伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 文化十一年の元旦は臘月願済の湯治日限の内であつた。これは前年の十二月が大であつたことを顧慮して算しても、亦同じである。しかし一日を遅くすることが養痾に利があるわけでもないから、除夜には蘭軒は家に帰つてゐたであらう。
「甲戌早春。嚢□掃空餞臘来。辛盤椒酒是余財。逢喧脚疾漸除却。杖□遍尋郊野梅。」当時蘭軒の病候(びやうこう)には消長があつて、時に或は起行を試みたことは、記載の徴すべきものがある。しかし「杖□遍尋」は恐くは誇張を免れぬであらう。

     その六十九

 甲戌早春の詩の後に、羽子(はご)、追羽子の二絶がある。亦此正月の作である。わたくしは其引の叙事を読んで奇とし、此に採録することとした。二絶の引は素(もと)分割して書してあつたが、今写し出すに臨んで連接せしめる。「初春小女輩。取□子一顆。植鳥羽三四葉於顆上。以一小板。従下逆撃上之。降則又撃。升降数十。久不落地者為巧。名曰羽子戯。蓋清俗見□之類。又数伴交互撃一羽子。一人至数撃者為勝。失手而落者為負。名曰逐羽子戯。」其詩はかうである。「街頭日夕淡烟通。何処梅香月影朧。嬉笑女郎三両伴。数声羽子競春風。」「春意一場娘子軍。羽児争打各成群。女兄失算因含態。小妹軽□却立勲。」
 正月の末に足の痛が少しく治したので、蘭軒は又出でて事を視ようとしたと見える。そこで二十三日に歩行願と云ふものを呈した。勤向覚書に云く。「文化十一年甲戌正月二十三日足痛追々全快には御座候得共、未聢と不仕候間、歩行仕度奉願上候所、即刻願之通被仰付候。」次で二月三日に、蘭軒は出でて事を視た。覚書に云く。「二月二日、明三日より出勤御番入仕候段御届申上候。」
 蘭軒は此(かく)の如く猶時々起行を試みた。そして起行し得る毎に公事に服した。後に至つて両脚全く廃したが、蘭軒は職を罷められなかつた。或は匐行(ふくかう)して主に謁し、或は舁(か)かれて庁に上つたのである。
 二月二十一日に阿部正倫(まさとも)の未亡人津軽氏比佐子が六十一歳で、蘭軒の治を受けて卒した。比佐子の父は津軽越中守信寧(のぶやす)であつた。勤向覚書に「廿五日霊台院様御霊前え献備物願置候所、勝手次第と被仰付候」と記してある。霊台院は即比佐子である。
 ※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-142-下-4]詩集に剰す所の春の詩数首がある。わたくしは其中に就いて神童水田某を褒めた作と、児に示した作とを取る。
 水田某は幼い詩人であつた。「水田氏神童善賦詩、格調流暢、日進可想、聊記一賞。撥除竹馬紙鳶嬉。筆硯間銷春日遅。可識鳳雛毛五彩。驚人時発一声奇。」
 蘭軒が児に示す詩は病中偶作の詩の後に附してある。「病中偶作。上寿長生莫漫求。百年畢竟一春秋。彭殤雖異為何事。花月笑歌風雨愁。」「同前示二児。富貴功名不可論。只要文種永相存。能教誦読声無断。便是吾家好子孫。」
 此詩題に二児と云つてあるは注目すべき事である。当時蘭軒三十八歳、妻益三十二歳で、子供は榛軒の棠助十一歳、常三郎十歳、柏軒の鉄三郎五歳であつた。わたくしは初め読んだとき、二児とは稍長じてゐた棠助、常三郎を斥して言つたので、幼い鉄三郎は第(しばら)く措いて問はなかつたのだらうとおもつた。既にして伊沢分家の人々の常三郎が事跡を語るを聞いて、憮然たること久しかつた。
 常三郎は生れて幾(いくばく)もあらぬに失明した。しかのみならず虚弱にして物学(ものまなび)も出来なかつた。それゆゑ常に怏々として楽まず、動(やゝ)もすれば日夜悲泣して息(や)まなかつた。某(それ)の年の大晦(おほつごもり)に常三郎の心疾が作(おこ)つて、母益は慰撫のために琴を弾じて夜闌(やらん)に及んだことさへあるさうである。
 詩に謂ふ二児は、即ち十一歳の榛軒と五歳の柏軒とで、常三郎は与(あづか)らなかつたのである。
 夏に入つて四月八日に、蘭軒の三女が生れた。頃日(このごろ)伊沢分家に質(たゞ)して知り得たる所に従へば、蘭軒の長女は天津(てつ)で、文化二年に夭した。其生年月を詳(つまびらか)にしない。二女智貌童女は文化九年中生れて七日にして夭した。三女は今生れたものが即是である。名を長(ちやう)と云ふ。以上皆嫡出である。そして長が独り長育することを得た。勤向覚書に云く。「四月八日妻安産仕、女子出生仕候、依之御定式之血忌引仕候段御達申上候、同月十一日血忌引御免被仰付候、明十二日御番入仕候段御達申上候。」
 此月二十一日蘭軒に金三百疋を賜つた。「霊台院様御病中出精相勤候に付」と云ふ賞賜である。上(かみ)に云つた如く、霊台院殿信誉自然現成大姉は津軽氏比佐子で、墓は浅草西福寺にある。比佐子夫人の事は岡田吉顕(よしあき)さんに請うて阿部家の記録を検してもらつた。

     その七十

 此年文化十一年五月に菅茶山が又東役の命を受けた。行状に「十一年甲戌五月又召赴東都」と書してある。所謂(いはゆる)「七十老翁欲何求、復載□痾向武州」の旅である。紀行などもあるか知らぬが、わたくしの手元には只詩集があるのみである。五月になつてから命を承けたのではあるが、「午日諸子来餞」の午日は四日の初午であらう。「梅天初霽石榴紅、何限離情一酔中」の句に、節物が点出せられてゐる。
 茶山は岡山、伊部、舞子、尼崎、石場、勢田、石部、桜川、大野、関、木曾川、万場、油井、薩陀峠、箱根山、六郷、大森等に鴻爪(かうさう)の痕を留めて東する。伊部を過ぎては「白髪満頭非故我、記不当日旧牛医」と云ひ、尼崎を過ぎては「輦下故人零落尽、蘭交唯有旧青山」と云ひ、又富士を望んでは「但為奇雲群在側、使人頻拭老眸看」と云ふ。到処今昔の感に堪へぬのであつた。旧牛医(きうぎうい)は嘗て牛医と錯(あやま)り認められたことがあつたのを謂ふ。此間江戸にある蘭軒は病のため引込保養をしてゐた。「六月廿日疝積相煩候所、兎角不相勝候に付、明日より引込保養仕候段御達申上候」と、勤向覚書に云つてある。足疾のために消化を害せられてゐたのであらう。
 茶山が江戸に抵(いた)る比(ころほひ)には、蘭軒の疝積(せんしやく)も稍おこたつてゐた。「扶病歩園。従来遊戯作生涯。酔歩吟行少在家。病脚連旬堪自笑。扶□纔看薬欄花。」園(その)に百日紅(さるすべり)がさいてゐたので、蘭軒は折らせて阿部邸の茶山が許に送つた。「園中紫薇花盛開、乃折数枝、贈菅先生。紫薇花発横斜影。寄贈満枝朝露多。百日紅葩能得称。輸君終歳酔顔□。」
 七月に蘭軒は病中ながら月代(さかやき)をした。「七月九日疝積追々快方には御座候得共、未聢と不仕候間、月代仕度奉願上候所、早速願之趣被仰付候」と、覚書に云つてある。
 茶山は此月に鵜川子醇(しじゆん)等を伴つて、不忍池へ蓮を看に往つて、帰途に蘭軒の病牀を訪うた。前にわたくしは蘭軒が家を湖上に移したことを言つたが、それは一時の仮寓であつたと見えて、此時は又本郷にゐたらしい。鵜川子醇、通称は純二、茶山の旧相識である。前度文化紀元の在府中に茶山が此人のために詩を作つたことがある。「関帝、応鵜川純二需」の七絶が即是である。「茶山菅先生携鵜川子醇及諸子、看荷花於篠池、帰路訪余、余時臥病、喜而賦一絶、昔年余亦従二君同看、今已為隔世之想云。十歳重携旧酒徒、荷花時節小西湖。酔帰猶有芳情在。満袖清香襲病夫。」
 次韻は茶山の集中江戸に於ける最初の詩である。「七月看小西湖荷花、帰路訪伊沢憺父、余与憺父狩谷卿雲諸子、曾作此賞、距今十一年矣、憺夫有詩、次韻以答。此間佳麗世間無。十里芙蓉花満湖。不料旗亭雲錦裏。尊前重著旧樵夫。」
 嘗て茶山が蘭軒の疎濶(そくわつ)を責めた後、わたくしは二人の間にいかなる書信の往復があつたかを知らない。茶山と江戸にあつた井上四明との応酬に徴するに、茶山の東命は期せずして至つたらしいから、必ずや茶山は相見る日を待たずして屡(しば/\)報復を促し、蘭軒は遂に一たび断えたコレスポンダンスの緒を継いだことであらう。
 此初度の訪問は何日であつたか知らぬが、少くも十四日よりは早かつたらしい。次で雨の日が続いた。蘭軒に「秋霖」の二絶がある。此間勤番暮しの茶山は、衣食何くれとなく不自由な事がある毎に、救を蘭軒に求めた。就中(なかんづく)茶山は菜蔬を嗜(たし)んだので、其買入を伊沢の家に託した。本郷の伊沢の家と、神田の阿部邸との間には、始終使の往反が絶えなかつたのである。

