伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

「先達而(せんだつて)御寸札ならびに論語到来、其御返事先月廿日比(ごろ)いたし、大坂便にさし出候。今度御書に而は、右本御恵賜被下候由扨々忝奉存候。いよいよ珍蔵可仕候。□斎翁へも(隠居故翁と書たり)宜御礼奉願上候。御状も来候へども、此便急に而御返事期他日候。」
「今年御地寒熱之事被仰下、いづかたも同様也。先去冬甚あたたかに、三冬雪を見ず、夫(それ)にしては春寒ながく候ひき。土用中以外(もつてのほか)ひややかに、初秋になりあつく候。秋はきのふたちぬときけど中々にあつさぞまさる麻のさごろもなどとつぶやき候。此比又冷気多く候処、今日より熱(あつさ)つよく候。いかなる気候に候や。生来不覚位の事也。先冬あたたかに雪なく、夏涼しくて雷なく、凌ぎよき年也。ことに豊年也。世の中も此通ならば旨き物也。諺に夏はあつく冬はさむきがよいと申せばさ様にも無之や。御地土用見廻之人冷気之見廻を申候よし、因而(よつて)憶出候。廿五六年前一年(ひとゝせ)京にゐ候時、暑甚しく、重陽などことにあつし。今枝某といふ一医生礼にきたり、いつも端午が寒ければ、わたいれの上に帷子(かたびら)を著す、今日は帷子の上にわたいれを著して可然などと申候。」
「落合敬助太田同居にてたび/\御逢被成候よし、如仰好人物也。詩文はよく候へども富麗に過候。最早あの位に出来候へば、取きめて冗雑(じようざつ)ならぬ様に被致かしと奉存候。このこと被仰可被下候。」
「長崎游竜見え候時、不快に而其宿へ得参不申候。門人か□(けん)か見え候故、しばらく話し申候。寝てゐる程の事にもあらず候。這(この)漢(かん)学問もあり画もよく候。逢不申残念に御坐候。私気色は春よりいろ/\あしく候。然ども浪食もとのごとくに候。今年七十に候へば、元来の病人衰旄(すゐばう)は其所也。」
「金輪(こんりん)上人度々御逢被成候よし、御次(おんついで)に宜奉願上候。三瑕之内美僧はうけがたく候。梧堂つてにて御逢被成候ひしや。其外岡本忠次郎君、田内(か川)主税(ちから)、土屋七郎なども参候よし、みな私知音之人、金輪へ参候時何の沙汰もなく残念に候。」

     その九十四

 此年文化十四年八月七日に、菅茶山の蘭軒に与へた書は、文長くして未だ尽きざるゆゑ、此に写し続ぐ。
「牽牛花(あさがほ)大にはやり候よし、近年上方にてもはやり候。去年大坂にて之番附坐下に有之、懸御目申候。ことしのも参候へども此頃見え不申候。江戸書画角力は相識の貌(かほ)もあり、此蕣角力(あさがほすまふ)は名のりを見てもしらぬ花にてをかしからず候。前年御話申候や、わたくし家に久しく□州(しやうしう)だねの牽牛花(けんぎうくわ)あり。もと長崎土宜(みやげ)に人がくれ候。※[#「「卅」にさらに縦棒を一本付け加える」、7巻-192-上-12]年前也。花大に色ふかく、陰りたる日は晩までも萎(しぼ)まず。あさがほの名にこそたてれ此花は露のひるまもしをれざりけりとよみ候。其たねつたへて景樹(かげき)といふうたよみの処にゆきたれば、かかるたねあること知らで朝顔をはかなきものとおもひけるかなとよみ候よし。私はしる人にあらず、伝へゆきしなり。これは三十年前のこと也。さて其たね牽牛花(あさがほ)はやるにつき段々人にもらはれ、めつたにやりたれば、此年は其たねつきたり。はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晋帥(しんすゐ)骨相之屯(こつさうのじゆん)もおもふべし。呵々。扨高作は妙也。申分なし。段々上達可思也。曾てきく。上方にはやること、大抵十五六年して江戸へゆき、江戸にはやること亦十五六年して上方へ来ると云。この蕣(あさがほ)は両地一度也。いかなる事や。重厚之風段々減じ、軽薄之俗次第に長ずるにはあらずや。何さま昌平之化可仰可感候。」
「梧堂より両度書状、今以返事いたさず、畳表之便をまち申候。其内先此一首にて、王子と両方への御断也。御届け可被下候。」
「□斎隠居之譚とくより承候。あたらしく被仰下候而物わすれは老人のみにあらずと、差彊人意(やゝじんいをつようし)候。書中に御坐候。松崎ほめ候へ共、簾(れん)はいまだ知音を不得候よし申参候。千載の知己をまつの外せんすべなかるべし。この松崎は旧知識也。在都中不逢候を遺恨に覚え候。御逢被成候はば宜御つたへ被下よと、御申可被下候。□斎西遊之志御坐候よし、これは何卒晋帥が墓にならぬうちに被成よと、御申可被下候。長崎は一とほり見ておきたき所也。私も志ありしかども縁なし。何卒御すすめ可被下候。市野のわる口は前書にあり。此不贅(こゝにぜいせず)。八月七日。是日別而(べつして)暑甚し。これまでは涼しきにこまりたり。菅太中晋帥。伊沢辞安様。落合敬介漂流のうち、ここかしこ、いづくもわたくし相しれる所へ参られ候は奇也。別而宜しく御伝可被下候。御地久しく雨ふらず候よし、※[#「敝/犬」、7巻-193-上-13]郷も亦同じ。五六日ふりしのち此比(ごろ)までふらず、此比三度少し宛(づつ)ふりたれども、地泥(ちでい)をなすにいたらず。然れども此上ふりてはまたあしし。これにてよき程也。これは※[#「敝/犬」、7巻-193-上-16]郷に宜(よろし)。土地によるべし。」
「尚々古庵様、服部氏、市川先生、凡私を存候人々へ宜奉願上候。別而御内政様、両令郎(れいらう)は勿論、おさよどのまで不残奉願上候。ふしぎは今年蛇蚊蛙すくなく、燕はいつも春晴桃紅(しゆんせいももくれなゐ)に梅雨柳くらき比軒ばに来り、□喃(ぢなん)かまびすしきに、ことしは三日に一度、五日に一度くらゐ稀に見申候。此比虫語常年のごとし。」
 此手紙は長さ五尺許(ばかり)の半紙の巻紙に細字で書いてある。分註あり行間の書入あり、原本のままには写しにくいので、文意を害せざる限は、本文につづけてしまつた。但「□斎翁」の下(もと)にある填註のみは括弧内に入れた。

