伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 以上長四尺許(ばかり)の半紙の巻紙に書いた書牘(しよどく)の全文である。蠧蝕(としよく)の処が少しあるが、幸に文字を損ずること甚しきに至つてゐない。

     その七十九

 此書牘、文化乙亥の茶山の第一書に、主要なる人物として北条譲四郎の出て来たのは、恰(あたか)も庚午の書に頼久太郎の出て来たと同じである。わたくしは第一書と云ふ。これは此歳の初冬には茶山が更に第二書を蘭軒に寄せたからである。
 北条譲、字(あざな)は子譲(しじやう)又景陽、霞亭、天放等の号がある。志摩国的屋(まとや)の医師道有の子に生れた。弟立敬(りつけい)に父の業を襲(つ)がせて儒となつた。乙亥には三十六歳になつてゐた。
 茶山が前年の夏より此年の春に至るまで、江戸に旅寝をした間、北条を神辺(かんなべ)の留守居に置いたことは、黄葉夕陽村舎詩にも見えてゐる。百川楼(せんろう)に勝田鹿谷(ろくこく)の寿筵があつた。茶山は遅く往つた。すると途上で楼を出て来た男が茶山を捉へて、「お前さんは菅茶山ぢやないか、わしは亀田鵬斎(ぼうさい)だ」と云つた。二人は曾(かつ)て相見たことはないのである。鵬斎は茶山を伴つて、再び楼に登つた。茶山は留守居の北条が鵬斎を識つてゐるので、自ら鵬斎に贈る詩を賦し、鵬斎の詩をも索(もと)めて、北条に併せ送つた。「陌上憧々人馬間。瞥見知余定何縁。明鑑却勝□季野。歴相始得孟万年。拏手入筵誇奇遇。満堂属目共歓然。儒侠之名旧在耳。草卒深忻遂宿攀。吾郷有客与君善。遙知思我復思君。余将一書報斯事。空函乞君附瑤篇。」拏手(たしゆ)筵(えん)に入るの十四字、儒侠文左衛門の面目が躍如としてゐる。読んで快と呼ぶものは、独り此詩筒を得た留守居の北条のみではあるまい。
 鵬斎が茶山を通衢上(つうくじやう)に捉へて放さなかつた如く、茶山は霞亭を諸生間に抜いて縦(はな)つまいとした。「わたくし女姪二十六七になりし寡婦御坐候にめあはせ、菅三と申姪孫生長迄の中継にいたし候積」と云つてある。行状を参照すれば、「二弟曰汝□、(中略)曰晋葆、(中略)無後、汝□亦夭、有子曰万年、(中略)亦夭、有子曰惟繩、称三郎、於先生為姪孫、今嗣菅氏、(中略)又延志摩人北条譲、為廉塾都講、以妹女井上氏妻焉」と云つてある。茶山は女姪(ぢよてつ)井上氏を以て霞亭に妻(めあは)せ、徐(しづか)に菅三万年(くわんさんまんねん)の長ずるを待たうとした。即ち「中継」である。
 茶山は前(さき)に久太郎を抑止しようとした時は後住(ごぢゆう)と云ひ、今譲四郎を拘係(くけい)しようとする時は仲継と云ふ。その俗簡を作るに臨んでも、字を下すこと的確動すべからざるものがある。わたくしは其印象の鮮明にして、銭(ぜに)の新に模(ぼ)を出でたるが如くなるを見て、いまさらのやうに茶山の天成の文人であつたことを思ふのである。
 北条霞亭よりして外、茶山の此書は今一人の新人物を蘭軒に紹介してゐる。それは女である。「尾道女画史」豊(とよ)である。
 蘭軒の姉、黒田家の奥女中幾勢(きせ)は茶山に餞(はなむけ)をした。所謂(いはゆる)餞は前に引いた短簡に見えてゐる茶碗かも知れない。わたくしは此餞を云々した条(くだり)の下(しも)に、不明な七字があると云つた。此所には蠧蝕(としよく)は無い。読み難いのは茶山の艸体である。蘭軒の姉は彼餞以外に別に何物をか茶山に贈つた。茶山は帰後時々それを用(も)つて興を添へると云つてゐる。其物は「金柚」と書してある如くである。柚は橘柚(きついう)か。果して然らば疑問は本草の疑問である。兎に角茶山は此種々の贈遺に酬いむと欲した。茶山は嘗て豊が絵を幾勢に与へたことがある。そこで「御入用候はばまたさし上可申」と云ふのである。

     その八十

 菅茶山は嘗て蘭軒の姉幾勢(きせ)に尾道の女画史(ぢよぐわし)豊(とよ)が画を贈つたことがあつて、今又重て贈るべしや否やを問うてゐる。豊とは何人であらうか。
 わたくしは豊は玉蘊(ぎよくうん)の名ではないかと推測した。竹田荘師友画録にかう云つてある。「玉蘊。平田氏。尾路人。売画養其母。名聞于時。居処多種鉄蕉。扁其屋曰鳳尾蕉軒。画出於京派。専写生□毛花卉。用筆設色倶妍麗。又画人物。観関壮穆像。頗雄偉。女史阿箏語予曰。玉蘊容姿□娜。其指繊而秀。如削玉肪。其画之妙宜哉。常愛古鏡。襲蔵十数枚。茶山杏坪諸老及山陽各有題贈。」竹田は氏を書して名を書せない。しかし茶山集に「玉蘊女画史」と称してゐるのを見て、柬牘(かんどく)の尾道女画史におもひくらべ、玉蘊の平田豊なるべきを推測したのである。
 わたくしは師友画録を読んで、今一つ推測を逞しうした。それは玉蘊は或は草香孟慎(くさかまうしん)の族ではなからうかと云ふことである。竹田の記する所に拠れば、玉蘊は居る所に□して鳳尾蕉軒(ほうびせうけん)と曰つたさうである。然るに頼春水の集壬子の詩に、「春尽過尾路題草香生鳳尾蕉軒」の絶句がある。玉蘊と孟慎とは、同じく尾道の人であつて、皆鳳尾蕉軒に棲んでゐた。若し居る所が偶(たま/\)其名を同じうするのでないとすると、二人の間に縁故があるとも看られるのである。
 此段を書し畢(をは)つた後に、わたくしは林中将太郎さんの蔵する玉蘊の画幅に「平田氏之女豊」の印があることを聞いた。玉蘊の名は果して豊であつた。次でわたくしは茶山集中に「草香孟慎墓」の五律があるのを見出した。其七八に「遺編托女甥、猶足慰竜鍾」とある。女甥(ぢよせい)は豊ではなからうか。
 茶山は此書を作るに当つて、蘭軒の親族のために一々言ふ所があつた。
 先づ榛軒がためには、父蘭軒に子を教ふる法を説いてゐる。「たんと御叱被成まじく候。あまりはやく成就いたさぬ様に御したて可被成候。」至言である。茶山は十二歳の棠助(たうすけ)のためにこれを発した。
 飯田氏益(ます)に対しては、茶山は謝辞を反復して悃□(こんくわん)を尽してゐる。江戸を発する前に、まのあたり告別することを得なかつたと見える。
 側室さよに対しては、「さしつかひ候御せわ」を謝し、又「御すこやかに御せわなさるべく」と嘱してゐる。前の世話は客を□待する謂(いひ)、後の世話は善く主人を視る謂である。「さしつかひ候」は耳に疎(うと)い感がある。或は当時の語か。
「麻布令兄様御女子御両処へ宜奉願上候。」此句を見てわたくしは少く惑ふ。しかし麻布は鳥居坂の伊沢宗家を斥(さ)して言つたのであらう。令兄は信美(しんび)であらう。蘭軒の父信階(のぶしな)の養父信栄(しんえい)の実子が即ち信美である。家系上より言へば蘭軒の叔父(しゆくふ)に当る。蘭軒には姉があつて兄が無かつた筈である。わたくしは姑(しばら)く茶山が信美と其女(ぢよ)とを識つてゐたものと看る。
 以上は茶山が蘭軒の家眷宗族のために言つたのである。次に蘭軒の交る所の人々の中、茶山の筆に上つたものが六人ある。
 余語古庵(よごこあん)をば特に「古庵様」と称してある。大府の御医師として尊敬したものか。「卿雲」は狩谷□斎、「市野」は迷庵、「服部」は栗陰(りついん)[#ルビの「りついん」は底本では「りつりん」]、「小山」は吉人(きつじん)か。中にも卿雲吉人には、茶山が蘭軒に代つて書牘(しよどく)を作つて貰はうとした。独り稍不明なのは書中に所謂(いはゆる)「市川」である。
 わたくしは市川は市河であらうかと推する。寛斎若くは米庵であらうかと推する。市河を市川に作つた例は、現に刻本山陽遺稿中にもあるのである。此年寛斎は六十七歳、米庵は三十七歳であつた。

