伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 わたくしは此年の事迹を考へて、当時の吏風(りふう)が病休中の外遊を妨げなかつたことを知つた。蘭軒は三月二十四日に吉田菊潭(きくたん)の家の詩会に赴いた。「穀雨前一日、与木村駿卿、狩谷卿雲、及諸公、同集菊潭吉田医官堂、話旧」として七絶二首がある。其一。「書堂往昔数相陪。一月行過四十回。已是三年空病脚。籃輿今日僅尋来。」自註に「往年信恬数詣公夫人。試計至一月四十回云」と云つてある。穀雨は三月二十五日であつた。菊潭医官は誰であらうか。わたくしは未だ確証を得ぬが、吉田仲禎ではなからうかとおもふ。「仲禎、名祥、号長達、東都医官」と蘭軒雑記に記してある。且雑記には享和中□斎長達の二人が蘭軒の心友であつたことを言ひ、一面には□斎と蘭軒と他の一面には長達と蘭軒とは早く相識つてゐて、□斎と長達とは享和三年二月二十九日に至つて始て相見たことを言つてある。菊潭は或は此人ではなからうか。しかし当時文化十三年の武鑑には雉子(きじ)橋の吉田法印、本郷菊坂の吉田長禎、両国若松町の吉田快庵、お玉が池の吉田秀伯、三番町の吉田貞順、五番町の吉田策庵があるが、吉田仲禎が無い。或は思ふに仲禎は長禎の族か。
 蘭軒は足疾はあつても、心気爽快であつたと見え、初夏より引き続いて出遊することが頻であつた。「会業日、苦雨新晴、乃廃業、与余語天錫、山本恭庭、木村駿卿同遊石浜墨陀諸村途中作、時服部負約」の五律五首、「首夏与余語天錫、山本恭庭、木村駿卿同集石田子道宅」の七絶三首、「初夏過太田孟昌宅」の七絶二首、「再過太田孟昌宅、与余語、山本二医官及木村駿卿同賦」の七律一首等がある。余語(よご)、木村、服部、石田、皆既出の人物である。天錫(てんせき)は恐くは觚庵(こあん)の字(あざな)であらう。太田孟昌(まうしやう)は茶山の集中に見えてゐる。文化九年壬申の除夜にも、文化十一年甲戌の元旦にも、孟昌は神辺に於て茶山の詩会に列つてゐて、茶山は「江都太田孟昌」と称してゐる。孟昌、名は周、通称は昌太郎である。父名は経方、省いて方とも云ふ。字は叔亀、通称は八郎、全斎と号した。阿部家に仕へて文政十二年六月七十一歳にして歿した。孟昌は家を弟武群(ぶぐん)、通称信助、後又太郎に譲つて分家した。孟昌が事は浜野知三郎さんが阿部家所蔵の太田家由緒書と川目直(かはめちよく)の校註韓詩外伝題言とに拠つて考証したものである。山本恭庭は蘭軒が時に「恭庭公子」とも称してゐる。恐くは永春院の子法眼宗英であらうか。当時小川町住の奥医師であつた。此夏病蘭軒を乗せた「籃輿」は頗る忙(いそがは)しかつたと見える。

     その八十五

 此夏文化十三年夏の詩凡て十四首を読過して、わたくしは少し句を摘んで見る。固より佳句を拾ふのでは無い。稍誇張の嫌はあるが、歴史上に意義ある句を取るのである。
 石浜(いしばま)墨陀(すみだ)の遊は讐書の業を廃してなしたのである。「好擲讐書課。政謀携酒行。」蘭軒は病中の悶を遣らむがために思ひ立つた。「連歳沈痾子。微吟足自寛。」当時今戸の渡舟は只一人の船頭が漕いで往反してゐた。蘭軒は其人を識つてゐたのに、今舟を行(や)るものは別人であつた。「渡口呼舟至。棹郎非旧知。」自註に「墨水津人文五、与余旧相識、前年已逝」と云つてある。
 石田梧堂の詩会で主人に贈つた作がある。「贈子道。駒子村南径路斜。碧叢連圃□駝家。柳翁別有栽培術。常発文園錦様花。」駒込村の南の細逕(ほそみち)で、門並植木屋があつたと云ふから、梧堂は籔下辺に住んでゐたのではなからうか。わたくしは今の清大園(せいたいゑん)の近所に「石田巳之介」と云ふ門札(かどふだ)が懸けてあつたやうに想像する。「壁上掛茶山菅先生家園図幅、聊賦一律。謾訪王家竹里館。偶観陶令園中図。双槐影映讐書案。六柳陰迎恣酒徒。池引川流清可掬。軒収山色翠将濡。如今脚疾君休笑。真境曾遊唯是吾。」座上まのあたり黄葉夕陽村舎を見たものは「唯是吾」である。
 太田孟昌の家をば二度まで蘭軒が訪うた。「初夏過太田孟昌宅」二絶の一。「喬松独立十余尋。落々臨崖翠影深。下有陶然高士臥。平生相対歳寒心。」次で「再過太田孟昌宅」七律に、「籬連僧寺杉陰老、砌接山崖苔色多」の一聯がある。崖(がい)に臨み寺に隣して、松の大木が立つてゐる。「樹陰泉井一泓清」の句もあるから、松の下には井もあつた。いづれ江戸の下町ではないが、はつきり何所とも定め難い。
 五月六日に蘭軒は阿部家に轎(かご)に乗る許を乞うた。勤向覚書にかう云つてある。「五月六日、足痛年月を重候得共全快之程不相見候に付、御屋敷内又は他所より急病人等申越候はば駕籠にて罷越療治仕遣度、仲間共一統奉願上候所、同月十三日無拠病用之節は罷越可申旨被仰付候。」所謂(いはゆる)屋敷内は丸山邸内である。
 六月十一日に蘭軒が妻益の姉夫(あねむこ)飯田杏庵が歿した。杏庵、名は履信(りしん)である。先霊名録に従へば、伊勢国薦野の人黒沢退蔵の子であつた。しかし飯田氏系譜に従へば、杏庵は本(もと)立田氏である。父は信濃国松代の城主真田右京大夫幸弘の医官立田玄杏で、杏庵は其四男に生れた。按ずるに立田玄杏は仮親であらうか。杏庵は蘭軒の外舅(ぐわいきう)飯田休菴[#「休菴」は「休庵」の誤記か]に養はれて、長女の婿となり、飯田氏を嗣いだ。杏庵の後を承けて豊後国岡の城主中川修理大夫久教(ひさのり)に仕へたのは、休甫信謀(きうほしんぼう)である。杏庵は妻飯田氏に子がなかつたので、田辺玄樹の弟休甫を養つて子とし、蘆沢氏の女(ぢよ)を迎へてこれに配した。所謂(いはゆる)取子取婦(とりことりよめ)である。
 秋に入つてから勤向覚書に二件の記事がある。一は蘭軒が神田の阿部家上屋敷へも轎(かご)に乗つて往くことを許された事である。一は蘭軒が医術申合会頭の職に就いた事である。此職は山田玄瑞と云ふものの後を襲(つ)いだのであつた。「八月七日、下宮三郎右衛門殿療治仕候に付、御上屋敷内駕籠にて出入御免被仰付候。閏八月十六日、医術申合会頭是迄山田玄瑞仕来候所、此度私え相譲候段御達申上候。」
 此秋蘭軒は始て釈混外(しやくこんげ)を王子金輪寺に訪うた。「余与金輪寺混外上人相知五六年於茲、而以病脚在家、未嘗面謁、丙子秋、与石田士道、成田成章、太田農人、皆川叔茂同詣寺、得初謁、乃賦一律。山□梵宮渓繞山。桂香先認異塵寰。青松凝色懸崖畔。白水有声奔石間。自覚罪根能已滅。漫扶病脚此相攀。陶潜不飲遠公酔。蓮社本来無著関。」自註に、「余病来止酒、而上人尤為大戸」と云つてある。茶山は更に、「病前亦不能多喫」と添加してゐる。果して然らば蘭軒は生来の下戸で、混外はこれに反して大いに別腸を具してゐたのであらう。

