伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 わたくしは※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-113-上-2]詩集に阿部侯棕軒(そうけん)の評語批圏のあることを言つたが、侯の閲を経た迹は此年の秋の詩に至るまで追尋することが出来る。是より以下には菅茶山の評点が多い。
 冬の詩は五首ある、十月には蘭軒が病に臥してゐた。「病中雑詠。空負看楓約。抱痾過小春。酒罌誰発蓋。薬鼎自吹薪。業是兼旬廃。家方一段貧。南窓炙背坐。独有野禽親。」業を廃し□(しよ)を失つたと云ふを見れば、病は稍重かつたであらう。
 蘭軒の病は十一月後に□(い)えてゐた。冬の詩の中には「雪中探梅」の作もある。
 此年蘭軒の家庭は主人三十二歳、妻益二十六歳、嫡子棠助(たうすけ)五歳、次子常三郎四歳の四人から成つてゐた。

     その五十六

 文化六年の春の初には、前年の暮に又病んでゐた蘭軒が回復したらしい。「早春登楼」の詩に「蘇暄身漸健、楼上試攀躋」と云つてある。蘭軒は此(かく)の如く忽ち病み忽ち□(い)ゆるを常としてゐたが、その病める間も大抵学業を廃せず往々公事をも執行してゐた。次年以下の勤向覚書を検すれば、此間の消息を知ることが出来る。
 二三月の交であらう。蘭軒の外舅(ぐわいきう)飯田休庵が七十の賀をした。「歌詠学成仙府調、薬丹伝得杏林方」は蘭軒が贈つた詩の頷聯である。わたくしは休庵が事迹の徴すべきものがあるために、故(ことさら)に此二句を録する。歌詠の句の下に蘭軒は「翁嘗学国歌于亜相冷泉公」と註してゐる。休庵信方(のぶかた)の師は恐くは冷泉為泰(れいぜいためやす)であらう。祝髪後等覚(しゆくはつごとうがく)と云つた人である。
 三月十三日に蘭軒は詩会を家に催した。「三月十三日草堂小集」の七律がある。「会者七人。犬塚印南、頼杏坪、石田梧堂、鈴木暘谷、諸葛某、木村文河、頼竹里也。」
 印南(いんなん)、杏坪(きやうへい)、文河(ぶんか)、竹里(ちくり)は既に上(かみ)に見えてゐる。文河は定良(さだよし)、竹里は遷(せん)である。
 石田梧堂、名は道(だう)、字(あざな)は士道と註してある。秋田の人であらう。茶山集甲子の詩に「題文晁画山為石子道」の七律、丁丑の詩に「次梧堂見寄詩韻兼呈混外上人」の七絶、庚辰の詩に「題石子道蔵松島図」の七古がある。家は不忍池の畔(ほとり)にあつたらしい。
 鈴木暘谷(やうこく)は名は文、字は良知と註してある。皇国名医伝には名は素行と云つてある。博学の人で、殊に本草に精しかつた。読書のために目疾を獲たと伝へられてゐる。
 諸葛(もろくず)某は或は琴台(きんたい)ではなからうか。手近にある二三の書を検するに、琴台の歿年は文化四年、七年、十年等と記してある。七年を正とすべきが如くである。果して然りとすると、此筵に列する後一年にして終つたのである。
 此春蘭軒が柴山謙斎の家の詩会に□(のぞ)んで作つた詩がある。謙斎は其人を詳(つまびらか)にしない。蘭軒の交る所に前に柴担人(さいたんじん)がある。人物の同異未詳である。
 夏の初と覚しき頃、蘭軒は又家を移した。しかし此わたましの事も亦伊沢分家の口碑には伝はつてゐない。「移家湖上。択勝構成湖上家。雨奇晴好向人誇。緑田々是新荷葉。白□々為嫩柳花。烟艇載歌帰遠浦。暮禽連影落平沙。童孫采得※[#「くさかんむり/純」、7巻-114-下-10]糸滑。菜品盤中一雋加。」時は蓮葉の開いて水面に浮び初むる比、所は其蓮の生ずる湖の辺(ほとり)である。或は此家は所謂「湯島天神下薬湯」の家かとも疑はれる。しかし蘭軒の語に分明に「移家」と云ひ、「構成湖上家」と云ふを見れば、どうも薬湯の家とは認め難い。わたくしは姑(しばら)く蘭軒が一時不忍の池の辺に移住したものと看做(みな)して置きたい。但蘭軒は久しく此に居らずに、又本郷に還つたらしい。
 五月七日に蘭軒の師泉豊洲が歿した。年は五十二歳、身分は幕府先手与力(さきてよりき)の隠居であつた。先妻紀(き)平洲の女(ぢよ)は夫に先(さきだ)つて歿し、跡には継室麻田氏が遺つた。紀氏は一男一女を生んで、男は夭し、麻田氏は子がなかつた。
 豊洲は浅草新光明寺に葬られた。伊沢総宗家の墓のある寺である。豊洲の墓は墓地の中央本堂に近い処にある。同門の友人樺島石梁(かばしませきりやう)がこれに銘し、阿部侯椶軒(そうけん)が其面に題した。碑陰に書したものは黒川敬之である。豊洲の墓は幸にして猶存じてゐるが、既に久しく無縁と看做されてゐる。久しく此寺に居る老僕の言ふ所によれば、従来豊洲の墓に香華(かうげ)を供したものはわたくし一人ださうである。
 樺島石梁、名は公礼、字(あざな)は世儀(せいぎ)、通称は勇七である。豊洲が墓には「友人久留米府学明善堂教授樺島公礼銘」と署してゐる。

     その五十七

 此夏、文化六年の夏、蘭軒は石坂白卿(はくけい)と石田士道との家に会して詩を賦した。士道は上(かみ)に見えた梧堂であるが、白卿は未だ考へない。梧堂の居る所は小西湖亭と名づけ、蘭軒の詩にも「門蹊欲転小天台、窓歛湖光三面開」と云つてあるから、不忍池の上(ほとり)であつただらう。若し蘭軒の新に移り来つた湖上の家が同じく不忍池の畔(ほとり)であつたなら、両家は相距(さ)ること遠くなかつたかも知れない。蘭軒が詩の一には「酔歩重来君許否、観蓮時節趁馨香」の句もある。梧堂は恐くは蘭軒と同嗜の人であつただらう。わたくしは「箇裏何唯佳景富、茶香酒美貯書堆」と云ふより此(かく)の如く推するのである。
 茶山の集には此秋に成つた「寄蘭軒」と題した作がある。「一輪明月万家楼。此夜誰辺作半秋。茗水茶山二千里。無人相看説曾遊。」
 秋冬の蘭軒が詩には立伝の資料に供すべきものが絶て無い。しかし次年二月に筆を起してある勤向覚書に徴するに、蘭軒は此年十二月下旬より痼疾の足痛を患(うれ)へて、医師谷村玄□(げんみん)の治療を受けた。谷村は伊予国大洲の城主加藤遠江守泰済(やすずみ)の家来であつた。或はおもふに谷村は蘭軒が名義上の主治医として願届に書した人名に過ぎぬかも知れない。
 頼菅二家に於て、山陽に神辺(かんなべ)の塾を襲がせようとする計画が、漸く萌し漸く熟したのは、此年の秋以来の事である。頼氏の願書が浅野家に呈せられたのが十二月八日、浅野家がこれを許可したのが二十一日、山陽が広島を立つたのが二十七日である。「回頭故国白雲下。寄跡夕陽黄葉村。」
 此年蘭軒は年三十三、妻益(ます)は二十七、嫡子榛軒信厚(しんけんのぶあつ)は六つ、次子常三郎は五つであつた。
 文化七年は蘭軒がために詩の収穫の乏しかつた年である。集に僅に七絶三首が載せてあつて、其二は春、其一は夏である。皆考拠に資するには物足らぬ作である。これに反して所謂(いはゆる)勤向覚書が此年の二月に起藁せられてゐて、蘭軒の公生涯を知るべきギイドとなる。
 正月十日に蘭軒の三男柏軒が生れた。母は嫡室(てきしつ)飯田氏益である。小字(をさなな)は鉄三郎と云つた。
 二月七日に蘭軒は湯島天神下薬湯へ湯治に往つた。「私儀去十二月下旬より足痛相煩引込罷在候而、加藤遠江守様御医師谷村玄□薬服用仕、段々快方には候得共、未聢と不仕、此上薬湯え罷越候はゞ可然旨玄□申聞候、依之月代仕、湯島天神下薬湯え三廻り罷越申度段奉願上候所、即刻願之通山岡衛士殿被仰渡候。」これが二月七日附の文書である。
 蘭軒は二十三日に至つて病愈(い)え事を視ることを得た。「私儀足痛全快仕候に付、薬湯中には御座候得共、明廿三日より出勤仕候段御達申上候。」これが二十二日附である。下(しも)に「翌廿三日出勤番入仕候」と書き足してある。今届と云ふ代に、当時達(たつし)と云つたものと見える。
 夏は蘭軒が健(すこやか)に過したことだけが知れてゐる。「夏日過両国橋。涼歩其如熱閙何。満川強半妓船多。関東第一絃歌海。吾亦昔年漫踏過。」素直に聞けば、余りに早く老いたのを怪みたくなる。しかし素直に聞かずには置きにくい詩である。三十四歳の蘭軒をして此語をなさしめたものは、恐くは其足疾であらうか。
 秋になつて八月の末に、菅茶山が蘭軒に長い手紙を寄せた。此簡牘(かんどく)は伊沢信平さんがわたくしに借してくれた二通の中の一つで、他の一つは此より後十四年、文政八年十二月十一日に裁せられたものである。わたくしは此二通を借り受けた時、些(ちと)の遅疑することもなく其年次を考ふることを得て、大いにこれを快とし、直に記して信平さんに報じて置いた。今先づ此年八月二十八日の書を下に写し出すこととしよう。