     その八十一

 菅茶山と市河寛斎父子との交は、偶(たま/\)茶山集中に父子との応酬を載せぬが、之れを菊池五山、大窪天民との交に比して、決して薄くはなかつたらしい。茶山の五山との伊勢の邂逅は、五山が自ら説いてゐる。その五山及天民との応酬は多く集に載せてある。山陽の所謂「同功一体」の三人中、茶山が独り寛斎に薄かつたものとはおもはれない。市河三陽さんの云ふを聞くに、文化元年に茶山の江戸に来た時、米庵は長崎にゐた。帰途頼春水を訪うて、山陽と初て相見た時の事である。米庵は神辺に茶山の留守を訪うた。此年文化十一年の事は市河氏の書牘(しよどく)にかう云つてある。「這次は寛斎崎に祗役して帰途茶山の留守に一泊、山陽と邂逅致申候。茶山未去、江戸に帰来して、三人一坐に歓候事、寛斎遺稿の茶山序中に見え居候。」蘭軒に至つては、既に鏑木雲潭(かぶらきうんたん)と親善であつた。多分其兄米庵をも、其父寛斎をも識つてゐたことであらう。
 老いたる茶山は神辺に住み、豆腐を下物(げぶつ)にして月下に小酌し、耳を夜叢の鳴虫に傾け、遙に江戸に於ける諸友聚談の状をおもひやりつゝ、「あはれ、江戸が備中あたりになればよい」とつぶやいた。しかし此年文化十二年八月既望の小酌は、書を裁した十四日前に予測した如き「独酌」にはならなかつた。「十五夜分得韻侵。去載方舟墨水潯。今宵開閣緑峰陰。浮生不怪浪遊迹。到処還忻同賞心。両度秋期無片翳。孤村社伴此聯吟。明年知与誰人玩。松影斜々露径深。」幸に此社伴(しやはん)の聯吟があつて、稍以て自ら慰むるに足つたであらう。
 九月には茶山の詩中に臥蓐(ぐわじよく)の語がある。しかし客至れば酒を飲んだ。「斯客斯時能臥蓐。勿笑破禁酒頻傾。」啻(たゞ)に然るのみではない。往々此の如きもの連夜であつた。「月下琴尊動至朝。十三十四一宵宵。」
 十月に入つて茶山は蘭軒の書を獲た。これは丸山に徙(うつ)つたことを報ずる書で、茶山の八月の書と行き違つたものである。十日に茶山は答書を作つた。亦饗庭篁村(あへばくわうそん)さんの蔵儲中に存してゐる。
「御手教珍敷(めづらしく)拝見仕候。御気色之事而已(のみ)案じゐ申候処、足はたたねど御気分はよく候由、先々安心仕候。円山へ御移之由、これは御安堵御事、御内室様もおさよも少々間を得られ可申と奉存候。六右衛門、古庵様など折ふし御出之由、かくべつ寂寥にもあらざめりと悦申候。高作ども御見せ、感吟仕候。売家の詩は妙甚候。拙和(せつわ)ども呈(ていし)申度候へ共、急に副し不申候。とくに一書さし出候へども、いまだ届不申候よし、元来帰国早々可申上候処、日々来客、そのうちに不快(此一字不明)になり、夏中不勝(すぐれず)、又秋冷にこまり申候而延引如此に御坐候。花瓶(くわへい)は日々坐右におき、今日は杜若(かきつばた)二りんいけゐ申候。四季ざき也。」
「市翁麦飯学者之説、歎服いたし候。麦飯にても学者あればよけれど、麦飯学者もなく候。日々生徒講釈などこまり申候。」
「伊勢之川崎良佐(りやうさ)、帰路同道、江戸へ二十度もゆき、初両三度ははやくいにたい/\とのみおもひ候。近年にては今しばらくもゐたし、住居してもよしと思候と物がたり候。私もまた参たらば、其気になり可申やと存候へ共、何さま七十に二つたらず、生来病客、いかんともすべからず候。」
「帰路之詩も少々有候へ共、人に見せおき、此便間に合不申候。あとよりさし上可申候。先便少々はさし上候やとも覚申候が、しかと不覚候。」
「狐は時々見え候や承度候。千蔵がいふきつね也。千蔵も広島に小店(こだな)をかり教授とやら申ことに候。帰後はなしとも礫(つぶて)とも不承候。源(げん)十直卿(ちよくけい)仍旧(きうにより)候。源十軽浮、時々うそをいふこと自若。直卿依旧(きうにより)候。主計(かぞへ)はとう/\矢代君へ御たのみ被下候よし、忝奉存候。八月には帰ると申こと。舟にて沖をのり、もはや柳里(りうり)(此二字又不明)へ落著と奉存候。服部子いかが。これこそもとよりしげく参らるべし。御次(おんついで)に六右衛門、古庵様などへ、一同宜奉願上候。近作二三醜悪なれども近況を申あぐるためうつさせ候。小山西遊はいかが。十月十日。菅太中晋帥(くわんたいちゆうしんすゐ)。伊沢辞安様。」
「歯痛段々おもり、今は豆腐の外いけ不申候。酒はあとがあしけれど、無聊を医し候ため時々用候。」

     その八十二

 菅茶山の乙亥八月十月の二書は、これを作つた日時が隔絶してをらぬので、文中の境遇も感情も殆ど全く変化してゐない。それゆゑ此二書には重複を免れぬ処がある。紀行の詩を云云するが如きに至つては、自ら前牘(ぜんどく)の字句をさへ踏襲してゐる。
 茶山は旧に依つて江戸を夢みてゐる。前牘に「備中あたりになればよい」と云つた江戸である。茶山は端(はし)なく、漸く江戸に馴れて移住してもよいと云ふ河崎良佐(りやうさ)と、猶江戸を畏れつゝ往反に艱(なや)む老を歎く自己とを比較して見た。そして到底奈何(いかん)ともすべからずと云ふに畢(をは)つた。
 わたくしは此に少しく河崎の事を追記したい。これは同時に茶山西帰の行程を追記したいのである。河崎に驥※(きばう)[#「亡/虫」、7巻-168-下-3]日記の著があつたことは既に言つた。しかしわたくしは未だ其書を見るに及ばなかつた。
 頃日(このごろ)わたくしは彼書を蔵するもの二人あることを聞いた。一は京都の藤井乙男(おとを)さんで、一は東京の三村清三郎さんである。そして二氏皆わたくしに借抄を允(ゆる)さうといふ好意があつて、藤井氏は家弟潤三郎に、三村氏は竹柏園主にこれを語つた。偶(たま/\)藤井氏の蔵本が先づ至つたので、わたくしは此に由つて驥※[#「亡/虫」、7巻-168-下-10]日記のいかなる書なるかを知つた。
 藤井本は半紙の写本で、序跋を併せて二十七頁(けつ)である。首には亀田鵬斎の叙と既に引いた茶山の叙とがある。末には北条霞亭と立原翠軒との題贈がある。彼は七絶二、此は七絶七である。最後の半頁は著者の嗣子松(しよう)の跋がこれを填(うづ)めてゐる。
 本文の初に「伊勢河崎敬軒先生著、友人韓□聯玉校」と署してある。河崎良佐が敬軒と号したことが知られる。又敬軒の文政二年己卯五月二十七日に歿したことは、子松の跋に見えてゐる。韓□(かんかく)は山口覚大夫、号凹巷(あふこう)で、著者校者並に伊勢の人である。
 わたくしの日記に期待した所のものは、主に茶山西帰の行程である。それゆゑ先づこれを抄出する。
「乙亥二月二十六日。雨。発東都。聞都下送者觴茶山先生於品川楼。予与竹田器甫先発。宿程谷駅。」発□(はつじん)の日は二十六日であつた。河崎竹田は祖筵に陪せずして先発した。竹田器甫(きほ)は茶山集にも見えてゐて、筑前の人である。
「廿七日。巳後先生至。江原与平及門人豊後甲原玄寿讚岐臼杵直卿従。発装及申。宿戸塚駅。」敬軒等は茶山を程谷(ほどがや)に待ち受け、此より同行した。茶山は二十六日の夜を川崎に過したのである。「云昨留于川崎駅」と書してある。江原与平は茶山の族人である。
「廿八日。放晴。鎌倉之遊得遂矣。経七里浜。至絵島。宿藤沢駅。」鎌倉行は夙約(しゆくやく)があつた。
「廿九日。宿小田原駅。」
「晦。踰函山。畑駅以西。残雪尺許。宿三島駅。」
「三月朔。好晴。宿本駅。」本駅(ほんえき)はもとじゆくか。
「二日。天陰。興津駅雨大至。比至阿陪川放晴。宿岡部駅。」
「三日。済大猪川。宿懸川駅。」
「五日。済荒井湖。宿藤川駅。」
「六日。宿熱田駅。」
「七日。極霽。至佐屋駅。下岐蘇川。宿四日市。明日将別。」
「八日。遂別。宿洞津城。」
「九日。未牌帰家。」
 以上が肉を去り骨を存した紀行である。わたくしは全篇を読んで、記すべき事二件を見出だした。一は敬軒が谷文晃に「茶山鵬斎日本橋邂逅図」を作らせ、鵬斎に詩を題せしめて持ち帰つたことである。「身是関東酔学生。公是西備茶山翁。日本橋上笑相見。共指天外芙蓉峰。都下閧伝為奇事。便入写山画図中。」一は茶山自家が日記を作つてゐたことである。「先生客中日記。名東征暦。」知らず、東征暦は猶存せりや、あらずや。