     その八十六

 蘭軒は既に云つた如くに、文化八年の頃より混外(こんげ)と音信を通じてゐて、此年十三年の秋方(まさ)に纔に王子金輪寺を訪うたのである。わたくしは此五六年間に蘭軒と混外との交が漸く親密になつて、遂に相見ることの已むべからざるに至つたやうに推測する。此年の歳旦に混外が蘭軒に与へた小柬がある。「拙衲は第一、其外世界困窮仕候間、元日之口号誠に御一笑奉願候。丙午元旦口号。藁索疎簾松竹門。家々来往祝三元。寒巌処々猶冰雪。無復人間衣裏温。北郊貧道混外子。」簡牘(かんどく)の散文が詩よりも妙である。拙衲(せつなふ)は第一、其外世界困窮の数語、何等の警抜ぞ。わたくしは乙亥の冬から丙子の春へ掛けて、江戸市中不景気と云ふが如き記事はないかとおもつて、武江年表を検したが、見当らなかつた。此小柬は書估文淵堂主人が所蔵の「花天月地」と題する巻子(くわんし)二軸の中にある。収むる所は皆諸家の蘭軒榛軒父子等に寄せた書牘(しよどく)詩筒(しとう)である。
 此年蘭軒に「歳晩偶成」の作がある。「富人競富殆将顛。貧子憂貧亦可憐。有食有衣何所慕。書中楽地送流年。」菅茶山には歳晩の詩がなかつた。
 此年幕府の蘭方医官大槻磐水が六十歳になつたので、茶山が寿詩を贈つた。詩は蘭人短命と云ふ処より立意したものであつた。「大槻玄沢六十寿言。君不見西洋諸国奇術多。神医往々出華佗。又不見紅毛之人乏老寿。得及五十比彭祖。我聞上古淳樸時。人無貴賤夭札稀。(中略。)智巧原来非天意。纔鑿七竅渾沌死。先生医学出西洋。自医医人並康強。不亀手方非異薬。運用在心人誰度。吾願先生寿不騫。益錬其術弘其伝。青藍若能播諸域。紅毛亦得享長年。」然るに磐水は此篇を得て喜ばなかつた。次の年に茶山が蘭軒に寄せた書牘に、蘭人の事を言つた紙片が添へてあつた。紙片は今饗庭篁村(あへばくわうそん)さんの蔵※(ざうきよ)[#「去/廾」、7巻-177-下-10]中にある。其書牘は文淵堂蔵の花天月地中に存するものが或は是であらうか。書牘の事は猶後に記さうとおもふ。
 茶山はかう云つてゐる。「去年カピタンが携来(たづさへきた)りし妻は世に稀なる美人にて、日本人が見てもえならず見え、両婢ともにうつくしきこと限なしと、みな人申候。此頃絵すがた来りしに、聞しにかはりてうつくしからず候。先下女はマタルスの女(むすめ)かと見えて鼠色也。都下へはさだめて似づらのよきが参可申と存さし上不申候。去年大槻玄琢老に寿詞をたのまれ、つくり進じ候処、気に入不申候よし、わたくしが蘭人短命より趣向いたし候処、短命は舟にのる人ばかりにて、本国は長寿のよし也。吾兄長崎にひさし、いかがや覧。」
 欧洲人を美ならずとなし、短命なりとなす如き菅氏の観察乃至判断が、大槻氏に喜ばれなかつたのは怪むに足らない。美醜の沙汰は姑(しばら)く置く。欧洲人の平均命数の延長したのは十九世紀間の事である。文化中の欧洲人は短命とは称し難いまでも、必ずしも長寿ではなかつたであらう。欧洲人を以て智巧に偏すとなしたのは、固より錯(あやま)つてゐた。偏頗は彼の心に存せずして、我の目に存してゐた。
 此年九月六日に池田錦橋が歿し、十一月二十九日に小島宝素が妻を娶(めと)つた。

     その八十七

 池田錦橋は後に一たび蘭軒の孫女(まごむすめ)の婿となる全安の祖父である。錦橋の子が京水、京水の子が全安である。此故にわたくしは今少しく錦橋の事蹟を補叙して置きたい。その補叙と云ふは、前(さき)に渋江抽斎の伝を草した時、既に一たび錦橋を插叙したことがあるからである。
 錦橋は始て公認せられた痘科の医である。本(もと)生田氏、周防国玖珂郡(くがごほり)通津浦(つづうら)の人である。明の遺民戴笠(たいりつ)、字(あざな)は曼公(まんこう)が国を去つて長崎に来り、後暫く岩国に寓した時、錦橋の曾祖父嵩山(すうざん)が笠を師として痘科を受けた。
 錦橋は宝暦十二年に広島に徙(うつ)り、安永六年に大坂に徙り、寛政四年に京都に上り、八年に徳川家斉(いへなり)の聘を受け、九年に江戸に入つた。
 錦橋は初め京水を以て嗣子となしてゐて、後にこれを廃し、門人村岡善次郎をして家を襲(つ)がしめた。京水は分家して町医者となつた。
 錦橋と其末裔との事には許多(きよた)の疑問がある。疑問は史料の湮滅(いんめつ)したるより生ずるのである。わたくしは抽斎伝中に池田氏の事を叙するに当つて、下(しも)の史料を引用することを得た。一、二世池田瑞仙直卿(ちよくけい)の撰んだ錦橋の行状。直卿は即村岡善次郎である。瑞仙は錦橋の通称で、後これを世襲した。二、池田氏過去帖。これは三世池田瑞仙直温(ちよくをん)の自筆本で、池田氏の菩提所向島嶺松寺(れいしようじ)に納めてあつたものである。わたくしは向島弘福寺主に請うて借閲し、副本を作つて置いた。三、富士川氏の手帳並日本医学史。手帳は富士川游さんが嶺松寺の墓誌銘に就いて抄録したものである。日本医学史には此抄録が用ゐてある。
 以上の史料の載する所は頗る不完全であつた。それゆゑわたくしは嶺松寺の墓石の行方を捜索した。墓誌の全文を見むがためである。しかしそれは徒労に帰した。嶺松寺の廃寺となるに当つて、墓石は処分せられた。此墓石の処分といふことは、明治以後盛に東京府下に行れ、今に至つて猶熄(や)むことなく、金石文字は日々湮滅して行くのである。わたくしに此重大なる事実を知る機会を与へたものは、彼捜索である。
 抽斎伝を草し畢つた後、わたくしは池田宗家の末裔と相識ることを得た。三世瑞仙直温は明治八年に歿し、直温の妻窪田清三郎の女(むすめ)啓(けい)が後を襲いだ。これが瑞仙の家の第四世池田啓である。啓の後は啓の仲兄笠原鐘三郎(しようざぶらう)の子鑑三郎が襲いだ。これが瑞仙の家の第五世池田鑑三郎さんである。
 或日鑑三郎は現住所福島市大町から上京して、再従兄(さいじゆうけい)窪田寛(くわん)さんと共にわたくしの家を訪うた。啓の父清三郎の子が主水(もんど)、主水の子が即寛で、現に下谷仲徒士町(したやなかかちまち)に住してゐる。
 わたくしは鑑三郎に問うて、池田宗家累世の墓が儼存してゐることを知つた。嶺松寺が廃寺となつた後、明治三十年に鑑三郎は合墓(がふぼ)を谷中墓地に建てた。合墓には七人の戒名が刻してある。養真院殿元活瑞仙大居士は初代瑞仙錦橋である。芳松院殿縁峰貞操大姉は錦橋の妻菱谷(ひしたに)氏である。善勝院殿霧渓瑞翁大居士は二世瑞仙直卿である。秋林浄桂大姉は直卿の妾(せふ)である。養寿院殿本如瑞仙大居士は三世瑞仙直温である。保寿院殿浄如貞松大姉は直温の妻にして瑞仙の家第四世の女主啓、窪田氏である。以上の六諡(し)は正面に彫(ゑ)つてある。梅嶽真英童子は直温の子洪之助である。此一諡だけは左側面に彫つてある。
 改葬には二つの方法がある。古墓石を有形(ありがた)の儘に移すこともあり、又別に合墓を立つることもある。森枳園(きゑん)一族の墓が目白より池袋に遷された如きは前法の例とすべく、池田宗家の墓が向島より谷中に遷された如きは後法の例とすべきである。彼の此に優ることは論を須(ま)たぬが、事は地積に関し費用に関するから、已むを得ずして後法に従ふこともある筈である。わたくしは池田宗家の諸墓が全く痕跡なきに至らなかつたのを喜ぶと同時に、其墓誌銘の佚亡を惜んで已まぬのである。
 池田宗家の墓が谷中に徙(うつ)された時、分家京水の一族の墓は廃絶してしまつたらしい。