     その九十五

 菅茶山の書牘に許多(あまた)の人名の見えてゐることは、上(かみ)に写し出した此年文化十四年八月七日の書に於ても亦同じである。
 狩谷□斎は此比(ころ)隠居した。恐くは此年隠居したと云つても好からう。わたくしは世に□斎詳伝のありやなしやを知らない。わたくしの知る所は只松崎慊堂(かうだう)の墓碣銘(ぼけつめい)のみである。慊堂はかう云つてゐる。「翁年四十余。謂曰。児已長。能治家。我将休矣。遂卜築浅草以居。扁曰常関書院。署其室曰実事求是書屋。又号□翁。皆表其志也。」所謂(いはゆる)「年四十余」は年四十三に作つて可なることが、此書牘に徴して知られるのである。□斎の退隠の年を明にすると云ふことは、わたくしの以て大に意義ありとなす所である。若し別に詳伝がないとすると、これも亦一の発見である。
 湯島の狩谷の店には懐之(くわいし)、字(あざな)は少卿(せうけい)が津軽屋三右衛門の称を襲(つ)いですわつたのであらう。慊堂が「風度気象能肖父」と云つてゐるから、立派な若主人であつたかとおもふ。しかし年は僅に十四であつた。安政三年に五十三歳で歿した人だからである。
 書牘には論語を送られた礼を□斎にも伝へてくれと云つてある。論語は市野迷庵の覆刻した論語集解であらう。迷庵の所謂「六朝経書、其伝者世無幾」ものであらう。蘭軒は初め短い手紙を添へて茶山に此本を見せに遣つた。尋(つい)で「あれは献上する」と云つて遣つた。茶山は蘭軒に其礼を言つて、同時に□斎にも礼を言つてくれと云つておこせたのである。わたくしは此間の消息を明にするために、覆刻本の序跋を読んで見たくおもふ。しかし其書を有せない。わたくしは市野光孝(くわうかう)さんの許(もと)で其書を繙閲して、刻本の字体を記憶してゐるのみである。想ふにこれも亦所謂珍本に属するものであらう。
 今一つ注目すべきは□斎の辛巳西遊の端緒が、早く此年文化十四年に於て見(あらは)れてゐる事である。茶山は「晋帥が墓にならぬうちに被成よ」と云つて催促してゐる。此より後四年にして□斎は始て志を遂げ、茶山を神辺に訪ふことを得た。
 次に松崎慊堂の名が茶山の此書牘に見えてゐる。しかも其事は□斎に連繋してゐる。此所の文は少し晦渋である。「書中に御坐候。松崎ほめ候へ共、簾はいまだ知音を得ず候よし申参候。千載の知己をまつの外せむすべなかるべし。」茶山は□斎に院之荘の簾を贈つた。□斎の書中に此簾の事が言つてある。□斎は簾を実事求是(じつじきうし)書屋に懸けて客に誇示してゐる。しかし慊堂一人がこれを歎美したのみで、簾は人の称讚を得ないと云つてある。然らば簾は知己を千載の下(しも)に待つ外あるまい。わたくしは読んで是(かく)の如くに解する。
 香川景樹と菅茶山との関係も亦此書牘に由つて知られる。寧関係の無いことが知られると云つた方が当つてゐるかも知れない。頼氏には深く交つた景樹も、菅氏とは相識らなかつたのである。茶山は四十年前に午(ひる)萎(しを)れぬ□州産の牽牛花(けんぎうくわ)を栽培してゐた。景樹が三十年前に其種子を得て植ゑ、歌を詠んだ。茶山は「私はしる人にあらず、伝へゆきしなり」と云つてゐる。
 茶山が此逸事を筆に上せたのは、蘭軒が江戸に於ける朝顔の流行を報じたからである。蘭軒はこれを報ずるに当つて、詩を寄示した。集に載する所の「都下盛翫賞牽牛花、一絶以紀其事」の作である。「牽牛奇種家相競。不譲魏姚分紫黄。請看東都富栄盛。万銭購得一朝芳。」
 文化十四年より三十年前は天明七年である。朝顔の種子(たね)が菅氏から香川氏に伝はつた時、文字の如く解すれば、茶山が四十歳、景樹が僅に二十歳であつた筈である。しかしわたくしは此推定に甘んぜずに、更に討究して見ようとおもひ立つた。

     その九十六

 菅茶山の書牘中にある香川景樹の朝顔の歌は、わたくしの素人目を以てしても、分明に桂園調で、しかも第五句の例の「けるかな」さへ用ゐてある。わたくしは景樹の集に就いて此歌を捜さうとおもつた。然るに竹柏園主の家が遠くもない処にある。多く古今の歌を記憶してゐる人である。或はことさらに捜すまでもなく此歌が其記憶中にありはせぬかとおもつた。
 わたくしは茶山と景樹との歌を書いて、出典は文化十四年の茶山の消息(せうそこ)と註し、「景樹の此歌他書に見え候ものには無之候や」と問うた。此歌は園主の記憶中には無かつた。後におもへば目に立つべき歌ではなかつたから、園主の記せざるは尤の事であつた。園主は出典の文化十四年と云ふに注目して、文化十年以後の景樹の歌を綿密に検したが、尋ぬる歌は見えなかつた。只文化十四年に景樹が難波人(なにはびと)峰岸某から朝顔の種子(たね)を得た歌を見出したのみであつた。そしてそれは勿論異歌(ことうた)であつた。
 これはわたくしの問ざまが悪かつたのである。書牘は文化十四年の書牘だが、茶山は昔語をしてゐたのである。園主に徒労をさせたのは、問ふもののことばが足らなかつたためである。
 書牘の云ふ所に拠るに、茶山は四十年前に□州牽牛花(けんぎうくわ)の種子を獲たさうである。文化十四年丁丑より四十年前は安永六年丁酉で、茶山は二十九歳、景樹は十歳である。かくて三十年前に至つて、種子は神辺の茶山の家より景樹の許に伝はつたと云ふ。三十年前は天明七年丁未である。茶山四十歳、景樹二十歳の時である。兎に角景樹は既に京都に上つてゐる。わたくしはこれを竹柏園主に告げて、再び探討の労を取らむことを請うた。園主の答は下(しも)の如くであつた。
「拝見。文化十年以後をずつと調べ候ひしに無之、唯今の御状により更に始の方を調べ候に、享和二年戌(いぬの)四月十六日と十八日との中間に真野敬勝(まのけいしよう)ぬし□州の牽牛花の種を給ひける、こはやまとのとはことにて、夕方までも萎(しぼ)まで花もいとよろしと也、かかる種子あることしらで朝顔をはかなきものとおもひけるかなと有之候を見出、まことに喜ばしく候。茶山のうたは無論無之候。御状の景樹二十歳位とあるは必ず誤と存じ候事にて、三十年前は何か手紙の御よみちがへには無之やと存候。」
 問題は此に遺憾なく解決せられた。菅氏の牽牛花の種子は真野敬勝の手を経て景樹の許(もと)に到つた。時は享和二年壬戌であつた。文化十四年より算すれば十五年前で、三十年前では無い。茶山は五十五歳、景樹は三十五歳の時である。
 しかし茶山が書牘の「※[#「「卅」にさらに縦棒を一本付け加える」、7巻-197-上-14]年前」「三十年前」は、二箇所共に字画鮮明である。わたくしの読みあやまりではない。三十年前は分明に老茶山の記憶の誤である。啻(たゞ)に書の尽(ことごと)く信ずべからざるのみではない。古文書と雖、尽く信ずることは出来ない。□州の牽牛花の種子は何年に誰から誰に伝はつても事に妨(さまたげ)は無い。わたくしの如き間人の間事業が偶(たま/\)これを追窮するに過ぎない。しかし史家の史料の採択を慎まざるべからざることは、此に由つても知るべきである。
 わたくしは前(さき)に山陽の未亡人里恵の書牘に拠つて、山陽再娶(さいしゆ)の年を定めた。しかし女子が己の人に嫁した年を記すると、老人が園卉種子(ゑんきしゆし)の授受を記するとは、其間に逕庭があらうとおもふ。

     その九十七

 菅茶山の朝貌(あさがほ)の話は、流暢な語気が殆どトリヰアルに近い所まで到つてゐる。想ふに茶山は平素語を秤盤(しようはん)に上(のぼ)せて後に、口に発する如き人ではなかつただらう。其坐談には諧謔を交ふることをも嫌はなかつただらう。わたくしは田能村竹田(たのむらちくでん)が茶山の笑談(せうだん)として記してゐた事をおもひ出す。それは頼杏坪(きやうへい)を評した語であつた。「万四郎は馬鹿にてござる。此頃は蚊の歌百首を作る。又此頃はいつものむづかしき詩を寄せ示す。其中には三ずゐに糞と云ふ字までも作りてござる。」糞は独り糞穢(ふんくわい)のみでは無い。張華は「三尺以上為糞、三尺以下為地」とも云つてゐる。※(ふん)[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-7]も亦爾雅(じが)に「※[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-7]大出尾下」と云つてある。註疏を検すれば、刑□(けいへい)は「尾猶底也」「其源深出於底下者名※[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-9]、※[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-9]猶灑散也」などと云つてゐる。今謂ふ地底水であらう。郭璞(くわくぼく)は「人壅其流以為陂、種稲、呼其本出処、為※[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-11]魁」と云つてゐる。即ち水源の謂で、ゐのかしらなどの語と相類してゐる。要するに必ずしも避くべき字では無い。茶山は戯謔(けぎやく)したに過ぎない。
 茶山は朝顔の奇品を栽培してゐたが、人に種子(たね)を与へて惜まなかつたので、種子が遂に□(つ)きた。「はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晋帥骨相之屯もおもふべし。」これは六三の「即鹿无虞」あたりから屯(じゆん)に説き到つたのであらう。
 江戸の流行は十五六年にして京都に及び、京都の流行は十五六年にして江戸に及ぶ。「この蕣(あさがほ)は両地共一度也。いかなることや。」こゝまでは猶可である。重厚の風減じ、軽薄の俗長ず。「何さま昌平之化、可仰可感候。」これは余りに廉価なるイロニイである。
 僧混外(こんげ)も亦茶山の此書牘に見えてゐて、石田、岡本、田内、土屋の四人の名がこれに連繋して出てゐる。これは前年丙子の秋以来蘭軒が混外と往来するに至つた事を指して言つたものである。蘭軒が混外を評した中に僧の三瑕と云ふことがあつた。其一の「美僧はうけがたく候」と茶山が答へた。蘭軒が混外と相会した時、石田梧堂がこれを介したらしい。それゆゑ茶山は「梧堂つてにて御逢被成しや」と云つてゐる。蘭軒は前年初見の時の同行者として、梧堂を除く外、成田成章、大田農人、皆川叔茂を挙げてゐて、岡本、田内、土屋は与(あづか)らなかつた。或は再三往訪した時のつれか。茶山は岡本以下の知人が蘭軒と偕(とも)に金輪寺(こんりんじ)を訪うたのに、それを報ぜなかつたことを慊(あきたら)ずおもつた。「皆私知音之人、金輪へ参候時何之沙汰もなく残念に候。」
 岡本忠次郎、名は成、字(あざな)は子省である。本近江から出た家で、父政苗(まさたね)が幕府の勘定方を勤むるに至つた後の子である。忠次郎は南宮大湫(なんぐうたいしう)に学んだ。韓使のために客館が対馬に造られた時、忠次郎は董工のために往つてゐて、文化八年に江戸に還つた。茶山の手紙に書かれた時は職を罷める前年で、五十歳になつてゐた。
 安中(あんなか)侯節山板倉勝明撰の墓碑銘に、忠次郎の道号として、豊洲、花亭、醒翁、詩癡、又括嚢(くわつなう)道人が挙げてある。此中で豊洲、花亭、醒翁の号が茶山の集に見えてゐる。既に老後醒翁と号したとすれば、茶山のために竜華寺(りうげじ)の勝を説いた岡本醒廬も或は同人ではなからうか。