     その八十三

 蘭軒は菅茶山に告ぐるに、市野三右衛門、狩谷三右衛門、余語古庵(よごこあん)の時々来り訪ふことを以てした。茶山は蘭軒のこれによつて寂寥を免るゝを喜び、乙亥十月の書牘(しよどく)に「六右衛門、古庵様などへ一同宜」しくと云つてゐる。
 蘭軒は又茶山に迷庵三右衛門の麦飯学者の説と云ふものを伝へた。わたくしはその奈何(いか)なる説なるかを知らぬが、茶山は「歎服いたし候」と挨拶してゐる。世間に若し此説を見聞した人があるなら、わたくしは其人に垂教を乞ひたい。
 茶山の此書を読んで、わたくしは頼竹里(ちくり)が此年文化十二年に江戸より広島へ帰り、□居して徒(と)に授けたことを知る。頃日(このごろ)わたくしに無名の葉書を投じた人がある。消印の模糊たるがために、わたくしは発信者の居処をだに知ることが出来ない。葉書は単に鉛筆を用(もつ)て頼氏の略系を写し出したものである。此に竹里の直接尊卑属を挙ぐれば、「伝五郎惟宣、千蔵公遷、常太綱」であつて、諸書の載する所と何の異なる所も無い。しかし此三人の下(もと)には各(おの/\)道号が註してある。即ち惟宣(ゐせん)は融巌(ゆうがん)、公遷は竹里、綱(かう)は立斎である。思ふにわたくしに竹里の公遷たることを教へむと欲したものであらうか。惜むらくは無名氏のわたくしに捷径を示したのは、わたくしが迂路に疲れた後であつた。
 茶山の書には猶数人の名が見えてゐる。直卿は初め臼杵(うすき)氏、後牧氏、讚岐の人で、茶山の集に見えてゐる。其他軽浮にして「時々うそをいふ」源十、矢代某に世話を頼んでもらつた主計(かぞへ)、次に竹里に狐の渾名(あだな)をつけられた某である。此等源十以下の人々は皆輙(たやす)く考ふることが出来ない。
 此年十二月十九日に、蘭軒は阿部正精(まさきよ)に請ふに間職に就くことを以てし、二十五日に奥医師より表医師に遷された。「十二月十九日、私儀去六月下旬より疝積其上足痛相煩引込罷在候而、急に出勤可仕体無御坐候に付、御機嫌之程奉恐入候、依之此上之以御慈悲、御番勤御免被下、尚又保養仕度奉願候所、同月廿五日此度願之趣無拠義被思召、御表医師被仰付候。」これが勤向覚書の記する所である。
 奥医師より表医師に遷るは左遷である。阿部侯は蘭軒の請によつて已むことを得ずして裁可した。しかし蘭軒を遇することは旧に依つて渥(あつ)かつたのである。翌年元旦の詩の引に、蘭軒はかう書いてゐる。「乙亥十二月請免侍医。即聴補外医。藩人凡以病免職者。俸有減制。余特有恩命。而免減制云。」
 此年の暮るゝに至るまで、蘭軒は復(また)詩を作らなかつた。茶山には数首の作があつて、其中に古賀精里に寄する畳韻の七律三首等があり、又除夕(ぢよせき)の五古がある。「一堂蝋梅気、環坐到天明」は後者末解の二句である。
 頼氏の此年の事は、春水遺稿の干支の下に最も簡明に註せられてゐる。「乙亥元鼎夭。以孫元協代嗣。君時七十。」夭したのは春風惟疆(ゐきやう)の長子で、養はれて春水の嗣子となつてゐた権次郎元鼎新甫(げんていしんほ)である。これに代つたのは山陽が前妻御園氏に生ませた余一元協承緒(げんけふしようちよ)、号は聿庵(いつあん)である。春水は病衰の身であるが、其病は小康の状をなしてゐた。除夕五律の五六にかう云つてある。「奇薬春回早。虚名棺闔遅。」
 此年蘭軒は年三十九、妻益は三十三、榛軒は十二、常三郎は十一、柏軒は六つ、長は二つ、黒田家に仕へてゐる蘭軒の姉幾勢は四十七である。

     その八十四

 文化十三年には、蘭軒は新に賜はつた丸山の邸宅にあつて平穏な春を迎へた。表医師に転じ、復(また)宿直の順番に名を列することもなく、心やすくなつたことであらう。「丙子元日作。朝賀人声侵暁寒。病夫眠寤日三竿。常慚難報君恩渥。却是強年乞散官。」題の下に自註して躄痿(へきゐ)の事を言ひ、遷任の事を言つてゐるが、既に引いてあるから省く。
 茶山も亦同じ歳首の詩に同じ間中の趣を語つてゐる。年歯の差は殆三十年を算したのであるが、足疾のために早く老いた伊沢の感情は、将に古稀に達せむとする菅の感情と相近似することを得たのである。「元日。彩画屏前碧澗阿。新禧両歳境如何。暁趨路寝栄堪恋。夜会郷親興亦多。」江戸にあつて阿部侯に謁した前年と、神辺(かんなべ)にある今年とを較べたのである。
 尋で蘭軒に「豆日草堂集」の詩があれば、茶山に「人日同諸子賦」の詩がある。わたくしは此に蘭軒の五律の三四だけを抄する。それは千金方(きんはう)を講じたことに言及してゐるからである。「恰迎蘭薫客。倶披華表経。」
 二月十九日に広島で頼春水が歿した。年七十一である。前年の暮から悪候が退(しりぞ)いて、春水自身も此の如く急に世を辞することをば期せなかつたらしい。歳首に作つた五絶数首の中に、「春風病将痊、今年七十一、皇天又何心、馬齢開八秩」と云ふのもあつた。山陽が三十七歳の時の事である。茶山に「聞千秋訃」の作がある。「時賢相継北□塵。知己乾坤余一人。玉樹今朝又零落。此身雖在有誰親。」山陽が「読至此、廃巻累日」と云つてゐる。
 三月十三日に蘭軒は又薬湯の願を呈して、即刻三週の暇を賜はつた。文は例の如くであるから省く。病名は「疝積足痛」と称してある。丙子の三月は小であつたから、三週の賜暇は四月四日に終つた。勤向覚書を検するに、四月六日に二週の追願(おひねがひ)がしてある。此再度の賜暇は十八日に終つた。覚書には十八日より引込保養が願つてある。
 わたくしは此年の事迹を考へて、当時の吏風(りふう)が病休中の外遊を妨げなかつたことを知つた。蘭軒は三月二十四日に吉田菊潭(きくたん)の家の詩会に赴いた。「穀雨前一日、与木村駿卿、狩谷卿雲、及諸公、同集菊潭吉田医官堂、話旧」として七絶二首がある。其一。「書堂往昔数相陪。一月行過四十回。已是三年空病脚。籃輿今日僅尋来。」自註に「往年信恬数詣公夫人。試計至一月四十回云」と云つてある。穀雨は三月二十五日であつた。菊潭医官は誰であらうか。わたくしは未だ確証を得ぬが、吉田仲禎ではなからうかとおもふ。「仲禎、名祥、号長達、東都医官」と蘭軒雑記に記してある。且雑記には享和中□斎長達の二人が蘭軒の心友であつたことを言ひ、一面には□斎と蘭軒と他の一面には長達と蘭軒とは早く相識つてゐて、□斎と長達とは享和三年二月二十九日に至つて始て相見たことを言つてある。菊潭は或は此人ではなからうか。しかし当時文化十三年の武鑑には雉子(きじ)橋の吉田法印、本郷菊坂の吉田長禎、両国若松町の吉田快庵、お玉が池の吉田秀伯、三番町の吉田貞順、五番町の吉田策庵があるが、吉田仲禎が無い。或は思ふに仲禎は長禎の族か。
 蘭軒は足疾はあつても、心気爽快であつたと見え、初夏より引き続いて出遊することが頻であつた。「会業日、苦雨新晴、乃廃業、与余語天錫、山本恭庭、木村駿卿同遊石浜墨陀諸村途中作、時服部負約」の五律五首、「首夏与余語天錫、山本恭庭、木村駿卿同集石田子道宅」の七絶三首、「初夏過太田孟昌宅」の七絶二首、「再過太田孟昌宅、与余語、山本二医官及木村駿卿同賦」の七律一首等がある。余語(よご)、木村、服部、石田、皆既出の人物である。天錫(てんせき)は恐くは觚庵(こあん)の字(あざな)であらう。太田孟昌(まうしやう)は茶山の集中に見えてゐる。文化九年壬申の除夜にも、文化十一年甲戌の元旦にも、孟昌は神辺に於て茶山の詩会に列つてゐて、茶山は「江都太田孟昌」と称してゐる。孟昌、名は周、通称は昌太郎である。父名は経方、省いて方とも云ふ。字は叔亀、通称は八郎、全斎と号した。阿部家に仕へて文政十二年六月七十一歳にして歿した。孟昌は家を弟武群(ぶぐん)、通称信助、後又太郎に譲つて分家した。孟昌が事は浜野知三郎さんが阿部家所蔵の太田家由緒書と川目直(かはめちよく)の校註韓詩外伝題言とに拠つて考証したものである。山本恭庭は蘭軒が時に「恭庭公子」とも称してゐる。恐くは永春院の子法眼宗英であらうか。当時小川町住の奥医師であつた。此夏病蘭軒を乗せた「籃輿」は頗る忙(いそがは)しかつたと見える。

