伊沢蘭軒
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:森鴎外 

 信階(のぶしな)は寛政六年十月二十八日に五十一歳で、備後国深津郡福山の城主阿部伊勢守正倫に召し抱へられて侍医となつた。菅茶山が見出された二年の後で、蘭軒が十八歳の時である。阿部家は宝永七年閏(うるふ)八月十五日に、正倫の曾祖父備中守正邦(まさくに)が下野国宇都宮より徙(うつ)されて、福山を領した。菅茶山集中に、「福山藩先主長生公、以宝永七年庚寅、自下毛移此」と書してあるのが是である。当主正倫は、父伊予守正右(まさすけ)が明和六年七月十二日宿老の職にゐて卒したので、八月二十九日に其後を襲(つ)いだ。伊沢氏の召し抱へられる二十五年前の事である。
 寛政七年には、十八年来、信階の女(ぢよ)幾勢(きせ)が仕へてゐる黒田家に又代替があつた。八月二十四日に筑前守斉隆(なりたか)が卒して、十月六日に嫡子官兵衛斉清(なりきよ)が襲封したのである。治之(はるゆき)夫人幸子が三十八歳、幾勢が二十五歳の時である。同じ十月の十二日に、蘭軒の本草の師太田大洲が七十五歳で歿した。時に蘭軒は十九歳であつた。
 寛政九年は伊沢の家に嘉客を迎へた年であるらしい。それは頼山陽である。
 世に伝ふる所を以てすれば、山陽が修行のために江戸に往くことを、浅野家に許されたのは、正月二十一日であつた。恰も好し叔父(しゆくふ)杏坪(きやうへい)が当主重晟(しげあきら)の嫡子斉賢(なりかた)の侍読となつて入府するので、山陽は附いて広島を立つた。山陽は正月以来広島城内二の屋敷にある学問所に寄宿してゐたが、江戸行の事が定まつてから、一旦杉木小路(すぎのきこうぢ)の屋敷に帰つて、そこから立つたのである。
 山陽が江戸に着いたのは四月十一日である。山陽の曾孫古梅(こばい)さんが枕屏風の下貼になつてゐたのを見出したと云ふ日記に、「十一日、自川崎入江戸、息大木戸、(中略)大人則至本邸、(中略)使襄随空轎而入西邸、(中略)須臾大人至堀子之邸舎」と書いてある。
 浅野家の屋敷は当時霞が関を上邸、永田馬場を中邸、赤阪青山及築地を下邸としてゐた。本邸は上邸、西邸とは中邸である。
 山陽が江戸に著いた時、杏坪は轎(かご)を下(くだ)つて霞が関へ往つた。山陽は空轎(からかご)に附いて永田馬場へ往つた。次で杏坪も上邸を退いて永田馬場へ来たのであらう。「堀子」とは年寄堀江典膳であらうか。
 これより後山陽は何処にゐたか。山陽は自ら「遊江戸、住尾藤博士塾」と書してゐる。二洲の官舎は初め聖堂の構内(かまへうち)にあつて、後に壱岐坂に邸を賜はつたと云ふ。山陽の寓したのは此官舎であらう。二洲は山陽の父春水の友で、妻猪川氏を喪つた時、春水が妻飯岡氏静の妹直(なほ)をして続絃(ぞくげん)せしめた。即ち二洲は山陽の従母夫(じゆうぼふ)である。
 山陽は二洲の家にゐた間に、誰の家を訪問したか。世に伝ふる所を以てすれば、山陽は柴野栗山を駿河台に訪うた。又古賀精里を小川町雉子橋(きじばし)の畔(ほとり)に訪うた。これは諸書の皆載(の)する所である。
 さて山陽は翌年寛政十年四月中に、杏坪と共に江戸を立つて、五月十三日に広島御多門にある杏坪の屋敷に著き、それより杉木小路の父の家に還つたと云ふ。世の伝ふる所を以てすれば、江戸に於ける山陽の動静は此(かく)の如きに過ぎない。
 然るに伊沢氏の口碑には一の異聞が伝へられてゐる。山陽は江戸にある間に伊沢氏に寓し、又狩谷□斎の家にも寓したと云ふのである。

     その十四

 伊沢氏の口碑の伝ふる所はかうである。蘭軒は頼春水とも菅茶山とも交はつた。就中(なかんづく)茶山は同じく阿部家の俸を食(は)む身の上であるので、其交(まじはり)が殊に深かつた。それゆゑ山陽は江戸に来たとき、本郷真砂町の伊沢の家で草鞋(わらぢ)を脱いだ。其頃伊沢では病源候論を写してゐたので、山陽は写字の手伝をした。さて暫くしてから、蘭軒は同窓の友なる狩谷□斎に山陽を紹介して、□斎の家に寓せしむることゝしたと云ふのである。
 此説は世の伝ふる所と太(はなは)だ逕庭(けいてい)がある。世の伝ふる所は一見いかにも自然らしく、これを前後の事情に照すに、しつくりと※合(ふんがふ)[#「月+(勿/口)」、7巻-29-下-5]する。叔父杏坪と共に出て来た山陽が、聖堂で学ばうとしてゐたことは勿論である。其聖堂には、六年前に幕府に召し出されて、伏見両替町から江戸へ引き越し、「以其足不良、特給官舎於昌平黌内」と云ふことになつた従母婿(じゆうぼせい)の二洲尾藤良佐(びとうりやうさ)が住んでゐた。山陽が此二洲の官舎に解装して、聖堂に学ぶのは好都合であつたであらう。尾藤博士の塾にあつたとは、山陽の自ら云ふ所である。又茶山の詩題にも「頼久太郎、寓尾藤博士塾二年」と書してある。二年とは所謂(いはゆる)足掛の算法に従つたものである。さて山陽は寛政九年の四月より十年の四月に至るまで江戸にゐて、それから杏坪等と共に、木曾路を南へ帰つた。此経過には何の疑の挾(さしはさ)みやうも無い。
 しかし口碑などと云ふものは、固(もと)より軽(かろがろ)しく信ずべきでは無いが、さればとて又妄(みだり)に疑ふべきでも無い。若し通途(つうづ)の説を以て動すべからざるものとなして、直(たゞち)に伊沢氏の伝ふる所を排し去つたなら、それは太早計(たいさうけい)ではなからうか。
 伊沢氏でお曾能(その)さんが生れた天保六年は、蘭軒の歿した六年の後である。又お曾能さんの父榛軒(しんけん)も山陽が江戸を去つてから六年の後、文化元年に生れた。しかし山陽が江戸にゐた時二十七八歳であつた蘭軒の姉幾勢(きせ)は、お曾能さんが十七歳になつた嘉永四年に至るまで生存してゐた。此家庭に於て、曾て山陽が寄寓せぬのに、強て山陽が寄寓したと云ふ無根の説を捏造したとは信ぜられない。且伊沢氏は又何を苦んでか此(かく)の如き説を憑空(ひようくう)構成しようぞ。
 徳(めぐむ)さんの言ふ所に拠れば、当時山陽が伊沢氏の家に留めた筆蹟が、近年に至るまで儲蔵せられてあつたさうである。惜むらくは伊沢氏は今これを失つた。
 わたくしは山陽が伊沢氏に寓したことを信ずる。そして下に云ふ如くに推測する。
 山陽が江戸にあつての生活は、恐くは世の伝ふる所の如く平穏ではなかつただらう。山陽がその自ら云ふ如くに、又茶山の云ふ如くに、二洲の塾にゐたことは確である。しかし後に神辺(かんなべ)の茶山が塾にあつて風波を起した山陽は、江戸の二洲が塾にあつても亦風波を起したものと見える。風波を起して塾を去つたものと見える。去つて何処へ往つたか。恐くは伊沢に往き、狩谷に往つたであらう。伊沢氏の口碑に草鞋(わらぢ)を脱いだと云ふのは、必ずしも字の如くに読むべきではなからう。

