伊沢蘭軒
著者名:森鴎外
わたくしは此新史料を獲て、最初に京水廃嫡の顛末を検した。先祖書に云く。「善卿総領池田瑞英善直、母は家女、病気に而末々御奉公可相勤体無御座候に付、総領除奉願候処、享和三亥年八月十二日願之通被仰付候。然る処年を経追々丈夫に罷成医業出精仕候に付、文政三辰年三月療治為修行別宅為致度段奉顧候処、願之通被仰付別宅仕罷在候処、天保七申年十一月十四日病死仕候。」
善卿は初代瑞仙の字(あざな)である。先祖書には何故か知らぬが、世々字を以て名乗(なのり)としてある。瑞英善直の京水たることは、過去帖の宗経軒京水瑞英居士と歿年月日を同じくしてゐるのを見れば明である。
是に由つて観れば、錦橋行状の庶子善直が即京水であつたことは、復(また)疑ふべからざることとなつた。行状に云く。「君(錦橋)在于京師時。娶佐井氏。而無子。嘗游于藝華時、妾挙一男二女。男曰善直。多病不能継業。二女皆夭。」
京水は錦橋の庶子であつた。先祖書の文が行状の文と殆全く相符してゐて、唯先祖書に「母は家女」と書してあるのは、公辺に向つての矯飾であつただらう。そして直卿は行状を撰ぶに当つて、信を後世に伝へむがために、此矯飾を除き去つたのであらう。
現存する所の先祖書は、元治元年に三世瑞仙直温の官府に呈したものである。しかし其記事は先々代乃至先代の書上(かきあげ)と一致せしめざることを得ない。他家の書上の例を考ふるに、若しこれを変易するときは、一々拠るところを註せなくてはならない。此故に直温の文中錦橋の履歴は錦橋の自撰と看做すことを得べく、又霧渓直卿の履歴は霧渓の自撰と看做すことを得べきである。
官府に上(たてまつ)る先祖書には、錦橋は京水を以て実子となした。霧渓も亦京水を以て養父錦橋の実子となした。但霧渓は養父の行状を撰ぶに当つて、京水の嫡出にあらざることを言明したに過ぎない。要するに二世瑞仙霧渓の時に至るまでは、京水が錦橋の実子たることに異議を挾(さしはさ)むものはなかつたのである。
降つて三世瑞仙直温の時に及んで、始て異説が筆に上せられた。それは過去帖の「宗経軒京水瑞英居士、五十一歳、初代瑞仙長男、実玄俊信卿男、天保七丙申十一月十四日」といふ文である。然らば京水の実父玄俊とは何人ぞ。同じ過去帖に云く。「憐山院粛徳玄俊居士、信卿、瑞仙弟、京水父、同(寛政)九丁巳八月二日、寺町宗仙寺墓あり、六十歳。光嶽林明大姉、同人妻、京水母、宇野氏、天明六丙午、三十六歳。」即ち京水を以て錦橋の弟玄俊信卿の子、宇野氏の出(しゆつ)となすのである。
わたくしは此より進んで議論することを欲せない。言ふところの臆測に墜ちむことを恐るゝからである。わたくしの京水研究は且(しばら)く此に停止する。今わたくしの知り得た所を約記すれば下(しも)の如き文となる。
「池田京水、初の名は善直、後名は※(いん)[#「大/淵」、7巻-182-下-4]、字(あざな)は河澄(かちよう)、瑞英と称す。父は錦橋独美善卿、母は錦橋の側室某氏なり。天明六年大坂西堀江隆平橋南の家に生る。享和三年八月十二日十八歳にして廃嫡せらる。文政三年三月三十五歳にして分家す。天保七年十一月十四日病歿す。年五十一。一説に京水は錦橋の弟玄俊信卿の子なり。母は宇野氏。錦橋に養はれて嗣子となり、後廃せらる。」
その八十九
わたくしは此年文化十三年に池田錦橋の歿したことを書く次(ついで)に、曾て池田氏の事蹟を探討した経過を語つた。既に先祖書を得た今、わたくしは未だこれを得なかつた昔に比ぶれば、暗中に一穂(すゐ)の火を点し得た心地がしてゐる。しかし許多(あまた)の疑問はなか/\解決するに至らない。前に挙げた京水出自の事の如きは其一である。
錦橋は此年に歿した。しかしその歿した時の年齢が不明である。わたくしは渋江抽斎の伝に於て、霧渓所撰の錦橋行状に年齢の齟齬を見ることを言つた。そして生年より順算して推定を下さうとした。今先祖書を得た上はこれを覆覈(ふくかく)して見なくてはならない。
行状を見るに、錦橋は「以享保乙卯五月二十二日生」としてある。享保二十年錦橋生れて一歳となる。次に「宝暦壬午春、携母遊于安藝厳島、時年二十八」としてある。宝暦十二年二十八歳となる。次に「安永丁酉冬、(中略)抵于浪華、(中略)年四十」としてある。安永六年四十三歳であるべきに、四十歳と書してある。齟齬は此辺より始まる。次に「寛政壬子秋、游于京師、(中略)年五十五」としてある。寛政四年五十八歳であるべきに、五十五歳と書してある。次に「丁巳正月来于東都、年六十四」としてある。寛政九年六十三歳であるべきに、六十四歳と書してある。最後に「文化丙子九月六日病卒、享年八十有三」としてある。文化十三年八十二歳であるべきに、八十三歳と書してある。要するに安永中より寛政の初に至る間三歳を減じ、寛政の末より一歳を加へ、遂に歿年に一歳を加ふるに至つたのである。そこでわたくしは幹枝(かんし)と年歯との符合するものを重視し、生年に本づいて順算することゝした。即ち歿年は八十三にあらずして八十二となるのである。
然らば直温所撰の過去帖は奈何(いかに)。過去帖は錦橋の父母妻子の齢(よはひ)を具(つぶさ)に載せながら、独り錦橋の齢を載せない。直温は夙(はや)く旧記の矛盾に心付いたので、疑はしきを闕いで置いたのではなからうか。
新に得たる直温所撰の先祖書は奈何。先祖書には、年次若くは干支と年齢とを併せ載せた処が僅に二箇所あるのみである。「八歳之時父(錦橋父)正明病死仕候」と云ひ、「池田杏仙正明、寛保二戌年正月十六日病死」と云ふのが一つである。「同年(文化十三子年)十月晦日病死仕候、年八十三歳」と云ふのが二つである。歿した月日の行状と異つてゐるのは、官府に呈する文書には届出の月日を記したためであらう。
唯二箇所である。而して年次若くは干支と年齢との齟齬は、その二つのものの間にさへ存してゐる。これは直卿撰の行状に影響した或物が、早く善卿撰の先祖書に影響し、延(ひ)いて直温撰の先祖書にも及んだのであらう。先祖書の寛保二年錦橋八歳は享保二十年乙卯生に符合してゐる。これが安永前の記事である。文化十三年八十三歳は生年より推算して一歳の過多を見る。これが安永以後の記事である。先祖書を受理する慕府刀筆の吏も、一々年次と年齢とを験するために算盤を弾きはしなかつたと見える。
以上記する所に就いて考ふるに、錦橋が年齢の牴牾(ていご)は、どうも錦橋自己より出でてゐるらしい。錦橋は江戸に来た比から、毎(つね)に其齢(よはひ)に一歳を加へて人に告げた。それが自ら作つた先祖書に上り、養子霧渓の撰んだ行状にも入つたのであらう。
その九十
わたくしは池田錦橋の死を語り、又錦橋並に其一族の事蹟に幾多未解決の疑問のあることをも言つた。その主なるものは錦橋の年齢、其廃嫡子京水の出自等である。
錦橋の末裔鑑三郎さんと姻戚窪田寛さんとの、わたくしに借覧を許した先祖書は、此家の事を徴するに足る重要文書たることは勿論である。しかしわたくしは此に由つて一の難路を通過した後、又前面に一の難路の横はつてゐるのを望見するが如き感をなしてゐる。
向島嶺松寺の池田氏の諸墓には、誌銘が刻してあつたさうである。推するに錦橋の墓誌は今存する所の行状と大差なからう。これに反してわたくしの切に見むことを願ふものは京水の墓誌である。曾て富士川游さんは其一部を抄写したが、わたくしは其全文を見むことを欲する。且何人が撰んだかを知らむことを欲する。然るに其碑碣は今亡くなつてしまつたのである。
