頭行。大藩如是編新誌。佳境総依彩筆成。又。使君五馬経瑤浦。揮筆応誇清舶商。為説画家唐宋法。真伝存在我東方。」小笠原長昌は前年九月十四日に陸奥国棚倉より徙(うつ)された。それゆゑ「移封初臨」と云つてある。此移封は井上河内守正甫(まさもと)の貶黜(へんちゆつ)に附帯して起つた。正甫は奏者番を勤めてゐて、四谷附近の農婦を姦した。これに依つて職を免じ、遠江国浜松より棚倉へ徙された。水野左近将監忠邦は唐津より来つて其後を襲(つ)ぎ、長昌は又忠邦の後を襲いだ。活版本続徳川実記に左近将監忠邦の傍(かたはら)に「恐和泉守之誤」と註してある。しかし和泉守忠光は忠邦の父で、忠邦は部屋住の時式部と云ひ、叙爵せられて左近将監と云つた。傍註が誤であらう。長谷川雪旦は長昌が唐津城に赴く時、□騎隊裏(すうきたいり)の「虎頭」となつて、筆を載せて行つたのである。
 次に松石双古堂の詩がある。これは蘭軒が狩谷□斎に代つて作つたものである。「遙寄題松石双古堂。拝石詞臣已作顛。愛松隠士漸将仙。高園双種殊堪賞。鎮壌凌雲二百年。」「遙寄題」と云ふから、園は江戸では無かつただらう。園の主人の誰なるを知らない。
 冬に入つては十月十八日に「雪日」の七絶二首があるのみである。わたくしは詩集以外に於て、十二月二十三日に蘭軒が医術申合会頭たる故を以て、例年の賞を受けたことを見出した。集には歳杪(さいせう)の作が無い。これに反して菅茶山は吉村大夫の遠く白河関の図を寄するに会した。「歳杪得吉村大夫寄恵白河関図、賦此以謝」の七律に、「七十一齢年欲尽、三千余里夢還新」の一聯がある。吉村氏、名は宣猷(せんいう)、又右衛門と称した。白川の大夫である。
 此年戊寅は茶山の京阪に遊んだ年である。吉野から江戸の岡本花亭に詩を寄せた。「誰知当此夜。身在此山中。想君亦尋花。歩月墨水東。月自照両処。花香不相通。恰如心相思。遊迹不可同。」何ぞ料(はか)らむ、これは花亭が書を上(たてまつ)つて職を罷めた三月であつた。
 頼氏では此年山陽が西遊稿を留めた。茶山と山陽との友登々庵武元質(とうとうあんたけもとしつ)が二月二十四日に歿した。これは茶山の輙(すなは)ち信ずることを欲せざる凶報であつた。「遠郷恐有伝言誤。将就親朋看訃音。」
 此年蘭軒は四十二歳、妻益は三十六歳、子女は榛軒十五、常三郎十四、柏軒九つ、長五つであつた。
 文政二年の元旦には、蘭軒は江戸にあつて、子弟門生の集つて笑語するを楽み、茶山は神辺にあつて、閭里故旧の漸く稀になり行くを悲んだ。蘭軒の「己卯元日」はかうである。「山靄初晴旭日紅。纔斟椒酒意和融。未聞黄鳥新歌曲。春色已生人語中。」茶山の「元日口号」はかうである。「村閭相慶往来頻。老眼偏驚少識人。政爾陽和帰四野。誰回身上旧青春。」
 九日は江戸の気候が稍(やゝ)暖(あたゝか)であつたものか。蘭軒の「草堂小集」には「梅発初蘇凍縮身」、「数曲鶯歌在翠□」等の句がある。茶山の「人日」は錯愕の語を作(な)してある。「無端玉暦入青春。宿雪終風未覚新。七種菜羮香迸案。計来今日已為人。」第四の韻脚は「限韻」の註を得て首肯せられる。更におもふに蘭軒の梅花鶯語は必ずしも実に拠らなかつたかも知れない。「花朝」の詩には、「閏年寒威奈難消、一半春光属寂寥」とも云つてあるからである。己卯には閏(じゆん)四月があつた。
 春の詩と夏の詩との間に、「奉寿養安院曲直瀬先生七十、代山本恭庭」の七絶がある。武鑑を検すれば、奥医師に「養安院法印、千九百石、きじはし通小川町」があり、奥詰医師に「曲直瀬正隆、父養安院、二十人扶持、きじはし通」がある。若し前(さき)に云つた如く恭庭即宗英法眼だとすると、恭庭は同僚を寿せむがために蘭軒の作を索(もと)めたのである。

     その百五

 蘭軒の集には、此年己卯に夏の詩が二首あつて、其末に題画が一首ある。並に人名地名を載せない。次に秋の詩が六首あつて、其中に詠史が一首入つてゐる。史上の人物は和気清麿で、蘭軒は此公に慊(あきたら)ざるものがあつたやうである。「奉神忽破托神策。何知従来不巧機。」
 秋の詩の中に蘭軒が旧友西脇棠園といふものに訪はれた七律がある。詩の引には「中秋前一日雨、草堂小集、時棠園西脇翁過訪、余与翁不相見、十余年於此、故詩中及之」と云つてある。「冷雨凄風林葉鳴、笠簑相伴訪柴荊」の句がある。棠園、名は簡(かん)、通称は総右衛門、此年五十七歳であつた。十余年前の相識と云ふからは、文化初年の友であつただらう。西脇は多く聞かぬ氏族である。わたくしは五山堂詩話中に於て唯一の西脇薪斎(しんさい)を見出した。薪斎は福島の士である。薪斎と棠園との縁故ありや否を知らない。
 中秋には余語天錫(よごてんせき)の家に詩会があつて、蘭軒はこれに□(のぞ)んだ。其夜は月蝕があつたので、「幸将丹竈君家術、理取嫦娥病裏顔」の句がある。菅茶山にも亦「中秋有食」の詩があつた。「去歳既被雲陰厄、今年又逢此虫食」は其七古中の一解である。
 次に冬の詩が四首あるが、其中には伝記に補入すべきものを見ない。わたくしは詩巻を掩うて勤向覚書を繙(ひもと)く。そしてそこに蘭軒の身上に重要なる事のあるのを見出す。
 阿部侯正精(まさきよ)は此年文政二年十一月二十七日に、遂に蘭軒をして儒にして医を兼ぬるものたらしめたのである。「十一月廿六日私儀明廿七日被為召候所、足痛に付名代皆川周安差出候段御届申上候。廿七日、前文之通周安差出候所、私儀御儒者被仰付候、医業只今迄之通と被仰付候。月並御講釈、学文所出席は御用捨被成下候。」一旦表医師となつて雌伏した蘭軒が、今や儒官となつて雄飛するに至つた。慣例を重んずる当時にあつては、異数と謂はなくてはなるまい。
 十二月二十三日に蘭軒は例に依つて医術申合会頭としての賞を受けた。
 此年伊沢宗家の主人信美(しんび)が歿した。伊沢徳(めぐむ)さんの繕写する所の系図には、四月二十一日歿すとしてある。蘭軒手記の勤向覚書には、閏(じゆん)四月六日に伊沢玄安が歿したために忌引をすると云つてある。玄安は信美の通称で、その終焉の日を殊にするは、分家が阿部家に届けた日と、宗家が黒田家に届けた日との差ではなからうか。
 わたくしは伊沢信平さんに請うて宗家の過去帳を検してもらつた。「御申越しにより過去帳取調候処、左之通に御座候。五代目玄安、称仙軒徳山信美居士、文政二年己卯年四月廿二日卒。」名は信美、通称は玄安で、歿日は四月二十二日とするものに従ふべきであらう。
 小島氏では此年宝素尚質(なほかた)の妻山本氏が六月十九日に歿した。尋で尚質の納れた継室が一色氏で、即ち春沂(しゆんき)の母である。
 頼氏では山陽が四十歳になつた。「平頭四十驚吾老、何況明朝又一年」は其除夜の詩句である。田能村竹田が此秋江戸に来た。
 此年蘭軒四十三歳、妻益三十七歳、榛軒十六歳、常三郎十五歳、柏軒十歳、長六歳であつた。