     その五十八

 茶山が文化七年八月二十八日に蘭軒に与へた書は下(しも)の如くである。
「御病気いかが。死なぬ病と承候故、念慮にも不掛(かけず)と申程に御座候ひき。今比は御全快奉察候。」
「中秋は十四日より雨ふり、十五日夜九つ過には雨やみ候へども、月の顔は見えず、十六日は快晴也。然るに中秋半夜の後松永尾道は清光無翳と申程に候よし。松永は纔(わづか)四里許の所也。さほどの違はいかなる事にや。蘇子由(そしいう)は中秋万里同陰晴など申候。むかしより試もいたさぬ物に候。此中秋(承候処周防長門清光)松永四里之処にては余り之違に御座候。(其後承候に半夜より清光には違なし。奇と云べし。)海東二千里定而(さだめて)又かはり候事と奉存候。御賞詠いかゞ、高作等承度候。」
「木王園(もくわうゑん)主人時々御陪遊被成候哉。石田巳之介蠣崎(かきざき)君などいかが、御出会被成候はば宜奉願上候。」
「特筆。」
「津軽屋如何(いかゞ)。春来は不快とやら承候。これも死なぬ疾(やまひ)にもや候覧(さふらふらむ)。何様宜奉願上候。市野翁いかが。」
「去年申上候塙書之事(はなはしよのこと)大事之事也。ねがはくは御帰城之便に二三巻宛(づゝ)四五人へ御託し被下候慥に届可申候。必々奉願上候。」
「長崎徳見茂四郎西湖之柳を約束いたし候。必々無間違贈候様、それよりも御声がかり奉願上候。」
「此辺なにもかはりなく候。あぶらや本介(もとすけ)も同様也。久しく逢不申候。福山辺(へんより)長崎へ参候輩も皆々無事也。其うち保平(やすへい)と申は悼亡のいたみ御座候。玄間は御医者になり威焔赫々。私方養介も二年煩ひ、去年漸(やうやく)起立、豊後へ入湯道中にて落馬、やうやく生て還候。かくては志も不遂(とげず)、医になると申候。」
「私方へ頼久太郎と申を、寺の後住(ごぢゆう)と申やうなるもの、養子にてもなしに引うけ候。文章は無※[#「隻+隻」、7巻-118-下-3]也。為人(ひととなり)は千蔵よく存ゐ申候。年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、廿前後の人の様に候。はやく年よれかしと奉存候事に候。」
「庄兵衛も店を出し油かみなどうり候。妻をむかへ子も出来申候。此中(このちゆう)も逢候へば辞安様はいかがと申ゐ候。」
「詩を板にさせぬかと書物屋乞候故、亡※弟(ばうへいてい)[#「敝/犬」、7巻-118-下-10]が集一巻あまりあり、これをそへてほらばほらせんと申候所、いかにもそへてほらんと申候故、ほらせ候積に御座候。幽霊はくらがりにおかねばならぬもの、あかりへ出したらば醜態呈露一笑の資と存候。銭一文もいらず本仕立は望次第と申候故許し候。さても可申上こと多し。これにて書とどめ申候。恐惶謹言。八月廿八日菅太中晋帥(くわんたいちゆうしんすゐ)。伊沢辞安様。」
「まちまちし秋の半も杉の門(かど)をぐらきそらに山風ぞふく。これは旧作也。此比(ころ)の事ゆゑ書候。」
 以上が長さ三尺許(ばかり)の黄色を帯びた半紙の巻紙に書いた手紙の全文である。此手紙の内容は頗豊富である。そしてそれが種々の方面に光明を投射する。わたくしはその全文を公にすることの徒為(とゐ)にあらざるを信ずる。
 最初に茶山は地の相距(さ)ること遠からずして、気象の相殊なる例を挙げてゐる。此年の中秋には、神辺は初(はじめ)雨後陰であつた。松永尾の道は半夜後晴であつた。周防長門も晴であつた。松永は神辺を距ること四里に過ぎぬに、早く既に陰晴を殊にしてゐた。茶山は宋人(そうひと)の中秋の月四海陰晴を同じくすと云ふ説を反駁したのである。茶山は後六年文化十三年丙子に至つて、此庚午の観察を反復し、その得たる所を「筆のすさび」に記した。丙子の中秋は備中神辺は晴であつた。備前の中で尻海(しりうみ)は陰であつた。岡山は初晴後陰、北方は初陰後晴であつた。讃岐は陰、筑前は晴であつた。播磨は陰、摂津(須磨)は晴、山城(京都)は陰、大和(吉野)は大風、伊勢は風雨、参河(みかは)(岡崎)は雨であつた。観察の範囲は一層拡大せられて、旧説の妄は愈(いよ/\)明になつた。「常年もかかるべけれども、今年はじめて心づきてしるすなり」と、茶山は書してゐる。しかし茶山は丙子の年に始て心づいたのではない。五六年間心に掛けてゐて反復観察し、丙子の年に至つて始てこれを書に筆したのである。わたくしは少時井沢長秀の俗説辨(ぞくせつべん)を愛して、九州にゐた時其墓を訪うたことがある。茶山の此説の如きも、亦俗説辨を補ふべきものである。

