伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 しかし果して此(かく)の如しとすると、「十九年が間そばにをり候」とは云はれぬ筈である。かく云ふには天保三年壬辰より算せざることを得ない。且所謂(いはゆる)「此年」は即ち前の「去年壬辰」を斥(さ)して云つたもので、秋水が書を出し示した四年癸巳より見れば去年も此年も均(ひと)しく一年前でなくてはならない。何故と云ふに、里恵の書には単に「閏月廿五日」としてあるが、天保四年癸巳には閏月は無く、閏月のあるは只三年壬辰の十一月のみだからである。
 里恵の墓は松陰が其文を撰んだが、但「頼山陽先生入京、娶為継室」と書して、婚嫁の年を言はない。山陽自家の詩文を検するに、只文政三年庚辰の詩引に「余娶婦、未幾丁艱」と云つてあるのみである。「丁艱」とは文化十三年二月十九日に父春水を喪つたことを斥す語である。未幾(いまだいくばくならず)は一年とも見られ、二年とも見られる。此故にわたくしは里恵の云ふ所を以て拠るべしとする。
 此年蘭軒は三十八歳であつた。「歳晩偶成」の七律が「歳華卅八属駒馳、筆硯仍慚立策遅」を以て起してある。此語を味へば初より著述はせぬと意を決してゐたのではないかも知れない。妻益は三十二歳、榛軒十一歳、柏軒五歳、長(ちやう)一歳であつた。
 文化十二年の元旦には、茶山が猶江戸に留まつてゐたので、蘭軒茶山二人の集に江戸の新年の作が並び存してゐる。
 蘭軒の七絶二首の中、其一を此に録する。「夏葛冬裘君寵光。痴夫身計不知忙。更将長物誇人道。梅有新香書古香。」先づ梅花と共に念頭に浮ぶものは、旧に依つて儲書(ちよしよ)の富である。茶山の七律は頷聯に「蒲柳幸将齢七十、枌楡猶且路三千」と云ひ、七八に「自笑樵夫寓朱邸、謾班群彦拝新年」と云つてある。
 蘭軒は元旦の詩に梅と書とを点出した。わたくしは其梅の詩を今一つ写し出して置きたい。それは前年の暮に新井白石の容奇(ゆき)の詩に倣つて作つたものである。「詠梅、傚白石容奇詩体。陽春自入難波調。已与桜花兄弟分。枝古瑤箏絃上曲。色濃□管巻中文。嬌娘拒詔安禽宿。壮士飛英立戦勲。尤美菅公遺愛樹。追随千里護芳芬。」
 自註は煩を憚つて省く。一は王仁(わに)、四は紫式部、五は紀内侍、六は梶原影季、七八は菅原道真である。

     その七十四

 此春、文化十二年の春となつてから、菅茶山が初て蘭軒を訪うたのは、伊沢家に於て例として客を会する豆日草堂集(とうじつさうだうしふ)の日であつたらしい。「豆日草堂集、茶山先生来、服栗陰長嘯絶妙、前聯及之。野鶯呼客到茅堂。忽使病夫起臥牀。錦里先生詩調逸。蘇門高士嘯声揚。一窓麗日疎梅影。半嶺流霞過雁行。自愧畦蔬村酒薄。難酬満室友情芳。」
 錦里先生は茶山を斥(さ)し、蘇門の高士は栗陰(りついん)を斥したのである。服は服部だとして、服部栗陰の何人なるかは未だ考へない。蘇門服天遊に嘯翁(せうをう)の号があり、嘯台余響、嘯台遺響の著述さへあつたから、善嘯の栗陰を以てこれに擬したのであらう。天遊は明和六年に歿した人である。扨栗陰とは誰か。栗斎服保(りつさいふくはう)は号に栗字があるが、寛政十二年に歿してゐる。蘭軒の門人に服部良醇がゐるが、此客ではなからう。
 二月六日に茶山は又招かれて蘭軒の家に来た。「二月六日菅茶山、大田南畝、久保筑水、狩谷□斎、石田梧堂集於草堂、時河原林春塘携酒。簷外鵲飛報喜声。恰迎佳客値新晴。林風稍定衣裳暖。泥路初晞杖□軽。席上珍多詩好句。尊中酒満友芳情。酔来春昼猶無永。夕月到窓梅影横。」
 茶山の相伴として招かれた客の中で南畝、□斎、梧堂の三人は既出の人物である。そして南畝が蘭軒の家に来たことは、始て此に記載せられてゐる。
 新に出た人物は筑水と春塘とである。久保愛、字(あざな)は君節(くんせつ)、筑水と号した。通称は荘左衛門であつた。荀子増註の序、標注准南子(ゑなんし)の序等の自署に拠るに、信濃の人で、一説に安藝の人だとするは疑はしい。天保六年閏(じゆん)七月十三日に歿したとすると、此時五十七歳であつた筈である。序(ついで)に云ふ。青柳東里(あをやぎとうり)の続諸家人物誌には村卜総(そんぼくそう)の次に此人を載せてゐながら、目次に脱逸してゐる。河原林(かはらばやし)春塘は未だ考へない。
 茶山は此月の中に帰途に上つた。行状に「十二年乙亥在東邸、増俸十口、二月帰国」と書してある。「簡合春川」の詩に「漸迫帰程発□期、江城梅落鳥鳴時」と云ひ、「留別真野先生」の詩に「帰期已及百花辰、恨負都門行楽春」と云つてある。「釣伯園集」は茶山のために設けた別宴であらう。其詩には「名墅清遊二月春、島声花影午晴新」と云つてある。わたくしは只茶山の江戸を去つた時の二月なるを知つて、何日なるを知らない。「真野先生」は或は真野冬旭(まのとうきよく)か。
 茶山の此旅には少くも同行者の紀行があつた筈である。一行の中には豊後の甲原(かふはら)玄寿があり、讚岐の臼杵(うすき)直卿があつた。玄寿、名は義、漁荘と号した。杵築(きつき)吉広村の医玄易の子である。直卿、名は古愚、通称は唯助、黙庵と号した。後牧氏に更(あらた)めた。此甲原臼杵二氏の外に、又伊勢の河崎良佐があつた。所謂(いはゆる)「驥※[#「亡/虫」、7巻-153-上-10]日記」を著した人である。後に茶山がこれに序した。大意はかうである。河崎は自ら※(ばう)[#「亡/虫」、7巻-153-上-12]に比して、我を驥にした。敢て当らぬが、主客の辞となして視れば差支なからう。しかし河崎がためには此路は熟路である。我は既に曾遊の跡を忘れてゐる。「則其尋名勝、訪故迹、問奇石、看異木、唯良佐之尾是視、則良佐固驥、而余之為※[#「亡/虫」、7巻-153-下-1]也再矣」と云ふのである。此記にして有らば、茶山の江戸を発した日を知ることが出来よう。わたくしは未だ其書を見るに及ばない。
 茶山が江戸にある間、諸侯の宴を張つて饗したものが多かつた中に、白川楽翁公は酒間梅を折つて賜はつた。茶山は阿部邸に帰つた後、□駝師(たくだし)をして盆梅に接木せしめた。枝は幸にして生きた。茶山は纔(わづか)に生きた接木の、途次に傷(やぶ)られむことを恐れて、此盆栽の梅を石田梧堂に託した。梧堂は後三年にして文政紀元に、茶山が京都に客たる時、小野梅舎をして梅を茶山に還さしめた。茶山は下の如く記してゐる。「歳乙亥、余※[#「禾+砥のつくり」、7巻-153-下-12]役江戸邸、一日趨白川老公招飲、酒間公手親折梅一枝、又作和歌并以賜余、余捧持而退、置于几上、翌日隣舎郎来云、賢侯之賜、宜接換移栽故園、不容徒委萎※[#「くさかんむり/爾」、7巻-153-下-15]、余従其言、及帰留托友人石子道、以佗日郵致、越戊寅春、余在京、会備中人小野梅舎至自江戸、訪余僑居、携一盆卉、視之乃曩所留者也、余驚且喜、梅舎与余、無半面之識、而千里帯来、其意一何厚也、既帰欲遺一物以表謝意、至今未果、頃友人泉蔵来話及其事、意似譴魯皐、因先賦此詩。以充乗韋、附泉蔵往之。穉梅知是帯栄光。特地駄来千里強。縦使盆栽難耐久。斯情百歳鎮芬芳。」当時の白川侯は松平越中守定永であつたので、楽翁公定信を老公と書してある。泉蔵は備中国長尾村の人小野櫟翁(れきをう)の弟である。