錦橋の墓は嶺松寺にあつたものが既に滅びても、其名は鑑三郎の建てた合墓(がふぼ)に刻まれてゐる。又黄蘗山にも墓碑を存してゐるさうである。疇昔の日無名氏があつて、わたくしに門司新報の切抜を寄せてくれた。文は何人の草する所なるを知らぬが、想ふに檗山紀勝(はくさんきしよう)の一節であらう。「独立(どくりふ)の塔に隣りて池田錦橋の墓あり。この人は別に檗山に関係あるものにあらねど、氏の祖父は周防国玖珂郡(くがごほり)通津浦(つづうら)の人にして、岩国に於て独立に就いて痘科の秘訣を伝へて家学とし、氏に至りて幕府の医官たり。独立化後(けご)その塔は多分氏の建立せしものならむ。氏の墓は門人近藤玄之(げんし)、佐井聞庵(ぶんあん)、竹中文輔(ぶんすけ)の同建にかかる。氏の門人録によれば、近藤は下総の人にして、佐井竹中の両氏は録中にその名を見ず、晩年の門人ならむとおもはる。」檗山錦橋の碑には、建立者三人の氏名を除いては、何も彫(ゑ)つてないのであらうか。わたくしはそれが知りたい。わたくしは此記の誰が手に成れるかを知らぬが、其人は既に錦橋の門人録を閲(けみ)してゐる。贄(し)を執るものに血判せしめた錦橋の門人録は、或は珍奇なる文書ではなからうか。其人は或は池田氏の事に精(くは)しい人ではなからうか。
嶺松寺の廃せられた後、遺迹の全く亡びたのは京水である。わたくしは最も京水の墓の処分せられ、其誌銘の佚亡に至つたことを惜む。
爰(こゝ)に吉永卯三郎さんと云ふ人がある。わたくしに書を寄せてかう云ふことを報じてくれた。「嶺松寺及池田氏墓誌銘は江戸黄蘗禅刹記巻第五に記載有之候。右書は帝国図書館に所蔵有之候。其方差支有之候はば、小生も一本を持居候。池田錦橋氏の墓は山城宇治黄蘗山万松岡独立墓の側にも一基有之候。」想ふに禅刹記には必ず錦橋の墓誌が載せてあるであらう。若し京水のものも併せ載せてあつたなら、それは予期せざる幸であらう。若し富士川氏の手抄に偶(たま/\)一節を保存せられた文の全篇が載せてあつたなら、それは予期せざる幸であらう。
わたくしは蔵書の乏しい癖に、図書館には疎遠である。吉永氏の書を得た後、未だ一訪するに及ばない。識る所の書估の云ふを聞くに、江戸黄蘗禅刹記は所謂(いはゆる)珍本ださうである。買ひ求むることはむづかしさうである。或はわたくしも早晩遂に図書館に趨らざることを得ぬかも知れない。
その九十一
小島春庵尚質(なほかた)が初て妻を娶つたのも、此年文化十三年十一月二十九日である。春庵尚質は春庵根一(もとかず)の子で、所謂(いはゆる)宝素である。長井金風さんの言(こと)に拠れば、曾て揚上善(やうじやうぜん)の大素経(たいそけい)を獲て、自ら宝素と号したのださうである。尚質の母は蘭学者前野良沢憙(りやうたくよみす)の女(むすめ)である。憙は老後根岸の隠宅から小島の家に引き取られて終つた。尚質の初の妻は山本宗英(そうえい)の女である。春沂(しゆんき)を生んだのは此女ではない。此女の歿した後に来た後妻である。
此年蘭軒は四十歳、妻益は三十四歳、子女は榛軒十三歳、常三郎十二歳、柏軒七歳、長三歳であつた。
文化十四年には蘭軒が「丁丑新歳作」と題する七律を遺してゐる。「君恩未報抱□痾。暖飽逸居頭稍※[#「白+番」、7巻-186-下-14]。梅発暄風香戸□。靄含春色澹山阿。好文化遍家吟誦。奏雅声調人暢和。新歳不登公館去。椒樽相対一酣歌。」一二七の三句があつて病蘭軒の詩たるに負(そむ)かない。「頭稍※[#「白+番」、7巻-187-上-3]」は恐くは実を記したものであらう。頸聯には自註がある。「註云。我公好学多年。群臣亦大化。他諸侯之国。如我藩者絶少矣。去年来公又以暇日。時或習古楽。有侍臣数人亦学之者。邸中※[#「瓜+炮のつくり」、7巻-187-上-6]竹之声。頗使人融雍。故五六及之。」阿部侯正精(まさきよ)は丙子の年から雅楽を習ひはじめたと見える。
菅茶山は此年正月二十一日に蘭軒に与ふる書を作つた。此書も亦饗庭篁村さんの蔵儲中にある。
「新禧弥(いよ/\)御安祥御迎可被成遙賀仕候。晋帥病懶依然御放念可被下候。去年下宮大夫(しもみやたいふ)臥病の節は御上屋敷迄も御出之由、忙程之事出来候へば大慶也。追々脚力も復し可申やと奉存候。只私がごとくよりによりたる年浪は立帰る期(ご)なし。御憐察可被下候。」
「扨津軽屋へ約束いたし候院之荘之古簾(ふるすだれ)、旧冬やう/\と得候故、船廻しに而(て)進(しんじ)候。御届可被下候。後醍醐帝御旅館某(それがし)が家に、今簾をかけ候。これは須磨などに行在処(あんざいしよ)の跡とてかけ候を見及たるや。即備後三郎が詩を題せし所也。作州津山(さくしうつやまより)四五里許(ばかり)有之所のよし、院之荘は其地名也。これは十四年前備前之人を頼置候。度々催促すれども得がたし/\と申而居候故、もはやくれぬ事かと思切ゐ申候処、去冬忽然と寄来候。作州より三十里川舟にて岡山へ参、夫より洋舟(なだふね)にて三十里、児島を廻る故遠し、笠岡てふ所へ参、そこより三里私宅へ参候へば、物は軽く候へども、世話は世話也。銭は一文もいらず候。此世話計(ばかり)をかの十符(とふ)の菅菰(すがごも)之礼と被仰可被下候。」
「扨市野など不相替会合可有之遙想仕候。梧堂はいかが。杳然せうそこなし。其外存候人へ御致声(ごちせい)宜奉願上候。別而(べつして)御内政(ごないせい)様おさよどのへ御祝詞奉願上候。此次(このたび)状多したため腕疲候而やめ申候。春寒御自玉可被成候。恐惶謹言。正月廿一日。菅太中晋帥(くわんたいちゆうしんすゐ)。伊沢辞安様。去年詩画騒動之詩、尺牘とも見申候。番付未参候、あらば御こし可被下候。詩御一笑可被下候。うつさせて梧堂へ御見せ可被下候。」
「尚々卿雲へこたび書状なし。宜御申可被下候。たび/\問屋のやう御頼、所謂(いはゆる)口銭もなし。御面倒奉察候。」
その九十二
此丁丑正月の菅茶山の書に所謂「下宮大夫臥病」云々は、前に引いた勤向覚書に見えてゐる往診の事である。大夫下宮、通称は三郎右衛門、神田にある阿部家の上屋敷にゐて病に罹つたので、蘭軒は丸山の中屋敷から往診した。此機会に蘭軒は轎(かご)に乗つて上屋敷に出入する許可を受けたのである。
院之荘の簾(すだれ)の事は興ある逸話である。狩谷□斎は茶山に十符(とふ)の菅薦(すがごも)を贈つた。茶山は其報(むくい)に院之荘の簾を遺(おく)ることを約した。それを遷延して果さなかつたのに、今やう/\求め得て送つたのである。
「去年詩画騒動」とは底事(なにごと)か未だ考へない。当時寛斎、天民、五山、柳湾の詩、文晁、抱一、南嶺、雪旦の画等が並び行はれてゐたので、「番附」などが出来、其序次が公平でなかつたために騒動が起つたとでも云ふ事か。「詩尺牘とも」見たと、茶山は云つてゐるが、※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-188-下-9]詩集にはそれかと思はるる詩も見えない。
慣例のコンプリマンは簾を得て書を得ざる□斎、茶山の詩を見せてもらふ石田梧堂の外、蘭軒の妻妾(さいせふ)に宛(あ)ててある。