     その十五

 山陽は尾藤二洲の塾に入つた後、能く自ら検束してはゐなかつたらしい。山陽が尾藤の家の女中に戯れて譴責せられたのが、出奔の原因であつたと云ふ説は、森田思軒が早く挙げてゐる。唯思軒は山陽の奔(はし)つたのを、江戸を奔つたことゝ解してゐる。しかしこれは尾藤の家を去つたので、江戸を去つたのでは無かつたであらう。
 二洲が此(かく)の如き小疵瑕(せうしか)の故を以て山陽を逐つたのでないことは言を須(ま)たない。又縦(よ)しや二洲の怒が劇(はげし)かつたとしても、其妻直(なほ)は必ずや姉の愛児のために調停したことを疑はない。しかし山陽は「例の肝へき」を出して自ら奔つたのであらう。
 わたくしは此事のあつたのを何時だとも云ふことが出来ない。寛政九年四月より十年四月に至る満一箇年のうち、山陽がおとなしくして尾藤方にゐたのは幾月であつたか知らない。しかし推するに二洲の譴責は「物ごとにうたがひふかき」山陽の感情を害して、山陽は聖堂の尾藤が官舎を走り出て、湯島の通を北へ、本郷の伊沢へ駆け込んだのであらう。山陽が伊沢の門(かど)で脱いだのが、草鞋(わらぢ)でなくて草履であつたとしても、固より事に妨は無い。
 世の伝ふる所の寛政十年三月廿一日に山陽が江戸で書いて、広島の父春水に寄せた手紙がある。わたくしは此手紙が、或は山陽の江戸に於ける後半期の居所を以て、尾藤塾にあらずとする証拠になりはせぬかと思ふ。しかし文書を読むことは容易では無い。比較的に近き寛政中の文と雖亦然りである。文書を読むに慣れぬしろうとのわたくしであるから、錯(あやま)り読み錯り解するかも知れぬが、若しそんな事があつたら、識者の是正を仰ぎたい。
 手紙の原本はわたくしの曾(かつ)て見ぬ所である。わたくしの始て此手紙を読んだのは、木崎好尚(きざきかうしやう)さんがその著す所の「家庭の頼山陽」を贈つてくれた時である。此手紙の末(すゑ)に下(しも)の如き追記がある。「猶々昌平辺先生へも一日参上仕候而御暇乞等をも可申上存居申候、何分加藤先生御著の上も十日ほども可有之由に御坐候故、左様の儀も出来不申かと存候、以上」と云ふのである。加藤先生とは加藤定斎(ていさい)である。定斎は寛政十年三月廿二日に江戸に入る筈で、山陽は其前夜に此書を裁した。十日程もこれあるべしとは、山陽が猶江戸に淹留(えんりう)すべき期日であらう。寛政十年の三月は陰暦の大であつたから、山陽は四月三日頃に江戸を立つべき予定をしてゐたのである。山陽の発程は此予定より早くなつたか遅くなつたかわからない。山陽の江戸を発した日は記載せられてをらぬからである。
 わたくしのしろうと考を以てするに、先づ此追記には誤謬があるらしく見える。誤読か誤写か、乃至排印に当つての誤植か知らぬが、兎に角誤謬があるらしく見える。わたくしは此の如く思ふが故に、手紙の原本を見ざるを憾む。元来わたくしの所謂(いはゆる)誤謬は余りあからさまに露呈してゐて、人の心附かぬ筈は無い。然るに何故に人が疑を其間に挾(さしはさ)まぬであらうか。わたくしは頗るこれを怪む。そして却つて自己のしろうと考にヂスクレヂイを与へたくさへなるのである。

     その十六

 寛政十年三月二十一日の夜、山陽が父春水に寄せた書の追記は、口語体に訳するときはかうなる。「昌平辺の先生の所へも一度往つて暇乞を言はうと思つてゐる、何にせよ加藤先生が著いてからも十日程はあるだらうと云ふことだから、そんな事も出来ぬかと思ふ」となる。何と云ふ不合理な句であらう。暇がありさうだから往かれまいと云ふのは不合理ではなからうか。これはどうしても暇がありさうだから往かれようとなくてはならない。原文は「左様の義も出来可申かと存候」とあるべきではなからうか。只「不」を改めて「可」とすれば、文義は乃ち通ずるのである。
 わたくしの此手紙を読んだ始は「家庭の頼山陽」が出た時であつた。即ち明治三十八年であつた。それから八年の後、大正二年に箕山(きざん)さんの「頼山陽」が出た。同じ手紙が載せてあつて、旧に依つて「左様の義も出来不申かと存候」としてある。箕山さんは果して原本を見たのであらうか。若しさうだとすると、誤写も誤植もありやうがなくなる。原本の字体が不明で、誰が見ても誤り読むのであらうか。しかし此(かく)の如くに云ふのは、誤謬があると認めた上の事である。誤謬は初より無いかも知れない。そしてわたくしが誤解してゐるのかも知れない。
 追記の文意の合理不合理の問題は上(かみ)の如くである。しかしわたくしの此追記に就いて言はむと欲する所は別に有る。わたくしは試に問ひたい。追記に所謂「昌平辺先生」とは抑(そも/\)誰を斥(さ)して言つたものであらうかと問ひたい。
 姑(しばら)く前人の断定した如くに、山陽は江戸にある間、始終聖堂の尾藤の家にゐたとする。そして尾藤の家から広島へ立つたとする。さうすると此手紙も尾藤の家にあつて書いたものとしなくてはなるまい。そこで前人の意中を忖度(そんたく)するに、下(しも)の如くであらう。昌平辺先生とは昌平黌の祭酒博士を謂ふ。即ち林(りん)祭酒述斎を始として、柴野栗山、古賀精里等の諸博士である。その二洲でないことは明である。二洲の家にあるものが、ことさらに二洲を訪ふべきでは無いからである。前人の意中はかうであらう。
 独りわたくしの思索は敢て別路を行く。山陽が江戸にあつた時、初め二洲の家にゐたことは世の云ふ所の如くであらう。しかし後には二洲の家にはゐなかつたらしい。少くも此手紙は二洲の家にあつて書いたものではなささうである。「昌平辺」の三字は、昌平黌の構内にゐて書くには、いかにも似附かはしくない文字である。外にあつて昌平黌と云ふ所を斥(さ)すべき文字である。
 わたくしは敢てかう云ふ想像をさへして見る。「昌平辺先生」は、とりもなほさず二洲ではなからうかと云ふ想像である。二洲は瓜葛(くわかつ)の親とは、思軒以来の套語であるが、縦(よ)しや山陽は一時の不平のために其家を去つたとしても、全く母の妹の家と絶つたのでないことは言を須(ま)たない。しかし少くも山陽は些(ちと)のブウドリイを作(な)して不沙汰をしてゐたのではなからうか。すねて往かずにゐたのではなからうか。そして「江戸を立つまでには暇がありさうだから、例の昌平辺の先生の所へも往かれよう」と云つたのではなからうか。これは山陽が二洲の家を去つたことは、広島へも聞えずにゐなかつたものと仮定して言ふのである。