     その八十五

 此夏文化十三年夏の詩凡て十四首を読過して、わたくしは少し句を摘んで見る。固より佳句を拾ふのでは無い。稍誇張の嫌はあるが、歴史上に意義ある句を取るのである。
 石浜(いしばま)墨陀(すみだ)の遊は讐書の業を廃してなしたのである。「好擲讐書課。政謀携酒行。」蘭軒は病中の悶を遣らむがために思ひ立つた。「連歳沈痾子。微吟足自寛。」当時今戸の渡舟は只一人の船頭が漕いで往反してゐた。蘭軒は其人を識つてゐたのに、今舟を行(や)るものは別人であつた。「渡口呼舟至。棹郎非旧知。」自註に「墨水津人文五、与余旧相識、前年已逝」と云つてある。
 石田梧堂の詩会で主人に贈つた作がある。「贈子道。駒子村南径路斜。碧叢連圃□駝家。柳翁別有栽培術。常発文園錦様花。」駒込村の南の細逕(ほそみち)で、門並植木屋があつたと云ふから、梧堂は籔下辺に住んでゐたのではなからうか。わたくしは今の清大園(せいたいゑん)の近所に「石田巳之介」と云ふ門札(かどふだ)が懸けてあつたやうに想像する。「壁上掛茶山菅先生家園図幅、聊賦一律。謾訪王家竹里館。偶観陶令園中図。双槐影映讐書案。六柳陰迎恣酒徒。池引川流清可掬。軒収山色翠将濡。如今脚疾君休笑。真境曾遊唯是吾。」座上まのあたり黄葉夕陽村舎を見たものは「唯是吾」である。
 太田孟昌の家をば二度まで蘭軒が訪うた。「初夏過太田孟昌宅」二絶の一。「喬松独立十余尋。落々臨崖翠影深。下有陶然高士臥。平生相対歳寒心。」次で「再過太田孟昌宅」七律に、「籬連僧寺杉陰老、砌接山崖苔色多」の一聯がある。崖(がい)に臨み寺に隣して、松の大木が立つてゐる。「樹陰泉井一泓清」の句もあるから、松の下には井もあつた。いづれ江戸の下町ではないが、はつきり何所とも定め難い。
 五月六日に蘭軒は阿部家に轎(かご)に乗る許を乞うた。勤向覚書にかう云つてある。「五月六日、足痛年月を重候得共全快之程不相見候に付、御屋敷内又は他所より急病人等申越候はば駕籠にて罷越療治仕遣度、仲間共一統奉願上候所、同月十三日無拠病用之節は罷越可申旨被仰付候。」所謂(いはゆる)屋敷内は丸山邸内である。
 六月十一日に蘭軒が妻益の姉夫(あねむこ)飯田杏庵が歿した。杏庵、名は履信(りしん)である。先霊名録に従へば、伊勢国薦野の人黒沢退蔵の子であつた。しかし飯田氏系譜に従へば、杏庵は本(もと)立田氏である。父は信濃国松代の城主真田右京大夫幸弘の医官立田玄杏で、杏庵は其四男に生れた。按ずるに立田玄杏は仮親であらうか。杏庵は蘭軒の外舅(ぐわいきう)飯田休菴[#「休菴」は「休庵」の誤記か]に養はれて、長女の婿となり、飯田氏を嗣いだ。杏庵の後を承けて豊後国岡の城主中川修理大夫久教(ひさのり)に仕へたのは、休甫信謀(きうほしんぼう)である。杏庵は妻飯田氏に子がなかつたので、田辺玄樹の弟休甫を養つて子とし、蘆沢氏の女(ぢよ)を迎へてこれに配した。所謂(いはゆる)取子取婦(とりことりよめ)である。
 秋に入つてから勤向覚書に二件の記事がある。一は蘭軒が神田の阿部家上屋敷へも轎(かご)に乗つて往くことを許された事である。一は蘭軒が医術申合会頭の職に就いた事である。此職は山田玄瑞と云ふものの後を襲(つ)いだのであつた。「八月七日、下宮三郎右衛門殿療治仕候に付、御上屋敷内駕籠にて出入御免被仰付候。閏八月十六日、医術申合会頭是迄山田玄瑞仕来候所、此度私え相譲候段御達申上候。」
 此秋蘭軒は始て釈混外(しやくこんげ)を王子金輪寺に訪うた。「余与金輪寺混外上人相知五六年於茲、而以病脚在家、未嘗面謁、丙子秋、与石田士道、成田成章、太田農人、皆川叔茂同詣寺、得初謁、乃賦一律。山□梵宮渓繞山。桂香先認異塵寰。青松凝色懸崖畔。白水有声奔石間。自覚罪根能已滅。漫扶病脚此相攀。陶潜不飲遠公酔。蓮社本来無著関。」自註に、「余病来止酒、而上人尤為大戸」と云つてある。茶山は更に、「病前亦不能多喫」と添加してゐる。果して然らば蘭軒は生来の下戸で、混外はこれに反して大いに別腸を具してゐたのであらう。