蘭軒の集中には此年元旦の作の後に、春季の詩七首がある。此にその作者の出入起居を窺ふべきものを摘取することとする。蘭軒の例として催す「豆日草堂集」は、恰(あたか)も好し、雪の新に霽れた日であつた。「竹裏数声黄鳥啼。漫呼杖□到幽棲。恰忻春雪朝来霽。麗日暄風晞路泥。」又「春日即事」の詩に「春困奈斯睡味加、筑炉薩罐煮芳芽」の句がある。筑炉の下(もと)には「家姉之所贈」と註し、薩罐(さつくわん)の下には「家兄之所贈」と註してある。家姉の幾勢(きせ)たるは論なく、家兄は蘭軒の宗家伊沢信美(しんび)を呼ぶ語であつたことが、此に由つて考へられる。菅茶山が「麻布令兄」と書した所以(ゆゑん)であらう。此春蘭軒は轎(かご)に乗つて上野の花をも見に往つた。「東叡山看花」の絶句に、「劉郎不復曾遊態、扶病漫追芳候来」の句がある。
長崎に真野遜斎(まのそんさい)と云ふものがあつて、六十の寿筵が開かれたのも此春である。蘭軒の「遙寿長崎遜斎真野翁六十」の詩に、「嚢中碧□伝三世、局裏金丹恵衆民」の頷聯があつて、其下に「老人為施薬所主司」と註してある。
僧混外(こんげ)が蘭軒に芭蕉を贈つたのも此春である。「清音閣主混外上人見贈芭蕉数根、賦謝」として七絶がある。「懐師方外辱交情。寄贈芭蕉数本清。従此孤吟風雨夕。応思香閣聴渓声。」宥快(いうくわい)は居る所の室を清音閣と云つて、其清音は滝の川の水声を謂つたものと見える。
其他此春少壮官医中に蘭軒の規箴(きしん)を受けたものがあるらしい。わたくしは「戯呈山本莱園小島尚古二公子」の詩を読んで是(かく)の如くに解する。「方怕芳縁相結得、鮮花香裡不帰来」は、戯(たはぶれ)と称すと雖も、実は規であらう。
莱園の誰なるかは、わたくしは知らない。或は法眼宗英の家の子弟ではなからうか。尚古(しやうこ)も亦未詳である。海保漁村の経籍訪古志の序に、小島宝素の事を謂つて、「宝素小島君学古」となしてある。尚質(なほかた)の字(あざな)は学古とも尚古とも云つたのではなからうか。尚質は此年二十一歳であつた。
わたくしは只蘭軒が何故に菅茶山のために寿詞を作らなかつたかを怪む。茶山の七十の寿筵が其誕辰に開かれたとすると、此年二月二日であつた筈である。寛延元年二月二日に菅波喜太郎(すがなみきたらう)として生れたからである。
その九十三
菅茶山の七十の誕辰は、行状に「十四年(文化)丁丑、先生年七十、賜金寿之」と書してある。阿部家から金を賜はつたことである。其日の七律の七八に「展観寿頌堆牀上、且喜諸公未我捐」と云つてある。詩集の載する所のみを以てしても、楽翁白川老侯は「寿歌寿杯」を賜はつた。谷文晁は「□□跪餌図」を作つて贈つた。茶山も幸にして病に悩されずに、快く巵(さかづき)を挙げたと見える。「不知身上残齢減。猶且欣々把寿巵。」前にも云つたやうに、わたくしは蘭軒の寿詞の闕けてゐるのを憾とする。
茶山の家では夏に入つてから後も、祝賀の余波が未だ絶えなかつた。「誕辰後諸君持詩来集」の七律に、「新荷嫩筍回塘夕、微暑軽寒熟麦時」の頸聯がある。祝賀は麦秋(むぎあき)の頃にさへ及んだのである。
此年の夏以後、蘭軒の集中には僅に四首の詩を存してゐて、しかも其一は題があつて詩が無い。人のために画に題する詩の中で、吉田周斎がためにするものは詩があつて、門人秦玄民(はたげんみん)がためにするものは詩がないのである。玄民は書家星池の弟で、後に飯田氏を冒したものである。
旺秋に入つてから、茶山の蘭軒に寄せた書牘が遺つてゐる。是より先七月に茶山は蘭軒の書を得てこれに答へた。次で蘭軒の再度の書が来て、茶山は八月七日に此書牘を作つたのである。これは文淵堂所蔵の花天月地(くわてんげつち)中に収められてゐる。
「先達而(せんだつて)御寸札ならびに論語到来、其御返事先月廿日比(ごろ)いたし、大坂便にさし出候。今度御書に而は、右本御恵賜被下候由扨々忝奉存候。いよいよ珍蔵可仕候。□斎翁へも(隠居故翁と書たり)宜御礼奉願上候。御状も来候へども、此便急に而御返事期他日候。」
「今年御地寒熱之事被仰下、いづかたも同様也。先去冬甚あたたかに、三冬雪を見ず、夫(それ)にしては春寒ながく候ひき。土用中以外(もつてのほか)ひややかに、初秋になりあつく候。秋はきのふたちぬときけど中々にあつさぞまさる麻のさごろもなどとつぶやき候。此比又冷気多く候処、今日より熱(あつさ)つよく候。いかなる気候に候や。生来不覚位の事也。先冬あたたかに雪なく、夏涼しくて雷なく、凌ぎよき年也。ことに豊年也。世の中も此通ならば旨き物也。諺に夏はあつく冬はさむきがよいと申せばさ様にも無之や。御地土用見廻之人冷気之見廻を申候よし、因而(よつて)憶出候。廿五六年前一年(ひとゝせ)京にゐ候時、暑甚しく、重陽などことにあつし。今枝某といふ一医生礼にきたり、いつも端午が寒ければ、わたいれの上に帷子(かたびら)を著す、今日は帷子の上にわたいれを著して可然などと申候。」
「落合敬助太田同居にてたび/\御逢被成候よし、如仰好人物也。詩文はよく候へども富麗に過候。最早あの位に出来候へば、取きめて冗雑(じようざつ)ならぬ様に被致かしと奉存候。このこと被仰可被下候。」
「長崎游竜見え候時、不快に而其宿へ得参不申候。門人か□(けん)か見え候故、しばらく話し申候。寝てゐる程の事にもあらず候。這(この)漢(かん)学問もあり画もよく候。逢不申残念に御坐候。私気色は春よりいろ/\あしく候。然ども浪食もとのごとくに候。今年七十に候へば、元来の病人衰旄(すゐばう)は其所也。」
「金輪(こんりん)上人度々御逢被成候よし、御次(おんついで)に宜奉願上候。三瑕之内美僧はうけがたく候。梧堂つてにて御逢被成候ひしや。其外岡本忠次郎君、田内(か川)主税(ちから)、土屋七郎なども参候よし、みな私知音之人、金輪へ参候時何の沙汰もなく残念に候。」
その九十四
此年文化十四年八月七日に、菅茶山の蘭軒に与へた書は、文長くして未だ尽きざるゆゑ、此に写し続ぐ。
「牽牛花(あさがほ)大にはやり候よし、近年上方にてもはやり候。去年大坂にて之番附坐下に有之、懸御目申候。ことしのも参候へども此頃見え不申候。江戸書画角力は相識の貌(かほ)もあり、此蕣角力(あさがほすまふ)は名のりを見てもしらぬ花にてをかしからず候。前年御話申候や、わたくし家に久しく□州(しやうしう)だねの牽牛花(けんぎうくわ)あり。もと長崎土宜(みやげ)に人がくれ候。※[#「「卅」にさらに縦棒を一本付け加える」、7巻-192-上-12]年前也。花大に色ふかく、陰りたる日は晩までも萎(しぼ)まず。あさがほの名にこそたてれ此花は露のひるまもしをれざりけりとよみ候。其たねつたへて景樹(かげき)といふうたよみの処にゆきたれば、かかるたねあること知らで朝顔をはかなきものとおもひけるかなとよみ候よし。私はしる人にあらず、伝へゆきしなり。これは三十年前のこと也。さて其たね牽牛花(あさがほ)はやるにつき段々人にもらはれ、めつたにやりたれば、此年は其たねつきたり。はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晋帥(しんすゐ)骨相之屯(こつさうのじゆん)もおもふべし。呵々。扨高作は妙也。申分なし。段々上達可思也。曾てきく。上方にはやること、大抵十五六年して江戸へゆき、江戸にはやること亦十五六年して上方へ来ると云。この蕣(あさがほ)は両地一度也。いかなる事や。重厚之風段々減じ、軽薄之俗次第に長ずるにはあらずや。何さま昌平之化可仰可感候。」