     その十七

 わたくしは寛政九年四月中旬以後に、月日は確に知ることが出来ぬが、山陽が伊沢の家に投じたものと見たい。蘭軒が頼氏の人々並に菅茶山と極て親しく交つたことは、後に挙ぐる如く確拠があるが、山陽の父春水と比べても、茶山と比べても、蘭軒はこれを友とするに余り年が少過(わかす)ぎる。寛政九年には春水五十二、茶山五十で、蘭軒は僅に二十一である。わたくしは初め春水、茶山等は蘭軒の父隆升軒信階(りゆうしようけんのぶしな)の友ではなからうかと疑つた。信階は此年五十四歳で、春水より長ずること二歳、茶山より長ずること四歳だからである。しかし信階が此人々と交つた形迹は絶無である。それゆゑ山陽の来り投じたのは、当主信階をたよつて来たのではなく、嫡子蘭軒をたよつて来たのだと見るより外無くなるのである。此年二十一歳の蘭軒は、十八歳の山陽に較べて、三つの年上である。
 わたくしは蘭軒が初め奈何(いかに)して頼菅二氏に交(まじはり)を納(い)れたかを詳(つまびらか)にすること能はざるを憾(うらみ)とする。わたくしは現に未整理の材料をも有してゐるが、今の知る所を以てすれば、蘭軒が春水と始て相見たのは、後に蘭軒が広島に往つた時である。又茶山と交通した最も古いダアトは、文化元年の春茶山が小川町の阿部邸に病臥してゐた時、蘭軒が菜の花を贈つた事である。わたくしは今これより古い事実を捜してゐる。若し幸にしてこれを獲たならば、山陽が来り投じた時の事情をも、稍(やゝ)細(こまか)に推測することが出来るであらう。
 山陽は伊沢に来て、病源候論を写す手伝をさせられたさうである。果して山陽の幾頁(いくけつ)をか手写した病源候論が、何処かに存在してゐるかも知れぬとすると、それは世の書籍を骨董視する人々の朶頤(だい)すべき珍羞(ちんしう)であらう。
 病源候論が伊沢氏で書写せられた顛末は明で無い。又其写本の行方も明で無い。素(もと)わたくしは支那の古医書の事には□(くら)いが、此に些(ちと)の註脚を加へて、遼豕(れうし)の誚(そしり)を甘受することとしよう。病源候論は隋の煬帝(やうだい)の大業六年の撰である。作者は或は巣元方(さうげんはう)だとも云ひ、或は呉景だとも云ふ。呉の名は一に景賢に作つてある。四庫全書総目に、此書は官撰であるから、巣も呉も其事に与(あづか)つたのだらうと云つてある。玉海に拠れば、宋の仁宗の天聖五年に此書が□印(もいん)頒行せられた。降つて南宋の世となつて、天聖本が重刻(ちようこく)せられた。伊沢の蔵本即酌源堂本は、此南宋版であつて、全部五十巻目録一巻の中、目録、一、二、十四、十五、十六、十七、十八、十九、計九巻が闕けてゐた。然るに別に同板のもの一部があつた。それは懐仙閣本である。此事は経籍訪古志に見えてゐるが、訪古志はわたくしのために馴染が猶浅い故、少しく疑はしい処がある。訪古志に懐仙楼蔵と記する諸本が、皆曲直瀬(まなせ)の所蔵であることは明である。然るに訪古志補遺には懐仙閣蔵の書が累見してゐる。わたくしは懐仙閣も亦曲直瀬かと推する。しかしその当れりや否やを知らない。さて懐仙閣本の病源候論も亦完璧ではなくて、四十、四十一、四十二、四十三、計四巻が闕けてゐた。両本は恰も好し有無(いうむ)相補ふのであつた。
 伊沢氏で寛政九年に病源候論を写したとすると、それは自蔵本の副本を作つたのか。それとも懐仙閣本を借りて補写したのか。恐くは此二者の外には出でぬであらう。そして山陽が手伝つたと謂ふのは、此謄写の業であらう。

     その十八

 山陽が寓してゐた時の伊沢氏の雰囲気は、病源候論を写してゐたと云ふを見て想像することが出来る。五十四歳の隆升軒信階(りゆうしようけんのぶしな)が膝下で、二十一歳の蘭軒は他年の考証家の気風を養はれてゐたであらう。蘭軒が歿した後に、山田椿庭(ちんてい)は其遺稿に題するに七古一篇を以てした。中に「平生不喜苟著述、二巻随筆身後伝」の語がある。これが蘭軒の面目である。
 そこへ闖入し来つた十八歳の山陽は何者であるか。三四年前に蘇子の論策を見て、「天地間有如此可喜者乎」と叫び、壁に貼つて日ごとに観た人である。又数年の後に云ふ所を聞けば、「凌雲冲霄」が其志である。「一度大処へ出で、当世の才俊と被呼(よばれ)候者共と勝負を決し申度」と云ひ、「四方を靡せ申度」と云つてゐる。そして山陽は能く初志を遂げ、文名身後に伝はり、天下其名を識らざるなきに至つた。これが山陽の面目である。
 少(わか)い彼蘭軒が少い此山陽をして、首(かうべ)を俯して筆耕を事とせしめたとすると、わたくしは運命のイロニイに詫異(たい)せざることを得ない。わたくしは当時の山陽の顔が見たくてならない。
 山陽は尋で伊沢氏から狩谷氏へ移つたさうである。尾藤から伊沢へ移つた月日が不明である如くに、伊沢から狩谷へ移つた月日も亦不明である。要するに伊沢にゐた間は短く、狩谷にゐた間は長かつたと伝へられてゐる。わたくしは此初遷再遷を、共に寛政九年中の事であつたかと推する。
 わたくしは伊沢の家の雰囲気を云々した。山陽は本郷の医者の家から、転じて湯島の商人の家に往つて、又同一の雰囲気中に身を□(お)いたことであらう。□斎は当時の称賢次郎であつた。年は二十三歳で、山陽には五つの兄であつた。そして蘭軒の長安信階に於けるが如く、□斎も亦養父三右衛門保古(はうこ)に事(つか)へてゐたことであらう。墓誌には□斎が生家高橋氏を去つて、狩谷氏を嗣(つ)いだのは、二十五歳の時だとしてある。即ち山陽を舎(やど)した二年の後である。わたくしは墓誌の記する所を以て家督相続をなし、三右衛門と称した日だとするのである。□斎の少時奈何(いか)に保古に遇せられたかは、わたくしの詳(つまびらか)にせざる所であるが、想ふに保古は□斎の学を好むのに掣肘を加へはしなかつたであらう。□斎は保古の下にあつて商業を見習ひつつも、早く已に校勘の業に染指(せんし)してゐたであらう。それゆゑにわたくしは、山陽が同一の雰囲気中に入つたものと見るのである。
 洋人の諺に「雨から霤(あまだれ)へ」と云ふことがある。山陽はどうしても古本の塵を蒙ることを免れなかつた。わたくしは山陽が又何かの宋槧本(そうざんぼん)を写させられはしなかつたかと猜する。そして運命の反復して人に戯るゝを可笑(をか)しくおもふ。

     その十九

 寛政十年四月に山陽は江戸を去つた。其日時は不明である。山陽が三日頃に立つことを期してゐた証拠は、父に寄せた書に見えてゐる。又其発程が二十五日より前であつたことは、二洲が姨夫(いふ)春水に与へた書に徴して知ることが出来る。わたくしは山陽が淹留期(えんりうき)の後半を狩谷氏に寓して過したかとおもひ、又彼の父に寄する書を狩谷氏の許にあつて裁したかとおもふ。
 此年九月朔(ついたち)に吉田篁□(くわうとん)が歿した。其年歯には諸書に異同があるがわたくしは未だ考ふるに遑(いとま)がなかつた。わたくしが篁□の死を此に註するのは、考証家として蘭軒の先駆者であるからである。井上蘭台(らんたい)の門に井上金峨(きんが)を出し、金峨の門に此篁□を出した。蘭軒は師承の系統を殊にしてはゐるが、其学風は帰する所を同じうしてゐる。且亀田鵬斎(ぼうさい)の如く、篁□と偕(とも)に金峨の門に出で、蘭軒と親善に、又蘭軒の師友たる茶山と傾蓋故(ふる)きが如くであつた人もある。わたくしの今これに言及する所以(ゆゑん)である。蘭台は幕府の医官井上通翁の子である。金峨は笠間の医官井上観斎の子である。篁□は父祖以来医を以て水戸に仕へ、自己も亦一たび家業を継いで吉田林庵と称した。此の如く医にして儒なるものが、多く考証家となつたのは、恐くは偶然ではあるまい。
 此年の暮れむとする十二月二十五日に、広島では春水が御園(みその)道英の女(ぢよ)淳(じゆん)を子婦(よめ)に取ることを許された。不幸なる最初の山陽が妻である。
 此年蘭軒は二十二歳、其父信階は五十五歳であつた。
 寛政十一年に狩谷氏で□斎が家を嗣いだ。わたくしは既に云つたやうに、□斎は此より先に実家高橋氏を去つて保古(はうこ)が湯島の店津軽屋に来てをり、此時家督相続をして保古の称三右衛門を襲(つ)いだかとおもふ。
 □斎の家世には不明な事が頗る多い。□斎の生父高橋高敏(かうびん)は通称与総次(よそうじ)であつた。そして別号を麦雨(ばくう)と云つた。これは蘭軒の子で所謂(いはゆる)「又分家」の祖となつた柏軒の備忘録に見えてゐる。高敏の妻、□斎の生母佐藤氏は武蔵国葛飾郡小松川村の医師の女(むすめ)であつた。これも亦同じ備忘録に見えてゐる。
 高敏の家業は、曾孫三市(いち)さんの聞いてゐる所に従へば、古著屋であつたと云ふ。しかし伊沢宗家の伝ふる所を以てすれば小さい書肆であつたと云ふ。これは両説皆是(ぜ)であるかも知れない。古衣(ふるぎ)を売つたこともあり、書籍、事によつたら古本を売つたこともあるかも知れない。わたくしは高敏の事跡を知らむがために、曾て浅草源空寺に往つて、高橋氏の諸墓を歴訪した。手許には当時の記録があるが、姑(しばら)く書かずに置く。三市さんが今猶探窮して已まぬからである。
 □斎の保古に養はれたのは、女婿として養はれたのである。三市さんは□斎の妻は保古の三女であつたと聞いてゐる。柏軒の備忘録に此女の法号が蓮法院と記してある。
 此年二月二十二日に御園氏淳(じゆん)が山陽に嫁した。後一年ならずして離別せられた不幸なる妻である。十二月七日の春水の日記「久児夜帰太遅、戒禁足」の文が、家庭の頼山陽に引いてある。山陽が後真(まこと)に屏禁(へいきん)せられる一年前の事である。
 此年蘭軒は二十三歳、父信階は五十六歳であつた。