     その七十五

 蘭軒には「送茶山菅先生還神辺」の七絶五首がある。此に其三を録する。「其一。新誌編成三十多。収毫帰去旧山阿。賢侯恩遇尤優渥。放使烟霞養老痾。其二。西遊昔日過君園。翠柳蔭池山映軒。佳境十年猶在目。方知帰計値春繁。其三。詞壇赤幟鎮山陽。藝頼已降筑亀惶。□騎一千時満巷。門徒七十日升堂。」第三の藝頼(げいらい)は安藝の頼春水、筑亀(ちくき)は筑前の亀井南溟である。此一首は頗る大家の気象に乏しく、蘭軒はその好む所に阿(おもね)つて、語に分寸あること能はざるに至つたと見える。わたくしがことさらに此詩を取るのは、蘭軒の菅に太(はなは)だ親しく頼に稍疎(うと)かつたことを知るべき資料たるが故である。
 蘭軒は又茶山に花瓶(くわへい)を贈つた。前詩の次に「同前贈一花瓶」として一絶がある。「天涯別後奈相思。駅使梅花有謝期。今日贈君小瓶子。插芳幾歳侍吟帷。」
 蘭軒は既に茶山を送るに詩を以てして足らず、恵(けい)は更に其同行者にも及んだ。「送臼杵直卿甲原元寿従菅先生帰。追師負笈促帰行。不遠山河千里程。幾歳琢磨一※[#「隻+隻」、7巻-154-下-13]璞。底為照乗底連城。」
 茶山は文化十二年二月某日昧爽に、小川町の阿部第(てい)を発した。友人等は送つて品川の料理店に至つて別を告げた。茶山の留別の詞に「長相思二□がある。「風軽軽。雨軽軽。雨歇風恬鳥乱鳴。此朝発武城。人含情。我含情。再会何年笑相迎。撫躬更自驚。」これが其一である。
 東海道中の諸作は具(つぶさ)に集に載せてある。河崎良佐は始終轎(かご)を並べて行つた。二人が袂を分つたのは四日市である。「一発東都幾日程。与君毎並竹輿行。」驥※(きばう)[#「亡/虫」、7巻-155-上-6]日記は恐くは品川より四日市に至る間の事を叙したものであらう。
 東海道を行つた間、月日を詳(つまびらか)にすべきものは、先づ三月二日に竜華寺(りうげじ)の対岸を過ぎたことである。「岡本醒廬勧余過竜華寺曰。風景為東海道第一。三月二日過其対岸。而風雨晦冥。遂不果遊。」
 三日には大井川を渡り、佐夜の中山を過ぎ、菊川で良佐と小酌した。集に「上巳渉大猪水作、懐伊勢藤子文」の長古がある。「帰程忽及大猪水、水阻始通灘猶駛、渉夫出没如鳧□、須臾出険免万死」の初四句は、当時渉河(せふか)の光景を写し出して、広重の図巻を展(の)ぶるが如くである。末解(まつかい)はかうである。「吾願造觴大如舟。盛以鵞黄泛前頭。乗此酔中絶洋海。直到李九門前流。」佐藤子文は伊勢国五十鈴川の上(ほとり)に住んでゐた。遠江国とは海を隔てて相対してゐたので、此の如く著想したのである。
 良佐は茶山への附合に、舟を同じうして佐屋川に棹(さをさ)した。「数派春流一短篷。喜君迂路此相同。」上(かみ)に云つたとほり、訣別したのは四日市である。
 茶山は大坂に著いて蘭軒に書を寄せた。其書は今伝はつてゐない。只添へてあつた片紙が饗庭篁村(あへばくわうそん)さんの蔵儲中に遺つてゐる。
「三月三日道中にて。けふといへば心にうかぶすみだ川わがおもふ人やながすさかづき。大井川をわたりて。大井川ながるゝ花を盃とみなしてわたるけふにもあるかな。このたびは花見てこえぬこれも又いのちなりけりさやの中山。池田の宿にてゆやが事をおもひ出しとき江戸の人に文つかはすことありしそのはしに。古塚をもる人あらばまつち山まつらむ友にわかれはてめや。さく花をなどよそに見むわれもはた今をさかりとおもふ身ならば。かかる事どもいうてかへり候。此次(ついで)におもひ出候。浜臣(はまおみ)のうた卿雲に約し候。おそきつぐのひにたんともらひたく候。御取もち可被下候。」
 茶山は清水浜臣に歌を書いて貰ふことを、狩谷□斎に頼んで置いた。□斎が久しく約を果さぬから、怠状の代には多く書かせて貰ひたいと云ふのである。浜臣は此年四十歳であつた。

     その七十六

 菅茶山は京都で嵐山の花を看、雨中に高瀬川を下つた。大坂では篠崎小竹、中井履軒を訪うた。就中(なかんづく)「訪履軒先生、既辞賦此」の五古は、茶山と履軒との平生の交を徴するに足るものである。「毎過浪華府。無不酔君堂。此度君在蓐。亦能共伝觴。(中略。)我齢垂古稀。君則八旬強。明日復修程。後期信茫茫。」履軒は当時八十歳、兄竹山を喪つてから十一年を経てゐた。茶山は六十八歳であつた。
 茶山は神辺(かんなべ)に還つた後、「帰後入城途上」の作がある。「官駅三十五日程。鶯花随処逐春晴。今朝微雨家林路。筍※[#「竹かんむり/擧」、7巻-156-下-8]徐穿暗緑行。」頃は三月の末か四月の初であつただらう。
 蘭軒は夏の初に長崎の劉夢沢(りうむたく)がために、其母の六十を寿する詩を作つた。「時節南薫好、開筵鶴浦干」云々の五律である。夢沢、名は大基、字(あざな)は君美(くんび)、既出の人物である。長崎通司にして劉姓なるものには、猶田能村竹田の文政九年に弔した劉梅泉と云ふものがある。「時梅泉歿後経数歳、有母仍在」と記してある。わたくしは母を寿した夢沢と母に先だつて死んだ梅泉とを較べて思つて見た。わたくしは此等の諸劉の上を知らむことを願つてゐる。長崎舌人(ぜつじん)の事跡に精(くわ)しい人の教を得たい。
 此年文化十二年五月に入つて、伊沢分家には又移居の事が起つた。これは蘭軒一族の存活上に、頗る重大なる意義があつたらしい。
 勤向覚書にかう云つてある。「文化十二年乙亥五月七日、私儀是迄外宅仕罷在候所、去六月中より疝積、其上足痛相煩、引込罷在、種々療治仕候得共、兎角聢と不仕、兼而難渋之上、久々不相勝、別而物入多に而、此上取続無覚束奉存候間、何卒御長屋拝借仕度奉存候得共、病気引込中奉願上候も奉恐入候、依而仲間共一統奉顧上候所、願之通被仰付候。」移転は町住ひを去つて屋敷住ひに就くのである。阿部家に請うて本郷丸山の中屋敷内に邸宅を賜ることになつたのである。按ずるに願書に謂ふところの難渋は、必ずしも字の如くに読むべきではあるまい。しかし当時伊沢分家が家政整理を行つたものと見たならば、過誤なきに庶幾(ちか)からう。
 覚書には次で下(しも)の三条の記事が載せてある。「同月廿一日。丸山御屋敷に而御長屋拝借被仰付候」と云ふのが其一である。「六月十六日、拝借御長屋附之品々、御払直段に而頂戴仕度段奉願上候所、同月十九日願之通被仰付候」と云ふのが其二である。又七月の記事中に、「同月廿二日、丸山御屋敷拝借御長屋え今日引移申候段御達申上候」と云ふのが其三である。
 蘭軒の一家は七月二十二日に、本郷真砂町桜木天神附近の住ひから、本郷丸山阿部家中屋敷の住ひに徙(うつ)つた。
 旧宅は人に売つたのである。「売家。天下猶非一人有。売過何惜小園林。担頭挑得図書去。此是凡夫執著心。」蘭軒のわたましが主に書籍のわたましであつたことは想像するに余がある。「同前呈後主人。構得軒窓雖不優。却宜酔月詠花遊。竟来貧至兌銭去。在後主人莫効尤。」わたくしは此首に於て蘭軒の善謔を見る。偶(たま/\)来つて蘭軒の故宅を買ふものが、争(いか)でか蘭軒の徳風に式(のつと)ることを得よう。