     その五十九

 庚午旺秋(わうしう)の茶山の尺牘(せきどく)には種々の人の名が見えてゐる。皆蘭軒の識る所にして又茶山の識る所である。
 其一は木王園(もくわうゑん)主人である。上(かみ)に云つた犬塚印南(いんなん)で、此年六十一歳、蘭軒は長者として遇してゐた。茶山もこれを詳(つまびらか)にしてゐて、一陪字(ばいじ)を下してゐる。頃日(このごろ)市河三陽さんが印南の事は「雲室随筆」を参照するが好いと教へてくれた。
 釈雲室(しやくうんしつ)の記する所を見れば、印南がいかなる時に籍を昌平黌に置いたかと云ふことがわかる。祭酒林家は羅山より鵞峰、鳳岡(ほうかう)、快堂、鳳谷、竜潭、鳳潭の七世にして血脈が絶えた。八世錦峰信敬は富田能登守の二男で、始て林家へ養子にはいつた。市河寛斎は林家の旧学頭関松□(せきしようそう)の門人にして、又新祭酒錦峰の師であつたので、学頭に挙げられた。聖堂は寛斎、八代巣河岸(やよすがし)は松□を学頭とすることとなつたのである。印南は此時代に酒井雅楽頭忠以(うたのかみたゞざね)浪人結城唯助として入塾した。これが田沼主殿頭意知(とのものかみおきとも)執政の間の聖堂である。松□は意知に信任せられて聖堂の実権を握つてゐた。錦峰の実家富田氏は柳原松井町に住んでゐた七千石の旗下であつた。
 尋で田沼意知が死んで、楽翁公松平越中守定信の執政の世となつた。柴野栗山(りつざん)、岡田寒泉が擢用せられ、松□は免職離門の上虎の門外に住み、寛斎も亦罷官の上浅草に住んだ。聖堂は安原三吾、八代巣河岸は平沢旭山が預つた。然るに未だ幾(いくばく)ならずして祭酒錦峰が歿し、美濃国岩村の城主松平能登守乗保の子熊蔵が養子にせられた。所謂(いはゆる)蕉隠公子(せういんこうし)で、これが林家九世述斎乗衡(のりひら)となつた。安原平沢両学頭は罷められて、安原は向柳原の藤堂佐渡守高矗(たかのぶ)が屋敷に移り、平沢はお玉が池に移つた。聖堂は平井澹所と印南とに預けられ、八代巣河岸は鈴木作右衛門に預けられた。後聖堂八代巣河岸、皆学頭を置くことを廃められて新に簡抜せられた尾藤二洲、古賀精里が聖堂にあつて事を視たと云ふのである。
 安原三吾と鈴木作右衛門とは稍(やゝ)晦(くら)い人物である。市河三陽さんは寛斎漫稿の安原希曾(きそう)、安原省叔(せいしゆく)及上(かみ)に見えた三吾を同一人とすると、名は希曾、字(あざな)は省叔、通称は三吾となる筈だと云つてゐる。又同書の鈴木徳輔(とくほ)は或は即作右衛門ではなからうかと云つてゐる。鈴木が後に片瀬氏に更めたことは雲室随筆に註してある。
 此に由つて観れば印南は犬塚、青木、結城、犬塚と四たび其氏を更めたと見える。又昌平黌に於ける進退出処も略(ほゞ)窺ひ知ることが出来る。官を罷めた後の生活は前に云つたとほりである。
 其二は石田巳之助である。茶山蘭軒二家の集に石田道(だう)、字は士道、別号は梧堂と云つてあるのは、或は此人ではなからうか。
 其三は蠣崎(かきざき)氏で、所謂(いはゆる)源波響(げんはきやう)である。此年四十一歳であつた。
 其四の津軽屋は狩谷□斎である。「春来不快とやら」と云つてある。此年三十六歳であつた。
 其五の市野翁は迷庵である。此年四十六歳であつた。
 其六の塙(はなは)は保己(ほき)一である。此年六十五歳であつた。茶山は群書類従の配附を受けてゐたと見える。阿部侯「御帰城の便に二三巻宛四五人へ御託し被下候はば慥に届可申候」と云つてゐる。
 其七の徳見茂四郎は或は□堂(じんだう)若くは其族人ではなからうか。長崎にある津田繁二さんは徳見氏の塋域(えいゐき)二箇所を歴訪したが、名字号等を彫(ゑ)らず、皆単に宗淳、伝助等の称を彫つてあるので、これを詳にすることが出来なかつた。只天保十二年に歿した昌八郎光芳と云ふものがあつて、偶(たま/\)□堂の諱(いみな)を通称としてゐたのみである。徳見茂四郎は長崎から西湖の柳を茶山に送ることを約して置きながら、久しく約を果さなかつた。そこで蘭軒に、長崎へ文通するとき催促してくれいと頼んだのである。
 其八の「あぶらや本介」は即ち油元助(ゆげんじよ)である。其九其十の保平、玄間は未だ考へない。保平はことさらに「やすへい」と傍訓が施してある。妻などを喪つたものか。未だ其人を考へない。玄間は三沢氏で阿部家の医官であつた。「御医者」になつて息張(いば)ると云ふのは、町医から阿部家に召し抱へられたものか。
 其十一の「養介」は茶山の行状に所謂要助万年であらう。わたくしは蘭軒が紀行に養助と書したのを見て、誤であらうと云つた。しかし茶山も自ら養に作つてゐる。既に油屋の元助を本介に作つてゐる如く、拘せざるの致す所である。容易に是非を説くべきでは無い。果して伯父茶山の言ふ所の如くならば、万年の否運は笑止千万であつた。
 茶山の書牘(しよどく)は此より山陽の噂に入るのである。

     その六十

 菅茶山が蘭軒に与へた庚午の書には、人物の其十二として山陽が出てゐる。
 茶山は此書に於て神辺に来た山陽を説いてゐる。彼の神辺を去つた山陽を説いた同じ人の書は、嘗て森田思軒の引用する所となつて、今所在を知らぬのである。二書は皆蘭軒に向つて説いたものであるが、初の書は猶伊沢氏宗家の筐中に留まり、後の書は曾て高橋太華の手を経て一たび思軒の有に帰したのである。
 此書に於ける茶山の口気は、恰も蘭軒に未知の人を紹介するものゝ如くである。「頼久太郎と申を」の句は、人をして曾て山陽の名が茶山蘭軒二家の話頭に上らなかつたことを想はしむるのである。蘭軒は屡(しば/″\)茶山に逢ひながら、何故に一語の夙縁(しゆくえん)ある山陽に及ぶものが無かつただらうか。これは前にも云つた如く、蘭軒が未だ山陽に重きを置かなかつた故だとも考へられ、又江戸に於ける山陽の淪落的生活が、好意を以て隠蔽せられた故だとも考へられる。
 神辺に於ける山陽の資格は「寺の後住と申やうなるもの」と云つてある。茶山が春水に交渉した書には「閭塾(りよじゆく)附属」と云ひ、春水が浅野家に呈した覚書には「稽古場教授相譲申度趣」と云つてあるが、後住の語は当時數(しば/\)茶山の口にし筆にした所であつて、山陽自己も慥にこれを聞いてゐた。それは山陽が築山捧盈(つきやまほうえい)に与へた書に、「学統相続と申て寺の後住の様のものと申事」と云つてあるのに徴して知られる。
 又「養子にてもなしに」の句も等間看過すべからざる句である。前に云つた春水の覚書にも「尤先方家続養子に相成、他姓名乗様の儀には無之」とことわつてある。
 要するに家塾を譲ると云ふことと、菅氏を名乗らせて阿部家に仕へさせると云ふこととの間には、初より劃然とした差別(しやべつ)がしであつた。後に至つて山陽の「上菅茶山先生書」に見えたやうな問題の起つたのは、福山側の望蜀の念に本づく。
 茶山が山陽を如何に観てゐたかと云ふことは、事新しく言ふことを須(もち)ゐない。此書は既に提供せられた許多(きよた)の証の上に、更に一の証を添へたに過ぎない。「文章は無※[#「隻+隻」、7巻-123-下-6]也」の一句は茶山が傾倒の情を言ひ尽してゐる。傾倒の情愈(いよ/\)深くして、其疵病(しびやう)に慊(あきたら)ぬ感も愈切ならざるを得ない。「年すでに三十一、すこし流行におくれたるをのこ、廿前後の人の様に候、はやく年よれかしと奉存候事に候。」其才には牽引せられ、其迹には反撥せられてゐる茶山の心理状態が遺憾なく数句の中に籠められてゐて、人をして親しく老茶山の言(こと)を聴くが如き念を作(な)さしむるのである。
 わたくしは此書を細検して、疑問の人物頼遷が稍明に姿を現し来つたかと思ふ。それは「為人は千蔵よく存ゐ申候」の句を獲たるが故である。千蔵は山陽を熟知してゐる人でなくてはならず、又江戸にゐて蘭軒の問に応じ得る人でなくてはならない。わたくしは其人を求めて、直に遷に想ひ到つた。即ち※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-124-上-3]詩集及長崎紀行に所謂頼遷、字は子善、別号は竹里である。
 然るに載籍に考ふるに、千蔵は頼公遷の通称である。公遷、通称は千蔵別号は養堂として記載せられてゐる。
 是に於て遷即公遷であらうと云ふ木崎好尚さんの説の正しいことが、略(ほゞ)決定したやうに思惟せられる。わたくしは必ずしも頼氏の裔孫の答を待たなくても好ささうである。
 わたくしは姑(しばら)く下(しも)の如くに湊合して見る。「頼公遷、省いて遷とも云ふ、字(あざな)は子善、通称は千蔵、別号は竹里、又養堂。」