     その二十

 寛政十二年は信階父子の家にダアトを詳(つまびらか)にすべき事の無かつた年である。此年に山陽は屏禁せられた。わたくしは蘭軒を伝ふるに当つて、時に山陽を一顧せざることを得ない。現に伊沢氏の子孫も毎(つね)に曾(かつ)て山陽を舎(やど)したことを語り出でて、古い記念を喚び覚してゐる。譬へば逆旅(げきりよ)の主人が過客中の貴人を数ふるが如くである。これは晦(かく)れたる蘭軒の裔(すゑ)が顕れたる山陽に対する当然の情であらう。
 これに似て非なるは、わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者である。此(かく)の如き人は蘭軒伝を見ても、只山陽茶山の側面観をのみ其中に求むるであらう。わたくしは敢て成心としてこれを斥(しりぞ)ける。わたくしの目中(もくちゆう)の抽斎や其師蘭軒は、必ずしも山陽茶山の下(しも)には居らぬのである。
 山陽が広島杉木小路の家を奔(はし)つたのは九月五日である。豊田郡竹原で山陽の祖父又十郎惟清(これきよ)の弟伝五郎惟宣(これのぶ)が歿したので、梅□(ばいし)は山陽をくやみに遣つた。山陽は従祖祖父(じゆうそそふ)の家へ往かずに途中から逃げたのである。竹原は山陽の高祖父総兵衛正茂の始て来り住した地である。素(もと)正茂は小早川隆景に仕へて備後国に居つた。そして隆景の歿後、御調郡(みつきごほり)三原の西なる頼兼村から隣郡安藝国豊田郡竹原に遷(うつ)つた。当時の正茂が職業を、春水は「造海舶、販運為業」と書してゐる。しかし長井金風さんの獲た春水の「万松院雅集贈梧屋道人」七絶の箋に裏書がある。文中「頼弥太郎、抑紺屋之産也」と云つてある。此語は金風さんが嘗て広島にあつて江木鰐水の門人河野某に聞いた所と符合する。河野は面(まのあた)り未亡人としての梅□をも見た人であつたさうである。これも亦彼の□斎が生家の職業と同じく或は二説皆是(ぜ)であるかも知れない。
 山陽は京都の福井新九郎が家から引き戻されて、十一月三日に広島の家に著き、屏禁せられた。時に年二十一であつた。
 此年蘭軒は二十四歳、父信階は五十七歳になつた。
 次の年は享和元年である。記して此に至れば、一事のわたくしのために喜ぶべきものがある。それは蘭軒の遺した所の※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-40-下-15]詩集が、年次を逐つて輯録せられてゐて、此年の干支辛酉(しんいう)が最初に書中に註せられてゐる事である。蘭軒の事蹟は、彼の文化七年後の勤向覚書を除く外、絶て編年の記載に上(のぼ)つてをらぬのに、此詩集が偶(たま/\)存してゐて、わたくしに暗中燈(ともしび)を得た念をなさしむるのである。
 詩集は蘭軒の自筆本で、半紙百零三頁(けつ)の一巻をなしてゐる。蠧蝕(としよく)は極て少い。蔵※者(ざうきよしや)[#「去/廾」、7巻-41-上-6]は富士川游さんである。
 巻首第一行に※[#「くさかんむり/姦」、7巻-41-上-8]斎詩集、伊沢信恬」と題してあつて、「伊沢氏酌源堂図書記」「森氏」の二朱印がある。森氏は枳園(きゑん)である。毎半葉十行、行二十二字である。
 集に批圏と欄外評とがある。欄外評は初頁(けつ)より二十七頁に至るまで、享和元年より後二年にして家を嗣いだ阿部侯椶軒正精(そうけんまさきよ)の朱書である。間(まゝ)菅茶山の評のあるものは、茶字を署して別つてある。二十八頁以下の欄外には往々「伊沢信重書」、「渋江全善書」、「森立夫書」等補写者の名が墨書してある。評語には「茶山曰」と書してある。

     その二十一

 わたくしは此に少しく蘭軒の名字(めいじ)に就いて插記することとする。それは引く所の詩集に※(かん)[#「くさかんむり/姦」、7巻-41-下-4]の僻字(へきじ)が題してあるために、わたくしは既に剞□氏(きけつし)を煩し、又読者を驚したからである。
 蘭軒は初め名は力信(りよくしん)字(あざな)は君悌(くんてい)、後名は信恬(しんてん)字は憺甫(たんほ)と云つた。信恬は「のぶさだ」と訓(よ)ませたのである。後の名字は素問上古天真論の「恬憺虚無、真気従之、精神内守、病従安来」より出でてゐる。椶軒(そうけん)阿部侯正精の此十六字を書した幅が分家伊沢に伝はつてゐる。
 憺甫の憺は心に従ふ。しかし又澹父にも作つたらしい。森田思軒の引いた菅茶山の柬牘(かんどく)には水(すゐ)に従ふ澹が書してあつたさうである。現にわたくしの饗庭篁村(あへばくわうそん)さんに借りてゐる茶山の柬牘にも、同じく澹に作つてある。啻(たゞ)に柬牘のみでは無い。わたくしの検した所を以てすれば、黄葉夕陽村舎詩に蘭軒に言及した処が凡そ十箇所あつて、其中澹父と書したものが四箇所、憺父と書したものが一箇所、蘭軒と書したものが二箇所、都梁と書したものが二箇所、辞安と書したものが一箇所ある。要するに澹父と書したものが最多い。坂本箕山(きざん)さんが其藝備偉人伝の下巻(かくわん)に引いてゐる「尾道贈伊沢澹父」の詩題は其一である。此書の下巻は未刊行のものださうで、頃日(このごろ)箕山さんは蘭軒の伝を稿本中より抄出してわたくしに寄示(きし)してくれたのである。
 別号は蘭軒を除く外、※斎(かんさい)[#「くさかんむり/間」、7巻-42-上-11]と云ひ、都梁と云ひ、笑僊(せうせん)と云ひ、又藐姑射(はこや)山人と云つた。※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-上-12]一に※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-上-12]に作つてある。詩集の名の如きが即是である。又※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-上-13]斎の篆印(てんいん)もある。※(かん)[#「くさかんむり/閑」、7巻-42-上-14]に作つたものは、わたくしは未だ曾て見ない。
 ※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-上-15]は詩の鄭風に「□与□、方渙渙兮、士与女、方秉※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-上-15]兮」とあつて、伝に「※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-上-16]蘭也」と云つてある。※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-上-16]は山海経に「呉林之山、其中多※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-1]草」とあつて、又※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-1]山※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-1]水の地名が見えてゐる。一切経音義に声類を引いて「※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-3]蘭也」と云ひ、又「※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-3]、字書与※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-下-3]同」とも云つてある。説文(せつもん)校録にも亦「鄭風秉※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-下-4]、字当同※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-4]、左氏昭二十二年大蒐於昌間、公羊作昌姦、此※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-5]与※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-下-5]同之証」と云つてある。説文に※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-6]を載せて※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-下-6]を載せぬのは許慎(きよしん)が※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-7]を正字としたためであらう。※[#「くさかんむり/閑」、7巻-42-下-7]は字彙正字通並に※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-下-8]の俗字だとしてゐる。字典は広韻を引いて「与※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-8]同」としてゐる。説文義証には「広韻、※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-9]与※[#「くさかんむり/閑」、7巻-42-下-9]同、※[#「くさかんむり/閑」、7巻-42-下-9]当作※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-下-10]」と云つてある。※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-10]※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-下-10]※[#「くさかんむり/閑」、7巻-42-下-10]三字の考証は池田四郎次郎さんを煩はした。都梁は荊州記に「都梁県有山、山下有水清□、其中多蘭草、名都梁香」とある。蘭軒の蘭字の事は後に別に記することとしよう。笑僊は笑癖あるがために自ら調したものであらう。藐姑射山人は荘子から出てゐること論を待たない。
 居る所を酌源堂と云ひ、三養堂と云ひ、芳桜(はうあう)書院と云ふ。
 酌源は班固(はんこ)の典引(てんいん)の「斟酌道徳之淵源、肴覈仁義之林藪」から出てゐる。三養は蘇軾(そしき)の「安分以養福、寛胃以養気、省費以養財」から出てゐる。芳桜書院の芳桜の事は後に別に記することとしよう。
 通称は辞安である。
 名字の説は此に止まる。已に云つた如くに、わたくしの富士川游さんに借りてゐる※[#「くさかんむり/姦」、7巻-43-上-8]斎詩集に、先づ見えてゐる干支は、此年享和紀元の辛酉である。わたくしは此詩暦を得て大いに心強さを覚える。わたくしは此より此詩暦を栞(しをり)とし路傍□(こう)として、ゆくての道をたどらうとおもふ。