     その七十七

「君恩優渥満家財。況賜新居爽※[#「土へん+豈」、7巻-158-上-7]開。公宴不陪朝不坐。沈痾却作偸間媒。」これは蘭軒が「移居於丸山邸中」の詩である。所謂(いはゆる)丸山邸は即ち今の本郷西片町十番地の阿部邸である。蘭軒の一家は一たび此に移されてより、文久二年三月に至るまで此邸内に居つた。
「公宴不陪朝不坐」の句は大いに意義がある。阿部侯が宴を設けて群臣を召しても、独り蘭軒は趨(おもむ)くことを要せなかつた。わたくしはこれを読んでビスマルクの事を憶ひ起す。渠(かれ)は一切の燕席に列せざることを得た。わたくしは彼国に居つたが、いかなる公会に□(のぞ)んでも、鉄血宰相の面(おもて)を見ることを得なかつた。これを見むと欲すれば、議院に往くより外無かつたのである。渠は此の如くにして□理(せふり)の任を全うした。蘭軒は同一の自由を允(ゆる)されてゐて、此に由つて校讐の業に専(もつぱら)にした。人は或は此言(こと)を聞いて、比擬(ひぎ)の当らざるを嗤(わら)ふであらう。しかし新邦の興隆を謀(はか)るのも人間の一事業である。古典の保存を謀るのも亦人間の一事業である。ホオヘンツオルレルン家の名相に同情するも、阿部家の躄儒(へきじゆ)に同情するも、固よりわたくしの自由である。
「朝不坐」も亦阿部侯の蘭軒に与へた特典である。初め蘭軒は病後に館に上つた時、玄関から匍匐して進んだ。既にして輦(てぐるま)に乗ることを許された。後には蘭軒の轎(かご)が玄関に到ると、侍数人が轎の前に集り、円い座布団の上に胡坐(こざ)してゐる蘭軒を、布団籠(ふとんごめ)に手舁(てがき)にして君前に進み、そこに安置した。此の如くにして蘭軒は或は侯の病を診し、或は侯のために書を講じた。蘭軒は平生より褌(こん)を著くることを嫌つた。そして久しく侯の前にあつて、時に衣の鬆開(そうかい)したのを暁(さと)らずにゐた。侯は特に一種の蔽膝(へいしつ)を裁せしめて与へたさうである。座布団と蔽膝との事は曾能子(そのこ)刀自の語る所に従つて記す。
 蘭軒は阿部邸に徙(うつ)るために、長屋を借ることを願つた。しかし阿部家では所謂(いはゆる)石取(こくどり)の臣を真の長屋には居かなかつた。此年に伊沢氏の移つた家も儼乎たる一構(かまへ)をなしてゐたらしい。伊沢分家の人々は後に文久中に至るまで住んだ家が即ち当時の家だと云つてゐるが、勤向覚書を閲(けみ)するに、文化十四年に蘭軒は同邸内の他の家に移つた。高木氏の故宅と云ふのがそれである。今分家に平面図を蔵してゐる家屋は、恐くは彼高木氏の故宅であらう。平面図の事は猶後に記さうとおもふ。兎に角丸山邸内に於ける初の居所は、二年後に徙(うつ)つた後の居所に比すれば、幾分か狭隘であつたのだらう。蘭軒の高木氏の故宅に移つたのは、特に請うて移つたのである。
 菅茶山は此年文化十二年二月に江戸を発して、三月の末若くは四月の初に神辺に帰つた。途中で大坂から蘭軒に書を寄せたが、其書は佚亡してしまつて、只大井川其他の歌を記した紙片が遺つてゐる。次で茶山は秋の半に至るまで消息を絶つてゐた。
 大坂より送つた書には、江戸を発して伊勢に抵(いた)るまでの旅況が細叙してあつた筈である。茶山は秋に□(いた)つて又筆を把つた時、最早伊勢より備後に至る間の旅況を叙することの煩はしきに堪へなかつた。そこで旅物語を廃めてしまつた。此間の事情は八月二日に茶山の蘭軒に与へた書に就いて悉(つく)すことが出来る。これも亦饗庭篁村(あへばくわうそん)さんの所蔵である。

     その七十八

 茶山が此年文化十二年秋の半に蘭軒に与へた書はかうである。
「大坂より一書いせ迄のひざくりげ申上候。相達可申候。其後御病気いかが、入湯いかが、御案じ申候。物かくに御難義ならば、卿雲見え候節代筆御たのみ御容子御申こし可被下候。小山にてもよし。扨帰後早速に何か可申上候処、私も病気こゝかしこあしくなり、漸(やうやく)此比把筆出来候仕合、延引御断も無御坐候。」
「事ふり候へば道中はいせ限にてやめ可申候。帰後はをかしき咄もきかず、日々東望いたし、あはれ、江戸が備中あたりになればよいとのみ痴想いたし候。滞留中何かと御懇意は申つくしがたく、これはいはぬはいふにまさると思召可被下候。定て卿雲、市野、古庵様、服部、小山、市川あたり、日日聚話(しうわ)可有之、御羨敷奉存候。」
「扨私宅に志摩人北条譲四郎と申もの留守をたのみおき候。此人よくよみ候故、私女姪(ぢよてつ)二十六七になり候寡婦御坐候にめあはせ、菅(くわん)三と申姪孫(てつそん)生長迄の中継にいたし候積、姑(しばらく)思案仕候。」
「私は歯痛今以不□(いえず)、豆腐ばかりくひ申候。酒は少々いけ候へども、老境御垂憐可被下候。姉御様も御障なく御勤被成候覧。御餞(おんはなむけ)之御礼つど/\御申可被下候。金柚(きんいう)は時々□合(いんがふ)(此七字不明)一興をそへ申候。此よしも御申つたへ可被下候。何ぞさし上申度候へ共なし。豊が絵御入用候はばまたさし上可申と御伝可被下候。豊は尾道女画史(ぢよぐわし)也。花生(はないけ)は日々坐右におき、いまに草花たえずいけ申候。活花は袁中郎(ゑんちゆうらう)が瓶史(へいし)により候。御一笑可被下候。これよりも又備前やき陶尊(たうそん)一つ進申候。これまた案左(あんさ)にて御插可被下候。山陽近邦何のかはり候事もなく候。ことしも豊年と見え候。」
「扨去年の月はすみだ川、ことしの花はあらし山、無此上候。此秋はいかがいたし可申哉。独酌むしを聞候外いたしかたなく候。御憐察可被下候。花生は舟にて廻し候へば遅かるべし。帰路詩歌少し御坐候へ共、どうもえうつさせ不申候。いつにてもさし上可申候。先書状延引御断旁(かた/″\)早々申上残候。恐惶謹言。八月二日。菅太中晋帥(くわんたいちゆうしんすゐ)。伊沢辞安様。」
「令郎(れいらう)様追々御生立(おひたち)想像仕候。たんと御叱被成まじく候。あまりはやく成就いたさぬ様に御したて可被成候。くれ/″\も吾兄御近状にても御もらし可被下候。」
「又。」
「さて御いとま乞に参候せつ御目にかかり不申今に心あしく候。辞安様追々御こゝろよく御坐候哉。せつかく御いたはりなさるべく候。まことにたいりう中はかぎりなく御せわなし下され、わすれがたくぞんじ上候。只々御目にかからず帰候こと御のこり多く御坐候。ずゐぶん御身御よう心御わづらひなさらず候へかしといのり申候。かしこ。右御おくさま。太中。」
「おさよどのへ申候。たび/\参候ていろ/\さしつかひ候御せわのだん申つくしがたく候。ずゐぶん御すこやかに御せわなさるべく候。」
「又。」
「麻布令兄御女子(によし)御両処へ宜奉願上候。」
「又。」
「古庵様、卿雲、市野、服部、小山諸君へ御会合之度に宜御申可被下候。市川は別に一書あり。」
 以上長四尺許(ばかり)の半紙の巻紙に書いた書牘(しよどく)の全文である。蠧蝕(としよく)の処が少しあるが、幸に文字を損ずること甚しきに至つてゐない。