     その九十八

 菅茶山の蘭軒に与へた丁丑八月七日の書牘に、王子金輪寺の混外(こんげ)が事に連繋して出てゐる人物の中、わたくしは既に石田梧堂と岡本豊洲とを挙げた。剰す所は田内主税(ちから)と土屋七郎とである。
 田内は茶山が書を裁するに当つて、はつきり其氏をおもひ浮べることが出来なかつたと見えて、「か川」の傍註が施してある。田内か田川かとおもひまどつたのである。しかし田内の事は茶山集にも山陽集にも、詩題詩註に散見してゐる。始終茶山と太(はなは)だ疎(うと)くは無かつたのである。一説に田内は「でんない」と呼ぶべきであらうと云ふ。しかし茶山が田内か田川かとおもひまどつたとすると、当時少くも茶山はでんないとは呼んでゐなかつたらしい。
 然らば菅頼二家の集は何事を載せてゐるかと云ふに、それは殆ど云ふに足らない。田内主税、名は輔(ほ)、月堂と号す、会津の人だと云ふのみである。わたくしは嘗て正堂の一号をも見たことがある。市河三陽さんに聞けば、輔は親輔の省で、字(あざな)は子友であつたと云ふ。幼(いとけな)い時から白川楽翁侯に近侍してゐた人である。南天荘主は頃日(このごろ)田内の裏書のある楽翁侯の歌の掛幅(くわいふく)を獲たさうである。
 土屋七郎は殆ど他書に見えぬやうである。唯一つ頼元鼎(げんてい)の新甫遺詩の中に、「要江戸土屋七郎会牛山園亭」と云ふ詩がある。「雨過新樹蔵山骨。燕子銜来泥尚滑。何計同人于野同。深欣発夕履予発。四海弟兄此邀君。三春風物纔半月。地偏無物充供給。独有隣翁分紫蕨。」土屋が江戸の人で安藝に往つてゐたことは、これに由つて知られる。後にわたくしは偶然此人の歿年を知ることを得たが、それは他日書き足すこととする。以上が混外に連繋した人物である。
 茶山の書牘に又游竜の名が見えてゐる。游竜は神辺に来て旅宿にゐたので、茶山が訪はうとおもつた。此人の学殖があつて、画を善くするのを知つてゐたからである。しかるに茶山は病臥してゐて果さなかつた。游竜は門人か従者かをして茶山を訪はしめた。茶山はこれを引見して語を交へた。書牘の云ふ所は、凡(おほよそ)此(かく)の如くである。
 茶山は単に「長崎游竜」と記してゐる。山陽、霞亭等の事を言ふ時と違つて、恰も蘭軒が既に其名を聞いてゐることを期したるが如くに見える。
 わたくしは游竜の誰なるを知らなかつたので、大村西崖さんに問ひに遣つた。そしてかう云ふ答を得た。「御問合の游竜は続長崎画人伝に見ゆ。長崎の人なるべし。姓不詳(つまびらかならず)。諱(いみな)は俊良、字(あざな)は基昌、梅泉又浣花道人とも号す。通称彦二郎。来舶清人稼圃江大来(かほこうたいらい)に学び、親しく其法を伝ふ。歿年闕く。右不取敢御返事申上候。」
 梅泉の一号が忽ちわたくしの目を惹いた。長崎の梅泉は竹田荘師友画録にも五山堂詩話補遺にも見えてゐて、わたくしは其人を詳にせむと欲してゐたからである。若し三書の謂ふ所の梅泉が同一の人ならば、游竜は劉氏であらう。長崎の劉氏は多くは大通事彭城(さかき)氏の族である。游竜は彭城彦二郎と称してゐたものではなからうか。
 さて游竜の歿年であるが、果して游竜が劉梅泉だとすると、多少の手がかりがないでもない。竹田は「丙戌冬到崎、時梅泉歿後経数歳」と云つてゐる。即ち文政九年より数年前に歿したのである。
 わたくしは此の如くに思量して、長崎の津田繁二さんに問ひに遣つた。津田さんは長崎の劉氏の事を探らむがために、既に一たび崇福寺の彭城氏の墓地を訪うたことのある人である。
 書は既に発した。わたくしは市河三陽さんの書の忽ち到るに会した。「劉梅泉は彭城彦二郎、游竜彦二郎とも称し候。頼杏坪(きやうへい)とも会面したる旨、寛斎宛同人書翰に見え居候。彭城東閣の裔かと愚考仕候。」
 わたくしの推測はあまり正鵠をはづれてはゐなかつたらしい。東閣は彭城仁左衛門宣義(のりよし)である。「万治二亥年十月大通事被仰付、元禄八亥年九月十九日御暇御免、同九月二十一日病死、行年六十三。」津田さんは嘗てわたくしのために墓碑の文字をも写してくれた。「正面。故考広福院殿道詮徳明劉府君之墓。向左。元禄八年歳次乙亥季秋吉旦。孝男市郎左衛門恒道。継右衛門善聡同百拝立。向右。訳士俗名彭城仁左衛門宣義。」