     その八十六

 蘭軒は既に云つた如くに、文化八年の頃より混外(こんげ)と音信を通じてゐて、此年十三年の秋方(まさ)に纔に王子金輪寺を訪うたのである。わたくしは此五六年間に蘭軒と混外との交が漸く親密になつて、遂に相見ることの已むべからざるに至つたやうに推測する。此年の歳旦に混外が蘭軒に与へた小柬がある。「拙衲は第一、其外世界困窮仕候間、元日之口号誠に御一笑奉願候。丙午元旦口号。藁索疎簾松竹門。家々来往祝三元。寒巌処々猶冰雪。無復人間衣裏温。北郊貧道混外子。」簡牘(かんどく)の散文が詩よりも妙である。拙衲(せつなふ)は第一、其外世界困窮の数語、何等の警抜ぞ。わたくしは乙亥の冬から丙子の春へ掛けて、江戸市中不景気と云ふが如き記事はないかとおもつて、武江年表を検したが、見当らなかつた。此小柬は書估文淵堂主人が所蔵の「花天月地」と題する巻子(くわんし)二軸の中にある。収むる所は皆諸家の蘭軒榛軒父子等に寄せた書牘(しよどく)詩筒(しとう)である。
 此年蘭軒に「歳晩偶成」の作がある。「富人競富殆将顛。貧子憂貧亦可憐。有食有衣何所慕。書中楽地送流年。」菅茶山には歳晩の詩がなかつた。
 此年幕府の蘭方医官大槻磐水が六十歳になつたので、茶山が寿詩を贈つた。詩は蘭人短命と云ふ処より立意したものであつた。「大槻玄沢六十寿言。君不見西洋諸国奇術多。神医往々出華佗。又不見紅毛之人乏老寿。得及五十比彭祖。我聞上古淳樸時。人無貴賤夭札稀。(中略。)智巧原来非天意。纔鑿七竅渾沌死。先生医学出西洋。自医医人並康強。不亀手方非異薬。運用在心人誰度。吾願先生寿不騫。益錬其術弘其伝。青藍若能播諸域。紅毛亦得享長年。」然るに磐水は此篇を得て喜ばなかつた。次の年に茶山が蘭軒に寄せた書牘に、蘭人の事を言つた紙片が添へてあつた。紙片は今饗庭篁村(あへばくわうそん)さんの蔵※(ざうきよ)[#「去/廾」、7巻-177-下-10]中にある。其書牘は文淵堂蔵の花天月地中に存するものが或は是であらうか。書牘の事は猶後に記さうとおもふ。
 茶山はかう云つてゐる。「去年カピタンが携来(たづさへきた)りし妻は世に稀なる美人にて、日本人が見てもえならず見え、両婢ともにうつくしきこと限なしと、みな人申候。此頃絵すがた来りしに、聞しにかはりてうつくしからず候。先下女はマタルスの女(むすめ)かと見えて鼠色也。都下へはさだめて似づらのよきが参可申と存さし上不申候。去年大槻玄琢老に寿詞をたのまれ、つくり進じ候処、気に入不申候よし、わたくしが蘭人短命より趣向いたし候処、短命は舟にのる人ばかりにて、本国は長寿のよし也。吾兄長崎にひさし、いかがや覧。」
 欧洲人を美ならずとなし、短命なりとなす如き菅氏の観察乃至判断が、大槻氏に喜ばれなかつたのは怪むに足らない。美醜の沙汰は姑(しばら)く置く。欧洲人の平均命数の延長したのは十九世紀間の事である。文化中の欧洲人は短命とは称し難いまでも、必ずしも長寿ではなかつたであらう。欧洲人を以て智巧に偏すとなしたのは、固より錯(あやま)つてゐた。偏頗は彼の心に存せずして、我の目に存してゐた。
 此年九月六日に池田錦橋が歿し、十一月二十九日に小島宝素が妻を娶(めと)つた。

     その八十七

 池田錦橋は後に一たび蘭軒の孫女(まごむすめ)の婿となる全安の祖父である。錦橋の子が京水、京水の子が全安である。此故にわたくしは今少しく錦橋の事蹟を補叙して置きたい。その補叙と云ふは、前(さき)に渋江抽斎の伝を草した時、既に一たび錦橋を插叙したことがあるからである。
 錦橋は始て公認せられた痘科の医である。本(もと)生田氏、周防国玖珂郡(くがごほり)通津浦(つづうら)の人である。明の遺民戴笠(たいりつ)、字(あざな)は曼公(まんこう)が国を去つて長崎に来り、後暫く岩国に寓した時、錦橋の曾祖父嵩山(すうざん)が笠を師として痘科を受けた。
 錦橋は宝暦十二年に広島に徙(うつ)り、安永六年に大坂に徙り、寛政四年に京都に上り、八年に徳川家斉(いへなり)の聘を受け、九年に江戸に入つた。
 錦橋は初め京水を以て嗣子となしてゐて、後にこれを廃し、門人村岡善次郎をして家を襲(つ)がしめた。京水は分家して町医者となつた。
 錦橋と其末裔との事には許多(きよた)の疑問がある。疑問は史料の湮滅(いんめつ)したるより生ずるのである。わたくしは抽斎伝中に池田氏の事を叙するに当つて、下(しも)の史料を引用することを得た。一、二世池田瑞仙直卿(ちよくけい)の撰んだ錦橋の行状。直卿は即村岡善次郎である。瑞仙は錦橋の通称で、後これを世襲した。二、池田氏過去帖。これは三世池田瑞仙直温(ちよくをん)の自筆本で、池田氏の菩提所向島嶺松寺(れいしようじ)に納めてあつたものである。わたくしは向島弘福寺主に請うて借閲し、副本を作つて置いた。三、富士川氏の手帳並日本医学史。手帳は富士川游さんが嶺松寺の墓誌銘に就いて抄録したものである。日本医学史には此抄録が用ゐてある。
 以上の史料の載する所は頗る不完全であつた。それゆゑわたくしは嶺松寺の墓石の行方を捜索した。墓誌の全文を見むがためである。しかしそれは徒労に帰した。嶺松寺の廃寺となるに当つて、墓石は処分せられた。此墓石の処分といふことは、明治以後盛に東京府下に行れ、今に至つて猶熄(や)むことなく、金石文字は日々湮滅して行くのである。わたくしに此重大なる事実を知る機会を与へたものは、彼捜索である。
 抽斎伝を草し畢つた後、わたくしは池田宗家の末裔と相識ることを得た。三世瑞仙直温は明治八年に歿し、直温の妻窪田清三郎の女(むすめ)啓(けい)が後を襲いだ。これが瑞仙の家の第四世池田啓である。啓の後は啓の仲兄笠原鐘三郎(しようざぶらう)の子鑑三郎が襲いだ。これが瑞仙の家の第五世池田鑑三郎さんである。
 或日鑑三郎は現住所福島市大町から上京して、再従兄(さいじゆうけい)窪田寛(くわん)さんと共にわたくしの家を訪うた。啓の父清三郎の子が主水(もんど)、主水の子が即寛で、現に下谷仲徒士町(したやなかかちまち)に住してゐる。
 わたくしは鑑三郎に問うて、池田宗家累世の墓が儼存してゐることを知つた。嶺松寺が廃寺となつた後、明治三十年に鑑三郎は合墓(がふぼ)を谷中墓地に建てた。合墓には七人の戒名が刻してある。養真院殿元活瑞仙大居士は初代瑞仙錦橋である。芳松院殿縁峰貞操大姉は錦橋の妻菱谷(ひしたに)氏である。善勝院殿霧渓瑞翁大居士は二世瑞仙直卿である。秋林浄桂大姉は直卿の妾(せふ)である。養寿院殿本如瑞仙大居士は三世瑞仙直温である。保寿院殿浄如貞松大姉は直温の妻にして瑞仙の家第四世の女主啓、窪田氏である。以上の六諡(し)は正面に彫(ゑ)つてある。梅嶽真英童子は直温の子洪之助である。此一諡だけは左側面に彫つてある。
 改葬には二つの方法がある。古墓石を有形(ありがた)の儘に移すこともあり、又別に合墓を立つることもある。森枳園(きゑん)一族の墓が目白より池袋に遷された如きは前法の例とすべく、池田宗家の墓が向島より谷中に遷された如きは後法の例とすべきである。彼の此に優ることは論を須(ま)たぬが、事は地積に関し費用に関するから、已むを得ずして後法に従ふこともある筈である。わたくしは池田宗家の諸墓が全く痕跡なきに至らなかつたのを喜ぶと同時に、其墓誌銘の佚亡を惜んで已まぬのである。
 池田宗家の墓が谷中に徙(うつ)された時、分家京水の一族の墓は廃絶してしまつたらしい。