     その百六

 文政三年春は江戸が特に暖であつたらしい。前年の十二月中雪が一度も降らなかつたことが、蘭軒の「庚辰元旦」の詩に見えてゐる。「三冬無雪自軽暄。今歳元旦春色繁。計得出遊宜火急。梅荘恐没一花存。」雪は正月の初に降つた。元旦と人日(じんじつ)との詩の間に、「雪日偶成」の作が介(はさ)まつてゐる。神辺の元旦はこれに反して雪後であつた。茶山の律詩に叙景の聯がある。「流漸汨々野渠漲。残雪輝々林日斜。」
 此年の初には蘭軒は殆(ほとんど)戸外に出でずにゐたらしい。「豆日草堂小集」の詩に、「春至未趨城市間、梅花鳥哢一身閑、那知雪後泥濘路、吟杖相聯訪竹関」と云つてある。此の如く城市の間に趨かずにゐたのは、多く筆硯に親んだからである。張従正(ちやうじゆうせい)が儒門事親(じゆもんじしん)の跋文、「庚辰人日、記於三養書屋燈下」と書したるものの如きも、その作為する所の一である。儒門事親は京都の伊良子氏が元板を蔵してゐた。経籍訪古志補遺に「太医張子和先生儒門事親三巻」と記してあるものが即是である。多紀桂山がこれを借りて影写し、これに考証を附した。医□に載せてあるものが其全文で、訪古志には節略して取つてある。蘭軒は高島信章をして多紀本を影写せしめ、自ら跋して家に蔵した。
 漢医方には温和なるものと峻烈なるものとがあつた。所謂補瀉(ほしや)の別である。峻烈手段には汗(かん)吐(と)下(げ)の三法があるが、其一隅を挙げて瀉と云ふのである。張従正は瀉を用ゐた。素(もと)汗吐下の三法は張仲景(ちやうちゆうけい)に至つて備はつたから、従正は当(まさ)に仲景を祖とすべきである。然るに此に出でずして、溯つて素問を引いた。且つ従正は瀉を用ゐるに、殆所謂撓枉過中(ぜうわうくわちゆう)に至つて顧みず、瀉を以て補となすと云つた。これは世医の補に偏するを排せむと欲して立言したものである。蘭軒はかう云つてゐる。「素問者論医之源。其道也大。可以比老子。仲景者定医之法。其言也正。可以比孔子。金張従正者究医之術。其説也権。可以比韓非矣。」従正の素問を引いたのは、韓非の老子を引いたのと似てゐる。姦吏法を舞(まは)し、猾民令を欺く時代には、韓非の書も済世の用をなす。諸葛亮が蜀の後主に勧めてこれを読ましめた所以である。偏補の俗習盛んに行はるれば、従正終(つひ)に廃すべからずと云ふのである。
 張従正、字(あざな)は子和(しわ)、□州(すゐしう)考城の人、金大定明昌の間医を以て聞え、興定中太医に補せられた。我源平の末、鎌倉の初に当る。其書を儒門事親と名づけたのは、「惟儒者能明辨之、而事親者、不可以不知」と云ふにある。
 蘭軒の集には人日後春季の詩が五首ある。わたくしは此に「三月尽」の一絶を抄する。蘭軒がいかに此春を過したかを知る便(たつき)となるものだからである。「従来風雨祟花時。梅塢桃村緑稍滋。纔是出遊両三度。今朝徒賦送春詩。」蘭軒は少くも両三度の出遊を作(な)すことを得たと見える。
 夏に入つて四月十二日に蘭軒の妾(せふ)佐藤氏さよが一女子を挙げた。名は順と命ぜられた。饗庭篁村さんの所蔵に菅茶山尺牘の断片がある。茶山が順の生れたことを聞いて書いたものである。
「特筆。」
「先比(さきころ)は吾兄医はもとのごとく、別に儒者被仰付候由奉賀候。御格禄も殊なり候よし、これも被仰下度候。又御女子御出来被成候よし奉賀候。王百穀が七十にて男子をまうけし時、袁中郎が書に老勇可想とかきたるを以みれば、吾兄は病勇可畏などと申上べきや。これらの語□斎へは御談可被下候。尊内人、令郎君、おさよの方へも宜奉願上候。晋帥。」
 前年己卯十一月の儒者の任命と、此年孟夏の女子の誕生とを聞知した時の書である。断片には日附が闕けてゐる。毎に「おさよどの」と云ひ、又単に「おさよ」とも云つた茶山が今「おさよの方」と書した。亦諧謔の語である。

     その百七

 此年文政三年の五月、蘭軒は医心方の跋を作つた。医心方の影写は文化十四年丁丑に始まり、此年三月に終つた。即殆三年を費した事業である。
 丹波康頼(やすより)は後漢の霊帝十三世の孫である。康頼八世の祖が日本に帰化して大和国檜隈郡(ひくまのこほり)に居つた。六世の祖に至つて丹波国矢田郡に分れ住んだ。康頼に至つて丹波宿禰の姓を賜はつた。これが世系の略である。此康頼が円融天皇の天元五年に医心方三十巻を撰び、永観二年十一月二十八日にこれを上(たてまつ)つた。
 医心方は世(よゝ)秘府(ひふ)に蔵儲せられてゐた。そして全書の世間に伝はつたのが安政元年十一月十三日であつたことは、嘗て渋江抽斎の伝に記した如くである。是より先正親町天皇の時、典薬頭半井瑞策(なからゐずゐさく)が秘府より受けて家に蔵することとなり、其裔孫(えいそん)広明(ひろあき)に至つて出して徳川氏に呈したのである。
 然るに安政の「医心方出現」に先だつて、別に仁和寺本と称する一本があつた。そしてその秘して人に示さぬことは、半井本と殊なることがなかつた。寛政三年、即多紀氏の躋寿館(せいじゆくわん)が私立より官設に移された年に、躋寿館は此仁和寺本を影写して蔵することを得た。
 仁和寺本は残脱の書であつて、後に出でた半井本に比すべきではなかつたが、当時の学者はこれだに容易には窺ふことを得なかつたのである。そしてその偶(たま/\)鈔写することを得たものは、至宝として人に誇つた。それは下(しも)の如きわけである。
 六朝から李唐に至る間、医書の猶存するものは指を※(かゞな)[#「てへん+婁」、7巻-218-下-5]ふるに過ぎない。然るに隋唐経籍志に就いて検すれば、佚亡の書の甚多いことが知られる。それゆゑせめては間接に此時代の事を知らうといふ願望が生ずる。これは独り医家を然りとするのみでは無い。考古学者と雖亦同じである。
 幸に外台秘要(ぐわいたいひえう)と云ふ書がある。唐の王□(わうたう)の著す所である。□は珪の孫で、新唐書王珪の伝の末に数行の記載がある。此書は引用する所が頗(すこぶる)広いので、文献の闕を補ふに足るものである。只憾むらくは宋代の校定を経来り、所々字句を改易せられてゐる。新唐書に拠れば、「討繹精明、世宝焉」と云つてあつて、当時既に貴重の書であつた。宋人の妄(みだり)に変改を加へたのは慮(おもんぱかり)の足らなかつたものである。題号の外台は、徐春甫が「天宝中出守大寧、故以外台名其書」と云つた。これは朝野類要の「安撫転運、提刑提挙、実分御史之権、亦似漢繍衣之義、而代天子巡狩也、故曰外台」と云ふと同じく、外台を以て地方官の義となしたのである。しかし□は自序に、「両拝東掖、便繁台閣二十余歳、久知弘文館図書方書等、□是覩奥升堂、皆探秘要云」と云つてある。是に由つて観れば、魏志王粛伝の註に薛夏(せつか)の語を引いて、「蘭台為外台、秘書為内閣、台閣一也」と云ふが如く、所謂外台は即台閣ではなからうか。これは多紀桂山の考証である。
 外台秘要が既に旧面目を存せぬとすると、学者は何に縁(よ)つて李唐以上の事を窮めようぞ。只一の医心方あるのみである。蘭軒はかう云つてゐる。「康頼編此書。其所引用百余家。皆六朝及唐代之書。而且有経籍志不録者。王氏書不載者数十家。而其見存之書。亦体裁字句。間有大異。按皇朝往昔。通信使於唐国。留学之徒。相継不絶。二百有余年。而所齎来載籍。即当時之鈔本。所直得於宮庫或学士。非如趙宋而降。仮工賈之手。以成帙者也。康頼蓋資用於此。故皆是原書之旧。而所以異於見存者也。」