「梧堂より両度書状、今以返事いたさず、畳表之便をまち申候。其内先此一首にて、王子と両方への御断也。御届け可被下候。」
「□斎隠居之譚とくより承候。あたらしく被仰下候而物わすれは老人のみにあらずと、差彊人意(やゝじんいをつようし)候。書中に御坐候。松崎ほめ候へ共、簾(れん)はいまだ知音を不得候よし申参候。千載の知己をまつの外せんすべなかるべし。この松崎は旧知識也。在都中不逢候を遺恨に覚え候。御逢被成候はば宜御つたへ被下よと、御申可被下候。□斎西遊之志御坐候よし、これは何卒晋帥が墓にならぬうちに被成よと、御申可被下候。長崎は一とほり見ておきたき所也。私も志ありしかども縁なし。何卒御すすめ可被下候。市野のわる口は前書にあり。此不贅(こゝにぜいせず)。八月七日。是日別而(べつして)暑甚し。これまでは涼しきにこまりたり。菅太中晋帥。伊沢辞安様。落合敬介漂流のうち、ここかしこ、いづくもわたくし相しれる所へ参られ候は奇也。別而宜しく御伝可被下候。御地久しく雨ふらず候よし、※[#「敝/犬」、7巻-193-上-13]郷も亦同じ。五六日ふりしのち此比(ごろ)までふらず、此比三度少し宛(づつ)ふりたれども、地泥(ちでい)をなすにいたらず。然れども此上ふりてはまたあしし。これにてよき程也。これは※[#「敝/犬」、7巻-193-上-16]郷に宜(よろし)。土地によるべし。」
「尚々古庵様、服部氏、市川先生、凡私を存候人々へ宜奉願上候。別而御内政様、両令郎(れいらう)は勿論、おさよどのまで不残奉願上候。ふしぎは今年蛇蚊蛙すくなく、燕はいつも春晴桃紅(しゆんせいももくれなゐ)に梅雨柳くらき比軒ばに来り、□喃(ぢなん)かまびすしきに、ことしは三日に一度、五日に一度くらゐ稀に見申候。此比虫語常年のごとし。」
此手紙は長さ五尺許(ばかり)の半紙の巻紙に細字で書いてある。分註あり行間の書入あり、原本のままには写しにくいので、文意を害せざる限は、本文につづけてしまつた。但「□斎翁」の下(もと)にある填註のみは括弧内に入れた。
その九十五
菅茶山の書牘に許多(あまた)の人名の見えてゐることは、上(かみ)に写し出した此年文化十四年八月七日の書に於ても亦同じである。
狩谷□斎は此比(ころ)隠居した。恐くは此年隠居したと云つても好からう。わたくしは世に□斎詳伝のありやなしやを知らない。わたくしの知る所は只松崎慊堂(かうだう)の墓碣銘(ぼけつめい)のみである。慊堂はかう云つてゐる。「翁年四十余。謂曰。児已長。能治家。我将休矣。遂卜築浅草以居。扁曰常関書院。署其室曰実事求是書屋。又号□翁。皆表其志也。」所謂(いはゆる)「年四十余」は年四十三に作つて可なることが、此書牘に徴して知られるのである。□斎の退隠の年を明にすると云ふことは、わたくしの以て大に意義ありとなす所である。若し別に詳伝がないとすると、これも亦一の発見である。
湯島の狩谷の店には懐之(くわいし)、字(あざな)は少卿(せうけい)が津軽屋三右衛門の称を襲(つ)いですわつたのであらう。慊堂が「風度気象能肖父」と云つてゐるから、立派な若主人であつたかとおもふ。しかし年は僅に十四であつた。安政三年に五十三歳で歿した人だからである。
書牘には論語を送られた礼を□斎にも伝へてくれと云つてある。論語は市野迷庵の覆刻した論語集解であらう。迷庵の所謂「六朝経書、其伝者世無幾」ものであらう。蘭軒は初め短い手紙を添へて茶山に此本を見せに遣つた。尋(つい)で「あれは献上する」と云つて遣つた。茶山は蘭軒に其礼を言つて、同時に□斎にも礼を言つてくれと云つておこせたのである。わたくしは此間の消息を明にするために、覆刻本の序跋を読んで見たくおもふ。しかし其書を有せない。わたくしは市野光孝(くわうかう)さんの許(もと)で其書を繙閲して、刻本の字体を記憶してゐるのみである。想ふにこれも亦所謂珍本に属するものであらう。
今一つ注目すべきは□斎の辛巳西遊の端緒が、早く此年文化十四年に於て見(あらは)れてゐる事である。茶山は「晋帥が墓にならぬうちに被成よ」と云つて催促してゐる。此より後四年にして□斎は始て志を遂げ、茶山を神辺に訪ふことを得た。
次に松崎慊堂の名が茶山の此書牘に見えてゐる。しかも其事は□斎に連繋してゐる。此所の文は少し晦渋である。「書中に御坐候。松崎ほめ候へ共、簾はいまだ知音を得ず候よし申参候。千載の知己をまつの外せむすべなかるべし。」茶山は□斎に院之荘の簾を贈つた。□斎の書中に此簾の事が言つてある。□斎は簾を実事求是(じつじきうし)書屋に懸けて客に誇示してゐる。しかし慊堂一人がこれを歎美したのみで、簾は人の称讚を得ないと云つてある。然らば簾は知己を千載の下(しも)に待つ外あるまい。わたくしは読んで是(かく)の如くに解する。
香川景樹と菅茶山との関係も亦此書牘に由つて知られる。寧関係の無いことが知られると云つた方が当つてゐるかも知れない。頼氏には深く交つた景樹も、菅氏とは相識らなかつたのである。茶山は四十年前に午(ひる)萎(しを)れぬ□州産の牽牛花(けんぎうくわ)を栽培してゐた。景樹が三十年前に其種子を得て植ゑ、歌を詠んだ。茶山は「私はしる人にあらず、伝へゆきしなり」と云つてゐる。
茶山が此逸事を筆に上せたのは、蘭軒が江戸に於ける朝顔の流行を報じたからである。蘭軒はこれを報ずるに当つて、詩を寄示した。集に載する所の「都下盛翫賞牽牛花、一絶以紀其事」の作である。「牽牛奇種家相競。不譲魏姚分紫黄。請看東都富栄盛。万銭購得一朝芳。」
文化十四年より三十年前は天明七年である。朝顔の種子(たね)が菅氏から香川氏に伝はつた時、文字の如く解すれば、茶山が四十歳、景樹が僅に二十歳であつた筈である。しかしわたくしは此推定に甘んぜずに、更に討究して見ようとおもひ立つた。
その九十六
菅茶山の書牘中にある香川景樹の朝顔の歌は、わたくしの素人目を以てしても、分明に桂園調で、しかも第五句の例の「けるかな」さへ用ゐてある。わたくしは景樹の集に就いて此歌を捜さうとおもつた。然るに竹柏園主の家が遠くもない処にある。多く古今の歌を記憶してゐる人である。或はことさらに捜すまでもなく此歌が其記憶中にありはせぬかとおもつた。
わたくしは茶山と景樹との歌を書いて、出典は文化十四年の茶山の消息(せうそこ)と註し、「景樹の此歌他書に見え候ものには無之候や」と問うた。此歌は園主の記憶中には無かつた。後におもへば目に立つべき歌ではなかつたから、園主の記せざるは尤の事であつた。園主は出典の文化十四年と云ふに注目して、文化十年以後の景樹の歌を綿密に検したが、尋ぬる歌は見えなかつた。只文化十四年に景樹が難波人(なにはびと)峰岸某から朝顔の種子(たね)を得た歌を見出したのみであつた。そしてそれは勿論異歌(ことうた)であつた。
これはわたくしの問ざまが悪かつたのである。書牘は文化十四年の書牘だが、茶山は昔語をしてゐたのである。園主に徒労をさせたのは、問ふもののことばが足らなかつたためである。