     その八十八

 池田氏宗家の末裔鑑三郎さんは、独りわたくしに宗家の墓の現在地を教へたのみではない。又わたくしに重要なる史料を※(しめ)[#「目+示」、7巻-180-下-11]した。わたくしは上(かみ)に云つた如く、直卿(ちよくけい)の撰んだ錦橋の行状、直温の撰んだ過去帖、富士川氏の記載、以上三つのものを使用することを得たに過ぎなかつた。然るにわたくしは鑑三郎と相識るに至つて、窪田寛(くわん)さんの所蔵の池田氏系図並に先祖書を借ることを得た。これが新に加はつた第四の材料である。
 わたくしは此新史料を獲て、最初に京水廃嫡の顛末を検した。先祖書に云く。「善卿総領池田瑞英善直、母は家女、病気に而末々御奉公可相勤体無御座候に付、総領除奉願候処、享和三亥年八月十二日願之通被仰付候。然る処年を経追々丈夫に罷成医業出精仕候に付、文政三辰年三月療治為修行別宅為致度段奉顧候処、願之通被仰付別宅仕罷在候処、天保七申年十一月十四日病死仕候。」
 善卿は初代瑞仙の字(あざな)である。先祖書には何故か知らぬが、世々字を以て名乗(なのり)としてある。瑞英善直の京水たることは、過去帖の宗経軒京水瑞英居士と歿年月日を同じくしてゐるのを見れば明である。
 是に由つて観れば、錦橋行状の庶子善直が即京水であつたことは、復(また)疑ふべからざることとなつた。行状に云く。「君(錦橋)在于京師時。娶佐井氏。而無子。嘗游于藝華時、妾挙一男二女。男曰善直。多病不能継業。二女皆夭。」
 京水は錦橋の庶子であつた。先祖書の文が行状の文と殆全く相符してゐて、唯先祖書に「母は家女」と書してあるのは、公辺に向つての矯飾であつただらう。そして直卿は行状を撰ぶに当つて、信を後世に伝へむがために、此矯飾を除き去つたのであらう。
 現存する所の先祖書は、元治元年に三世瑞仙直温の官府に呈したものである。しかし其記事は先々代乃至先代の書上(かきあげ)と一致せしめざることを得ない。他家の書上の例を考ふるに、若しこれを変易するときは、一々拠るところを註せなくてはならない。此故に直温の文中錦橋の履歴は錦橋の自撰と看做すことを得べく、又霧渓直卿の履歴は霧渓の自撰と看做すことを得べきである。
 官府に上(たてまつ)る先祖書には、錦橋は京水を以て実子となした。霧渓も亦京水を以て養父錦橋の実子となした。但霧渓は養父の行状を撰ぶに当つて、京水の嫡出にあらざることを言明したに過ぎない。要するに二世瑞仙霧渓の時に至るまでは、京水が錦橋の実子たることに異議を挾(さしはさ)むものはなかつたのである。
 降つて三世瑞仙直温の時に及んで、始て異説が筆に上せられた。それは過去帖の「宗経軒京水瑞英居士、五十一歳、初代瑞仙長男、実玄俊信卿男、天保七丙申十一月十四日」といふ文である。然らば京水の実父玄俊とは何人ぞ。同じ過去帖に云く。「憐山院粛徳玄俊居士、信卿、瑞仙弟、京水父、同(寛政)九丁巳八月二日、寺町宗仙寺墓あり、六十歳。光嶽林明大姉、同人妻、京水母、宇野氏、天明六丙午、三十六歳。」即ち京水を以て錦橋の弟玄俊信卿の子、宇野氏の出(しゆつ)となすのである。
 わたくしは此より進んで議論することを欲せない。言ふところの臆測に墜ちむことを恐るゝからである。わたくしの京水研究は且(しばら)く此に停止する。今わたくしの知り得た所を約記すれば下(しも)の如き文となる。
「池田京水、初の名は善直、後名は※(いん)[#「大/淵」、7巻-182-下-4]、字(あざな)は河澄(かちよう)、瑞英と称す。父は錦橋独美善卿、母は錦橋の側室某氏なり。天明六年大坂西堀江隆平橋南の家に生る。享和三年八月十二日十八歳にして廃嫡せらる。文政三年三月三十五歳にして分家す。天保七年十一月十四日病歿す。年五十一。一説に京水は錦橋の弟玄俊信卿の子なり。母は宇野氏。錦橋に養はれて嗣子となり、後廃せらる。」

     その八十九

 わたくしは此年文化十三年に池田錦橋の歿したことを書く次(ついで)に、曾て池田氏の事蹟を探討した経過を語つた。既に先祖書を得た今、わたくしは未だこれを得なかつた昔に比ぶれば、暗中に一穂(すゐ)の火を点し得た心地がしてゐる。しかし許多(あまた)の疑問はなか/\解決するに至らない。前に挙げた京水出自の事の如きは其一である。
 錦橋は此年に歿した。しかしその歿した時の年齢が不明である。わたくしは渋江抽斎の伝に於て、霧渓所撰の錦橋行状に年齢の齟齬を見ることを言つた。そして生年より順算して推定を下さうとした。今先祖書を得た上はこれを覆覈(ふくかく)して見なくてはならない。
 行状を見るに、錦橋は「以享保乙卯五月二十二日生」としてある。享保二十年錦橋生れて一歳となる。次に「宝暦壬午春、携母遊于安藝厳島、時年二十八」としてある。宝暦十二年二十八歳となる。次に「安永丁酉冬、(中略)抵于浪華、(中略)年四十」としてある。安永六年四十三歳であるべきに、四十歳と書してある。齟齬は此辺より始まる。次に「寛政壬子秋、游于京師、(中略)年五十五」としてある。寛政四年五十八歳であるべきに、五十五歳と書してある。次に「丁巳正月来于東都、年六十四」としてある。寛政九年六十三歳であるべきに、六十四歳と書してある。最後に「文化丙子九月六日病卒、享年八十有三」としてある。文化十三年八十二歳であるべきに、八十三歳と書してある。要するに安永中より寛政の初に至る間三歳を減じ、寛政の末より一歳を加へ、遂に歿年に一歳を加ふるに至つたのである。そこでわたくしは幹枝(かんし)と年歯との符合するものを重視し、生年に本づいて順算することゝした。即ち歿年は八十三にあらずして八十二となるのである。
 然らば直温所撰の過去帖は奈何(いかに)。過去帖は錦橋の父母妻子の齢(よはひ)を具(つぶさ)に載せながら、独り錦橋の齢を載せない。直温は夙(はや)く旧記の矛盾に心付いたので、疑はしきを闕いで置いたのではなからうか。
 新に得たる直温所撰の先祖書は奈何。先祖書には、年次若くは干支と年齢とを併せ載せた処が僅に二箇所あるのみである。「八歳之時父(錦橋父)正明病死仕候」と云ひ、「池田杏仙正明、寛保二戌年正月十六日病死」と云ふのが一つである。「同年(文化十三子年)十月晦日病死仕候、年八十三歳」と云ふのが二つである。歿した月日の行状と異つてゐるのは、官府に呈する文書には届出の月日を記したためであらう。
 唯二箇所である。而して年次若くは干支と年齢との齟齬は、その二つのものの間にさへ存してゐる。これは直卿撰の行状に影響した或物が、早く善卿撰の先祖書に影響し、延(ひ)いて直温撰の先祖書にも及んだのであらう。先祖書の寛保二年錦橋八歳は享保二十年乙卯生に符合してゐる。これが安永前の記事である。文化十三年八十三歳は生年より推算して一歳の過多を見る。これが安永以後の記事である。先祖書を受理する慕府刀筆の吏も、一々年次と年齢とを験するために算盤を弾きはしなかつたと見える。
 以上記する所に就いて考ふるに、錦橋が年齢の牴牾(ていご)は、どうも錦橋自己より出でてゐるらしい。錦橋は江戸に来た比から、毎(つね)に其齢(よはひ)に一歳を加へて人に告げた。それが自ら作つた先祖書に上り、養子霧渓の撰んだ行状にも入つたのであらう。