     その七十一

 此秋文化十一年の雨の中元に、蘭軒は菅茶山を家に招いた。当時宴を張つて茶山を請ずるものは甚多かつたので、茶山はこれがために忙殺せられてゐたが、遠慮のいらぬ故人の案内に応ずるのは苦にはならなかつたであらう。
 茶山が此案内を受けた時の返事が、偶(たま/\)わたくしの饗庭篁村(あへばくわうそん)さんに借りた一束の書牘(しよどく)の中に遺つてゐた。これを見て茶山と蘭軒との間の隔なき交のさまが窺はれる。
「盆前とて所謂(いはゆる)書出してふ物被遣(つかはされ)、帖面なしのかけ取など御使にわたし申候。此中ののこりをさへに御受取可被下候。」
「十六日辱奉存候。外にすこし約束ありかけ候其方をのべさせ可申候。只今状かき初申候。のべ候はば参可申候。いづれこれより可申上候。」
「八百屋物の代銭百文先さき金に奥様へ御わたし申候。あとは追々さし上可申候。御買おき可被下候。部屋番とりにさし上可申候。其品は いも なすび ふぢ豆の類なににてもよし かいわり菜(備後方言まびき菜) 外名をしらず きらひもの たうなす さつまいも ぼうふら(南瓜) 太中。辞安様。」
 十六日の請待は延びて十七日となつた。そして此日に幸に雨が霽れた。茶山の詩の自註にかう云つてある。「十五夜圃公舟遊。十六夜卿雲別業集。並阻雨不果。是日訪憺父病。」圃公(ほこう)は中村圃公である。茶山が蘭軒に招かれた故を以て、会期を延すことを交渉した相手が狩谷□斎であつたのは意外である。□斎の催を蘭軒の知らなかつたのは意外である。しかし□斎は会期を病褥にある蘭軒に告げなかつたのであらう。
 茶山は蘭軒を訪うた帰途「茗渓即事」の二絶を得た。これは蘭軒の本郷にゐた証に充(み)つべきであらう。「中元時節雨霏霏。両夜遊期各処違。此日無端問人病。長橋独踏月光帰。」「林頭月走夜雲忙。数店燈毬閃閃光。茗水橋辺行客少。満街風露進新涼。」
 茶山の集を繙閲(はんえつ)すれば、宴飲の盛なることは秋冬の交が尤甚しかつた。此時に当つて綻びた衣(きぬ)の繕(つくろひ)、朝夕の飲饌の世話などは、蘭軒の家が主としてこれに当つてゐたらしい。伊沢氏は詞場に酣戦してゐる茶山がために兵站の用をなしてゐたらしい。
 菜蔬は蘭軒の妻が常に店頭(てんとう)の物を買つて送つたが、或日それに自園の大根を雑へて、蘭軒の詩を添へて遣つた。「園蔬頗肥、贈菅先生、誇其美云。学圃近来術不疎。肥※[#「酉+農」、7巻-147-上-10]自愛満畦蔬。贈君莱□尤佳味。却勝市門店上魚。」
 十一月には茶山の官事が稍忙しくなつたらしい。「霜月廿九日」とした手紙に、「此頃府誌いそがしく他出むづかしく候」と云つてある。府誌とは福山地志か。此書は文化六年に成つて上(たてまつ)つたものである。更に筆削などを命ぜられたものであらうか。
 同じ書に「御姉様よりめづらしき御茶碗御恵被下、私かねて望候物、別而難有奉存候」と云ひ、又「下著御仕たて被下、奥方様へ御世話の御礼宜御申可被下候」と云つてある。「御姉様」は黒田家に仕へてゐた蘭軒の姉幾勢(きせ)か。幾勢には茶碗の礼、益(ます)には下著の礼が言つてある。

     その七十二

 此冬文化十一年の冬の間に、菅茶山は幾度蘭軒をおとづれたか不明である。しかし前に引いた十一月二十九日の書にも「其内偸間(とうかん)可申候」と云つてある。
 十二月六日に至つて、茶山は果して夕方に蘭軒を訪うた。蘭軒夫妻は厚くもてなし、主客の間には種々の打明話も交換せられた。茶山は襦袢が薄くて寒(さぶ)さに耐へぬと云つて、益に繕ふことを頼んだ。又部屋の庖厨の不行届を話したので、蘭軒夫妻は下物(げぶつ)飯菜の幾種かを貽(おく)つた。茶山は夜更(よふ)けて、其品々を持ち、提灯を借りて神田の阿部邸に還つた。
 翌七日に茶山の蘭軒に寄せた書も、亦饗庭篁村(あへばくわうそん)さんの所蔵の中にある。下(しも)に其全文を写す。
「夜前の襦袢もたせ上申候。袖は少しやぶれ絹をつけてもよし、あたたかにさへあれば宜候。奥様まかせに可仕候。鱈かへると草々たべ申候。潔味(けつみ)私が口に適候而悦申候。いれもの重箱やきもの提燈御かへし申候。みそとくしこ入候はとゞめおき申候。早々。十二月七日。太中。辞安様。枯髏(ころ)一塊(くわい)下(しも)三字急に出不申候。出候はば可申上候。詩集二つ懸御目申候。」
 文中「くしこ」は串海鼠(くしこ)であらうか。「枯髏一塊」云云はわたくしはかう考へる。当時大森某と云ふものがあつて、所蔵の髑髏の図のために題詩を諸家に求めた。茶山は早く既に一絶を作つて与へた。「題髑髏図、応大森子索。古来誰信死生同。只笑荘叟弄筆工。至竟狐狸猶不顧。□然百歳坐枯蓬。」蘭軒も亦嘱を受けて構思してゐると、茶山の来るに会した。そこで枯髏一塊の下三字を求めたのである。しかし蘭軒は後に枯髏一塊の句を抛棄して、別に一首を成した。「髑髏図。枯骨長依狐兎逕。誰知昔日辱与栄。寄言世計営々客。不若別求身後名。」二詩は二家の集にある。
 此冬山本去害(きよがい)と云ふものが江戸を立つて小田原に往つた。蘭軒のこれを送つた五律がある。尋で去害が小田原から七律を寄せたので、蘭軒は又次韻して答へた。去害は市河三陽さんの考証に拠るに、伊豆の三島の人山本井蛙(せいあ)の子である。井蛙、名は義質、字は孺礼(じゆれい)、甚兵衛と称した。商家にして屋号を丸屋と云つた。其子が順、字(あざな)は去害、通称は豊輔(とよすけ)である。享和三年九月三日に、市河米庵が吉原に宿つたとき、去害が三島から送つて来てゐたことが西遊日記に見えてゐる。蘭軒の「君家清尚襲箕裘」の句に、「其先人亦脱俗韻士、遊賞没世」と註してあるのを見れば、丸屋は芸香(うんかう)ある家であつた。去害が医師にして古書を好んだことは、蘭軒に似てゐた。「学医術将仙」と云ひ、「玉笥蔵書古」と云ふを見てこれを知る。年は既に老いてゐた。「似僧頭已禿」と云ふを見てこれを知る。小田原行は遊賞のためで、仕宦のためではなかつた。「応識間中官爵貴、探幽使者酔郷侯」と云ふを見てこれを知る。
 同時の茶山の応酬は、交遊の範囲が頗る広くて、一一挙ぐるに勝(た)へぬが、此に其人の境遇に変易を見たもののみを記して置く。其一は井上四明である。四明初(はじめ)戸口氏、名は潜、字は仲竜、居る所を佩弦堂と云つた。井上蘭台の後を承けて、備前の文学になつてゐたが、此冬致仕して町ずまひの身となつた。茶山は「四明先生告老、藩主加賜以金、燕喜之辰、余亦与会、賦此奉呈」として七律を作つた。其一二に「賜金不必買青山、心静城居即竹関」と云つてある。藩主は松平上総介斉政(なりまさ)である。
 其二は大田南畝である。南畝は文化七年に幕府の職を辞して、閑散の身となつてゐた。茶山の此冬の作に、「蜀山人移家于学宮対岸、扁曰緇林、命余詩之」とした七絶がある。「杏壇相対是緇林。吏隠風流寓旨深。毎唱一歌人競賞。有誰聴取濯纓心。」学宮対岸の家は即ち駿河台紅梅坂(こうばいざか)大田姫稲荷前の家であらう。南畝は小石川小日向金剛寺坂から此に移つたのであらう。