     その九十九

 長崎の津田繁二さんはわたくしの書を得て、直に諸書を渉猟し、又崇福寺の墓を訪うて答へた。大要は下(しも)の如くである。
 彦次郎の実父を彭城(さかき)仁兵衛と云つた。文書に「享和三亥年二月十日小通事並(せうつうじなみ)被仰付」とあり、又「文化二丑年五月十六日より銀四貫目」とある。仁兵衛に二子があつて、長を儀十郎と云ひ、次を彦次郎と云つた。儀十郎が家を継いだ。「文化十五寅年六月十二日小通事並被仰付」とある。
 次男彦次郎は出でて游竜市兵衛の後を襲いだ。市兵衛は素(もと)林氏であつた。昔林道栄が官梅を氏とした故事に傚(なら)つて游竜を氏とし、役向其他にもこれを称した。長崎の人は游を促音に唱へて、「ゆりう」と云ふ。しかし市兵衛の本姓は劉であるので、安永四年に名を梅卿と改めてからは、劉梅卿とも称してゐた。
 彦次郎の官歴は下の如くである。「享和元酉年七月廿七日稽古通事被仰付。文化七午年十二月十二日小通事末席被仰付。文政二卯年四月二十七日小通事並被仰付。」
 墓は崇福寺にある。「正面。吟香院浣花梅泉劉公居士、翠雲院蘭室至誠貞順大姉。向右。天明六年丙午八月廿日誕、文政二年己卯八月初四日逝、游竜彦次郎俊良、行年三十四歳。向左。文化九年壬申十月廿五日逝、游竜彦次郎妻俗名須美。」
 是に由つて観れば、彦次郎は天明六年に生れ、享和元年に十六歳で稽古通事になり、文化七年に二十五歳で小通事末席になり、九年に二十七歳で妻を喪ひ、文政二年に三十四歳で小通事並になり、其年に歿した。神辺(かんなべ)に宿つてゐて菅茶山の筆に上(のぼ)せられたのは三十二歳即歿前二載、田能村竹田に老母を訪はれたのは歿後七載であつた。竹田が「年殆四十、忽然有省、折節読書」と云つてゐるのは、語つて詳(つまびらか)ならざるものがある。職を罷めて辛島塩井(からしまえんせい)に従学しようと思つてゐながら、病に罹つて死んだのは事実であらう。
 茶山の書牘に拠るに、梅泉は神辺に往つた時、茶山を訪はなかつた。そして「門人か□か」と見える漢子(かんし)を差遣した。茶山はこれを引見して話を聞いた。そして我より往いて訪ふべきではあつたが、病のために果さなかつたと云つてゐる。
 茶山は梅泉の学問をも技藝をも認めてゐた。然るに其人が神辺にゐて来り訪はぬのである。茶山がいかに温藉の人であつたとしても、自ら屈して其旅舎に候(うかが)ふべきではあるまい。茶山の会見を果さなかつたのは、啻(たゞ)に病の故のみではあるまい。
 わたくしは梅泉が頗る倨傲であつたのではないかと疑ふ。竹田の社友に聞いた所の如きも、わたくしの此疑を散ずるには足らぬのである。「蓋其人才気英発。風趣横生。超出物外。不可拘束。非尋常庸碌之徒也。聞平日所居。房槞華潔。簾幕深邃。衣服清楚。飲食豊盛。異書万巻。及名人書画。陳列左右。坐則煮茗插花。出則照鏡薫衣。置梅泉荘於南渓。挾粉白。擁黛緑。日会諸友。大張宴楽。糸竹争発。猜拳賭酒。既酔則倒置冠履。※[#「にんべん+差」、7巻-203-下-7]々起舞。」要するに才を恃(たの)み気を負ふもので、此種の人は必ずしも長者を敬重するものではない。
 梅泉は江戸にも来たことがある。それは五山堂詩話に見えてゐる。補遺の巻(けんの)一である。中井董堂が五山に語つた董堂と江芸閣(こううんかく)との応酬の事が即是で、梅泉が其間に立つて介者となつてゐるのである。

     その百

 菊池五山はかう云つてゐる。「董堂来語云。崎陽舌官劉梅泉者客歳以事出都。書画風流。一見如旧。臨去飲餞蕊雲楼上。酒間贈別云。水拍欄干明鏡光。荷亭月浄浴清涼。離歌一曲人千里。間却鴛鴦夢裏香。今春劉寄書至。書中云。前年見贈高作。伝示之芸閣。芸閣云。董堂先生。書法遒美。神逼玄宰。余亦学董者。雖阻万里。猶是同社。我当和韵以贈。乃援筆書絹上。今此奉呈。其詩云。亭々波影悦容光。占得暁風一味涼。曾溌鴛鴦翻細雨。十分廉潔十分香。末署十二瑤台使者江芸閣稿。」
 詩話に所謂(いはゆる)「客歳」とは何(いづ)れの年であらうか。同じ補遺の巻(けんの)一に女詩人大崎氏小窓(せうさう)の死を記して、「女子文姫以今年戊寅病亡」と云つてある。五山が此巻を草したのは恐くは文政元年であらう。果して然らば劉梅泉の江戸に来たのは文化十四年丁丑で、神辺に宿したのと同じ年であらう。
 詩話の文に拠れば、梅泉は江戸に来て、其年に又江戸を去つた。蕊雲楼(ずゐうんらう)の祖筵は其月日を載せぬが、「水拍欄干明鏡光、荷亭月浄浴清涼」の句は、叙する所の景が夏秋の交なることを示してゐる。祖筵の所も亦文飾のために知り難くなつてゐるが、必ずや池の端あたりであらう。
 次に梅泉が神辺に宿したのは何時であらうか。菅茶山の書牘を見るに、事は書を裁した年にあつて、書を裁した日の前にあると知られるのみである。即ち文化十四年の初より八月七日に至るまでの間に、梅泉は神辺に来て泊つたのである。若し夏秋の交に江戸を去つたとすると、春夏の月日をば長崎より江戸に至る往路、江戸に於ける淹留に費したとしなくてはならない。わたくしは梅泉が丁丑の初に江戸に来り、夏秋の交に江戸を去り、帰途神辺に宿したものと見て、大過なからうとおもふ。
 わたくしは既に梅泉の生歿年を明にし、又略(ほゞ)その江戸に来去した月日を推度(すゐたく)した。わたくしは猶此に梅泉の画を江稼圃(こうかほ)に学んだ年に就いて附記して置きたい。
 梅泉は長崎の人である。稼圃が来り航した時、恐くは多く居諸(きよしよ)を過すことなく従学したであらう。田能村竹田の山中人饒舌に「己巳歳江大来稼圃者至」と書してある。己巳は文化六年である。梅泉は恐くは文化六年に二十四歳で稼圃の門人となつたのであらう。
 然るに此に一異説がある。それは稼圃の長崎に来たのを聞いて直に入門したと云ふ人の言(こと)を伝へたものである。森敬浩(もりけいかう)さんは川村雨谷を識つてゐた。雨谷の師は木下逸雲である。雨谷は毎(つね)に云つた。逸雲と僧鉄翁との江が門に入つたのは、逸雲が十八歳の時であつたと云つた。逸雲は慶応二年に江戸より長崎に帰る途次、難船して歿した。年は六十七歳であつた。此より推せば、逸雲は寛政十二年生で、其十八歳は文化十四年であつた。逸雲と鉄翁との江が門に入つた年が果して江の来た年だとすると、江は文化十四年に至つて纔(わづか)に来航したこととなるのである。
 しかし此両説は相悖(あひもと)らぬかも知れない。何故と云ふに長崎にゐた清人(しんひと)は来去数度に及んだ例がある。文化六年に江が初て来た時は、逸雲は猶穉(をさな)かつた。それゆゑ十四年に江が再び至るを俟(ま)つて始て従遊したかも知れない。只わたくしは江の幾たび来去したかを詳(つまびらか)にしない。或は津田繁二さんの許(もと)にはこれを徴するに足る文書があらうか。
 わたくしは此(かく)の如く記し畢つた時、市河氏の書を得た。梅泉の市河米庵に与ふる書、並に大田南畝の長崎にあつて人に与へた書に拠れば、稼圃が初度の来航は文化元年甲子の冬であつたさうである。梅泉が其時従学したとすると、年正に十九であつた。

     その百一

 劉梅泉が文政二年の八月に歿してから七年経て、九年の冬田能村竹田は長崎に往つた。そして梅泉の母に逢つた。「有母仍在。為予説平生。且道。毎口予名弗措。説未畢。老涙双下。」
 按ずるに母は游竜市兵衛の妻ではなくて、彭城(さかき)仁兵衛の妻であらう。養母ではなくて実母であらう。そして若し更に墓石に就いて検したなら、実母の名、其歿年、その竹田と語つた時の齢(よはひ)をも知ることが出来るであらう。
 竹田と梅泉とは恐くは未見の友であつただらう。竹田は「屡蒙寄贈、且促予遊崎」と云つてゐる。わたくしは此「屡蒙寄贈」の四字から、梅泉が竹田に好(よしみ)を通じて、音問贈遺(いんもんぞうゐ)をなしながら、未だ相見るに及ばなかつたものと推するのである。二人は未見の友であつただらう。そして菅茶山が神辺にあつて狩谷□斎の江戸より至るを待つた如くに、梅泉は長崎にあつて竹田の竹田(たけだ)より至るを待つたものと見える。しかし茶山はながらへてゐて、□斎を黄葉夕陽村舎に留めて宿せしむることを得、梅泉は早く歿して、竹田の至つた時泉下の人となつてゐた。
 竹田は梅泉の母に逢つて亡友の平生を問ひ、又諸友に就いて其行事の詳(つまびらか)なるを質(たゞ)した。竹田たるもの感慨なきことを得なかつたであらう。
 或日竹田は郊外に遊んで、偶(たま/\)南渓に至り、所謂(いはゆる)梅泉荘の遺址を見た。梅泉の壮時、「挾粉白、擁黛緑、日会諸友、大張宴楽」の処が即此荘であつた。屋舎の名は吟香館で、江稼圃(こうかほ)と大田南畝との題□(だいへん)が現に野口孝太郎さんの許(もと)に存してゐる。竹田のこれを記した文は人をして読み去つて惻然たらしむるものがある。
「予与秋琴。一日郊遊。晩過一廃園。垣墻破壊。門□欹側。満池荒涼。只見瓦礫数堆耳。秋琴乃指曰。昔之梅泉荘是也。予愴然顧視。老梅数株。朽余僅存。有寒泉一条。潺々従樹下流出。其声嗚咽。似泣而訴怨者。植杖移□。眉月方挂。如視梅泉之精爽。髣髴現出于前也。躊躇久之。冷風襲衣。仍不忍去。」
 竹田が倶(とも)に郊外に遊んだ秋琴とは誰か。恐くは熊(ゆう)秋琴であらう。名は勇(ゆう)、字(あざな)は半圭(はんけい)、諸熊(もろくま)氏、通称は作大夫である。長崎の波止場に近い処に支那風の家を構へて住んでゐた。竹田は長崎にゐた一年足らずの月日を、多く熊の家に過したさうである。「出入相伴、同遊莫逆」とも云つてゐる。
 秋琴も亦、木下逸雲、僧鉄翁と同じく、江稼圃の門人であつた。又梅泉が梅泉荘を有してゐた如くに、秋琴は睡紅園を有してゐた。
 別に清客張秋琴があつて、蘭軒がこれに書を与へて清朝考証の学を論じたことは上(かみ)に云つたが、これは文化三年十一月晦(みそか)に長崎に来て、蘭軒は翌年二月にこれと会見したのである。想ふに竹田の長崎に遊んだ頃は既に去つてゐたことであらう。