     その六十一

 菅茶山の書中には猶其十三庄兵衛と云ふ人物が出てゐる。庄兵衛は茶山の旧僕である。茶山の供をして江戸に往つて蘭軒に識られ、蘭軒が神辺に立ち寄つた日にも、主人に呼ばれて挨拶に出た。書牘(しよどく)は、殆ど作物語の瑣細な人物の落著をも忘れぬ如くに、此庄兵衛の家を成し業を営むに至つたさまをも記してゐる。
 其十四として茶山の言(こと)は所謂(いはゆる)「亡弊弟」に及んでゐる。即ち茶山の季弟恥庵晋宝信卿(ちあんしんぱうしんけい)、通称は圭二(けいじ)である。茶山の行状等には晋宝が「晋葆」に作つてある。
 茶山は書肆に詩を刻することを許すとき、恥庵の遺稿を附録とすることを条件とした。小原業夫(こはらげふふ)の序にも同じ事が言つてある。「先生曰。我欲刻亡弟信卿遺稿。因循未果。彼若成我之志。則我亦従彼之乞。書肆喜而諾。乃斯集遂上木。附以信卿遺稿。」大抵詩を刻するものは自ら貲(し)を投ずるを例とする。古今東西皆さうである。然るに茶山は条件を附けて刻せしめた。「銭一文もいらず、本仕立御望次第と申候故許し候」と云つてある。其喜は「京師書肆河南儀平損金刊余詩、戯贈」の詩にも見えてゐる。「曾聞書賈黠無比。怪見南翁特地痴。伝奇出像人争購。却損家貲刻悪詩。」小説の善く售(う)れるに比してあるのは妙である。小原も亦云つてゐる。「余嘗聞袁中郎自刻其集。幾売却柳湖荘。衒技求售。誰昔然矣。先生之撰則異之。不自欲而書肆乞之。乞之不已。則知世望斯集。不翅余輩。」誰昔然矣(すゐせきよりしかり)は陳風墓門(ちんぷうぼもん)の章からそつくり取つた句である。爾雅(じが)に「誰昔昔也」と云つてある。
 黄葉夕陽村舎詩が附録恥庵詩文草と共に刻成せられたのは文化九年三月である。此手紙は「ほらせ候積に御座候」と云つてあるとほり、上木(しやうぼく)に決意した当時書かれたもので、小原の序もまだ出来てはゐなかつたのである。
 狩谷氏では此年文化七年に□斎の女(ぢよ)俊(しゆん)が生れた。後に同齢の柏軒に嫁する女である。伊沢分家の人々は、此女(ぢよ)の名は初めたかと云つて、後しゆんと更めたと云つてゐる。俊は峻と相通ずる字で、初めたかと訓ませたが、人は音読するので、終に人の呼ぶに任せたのかも知れない。
 多紀氏では此年十二月二日に桂山が歿した。二子の中柳□(りうはん)は宗家を継ぎ、□庭(さいてい)は分家を創した。後に伊沢氏と親交あるに至つたのは此□庭である。
 此年蘭軒は年三十四、妻益は二十八、三子榛軒棠助(しんけんたうすけ)、常三郎、柏軒鉄三郎は長が七つ、仲が六つ、季が当歳であつた。
 文化八年は蘭軒にやすらかな春を齎した。「辛未早春。除却旧痾身健強。窓風軽暖送梅香。日長添得讐書課。亦奈尋紅拾翠忙。」斗柄(とへい)転じ風物改まつても、蘭軒は依然として校讐(かうしう)の業を続けてゐる。
 此年には※[#「くさかんむり/姦」、7巻-125-下-15]斎詩集に、前の早春の作を併せて、只二首の詩が存してゐるのみである。わたくしは余の一首の詩を見て、堀江允(いん)と云ふものが江戸から二本松へ赴任したことを知る。允、字は周輔で、蘭軒は餞するに七律一篇を以てした。頷聯に「駅馬行駄□布帙、書堂新下絳紗帷」と云ふより推せば、堀江は聘せられて学校に往つたのであらう。七八は「祖席詞章尽神品、一天竜雨灑途時」と云ふのである。茶山が「一結難解」と批してゐる。此句はわたくしにもよくは解せられぬが、雨は恐くは夏の雨であらうか。果して然らば堀江の江戸を発したのも夏であつただらう。
 わたくしは又詩集の文化十三年丙子の作を見て、蘭軒が釈混外(しやくこんげ)と交を訂したのは此年であらうと推する。丙子の作は始て混外を見た時の詩で、其引にかう云つてある。「余与混外上人相知五六年於茲。而以病脚在家。未嘗面謁。丙子秋与石田士道、成田成章、太田農人、皆川叔茂同詣寺。得初謁。乃賦一律。」此によつて逆算するに、若し二人が此年に相識つたとすると、辛未より丙子まで数へて、丙子は第六年となるのである。
 混外、名は宥欣(いうきん)、王子金輪寺の住職である。「上人詩素湛深、称今寥可」と、五山堂詩話に云つてある。

     その六十二

 頼氏では此年文化八年の春、山陽が三十二歳で神辺(かんなべ)の塾を逃げ、上方へ奔つた。閏(うるふ)二月十五日に大坂篠崎小竹の家に著き、其紹介状を貰つて小石元瑞を京都に訪うた。次で山陽は帷(ゐ)を新町に下して、京都に土著した。嘗て森田思軒の引いた菅茶山の蘭軒に与ふる書は、此比裁せられたものであらう。当時の状況を察すれば、書に怨□(ゑんたい)の語多きは怪むことを須(もち)ゐない。しかし山陽の諸友は逃亡の善後策を講じて、略(ほゞ)遺算なきことを得た。五月には叔父春風が京都の新居を見に往つた。山陽が歳暮の詩に「一出郷国歳再除」と云つたのは、庚午の除夜を神辺で、辛未の除夜を京都で過すと云ふ意である。「一出郷国歳再除。慈親消息定何如。京城風雪無人伴。独剔寒燈夜読書。」
 わたくしは此年十二月十日に尾藤二洲が病を以て昌平黌の職を罷めたことを記して置きたい。当時頼春水の寄せた詩に、「移住林泉新賜第、擬成猿鶴旧棲山」の一聯がある。賜第(してい)は壱岐坂にあつた。これは次年の菅茶山の手紙の考証に資せむがために記して置くのである。
 此年蘭軒は三十五歳、妻益は二十九歳、榛軒は八歳、常三郎は七歳、柏軒は二歳であつた。
 文化九年は蘭軒がために何か例に違(たが)つた事のあつたらしい年である。何故かと云ふに、※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-127-上-13]詩集に壬申の詩が一首だに載せて無い。
 わたくしは先づ蘭軒が病んだのではないかと疑つた。しかし勤向覚書を見るに、春より夏に至るまで、阿部家に於ける職務をば闕いてゐなかつたらしい。わたくしは姑(しばら)く未解決のままに此疑問を保留して置く。
 正月二日に蘭軒の二女が生れて、八日に夭した。先霊名録に第二女として智貌童子の戒名が書してある。童子が童女の誤であるべきことは既に云つた。頃日(このごろ)聞く所に拠れば、夭折した長女は天津(てつ)で、次が此女であつたさうである。
 勤向覚書に此一件の記事がある。「正月二日卯上刻妻出産仕、女子出生仕候間、御定式之通、血忌引仕候段御達申上候。同月四日血忌引御免被仰付候旨、山岡治左衛門殿被仰渡候。翌五日御番入仕候。同月八日此間出生仕候娘病気之処、養生不相叶申上刻死去仕候、七歳未満に付、御定式之通、三日之遠慮引仕候段御達申上候。同月十一日御番入仕候。」
 五月に蘭軒が阿部家の職に服してゐた証に充つべき覚書の文は下(しも)の如くである。「五月九日永井栄安、成田玄良、岡西栄玄、私、右四人丸山御殿え夜分一人づゝ泊り被仰付候段、御用番町野平助殿被仰渡候。」蘭軒の門人録に成田良純、後竜玄がある。玄良は其父か。岡西栄玄は蘭軒の門人玄亭と渋江抽斎の妻徳との父である。
 秋に入つて七月十一日に飯田休庵信方が歿した。先霊名録に「寂照軒勇機鉄心居士、(中略)墓在西窪青竜寺」と記してある。即ち蘭軒の外舅(ぐわいきう)である。家は杏庵が襲いだ。伊勢国薦野(こもの)の人、黒沢退蔵の子で、休庵の長女の婿となつた。蘭軒の妻益は休庵の二女であつた。
 休庵は豊後国大野郡岡の城主中川修理大夫久貴(ひさたか)の侍医であつた。平生歌道を好んで、教を冷泉家に受けた。上にも云つた如く、恐くは為泰入道等覚(ためやすにふだうとうがく)の門人であつたのだらう。伊沢分家所蔵の源氏物語に下(しも)の如き奥書がある。「右源氏物語三十冊、外祖父寂照軒翁之冷泉家之御伝授受、書入れ給之本也、伊沢氏。」
 頼氏では此年春水が六十七歳になつた。「明君能憐我、※[#「月+無」、7巻-128-下-2]養上仙班、(中略)如此二十載、光陰指一弾」の二十は恐くは三十ではなからうか。安永九年に浅野家に召し出されてから三十三年、広島の邸を賜つてから二十四年になつてゐる筈である。
 此年蘭軒は年三十六、妻益は三十、長子榛軒は九つ、常三郎は八つ、柏軒は三つであつた。