     その七十三

 頼氏では此年文化十一年に春水が六十九歳になつた。「累霑位禄愧逢衣。霜鬢明朝忽古稀。」京都では山陽が後妻を娶(めと)つた。小石元瑞の養女、近江国仁正寺(にんしやうじ)の人某氏の女(ぢよ)里恵(りゑ)である。後藤松陰は脩して梨影と書した。通途(つうづ)の説には、此婚嫁が翌年乙亥の事だとなつてゐるやうである。しかし天保三年閏(じゆん)十一月二十五日に、新に夫を喪つた里恵が赤馬関の広江秋水の妻に与へた書にかう云つてある。「わたくしも十九年が間そばにをり候。誠にふつづか不てうはふに候へとも、あとの所、ゆゐごん、何も/\私にいたし置くれられ、私におきまして、誠にありがたく、十九年の間に候へども、あのくらゐな人ををつとにもち、其所存なか/\出来ぬ事と有りがたく存候。」女が夫を持つた年を誤ると云ふことは殆ど無からう。山陽の九月に歿した天保三年を一年と算し、十八年溯れば、文化十一年となる。
 田能村竹田は秋水が此書を出して示した時の事を記して、「去年壬辰九月廿三日に頼山陽物故す、此年の閏十一月に内人(りゑといふ)より秋水の夫人におくられたる書を、秋水出ししめす」と云つてゐる。率(にはか)に読めば「去年」と「此年」とは別年の如くにも見える。若し別年とするときは、里恵が書を裁して寄せたのは天保四年癸巳である。癸巳より算する十九年間は文化十二年乙亥に始まる。即ち通途の説に合する。
 しかし果して此(かく)の如しとすると、「十九年が間そばにをり候」とは云はれぬ筈である。かく云ふには天保三年壬辰より算せざることを得ない。且所謂(いはゆる)「此年」は即ち前の「去年壬辰」を斥(さ)して云つたもので、秋水が書を出し示した四年癸巳より見れば去年も此年も均(ひと)しく一年前でなくてはならない。何故と云ふに、里恵の書には単に「閏月廿五日」としてあるが、天保四年癸巳には閏月は無く、閏月のあるは只三年壬辰の十一月のみだからである。
 里恵の墓は松陰が其文を撰んだが、但「頼山陽先生入京、娶為継室」と書して、婚嫁の年を言はない。山陽自家の詩文を検するに、只文政三年庚辰の詩引に「余娶婦、未幾丁艱」と云つてあるのみである。「丁艱」とは文化十三年二月十九日に父春水を喪つたことを斥す語である。未幾(いまだいくばくならず)は一年とも見られ、二年とも見られる。此故にわたくしは里恵の云ふ所を以て拠るべしとする。
 此年蘭軒は三十八歳であつた。「歳晩偶成」の七律が「歳華卅八属駒馳、筆硯仍慚立策遅」を以て起してある。此語を味へば初より著述はせぬと意を決してゐたのではないかも知れない。妻益は三十二歳、榛軒十一歳、柏軒五歳、長(ちやう)一歳であつた。
 文化十二年の元旦には、茶山が猶江戸に留まつてゐたので、蘭軒茶山二人の集に江戸の新年の作が並び存してゐる。
 蘭軒の七絶二首の中、其一を此に録する。「夏葛冬裘君寵光。痴夫身計不知忙。更将長物誇人道。梅有新香書古香。」先づ梅花と共に念頭に浮ぶものは、旧に依つて儲書(ちよしよ)の富である。茶山の七律は頷聯に「蒲柳幸将齢七十、枌楡猶且路三千」と云ひ、七八に「自笑樵夫寓朱邸、謾班群彦拝新年」と云つてある。
 蘭軒は元旦の詩に梅と書とを点出した。わたくしは其梅の詩を今一つ写し出して置きたい。それは前年の暮に新井白石の容奇(ゆき)の詩に倣つて作つたものである。「詠梅、傚白石容奇詩体。陽春自入難波調。已与桜花兄弟分。枝古瑤箏絃上曲。色濃□管巻中文。嬌娘拒詔安禽宿。壮士飛英立戦勲。尤美菅公遺愛樹。追随千里護芳芬。」
 自註は煩を憚つて省く。一は王仁(わに)、四は紫式部、五は紀内侍、六は梶原影季、七八は菅原道真である。

     その七十四

 此春、文化十二年の春となつてから、菅茶山が初て蘭軒を訪うたのは、伊沢家に於て例として客を会する豆日草堂集(とうじつさうだうしふ)の日であつたらしい。「豆日草堂集、茶山先生来、服栗陰長嘯絶妙、前聯及之。野鶯呼客到茅堂。忽使病夫起臥牀。錦里先生詩調逸。蘇門高士嘯声揚。一窓麗日疎梅影。半嶺流霞過雁行。自愧畦蔬村酒薄。難酬満室友情芳。」
 錦里先生は茶山を斥(さ)し、蘇門の高士は栗陰(りついん)を斥したのである。服は服部だとして、服部栗陰の何人なるかは未だ考へない。蘇門服天遊に嘯翁(せうをう)の号があり、嘯台余響、嘯台遺響の著述さへあつたから、善嘯の栗陰を以てこれに擬したのであらう。天遊は明和六年に歿した人である。扨栗陰とは誰か。栗斎服保(りつさいふくはう)は号に栗字があるが、寛政十二年に歿してゐる。蘭軒の門人に服部良醇がゐるが、此客ではなからう。
 二月六日に茶山は又招かれて蘭軒の家に来た。「二月六日菅茶山、大田南畝、久保筑水、狩谷□斎、石田梧堂集於草堂、時河原林春塘携酒。簷外鵲飛報喜声。恰迎佳客値新晴。林風稍定衣裳暖。泥路初晞杖□軽。席上珍多詩好句。尊中酒満友芳情。酔来春昼猶無永。夕月到窓梅影横。」
 茶山の相伴として招かれた客の中で南畝、□斎、梧堂の三人は既出の人物である。そして南畝が蘭軒の家に来たことは、始て此に記載せられてゐる。
 新に出た人物は筑水と春塘とである。久保愛、字(あざな)は君節(くんせつ)、筑水と号した。通称は荘左衛門であつた。荀子増註の序、標注准南子(ゑなんし)の序等の自署に拠るに、信濃の人で、一説に安藝の人だとするは疑はしい。天保六年閏(じゆん)七月十三日に歿したとすると、此時五十七歳であつた筈である。序(ついで)に云ふ。青柳東里(あをやぎとうり)の続諸家人物誌には村卜総(そんぼくそう)の次に此人を載せてゐながら、目次に脱逸してゐる。河原林(かはらばやし)春塘は未だ考へない。
 茶山は此月の中に帰途に上つた。行状に「十二年乙亥在東邸、増俸十口、二月帰国」と書してある。「簡合春川」の詩に「漸迫帰程発□期、江城梅落鳥鳴時」と云ひ、「留別真野先生」の詩に「帰期已及百花辰、恨負都門行楽春」と云つてある。「釣伯園集」は茶山のために設けた別宴であらう。其詩には「名墅清遊二月春、島声花影午晴新」と云つてある。わたくしは只茶山の江戸を去つた時の二月なるを知つて、何日なるを知らない。「真野先生」は或は真野冬旭(まのとうきよく)か。
 茶山の此旅には少くも同行者の紀行があつた筈である。一行の中には豊後の甲原(かふはら)玄寿があり、讚岐の臼杵(うすき)直卿があつた。玄寿、名は義、漁荘と号した。杵築(きつき)吉広村の医玄易の子である。直卿、名は古愚、通称は唯助、黙庵と号した。後牧氏に更(あらた)めた。此甲原臼杵二氏の外に、又伊勢の河崎良佐があつた。所謂(いはゆる)「驥※[#「亡/虫」、7巻-153-上-10]日記」を著した人である。後に茶山がこれに序した。大意はかうである。河崎は自ら※(ばう)[#「亡/虫」、7巻-153-上-12]に比して、我を驥にした。敢て当らぬが、主客の辞となして視れば差支なからう。しかし河崎がためには此路は熟路である。我は既に曾遊の跡を忘れてゐる。「則其尋名勝、訪故迹、問奇石、看異木、唯良佐之尾是視、則良佐固驥、而余之為※[#「亡/虫」、7巻-153-下-1]也再矣」と云ふのである。此記にして有らば、茶山の江戸を発した日を知ることが出来よう。わたくしは未だ其書を見るに及ばない。
 茶山が江戸にある間、諸侯の宴を張つて饗したものが多かつた中に、白川楽翁公は酒間梅を折つて賜はつた。茶山は阿部邸に帰つた後、□駝師(たくだし)をして盆梅に接木せしめた。枝は幸にして生きた。茶山は纔(わづか)に生きた接木の、途次に傷(やぶ)られむことを恐れて、此盆栽の梅を石田梧堂に託した。梧堂は後三年にして文政紀元に、茶山が京都に客たる時、小野梅舎をして梅を茶山に還さしめた。茶山は下の如く記してゐる。「歳乙亥、余※[#「禾+砥のつくり」、7巻-153-下-12]役江戸邸、一日趨白川老公招飲、酒間公手親折梅一枝、又作和歌并以賜余、余捧持而退、置于几上、翌日隣舎郎来云、賢侯之賜、宜接換移栽故園、不容徒委萎※[#「くさかんむり/爾」、7巻-153-下-15]、余従其言、及帰留托友人石子道、以佗日郵致、越戊寅春、余在京、会備中人小野梅舎至自江戸、訪余僑居、携一盆卉、視之乃曩所留者也、余驚且喜、梅舎与余、無半面之識、而千里帯来、其意一何厚也、既帰欲遺一物以表謝意、至今未果、頃友人泉蔵来話及其事、意似譴魯皐、因先賦此詩。以充乗韋、附泉蔵往之。穉梅知是帯栄光。特地駄来千里強。縦使盆栽難耐久。斯情百歳鎮芬芳。」当時の白川侯は松平越中守定永であつたので、楽翁公定信を老公と書してある。泉蔵は備中国長尾村の人小野櫟翁(れきをう)の弟である。