     その百二

 菅茶山の丁丑八月七日の書には、猶落合敬介と云ふ人が見えてゐる。敬助は諸国を遍歴して、偶然茶山の曾遊の跡を踏んで行つた。そして毎(つね)に茶山去後に其地に到つた。蘭軒は茶山に、その現に江戸にあつて、大田と同居し、数(しば/\)己を訪ふことを報じた。敬助は文章を善くした。茶山は評して富麗に過ぐと云ひ、蘭軒をしてその冗を去り簡に就くことを勧めしめむとしてゐる。
 落合□(かう)、字(あざな)は子載、初(はじめ)鉄五郎、後敬助と称し、※[#「隻+隻」、7巻-207-下-10]石と号した。日向国飫肥(おび)の人である。※[#「隻+隻」、7巻-207-下-11]石の事は三村清三郎、井上通泰、日高無外、清水右衛門七の諸家の教に拠つて記す。
 此年文化十四年八月二十五日に、阿部正精(まさきよ)は所謂(いはゆる)加判の列に入つた。富士川游さんの所蔵の蘭軒随筆二巻がある。これは後明治七年に森枳園(きゑん)が蘭軒遺藁一巻として印行したものの原本である。此随筆中「洗浴発汗」と云ふ条(くだり)を書きさして、蘭軒は突然下(しも)の如く大書した。「今日殿様被蒙仰御老中恐悦至極なり。文化十四年八月二十五日記。」
 十二月に至つて、蘭軒は阿部家に移転を願つた。丸山邸内に於ける移転である。勤向覚書にかう云つてある。「文化十四年丁丑十二月九日、高木轍跡屋敷御用にも無御座候はば、拝領仕度奉願上候。同月十七日、前文願之通被仰付候。同十七日、願之通屋敷拝領被仰付候に付、並之通拝借金被成下候。同月廿日、拝領屋敷え引移申候段御達申上候。」即ち移転の日は二十日であつた。
 わたくしの考ふる所を以てすれば、伊沢分家が後文久二年に至るまで住んでゐたのは此家であらう。此高木某の故宅であらう。伊沢徳(めぐむ)さんは現に此家の平面図を蔵してゐる。其間取は大凡(おほよそ)下(しも)の如くである。「玄関三畳。薬室六畳。座敷九畳。書斎四畳半。茶室四畳半。居間六畳。婦人控室四畳半。食堂二畳。浄楽院部屋四畳半。幼年生室二箇所各二畳。女中部屋二畳。下男部屋二畳。裁縫室二畳。塾生室二十五畳。浴室一箇所。別構正宗院部屋二箇所四畳五畳。浴室一箇所。土蔵一棟。薪炭置場一箇所。」此部屋割は後年の記に係るので、榛軒の継室浄楽院飯田氏の名がある。又正宗院(しやうそうゐん)は蘭軒の姉幾勢(きせ)である。しかし房数席数は初より此(かく)の如くであつたかとおもはれる。
 二十三日に蘭軒は医術申合会頭(まうしあはせくわいとう)たるを以て賞を受けた。勤向覚書に云く。「廿三日御談御用御座候所、長病に付名代山田玄升差出候。医術申合会頭出精仕候為御褒美金五百疋被成下候旨、関半左衛門殿被仰渡候。」
 冬至の日に蘭軒は蘇沈良方(そちんりやうはう)の跋を書いた。蘇沈良方は古本が佚亡した。そして当時三種の本があつた。一は皇国旧伝本で寛政中伊良子光通(いらこくわうつう)の刻する所である。一は呉省蘭(ごせいらん)本で嘉慶中に藝海珠塵(げいかいしゆぢん)に収刻せられた。一は鮑廷博(はうていはく)本で乾隆中に知不足斎(ちふそくさい)叢書に収刻せられた。鮑本は程永培(ていえいばい)本を底本となし、館本を以て補足した。皇国本は程本と一致して、間(まゝ)これに優つてゐる。呉本は鮑の所謂(いはゆる)館本である。蘭軒は三本を比較して、皇国本第一、呉本第二、鮑本第三と品定した。
 蘭軒は一々証拠を挙げて論じてゐるが、わたくしは此に蘭軒が鮑本香□散(かうじゆさん)の条(くだり)を論ずる一節を抄出する。「香□散犬が飜(こぼ)して雲の峰。」これは世俗の知る所の薬名だからである。「神聖香□散。注(鮑本注)云。程本作香茸。方中同。疑誤。今遵館本。按。(蘭軒按。)図経本草曰。香□一作香※[#「くさかんむり/矛/木」、7巻-209-上-14]。俗呼香葺。程本茸。即葺之訛。宋板書中。有作香茸者。其訛体亦従来已久。則改作□者。妄断耳。」所謂宋板の書は宋板百川学海(せんがくかい)、又本草綱目引く所の食療本草で、皆茸(じよう)に作つてある。蘭軒は鮑廷博の妄に古書を改むるに慊(あきたら)ぬのである。蘭軒の跋は下(しも)の如く結んである。「嗚呼無皇国本。則不能見其旧式。無呉本。則不能校其字句。無鮑本。則不能知二家之別。三本各成其用。無復遺憾也。宜矣蔵書所以貴多也。古人曰。天下無粋白之狐。而有粋白之裘。余於此書亦云。」
 此年蘭軒は四十一歳、妻益は三十五歳、子女は榛軒十四、常三郎十三、柏軒八つ、長四つであつた。