     その六十三

 文化十年には蘭軒が正月に頭風(づふう)を患(うれ)へたことが勤向覚書に見えてゐる。「正月十日私儀頭風相煩候に付、引込保養仕候段御達申上候」と云つてある。
 しかし病は甚だ重くはなかつたらしい。詩集に「癸酉早春、飜刻宋本国策、新帰架蔵、喜賦」として二絶が載せてある。奇書を獲た喜が楮表(ちよへう)に溢れてゐて、其意気の旺なること病褥中の人の如くでは無い。「宏格濶欄箋潔白。学顔字画勢遒超。呉門好事黄蕘圃。一様影摸紹興雕。」「世間謾道善蔵書。纔入市門得五車。我輩架頭半奇籍。窃思秘閣近何如。」茶山の評に「寇準事々欲抗朕」と云つてある。句々蘭軒にあらでは言ふこと能はざる所で、茶山の一謔も亦頗る妙である。
 経籍訪古志に「戦国策三十三巻、清刊覆宋本、漢高誘註、清嘉慶中黄丕烈依宋木重刊、末附考異」としてある。或は此本であらうか。しかし酌源堂蔵の註を闕いでゐる。
 二月に入つても、蘭軒は猶病後の人であつたと見える。覚書にかう云つてある。「二月二十五日頭風追々全快仕候に付、月代仕、薬湯え三廻り罷越度段奉願上候処、即刻願之通被仰付候段、山岡治左衛門殿被仰渡候。」月代(さかやき)はしても猶湯治中で、職には服してをらぬのである。
 然るに詩集には春游の七律があつて、其起には「東風送歩到江塘、翠浪白砂花亦香」と云つてある。又「上巳与余語觚庵犬冢吉人、有泛舟之約、雨不果、賦贈」の七絶さへある。「雨不果」と云つて、「病不果」とは云はない。春游の詩は実を記したので無いとも見られようが、舟を泛ぶる約は必ずあつたのであらう。或は想ふに、当時養痾中の外游などは甚しく忌まなかつたものであらうか。
 余語(よご)氏は世(よゝ)古庵の号を襲(つ)いだものである。古庵一に觚庵にも作つたか。当時の武鑑には、「五百石、奥詰御医師、余語良仙、本郷弓町」として載せてある。
 犬冢吉人(いぬづかきつじん)は印南(いんなん)か、又は其族人か。印南は此年文化十年十一月十二日に歿したと、老樗軒(らうちよけん)の墓所一覧に云つてある。若し舟遊の約をしたのが印南だとすると、それは冬死ぬべき年の春の事であつた。序に云ふ。老樗軒はわたくしは「らうちよけん」と訓んでゐたが、今これを筆にするに当つて疑を生じ、手近な字典を見、更に説文(せつもん)をも出して見た。説文に樗(くわ)は「从木□声、読若華」、※(ちよ)[#「木+罅のつくり」、7巻-130-上-2]は「从木□声」と云つてある。字典は樗の下(もと)に集韻を引いて「又作※[#「木へん+罅のつくり」、7巻-130-上-3]、丑居切」と云ひ、※[#「木+罅のつくり」、7巻-130-上-3]の下には只「同樗」と云つてゐる。文字を知つた人の教を受けたい。
 覚書と詩集とには此(かく)の如き牴牾(ていご)があるが、蘭軒が病なくして病と称したのでないことは明である。集に「病中偶成」の五律がある。「時節頃来好。抱痾倦日長。晴山鳩穀々。春社鼓□々。盃酒将忘味。薬湯頻換方。花期看自過。昏夢繞池塘。」茶山は「医人之病、往々如此、詩則妙」と評してゐる。
 春の詩の後に白氏文集の善本を獲た時の作がある。「余蔵白氏集活字版本、旧年売却、頃書肆英平吉携来一本、即旧架物也、購得記喜。物帰所好不関貧。得失従来如有神。富子蔵書都記印。奇書自属愛書人。」経籍訪古志に、「白氏文集七十一巻、元和戊午那波道円活字刊本」と云つてあるのは是か。訪吉志は「戊午」を「戊半」と誤つてゐるが、後文に「戊午七月」と云つてある。此にも酌源堂蔵とは註して無い。
 わたくしは前の戦国策と云ひ、此白氏文集と云ひ、伊沢氏酌源堂の蔵※(ざうきよ)[#「去/廾」、7巻-130-下-5]と覚しきものが、皆其所在の記註を闕いでゐるのを見て、心これを怪まざることを得ない。和田万吉さんは「集書家伊沢蘭軒翁略伝」にかう云つてゐる。「経籍訪古志本文中酌源堂の蔵儲を採録せるは僅に六七種に過ぎず、之を求古楼、崇蘭館、宝素堂等の所蔵に比べて、珍本良書の数量上に著き遜色あるが如く見ゆるは怪むべし」と云つてゐる。惟(おも)ふにわたくしの彼疑が釈(と)けたら、随つて和田さんの此疑も釈けるのではなからうか。多く古書の聚散遷移の迹を識つてゐる人の教を乞ひたい。

     その六十四

 わたくしは前年文化九年に蘭軒が詩を作らなかつたことを怪んだ。然るに此年文化十年にも亦怪むべき事がある。上(かみ)に引いた春の詩数首は茶山の批閲を経たものが多い。批閲は後に加へたものである。これに反して茶山は春以来屡(しば/\)書を蘭軒に寄せたのに、蘭軒は久しくこれに答へなかつた。蘭軒は病んではゐたが、其病は書を裁することを礙(さまた)ぐる程のものではなかつたらしい。前年吟哦(ぎんが)を絶つてゐた故が不審である如く、此年に不沙汰をした故も亦不審である。
 茶山は六月十二日に今川槐庵に書を与へた。これは槐庵をして蘭軒の報復を促さしめようとしたのである。此書はわたくしが饗庭篁村(あへばくわうそん)さんに借りた茶山手柬(しゆかん)の中の一通である。
 わたくしは茶山の書の全文を此に写出する。
「大暑の候愈(いよ/\)御安祥御勤被成候由、奥様にも定而(さだめて)御安祥、恐悦奉賀候。先頃は新様封皮(しんやうほうひ)沢山に御恵被下、忝奉存候。御蔵版に御座候而又も可被下旨、別而(べつして)雀躍仕候。近比は御多事に御座候由、御推察申上候。」
「伊沢いく度状遣候も、一字隻言之返事もなく候。此人今は壮健之由可賀候。」
「蘇州府の柳を□(もらひ)、庭前にさしおき、活し申候。大(おほき)になり、枝をきられ候時に至候はば進上可致候やと御伝へ可被下候。柳は早き物に候。来年あたりは被贈可申候。徳見茂四郎より□申候。」
「伊沢正月金子入書状之返事も無御座候而、頼遣し候ことも、なしとも礫(つぶて)とも無之候。これらのことちと御尋被下度奉希候。御忙劇之中へかかること申上候、これも伊沢返事なき故也。這漢(このかん)を御しかり可被下候。」
「先達而(せんだつて)伊沢話に、津軽屋へ便御座候家、大坂筑前屋と申に御座候由、某島(それがししま)とやら承候而忘れ申候。只今も其家より便御座候はば、伊沢より被申下候様御頼可被下候。近比御便すくなく、ちと大なる封などはいたしかたなく候。筑前あき長門等之御参勤をまち候へども、儀衛中に知音無之ときは夫も出来不申こまり申候。御面倒之御事伊沢と御一緒に御覧、彼方より申参候様御頼可被下候。恐惶謹言。六月十二日。菅太中晋帥(くわんたいちゆうしんすゐ)。今川剛八様侍史。筑前屋より津軽屋へ之便一年にいくたび御座候やいつ比(ごろ)御座候やも奉願上候。」
 此書を読めば、蘭軒が数回の茶山の書に答へずにゐたことが知られる。就中(なかんづく)正月に発した金子入の書は、茶山が必ず報復を得ることを期してゐたのに、蘭軒はこれにさへ答へずにゐた。蘭軒がかくまで通信を怠つてゐたのは何故か不審である。
 茶山が徳見に託して西湖の柳を取り寄せようとしてゐたことは前にも見えてゐた。茶山は柳の来るを待ち兼ねて、蘭軒をして徳見に書を遣つて督促せしめようとしたのである。此書を見るに、柳は既に来た。そして茶山は蘭軒に其枝を分たうと云つてゐる。山田方谷(はうこく)が茶山の家の此柳を詠んだ和歌がある。「西湖柳。もろこしのたねとしきけど日の本の風にもなびく糸やなぎかな。」当時長崎から柳を得たものは、独り茶山のみではなかつたと見えて、石原某の如きもこれを栽ゑて柳庵と号し、頼春水に詩を索めた。「石原柳庵得西湖柳、以名其庵、索詩。分得西湖堤上翠。併烟移植読書槞。春風応引蘇公夢。万里来遊日本東。」
 当時福山と江戸との間の運輸通信がいかに難渋であつたかは、此書に由つて知られる。茶山が蘭軒に不満であつたのも、此難渋に堪へずして焦燥した余の事である。そして茶山が其不満を説いて露骨を嫌はず、「這漢(このかん)を御しかり可被下候」と云ふに至つたのは、偶(たま/\)以て二人の交の甚深かつたことを証するに足るのである。