     その七十五

 蘭軒には「送茶山菅先生還神辺」の七絶五首がある。此に其三を録する。「其一。新誌編成三十多。収毫帰去旧山阿。賢侯恩遇尤優渥。放使烟霞養老痾。其二。西遊昔日過君園。翠柳蔭池山映軒。佳境十年猶在目。方知帰計値春繁。其三。詞壇赤幟鎮山陽。藝頼已降筑亀惶。□騎一千時満巷。門徒七十日升堂。」第三の藝頼(げいらい)は安藝の頼春水、筑亀(ちくき)は筑前の亀井南溟である。此一首は頗る大家の気象に乏しく、蘭軒はその好む所に阿(おもね)つて、語に分寸あること能はざるに至つたと見える。わたくしがことさらに此詩を取るのは、蘭軒の菅に太(はなは)だ親しく頼に稍疎(うと)かつたことを知るべき資料たるが故である。
 蘭軒は又茶山に花瓶(くわへい)を贈つた。前詩の次に「同前贈一花瓶」として一絶がある。「天涯別後奈相思。駅使梅花有謝期。今日贈君小瓶子。插芳幾歳侍吟帷。」
 蘭軒は既に茶山を送るに詩を以てして足らず、恵(けい)は更に其同行者にも及んだ。「送臼杵直卿甲原元寿従菅先生帰。追師負笈促帰行。不遠山河千里程。幾歳琢磨一※[#「隻+隻」、7巻-154-下-13]璞。底為照乗底連城。」
 茶山は文化十二年二月某日昧爽に、小川町の阿部第(てい)を発した。友人等は送つて品川の料理店に至つて別を告げた。茶山の留別の詞に「長相思二□がある。「風軽軽。雨軽軽。雨歇風恬鳥乱鳴。此朝発武城。人含情。我含情。再会何年笑相迎。撫躬更自驚。」これが其一である。
 東海道中の諸作は具(つぶさ)に集に載せてある。河崎良佐は始終轎(かご)を並べて行つた。二人が袂を分つたのは四日市である。「一発東都幾日程。与君毎並竹輿行。」驥※(きばう)[#「亡/虫」、7巻-155-上-6]日記は恐くは品川より四日市に至る間の事を叙したものであらう。
 東海道を行つた間、月日を詳(つまびらか)にすべきものは、先づ三月二日に竜華寺(りうげじ)の対岸を過ぎたことである。「岡本醒廬勧余過竜華寺曰。風景為東海道第一。三月二日過其対岸。而風雨晦冥。遂不果遊。」
 三日には大井川を渡り、佐夜の中山を過ぎ、菊川で良佐と小酌した。集に「上巳渉大猪水作、懐伊勢藤子文」の長古がある。「帰程忽及大猪水、水阻始通灘猶駛、渉夫出没如鳧□、須臾出険免万死」の初四句は、当時渉河(せふか)の光景を写し出して、広重の図巻を展(の)ぶるが如くである。末解(まつかい)はかうである。「吾願造觴大如舟。盛以鵞黄泛前頭。乗此酔中絶洋海。直到李九門前流。」佐藤子文は伊勢国五十鈴川の上(ほとり)に住んでゐた。遠江国とは海を隔てて相対してゐたので、此の如く著想したのである。
 良佐は茶山への附合に、舟を同じうして佐屋川に棹(さをさ)した。「数派春流一短篷。喜君迂路此相同。」上(かみ)に云つたとほり、訣別したのは四日市である。
 茶山は大坂に著いて蘭軒に書を寄せた。其書は今伝はつてゐない。只添へてあつた片紙が饗庭篁村(あへばくわうそん)さんの蔵儲中に遺つてゐる。
「三月三日道中にて。けふといへば心にうかぶすみだ川わがおもふ人やながすさかづき。大井川をわたりて。大井川ながるゝ花を盃とみなしてわたるけふにもあるかな。このたびは花見てこえぬこれも又いのちなりけりさやの中山。池田の宿にてゆやが事をおもひ出しとき江戸の人に文つかはすことありしそのはしに。古塚をもる人あらばまつち山まつらむ友にわかれはてめや。さく花をなどよそに見むわれもはた今をさかりとおもふ身ならば。かかる事どもいうてかへり候。此次(ついで)におもひ出候。浜臣(はまおみ)のうた卿雲に約し候。おそきつぐのひにたんともらひたく候。御取もち可被下候。」
 茶山は清水浜臣に歌を書いて貰ふことを、狩谷□斎に頼んで置いた。□斎が久しく約を果さぬから、怠状の代には多く書かせて貰ひたいと云ふのである。浜臣は此年四十歳であつた。