     その八十八

 池田氏宗家の末裔鑑三郎さんは、独りわたくしに宗家の墓の現在地を教へたのみではない。又わたくしに重要なる史料を※(しめ)[#「目+示」、7巻-180-下-11]した。わたくしは上(かみ)に云つた如く、直卿(ちよくけい)の撰んだ錦橋の行状、直温の撰んだ過去帖、富士川氏の記載、以上三つのものを使用することを得たに過ぎなかつた。然るにわたくしは鑑三郎と相識るに至つて、窪田寛(くわん)さんの所蔵の池田氏系図並に先祖書を借ることを得た。これが新に加はつた第四の材料である。
 わたくしは此新史料を獲て、最初に京水廃嫡の顛末を検した。先祖書に云く。「善卿総領池田瑞英善直、母は家女、病気に而末々御奉公可相勤体無御座候に付、総領除奉願候処、享和三亥年八月十二日願之通被仰付候。然る処年を経追々丈夫に罷成医業出精仕候に付、文政三辰年三月療治為修行別宅為致度段奉顧候処、願之通被仰付別宅仕罷在候処、天保七申年十一月十四日病死仕候。」
 善卿は初代瑞仙の字(あざな)である。先祖書には何故か知らぬが、世々字を以て名乗(なのり)としてある。瑞英善直の京水たることは、過去帖の宗経軒京水瑞英居士と歿年月日を同じくしてゐるのを見れば明である。
 是に由つて観れば、錦橋行状の庶子善直が即京水であつたことは、復(また)疑ふべからざることとなつた。行状に云く。「君(錦橋)在于京師時。娶佐井氏。而無子。嘗游于藝華時、妾挙一男二女。男曰善直。多病不能継業。二女皆夭。」
 京水は錦橋の庶子であつた。先祖書の文が行状の文と殆全く相符してゐて、唯先祖書に「母は家女」と書してあるのは、公辺に向つての矯飾であつただらう。そして直卿は行状を撰ぶに当つて、信を後世に伝へむがために、此矯飾を除き去つたのであらう。
 現存する所の先祖書は、元治元年に三世瑞仙直温の官府に呈したものである。しかし其記事は先々代乃至先代の書上(かきあげ)と一致せしめざることを得ない。他家の書上の例を考ふるに、若しこれを変易するときは、一々拠るところを註せなくてはならない。此故に直温の文中錦橋の履歴は錦橋の自撰と看做すことを得べく、又霧渓直卿の履歴は霧渓の自撰と看做すことを得べきである。
 官府に上(たてまつ)る先祖書には、錦橋は京水を以て実子となした。霧渓も亦京水を以て養父錦橋の実子となした。但霧渓は養父の行状を撰ぶに当つて、京水の嫡出にあらざることを言明したに過ぎない。要するに二世瑞仙霧渓の時に至るまでは、京水が錦橋の実子たることに異議を挾(さしはさ)むものはなかつたのである。
 降つて三世瑞仙直温の時に及んで、始て異説が筆に上せられた。それは過去帖の「宗経軒京水瑞英居士、五十一歳、初代瑞仙長男、実玄俊信卿男、天保七丙申十一月十四日」といふ文である。然らば京水の実父玄俊とは何人ぞ。同じ過去帖に云く。「憐山院粛徳玄俊居士、信卿、瑞仙弟、京水父、同(寛政)九丁巳八月二日、寺町宗仙寺墓あり、六十歳。光嶽林明大姉、同人妻、京水母、宇野氏、天明六丙午、三十六歳。」即ち京水を以て錦橋の弟玄俊信卿の子、宇野氏の出(しゆつ)となすのである。
 わたくしは此より進んで議論することを欲せない。言ふところの臆測に墜ちむことを恐るゝからである。わたくしの京水研究は且(しばら)く此に停止する。今わたくしの知り得た所を約記すれば下(しも)の如き文となる。
「池田京水、初の名は善直、後名は※(いん)[#「大/淵」、7巻-182-下-4]、字(あざな)は河澄(かちよう)、瑞英と称す。父は錦橋独美善卿、母は錦橋の側室某氏なり。天明六年大坂西堀江隆平橋南の家に生る。享和三年八月十二日十八歳にして廃嫡せらる。文政三年三月三十五歳にして分家す。天保七年十一月十四日病歿す。年五十一。一説に京水は錦橋の弟玄俊信卿の子なり。母は宇野氏。錦橋に養はれて嗣子となり、後廃せらる。」

     その八十九

 わたくしは此年文化十三年に池田錦橋の歿したことを書く次(ついで)に、曾て池田氏の事蹟を探討した経過を語つた。既に先祖書を得た今、わたくしは未だこれを得なかつた昔に比ぶれば、暗中に一穂(すゐ)の火を点し得た心地がしてゐる。しかし許多(あまた)の疑問はなか/\解決するに至らない。前に挙げた京水出自の事の如きは其一である。
 錦橋は此年に歿した。しかしその歿した時の年齢が不明である。わたくしは渋江抽斎の伝に於て、霧渓所撰の錦橋行状に年齢の齟齬を見ることを言つた。そして生年より順算して推定を下さうとした。今先祖書を得た上はこれを覆覈(ふくかく)して見なくてはならない。
 行状を見るに、錦橋は「以享保乙卯五月二十二日生」としてある。享保二十年錦橋生れて一歳となる。次に「宝暦壬午春、携母遊于安藝厳島、時年二十八」としてある。宝暦十二年二十八歳となる。次に「安永丁酉冬、(中略)抵于浪華、(中略)年四十」としてある。安永六年四十三歳であるべきに、四十歳と書してある。齟齬は此辺より始まる。次に「寛政壬子秋、游于京師、(中略)年五十五」としてある。寛政四年五十八歳であるべきに、五十五歳と書してある。次に「丁巳正月来于東都、年六十四」としてある。寛政九年六十三歳であるべきに、六十四歳と書してある。最後に「文化丙子九月六日病卒、享年八十有三」としてある。文化十三年八十二歳であるべきに、八十三歳と書してある。要するに安永中より寛政の初に至る間三歳を減じ、寛政の末より一歳を加へ、遂に歿年に一歳を加ふるに至つたのである。そこでわたくしは幹枝(かんし)と年歯との符合するものを重視し、生年に本づいて順算することゝした。即ち歿年は八十三にあらずして八十二となるのである。
 然らば直温所撰の過去帖は奈何(いかに)。過去帖は錦橋の父母妻子の齢(よはひ)を具(つぶさ)に載せながら、独り錦橋の齢を載せない。直温は夙(はや)く旧記の矛盾に心付いたので、疑はしきを闕いで置いたのではなからうか。
 新に得たる直温所撰の先祖書は奈何。先祖書には、年次若くは干支と年齢とを併せ載せた処が僅に二箇所あるのみである。「八歳之時父(錦橋父)正明病死仕候」と云ひ、「池田杏仙正明、寛保二戌年正月十六日病死」と云ふのが一つである。「同年(文化十三子年)十月晦日病死仕候、年八十三歳」と云ふのが二つである。歿した月日の行状と異つてゐるのは、官府に呈する文書には届出の月日を記したためであらう。
 唯二箇所である。而して年次若くは干支と年齢との齟齬は、その二つのものの間にさへ存してゐる。これは直卿撰の行状に影響した或物が、早く善卿撰の先祖書に影響し、延(ひ)いて直温撰の先祖書にも及んだのであらう。先祖書の寛保二年錦橋八歳は享保二十年乙卯生に符合してゐる。これが安永前の記事である。文化十三年八十三歳は生年より推算して一歳の過多を見る。これが安永以後の記事である。先祖書を受理する慕府刀筆の吏も、一々年次と年齢とを験するために算盤を弾きはしなかつたと見える。
 以上記する所に就いて考ふるに、錦橋が年齢の牴牾(ていご)は、どうも錦橋自己より出でてゐるらしい。錦橋は江戸に来た比から、毎(つね)に其齢(よはひ)に一歳を加へて人に告げた。それが自ら作つた先祖書に上り、養子霧渓の撰んだ行状にも入つたのであらう。