書牘の云ふ所に拠るに、茶山は四十年前に□州牽牛花(けんぎうくわ)の種子を獲たさうである。文化十四年丁丑より四十年前は安永六年丁酉で、茶山は二十九歳、景樹は十歳である。かくて三十年前に至つて、種子は神辺の茶山の家より景樹の許に伝はつたと云ふ。三十年前は天明七年丁未である。茶山四十歳、景樹二十歳の時である。兎に角景樹は既に京都に上つてゐる。わたくしはこれを竹柏園主に告げて、再び探討の労を取らむことを請うた。園主の答は下(しも)の如くであつた。
「拝見。文化十年以後をずつと調べ候ひしに無之、唯今の御状により更に始の方を調べ候に、享和二年戌(いぬの)四月十六日と十八日との中間に真野敬勝(まのけいしよう)ぬし□州の牽牛花の種を給ひける、こはやまとのとはことにて、夕方までも萎(しぼ)まで花もいとよろしと也、かかる種子あることしらで朝顔をはかなきものとおもひけるかなと有之候を見出、まことに喜ばしく候。茶山のうたは無論無之候。御状の景樹二十歳位とあるは必ず誤と存じ候事にて、三十年前は何か手紙の御よみちがへには無之やと存候。」
問題は此に遺憾なく解決せられた。菅氏の牽牛花の種子は真野敬勝の手を経て景樹の許(もと)に到つた。時は享和二年壬戌であつた。文化十四年より算すれば十五年前で、三十年前では無い。茶山は五十五歳、景樹は三十五歳の時である。
しかし茶山が書牘の「※[#「「卅」にさらに縦棒を一本付け加える」、7巻-197-上-14]年前」「三十年前」は、二箇所共に字画鮮明である。わたくしの読みあやまりではない。三十年前は分明に老茶山の記憶の誤である。啻(たゞ)に書の尽(ことごと)く信ずべからざるのみではない。古文書と雖、尽く信ずることは出来ない。□州の牽牛花の種子は何年に誰から誰に伝はつても事に妨(さまたげ)は無い。わたくしの如き間人の間事業が偶(たま/\)これを追窮するに過ぎない。しかし史家の史料の採択を慎まざるべからざることは、此に由つても知るべきである。
わたくしは前(さき)に山陽の未亡人里恵の書牘に拠つて、山陽再娶(さいしゆ)の年を定めた。しかし女子が己の人に嫁した年を記すると、老人が園卉種子(ゑんきしゆし)の授受を記するとは、其間に逕庭があらうとおもふ。
その九十七
菅茶山の朝貌(あさがほ)の話は、流暢な語気が殆どトリヰアルに近い所まで到つてゐる。想ふに茶山は平素語を秤盤(しようはん)に上(のぼ)せて後に、口に発する如き人ではなかつただらう。其坐談には諧謔を交ふることをも嫌はなかつただらう。わたくしは田能村竹田(たのむらちくでん)が茶山の笑談(せうだん)として記してゐた事をおもひ出す。それは頼杏坪(きやうへい)を評した語であつた。「万四郎は馬鹿にてござる。此頃は蚊の歌百首を作る。又此頃はいつものむづかしき詩を寄せ示す。其中には三ずゐに糞と云ふ字までも作りてござる。」糞は独り糞穢(ふんくわい)のみでは無い。張華は「三尺以上為糞、三尺以下為地」とも云つてゐる。※(ふん)[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-7]も亦爾雅(じが)に「※[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-7]大出尾下」と云つてある。註疏を検すれば、刑□(けいへい)は「尾猶底也」「其源深出於底下者名※[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-9]、※[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-9]猶灑散也」などと云つてゐる。今謂ふ地底水であらう。郭璞(くわくぼく)は「人壅其流以為陂、種稲、呼其本出処、為※[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-11]魁」と云つてゐる。即ち水源の謂で、ゐのかしらなどの語と相類してゐる。要するに必ずしも避くべき字では無い。茶山は戯謔(けぎやく)したに過ぎない。
茶山は朝顔の奇品を栽培してゐたが、人に種子(たね)を与へて惜まなかつたので、種子が遂に□(つ)きた。「はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晋帥骨相之屯もおもふべし。」これは六三の「即鹿无虞」あたりから屯(じゆん)に説き到つたのであらう。
江戸の流行は十五六年にして京都に及び、京都の流行は十五六年にして江戸に及ぶ。「この蕣(あさがほ)は両地共一度也。いかなることや。」こゝまでは猶可である。重厚の風減じ、軽薄の俗長ず。「何さま昌平之化、可仰可感候。」これは余りに廉価なるイロニイである。
僧混外(こんげ)も亦茶山の此書牘に見えてゐて、石田、岡本、田内、土屋の四人の名がこれに連繋して出てゐる。これは前年丙子の秋以来蘭軒が混外と往来するに至つた事を指して言つたものである。蘭軒が混外を評した中に僧の三瑕と云ふことがあつた。其一の「美僧はうけがたく候」と茶山が答へた。蘭軒が混外と相会した時、石田梧堂がこれを介したらしい。それゆゑ茶山は「梧堂つてにて御逢被成しや」と云つてゐる。蘭軒は前年初見の時の同行者として、梧堂を除く外、成田成章、大田農人、皆川叔茂を挙げてゐて、岡本、田内、土屋は与(あづか)らなかつた。或は再三往訪した時のつれか。茶山は岡本以下の知人が蘭軒と偕(とも)に金輪寺(こんりんじ)を訪うたのに、それを報ぜなかつたことを慊(あきたら)ずおもつた。「皆私知音之人、金輪へ参候時何之沙汰もなく残念に候。」
岡本忠次郎、名は成、字(あざな)は子省である。本近江から出た家で、父政苗(まさたね)が幕府の勘定方を勤むるに至つた後の子である。忠次郎は南宮大湫(なんぐうたいしう)に学んだ。韓使のために客館が対馬に造られた時、忠次郎は董工のために往つてゐて、文化八年に江戸に還つた。茶山の手紙に書かれた時は職を罷める前年で、五十歳になつてゐた。
安中(あんなか)侯節山板倉勝明撰の墓碑銘に、忠次郎の道号として、豊洲、花亭、醒翁、詩癡、又括嚢(くわつなう)道人が挙げてある。此中で豊洲、花亭、醒翁の号が茶山の集に見えてゐる。既に老後醒翁と号したとすれば、茶山のために竜華寺(りうげじ)の勝を説いた岡本醒廬も或は同人ではなからうか。
その九十八
菅茶山の蘭軒に与へた丁丑八月七日の書牘に、王子金輪寺の混外(こんげ)が事に連繋して出てゐる人物の中、わたくしは既に石田梧堂と岡本豊洲とを挙げた。剰す所は田内主税(ちから)と土屋七郎とである。
田内は茶山が書を裁するに当つて、はつきり其氏をおもひ浮べることが出来なかつたと見えて、「か川」の傍註が施してある。田内か田川かとおもひまどつたのである。しかし田内の事は茶山集にも山陽集にも、詩題詩註に散見してゐる。始終茶山と太(はなは)だ疎(うと)くは無かつたのである。一説に田内は「でんない」と呼ぶべきであらうと云ふ。しかし茶山が田内か田川かとおもひまどつたとすると、当時少くも茶山はでんないとは呼んでゐなかつたらしい。
然らば菅頼二家の集は何事を載せてゐるかと云ふに、それは殆ど云ふに足らない。田内主税、名は輔(ほ)、月堂と号す、会津の人だと云ふのみである。わたくしは嘗て正堂の一号をも見たことがある。市河三陽さんに聞けば、輔は親輔の省で、字(あざな)は子友であつたと云ふ。幼(いとけな)い時から白川楽翁侯に近侍してゐた人である。南天荘主は頃日(このごろ)田内の裏書のある楽翁侯の歌の掛幅(くわいふく)を獲たさうである。