     その百八

 蘭軒は医心方を影写するに、島武(たうぶ)と云ふものの手を倩(やと)つた。そして自らこれに訓点を施した。島武は或は彼の儒門事親を写した高島信章と同人ではなからうか。跋にかう云つてある。「右丹波康頼医心方廿本。借之多紀氏聿脩堂。友人島武為余影鈔。如其旁訓朱点。乃余手鈔写焉。以青筆者。桂山先生之標記也。以朱筆抹旁者。余自便於捜閲人名与書目也。」わたくしはこれを読んで、蘭軒に「集書家」の目(もく)を与ふることの或は妥(おだやか)ならざるべきを思ふ。蘭軒は書を集むるを以て能事畢るとなしたものではない。その校讐に労すること此の如くであつた。しかも所謂校讐は意義ある校讐であつた。又其書を活用せむがための校讐であつた。
 此年文政三年の夏、集中に詩四首が載せてあつて、其二は福山に還る人を送る作である。一は鈴木圭輔(すゞきけいすけ)、一は馬屋原伯孝(まいばらはくかう)である。
「送鈴木先生圭輔還福山」の詩はかうである。「分手不須歎索居。帰程行装寵栄余。芸窓占静校新誌。華館侍閑講尚書。月朗鴨川涼夜色。濤高榛海素秋初。到来応是推儒吏。恰似倪寛得美誉。」圭輔が儒を以て阿部家に仕へたものであることは、詩が既に自ら語つてゐる。
 しかしわたくしは圭輔の事を今少し精(くは)しく知りたく思つた。菅茶山の集には鈴圭輔(れいけいほ)と書してある。渡辺修次郎さんの阿部正弘事蹟には、「正精(まさきよ)の時、村上清次郎、菅太仲、鈴木圭輔、北条譲四郎(中略)皆藩の儒員たり」と記してある。只それだけである。わたくしは浜野知三郎さんを煩はして検してもらつた。
 鈴木圭、字(あざな)は君璧(くんへき)、宜山(ぎざん)と号した。通称は初め圭雲、中ごろ圭輔、後徳輔である。天明八年「儒医之場へ被召出、弘道館学術世話取並御屋形御講釈、」寛政二年「御医師本科、」七年「眼科兼、」十年「儒医、」享和二年「上下格(かみしもかく)御儒者、」文化六年「奥詰、」十年「御使番格、」文政二年「江戸在番、」三年「大御目付被仰付、奥詰並御家中学問世話是迄之通、」七年「御儒者、」十年「奥詰、」天保二年「江戸在番、」以上が官歴の略である。
 圭輔の召し出されたのは天明八年、茶山は寛政四年である。府志の編纂、阿部神社の造営は、二人が共に勤めた。
 圭輔は江戸在番を命ぜらるること二度であつた。初は文政二年に入府し、三年に大目附にせられて在番を免ぜられた。「六月十七日帰郷之御目見」と云つてある。これが蘭軒の詩を贈つた時である。後の入府は天保二年で、三年に帰つた。
 圭輔は天保五年九月二十六日に、六十三歳で歿した。墓は東町洞林寺にあつて、篠崎小竹が銘してゐる、子卓介が後(のち)を襲(つ)いだ。後秉之助(へいのすけ)と云ふ。名は秉、字は師揚(しやう)、号は篁翁(くわうをう)、小竹の門人である。明治十七年一月十二日に歿した。
 次に「馬屋原伯孝将還福山、因示一絶」の詩はかうである。「読書万巻一要醇。学不如斯医不神。斗火盤冰方是癖。勝於岐路逐羊人。」馬屋原伯孝(まいばらはくかう)の何人なるかは、わたくしは毫も知らぬので、これも亦浜野氏に質(たゞ)した。そして伯孝の蘭軒の門人であるべきことが略(ほゞ)明なるに至つた。蘭軒が贈るに訓誨の語を以てした所以であらう。

     その百九

 此年文政三年の夏、鈴木宜山(ぎざん)に次いで、江戸から福山へ帰つたものに、馬屋原伯孝があつて、蘭軒がこれにも贈言(ぞうげん)したことは、前に云つた如くである。
 わたくしは手許にある文書を検した。そして蘭軒の門人録に一の馬屋原周迪(しうてき)があることを発見した。伯孝と周迪とは均(ひと)しく馬屋原を氏として、均しく蘭軒に接触した人である。しかも伯孝は福山に帰つた人で、周迪の名の下(しも)にも福山と註してある。わたくしはその或は同一の人物なるべきを推した。
 しかしわたくしは既に羮(あつもの)に懲りてゐる。曩(さき)にわたくしは太田孟昌の名を蘭軒の集中に見、又伊沢氏の口碑に太田方(はう)の狩谷□斎の門人なることを錯(あやま)り伝へてゐるのを聞いて、二者の或は同一人物なるべきを思つた。然るに方、字(あざな)は叔亀(しゆくき)は父で、周、字は孟昌は子であつた。それゆゑわたくしは過を弐(ふたゝ)びせざらむがために、浜野知三郎さんを労するに至つた。浜野氏のわたくしに教ふる所は下の如くであつた。
 菅茶山等の編した福山志料第十二巻神農廟の条にかう云ふ記事がある。「福山の町医馬屋原玄益(げんえき)なるもの、享保廿一年神農の像を彫刻し、封内の医師五十人と相はかり再建し侍り。」これが医師馬屋原氏の書籍に記載せられた始である。
 阿部家の医官馬屋原氏は世(よゝ)玄益と称した。初代が玄益寧成(ねいせい)、二代が玄益順成(じゆんせい)、三代が玄益成美(せいび)である。寧成は安永十年に表医師に召し出だされ、寛政元年に歿した。福山志料の町医玄益は此寧成か、或は其父かであらう。順成は其後を襲(つ)いで表医師となり、文化九年奥医師に進み、文政十一年に歿した。成美は文政元年に出仕を命ぜられ、四年に表医師となり、十年に医学世話を命ぜられ、十一年に順成の後を襲ぎ、十二年に奥医師となつた。
 然るに二世順成には弟があつて、一旦順成の養嗣子となつたが、早く文化元年に歿した。其名が周山世成(しうざんせいせい)であつた。三世成美は叔父(しゆくふ)の死んだために家を継ぐこととなつた。其初の名は周迪成美であつたと云ふのである。
 是に於て蘭軒の門人周迪が三世玄益成美だと云ふことが明になつた。按ずるに成美は出仕を命ぜられた後に、江戸へ修業に来て文政三年の夏福山に還り、四年に表医師を拝したのであらう。
 果して然らば周迪成美の伯孝たることは、復(また)疑ふことを須(もち)ゐぬであらう。馬屋原成美、字は伯孝、初め周迪と称し、後恕庵と改め、又父祖の称玄益を襲いだ。医を蘭軒に学んで、福山に於て医学世話を命ぜられたのである。わたくしの此証左を得たのは浜野氏の賚(たまもの)である。
 此年庚辰の秋は、蘭軒の集に詩六首がある。八月は十三日に雨が降つた。蘭軒は友と湯島の酒楼に会し、韻を分つて詩を賦した。「八月十三日雨、飲湯島某楼、分韻得麻」の七律がある。十五日は晴であつた。「中秋」の七絶に「夜色冷凄軽靄収、満城明月好中秋」の句がある。茶山の集には此日詩三首がある。暦(れき)が社日に当つてゐたこと、隣郷に放生会があつて、神辺(かんなべ)の街が賑つたこと、木星が月に入つたこと等が知られる。「忽覩一星排戸入。得非后□覓妻来。」一星は木星である。九月には蘭軒に唯一詩の録すべきものがある。それは月日を徴すべき作で、しかも其事が頗る奇である。「九月七日即事。吟味値秋方覚奇。菊花香浅点疎籬。忽然有客来催債。想得満城風雨詩。」