     その九十

 わたくしは池田錦橋の死を語り、又錦橋並に其一族の事蹟に幾多未解決の疑問のあることをも言つた。その主なるものは錦橋の年齢、其廃嫡子京水の出自等である。
 錦橋の末裔鑑三郎さんと姻戚窪田寛さんとの、わたくしに借覧を許した先祖書は、此家の事を徴するに足る重要文書たることは勿論である。しかしわたくしは此に由つて一の難路を通過した後、又前面に一の難路の横はつてゐるのを望見するが如き感をなしてゐる。
 向島嶺松寺の池田氏の諸墓には、誌銘が刻してあつたさうである。推するに錦橋の墓誌は今存する所の行状と大差なからう。これに反してわたくしの切に見むことを願ふものは京水の墓誌である。曾て富士川游さんは其一部を抄写したが、わたくしは其全文を見むことを欲する。且何人が撰んだかを知らむことを欲する。然るに其碑碣は今亡くなつてしまつたのである。
 錦橋の墓は嶺松寺にあつたものが既に滅びても、其名は鑑三郎の建てた合墓(がふぼ)に刻まれてゐる。又黄蘗山にも墓碑を存してゐるさうである。疇昔の日無名氏があつて、わたくしに門司新報の切抜を寄せてくれた。文は何人の草する所なるを知らぬが、想ふに檗山紀勝(はくさんきしよう)の一節であらう。「独立(どくりふ)の塔に隣りて池田錦橋の墓あり。この人は別に檗山に関係あるものにあらねど、氏の祖父は周防国玖珂郡(くがごほり)通津浦(つづうら)の人にして、岩国に於て独立に就いて痘科の秘訣を伝へて家学とし、氏に至りて幕府の医官たり。独立化後(けご)その塔は多分氏の建立せしものならむ。氏の墓は門人近藤玄之(げんし)、佐井聞庵(ぶんあん)、竹中文輔(ぶんすけ)の同建にかかる。氏の門人録によれば、近藤は下総の人にして、佐井竹中の両氏は録中にその名を見ず、晩年の門人ならむとおもはる。」檗山錦橋の碑には、建立者三人の氏名を除いては、何も彫(ゑ)つてないのであらうか。わたくしはそれが知りたい。わたくしは此記の誰が手に成れるかを知らぬが、其人は既に錦橋の門人録を閲(けみ)してゐる。贄(し)を執るものに血判せしめた錦橋の門人録は、或は珍奇なる文書ではなからうか。其人は或は池田氏の事に精(くは)しい人ではなからうか。
 嶺松寺の廃せられた後、遺迹の全く亡びたのは京水である。わたくしは最も京水の墓の処分せられ、其誌銘の佚亡に至つたことを惜む。
 爰(こゝ)に吉永卯三郎さんと云ふ人がある。わたくしに書を寄せてかう云ふことを報じてくれた。「嶺松寺及池田氏墓誌銘は江戸黄蘗禅刹記巻第五に記載有之候。右書は帝国図書館に所蔵有之候。其方差支有之候はば、小生も一本を持居候。池田錦橋氏の墓は山城宇治黄蘗山万松岡独立墓の側にも一基有之候。」想ふに禅刹記には必ず錦橋の墓誌が載せてあるであらう。若し京水のものも併せ載せてあつたなら、それは予期せざる幸であらう。若し富士川氏の手抄に偶(たま/\)一節を保存せられた文の全篇が載せてあつたなら、それは予期せざる幸であらう。
 わたくしは蔵書の乏しい癖に、図書館には疎遠である。吉永氏の書を得た後、未だ一訪するに及ばない。識る所の書估の云ふを聞くに、江戸黄蘗禅刹記は所謂(いはゆる)珍本ださうである。買ひ求むることはむづかしさうである。或はわたくしも早晩遂に図書館に趨らざることを得ぬかも知れない。

     その九十一

 小島春庵尚質(なほかた)が初て妻を娶つたのも、此年文化十三年十一月二十九日である。春庵尚質は春庵根一(もとかず)の子で、所謂(いはゆる)宝素である。長井金風さんの言(こと)に拠れば、曾て揚上善(やうじやうぜん)の大素経(たいそけい)を獲て、自ら宝素と号したのださうである。尚質の母は蘭学者前野良沢憙(りやうたくよみす)の女(むすめ)である。憙は老後根岸の隠宅から小島の家に引き取られて終つた。尚質の初の妻は山本宗英(そうえい)の女である。春沂(しゆんき)を生んだのは此女ではない。此女の歿した後に来た後妻である。
 此年蘭軒は四十歳、妻益は三十四歳、子女は榛軒十三歳、常三郎十二歳、柏軒七歳、長三歳であつた。
 文化十四年には蘭軒が「丁丑新歳作」と題する七律を遺してゐる。「君恩未報抱□痾。暖飽逸居頭稍※[#「白+番」、7巻-186-下-14]。梅発暄風香戸□。靄含春色澹山阿。好文化遍家吟誦。奏雅声調人暢和。新歳不登公館去。椒樽相対一酣歌。」一二七の三句があつて病蘭軒の詩たるに負(そむ)かない。「頭稍※[#「白+番」、7巻-187-上-3]」は恐くは実を記したものであらう。頸聯には自註がある。「註云。我公好学多年。群臣亦大化。他諸侯之国。如我藩者絶少矣。去年来公又以暇日。時或習古楽。有侍臣数人亦学之者。邸中※[#「瓜+炮のつくり」、7巻-187-上-6]竹之声。頗使人融雍。故五六及之。」阿部侯正精(まさきよ)は丙子の年から雅楽を習ひはじめたと見える。
 菅茶山は此年正月二十一日に蘭軒に与ふる書を作つた。此書も亦饗庭篁村さんの蔵儲中にある。
「新禧弥(いよ/\)御安祥御迎可被成遙賀仕候。晋帥病懶依然御放念可被下候。去年下宮大夫(しもみやたいふ)臥病の節は御上屋敷迄も御出之由、忙程之事出来候へば大慶也。追々脚力も復し可申やと奉存候。只私がごとくよりによりたる年浪は立帰る期(ご)なし。御憐察可被下候。」
「扨津軽屋へ約束いたし候院之荘之古簾(ふるすだれ)、旧冬やう/\と得候故、船廻しに而(て)進(しんじ)候。御届可被下候。後醍醐帝御旅館某(それがし)が家に、今簾をかけ候。これは須磨などに行在処(あんざいしよ)の跡とてかけ候を見及たるや。即備後三郎が詩を題せし所也。作州津山(さくしうつやまより)四五里許(ばかり)有之所のよし、院之荘は其地名也。これは十四年前備前之人を頼置候。度々催促すれども得がたし/\と申而居候故、もはやくれぬ事かと思切ゐ申候処、去冬忽然と寄来候。作州より三十里川舟にて岡山へ参、夫より洋舟(なだふね)にて三十里、児島を廻る故遠し、笠岡てふ所へ参、そこより三里私宅へ参候へば、物は軽く候へども、世話は世話也。銭は一文もいらず候。此世話計(ばかり)をかの十符(とふ)の菅菰(すがごも)之礼と被仰可被下候。」
「扨市野など不相替会合可有之遙想仕候。梧堂はいかが。杳然せうそこなし。其外存候人へ御致声(ごちせい)宜奉願上候。別而(べつして)御内政(ごないせい)様おさよどのへ御祝詞奉願上候。此次(このたび)状多したため腕疲候而やめ申候。春寒御自玉可被成候。恐惶謹言。正月廿一日。菅太中晋帥(くわんたいちゆうしんすゐ)。伊沢辞安様。去年詩画騒動之詩、尺牘とも見申候。番付未参候、あらば御こし可被下候。詩御一笑可被下候。うつさせて梧堂へ御見せ可被下候。」
「尚々卿雲へこたび書状なし。宜御申可被下候。たび/\問屋のやう御頼、所謂(いはゆる)口銭もなし。御面倒奉察候。」