     その百三

 文政元年の元旦は立春の節であつた。菅茶山が「閑叟更加※[#「聰のつくり」、7巻-209-下-12]劇事、一時迎歳又迎春」と云つた日である。蘭軒は偶(たま/\)心身爽快を覚えて酒を飲んだ。「戊寅元旦作」二首の一にかう云つてある。「君恩常覚官途坦。園趣方添吟味滋。椒酒一醺歌一曲。三年独醒笑吾痴。」自註に「余病後休酒三年、此日初把杯、故末句及之」と云つてある。
 正月二日に蘭軒の庶子良吉が夭した。先霊名録二日の下(もと)に、「馨烈童子、芳桜軒妾腹之男也、名良吉、母佐藤氏、墓在本郷栄福寺、文化十五年戊寅正月」と記してある。即ち側室さよの生んだ子である。生日はわからぬが、恐くは生後直に夭したのであらう。
 人日(じんじつ)に蘭軒は自ら医範一部を写した。医範は素(もと)蘭軒の父信階大升(のぶしなたいしよう)が嘗て千金方(きんはう)より鈔出したものである。蘭軒手写の本は現に伊沢徳(めぐむ)さんが蔵してゐる。又此手写本に就いて門人鼓常時(つゝみつねとき)の複写したものは富士川游さんが蔵してゐる。
 医範九章の末に下(しも)の文がある。「右医範九章。家大人所撮写千金方中。毎旦誦読以自戒也。夫孫真人世以為仙医。固応無所拘束。而有如斯戒律。則凡為医者。豈可不謹慎勉励邪。家大人直取以為我家医範。其有旨哉。恬今手鈔。以与信厚信重二児。爾輩謹守之。文化十五年戊寅人日、伊沢信恬記。」富士川本には此下に、「文政十一年三月念九日鼓常時謹写」と書してある。按ずるに孫思□(そんしばく)は旧新唐書に伝がある。旧唐書に拠るに、歿年は高宗の永淳元年だとしてある。そして年齢が載せてない。癸酉の歳に廬照隣(ろせうりん)と云ふものが孫の家に寓してゐた。癸酉は高宗の咸享四年であらう。廬の聞いた所がかう記してある。「思□自曰。開帝辛酉歳生。至今年九十三矣。」試に癸酉から九十三年溯つて見ると隋の開皇元年辛丑となるらしい。そして永淳元年には百零二歳であつた筈である。しかし「経月余、顔貌不改、挙屍就木、猶空衣」と云ふを見れば、奇蹟である。年齢の知り難いのも怪むに足らない。蘭軒も亦「世以為仙医」と書してゐる。
 此春蘭軒は大田南畝の七十を寿した。恐くは三月三日の誕辰に於てしたことであらう。「寿南畝大田先生七十。避世金門一老仙。却将文史被人伝。詼諧亦比東方朔。甲子三千政有縁。」詩は梅を詠ずる作と瞿麦(なでしこ)を詠ずる作との間に介(はさ)まつてゐる。
 次で夏より秋に至つて、詩八首がある。其中人名のあるものを摘記することとする。原来此種の記載は無用に属するかも知れぬが、或は他書を併せ考ふるに及んで、有用のものとなるかも知れない。わたくしは此の如き楽天観に住して、甘んじて点簿の労に服する。
 先づ真野父子がある。前(さき)に冬旭(とうきよく)とその善書(ぜんしよ)の子とがあつたが、今又竹亭松宇(ちくていしようう)の父子を見る。居る所を陶後園と云ふ。松宇は当時官吏であつた。蘭軒の集に此家の瞿麦と菊との詩がある。「真野松宇宅集、園中瞿麦花盛開、云是先人竹亭先生遺愛之種、因賦一絶為贈。種藝従来向客誇。山園開遍洛陽花。渾為千片斑爛錦。遺愛芳滋孝子家。又。真野松宇陶後園菊花盛開、贈主人。菊花満圃気清高。堪償栽培一歳労。幽事不妨官事劇。君家隠趣大於陶。」
 次に福山の人小野士遠(しゑん)がある。蘭軒は五律を作つてその郷に帰るを送つた。「送小野士遠還福山」として、其五六に「祗役添詩興、躋勝酬素情」と云つてある。

     その百四

 次に戊寅夏秋の詩に出てゐる人物は長谷川雪旦である。雪旦、名は宗秀、又厳嶽(げんがく)、一陽庵等の号がある。此年四十一歳で、肥前国唐津の城主小笠原主殿頭長昌(とのものかみながまさ)に聘せられて九州に往つた。「送画師長谷川雪旦従駕之唐津。移封初臨瀕海城。□騎隊裏虎頭行。大藩如是編新誌。佳境総依彩筆成。又。使君五馬経瑤浦。揮筆応誇清舶商。為説画家唐宋法。真伝存在我東方。」小笠原長昌は前年九月十四日に陸奥国棚倉より徙(うつ)された。それゆゑ「移封初臨」と云つてある。此移封は井上河内守正甫(まさもと)の貶黜(へんちゆつ)に附帯して起つた。正甫は奏者番を勤めてゐて、四谷附近の農婦を姦した。これに依つて職を免じ、遠江国浜松より棚倉へ徙された。水野左近将監忠邦は唐津より来つて其後を襲(つ)ぎ、長昌は又忠邦の後を襲いだ。活版本続徳川実記に左近将監忠邦の傍(かたはら)に「恐和泉守之誤」と註してある。しかし和泉守忠光は忠邦の父で、忠邦は部屋住の時式部と云ひ、叙爵せられて左近将監と云つた。傍註が誤であらう。長谷川雪旦は長昌が唐津城に赴く時、□騎隊裏(すうきたいり)の「虎頭」となつて、筆を載せて行つたのである。
 次に松石双古堂の詩がある。これは蘭軒が狩谷□斎に代つて作つたものである。「遙寄題松石双古堂。拝石詞臣已作顛。愛松隠士漸将仙。高園双種殊堪賞。鎮壌凌雲二百年。」「遙寄題」と云ふから、園は江戸では無かつただらう。園の主人の誰なるを知らない。
 冬に入つては十月十八日に「雪日」の七絶二首があるのみである。わたくしは詩集以外に於て、十二月二十三日に蘭軒が医術申合会頭たる故を以て、例年の賞を受けたことを見出した。集には歳杪(さいせう)の作が無い。これに反して菅茶山は吉村大夫の遠く白河関の図を寄するに会した。「歳杪得吉村大夫寄恵白河関図、賦此以謝」の七律に、「七十一齢年欲尽、三千余里夢還新」の一聯がある。吉村氏、名は宣猷(せんいう)、又右衛門と称した。白川の大夫である。
 此年戊寅は茶山の京阪に遊んだ年である。吉野から江戸の岡本花亭に詩を寄せた。「誰知当此夜。身在此山中。想君亦尋花。歩月墨水東。月自照両処。花香不相通。恰如心相思。遊迹不可同。」何ぞ料(はか)らむ、これは花亭が書を上(たてまつ)つて職を罷めた三月であつた。
 頼氏では此年山陽が西遊稿を留めた。茶山と山陽との友登々庵武元質(とうとうあんたけもとしつ)が二月二十四日に歿した。これは茶山の輙(すなは)ち信ずることを欲せざる凶報であつた。「遠郷恐有伝言誤。将就親朋看訃音。」
 此年蘭軒は四十二歳、妻益は三十六歳、子女は榛軒十五、常三郎十四、柏軒九つ、長五つであつた。
 文政二年の元旦には、蘭軒は江戸にあつて、子弟門生の集つて笑語するを楽み、茶山は神辺にあつて、閭里故旧の漸く稀になり行くを悲んだ。蘭軒の「己卯元日」はかうである。「山靄初晴旭日紅。纔斟椒酒意和融。未聞黄鳥新歌曲。春色已生人語中。」茶山の「元日口号」はかうである。「村閭相慶往来頻。老眼偏驚少識人。政爾陽和帰四野。誰回身上旧青春。」
 九日は江戸の気候が稍(やゝ)暖(あたゝか)であつたものか。蘭軒の「草堂小集」には「梅発初蘇凍縮身」、「数曲鶯歌在翠□」等の句がある。茶山の「人日」は錯愕の語を作(な)してある。「無端玉暦入青春。宿雪終風未覚新。七種菜羮香迸案。計来今日已為人。」第四の韻脚は「限韻」の註を得て首肯せられる。更におもふに蘭軒の梅花鶯語は必ずしも実に拠らなかつたかも知れない。「花朝」の詩には、「閏年寒威奈難消、一半春光属寂寥」とも云つてあるからである。己卯には閏(じゆん)四月があつた。
 春の詩と夏の詩との間に、「奉寿養安院曲直瀬先生七十、代山本恭庭」の七絶がある。武鑑を検すれば、奥医師に「養安院法印、千九百石、きじはし通小川町」があり、奥詰医師に「曲直瀬正隆、父養安院、二十人扶持、きじはし通」がある。若し前(さき)に云つた如く恭庭即宗英法眼だとすると、恭庭は同僚を寿せむがために蘭軒の作を索(もと)めたのである。