     その百十

 此年文政三年冬の半に、蘭軒の姉幾勢(きせ)が記念すべき事に遭遇した。仕ふる所の黒田家未亡人幸子(さちこ)が、十一月二十四日に六十三歳で歿したのである。既に云つた如く、此主従の関係は中島利一郎さんの手を煩はして纔(わづか)に明にすることを得たものである。
 幸子、初め亀子と云つた。越後国高田の城主榊原式部大輔政永の女(ぢよ)、黒田筑前守治之(はるゆき)の室である。治之は是より先天明六年十一月二十一日に福岡で卒し、崇福寺に葬られた。
 伊沢分家の伝ふる所に拠れば、幾勢は八歳にして夫人に仕へたさうである。然らば安永七年幸子二十一歳の時である。次で十八歳にして一たび暇(いとま)を乞ひ、旗本坪田三代三郎(みよさぶらう)と云ふものに嫁して子をも生んださうである。然らばその暇を乞うたのは天明八年で、幸子の夫治之が卒した後二年である。既にして幾勢は再び黒田家の奥に入り、前(さき)の主に仕へ、祐筆を勤め、又京都産(うまれ)の女中二人と偕(とも)に、常に夫人の詠歌の相手に召されたさうである。然らば幾勢の再勤は早くても寛政二年幸子三十三歳の頃である。幾勢は当時二十歳になつてゐた筈である。伊沢良子刀自は幾勢が晩年の手紙一通を蔵してゐる。「正宗院」と署し、宛名を「伊沢磐安殿御うもじ殿」としてある。年次は不明であるが、歳暮の祝儀が言つてある。「うもじ」は内歟(うちか)。即柏軒の妻狩谷氏俊子(しゆんこ)であらう。わたくしは此手紙に由つて幾勢の能書であつたことを知つた。祐筆を勤めたと云ふ口碑がげにもと頷かれる。
 幾勢は主の喪に逢つた時、正に五十歳になつてゐた。榊原氏幸子は天明六年より三十五年間寡婦生活をなしてゐたもので、そのうち少くも三十一年間は幾勢がこれと苦楽を共にしたのである。
 幸子は既に卒して、法諡(はふし)を瑤津院殿瓊山妙瑩大禅尼と云ひ、祥雲寺に葬られた。幾勢は再び仕ふるに当つて、所謂一生奉公を為し遂げむことを期してゐたので、此時に至つて暇を乞ふことを欲せなかつた。そこで彼京都産の女中二人と共に剃髪して黒田家に留まり、瑤津院の木位に侍することとなつた。
 黒田家では三人のために一軒の家を三室にしきり、正宗院等三人の尼を住はせた。正宗院は幾勢が薙染後(ちせんご)の名である。因(ちなみ)に云ふ。幾勢の墓には俗名世代(せよ)と彫(ゑ)つてある。世代は恐くは黒田家の奥に仕へた時の呼名であつただらう。当時市人は正宗院等の家をお玉が池の比丘尼長屋と称した。
 此冬蘭軒の集に詩四首がある。其中歳晩に無名氏の詩を読んで作つたと云ふ七絶がある。無名氏の詩に曰く。「節臘都城人語囂。何知貧富似風潮。近来一事尤堪怪。斗米三銭歎歳饒。」蘭軒の詩に曰く。「四十余年戯楽中。老来猶喜迎春風。請看恵政方優渥。一邸不知歳歉豊。」前詩は年(とし)豊(ゆたか)にして米(こめ)賤(いやし)きを歎じ、後詩は年の豊凶と米価の昂低とに無頓着であるものと聞える。
 頼氏では此年山陽の次男辰蔵が生れた。一に辰之助とも云つてある。聿庵(いつあん)の弟、支峰の兄で、里恵の始て生んだ男児である。山陽は喜んで母に報じた。「家書新有承歓処。報向天涯獲一孫。」しかし辰蔵は後僅に六歳にして夭扎(えうさつ)した。宗家を嗣いだ聿庵は此年戸田氏を娶つた。

     その百十一

 菅茶山は此年文政三年に書を某に与へて、蘭軒に言伝(ことつて)をしたが、某の名も知れず、書を作つた月日も知れない。饗庭篁村(あへばくわうそん)さんの所蔵の此書牘の断片は下(しも)の如きものである。「歳旦の詩二首、去年の作一首、辞安へ必ず御見せ可被下候。これもよほど快く候よし、病はすこしいゆるに加はると申こと、かの性悪先生之語也。きつと御慎被成よと、御申可被下候。これは書状に申遣候筈なれども、人を媒(なかだち)にして申が却而(かへつて)こたへ宜候哉。私詩をほらせくれよと書肆のぞみ候。しかし詩は前の集よりも人ずきあしくなり候覧、心はあがり候へども人の好みには遠くなり候覧と奉存候。辞安開板せよとすゝめ候へども二の足をふみゐ申候。また/\御商量可被下候。つがるや市のや両三右衛門時々御逢被成候哉、いづれもおもしろき人物に候。御次(おんついで)もあらば宜御つたへ可被下候。土屋七郎相果候由、おもひもよらぬ事に候。」
 断片は剪刀(はさみ)で截り取つたものである。某が截り取つて蘭軒に示したのであらう。その此年の書牘たることは、「新年の詩二首」と云ふを以てこれを知る。前年己卯には元日に七絶一首を作り、次年辛巳には五古一首を作つたのに、独り此年庚辰には七律二首を作つてゐるからである。書を裁した月日は知れぬが、歳首の詩を添へたとすれば、春の初であつただらう。刊行せしめむとして「二の足をふみゐ申候」と云ふ詩集は、黄葉夕陽村舎詩後編である。これは次年十二月に至つて刻成せられた。わたくしは茶山の自ら評した語を見て、其藝術的良心を尊重する。此年の「雪日」七律の七八を参照すべきである。「衰老但知詩胆小。一聯慚踏古人蹤。」蘭軒と共に混外(こんげ)を訪ひ、又曾て頼春甫に交つた土屋七郎の死が此断片に由つて知られる。茶山のこれを書いたのが此年の初春だとすると、七郎は前年己卯に歿したことであらう。
 文政四年の元旦には、蘭軒の詩に生計の太(はなは)だ裕ではなかつた痕が見える。「辛巳元日作。昨来家計説輸贏。纔迎新年心自平。椒酒酔余逢客至。先評花信品鶯声。」人生は猶瘧(ぎやく)のごとくである。熱来れば呻吟し、熱去れば笑歌する。わたくしは去つて菅茶山のこれに処する奈何(いかん)を顧みる。「元日。一年始今日。転瞬已昏鴉。三百六十日。例当如此過。吾年七十四。所余知幾多。不如決我策。閑行日酔歌。」貧が蘭軒の心に□繞(えいぜう)する如くに、老が茶山の心を擾乱する。偶(たま/\)節物の改まるに逢つて、二人は排除の力に一策励を加へてゐたのである。
 例年の「豆日草堂集」には、其前日に高束(たかつか)応助と云ふものが梅花を贈つたので、それを瓶(へい)に插した。「佳賓満堂供何物。独有梅花信不違。」高束応助とは誰であらうか。後に蘭軒の女(ぢよ)長(ちやう)の嫁する先手与力井戸翁助と云ふものがある。蘭軒は翁助と書してゐるが、親類書には応助に作つてある。その或は同人なるべきをおもつて、徳(めぐむ)さんに質した。しかし異人であつた。集中の春の詩は以上二首のみである。
 三月には蘭軒の二子が阿部侯正精(まさきよ)の賞詞を受けた。勤向覚書に曰く。「三月十一日悴良安医学出精仕、御満足被思召候御意奉蒙候。同日次男盤安去年中文学出精之段達御聴御満足思召候段奉蒙御意候。」良安は榛軒信厚(のぶあつ)、盤安(はんあん)は柏軒信重で、彼は十八歳、此は十二歳である。