     その二十二

 蘭軒は此年享和元年の元日に七律を作つた。※[#「くさかんむり/姦」、7巻-43-上-14]斎詩集の「辛酉元日口号」が是である。首句に分家伊沢の当時の居所が入つてゐるのが、先づわたくしの注意を惹く。「昌平橋北本江郷」と云つてある。本江(ほんごう)の郷(きやう)と訓(よ)ませる積であつたのだらう。
 次に蘭軒生涯の大厄たる脚疾が、早く此頃に萌してゐたらしい。詩集は前に云つた元日の作の後に、文化元年の作に至るまでの間、春季の詩六篇を載せてゐるのみである。わたくしは姑(しばら)く此詩中に云ふ所を此年の下(もと)に繋(か)ける。蘭軒は二月の頃に「野遊」に出た。「数試春衣二月天」の句がある。此野遊の題の下に、七絶二、七律一、五律一が録存してあつて、数試春衣(しば/\しゆんいをこゝろみる)二月天(ぐわつのてん)は七律の起句である。然るにこれに次ぐに「頓忘病脚自盤旋」の句を以てしたのを見れば、わたくしは酸鼻に堪へない。蘭軒は今僅に二十三歳にして既に幾分か其痼疾に悩まされてゐたのである。
 此年六月二十九日には蘭軒の師泉豊洲が、其師にして岳父たる細井平洲を喪つた。七十四歳を以て「外山邸舎」に歿したと云ふから、尾張中将斉朝(なりとも)の市谷門外の上屋敷が其易簀(えきさく)の所であらう。諸侯の国政を与(あづか)り聴いた平洲は平生「書牘来、読了多手火之」と云ふ習慣を有してゐた。「及其病革、書牘数十通、猶在篋笥、門人泉長達神保簡受遺言、尽返之各主。」長達は豊洲の名である。神保簡は恐くは続近世叢語の行簡(かうかん)、宇は子廉であらう。蘭室と号したのは此人か。蘭軒の師豊洲は時に年四十四であつた。
 此年には猶多紀氏で蘭軒の友柳□□庭(りうはんさいてい)の祖父藍渓が歿し、後に蘭軒の門人たる森枳園(きゑん)の祖父伏牛(ふくぎう)が歿してゐる。蘭軒の父信階は五十八歳になつた。
 享和二年には二月二十九日に蘭軒が向島へ花見に往つたらしい。蘭軒雑記にかう云つてある。「吉田仲禎(名祥、号長達(ちやうたつとがうす)、東都医官)、木村駿卿、狩野卿雲、此四人(たり)は余常汝爾之交(よつねにじよじのまじはり)を為す友也。享和之二二月廿九日仲禎君と素問合読(がふどく)なすとてゐたりしに、卿雲おもはずも訪(とぶら)ひき。(此時仲禎卿雲初見)余が今日は美日なれば、今より駿卿へいひやりて墨田の春色賞するは如何(いかに)と問ぬ。二人そもよかるべしと、三人(たり)して手紙認(したゝめ)し折から、駿卿来かかりぬ。まことにめづらしき会なりと、午(ひる)の飯(いひ)たうべなどして、上野の桜を見つつ、中田圃より待乳山にのぼりてしばしながめつ。山をおりなんとせし程に、卿雲のしたしき泉屋忠兵衛といへるくるわの茶屋に遇ひぬ。其男けふは余が家居に立ちより給へと云ふ。余等いなみてわかれぬ。それより隅田の渡わたりて、隅田村、寺島、牛島の辺(あたり)、縦に横に歩みぬ。さてつゝみより梅堀をすぎ、浅草の観音に詣で、中田圃より直(すぐ)なる道をゆきて家に帰りぬ。」此文は年月日の書きざまが異様で、疑はしい所がないでもないが、わたくしは且(しばら)く「享和之二二月」と読んで置く。
 秋に入つて七月十五日に、蘭軒は渡辺東河(とうか)、清水泊民(はくみん)、狩谷□斎、赤尾魚来(ぎよらい)の四人と、墨田川で舟遊をした。蘭軒に七絶四首があつたが、集に載せない。只其題が蘭軒雑記に見えてゐるのみである。東河、名は彭(はう)、字(あざな)は文平、一号は払石(ふつせき)である。書を源(げん)東江に学んだ。泊民名は逸、碩翁と号した。亦書を善くした。魚来は未だ考へない。
 享和三年には蘭軒が二月二日に吉田仲禎狩谷□斎と石浜村へ郊行した。仲禎、名は祥、通称は長達である。幕府の医官を勤めてゐた。次で十九日に又大久保五岳、島根近路、打越(うちごし)古琴と墨田川に遊んだ。五岳、名は忠宜(ちゆうぎ)、当時の菓子商主水(もんど)である。近路古琴の二人の事は未だ考へない。此二遊は蘭軒雑記に「享和閏(うるふ)正月」と記し、下(しも)三字を塗抹して「二月」と改めてある。享和中閏正月のあつたのは三年である。故に姑(しばら)く此に繋ける。墨田川の遊は、雑記に「甚俗興きはまれり」と註してある。
 此年七月二十八日に、蘭軒の父信階の養母大久保氏伊佐が歿した。戒名は寿山院湖月貞輝大姉である。「又分家」の先霊名録には寿山院が寿山室に作つてある。年は八十四であつた。
 蘭軒雑記に拠れば、所謂(いはゆる)浅草太郎稲荷の流行は此七月の頃始て盛になつたさうである。社の在る所は浅草田圃で、立花左近将監鑑寿(あきひさ)の中屋敷であつた。大田南畝が当時奥祐筆所詰を勤めてゐた屋代輪池を、神田明神下の宅に訪うて一聯を題し、「屋代太郎非太郎社、立花左近疑左近橘」と云つたのは此時である。