     その百五

 蘭軒の集には、此年己卯に夏の詩が二首あつて、其末に題画が一首ある。並に人名地名を載せない。次に秋の詩が六首あつて、其中に詠史が一首入つてゐる。史上の人物は和気清麿で、蘭軒は此公に慊(あきたら)ざるものがあつたやうである。「奉神忽破托神策。何知従来不巧機。」
 秋の詩の中に蘭軒が旧友西脇棠園といふものに訪はれた七律がある。詩の引には「中秋前一日雨、草堂小集、時棠園西脇翁過訪、余与翁不相見、十余年於此、故詩中及之」と云つてある。「冷雨凄風林葉鳴、笠簑相伴訪柴荊」の句がある。棠園、名は簡(かん)、通称は総右衛門、此年五十七歳であつた。十余年前の相識と云ふからは、文化初年の友であつただらう。西脇は多く聞かぬ氏族である。わたくしは五山堂詩話中に於て唯一の西脇薪斎(しんさい)を見出した。薪斎は福島の士である。薪斎と棠園との縁故ありや否を知らない。
 中秋には余語天錫(よごてんせき)の家に詩会があつて、蘭軒はこれに□(のぞ)んだ。其夜は月蝕があつたので、「幸将丹竈君家術、理取嫦娥病裏顔」の句がある。菅茶山にも亦「中秋有食」の詩があつた。「去歳既被雲陰厄、今年又逢此虫食」は其七古中の一解である。
 次に冬の詩が四首あるが、其中には伝記に補入すべきものを見ない。わたくしは詩巻を掩うて勤向覚書を繙(ひもと)く。そしてそこに蘭軒の身上に重要なる事のあるのを見出す。
 阿部侯正精(まさきよ)は此年文政二年十一月二十七日に、遂に蘭軒をして儒にして医を兼ぬるものたらしめたのである。「十一月廿六日私儀明廿七日被為召候所、足痛に付名代皆川周安差出候段御届申上候。廿七日、前文之通周安差出候所、私儀御儒者被仰付候、医業只今迄之通と被仰付候。月並御講釈、学文所出席は御用捨被成下候。」一旦表医師となつて雌伏した蘭軒が、今や儒官となつて雄飛するに至つた。慣例を重んずる当時にあつては、異数と謂はなくてはなるまい。
 十二月二十三日に蘭軒は例に依つて医術申合会頭としての賞を受けた。
 此年伊沢宗家の主人信美(しんび)が歿した。伊沢徳(めぐむ)さんの繕写する所の系図には、四月二十一日歿すとしてある。蘭軒手記の勤向覚書には、閏(じゆん)四月六日に伊沢玄安が歿したために忌引をすると云つてある。玄安は信美の通称で、その終焉の日を殊にするは、分家が阿部家に届けた日と、宗家が黒田家に届けた日との差ではなからうか。
 わたくしは伊沢信平さんに請うて宗家の過去帳を検してもらつた。「御申越しにより過去帳取調候処、左之通に御座候。五代目玄安、称仙軒徳山信美居士、文政二年己卯年四月廿二日卒。」名は信美、通称は玄安で、歿日は四月二十二日とするものに従ふべきであらう。
 小島氏では此年宝素尚質(なほかた)の妻山本氏が六月十九日に歿した。尋で尚質の納れた継室が一色氏で、即ち春沂(しゆんき)の母である。
 頼氏では山陽が四十歳になつた。「平頭四十驚吾老、何況明朝又一年」は其除夜の詩句である。田能村竹田が此秋江戸に来た。
 此年蘭軒四十三歳、妻益三十七歳、榛軒十六歳、常三郎十五歳、柏軒十歳、長六歳であつた。

     その百六

 文政三年春は江戸が特に暖であつたらしい。前年の十二月中雪が一度も降らなかつたことが、蘭軒の「庚辰元旦」の詩に見えてゐる。「三冬無雪自軽暄。今歳元旦春色繁。計得出遊宜火急。梅荘恐没一花存。」雪は正月の初に降つた。元旦と人日(じんじつ)との詩の間に、「雪日偶成」の作が介(はさ)まつてゐる。神辺の元旦はこれに反して雪後であつた。茶山の律詩に叙景の聯がある。「流漸汨々野渠漲。残雪輝々林日斜。」
 此年の初には蘭軒は殆(ほとんど)戸外に出でずにゐたらしい。「豆日草堂小集」の詩に、「春至未趨城市間、梅花鳥哢一身閑、那知雪後泥濘路、吟杖相聯訪竹関」と云つてある。此の如く城市の間に趨かずにゐたのは、多く筆硯に親んだからである。張従正(ちやうじゆうせい)が儒門事親(じゆもんじしん)の跋文、「庚辰人日、記於三養書屋燈下」と書したるものの如きも、その作為する所の一である。儒門事親は京都の伊良子氏が元板を蔵してゐた。経籍訪古志補遺に「太医張子和先生儒門事親三巻」と記してあるものが即是である。多紀桂山がこれを借りて影写し、これに考証を附した。医□に載せてあるものが其全文で、訪古志には節略して取つてある。蘭軒は高島信章をして多紀本を影写せしめ、自ら跋して家に蔵した。
 漢医方には温和なるものと峻烈なるものとがあつた。所謂補瀉(ほしや)の別である。峻烈手段には汗(かん)吐(と)下(げ)の三法があるが、其一隅を挙げて瀉と云ふのである。張従正は瀉を用ゐた。素(もと)汗吐下の三法は張仲景(ちやうちゆうけい)に至つて備はつたから、従正は当(まさ)に仲景を祖とすべきである。然るに此に出でずして、溯つて素問を引いた。且つ従正は瀉を用ゐるに、殆所謂撓枉過中(ぜうわうくわちゆう)に至つて顧みず、瀉を以て補となすと云つた。これは世医の補に偏するを排せむと欲して立言したものである。蘭軒はかう云つてゐる。「素問者論医之源。其道也大。可以比老子。仲景者定医之法。其言也正。可以比孔子。金張従正者究医之術。其説也権。可以比韓非矣。」従正の素問を引いたのは、韓非の老子を引いたのと似てゐる。姦吏法を舞(まは)し、猾民令を欺く時代には、韓非の書も済世の用をなす。諸葛亮が蜀の後主に勧めてこれを読ましめた所以である。偏補の俗習盛んに行はるれば、従正終(つひ)に廃すべからずと云ふのである。
 張従正、字(あざな)は子和(しわ)、□州(すゐしう)考城の人、金大定明昌の間医を以て聞え、興定中太医に補せられた。我源平の末、鎌倉の初に当る。其書を儒門事親と名づけたのは、「惟儒者能明辨之、而事親者、不可以不知」と云ふにある。
 蘭軒の集には人日後春季の詩が五首ある。わたくしは此に「三月尽」の一絶を抄する。蘭軒がいかに此春を過したかを知る便(たつき)となるものだからである。「従来風雨祟花時。梅塢桃村緑稍滋。纔是出遊両三度。今朝徒賦送春詩。」蘭軒は少くも両三度の出遊を作(な)すことを得たと見える。
 夏に入つて四月十二日に蘭軒の妾(せふ)佐藤氏さよが一女子を挙げた。名は順と命ぜられた。饗庭篁村さんの所蔵に菅茶山尺牘の断片がある。茶山が順の生れたことを聞いて書いたものである。
「特筆。」
「先比(さきころ)は吾兄医はもとのごとく、別に儒者被仰付候由奉賀候。御格禄も殊なり候よし、これも被仰下度候。又御女子御出来被成候よし奉賀候。王百穀が七十にて男子をまうけし時、袁中郎が書に老勇可想とかきたるを以みれば、吾兄は病勇可畏などと申上べきや。これらの語□斎へは御談可被下候。尊内人、令郎君、おさよの方へも宜奉願上候。晋帥。」
 前年己卯十一月の儒者の任命と、此年孟夏の女子の誕生とを聞知した時の書である。断片には日附が闕けてゐる。毎に「おさよどの」と云ひ、又単に「おさよ」とも云つた茶山が今「おさよの方」と書した。亦諧謔の語である。