     その百十二

 蘭軒の二子榛軒柏軒は、上(かみ)に云つた如く、此年文政四年三月十一日に阿部侯正精の賞詞を受けた。
 歴世略伝に拠るに、是より先榛軒は狩谷□斎、松崎慊堂(かうだう)に就いて経を受け、父蘭軒、多紀□庭(さいてい)、辻本□庵(しゆうあん)、田村元雄(げんゆう)に就いて医学諸科を修めた。柏軒が経学の師も亦□斎である。
 □斎も慊堂も既に退隠後年を経てゐた。その蘭軒の二子に教へたのは、皆退隠後の事であらう。□斎が文化十四年に四十三歳で浅草の常関(じやうくわん)書屋に移り、湯島の店を十四歳の懐之(くわいし)に譲つたことは、上に云つた如くである。慊堂の事はわたくしは未だ深く究めてゐない。しかし塩谷宕陰(しほのやたういん)撰の行状に拠るに、慊堂は明和八年辛卯の生である。その掛川に仕へたのが享和二年三十二歳の時である。その肥後の聘を却(しりぞ)けて骸骨を乞うた時、「吾帰于此十年、所天三喪、不可以移矣」と云つてゐる。享和二年より十年とすると、文化八年で、慊堂は四十一歳である。慊堂が羽沢(はねざは)の石経山房に入つたのは即此年であらう。所謂「所天三喪」は、太田備中守資愛(すけちか)、摂津守資順(すけのぶ)、備後守資言(すけとき)であらう。資言は文化七年八月十一日に卒し、嗣子が無かつたので、宮川の堀田家から養子丈三郎が迎へられたのである。行状に「其嗣公之自宮川来続也、先生密疏言事、事秘不伝」と書してある。
 わたくしは榛軒が何歳を以て就学したか知らない。権(かり)に十四歳を以てしたとすると、恰も好し□斎が常関書屋に隠れた時である。榛軒は新に湯島の店の主人となつた□斎の子懐之と同庚であつた。
 柏軒の鉄三郎が□斎退隠後の弟子たることは、疑を容れない。幼年の間鉄三郎は恐くは父に句読を受けてゐたであらう。しかしその文学出精と云ふを以て、夙(はや)く十二歳にして正精の賞詞を受けたことを思へば、少くも一二年前から師を外に求めてゐたであらう。そして其師は即ち□斎であつた。
 榛軒と慊堂とは、わたくしは何時始て相見たか知らない。姑(しばら)く榛軒は□斎に従学すると同時に、慊堂にも従学したとすると、当時□斎は四十三歳、慊堂は四十七歳であつた。慊堂は羽沢にあること既に七年になつてゐた。
 此年の夏の初には、狩谷□斎が京都に往つてゐた。これは□斎が初度の西遊では無い。しかしわたくしは是より先其遊蹤(いうしよう)を尋ねようとしてゐながら、遂に何の得る所も無かつた。そこで三村清三郎さんに問うた。三村氏は古京遺文に□斎が仏足石の事を言つて、京遊云々の語をなしたことを記憶してゐて、わたくしに告げ、又好古小録、好古日録に就いて索(もと)めたなら、其形跡が得られようと云つた。
 わたくしは再び書を三村氏に寄せて、□斎の自ら語つた京遊云々の事を詳(つまびらか)にしようとした。三村氏はわたくしのために書を検する労を辞せなかつた。わたくしは此に其復柬中考証に係るものを節録する。
「既に古京遺文仏足石の条にも、余親至西京、経七日之久、精撫一本云々と御座候。遺文は文政元年之序候へど、(再校之節補入と疑へばともかく、普通にては)是れ以前之西遊を証せられ申候。扨好古小日録之填註を精査候処、大分詳細に相成候間、左に申上候。」
 書牘はこれより無仏斎が二著の抄録に入る。

     その百十三

 狩谷□斎の西遊にして、此年辛巳以前に係るものは、これを三村氏の抄録中に索(もと)むるに、下(しも)の如くである。
「好古日録永仁古文孝経の条に□斎云。寛政二年京師書肆竹苞楼(ちくはうろう)にて観(みる)。」
「同春秋左氏伝の条に□斎云。寛政二年山田以文の家にて観る。押小路外史の家蔵也。」
「好古小録鴨毛屏風(あふまうへいふう)の条に□斎云。寛政九年三月観。」
「同薬師寺魚養大般若経、大安寺縁起、志義山毘沙門縁起、来迎寺所蔵十界図の条に□斎云。文政二年四月観。」
「同覚融勝画の条に□斎云。文政二年四月京師の商家にて観。」
「同仏鬼軍の条に□斎云。京寺町十念寺蔵文政二年五月観。(下略。)」
 以上寛政二年、九年、文政二年の三度、□斎は京都に往つたらしく見える。即ち十六歳、二十三歳、四十五歳の時である。
 此に一の留意すべき事がある。それは第三次文政二年の入京である。果して□斎が此旅をなしたとすると、それは余程遽(あわた)だしい旅であつたと見なくてはならない。
 何故にさう云ふかと云ふに、菅茶山は文化十四年に「□斎西遊之志御坐候よし、これは何卒晋帥が墓にならぬうちに被成よと御申可被下候」と、蘭軒に嘱した。越えて文政二年に□斎は入京した。そして茶山が神辺にあつて待つてゐるにも拘らず、往いてこれを訪ふことなしに、京都から踵(くびす)を旋したこととなる。己卯には□斎の神辺に往つた形迹が絶無だからである。
 是よりわたくしは此年辛巳の旅を記さうとおもふ。□斎は文政四年に江戸より木曾路を経て京都に入つた。入京の日は四月八日であつた。
 十五年前に蘭軒は同じ街道を京都に往つた。そしてその京に著いたのは発程第十七日であつた。仮に□斎が同じ日数を同じ道中に費したものとすると、□斎の江戸を発した日も、略(ほゞ)推知することが出来る。暦(れき)を閲(けみ)するに文政四年には三月が大、四月が小であつた。今四月八日を以て第十七日とするときは、溯つて第一日に至つて三月二十二日を得る。□斎は概ね三月二十日頃に江戸を立つたものと見て大過なからう。
 □斎の江戸より京都に至る間、月日の詳(つまびらか)にすべきものが只二つある。其一は三月二十六日に和田駅を過ぎたことである。其二は四月朔(ついたち)に見戸野々尻(みとののしり)を過ぎたことである。
 蘭軒は旅行の第六日に上和田下和田を過ぎた。□斎が二十日に上途(しやうと)したとすると、二十六日は第七日となる。次の「見戸野々尻」は三富野(みとの)、野尻であらう。蘭軒は第十日に野尻を経た。□斎の旅の四月朔は第十一日となる。日程は大抵符合するやうである。
 □斎は京都に着いて、福井榕亭(ようてい)を訪ひ、稲荷祭、御蔭祭を観て、十四日に書を蘭軒に寄せた。此書牘が文淵堂所蔵の花天月地(くわてんげつち)中に収めてある。わたくしは下に其全文を写し出さうとおもふ。