     その七十九

 此書牘、文化乙亥の茶山の第一書に、主要なる人物として北条譲四郎の出て来たのは、恰(あたか)も庚午の書に頼久太郎の出て来たと同じである。わたくしは第一書と云ふ。これは此歳の初冬には茶山が更に第二書を蘭軒に寄せたからである。
 北条譲、字(あざな)は子譲(しじやう)又景陽、霞亭、天放等の号がある。志摩国的屋(まとや)の医師道有の子に生れた。弟立敬(りつけい)に父の業を襲(つ)がせて儒となつた。乙亥には三十六歳になつてゐた。
 茶山が前年の夏より此年の春に至るまで、江戸に旅寝をした間、北条を神辺(かんなべ)の留守居に置いたことは、黄葉夕陽村舎詩にも見えてゐる。百川楼(せんろう)に勝田鹿谷(ろくこく)の寿筵があつた。茶山は遅く往つた。すると途上で楼を出て来た男が茶山を捉へて、「お前さんは菅茶山ぢやないか、わしは亀田鵬斎(ぼうさい)だ」と云つた。二人は曾(かつ)て相見たことはないのである。鵬斎は茶山を伴つて、再び楼に登つた。茶山は留守居の北条が鵬斎を識つてゐるので、自ら鵬斎に贈る詩を賦し、鵬斎の詩をも索(もと)めて、北条に併せ送つた。「陌上憧々人馬間。瞥見知余定何縁。明鑑却勝□季野。歴相始得孟万年。拏手入筵誇奇遇。満堂属目共歓然。儒侠之名旧在耳。草卒深忻遂宿攀。吾郷有客与君善。遙知思我復思君。余将一書報斯事。空函乞君附瑤篇。」拏手(たしゆ)筵(えん)に入るの十四字、儒侠文左衛門の面目が躍如としてゐる。読んで快と呼ぶものは、独り此詩筒を得た留守居の北条のみではあるまい。
 鵬斎が茶山を通衢上(つうくじやう)に捉へて放さなかつた如く、茶山は霞亭を諸生間に抜いて縦(はな)つまいとした。「わたくし女姪二十六七になりし寡婦御坐候にめあはせ、菅三と申姪孫生長迄の中継にいたし候積」と云つてある。行状を参照すれば、「二弟曰汝□、(中略)曰晋葆、(中略)無後、汝□亦夭、有子曰万年、(中略)亦夭、有子曰惟繩、称三郎、於先生為姪孫、今嗣菅氏、(中略)又延志摩人北条譲、為廉塾都講、以妹女井上氏妻焉」と云つてある。茶山は女姪(ぢよてつ)井上氏を以て霞亭に妻(めあは)せ、徐(しづか)に菅三万年(くわんさんまんねん)の長ずるを待たうとした。即ち「中継」である。
 茶山は前(さき)に久太郎を抑止しようとした時は後住(ごぢゆう)と云ひ、今譲四郎を拘係(くけい)しようとする時は仲継と云ふ。その俗簡を作るに臨んでも、字を下すこと的確動すべからざるものがある。わたくしは其印象の鮮明にして、銭(ぜに)の新に模(ぼ)を出でたるが如くなるを見て、いまさらのやうに茶山の天成の文人であつたことを思ふのである。
 北条霞亭よりして外、茶山の此書は今一人の新人物を蘭軒に紹介してゐる。それは女である。「尾道女画史」豊(とよ)である。
 蘭軒の姉、黒田家の奥女中幾勢(きせ)は茶山に餞(はなむけ)をした。所謂(いはゆる)餞は前に引いた短簡に見えてゐる茶碗かも知れない。わたくしは此餞を云々した条(くだり)の下(しも)に、不明な七字があると云つた。此所には蠧蝕(としよく)は無い。読み難いのは茶山の艸体である。蘭軒の姉は彼餞以外に別に何物をか茶山に贈つた。茶山は帰後時々それを用(も)つて興を添へると云つてゐる。其物は「金柚」と書してある如くである。柚は橘柚(きついう)か。果して然らば疑問は本草の疑問である。兎に角茶山は此種々の贈遺に酬いむと欲した。茶山は嘗て豊が絵を幾勢に与へたことがある。そこで「御入用候はばまたさし上可申」と云ふのである。

     その八十

 菅茶山は嘗て蘭軒の姉幾勢(きせ)に尾道の女画史(ぢよぐわし)豊(とよ)が画を贈つたことがあつて、今又重て贈るべしや否やを問うてゐる。豊とは何人であらうか。
 わたくしは豊は玉蘊(ぎよくうん)の名ではないかと推測した。竹田荘師友画録にかう云つてある。「玉蘊。平田氏。尾路人。売画養其母。名聞于時。居処多種鉄蕉。扁其屋曰鳳尾蕉軒。画出於京派。専写生□毛花卉。用筆設色倶妍麗。又画人物。観関壮穆像。頗雄偉。女史阿箏語予曰。玉蘊容姿□娜。其指繊而秀。如削玉肪。其画之妙宜哉。常愛古鏡。襲蔵十数枚。茶山杏坪諸老及山陽各有題贈。」竹田は氏を書して名を書せない。しかし茶山集に「玉蘊女画史」と称してゐるのを見て、柬牘(かんどく)の尾道女画史におもひくらべ、玉蘊の平田豊なるべきを推測したのである。
 わたくしは師友画録を読んで、今一つ推測を逞しうした。それは玉蘊は或は草香孟慎(くさかまうしん)の族ではなからうかと云ふことである。竹田の記する所に拠れば、玉蘊は居る所に□して鳳尾蕉軒(ほうびせうけん)と曰つたさうである。然るに頼春水の集壬子の詩に、「春尽過尾路題草香生鳳尾蕉軒」の絶句がある。玉蘊と孟慎とは、同じく尾道の人であつて、皆鳳尾蕉軒に棲んでゐた。若し居る所が偶(たま/\)其名を同じうするのでないとすると、二人の間に縁故があるとも看られるのである。
 此段を書し畢(をは)つた後に、わたくしは林中将太郎さんの蔵する玉蘊の画幅に「平田氏之女豊」の印があることを聞いた。玉蘊の名は果して豊であつた。次でわたくしは茶山集中に「草香孟慎墓」の五律があるのを見出した。其七八に「遺編托女甥、猶足慰竜鍾」とある。女甥(ぢよせい)は豊ではなからうか。
 茶山は此書を作るに当つて、蘭軒の親族のために一々言ふ所があつた。
 先づ榛軒がためには、父蘭軒に子を教ふる法を説いてゐる。「たんと御叱被成まじく候。あまりはやく成就いたさぬ様に御したて可被成候。」至言である。茶山は十二歳の棠助(たうすけ)のためにこれを発した。
 飯田氏益(ます)に対しては、茶山は謝辞を反復して悃□(こんくわん)を尽してゐる。江戸を発する前に、まのあたり告別することを得なかつたと見える。
 側室さよに対しては、「さしつかひ候御せわ」を謝し、又「御すこやかに御せわなさるべく」と嘱してゐる。前の世話は客を□待する謂(いひ)、後の世話は善く主人を視る謂である。「さしつかひ候」は耳に疎(うと)い感がある。或は当時の語か。
「麻布令兄様御女子御両処へ宜奉願上候。」此句を見てわたくしは少く惑ふ。しかし麻布は鳥居坂の伊沢宗家を斥(さ)して言つたのであらう。令兄は信美(しんび)であらう。蘭軒の父信階(のぶしな)の養父信栄(しんえい)の実子が即ち信美である。家系上より言へば蘭軒の叔父(しゆくふ)に当る。蘭軒には姉があつて兄が無かつた筈である。わたくしは姑(しばら)く茶山が信美と其女(ぢよ)とを識つてゐたものと看る。
 以上は茶山が蘭軒の家眷宗族のために言つたのである。次に蘭軒の交る所の人々の中、茶山の筆に上つたものが六人ある。
 余語古庵(よごこあん)をば特に「古庵様」と称してある。大府の御医師として尊敬したものか。「卿雲」は狩谷□斎、「市野」は迷庵、「服部」は栗陰(りついん)[#ルビの「りついん」は底本では「りつりん」]、「小山」は吉人(きつじん)か。中にも卿雲吉人には、茶山が蘭軒に代つて書牘(しよどく)を作つて貰はうとした。独り稍不明なのは書中に所謂(いはゆる)「市川」である。
 わたくしは市川は市河であらうかと推する。寛斎若くは米庵であらうかと推する。市河を市川に作つた例は、現に刻本山陽遺稿中にもあるのである。此年寛斎は六十七歳、米庵は三十七歳であつた。