     その二十三

 此年享和三年十月七日に、蘭軒が渡辺東河を訪うて、始て伴粲堂(ばんさんだう)に会つたことが、蘭軒雑記に見えてゐる。粲堂、通称は平蔵である。煎茶を嗜(たし)み、篆刻(てんこく)を善くした。此日十月七日は西北に鳴動を聞き、夜灰が降つたと雑記に註してある。試に武江年表を閲(けみ)するに降灰(かうくわい)の事を載せない。
 蘭軒の結婚は家乗に其年月を載せぬが、遅くも此年でなくてはならない。それは翌年文化元年の八月には長男榛軒(しんけん)が生れたからである。蘭軒には榛軒に先(さきだ)つて生れた子があつたか否か、わたくしは知らない。しかし少くも男子は無かつたらしい。分家伊沢の人々の語る所に依れば、蘭軒には嫡出六人、庶出六人、計十二人の子があつたさうである。歴世略伝にある六人は、男子が榛軒常三郎柏軒、女子が天津(てつ)長(ちやう)順(じゆん)である。常三郎は榛軒に後るゝこと一年、柏軒は六年にして生れた。名録には猶一人庶子良吉があつて、文化十五年即ち文政元年正月二日に歿してゐるが、これも榛軒の兄ではなささうである。わたくしが少くも先つて生れた男子は無かつたらしいと云ふのは、これがためである。
 略伝の女子天津長順三人の中、分家の人々の言(こと)に従へば、只一人長育したと云ふ。即ち名録の井戸応助妻であらう。応助は※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-46-下-1]詩集に拠るに、翁助の誤らしい。翁助妻は名録に文化十一年に生れた第三女だとしてある。名録に又「芳桜軒第二女、生七日許終、時文化九年壬申正月八日」として、智貌童子の戒名が見えてゐる。童子は童女の誤であらう。しかし天津、長、順をいづれに配当して好いか、わからない。若し長女にして榛軒に先つて生れたとすると、蘭軒が妻を娶つた年は繰り上げられるかも知れない。
 上(かみ)に記した外、名録には尚庶出の女(ぢよ)二人がある。文政六年に歿した順、十一年に歿した万知(まち)である。然らば略伝は庶子中より独り順のみを挙げてゐるのであらう。
 蘭軒の娶つた妻は飯田休庵の二女である。初め蘭軒の父信階即井出門次郎の妹が休庵に嫁したが、此井出氏は早く歿して、水越氏民が継室となつた。休庵の二女は此水越氏の出(しゆつ)である。それゆゑ蘭軒の妻は小母婿(をばむこ)の子ではある。姑夫女(こふぢよ)ではある。しかし小母の女(むすめ)では無い。姑女では無い。
 蘭軒の妻は名を益と云つた。天明三年の生である。即ち明和七年に小母が死んでから、十三年目に纔(わづか)に生れたのである。蘭軒より少(わか)きこと六歳で、若し推定の如くに享和三年に婚嫁したとすると、夫蘭軒は二十七歳、妻益は二十一歳であつた。
 此年に蘭軒の友小島春庵尚質(なほかた)の父春庵根一(もとかず)が歿した。尚質は蘭軒と古書を愛する嗜好を同じうした小島宝素である。広島の頼山陽は此年十二月六日に囲から出されて、家にあつて謹慎することを命ぜられた。

     その二十四

 此年享和三年に蘭軒の父信階(のぶしな)の仕へてゐる阿部家に代替があつた。伊勢守正倫(まさとも)が十月六日に病に依つて致仕し子主計頭正精(かぞへのかみまさきよ)が家を継いだのである。正倫は安永六年より天明七年に至るまで初め寺社奉行見習、後寺社奉行を勤め、天明七八年の両年間宿老に列してゐた。致仕後二年、文化二年に六十一歳で歿した。継嗣正精は学を好み詩を善くし、棕軒(そうけん)と号した。世子(せいし)たりし日より、蘭軒を遇すること友人の如くであつた。
 文化元年には蘭軒が「甲子元旦」の五律を作つた。其後半が分家伊沢の当時の生活状態を知るに宜しいから、此に全首を挙げる。「陽和新布令。懶性掃柴門。梅傍辛盤発。鳥求喬木飛。樽猶余臘酒。禄足製春衣。賀客来無迎。姓名題簿帰。」伊沢氏は俸銭□銭(しよせん)を併せたところで、手一ぱいのくらしであつただらう。所謂(いはゆる)不自由の無いせたいである。五六の一聯が善くこれを状してゐる。結二句は隆升軒父子の坦率(たんそつ)を見る。
 正月に新に封を襲いだ正精が菅茶山を江戸に召した。頼山陽の撰んだ行状に、「正月召之東」と書してある。茶山は江戸に著いて、微恙のために阿部家の小川町の上屋敷に困臥し、紙鳶(たこ)の上がるのを眺めてゐた。茶山の集に「江戸邸舎臥病」の二絶がある。「養痾邸舎未尋芳。聊買瓶花插臥床。遙想山陽春二月。手栽桃李満園香。閑窓日対薬炉烟。不那韶華病裡遷。都門楽事春多少。時見風箏泝半天。」「春二月」の三字にダアトが点出せられてゐる。蘭軒の集には又「春日郊行。途中菘菜花盛開。先是菅先生有養痾邸舎未尋芳之句、乃剪数茎奉贈、係以詩」と云ふ詩がある。「桃李雖然一様新。担頭売過市※[#「「纒のつくり+おおざと」、7巻-48-上-9]塵。贈君野菜花千朶。昨日携帰郊甸春。」菜の花に菘字(しゆうじ)を用ゐたのは、医家だけに本草綱目に拠つたのである。先生と云ひ、奉贈(ほうぞう)と云ふを見れば、茶山と蘭軒との年歯の懸隔が想はれる。茶山が神辺(かんなべ)の菅波久助の倅百助(ひやくすけ)であつたことは、行状にも見えてゐるが、頼の頼兼(よりかね)を知つた人も、往々菅の菅波を知らない。寛延元年の生で、此年五十七歳、蘭軒は二十八歳であつた。推するに蘭軒は殆ど師として茶山を待つてゐたのであらう。
 三月になつて茶山は病が□(い)えた。十九日に犬塚印南(いんなん)、今川槐庵、蘭軒の三人と一しよに、お茶の水から舟に乗つて、墨田川に遊んだ。狩谷□斎も同行の約があつたが、用事に阻げられて果さなかつた。舟中で四人が聯句をした。蘭軒雑記に「聯句別に記す」と云つてあるが、今知ることが出来ない。
 印南、名は遜(そん)、字(あざな)は退翁、通称は唯助、一号は木王園(もくわうゑん)である。寛延三年に播磨国姫路の城主酒井雅楽頭忠知(うたのかみたゞとも)の重臣犬塚純則の六男に生れ、同藩青木某の女婿となり、江戸に来て昌平黌の員長に推された。尋(つい)で本氏(ほんし)に復し、黌職(くわうしよく)を辞し、本郷に家塾を設けた。寛政の末だと云ふから、印南が五十前後の頃である。印南は汎交(はんかう)を避け、好んで書を読んだ。講書のために上野国高崎の城主松平右京亮輝延の屋敷と、輪王寺公澄法親王(こうちようはふしんのう)の座所とへ伺候する外、折々酒井雅楽頭忠道(たゞみち)の屋敷の宴席に招かれるのみであつた。印南は嘗て蘭軒に猪牙(ちよき)舟の対(たい)を求められて、直(たゞち)に蛇目傘と答へたと蘭軒雑記に見えてゐるから、必ずや詩をも善くしたことであらう。