     その百十四

 狩谷□斎が此年辛巳四月十四日に京都から蘭軒に寄せた書牘はかうである。
「追日向暑、倍(ます/\)起居御安和可被成御座奉恭賀候。京都総而(そうじて)静謐、僕等本月八日入京仕候。途中雨少(すくな)にて、僅一両日微雨に逢候而已(のみ)、只入京之日半日雨降申候。」
「上州長尾春斎(草屋の弟子)世話にて、神亀之古碑共一覧、其後多胡碑(たごのひ)も観申候。」
「木曾桜□□(やまぶき)殊妙、其外花盛に御座候而驚目申候。総而木曾之山水、豚児輩感心仕候。僕も一昨年より増り候様に覚申候。御紀行毎夕読候而御同行仕候様に奉存候。乍去余程涼気にて、日限延引を却而悦申候。和田駅(三月廿六日)など綿衣四襲位之事に御座候。乍然暑中よりは歩行致能御座候。尤一人も駕籠馬の力を借り不申候。(日程七八里故。)朔日(ついたち)(四月)見戸野々尻辺花猶盛に而珍しく、歌あり。花の香ををしむのみかは谷風にころもかへうき木曾の山道。御笑可被下候。今朝抜た綿ではないか谷ざくら。松宇君へ御つたへ可被下候。」
「福井へ尋申候。甚よく遇せられ、昨年断被申候事途中之間違のよし等被申候。何より以家屋園池之結構、小障子一枚といへども、一草一礫といへ共、みな/\心を用ひ、額聯之数は黄檗山より多く、すきま/\はアンヘラにてはりつめ、中々千金二千金之用途にて作り候物に無之、露台、庭の檻(てすり)、朱緑間錯、釣燈籠凡三百にあまり申候。実に田舎漢(でんしやかん)の京の門跡を始而見候より驚申候。但し工(たくみ)ときたな細工とを以組詰たるものにて、僕など三日も右之家に居候ものならば、大病に相成候事相違有之まじく被存候。此後数度参候而珍蔵乞可申所存に候へども、但右之一儀に迷惑いたし居申候。」
「稲荷祭。」
「御蔭祭。」
「古雅結構、面(おもしろ)き事に御座候。(森云。面の下原文白字を脱す。)土佐画の画工等、或は社頭の式を観(み)をみる人あり。(森云。をみ二字衍文。)或は路中行装を観(みる)もの有、洛東にて騎馬音楽有之、此所へ来りみるもの有。御蔭森御旅所にて、音楽神供を観するもの有。江戸人と違心を用候事感心いたし候。」
「右之帰路小野毛人墓(をのけひとのはか)へ参り申候。石槨ふた土上に現れ出(八尺に五尺ほど)有之、内には右之蓋石取除見候へば、小礫を以てつめ有之候。果して右之内に墓志有之事と被存候。八瀬小原辺にて甚幽邃なる山上に御座候。」
「此日御蔭山(これさへ此度はじめて参りし也)より廻りし所、茶屋等一向無之、饑(うゑ)甚し。人窮する時驚人之句あり。肥(こえ)し身の我大はらもひだるさにやせ行やうにおもひけるかな。此一条皆川へ御話可被下候。」
「今日迄両三輩づゝ朝夕書林も参候所、手に取てみる様なる本者(ほんは)一冊といへ共無之候。」
「一切経音義は頼申候。義疏と内経はいまだ見当り不申候。明日坂本山王祭、明々後日葵祭拝見候て、南都へ一先罷越可申と存居候。猶後便可申上候。頓首。四月十四日。狩谷望之。蘭軒先生御前。」

     その百十五

 此辛巳四月十四日の狩谷□斎の書を読んで、最初にわたくしの目を留めたのは、木曾の景を叙して、「一昨年より増り候様に覚申候」と云つてある事である。三村氏の考証した文政二年の旅が此句に由つて確保(かくはう)せられる。□斎は二年己卯に京都へ往つた。しかもその木曾路を経て西したことさへ知ることが出来る。□斎は己卯に京までは往つたが、更に南下して菅茶山を神辺に訪ふことをばせずに已んだのである。茶山は□斎の西遊を慫慂(しようよう)して、「長崎は一とほり見ておきたき処也」と云つた。想ふに□斎は入京数度に及びながら、京よりして南下するには及ばなかつたのであらう。少くも丁丑前には九州の地をば踏まなかつたことが明である。
 □斎は木曾路を行くのに、十五年前の蘭軒の紀行を携へてゐて、且読み且行つた。「御紀行毎夕読候而御同行仕候様に奉存候」と云つてある。或は二年前の旅にも持つて行き、此度の旅にも持つて行つて、反覆翫味したかも知れない。紀行の繕写せられたのは、己卯よりは早かつた筈だからである。
 □斎の此書牘には、千載の後に墓を訪はれた小野妹子の子、毛野の父毛人よりして外、五人の人物が出てゐる。第一は□斎の子懐之である。
 □斎は此旅に倅懐之を連れて行つた。「総而木曾の山水豚児輩感心仕候」と云つてある。「豚児」懐之は此年十八歳であつた。□斎の始て京に上つたのが寛政二年十六歳であつたとすると、懐之の初旅は遅るること二歳であつた。
 第二は□斎に神亀の古碑を見せた上野の人長尾春斎である。「草屋の弟子」と註してある。世間若し草屋春斎の師弟を知つた人があるなら、敢て教を請ふ。
 第三は福井榕亭である。名は需、字(あざな)は光亨(くわうかう)、一の字は終吉(しゆうきつ)、楓亭の子にして衣笠(いりつ)の兄である。榕亭は前年庚辰に□斎が何事をか交渉した時、すげない返事をした。しかし今親く訪はれては、厚遇せざることを得なかつた。そして前年の事をば「途中之間違」として謝した。□斎の書牘には榕亭の第宅(ていたく)庭園が細叙してある。その結構には詩人の所謂堆□(たいた)の病がある。「僕など三日も右之家に居候ものならば、大病に相成候事相違有之まじく被存候。」説き得て痛切を極めてゐる。わたくしなども此種の家に住んでゐる人二三を知つてゐる。それゆゑ□斎の書を読んで、わたくしの胸は直ちにレゾナンスを起すのである。兎に角□斎の筆に由つて、福井丹波守の懐かしくない一面が伝へられたのは、笑止である。
 第四は□斎が木曾の俳句「今朝抜た綿ではないか谷ざくら」を見せようとした松宇である。蘭軒集中に出てゐる真野松宇であらう。第五は□斎が八瀬小原の狂歌を見せようとした皆川である。蘭軒集中に出てゐる皆川叔茂(しゆくも)であらう。此に藉(よ)つて松宇には俳趣味、叔茂には狂歌趣味のあつたことが推せられる。わたくしは此に今一つ言つて置きたい事がある。それは八瀬小原の狂歌がわたくしに□斎の相貌を教へたことである。此歌より推せば、□斎は一箇の胖大漢で便々たる腹を有してゐたらしい。しかし三村清三郎さんは□斎が美丈夫であつたと云ふことを聞き伝へてゐるさうである。然らば所謂かつぷくの好い立派な男であつたのだらう。

     その百十六

 狩谷□斎は辛巳西遊の途上、木曾で桜の句を得て、これを蘭軒に与ふる書中に記し、松宇に伝へ示さむことを嘱した。
 わたくしは※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-234-上-7]詩集の戊寅の作中、蘭軒が真野松宇の庭の瞿麦(なでしこ)を賞したことを憶ひ出した。そして□斎の謂ふ松宇は此真野松宇であらうと云ひ、又□斎が特に其俳句を示さうとしたことより推して、松宇は俳趣味のある人であつただらうと云つた。
 わたくしが前記の文稿を郵便に附し去つた時、忽ち一の生客があつて刺を通じた。刺には「真野幸作、下谷区箪笥町一番地」と題してある。わたくしは奇異の念(おもひ)をなして引見した。幸作さんは松宇の孫で、わたくしに家乗の一端を語つた。
 幸作さんの高祖父を鼎斎と云つた。名は甘匹(かんひつ)、字(あざな)は子由、一に西巷と号した。鼎斎の子竹亭、名は茂竜、字は子群、通称は徳弥が阿部侯正右(まさすけ)に仕へた。即ち幸作の曾祖父である。
 竹亭は元文四年に生れ、寛延三年十二歳にして元服し、宝暦五年に、十七歳にして正右の儒者にせられた。わたくしは此に先づ正右の世に於ける竹亭の履歴を摘記する。宝暦九年二十一歳、大目付触流。十二年二十四歳、群右衛門と改称した。
 明和六年に阿部家に代替があつた。以下は正倫(まさとも)の世に於ける履歴である。安永元年冬、竹亭は三十四歳にして江戸勤を命ぜられ、十一月十五日に福山を発した。九年四十二歳、世子正精(まさきよ)侍読。天明七年四十九歳、十一月奥勤。八年五十歳、世子四書五経素読畢業。寛政元年五十一歳、伊勢奉幣代参。二年五十二歳、大目付格。系図調に付金三百疋下賜。四年五十四歳、世子四書講釈畢業。享和二年六十四歳、門人柴山乙五郎召出、儒者見習。
 享和三年には又代替があつた。以下は正精の世に於ける履歴である。文化元年、竹亭六十六歳、読書御用。二年六十七歳、熈徳院(きとくゐん)石槨蓋裏雕文(せきくわくがいりてうぶん)作字(さくじ)。熈徳院は正倫の法諡(はふし)である。六年七十一歳、四月二十日出精に付金五百疋。十一年七十六歳、霊台院石槨蓋裏雕文作字。霊台院は上(かみ)に云つた如く、正倫の継室津軽信寧(のぶやす)の女(ぢよ)、比左子である。十四年四月十二日、竹亭は七十九歳にして歿した。
 竹亭の遺した無題簽の一小冊子がある。中に菅茶山、太田全斎、頼杏坪等と交つた跡がある。竹亭は彼□州牽牛子(けにごし)をも茶山の手から受けた。「菅太中遙贈牽牛子種。謂此□州所産。花到日午猶不萎。乃蒔見花。信如所聞。遂賦一絶寄謝。牽牛異種異邦来。駅使寄投手自栽。紅日中天花未酔。籬頭猶□琉璃杯。」甲子の歳に茶山の江戸に来た時、竹亭は公退の途次其病床を訪うた。蘭軒が菜花を贈つた比の事である。其席には杏坪が来てゐた。「甲子二月下直、過菅太中僑居問疾、邂逅于藝藩頼千祺、観其餞辛島伯彜還西肥之作、席上□韻示千祺、用進退韻。相遇還歎相遇遅。風騒如涌筆如飛。青年令聞徒翹慕。白首仰顔交喜悲。退食過門朝問疾。高談前席※[#「日+干」、7巻-235-下-8]忘帰。寄書伯氏為伝語。官脚広陵報信時。自註、伯氏弥太郎也、頼惟寛、字千秋、其仲頼惟疆、字千齢。」太田全斎のためには、竹亭が詩を其日本輿地図に題した。「題太田方日本輿地図。一摺輿図万里程。東漸西被属文明。五畿七道存胸臆。六十八州接眼睛。彩色辨疆如錦繍。針盤記度似棋□。越都歴険無糧費。看愛臥遊楽太平。」宛然たる明治大正詩人の口吻である。
 竹亭の子松宇は名を頼寛(らいくわん)と云つて、俳諧を嗜(たし)んだ。松宇の子兵助は喜多七大夫の門に入つて、能師となつた。兵助の子が即ち我客幸作さんである。