土屋七郎は殆ど他書に見えぬやうである。唯一つ頼元鼎(げんてい)の新甫遺詩の中に、「要江戸土屋七郎会牛山園亭」と云ふ詩がある。「雨過新樹蔵山骨。燕子銜来泥尚滑。何計同人于野同。深欣発夕履予発。四海弟兄此邀君。三春風物纔半月。地偏無物充供給。独有隣翁分紫蕨。」土屋が江戸の人で安藝に往つてゐたことは、これに由つて知られる。後にわたくしは偶然此人の歿年を知ることを得たが、それは他日書き足すこととする。以上が混外に連繋した人物である。
茶山の書牘に又游竜の名が見えてゐる。游竜は神辺に来て旅宿にゐたので、茶山が訪はうとおもつた。此人の学殖があつて、画を善くするのを知つてゐたからである。しかるに茶山は病臥してゐて果さなかつた。游竜は門人か従者かをして茶山を訪はしめた。茶山はこれを引見して語を交へた。書牘の云ふ所は、凡(おほよそ)此(かく)の如くである。
茶山は単に「長崎游竜」と記してゐる。山陽、霞亭等の事を言ふ時と違つて、恰も蘭軒が既に其名を聞いてゐることを期したるが如くに見える。
わたくしは游竜の誰なるを知らなかつたので、大村西崖さんに問ひに遣つた。そしてかう云ふ答を得た。「御問合の游竜は続長崎画人伝に見ゆ。長崎の人なるべし。姓不詳(つまびらかならず)。諱(いみな)は俊良、字(あざな)は基昌、梅泉又浣花道人とも号す。通称彦二郎。来舶清人稼圃江大来(かほこうたいらい)に学び、親しく其法を伝ふ。歿年闕く。右不取敢御返事申上候。」
梅泉の一号が忽ちわたくしの目を惹いた。長崎の梅泉は竹田荘師友画録にも五山堂詩話補遺にも見えてゐて、わたくしは其人を詳にせむと欲してゐたからである。若し三書の謂ふ所の梅泉が同一の人ならば、游竜は劉氏であらう。長崎の劉氏は多くは大通事彭城(さかき)氏の族である。游竜は彭城彦二郎と称してゐたものではなからうか。
さて游竜の歿年であるが、果して游竜が劉梅泉だとすると、多少の手がかりがないでもない。竹田は「丙戌冬到崎、時梅泉歿後経数歳」と云つてゐる。即ち文政九年より数年前に歿したのである。
わたくしは此の如くに思量して、長崎の津田繁二さんに問ひに遣つた。津田さんは長崎の劉氏の事を探らむがために、既に一たび崇福寺の彭城氏の墓地を訪うたことのある人である。
書は既に発した。わたくしは市河三陽さんの書の忽ち到るに会した。「劉梅泉は彭城彦二郎、游竜彦二郎とも称し候。頼杏坪(きやうへい)とも会面したる旨、寛斎宛同人書翰に見え居候。彭城東閣の裔かと愚考仕候。」
わたくしの推測はあまり正鵠をはづれてはゐなかつたらしい。東閣は彭城仁左衛門宣義(のりよし)である。「万治二亥年十月大通事被仰付、元禄八亥年九月十九日御暇御免、同九月二十一日病死、行年六十三。」津田さんは嘗てわたくしのために墓碑の文字をも写してくれた。「正面。故考広福院殿道詮徳明劉府君之墓。向左。元禄八年歳次乙亥季秋吉旦。孝男市郎左衛門恒道。継右衛門善聡同百拝立。向右。訳士俗名彭城仁左衛門宣義。」
その九十九
長崎の津田繁二さんはわたくしの書を得て、直に諸書を渉猟し、又崇福寺の墓を訪うて答へた。大要は下(しも)の如くである。
彦次郎の実父を彭城(さかき)仁兵衛と云つた。文書に「享和三亥年二月十日小通事並(せうつうじなみ)被仰付」とあり、又「文化二丑年五月十六日より銀四貫目」とある。仁兵衛に二子があつて、長を儀十郎と云ひ、次を彦次郎と云つた。儀十郎が家を継いだ。「文化十五寅年六月十二日小通事並被仰付」とある。
次男彦次郎は出でて游竜市兵衛の後を襲いだ。市兵衛は素(もと)林氏であつた。昔林道栄が官梅を氏とした故事に傚(なら)つて游竜を氏とし、役向其他にもこれを称した。長崎の人は游を促音に唱へて、「ゆりう」と云ふ。しかし市兵衛の本姓は劉であるので、安永四年に名を梅卿と改めてからは、劉梅卿とも称してゐた。
彦次郎の官歴は下の如くである。「享和元酉年七月廿七日稽古通事被仰付。文化七午年十二月十二日小通事末席被仰付。文政二卯年四月二十七日小通事並被仰付。」
墓は崇福寺にある。「正面。吟香院浣花梅泉劉公居士、翠雲院蘭室至誠貞順大姉。向右。天明六年丙午八月廿日誕、文政二年己卯八月初四日逝、游竜彦次郎俊良、行年三十四歳。向左。文化九年壬申十月廿五日逝、游竜彦次郎妻俗名須美。」
是に由つて観れば、彦次郎は天明六年に生れ、享和元年に十六歳で稽古通事になり、文化七年に二十五歳で小通事末席になり、九年に二十七歳で妻を喪ひ、文政二年に三十四歳で小通事並になり、其年に歿した。神辺(かんなべ)に宿つてゐて菅茶山の筆に上(のぼ)せられたのは三十二歳即歿前二載、田能村竹田に老母を訪はれたのは歿後七載であつた。竹田が「年殆四十、忽然有省、折節読書」と云つてゐるのは、語つて詳(つまびらか)ならざるものがある。職を罷めて辛島塩井(からしまえんせい)に従学しようと思つてゐながら、病に罹つて死んだのは事実であらう。
茶山の書牘に拠るに、梅泉は神辺に往つた時、茶山を訪はなかつた。そして「門人か□か」と見える漢子(かんし)を差遣した。茶山はこれを引見して話を聞いた。そして我より往いて訪ふべきではあつたが、病のために果さなかつたと云つてゐる。
茶山は梅泉の学問をも技藝をも認めてゐた。然るに其人が神辺にゐて来り訪はぬのである。茶山がいかに温藉の人であつたとしても、自ら屈して其旅舎に候(うかが)ふべきではあるまい。茶山の会見を果さなかつたのは、啻(たゞ)に病の故のみではあるまい。
わたくしは梅泉が頗る倨傲であつたのではないかと疑ふ。竹田の社友に聞いた所の如きも、わたくしの此疑を散ずるには足らぬのである。「蓋其人才気英発。風趣横生。超出物外。不可拘束。非尋常庸碌之徒也。聞平日所居。房槞華潔。簾幕深邃。衣服清楚。飲食豊盛。異書万巻。及名人書画。陳列左右。坐則煮茗插花。出則照鏡薫衣。置梅泉荘於南渓。挾粉白。擁黛緑。日会諸友。大張宴楽。糸竹争発。猜拳賭酒。既酔則倒置冠履。※[#「にんべん+差」、7巻-203-下-7]々起舞。」要するに才を恃(たの)み気を負ふもので、此種の人は必ずしも長者を敬重するものではない。
梅泉は江戸にも来たことがある。それは五山堂詩話に見えてゐる。補遺の巻(けんの)一である。中井董堂が五山に語つた董堂と江芸閣(こううんかく)との応酬の事が即是で、梅泉が其間に立つて介者となつてゐるのである。
その百
菊池五山はかう云つてゐる。「董堂来語云。崎陽舌官劉梅泉者客歳以事出都。書画風流。一見如旧。臨去飲餞蕊雲楼上。酒間贈別云。水拍欄干明鏡光。荷亭月浄浴清涼。離歌一曲人千里。間却鴛鴦夢裏香。今春劉寄書至。書中云。前年見贈高作。伝示之芸閣。芸閣云。董堂先生。書法遒美。神逼玄宰。余亦学董者。雖阻万里。猶是同社。我当和韵以贈。乃援筆書絹上。今此奉呈。其詩云。亭々波影悦容光。占得暁風一味涼。曾溌鴛鴦翻細雨。十分廉潔十分香。末署十二瑤台使者江芸閣稿。」
詩話に所謂(いはゆる)「客歳」とは何(いづ)れの年であらうか。同じ補遺の巻(けんの)一に女詩人大崎氏小窓(せうさう)の死を記して、「女子文姫以今年戊寅病亡」と云つてある。五山が此巻を草したのは恐くは文政元年であらう。果して然らば劉梅泉の江戸に来たのは文化十四年丁丑で、神辺に宿したのと同じ年であらう。