     その二十五

 印南、茶山、蘭軒と倶に、墨田川に花見舟を泛(うか)べた今川槐庵は、名は※(こく)[#「穀」の「禾」に代えて「一/豕」、7巻-49-上-7]、字は剛侯(かうこう)である。わたくしは※[#「穀」の「禾」に代えて「一/豕」、7巻-49-上-7]は毅ではないかと疑ふが、
第(しばら)く※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-49-上-8]詩集の録する所に従つて置く。
 山陽の撰んだ茶山の行状は、「正月召之東」の句に接するに、「遂告暇遊常州」の句を以てしてある。茶山の著述目録の中に、常遊記(じやういうき)一巻とあるのが、恐くは此行を紀したものであらう。しかしわたくしは未だ其書を見ない。姑(しばら)く集中の詩に就て検するに、常遊雑詩十九首があつて、中に太田と註した一絶がある。其転結に「五月久慈川上路、女児相喚采紅藍」と云つてある。久慈川に近い太田は、久慈郡太田であらう。五月の二字から推せば、さみだれの頃の旅であつただらう。蘭軒の集には其頃梅天断梅(ばいてんだんばい)の絶句各(おの/\)二首がある。梅天の一に「山妻欲助梅□味、手摘紫蘇歩小園」の句があり、断梅の一に「也有閑中公事急、擬除軒下曝家書」の句がある。□(そ)は説文(せつもん)に「酢菜也」とある。梅□(ばいそ)も梅※(ばいせい)[#「「韲/凵」、7巻-49-下-8]も梅漬である。茶山が常陸巡をしてゐる間、蘭軒はお益(ます)さんが梅漬の料に菜圃の紫蘇を摘むのを見たり、蔵書の虫干をさせたりしてゐたと見える。頼氏の修史が山陽一代の業で無いと同じく、伊沢氏の集書も亦蘭軒一代の業では無いらしい。
 秋に入つてから七月九日に、茶山蘭軒等は又墨田川に舟を泛べて花火を観た。一行の先輩は茶山と印南との二人であつた。
 同行には源波響(げんはきやう)、木村文河(ぶんか)、釧雲泉(くしろうんせん)、今川槐庵があつた。
 源波響は蠣崎(かきざき)氏、名は広年(くわうねん)、字は世詁(せいこ)、一に名は世□(せいこ)、字は維年(ゐねん)に作る。通称は将監(しやうげん)である。画を紫石応挙の二家に学んだ。明和六年生だから、此年三十五歳であつた。釧雲泉、名は就(しう)、字は仲孚(ちゆうふ)、肥前国島原の人である。竹田(ちくでん)が称して吾国の黄大癡(くわうたいち)だと云つた。宝暦九年生だから、此年四十六歳であつた。五年の後に越後国出雲崎で歿した。其墓に銘したものは亀田鵬斎(ぼうさい)である。文河槐庵の事は上に見えてゐる。
 茶山の集には「同犬冢印南今川剛侯伊沢辞安、泛墨田川即事」として、七絶七律各(おの/\)一首がある。律の頷聯(がんれん)「杯来好境巡須速、句対名家成転遅」は印南に対する謙語であらう。蘭軒の集には「七夕後二日、陪印南茶山二先生、泛舟墨陀河、与源波響木文河釧雲泉川槐庵同賦」として七律二首がある。初首の七八「誰識女牛相会後、徳星復此競霊輝」は印南茶山に対する辞令であらう。後首の両聯に花火が点出してある。「千舫磨舷搶作響。万燈対岸爛争光。竹枝桃葉絃歌湧。星彩天花烟火揚。」わたくしは大胆な記実を喜ぶ。茶山は詩の卑俗に陥らむことを恐れたものか、一語も花火に及ばなかつた。蘭軒の題にダアトのあつたのもわたくしのためにはうれしかつた。

     その二十六

 蘭軒が茶山を連れて不忍池(しのばずのいけ)へ往つて馳走をしたのも、此頃の事であらう。茶山の集に「都梁觴余蓮池」として一絶がある。「庭梅未落正辞家。半歳東都天一涯。此日秋風故人酒。小西湖上看荷花。」わたくしは転句に注目する。蓮は今少し早くも看られようが、秋風(しうふう)の字を下したのを見れば、七月であつただらう。又故人と云ふのを見れば、文化元年が茶山蘭軒の始て交つた年でないことが明である。
 蘭軒と□斎とは又今一人誰やらを誘(いざな)つて、不忍池へ往つて一日書を校し、画工に命じて画をかゝせ、茶山に題詩を求めた。集に「卿雲都梁及某、読書蓮池終日、命工作図、需余題詩」として一絶がある。「東山佳麗冠江都。最是芙蓉花拆初。誰信旗亭糸肉裏。三人聚首校生書。」結句は伊狩(いしう)二家の本領を道破し得て妙である。
 八月十六日に茶山は蘭軒を真砂町附近の家に訪うた。わたくしは此会合を説くに先(さきだ)つて一事の記すべきものがある。饗庭篁村(あへばくわうそん)さんは此稿の片端より公にせられるのを見て、わたくしに茶山の簡牘(かんどく)二十一通を貸してくれた。大半は蘭軒に与へたもので、中には第三者に与へて意を蘭軒に致さしめたものもある。第三者は其全文若くは截り取つた一節を蘭軒に寄示したのである。要するに簡牘は皆分家伊沢より出でたもので、彼の太華の手から思軒の手にわたつた一通も亦此コレクシヨンの片割であつただらう。今八月十六日の会合を説くには此簡牘の一通を引く必要がある。
 茶山の書は次年八月十三日に裁したもので、此に由つて此文化紀元八月中旬の四日間の連続した事実を知ることが出来る。其文はかうである。「今日は八月十三日也、去年今夜長屋へ鵜川携具来飲、明日平井黒沢来訪、十五日舟遊、十六日黄昏貴家へ参、備前人同道、夫より茗橋々下茶店にて待月、却而逢雨てかへり候」と云ふのである。鵜川名は某、字(あざな)は子醇(しじゆん)、その人となりを詳(つまびらか)にせぬが、十三日の夜酒肴を齎して茶山を小川町の阿部邸に訪うたと見える。平井は澹所(たんしよ)、黒沢は雪堂であらう。澹所は釧雲泉(くしろうんせん)と同庚(どうかう)で四十六歳、雪堂は一つ上の四十七歳、並に皆昌平黌の出身である。雪堂は猶校に留まつて番員長を勤めてゐた筈である。
 さて十六日の黄昏(たそがれ)に茶山は蘭軒の家に来た。二人が第三者を交へずに、差向で語つたことは、此より前にもあつたか知らぬが、ダアトの明白なのは是日である。初めわたくしは、六七年前に伊沢氏に来て舎(やど)つた山陽の事も、定めて此日の話頭に上つただらうと推測した。そして広島杉木小路(すぎのきこうぢ)の父の家に謹慎させられてゐた山陽は、此夕(ゆふべ)嚔(くさめ)を幾つかしただらうとさへ思つた。しかしわたくしは後に茶山の柬牘(かんどく)を読むこと漸く多きに至つて、その必ずしもさうでなかつたことを暁(さと)つた。後に伊沢信平さんの所蔵の書牘を見ると、茶山は神辺(かんなべ)に来り寓してゐる頼久太郎(ひさたらう)の事を蘭軒に報ずるに、恰も蘭軒未知の人を紹介するが如くである。或は想ふに、蘭軒は当時猶山陽を視て春水不肖の子となし、歯牙にだに上(のぼ)さずに罷(や)んだのではなからうか。