     その百十七

 蘭軒は京に往く狩谷□斎に書を買ふことを託したので、□斎は此辛巳四月十四日の簡牘の末に訪書の消息を語つてゐる。蘭軒のあつらへた書は一切経音義、論語義疏及黄帝内経であつたらしい。
 三書はいかにも蘭軒が□斎にあつらへさうな書である。若し小説家が此書牘を擬作するとしたら、やはり此種の書を筆に上(のぼ)することとなるだらう。そして批評家は云ふだらう。そんな本は蘭軒は疾(と)くに備へてゐた筈である。作者の用意は未だ至らないと云ふだらう。
 わたくしは此に少しく三書の事を言ひたい。しかしわたくしは此方面の知識に乏しい。殆ど支那の文献に喙(くちばし)を容るゝ資格だに闕けてゐる。それゆゑわたくしの言ふ所には定て誤があらう。どうぞ世間匿好の士に其誤を指□してもらひたい。
 一切経音義と云へば玄応の書か、慧琳の書かと疑はれるが、わたくしは蘭軒が前者を求めたものと解する。何故と云ふに今流布してゐる慧琳音義は元文二年に既に刊行せられてゐて、此本以外に善本を坊間に獲むことは殆ど望むべからざる事であつた筈だからである。且蘭軒の徒なる渋江抽斎、森枳園の後に撰んだ訪古志にも、玄応音義の下(もと)には特に「尤有補小学焉」と註してある如く、当時蘭軒一派の学者が此書を尊重してゐて、現に□斎自家も玄応音義の和刻本に、校讐を加へて蔵してゐたからである。□斎の識語のある此本は後枳園の子約之(やくし)の手に帰し、今は浜野知三郎さんの庫中にある。
 文献史上に於ける音義諸書の顕晦存亡は、其迹小説よりも奇である。今は定てこれに関する新研究もあらうが、わたくしの此に言ふ所は単に流布本の序跋等に見えてゐる限を反復するに過ぎない。それのみでも既に人をして其奇に驚かしむるに足るであらう。
 玄応が音義を著したのは唐の初である。「貞観末暦」と云つてあるから、猶太宗の世であつた。即ち七世紀の書である。初二十五巻であつたのが、二十六巻となり、清の乾隆に至つて旧に復せられた。これがわたくしの蘭軒の捜してゐた本だらうと推する書である。五号活字の弘教(くげう)書院蔵にも、四号の蔵経書院蔵にも載せてある。しかし善本を求めたら、今も獲難からう。
 顕晦の尤奇なのは、此書では無い。慧琳の音義である。裴氏(はいし)慧琳が音義一百巻を著したのは、「以建中末年剏製」とも云つてあり、又「起貞元四年」とも云つてある。要するに唐の徳宗の世であつた。その成つたのは、「至元和二祀方就」、「迄元和五載」、「元和十二年二月二十日絶筆於西明寺焉」等記載区々になつてゐる。要するに憲宗の世であつた。慧琳は元和十五年庚午に八十四歳で卒したから、十二年に筆を絶つたとすると、入寂三年前に至るまで著述に従事したことになる。その蔵に入れられたのは大中五年だと云ふから、既に宣宗の世となつてゐた。即ち慧琳音義は九世紀に成つた書である。
 然るに此書は支那に亡くなつた。「高麗国(中略)周顕徳中遣使齎金、入浙中求慧琳経音義、時無此本」と云つてある。後周の世宗の時である。即ち十世紀には早く既に亡びてゐた。後高麗国は異邦に求めてこれを得た。「応是契丹蔵本」と云つてある。そして慧琳音義は朝鮮海印寺の蔵中に入つた。
 足利義満が経を朝鮮に求め、義政がこれを得た時、慧琳音義が蔵中にあつて倶(とも)に来た。これが洛東建仁寺の本である。元文板には「朝鮮海印蔵版、近古罹兵燹而散亡」と云つてあるが、徳富蘇峰さんの語る所に従へば、麗蔵(れいざう)は今猶完存してゐて、慧琳の音義も亦其中にあるさうである。

     その百十八

 わたくしは慧琳音義が唐に成り後周に亡び、契丹(きつたん)より朝鮮に入り、朝鮮より日本に来たことを語つた。さて此書の刊布は忍澂(にんちよう)に企てられ、其弟子の手に成つた。それが元文二年で、徳川吉宗の時である。支那に於て十世紀に亡びた書が、日本に於て十八世紀に刊行せられたのである。慧琳音義は弘教書院蔵に有つて、蔵経書院蔵に無い。しかし元文版は今も容易に得られる。
 玄応慧琳の音義よりして外、蔵経書院蔵に収められてゐる慧苑の華厳経音義、処観の紹興蔵音、弘教書院蔵に収められてゐる可洪(かこう)の随函録、希麟の続経音義等がある。しかし此等は姑(しばら)く措いて、わたくしは書籍(しよじやく)の運命の奇を説く次(ついで)に、行□(かうたう)の大蔵経音疏五百巻の事を附加したい。これは「慨郭□音義疎略、慧琳音義不伝、遂述大蔵経音疏五百許巻」と云つてある。郭□(くわくい)の音義とは所謂一切経類音である。類音の疎略にして、慧琳音義の伝はらざるを慨(なげ)いて作つたのである。然るに此行□の書も亦亡びて、未だその発見せられたことを聞かない。行□は恐くは己が書の亡びて、慧琳の書の再び出づることをば、夢にだに想はなかつたであらう。
 わたくしは経音義のために余りに多くの辞(ことば)を費した。論語義疏と内経との事は省略に従がふこととしたい。□斎の書牘には単に「義疏」と云つてある。それを皇侃(くわうかん)の論語義疏と解するのは、嘗て寛延板が□□(けいへい)本に□(なら)つて変改してあるのに慊(あきたら)ぬため、当時の学者は古鈔本を捜すことになつてゐたからである。黄帝内経は素問と霊枢とである。これも当時尚古版本若くは古抄本を得べき望が多少あつたことであらう。
 以上が□斎の蘭軒に与へた書の註脚である。□斎は文政四年四月十四日に、其子懐之と共に京都にあつて此書を裁し、其後どうしたか。
 十五日には、書牘に拠るに、坂本の山王祭を観た筈である。
 十七日には奈良へ立つた筈である。
 此より後五月十八日に至る三十日間の行住の迹は、さしあたり尋ぬることを得ない。五月十九日には□斎父子が福山に宿した。
 二十日の朝父子は菅茶山を神辺(かんなべ)に訪ひ、其家に宿した。
 二十一日には父子が猶黄葉夕陽村舎に留まつてゐた。
 二十二日に二人は神辺を発し、三原に向つた。
 此五月十九日より二十二日に至る四日間の旅程は、茶山が江戸にある北条霞亭に与へた書に由つて証することが出来る。
 茶山の霞亭に与へた書は断片である。霞亭はこれを剪(き)り取つて蘭軒に示した。この剪刀(はさみ)の痕を存した断片は饗庭篁村さんの蔵儲中にある。「扨津軽屋三右衛門父子今月廿日朝来り候。ふくやまに一泊いたされ候よし也。其夜と其翌夜滞留、廿二日三原をさして発程也。今すこし留めたく候へども、宮島迄も参、京祇園会に必かへると申こと、日数なく候故、乍残念かへし候。八幡にて古経を見、宮じまにて古経古器を見ると申こと、中々祇園会に間に逢かね候覧。ふたりとも連を羨しく候。此段伊沢へ御はなし可被下候。扨竹内森脇いづかたも無事に候。宜御申可被下候。右用事のみ草々申上残候。御道中道ゆきぶりは追而可被仰遣候。先右序文いそぎ此事のみ申上候。恐惶謹言。五月二十六日。菅太中晋帥。北条譲四郎様。伊十も可也に取つゞき出来申候覧。銅脈先生(広右衛門こと)は矢かはにしばらくゐ申候由、いかがいたし候や。」