     その六十五

 茶山は書を槐庵に与へた後、又一箇月の間忍んで蘭軒の信書を俟(ま)つてゐた。気の毒な事にはそれはそらだのめであつた。然るに此年文化十年七月下旬に偶(たま/\)江戸への便があつたので、茶山は更に直接に書を蘭軒に寄せた。即ち七月二十二日附の書で、亦わたくしが饗庭篁村(あへばくわうそん)さんに借りた一括の尺牘(せきどく)の中にある。わたくしはこれをも省略せずに此に挙げる。
「春来一再書状差上候へ共、漠然として御返事もなし。如何(いかに)と人に尋候へば、辞安も今は尋常的の医になりし故、儒者めけるものの文通などは面倒に思候覧などと申候。我辞安其体(てい)には有御座間布(ござあるまじく)、大かたは医を行(おこなひ)いそがしき事ならむと奉存候。しかしたとひ閙敷(いそがしく)とも、折節寸札御返事は奉希(こひねがひたてまつり)候。只今にては江戸之時事一向にしれ不申、隔世之様に被思候。これは万四郎などといふものの往来なく、倉成善司(奥平家儒官)卒去、尾藤先生老衰隠去と申様之事にて候。しかるを我辞安行路之人のごとくにては、外に手蔓無之こまり申候。何分今度は御返事可被下候。こりてもこりず又々用事申上候。」
「用事。一、御腰に下げられ候巾著、わたくしへも十年前御買被下候とのゐものの形なり。価(あたひ)十匁と申を九つか十か御こし被下度候。これは人にたのまれ候。皆心やすき人也。金子は此度之便遣しがたく候。よき便の時さし上可申候。直段(ねだん)少々上(のぼ)り而(て)も不苦候。必々奉願上候。」
「私詩集東都へ参申候哉。書物屋うりいそぎをいたし、校正せぬさきにすり出し候も有之候。もし御覧被下候はば、末梢頭(まつせうとう)に五言古詩の長き作入候本宜(よろしく)候。(登々庵武元質(とう/\あんぶげんしつ)と申人の跋の心にいれたる詩也。)これのなき方ははじめ之本に候。」
「津軽屋へ出入候筑前船之便に而、津軽屋へ頼遣候へば、慥に届申候由、前年御書中に被仰下候大阪えびすじま筑前屋新兵衛とやら、慥には無之覚ゐ申候。向後頼候而も不苦候哉。只今は星移(ほしうつり)物換(ものかはり)候事也。此事も承はり度奉存候。此御返事早く奉願候。」
「一、塙(はなは)へ之頼之本少々のこり候品、何卒可相成候はば早く御越奉願上候。これも熱のさめぬうちに非ざれば出来不申候もの也。」
「一、前年蠣崎将監(かきざきしやうげん)殿へ遣候書状御頼申候。其後は便所(びんしよ)も出来候事に御座候哉。又々書状遣度候へ共、よき便所を得不申候。犬塚翁などへ、通路も御座候や御聞合可被下候。是亦奉願上候。」
「得意ざきへ物買に行ごとく、用事計(ばかり)申上候事、思召も恥入候。然ども外にはいたしかた無之、無拠(よんどころなく)御頼申上候。これまた前世より之業(ごふ)などと思召、御辨(わきまへ)被下度奉願上候。」
「御内上様へ次(ついで)に宜奉願上候。敬白。七月廿二日。菅太中晋帥(くわんたいちゆうしんすゐ)。伊沢辞安様侍史。猶々妻も自私(わたくしより)宜申上候へと申托(まをしたくし)候。」
 茶山は蘭軒の返信を促すに、一たび間接の手段を取つて、書を今川槐庵に与へたが、又故(もと)の直接の手段に立ち戻つて此書を蘭軒に寄せた。神辺にあつて江戸の消息を知るには、蘭軒に頼(よ)る外に途が無かつたのである。
 茶山は頼杏坪(きやうへい)が江戸に往来しなくなつたり、倉成竜渚(りゆうしよ)が死んだり、尾藤二洲が引退したりしたと云ふやうな江戸の時事が知れぬのに困ると云つてゐる。要するに茶山の知らむと欲するは騒壇の消息であつて、遺憾なくこれを茶山に報ずることを得るものは、蘭軒を除いては其人を得難かつたのであらう。江戸の騒壇は暫く顧みずにゐると、人をして隔世の想をなさしめる。これを知らぬものは□夫(さうふ)になつてしまふ。これは茶山の忍ぶこと能はざる所であつた。そこで「儒者めけるものの文通は面倒に思候覧」と人が云ふと云ひ、「行路之人のごとく」になられては困ると云つて、不平を漏らしたのである。