     その九十

 わたくしは池田錦橋の死を語り、又錦橋並に其一族の事蹟に幾多未解決の疑問のあることをも言つた。その主なるものは錦橋の年齢、其廃嫡子京水の出自等である。
 錦橋の末裔鑑三郎さんと姻戚窪田寛さんとの、わたくしに借覧を許した先祖書は、此家の事を徴するに足る重要文書たることは勿論である。しかしわたくしは此に由つて一の難路を通過した後、又前面に一の難路の横はつてゐるのを望見するが如き感をなしてゐる。
 向島嶺松寺の池田氏の諸墓には、誌銘が刻してあつたさうである。推するに錦橋の墓誌は今存する所の行状と大差なからう。これに反してわたくしの切に見むことを願ふものは京水の墓誌である。曾て富士川游さんは其一部を抄写したが、わたくしは其全文を見むことを欲する。且何人が撰んだかを知らむことを欲する。然るに其碑碣は今亡くなつてしまつたのである。
 錦橋の墓は嶺松寺にあつたものが既に滅びても、其名は鑑三郎の建てた合墓(がふぼ)に刻まれてゐる。又黄蘗山にも墓碑を存してゐるさうである。疇昔の日無名氏があつて、わたくしに門司新報の切抜を寄せてくれた。文は何人の草する所なるを知らぬが、想ふに檗山紀勝(はくさんきしよう)の一節であらう。「独立(どくりふ)の塔に隣りて池田錦橋の墓あり。この人は別に檗山に関係あるものにあらねど、氏の祖父は周防国玖珂郡(くがごほり)通津浦(つづうら)の人にして、岩国に於て独立に就いて痘科の秘訣を伝へて家学とし、氏に至りて幕府の医官たり。独立化後(けご)その塔は多分氏の建立せしものならむ。氏の墓は門人近藤玄之(げんし)、佐井聞庵(ぶんあん)、竹中文輔(ぶんすけ)の同建にかかる。氏の門人録によれば、近藤は下総の人にして、佐井竹中の両氏は録中にその名を見ず、晩年の門人ならむとおもはる。」檗山錦橋の碑には、建立者三人の氏名を除いては、何も彫(ゑ)つてないのであらうか。わたくしはそれが知りたい。わたくしは此記の誰が手に成れるかを知らぬが、其人は既に錦橋の門人録を閲(けみ)してゐる。贄(し)を執るものに血判せしめた錦橋の門人録は、或は珍奇なる文書ではなからうか。其人は或は池田氏の事に精(くは)しい人ではなからうか。
 嶺松寺の廃せられた後、遺迹の全く亡びたのは京水である。わたくしは最も京水の墓の処分せられ、其誌銘の佚亡に至つたことを惜む。
 爰(こゝ)に吉永卯三郎さんと云ふ人がある。わたくしに書を寄せてかう云ふことを報じてくれた。「嶺松寺及池田氏墓誌銘は江戸黄蘗禅刹記巻第五に記載有之候。右書は帝国図書館に所蔵有之候。其方差支有之候はば、小生も一本を持居候。池田錦橋氏の墓は山城宇治黄蘗山万松岡独立墓の側にも一基有之候。」想ふに禅刹記には必ず錦橋の墓誌が載せてあるであらう。若し京水のものも併せ載せてあつたなら、それは予期せざる幸であらう。若し富士川氏の手抄に偶(たま/\)一節を保存せられた文の全篇が載せてあつたなら、それは予期せざる幸であらう。
 わたくしは蔵書の乏しい癖に、図書館には疎遠である。吉永氏の書を得た後、未だ一訪するに及ばない。識る所の書估の云ふを聞くに、江戸黄蘗禅刹記は所謂(いはゆる)珍本ださうである。買ひ求むることはむづかしさうである。或はわたくしも早晩遂に図書館に趨らざることを得ぬかも知れない。

     その九十一

 小島春庵尚質(なほかた)が初て妻を娶つたのも、此年文化十三年十一月二十九日である。春庵尚質は春庵根一(もとかず)の子で、所謂(いはゆる)宝素である。長井金風さんの言(こと)に拠れば、曾て揚上善(やうじやうぜん)の大素経(たいそけい)を獲て、自ら宝素と号したのださうである。尚質の母は蘭学者前野良沢憙(りやうたくよみす)の女(むすめ)である。憙は老後根岸の隠宅から小島の家に引き取られて終つた。尚質の初の妻は山本宗英(そうえい)の女である。春沂(しゆんき)を生んだのは此女ではない。此女の歿した後に来た後妻である。
 此年蘭軒は四十歳、妻益は三十四歳、子女は榛軒十三歳、常三郎十二歳、柏軒七歳、長三歳であつた。
 文化十四年には蘭軒が「丁丑新歳作」と題する七律を遺してゐる。「君恩未報抱□痾。暖飽逸居頭稍※[#「白+番」、7巻-186-下-14]。梅発暄風香戸□。靄含春色澹山阿。好文化遍家吟誦。奏雅声調人暢和。新歳不登公館去。椒樽相対一酣歌。」一二七の三句があつて病蘭軒の詩たるに負(そむ)かない。「頭稍※[#「白+番」、7巻-187-上-3]」は恐くは実を記したものであらう。頸聯には自註がある。「註云。我公好学多年。群臣亦大化。他諸侯之国。如我藩者絶少矣。去年来公又以暇日。時或習古楽。有侍臣数人亦学之者。邸中※[#「瓜+炮のつくり」、7巻-187-上-6]竹之声。頗使人融雍。故五六及之。」阿部侯正精(まさきよ)は丙子の年から雅楽を習ひはじめたと見える。
 菅茶山は此年正月二十一日に蘭軒に与ふる書を作つた。此書も亦饗庭篁村さんの蔵儲中にある。
「新禧弥(いよ/\)御安祥御迎可被成遙賀仕候。晋帥病懶依然御放念可被下候。去年下宮大夫(しもみやたいふ)臥病の節は御上屋敷迄も御出之由、忙程之事出来候へば大慶也。追々脚力も復し可申やと奉存候。只私がごとくよりによりたる年浪は立帰る期(ご)なし。御憐察可被下候。」
「扨津軽屋へ約束いたし候院之荘之古簾(ふるすだれ)、旧冬やう/\と得候故、船廻しに而(て)進(しんじ)候。御届可被下候。後醍醐帝御旅館某(それがし)が家に、今簾をかけ候。これは須磨などに行在処(あんざいしよ)の跡とてかけ候を見及たるや。即備後三郎が詩を題せし所也。作州津山(さくしうつやまより)四五里許(ばかり)有之所のよし、院之荘は其地名也。これは十四年前備前之人を頼置候。度々催促すれども得がたし/\と申而居候故、もはやくれぬ事かと思切ゐ申候処、去冬忽然と寄来候。作州より三十里川舟にて岡山へ参、夫より洋舟(なだふね)にて三十里、児島を廻る故遠し、笠岡てふ所へ参、そこより三里私宅へ参候へば、物は軽く候へども、世話は世話也。銭は一文もいらず候。此世話計(ばかり)をかの十符(とふ)の菅菰(すがごも)之礼と被仰可被下候。」
「扨市野など不相替会合可有之遙想仕候。梧堂はいかが。杳然せうそこなし。其外存候人へ御致声(ごちせい)宜奉願上候。別而(べつして)御内政(ごないせい)様おさよどのへ御祝詞奉願上候。此次(このたび)状多したため腕疲候而やめ申候。春寒御自玉可被成候。恐惶謹言。正月廿一日。菅太中晋帥(くわんたいちゆうしんすゐ)。伊沢辞安様。去年詩画騒動之詩、尺牘とも見申候。番付未参候、あらば御こし可被下候。詩御一笑可被下候。うつさせて梧堂へ御見せ可被下候。」
「尚々卿雲へこたび書状なし。宜御申可被下候。たび/\問屋のやう御頼、所謂(いはゆる)口銭もなし。御面倒奉察候。」