     その八十一

 菅茶山と市河寛斎父子との交は、偶(たま/\)茶山集中に父子との応酬を載せぬが、之れを菊池五山、大窪天民との交に比して、決して薄くはなかつたらしい。茶山の五山との伊勢の邂逅は、五山が自ら説いてゐる。その五山及天民との応酬は多く集に載せてある。山陽の所謂「同功一体」の三人中、茶山が独り寛斎に薄かつたものとはおもはれない。市河三陽さんの云ふを聞くに、文化元年に茶山の江戸に来た時、米庵は長崎にゐた。帰途頼春水を訪うて、山陽と初て相見た時の事である。米庵は神辺に茶山の留守を訪うた。此年文化十一年の事は市河氏の書牘(しよどく)にかう云つてある。「這次は寛斎崎に祗役して帰途茶山の留守に一泊、山陽と邂逅致申候。茶山未去、江戸に帰来して、三人一坐に歓候事、寛斎遺稿の茶山序中に見え居候。」蘭軒に至つては、既に鏑木雲潭(かぶらきうんたん)と親善であつた。多分其兄米庵をも、其父寛斎をも識つてゐたことであらう。
 老いたる茶山は神辺に住み、豆腐を下物(げぶつ)にして月下に小酌し、耳を夜叢の鳴虫に傾け、遙に江戸に於ける諸友聚談の状をおもひやりつゝ、「あはれ、江戸が備中あたりになればよい」とつぶやいた。しかし此年文化十二年八月既望の小酌は、書を裁した十四日前に予測した如き「独酌」にはならなかつた。「十五夜分得韻侵。去載方舟墨水潯。今宵開閣緑峰陰。浮生不怪浪遊迹。到処還忻同賞心。両度秋期無片翳。孤村社伴此聯吟。明年知与誰人玩。松影斜々露径深。」幸に此社伴(しやはん)の聯吟があつて、稍以て自ら慰むるに足つたであらう。
 九月には茶山の詩中に臥蓐(ぐわじよく)の語がある。しかし客至れば酒を飲んだ。「斯客斯時能臥蓐。勿笑破禁酒頻傾。」啻(たゞ)に然るのみではない。往々此の如きもの連夜であつた。「月下琴尊動至朝。十三十四一宵宵。」
 十月に入つて茶山は蘭軒の書を獲た。これは丸山に徙(うつ)つたことを報ずる書で、茶山の八月の書と行き違つたものである。十日に茶山は答書を作つた。亦饗庭篁村(あへばくわうそん)さんの蔵儲中に存してゐる。
「御手教珍敷(めづらしく)拝見仕候。御気色之事而已(のみ)案じゐ申候処、足はたたねど御気分はよく候由、先々安心仕候。円山へ御移之由、これは御安堵御事、御内室様もおさよも少々間を得られ可申と奉存候。六右衛門、古庵様など折ふし御出之由、かくべつ寂寥にもあらざめりと悦申候。高作ども御見せ、感吟仕候。売家の詩は妙甚候。拙和(せつわ)ども呈(ていし)申度候へ共、急に副し不申候。とくに一書さし出候へども、いまだ届不申候よし、元来帰国早々可申上候処、日々来客、そのうちに不快(此一字不明)になり、夏中不勝(すぐれず)、又秋冷にこまり申候而延引如此に御坐候。花瓶(くわへい)は日々坐右におき、今日は杜若(かきつばた)二りんいけゐ申候。四季ざき也。」
「市翁麦飯学者之説、歎服いたし候。麦飯にても学者あればよけれど、麦飯学者もなく候。日々生徒講釈などこまり申候。」
「伊勢之川崎良佐(りやうさ)、帰路同道、江戸へ二十度もゆき、初両三度ははやくいにたい/\とのみおもひ候。近年にては今しばらくもゐたし、住居してもよしと思候と物がたり候。私もまた参たらば、其気になり可申やと存候へ共、何さま七十に二つたらず、生来病客、いかんともすべからず候。」
「帰路之詩も少々有候へ共、人に見せおき、此便間に合不申候。あとよりさし上可申候。先便少々はさし上候やとも覚申候が、しかと不覚候。」
「狐は時々見え候や承度候。千蔵がいふきつね也。千蔵も広島に小店(こだな)をかり教授とやら申ことに候。帰後はなしとも礫(つぶて)とも不承候。源(げん)十直卿(ちよくけい)仍旧(きうにより)候。源十軽浮、時々うそをいふこと自若。直卿依旧(きうにより)候。主計(かぞへ)はとう/\矢代君へ御たのみ被下候よし、忝奉存候。八月には帰ると申こと。舟にて沖をのり、もはや柳里(りうり)(此二字又不明)へ落著と奉存候。服部子いかが。これこそもとよりしげく参らるべし。御次(おんついで)に六右衛門、古庵様などへ、一同宜奉願上候。近作二三醜悪なれども近況を申あぐるためうつさせ候。小山西遊はいかが。十月十日。菅太中晋帥(くわんたいちゆうしんすゐ)。伊沢辞安様。」
「歯痛段々おもり、今は豆腐の外いけ不申候。酒はあとがあしけれど、無聊を医し候ため時々用候。」

     その八十二

 菅茶山の乙亥八月十月の二書は、これを作つた日時が隔絶してをらぬので、文中の境遇も感情も殆ど全く変化してゐない。それゆゑ此二書には重複を免れぬ処がある。紀行の詩を云云するが如きに至つては、自ら前牘(ぜんどく)の字句をさへ踏襲してゐる。
 茶山は旧に依つて江戸を夢みてゐる。前牘に「備中あたりになればよい」と云つた江戸である。茶山は端(はし)なく、漸く江戸に馴れて移住してもよいと云ふ河崎良佐(りやうさ)と、猶江戸を畏れつゝ往反に艱(なや)む老を歎く自己とを比較して見た。そして到底奈何(いかん)ともすべからずと云ふに畢(をは)つた。
 わたくしは此に少しく河崎の事を追記したい。これは同時に茶山西帰の行程を追記したいのである。河崎に驥※(きばう)[#「亡/虫」、7巻-168-下-3]日記の著があつたことは既に言つた。しかしわたくしは未だ其書を見るに及ばなかつた。
 頃日(このごろ)わたくしは彼書を蔵するもの二人あることを聞いた。一は京都の藤井乙男(おとを)さんで、一は東京の三村清三郎さんである。そして二氏皆わたくしに借抄を允(ゆる)さうといふ好意があつて、藤井氏は家弟潤三郎に、三村氏は竹柏園主にこれを語つた。偶(たま/\)藤井氏の蔵本が先づ至つたので、わたくしは此に由つて驥※[#「亡/虫」、7巻-168-下-10]日記のいかなる書なるかを知つた。
 藤井本は半紙の写本で、序跋を併せて二十七頁(けつ)である。首には亀田鵬斎の叙と既に引いた茶山の叙とがある。末には北条霞亭と立原翠軒との題贈がある。彼は七絶二、此は七絶七である。最後の半頁は著者の嗣子松(しよう)の跋がこれを填(うづ)めてゐる。
 本文の初に「伊勢河崎敬軒先生著、友人韓□聯玉校」と署してある。河崎良佐が敬軒と号したことが知られる。又敬軒の文政二年己卯五月二十七日に歿したことは、子松の跋に見えてゐる。韓□(かんかく)は山口覚大夫、号凹巷(あふこう)で、著者校者並に伊勢の人である。
 わたくしの日記に期待した所のものは、主に茶山西帰の行程である。それゆゑ先づこれを抄出する。
「乙亥二月二十六日。雨。発東都。聞都下送者觴茶山先生於品川楼。予与竹田器甫先発。宿程谷駅。」発□(はつじん)の日は二十六日であつた。河崎竹田は祖筵に陪せずして先発した。竹田器甫(きほ)は茶山集にも見えてゐて、筑前の人である。
「廿七日。巳後先生至。江原与平及門人豊後甲原玄寿讚岐臼杵直卿従。発装及申。宿戸塚駅。」敬軒等は茶山を程谷(ほどがや)に待ち受け、此より同行した。茶山は二十六日の夜を川崎に過したのである。「云昨留于川崎駅」と書してある。江原与平は茶山の族人である。
「廿八日。放晴。鎌倉之遊得遂矣。経七里浜。至絵島。宿藤沢駅。」鎌倉行は夙約(しゆくやく)があつた。
「廿九日。宿小田原駅。」
「晦。踰函山。畑駅以西。残雪尺許。宿三島駅。」
「三月朔。好晴。宿本駅。」本駅(ほんえき)はもとじゆくか。
「二日。天陰。興津駅雨大至。比至阿陪川放晴。宿岡部駅。」
「三日。済大猪川。宿懸川駅。」
「五日。済荒井湖。宿藤川駅。」
「六日。宿熱田駅。」
「七日。極霽。至佐屋駅。下岐蘇川。宿四日市。明日将別。」
「八日。遂別。宿洞津城。」
「九日。未牌帰家。」
 以上が肉を去り骨を存した紀行である。わたくしは全篇を読んで、記すべき事二件を見出だした。一は敬軒が谷文晃に「茶山鵬斎日本橋邂逅図」を作らせ、鵬斎に詩を題せしめて持ち帰つたことである。「身是関東酔学生。公是西備茶山翁。日本橋上笑相見。共指天外芙蓉峰。都下閧伝為奇事。便入写山画図中。」一は茶山自家が日記を作つてゐたことである。「先生客中日記。名東征暦。」知らず、東征暦は猶存せりや、あらずや。