詩話の文に拠れば、梅泉は江戸に来て、其年に又江戸を去つた。蕊雲楼(ずゐうんらう)の祖筵は其月日を載せぬが、「水拍欄干明鏡光、荷亭月浄浴清涼」の句は、叙する所の景が夏秋の交なることを示してゐる。祖筵の所も亦文飾のために知り難くなつてゐるが、必ずや池の端あたりであらう。
次に梅泉が神辺に宿したのは何時であらうか。菅茶山の書牘を見るに、事は書を裁した年にあつて、書を裁した日の前にあると知られるのみである。即ち文化十四年の初より八月七日に至るまでの間に、梅泉は神辺に来て泊つたのである。若し夏秋の交に江戸を去つたとすると、春夏の月日をば長崎より江戸に至る往路、江戸に於ける淹留に費したとしなくてはならない。わたくしは梅泉が丁丑の初に江戸に来り、夏秋の交に江戸を去り、帰途神辺に宿したものと見て、大過なからうとおもふ。
わたくしは既に梅泉の生歿年を明にし、又略(ほゞ)その江戸に来去した月日を推度(すゐたく)した。わたくしは猶此に梅泉の画を江稼圃(こうかほ)に学んだ年に就いて附記して置きたい。
梅泉は長崎の人である。稼圃が来り航した時、恐くは多く居諸(きよしよ)を過すことなく従学したであらう。田能村竹田の山中人饒舌に「己巳歳江大来稼圃者至」と書してある。己巳は文化六年である。梅泉は恐くは文化六年に二十四歳で稼圃の門人となつたのであらう。
然るに此に一異説がある。それは稼圃の長崎に来たのを聞いて直に入門したと云ふ人の言(こと)を伝へたものである。森敬浩(もりけいかう)さんは川村雨谷を識つてゐた。雨谷の師は木下逸雲である。雨谷は毎(つね)に云つた。逸雲と僧鉄翁との江が門に入つたのは、逸雲が十八歳の時であつたと云つた。逸雲は慶応二年に江戸より長崎に帰る途次、難船して歿した。年は六十七歳であつた。此より推せば、逸雲は寛政十二年生で、其十八歳は文化十四年であつた。逸雲と鉄翁との江が門に入つた年が果して江の来た年だとすると、江は文化十四年に至つて纔(わづか)に来航したこととなるのである。
しかし此両説は相悖(あひもと)らぬかも知れない。何故と云ふに長崎にゐた清人(しんひと)は来去数度に及んだ例がある。文化六年に江が初て来た時は、逸雲は猶穉(をさな)かつた。それゆゑ十四年に江が再び至るを俟(ま)つて始て従遊したかも知れない。只わたくしは江の幾たび来去したかを詳(つまびらか)にしない。或は津田繁二さんの許(もと)にはこれを徴するに足る文書があらうか。
わたくしは此(かく)の如く記し畢つた時、市河氏の書を得た。梅泉の市河米庵に与ふる書、並に大田南畝の長崎にあつて人に与へた書に拠れば、稼圃が初度の来航は文化元年甲子の冬であつたさうである。梅泉が其時従学したとすると、年正に十九であつた。
その百一
劉梅泉が文政二年の八月に歿してから七年経て、九年の冬田能村竹田は長崎に往つた。そして梅泉の母に逢つた。「有母仍在。為予説平生。且道。毎口予名弗措。説未畢。老涙双下。」
按ずるに母は游竜市兵衛の妻ではなくて、彭城(さかき)仁兵衛の妻であらう。養母ではなくて実母であらう。そして若し更に墓石に就いて検したなら、実母の名、其歿年、その竹田と語つた時の齢(よはひ)をも知ることが出来るであらう。
竹田と梅泉とは恐くは未見の友であつただらう。竹田は「屡蒙寄贈、且促予遊崎」と云つてゐる。わたくしは此「屡蒙寄贈」の四字から、梅泉が竹田に好(よしみ)を通じて、音問贈遺(いんもんぞうゐ)をなしながら、未だ相見るに及ばなかつたものと推するのである。二人は未見の友であつただらう。そして菅茶山が神辺にあつて狩谷□斎の江戸より至るを待つた如くに、梅泉は長崎にあつて竹田の竹田(たけだ)より至るを待つたものと見える。しかし茶山はながらへてゐて、□斎を黄葉夕陽村舎に留めて宿せしむることを得、梅泉は早く歿して、竹田の至つた時泉下の人となつてゐた。
竹田は梅泉の母に逢つて亡友の平生を問ひ、又諸友に就いて其行事の詳(つまびらか)なるを質(たゞ)した。竹田たるもの感慨なきことを得なかつたであらう。
或日竹田は郊外に遊んで、偶(たま/\)南渓に至り、所謂(いはゆる)梅泉荘の遺址を見た。梅泉の壮時、「挾粉白、擁黛緑、日会諸友、大張宴楽」の処が即此荘であつた。屋舎の名は吟香館で、江稼圃(こうかほ)と大田南畝との題□(だいへん)が現に野口孝太郎さんの許(もと)に存してゐる。竹田のこれを記した文は人をして読み去つて惻然たらしむるものがある。
「予与秋琴。一日郊遊。晩過一廃園。垣墻破壊。門□欹側。満池荒涼。只見瓦礫数堆耳。秋琴乃指曰。昔之梅泉荘是也。予愴然顧視。老梅数株。朽余僅存。有寒泉一条。潺々従樹下流出。其声嗚咽。似泣而訴怨者。植杖移□。眉月方挂。如視梅泉之精爽。髣髴現出于前也。躊躇久之。冷風襲衣。仍不忍去。」
竹田が倶(とも)に郊外に遊んだ秋琴とは誰か。恐くは熊(ゆう)秋琴であらう。名は勇(ゆう)、字(あざな)は半圭(はんけい)、諸熊(もろくま)氏、通称は作大夫である。長崎の波止場に近い処に支那風の家を構へて住んでゐた。竹田は長崎にゐた一年足らずの月日を、多く熊の家に過したさうである。「出入相伴、同遊莫逆」とも云つてゐる。
秋琴も亦、木下逸雲、僧鉄翁と同じく、江稼圃の門人であつた。又梅泉が梅泉荘を有してゐた如くに、秋琴は睡紅園を有してゐた。
別に清客張秋琴があつて、蘭軒がこれに書を与へて清朝考証の学を論じたことは上(かみ)に云つたが、これは文化三年十一月晦(みそか)に長崎に来て、蘭軒は翌年二月にこれと会見したのである。想ふに竹田の長崎に遊んだ頃は既に去つてゐたことであらう。
その百二
菅茶山の丁丑八月七日の書には、猶落合敬介と云ふ人が見えてゐる。敬助は諸国を遍歴して、偶然茶山の曾遊の跡を踏んで行つた。そして毎(つね)に茶山去後に其地に到つた。蘭軒は茶山に、その現に江戸にあつて、大田と同居し、数(しば/\)己を訪ふことを報じた。敬助は文章を善くした。茶山は評して富麗に過ぐと云ひ、蘭軒をしてその冗を去り簡に就くことを勧めしめむとしてゐる。
落合□(かう)、字(あざな)は子載、初(はじめ)鉄五郎、後敬助と称し、※[#「隻+隻」、7巻-207-下-10]石と号した。日向国飫肥(おび)の人である。※[#「隻+隻」、7巻-207-下-11]石の事は三村清三郎、井上通泰、日高無外、清水右衛門七の諸家の教に拠つて記す。
此年文化十四年八月二十五日に、阿部正精(まさきよ)は所謂(いはゆる)加判の列に入つた。富士川游さんの所蔵の蘭軒随筆二巻がある。これは後明治七年に森枳園(きゑん)が蘭軒遺藁一巻として印行したものの原本である。此随筆中「洗浴発汗」と云ふ条(くだり)を書きさして、蘭軒は突然下(しも)の如く大書した。「今日殿様被蒙仰御老中恐悦至極なり。文化十四年八月二十五日記。」
十二月に至つて、蘭軒は阿部家に移転を願つた。丸山邸内に於ける移転である。勤向覚書にかう云つてある。「文化十四年丁丑十二月九日、高木轍跡屋敷御用にも無御座候はば、拝領仕度奉願上候。同月十七日、前文願之通被仰付候。同十七日、願之通屋敷拝領被仰付候に付、並之通拝借金被成下候。同月廿日、拝領屋敷え引移申候段御達申上候。」即ち移転の日は二十日であつた。