     その九十二

 此丁丑正月の菅茶山の書に所謂「下宮大夫臥病」云々は、前に引いた勤向覚書に見えてゐる往診の事である。大夫下宮、通称は三郎右衛門、神田にある阿部家の上屋敷にゐて病に罹つたので、蘭軒は丸山の中屋敷から往診した。此機会に蘭軒は轎(かご)に乗つて上屋敷に出入する許可を受けたのである。
 院之荘の簾(すだれ)の事は興ある逸話である。狩谷□斎は茶山に十符(とふ)の菅薦(すがごも)を贈つた。茶山は其報(むくい)に院之荘の簾を遺(おく)ることを約した。それを遷延して果さなかつたのに、今やう/\求め得て送つたのである。
「去年詩画騒動」とは底事(なにごと)か未だ考へない。当時寛斎、天民、五山、柳湾の詩、文晁、抱一、南嶺、雪旦の画等が並び行はれてゐたので、「番附」などが出来、其序次が公平でなかつたために騒動が起つたとでも云ふ事か。「詩尺牘とも」見たと、茶山は云つてゐるが、※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-188-下-9]詩集にはそれかと思はるる詩も見えない。
 慣例のコンプリマンは簾を得て書を得ざる□斎、茶山の詩を見せてもらふ石田梧堂の外、蘭軒の妻妾(さいせふ)に宛(あ)ててある。
 蘭軒の集中には此年元旦の作の後に、春季の詩七首がある。此にその作者の出入起居を窺ふべきものを摘取することとする。蘭軒の例として催す「豆日草堂集」は、恰(あたか)も好し、雪の新に霽れた日であつた。「竹裏数声黄鳥啼。漫呼杖□到幽棲。恰忻春雪朝来霽。麗日暄風晞路泥。」又「春日即事」の詩に「春困奈斯睡味加、筑炉薩罐煮芳芽」の句がある。筑炉の下(もと)には「家姉之所贈」と註し、薩罐(さつくわん)の下には「家兄之所贈」と註してある。家姉の幾勢(きせ)たるは論なく、家兄は蘭軒の宗家伊沢信美(しんび)を呼ぶ語であつたことが、此に由つて考へられる。菅茶山が「麻布令兄」と書した所以(ゆゑん)であらう。此春蘭軒は轎(かご)に乗つて上野の花をも見に往つた。「東叡山看花」の絶句に、「劉郎不復曾遊態、扶病漫追芳候来」の句がある。
 長崎に真野遜斎(まのそんさい)と云ふものがあつて、六十の寿筵が開かれたのも此春である。蘭軒の「遙寿長崎遜斎真野翁六十」の詩に、「嚢中碧□伝三世、局裏金丹恵衆民」の頷聯があつて、其下に「老人為施薬所主司」と註してある。
 僧混外(こんげ)が蘭軒に芭蕉を贈つたのも此春である。「清音閣主混外上人見贈芭蕉数根、賦謝」として七絶がある。「懐師方外辱交情。寄贈芭蕉数本清。従此孤吟風雨夕。応思香閣聴渓声。」宥快(いうくわい)は居る所の室を清音閣と云つて、其清音は滝の川の水声を謂つたものと見える。
 其他此春少壮官医中に蘭軒の規箴(きしん)を受けたものがあるらしい。わたくしは「戯呈山本莱園小島尚古二公子」の詩を読んで是(かく)の如くに解する。「方怕芳縁相結得、鮮花香裡不帰来」は、戯(たはぶれ)と称すと雖も、実は規であらう。
 莱園の誰なるかは、わたくしは知らない。或は法眼宗英の家の子弟ではなからうか。尚古(しやうこ)も亦未詳である。海保漁村の経籍訪古志の序に、小島宝素の事を謂つて、「宝素小島君学古」となしてある。尚質(なほかた)の字(あざな)は学古とも尚古とも云つたのではなからうか。尚質は此年二十一歳であつた。
 わたくしは只蘭軒が何故に菅茶山のために寿詞を作らなかつたかを怪む。茶山の七十の寿筵が其誕辰に開かれたとすると、此年二月二日であつた筈である。寛延元年二月二日に菅波喜太郎(すがなみきたらう)として生れたからである。

     その九十三

 菅茶山の七十の誕辰は、行状に「十四年(文化)丁丑、先生年七十、賜金寿之」と書してある。阿部家から金を賜はつたことである。其日の七律の七八に「展観寿頌堆牀上、且喜諸公未我捐」と云つてある。詩集の載する所のみを以てしても、楽翁白川老侯は「寿歌寿杯」を賜はつた。谷文晁は「□□跪餌図」を作つて贈つた。茶山も幸にして病に悩されずに、快く巵(さかづき)を挙げたと見える。「不知身上残齢減。猶且欣々把寿巵。」前にも云つたやうに、わたくしは蘭軒の寿詞の闕けてゐるのを憾とする。
 茶山の家では夏に入つてから後も、祝賀の余波が未だ絶えなかつた。「誕辰後諸君持詩来集」の七律に、「新荷嫩筍回塘夕、微暑軽寒熟麦時」の頸聯がある。祝賀は麦秋(むぎあき)の頃にさへ及んだのである。
 此年の夏以後、蘭軒の集中には僅に四首の詩を存してゐて、しかも其一は題があつて詩が無い。人のために画に題する詩の中で、吉田周斎がためにするものは詩があつて、門人秦玄民(はたげんみん)がためにするものは詩がないのである。玄民は書家星池の弟で、後に飯田氏を冒したものである。
 旺秋に入つてから、茶山の蘭軒に寄せた書牘が遺つてゐる。是より先七月に茶山は蘭軒の書を得てこれに答へた。次で蘭軒の再度の書が来て、茶山は八月七日に此書牘を作つたのである。これは文淵堂所蔵の花天月地(くわてんげつち)中に収められてゐる。
「先達而(せんだつて)御寸札ならびに論語到来、其御返事先月廿日比(ごろ)いたし、大坂便にさし出候。今度御書に而は、右本御恵賜被下候由扨々忝奉存候。いよいよ珍蔵可仕候。□斎翁へも(隠居故翁と書たり)宜御礼奉願上候。御状も来候へども、此便急に而御返事期他日候。」
「今年御地寒熱之事被仰下、いづかたも同様也。先去冬甚あたたかに、三冬雪を見ず、夫(それ)にしては春寒ながく候ひき。土用中以外(もつてのほか)ひややかに、初秋になりあつく候。秋はきのふたちぬときけど中々にあつさぞまさる麻のさごろもなどとつぶやき候。此比又冷気多く候処、今日より熱(あつさ)つよく候。いかなる気候に候や。生来不覚位の事也。先冬あたたかに雪なく、夏涼しくて雷なく、凌ぎよき年也。ことに豊年也。世の中も此通ならば旨き物也。諺に夏はあつく冬はさむきがよいと申せばさ様にも無之や。御地土用見廻之人冷気之見廻を申候よし、因而(よつて)憶出候。廿五六年前一年(ひとゝせ)京にゐ候時、暑甚しく、重陽などことにあつし。今枝某といふ一医生礼にきたり、いつも端午が寒ければ、わたいれの上に帷子(かたびら)を著す、今日は帷子の上にわたいれを著して可然などと申候。」
「落合敬助太田同居にてたび/\御逢被成候よし、如仰好人物也。詩文はよく候へども富麗に過候。最早あの位に出来候へば、取きめて冗雑(じようざつ)ならぬ様に被致かしと奉存候。このこと被仰可被下候。」
「長崎游竜見え候時、不快に而其宿へ得参不申候。門人か□(けん)か見え候故、しばらく話し申候。寝てゐる程の事にもあらず候。這(この)漢(かん)学問もあり画もよく候。逢不申残念に御坐候。私気色は春よりいろ/\あしく候。然ども浪食もとのごとくに候。今年七十に候へば、元来の病人衰旄(すゐばう)は其所也。」
「金輪(こんりん)上人度々御逢被成候よし、御次(おんついで)に宜奉願上候。三瑕之内美僧はうけがたく候。梧堂つてにて御逢被成候ひしや。其外岡本忠次郎君、田内(か川)主税(ちから)、土屋七郎なども参候よし、みな私知音之人、金輪へ参候時何の沙汰もなく残念に候。」