     その八十三

 蘭軒は菅茶山に告ぐるに、市野三右衛門、狩谷三右衛門、余語古庵(よごこあん)の時々来り訪ふことを以てした。茶山は蘭軒のこれによつて寂寥を免るゝを喜び、乙亥十月の書牘(しよどく)に「六右衛門、古庵様などへ一同宜」しくと云つてゐる。
 蘭軒は又茶山に迷庵三右衛門の麦飯学者の説と云ふものを伝へた。わたくしはその奈何(いか)なる説なるかを知らぬが、茶山は「歎服いたし候」と挨拶してゐる。世間に若し此説を見聞した人があるなら、わたくしは其人に垂教を乞ひたい。
 茶山の此書を読んで、わたくしは頼竹里(ちくり)が此年文化十二年に江戸より広島へ帰り、□居して徒(と)に授けたことを知る。頃日(このごろ)わたくしに無名の葉書を投じた人がある。消印の模糊たるがために、わたくしは発信者の居処をだに知ることが出来ない。葉書は単に鉛筆を用(もつ)て頼氏の略系を写し出したものである。此に竹里の直接尊卑属を挙ぐれば、「伝五郎惟宣、千蔵公遷、常太綱」であつて、諸書の載する所と何の異なる所も無い。しかし此三人の下(もと)には各(おの/\)道号が註してある。即ち惟宣(ゐせん)は融巌(ゆうがん)、公遷は竹里、綱(かう)は立斎である。思ふにわたくしに竹里の公遷たることを教へむと欲したものであらうか。惜むらくは無名氏のわたくしに捷径を示したのは、わたくしが迂路に疲れた後であつた。
 茶山の書には猶数人の名が見えてゐる。直卿は初め臼杵(うすき)氏、後牧氏、讚岐の人で、茶山の集に見えてゐる。其他軽浮にして「時々うそをいふ」源十、矢代某に世話を頼んでもらつた主計(かぞへ)、次に竹里に狐の渾名(あだな)をつけられた某である。此等源十以下の人々は皆輙(たやす)く考ふることが出来ない。
 此年十二月十九日に、蘭軒は阿部正精(まさきよ)に請ふに間職に就くことを以てし、二十五日に奥医師より表医師に遷された。「十二月十九日、私儀去六月下旬より疝積其上足痛相煩引込罷在候而、急に出勤可仕体無御坐候に付、御機嫌之程奉恐入候、依之此上之以御慈悲、御番勤御免被下、尚又保養仕度奉願候所、同月廿五日此度願之趣無拠義被思召、御表医師被仰付候。」これが勤向覚書の記する所である。
 奥医師より表医師に遷るは左遷である。阿部侯は蘭軒の請によつて已むことを得ずして裁可した。しかし蘭軒を遇することは旧に依つて渥(あつ)かつたのである。翌年元旦の詩の引に、蘭軒はかう書いてゐる。「乙亥十二月請免侍医。即聴補外医。藩人凡以病免職者。俸有減制。余特有恩命。而免減制云。」
 此年の暮るゝに至るまで、蘭軒は復(また)詩を作らなかつた。茶山には数首の作があつて、其中に古賀精里に寄する畳韻の七律三首等があり、又除夕(ぢよせき)の五古がある。「一堂蝋梅気、環坐到天明」は後者末解の二句である。
 頼氏の此年の事は、春水遺稿の干支の下に最も簡明に註せられてゐる。「乙亥元鼎夭。以孫元協代嗣。君時七十。」夭したのは春風惟疆(ゐきやう)の長子で、養はれて春水の嗣子となつてゐた権次郎元鼎新甫(げんていしんほ)である。これに代つたのは山陽が前妻御園氏に生ませた余一元協承緒(げんけふしようちよ)、号は聿庵(いつあん)である。春水は病衰の身であるが、其病は小康の状をなしてゐた。除夕五律の五六にかう云つてある。「奇薬春回早。虚名棺闔遅。」
 此年蘭軒は年三十九、妻益は三十三、榛軒は十二、常三郎は十一、柏軒は六つ、長は二つ、黒田家に仕へてゐる蘭軒の姉幾勢は四十七である。

     その八十四

 文化十三年には、蘭軒は新に賜はつた丸山の邸宅にあつて平穏な春を迎へた。表医師に転じ、復(また)宿直の順番に名を列することもなく、心やすくなつたことであらう。「丙子元日作。朝賀人声侵暁寒。病夫眠寤日三竿。常慚難報君恩渥。却是強年乞散官。」題の下に自註して躄痿(へきゐ)の事を言ひ、遷任の事を言つてゐるが、既に引いてあるから省く。
 茶山も亦同じ歳首の詩に同じ間中の趣を語つてゐる。年歯の差は殆三十年を算したのであるが、足疾のために早く老いた伊沢の感情は、将に古稀に達せむとする菅の感情と相近似することを得たのである。「元日。彩画屏前碧澗阿。新禧両歳境如何。暁趨路寝栄堪恋。夜会郷親興亦多。」江戸にあつて阿部侯に謁した前年と、神辺(かんなべ)にある今年とを較べたのである。
 尋で蘭軒に「豆日草堂集」の詩があれば、茶山に「人日同諸子賦」の詩がある。わたくしは此に蘭軒の五律の三四だけを抄する。それは千金方(きんはう)を講じたことに言及してゐるからである。「恰迎蘭薫客。倶披華表経。」
 二月十九日に広島で頼春水が歿した。年七十一である。前年の暮から悪候が退(しりぞ)いて、春水自身も此の如く急に世を辞することをば期せなかつたらしい。歳首に作つた五絶数首の中に、「春風病将痊、今年七十一、皇天又何心、馬齢開八秩」と云ふのもあつた。山陽が三十七歳の時の事である。茶山に「聞千秋訃」の作がある。「時賢相継北□塵。知己乾坤余一人。玉樹今朝又零落。此身雖在有誰親。」山陽が「読至此、廃巻累日」と云つてゐる。
 三月十三日に蘭軒は又薬湯の願を呈して、即刻三週の暇を賜はつた。文は例の如くであるから省く。病名は「疝積足痛」と称してある。丙子の三月は小であつたから、三週の賜暇は四月四日に終つた。勤向覚書を検するに、四月六日に二週の追願(おひねがひ)がしてある。此再度の賜暇は十八日に終つた。覚書には十八日より引込保養が願つてある。
 わたくしは此年の事迹を考へて、当時の吏風(りふう)が病休中の外遊を妨げなかつたことを知つた。蘭軒は三月二十四日に吉田菊潭(きくたん)の家の詩会に赴いた。「穀雨前一日、与木村駿卿、狩谷卿雲、及諸公、同集菊潭吉田医官堂、話旧」として七絶二首がある。其一。「書堂往昔数相陪。一月行過四十回。已是三年空病脚。籃輿今日僅尋来。」自註に「往年信恬数詣公夫人。試計至一月四十回云」と云つてある。穀雨は三月二十五日であつた。菊潭医官は誰であらうか。わたくしは未だ確証を得ぬが、吉田仲禎ではなからうかとおもふ。「仲禎、名祥、号長達、東都医官」と蘭軒雑記に記してある。且雑記には享和中□斎長達の二人が蘭軒の心友であつたことを言ひ、一面には□斎と蘭軒と他の一面には長達と蘭軒とは早く相識つてゐて、□斎と長達とは享和三年二月二十九日に至つて始て相見たことを言つてある。菊潭は或は此人ではなからうか。しかし当時文化十三年の武鑑には雉子(きじ)橋の吉田法印、本郷菊坂の吉田長禎、両国若松町の吉田快庵、お玉が池の吉田秀伯、三番町の吉田貞順、五番町の吉田策庵があるが、吉田仲禎が無い。或は思ふに仲禎は長禎の族か。
 蘭軒は足疾はあつても、心気爽快であつたと見え、初夏より引き続いて出遊することが頻であつた。「会業日、苦雨新晴、乃廃業、与余語天錫、山本恭庭、木村駿卿同遊石浜墨陀諸村途中作、時服部負約」の五律五首、「首夏与余語天錫、山本恭庭、木村駿卿同集石田子道宅」の七絶三首、「初夏過太田孟昌宅」の七絶二首、「再過太田孟昌宅、与余語、山本二医官及木村駿卿同賦」の七律一首等がある。余語(よご)、木村、服部、石田、皆既出の人物である。天錫(てんせき)は恐くは觚庵(こあん)の字(あざな)であらう。太田孟昌(まうしやう)は茶山の集中に見えてゐる。文化九年壬申の除夜にも、文化十一年甲戌の元旦にも、孟昌は神辺に於て茶山の詩会に列つてゐて、茶山は「江都太田孟昌」と称してゐる。孟昌、名は周、通称は昌太郎である。父名は経方、省いて方とも云ふ。字は叔亀、通称は八郎、全斎と号した。阿部家に仕へて文政十二年六月七十一歳にして歿した。孟昌は家を弟武群(ぶぐん)、通称信助、後又太郎に譲つて分家した。孟昌が事は浜野知三郎さんが阿部家所蔵の太田家由緒書と川目直(かはめちよく)の校註韓詩外伝題言とに拠つて考証したものである。山本恭庭は蘭軒が時に「恭庭公子」とも称してゐる。恐くは永春院の子法眼宗英であらうか。当時小川町住の奥医師であつた。此夏病蘭軒を乗せた「籃輿」は頗る忙(いそがは)しかつたと見える。