     その六十六

 頼杏坪(きやうへい)は此年文化十年に五十八歳になつてゐた筈である。わたくしは特に杏坪の事をしらべてをらぬが、これは天保五年に七十九歳で歿したとして逆算したのである。しかし竹田は文政九年丙戌に七十二歳だと書してゐる。若し竹田に従ふと一歳を加へなくてはならない。わたくしが通途(つうづ)の説に従ふのは、蘭軒が春水父子の齢を誤つた如く、竹田も杏坪の齢を誤つたかと疑ふからである。
 杏坪が江戸に往反(わうへん)しなくなつたのは何故であらうか。郡奉行(こほりぶぎやう)にせられたのが此年の七月ださうだから、早く年初若くは前年より東遊せずにゐたのであらうか。頼氏の事に明るい人の教を受けたい。
 倉成竜渚(りゆうしよ)の歿したのは前年文化九年十二月十日で、齢は六十五であつた。名は□(けい)であつたらしい。鉛字(えんじ)の世となつてから、経と書し茎(かう)と書し、諸書区々(まち/\)になつてゐる。字(あざな)は善卿、通称は善司であつた。豊前国字佐郡の人で、同国中津の城主奥平大膳大夫昌高に仕へた。初め京都に入つて古義堂を敲き、後世子(せいし)昌暢(まさのぶ)の侍読となつて江戸に来り、紀平洲等と交つた。寛政八年藩校進脩館の興るに当つて、竜渚はこれが教授となつた。諸書に見えてゐる此人の伝は、主に樺島石梁の墓表に本づいてゐるらしい。
 尾藤二洲の病免は前々年文化八年十二月十日で、当時六十七歳であつた。春水遺稿の詩引に所謂(いはゆる)「製小車逍遙」も暫しの間の事で、此手紙に書かれた年の十二月四日には、六十九歳で歿したのである。
 手紙の「用事」と題した箇条書の首(はじめ)に、巾着の註文がある。そして此巾着はわたくしに重要な事を教へる。わたくしは蚤(はや)く蘭軒と茶山との交通はいつ始まつたかと云ふ問を発した。此交通は寛政四年に茶山が阿部家に召し抱へられた後に始まつただらうとは、わたくしの第一の断案であつた。次でわたくしは文化元年二月に小川町の阿部邸に病臥してゐる茶山の許へ、蘭軒が菜の花を送つた事実を見出だし、これを認めて「記載せられたる最初の交通」となし、二人の相待つに故人を以てしてゐたことを明にした。これを第二の断案とする。さて今此巾着の註文を見るに、「十年前御買被下候とのゐものゝ形なり」と云つてある。文化十年より溯つて十年前とすれば、享和三年である。蘭軒は享和三年に巾着を買つて茶山に送つたのである。蘭軒と茶山との間には、既に亨和三年に親交があつたのである。享和三年は文化紀元に先だつこと僅に一年ではあるが、わたくしがためには此小発見も亦重要である。
 次に黄葉夕陽村舎集が始て発行せられた時の事が言つてある。当初此集に悪本と善本とが市に上つた。悪本は「書物屋うりいそぎをいたし校正せぬさきにうり出し候」と云ふ本である。後に校正済の善本が出た。わたくしはこれを読んで独り自ら笑つた。文化の昔も大正の今も、学者は学者、商人は商人である。世態人情古今同帰である。茶山は蘭軒に善悪二本を鑑別する法を授けた。それは巻尾に登々庵(とう/\あん)の五古を載せたものが善本だと云ふのである。「読恥庵集書感」の詩で、「垂老空掻首、人間鎮寥□」を以て結んであるのが即是である。
 次は狩谷□斎(えきさい)の店津軽屋と筑前船との事、塙保己(はなはほき)一から取り寄せる書籍の残の事、蠣崎波響(かきざきはきやう)へ文通の事である。初わたくしは前に引いた書に波響だけが「君」と書してあり、又此書にも「殿」と書してあるのを何故かと疑つた。既にして詩集の「蠣崎公子」「蠣公子」「波響公子」等の称呼に想ひ及んで、わたくしの疑は一層の深きを加へた。そこで五山堂詩話を検すると、波響は「松前侯族」だとしてある。又茶山自家の文中「題六如上人手写詩巻首」にも「公子従政于国」と云つてある。わたくしは此に至つて波響が松前若狭守章広(あきひろ)の親戚であることを知つた。わたくしは進んでどう云ふ筋の親戚かと云ふことをも知りたくなつた。数日の後の事である。偶然六如(によ)の詩集を飜して見てゐると、「寄題波響楼」の長古が目に触れた。題の下(もと)にはかう云ふ自註がある。「松前人源広年。字世□。別号波響。今藩主親弟。出嗣大夫家。冒姓蠣崎氏。(中略。)所居有楼。前臨大洋。名以波響。因亦自号焉。」是に由つて観れば、波響広年は美作守道広の弟であつたと見える。わたくしは始て釈然とした。茶山書牘(しよどく)の波響の条には猶犬塚印南(いんなん)の名も出てゐる。印南も亦此書に名を列した文化十年の十一月十二日に歿した。茶山の友人は次第に凋落して行くのであつた。

     その六十七

 此年文化十年の秋に入つてから、集中に詩十二首があつて、其七首は「晩秋病中雑詠」である。爾余は野遊の七律一、菊と楓(もみぢ)との七絶各一、柳橋を過ぐる七絶一、木村定良(さだよし)に訪はれた五律一である。
 菊の詩は巣鴨の造菊(つくりぎく)を嘲(あざけ)つたものである。武江年表に拠れば、巣鴨の造菊は前年文化九年九月に始まつて、十三年に至るまで行はれた。「巣鴨村有藝戸数十、毎戸栽菊、培養頗精、有高丈許、枝亦数尺者、繊竹構※[#「木+宣」、7巻-137-下-9]、巧造人物禽獣山水楼閣舟車之状、至花時、都人看者為群、漫賦一絶。菊花種法戸争新。衒世巧粧妙入神。不奈逸然彭沢令。強為郷里折腰人。」茶山の評に云く。「十一年前余在都下。菊月歴観諸藝戸。未見奇巧如此者。人巧日競。天真漸微。読此詩亦発一慨。」序に楓の詩をも録する。「看楓。菊花看尽又看楓。村路吟行暖似□。猶是秋光有深浅。半渓未染半渓紅。」看楓の地は滝の川か。「野遊」の律も亦恐くは同じ時の作であらう。「黄葉林間茶店榻、黄蘆岸上酒家旗」の聯がある。
 柳橋を過ぐる詩と橿園(かしぞの)に訪はれた詩とには、稍衰残の気象が見える。「過柳橋。嘗酔江辺春酒楼。如今袖手過橋頭。杜娘何去韋娘老。岸柳条々餞暮秋。」茶山の評に云く。「昨日少年今白頭。」橿園に訪はれた詩には、蘭軒が自ら白髪を語つてゐる。「秋日木駿卿来訪、閑談至夕。竹門風政柝。熟客不驚禽。新醸香猶浅。旧歓談自深。数茎看白髪。十載想青衿。開口宜共笑。天公定有心。」三四の下(もと)に茶山が「字法」の二字を著けてゐる。
 此秋の蘭軒が病は例の足疾であつた。勤向覚書に下(しも)の如き記事がある。「九月十九日足痛相煩候に付、引込保養仕候段御達申上候。」
「晩秋病中雑詠」七首の中、わたくしは此に其二を採録する。「琴尊已廃復休茶。薬鼎風炉病子家。新得奇書三両種。幽忻猶且向人誇。」「禍福自然応有時。風花雲月各相宜。古人言尽人間事。推枕軒中聴雨詩。」前詩を見れば蘭軒は翅(たゞ)に酒を廃するのみならず、又茶を廃したらしい。しかし猶奇書を獲て自ら慰めてゐる。後詩は元人の「人間万事塞翁馬、推枕軒中聴雨眠」を用ゐてゐる。後に冢子(ちようし)榛軒(しんけん)は此語より推枕軒(すゐちんけん)の号を取つた。
 此冬は集に十首の詩がある。皆病中の消遣若くは応酬の作である。病が漸く重く、戸外に出ることが出来なかつたのであらう。
 十月の小春日向(びより)に、先づ「愛閑」の五律がある。其一二は「五風将十雨、暖日小春天、」五六は「文章元戯楽、安逸是因縁」である。「冬晴」二絶の一は例の愛書の癖を忘れない。「新霜頃日染幽叢。橘柚金黄楓錦紅。童子亦遭乃公役。拾銀杏葉挾書中。」覚書にはかう云つてある。「十月二十三日足痛追々快方には御座候得共、未聢と不仕、且月代仕度段奉願上候処、即刻願之通被仰付候。」所謂(いはゆる)快方は痛が退いて心が爽になつたので、足疾が愈(い)えたのではなかつたらしい。
 蘭軒は此冬よりして漸く起行することが難渋になつた。躄(あしなへ)になりかかつたのである。其証拠をばわたくしが三年後の詩引中より見出だした。文化十三年の歳首の詩の引に、「丙子元日作、余今年四十、以脚疾不能起坐已三年」云々と云つてある。
 蘭軒は医である。自らプログノジスの隻眼を具してゐる。嘗て茶山に「死なぬ疾(やまひ)」を報じたやうに、今又起行の期し難きを暁(さと)つたであらう。其胸臆を忖度(そんたく)すれば、真に愍むべきである。「病中口占。丈夫居世当雄飛。多病近来心事違。五十生涯三十七。数年贏得亦何為。」