     その百七

 此年文政三年の五月、蘭軒は医心方の跋を作つた。医心方の影写は文化十四年丁丑に始まり、此年三月に終つた。即殆三年を費した事業である。
 丹波康頼(やすより)は後漢の霊帝十三世の孫である。康頼八世の祖が日本に帰化して大和国檜隈郡(ひくまのこほり)に居つた。六世の祖に至つて丹波国矢田郡に分れ住んだ。康頼に至つて丹波宿禰の姓を賜はつた。これが世系の略である。此康頼が円融天皇の天元五年に医心方三十巻を撰び、永観二年十一月二十八日にこれを上(たてまつ)つた。
 医心方は世(よゝ)秘府(ひふ)に蔵儲せられてゐた。そして全書の世間に伝はつたのが安政元年十一月十三日であつたことは、嘗て渋江抽斎の伝に記した如くである。是より先正親町天皇の時、典薬頭半井瑞策(なからゐずゐさく)が秘府より受けて家に蔵することとなり、其裔孫(えいそん)広明(ひろあき)に至つて出して徳川氏に呈したのである。
 然るに安政の「医心方出現」に先だつて、別に仁和寺本と称する一本があつた。そしてその秘して人に示さぬことは、半井本と殊なることがなかつた。寛政三年、即多紀氏の躋寿館(せいじゆくわん)が私立より官設に移された年に、躋寿館は此仁和寺本を影写して蔵することを得た。
 仁和寺本は残脱の書であつて、後に出でた半井本に比すべきではなかつたが、当時の学者はこれだに容易には窺ふことを得なかつたのである。そしてその偶(たま/\)鈔写することを得たものは、至宝として人に誇つた。それは下(しも)の如きわけである。
 六朝から李唐に至る間、医書の猶存するものは指を※(かゞな)[#「てへん+婁」、7巻-218-下-5]ふるに過ぎない。然るに隋唐経籍志に就いて検すれば、佚亡の書の甚多いことが知られる。それゆゑせめては間接に此時代の事を知らうといふ願望が生ずる。これは独り医家を然りとするのみでは無い。考古学者と雖亦同じである。
 幸に外台秘要(ぐわいたいひえう)と云ふ書がある。唐の王□(わうたう)の著す所である。□は珪の孫で、新唐書王珪の伝の末に数行の記載がある。此書は引用する所が頗(すこぶる)広いので、文献の闕を補ふに足るものである。只憾むらくは宋代の校定を経来り、所々字句を改易せられてゐる。新唐書に拠れば、「討繹精明、世宝焉」と云つてあつて、当時既に貴重の書であつた。宋人の妄(みだり)に変改を加へたのは慮(おもんぱかり)の足らなかつたものである。題号の外台は、徐春甫が「天宝中出守大寧、故以外台名其書」と云つた。これは朝野類要の「安撫転運、提刑提挙、実分御史之権、亦似漢繍衣之義、而代天子巡狩也、故曰外台」と云ふと同じく、外台を以て地方官の義となしたのである。しかし□は自序に、「両拝東掖、便繁台閣二十余歳、久知弘文館図書方書等、□是覩奥升堂、皆探秘要云」と云つてある。是に由つて観れば、魏志王粛伝の註に薛夏(せつか)の語を引いて、「蘭台為外台、秘書為内閣、台閣一也」と云ふが如く、所謂外台は即台閣ではなからうか。これは多紀桂山の考証である。
 外台秘要が既に旧面目を存せぬとすると、学者は何に縁(よ)つて李唐以上の事を窮めようぞ。只一の医心方あるのみである。蘭軒はかう云つてゐる。「康頼編此書。其所引用百余家。皆六朝及唐代之書。而且有経籍志不録者。王氏書不載者数十家。而其見存之書。亦体裁字句。間有大異。按皇朝往昔。通信使於唐国。留学之徒。相継不絶。二百有余年。而所齎来載籍。即当時之鈔本。所直得於宮庫或学士。非如趙宋而降。仮工賈之手。以成帙者也。康頼蓋資用於此。故皆是原書之旧。而所以異於見存者也。」

     その百八

 蘭軒は医心方を影写するに、島武(たうぶ)と云ふものの手を倩(やと)つた。そして自らこれに訓点を施した。島武は或は彼の儒門事親を写した高島信章と同人ではなからうか。跋にかう云つてある。「右丹波康頼医心方廿本。借之多紀氏聿脩堂。友人島武為余影鈔。如其旁訓朱点。乃余手鈔写焉。以青筆者。桂山先生之標記也。以朱筆抹旁者。余自便於捜閲人名与書目也。」わたくしはこれを読んで、蘭軒に「集書家」の目(もく)を与ふることの或は妥(おだやか)ならざるべきを思ふ。蘭軒は書を集むるを以て能事畢るとなしたものではない。その校讐に労すること此の如くであつた。しかも所謂校讐は意義ある校讐であつた。又其書を活用せむがための校讐であつた。
 此年文政三年の夏、集中に詩四首が載せてあつて、其二は福山に還る人を送る作である。一は鈴木圭輔(すゞきけいすけ)、一は馬屋原伯孝(まいばらはくかう)である。
「送鈴木先生圭輔還福山」の詩はかうである。「分手不須歎索居。帰程行装寵栄余。芸窓占静校新誌。華館侍閑講尚書。月朗鴨川涼夜色。濤高榛海素秋初。到来応是推儒吏。恰似倪寛得美誉。」圭輔が儒を以て阿部家に仕へたものであることは、詩が既に自ら語つてゐる。
 しかしわたくしは圭輔の事を今少し精(くは)しく知りたく思つた。菅茶山の集には鈴圭輔(れいけいほ)と書してある。渡辺修次郎さんの阿部正弘事蹟には、「正精(まさきよ)の時、村上清次郎、菅太仲、鈴木圭輔、北条譲四郎(中略)皆藩の儒員たり」と記してある。只それだけである。わたくしは浜野知三郎さんを煩はして検してもらつた。
 鈴木圭、字(あざな)は君璧(くんへき)、宜山(ぎざん)と号した。通称は初め圭雲、中ごろ圭輔、後徳輔である。天明八年「儒医之場へ被召出、弘道館学術世話取並御屋形御講釈、」寛政二年「御医師本科、」七年「眼科兼、」十年「儒医、」享和二年「上下格(かみしもかく)御儒者、」文化六年「奥詰、」十年「御使番格、」文政二年「江戸在番、」三年「大御目付被仰付、奥詰並御家中学問世話是迄之通、」七年「御儒者、」十年「奥詰、」天保二年「江戸在番、」以上が官歴の略である。
 圭輔の召し出されたのは天明八年、茶山は寛政四年である。府志の編纂、阿部神社の造営は、二人が共に勤めた。
 圭輔は江戸在番を命ぜらるること二度であつた。初は文政二年に入府し、三年に大目附にせられて在番を免ぜられた。「六月十七日帰郷之御目見」と云つてある。これが蘭軒の詩を贈つた時である。後の入府は天保二年で、三年に帰つた。
 圭輔は天保五年九月二十六日に、六十三歳で歿した。墓は東町洞林寺にあつて、篠崎小竹が銘してゐる、子卓介が後(のち)を襲(つ)いだ。後秉之助(へいのすけ)と云ふ。名は秉、字は師揚(しやう)、号は篁翁(くわうをう)、小竹の門人である。明治十七年一月十二日に歿した。
 次に「馬屋原伯孝将還福山、因示一絶」の詩はかうである。「読書万巻一要醇。学不如斯医不神。斗火盤冰方是癖。勝於岐路逐羊人。」馬屋原伯孝(まいばらはくかう)の何人なるかは、わたくしは毫も知らぬので、これも亦浜野氏に質(たゞ)した。そして伯孝の蘭軒の門人であるべきことが略(ほゞ)明なるに至つた。蘭軒が贈るに訓誨の語を以てした所以であらう。

     その百九

 此年文政三年の夏、鈴木宜山(ぎざん)に次いで、江戸から福山へ帰つたものに、馬屋原伯孝があつて、蘭軒がこれにも贈言(ぞうげん)したことは、前に云つた如くである。
 わたくしは手許にある文書を検した。そして蘭軒の門人録に一の馬屋原周迪(しうてき)があることを発見した。伯孝と周迪とは均(ひと)しく馬屋原を氏として、均しく蘭軒に接触した人である。しかも伯孝は福山に帰つた人で、周迪の名の下(しも)にも福山と註してある。わたくしはその或は同一の人物なるべきを推した。
 しかしわたくしは既に羮(あつもの)に懲りてゐる。曩(さき)にわたくしは太田孟昌の名を蘭軒の集中に見、又伊沢氏の口碑に太田方(はう)の狩谷□斎の門人なることを錯(あやま)り伝へてゐるのを聞いて、二者の或は同一人物なるべきを思つた。然るに方、字(あざな)は叔亀(しゆくき)は父で、周、字は孟昌は子であつた。それゆゑわたくしは過を弐(ふたゝ)びせざらむがために、浜野知三郎さんを労するに至つた。浜野氏のわたくしに教ふる所は下の如くであつた。
 菅茶山等の編した福山志料第十二巻神農廟の条にかう云ふ記事がある。「福山の町医馬屋原玄益(げんえき)なるもの、享保廿一年神農の像を彫刻し、封内の医師五十人と相はかり再建し侍り。」これが医師馬屋原氏の書籍に記載せられた始である。
 阿部家の医官馬屋原氏は世(よゝ)玄益と称した。
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