     その七十六

 菅茶山は京都で嵐山の花を看、雨中に高瀬川を下つた。大坂では篠崎小竹、中井履軒を訪うた。就中(なかんづく)「訪履軒先生、既辞賦此」の五古は、茶山と履軒との平生の交を徴するに足るものである。「毎過浪華府。無不酔君堂。此度君在蓐。亦能共伝觴。(中略。)我齢垂古稀。君則八旬強。明日復修程。後期信茫茫。」履軒は当時八十歳、兄竹山を喪つてから十一年を経てゐた。茶山は六十八歳であつた。
 茶山は神辺(かんなべ)に還つた後、「帰後入城途上」の作がある。「官駅三十五日程。鶯花随処逐春晴。今朝微雨家林路。筍※[#「竹かんむり/擧」、7巻-156-下-8]徐穿暗緑行。」頃は三月の末か四月の初であつただらう。
 蘭軒は夏の初に長崎の劉夢沢(りうむたく)がために、其母の六十を寿する詩を作つた。「時節南薫好、開筵鶴浦干」云々の五律である。夢沢、名は大基、字(あざな)は君美(くんび)、既出の人物である。長崎通司にして劉姓なるものには、猶田能村竹田の文政九年に弔した劉梅泉と云ふものがある。「時梅泉歿後経数歳、有母仍在」と記してある。わたくしは母を寿した夢沢と母に先だつて死んだ梅泉とを較べて思つて見た。わたくしは此等の諸劉の上を知らむことを願つてゐる。長崎舌人(ぜつじん)の事跡に精(くわ)しい人の教を得たい。
 此年文化十二年五月に入つて、伊沢分家には又移居の事が起つた。これは蘭軒一族の存活上に、頗る重大なる意義があつたらしい。
 勤向覚書にかう云つてある。「文化十二年乙亥五月七日、私儀是迄外宅仕罷在候所、去六月中より疝積、其上足痛相煩、引込罷在、種々療治仕候得共、兎角聢と不仕、兼而難渋之上、久々不相勝、別而物入多に而、此上取続無覚束奉存候間、何卒御長屋拝借仕度奉存候得共、病気引込中奉願上候も奉恐入候、依而仲間共一統奉顧上候所、願之通被仰付候。」移転は町住ひを去つて屋敷住ひに就くのである。阿部家に請うて本郷丸山の中屋敷内に邸宅を賜ることになつたのである。按ずるに願書に謂ふところの難渋は、必ずしも字の如くに読むべきではあるまい。しかし当時伊沢分家が家政整理を行つたものと見たならば、過誤なきに庶幾(ちか)からう。
 覚書には次で下(しも)の三条の記事が載せてある。「同月廿一日。丸山御屋敷に而御長屋拝借被仰付候」と云ふのが其一である。「六月十六日、拝借御長屋附之品々、御払直段に而頂戴仕度段奉願上候所、同月十九日願之通被仰付候」と云ふのが其二である。又七月の記事中に、「同月廿二日、丸山御屋敷拝借御長屋え今日引移申候段御達申上候」と云ふのが其三である。
 蘭軒の一家は七月二十二日に、本郷真砂町桜木天神附近の住ひから、本郷丸山阿部家中屋敷の住ひに徙(うつ)つた。
 旧宅は人に売つたのである。「売家。天下猶非一人有。売過何惜小園林。担頭挑得図書去。此是凡夫執著心。」蘭軒のわたましが主に書籍のわたましであつたことは想像するに余がある。「同前呈後主人。構得軒窓雖不優。却宜酔月詠花遊。竟来貧至兌銭去。在後主人莫効尤。」わたくしは此首に於て蘭軒の善謔を見る。偶(たま/\)来つて蘭軒の故宅を買ふものが、争(いか)でか蘭軒の徳風に式(のつと)ることを得よう。

     その七十七

「君恩優渥満家財。況賜新居爽※[#「土へん+豈」、7巻-158-上-7]開。公宴不陪朝不坐。沈痾却作偸間媒。」これは蘭軒が「移居於丸山邸中」の詩である。所謂(いはゆる)丸山邸は即ち今の本郷西片町十番地の阿部邸である。蘭軒の一家は一たび此に移されてより、文久二年三月に至るまで此邸内に居つた。
「公宴不陪朝不坐」の句は大いに意義がある。阿部侯が宴を設けて群臣を召しても、独り蘭軒は趨(おもむ)くことを要せなかつた。わたくしはこれを読んでビスマルクの事を憶ひ起す。渠(かれ)は一切の燕席に列せざることを得た。わたくしは彼国に居つたが、いかなる公会に□(のぞ)んでも、鉄血宰相の面(おもて)を見ることを得なかつた。これを見むと欲すれば、議院に往くより外無かつたのである。渠は此の如くにして□理(せふり)の任を全うした。蘭軒は同一の自由を允(ゆる)されてゐて、此に由つて校讐の業に専(もつぱら)にした。人は或は此言(こと)を聞いて、比擬(ひぎ)の当らざるを嗤(わら)ふであらう。しかし新邦の興隆を謀(はか)るのも人間の一事業である。古典の保存を謀るのも亦人間の一事業である。ホオヘンツオルレルン家の名相に同情するも、阿部家の躄儒(へきじゆ)に同情するも、固よりわたくしの自由である。
「朝不坐」も亦阿部侯の蘭軒に与へた特典である。初め蘭軒は病後に館に上つた時、玄関から匍匐して進んだ。既にして輦(てぐるま)に乗ることを許された。後には蘭軒の轎(かご)が玄関に到ると、侍数人が轎の前に集り、円い座布団の上に胡坐(こざ)してゐる蘭軒を、布団籠(ふとんごめ)に手舁(てがき)にして君前に進み、そこに安置した。此の如くにして蘭軒は或は侯の病を診し、或は侯のために書を講じた。蘭軒は平生より褌(こん)を著くることを嫌つた。そして久しく侯の前にあつて、時に衣の鬆開(そうかい)したのを暁(さと)らずにゐた。侯は特に一種の蔽膝(へいしつ)を裁せしめて与へたさうである。座布団と蔽膝との事は曾能子(そのこ)刀自の語る所に従つて記す。
 蘭軒は阿部邸に徙(うつ)るために、長屋を借ることを願つた。しかし阿部家では所謂(いはゆる)石取(こくどり)の臣を真の長屋には居かなかつた。此年に伊沢氏の移つた家も儼乎たる一構(かまへ)をなしてゐたらしい。伊沢分家の人々は後に文久中に至るまで住んだ家が即ち当時の家だと云つてゐるが、勤向覚書を閲(けみ)するに、文化十四年に蘭軒は同邸内の他の家に移つた。高木氏の故宅と云ふのがそれである。今分家に平面図を蔵してゐる家屋は、恐くは彼高木氏の故宅であらう。平面図の事は猶後に記さうとおもふ。兎に角丸山邸内に於ける初の居所は、二年後に徙(うつ)つた後の居所に比すれば、幾分か狭隘であつたのだらう。蘭軒の高木氏の故宅に移つたのは、特に請うて移つたのである。
 菅茶山は此年文化十二年二月に江戸を発して、三月の末若くは四月の初に神辺に帰つた。途中で大坂から蘭軒に書を寄せたが、其書は佚亡してしまつて、只大井川其他の歌を記した紙片が遺つてゐる。次で茶山は秋の半に至るまで消息を絶つてゐた。
 大坂より送つた書には、江戸を発して伊勢に抵(いた)るまでの旅況が細叙してあつた筈である。茶山は秋に□(いた)つて又筆を把つた時、最早伊勢より備後に至る間の旅況を叙することの煩はしきに堪へなかつた。そこで旅物語を廃めてしまつた。此間の事情は八月二日に茶山の蘭軒に与へた書に就いて悉(つく)すことが出来る。これも亦饗庭篁村(あへばくわうそん)さんの所蔵である。

     その七十八

 茶山が此年文化十二年秋の半に蘭軒に与へた書はかうである。
「大坂より一書いせ迄のひざくりげ申上候。相達可申候。其後御病気いかが、入湯いかが、御案じ申候。物かくに御難義ならば、卿雲見え候節代筆御たのみ御容子御申こし可被下候。小山にてもよし。扨帰後早速に何か可申上候処、私も病気こゝかしこあしくなり、漸(やうやく)此比把筆出来候仕合、延引御断も無御坐候。」
「事ふり候へば道中はいせ限にてやめ可申候。帰後はをかしき咄もきかず、日々東望いたし、あはれ、江戸が備中あたりになればよいとのみ痴想いたし候。滞留中何かと御懇意は申つくしがたく、これはいはぬはいふにまさると思召可被下候。定て卿雲、市野、古庵様、服部、小山、市川あたり、日日聚話(しうわ)可有之、御羨敷奉存候。」
「扨私宅に志摩人北条譲四郎と申もの留守をたのみおき候。此人よくよみ候故、私女姪(ぢよてつ)二十六七になり候寡婦御坐候にめあはせ、菅(くわん)三と申姪孫(てつそん)生長迄の中継にいたし候積、姑(しばらく)思案仕候。」
「私は歯痛今以不□(いえず)、豆腐ばかりくひ申候。酒は少々いけ候へども、老境御垂憐可被下候。姉御様も御障なく御勤被成候覧。御餞(おんはなむけ)之御礼つど/\御申可被下候。金柚(きんいう)は時々□合(いんがふ)(此七字不明)一興をそへ申候。此よしも御申つたへ可被下候。何ぞさし上申度候へ共なし。豊が絵御入用候はばまたさし上可申と御伝可被下候。豊は尾道女画史(ぢよぐわし)也。花生(はないけ)は日々坐右におき、いまに草花たえずいけ申候。活花は袁中郎(ゑんちゆうらう)が瓶史(へいし)により候。御一笑可被下候。これよりも又備前やき陶尊(たうそん)一つ進申候。これまた案左(あんさ)にて御插可被下候。山陽近邦何のかはり候事もなく候。ことしも豊年と見え候。」
「扨去年の月はすみだ川、ことしの花はあらし山、無此上候。此秋はいかがいたし可申哉。独酌むしを聞候外いたしかたなく候。御憐察可被下候。花生は舟にて廻し候へば遅かるべし。帰路詩歌少し御坐候へ共、どうもえうつさせ不申候。いつにてもさし上可申候。先書状延引御断旁(かた/″\)早々申上残候。恐惶謹言。八月二日。菅太中晋帥(くわんたいちゆうしんすゐ)。伊沢辞安様。」
「令郎(れいらう)様追々御生立(おひたち)想像仕候。たんと御叱被成まじく候。あまりはやく成就いたさぬ様に御したて可被成候。くれ/″\も吾兄御近状にても御もらし可被下候。」
「又。」
「さて御いとま乞に参候せつ御目にかかり不申今に心あしく候。辞安様追々御こゝろよく御坐候哉。せつかく御いたはりなさるべく候。まことにたいりう中はかぎりなく御せわなし下され、わすれがたくぞんじ上候。只々御目にかからず帰候こと御のこり多く御坐候。ずゐぶん御身御よう心御わづらひなさらず候へかしといのり申候。かしこ。右御おくさま。太中。」
「おさよどのへ申候。たび/\参候ていろ/\さしつかひ候御せわのだん申つくしがたく候。ずゐぶん御すこやかに御せわなさるべく候。」
「又。」
「麻布令兄御女子(によし)御両処へ宜奉願上候。」
「又。」
「古庵様、卿雲、市野、服部、小山諸君へ御会合之度に宜御申可被下候。市川は別に一書あり。」
 以上長四尺許(ばかり)の半紙の巻紙に書いた書牘(しよどく)の全文である。蠧蝕(としよく)の処が少しあるが、幸に文字を損ずること甚しきに至つてゐない。