     その六十八

 尋で此年文化十年の冬の詩中に、二三の留意すべき応酬がある。其一つは「酬真野冬旭見贈之作□韻」の七律である。頷聯の「元知郢国音難和、況復鳳雛毛有文」に父子が称へてあつて、三は冬旭の詩を言ひ、四は其子の書を言ふ。「其男善書、甫九歳」と自註してある。頸聯の「竜土烟霞連海気、神田草樹映城雲」は、わたくしをして冬旭が麻布竜土町辺に住んでゐたかを思はしめるが、さるにても神田は何故に点出せられてゐるだらうか。
 次に「茶山菅先生之在江戸、一日犬冢印南、今川槐庵、及恬、同陪先生、為墨水舟遊、先生帰郷、十年於此、而今年犬冢今川倶逝、頃先生集刻成、至読其詩慨然」として、七絶が載せてある。「吟船尋柳更聴鶯。二客已為泉下行。往事欲談君只在。黄薇二百里余程。」茶山は「感愴」と云つてゐる。
 犬冢印南(いぬづかいんなん)は此年十一月十二日に歿した。今川槐庵が此年に歿したことは蘭軒の詩に由つて知られるのみで、其終焉の月日は未詳である。二人の相踵(つ)いで木に就いた時、蘭軒は始て黄葉夕陽村舎詩の刻本を手にすることを得、甲子の旧遊を想起して此を賦したのである。
 次に「雪日余語古庵、木村文河、小山吉人来訪」の七絶がある。「雪花一日満園春。修竹無風伏復伸。回艇戴門交素薄。笠簑訪我客三人。」余語(よご)、木村は前に見えてゐる。小山吉人(きつじん)は初出であるが、未だ考へない。蘭軒の及門人名録(きふもんじんめいろく)に小山良哉(りやうさい)がある。吉人は或は良哉若くは其族人か。
 勤向覚書を見るに、蘭軒は十二月十一日に例の湯島の薬湯に往つた。「十二月十一日足痛追々全快には御座候得共、未聢と不仕候間、湯島天神下薬湯え三廻り罷越度奉願上候処、即刻願之通被仰付候。」余語等三人を引見したのは、自宅に於てしたらしくも聞えるが、或は天神下に舎(やど)つた後の事であつたかも知れない。
 蘭軒は此年病の為に困窮に陥つて、蔵書をさへ沽(う)らなくてはならぬ程であつた。そこで知友が胥謀(あひはか)つて、頼母子(たのもし)講様の社を結んで救つた。彼の茶山に疎懶(そらん)を怪まれたのも、勝手の不如意が一因をなしてゐたのではなからうか。「癸酉終歳臥病、家貲頗乏、数人為結義社、仮与金若干、記喜。経年常負債。一歳総投痾。窮鬼難駆逐。儲書将典過。東西人倶眷。黄白術相和。政是逢江激。轍魚帰海波。」蘭軒がためには「儲書将典過」が、シヤイロツクに心の臓を刳(ゑぐ)り取られるより苦しかつたであらう。
 蘭軒は此(かく)の如く病と貧とに苦められて、感慨なきこと能はず、歳暮に「自責」の詩を作つた。「官路幸過疎放身。一家暖飽十余人。従来無手労耕織。不説君恩却説貧。」
 此年尾藤二洲、犬冢印南、今川槐庵の亡くなつたことは上(かみ)に云ふ所の如くである。
 頼氏では此年春水が陞等(しようとう)加禄の喜に遇つたが、冬より「水飲病」を得て、終身全愈(ぜんゆ)するに至らなかつた。山陽は一たび父を京都の家に舎すことを得て、此に亡命事件の落著を見た。春水は山陽を訪ふとき、養嗣子聿庵(いつあん)を伴つて往つた。即ち山陽の実子御園(みその)氏の出元協(げんけふ)である。
 此年蘭軒は三十七歳、妻益三十一歳、三児中榛軒十歳、常三郎九歳、柏軒四歳であつた。
 文化十一年の元旦は臘月願済の湯治日限の内であつた。これは前年の十二月が大であつたことを顧慮して算しても、亦同じである。しかし一日を遅くすることが養痾に利があるわけでもないから、除夜には蘭軒は家に帰つてゐたであらう。
「甲戌早春。嚢□掃空餞臘来。辛盤椒酒是余財。逢喧脚疾漸除却。杖□遍尋郊野梅。」当時蘭軒の病候(びやうこう)には消長があつて、時に或は起行を試みたことは、記載の徴すべきものがある。しかし「杖□遍尋」は恐くは誇張を免れぬであらう。

     その六十九

 甲戌早春の詩の後に、羽子(はご)、追羽子の二絶がある。亦此正月の作である。わたくしは其引の叙事を読んで奇とし、此に採録することとした。二絶の引は素(もと)分割して書してあつたが、今写し出すに臨んで連接せしめる。「初春小女輩。取□子一顆。植鳥羽三四葉於顆上。以一小板。従下逆撃上之。降則又撃。升降数十。久不落地者為巧。名曰羽子戯。蓋清俗見□之類。又数伴交互撃一羽子。一人至数撃者為勝。失手而落者為負。名曰逐羽子戯。」其詩はかうである。「街頭日夕淡烟通。何処梅香月影朧。嬉笑女郎三両伴。数声羽子競春風。」「春意一場娘子軍。羽児争打各成群。女兄失算因含態。小妹軽□却立勲。」
 正月の末に足の痛が少しく治したので、蘭軒は又出でて事を視ようとしたと見える。そこで二十三日に歩行願と云ふものを呈した。勤向覚書に云く。「文化十一年甲戌正月二十三日足痛追々全快には御座候得共、未聢と不仕候間、歩行仕度奉願上候所、即刻願之通被仰付候。」次で二月三日に、蘭軒は出でて事を視た。覚書に云く。「二月二日、明三日より出勤御番入仕候段御届申上候。」
 蘭軒は此(かく)の如く猶時々起行を試みた。そして起行し得る毎に公事に服した。後に至つて両脚全く廃したが、蘭軒は職を罷められなかつた。或は匐行(ふくかう)して主に謁し、或は舁(か)かれて庁に上つたのである。
 二月二十一日に阿部正倫(まさとも)の未亡人津軽氏比佐子が六十一歳で、蘭軒の治を受けて卒した。比佐子の父は津軽越中守信寧(のぶやす)であつた。勤向覚書に「廿五日霊台院様御霊前え献備物願置候所、勝手次第と被仰付候」と記してある。霊台院は即比佐子である。
 ※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-142-下-4]詩集に剰す所の春の詩数首がある。わたくしは其中に就いて神童水田某を褒めた作と、児に示した作とを取る。
 水田某は幼い詩人であつた。「水田氏神童善賦詩、格調流暢、日進可想、聊記一賞。撥除竹馬紙鳶嬉。筆硯間銷春日遅。可識鳳雛毛五彩。驚人時発一声奇。」
 蘭軒が児に示す詩は病中偶作の詩の後に附してある。「病中偶作。上寿長生莫漫求。百年畢竟一春秋。彭殤雖異為何事。花月笑歌風雨愁。」「同前示二児。富貴功名不可論。只要文種永相存。能教誦読声無断。便是吾家好子孫。」
 此詩題に二児と云つてあるは注目すべき事である。当時蘭軒三十八歳、妻益三十二歳で、子供は榛軒の棠助十一歳、常三郎十歳、柏軒の鉄三郎五歳であつた。わたくしは初め読んだとき、二児とは稍長じてゐた棠助、常三郎を斥して言つたので、幼い鉄三郎は第(しばら)く措いて問はなかつたのだらうとおもつた。既にして伊沢分家の人々の常三郎が事跡を語るを聞いて、憮然たること久しかつた。
 常三郎は生れて幾(いくばく)もあらぬに失明した。しかのみならず虚弱にして物学(ものまなび)も出来なかつた。それゆゑ常に怏々として楽まず、動(やゝ)もすれば日夜悲泣して息(や)まなかつた。某(それ)の年の大晦(おほつごもり)に常三郎の心疾が作(おこ)つて、母益は慰撫のために琴を弾じて夜闌(やらん)に及んだことさへあるさうである。
 詩に謂ふ二児は、即ち十一歳の榛軒と五歳の柏軒とで、常三郎は与(あづか)らなかつたのである。
 夏に入つて四月八日に、蘭軒の三女が生れた。頃日(このごろ)伊沢分家に質(たゞ)して知り得たる所に従へば、蘭軒の長女は天津(てつ)で、文化二年に夭した。其生年月を詳(つまびらか)にしない。二女智貌童女は文化九年中生れて七日にして夭した。三女は今生れたものが即是である。名を長(ちやう)と云ふ。以上皆嫡出である。そして長が独り長育することを得た。勤向覚書に云く。「四月八日妻安産仕、女子出生仕候、依之御定式之血忌引仕候段御達申上候、同月十一日血忌引御免被仰付候、明十二日御番入仕候段御達申上候。」
 此月二十一日蘭軒に金三百疋を賜つた。「霊台院様御病中出精相勤候に付」と云ふ賞賜である。上(かみ)に云つた如く、霊台院殿信誉自然現成大姉は津軽氏比佐子で、墓は浅草西福寺にある。比佐子夫人の事は岡田吉顕(よしあき)さんに請うて阿部家の記録を検してもらつた。

     その七十

 此年文化十一年五月に菅茶山が又東役の命を受けた。行状に「十一年甲戌五月又召赴東都」と書してある。所謂(いはゆる)「七十老翁欲何求、復載□痾向武州」の旅である。紀行などもあるか知らぬが、わたくしの手元には只詩集があるのみである。五月になつてから命を承けたのではあるが、「午日諸子来餞」の午日は四日の初午であらう。
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