     その二十七

 蘭軒の家では、文化紀元八月十六日の晩に茶山がおとづれた時、蘭軒の父隆升軒信階(りゆうしようけんのぶしな)が猶(なほ)健(すこやか)であつたから、定て客と語を交へたことであらう。蘭軒の妻益は臨月の腹を抱へてゐたから、出でゝ客を拝したかどうだかわからない。或は座敷のなるべく暗い隅の方へゐざりでて、打側(うちそば)みて会釈したかも知れない。益は時に年二十二であつた。
 蘭軒は茶山を伴つて家を出た。そしてお茶の水に往つて月を看た。そこへ臼田才佐(うすださいさ)と云ふものが来掛かつたので、それをも誘(いざな)つて、三人で茶店(ちやてん)に入つて酒を命じた。三人が夜半(よなか)まで月を看てゐると、雨が降り出した。それから各(おの/\)別れて家に還つた。
 蘭軒はかう書いてゐる。「中秋後一夕、陪茶山先生、歩月茗渓、途値臼田才佐、遂同到礫川、賞咏至夜半」と云ふのである。
 臼田才佐は茶山書牘(しよどく)中の備前人である。備前人で臼田氏だとすると、畏斎(ゐさい)の子孫ではなからうか。当時畏斎が歿した百十五年の後であつた。茶店の在る所を、茶山は茗橋(めいけう)々下と書し、蘭軒は礫川(れきせん)と書してゐる。今はつきりどの辺だとも考へ定め難い。
 蘭軒の集に此夕(ゆふべ)の七律二首がある。初の作はお茶の水で月を看たことを言ひ、後の作は茶店で酒を飲んだことを言ふ。彼の七八に「手掃蒼苔踞石上、松陰徐下棹郎歌」と云つてある。当時のお茶の水には多少の野趣があつたらしい。此(これ)の頷聯(がんれん)に「旗亭敲戸携樽至、茶店臨川移榻来」と云つてある。料理屋で酒肴を買ひ調へて、川端の茶店に持つて往つて飲んだのではなからうか。
 蘭軒が茶山とお茶の水で月を看た後九日にして、八月二十五日に蘭軒の嫡子榛軒(しんけん)が生れた。小字(をさなゝ)は棠助(たうすけ)である。後良安、一安、長安と改めた。名は信厚(しんこう)、字(あざな)は朴甫(ぼくほ)となつた。
 分家伊沢の伝ふる所に従へば、榛軒は厚朴(こうぼく)を愛したので、名字号皆義を此木に取つたのだと云ふ。厚朴の木を榛と云ふことは本草別録に見え、又急就篇(きふしゆへん)顔師古(がんしこ)の註にもある。又門人の記する所に、「植厚朴、参川口善光寺、途看于花戸、其翌日持来植之」とも云つてある。しかしわたくしの考ふる所を以てすれば、蘭軒は子に名づくるに厚(こう)を以てし重(ちよう)を以てした。これは初め必ずしも木の名ではなかつたであらう。紀異録に「既懐厚朴之才、宜典従容之職」と云つてある。名字は或は此より出でたのではなからうか。さて木名に厚朴があるので、此木は愛木となり、又榛軒の号も出来たかも知れない。厚朴は植学名マグノリア和名ほほの木又ほほがしはで、その白い大輪の花は固より美しい。榛軒は父蘭軒が二十八歳、母飯田氏益が二十二歳の時の子である。
 茶山は其後九月中江戸にゐて、十月十三日に帰途に上つた。帰るに先(さきだ)つて諸家に招かれた中に古賀精里の新に賜つた屋敷へ、富士を見に往つたなどが、最も記念すべき佳会であつただらう。精里の此邸宅は今の麹町富士見町で、陸軍軍医学校のある処である。地名かへる原を取つて、精里は其楼を復原(ふくげん)と名づけた。茶山は江戸にゐた間、梅雨を中に挾んで、曇勝な日にのみ逢つてゐたので、此日に始て富士の全景を看た。「博士新賜宅。起楼向※[#「厂+垂」、7巻-54-上-6]※[#「厂+義」、7巻-54-上-6]。亦恨落成後。未逢雲雨披。忽爾飛折簡。置酒招朋儕。新晴無繊翳。秋空浄瑠璃。芙蓉立其中。勢欲入座来。(中略。)我留過半載。此観得已稀。」茶山の喜想ふべきである。
 十月十三日に茶山は阿部正精(まさきよ)に扈随(こずゐ)して江戸を発した。「朝従熊軾発城東。海旭添輝儀仗雄。十月牢晴春意早。懸知封管待和風。」これが「晨出都邸」の絶句である。十一月五日に備中国の境に入つて、「入境」の作がある。此篇と前後相呼応してゐる。「熊車露冕入郊関。児女扶携挾路看。兵衛一行千騎粛。和風満地万人歓。」

     その二十八

 文化二年には蘭軒の集に「乙丑元日」の七律がある。両聯は措いて問はない。起二句に「素琴黄巻未全貧、朝掃小斎迎早春」と云つてある。未だ全く貧ならずは正直な告白で、とにもかくにも平穏な新年を迎へ得たものと見られる。結二句には二十九歳になつた蘭軒が自己の齢(よはひ)を点出してゐる。「歓笑優遊期百歳、先過二十九年身」と云ふのである。
 七月十五日に蘭軒は木村文河(ぶんか)と倶に、お茶の水から舟に乗つて、小石川を溯つた。此等の河流も今の如きどぶでは無かつただらう。三絶句の一に、「墨水納涼人□有、礫川吾輩独能来」と云つてある。墨水の俗を避け、礫川(れきせん)の雅に就いたのである。
 茶山の事は蘭軒の懐に往来してゐたと見えて、「秋日寄懐菅先生」の七律がある。「去年深秋君未回。賞遊吾毎侍含杯。菅公祠畔随行野。羅漢寺中共上台。飛雁遙書雖易達。畳雲愁思奈難開。機中錦字若無惜。幸織満村黄葉来。」蘭軒は前年茶山の江戸にゐた間、始終附いて歩いて少酌の相手をしたと見える。詩は題して置かなかつたが、亀井戸の天満宮に詣でた。本所の五百羅漢をも訪うたのである。結では黄葉夕陽村舎の主人(あるじ)に手紙の催促がしてある。
 然るに蘭軒の催促するを須(ま)たず、茶山は丁度此頃手紙を書いた。即ち八月十三日の書で、前に引いた所のものが是である。「私も秋へなり、蠢々(しゆん/\)とうごき出候而状ども認候、御内上(おんうちうへ)様、おさよどのへ宜奉願上候、(中略)江戸は今年気候不順に御坐候よし、御病気いかゞ御案じ申候。」此に前年を追懐した数句があつて、末にかう云つてある。「今年(こんねん)は水辺(すゐへん)へ出可申心がけ候処、昨日より荊妻手足痛(てあしいたみ)(病気でなければよいと申候)小児菅(くわん)三狂出候而(くるひいでそろて)どこへもゆかれぬ様子也、うき世は困りたる物也、前書委(くはしく)候へば略し候、以上。」
 茶山がコムプリマンを託した御内上様が飯田氏益であることは明である。「おさよどの」の事は注目に値する。二十余通の茶山の書に一としておさよどのに宜しくを忘れたのは無い。後年の書には「おさよどのに申候、(中略)御すこやかに御せわなさるべく候」とも云つてある。
 さよは蘭軒の側室である。分家伊沢の家乗には、蘭軒に庶出の子女のあつたことが載せてあるのみで、側室の誰なるかは記して無い。只先霊名録の蘭軒庶子女(ぢよ)の下に母佐藤氏と註してあるだけである。武蔵国葛飾郡小松川村の医師佐藤氏の女が既に狩谷□斎の生父に嫁し、後又同家の女が蘭軒の二子柏軒の妾(せふ)となる。此蘭軒の妾も亦同じ家から出たのではなからうか。其名のさよをば、わたくしは茶山の簡牘(かんどく)中より始て見出した。要するに側室は佐藤氏さよと云つたのである。
 既に云つた如くに、茶山の蘭軒との交(まじはり)は、前年文化紀元よりは古さうであるが、さよを識つてゐたことも亦頗る古さうである。想ふに早く足疾ある蘭軒は介抱人がなくてはかなはなかつたのであらう。此年の如きも詩集に一病字をだに留めぬのに、茶山は病気みまひを言つてゐる。上(かみ)に引いた文の前に、猶「春以来御入湯いかゞ」の句もある。後年の自記に、阿部家に願つて、「湯島天神下薬湯(やくたう)へ三廻(めぐり)罷越(まかりこす)」と云ふことが度々ある。此入湯の習慣さへ既に此時よりあつたものと見える。介抱人がなくてはならなかつた所以(ゆゑん)であらう。
 書中の手足痛(しゆそくつう)に悩む「荊妻」は、茶山の継室門田(もんでん)氏、菅三は仲弟猶右衛門の子要助の子三郎維繩(ゐじよう)で、茶山の養嗣子である。

     その二十九

 此年文化二年十月二十四日に、蘭軒は孝経一部を手写した。二子常三郎の生れたのは此日である。孝経の末(すゑ)に下(しも)の文がある。「文化乙丑小春廿四日、据毛本鈔矣、斯日巳刻児生、其外祖父飯田翁(自註、名信方、字休庵)与名曰常三郎、恬。」常三郎は後父に先(さきだ)つこと四十五日にして早世する、不幸なる子である。
 頼家に於て山陽が謹慎を免され、門外に出ることゝなつたのは、此年五月九日である。
 此年蘭軒は二十九歳、妻益は二十三歳であつた。蘭軒の二親(ふたおや)六十二歳の信階、五十六歳の曾能(その)も猶倶に生存してゐたのである。
 文化三年は蘭軒が長崎へ往つた年である。蘭軒が能く此旅を思ひ立つたのを見れば、当時足疾は猶軽微であつたものと察せられる。※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-56-下-13]詩集に往路の作六十三首を載せてゐる外、集中に併せ収めてある「客崎詩稿」の詩三十六首がある。又別に「長崎紀行、伊沢信恬撰」と題した自筆本一巻がある。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:1078 KB

担当:undef