     その七十九

 此書牘、文化乙亥の茶山の第一書に、主要なる人物として北条譲四郎の出て来たのは、恰(あたか)も庚午の書に頼久太郎の出て来たと同じである。わたくしは第一書と云ふ。これは此歳の初冬には茶山が更に第二書を蘭軒に寄せたからである。
 北条譲、字(あざな)は子譲(しじやう)又景陽、霞亭、天放等の号がある。志摩国的屋(まとや)の医師道有の子に生れた。弟立敬(りつけい)に父の業を襲(つ)がせて儒となつた。乙亥には三十六歳になつてゐた。
 茶山が前年の夏より此年の春に至るまで、江戸に旅寝をした間、北条を神辺(かんなべ)の留守居に置いたことは、黄葉夕陽村舎詩にも見えてゐる。百川楼(せんろう)に勝田鹿谷(ろくこく)の寿筵があつた。茶山は遅く往つた。すると途上で楼を出て来た男が茶山を捉へて、「お前さんは菅茶山ぢやないか、わしは亀田鵬斎(ぼうさい)だ」と云つた。二人は曾(かつ)て相見たことはないのである。鵬斎は茶山を伴つて、再び楼に登つた。茶山は留守居の北条が鵬斎を識つてゐるので、自ら鵬斎に贈る詩を賦し、鵬斎の詩をも索(もと)めて、北条に併せ送つた。「陌上憧々人馬間。瞥見知余定何縁。明鑑却勝□季野。歴相始得孟万年。拏手入筵誇奇遇。満堂属目共歓然。儒侠之名旧在耳。草卒深忻遂宿攀。吾郷有客与君善。遙知思我復思君。余将一書報斯事。空函乞君附瑤篇。」拏手(たしゆ)筵(えん)に入るの十四字、儒侠文左衛門の面目が躍如としてゐる。読んで快と呼ぶものは、独り此詩筒を得た留守居の北条のみではあるまい。
 鵬斎が茶山を通衢上(つうくじやう)に捉へて放さなかつた如く、茶山は霞亭を諸生間に抜いて縦(はな)つまいとした。「わたくし女姪二十六七になりし寡婦御坐候にめあはせ、菅三と申姪孫生長迄の中継にいたし候積」と云つてある。行状を参照すれば、「二弟曰汝□、(中略)曰晋葆、(中略)無後、汝□亦夭、有子曰万年、(中略)亦夭、有子曰惟繩、称三郎、於先生為姪孫、今嗣菅氏、(中略)又延志摩人北条譲、為廉塾都講、以妹女井上氏妻焉」と云つてある。茶山は女姪(ぢよてつ)井上氏を以て霞亭に妻(めあは)せ、徐(しづか)に菅三万年(くわんさんまんねん)の長ずるを待たうとした。即ち「中継」である。
 茶山は前(さき)に久太郎を抑止しようとした時は後住(ごぢゆう)と云ひ、今譲四郎を拘係(くけい)しようとする時は仲継と云ふ。その俗簡を作るに臨んでも、字を下すこと的確動すべからざるものがある。わたくしは其印象の鮮明にして、銭(ぜに)の新に模(ぼ)を出でたるが如くなるを見て、いまさらのやうに茶山の天成の文人であつたことを思ふのである。
 北条霞亭よりして外、茶山の此書は今一人の新人物を蘭軒に紹介してゐる。それは女である。「尾道女画史」豊(とよ)である。
 蘭軒の姉、黒田家の奥女中幾勢(きせ)は茶山に餞(はなむけ)をした。所謂(いはゆる)餞は前に引いた短簡に見えてゐる茶碗かも知れない。わたくしは此餞を云々した条(くだり)の下(しも)に、不明な七字があると云つた。此所には蠧蝕(としよく)は無い。読み難いのは茶山の艸体である。蘭軒の姉は彼餞以外に別に何物をか茶山に贈つた。茶山は帰後時々それを用(も)つて興を添へると云つてゐる。其物は「金柚」と書してある如くである。柚は橘柚(きついう)か。果して然らば疑問は本草の疑問である。兎に角茶山は此種々の贈遺に酬いむと欲した。茶山は嘗て豊が絵を幾勢に与へたことがある。そこで「御入用候はばまたさし上可申」と云ふのである。

     その八十

 菅茶山は嘗て蘭軒の姉幾勢(きせ)に尾道の女画史(ぢよぐわし)豊(とよ)が画を贈つたことがあつて、今又重て贈るべしや否やを問うてゐる。豊とは何人であらうか。
 わたくしは豊は玉蘊(ぎよくうん)の名ではないかと推測した。竹田荘師友画録にかう云つてある。「玉蘊。平田氏。尾路人。売画養其母。名聞于時。居処多種鉄蕉。扁其屋曰鳳尾蕉軒。画出於京派。専写生□毛花卉。用筆設色倶妍麗。又画人物。観関壮穆像。頗雄偉。女史阿箏語予曰。玉蘊容姿□娜。其指繊而秀。如削玉肪。其画之妙宜哉。常愛古鏡。襲蔵十数枚。茶山杏坪諸老及山陽各有題贈。」竹田は氏を書して名を書せない。しかし茶山集に「玉蘊女画史」と称してゐるのを見て、柬牘(かんどく)の尾道女画史におもひくらべ、玉蘊の平田豊なるべきを推測したのである。
 わたくしは師友画録を読んで、今一つ推測を逞しうした。それは玉蘊は或は草香孟慎(くさかまうしん)の族ではなからうかと云ふことである。竹田の記する所に拠れば、玉蘊は居る所に□して鳳尾蕉軒(ほうびせうけん)と曰つたさうである。然るに頼春水の集壬子の詩に、「春尽過尾路題草香生鳳尾蕉軒」の絶句がある。玉蘊と孟慎とは、同じく尾道の人であつて、皆鳳尾蕉軒に棲んでゐた。若し居る所が偶(たま/\)其名を同じうするのでないとすると、二人の間に縁故があるとも看られるのである。
 此段を書し畢(をは)つた後に、わたくしは林中将太郎さんの蔵する玉蘊の画幅に「平田氏之女豊」の印があることを聞いた。玉蘊の名は果して豊であつた。次でわたくしは茶山集中に「草香孟慎墓」の五律があるのを見出した。其七八に「遺編托女甥、猶足慰竜鍾」とある。女甥(ぢよせい)は豊ではなからうか。
 茶山は此書を作るに当つて、蘭軒の親族のために一々言ふ所があつた。
 先づ榛軒がためには、父蘭軒に子を教ふる法を説いてゐる。「たんと御叱被成まじく候。あまりはやく成就いたさぬ様に御したて可被成候。」至言である。茶山は十二歳の棠助(たうすけ)のためにこれを発した。
 飯田氏益(ます)に対しては、茶山は謝辞を反復して悃□(こんくわん)を尽してゐる。江戸を発する前に、まのあたり告別することを得なかつたと見える。
 側室さよに対しては、「さしつかひ候御せわ」を謝し、又「御すこやかに御せわなさるべく」と嘱してゐる。前の世話は客を□待する謂(いひ)、後の世話は善く主人を視る謂である。「さしつかひ候」は耳に疎(うと)い感がある。或は当時の語か。
「麻布令兄様御女子御両処へ宜奉願上候。」此句を見てわたくしは少く惑ふ。しかし麻布は鳥居坂の伊沢宗家を斥(さ)して言つたのであらう。令兄は信美(しんび)であらう。蘭軒の父信階(のぶしな)の養父信栄(しんえい)の実子が即ち信美である。家系上より言へば蘭軒の叔父(しゆくふ)に当る。蘭軒には姉があつて兄が無かつた筈である。わたくしは姑(しばら)く茶山が信美と其女(ぢよ)とを識つてゐたものと看る。
 以上は茶山が蘭軒の家眷宗族のために言つたのである。次に蘭軒の交る所の人々の中、茶山の筆に上つたものが六人ある。
 余語古庵(よごこあん)をば特に「古庵様」と称してある。大府の御医師として尊敬したものか。「卿雲」は狩谷□斎、「市野」は迷庵、「服部」は栗陰(りついん)[#ルビの「りついん」は底本では「りつりん」]、「小山」は吉人(きつじん)か。中にも卿雲吉人には、茶山が蘭軒に代つて書牘(しよどく)を作つて貰はうとした。独り稍不明なのは書中に所謂(いはゆる)「市川」である。
 わたくしは市川は市河であらうかと推する。寛斎若くは米庵であらうかと推する。市河を市川に作つた例は、現に刻本山陽遺稿中にもあるのである。此年寛斎は六十七歳、米庵は三十七歳であつた。