     その九十二

 此丁丑正月の菅茶山の書に所謂「下宮大夫臥病」云々は、前に引いた勤向覚書に見えてゐる往診の事である。大夫下宮、通称は三郎右衛門、神田にある阿部家の上屋敷にゐて病に罹つたので、蘭軒は丸山の中屋敷から往診した。此機会に蘭軒は轎(かご)に乗つて上屋敷に出入する許可を受けたのである。
 院之荘の簾(すだれ)の事は興ある逸話である。狩谷□斎は茶山に十符(とふ)の菅薦(すがごも)を贈つた。茶山は其報(むくい)に院之荘の簾を遺(おく)ることを約した。それを遷延して果さなかつたのに、今やう/\求め得て送つたのである。
「去年詩画騒動」とは底事(なにごと)か未だ考へない。当時寛斎、天民、五山、柳湾の詩、文晁、抱一、南嶺、雪旦の画等が並び行はれてゐたので、「番附」などが出来、其序次が公平でなかつたために騒動が起つたとでも云ふ事か。「詩尺牘とも」見たと、茶山は云つてゐるが、※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-188-下-9]詩集にはそれかと思はるる詩も見えない。
 慣例のコンプリマンは簾を得て書を得ざる□斎、茶山の詩を見せてもらふ石田梧堂の外、蘭軒の妻妾(さいせふ)に宛(あ)ててある。
 蘭軒の集中には此年元旦の作の後に、春季の詩七首がある。此にその作者の出入起居を窺ふべきものを摘取することとする。蘭軒の例として催す「豆日草堂集」は、恰(あたか)も好し、雪の新に霽れた日であつた。「竹裏数声黄鳥啼。漫呼杖□到幽棲。恰忻春雪朝来霽。麗日暄風晞路泥。」又「春日即事」の詩に「春困奈斯睡味加、筑炉薩罐煮芳芽」の句がある。筑炉の下(もと)には「家姉之所贈」と註し、薩罐(さつくわん)の下には「家兄之所贈」と註してある。家姉の幾勢(きせ)たるは論なく、家兄は蘭軒の宗家伊沢信美(しんび)を呼ぶ語であつたことが、此に由つて考へられる。菅茶山が「麻布令兄」と書した所以(ゆゑん)であらう。此春蘭軒は轎(かご)に乗つて上野の花をも見に往つた。「東叡山看花」の絶句に、「劉郎不復曾遊態、扶病漫追芳候来」の句がある。
 長崎に真野遜斎(まのそんさい)と云ふものがあつて、六十の寿筵が開かれたのも此春である。蘭軒の「遙寿長崎遜斎真野翁六十」の詩に、「嚢中碧□伝三世、局裏金丹恵衆民」の頷聯があつて、其下に「老人為施薬所主司」と註してある。
 僧混外(こんげ)が蘭軒に芭蕉を贈つたのも此春である。「清音閣主混外上人見贈芭蕉数根、賦謝」として七絶がある。「懐師方外辱交情。寄贈芭蕉数本清。従此孤吟風雨夕。応思香閣聴渓声。」宥快(いうくわい)は居る所の室を清音閣と云つて、其清音は滝の川の水声を謂つたものと見える。
 其他此春少壮官医中に蘭軒の規箴(きしん)を受けたものがあるらしい。わたくしは「戯呈山本莱園小島尚古二公子」の詩を読んで是(かく)の如くに解する。「方怕芳縁相結得、鮮花香裡不帰来」は、戯(たはぶれ)と称すと雖も、実は規であらう。
 莱園の誰なるかは、わたくしは知らない。或は法眼宗英の家の子弟ではなからうか。尚古(しやうこ)も亦未詳である。海保漁村の経籍訪古志の序に、小島宝素の事を謂つて、「宝素小島君学古」となしてある。尚質(なほかた)の字(あざな)は学古とも尚古とも云つたのではなからうか。尚質は此年二十一歳であつた。
 わたくしは只蘭軒が何故に菅茶山のために寿詞を作らなかつたかを怪む。茶山の七十の寿筵が其誕辰に開かれたとすると、此年二月二日であつた筈である。寛延元年二月二日に菅波喜太郎(すがなみきたらう)として生れたからである。

     その九十三

 菅茶山の七十の誕辰は、行状に「十四年(文化)丁丑、先生年七十、賜金寿之」と書してある。阿部家から金を賜はつたことである。其日の七律の七八に「展観寿頌堆牀上、且喜諸公未我捐」と云つてある。詩集の載する所のみを以てしても、楽翁白川老侯は「寿歌寿杯」を賜はつた。谷文晁は「□□跪餌図」を作つて贈つた。茶山も幸にして病に悩されずに、快く巵(さかづき)を挙げたと見える。「不知身上残齢減。猶且欣々把寿巵。」前にも云つたやうに、わたくしは蘭軒の寿詞の闕けてゐるのを憾とする。
 茶山の家では夏に入つてから後も、祝賀の余波が未だ絶えなかつた。「誕辰後諸君持詩来集」の七律に、「新荷嫩筍回塘夕、微暑軽寒熟麦時」の頸聯がある。祝賀は麦秋(むぎあき)の頃にさへ及んだのである。
 此年の夏以後、蘭軒の集中には僅に四首の詩を存してゐて、しかも其一は題があつて詩が無い。人のために画に題する詩の中で、吉田周斎がためにするものは詩があつて、門人秦玄民(はたげんみん)がためにするものは詩がないのである。玄民は書家星池の弟で、後に飯田氏を冒したものである。
 旺秋に入つてから、茶山の蘭軒に寄せた書牘が遺つてゐる。是より先七月に茶山は蘭軒の書を得てこれに答へた。次で蘭軒の再度の書が来て、茶山は八月七日に此書牘を作つたのである。これは文淵堂所蔵の花天月地(くわてんげつち)中に収められてゐる。
「先達而(せんだつて)御寸札ならびに論語到来、其御返事先月廿日比(ごろ)いたし、大坂便にさし出候。今度御書に而は、右本御恵賜被下候由扨々忝奉存候。いよいよ珍蔵可仕候。□斎翁へも(隠居故翁と書たり)宜御礼奉願上候。御状も来候へども、此便急に而御返事期他日候。」
「今年御地寒熱之事被仰下、いづかたも同様也。先去冬甚あたたかに、三冬雪を見ず、夫(それ)にしては春寒ながく候ひき。土用中以外(もつてのほか)ひややかに、初秋になりあつく候。秋はきのふたちぬときけど中々にあつさぞまさる麻のさごろもなどとつぶやき候。此比又冷気多く候処、今日より熱(あつさ)つよく候。いかなる気候に候や。生来不覚位の事也。先冬あたたかに雪なく、夏涼しくて雷なく、凌ぎよき年也。ことに豊年也。世の中も此通ならば旨き物也。諺に夏はあつく冬はさむきがよいと申せばさ様にも無之や。御地土用見廻之人冷気之見廻を申候よし、因而(よつて)憶出候。廿五六年前一年(ひとゝせ)京にゐ候時、暑甚しく、重陽などことにあつし。今枝某といふ一医生礼にきたり、いつも端午が寒ければ、わたいれの上に帷子(かたびら)を著す、今日は帷子の上にわたいれを著して可然などと申候。」
「落合敬助太田同居にてたび/\御逢被成候よし、如仰好人物也。詩文はよく候へども富麗に過候。最早あの位に出来候へば、取きめて冗雑(じようざつ)ならぬ様に被致かしと奉存候。このこと被仰可被下候。」
「長崎游竜見え候時、不快に而其宿へ得参不申候。門人か□(けん)か見え候故、しばらく話し申候。寝てゐる程の事にもあらず候。這(この)漢(かん)学問もあり画もよく候。逢不申残念に御坐候。私気色は春よりいろ/\あしく候。然ども浪食もとのごとくに候。今年七十に候へば、元来の病人衰旄(すゐばう)は其所也。」
「金輪(こんりん)上人度々御逢被成候よし、御次(おんついで)に宜奉願上候。三瑕之内美僧はうけがたく候。梧堂つてにて御逢被成候ひしや。其外岡本忠次郎君、田内(か川)主税(ちから)、土屋七郎なども参候よし、みな私知音之人、金輪へ参候時何の沙汰もなく残念に候。」

     その九十四

 此年文化十四年八月七日に、菅茶山の蘭軒に与へた書は、文長くして未だ尽きざるゆゑ、此に写し続ぐ。
「牽牛花(あさがほ)大にはやり候よし、近年上方にてもはやり候。去年大坂にて之番附坐下に有之、懸御目申候。ことしのも参候へども此頃見え不申候。江戸書画角力は相識の貌(かほ)もあり、此蕣角力(あさがほすまふ)は名のりを見てもしらぬ花にてをかしからず候。前年御話申候や、わたくし家に久しく□州(しやうしう)だねの牽牛花(けんぎうくわ)あり。もと長崎土宜(みやげ)に人がくれ候。※[#「「卅」にさらに縦棒を一本付け加える」、7巻-192-上-12]年前也。花大に色ふかく、陰りたる日は晩までも萎(しぼ)まず。あさがほの名にこそたてれ此花は露のひるまもしをれざりけりとよみ候。其たねつたへて景樹(かげき)といふうたよみの処にゆきたれば、かかるたねあること知らで朝顔をはかなきものとおもひけるかなとよみ候よし。私はしる人にあらず、伝へゆきしなり。これは三十年前のこと也。さて其たね牽牛花(あさがほ)はやるにつき段々人にもらはれ、めつたにやりたれば、此年は其たねつきたり。はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晋帥(しんすゐ)骨相之屯(こつさうのじゆん)もおもふべし。呵々。扨高作は妙也。申分なし。段々上達可思也。曾てきく。上方にはやること、大抵十五六年して江戸へゆき、江戸にはやること亦十五六年して上方へ来ると云。この蕣(あさがほ)は両地一度也。いかなる事や。重厚之風段々減じ、軽薄之俗次第に長ずるにはあらずや。何さま昌平之化可仰可感候。」
「梧堂より両度書状、今以返事いたさず、畳表之便をまち申候。其内先此一首にて、王子と両方への御断也。御届け可被下候。」
「□斎隠居之譚とくより承候。あたらしく被仰下候而物わすれは老人のみにあらずと、差彊人意(やゝじんいをつようし)候。書中に御坐候。
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