     その九十四

 此年文化十四年八月七日に、菅茶山の蘭軒に与へた書は、文長くして未だ尽きざるゆゑ、此に写し続ぐ。
「牽牛花(あさがほ)大にはやり候よし、近年上方にてもはやり候。去年大坂にて之番附坐下に有之、懸御目申候。ことしのも参候へども此頃見え不申候。江戸書画角力は相識の貌(かほ)もあり、此蕣角力(あさがほすまふ)は名のりを見てもしらぬ花にてをかしからず候。前年御話申候や、わたくし家に久しく□州(しやうしう)だねの牽牛花(けんぎうくわ)あり。もと長崎土宜(みやげ)に人がくれ候。※[#「「卅」にさらに縦棒を一本付け加える」、7巻-192-上-12]年前也。花大に色ふかく、陰りたる日は晩までも萎(しぼ)まず。あさがほの名にこそたてれ此花は露のひるまもしをれざりけりとよみ候。其たねつたへて景樹(かげき)といふうたよみの処にゆきたれば、かかるたねあること知らで朝顔をはかなきものとおもひけるかなとよみ候よし。私はしる人にあらず、伝へゆきしなり。これは三十年前のこと也。さて其たね牽牛花(あさがほ)はやるにつき段々人にもらはれ、めつたにやりたれば、此年は其たねつきたり。はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晋帥(しんすゐ)骨相之屯(こつさうのじゆん)もおもふべし。呵々。扨高作は妙也。申分なし。段々上達可思也。曾てきく。上方にはやること、大抵十五六年して江戸へゆき、江戸にはやること亦十五六年して上方へ来ると云。この蕣(あさがほ)は両地一度也。いかなる事や。重厚之風段々減じ、軽薄之俗次第に長ずるにはあらずや。何さま昌平之化可仰可感候。」
「梧堂より両度書状、今以返事いたさず、畳表之便をまち申候。其内先此一首にて、王子と両方への御断也。御届け可被下候。」
「□斎隠居之譚とくより承候。あたらしく被仰下候而物わすれは老人のみにあらずと、差彊人意(やゝじんいをつようし)候。書中に御坐候。松崎ほめ候へ共、簾(れん)はいまだ知音を不得候よし申参候。千載の知己をまつの外せんすべなかるべし。この松崎は旧知識也。在都中不逢候を遺恨に覚え候。御逢被成候はば宜御つたへ被下よと、御申可被下候。□斎西遊之志御坐候よし、これは何卒晋帥が墓にならぬうちに被成よと、御申可被下候。長崎は一とほり見ておきたき所也。私も志ありしかども縁なし。何卒御すすめ可被下候。市野のわる口は前書にあり。此不贅(こゝにぜいせず)。八月七日。是日別而(べつして)暑甚し。これまでは涼しきにこまりたり。菅太中晋帥。伊沢辞安様。落合敬介漂流のうち、ここかしこ、いづくもわたくし相しれる所へ参られ候は奇也。別而宜しく御伝可被下候。御地久しく雨ふらず候よし、※[#「敝/犬」、7巻-193-上-13]郷も亦同じ。五六日ふりしのち此比(ごろ)までふらず、此比三度少し宛(づつ)ふりたれども、地泥(ちでい)をなすにいたらず。然れども此上ふりてはまたあしし。これにてよき程也。これは※[#「敝/犬」、7巻-193-上-16]郷に宜(よろし)。土地によるべし。」
「尚々古庵様、服部氏、市川先生、凡私を存候人々へ宜奉願上候。別而御内政様、両令郎(れいらう)は勿論、おさよどのまで不残奉願上候。ふしぎは今年蛇蚊蛙すくなく、燕はいつも春晴桃紅(しゆんせいももくれなゐ)に梅雨柳くらき比軒ばに来り、□喃(ぢなん)かまびすしきに、ことしは三日に一度、五日に一度くらゐ稀に見申候。此比虫語常年のごとし。」
 此手紙は長さ五尺許(ばかり)の半紙の巻紙に細字で書いてある。分註あり行間の書入あり、原本のままには写しにくいので、文意を害せざる限は、本文につづけてしまつた。但「□斎翁」の下(もと)にある填註のみは括弧内に入れた。

     その九十五

 菅茶山の書牘に許多(あまた)の人名の見えてゐることは、上(かみ)に写し出した此年文化十四年八月七日の書に於ても亦同じである。
 狩谷□斎は此比(ころ)隠居した。恐くは此年隠居したと云つても好からう。わたくしは世に□斎詳伝のありやなしやを知らない。わたくしの知る所は只松崎慊堂(かうだう)の墓碣銘(ぼけつめい)のみである。慊堂はかう云つてゐる。「翁年四十余。謂曰。児已長。能治家。我将休矣。遂卜築浅草以居。扁曰常関書院。署其室曰実事求是書屋。又号□翁。皆表其志也。」所謂(いはゆる)「年四十余」は年四十三に作つて可なることが、此書牘に徴して知られるのである。□斎の退隠の年を明にすると云ふことは、わたくしの以て大に意義ありとなす所である。若し別に詳伝がないとすると、これも亦一の発見である。
 湯島の狩谷の店には懐之(くわいし)、字(あざな)は少卿(せうけい)が津軽屋三右衛門の称を襲(つ)いですわつたのであらう。慊堂が「風度気象能肖父」と云つてゐるから、立派な若主人であつたかとおもふ。しかし年は僅に十四であつた。安政三年に五十三歳で歿した人だからである。
 書牘には論語を送られた礼を□斎にも伝へてくれと云つてある。論語は市野迷庵の覆刻した論語集解であらう。迷庵の所謂「六朝経書、其伝者世無幾」ものであらう。蘭軒は初め短い手紙を添へて茶山に此本を見せに遣つた。尋(つい)で「あれは献上する」と云つて遣つた。茶山は蘭軒に其礼を言つて、同時に□斎にも礼を言つてくれと云つておこせたのである。わたくしは此間の消息を明にするために、覆刻本の序跋を読んで見たくおもふ。しかし其書を有せない。わたくしは市野光孝(くわうかう)さんの許(もと)で其書を繙閲して、刻本の字体を記憶してゐるのみである。想ふにこれも亦所謂珍本に属するものであらう。
 今一つ注目すべきは□斎の辛巳西遊の端緒が、早く此年文化十四年に於て見(あらは)れてゐる事である。茶山は「晋帥が墓にならぬうちに被成よ」と云つて催促してゐる。此より後四年にして□斎は始て志を遂げ、茶山を神辺に訪ふことを得た。
 次に松崎慊堂の名が茶山の此書牘に見えてゐる。しかも其事は□斎に連繋してゐる。此所の文は少し晦渋である。「書中に御坐候。松崎ほめ候へ共、簾はいまだ知音を得ず候よし申参候。千載の知己をまつの外せむすべなかるべし。」茶山は□斎に院之荘の簾を贈つた。□斎の書中に此簾の事が言つてある。□斎は簾を実事求是(じつじきうし)書屋に懸けて客に誇示してゐる。しかし慊堂一人がこれを歎美したのみで、簾は人の称讚を得ないと云つてある。然らば簾は知己を千載の下(しも)に待つ外あるまい。わたくしは読んで是(かく)の如くに解する。
 香川景樹と菅茶山との関係も亦此書牘に由つて知られる。寧関係の無いことが知られると云つた方が当つてゐるかも知れない。頼氏には深く交つた景樹も、菅氏とは相識らなかつたのである。茶山は四十年前に午(ひる)萎(しを)れぬ□州産の牽牛花(けんぎうくわ)を栽培してゐた。景樹が三十年前に其種子を得て植ゑ、歌を詠んだ。茶山は「私はしる人にあらず、伝へゆきしなり」と云つてゐる。
 茶山が此逸事を筆に上せたのは、蘭軒が江戸に於ける朝顔の流行を報じたからである。蘭軒はこれを報ずるに当つて、詩を寄示した。集に載する所の「都下盛翫賞牽牛花、一絶以紀其事」の作である。「牽牛奇種家相競。不譲魏姚分紫黄。請看東都富栄盛。万銭購得一朝芳。」
 文化十四年より三十年前は天明七年である。朝顔の種子(たね)が菅氏から香川氏に伝はつた時、文字の如く解すれば、茶山が四十歳、景樹が僅に二十歳であつた筈である。しかしわたくしは此推定に甘んぜずに、更に討究して見ようとおもひ立つた。