     その八十五

 此夏文化十三年夏の詩凡て十四首を読過して、わたくしは少し句を摘んで見る。固より佳句を拾ふのでは無い。稍誇張の嫌はあるが、歴史上に意義ある句を取るのである。
 石浜(いしばま)墨陀(すみだ)の遊は讐書の業を廃してなしたのである。「好擲讐書課。政謀携酒行。」蘭軒は病中の悶を遣らむがために思ひ立つた。「連歳沈痾子。微吟足自寛。」当時今戸の渡舟は只一人の船頭が漕いで往反してゐた。蘭軒は其人を識つてゐたのに、今舟を行(や)るものは別人であつた。「渡口呼舟至。棹郎非旧知。」自註に「墨水津人文五、与余旧相識、前年已逝」と云つてある。
 石田梧堂の詩会で主人に贈つた作がある。「贈子道。駒子村南径路斜。碧叢連圃□駝家。柳翁別有栽培術。常発文園錦様花。」駒込村の南の細逕(ほそみち)で、門並植木屋があつたと云ふから、梧堂は籔下辺に住んでゐたのではなからうか。わたくしは今の清大園(せいたいゑん)の近所に「石田巳之介」と云ふ門札(かどふだ)が懸けてあつたやうに想像する。「壁上掛茶山菅先生家園図幅、聊賦一律。謾訪王家竹里館。偶観陶令園中図。双槐影映讐書案。六柳陰迎恣酒徒。池引川流清可掬。軒収山色翠将濡。如今脚疾君休笑。真境曾遊唯是吾。」座上まのあたり黄葉夕陽村舎を見たものは「唯是吾」である。
 太田孟昌の家をば二度まで蘭軒が訪うた。「初夏過太田孟昌宅」二絶の一。「喬松独立十余尋。落々臨崖翠影深。下有陶然高士臥。平生相対歳寒心。」次で「再過太田孟昌宅」七律に、「籬連僧寺杉陰老、砌接山崖苔色多」の一聯がある。崖(がい)に臨み寺に隣して、松の大木が立つてゐる。「樹陰泉井一泓清」の句もあるから、松の下には井もあつた。いづれ江戸の下町ではないが、はつきり何所とも定め難い。
 五月六日に蘭軒は阿部家に轎(かご)に乗る許を乞うた。勤向覚書にかう云つてある。「五月六日、足痛年月を重候得共全快之程不相見候に付、御屋敷内又は他所より急病人等申越候はば駕籠にて罷越療治仕遣度、仲間共一統奉願上候所、同月十三日無拠病用之節は罷越可申旨被仰付候。」所謂(いはゆる)屋敷内は丸山邸内である。
 六月十一日に蘭軒が妻益の姉夫(あねむこ)飯田杏庵が歿した。杏庵、名は履信(りしん)である。先霊名録に従へば、伊勢国薦野の人黒沢退蔵の子であつた。しかし飯田氏系譜に従へば、杏庵は本(もと)立田氏である。父は信濃国松代の城主真田右京大夫幸弘の医官立田玄杏で、杏庵は其四男に生れた。按ずるに立田玄杏は仮親であらうか。杏庵は蘭軒の外舅(ぐわいきう)飯田休菴[#「休菴」は「休庵」の誤記か]に養はれて、長女の婿となり、飯田氏を嗣いだ。杏庵の後を承けて豊後国岡の城主中川修理大夫久教(ひさのり)に仕へたのは、休甫信謀(きうほしんぼう)である。杏庵は妻飯田氏に子がなかつたので、田辺玄樹の弟休甫を養つて子とし、蘆沢氏の女(ぢよ)を迎へてこれに配した。所謂(いはゆる)取子取婦(とりことりよめ)である。
 秋に入つてから勤向覚書に二件の記事がある。一は蘭軒が神田の阿部家上屋敷へも轎(かご)に乗つて往くことを許された事である。一は蘭軒が医術申合会頭の職に就いた事である。此職は山田玄瑞と云ふものの後を襲(つ)いだのであつた。「八月七日、下宮三郎右衛門殿療治仕候に付、御上屋敷内駕籠にて出入御免被仰付候。閏八月十六日、医術申合会頭是迄山田玄瑞仕来候所、此度私え相譲候段御達申上候。」
 此秋蘭軒は始て釈混外(しやくこんげ)を王子金輪寺に訪うた。「余与金輪寺混外上人相知五六年於茲、而以病脚在家、未嘗面謁、丙子秋、与石田士道、成田成章、太田農人、皆川叔茂同詣寺、得初謁、乃賦一律。山□梵宮渓繞山。桂香先認異塵寰。青松凝色懸崖畔。白水有声奔石間。自覚罪根能已滅。漫扶病脚此相攀。陶潜不飲遠公酔。蓮社本来無著関。」自註に、「余病来止酒、而上人尤為大戸」と云つてある。茶山は更に、「病前亦不能多喫」と添加してゐる。果して然らば蘭軒は生来の下戸で、混外はこれに反して大いに別腸を具してゐたのであらう。

     その八十六

 蘭軒は既に云つた如くに、文化八年の頃より混外(こんげ)と音信を通じてゐて、此年十三年の秋方(まさ)に纔に王子金輪寺を訪うたのである。わたくしは此五六年間に蘭軒と混外との交が漸く親密になつて、遂に相見ることの已むべからざるに至つたやうに推測する。此年の歳旦に混外が蘭軒に与へた小柬がある。「拙衲は第一、其外世界困窮仕候間、元日之口号誠に御一笑奉願候。丙午元旦口号。藁索疎簾松竹門。家々来往祝三元。寒巌処々猶冰雪。無復人間衣裏温。北郊貧道混外子。」簡牘(かんどく)の散文が詩よりも妙である。拙衲(せつなふ)は第一、其外世界困窮の数語、何等の警抜ぞ。わたくしは乙亥の冬から丙子の春へ掛けて、江戸市中不景気と云ふが如き記事はないかとおもつて、武江年表を検したが、見当らなかつた。此小柬は書估文淵堂主人が所蔵の「花天月地」と題する巻子(くわんし)二軸の中にある。収むる所は皆諸家の蘭軒榛軒父子等に寄せた書牘(しよどく)詩筒(しとう)である。
 此年蘭軒に「歳晩偶成」の作がある。「富人競富殆将顛。貧子憂貧亦可憐。有食有衣何所慕。書中楽地送流年。」菅茶山には歳晩の詩がなかつた。
 此年幕府の蘭方医官大槻磐水が六十歳になつたので、茶山が寿詩を贈つた。詩は蘭人短命と云ふ処より立意したものであつた。「大槻玄沢六十寿言。君不見西洋諸国奇術多。神医往々出華佗。又不見紅毛之人乏老寿。得及五十比彭祖。我聞上古淳樸時。人無貴賤夭札稀。(中略。)智巧原来非天意。纔鑿七竅渾沌死。先生医学出西洋。自医医人並康強。不亀手方非異薬。運用在心人誰度。吾願先生寿不騫。益錬其術弘其伝。青藍若能播諸域。紅毛亦得享長年。」然るに磐水は此篇を得て喜ばなかつた。次の年に茶山が蘭軒に寄せた書牘に、蘭人の事を言つた紙片が添へてあつた。紙片は今饗庭篁村(あへばくわうそん)さんの蔵※(ざうきよ)[#「去/廾」、7巻-177-下-10]中にある。其書牘は文淵堂蔵の花天月地中に存するものが或は是であらうか。書牘の事は猶後に記さうとおもふ。
 茶山はかう云つてゐる。「去年カピタンが携来(たづさへきた)りし妻は世に稀なる美人にて、日本人が見てもえならず見え、両婢ともにうつくしきこと限なしと、みな人申候。此頃絵すがた来りしに、聞しにかはりてうつくしからず候。先下女はマタルスの女(むすめ)かと見えて鼠色也。都下へはさだめて似づらのよきが参可申と存さし上不申候。去年大槻玄琢老に寿詞をたのまれ、つくり進じ候処、気に入不申候よし、わたくしが蘭人短命より趣向いたし候処、短命は舟にのる人ばかりにて、本国は長寿のよし也。吾兄長崎にひさし、いかがや覧。」
 欧洲人を美ならずとなし、短命なりとなす如き菅氏の観察乃至判断が、大槻氏に喜ばれなかつたのは怪むに足らない。美醜の沙汰は姑(しばら)く置く。欧洲人の平均命数の延長したのは十九世紀間の事である。文化中の欧洲人は短命とは称し難いまでも、必ずしも長寿ではなかつたであらう。欧洲人を以て智巧に偏すとなしたのは、固より錯(あやま)つてゐた。偏頗は彼の心に存せずして、我の目に存してゐた。
 此年九月六日に池田錦橋が歿し、十一月二十九日に小島宝素が妻を娶(めと)つた。