     その八十一

 菅茶山と市河寛斎父子との交は、偶(たま/\)茶山集中に父子との応酬を載せぬが、之れを菊池五山、大窪天民との交に比して、決して薄くはなかつたらしい。茶山の五山との伊勢の邂逅は、五山が自ら説いてゐる。その五山及天民との応酬は多く集に載せてある。山陽の所謂「同功一体」の三人中、茶山が独り寛斎に薄かつたものとはおもはれない。市河三陽さんの云ふを聞くに、文化元年に茶山の江戸に来た時、米庵は長崎にゐた。帰途頼春水を訪うて、山陽と初て相見た時の事である。米庵は神辺に茶山の留守を訪うた。此年文化十一年の事は市河氏の書牘(しよどく)にかう云つてある。「這次は寛斎崎に祗役して帰途茶山の留守に一泊、山陽と邂逅致申候。茶山未去、江戸に帰来して、三人一坐に歓候事、寛斎遺稿の茶山序中に見え居候。」蘭軒に至つては、既に鏑木雲潭(かぶらきうんたん)と親善であつた。多分其兄米庵をも、其父寛斎をも識つてゐたことであらう。
 老いたる茶山は神辺に住み、豆腐を下物(げぶつ)にして月下に小酌し、耳を夜叢の鳴虫に傾け、遙に江戸に於ける諸友聚談の状をおもひやりつゝ、「あはれ、江戸が備中あたりになればよい」とつぶやいた。しかし此年文化十二年八月既望の小酌は、書を裁した十四日前に予測した如き「独酌」にはならなかつた。「十五夜分得韻侵。去載方舟墨水潯。今宵開閣緑峰陰。浮生不怪浪遊迹。到処還忻同賞心。両度秋期無片翳。孤村社伴此聯吟。明年知与誰人玩。松影斜々露径深。」幸に此社伴(しやはん)の聯吟があつて、稍以て自ら慰むるに足つたであらう。
 九月には茶山の詩中に臥蓐(ぐわじよく)の語がある。しかし客至れば酒を飲んだ。「斯客斯時能臥蓐。勿笑破禁酒頻傾。」啻(たゞ)に然るのみではない。往々此の如きもの連夜であつた。「月下琴尊動至朝。十三十四一宵宵。」
 十月に入つて茶山は蘭軒の書を獲た。これは丸山に徙(うつ)つたことを報ずる書で、茶山の八月の書と行き違つたものである。十日に茶山は答書を作つた。亦饗庭篁村(あへばくわうそん)さんの蔵儲中に存してゐる。
「御手教珍敷(めづらしく)拝見仕候。御気色之事而已(のみ)案じゐ申候処、足はたたねど御気分はよく候由、先々安心仕候。円山へ御移之由、これは御安堵御事、御内室様もおさよも少々間を得られ可申と奉存候。六右衛門、古庵様など折ふし御出之由、かくべつ寂寥にもあらざめりと悦申候。高作ども御見せ、感吟仕候。売家の詩は妙甚候。拙和(せつわ)ども呈(ていし)申度候へ共、急に副し不申候。とくに一書さし出候へども、いまだ届不申候よし、元来帰国早々可申上候処、日々来客、そのうちに不快(此一字不明)になり、夏中不勝(すぐれず)、又秋冷にこまり申候而延引如此に御坐候。花瓶(くわへい)は日々坐右におき、今日は杜若(かきつばた)二りんいけゐ申候。四季ざき也。」
「市翁麦飯学者之説、歎服いたし候。麦飯にても学者あればよけれど、麦飯学者もなく候。日々生徒講釈などこまり申候。」
「伊勢之川崎良佐(りやうさ)、帰路同道、江戸へ二十度もゆき、初両三度ははやくいにたい/\とのみおもひ候。近年にては今しばらくもゐたし、住居してもよしと思候と物がたり候。私もまた参たらば、其気になり可申やと存候へ共、何さま七十に二つたらず、生来病客、いかんともすべからず候。」
「帰路之詩も少々有候へ共、人に見せおき、此便間に合不申候。あとよりさし上可申候。先便少々はさし上候やとも覚申候が、しかと不覚候。」
「狐は時々見え候や承度候。千蔵がいふきつね也。千蔵も広島に小店(こだな)をかり教授とやら申ことに候。帰後はなしとも礫(つぶて)とも不承候。源(げん)十直卿(ちよくけい)仍旧(きうにより)候。源十軽浮、時々うそをいふこと自若。直卿依旧(きうにより)候。主計(かぞへ)はとう/\矢代君へ御たのみ被下候よし、忝奉存候。八月には帰ると申こと。舟にて沖をのり、もはや柳里(りうり)(此二字又不明)へ落著と奉存候。服部子いかが。これこそもとよりしげく参らるべし。御次(おんついで)に六右衛門、古庵様などへ、一同宜奉願上候。近作二三醜悪なれども近況を申あぐるためうつさせ候。小山西遊はいかが。十月十日。菅太中晋帥(くわんたいちゆうしんすゐ)。伊沢辞安様。」
「歯痛段々おもり、今は豆腐の外いけ不申候。酒はあとがあしけれど、無聊を医し候ため時々用候。」