     その九十六

 菅茶山の書牘中にある香川景樹の朝顔の歌は、わたくしの素人目を以てしても、分明に桂園調で、しかも第五句の例の「けるかな」さへ用ゐてある。わたくしは景樹の集に就いて此歌を捜さうとおもつた。然るに竹柏園主の家が遠くもない処にある。多く古今の歌を記憶してゐる人である。或はことさらに捜すまでもなく此歌が其記憶中にありはせぬかとおもつた。
 わたくしは茶山と景樹との歌を書いて、出典は文化十四年の茶山の消息(せうそこ)と註し、「景樹の此歌他書に見え候ものには無之候や」と問うた。此歌は園主の記憶中には無かつた。後におもへば目に立つべき歌ではなかつたから、園主の記せざるは尤の事であつた。園主は出典の文化十四年と云ふに注目して、文化十年以後の景樹の歌を綿密に検したが、尋ぬる歌は見えなかつた。只文化十四年に景樹が難波人(なにはびと)峰岸某から朝顔の種子(たね)を得た歌を見出したのみであつた。そしてそれは勿論異歌(ことうた)であつた。
 これはわたくしの問ざまが悪かつたのである。書牘は文化十四年の書牘だが、茶山は昔語をしてゐたのである。園主に徒労をさせたのは、問ふもののことばが足らなかつたためである。
 書牘の云ふ所に拠るに、茶山は四十年前に□州牽牛花(けんぎうくわ)の種子を獲たさうである。文化十四年丁丑より四十年前は安永六年丁酉で、茶山は二十九歳、景樹は十歳である。かくて三十年前に至つて、種子は神辺の茶山の家より景樹の許に伝はつたと云ふ。三十年前は天明七年丁未である。茶山四十歳、景樹二十歳の時である。兎に角景樹は既に京都に上つてゐる。わたくしはこれを竹柏園主に告げて、再び探討の労を取らむことを請うた。園主の答は下(しも)の如くであつた。
「拝見。文化十年以後をずつと調べ候ひしに無之、唯今の御状により更に始の方を調べ候に、享和二年戌(いぬの)四月十六日と十八日との中間に真野敬勝(まのけいしよう)ぬし□州の牽牛花の種を給ひける、こはやまとのとはことにて、夕方までも萎(しぼ)まで花もいとよろしと也、かかる種子あることしらで朝顔をはかなきものとおもひけるかなと有之候を見出、まことに喜ばしく候。茶山のうたは無論無之候。御状の景樹二十歳位とあるは必ず誤と存じ候事にて、三十年前は何か手紙の御よみちがへには無之やと存候。」
 問題は此に遺憾なく解決せられた。菅氏の牽牛花の種子は真野敬勝の手を経て景樹の許(もと)に到つた。時は享和二年壬戌であつた。文化十四年より算すれば十五年前で、三十年前では無い。茶山は五十五歳、景樹は三十五歳の時である。
 しかし茶山が書牘の「※[#「「卅」にさらに縦棒を一本付け加える」、7巻-197-上-14]年前」「三十年前」は、二箇所共に字画鮮明である。わたくしの読みあやまりではない。三十年前は分明に老茶山の記憶の誤である。啻(たゞ)に書の尽(ことごと)く信ずべからざるのみではない。古文書と雖、尽く信ずることは出来ない。□州の牽牛花の種子は何年に誰から誰に伝はつても事に妨(さまたげ)は無い。わたくしの如き間人の間事業が偶(たま/\)これを追窮するに過ぎない。しかし史家の史料の採択を慎まざるべからざることは、此に由つても知るべきである。
 わたくしは前(さき)に山陽の未亡人里恵の書牘に拠つて、山陽再娶(さいしゆ)の年を定めた。しかし女子が己の人に嫁した年を記すると、老人が園卉種子(ゑんきしゆし)の授受を記するとは、其間に逕庭があらうとおもふ。

     その九十七

 菅茶山の朝貌(あさがほ)の話は、流暢な語気が殆どトリヰアルに近い所まで到つてゐる。想ふに茶山は平素語を秤盤(しようはん)に上(のぼ)せて後に、口に発する如き人ではなかつただらう。其坐談には諧謔を交ふることをも嫌はなかつただらう。わたくしは田能村竹田(たのむらちくでん)が茶山の笑談(せうだん)として記してゐた事をおもひ出す。それは頼杏坪(きやうへい)を評した語であつた。「万四郎は馬鹿にてござる。此頃は蚊の歌百首を作る。又此頃はいつものむづかしき詩を寄せ示す。其中には三ずゐに糞と云ふ字までも作りてござる。」糞は独り糞穢(ふんくわい)のみでは無い。張華は「三尺以上為糞、三尺以下為地」とも云つてゐる。※(ふん)[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-7]も亦爾雅(じが)に「※[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-7]大出尾下」と云つてある。註疏を検すれば、刑□(けいへい)は「尾猶底也」「其源深出於底下者名※[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-9]、※[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-9]猶灑散也」などと云つてゐる。今謂ふ地底水であらう。郭璞(くわくぼく)は「人壅其流以為陂、種稲、呼其本出処、為※[#「さんずい+糞」、7巻-198-上-11]魁」と云つてゐる。即ち水源の謂で、ゐのかしらなどの語と相類してゐる。要するに必ずしも避くべき字では無い。茶山は戯謔(けぎやく)したに過ぎない。
 茶山は朝顔の奇品を栽培してゐたが、人に種子(たね)を与へて惜まなかつたので、種子が遂に□(つ)きた。「はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晋帥骨相之屯もおもふべし。」これは六三の「即鹿无虞」あたりから屯(じゆん)に説き到つたのであらう。
 江戸の流行は十五六年にして京都に及び、京都の流行は十五六年にして江戸に及ぶ。「この蕣(あさがほ)は両地共一度也。いかなることや。」こゝまでは猶可である。重厚の風減じ、軽薄の俗長ず。「何さま昌平之化、可仰可感候。」これは余りに廉価なるイロニイである。
 僧混外(こんげ)も亦茶山の此書牘に見えてゐて、石田、岡本、田内、土屋の四人の名がこれに連繋して出てゐる。これは前年丙子の秋以来蘭軒が混外と往来するに至つた事を指して言つたものである。蘭軒が混外を評した中に僧の三瑕と云ふことがあつた。其一の「美僧はうけがたく候」と茶山が答へた。蘭軒が混外と相会した時、石田梧堂がこれを介したらしい。それゆゑ茶山は「梧堂つてにて御逢被成しや」と云つてゐる。蘭軒は前年初見の時の同行者として、梧堂を除く外、成田成章、大田農人、皆川叔茂を挙げてゐて、岡本、田内、土屋は与(あづか)らなかつた。或は再三往訪した時のつれか。茶山は岡本以下の知人が蘭軒と偕(とも)に金輪寺(こんりんじ)を訪うたのに、それを報ぜなかつたことを慊(あきたら)ずおもつた。「皆私知音之人、金輪へ参候時何之沙汰もなく残念に候。」
 岡本忠次郎、名は成、字(あざな)は子省である。本近江から出た家で、父政苗(まさたね)が幕府の勘定方を勤むるに至つた後の子である。忠次郎は南宮大湫(なんぐうたいしう)に学んだ。韓使のために客館が対馬に造られた時、忠次郎は董工のために往つてゐて、文化八年に江戸に還つた。茶山の手紙に書かれた時は職を罷める前年で、五十歳になつてゐた。
 安中(あんなか)侯節山板倉勝明撰の墓碑銘に、忠次郎の道号として、豊洲、花亭、醒翁、詩癡、又括嚢(くわつなう)道人が挙げてある。此中で豊洲、花亭、醒翁の号が茶山の集に見えてゐる。既に老後醒翁と号したとすれば、茶山のために竜華寺(りうげじ)の勝を説いた岡本醒廬も或は同人ではなからうか。