わたくしの考ふる所を以てすれば、伊沢分家が後文久二年に至るまで住んでゐたのは此家であらう。此高木某の故宅であらう。伊沢徳(めぐむ)さんは現に此家の平面図を蔵してゐる。其間取は大凡(おほよそ)下(しも)の如くである。「玄関三畳。薬室六畳。座敷九畳。書斎四畳半。茶室四畳半。居間六畳。婦人控室四畳半。食堂二畳。浄楽院部屋四畳半。幼年生室二箇所各二畳。女中部屋二畳。下男部屋二畳。裁縫室二畳。塾生室二十五畳。浴室一箇所。別構正宗院部屋二箇所四畳五畳。浴室一箇所。土蔵一棟。薪炭置場一箇所。」此部屋割は後年の記に係るので、榛軒の継室浄楽院飯田氏の名がある。又正宗院(しやうそうゐん)は蘭軒の姉幾勢(きせ)である。しかし房数席数は初より此(かく)の如くであつたかとおもはれる。
二十三日に蘭軒は医術申合会頭(まうしあはせくわいとう)たるを以て賞を受けた。勤向覚書に云く。「廿三日御談御用御座候所、長病に付名代山田玄升差出候。医術申合会頭出精仕候為御褒美金五百疋被成下候旨、関半左衛門殿被仰渡候。」
冬至の日に蘭軒は蘇沈良方(そちんりやうはう)の跋を書いた。蘇沈良方は古本が佚亡した。そして当時三種の本があつた。一は皇国旧伝本で寛政中伊良子光通(いらこくわうつう)の刻する所である。一は呉省蘭(ごせいらん)本で嘉慶中に藝海珠塵(げいかいしゆぢん)に収刻せられた。一は鮑廷博(はうていはく)本で乾隆中に知不足斎(ちふそくさい)叢書に収刻せられた。鮑本は程永培(ていえいばい)本を底本となし、館本を以て補足した。皇国本は程本と一致して、間(まゝ)これに優つてゐる。呉本は鮑の所謂(いはゆる)館本である。蘭軒は三本を比較して、皇国本第一、呉本第二、鮑本第三と品定した。
蘭軒は一々証拠を挙げて論じてゐるが、わたくしは此に蘭軒が鮑本香□散(かうじゆさん)の条(くだり)を論ずる一節を抄出する。「香□散犬が飜(こぼ)して雲の峰。」これは世俗の知る所の薬名だからである。「神聖香□散。注(鮑本注)云。程本作香茸。方中同。疑誤。今遵館本。按。(蘭軒按。)図経本草曰。香□一作香※[#「くさかんむり/矛/木」、7巻-209-上-14]。俗呼香葺。程本茸。即葺之訛。宋板書中。有作香茸者。其訛体亦従来已久。則改作□者。妄断耳。」所謂宋板の書は宋板百川学海(せんがくかい)、又本草綱目引く所の食療本草で、皆茸(じよう)に作つてある。蘭軒は鮑廷博の妄に古書を改むるに慊(あきたら)ぬのである。蘭軒の跋は下(しも)の如く結んである。「嗚呼無皇国本。則不能見其旧式。無呉本。則不能校其字句。無鮑本。則不能知二家之別。三本各成其用。無復遺憾也。宜矣蔵書所以貴多也。古人曰。天下無粋白之狐。而有粋白之裘。余於此書亦云。」
此年蘭軒は四十一歳、妻益は三十五歳、子女は榛軒十四、常三郎十三、柏軒八つ、長四つであつた。
その百三
文政元年の元旦は立春の節であつた。菅茶山が「閑叟更加※[#「聰のつくり」、7巻-209-下-12]劇事、一時迎歳又迎春」と云つた日である。蘭軒は偶(たま/\)心身爽快を覚えて酒を飲んだ。「戊寅元旦作」二首の一にかう云つてある。「君恩常覚官途坦。園趣方添吟味滋。椒酒一醺歌一曲。三年独醒笑吾痴。」自註に「余病後休酒三年、此日初把杯、故末句及之」と云つてある。
正月二日に蘭軒の庶子良吉が夭した。先霊名録二日の下(もと)に、「馨烈童子、芳桜軒妾腹之男也、名良吉、母佐藤氏、墓在本郷栄福寺、文化十五年戊寅正月」と記してある。即ち側室さよの生んだ子である。生日はわからぬが、恐くは生後直に夭したのであらう。
人日(じんじつ)に蘭軒は自ら医範一部を写した。医範は素(もと)蘭軒の父信階大升(のぶしなたいしよう)が嘗て千金方(きんはう)より鈔出したものである。蘭軒手写の本は現に伊沢徳(めぐむ)さんが蔵してゐる。又此手写本に就いて門人鼓常時(つゝみつねとき)の複写したものは富士川游さんが蔵してゐる。
医範九章の末に下(しも)の文がある。「右医範九章。家大人所撮写千金方中。毎旦誦読以自戒也。夫孫真人世以為仙医。固応無所拘束。而有如斯戒律。則凡為医者。豈可不謹慎勉励邪。家大人直取以為我家医範。其有旨哉。恬今手鈔。以与信厚信重二児。爾輩謹守之。文化十五年戊寅人日、伊沢信恬記。」富士川本には此下に、「文政十一年三月念九日鼓常時謹写」と書してある。按ずるに孫思□(そんしばく)は旧新唐書に伝がある。旧唐書に拠るに、歿年は高宗の永淳元年だとしてある。そして年齢が載せてない。癸酉の歳に廬照隣(ろせうりん)と云ふものが孫の家に寓してゐた。癸酉は高宗の咸享四年であらう。廬の聞いた所がかう記してある。「思□自曰。開帝辛酉歳生。至今年九十三矣。」試に癸酉から九十三年溯つて見ると隋の開皇元年辛丑となるらしい。そして永淳元年には百零二歳であつた筈である。しかし「経月余、顔貌不改、挙屍就木、猶空衣」と云ふを見れば、奇蹟である。年齢の知り難いのも怪むに足らない。蘭軒も亦「世以為仙医」と書してゐる。
此春蘭軒は大田南畝の七十を寿した。恐くは三月三日の誕辰に於てしたことであらう。「寿南畝大田先生七十。避世金門一老仙。却将文史被人伝。詼諧亦比東方朔。甲子三千政有縁。」詩は梅を詠ずる作と瞿麦(なでしこ)を詠ずる作との間に介(はさ)まつてゐる。
次で夏より秋に至つて、詩八首がある。其中人名のあるものを摘記することとする。原来此種の記載は無用に属するかも知れぬが、或は他書を併せ考ふるに及んで、有用のものとなるかも知れない。わたくしは此の如き楽天観に住して、甘んじて点簿の労に服する。
先づ真野父子がある。前(さき)に冬旭(とうきよく)とその善書(ぜんしよ)の子とがあつたが、今又竹亭松宇(ちくていしようう)の父子を見る。居る所を陶後園と云ふ。松宇は当時官吏であつた。蘭軒の集に此家の瞿麦と菊との詩がある。「真野松宇宅集、園中瞿麦花盛開、云是先人竹亭先生遺愛之種、因賦一絶為贈。種藝従来向客誇。山園開遍洛陽花。渾為千片斑爛錦。遺愛芳滋孝子家。又。真野松宇陶後園菊花盛開、贈主人。菊花満圃気清高。堪償栽培一歳労。幽事不妨官事劇。君家隠趣大於陶。」
次に福山の人小野士遠(しゑん)がある。蘭軒は五律を作つてその郷に帰るを送つた。「送小野士遠還福山」として、其五六に「祗役添詩興、躋勝酬素情」と云つてある。
その百四
次に戊寅夏秋の詩に出てゐる人物は長谷川雪旦である。雪旦、名は宗秀、又厳嶽(げんがく)、一陽庵等の号がある。此年四十一歳で、肥前国唐津の城主小笠原主殿頭長昌(とのものかみながまさ)に聘せられて九州に往つた。「送画師長谷川雪旦従駕之唐津。移封初臨瀕海城。□騎隊裏虎頭行。大藩如是編新誌。佳境総依彩筆成。又。使君五馬経瑤浦。揮筆応誇清舶商。為説画家唐宋法。真伝存在我東方。」小笠原長昌は前年九月十四日に陸奥国棚倉より徙(うつ)された。それゆゑ「移封初臨」と云つてある。此移封は井上河内守正甫(まさもと)の貶黜(へんちゆつ)に附帯して起つた。正甫は奏者番を勤めてゐて、四谷附近の農婦を姦した。これに依つて職を免じ、遠江国浜松より棚倉へ徙された。水野左近将監忠邦は唐津より来つて其後を襲(つ)ぎ、長昌は又忠邦の後を襲いだ。活版本続徳川実記に左近将監忠邦の傍(かたはら)に「恐和泉守之誤」と註してある。
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