     その八十二

 菅茶山の乙亥八月十月の二書は、これを作つた日時が隔絶してをらぬので、文中の境遇も感情も殆ど全く変化してゐない。それゆゑ此二書には重複を免れぬ処がある。紀行の詩を云云するが如きに至つては、自ら前牘(ぜんどく)の字句をさへ踏襲してゐる。
 茶山は旧に依つて江戸を夢みてゐる。前牘に「備中あたりになればよい」と云つた江戸である。茶山は端(はし)なく、漸く江戸に馴れて移住してもよいと云ふ河崎良佐(りやうさ)と、猶江戸を畏れつゝ往反に艱(なや)む老を歎く自己とを比較して見た。そして到底奈何(いかん)ともすべからずと云ふに畢(をは)つた。
 わたくしは此に少しく河崎の事を追記したい。これは同時に茶山西帰の行程を追記したいのである。河崎に驥※(きばう)[#「亡/虫」、7巻-168-下-3]日記の著があつたことは既に言つた。しかしわたくしは未だ其書を見るに及ばなかつた。
 頃日(このごろ)わたくしは彼書を蔵するもの二人あることを聞いた。一は京都の藤井乙男(おとを)さんで、一は東京の三村清三郎さんである。そして二氏皆わたくしに借抄を允(ゆる)さうといふ好意があつて、藤井氏は家弟潤三郎に、三村氏は竹柏園主にこれを語つた。偶(たま/\)藤井氏の蔵本が先づ至つたので、わたくしは此に由つて驥※[#「亡/虫」、7巻-168-下-10]日記のいかなる書なるかを知つた。
 藤井本は半紙の写本で、序跋を併せて二十七頁(けつ)である。首には亀田鵬斎の叙と既に引いた茶山の叙とがある。末には北条霞亭と立原翠軒との題贈がある。彼は七絶二、此は七絶七である。最後の半頁は著者の嗣子松(しよう)の跋がこれを填(うづ)めてゐる。
 本文の初に「伊勢河崎敬軒先生著、友人韓□聯玉校」と署してある。河崎良佐が敬軒と号したことが知られる。又敬軒の文政二年己卯五月二十七日に歿したことは、子松の跋に見えてゐる。韓□(かんかく)は山口覚大夫、号凹巷(あふこう)で、著者校者並に伊勢の人である。
 わたくしの日記に期待した所のものは、主に茶山西帰の行程である。それゆゑ先づこれを抄出する。
「乙亥二月二十六日。雨。発東都。聞都下送者觴茶山先生於品川楼。予与竹田器甫先発。宿程谷駅。」発□(はつじん)の日は二十六日であつた。河崎竹田は祖筵に陪せずして先発した。竹田器甫(きほ)は茶山集にも見えてゐて、筑前の人である。
「廿七日。巳後先生至。江原与平及門人豊後甲原玄寿讚岐臼杵直卿従。発装及申。宿戸塚駅。」敬軒等は茶山を程谷(ほどがや)に待ち受け、此より同行した。茶山は二十六日の夜を川崎に過したのである。「云昨留于川崎駅」と書してある。江原与平は茶山の族人である。
「廿八日。放晴。鎌倉之遊得遂矣。経七里浜。至絵島。宿藤沢駅。」鎌倉行は夙約(しゆくやく)があつた。
「廿九日。宿小田原駅。」
「晦。踰函山。畑駅以西。残雪尺許。宿三島駅。」
「三月朔。好晴。宿本駅。」本駅(ほんえき)はもとじゆくか。
「二日。天陰。興津駅雨大至。比至阿陪川放晴。宿岡部駅。」
「三日。済大猪川。宿懸川駅。」
「五日。済荒井湖。宿藤川駅。」
「六日。宿熱田駅。」
「七日。極霽。至佐屋駅。下岐蘇川。宿四日市。明日将別。」
「八日。遂別。宿洞津城。」
「九日。未牌帰家。」
 以上が肉を去り骨を存した紀行である。わたくしは全篇を読んで、記すべき事二件を見出だした。一は敬軒が谷文晃に「茶山鵬斎日本橋邂逅図」を作らせ、鵬斎に詩を題せしめて持ち帰つたことである。「身是関東酔学生。公是西備茶山翁。日本橋上笑相見。共指天外芙蓉峰。都下閧伝為奇事。便入写山画図中。」一は茶山自家が日記を作つてゐたことである。「先生客中日記。名東征暦。」知らず、東征暦は猶存せりや、あらずや。

     その八十三

 蘭軒は菅茶山に告ぐるに、市野三右衛門、狩谷三右衛門、余語古庵(よごこあん)の時々来り訪ふことを以てした。茶山は蘭軒のこれによつて寂寥を免るゝを喜び、乙亥十月の書牘(しよどく)に「六右衛門、古庵様などへ一同宜」しくと云つてゐる。
 蘭軒は又茶山に迷庵三右衛門の麦飯学者の説と云ふものを伝へた。わたくしはその奈何(いか)なる説なるかを知らぬが、茶山は「歎服いたし候」と挨拶してゐる。世間に若し此説を見聞した人があるなら、わたくしは其人に垂教を乞ひたい。
 茶山の此書を読んで、わたくしは頼竹里(ちくり)が此年文化十二年に江戸より広島へ帰り、□居して徒(と)に授けたことを知る。頃日(このごろ)わたくしに無名の葉書を投じた人がある。消印の模糊たるがために、わたくしは発信者の居処をだに知ることが出来ない。葉書は単に鉛筆を用(もつ)て頼氏の略系を写し出したものである。此に竹里の直接尊卑属を挙ぐれば、「伝五郎惟宣、千蔵公遷、常太綱」であつて、諸書の載する所と何の異なる所も無い。しかし此三人の下(もと)には各(おの/\)道号が註してある。即ち惟宣(ゐせん)は融巌(ゆうがん)、公遷は竹里、綱(かう)は立斎である。思ふにわたくしに竹里の公遷たることを教へむと欲したものであらうか。惜むらくは無名氏のわたくしに捷径を示したのは、わたくしが迂路に疲れた後であつた。
 茶山の書には猶数人の名が見えてゐる。直卿は初め臼杵(うすき)氏、後牧氏、讚岐の人で、茶山の集に見えてゐる。其他軽浮にして「時々うそをいふ」源十、矢代某に世話を頼んでもらつた主計(かぞへ)、次に竹里に狐の渾名(あだな)をつけられた某である。此等源十以下の人々は皆輙(たやす)く考ふることが出来ない。
 此年十二月十九日に、蘭軒は阿部正精(まさきよ)に請ふに間職に就くことを以てし、二十五日に奥医師より表医師に遷された。「十二月十九日、私儀去六月下旬より疝積其上足痛相煩引込罷在候而、急に出勤可仕体無御坐候に付、御機嫌之程奉恐入候、依之此上之以御慈悲、御番勤御免被下、尚又保養仕度奉願候所、同月廿五日此度願之趣無拠義被思召、御表医師被仰付候。」これが勤向覚書の記する所である。
 奥医師より表医師に遷るは左遷である。阿部侯は蘭軒の請によつて已むことを得ずして裁可した。しかし蘭軒を遇することは旧に依つて渥(あつ)かつたのである。翌年元旦の詩の引に、蘭軒はかう書いてゐる。「乙亥十二月請免侍医。即聴補外医。藩人凡以病免職者。俸有減制。余特有恩命。而免減制云。」
 此年の暮るゝに至るまで、蘭軒は復(また)詩を作らなかつた。茶山には数首の作があつて、其中に古賀精里に寄する畳韻の七律三首等があり、又除夕(ぢよせき)の五古がある。「一堂蝋梅気、環坐到天明」は後者末解の二句である。
 頼氏の此年の事は、春水遺稿の干支の下に最も簡明に註せられてゐる。「乙亥元鼎夭。以孫元協代嗣。君時七十。」夭したのは春風惟疆(ゐきやう)の長子で、養はれて春水の嗣子となつてゐた権次郎元鼎新甫(げんていしんほ)である。これに代つたのは山陽が前妻御園氏に生ませた余一元協承緒(げんけふしようちよ)、号は聿庵(いつあん)である。春水は病衰の身であるが、其病は小康の状をなしてゐた。除夕五律の五六にかう云つてある。「奇薬春回早。虚名棺闔遅。」
 此年蘭軒は年三十九、妻益は三十三、榛軒は十二、常三郎は十一、柏軒は六つ、長は二つ、黒田家に仕へてゐる蘭軒の姉幾勢は四十七である。

     その八十四

 文化十三年には、蘭軒は新に賜はつた丸山の邸宅にあつて平穏な春を迎へた。表医師に転じ、復(また)宿直の順番に名を列することもなく、心やすくなつたことであらう。「丙子元日作。朝賀人声侵暁寒。病夫眠寤日三竿。常慚難報君恩渥。却是強年乞散官。」題の下に自註して躄痿(へきゐ)の事を言ひ、遷任の事を言つてゐるが、既に引いてあるから省く。
 茶山も亦同じ歳首の詩に同じ間中の趣を語つてゐる。年歯の差は殆三十年を算したのであるが、足疾のために早く老いた伊沢の感情は、将に古稀に達せむとする菅の感情と相近似することを得たのである。「元日。彩画屏前碧澗阿。新禧両歳境如何。暁趨路寝栄堪恋。夜会郷親興亦多。」江戸にあつて阿部侯に謁した前年と、神辺(かんなべ)にある今年とを較べたのである。
 尋で蘭軒に「豆日草堂集」の詩があれば、茶山に「人日同諸子賦」の詩がある。わたくしは此に蘭軒の五律の三四だけを抄する。それは千金方(きんはう)を講じたことに言及してゐるからである。「恰迎蘭薫客。倶披華表経。」
 二月十九日に広島で頼春水が歿した。年七十一である。前年の暮から悪候が退(しりぞ)いて、春水自身も此の如く急に世を辞することをば期せなかつたらしい。
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