     その八十七

 池田錦橋は後に一たび蘭軒の孫女(まごむすめ)の婿となる全安の祖父である。錦橋の子が京水、京水の子が全安である。此故にわたくしは今少しく錦橋の事蹟を補叙して置きたい。その補叙と云ふは、前(さき)に渋江抽斎の伝を草した時、既に一たび錦橋を插叙したことがあるからである。
 錦橋は始て公認せられた痘科の医である。本(もと)生田氏、周防国玖珂郡(くがごほり)通津浦(つづうら)の人である。明の遺民戴笠(たいりつ)、字(あざな)は曼公(まんこう)が国を去つて長崎に来り、後暫く岩国に寓した時、錦橋の曾祖父嵩山(すうざん)が笠を師として痘科を受けた。
 錦橋は宝暦十二年に広島に徙(うつ)り、安永六年に大坂に徙り、寛政四年に京都に上り、八年に徳川家斉(いへなり)の聘を受け、九年に江戸に入つた。
 錦橋は初め京水を以て嗣子となしてゐて、後にこれを廃し、門人村岡善次郎をして家を襲(つ)がしめた。京水は分家して町医者となつた。
 錦橋と其末裔との事には許多(きよた)の疑問がある。疑問は史料の湮滅(いんめつ)したるより生ずるのである。わたくしは抽斎伝中に池田氏の事を叙するに当つて、下(しも)の史料を引用することを得た。一、二世池田瑞仙直卿(ちよくけい)の撰んだ錦橋の行状。直卿は即村岡善次郎である。瑞仙は錦橋の通称で、後これを世襲した。二、池田氏過去帖。これは三世池田瑞仙直温(ちよくをん)の自筆本で、池田氏の菩提所向島嶺松寺(れいしようじ)に納めてあつたものである。わたくしは向島弘福寺主に請うて借閲し、副本を作つて置いた。三、富士川氏の手帳並日本医学史。手帳は富士川游さんが嶺松寺の墓誌銘に就いて抄録したものである。日本医学史には此抄録が用ゐてある。
 以上の史料の載する所は頗る不完全であつた。それゆゑわたくしは嶺松寺の墓石の行方を捜索した。墓誌の全文を見むがためである。しかしそれは徒労に帰した。嶺松寺の廃寺となるに当つて、墓石は処分せられた。此墓石の処分といふことは、明治以後盛に東京府下に行れ、今に至つて猶熄(や)むことなく、金石文字は日々湮滅して行くのである。わたくしに此重大なる事実を知る機会を与へたものは、彼捜索である。
 抽斎伝を草し畢つた後、わたくしは池田宗家の末裔と相識ることを得た。三世瑞仙直温は明治八年に歿し、直温の妻窪田清三郎の女(むすめ)啓(けい)が後を襲いだ。これが瑞仙の家の第四世池田啓である。啓の後は啓の仲兄笠原鐘三郎(しようざぶらう)の子鑑三郎が襲いだ。これが瑞仙の家の第五世池田鑑三郎さんである。
 或日鑑三郎は現住所福島市大町から上京して、再従兄(さいじゆうけい)窪田寛(くわん)さんと共にわたくしの家を訪うた。啓の父清三郎の子が主水(もんど)、主水の子が即寛で、現に下谷仲徒士町(したやなかかちまち)に住してゐる。
 わたくしは鑑三郎に問うて、池田宗家累世の墓が儼存してゐることを知つた。嶺松寺が廃寺となつた後、明治三十年に鑑三郎は合墓(がふぼ)を谷中墓地に建てた。合墓には七人の戒名が刻してある。養真院殿元活瑞仙大居士は初代瑞仙錦橋である。芳松院殿縁峰貞操大姉は錦橋の妻菱谷(ひしたに)氏である。善勝院殿霧渓瑞翁大居士は二世瑞仙直卿である。秋林浄桂大姉は直卿の妾(せふ)である。養寿院殿本如瑞仙大居士は三世瑞仙直温である。保寿院殿浄如貞松大姉は直温の妻にして瑞仙の家第四世の女主啓、窪田氏である。以上の六諡(し)は正面に彫(ゑ)つてある。梅嶽真英童子は直温の子洪之助である。此一諡だけは左側面に彫つてある。
 改葬には二つの方法がある。古墓石を有形(ありがた)の儘に移すこともあり、又別に合墓を立つることもある。森枳園(きゑん)一族の墓が目白より池袋に遷された如きは前法の例とすべく、池田宗家の墓が向島より谷中に遷された如きは後法の例とすべきである。彼の此に優ることは論を須(ま)たぬが、事は地積に関し費用に関するから、已むを得ずして後法に従ふこともある筈である。わたくしは池田宗家の諸墓が全く痕跡なきに至らなかつたのを喜ぶと同時に、其墓誌銘の佚亡を惜んで已まぬのである。
 池田宗家の墓が谷中に徙(うつ)された時、分家京水の一族の墓は廃絶してしまつたらしい。

     その八十八

 池田氏宗家の末裔鑑三郎さんは、独りわたくしに宗家の墓の現在地を教へたのみではない。又わたくしに重要なる史料を※(しめ)[#「目+示」、7巻-180-下-11]した。わたくしは上(かみ)に云つた如く、直卿(ちよくけい)の撰んだ錦橋の行状、直温の撰んだ過去帖、富士川氏の記載、以上三つのものを使用することを得たに過ぎなかつた。然るにわたくしは鑑三郎と相識るに至つて、窪田寛(くわん)さんの所蔵の池田氏系図並に先祖書を借ることを得た。これが新に加はつた第四の材料である。
 わたくしは此新史料を獲て、最初に京水廃嫡の顛末を検した。先祖書に云く。「善卿総領池田瑞英善直、母は家女、病気に而末々御奉公可相勤体無御座候に付、総領除奉願候処、享和三亥年八月十二日願之通被仰付候。然る処年を経追々丈夫に罷成医業出精仕候に付、文政三辰年三月療治為修行別宅為致度段奉顧候処、願之通被仰付別宅仕罷在候処、天保七申年十一月十四日病死仕候。」
 善卿は初代瑞仙の字(あざな)である。先祖書には何故か知らぬが、世々字を以て名乗(なのり)としてある。瑞英善直の京水たることは、過去帖の宗経軒京水瑞英居士と歿年月日を同じくしてゐるのを見れば明である。
 是に由つて観れば、錦橋行状の庶子善直が即京水であつたことは、復(また)疑ふべからざることとなつた。行状に云く。「君(錦橋)在于京師時。娶佐井氏。而無子。嘗游于藝華時、妾挙一男二女。男曰善直。多病不能継業。二女皆夭。」
 京水は錦橋の庶子であつた。先祖書の文が行状の文と殆全く相符してゐて、唯先祖書に「母は家女」と書してあるのは、公辺に向つての矯飾であつただらう。そして直卿は行状を撰ぶに当つて、信を後世に伝へむがために、此矯飾を除き去つたのであらう。
 現存する所の先祖書は、元治元年に三世瑞仙直温の官府に呈したものである。しかし其記事は先々代乃至先代の書上(かきあげ)と一致せしめざることを得ない。
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