     その百十九

 菅茶山の北条霞亭に与へた、此年文政四年五月二十六日の書牘の断片は、独り狩谷□斎の西遊中四日間の消息を伝へてゐるのみでは無い。去つて霞亭の経歴を顧みるに、此にも亦其伝記を補ふに足るものがあるらしい。それは霞亭が何時江戸に来たかと云ふことである。
 先づ山陽撰の墓碣銘を見るにかう云つてある。「歳癸酉遊備後。訪菅茶山翁。翁欲留掌其塾。諮之父。父命勿辞。福山藩給俸五口。時召説書。尋特召之東邸。給三十口。准大監察。将孥東徙。居丸山邸舎。三年罹疾。不起。実文政癸未八月十七日。享年四十四。葬巣鴨真性寺。」
 霞亭が備後に往つたと云ふ癸酉は文化十年で、茶山の甲戌東役の前年である。茶山は霞亭に廉塾の留守をさせて置いて江戸に来り、乙亥に還つて、彼八月二日の書を以てこれを蘭軒に紹介した。
 茶山の蘭軒に与へた書には、茶山が将(まさ)に妹女(まいぢよ)井上氏を以て霞亭に妻(めあは)せむとしてゐることが見えてゐた。茶山は遂に妹女をして嫁せしめ、後霞亭を阿部家に薦めた。しかし霞亭の此婚姻は何時であつたか。又此仕宦は何時であつたか。これは東遊の時を問ふに先だつて問ふべき件々である。
 わたくしは多く霞亭の詩歌文章を読まない。しかし曾て読んだだけの詩に就いて言はむに、茶山が霞亭を蘭軒に紹介した乙亥の翌年丙子の秋以前に、霞亭が既に井上氏を納(い)れてゐたことは確である。
 今わたくしの許(もと)に帰省詩嚢と云ふ小冊子がある。これは浜野知三郎さんに借りてゐる書である。霞亭の門人井達夫(せいたつふ)等は嘗て貲(し)を捐(す)てゝ霞亭の薇山三観を刻して知友に貽(おく)つた。然るにこれを受けたものが多く紙価を寄せてこれに報いた。達夫等は刻費を償(つぐの)つて余財を獲、霞亭に呈した。霞亭は受くることを肯(がへん)ぜなかつた。そこで達夫等はこれを帰省詩嚢を刻する資に充(み)てたのださうである。これは「文化丁丑冬井毅識」と署した序の略である。
 帰省詩嚢は文化十三年丙子の秋、霞亭が父適斎道有の七十の寿宴に侍せむがために、廉塾を辞して志摩国的屋に帰つた有韻の紀行である。秋の初に神辺を立つて、秋の末に又神辺に還つたらしい。巻首の「留別塾子」の絶句はかうである。「雲山千里一担□。暫此会文抛友朋。帰日相逢須刮目。新涼莫負読書燈。」以て発程が新涼の節に当つてゐたことを知るべきである。巻尾の「西宮途上寄懐韓宇二兄」の絶句はかうである。「昨遊連日共提携。一別今朝独杖藜。断雁有声遙目送。秋雲漠々澱江西。」韓は韓聯玉(かんれんぎよく)、宇は宇清蔚(うせいうつ)である。詩の後に一行を隔てて「右丙子晩秋」と註してある。以て此遊が晩秋に終つたことを知るべきである。
 わたくしは此帰省詩嚢中の詩に、霞亭が既に娶つてゐた証を見出し、又これを評した亀田鵬斎の語に、其婚姻がしかも成後未だ久しきを経なかつた証をも見出したのである。詩は書中の最長篇で、一韻徹底の五古である。引にかう云つてある。「閏八月念五日。従嵯峨歩経山崎桜井。弔小侍従墓。到芥川宿。翌尋伊勢寺。邂逅国常禅師。因過能因旧址松林庵。遂宿禅師之院。其翌登金竜寺。下到前嶼。乗舟至浪華。詩以代記。」辞(ことば)長ければ全篇を写し出さずに、下(しも)に有用の句を摘録することとする。

     その百二十

 わたくしは此年辛巳五月二十六日に、菅茶山の北条霞亭に与へた書の断片中より、既に当時西遊途上にあつた狩谷□斎の数日間の行住去留を検出し、又受信者霞亭の東徙(とうし)の時を推定しようと試みた。霞亭は京都より神辺へ往き、神辺に於て茶山に拘留せられ、其妹女を娶つて阿部家に仕へ、此に東役の命を受くるに至つたのである。霞亭が「歳癸酉、遊備後」の後、東徙に至るまでには、其婚姻があつて、これがために東徙は「将孥東徙」となつたのである。わたくしは東徙の時を言ふに先だつて、婚姻の時を言はむことを欲した。そしてこれがために霞亭の帰省詩嚢を引くこととしたのである。
 詩嚢の五古の長篇に、丙子の歳閏(じゆん)八月二十五日より二十七日に至る遭遇を叙したものがある。霞亭は二十六日に伊勢寺を尋ねて僧国常に逢ひ、院内に宿した。「為我開法庫。芸香散講台。画軸多仙仏。妙筆縦離奇。経巻堆牙籤。繙閲白日移。斗藪塵埃客。浄境忘倦疲。久遭妻孥汚。転覚葷羶非。」前年乙亥に茶山が書を蘭軒に寄せた時には、霞亭はまだ独身であつた。そして今忽ち「久遭妻孥汚」と云つてゐる。乙亥八月より後、帰省の途に上つた丙子初秋より前に霞亭は有妻者となつた。所謂遭汚(さうを)の間は乙亥の八月をも丙子の閏八月をも併せ算して、辛うじて十四箇月に達するのである。婚姻の日は乙亥八月より丙子七月頃に至る満一年の間にあつた筈である。
 そこで亀田鵬斎がかう云ふ評語を下した。「子譲年来高踏。不覊塵累。聞近始領妻孥。而遽下久字。殊可怪。」
 わたくしは前に茶山の善謔を語つた。是に由つて観れば、鵬斎の善謔も亦多く茶山に譲らないらしい。此評は分明に霞亭をからかつてゐる。此からかひの妙は霞亭の備後に往く前の生活を一顧して、方(まさ)に纔(わづか)に十分に味ふことが出来るのである。山陽は「素愛嵐峡山水、就其最清絶処縛屋、挈弟倶居、嚢硯壺酒、蕭然自適」と云つてゐる。岡本花亭は霞亭を村尾源右衛門に紹介するに当つて、「君子の才行器識あり、うたもよみ候、曾而(かつて)嵯峨に隠遁いたし候を茶山老人に招かれ、備後黄葉山廉塾をあづかり、去年福山侯の聘に応じ解褐(かつをとき)候」と云つてゐる。
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