     その九十八

 菅茶山の蘭軒に与へた丁丑八月七日の書牘に、王子金輪寺の混外(こんげ)が事に連繋して出てゐる人物の中、わたくしは既に石田梧堂と岡本豊洲とを挙げた。剰す所は田内主税(ちから)と土屋七郎とである。
 田内は茶山が書を裁するに当つて、はつきり其氏をおもひ浮べることが出来なかつたと見えて、「か川」の傍註が施してある。田内か田川かとおもひまどつたのである。しかし田内の事は茶山集にも山陽集にも、詩題詩註に散見してゐる。始終茶山と太(はなは)だ疎(うと)くは無かつたのである。一説に田内は「でんない」と呼ぶべきであらうと云ふ。しかし茶山が田内か田川かとおもひまどつたとすると、当時少くも茶山はでんないとは呼んでゐなかつたらしい。
 然らば菅頼二家の集は何事を載せてゐるかと云ふに、それは殆ど云ふに足らない。田内主税、名は輔(ほ)、月堂と号す、会津の人だと云ふのみである。わたくしは嘗て正堂の一号をも見たことがある。市河三陽さんに聞けば、輔は親輔の省で、字(あざな)は子友であつたと云ふ。幼(いとけな)い時から白川楽翁侯に近侍してゐた人である。南天荘主は頃日(このごろ)田内の裏書のある楽翁侯の歌の掛幅(くわいふく)を獲たさうである。
 土屋七郎は殆ど他書に見えぬやうである。唯一つ頼元鼎(げんてい)の新甫遺詩の中に、「要江戸土屋七郎会牛山園亭」と云ふ詩がある。「雨過新樹蔵山骨。燕子銜来泥尚滑。何計同人于野同。深欣発夕履予発。四海弟兄此邀君。三春風物纔半月。地偏無物充供給。独有隣翁分紫蕨。」土屋が江戸の人で安藝に往つてゐたことは、これに由つて知られる。後にわたくしは偶然此人の歿年を知ることを得たが、それは他日書き足すこととする。以上が混外に連繋した人物である。
 茶山の書牘に又游竜の名が見えてゐる。游竜は神辺に来て旅宿にゐたので、茶山が訪はうとおもつた。此人の学殖があつて、画を善くするのを知つてゐたからである。しかるに茶山は病臥してゐて果さなかつた。游竜は門人か従者かをして茶山を訪はしめた。茶山はこれを引見して語を交へた。書牘の云ふ所は、凡(おほよそ)此(かく)の如くである。
 茶山は単に「長崎游竜」と記してゐる。山陽、霞亭等の事を言ふ時と違つて、恰も蘭軒が既に其名を聞いてゐることを期したるが如くに見える。
 わたくしは游竜の誰なるを知らなかつたので、大村西崖さんに問ひに遣つた。そしてかう云ふ答を得た。「御問合の游竜は続長崎画人伝に見ゆ。長崎の人なるべし。姓不詳(つまびらかならず)。諱(いみな)は俊良、字(あざな)は基昌、梅泉又浣花道人とも号す。通称彦二郎。来舶清人稼圃江大来(かほこうたいらい)に学び、親しく其法を伝ふ。歿年闕く。右不取敢御返事申上候。」
 梅泉の一号が忽ちわたくしの目を惹いた。長崎の梅泉は竹田荘師友画録にも五山堂詩話補遺にも見えてゐて、わたくしは其人を詳にせむと欲してゐたからである。若し三書の謂ふ所の梅泉が同一の人ならば、游竜は劉氏であらう。長崎の劉氏は多くは大通事彭城(さかき)氏の族である。游竜は彭城彦二郎と称してゐたものではなからうか。
 さて游竜の歿年であるが、果して游竜が劉梅泉だとすると、多少の手がかりがないでもない。竹田は「丙戌冬到崎、時梅泉歿後経数歳」と云つてゐる。即ち文政九年より数年前に歿したのである。
 わたくしは此の如くに思量して、長崎の津田繁二さんに問ひに遣つた。津田さんは長崎の劉氏の事を探らむがために、既に一たび崇福寺の彭城氏の墓地を訪うたことのある人である。
 書は既に発した。わたくしは市河三陽さんの書の忽ち到るに会した。「劉梅泉は彭城彦二郎、游竜彦二郎とも称し候。頼杏坪(きやうへい)とも会面したる旨、寛斎宛同人書翰に見え居候。彭城東閣の裔かと愚考仕候。」
 わたくしの推測はあまり正鵠をはづれてはゐなかつたらしい。東閣は彭城仁左衛門宣義(のりよし)である。「万治二亥年十月大通事被仰付、元禄八亥年九月十九日御暇御免、同九月二十一日病死、行年六十三。」津田さんは嘗てわたくしのために墓碑の文字をも写してくれた。「正面。故考広福院殿道詮徳明劉府君之墓。向左。元禄八年歳次乙亥季秋吉旦。孝男市郎左衛門恒道。継右衛門善聡同百拝立。向右。訳士俗名彭城仁左衛門宣義。」

     その九十九

 長崎の津田繁二さんはわたくしの書を得て、直に諸書を渉猟し、又崇福寺の墓を訪うて答へた。大要は下(しも)の如くである。
 彦次郎の実父を彭城(さかき)仁兵衛と云つた。文書に「享和三亥年二月十日小通事並(せうつうじなみ)被仰付」とあり、又「文化二丑年五月十六日より銀四貫目」とある。仁兵衛に二子があつて、長を儀十郎と云ひ、次を彦次郎と云つた。儀十郎が家を継いだ。「文化十五寅年六月十二日小通事並被仰付」とある。
 次男彦次郎は出でて游竜市兵衛の後を襲いだ。市兵衛は素(もと)林氏であつた。昔林道栄が官梅を氏とした故事に傚(なら)つて游竜を氏とし、役向其他にもこれを称した。長崎の人は游を促音に唱へて、「ゆりう」と云ふ。しかし市兵衛の本姓は劉であるので、安永四年に名を梅卿と改めてからは、劉梅卿とも称してゐた。
 彦次郎の官歴は下の如くである。「享和元酉年七月廿七日稽古通事被仰付。文化七午年十二月十二日小通事末席被仰付。文政二卯年四月二十七日小通事並被仰付。」
 墓は崇福寺にある。「正面。吟香院浣花梅泉劉公居士、翠雲院蘭室至誠貞順大姉。向右。天明六年丙午八月廿日誕、文政二年己卯八月初四日逝、游竜彦次郎俊良、行年三十四歳。向左。文化九年壬申十月廿五日逝、游竜彦次郎妻俗名須美。」
 是に由つて観れば、彦次郎は天明六年に生れ、享和元年に十六歳で稽古通事になり、文化七年に二十五歳で小通事末席になり、九年に二十七歳で妻を喪ひ、文政二年に三十四歳で小通事並になり、其年に歿した。神辺(かんなべ)に宿つてゐて菅茶山の筆に上(のぼ)せられたのは三十二歳即歿前二載、田能村竹田に老母を訪はれたのは歿後七載であつた。竹田が「年殆四十、忽然有省、折節読書」と云つてゐるのは、語つて詳(つまびらか)ならざるものがある。職を罷めて辛島塩井(からしまえんせい)に従学しようと思つてゐながら、病に罹つて死んだのは事実であらう。
 茶山の書牘に拠るに、梅泉は神辺に往つた時、茶山を訪はなかつた。そして「門人か□か」と見える漢子(かんし)を差遣した。茶山はこれを引見して話を聞いた。そして我より往いて訪ふべきではあつたが、病のために果さなかつたと云つてゐる。
 茶山は梅泉の学問をも技藝をも認めてゐた。然るに其人が神辺にゐて来り訪はぬのである。茶山がいかに温藉の人であつたとしても、自ら屈して其旅舎に候(うかが)ふべきではあるまい。茶山の会見を果さなかつたのは、啻(たゞ)に病の故のみではあるまい。
 わたくしは梅泉が頗る倨傲であつたのではないかと疑ふ。竹田の社友に聞いた所の如きも、わたくしの此疑を散ずるには足らぬのである。「蓋其人才気英発。風趣横生。超出物外。不可拘束。非尋常庸碌之徒也。聞平日所居。房槞華潔。簾幕深邃。衣服清楚。飲食豊盛。異書万巻。及名人書画。陳列左右。坐則煮茗插花。出則照鏡薫衣。置梅泉荘於南渓。挾粉白。擁黛緑。日会諸友。大張宴楽。糸竹争発。猜拳賭酒。既酔則倒置冠履。※[#「にんべん+差」、7巻-203-下-7]々起舞。」要するに才を恃(たの)み気を負ふもので、此種の人は必ずしも長者を敬重するものではない。
 梅泉は江戸にも来たことがある。それは五山堂詩話に見えてゐる。補遺の巻(けんの)一である。中井董堂が五山に語つた董堂と江芸閣(こううんかく)との応酬の事が即是で、梅泉が其間に立つて介者となつてゐるのである。

     その百

 菊池五山はかう云つてゐる。「董堂来語云。崎陽舌官劉梅泉者客歳以事出都。書画風流。一見如旧。臨去飲餞蕊雲楼上。酒間贈別云。水拍欄干明鏡光。荷亭月浄浴清涼。離歌一曲人千里。間却鴛鴦夢裏香。今春劉寄書至。書中云。前年見贈高作。伝示之芸閣。芸閣云。董堂先生。書法遒美。神逼玄宰。余亦学董者。雖阻万里。猶是同社。我当和韵以贈。乃援筆書絹上。今此奉呈。其詩云。亭々波影悦容光。占得暁風一味涼。曾溌鴛鴦翻細雨。十分廉潔十分香。末署十二瑤台使者江芸閣稿。」
 詩話に所謂(いはゆる)「客歳」とは何(いづ)れの年であらうか。同じ補遺の巻(けんの)一に女詩人大崎氏小窓(せうさう)の死を記して、「女子文姫以今年戊寅病亡」と云つてある。五山が此巻を草したのは恐くは文政元年であらう。果して然らば劉梅泉の江戸に来たのは文化十四年丁丑で、神辺に宿したのと同じ年であらう。
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